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クリスマス市のグリューワイン

はじめに

いらっしゃいませ。
当ブログは主に聖書・キリスト教の聖人伝などをもとにした、管理人の創作小説を取り扱っております。
あくまで個人の趣味の範疇であり、各宗教団体・教会とは一切の関係はありません。また、特定の宗教を中傷・批判するための作品でもないことをご理解ください。

また、管理人はユダヤ教・キリスト教の正式な信者ではありません。

なお、小説には軽度の暴力表現、性表現、女性向け表現などが含まれます。大丈夫な方のみ閲覧ください。

【目次】

《Mystery plays 聖史劇》
本編です。
《番外編》
本編の番外編です。

《その他》
本編とは別に書いた小説です。聖書を題材にはしていますが、本編とのつながりはありません。



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Mystery plays 聖史劇

《Mystery plays 聖史劇》


○feat: Eve
プロローグ 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話
第八話 第九話 第十話 第十一話

○feat: Deborah
(2017年5月7日 リメイクしました)
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話
第九話 (完結)

○feat: Jephthah
第一話 第二話

○feat: Samson
(2017年11月8日、一部設定などを変更し多少リメイクしました)
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話
第九話 第十話 第十一話 第十二話 第十三話 第十四話 第十五話 (完結)

○feat: Samuel
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話
第九話 第十話 第十一話 第十二話 第十三話 第十四話 第十五話
第十六話 第十七話 第十八話 (完結)

○feat: Solomon
《第一章》
プロローグ 第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 
第八話
 第九話 第十話 第十一話 第十二話 第十三話 第十四話
《第二章》
第十五話 第十六話 第十七話 第十八話 第十九話 第二十話 第二十一話
第二十二話 第二十三話 第二十四話 第二十五話 第二十六話 第二十七話
第二十八話 第二十九話 第三十話 第三十一話 第三十二話 第三十三話
第三十四話 第三十五話 第三十六話 第三十七話 第三十八話 第三十九話
《第三章》
第四十話 第四十一話 第四十二話 第四十三話 第四十四話 第四十五話
第四十六話 第四十七話 第四十八話 第四十九話 第五十話 第五十一話
第五十二話 第五十三話 第五十四話
《第四章》
第五十五話 第五十六話 第五十七話 第五十八話 第五十九話 第六十話
第六十一話 第六十二話 第六十三話 第六十四話 第六十五話 第六十六話
第六十七話 第六十八話 第六十九話 第七十話 第七十一話 第七十二話
第七十三話 第七十四話 第七十五話 第七十六話 第七十七話 第七十八話
第七十九話 第八十話 第八十一話 第八十二話 第八十三話 第八十四話
第八十五話 
《第五章》
第八十六話 第八十七話 第八十八話 第八十九話 第九十話 第九十一話
第九十二話 第九十三話 第九十四話 第九十五話 第九十六話 第九十七話
第九十八話 第九十九話 第百話 第百一話 第百二話 第百三話 第百四話 
第百五話 エピローグ (完結)

○feat: Elijah
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話
第九話 第十話 第十一話 第十二話 第十三話 第十四話 第十五話 
第十六話 第十七話 第十八話 第十九話 第二十話 第二十一話 
第二十二話 第二十三話 (完結)

○feat: Judith
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話
第九話 第十話 (完結)

○feat: Mary and Joseph
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話
第九話 第十話 第十一話 第十二話 第十三話 第十四話 第十五話
第十六話 第十七話 第十八話 第十九話 第二十話 第二十一話
第二十二話 第二十三話 第二十四話 (完結)

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番外編

《番外編》

「Mystery plays」の番外編です。

○ニコール・オブリー
コミティア118で頒布した同人誌の再録です。
16世紀フランスの「ランの奇跡」と呼ばれる悪魔祓いの事件が題材です。

第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話
第九話 第十話 第十一話 (完結)


○サロメ、ハスモンの娘
プロローグ 第一話

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その他

《その他》

○美女ヘレネ
大学のサークルの同人誌に投稿した小説。
多少の暴力表現がありますので苦手な方はご注意ください。
第一話   第二話   第三話   第四話 
第五話   第六話   第七話   第八話
第九話   第十話   第十一話  (完結)

○預言者ナタンの懺悔
同じく、サークルの同人誌に投降した小説。
お題が「きわどい内容のもの」だったので、ご注意ください。
(ソロモン王を題材にしていますが、『Mystery Plays:feat;Solomon』とは全くの別物です)
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 (完結)

○ブラック・マドンナ
2017年7月の「世界史創作企画」様の「夏の世界史創作祭り」のため書いた作品。
お題は「自由」。20世紀、共産主義政権下のポーランドで起こった事件と、聖母マリア伝説を題材としています。
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話
第八話 第九話 第十話 (完結)

○The Princess of Sheba  (R-18)
同人誌再録。
かなり露骨な性的描写が複数あるのでR-18をつけさせていただきます。
題材はソロモン王とシバの女王……のはずなのですが大分派手に原典を改変しまくってます。
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話 第八話
第九話 第十話 第十一話 第十二話 第十三話 第十四話 (完結)


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サロメ、ハスモンの娘 第一話

数日のちのことだった。ボエートスの屋敷では、宴会が催されていた。フィリッポスとサロメの婚約を祝うためのものだ。
サロメは自分の席にじっと座りながら、ろうそくの明かりに皮肉なほど照らされたボエートスを見ていた。葡萄酒を片っ端からのどに流し込んで、相も変わらず、吐き気のするような不快感を必死でこらえているといった形相だ。酒にはそう強くないのだから、そんなに無茶に飲めば吐き気は増すばかりだというのに。
認めたくもなかった娘の結婚をお披露目し、呪ってくれと言いたいのに祝ってくれという。自分より与えられた兄弟たちを賓客に呼びながら。……宴会というのは、楽しみのために開くものではないか。だが今夜、父は苦しむために宴会を開く。体面というのは本当に厄介なものだ、と、彼の表情はサロメにひしひしと実感させる。
「……いや、サロメは私などには勿体のない貴人だよ」
そう得意げに答える、晴れ着に身を包んだフィリッポスのほうが、よっぽどこの宴席の主役だ。彼はサロメから離れた席で、自分の未来の妻についてほめたたえていた。母方から引くハスモンの血……そしてご丁寧にも、父方から祭司の立派な血を引いていることを強調し……その血にふさわしい、賢く品のいい娘であると。
会場から控えめに笑いと、追従の声が巻き起こる。面倒ごとに巻きこまれたくないのであろう客は、サロメが実際によくできた娘であるという旨だけに着目して、彼女をほめた。ヒヨドリを焼いた料理が運ばれてくる。サロメは小さく控えめに、礼の言葉を返した。
そのような中のこと。

「全くですね。フィリッポスの兄上は、物事をよく見通しておいでだ」

声が一つ響いた。男にしては高い声だった。サロメは、この声の主を知っている。
「ほう。お前も世辞追従をするようになったか?アンティパス」
ヘロデの兄弟の中でも上位の席に身を横たえたその人物は、見てくれだけでいうのなら男か女であるかもはっきりとはわからない。宝石と薄絹に細い身を包み、長く伸ばした豊かな髪をローマ製の赤と金の敷物に泳がせてる、その涼やかな美しい顔はいつもにやにやと薄ら笑いを浮かべている。
彼こそがヘロデ・アンティパス。ヘロデの王子の一人にして……領地を受け継いだ三人の息子のうちの一人だ。
彼はサロメにとっても印象深い人物であった。彼はとにかく、ボエートスと真反対の人物であるように映った……もとはといえば身分卑しいサマリア人の妾の産んだ子でありながら、こうして兄弟が一堂に集まれば、アンティパスは群を抜いてきらびやかで美しく、堂々としている。サロメもそんな彼を見るたびに、自分の父が差し置かれ、彼の手に領地が渡ったことに、不思議と納得してしまうような感慨すらも覚えた。少なくとも父のように、彼に妬み心を持つことなどできなかった。
「世辞ですって?私が?あなたに?」
もっとも、父に限らずなぜか、ヘロデの巨大たちは彼をあまり快く思っていないらしい。……まあ、それも疑問に思うほどのことではない。
「ああ、もしや兄上、何か勘違いをなさっておいでですかな?」
「……何のことだ?」
「お分かりでないはずはないと思ったのですが……サロメはおっしゃる通り、あなたには実にもったいない妻ですね、と言ったのですよ」
そういって、彼はフフッ、と短く笑った。
会場は水を打ったようにしんとしずまり帰り、くぐもるような、うめくような笑い声が少しずつ出てきた。
フィリッポスは少しの間絶句したのち皮肉に皮肉で返そうとしたが、それよりも早く、アンティパスは二の句を継いだ。
「彼女はあなたには釣り合わぬほど若く、美しい娘だ」
「……ふん、ナバテアのお多福と結婚したことをいまさら悔いたか?アンティパスよ」
「さあね?」
ナバテアのお多福、というのは、アンティパスの妻のことだ。アンティパスは兄であるフィリッポスよりもずっと早く結婚した。相手はナバテアの王女だったが……器量も気立ても、あまり良いとは言えない婦人だと聞いている。風の噂によれば、アンティパスの美貌に夢中になった彼女のたっての頼みであったらしい。
「まあ、お前があのお多福を嫁に迎えていようといまいと……お前に、私をそう揶揄する権利などないだろう。お前も馬鹿ではないはずだ」
「いや、わかりませんな。なぜです」
「なぜ、だと……?」
フィリッポスがあからさまに不愉快そうに言う。
「サマリア人の妾の子、しかも年下の王子であるお前が、なぜ私よりも、ハスモンの娘にふさわしいなどと言えるのだ」
フィリッポスは威圧するように、言い返す。会場にはまた、くぐもったような乾いた笑いがパラパラと巻き起こる……それが思ったよりも少ないことが、彼には不服そうだが。
だがアンティパスは相も変わらずと笑っていった。
「兄上。何をおっしゃっているのですか?ハスモンの娘であろうがなかろうが……兄上にサロメは、釣り合いませんよ。こんな美しい姫君ですよ」
「貴様は何を言っているのだ!?」
「兄上のお屋敷には、鏡がないのですか?ということです」
……その言葉でようやく、フィリッポスも自分が何を以てしてからかわれているのか、理解できたようだった。彼の顔がかっと熱くなる。
若い時からずっと、身分の高い花嫁以外を迎える気のなかったフィリッポスは……立派な花婿の晴れ着に身を包んでど、その若干老けた顔と目の下に刻まれ始めたしわは、それには少々不釣り合いだ。
まして、年齢など思わせぬほど艶めいたアンティパスから言われれば……そのからかいにも、それなりの強さがあった。
「私の屋敷にはたくさんあります。ひとつ、お譲りしましょうか。花婿衣装をお召しになるのに、それでは不都合でしょうから」
また、くぐもった笑い声がわいた。先ほどよりも大きい。なんだかんだといっても、皆父と同じで、フィリッポスを歓迎する気持ちなど心からは持てないのだ。領地も、ハスモンの血を引く花嫁も得る男に、多かれ少なかれ、嫉妬を抱いているのだろう。サロメはそう分析する。
肉と酒の匂いでもわもわする宴席の中、ひとしきり笑い声が少しづつ聞こえたのち、やがて父がようやく「……よせ」と口を開いた。
「やめろ。めでたい席で……」
めでたいなんて。彼が一番、思っていないだろうに。
フィリッポスも妬ましいがアンティパスも妬ましい父にとっては、どちらにせよ面白いことではないのだ。もめごとなど、起きてほしくない。その気持ちだけが勝つのも道理だ。
かちん、と音を立てて、ガラス製のコップが置かれた。その言い合いには特に何も関心を示さず、サロメの隣に座る母ヘロディアは、白葡萄酒を飲み干していた。
母は、いつもこうだ。もめごとの時には限らない。
ヘロディアは、徹底して無口だ。そして無表情だ。何にも心を動かされはしない。それは女として善いとされる慎み深さ、などとうに超えていた。
サロメは、母が笑ったところなど見たことはないし、母に話しかけられた覚えもろくにない。不気味なほどに、母は何も話さない。
それでも母は、ふてぶてしく無礼な女……などという雰囲気とは、どこかかけ離れていた。
母は、美しかった。サロメのその容貌が引き継がれたことを物語るように。
彼女はまるで、雪花石膏の人形だった。繊細で、冷たく、生き物の醜さなど何も持っていないかのような女性だった。だからこそ彼女には、寡黙が似合った。母がよくしゃべる女だったのなら……と、サロメは仮定して考えることがよくある。そうであったのなら、きっと……母は、今ほどには、美しくなかった。今ほどには、ハスモンの血を引く貴婦人の名にふさわしい存在ではなかった……そうとすら、思える。
一方でサロメは、母が唖ではないことをよく知っている。……おそらくは父以上に、知っている。
「アンティパス、とにかくもお前が謝罪するのだ。めでたい席に、水を差さないでくれ。私の娘の婚約の席で……」
「……そうですな、大変な無礼を」
アンティパスはそう、ボエートスに返事をする。そして「サロメ」と、先ほどまで自分が言い合いをしていた兄ではなく、その婚約者の名前を呼んだ。
「は、はい……」
「君のめでたい席を汚してしまい、申し訳ない。どうかお許しをいただきたいものだ、美しい人」
アンティパスはフィリッポスには決して謝罪せず、代わりにその容貌に似合った優しい声で、サロメにそう言った。……そんなことを言われても、子供であり、女であるサロメに……そもそも、直接侮辱を受けた相手でもないサロメに、許しを与える権利などないというのに。
「……そのお言葉は、フィリッポス様にお申しください、叔父上様」サロメはとにかくも、そう直接的に返事をした。
くっくっとアンティパスは笑い、「君に言われたのでは、しょうがない」と、フィリッポスにその調子で謝罪をした。……当然、フィリッポスは、面白そうな顔をしない。
「何を貴様、ぬけぬけと……」
「兄に、私の娘の婚約の議を邪魔するなと言われましたからね、その本人に謝ったまでです」
「そんなへ理屈が通ると―」
その時、バタンと音を立てて、誰かが立ち上がった。
「気分が悪い。私は、ここで失礼いたします」
立ち上がったのは、若い男だった。
ヘロデ・アグリッパ……その男は、ヘロディアの弟にあたる男だった。彼はアンティパスを軽蔑するような目でにらみつけたのに、「フィリッポス。あなたも、あなただ」と、怒りと侮蔑を混ぜたような、冷たい声で吐き捨てる。
「あのような幼稚な侮辱を言われて、一言で黙らせる胆力もお持ちでないのか。嘆かわしい」
彼は最後に、サロメのほうをじろりと見つめた。正確には、サロメの隣に座るヘロディアのほうを……彼の生気に薄い、無機質な目つきは、ヘロディアとよく似ている。二人が姉弟であるのだと、よくわかる。
「姉上。よくもこのような場で、けろりとしていられる物ですな……こういう時、女という存在は全くうらやましい。私も女に生まれられれば、どれほど良かったことでしょう」
ヘロディアは、何も返答する様子はない。アグリッパに目も合わせず、瞬き一つもせず、彼など存在しないもののように黙りこくっていた。……アグリッパはその反応に腹を立ててか、乱暴に会場を後にしてしまった。


宴席も終わり、夜も更けたころ、サロメは、父の声を聴いた。
召使に話を聞いたところ。父はあの後、本当に激しく嘔吐してしまったらしい。そのせいでまた酔いがさめたと、飲みなおしているのだ。
飲まなくては、やっていられないのか。サロメは父の部屋に向かう。
「お父様」
「サロメか」顔を真っ赤にしたボエートスが振り返った。
「ヘロディアはどこだ?酒を注がせる」
「お母様はもうお休みに」……サロメはそう、告げる。ボエートスは面白くなさそうに声を荒げようとしたのち、「なら、お前でもいい。酒を告げ」と、我に返ったように静かな声音で言い直した。
サロメはとくとくと葡萄酒を注ぐ。つんと香るその香りが、古くなったものを引っ張り出した酒だということを物語っている。酔いが回って、もう酒の味すらもわからないのに、父は飲み続けている。不愉快な酒気が、ボエートスの体から湧き上がる。
そのうち父はサロメに、管を巻き始めた。台無しになった婚約の宴会のことを、延々、延々と。
「アンティパスの身の程知らずめが……!」と、父は苦しそうにうめいた。
「あやつ……自分が私よりも、与えられたつもりでいるのだ。領地を与えられたからと……!違う、断じて違う!サロメ、私は、与えられなかったのではない!押し付けられなかっただけだ、不心得者の土地である、ガリラヤの辺境などを押し付けられなかっただけの話だ!」
さすがに見栄っ張りな父も、酔うと本音をそれなりに素直に出すものだ。
ガリラヤ。北に広がるその台地が、アンティパスが……ボエートスを差し置いて、父、ヘロデ王から与えられた土地だった。
ボエートスは怨嗟のように繰り返す。ガリラヤという土地がいかにばかばかしい土地であるかを。治めるだけそんな領地を与えられた自分の身の上を恥ずべき土地であるかを。アンティパスはそのこともわからずに威張り腐っている愚か者だと。自分はわかっていた、自分の価値はそのようなものではないからこそ、父は自分にガリラヤを与えず、ヘロディアと結婚することを許したのであると。
「ガリラヤを継いだことか。後悔など、していないよ」と、いつだったか、アンティパスが自分に話してくれたことを、サロメは思い出していた。
「ガリラヤは、革命の息吹に渦巻く土地だ。飽きずには済むね。私にはちょうどいい」
もちろん、そのようなことは思い出すだけ思い出しておいて、一言も口には出さない。サロメはただ、はいはいと追従し続ける。
父の頭の中では、アンティパスは価値もないガリラヤの土地を、そうとは知らずに誇っている愚か物でなくてはならないのだ。ガリラヤを根拠もなく、最高の土地だと思っている男でなくてはならないのだ。
その厄介さや卑しさを、それでも笑って認めている男であっては、いけないのだ。
そうでないと、父の心は壊れてしまうから。

……けれど、事実と違うものを必死で信じなければ保っていられない正気は、果たして正気のうちに入るのだろうか。
人はそのような心をこそ、壊れているというのではなかろうか。
サロメはそう考えている。何も、口出しのできることではないけれど。

ボエートスは酔いつぶれて、倒れ伏した。ぐったりと体中真っ赤になって力の抜けた姿は屠られた年寄り羊のようで、間違ってもみっともいいものではなかった。それが召使に担がれて、寝所に運ばれていくのであるから、なおさらだ。
サロメは、さっさとその場を後にする。自分の部屋に帰ろうとする途中高級の、母の部屋の前に差し掛かった。
つい、そっと聞き耳を立てる。間違いない。母の「声」が聞こえた。
こういう日でもないと、母は声を聞かせてくれない。

初めて母の声を聞いたのは、いつだったどうか。
何かしらの祭りの日で、その日もヘロデの兄弟たちが集まっていた。

まだ幼かったサロメは何か物寂しくなって、母のもとに向かった。その時、彼女ははじめて、母の声を聞いたのだ。
どんなことが起こっても、ピクリとも表情を変えない母が。何一つ言わない母が。
言葉ではあらねど、確かに声をあげていた。
小さな、断続的な、ただの声。けれど、きれいな声だった。母の美しさにぴったりの声だった。
そして、母と同じ寝台に、アンティパスがいた。二人とも裸になって、しっかりと抱きしめあっていた。
母はいつも通り、笑わず人形のような顔をしていたが、それでもサロメにはわかった。
母は、悦んでいるのだと。娘にすら聞かせない声を、あの叔父には聞かせるほどに。

その時、二人が一緒にいた意味は分からなかったけれども、わかるようになってからも、その光景に忌避や侮蔑の感情は覚えなかった。
だって、夫よりも、娘よりも、母はあの叔父といるのを喜んでいたのだ。
きっとそれは、喜ばしいことなのだ。

それに。サロメは母の声が好きだ。どんな小鳥より、どんな楽器より、ヘロディアは美しい音を奏でる。
扉越しに聞こえる母の声を、サロメはしばらく聞いていた。絶対に、自分には聞かせてくれない。いつ聞けるのかもわからない、その天使のような声を。無意識のうちにとん、とんと、その声に合わせ、小さく足を動かしていた。

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