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クリスマス市のグリューワイン

The Princess of Sheba 第十話

夜が明けた時、兄の部屋に向かおうとするソロモンをちょうど部屋から出たばかりのアビシャグが呼びとめた。彼は彼女の顔を見てぎょっとした。にこやかで美しい彼女は、かつて見たことがないほど鬼気迫る表情になっていたからだ。
「ど、どうしたんだ、アビシャグ?」
彼は初めて見る彼女の顔に少し恐怖しながら、それでも問いただした。彼女は泣いているようにも見えた。
「ソロモン様!あのニカウレと言う子に近寄らないで!」
戸惑うソロモンに、彼女は畳み掛ける。「騙されているのよ、誰もかれも!キルアブ様も、ソロモン様も!」
彼女はそのまま、昨夜の事を話した。清純な乙女ぶっておいて、アドニヤとふしだらにも関係していることを。昨夜、ニカウレが自分に言ってのけた言葉を。自分の事を、まるで乞食女を相手にするかのような憐れみと侮蔑の視線で見てきたことを。何もかも全て、赤裸々に話した。
ソロモンはそれを聞いて、頭が混乱した。
自分の知っているニカウレは、そんなことを言うような子じゃない。だが、そう言う前にアビシャグは言った。
「きっとあの子は、貴方の前でも猫をかぶっているんでしょう?……騙されないでください!売女は自分を偽るのが上手いもの、そんなものは全部演技です、これが、この虫けらにも劣る根性が彼女の本性です!」
「アビシャグ、頼むから落ち着いて……」ソロモンは感情を高ぶらせる彼女を必死でなだめながら言った。
「貴方の為に言っているんです!これじゃあ貴方まで、キルアブ様のようにあの売春婦に弄ばれて破滅してしまう!」
「わ、わかった。わかったよ……あなたの言うことを信じるから」
「本当に!?」彼女は念を押す。
「勿論……」
彼女はそれを聞くと、だっと走っていった。いったい彼女に昨夜何があったのだ。もしも……もしも本当にそんな言葉を言われれば、ああもなるのかもしれないけれども……。
開いた扉の向こうに、寝台に横たわるキルアブの姿が見えた、彼はじっと、咎めるような視線でこちらを見ていた。
「信じるなよ、ソロモン」
彼は遠くから、低い声で言ってきた。
「あんな雌犬の言うことなんか、信じるな」
「雌犬……」彼は呟く。「誰の事を言っているのですか?」
「誰の事?……アビシャグに決まっているだろう!」彼は叫ぶ。
「ニカウレを!あの純朴な愛らしい子を!私が初めて素晴らしいと認めた女性だぞ、それをあの女は侮辱したんだ!売春婦などと!」
「兄上、兄上、落ち着いてください!」ソロモンは慌ててキルアブをなだめにかかった。
「あの子は」据わった目で、彼はソロモンに語る。何故だか目つきが悪くなって、前よりも痩せて、彼はここ数日で妙に老けてしまったかのように見えた。
「穢れないんだ、美しいんだ、私の天使なんだ……」
ブツブツとうわごとのようにつぶやく兄の姿に、ソロモンは確かに異常なものを感じた。

キルアブやアビシャグがああなってしまったのは、やはりニカウレのせいなのだろうか?彼は疑問に思った。本を読むのにも集中できない。とにかくも、今度会ったらそのことを問いただしてみなくては……。
でも、やっぱり彼女がそう言うことを言うようには思えない。純朴とか猫かぶり以前に……彼女は全く、そう言った次元から離れた存在のように感じるのだ。この冷たい書庫の中を出たら、彼女は人が変わってしまうのだろうか……。
かさりと書をめくる音が聞こえた。ソロモンは不審に思い、そちらの方に行く。扉が開いた気配もないのに、そこにニカウレがいた。自分より先に来ていたのだろうか、自分の背より高いところに積み上げてある羊皮紙の束を下ろそうと、台に乗って背伸びをしていた。
「……降りなよ」
彼はそちらの方に歩み寄った。
「僕が取るから」
ありがとう、と彼女は素直に台から降りた。台の高さと合わせれば、ソロモンの背丈ならぎりぎり届く。
はい、と渡された文書を彼女は大事そうに受け取った。そこにいるのは全く自分の知っている彼女だった。これが、演技なのだろうか?売女だから、そんな表情を作るのもわけはないと?
売女。ソロモンが、小さい時から嫌いな言葉の一つだった。
お前は売女の子だ、と、彼は何回も、何回も言われてきたのだから。
「君、先夜、アビシャグに酷いことを言ったの?」彼は書物の束を抱えるニカウレに、そう言った。
「アビシャグが僕に、だから君を信用するなって言ってきた……」
彼女は傷つくかな、と思った。だが彼女はしれっとしたまま、書物を机に置くと一息ついて「別に、あなたの自由にしたら?」と言ってきた。
「私を信用する義務なんて別にないわよ」
ずいぶんひねくれたことを言う。ソロモンは少し、自分が信頼されてないようで嫌に思った。
「じゃあ、君は僕を信用してないの?」
その言葉に、彼女は面喰ったように目を開く。だが彼女は少し、黙り込んでしまった。
ソロモンも何の言葉も続けられなくて、長い沈黙が続く。だが、彼女はぼそりと、恐る恐る絞り出すかのようなか細い声で言った。
「……してないわよ、悪かったわね」
「なんで!?」
ソロモンは抗議した。こんなことを言われる筋合いはない、と感じたことを言った。彼女とは今まで対等に話せていたつもりだ。そのような目で見られているなど間違いなく、実に心外だった。
「だって、貴方私に嘘をつくじゃない!」
彼女の方は開き直ったかのように言う。
「嘘!?僕がいつ、君に嘘ついたんだよ!」
「言ったわよ!」彼女の声は、どこか悲しそうだった。
「私が立派に学者になって、女王様になればいいだなんて言ったわ!そうなったら素敵って言ったわ!」
ソロモンはその言葉に戸惑い目を瞬かす。「え……?」と言う一言しか出てこない、だが目の前の彼女は相変わらず、悲痛な声で言ってた。
「そんなこと、言うはずないもの……女が学者になるなんて、君主になるなんて、素敵なはずないもの!嘘ばっかり!そう言うことを言ってくるのは……皆嘘つきばっかりよ!」
彼女はそう言ったきり、ポロポロと泣き出してしまった。自分の涙でぬれないように、書物を丁寧に遠ざけて。
その姿を見て、ソロモンはアビシャグに言われた件を問いただしたい気持ちが消え失せてしまた。そこにはただ、自分と今まで話していた少女がいるだけだった。騙されているなんて思えない。たとえそれが、子供が故にあっさり騙されているのだと言われても、別にそれはそれでいい。誰に何と言われようと、この瞬間を信じたいと、彼はその時そう思えた。
「……僕は……」彼は、静かに切り出す。「君に嘘ついたことなんて、一度もないよ……」
ニカウレは否定しなかった。ただ、まだ泣き続けている。ソロモンは言葉を続けた。
「嬉しかっただけなんだ。一緒に書を読んでくれる友達ができたことが、こうして話せる人ができたのが嬉しくて……僕は、学問が好きだから、そのことで大成する人間がいたらきっと素敵だろうなって、そう思っただけなんだ……」
彼女を刺激したくないと、彼は慎重に、慎重に言葉を選びながら話を続けた。
「君を傷つけてしまったなら、ごめん。でも僕は……僕は少なくとも、嘘なんてついてない。君には全部、本当の事しか言ってないよ……」
彼女はふと顔を上げた。エメラルドの目をぬぐい、彼女は言う。
「いいの。わかってる……わがまま言っただけだもの」
顔を涙で濡らし、まだ泣き顔のまま彼女は言った。「ごめんなさい……」
彼女はそう言って、ソロモンの方を見つめた。
「……ニカウレ。僕も……君を信じたい」ソロモンは言った。「アビシャグは、きっと……何かを勘違いしているんだろうと思ってる。君とこうして暮らす時間が、本当に楽しいんだ。だから僕は、君を信じたい……そんな権利くらい、僕にだってあるだろ?」
「あるわよ」と、彼女。
「信じてくれるなら嬉しいわ。ありがとう……」
彼女はまだ悲しげな表情を引っ込めないまま、それでもにこりと笑おうとして、ソロモンに微笑みかけた。
ただの書庫に溢れる埃が太陽の光を浴びて、まるで彼女を煌めかせる星の砂に変わってしまったかのような、不思議な光が立ち込めていた。いつも通りの窓から差し込む細い光だが、その時ソロモンにはそう見えたのだ。。
「ソロモン、私ね……」
彼女は口を開いた。ソロモンは黙って耳を傾けようとした。だが彼女はもう一度長い時間黙ると、最終的に「ううん、なんでもないの」とだけ言い残し、ソロモンが下ろした文書に目を通しもせずに自分の部屋に帰っていった。


「お薬を替えにきました」
アビシャグが入ってくると、キルアブは彼女の事を睨みつける。
「お前一人か」
「そうですよ。今日はニカウレ様がいなくてあいにくでしたね……」
目の前に出された薬を飲むこともなく、彼は「ニカウレはどこにいる」と言った。
「アブサロム様のお屋敷に」
「アブサロムの屋敷!?」彼は反射的に言う。「この城にはいないのか!」
「いません」
「そんな、そんな……」
アビシャグはそんな彼を見て、心が押しつぶされそうだった。「今すぐここに呼べ」キルアブは呻く。
「無茶を言わないでください、キルアブ様……」
「ええい、黙っていろ、ブスのくせに!」
キルアブは激しい罵声で、アビシャグの言葉を封じる。
「私が来いと言っているんだぞ!頼みじゃない、第三王子アブサロムに、王位継承権第一位からの命令だ!来させろ!私はあの子がいいんだ、あの子にそばにいてほしい!」
暴言を浴びせられたアビシャグは、じっと黙って彼の言葉を聞いていた。「早くしろ!」もう一回彼は怒鳴りたてる。
「……はい、わかりました。それでは」
アビシャグは力なく言って、彼に追い出されるように部屋を後にした。そして、廊下の柱にもたれかかって、泣きはらした。なぜ、なぜ彼女をここに呼ばなくてはならないのか。あの何もかもを壊してしまった元凶、浅ましい悪女を……。

アブサロムは、全てタマルのものは屋敷に保管していた。
タマルが身に着けていたものも、日常で使っていたものも、全て。
「お兄様!どうでしょう」
さらりと細い赤毛を揺らして、ニカウレがやってきた。アブサロムはそれを見て大喜びで「似合っている、素晴らしい!」と言った。
「これはね、十四の誕生日の時に作ってやった晴れ着なんだ。あの子はこれが大好きだったんだよ。でもそれっきり、もう一度袖を通すこともなく……」
「私が着ましたわ。それじゃあいけなくって?」
「うん、うん、満足だよ……なんて、素晴らしいんだ……」
タマルの服を、靴を、宝飾品を、彼女が使っていたものをみんな君にあげよう、とアブサロムが言ってきたのは、つい昨日の事だった。
「その代わり、それを身につけたところを私に見せてくれ。私の屋敷に来て……私の家で二人きりで暫く過ごそう。タマルが生きて、元気に歩いている所を私に見せてくれ」
使用人たちが皆、異様なものを見ている目で自分たちを見ていることなどアブサロムは気付いていない。彼にとっては妹が全てだった。その全てが生き帰ったのだ。構い倒して何故悪い。
「次はこっちを着てみてくれ、な?」
「もちろん……お兄様が言うのなら」
そう言ってまた着替え部屋に帰っていこうとする彼女は、本当にタマルそのものに見えた。いや、違う!アブサロムは思う。あれはタマルだ。あれは私の妹なんだ……。
「お兄様?」
気が付いたときには、彼女を後ろから抱きしめていた。
「どこにも行くなよ。お願いだから……」アブサロムは彼女を抱きしめたまま、震えた。嫌だ、彼女をまた失いたくない。お前は美しすぎる。数年前に居なくなったタマルのように。またいつどこで、この美貌に狂った男が自分からこの子を奪ってしまうのか、そう考えると怖かった。彼女を手放したくないと思った。一度、一度手放してしまったせいで彼女は自分のもとを去っていった。あの時、アムノンのもとになど行かせなければよかったんだ。自分がずっと彼女を繋ぎとめていればよかったのに……。
ニカウレは逃れようとしなかった。くるりと体の向きを変え、アブサロムの胸にもたれかかってくる。彼は一層激しく抱きしめた。
「ああ……タマル、タマル!」
彼はそこだけは自分の妹と似ても似つかない、彼女の艶やかな赤毛を掻きあげ、彼女の額にキスをした。
「おまえを愛してるよ。ずっと私のものだ」
彼女はその言葉を、否定も拒絶もすることはなかった。「嬉しいわ、お兄様」とだけ言って、アブサロムの事を抱きしめ返してきた。
愛している。この子を愛している。絶対に手放すものか。自分が守ってやる。絶対に……。
だがその時、扉をたたく音が聞こえた。
「うるさい!なんだ!」と、アブサロムは扉の向こうの人物を怒鳴りつける。彼は使用人だった。
「あのう、王宮の方から……ニカウレ様をそちらに戻すようにと……」
「無視しろ!」彼は再び怒鳴った。
「それがその……キルアブ様からでして」
「キルアブが?だからどうした!」
相手にする様子のない主人に使用人はなおさら困っている様子だったが、それでも立場上言わないわけにもいくまい。震える声で言った。
「キルアブ様から伝言がありまして……。頼んでいるのではない、王位継承者からの命令だ、とのことです」
その言葉を聞いて、アブサロムは目の色が変わった。数年前のトラウマが、よみがえってくる。
自分は逆らえなかった。第一王子だから許せ、と言う言葉に逆らえなかった。
彼の体が激しく震える。彼はすがるようにニカウレを抱きしめた。「お兄様」彼女が口を開く。
「私、行ってきますわ」
「行かなくていい!」彼は必死で叫ぶ。
「でも……困るのはお兄様じゃないですの。お兄様は第三王子なんだから」
その言葉を聞いて、アブサロムは目の前が真っ暗になった。
自分は逆らえなかった。世界一愛している妹を汚されても、死に追いやられても、相手は第一王子だから黙っていろと言われた……。
アブサロムの全身から力が抜ける。はらりと木の葉が落ちるように垂れたそれから彼女は抜け出て、「今行くわ」と駆けて行った。

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The Princess of Sheba 第六話

ふわりと薔薇の花弁が飛び交うイスラエル王宮の宮殿を、早足で駆け抜ける姿があった。ニカウレだ。彼女はもうすっかりイスラエル王宮に慣れてしまったと見えて、まるで生まれた時からここに住んでいるように自由に飛び回っている。
だが彼女が小さなサンダルで一生懸命石畳の床を走っていると、不意に長く伸ばした黒髪を翻し、アブサロムが駆け寄ってきた。
「ほらほら遅いぞ、全く……そら、捕まえた!」
アブサロムに捕まり、ニカウレはケラケラと面白そうに笑う。その様子を遠くから見ている周囲も安心している。あの王女が来てから、アブサロムは目に見えて機嫌がよくなった。まるで……こう言っては何だが、タマルの生前のように。違うのは、いつもタマルを物陰から、恐ろしい、執着に満ちた目で睨みつけていたもう一人の王子の姿がないことくらいだ。
「ああ……楽しかった。やっぱりアブサロム様は足が速いですわ」
まあねと答えながら、アブサロムは思う。タマルも自分と駆けっこをするのが好きだったっけ。自分が追いつくと、いつも悔しそうに、そして面白おかしそうにケラケラと笑っていた……。
ふうとため息をついて、アブサロムは彼女を東屋の中の椅子に座らせた。「飲み物か、菓子でも持ってこさせようか」とアブサロムが言うと「いいえ、アブサロム様ともっと二人きりでいたいですわ」と彼女は返してくる。
「私とね……ふふ、君は美しいが、また年端もいかないと見える。そのようなことを他人の男に、気安く言うものではないよ」
アブサロムはそう思う。そもそも、タマルはアムノンに優しかった。自分がいくら言っても、アムノンの事を良い人間だと信じていた。自分にコンプレックスのあったアムノンの眼にはきっと、それが非常に貴重で崇高なものと映ったのだろうが……それがあんな結果を生むなら、優しさなどなくてもよかった。
そう思うとアブサロムはまた少しだけ憂鬱気味になってしまう。目の前の少女は首をかしげて、悪びれていない様子であった。もう少し言葉を続けようとしたアブサロムの言葉をさえぎって、彼女は言う。
「だって、アブサロム様はお兄様みたいなんですもの!」
「……え?」その言葉に、アブサロムは固まる。「兄がいるのかい?」
「いません。だからずっと憧れていたんですわ。アブサロム様は、私が欲しいと思っていたようなお兄様にそっくり」
「そ、そうかい……」無邪気に笑う彼女の顔にアブサロムの顔もほころぶ。「嬉しいよ……私も、君の事を妹のように思っていたところだ」
彼女の言葉がアブサロムには確かに嬉しかった。まるで目の前の彼女が、どんどん消えていてしまったタマルに同化していくようだ。
「ねえ、それだったらお兄様ってお呼びしてもよろしくて?」
だからそんな彼女の返答にも、アブサロムは二つ返事で「かまわないよ」と言った。
「お兄様!」
彼女の口から声がこぼれる。タマルが自分を呼んでいるかのようだ……。アブサロムはたまらないほど、幸福感に包まれた。妹にまた出会えた。見たかアムノン!お前は彼女を手になど入れられなかった、だが自分はタマルを取り戻したぞ!醜く愚かなお前にはそんな運命がお似合い、だが自分たちは幸せになる、それが当然だからだ!

「お兄様、早く!」
「まあ待て……せかすなよ」
「なんですの、追い駆けっこしているときはあんなに早かったくせに」
そんな会話を遠くに聞いて、キルアブははてな?と思う。あの会話は聞いたことがある。でも、ずっとずっと昔のようで……まだ、タマルも、アムノンも生きていたころに、こういう風に窓から聞こえる声があった。

「こんなに晴れた日だってのに、お前は相変わらず陰気くさいね」
そう振ってきた声に、ソロモンは振り向いた。気が付けばアドニヤが目の前に立っている。どうも新しい政治文書を保管しに来たらしい。
「兄上、ごきげんよう……」
「律法の書なんて読んでないで、スカッと狩りにでも行かないか?たまには兄弟同士の交流も悪くないだろう。俺が連れて行ってやる」
「いえ、僕は……」
「馬はともかく、弓の方は弟たち以下だからな」
その言葉にソロモンはカチンとくる。アドニヤは実際、分かってこんなことを言ってくるような男なのだ。
「……人には誰しも、得手不得手のあるものではないのですか?」
「もっともだ。もっともだが……」アドニヤは書庫に軽くもたれかかって腕を組み、半ば大げさに告げる。
「キルアブの兄上と違って五体満足のお前が、何故病人並の暮らしをして日がな一日こんな書庫に閉じこもっているんだ」
「キルアブの兄上を馬鹿にしないでください!」
「俺がいつ馬鹿にした。……まあ、してるけどな。お前もアビシャグも、全くあの兄に感化されすぎさ。そんなに大した兄か?」
「女たらしのあなたよりは……」
「おやおや、俺も嫌われたもんだ。まったく兄が浮名を流さないのをいいことに、皆そこでばっかり比較してきやがる」アドニヤは首を振る。アビシャグにも同じことを言われたな、と思いながら。「こう見えても俺は兄弟思いなんだぞ。ことにあの人は体を病み過ぎて心まで病んでしまわないかと、俺は小さいころから心配していてね……」
「あんな精神性の高い兄上がそうなるわけは無いじゃないですか」
「精神性?そんなものどうやって計れる」アドニヤは眉をひそめてそう言った。「まあ、狩りに行きたくなったらいつでも連れてってやる。俺の馴染みの店に連れてっていってやってもいいぞ……お前もそろそろ年頃になるから」
「なんですって!?」
「冗談だ」
彼は笑いながら書庫から去っていく。嫌な兄だとソロモンは思った。いつも、ああやって人にやたら絡みたがる。もっとも、得手不得手、と言う言葉を言ったが、自分やキルアブが持っていないものを彼が持っているのもまた確かなように思えた。


トントン、と上品に扉をたたく音。アビシャグのものと似ているようだが少し違う。
「ニカウレ、君だね……?おいで」
「失礼します」
扉が開いて、赤毛の可憐な姿が入ってくる。キルアブはそれを見るたび、ここの所ほっと落ち着くのだ。
「キルアブ様は本当に、音だけで人がお分かりになってしまいますのね。すごいですわ」
別に欲しくてつけた技能でもない。せいぜいこんなことくらいしか、磨くもののない体、磨くもののない生活だったのだ。だが彼女が褒めてくれると……キルアブは素直に照れて「ありがとう」と言うことができた。
シェバはイスラエル以上に医学の発達した国であるらしい。王女であるニカウレも、生薬の調合などお手の物と見えて、最近差し入れをしてくれるようになった。
「先日のお薬、効きまして?」
「聞いてるよ……昨日から、胸の具合がとてもいい」キルアブは痩せた顔に、薄い笑みを浮かべて言った。
「君が来てくれて本当に良かった……でも君の方は、外国にまで来てこんな病弱な王子の世話を焼くなんてあまり楽しくもなかろう」
「あら、どうして?キルアブ様といるお時間は、とても楽しいですわ」
「本当かい。……君のような素敵な人に言われれば、私も嬉しいよ」
少し言葉を詰まらせたが、それでも彼は言った。女性にこのような台詞、言ったこともない。そもそも全く女性とは縁もなく、結婚もせず、今まで生きてきた。自分の言ったことに照れるキルアブを彼女は笑うことなく見つめるだけだった。
「ソロモンはなぜ、君を私に紹介してくれたんだろう……」
「……さあ?」と、彼女は短く言った。
「きっと、キルアブ様が素晴らしいお方だからですわ。あの王子様は本当に、キルアブ様の事を慕っておいでですもの」
「ふふ、全く嬉しいね……私を慕ってくれるものなどほとんどいないもの。みんな気にかけるのは武術のできる弟たちばかり……もっともそれも仕方がないが」
こんな陰気くさいことだって本当は言うべきじゃないと分かっている。しかしどうしてもキルアブは、口をついてこんな言葉が出てしまうのだ。病弱、頼りないと言われ、アムノンも死んでからはどうしてこんなものが世継ぎだと陰口を叩かれたことを知っている身としては……。
「あら、どうしてですの?」
ニカウレは笑ってそう言った。
「仕方がないなんて。他の皆さんに見る目がないだけじゃありませんか?それにキルアブ様はとても博識な方だとか。すごいじゃありませんの。賢人に生まれることは、武の才能を持って生まれることと同じくらい、恵まれた、まれな事ですわ」
キルアブは苦笑いしながら、確かに自分の言ってほしかった言葉を言ってくれた目の前の少女をありがたい存在だと思った。アビシャグも同じようなことを言ってはくれるが、それよりも彼女は、もっと自分の心をくすぐってくる。まるで自分が何を言ってほしいのか分かっているかのように。
ニカウレは、「あら、花が枯れていますね」とサイドテーブルにおいてあった花瓶の花を抜きとった。
「あ、君は王女じゃないか。そんな、下働きのするようなことをする必要は……」
「いえ、いいんですわ。今は薔薇園の薔薇が盛りですわよ。キルアブ様も飾ってみたらいかが?」
キルアブは申し訳なくなって、手を伸ばす。しかし手がもつれて、サイドテーブルのすぐ上にかけてあった鏡が落ちた。
「あっ……これは失礼を……」
「大丈夫ですわ。拾いますから」
その時だ。キルアブの目はただ一瞬だけ、ある一点に釘づけにされた。
すっと片膝をついてしゃがみこんでニカウレが鏡を拾い上げた。その瞬間、鏡の銀色の面が、彼女のドレスの裾の中を映していた。間違いない。一瞬だが見えた。スカートに包まれて普段は見えない、彼女の顔や手足同様、真っ白な脚が……。
「元通りかけておきますね」と言った彼女の言葉も聞こえなかった。彼はたまらなく不埒なものを見てしまったようで、頭が混乱した。なににせよ、まともな身分の女性なら足を出すような衣装など着ない。王宮育ちでろくに外にも出れず、女と関係したこともない彼は、一瞬でも何にも守られていない女性の脚を見るなど初めての事だった。
「どうかしました?」
彼女がそう声をかけてきたことにキルアブはびくりと震え上がる。彼女の顔を見れない、と感じた。
「何でもないんだ……すまない、一人にしてくれないか」
「は、はい……それでは」
ぺこりとお辞儀をして、彼女は去っていく。一人とり残された中で、キルアブはぼうっとした。
彼は慌てて、鏡を取る。もちろんそこに映っているのは、不健康に痩せた自分の顔だけだ。我ながら何を考えての事だ、ばかばかしい……と思いつつ、それでも彼は、銀の鏡に映った先ほどの光景が目から離れなかった。
艶やかで綺麗な、女性の足。自分が初めて見るものだった。そして……彼女の美しさに全く見合うほど、それは美しいもののように感じた。
キルアブはそもそも、今まで女と言うものを意図的に断ってきた。ことにいつしか、女性と言うものは弟たちの様な健康的な男を好きになるものだと気づいてからは。彼女は看病や見舞いに来る女性の事も、あくまで「人間」であり「女性」としては見ないことを心掛けた。世の男がするように、女性に惹かれるのが怖い。女性はどうせ、自分を馬鹿にするのだから……。だから彼は結婚もせず愛人も作らず、ひたすら逃げるように学問に没頭した。祭司たちもここまではしないと言うほどの禁欲生活を自分に強いてきた。だってどうせ、女性には好かれないのだから。こんなことは自分に似つかわしくないのだから。得られぬ望みなら、最初から持つべきではない……そう思って生きてきた人生を彼は鏡を撫でながら思い返していた。
それだというのに。
始めて彼は、女性の体の一部を綺麗だと感じた。あのみんな愛らしい愛らしいとほめそやしたアビシャグにすら、心を乱されることなどなかったのに……。あのたった一瞬の光景が目に焼き付いてどうしても離れない。自分の痩せぎすな脚とはまるで違う、瑞々しく、脂肪ときめ細かい白い肌に包まれた、柔らかそうな彼女の脚……。彼は鏡に手を這わせる。彼はかつての自分なら、絶対に考えなかったようなことまで考え始めた。
「(あの肌に触れてみたい、この鏡越しにできるものなら……)」
キルアブはそれを思えば思うほどどんどん息が荒くなり、心臓が早鐘をうつ自分を自覚した。加えてその一方で、自分の理性のようなものが少しずつ抜けていくのを感じた。代わりに別の欲望が体から沸いてくる。
彼は無意識のうちにうめき声を上げる。そして毛布の中の、自分の下半身に気が付いたら手を添えていた。そこにある欲望を発散したいと、もはや思考することもなく……。
彼は衣服の裾をまくり上げ、自分のものに触れようとした。その時だ。扉がこつこつと叩かれ、あわててキルアブは我に返った。
「もしもし、兄上ですか?僕です、ソロモンですが……」
聞こえてきた声に、彼はろくに返答ができなかった。ソロモンはしばらく大人しく立っていたようだが「入りますよ」と言って扉を開けて入ってきた。
「な、何の用だい?」
「あのう、律法を読んでいたら解釈に困る箇所が……」
「わ、私は今忙しいんだ!」恥ずかしさをおさえながら彼は言う。「律法の事なら祭司たちも十分詳しいはずだ……そっちに行っておいで!」
しどろもどろに、とにかく彼はソロモンを遠ざけようとした。今の自分を弟に見られるのがたまらない恥だと感じた。
「わ、わかりました……申し訳ありません」
「いや、良いんだ。気にしないで……」
そう言って去っていくソロモンを見送りながら、キルアブはようやく大きく一息ついた。
「(私は、一体なにを……)」
先ほどの自分を思い返してみれば、ただただそんな感情が沸き、彼は空しい気分に襲われた。なんだか、自分が堕落してしまったような。

その夜、寝る前の薬を届けに来たアビシャグが、花瓶の花が枯れて、ごみ箱に捨てられていることに気が付いた。それを指摘する彼女の横顔を見て、キルアブは感じる。彼女の顔なら、見ることは出来る。昼間の自分は一体、なんだったのだろう……。
「キルアブ様」彼女は言った。「新しいお花は何にしましょう」
「ああ、そうだね……」彼は熱に浮かされたような声でいう。「薔薇がいいかな……薔薇園の、あのシャロンから持ってきた薔薇が、今ちょうど盛りらしいから」

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The Princess of Sheba 第五話

「昔、俺達にはアムノンと言う兄がいた」彼は話し始めた。
「武術はまあできたが……余り、大した兄ではなかったね。それどころかコンプレックスまみれの、鬱屈した兄だった。死んだ今だから言えるけれどさ。図体ばかりでかくて、俺やアブサロムみたいな色男では断じてなかったからね。そのことをずっと気に病んでたのさ」
「まあまあ……」呆れたように、ニカウレは言う。アドニヤも我ながら、自業自得とはいえ死んだ兄をこうも悪く言えるものかと思った。
「でだ……彼は、ある女の子に懸想してたのさ。それも、自分とは少々年齢の離れた……全く馬鹿な話で、やつは第一王子なんだからさ、遠慮なく彼女に言い寄ればよかったのに、それができなかったんだ。嫌われるのが怖かったのと、そんなことするのはプライドが許せなかったんだろ。いつか彼女の方から自分を好きと言ってくれて自分がそれを受け入れる、好かれる努力もしていない不細工のくせにそんな妄想ばかりしていて……そのくせ自信がないからかえって嫉妬深くて独占欲ばかり勝手に燃やしていた」
「なんでそんなことを知っていますの」
「奴、アブサロムの事は大嫌いだったしキルアブ兄さんはその時から体調が悪かったのさ。だから酒の相手はいつも俺だったわけ。酔った勢いで、飽きるほどくだらない恋の嘆きを聞かされた」アドニヤは笑った。
「まあ、でもとある日……ついにあいつは、その子を犯してしまった。でかい図体横たわらせて、仮病を装ってその子を看病に呼び寄せてね……怖いだろうねえ、あどけない少女が、あんなむくつけき大男に力づくで抑えられて好き放題されるなんて……彼女はね、当時十四だったんだよ。君と同い年さ。……で、こんな話して君、大丈夫?」
「あら、全然大丈夫ですわ」ニカウレは言葉通りけろっとしていた。「話を続けてくださいな」
「気丈な子だね」アドニヤは頭を数回掻くと、続けた。
「結局その子は、心に傷を負って数日後川に身を投げたよ。自分の身に何があったのか、同じ母から生まれた兄にだけ知らせてね……で、その兄が」
「アブサロム王子様?」
「そう言うこと」アドニヤはニカウレを指さして言った。
「父上はなぜかアムノンの兄上を罰しなかった……それに、ことがことだから堅く口止めしたのさ。いつか自分の跡を継ぐ第一王子だし、こんな醜聞広めるわけにはいかなかったんだろ。その妹、タマルが川で死んだのは事故死で片づけられた。……でも、アブサロムが許したわけないよな。結局その後、ことが忘れられたころに、アブサロムはアムノンを殺してしまったってわけだ」
「納得いきましたわ」ニカウレは深くうなずいた。
「先日アブサロム様が怒ったのは、本当に最もですわね」
「まあ、気にする必要ないだろ。あいつはあいつで、気味が悪いくらい妹の事を愛していた。……まるで、兄妹の域を越しているかのようにね」
「あら、本当ですの?」
「本当さ。他の女には目もくれず、日がな一日妹の事ばかりじっと見てた。それこそ、彼女を犯そうと虎視眈々と狙っていたアムノンにも負けず劣らずにさ……」
そのことを聞いて、ニカウレはエメラルドの瞳を泳がせる。アドニヤはそれを見てクスクスと笑った。
「まあ、何にしてもアブサロム兄妹もさることながら、アムノンの兄上は不運な人だったよ。俺たちみたいに美しく生まれなかったからね」
「美しく生まれなくては幸せになれないとおっしゃるの?」
「とんでもない!この世はそんな絶望の世じゃないよ。けどアムノンに至っては別さ。彼は醜いことを、絶対の不幸と信じ込んでたんだから。自分が美しくないから劣っているんだって信じ続けて、そのせいで勝手に歪んで、勝手に命を落とすほどなら、美しく生まれてきてこれらの何の問題も起こらない人生の方がはるかに有意義だった!」
で、とアドニヤは彼女の肩に手をかける。
「まあ、俺の部屋に来てこんな殺伐とした話だけして帰る法もないだろう……。酒、飲めるかい。蜂蜜酒だから味はきつくないぜ」
「いただきます」
ニカウレはそう微笑み、アドニヤの手からグラスを取った。


ぼんやりとしていたキルアブの耳に、音が聞こえた。あの力が有るんだか無いんだか分からないような音は、アブサロムのものだった。
彼はキルアブが返事をするまで待つこともなく、入ってくる。
「兄上。お加減はいかがですか」
「今日は悪くはない。……君が来るなんて、珍しいね」
「明日あたり帰ろうと思っているので。兄上の顔も久しく見ていませんから。最後に顔だけは見せようかと」
もう帰るのかい?と言おうとして、キルアブは慌てて口をつぐんだ。彼は目が虚ろだ。また落ち込んでいるのだろう。長居はしたくないはずだ。
「心を病むと、体までおかしくなるよ。ものの本にもそう書かれている」キルアブは言う。「帰るのはいいことだ。屋敷に帰って落ち着くまで、ゆっくりしたまえ」
はい、とアブサロムは返して、顔だけ見せるという言葉通りそっけなく帰ろうとする。彼はあれ以来、兄と名のつくものすら嫌悪してしまったかのようだ。本当は自分とも話したくなどないのだろう。こうして来るだけ、まだ義理堅い。
「……あの、兄上、本当にお加減は良いのですか?」
だが、彼は去り際、そう言ってきた。
「ああ、そうだけど……」
「いいえ、普段よりぼうっとしておられましたもので……失礼いたします」
そう言って彼は、後は振り返りもせず真直ぐに去っていってしまった。それを見て、若干キルアブも決まりが悪くなる。
確かに彼の言うことは正しい。昨日から、熱はさっぱりないのに、熱に浮かされたように妙に頭がぼうっとする。何かものを考える気にもなれなかった。そう言えば、朝薬を持ってきたアビシャグにも同じことを言われたような気がする。

夕方になった。やたらと晴れた夕方で雲一つなく、太陽は夕焼け雲などに頼ることなく、その真っ赤な光を届けていた。
今日も戦勝祝いの宴があるのだが、アブサロムはもう、そこに出る気も起きなかった。かまわない。他人が笑っている声を聴くだけで、もう気が狂いそうだ。
何故、タマルは幸せになれなかった。あんな醜い兄に欲望のまま犯されなければならなかった。あんな宴会に出ている人間すべてを合わせても彼女に比べれば何千、何万分の一ほどしか価値もない、それほど清く美しかった自分の妹が。タマルが嘆いて死んだのに、お前たちのようなくだらない人間たちがゲラゲラ笑って生きているなんて理不尽だ。アムノンを殺した時のように、宴会場で剣を抜いて暴れてしまいそうだとアブサロムは心底思っていた。
「(なぜ、私は薔薇園を目指しているんだろう……)」
そこに自分の望むものなどあるはずないのに。昼間見かけたあの影を求めて?あれが本物のタマルでないと分かった時、自分の心は何倍も、何倍も悲しくなったのに。でも一方で、その一瞬、ただ一瞬の嬉しさを求めてしまう自分がここにいるのだ、と言うこともアブサロムにはわかっていた。
白い薔薇が咲いている。桃色の薔薇も、赤い薔薇も……花を愛した彼女のために、薔薇の名産地であるシャロンから株ごととってきて植えた薔薇が……。
そして、彼女はそこにいた。薔薇の中にたたずんでいた。真っ白く咲いた薔薇を静かに眺めながら、夕日の中にじっとたたずんで……こちらを見ていた。彼女はどこに居ても、アブサロムを見つけた。アブサロムがどこに居ても彼女を見つけたように。
アブサロムの胸が高鳴る。だがそれは興奮と歓喜だけではなく、不安の鼓動でもあった。そうだ、こんな時、いつも別の男がいた。自分の他に彼女を見つめている別の男が。汚らしい男が。自分が、あいつに気付いてやれたら、もっと……。いけない、彼女を、彼女を見せてなるものか……!
「タマル!」
彼は駆け出し、夢中になって薔薇園の少女を抱きしめた。守ってやる。お前は私が守ってやる。汚い世の男どもに、お前を二度と汚させはしない……。
「……様」
彼女が自分の胸の中で呟く。ああ、怖いんだな!怖いんだな!そうだろうそうだろう、お前は汚れた視線が怖かろう!世の中のなにもかもが、お前を猥雑な目で見ている。そのことが怖かろう!
「ああ、お兄様だよ、お兄様だよ……お前のお兄様がここにいるよ!」
「もしもし、アブサロム様?」
その声を着て、アブサロムははっと我に返った。自分が抱きしめていた少女の髪は、燃えるような赤色だった。アブサロムはぎょっとして慌てて離れる。
しまった。賓客である少女に、なんていうことをしてしまったのだ……。だが、アブサロムは恐怖と羞恥心、彼女に対する申し訳なさ以上に、畏怖のような感情を覚えた。得体の知れないものに人が感じるような感情を。なぜだ?自分がタマルと他の少女を見間違えるはずがない。だが確かに自分の目には見えていたのだ。彼女の髪は赤ではなく、自分と全く同じ黒髪に見えていた。あの中にいたのは確かに、可愛い妹タマルだった……。
だが、それはそれとしてこの現状の方をどうにかしなくてはならないのもまた事実だ。年端もいかない少女に勝手に抱きついた。しかも相手は敬意を払わなくてはならない、他国の王女。どう言い訳しても、彼女が声を上げれば無傷で済む状況でもあるまい……あの時とは違う。アムノンは、第一王子だったのだから……。
「す……すまない……私は、その……」
「どうしました?」
ニカウレはうろたえるアブサロムとは裏腹に、不思議な表情をしていた。彼女は全く怯えても、軽蔑してもいないようだった。彼女は髪を掻き上げ、右耳に乗せる。アブサロムははっとした。タマルが自分と話す際に、しょっちゅうしていた癖だ!
「私が、そんなに妹様にそっくりに見えました?」
「あ……ああ。そうだ。そっくりで、つい……」
実際、言葉に出すとそのように思えた。タマルのように彼女も美しい。タマルがいなくなった時と年齢も同じだ。髪や眼や肌の色は違っても、背格好も同じくらいで……声まで似ているように思えた。一度そう思ってみると、どんどん、彼女のイメージがタマルにかぶって見える。
「い、妹も君に会えたら喜ぶだろうね、はは……」
「妹様の事、うかがっているんですよ、私」
その言葉に、アブサロムの肩が跳ね上がる。
「不幸な事故がおありでしたのね……川で溺れてしまうなんて」
「あ、ああ、そうだな……」アブサロムは長い髪を弄って気をそらそうとした。「不幸な事故だった……実に、不幸な事故だった」
彼はため息をついた。だが不思議なもので、彼の眼にはあの日の、川の藻にまみれた無残な妹の水死体の姿が浮かんでいたのに、この目の前の少女を見ると、あれはただの白昼夢ではないかと思えてしまった。
「そんなにびくびくなさらないで。アブサロム様は父が友好国にと望んでいる国の王子様なのですもの。いやらしい気持ちなんてなかった事は百も承知ですわ」ニカウレは微笑んで言う。
不思議なものだ。アブサロムは疑問に思った。先日大広間に立っていた少女は、もっと大人っぽくて堂々としていたような気がする。だが、目の前の彼女はあどけなくて、言葉がしっかりしている割にその高い声は頼りなくて……まったく、自分の後ろをちょこちょことついてきた妹そっくりに見えた。
そこを、アブサロムはたまらなく愛おしく思った。タマル、と彼はまた声を上げて呼びたかった。
「ありがとう……助かるよ」アブサロムは言う。
「その……ぶしつけな出会いをしてしまったが、これからも仲良くしてもらってもいいかな?」
「ええ、勿論。アブサロム様」
アブサロムはその言葉に出かけた言葉を飲み込んだ。「……そんな他人行儀な呼び方は、しなくていいよ」と言いたい自分を見つけてしまったのだ。だがまさか本気で言えるはずもない。
「ありがとう」
彼はそう言って頭を下げる。だが、その頭にふわりと何かが被せられた。
取ってみると、それは薔薇の冠だった。タマルがいつも編んでいたものと、色合いも、編み方のくせも、不自然なほど何もかも同じだった。

その日の晩餐にアブサロムが急に表れて、一同は驚いた。戦から帰って来てますます情緒不安定気味だし、もう日暮れとともに帰ってしまったのでは、少なくとも部屋で独りで夕飯を取るのだろうと誰もが思っていたからだ。
だが彼は全くすっきりした顔で席に着き、給仕に自分の分も料理と酒を持ってくるよう命令した。
「良い顔になったな」隣に座るダビデが言った。
「はい。ようやく今度の憂鬱もとれまして……」
「それがよかろう」ダビデは淡々と告げる。
「ところで父上……二日だけと言うお話しでしたが、気が変わりました。もう少し長い間、王宮に滞在させていただいてもよろしいでしょうか?」
彼はよどみなく言う。上の王子たちはその言葉を聞いて声には出さねど驚いた。いつもは人を食ったようなアドニヤまで驚いた顔をしている。アブサロムは憂鬱が取れたところで、王宮に好きこのんで近寄りたがりはしていなかった。無理もない。第一王子と……国王に、彼は愛しい妹を殺されたも同然なのだから。
「ここはお前の育った家で、お前は私の王子。お前がいることに何の不都合があろうか」ダビデは相変わらず、淡々と言い返した。
「好きなだけ滞在しろ」
「ありがとうございます……国王陛下」
彼はようやく自分のもとに運ばれてきた杯で、父と小さく乾杯した。
彼はじっと、シェバの隣に座るニカウレを見ていた。それをアドニヤが見つめる。面白そうに笑って。
「どうしたんです、兄上。馬鹿にあの子を見つめますね」
「タマルのように愛らしい……そう思わないか?」
「は?ご冗談を。兄上の目は節穴ですか。あっちの方が、タマルの何倍も美人でしょう」
その言葉に、アブサロムは一瞬で怒り、彼を激しく睨みつける。だが、ダビデが一言「いさかいを起こすな、アドニヤ、お前が悪い」と言ったので、それ以上アブサロムも何も言えなかった。
「……申し訳ありませんでした、兄上様!」
「……以後、気をつけろ!」

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The Princess of Sheba 第四話


「驚いたね」早朝、まだ日の登り切っていない頃に、アドニヤは話しかけた。
「こんないい女と思ってなかった。本当に十四かい?」
「アドニヤ様みたいな方なら、私の肌に触ったのだからお分かりになると思いますわ」
「たしかに……大人と言うより、子供みたいな瑞々しい肌をしているけれど」彼は肩をすくめる。「でも、大人でも君ほどじゃないのは山ほどいる……」
「それはどういたしまして。父が起きるかもしれませんから、そろそろ行きますわ」
「いいね……ああ、着せてあげよう」
アドニヤは、寝台から立ち上がった彼女の真っ白な体に薄いドレスを纏わせるのを手伝い、帯を後ろの方でくいくいと器用に結ぶ。「さすが手馴れてますわね」「まあね」と言った会話を交わしたのち「では、ごきげんよう」とニカウレは帰っていく。
「本当に良かったよ、ニカウレ」アドニヤは彼女の後ろ姿に告げる。「また、遊ぼうか」
「ええ、それはもちろん……アドニヤ様のお望みのままに」
そう彼女が言った後扉が閉じ、アドニヤはようやく一人になった。
朝の空気の寒さから逃れようと、衣装は着ないままもう一度毛布に潜り込む。見てみれば、枕に赤い髪の毛が一本残っていた。やはりこの夜のことは、現実に違いない。
「全く信じられないね……久しぶりに夢中になった」
アドニヤはそう独り言を言うと、そのまま眠りこんだ。

 夜が明けてしまえば、イスラエル王宮は全く元通りの日常を取り戻す。もっとも、話題は昨日から来ているシェバ王国の父娘の事でもちきりだった。
アドニヤも、昼過ぎに起きて見てみると、ニカウレがダビデの王女たちに混ざって一緒に遊んでいるのを見た。
「シェバのお姫様?なんてかわいいのかしら」
「見てよ、この綺麗な髪の毛!ねえ、触ってもよろしくって?」
そうはしゃがれながら囲まれる彼女は全く少女じみた表情をしていて、とてもじゃないが昨日自分と抱き合っていた女と同一人物とは思えない。
やれやれ、恐ろしい子だ!彼は心の中でそう呟くと、遊びにでも行くかと厩に向かった。だがその道中、誰かにぶつかった。見てみれば、目の前にはアブサロムが立っている。
「おや、アブサロムの兄上。すみませんね」
そう形式上は謝ったものの、当の彼は許すでもなく怒るでもなく相も変わらず上の空だ。まだ憂鬱状態からは立ち直っていないと見える。アドニヤはもう一度、やれやれと思った。

ソロモンは、その日も書庫に来ていた。キルアブはなんだか昨日以来、ぼうっとしている。少し詰まらない、と思ってしまった。戦争に出ていた兄たちは自分たちの屋敷に帰るものも出ている。でも、どっちにしろ彼らがどう動こうとソロモンにはあまり関係ない。むしろ余計なことをを言われたくないから、早く帰ってほしいくらいだ。みんな、自分の事ならまだしも、時には陰でキルアブまで馬鹿にしていることを知っている。「病気で剣も握れないから、学問しか逃げる道がいないんだ」と。
誰が好き好んで病気になるものか。キルアブには一切責任のないことで、何故彼は侮辱されなくてはならないのだろう。王家に生まれたのなら必ず、勇敢で健康で男ぶりに満ちた男にしか生まれてはいけないという法でもあるというのか?そんな、無理な話だ。そんなもの個人で勝手に決められるものではないのに。
おまけに、何故学問が逃げる道なのか。そう言うと、「そんな台詞は武術を立派に修めてから言うもの、修めないものが言ってもただの負け惜しみだ」と言うが、だったら学問を修めずに剣に明け暮れている彼らが学問を馬鹿にするのも、ただの負け惜しみではなかろうか。こう言うと話をはぐらかすか、屁理屈呼ばわりで一刀両断してくるのだから、なおのことソロモンはそう思ってしまう。だいたいそれ以前に、好きなことを侮辱されて怒るのを、何故負け惜しみ呼ばわりされなくてはならないのだ。はなから競っている気などない、ただ好きだと言っているだけなのに。
だから、書庫に居たいのだ。余計な事を言ってくる他の兄弟たちが歩き回る他の場所などに行っても、楽しくない。楽しい此処にいて、何が悪い。
そんなことを考えていると、書庫に自分以外に入ってくるものがいた。大臣か祭司かな、と思っていたが、「ごきげんよう」とやってきた人物は、昨日と同じ、ニカウレだった。
「こんにちは……今日も来たの?」
書庫に向かう途中、姉たちと仲良く会話をしている彼女を、ソロモンも見ていた。だからてっきり、ここには来ないと思っていたが。
「姉さんたちは?」
「もう、解放してくれたわ」
彼女はそう言って、パピルスに書き記した詩編の書を広げて読み始める。しばらく、会話は続かなかった。
ソロモンにしては、昨日兄さんと何故、書の話をしなかったの?と聞きたかった。自分はそのために、ニカウレをあの場に連れて行ったのに。キルアブだってきっと、喜ぶと思うのに。だが、細く差し込む光の中でじっと文章に目を通しているニカウレには、声をかけるのがはばかられた。自分も自分が本来読みたかった書を素直に読むことにしよう、と彼はパピルスを開く。「これは預言者サムエルが書き記したものの写しだ」と、以前父は言っていた。
しばらく時間が経過した。埃っぽい空気の中に最初に響いたのは、ニカウレの声だった。彼女の方は、手に取った詩編を読み終えてしまったらしい。
「何を読んでるの?」
「王国の歴史……」ソロモンはぼそりと呟いた。
「聞いていい?」
「なにを」
「昨日、兄さんと学問の話をした?」
ニカウレはその言葉に、静かに首を横に振った。
「どうして?」
「だって……そんな雰囲気じゃなかったんだもの」
そう言われてしまうと、確かに、とも思う。キルアブは大変なことになってしまっていたのだから。
「でも、僕は……君に、兄さんと話してほしかった。君は、学問が好きなんだろ」
「好きよ。将来は学者になりたいわ」
「素敵な目標持ってるじゃないか!そこも僕と同じだ」
奇しくも目の前の少女と自分の夢が同じであることに気が付いて、またしてもソロモンは嬉しくなった。しかし昨日のように、ただただ純粋には喜べない。ならばなおのこと、兄と話してほしかった。彼は、じっと黙ってこちらを見つめているニカウレに向かって言葉を続ける。
「きっと、兄さんは君みたいな頭のいい子の事は喜ぶと思うよ」
「そう……。またお兄さんの所には行かせて貰うわね」
ニカウレはそうとだけ返事をすると、持っていたパピルスをサッサともとの書棚に丁寧に直した。そして、また別のものを取り出す。
「そうだわ。聞きたいことは私にもあるの」
「なに?」
「第一王子様がどうして死んだのか、教えてくれない?王女様たちに聞いても、皆口を閉ざすんだもの」
「えっと……」彼は言葉を濁す。だがニカウレは続けた。
「アブサロム様が殺したのよね。だから、昨日あんなに怒ってたんでしょ。本当にお父様は不用意なことを言ったと思うけど……。でも、私が聞きたいのはそこじゃないの。なにが理由で、あのアブサロム様はお兄さんを殺したの」
「そういった質問か……」ソロモンは言った。「悪いけど……僕も知らない。今より小さかったころだし……誰も教えてくれなかった」
「そう……ごめんなさい」
そうとだけ言うと、また彼女はじっと書に没頭してしまって、再び声もかけられなくなった。そっちは、読んでいる僕の方にも平気で声をかけるくせにと心の中で思いながら、ソロモンの方もまた預言者の書を読み続けた。自分が生まれる前の時代の話を。

おかえりなさいませ!と声が聞こえても、アブサロムは無視した。艶やかな真っ黒の髪の毛を翻し、誰の挨拶も聞こえないまま、彼は自分の部屋に戻る。明日になったら、さっそく自分の屋敷に戻ろうかと彼は考えていた。
気分が晴れない。こんな時に、にぎやかな王宮に居たくはない。しかし二日くらいはせめて居なさいと父が言うのだから、しょうがなかろう。
王宮に居ても、会いたい人には会えないのに。王宮の庭園には、今日の宴会に招かれている客人がすでに多くいた。昔はあそこに人が何人いても、必ず見つけられた。小柄で細い、愛らしい、可憐な姿を。彼女は自分を見つけたら、いつもにっこり笑って寄ってきてくれた。まるで花に集まる蝶のように。何をしていても、彼女は自分を見つけてくれた。そして自分も、彼女を見つけられた。そうだ、彼女はあの薔薇園が大好きだった。夏になるたびあそこにいて……。
その時、彼は見た。
薔薇園に一人の少女がいる。彼女のように小柄で、愛らしく、ちょこんと立ちすくんでいた。自分自身も一本の薔薇のように、儚く、美しく……。
「タマル……?」
彼の口から、その名がこぼれ出た。しかし、その名に反応して向けられた顔は、違うものだった。だいたい、何故見間違えてしまったのだろう。自分同様に真っ黒な髪と、あの見たこともないような真っ赤な髪を。
彼女が自分に何か話しかけてきた。だが彼は失礼するとも言わずに、そこから目をそむけて真っ先に立ち去っていってしまった。思い出してしまった。思い出してしまった。なぜ、今になってあの彼女を……。


「アブサロムの兄上が、殺した理由?」
その日の午後、アドニヤはニカウレの訪問を受けた。また来てくれとは言ったけど、こんなにすぐ来てくれるとは嬉しいねと言ったアドニヤに向かって、彼女が投げかけた質問がそれだった。
ニカウレは答える。「はい、アドニヤ様なら知っているかと」
「そりゃ、知ってるけどね」
「教えてください。誰もかれも口を閉ざすんですもの。でも、貴方なら言ってくれますわ」
アドニヤは「女の子が聞くことじゃないと思うよ」と言ったが、彼女は「かまいません」と即答してくる。全くこの子の人を見る目は正しい、とアドニヤは思った。まっとうな大人なら隠そうとするところだが、自分は実際にあったことを知りたがっている人物にただ話すのがなぜ悪いと思っている人間なのだということを、出会ったばかりの彼女はよくご存じだ。

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The Princess of Sheba 第三話

こつこつ、と扉をたたく音が聞こえてキルアブは振り返った。あの叩き方はソロモンのものだが、今日は朝に来たばかりだというのに。
「ソロモンかい?今日はまた、随分と来るんだね」
また分からないところでもできたかな、と考えて彼は穏やかな声で言う。「入っておいで」
「では、失礼いたします。兄上」
静かに扉があいて入ってきた、良く見知った姿を見てキルアブは優しげな眼を細める。だが、その後もう一人入ってきた姿に、彼は逆に目を見張った。
「兄上。こちらの姫君を、兄上に紹介したく思います。今日イスラエルに来られた、シェバ王国の王女、ニカウレ様です」
「ニカウレです。キルアブ王子様、よろしくお願いします」
彼はそうちょこんと自分に挨拶するあどけない少女を見て、ものが言えなくなった。
自分は王子なのだ。王位継承者なのだ。立派に挨拶には挨拶を返さねば、と分かっていても、口を開いても、しどろもどろの声にならない声しか出てこなかった。
彼は、ニカウレを美しいと思った。心の底から美しいと。こんなきれいな人に会ったのは初めてだ、と、自分の年齢の半分ほどしかない少女を見て彼は柄でもないことを考えていた。
「あ、あの……」
そう口を開いた瞬間、激しく咳き込んでしまった。ソロモンはぎょっとして、あわてて「兄上!?お加減がよくありませんでしたか!?」と言ってきた。キルアブの調子の悪い時に彼を煩わせてしまったかと不安になったのだ。
「い、いや、大丈夫だよ、ソロモン……」
しかしなかなか止まらない。彼は苦しそうに何度も咳き込んだ。「アビシャグを呼んできます!」とソロモンは急いで部屋の外に戻っていく。後にはニカウレが残されていた。
彼女はちょこんと首をかしげて、咳き込むキルアブをじっと見ていた。キルアブは、この綺麗な少女の前で無様な姿をさらしている自分がなおのこと情けなくなった。しかし不安に思えば思うほど、咳が止まらない。息すら苦しくなってくる。まだ自分は、彼女に自己紹介すらできていないのに……。
「キルアブ様」
ニカウレが急に口を開いた。パニックになりかけている彼の側に静かに寄ってきて、彼女は優しく言う。
「横向けに寝そべってみてください」
なんだって?とキルアブは思ったが、ニカウレはそっと手を伸ばして、キルアブの肩に手を置く。彼はどきりとした。彼女はそのまま、ゆっくりと彼の上半身を寝台にうずめた。彼が横向きに、自分の方を向くように。
すると、不思議なもので胸が若干楽になったようになり、咳もいずれ小さくなっていき、止まった。
「楽になりました?」
「あ、ああ……」
ようやく息ができるようになり、荒く呼吸をするキルアブを見て、ニカウレはくすりと笑う。彼女は勝手に、寝台の横においてあった椅子に腰かけて、帯の中から包みを取り出し、イスラエルでは見かけない、琥珀のような透き通った菓子を取り出した。
「どうぞ」
彼女はそう言って、キルアブの口にそれを押し込む。蜂蜜を固めて作ったのだろう。甘ったるい味がした。喉が優しく包み込まれるようで、ようやくキルアブの咳も収まる。
「あ、ありがとう……」
「いいえ」
キルアブは身を起こしてあらためて挨拶しようとしたが、ニカウレは「そのままでどうぞ」と言ってきた。
「イスラエル王国、第二王子キルアブだ……君が、シェバ陛下の娘さんかい?」
「ええ」彼女はうなずく。
「すまない。無様なところを見せてしまって……」
「いいえ、大丈夫ですわ」
ニカウレは優しく微笑みかけ、改めてお辞儀をした。そこに全く軽蔑の念が含まれていないことに、キルアブは心の底から安堵した。
「キルアブ様!」やっと、アビシャグがソロモンに連れられて、あわてた様子で入ってくる。だがキルアブの咳が既に止まっていることと、彼の隣にいる少女を見て、アビシャグは少々、どうしていいか分からない様子であった。
「こんにちは」ニカウレの方から、アビシャグに挨拶をする。「今日よりしばらく滞在させていただきます、ニカウレと申します」
「あ、ああ、シェバ王国の王女様……」アビシャグは慌てて膝をつく。彼女は王族ではないため、対等な挨拶は許されない。「挨拶もなしに入ってきた無礼をお許しください」
「いいえ。貴方は?」
「アビシャグです。キルアブ王子にお仕えしております……」
「そうなの」自分より年下の赤毛の少女がにっこり笑うのを見て、アビシャグもようやく落ち着く。
「あなた、綺麗ね」
「いいえ、ニカウレ様ほどでは……」
「こんな素敵な方を看病につけてもらえるなんて、お父様にとても大切にされているんですね、キルアブ様」
ニカウレのその言葉に、キルアブは瞬きすると「そ、そうかね……」と、戸惑ったように返す。その戸惑いがはらむ意味を、ソロモンは何となく察することができた。ダビデの家では、跡取りでありながら病弱なキルアブはむしろ父王に邪魔者扱いされている、とまことしやかに言われている。真偽はどうあれ、彼の耳に入らないよう注意していると言っても、やはり彼自身がそれを知っている可能性は十分にある。
それにしても、とソロモンは思った。どうも自分がアビシャグを呼びに行っている間彼ら二人は仲良くなってしまったようだが、話が進んでも出るのはごく一般の世間話じみたことばかりで、全くもって彼が本来入りたかった本題、書や学問の話に入れない。ニカウレもそれを楽しみにしてくれていたと思ったんだが、どういった事だろう?彼は疑問に思った。
しかしどうも、そのことを言う空気でもない。なによりアビシャグはまさに自分が書の事を話すと女だからわからないと戸惑って返す口だったので、彼女のいる場でその話を出すのも無粋に思えた。思い通りにならなくて実に詰まらないが、さすがにそれを我慢できない年でもない。また改めて話せばいいか、とソロモンは思い直した。

その日の夜の事だった。
ランプが等間隔に点されている渡り廊下を、アビシャグは歩いていた。キルアブが眠るのを見届けたところだ。
足音を立てながら暗い廊下を歩いていると、急に腕を掴まれた。「きゃっ!」と恐怖に声を上げる。
「そう怖がるな。俺だ」
振ってきた声は、第四王子アドニヤのものだった。
「……離してください!」
相手がアドニヤと分かるや否や、アビシャグはきっと彼の事を睨みつけて言う。アドニヤはその言葉を聞いてにんまりと笑い、手を離した。しかし彼女が逃げる暇もなく、もう一度腕を伸ばして手を壁に付き、彼女を壁際に追い詰めた。
「俺が危険な戦地から帰って来たんだぞ。お前にこんなに熱を上げているこの俺が。お帰りの一言くらい言ったらどうだ?」
「それはお疲れ様です、でも、こんな真似をされる筋合いはありませんわ!」
アドニヤはハハハ、と困ったような、呆れたような声で笑う。
「そうつれない顔をするな、え?お前の美しさは、憂い顔でなお輝く美しさではないからね……」
「あなたみたいな方に熱を上げてほしいなんて思ったこともありません!」
アビシャグはきっぱりと言い切る。アドニヤはまたしても苦笑いした。
実際、彼はダビデの王子の中でも愛層のいい色男ながら女癖が悪いことで有名だった。それも問題が起こりそうなときは実に上手く逃れて見せるので、ダビデから公然と責められたこともなく、彼を止めるものはほとんどいなかった。しかし、アビシャグにとっては、そんな彼に言い寄られたって嬉しくもなんともなかった。
「お前は実際、つれないな……」
「王子様みたいな、片っ端から女性に手を出して飽きると捨てるような方に構うような女性の方がおかしいんです!」
「だとすると、世の中の女性はお前を除き皆狂ってるぞ」
「じゃあ、そうなんでしょうね……とにかく、貴方のものになる気なんて金輪際ありません。あまり図に乗ると、大声を出しますよ!」
アドニヤはその脅しを恐れることはなかった。彼は軽く笑って「お前はお前でキルアブの兄上に大分お熱だな、え?」と冷やかすように言ってきた。
カッとするような気持ちと、ぞっとするような気持ちが同時にアビシャグを襲ってくる。「私とキルアブ様がどうしたって言うんですか!?」彼女は精一杯凄んで言ったが、少女の威嚇など軍人としても活躍するアドニヤ相手にはたかが知れている。
「いやあ、お前に忠告しようと思ってね。あの兄を好いたって、ろくなことがないぞ」
「……貴方に好かれるよりは、それでも何倍もましですけどね!」
アビシャグの答えは変わらなかった。アドニヤは「わかったわかった」と言った。
「全く、話の早くない美人の魅力もわからないが、あんな男の魅力ほど、理解できないものはないな」
「それが分からないなんて、可哀想な方ですね……キルアブ様は、なんでも分かっていらっしゃいますよ」
「ああ、ハイハイそうかい。行っていいぞ」
アドニヤは全く最後まで、彼女の言葉に怯む様子は見せなかった。アビシャグはそれに余計に誇りを傷つけられたが、汚いものから離れようという意思を込めて、精いっぱい逃げ出した。これは恐怖ではない、侮蔑なのだと言わんばかりに、一所懸命背筋を伸ばして。
それにしても悔しい。キルアブの事を他人に言及されたのは初めてだ。今まで一度も、自分がキルアブに惚れていることなど他人に話したことはないのに!
彼を好いてもいいことがない。それは嘘と言えば確かに語弊があるだろう。自分も恥ずかしい身分の出ではないが、何しろ相手は王位継承者。自分が妻の座に収まれる確率なんて、麦粒ひとつほどでもあると思う方がおこがましいのは百も承知だ。それよりは、まだあの第四王子相手の方が可能性はあろう。
でも、あんな遊び人は嫌いだ、大嫌いだ!そのくせ自分のこの侮蔑すら、彼は全く問題でも何でもないかのようにしれっとあしらう。せめて彼がこれで本気で傷ついたのなら、まだ救いもあるものの……。
「……キルアブ様」
キルアブが好きだ。
アドニヤのように、彼は女性をむげに扱わない。それどころか彼は全く正反対に、女性と浮名を流すことなく、清貧な人生を送っている。その清潔さに、アビシャグは強く惹かれたのだ。
彼にこんな怖いことがあったと泣きつければ、彼の腕に抱かれて慰めてもらえれば、どれほど幸せだろう。でもそれは一生かなわないのだ。承知の上で彼に惚れたと分かっていても、それははやはりつらい事だった。

アドニヤはアドニヤで夜の城内をランプ片手にぶらぶら散歩していた。とくに傷つきはしていない。その色男ぶりと女遊びの激しさで広く知られている彼だ。目当ての女にあれほど言われるなど、アビシャグが考えている以上に彼にとっては日常茶飯事で、今さら悩むほどの事じゃない。自分はこれで楽しむ人間なのだと、彼は開き直っている。つれなきゃつれない。つれればつれる。つれれば楽しめばいい。それだけの話だ。
夜遊びしに出かけでもするか、と思っていたところ、彼の眼はあるものを捕えた。一瞬ランプの火がどこかに燃え移ったのか?と思ったが、よく見ればそれは赤く輝く髪の毛だった。
昼間の、シェバの姫君か。彼にはすぐわかった。なぜこんな時間に貴賓室にもいないのか疑問だったが、彼はぼんやり庭のランプの下にある椅子に腰かけて星空を眺めている彼女をじっくり観察した。
たしかまだ十四歳と言っていたが、そんな年齢に似つかわしくないほど、ランプの赤い光と月の白い光を受ける彼女は色気があるように見えた。飾りっ気のない農家の娘なら、あれより年上でもずっと子供みたいな女は腐るほどいる。
声をかけてみるのもいいか、と彼の悪い虫が騒ぎだした。
「やあ、こんばんは」
彼は静かに歩み寄って、にっこりと人のよさそうな笑顔でニカウレに話しかける。ニカウレは、緑色の目で「はい、こんばんは。良い夜ですわね」と言ってきた。
「ニカウレさんだっけね?隣に座ってもいいかい」
「もちろんですわ」
警戒心無く自分を受け入れる少女の隣に、彼はふわりと品よく座る。「俺は第四王子、アドニヤだ」と挨拶しながら。
「お知り合いになれて光栄です」
「俺もだよ。殊に、君のような素敵な女の子ならね……」
「あら……」
彼女は白い頬に手を添えて、困ったように笑って見せた。「アドニヤ様も素敵ですわ」
「おやおや……嬉しいな」
ずいぶん素直に会話が進む。これは上手く行くかもしれないな、とアドニヤは思いながら、ニカウレの美しさを手放しで褒め続けた。ニカウレはクスクスと笑いながらそれを聞いている。
「イスラエルにも、君のように美しい子はいないな。君のように肌の白い子も。俺としては是非、君ともっと仲良くなりたいところだが……」
「ええ、私もですわ。キルアブ様」
「本当かい。そう言ってくれて、俺としても実に嬉し……」
そう言いかけてキルアブが彼女を見つめた時だった。彼の顔からはその瞬間、この可愛いあどけない少女をからかってやろうという余裕に満ちた笑みが引っ込んだ。自分を見つめて微笑む彼女の顔は、自分の馴染みの娼婦たちに劣らないほど、色気を湛えた表情に見えた。彼は目を見張り、生唾を飲み込む。自分がこんな反応をさせられるなど、久しぶりだと頭の中でぼんやりと感じながら。
「どうしました?」
彼女は蛾を焼き殺そうと誘う炎のように、扇情的に笑って見せた。そして、着物の胸元をわずかばかりはだけさせる。艶めかしい白さに、思わずアドニヤもどきりとした。
「戸惑うことはないでしょう?そう言う気持ちで声をかけてきたんじゃありませんの?」
「……驚いたね」
ようやく自分のペースを取り戻し、アドニヤも不敵に微笑みつつ言う。
「私はもっと、王子様と仲良くなりたいですわ。王子様も、軍人の言葉に嘘偽りはありませんでしょう?」
「いいね……話の早い美人ほど、好きなものはないよ」
彼はそう言って立ち上がると、ニカウレの手を握って引いた。
「さあどうぞ……おっしゃる通り、俺の言葉に二言はないさ。仲良くなろうじゃないか、お姫様」
ニカウレは微笑みながらお辞儀して、彼に手を引かれる。二人は、王宮のアドニヤが使っている部屋に向かって歩みを進めた。

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