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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第三話

心地よく晴れ渡ったイスラエルの空に、一本の矢が飛んだ。矢はまっすぐ的の真ん中を貫通した。
一人の青年が歩み寄り、矢を引き抜く。周囲に控える彼の取り巻きが彼をほめそやした。
「お見事です、アブサロム様」
「なんのこれしき」
アブサロムは長く、艶やかに伸びた髪を風にひるがえして、得意げにそういった。
アブサロムはダビデの第三王子だ。彼がゲシュルの王のもとから迎えた王女との間に生まれた。
ダビデ王の息子は数居れど、彼は際立って優れていた。ダビデによく似たその容貌は、ダビデの次に完璧だろうと思われた。背が高くて鍛え抜かれた体も、ピカピカ光る目も、父親譲りの長い足も言うことはなかったが、何よりも特筆すべきは彼の髪の毛だった。ゲシュルの王女である彼の母親から受け継いだ亜麻色の髪は、男性とは思えないほど美しく波打ち、伸びていた。彼はこの髪を非常に自慢にしていて、手入れを欠かさなかった。時に他人から男性らしくないと揶揄されることもあったが、彼はそれらすべてを自分の髪の美しさに対する嫉妬だと受け流した。事実、彼は女々しいどころか武術の腕も他人にまったく引けを取らなかった。弓も剣も乗馬も、彼はほかの王子のうち誰よりも優れていた。
「お兄様、お疲れ様です」と彼のもとに一人の少女がやってくる。彼と同じく、長く伸びた亜麻色の髪をしていて、彼と同じように美しかった。名前をタマルと言って、同じくゲシュルの王女から生まれたアブサロムの妹だった。
タマルは彼に菓子の包みを差し出した。彼は喜んで一つ掴むと、口に押し込んだ。
「相変わらず、お前の作る菓子はうまい」
「お兄様にそういってもらえて、私も幸せですわ」
アブサロムとタマルはよく似た顔を見合わせて、お互い笑った。タマルの何よりも得意なことは菓子作りで、特に自分の誇りとする兄に食べてもらうことを彼女は何よりの楽しみとしていたのだ。アブサロムもまた、タマルを何より愛していた。

アブサロムは弓の訓練を切り上げて、妹と散歩を始めた。エルサレムは心地よい春の季節で、王宮の庭には花がいっぱいに咲いていた。タマルはそれら一つ一つをめでながら歩き、アブサロムはそんな彼女を楽しそうに見ていた。
「お兄様、相変わらずの腕でしたわね」タマルは話しかけた。
「ん……?ああ、まあ。何、簡単なことだ」
「お兄様の簡単はほかの人の苦労ですわ」タマルは口元を袖で覆って、コロコロと笑った。「ヨアブ将軍も一目置かれる腕前の持ち主が、お兄様ではないですか。お父上の子供はたくさんおりますけれど、何をおいてもお兄様が一番ですわよ」
「そこまで言うのはやめなさい。兄さんたちに失礼だから」アブサロムは苦笑して妹をたしなめた。
アブサロム自身、自分に自信がないわけではない。また、本音を言えば母親の違う兄たちに劣っているところがあるとも思ってはいない。自分が長子として生まれれば、それが一番ふさわしいのにと考えたこともあった。ダビデの長子であるアムノンはダビデの迎えたイズレエル人の側室との間に生まれた子供である。むろん、彼もまた無能というわけでは決してなかった。ごく一般の人間から見れば、アムノンも武力も容姿も際立って優秀な好青年であることに変わりはなかった。ただ、アブサロムはその上で彼に勝っているという自覚があった。また、父親のダビデにしたってアブサロムの事を他の誰よりも有能だと思っていることを彼はしっかり知っているのだ。アムノンよりも彼に近しい人物の中には、本気で彼こそが次の王に相応しいと思っている者もいる。
しかし、彼はそれを表に出すほど愚かではない。基本的に家督とは長子が継ぐものなのだ。それを差し置いてうかうかと傲慢なことでも言ってしまおうものなら、いつ自分に憎しみが向いてあらぬことになるか、わかったものではない。アブサロムは家臣として、兄たちに仕える自分の未来に不満を全く感じていないわけではないが、それでも妥協できないほどではない。それよりも迂闊な発言で作る必要もない敵を作るほうが、アブサロムにはよっぽど恐ろしいのだ。

「あら、お兄様、ごらんなさいませ」タマルが指を指した。指を指した先には、小さな花畑があった。少し前までには、なかったはずなのだが。
「あんな花畑、あったかな」アブサロムは呟いた。
「いってみましょう」タマルは兄の腕を引き、そちらの方に小走りで駆けた。花畑は少し不自然で、北向きの、常に王宮の陰になっているだろうところに鮮やかに咲き誇っていた。アブサロムはそれを奇妙にも思ったが、妹が意に介してもいないようなので、彼女にさせるがままにさせておいて、自分もそちらの方に急いだ。



「きれいに咲いたね」と、ベリアルがソロモンに話しかけた。
ベリアルのくれたシクラメンはあっという間に数を増やし、ソロモンの北向きの部屋の格子窓のすぐ下にある土地に花畑を形成していた。
桃色、赤色、白、紫などのシクラメンが縦横無尽に咲くのを見つめて、ソロモンは言った。
「そうだな」とソロモンは言った。彼は、日除けのために黒いマントを目を隠すようにかぶっていた。
「お前がくれたおかげだ」
「おや、育てたのは君だよ」ベリアルはソロモンに笑って答えた。
「ボクよりも、育てるのがうまいかも知れない」
「俺はただ、お前の教えるとおりに育てているだけだ」ソロモンは返した。
ベリアルのくれたシクラメンは、普通の花とは少し違っていた。何よりも、日を避けるように咲いた。王宮の北向きの日陰に収まるように、彼らは密生して生えた。日当たりを好まない植物もたくさんありはするが、シクラメンはその限りではないはずだ。にもかかわらずベリアルのシクラメンは日当たりの良いところで育てたそれとなんら変わらすに咲き誇り、驚くような速さで繁殖した。ソロモンはそれを受け入れ、納得していた。ベリアルは人間ではなく天使なのだから、このような不思議なものを持ってこられるというのも無理がないと彼は考えていた。
それに、日の光が苦手なソロモンには非常に都合がよかった。彼らはソロモンに無理に熱い陽光の下に出ることを強制しない。ソロモンとともにひっそりと涼しい日陰にいて、控えめに頭を垂れているだけだ。ソロモンにとって、シクラメンとともにいる時間は居心地の良いものとなっていた。
「たとえボクの言うことを忠実に真似してるだけだとしても」ベリアルも綺麗に咲いたシクラメンを愛でながら言った。「育てたのは君だ。どんな花でも、育てなければ枯れるだけだ」
「ありがとう」ソロモンはベリアルに穏やかに言い返した。シクラメンを育てるのは、彼にとって楽しかった。

しかし、その次の瞬間に彼はビクリと警戒した。足音が二つ、聞こえてくるのがわかった。


足音の方向から現れた亜麻色の髪の二人を見届けた時、ソロモンは無表情で黒いマントにくるまり、花畑の真ん中に座っていた。
「ごきげんよう」彼は淡泊にアブサロムとタマルにそういった。
「ソロモンか」アブサロムはあまり面白くなさそうに言った。てっきり、誰も人がいなくて妹と二人きりで花を愛でられると思っていた当てが外れたからだ。「何してるんだ?そんなところに一人で」
アブサロムの言い分を聞いて、ソロモンは一瞬不可解に思った。しかし、彼が眉をひそめるよりも早くベリアルが彼にささやいた。
「気にしなくていいよ。普通の人間にボクは見えない」
確かに、アブサロムもタマルもベリアルがいるなんて思いもよらないように思えた。シクラメンと同様、これも彼が人ならぬ存在だからこそなせる真似だとソロモンは理解した。

「花の世話をしていました。いけませんか」彼は冷静に答えた。
「世話?お前が?これはお前が育てたのか?」
「そうです」
体全体を覆うマントから真っ白な手だけを伸ばして、ソロモンはシクラメンについた小さな虫を捕まえて、潰した。虫の退治が必要になるかもしれない、とソロモンは思った。薬学を応用すれば、虫を一掃できる薬ができるかも、と彼は考えた。
「勝手に王宮の土地を使ったのか」
「父上様に許可は頂いています。それに、すぐ壁の向こうが私の部屋ですから」
アブサロムはソロモンに少し煩わしそうに「すまないが、少し向こうに行ってくれないか」と言った。「兄妹水入らずの時間というものがほしくてな」
「いやです」ソロモンは言い返した。「ここは私の土地ですから」
「僕たちに出て行けと言うのか?」
「そんなことは言っていません。ただ、私がここを立ち退く義務はないだけです」
ソロモンはそういったまま、また虫をつぶす作業に戻ってしまった。アブサロムはそんな彼を見てタマルに「タマル、気にすることはない。ここにいよう」と、少し困惑気味な彼女に言った。彼女もおろおろしてはいたが、兄に従って、何事もなかったようにその場に膝を下ろした。
「日陰でも咲いてるなんて、珍しいですわね。お兄様」
「そうだな」アブサロムはそっけなく返事した。
アブサロムはソロモンの事が嫌いだった。子供のくせに、嫌に生意気と彼は感じていた。なぜああも生意気な態度がとれるのか、彼には全く訳が分からない。彼はもちろん、ソロモンがマントをとった姿を知っている。その姿を見てぎょっとしたこともある。だが彼が知る限り、人より劣ったものというのはどこかしらおどおどしている。自分のようなとびぬけて優秀な相手を前にすればなおさらだ。ソロモンのような欠陥品は自分の前なら口もきけなくなってもおかしくないと彼は自負していた。自分に比べて、あまりにもこの弟は素晴らしいところというものが存在しないというのがアブサロムがソロモンに持っている率直な感想だった。それだというのに自分にあの口をたたくのか、とアブサロムは不快に思った。
「(もっと身分をわきまえればいいというものを。お前のほかにも弟はたくさんいるし、みんなお前のようじゃなくてまともな人間だぞ。それでも、きちんと僕に敬意を払っている)」
彼は心の中で吐き捨てると、意識をタマルに向けようとした。そして彼女が後ろを向いている隙に彼女の頭に手を添えた。タマルが振り返ると、アブサロムは笑って「タマル、よく似合っているぞ。どんな花でもお前には似合うな」と笑った。タマルも自分の頭に手を触れて何が起こったのか承知したと見えて、うれしそうに兄に笑いかけた。

その言葉を聞いて、ふと、ソロモンの背筋が凍った。彼が振り返ると、シクラメンの花が一輪、タマルの頭に飾られていたのを彼も見届けた。

次の瞬間、二人に対して無関心でいたソロモンがぎょろりと二人のほうを向いて、そばに寄ってきた。
「勝手に摘んだのですか?」ソロモンは言った。マントがずり上がって、赤い目があらわになっていた。
「だからどうした。花の一輪くらい」アブサロムはせっかく彼に対しての注意をそむけようとしたところに当の本人がやってきたことに一層心境を悪くして、先ほどよりもあからさまに不快そうな口調でそう言った。
「私が育てた花ですよ」ソロモンはタマルの頭に刺されたシクラメンを睨みつけて言った。彼が怒っていることが見て取れた。「あなたたちのものじゃない」
「男だったらこのくらいでグタグタ言うんじゃない」
アブサロムは不快そうだった。しかし、ソロモンも同時に引き下がれないほどの苛立ちをアブサロムに感じていた。シクラメンを奪われることに、心が痛んだのを彼は自覚した。
「人のものを勝手に取ることが悪い事であるということに男も女も関係ありますか」
アブサロムは次第に苛立ってきた。「子供のくせに無駄に屁理屈を言うな!」と彼は怒鳴りつけて、彼のマントに手をかけた。留め金はあっという間に引きちぎられ、アブサロムはソロモンの黒いマントをはぎ取った。
ばさりと、無造作に伸びた白い髪があらわになる。タマルはヒッと声を上げた。
「邪魔だ、出て行け!」
アブサロムは彼を日向に押し出した。

日向に出た瞬間、ソロモンの目にすべてを覆い隠してしまうほどの強い光が降り注いだ。無数の矢に襲われたかのようだった。彼の目は光に非常に敏感なのだ。彼は目をつぶって深くうつむいた。
マントに守られていない白い皮膚が痛みだす。少しずつ、少しずつ、日の光と熱に焼かれていくのがわかった。「返してください」彼は言った。
アブサロムは彼のマントをヒラヒラさせて「返してほしけりゃとってみろ」とあざ笑うように言った。
「それは私の育てた花です」再度、彼は言った。日に焼かれる痛みで、声を震わせながらだった。
「だから、一輪くらいで何を言っているんだ。全部燃やしてしまったわけでもあるまいし」アブサロムは、「お前がいると不愉快だ、とっとと出ていけ!」と怒鳴った。

不意に、アブサロムの手から黒いマントがふわりと離れ、風に乗るかのようにひらひらとソロモンのもとに覆いかぶさった。ソロモンはさっさとそれをまとい、目元を光から隠すと、立ち上がって目を開けた。目の前には、ベリアルが立っていた。
「ありがとう」とソロモンは小声で言った。ベリアルは「どういたしまして」と笑って言い返した。
「ついでに、これも返してもらおうか」
ベリアルは数歩のうちに自分に気が付かないタマルに近づき、彼女の頭から一輪の花を払いのけた。シクラメンはふわりと自分の仲間たちのもとに戻り、そして力なく倒れた。
ベリアルはくすくす笑った。アブサロムは何が起こったのかわからず、あっけにとられているようだった。
ソロモンは再び日陰の花畑に歩み寄って、「返してくださりありがとうございます」とアブサロムを見上げて呟いた。
アブサロムは戸惑いの表情からすぐ苛立ちの顔に変わり、「お前の花園になどもう来るか」と吐き捨てて、ぼうっとしているタマルの手を引いて乱暴な足取りで去っていった。
「ああ、それはこっちが頼みたいくらい!」ベリアルが言った。その言葉を聞いて、ソロモンはベリアルの顔を見た。二人はくすくすと笑いあった。


「ひどいことするね」ベリアルは摘まれたシクラメンをくるくる回してそう言った。
「花だって、体を真っ二つにされれば死ぬほど痛いんだってこと、わかってないよね。人間って」
「やはり、そうなのか?」ソロモンはベリアルの言葉に興味深そうに問いかけた。
「体のつくりが違うからね、人間や動物が感じる痛みとは厳密には少し違うものかな。それでも、苦痛には変わりないよ」
彼は土に小さな穴を掘って、シクラメンをその中に埋めた。
「あのアブサロム、嫌な奴だね」彼は言った。
「そうか?お前がそう言ってることを知ったら誰もかれも驚きそうだな」ソロモンはアブサロムが消えた方向を見て、つぶやいた。「あれは神に愛された王子、と言われているぞ」
「知っているよ。でも、神様に愛されてようと愛されてまいと、嫌な奴であるって言うのは別の問題だろ?少なくとも、ボクはあいつを嫌いだよ。君の友達だから」
友達、という言葉に、彼はさりげなく感情を込めた。
「あの兄が俺に厳しいのは別に今に始まったことじゃない、第一、俺も大概生意気だからな」
「美しくて、強くて、賢くて、そんな一見誰にでも好かれる存在が陥りやすい罪がある」ベリアルはソロモンの耳元に顔を寄せて言った。
「傲慢だよ」
片手でシクラメンの埋葬を終えた彼は、そのままソロモンの前に膝立ちになってそう語った。
「彼、君が反論する権利を、心の中で認めていないんだよね。そもそも彼の偉大さの前に口もきけなくなるくらいで順当とか思ってる」
「……だろうな」
「君が人間である限り、そんなことないのにね。遠慮するべき、程度ならまだしも、そんな自分が人間以上の存在みたいに」
「俺の事は人間以下だと思ってるんだろ」
「そういうことだね。何が人間以上か、以下か、そもそもどこからどこまでが人間なのか、当の人間にわかるはずはないのにね」

ソロモンはシクラメンの墓を見つめて、自分も小高く盛り上がったその上に手を置いた。
「シクラメンは謙虚だから、いいな」
「うん。花の中では、一番謙虚だよ」
ソロモンはそのまま、じっとまだ咲き誇るシクラメンを見つめた。彼らも、仲間の死を悼んでいるかのようだった。
「ソロモン」ベリアルはそんな彼に背後から語りかけた。
「君はシクラメンを愛しているんだね」

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feat: Elijah  第三話

彼を見つけたのはオバドヤという名前の宮廷長であった。アハブは彼に、まだイスラエル国内で残っている水源地や牧草地帯の調査にあたらせていたのだが、そんな彼が急に帰ってきて言った言葉が、ハイファの地でエリヤを発見した、と言うことである。
腕利きの斥候でも見つけられなかった彼が見つかったことにむろんアハブは驚いたが、疑う心の余裕も残ってはいなかった。彼はイゼベルとともにハイファに向かった。ハイファに差し掛かるころ、エリヤは馬車を待っているかのように悠々と枯れた大地に腰かけていた。自分の家であるかのように彼は自然に荒野に鎮座していた。

ハイファについて彼を見るや否や、アハブより先にイゼベルは金切声をあげて衛兵に彼をとり押されるように命じた。「死刑にしておしまい!」と彼女は叫んだ。
エリヤは衛兵にあっという間に押さえつけられてしまったが、それでもなお余裕の表情で「おいおい、俺が何したってんだよ」と言った。
「なにをいけいけしゃあしゃあと!イスラエル全土に呪いをかけ、バアル様の力を封じ込め、何人もの群衆を殺した殺人鬼のくせに!」
「イスラエル人が死んだことには俺も追悼の意を示すぜ」彼は言った。「神様だって辛いはずだ」
「お前がやったことです!」
「違うね、俺は何もしちゃいねえ、神様がしたことだ。馬鹿にゃ見せなきゃわからんからな」
イゼベルは完全に興奮状態になり、「死刑にしなさい!今すぐ死刑に!死刑!」と怒鳴り散らした。アハブは急いで彼女に「まあ、落ち着きなさい」と言い、エリヤに向かい合った。
「お前が、イスラエルを煩わすものかね」
「俺じゃなくてあんたらにこそ、その呼び名はふさわしいんじゃねえのか。俺たちは神様に救われた民だろ。なのにそのことも忘れて、神様からもらった戒めを棄てて、あんたらはバアルなんていう異国の神に従っている」
アハブはその言葉には特に言い返さず、言葉を続けた。
「エリヤとやら。このたびの干ばつの被害は甚大だ」
「おうよ」彼は当然のように言い返した。
「この干ばつをお前のせいだということもできる。また、お前の責任だからお前が何とかしろと命じることも、私にはできる。だが、それ以前に、気になることがある。三年前にお前は、自分が私たちのもとに現れる時、イスラエルの干ばつは終わるといったな」
「ああ、言ったね。確かに」
「今すぐ、干ばつを終わらせられるというのか」
「終わらせるんじゃねえ。そもそも神様が干ばつをそろそろ終える、っつったから、それを伝えるために俺がここにいるんだ」
「では」
アハブがそう言いかけた途端、イゼベルが怒鳴り散らした。
「わが君様!魔術師の言い分なんぞに言葉をお貸しなさるのですか!お前、お前はバアル様を侮辱し、イスラエルを絶望に追いやった殺人鬼です!王家はイスラエルのため、イスラエルを守るためお前を殺す義務があります!」
「考えること止めてんのか?王妃さんよ」エリヤは嘆息してそういった。
「俺を殺してなんになる。第一、お前の大切なバアル様はこの三年、雨の一滴でも振らせてくれたのか?」
「バアル様の力を奪ったのもお前です!」
「人間ごときに力奪われるようじゃ最初から神でも何でもねえんだよ」エリヤはイゼベルを睨みつけてそう言った。
「おだまり!」
イゼベルはヒステリックにわめいた。
「バアル様を侮辱して!もし本当にお前の神が神だというのなら、その力をお見せ!今すぐに!」
彼女はアハブの制止も聞かずに、あつらえられた椅子から立ち上がってエリヤに詰め寄った。
「ああ、いいぜ」エリヤも負けずにイゼベルに噛みつくように言う。
「なんならあんたらの神官と勝負して見せてもいいんだぜ?そしたらどっちが正しいかっつうのもはっきりするってもんだ」
アハブはお互いに一歩も引かないイゼベルとエリヤの間に口一つはさむことすらできなかった。宗教のために人が意固地になるということはもちろん彼は知ってはいるが、ここまで熱心な二人が揃うとこうも面倒なものかとアハブは嘆息した。

結局エリヤの挑発に乗ったイゼベルのおかげで、数日もせずその勝負とやらが開かれることになってしまった。イゼベルのもとにつくバアルの神官団も彼女に負けず劣らずバアルに心酔しているものたちだったので、誰もかれも乗り気でエリヤに敵意を向け、アハブは一人だけ冷める自分に疎外感すら感じた。
「集められるだけのイスラエルの民と、イゼベルのお気に入りのバアルの神官全員」をカルメル山に呼び寄せるというのがというのが、エリヤとイゼベルがそろいもそろって出した条件だった。アハブは配給のついでと思い、水とワインとパンを用意してイスラエルの人民に来るよう呼びかけた。予想以上に大勢の人々が押し寄せた。
イゼベルの神官団は四百五十人にのぼり、皆大挙してハイファにやってきた。
彼らは一人だけのエリヤを笑ったが、エリヤも負けじと彼らににやりと笑い返した。エリヤは人々の中に潜り込んで、王宮の時のようによく通る声で叫んだ。
「あんたら、いつまでどっちつかずのままでいるんだ?」

彼の発言は、三年前と全く変わり映えのしない勢いを持っていた。その証拠に、配給にがっついていたイスラエルの人民は皆食べることをやめ、吸いつけられるように彼に視線を集めた。
「ここ三年間、あんたらはもともとのイスラエルの神はもちろんのこと、あんなに熱心に信じてたバアルの事も信じるのをやめたな。結局あんたらの中で神って言う存在はいるのかいねえのか、神はイスラエルの主なのかバアルなのか、全くはっきりしやがらねえ。だからよ、今ここにいるバアルに仕えるバアルの神官団どもとイスラエルの神に仕える俺がどっちの神が本物なのか、あるいはどっちも存在しねえのか、それを見せる。バアルが本物だってわかったなら、それが真理だ。そっちに従えばいい。そしてアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が本物だってわかったなら、昔通りの信仰に戻って、またイスラエルの主を崇めるべきだ。そうじゃねえのか」
誰も、一言も言葉を発しはしなかった。エリヤはさらに続けた。
「そこでだ!雄牛を二頭、用意して貰いたいんだ。奴らに一頭、そして俺に一頭」
彼は一段上がったところに積み上げられてある薪の山を指さした。予めエリヤが用意していたものである。
「奴らと俺が、それぞれ雄牛を神への生贄に捧げるとしよう。ただし、普通とは違って生贄を焼く火は使わねえ。神が本当にいるんなら、そんなもの使わなくても生贄の一つくらいは食べられると思わねえか?」
彼をそう言って、少し少年らしさの残る笑顔をイスラエルの人々に向けた。人々はその言葉を聞き、しばしの間顔を見合わせた。
「面白いんじゃないか」誰かがそういった。やがて他の人々も乗り気になり「面白い趣向だ、ぜひやれ」とはやし立てた。誰もエリヤの言葉を真に受けているわけではなかったが、ただなかなかどうして面白そうではあった。本当に神が直接捧げものを食べられるんなら、ぜひ見たいもんだな、とはやし立てる声が上がった。ただでさえ、三年の間笑顔というものはイスラエルから消え去っているに等しいのだ。はしゃげるのならば、人々は何でもよかった。それに、皆どちらも牛を本当に生贄にできるとは思っていないのだから、牛を食べることができる、程度にも考えていた。「俺のを使え」と急いで牛を引っ張ってこようとする近場の農家の男にエリヤは礼を言った。
「それでいいか、あんたら」と、礼を言い終わった後エリヤはバアルの神官団に振り返って言った。
「かまわん。バアル様に不可能はない」
「そうかい。じゃ、あんたらのほうが大勢だから祈りも届きそうなもんだし、あんたらが先にやんな。俺はちょっくらすることがあるんだ」
エリヤはそういうと、少し離れたところに行き、一人で何らかの作業を始めてしまった。


エリヤが何を始めたのかいぶかしがりながらも、バアルの神官団は例の農家の男が引っ張ってきた雄牛を受け取ると手際よく屠殺し、薪の上に載せて、あらかじめ運んできたバアル像を設置して祈りの場を整えると祈りの儀式を始めた。
「偉大なるバアルよ」彼らは祈りの文句を唱え始めた。
「我々に答えてください。この捧げものをお受け取りください。あの傲慢な異教徒の男をのさばらせませぬよう」
バアルの祈りはかなりの激しさを伴うものである。彼らはただ祈るだけではなく、歌い、踊り、そして叫ぶように祈った。
祈りがエスカレートしていくにつれ、彼らは楽器の激しい演奏に合わせて刃物で彼ら自身の体を傷つけ始める。これも、伝統だった。痛みの中でこそ神と一体化できると彼らは常日頃言っていた。大声と喧騒、狂乱状態の祈りの中、彼らは何度も何度も、バアルの名前を叫び続けた。
「バアルよ、我々に答えてください」四百五十人の祈りが一斉に湧き起こる。何回も、何回もだ。

だがしかし、何も起こらなかった。
バアルの神像は何も答えず、ただそこに鎮座していた。屠られた雄牛もただ祭壇に上にあるだけだった。
音楽が少し止みはじめたころ、民衆の中から野次が飛んだ。
「おいおい、おったいいつになったらバアルは答えてくれんだ?」
それを皮切りに、一気に野次は激しくなった。「そもそも祈ってくるもんなら、ここ三年の間に雨の一つでも降らしてみろってんだ!」「とっととその牛食わせろ、腐っちまうぜ」「お前らみたいな男どもの踊り見ても、なんも楽しかねえな」彼らはしたたかワインに酔って、そうはやし立てた。
彼らのヤジのおかげで、もうバアルへの祈りどころではなくなった。
イゼベルは「なんと下品な!」と不快そうにしたが、その声は民衆のヤジにかき消されてしまった。
「ははは、バアルは牛を食う気分じゃねえのかな。それとも意外と人見知りなのか、あるいはぶらっと旅にでも出ちまっているのか。それとも昼寝してるのかもしれねえな。相当寝起きが悪くて、こんな音でも起きなかったり」
不意に、そんな声が聞こえた。民衆たちはどっと笑って「そうかもしれん!」「バアルのかみさんは大変だろうな、毎朝旦那を起こすのに」とはやし立てた。
「はは、ま、バアルは神らしいからな、呼べば聞こえるんじゃねえのか、呼べば」
そういいながら現れた例のからかい声の主は、エリヤだった。ようやく自分の作業を終わらせたと見えて、作業に使ったと思しき例の杖は泥がたっぷりついていた。

「エリヤ、貴様!」バアルの預言者たちは叫んだ。
「どうする。まだ続けるかい?お前たちがいろいろやってる間に俺の方の準備もできた、いつでも大丈夫だぜ」彼は笑って、自分のぶんの雄牛に近づいた。
「手伝うか?」
「ありがとな、自分でやれるから大丈夫だぜ。でも刃物は貸してくれるか」
エリヤはあっという間に大きな雄牛を押さえつけ、男から借りた短剣ですぐさま数か所を切り裂き、暴れる間もなく絶命させた。なかなか見事なもんだな、と言われて照れくさそうにエリヤは笑った。
「さてと、俺の祭壇はこっちだ。ついてきたい奴はついてきな」エリヤは雄牛を引きずると、民衆に言った。彼らはもはやバアルの預言者たちには興味を無くしていて、興味津々にエリヤの後についてきた。

彼が指差した先は、少し高いところに設置された、ほとんど壊れた石の祭壇だった。それをエリヤがなんとか周りの石でなおしたらしく、ごつごつしてて不揃いではあったが一応祭壇の体裁は整っていた。石は十二個で、ちょうどイスラエル中に部族の数と一緒だった。また、祭壇の周りにはエリヤが自分の杖で堀ったと思しき溝が掘ってあった。
エリヤは雄牛を薪を積んであった祭壇の上に乗せると、「水瓶を持ってくるから、手伝ってくれねえか。溝を水で満たすんだ」と周りの人間に言い、自分は水瓶のある場所に行った。物好きな若者数人が、彼の後について行って、水瓶を運んだ。
彼は祭壇の上に水をまいて、溝に水を流した。「もったいねえな」とヤジが飛び、エリヤはそれに「すまねえな」と軽く返した。
エリヤは太陽を一度見上げると、祭壇のそばに立ち、民衆に呼び掛けた。
「あんたら、これがなんだか、知っている奴はいるか」
急に、彼は今までのおどけた表情から打って変わって、真剣な表情になった。
「これは主の祭壇だ。つい二十年も昔には、まだ使われていた。でも今ではこのザマだ」
エリヤはボロボロになった祭壇を指さして言った。
「ボロボロになったのは、この祭壇だけじゃない」
彼は睨みつけるような目つきで語った。
「何人も、死んだ。バアル信仰を広めるために邪魔という名目で。今、この場にきているバアルの神官は四百五十人。それ以上が死んだ。イゼベルに殺された。ただ、先祖の神を守っていただけで、殺されたんだ。俺みてえに生意気な真似もしりゃしなかった。ただ祈って、子供たちに律法を教えていただけで殺された。バアルを信じねえだけで殺された。なんてこたあねえ、ここ数十年の話だ」
エリヤのぼろぼろの頭巾が風に大きくなびいた。「はっきりさせようじゃねえか。この祭壇がこうなったことに、何百人も死んだことに、理由はあったのか」
彼は大きくなびいた頭巾を翻して祭壇のほうに向かい、響き渡るような重々しい声で叫んだ。
「アブラハムの神、イサクの神、イスラエルの神!主よ!貴方がイスラエルにおいて神であらせられることを、俺が貴方の僕であり、全ての事を貴方の御言葉によって行ったことが、今日明らかにならんことを!俺に答えてください!主よ、答えてください!そうすればこの民衆たちは、主よ、貴方が神であり、彼らの心を元に返したのは、貴方であることを知るでしょう!」
その祈りの言葉が終わると同時に、激しい光が目の前に降ってきた。稲妻だった。
凄まじい音を立てて、大きな稲妻が空から降り注いだのだ。空には雲一つないというのに、稲妻が沸き起こった。そしてそれが、彼らの見ている前でエリヤの築いた祭壇に直撃したのだ。祭壇は一瞬のうちに燃え上がり、たちまち牛は焼けこげ跡形もなくなった。溝に流した水すらも、あっという間に蒸発した。

何が起こったのか、民衆たちは最初、理解できなかった。熱、光、音、全てが信じられないほどの大きさで、彼らの目の前に巻き起こったのだから、無理もない。しかし、しばらくして彼らが認めたのは、燃え上がる祭壇と、それを見つめるエリヤの姿だった。
彼らは、野次を飛ばす気にはなれなかった。稲妻の衝撃が、彼ら全員を体の芯から揺さぶっていたのだ。彼らは全員、腰を抜かした。
「主こそ神だ」
ふと、長い髪を三つ編みに編みこんだ一人の少年が言った。
「主こそ神だ」彼はもう一度、言った。それに共鳴するように、「主こそ、神だ」と恐る恐る言う声が一つ、二つと増えていった。
「主こそ神だ、主こそ神だ、主こそ神だ」やがて全員がそう言い始めた。彼らは腰を抜かしたままそこに跪き、燃え盛る祭壇を崇めた。


「決まったな」
エリヤはバアルの預言者たちを睨みつけると、その場に立ち尽くしたまま、彼らにも聞こえるはっきりとした声で言った。
「一人も逃がさん」彼は怒りをあらわにして言った。そして、天を仰いだ。
それと同時に、いくつもの稲妻が巻き起こった。逃げる暇さえ与えられず、バアルの預言者たちは次々に稲妻に打たれて倒れていった。全く瞬間的な出来事だった。彼らの死体は枯れ川のキション川に転がっていき、次々と折り重なった。
世界を飲み込まんとするほどの轟音と閃光の降り注ぐ中、エリヤは稲妻を自在に操るように預言者たちを打ち続けた。
最後に、バアルの神像が残った。最後の最後に稲妻に打たれたそれは、全く何の抵抗もすることがなく、粉々に砕け散った。


エリヤはフラフラと歩くと、アハブのもとにやってきた。
「アハブ」彼は少し、疲れたように言った。
「落ち着いたら、あの余った方の牛食べて宴会でもやんな。俺はちょっくら行くところがある。雨の音が聞こえるんだ」
そういうと、彼はまたお辞儀もせずに彼のもとを去っていった。イゼベルは彼を殺意のこもった眼で睨みつけたが、彼は一瞬その視線を受け止め、さっさとどこかに行ってしまった。信じられないほどの早足だった。



その後、アハブ達が牛を食べていると、激しい豪雨が降り注いだ。三年間降らなかった分の水を一気に落としたかのような大豪雨だった。アハブはひとまず別邸のあるイズレエルまで帰ろうとし、神官団の死体をぼんやり見つめているイゼベルを引っ張って急いで馬車に乗ったが、突然の雨に気を取られて馬車は思うように進まなかった。
ふと、馬車のそばを何か風のようなものが駆け抜けていった。あまりに速かったので、アハブは野生動物かと思ったほどだ。
「エリヤですわ」イゼベルが言った。
「エリヤ?」
「ええ、エリヤが今、私たちの馬車を追い抜いて行った」
イゼベルはこの世の憎しみというものを一身に集めたかのような表情で、すでに見えなくなったエリヤを睨みつけた。
「覚えておいで、エリヤ。お前も殺してやるから。私の可愛い彼らと同じ、いや、それよりも惨い殺し方をしてあげるから」

後日、イゼベルはイスラエル全土に、エリヤを見つけ次第殺せと命令した。エリヤはまた、姿をくらましてしまった。降り続く雨は彼の行く手を隠しているかのようにも、アハブには何となく思えた。

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feat: Elijah  第二話

アハブのもとにエリヤと名乗る男が来た時、彼は驚いた。王宮にこんな男が来るなど到底許容できることではない。彼が裸足でずかずか遠慮なく踏み入ったおかげで絨毯に砂の色の足跡ができている。彼はビリビリに破けた毛皮の着物とケープを着て皮の帯を締め、土埃にまみれたボロボロの長い布を頭巾にして頭にかぶり、長くて太い木の棒を杖代わりに持っていた。隣に座る王妃イゼベルなどは彼の汗と砂ぼこりの混ざったようなひどい臭いに耐えきれないらしく、あからさまにいやそうな顔をして袖口で顔を覆っている。どこからどうみても、王宮に入る身分の身なりではない。
ただ、乞食のように思うには彼には違和感があった。一口にいえば、妙に小ざっぱりした印象があったのだ。彼の体を洗ってやって貴族の服を着せたなら、誰もが彼を生まれつきの貴族だと認めるような、不思議な気品があった。
彼は止める衛兵を振り切って、アハブの目の前まで歩いてきた。
「アハブとやら。イスラエル王としてのあんたに言っておかなきゃならねえことがあってやってきた」
彼の言葉は品がなかった。意図的に礼儀を無視してアハブ達を挑発しているというよりは、それ以外の言葉、宮廷で使うべき洗練された丁寧な言葉づかいをただ知らないだけといったような感触が何となく聞いて取れた。おまけに、彼の言葉はかなりなまりが強かった。ギレアド地方のなまりだった。
「『神は生きておられる』とな」
それだというのに、彼の言葉は非常に重々しく響いた。王宮中に響き渡るほどはっきりとした言葉だった。

「なんだと?」アハブはようやく、口を開いた。
「言ったとおりだ。あんたらはエジプトから俺らのご先祖を連れ出してくださった神様を棄ててバアルなんぞという偶像神を何年も前から崇めているじゃねえか。まるで神様が死んじまったかみたいによ」
彼はイゼベルの背後にあるバアル像を人差し指で突き刺した。
「だが、そうじゃねえ。俺の仕えるイスラエルの神は……主は、生きておられる」
「そう言う貴様は何者だ」
「俺か?俺の名前はエリヤ。俺は神に仕えて生きている、神に生かされている身だ。それだけだ。それ以外には、俺に何も言うことなんぞありゃしねえ」
彼はそういって、アハブを睨みつけた。鴉の羽のような、少し青と緑のかかった、黒い瞳だった。不思議な色だとアハブは感じた。

「わが君様」ふと、アハブの左に座るイゼベルが、今まで黙っていた口を開けて、物々しげに言った。
「乞食坊主の言うことごときに耳をお貸し召さりませぬよう、頼みますわ。そこの乞食坊主、学のないお前に教えて差し上げましょう。我らが主はバアル様にほかなりません」
「そりゃあんたの国の話だろうが。死んだ神を崇めているあんたらの。ここはイスラエルだぜ、あんたの国は関係ねえよ」
イゼベルは憤慨して言い返した。「バアルは死んでおられる!なんとまあ大それたことを!バアルは生ける我らの主です!その証拠に、バアルは恵みの雨を降らし、我々の生活を豊かに支えてくれているではありませぬか」
「はぁ、何を言ってんだ!?バアルを崇めてない地域には雨が降らねえとでも思ってるのかい!?『乞食坊主』でも知ってることだぜ、王妃さんよ」
挑発気味にケラケラと笑って見せるエリヤにイゼベルは「なんとまあ、品のない……」と頭を抱えた。
「よいですか?バアル様は真理なのですよ。バアル様は寛容であらせられます。だからこそ、自分の存在を知りもせず偽りの神を崇めている愚か者の下にも、慈愛の雨を降らせてくださいます。バアル様にとって人間は何を崇めているかなど大したことではございません。ただバアル様が天におられ、我らに恵みを下さるだけの事なのですから」
「王妃さんよ。あんたの国でバアルがどれだけ完璧な神なのかはよく分かったぜ」
エリヤは手に持った杖をガッガッとならし、攻撃的な口調で言った。
「俺も俺の仕えるイスラエルの神がいかに完璧で全能か、あんたの前で語ってみることもできる。だがよ、イスラエルの神やバアルに限らず、神を信じてる人間の言うことなんてだいたい同じもんだし、言葉だけなら何とでも言える。このまま話し合うのも水掛け論ってもんだろ?アハブ、俺が神様から預かってきた言葉はもう一つあるんだ」
エリヤはまた人差し指を突き出すと、まっすぐに上の方向を指さした。
「神の言葉だ。今を持って、イスラエルに雨は降らん。露の一滴もイスラエルの大地には落ちねえ。何年かして、俺が再び神様の命令であんたらの前に現れるまでは」
そして、指をぱちりと鳴らした。王宮中の壁に反響したかのように、その音は響き渡った。

彼の指の音の響きが止んだころ、アハブは言った。
「大それたことを言うものだ」
「乞食坊主、お前は現れないでしょうね。恥のために」イゼベルも笑った。「もっとほかの事にすればまだうまくイスラエルの群衆をペテンにかけ、私たちにたかることもできたでしょうに、よりによって雨ですって?お前ごとき人間の魔術は、バアル様には通用しませぬ。バアル様はお前の浅はかな呪いには屈しませぬ。いつでも、私たちに雨を恵んでくださることでしょう。そして、お前とお前の神は恥をかくことになるのです。お前は神の僕ぶって、その実神の顔に泥を塗ることになるでしょう」
イゼベルは再び高らかに笑いあげ、「もう良い。もうたくさん。下がらせなさい。この男の何もかもが我慢ならなくって」と、衛兵に合図した。その合図を受けて、あわてて衛兵がエリヤを立ち去らせようと彼に近づいたが、彼は余裕たっぷりに「出迎えはいらねえよ。俺が預かってきた言葉は以上だ、どうせもうすぐ帰る」と言った。
「だがよ、最後に言っておかなきゃならねえことが二つある。一つ。俺は魔術なんぞ使えねえ。俺がもし魔術を使えたら、あるいはバアルの力にやられてるかもしれねえな。だがこれから起こるのは神の業だ。人間の業じゃねえ。真実の神の業だ。そこんとこ覚えとけ。それともう一つ。……イゼベル。さっきの言葉、そっくりそのままあんたに返すぜ。もしこれで雨が降らなけりゃ、あんたはバアルの忠実な僕ぶって大口叩いといて、バアルの顔に泥塗ることになるだろうよ」
そうはっきりと言い切ると、エリヤはお辞儀ひとつせずに、勝手知ったようにつかつかと帰っていった。


彼が帰った後、怒りと苛立ちに打ち震える妻をひとまず置いておいて、アハブは外の様子を見ることにした。朝はそれなりに出ていた雲が、一切れもなくなっていてただただ真っ青な空が広がっていた。それは彼の心に、一抹の不満を植え付けた。



彼の言葉通り、ちょうどその日から、雨は一滴も降らなくなった。雨季が訪れなくなった。
畑はあっという間に干からび、飢饉が起こり、餓死者が大量に出るまでにまる一年もかからなかった。アハブは急いで国外から水と食料を輸入し、王宮でそれを配給した。いくら輸入しても足りなかったため、王国の国庫すら傾きかけてきた。
アハブの脳裏には、ほどなくして常にエリヤの顔が浮かぶようになった。干ばつが続けば続くほど、彼の言葉が現実味を帯びてアハブの頭の中に反響した。
まる一年もするころには、エリヤの言った「神は生きておられる」という言葉が何回も何回も、アハブの頭の中で繰り返された。
死者は次から次へと出る。国を逃げ出していくものも後を絶たない。イゼベルはバアルの祭司たちに休みなしに雨乞いを強いているものの、バアルからの返事は一切なかった。二年するころには、アハブは精神的に追い詰められ始めてきた。
国民はもはや、バアルを信じなくなってきた。イゼベルはそのことを不満に思って感情的にアハブに当たり散らす。そのことがかえって、彼の精神をまいらせた。

イゼベルは彼がシドンから迎えた妃である。シドンとイスラエルの友好的な関係を結ぶための政略結婚であったが、彼女は稀有な美人であったために、アハブは彼女を煩わしく思ったことは一度もなかった。また、彼女も夫をないがしろにすることはなく、彼らは非常に仲睦まじい夫婦だった。
ただ、イゼベルはこだわりの強い女だった。一度こうと決めたら引き下がらないところがあった。そしてそれが最も顕著だったのが、彼女のバアルに対する信仰心だった。
彼女はシドンでも珍しいほど熱心なバアルの信者だった。それゆえに、彼女はイスラエルの神を認めず、嫁いできてからもバアルを信じ続けた。それだけならばまだよかった。彼女はバアルを信じない人間がいるという時点で、どうしても我慢のできない質だった。彼女はアハブに、バアル信仰をイスラエルの国教にすることを強いた。イスラエルの全国民がバアルの信者でなくては納得がいかないというのが彼女の言い分だった。なぜならばバアルは絶対の存在であり、バアルを信じないなど生きているのもおこがましい事の不敬であり、また同時に酷い不幸であると彼女は信じ切っていたのだ。アハブは勿論、二つ返事で了承したわけではない。もともとイスラエルはイスラエルの神を崇める宗教を中心としてできた国なのだし、信仰の変更は国のアイデンティティを揺るがす行為に他ならない。また、熱心な信徒の老人たちの反対も招くことになることは、安易に予想はついた。
しかし、彼は結局、押し切られてしまった。何も妻可愛さのためだけではない、と彼は彼自身に言い聞かせた。元から彼は、イスラエルにはもう少し柔軟さが必要だと思っていたのだ。今やイスラエルは北と南に断裂してしまい、かつてのソロモンの時代のようにオリエントに名だたる帝国ではなくなってきている。イスラエルが生き残るためには他国との関係が必須なのだし、時には彼らにある程度譲歩しなくてはならない場面も生じるだろう。そのためには、異国文化に寛容であることをアピールするのは決して無駄ではない。そうアハブは心の中でつぶやき、イゼベルの宗教改革を黙認した。
イゼベルの手腕は大したもので、彼女はシドンから呼び寄せたバアルの神官団を中心にあっという間にバアル信仰を国民の間に浸透させ、若い世代はたちまちイスラエルの神よりもバアルのほうをリアリティのある神として認知するようになった。アハブもいつの間にかイゼベルの勢いにのまれて、バアルを本気で信じるようになってきていた。

そんなある日、あのエリヤが彼の目の前に現れたのである。
アハブの心から、彼の「神は生きておられる」の言葉が取り払われる日はなかった。イゼベルは返事を与えてくれないバアルに絶望し、またどこにいるかもわからないエリヤを口汚くののしった。ここまでむごい仕打ちをして心も痛まぬ、人殺しの邪悪な魔術師、姿をあらわしたが最後必ず死刑にしてくれる、と毎日のように言った。当のエリヤはあれから雲隠れしてしまい、アハブ達も斥候を使わして随分調べたのだが、誰も彼の居場所をつかんでくることはできなかった。それどころか調べれば調べるほど、エリヤという人間の正体がわからなくなってきた。
彼の言葉は強いギレアド地方、特にティシュベのなまりがあったのでそこの出身だろうと目星は付けていたものの、ギレアドに行っても誰も彼に連なる人物は確認できなかった。親が誰か、どのような家系か、なに族の生まれなのか、エリヤにまつわる情報は何一つ得られなかった。そして無論、それはほかの地方に行っても同じだった。
何をやっても、解決の糸口が見つからない。ただ、いつ帰ってくるかもわからないエリヤを心待ちにする以外の選択肢が日に日に無くなっていった。
この圧倒的な絶望こそ、まさに神の所業と言うに相応しいのかもしれない、とアハブは考えた。イゼベルはエリヤが邪悪な魔術を使って、偉大なバアルを信じない彼の愚かなエゴのために民衆を殺しているのだと言い張って聞かなかったが、アハブは日に日にこれがエリヤの力ではなく神の力なのだと信じるようになってきた。このような絶望が、人間の手によってもたらされるものなのだろうか、と。人間の所業とするには、あまりに絶望は深く、強大だった。これを神の怒りと言わずしてなんというべきなのか、と、彼は思った。
南のユダ王国から水を輸入してきた商人から、アハブは不思議な話を聞いた。彼は雨雲がイスラエルとユダの国境に沿って、すっぱりと切れていたのを見たらしい。ユダの側には大雨が降り注いでいたにもかかわらず、イスラエル側は日がギラギラと照りつけて、ユダ側に降っている雨の一滴も流れては来なかったそうだ。
その話を聞いて、アハブは眩暈がした。外から聞こえてくるバアル神官団の雨乞いの声が、ひどく彼の耳を煩わした。


その日から丸三年立った日、エリヤは三年間の捜索をあざ笑うかのように、あっさりと彼とイゼベルの目の前に姿を現した。

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feat: Solomon 第二話

すっかり夜も更けて宴会騒ぎも終わったころ、ソロモンはようやく筆が乗ってきた。何本も蝋燭を付け替えて、図形を描き続けた。
彼は今、建物の彫刻のデザインを考えていた。抽象的にするか、写実的にするか、いくつものデザインが降って湧いてくる。モチーフは何か、動物か、植物か、全くの幾何学模様にしようか、彼はアイデアを出てきた先からパピルス紙に熱心に描きつづけた。
真っ暗ではあるが、眠気は全く感じない。そもそも、彼は夜のほうが起きていられた。太陽の光が嫌いなのだから、当然と言えば当然の話だ。
こうやって真夜中にデザインを描いているときが一番楽しかった。二番目が、昼間に描いているときで、三番目が本を読んでいるときだ。
ふと花の模様、というアイデアが彼の頭に舞い降りてきた。浮かんだアイデアの中で、それが一番いいように思えた。彼は新しいパピルス紙をつかむと、頭に浮かんだとおりの花の模様を緻密に描きつける。ろくに外に出ない彼は、本物の花などそう見る機会はない。しかし、彼の頭の中には花があった。花の浮彫彫刻が鮮やかに踊っていた。彼は花びら一枚一枚はもちろん、雄蕊に、雌蕊、花粉一粒に至るまで鮮明に描いた。みるみるうちに一枚のパピルス紙が埋め尽くされていく。この瞬間こそ、彼にとっての至福だった。

やがて、彼はパピルス紙を花のデザインで埋めつくした。

その瞬間、彼の部屋に光が巻き起こった。光源がなんなのかもわからず、部屋全体が突き刺すような鮮烈な光に包まれた。ソロモンは驚いて目をつぶった。
やがて彼が恐る恐る目を開けると、薄暗い部屋を柔らかく照らすかのように、優しく光り輝く何かが彼の目の前に立ちすくんでいた。

それは一人の人間のように思えた。男とも女とも見分けがつかなかった。薄い真っ白な衣を着てはいたが、その上からでも分かるほどほっそりとした華奢な体をしていた。傷一つない透き通るような柔かそうな肌の持ち主で、頬のみをほんのりと薄紅色に上気させていた。慈愛に満ちた穏やかそうな空色の目は見たこともないような長いまつげに縁どられていた。眉毛は整った三日月形だ。星の光を思わせるふんわりと軽そうな薄い色の金髪は編みこまれていて、頭の上には淡い色の花冠が乗っていた。白い胸元とはかなげな手首は真珠で飾られていた。手は今まで力仕事などしたことがないのだろうというほど滑らかで、指は細長く、桜貝のような形のいい爪がはまっていた。その人物はソロモンのほうを見て、柔和な表情で微笑んでいた。唯一人間と違っていることには、それは背中に一対の翼を持っていた。真珠のように柔らかく七色に輝く翼だった。
彼とも彼女ともわからないその存在は、美しかった。ソロモンが見たことがないほど、美しかった。春の陽気を思わせる、柔らかな美しさだった。

「誕生日、おめでとう」

その存在は桜色のほどよくふっくらした唇を開いて、どちらかと言えば男のような声でそうソロモンに告げた。

「誕生日?」
ソロモンは怪訝そうにそう返した。
「今日は君の11歳の誕生日じゃないか」
「……そうだったか。すっかり忘れていた」
別に嘘ではない。彼はずっと長い間、自分の誕生日を忘れていた。どうせ誰も祝う人物などいないのだから、同じことだ。彼だけではなく、彼の周囲の人々も忘れていた。忘れたくて、忘れていた。
「どこの誰だか知らないが、祝いにきてくれたのか?ありがとう」
ソロモンはひとまず笑いを浮かべて目の前に立つ彼に言った。彼はにんまりとした表情をして「驚かないんだね」と呟いた。
「驚いてほしかったのか?」
「ちょっとショックだな、もっと怖がるなり恐れるなりしてほしかったのに」
「怖がる理由などあるものか。醜くもないものを」
ソロモンの言葉を聞いて、彼も笑う。
「でも、背中に翼が生えてる。人間は生えていないよね」
「かまわんだろう。それで十分美しいのだから」
彼は「美しい!美しいって言ってくれるの!?ふふふ、嬉しいな、ありがとう!」と言って、ソロモンに歩み寄った。足音一つせず、半ば浮かんでいるようにも思えた。
流石に彼は子供のソロモンよりは大きく、近寄ればソロモンは彼を見上げる形になった。しかしそれも一瞬で、彼は自らソロモンの前に膝をついて、彼を下から見上げる体制になった。
彼はソロモンのペンだこのできた小さな片手をとり、自分の薔薇色の頬に擦り付けた。そしてそのまま「ボクがなんだと思う?」と言った。
「人に似ているが、人並み外れて美しく、翼をもつ存在は、一般的に天使の姿と定義されている」ソロモンは片手を彼にされるがままにして、「お前は天使なのか?」と呟くように言った。
「ふふっ。うん。正解」彼は上目づかいでソロモンに言った。「ボクは天使。君のところに使わされた天使だよ」


彼は自分の手をソロモンの手に添えた。
「俺の誕生日を祝うために天からきてくれた、とそういうことか?」ソロモンはボソボソとした声でそう問いかけた。ベリアルは「そうだよ」と、穏やかな口調で返答する。
「それは……ご苦労だったな」
「苦労なんてことはない。君は神の国イスラエルの王子なんだから。当然じゃないか」
ベリアルはクスリと笑った。
しかし、その言葉にソロモンは少し表情を険しくした。「俺は王子なんてものじゃない」と、彼は呟いた。
「なんで?王様の子供じゃないか?」
「生物学的にはおそらくそうなのだろう。しかし、男と女が性交をして子供が生まれたからと言って、それらが親子になるとは限らない」
ソロモンは天使の手を振りほどいて、怒ったような表情でそう言った。
「親は俺に死んでほしいと思っているんだ。俺の事を不気味がって、邪魔だと思っている。俺のような存在がダビデの家に生まれたことを恥だと思っている。……親は、ひたすら待っている。俺がある日、勝手にひっそり死んでいる日が来るのを今か今かと待っている。そんな王子がどこにいる?ただでさえ父には子供がたくさんいる。奴らは王子だ。でも、俺は断じて王子じゃない。俺はあの王の子供ですらない。ただあいつの精子がもとで生まれてきたというだけだ」
「君、子供のくせに結構あけすけな言葉使うねっ」天使は顔を少し赤らめて、片手でにやける口元を覆った。「王子じゃないのなら、君は、君自身をダビデのなんだと思っているんだい?」
「俺は……あの王の、罪だ」
ソロモンは蝋燭の光と天使から放たれる光に照らされた自分の血の気のない、痩せた手を睨みつけて吐き捨てた。
「俺はあの王とあの女の不倫で生まれた子だ。女へ欲情したという理由で倫理も何もかなぐり捨てる後先考えられない性欲猿と、美しい男と金と名誉の誘惑のためなら夫も捨てる淫乱の雌豚の間に生まれた、見れたものじゃない出来そこないの畜生だ。そんな存在として俺が生まれることが、ダビデとバテシバには必要だった」
ソロモンは自分を見つめる周囲の視線を思い出していた。誰ひとりとして、かわいい子供を見る視点で彼を見るものはいなかった。気味の悪い存在として、さげすみ、恐れていた。違うのはただ二人だけだ。ナタンとダビデだ。彼らの目には、本気の恐怖が混ざっていた。彼らはソロモンにいつか殺されるのではないかという視点で彼を見ていた。ソロモン自身は彼らに殺意を抱いたことなど一瞬たりともないにもかかわらず。王子たちはそのような目でダビデには見られてない。少なくとも、ソロモンは見たことがなかった。
「俺を見ろ。まともな人間じゃない。まともな人間はもっと赤と黒と黄色の混ざった肌をしている。まともな人間は黒い髪をしている。赤や茶色もいるが、生まれた時から白なんて存在しない。ましてや赤い目の人間なんてそうそういやしない。だがな、ダビデとバテシバにはそんな子が必要だったんだよ。償いきれない罪を犯すほどの薄ら馬鹿どもの事だ、赤ん坊が死んだ悲しみくらいすぐ忘れてしまう。だからきっと、俺は生まれたんだろうな。子供を殺したって馬鹿どもには効き目などないと、きっと神が理解したから、その次に俺が生まれたんだ。忘れようと思っても俺を見るだけで、ダビデもバテシバも神の前に犯した罪を永遠に忘れないように、俺が生まれたんだ。今度はいくら馬鹿でも眼さえあれば、思い出さざるを得ないからな。俺はあいつらを永遠に反省させるために、ダビデとバテシバの人生のために生まれて、生きているんだ。俺はあいつらの子供じゃない。俺はあいつらの罪そのものだ」
彼は自分の爪を噛みしめた。彼には爪の噛み癖があるため、常に爪は深爪気味だった。それでも彼は噛み続けていた。それを見た天使が「止めろよ、血が出ちゃうよ」たしなめた。
「血が出ても構わない」
ソロモンはなおもガリガリと爪を噛んだ。
「そんなにたくさん一気にまあ……無口かと思ったら意外としゃべるね。誰が言ったの、そんなこと」
「誰だって言ってるさ……」
ソロモンは睨みつけるような目つきでそう吐きだす。「俺はなぜ自我を与えられたんだ?」と彼は呟いた。
「天の使いなら知っているはずだ。俺はなぜ人生を与えられているんだ?」ソロモンは目だけぎょろりと動かして、天使を見つめる。
「俺の価値は生きていることのみだろうな、生きていれば永遠に奴らの人生を矯正させ続けていく道具になるんだから!だが、だがなぜ、人としての自我を与えられなければならなかったんだ!?俺はただの罪でしかない、俺はダビデのための道具に過ぎないのに!なぜ生きて、俺なりの感覚を、俺なりの苦しみを持たなくてはならなかったんだ!?ダビデとバテシバのためなら、神は俺という人間の苦しみはどうでもいいのか!?」
天使は微笑んだまま、口をつぐみ続けていた。ソロモンはなおも畳みかけた。
「ダビデは俺を殺さないさ。なぜかって?俺を殺せば罪になるからさ。自分の罪を悔いているから、もうこれ以上罪を犯してしまうとと思うと怖くて怖くて仕方がないんだろう。ああ、傑作だ!今まで人を何人も殺してきたくせに、今さら子供一人間引くことで自分が善人たるか悪人たるかが左右されると思っている。バカバカしい!そんな者とっくの昔に決まっているだろうに!と言っても、快楽の事しか考えられん猿の事だから、そこまで考えが及ばないのも道理だろうが!ただ、やはり猿だ、脳みそなどこれっぽっちも入っていない。当然のことが頭に浮かばないんだ。すなわち、殺すことは罪とわかっていても、飼い殺しにして、苦しませておくことは罪でも何でもないと思っている……」
そこまで言い切って、ソロモンは息を切らし、数回短い呼吸をした。いつの間にか興奮していた自分に気が付き、決まりが悪くなったソロモンは「どうだ、天の使い。何か言ってはくれないのか」と鋭い口調で言った。
「……驚いた。君、びっくりするくらい周りを見てるね。どうなっているから今こうなのか、ちゃんとわかっている。本当に賢い子なんだ」
天使はそういって、ふっと口角を持ち上げた。
「そうとも。君の言う通りさ。君は罰の存在。神様はダビデを愛しているよ。ダビデがいくら、快楽しか頭にない馬鹿に成り果てても」
「……だろうな」
「そして、君が生きている理由もそう。ダビデは君を殺すことで、新しく罪を負うのが怖いんだ。いやなら早く殺しちゃえばいいのに、その度胸すらない。罪を意識するあまりね」
「……やはり、そうか」
「そうとも。でもね、君の考えには、一つ間違っていることがある」
天使はうつむくソロモンを見上げて、ふわりと彼を抱きしめた。
「君は、どうでもいい存在なんかじゃない。神様は、君の事も愛していらっしゃる」
彼は自分の体にソロモンをうずめた。自分の真珠色の翼をすぼめて、彼を覆った。暖かい、とソロモンは思った。
「……うそだ」
「うそじゃない。ほら、僕が証拠だよ。神様は、君の誕生日を忘れない。君の誕生日を祝いに来た。そして、贈り物を一つ持ってきた」
彼は肩越しに、「ソロモン、君が今欲しいと思っているもののうち、何かひとつ言ってみて」と彼の耳元でささやいた。
「……シクラメンの花」
「シクラメン?」
「……本物の花があったほうが、よく描ける」
彼はぶっきらぼうに、机の上を指さした。ベリアルは少し体を伸ばしてそれをつかむと。「君が描いたのか、すごいね」と言った。
「その程度ならお安い御用だ、ほら、どうだい」
そういって天使がソロモンの前に差し出した手の上には、まるで今しがた土から掘りだしてきたばかりのようなシクラメンが現れていた。先ほどまで、何もなかった掌に。ソロモンはそれを受け取ると、恐る恐る手を触れ、「本物、なのか」と言った。
「本物だよ」
「……天使だから、このようなこともできると?」
「そんなところ」
天使は両手でシクラメンを持つソロモンの頬に手を触れると、彼の顔に自分の顔を近づけて、細い声でささやいた。
「ソロモン。神様からの贈り物はね、君の友達だ」
「友達?」
「そうとも。君をずっと一人ぼっちにしてしまったから」
彼は優しく、ゆっくりとソロモンの頬を円を描くようになでながら、それに合わせるようなゆっくりした声でソロモンにささやき続けた。
「君、さっきボクにすごい勢いで話してくれただろ?君がどれだけさびしいか、君がどれだけ父親と母親を憎んでいるか。君がどれだけつらいか、ボクに話してくれただろ?君は今まで、他の人に同じ内容を話したことはあるかい?……いや、ないね。ボクは知ってるよ。君の事をずっと見ていたんだもの。……弱みを見せたくないから、泣きついても邪険にされるってわかってるから、誰にも話せなかったんだろ、そうだろう?」
ソロモンは彼の空色の目に映った自分を見た。彼の瞳の中の自分は、想像以上に子供らしい表情をしていた。
「でもね。そういう風なこと……プライドとか、不安とか、そういうこと抜きにして、自分がつらいんだって話せる相手の事をね、友達って言うんだ」
彼はそっとソロモンの頭を抱き寄せた。赤ん坊にするように、優しかった。
「ソロモン。ボクは君の友達になりに来たんだ」
円を描くような動きで、彼は今度は、ソロモンの頭を撫でた。
「…俺は」
「自分はまともな人間じゃなくて悪魔の子だから、天の使いなんて来るはずがない、とでも言いたいの?……そんなことないよ。君の心臓はちゃんと動いてるじゃないか。君はちゃんと息をしているじゃないか。そして、ボクはこうして、君のところに来たじゃないか」
天使がそういうたび、ソロモンは不思議と、自分の鼓動の音や息の音が普段よりも大きく聞こえているような気がした。彼はソロモンの後頭部をポンポンと叩いて「爪を噛むのはやめようね。君は、傷ついていい人間じゃないんだ。血が出てかまわないなんて、そんな人間じゃないんだから」といった。

「……名前は?」
「ボクのかい?」天使が言う。「ベリアルだ。よろしく」
「……そうか。ベリアル。その……」
ソロモンは言い渋っていたが、決意したように早口で言った。
「一緒にシクラメンを植えたいんだ。外まで、ついてきてくれないか」
「ああ、もちろん」
ベリアルは彼を抱きしめたまま、包み込むような優しい声でそう答えた。

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feat: Solomon 第一話

イスラエルは美しい陽気に包まれていた。王宮では宴会が催されている。偉大なイスラエル王ダビデが、またしても憎き異国人との戦争に勝利した、戦勝祝いの宴会だ。ダビデの兵士たちや司祭が庭に一堂に会し、それに連なる形でダビデの王子たちが並ぶ。中心にいるのはダビデである。誰もが尊敬し、愛する美しい王を囲んで、宴会場は幸せそのものだった。
笛や竪琴の音色が混ざった、にぎやかな話し声が王宮中に響いてくる。彼はカーテン越しに聞こえてくるその音に眉をひそめて、窓に向かっている方の耳を手でふさいだ。
「奥行きは六十、間口は二十、高さ三十五」
雑音をかき消すように、彼は一人でつぶやく。つぶやきながら、ペンを机の上にパピルス紙に走らせ、図形を描いた。
部屋中には大量のパピルス紙が散乱している。まだ使っていないものは部屋の端に積み上げられて、使われたものは彼の座る机を中心にばらまかれるような形で散らばっていた。それらには全て、似たような図形が描かれていた。
彼の部屋には、机と蝋燭と簡単な寝台以外はない。外に通じる窓は開いてはいるが、カーテンで仕切っていた上、北向きの、ごく小さなものがただ一つあるだけだった。彼は生まれつき、日光というものが嫌いだった。
何故日光に当たっても他人は大丈夫なのか、彼には全く合点がいかない。自分の真っ白な肌は火の光を浴びると焼きつくようにピリピリと痛んだ。どうしても外に出なければならないときには彼は黒色のマントを全身に纏った。自分の肌も、髪の毛も、目元も、全て黒いマントで覆った。他人がそれを嫌っていることを彼は理解していたからだ。

彼、というのは、十年前、バテシバによって産声一つ上げずに産み落とされた子供である。
死体のような肌に、老人のような髪。人間にはあり得ないほどの真っ赤な瞳を持ったその赤ん坊に、全ての王宮の人間は震撼した。
彼が誕生したことで、美しいバテシバは完全に失墜した。後宮から追い出されることはなかれど、もはや虐められすらしなかった。下働きのような扱いになり、物言わず見下される身となった。今日の祭りでも、きっとバテシバは側室たちが並ぶところの一番端に座って、ただひたすらいないものとして勤めようとしているのだろう。
死体のようでありながら確かに生きるその子を、ダビデはやむなくソロモンと命名した。そして、王宮の端にある、北を向いた薄暗い部屋を彼に与え、そこで、めったに表に出すこともなく育てた。
ソロモンは自分の父と母に会わずにもう三年は立とうとしている。姿を見ても、遠くからのみである。母は自分を見ようとしないように努めていることを彼は理解していた。父は、全く彼の存在を忘れているかのようにふるまっていた。
自分の教育係としてあてがわれたナタンという名前の年老いた預言者のみが、彼が顔を合わせる人物だった。それすらも、週に数度くるのみで、後、彼は全く一人だ。彼は王宮の外に出たことすらない。部屋の外に出る程度ならば許されているが、このように王宮の外からも人が多く集まるようなときには、それすらしないようにしていた。誰も、それを望んでいないのを知っていたからだ。

耳に来る騒音が収まらないことに腹を立て、ソロモンはバンと机をたたき、ペンを乱暴に放り投げ、ついでに図形を描きかけのパピルス紙も床にたたきつけた。彼は寝台の上に放り投げてあった黒いマントにくるまると、ベットの上に寝転び、頭から毛布をかぶった。そして寝台の上に置いてあった書物……教育係のナタンが持ってきてくれたものだが、を開く。エジプトで書かれた政治学の書物らしいのだが、それすらも非常に退屈で、眠気が襲ってきた。
「こんなもの赤ん坊でも分かる」
彼はそう本をけなすと、それをあざ笑うかのようにそのまま眠気に任せて眠りについた。カーテンの外は明るかったが、かまいはしなかった。彼は夜が好きだった。
早く夜になってくれないものか、と彼は思い続けていた。できることならば、夕方になってから目が覚めたいと思いながら、彼は眠った。


なにかキラキラと輝くものを、ソロモンは夢の中で見ていた。彼は、それを美しいと思った。しかし、手は伸ばさなかった。美しいものはどうせ自分を嫌うに違いない、と彼は確信していた。
しかし彼の予想とは外れて、キラキラと輝くものは彼の手の中を目指して落ちてきた。彼の掌に落ちてきたそれは、光の屑のように見えた。光の屑はソロモンに笑いかけるように瞬いた。


ソロモンが目を覚ましたころは、すでに夕方だった。北向きの窓からでも分かるほど、空気が赤くなっていた。宴会はまだ続いているようで、騒音はそのままだった。
ふと、自分の部屋に近づく足音をソロモンは敏感に聞きつけた。自分の部屋に来る人物など一人しかいない。教育係のナタンだ。
「ナタン、そこに居るんだな、入れ」彼は足音が留まったのを聞くと同時に、そういった。ほどなくして扉があき、目つきばかりが鋭いよぼよぼの老人が入ってくる。
「何か用か」
「いいえ、ただ……」
「父上に様子を見てこいと言われたんだな。わかるぞ。安心しろ、何も大それたことはしてない」
ちょうどよかった、と彼はナタンから目をそらし、寝台の上で開きっぱなしだった例の書物を投げてよこした。
「お前に借りたその本だが、つまらんにもほどがある。こんなもの幼児も分かるじゃないか」
「……申し訳、ありません」
ナタンは口を濁してそういった。
「ああ。それと。お父上にパピルス紙とインクと蝋燭を持ってきてくれと言ってくれないか。いくらあっても足りない」
「わかりました」
「俺からはそれだけだ。あと、お前から何かあるか」
その言葉に首を横に振ったナタンを見届けると、ソロモンは彼を追い出すように扉を閉めた。
ソロモンは理解している。唯一会う人間である彼ですら、自分の事を忌み嫌っているのだ。不気味な存在だと思っているのだ。
物心ついた時からソロモンが思っていたのは、誰にも心など許してなるものかということだった。自分を見つめるすべての目が、自分を不気味だと、悪魔の子だと言っている。母親は自分を無視し、憎んでいる。父が自分にする親らしい行為と言えば、毎日パピルス紙と蝋燭を差し入れてくることくらいだ。兄弟たちも、兵士たちも、みんなそうなのだ。国民はソロモンという名の王子が生まれていることすら知りはしないだろう。
自分が何よりも求められているのは、この世から消えることなのだ。と十歳の少年は心の底から理解していた。
ただ、彼には一つだけ、楽しみがあった。生まれついたころから、彼の頭の中には何かしらの図形が渦巻いていた。曲線、直線、三角形に四角形、六角形、と様々なそれは頭の中で寄り集まり、見たこともないような壮大な建物を頭の中に創りだしていた。彼はそれを細部まで想像をめぐらせた。そして、思いついた先からパピルス紙に描きつけた。それだけが、彼が生きる意味だった。唯一の楽しいことがあればこそ、彼は全てを拒絶しながら生きていた。
「まてよ、高さは三十五ではなく、三十がいいかもしれないな」と彼は呟き、先ほど放り投げたパピルス紙を拾って、グシャグシャと黒く塗りつぶした。そして、同じような図形を新たなパピルス紙に描き始めた。
ふと、夕焼けの空に星のようなものが浮かんでいるように思え、彼は窓を見た。カーテンを閉めてしまっていたことに気が付く。開けてみたが、そんな星はない。第一暗くなりかけてはいるが、まだ星など輝けないであろう程には明るかった。
しかし、自分の頭には確かに夕焼け空に浮かぶ星が一瞬浮かんでいた。奇妙に思い、彼は首を傾げた。星は、夢の中で見た光の屑に似ているような気もしていた。



ソロモンに部屋を閉め出されたナタンは、彼に突き返されたエジプトの書物を見て寒気を感じた。自分も賢人ぶりになかなかの自身はあれど、この本は難解すぎてなかなか頭に入ってはいかない。
ソロモンはいつもこうなのだ。ごく小さいころから、大人でも音を上げるほどの本をあっさりと読み、理解しきってしまう。外国語などは数日もあれば完璧に覚え、読みも書きもできるようになっていた。今では何か国語操れるのだかわかったものではない。おまけに不得手というものがないらしく、数学だろうと哲学だろうと政治学だろうと、彼はあっさりと理解した。しかも、彼にとってはそれが「当然」らしく、理解できないほうがむしろ重度の知恵遅れにも等しいと見ているかのようだった。
ナタンは神の言葉を聞く預言者である。小さいころから神の言葉を聞くものとしての修業を強いられ、ダビデに仕え、彼に助言を与えてきた。
彼がバテシバを寝床に誘った時も、ナタンには不吉な未来が見えていた。だからこそナタンは二人の関係に反対した。しかし結果的には自分の忠告など少しも聞き入れられることなくバテシバはダビデの妻の地位に納まってしまい、今こうしてソロモンが生まれた。そして何の因果か、彼自身が、わが子から距離を置いたダビデとバテシバに変わってソロモンの教育係に任命されてしまった。

あの不吉さの正体はソロモンに違いない、とナタンは思わざるを得なかった。ソロモンは得体がしれない。十年間の間育ててきて、なおそう感じる。
彼が不気味なのは、その生きた人間とは思えない様な容貌のみのためではない。むろん、それも不気味であり、彼が嫌われる原因なのだが、さすがに十年も赤ん坊のころから育てているのに今更そんなところを気味悪がることなどない。ただ、ソロモンは、性格においても相当異質だった。平たく言えば、彼は生まれながらに賢すぎた。
彼は小さい時から、完璧に自分という存在がどのような目を向けられているのかわかっていた。彼はごく小さい時から一切、人に甘えるということをしない。甘えようとしてつっぱねられ、自分の境遇を知ったのではない。彼はただ、理解していた。周りを見るだけで理解していた。誰からも隔てられ、唯一話せるのはナタンだけなのだからナタン一人にはなつきそうなものを、彼はナタンにすら一線を置き続けている。ナタン自身の恐れを、血の海のような色の目で見抜いているかのように。彼は武術も運動もせず、食も驚くほど細かった。彼はただ、図形を描いていた。建物の設計図のような図形を何枚も描いては気に入らないと言って消し、その片手間に驚くほどの学習をこなして見せた。彼が子供のようにはしゃぐ瞬間も、失敗しながら学んでいく瞬間も、ナタンは見たことがなかった。
これでまともな容貌さえしていれば、間違いなく神に愛された子として称賛されただろうに、と思ったこともある。それほど、彼の生まれ持った知性は信じがたいものがあった。所謂天才というものなのだろう、とナタンは思っていた。

ダビデの他の王子は彼ほどは賢くない。それが普通だ。彼こそが異常なのだ。だが、知性は恐ろしい。時に知性は力をも貫く。
ナタンはソロモンがまだ二歳ほどだったある日、とある幻影を見たことがある。ナタンにとって預言というものは、常に寝ている間の幻影という形で現れた。まだ小さいソロモンが王冠をかぶり、玉座に座っていた。彼の玉座は何人もの死体の上に据えられていた。そして彼のそばには、彼を抱きしめるように、真っ黒な、世にも恐ろしくて醜悪な存在が寄り添っていた。ナタンには、それが悪魔なのだとはっきりとわかった。
その夢から覚めた瞬間、彼はダビデにそのことを話すかどうか迷い、迷った結果、恐る恐る話した。ダビデはその預言を聞き、しばらくうなだれた後「実は、私も、同じ夢を見た」と、この世の絶望を見たかのような表情で語った。
「わが子は、やはり、悪魔の子なのか、ナタンよ」とダビデは語った。ナタンはそれを否定できなかった。
ソロモンが王宮の北にある、ほとんど独房に等しい部屋で育てられるようになったのは、その時からである。

あれから八年もたつというのに、ナタンはその光景が頭から離れない。預言者として生きてきて、よりにもよってそれこそが、一番鮮明で目の前で繰り広げられているかのような預言のビジョンだった。血の匂いで窒息しそうな空間の、大量に折り重なる死体の山の中で、ソロモンの玉座のみが燦然と光り輝いていた。死体のような色をした二歳の幼児の小さな体には王の衣装は不釣合いで、半ば脱げかかっていた。その露出した肌に目を背けたくなるほどの醜怪な悪魔の長い爪が食い込む。悪魔はまるで彼の一部であるかのようにに彼に寄り添っていた。死体から流れる赤、ソロモンの白、悪魔の黒、それぞれが直視に耐えない恐ろしさを持ってナタンの目の前に鮮やかに映し出されていた。
悪魔は金色に輝く王冠を、死体の山から取り出した。そして、彼の頭にそれを乗せた。王冠を得たソロモンは、「こちら」に目を向け、にっこりと微笑んだ。あの顔が、忘れようとしても忘れられない。ソロモンの非常に薄い唇がゆっくりと動き始めた。そこでビジョンは終わったのだ。隣にはただ、ソロモンが寝ていただけだったが、その時の彼すらもナタンは直視することができなかった。

あのグロテスクな預言を、なぜ神は自分に下したのかがわからない。この子はきっと何かをするのだろう。死体、王冠、悪魔……ソロモンは、ダビデの家をかき回す存在になるのだろう。ナタンは確信していた。
彼は知っている。ダビデもそのことを恐れている。ダビデはソロモンに恐怖しているのだ。だからこそ、彼を遠ざけるのだ。
彼は何回も、ソロモンは何をしているかと聞いてくる。世界に名だたる王国の王でありながら太陽の下にも出られぬほど虚弱な十歳の少年、しかも自分の息子にここまで恐れを抱いているなど、彼くらいなものだろう。

だからこそダビデに言ったのだ。人妻を寝取るなど、きっと災厄を呼ぶことになると。……と、心の中でダビデに全責任を負わせないことには、神経が参ってしまいそうだった。ソロモンはダビデの罪そのものなのだ。ダビデ自身も、それをわかっているはずなのだ。
エジプトの本を抱きしめながら、ナタンは廊下を急ぎ足で歩いた。この本を自分の書庫にしまった後、ダビデにソロモンについて報告せねばならない。ぼうっとしているうちに、もうほとんど日が落ちかけていた。ユダヤの一日は、日没から始まる。次の日が来ようとしているのだ。


不意に薄暗い空を引き裂いた流れ星に、ナタンは気が付かなかった。彼は、何も考えたくはなかった。ソロモンとは彼にとって、そのような存在なのだ。
すぐそこまで来ている明日はソロモンの誕生日だというのに、ナタンはそれを失念していたほどだ。失念というよりも、忘れたかったのかもしれない。

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feat: Solomon プロローグ

バテシバは十人並みな女だった。それが、彼女のかつての夫が彼女に下した評価だった。
彼女はユダ族として、ガドの地の祭司の家に生まれた。祖父は有名な軍師だった。彼女は一切申し分のない裕福な家で育った。
しかし、家柄を抜きにして彼女自身の魅力というと、何を置いても通常かそれ以下だった。
まず、彼女はあまり優しくなかった。彼女は子供も動物も嫌いだった。加えて、なんの手作業をさせても彼女は不器用な部類だった。何とかできないことはない、というほどだ。歌も踊りもぱっとしなかった。頭もよい方ではなかった。それに加え、彼女は働くのが嫌いだった。また、彼女はひどく無愛想で、人を楽しませる話し方というのも心得てはいなかった。ゆえに、年の近い少女たちが楽しげに談笑しているときも、バテシバはただ一人その輪に入れずにいた。
ただ一つを除いて、彼女にはおよそ特別の美点といえるようなものはなかった。ただ一つというのはバテシバの容姿についてだ。バテシバは美しかった。彼女の周囲に、彼女ほど美しい人物はいなかった。たとえそれ以外は全くの無能でも、これを失ってしまうのは惜しい、そう思わせるほどの魅力が、ただ容姿にのみ注がれていた。
小さいころから、彼女は容姿をほめそやされた。容姿以外、ほめそやすところが全くない女だったからだ。また、容姿の面に関してはほめそやさざるを得ないほど、他の追随を許さない出来栄えであったからだ。
彼女はまさに、ガドに咲いた1輪の花であった。彼女は花でしかない。美しいだけで何の役にも立ちはしないのだ。

彼女のかつての夫、というのはウリヤという名前のヒッタイト人である。ヒッタイトの地に生まれはしたものの、祖国を捨てイスラエルに逃亡してきた。そしてユダヤ人を装い、イスラエルの軍隊に入ったのである。体つきもたくましく、性格もよかった。品行方正な軍人として、なかなか早くの出世をし、王宮の近くに家を持って暮らしていた。
バテシバがウリヤと結婚した理由は、先述の通り彼女の容姿によってだ。ウリヤは彼女に一目ぼれをした。そして、彼女と結婚をした。
やがてウリヤも、彼女がひどくつまらない女性であることに気が付いた。そして先述の言葉を発したのだ。バテシバは決して神に選ばれたような突出したような女性ではない。偏り方が極端とはいえ、彼女も欠点もあれば美点もある、ただただ十人並みな女であった。そして、ウリヤはそんなバテシバを十人並みの自分にふさわしい妻だととらえ、十人並みな夫婦と同じように、彼が戦場で死に、彼女が国王ダビデの側室になるまで彼女と共に暮らしていた。



「大丈夫ですか、奥様」
老婆がバテシバに声をかけた。
彼女は数時間前、産気づいた。
産屋は狭くて汚い。いるのは、彼女と、先代の王の代から王宮に仕え続けている侍女、今はよぼよぼのみすぼらしい老婆だけだ。
側室とはいえ、一国の君主の妻のお産、つまり王の子の出産にしては、あまりにも粗末な対応だった。しかし、彼女にはこれで十分、という判断が下されたのだ。
「大丈夫ですか」
老婆の震え声が、彼女にとっては鬱陶しい。後宮に仕える侍女は、みんな上品で美しい。しかし、彼女をはじめごく一握り、長く仕えているうちに年老いてしまったものはいた。今バテシバについている老婆はその中でも一番醜い。香水でごまかしてはいるものの、確かな老人特有のにおいが彼女からは感じられた。産屋も不潔で悪臭がする。何かが足元で動いたような気もした。幸い、床は暗くてそれが何だったのかまではわからなかった。
こんなはずではなかった、とバテシバは陣痛の痛みの中考える。

王の後宮に入ってからというものの、バテシバの心は休まらなかった。もともと、他の女と交われない彼女が、入ってすぐに周囲の側室たちから孤立していったのは当然だが、理由はそれだけではなかった。
ダビデと正妻のミカルの間には、子供がいなかった。後宮ではもっぱら、ダビデは彼女を嫌っているといううわさが流れていた。それが特に、後宮内で側室たちの間に対抗心を燃やさせていたのだ。
ダビデがミカルを愛していて、彼女の間に生まれた王子がいて、それを誰よりも可愛がっている、という状況なら、彼女たちもある程度の諦めはついたのかもしれない。しかし、ダビデがミカルを愛さず子供もいないとなれば、自分の子が王位につくかもしれない。王の母親は、女が付ける限りの最高の立場だった。少なくとも、女に権力の与えられないイスラエルにおいてはそうだった。
王の後宮ほど美しい空間はイスラエルにはなかった。豪奢に飾られた宮殿で、きらびやかな着物に身を包んだ、花と見まごうばかりの美しい女性のみが暮らす城。仕えている侍女も、往々にして美しく、品がよかった。立ち入ることのできる男性は、ダビデ王ただ一人だけ。そのダビデすらも、息をのむほど美しい男だった。イスラエルにおいて楽園にいちばん近いところがあるとすれば、それはダビデ王の後宮だ、と、誰もが語っていた。しかし、欲望はその後宮を嫉妬と怨念の渦巻く醜い戦地にかえた。王の気を引くために優しい微笑みを浮かべてはいても、内心では誰もが自分以外の女がみんな消えてしまえばいい、と思っていた。

その中において、このバテシバと言う女が他の女性から嫌われたことは至極当然なことであった。また、彼女の生んだ最初の子供がすぐに死んでしまったことを理由に公然と冷遇されたのも、至極当然なことであった。


自分に美しさ以外の何もないことが、バテシバにはよくわかっていた。美しさのみが長所というのは恐ろしい。若さを失えば、美しさも失うのがこの世の理であるからだ。ちょうどこの老婆のように。この老婆も、ダビデ王の先代、サウル王に仕えていた時は大層な美人で、サウルと関係を持ったこともあると聞く。そのなれの果てがこれだ。しかし、それでも彼女は婢として働くことができるから、今もこうして場所が与えられている。自分には何もなくなるのだ。その前に、居場所を得なくてはならない。バテシバは少女のころからその強迫観念にとらわれ続けていた。美しくなくては、娼婦にすらなれない。乞食になることしかできない。そんな生活をわざわざ望む人間が存在するだろうか?何の技能をつけようにも、何もできなかった。努力をするということが、彼女には不可能だった。どんなに努力をしようと努力してみても、努力自体ができない彼女には一切無駄だった。
彼女に残された道は、なるべく地位の高い男性と結婚することだった。そして彼の跡取りを生み、一生を過ごす場所を与えられることだった。ウリヤが誠実でいい男だったのは、彼女もよくわかっていた。ただ、ウリヤには地位が足りない、とバテシバは思っていた。


イスラエルでは、女性は月経が終わると水浴びをして身を清めた。バテシバも、無論それを実行していた。ある日、ウリヤがちょうど戦争で出て行った時も、バトシェバは清めの水浴びをしていた。その時、ちょうど家からさほど遠くはない王宮のバルコニーから流れてくる音楽に気が付いた。竪琴の音だった。
バテシバがその音に気をとられて振り返ると同時に、彼女ははっとした。美しい。これ以上美しい男性がこの世にいるのだろうか。竪琴を演奏していたのは、それほどの人物だった。
遠目からでも、艶やかな長髪から見え隠れする彼の彫りの深い、作り物かと思うほどに整った顔立ちも、豪華な衣装に包まれていてもわかるしなやかながらも男らしくたくましい体つきも、竪琴の弦を走る驚くほど細長い指もはっきりと見てとれた。長いまつげに縁どられた深い色の瞳すらも、目の前にあるようにありありと分かるようだった。同時に、バテシバはそれがダビデ王であることに気が付いた。
ふいにバテシバの心にわきあがったのは、自分がもしも彼の妻になれたら、ということだった。そして彼女は、それができる美貌が自分にはあると確信していた。彼女は、わざとダビデに見せつけるかのように体を洗って見せた。
やがて一枚の書状が家に届いた。ダビデからのものだった。

ダビデに抱かれたときのことを、彼女はよく覚えている。近くにみる彼、王の衣装を脱いで現れた彼の裸体は、一層美しかった。軍人の夫よりも背が高く、完璧に均整のとれた隙のない鍛え抜かれた肉体でありながら、どこかしなやかで優美で、女性的な美しさをたたえているようにすら感じた。神々しいまでの美しさだった。女ほど色白ではないが、驚くほど滑らかな肌にまとわりつく彼の張りのある長髪やバテシバの唇に重ねられる春の花を思わせる優しげな色の唇が、なおそのような思いを強くさせた。もしも彼が女性であったら、と思えばぞっとするほどでもあった。きっとバテシバの美しさなど、問題にもならない。彼はすべての男性の目を引き付け、彼のためにすべての男が殺し合いを始めてしまうのだろうとすら思えた。そんな彼の肉体に押しつぶされるように抱かれながら、彼女はダビデの目を見ていた。彼の目は、どこか、悲しげだった。満たされていない人間の目だった。そこがまた、魂が抜けるほど美しいと思った。
ダビデはバテシバを抱いている間、一言も声を発さなかった。国民に声高らかに演説する彼の姿を知らなければ、この王は生まれつきの唖なのだろうかと疑ってしまいそうだった。彼が言葉を発したのはただ一言、一通りのことを終えてからの「帰るがいい」という言葉だけだった。低く、もの悲しげな声だった。
バテシバはその日、ダビデの子供を身ごもった。

不貞の子を身ごもるほど慌て、恥じるべきこともない。バテシバは知っていた。知っていて、バテシバは喜んだ。もしかすると、ダビデが自分を妻にしてくれるかもしれない。バテシバの心の中にあったのは、その欲求一つだけだった。彼女は子供がいる旨を、ダビデに書状で伝えた。しかし、返事はなかなか帰らなかった。
ようやく届いた返事には、お前の夫を殺してもよいかとそっけなく書かれていた。バテシバはよいという旨と、ダビデに対するあまりよくない頭で考えた愛を求める言葉を書き連ねて送った。
直後、ウリヤが戦場で戦死したという知らせが彼女のもとに入ってきた。詳しく聞いた話によれば、ウリヤはいったんイスラエルに帰還していたらしい。なんとか、お腹の中の子を彼の子だと勘違いさせるために、ダビデが家に帰らせようと取り計らったということだ。しかし愚直なまでに誠実なウリヤは聞き入れず、ダビデから戦場の指揮官への書状をもって戦地に帰っていったとのことだ。書状の内容は、ウリヤを最前線に置き去りにしろとのことだった。
一連の流れを聞いて、バテシバはウリヤの誠実さに感謝した。これで彼の子になってしまっては、元も子もなかった。
その後日、彼女は大分大きくなったお腹を抱えてダビデの後宮に入っていった。

そうして産み落とした子供は、生まれて数日で疫病にかかり、あっけなく死んでしまったのだ。


周囲は、忠実なウリヤを殺して妻を寝取ったダビデに対する罰だと言っていた。ダビデはそれを聞き入れたかのように、静かに喪に服した。しかし、バテシバはこれは自分に対する罰だと思っていた。
男は女を卑下し邪推する割に、女の実際に持っている邪悪な心には意外と疎いものだ、とバテシバは一連のことが全てダビデの肉欲によっておこったとでも言わんばかりの周囲を見て思った。美しい自分をを王宮に連れ込み裸になって抱き合いはしても、ダビデの悲しげな眼には、肉欲の他の何かの感情があったように思えた。かえって醜い欲望に燃えていたのは自分のほうであることを、バテシバはちゃんと知っていた。肉欲ということにのみ関して言うにしても、雌の孔雀がより羽の美しい雄を選ぶのと全く同じ気持ちで、夫よりも数段美しくたくましいダビデに純粋に抱かれたい気持ちが自分の中に強くあったこともまた、バテシバは否定できなかった。
逆に男がそうなら、女は敏感でなおかつ残虐、それでいて正当なものである。バテシバは冷遇を受けた。後宮のだれからも軽蔑された。彼女らの眼には王子を生むという職務を果たせたかった女に対しての嘲笑だけではなく、自分の欲望のために誠実な夫を見殺しにし偉大な王をふしだらにも誘惑した、身勝手で残虐で好色な女への至極まっとうな軽蔑の念も多大に含まれていた。


「奥様」
「苦しい、苦しい!お前の下品な声を聴いているともっと苦しくなるのよ!」

だから、今度また子供を産むことには、バテシバは自分のすべてがかかっている、と思っていた。
王と一回寝れば飽きられる側室も少なくない中、再度ダビデの子供を孕むことができたのは、彼女にとって不幸中の幸いだった。しかし、今度また失敗作を生んでしまえば、またしても自分に軽蔑の視線が矢のように降り注がれることは容易に想像できることだった。それは夫を殺してまで自分の欲を選んだ女の罪は永遠に許されないのだと、神自ら達せられるにも等しいことなのだから。
一旦そう考えると、もう止まらなかった。いくら五体満足であっても、絶世の美しさを持っていても、生まれてくる子が女の子であれば自分は死んでしまう、とバテシバはそこまで思い詰めていた。王子を生みたい、誰よりも優れた王子を、ダビデの跡を継ぐ人物を…。
バテシバはひたすら神に祈った。許しを乞うた。素晴らしい王子を与えてくれと、過去のことを悔いつつ、身が引き裂かれるような思いで祈った。


赤ん坊が自分の体から生まれようとしているのがわかった。
バテシバは無我夢中で赤ん坊をこの世に生まれさせようと、力を入れた。凄まじいほどの痛みが体を蝕む。老婆があわてて赤ん坊を取り出そうとした。バテシバはひたすら、明り取りの窓からのぞく月が雲に隠されたり、また現れたりするのを澄んだ美しい瞳で睨むように見据えてどうか、立派な王子を、私の名誉を回復する子供を……と神に祈り続けていた。



「(おかしい)」激痛の中で彼女は考える。

「(どうしてお前は何も言わないの)」

陣痛の時はうるさいほどに声をかけていた老婆の声が、聞こえない。彼女もまた必死になっているからだろうか?少なくとも、ダビデとの間にできた一人目の子供を産んだときには、付き従っていた産婆や侍女たちは励ましの言葉を一身にかけてくれた。どうしてお前はそんなに静かなの?集中しているから?それともただ単に気が回らないからかしら?とバテシバはわずかに考える。

やがて、子が産み落とされた感触があった。しかし、バテシバは目の前が真っ暗になるような思いだった。


産声が、一切しなかった。


死産、という言葉が彼女の頭に浮かんだ。またしても、自分は失態を犯してしまったのだ。夫殺しの罰として。

「奥様」

老婆の震え声。

「聞きたくない!聞きたくないわ!!何も言わないで!!」
「奥様、このようなことが…このような…」
「聞きたくないと言っているでしょう!お前は耳も遠いのね!!」
「このような…産声も上げずに、息をしている赤子なんて……」

その言葉にバテシバは耳を疑う。生きている?この子は、生きているの?と目を見開いた。
産声を上げずに息をする赤ん坊なんて、聞いたことがない。バテシバは疑惑にとらわれながら、老婆に詰め寄った。

「お見せ」
「お、奥様」
「お見せ!!」

ひったくるように老婆の腕から赤ん坊を奪った。信じられない。確かに息をしている。おまけに、男の子だった。
バテシバの心は一気にうれしさに満たされた。双眸から、涙がこぼれる。

「ああ、主よ、感謝いたします……」
「お、奥様、そのお子様は」

老婆がなおも震え声で何かを言わんとしている。

「なによ、うるさいわね。おめでとうの一言も言えないの……」

バテシバはその言葉を遮ったのは、ぽつんと月明かりに照らされたその赤ん坊の肌を見たからだった。
肌の色が違う。
死体のように白い。まるで、血が通っていないかのようだ。
でも、息をしている。赤ん坊は死体ではない。確かに生きている。

どういうこと、とバテシバは混乱したまま月明かりの差し込む場所に赤ん坊を抱きあげた。
ぎょっとした。彼に髪の毛は生えていないように思ったが、それは違った。透き通るような薄い、真っ白な髪が彼の頭には生えていたのだ。金髪とも違う、老人のような水気を失った髪の毛が。
バテシバが震えている中、静かに息をする赤ん坊はゆっくりと目を開けた。バテシバは悲鳴を上げた。彼の瞳が、鮮血を思わせる、毒々しいほど鮮やかな赤色をしていたからだ。体中の血の気を、一身に集めたような瞳だった。


「奥様、そのお子様は…まるで…悪魔の子、です」

老婆の声は、聞こえなかった。
バテシバは不気味なわが子を抱える力もなくなった。彼女の腕からずるりと力が抜け、危うく地面に堕ちそうになった赤ん坊を老婆が抱き留めたことにも気づかず、老婆に礼も言わず赤ん坊の心配もせず、ただただ彼女は力なくうなだれていた。

この売女が、神は決して、貴様の罪を許しはしないのだ、とその子の赤い瞳は彼女に語りかけていた。少なくとも、彼女にはそう思えた。


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feat: Elijah  第一話

これは果たして現実なのだろうか。エリシャは目の前で起こった光景をただ、そのような心境で見ていた。北イスラエル王国の、海を臨む土地ハイファにそびえたつ大きな禿山、カルメル山のちょうど頂上に彼は立っていた。

イスラエルには三年雨が降っていない。エリシャの家はなんということはない、ただの農家だ。ただ、雨が降らないので畑はすっかり干からびていた。最初の市年は運河から水を引いて何とかやっていけたが、それすらも二年目になると枯れ始め、今ではすっかり運河は泥臭くなっていた。当然畑にろくな水が来るはずもない。エリシャの家の畑、いや、イスラエル中の畑は今やすっかり干からびていて、誰もかれも王家の倉庫から支給される穀物でなんとか食いつないでいたようなものだ。エリシャは飢饉で死んだ人間も、三年間で何人も見た。死体を畑にまいて少しでも畑を肥やそうとした男もエリシャは知っているが、全て無駄だった。死体もすぐに干からびてしまうからだ。その三か月ほど後に、その彼も死んでいた。エリシャは黙って彼の死体の前を通り過ぎた。
まるで終わらない地獄ではないか、と人々は嘆いていたものだ。むろん、雨乞いの儀式がなかったわけではない。いや、王家に仕えるバアルの神官団は幾度となくバアルに雨を乞うていた。バアルは嵐と雨と豊穣の神である。三年前まで、人々はバアルにすがっていた。イスラエル人でバアルを知らないものはいなかった。そして一部の老人を除き、ほとんどの人々はバアルを崇拝していたと言っても過言ではない。エリシャも父とともにバアルの礼拝に出かけ、雨が降ればバアルに感謝をささげた。バアルこそが神だった。
だが、それも昔の話だ。バアルが雨を降らすから、バアルが力を貸すから、バアルはきっと雨を降らしてくださる、という神官団の声に人々が湧きかえっていたのは二年前までだった。最近ではすっかり、人々は誰の言うことも信じなくなっている。
「昔の話に依りゃあ、バアルは死と常に戦いを繰り広げているそうじゃないか」と一度、エリシャの父が毒づいた口調で言った。「どうもその決戦に終止符が付いたってところかね」。
エリシャは父の話に答えなかったが、相槌を打ったことは覚えている。その時、もはや畑には雑草も生えなくなっていて、家畜はとっくに売り払っていた。王家の倉庫の配給を取りに行くほかは本当に何もやることがなく、死を待つだけのような時間だった。そのため、父の話にもなんとなく現実味があった。
きっとバアルは死んだんだ、とエリシャはぼんやり考えていた。彼が生まれた時からバアル崇拝は決して小さくはなかった。まして、国王にバアル崇拝の王妃が嫁ぎ、彼女による宗教改革が行われてからと言うもの半ばバアル崇拝は国教と化していた。伝統的なイスラエルの神を信ずる者は王宮公認の迫害を受け、無残に殺されすらした。そのような活動の結果彼の世代にとっては、神といえばバアルであり、世界を保っているのはバアルだった。
昔の神話によれば、神の世界にも人間と同じく王権争いはあるらしい。バアルは兄弟である死と常に王冠を巡って争っているとエリシャは子供のころバアルの神官に聞かされた。近所の子供たちも一緒だった。死は強くバアルは殺されてしまうが、それでもなお彼は復活し死を打ち負かし、神の王として君臨し続けるのだと彼は神官から幾度となく聞いていた。決まって神官は、だからこそ乾季というものが存在し、バアルの力が及ばなくなる時も存在するのだと解説した。そのような話を聞いて育ったエリシャには、父のひとりごとは決してただの皮肉ではなかった。バアルは死に、死が永遠の勝利を収めたのだ。だからこそイスラエルは死の世界になったのだ。死が王であり、世界を支配するのならば誰もが今や死を待つだけになったのも合点がいくというものだ、という現実味のある言葉だった。
ただ、エリシャがそう考えていると、彼の祖父が「馬鹿を言うんじゃない」と口をはさんだことも、エリシャは覚えている。この祖父はもう死んでいる。やはり、数年に及ぶ乾きと暑さと飢えは老体が生きるには過酷なものだ。たった二か月前に死んだのだが、エリシャは祖父が死んだ悲しみよりもよく持ったものだ、という思いのほうが大きかった。
「神様はお怒りになられているのだ」と、その時すでに寝たきりになっていた祖父はエリシャに言った。
「神様というのは、バアルですか。アブラハムの神ですか」と、口を開かないエリシャに代わって彼の父が祖父に語りかけた。祖父は「神は一人しかおらん」と厳しい口調で言った。
エリシャは、祖父がバアルへの崇拝に出かけたのを見たことがない。バアル以前の、従来のイスラエルの神を熱心に信仰し続けていたのが彼の祖父だった。同じような老人たちと数人連れだって、今やだれも信じなくなったアブラハムの神に祈りをささげているのが、彼の祖父だった。
「嘆かわしいことだ。我々をエジプトから逃がした神を忘れ、異教の神が死んだと嘆きおって。馬鹿馬鹿しい。バアルなどという神、もとよりおらんのだ」
祖父は窓から空を見上げていた、悲しそうな目つきだった。空には雲ひとつなく、底抜けの青さが非常に不気味だった。エリシャ自身は見たことがないのだが、彼は以前本当に強い炎は赤ではなく青色をしているものだと聞いたことがある。きっとこのような青なのだろうかとエリシャは感じていた。
「神はただ一人だ、唯一の主だ。嘆かわしい。……ええい、今のイスラエル人も、あの不心得の王も、阿婆擦れの王妃も、どいつもこいつも嘆かわしいわ。神は我々を見捨てられたのだ、貴様らのような不心得者のおかげでだ。ソドムとゴモラを滅ぼしたようにイスラエルを滅ぼそうとなさっているのだ。イスラエルはもはや背徳の国だ」
「自分の守った人間を自分で滅ぼす神ですか!そんなもんをなんで信じてたんです?」と父が嫌味たっぷりな口調で祖父に言うと、祖父は「戯け者が!」と彼を一括した。
「何様のつもりだ、貴様は!この干ばつは神が命じたものなのだ!」
エリシャはそれから先、聞かないように耳をふさいだ。バアルだろうとアブラハムの神だろうと、同じことだ、と彼は思った、どうにせよ、神はいないのだ。そして死と絶望がこの世を支配したのだ。彼はただ、そう信じて疑わなかった。死ぬまで待とう、どうせ自分もいつか干からびて死ぬんだ、と彼はそう確信していた。


だというのに、今、彼は世界を飲み込んでしまいそうなほどの大雨を目の当たりにしている。


たったの数分前に、エリシャは今自分の目の前に立つ男に呼び止められた。自分がなぜ大勢の人々から離れてわざわざ山の頂上まで来たのか、わずかの前の事なのにまったくはっきりしない。言うならば、自分は導かれてきたような思いだった。山頂に、彼がうずくまっているのを見た時は驚いた。先ほどまであれほどまで荒まじいことをしでかしたこの男が、こんなところで何をしているのか。国王、アハブに取り入るなり人民に演説するなりなぜしないのか。エリシャは混乱した。彼はふとエリシャに気が付くと、頭をゆっくりと起こし、ティシュベのなまりで「坊ちゃん」と呼びかけた。「ちょうどいいところに来てくれたな。海のほうを見てくれ」と彼は唐突に言った。
「海ですか?」
「ああ。頼んだ」
彼は一歩も動かないままエリシャにそういった。エリシャはなぜかどうという気が起こらず、素直に海の方に目を向けたが、何もない。相変わらず、青い炎のような青空が広がっているだけである。
「何もないか?だとしてもまだ見ててくれ。ちょっとじゃ駄目なんだ。俺がいいというまで」
エリシャは結局そのまま海に視線を釘付けにした。男は海のほうを向いてうずくまっているわけではないので、全く視線がかみ合わない。変な空気にエリシャは少々辟易し、「何が起こるんですか」といった。
「貴方はそもそもこんなことしている場合なんですか、することがあるでしょう」
「だから今それをしてるんじゃねえか。ったくよ、ちょっと刺激の強いことすりゃてめえらすぐにもともとの理由を忘れやがる」
そんな恰好でそんなこと言われてもなあ、とエリシャは心の中でため息をつきつつ、「ひょっとして、雨を降らせるんですか」
「降らせるんじゃねえ。降らしてもらえるように祈ってんだ」
「こんな晴れてるのに」
「馬鹿かよ、三年前より前だって晴れた日はあったろ」
「そうですね……確かに」
エリシャは全く動く気配のない、相変わらずの死の匂いがする青空とその色を反射してギラギラと輝く水平線を眺めながら、自分も腰を下ろした。
「でも降ればすごいですね。今度は貴方が神とあがめられるかも」
「おいおい、これだから最近の子供ってのはよ……預言者ってえのを知らねえのか?イスラエルに神は一人さ。神の言葉を聞く人間がいるだけだ」
「なんかあなた、年寄りみたいですね。僕の父より若いのに」
エリシャがそういった瞬間、ふと水平線の彼方から近づいてくるものがあった。雲だ。三年ぶりに見る、雲だ。手のひらほどの小ささではあるものの、まぎれもなく雲だった。
「あ……」とエリシャが声を上げたのを耳聡く聞きつけた彼は「どうした!?雲が出たか!?」と楽しそうに言った。
「ええ……まあ」
「よし。済まねえな坊ちゃん、もう一つ頼まれてくれ。アハブに言ってきてほしいんだ、もうじき大雨だから本降りになるまでに帰った方がいいってよ」
彼は顔だけエリシャのほうに向けるとそういった。
そしてエリシャが出発し、アハブにその旨を伝え、彼のもとに帰ってきた瞬間、突然黒雲が一瞬で空を埋め尽くし、豪雨と風が巻き起こった。たった一瞬の出来事だった。


エリシャは今全身に雨を受けている。三年ぶりどころか生まれてから出会ったことの無いような強い雨だ。大粒の雫が吹き飛ばされそうな暴風に交じってあまりに激しく打ち付けるので、顔や手など素肌の部分は痛さすら感じる。衣服が完全に水を降って、体は冷え切っている。つい数時間前まで煮えてしまいそうに火照っていた体がだ。歯がガチガチ鳴った。鼓膜がまだ激しく痙攣しているように思える。あの大きな雷の音が、数時間たつというのに耳から離れない。目の前ではじけ飛んだ光と轟音と衝撃の余韻を、強く降る雨の振動が一層揺さぶっていた。直接心臓に雨が打ちつけているようだ、とも思った。彼が立っているのは何も遮るものがないカルメル山の山頂で、いっそ自分は吹き飛ばされてしまうんじゃないか、と彼は恐怖した。
エリシャの目の前の男性は地にうずくまった姿勢から体を起こすと、「バアルの力だと思うか?」と不意に話しかけた。彼の鴉の羽のような色をした瞳がエリシャに向けられた。
目の前の彼も自分同様、雨に打たれてすっかりびしょ濡れになっていた。毛皮のケープと同じ毛皮の着物、皮の帯という修行者のような衣装もすっかり水を吸い、彼の長い頭巾と束ねた長髪は暴風にあおられてはためくものの、バタバタと非常に重そうな音を立てていた。
「アハブは?」
しかし、そう問いかける彼は非常に堂々としていて、全くみっともらしさは感じられなかった。
「あなたの言うとおり、すぐに帰るように言いましたが」と、答えるエリシャ。
「どれどれ。……くくっ、見てみろよ坊ちゃん。どうやらアハブのやつ、お前の言葉を聞くには聞いたみてぇだが、信用しなかったようだな。ははは、無様なこった。イスラエルの国王がねえ」
彼が含み笑いして指差す先には、人々に交ざって走りだそうとしているイスラエル王家の馬車があった。しかし、立派で壮麗な馬車であるにもかかわらず豪雨と強風のおかげで馬はすっかりおびえて動かず、御者が必死に鞭を入れている。やっと動き出したかと思えば、馬のうち一頭があわてて足をもつれさせ、転んでしまった。その拍子にバランスを崩した馬車から、豪奢な服を着た男性が転がり落ちて、荒れた岩山の道に顔と体をしたたかうち付ける様子がよく見えた。その様子を見て、あまりの雨と風に委縮していたエリシャもさすがに噴き出した。
「山頂って言うのはいい席だね、なんでも見えるぜ」
「……そうですね」
馬車から転がり出た男性、すなわちイスラエル王アハブが従者に手を引かれながら車に戻り、馬車がよたよたとイズレエルの方向に向かって進んでいくのを見送りながら、エリシャはその男性と笑いあっていた。
そうして少しリラックスすると、エリシャは、その雨がただ強いだけでなくどこか不思議さを秘めていることに気が付いた。これほどまで強ければほんの少し前すらも見えなくていいくらいなのだが、なぜだかはっきりと見渡せるのだ。激しさこそ比類ないものだが、ただその荒っぽさに似合わず美しく、透き通った雨だとエリシャは思った。
彼の言うとおり、彼ら二人だけが立つカルメル山の頂上から何もかもが見渡せた。突然の豪雨のせいで散り散りに逃げだす人々の姿も、全身を歓喜に打ち震えさせながら三年ぶりの雨を全身で吸い取るイスラエルの大地も。そして、大雨にさらされた、つい先ほどこの隣の男に殺されたばかりの四百五十人の死体と、その中心に散乱している黒焦げの石の破片も。ほとんど粉々の破片だが、唯一角の先のような部分だけが見て取れた。角のついた冠はバアルの象徴である。バアルが死とともに、終わりのない決闘で奪い合っていたはずの王冠である。バアルの神像は、常にその冠をかぶっていた。その角の先が暴風のおかげでふと転がり始め、息を吹き返したかのように流れ出した小川に落ち、沈んで見えなくなってしまう様子すらも何故だかエリシャにははっきりと分かった。


「帰らねえのか、坊ちゃん、風邪ひくぜ」
「帰っても混みますから」とエリシャは言った。「それに、考えなきゃいけないこともありますし」
「考えなきゃいけないこと?」
「はい。雨が降ったのはうれしいですがすっかり畑は痩せてしまったから耕し治すのも大変ですしね。その前に家畜を売っちゃったから新しく買わないとって。運河も新しく掘る必要がありますね、やることが盛りだくさんで、しばらくじっと考える時間がほしいんですよ」
「農民っつうのは大変だな、俺は畑を耕したことなんて生まれてから一度もねえからなあ」
男はケラケラ笑い、「坊ちゃん、名前は?」といった。
「エリシャ」
「そうか。エリシャ。お前のこと覚とくぜ。じゃあな、俺はもう行かなきゃならねえんだ」
そういって彼はポンとエリシャの頭に手を置くと、着物の裾が短くなるように帯を締めなおす。そして、「それじゃ、元気でな」と言って一目散に豪雨の中を駆け抜けていった。彼がまるで荒野に生きて荒野に死ぬ動物のように、軽やかかつ俊敏にごつごつした山道をものともせず裸足の足で駆け抜けていく一部始終を、エリシャははっきり見ていた。彼がもたもた進むアハブの馬車を風のように追い抜いていくのも、エリシャには見えていた。エリシャはカルメル山の山頂から彼を見続けていた。
その後姿を眺めながら、そして雨に打たれながら、エリシャはふと、祖父の事を思い出した。こんな記憶はなかった、と思うが、ひょっとして自分が忘れようとして思い出さなかったのかもしれない、と思った。
記憶の中で祖父は、父ではなく自分だけに語りかけていた。なぜこの干ばつは神の罰だとわかるのか、ということだった。
「お前も知っているだろう、王の前に現れた修行者のような男の噂だ」祖父はその時かなり衰弱していて、息絶え絶えにエリシャにそういった。「この干ばつは神の罰だといった男だよ。わしは彼に会ったんだ、お前と父さんが配給に言ってる間に、この窓の外に立っていたんだ。わしにはわかったよ。彼は本物の預言者だ。神に仕えるものだ。この干ばつは神があと一年もせず必ず終わらせると彼は言っていたよ。な、だから安心しなさい。エリシャ。若いのにそんな死にそうな顔するんじゃない。神様は助けてくださる。干ばつは終わるよ」
すでに神という概念そのものを信じなくなっていた自分はそのことを心から消していたのかもしれない。とエリシャはぽつりと考えた。祖父の事はがみがみ怒ってばかりいる記憶しかなかったが、なぜか雨が一粒一粒打ち付けるたびに祖父の優しい言葉をこれ以外にも次々思い出してきた。祖父が死んだことをエリシャは、初めて悲しいと思い始めていた。雨は相変わらず冷たかったが自分の頬に、冷たくないものが一筋だけ伝っていくのがわかった。
と何千粒めかの雨粒がエリシャを打った時、彼はふともう一つ、思い出した。
「そう、彼はな。エリヤ。エリヤと名乗っていたよ」

なるほど、できた話だ、まるで神様が用意した芝居の脚本じゃないか。とエリシャは笑ってカルメル山を駆け下りるエリヤの後姿を眺めた。ちょうどその時、彼の姿が雨粒に溶け込むようにかき消えた。


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美女ヘレネ 十一話

シモンは、塔の上にヘレネを連れてきた。当の上にはすでにネロが控えていて、シモンとヘレネのための椅子も拵えてあった。二人は、そこに腰かけた。
ヘレネは例の、白い絹のドレスを着せられていた。ただ、シモンにつけられた傷痕や痣を隠すため、おしろいを何重にも塗り付けていた。
「もうすぐ昼だ」ネロは言った。「あの男は来るかな?」
「きていますよ」
ヘレネの唐突な言葉は、嘘ではなかった。ヘレネには高いところからでもペトロの足音が聞こえた。ほどなくしてシモンとネロも、見覚えのある青と黄色に気が付いた。ペトロは噂を聞きつけて集まってきた群衆の隙間をくぐり、まっすぐに広場にやってきていた。後ろには、パウロもついていた。
「来たな。無法者!」広場中によく響く声で、ネロはそう言った。「逃げずにいたのは感心だ。さてシモンにペトロ、貴様らの言う神の力とやら、見せてみよ。貴様らの主張が真実だと、あかしを立てるために」
シモンはゆっくりと椅子から立ち上がり、「皇帝様、わが女神に祝福を与える許可をくださいませ」と言った。ネロは「よかろう」と即答した。
彼は今までの中で一番の大輪の青い薔薇で編んだ冠を、静かにヘレネの頭に乗せた。
「ヘレネ」彼は彼女にだけ聞こえる声で言った。
「お前はおれのものだ。おれは神そのものだ。見ていろ。分からせてやる。全てはおれの自由になるのだ」
彼は笑っていた。昨日と同じような顔で笑っていた。
彼はこれから死ぬのだ。悪霊の力は、神の力などではない。彼はそれを知らない。絶対に、知ろうとすることさえもないだろう。
彼にかけるべき言葉が、ヘレネの頭の中を駆け巡った。彼に拾われてから、どれほどの時間がたっただろうか。覚えていない。その間に彼にされたことは何だろうか。彼は自分にとって、どのような存在だっただろうか。
ペトロが最も必要としていたのは、彼の師に再び会うことだった。では、シモンが必要としていることは一体何なのか。自分が今できることで、シモンに必要とされていることは何なのか。この無邪気で残酷で無知で、哀れな男に、自分が言ってやれることとは何なのか。
「シモン」
一つ、頭の中に、言葉が浮かんだ。急に、姿を現したのだ。闇の中から光が生まれるように、無から有が生まれるように、その言葉が姿を現した。人はそれを、天啓と言うのかも知れない。
彼女は、静かに彼に囁いた。
「あたしのおなかのなかにね、あなたのこどもがいるの」
「おれの子供だって!?」彼はひそひそ声で驚いた。
「うん。でもね、きいて……もうすぐ、そのこ、しぬの。あなたが、なんかいも、あたしをなぐったから。きのう、おなかをなぐったから。……だから、しぬの。うまれてないのに、しぬの」
ヘレネの言葉に、シモンは言葉を失った。そんな彼にヘレネはなおも囁いた。
「あなたはあたしをなんかいも、なぐった。まいにち、おかした。あたしのひつじさんを、ころした。あたしのだいすきなペトロにも、ひどいことした。そして……あたしのこどもを、あなたは、ころした。あなた、あたしをやしなってやったっていうけど、あなたはあたしにひどいことをした。たくさんした。あなたはひどいひと。たとえほんとうにかみさまでも、それでも、あなたはひどいひと」
シモンは、黙ってそれを聞いていた。言葉がつむげないようだった。
「あたしね、あなたのこと」
ヘレネは口を開けた。地下墓所の時のように勝手に動いたのではなかった。自らの意志だった。にっこりと微笑みを浮かべて、彼女は自分の前に立ち尽くすシモンに言い放った。


「あなたのこと、ゆるすわ。シモン」


その言葉に、目を瞬かせるシモンは、年齢よりもずっと幼く見えた。ヘレネはそれを見て、くすりと笑った。
ヘレネは、自分の中に燃える、例の炎の存在を感じていた。体の中に語りかけても、もう声は聞こえない。おそらく、自分に心配をかけまいと、静かに息を引き取ったのだろう。自分の体の中には、ただ炎だけが燃えていた。これがペトロの言った、聖霊の光というものだろうか。
これでいいのだ、とヘレネは感じていた。シモンだけではない。ヘレネは、この世の全てを同じ瞬間に許した。ネロも、アグリッパも、全てを許した。自分を蹂躙してきたイスラエルの男達も、許した。自分を棄てた父母も許した。
「(このよは、なにも、うらむところなんてないわ。このよは、こんなにきれいなままだもの)」
正午の日差しに影をほとんど失い、眩しく照らされたローマを一望して、彼女はそう思った。
彼女はもう一度、シモンに微笑んだ。彼は、本物の女神に相対したかのように、彼女を見つめていた。

彼は、何も言わなかった。彼女を振り切るように踵を返し、彼は呪文を唱え始めた。
突如、例の暗い、重苦しい空気が広場中に立ち込めた。酒に酔ったように、平衡感覚を失う。空が割れて代わりに赤黒い泥のようなものが上空に渦巻いた。
シモンが再度念じると、彼の背中に、光でできた猛禽類の翼が生えた。暗い世界で、それだけが唯一輝いていた。彼は翼を羽ばたかせると、塔の上から飛び立った。
彼は鳥のように光の翼で大空を滑空し、ちょうど広場の真ん中に浮揚した。そして指を鳴らすと、赤黒い泥からいくつもの、同じような光の翼を生やした黒い天使達が現れて、攻撃態勢をとった。
シモンは、何も言わなかった。言おうとしているのに言葉が出ないようにも、ヘレネには見えた。彼はただぱちりと指を鳴らした。その合図で、一斉に黒い天使達がペトロに襲いかかる。
ペトロは広場に立っていた。広場に居る誰もがうろたえる中、彼とパウロだけは微動だにしなかった。
天使達の槍が、一斉にペトロに向かって襲い掛かる。今にも刺さるかというとき、彼はようやく口を開き、言った。
「イエス・キリストの御名によって。悪霊よ、立ち去れ」

その短い言葉で、全てが消えた。
その言葉に呼応するように、まず最初にシモンの真鍮の指輪が上空で砕けた。それを初めとして、何もかも無くなっていった。天使達の槍が消え、天使達が消えた。赤黒い泥も消え、青い空が戻った。黒い空気も消えた。そして、再び光が広場に戻った瞬間、シモンの光の翼も周りの光に溶けるように、消えて無くなった。
空の上で翼を失ったシモンは、まっさかさまに広場に落下した。そして物の数秒もせず、大きな音とともに地面に叩きつけられ、大量の血しぶきを飛び散らせて、グシャグシャの血と肉と内蔵の塊になった。



広場がざわめく。シモンは人間の原形すらとどめてはいなかった。彼の召喚した赤い泥のように、ただの赤い物質になって地面に広がっていた。
ふと、ペトロと目が合ったような気がした。彼の目は、悲しげに見えた。本当は、彼も許したかったのかもしれない、とヘレネは思った。それでも、彼は、悲しげでも幸せそうだった。
正午の日はすでに傾いて、影は息を吹き返しつつある。ローマは影があっても美しいとヘレネは思った。
何もかもが美しい。許せないものなど何もない。当然だ、ここは神の作った世界なのだから。良いものも、悪いと呼ばれるものも、全て、神が愛する世界なのだから。

「とんだ食わせ物だったな」ネロの冷酷な声が聞こえた。「と、なれば、貴様も嘘の女神でしかないわけだ」
ヘレネはとん、と、背中を押された。次の瞬間、ふわりと自分の体が宙に舞った。
自分の頭を青薔薇の冠が離れ、地に向かって落ち始めた。一息遅れて、彼女自身も落ち始めた。
落ちる間、彼女の頭にはいろいろなことが浮かんでいた。シモンと出会った日の事、シモンに初めて連れ出された日の事、羊と楽しく遊んだ日の事、ペトロと会った日の事、ペトロと過ごした数日間の事、様々な事が思い出された。その中に、見覚えのない光景が混ざっていた。
よく知っている地下墓所の壁画だ。しかし、知っている絵ではなかった。初めて見る絵だった。蘇ったイエス・キリストを取り巻く人々の絵。ああ、ルカが完成させた絵だ、とヘレネは理解した。
最後に、脳裏に浮かんだのは白い世界だった。白い世界を歩き続ける彼女の前に、人間にも、神のようにも見える何かが、彼女を待っているように立っていた。彼は優しく微笑んでいた。彼女もにこりと微笑みをかえし、彼の目の前で、静かに立ち止まった。


青い薔薇が、赤色に戻った。


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美女ヘレネ 十話

明日で、ネロの指定してきた例の日になる。ネロの館に出かける前に、シモンは相変わらずつながれたままのヘレネにこう言った。
「ヘレネ、明日は一緒に連れて行ってやろう」
彼は勝ち誇ったように笑っていた。ヘレネは何も言い返さなかった。明日になっても、ペトロは来ない。彼はどこか遠いところにいるのだ。その事実をシモンは知らないし、ネロも知らない。シモンは彼が来ると確信しているようだった。彼の頭の中にはペトロを殺してやることしかないのだろうとヘレネには分かっていた。ヘレネはただ「いってらっしゃい」とだけ言って彼を見送った。
「いっちゃったね」体の中の声が呟いた。
「これで、ゆうがたまでゆっくりできるね」
「ええ」
ヘレネは、今までで一番穏やかな気分だった。全てが、うまく進んでいるように思えた。
「ペトロはげんきかしら?」
「げんきだとおもうよ。でも、もしもしんぱいだったら、かれのためにおいのりしてあげると、いいんじゃないかな」
「おいのりかあ」ヘレネはその言葉を聞いて、地下墓所での祈りの言葉に注意深く耳を傾けていなかった自分に後悔した。「あたし、しらないのよね。ペトロたちのつかうおいのり」
「じゃ、じぶんなりでいいんじゃない」ヘレネの悩みを一蹴するかのように彼が言った。「ちゃんとしたのは、あとからおぼえればいいんだから」
「そうね」
ヘレネは考えた。ふと、以前の事が思い出された。
彼に何より必要なのは、亡くなってしまった師そのものなのだ。裏切った自分を許してくれた神の子と再び会うことなのだ。もしももう一度会えさえすれば、ペトロはこれ以上なく喜ぶだろう。
「かみのこどもさん」
ヘレネは小声で祈った。
「ペトロのところに、きてあげてください。きっと、いままでにないくらい、さびしがっています。きてあげてください。そして、なにをするべきか、おしえてあげてください。おねがいします」
祈りながら、ヘレネは心が温かくなるのを感じた。柔らかい毛布に包まれているような心地よさがあった。ふと、眠気が襲ってきて、ヘレネはそのまま寝台に倒れこんですやすやと眠り始めた。心地よいものだった。まだ午後にもなっていないのに、たっぷり動いた日の夜よりも、素晴らしい眠りだった。

夢の中で、ヘレネは白い世界にいた。前に例の羊とともにいた世界だ。彼女は羊の名前を呼んだ。
メエと聞き覚えのある声がして、懐かしい子羊が彼女の前に現れた。彼女は驚きと喜びで、泣きながら羊を抱きしめた。彼は嬉しそうにヘレネにじゃれついた。
彼女達は歩き始めた。この前と同じように、ただ白いだけで何もない世界を歩き始めた。何もないのに、全てがそこにあるかのようにヘレネは思えた。
ヘレネはふと、いつの間にか自分が抱きかかえているものに気が付いた。彼女は赤ん坊を抱いていた。白い衣に包まれた赤ん坊だ。彼は真ん丸な目でヘレネのほうを見ると、「きれいなせかいだね」と言った。ヘレネも「そうね」と返した。羊もうれしそうに甲高く泣いた。
なおも三人歩き続けていると、もういくら歩いたかも分からないとなったころ、視界にもう一人の人物が見えた。彼には見覚えがあった。
青と黄色ではなく、真っ白なチュニックとマントに身を包んだペトロがそこにいた。彼はヘレネ達を見るとにっこりと笑った。
「ずいぶん歩いただろう」ペトロが優しく言った。「どこを目指しているんだ?」
「それが、わからないの」ヘレネも笑って答えた。
「いっしょに、あるいてくれない?」
「ああ、もちろん」
ヘレネは、赤ん坊を片手で抱きなおし、もう片方の手をペトロのほうに差し出した。彼はそれを、貴婦人を相手にするように丁重に、しかししっかりと握り返してくれた。


目が覚めると、すでに日も傾きかけていた。何時間寝ていたのか分からない。昼食も食べていないが、空腹感はなかった。
日差しが非常に明るい。熱さを感じるほどだ。窓から見える庭が光に満ちていた。夢の続きを見ているような気分をヘレネは味わった。
自分が着ているのは白くはない部屋着のままだし、羊もいない。赤ん坊も抱いてはいない。そしてペトロもいないのに、と彼女はなんとなくおかしく思って笑い、庭に近づいた。その次の瞬間、自分のその考えが間違っていたことが分かった。
「やあ、ヘレネ」と言う声が聞こえた。優しい声だ。目の前には、ペトロが立っていた。彼は強い日差しを受けて、体中、真っ白に輝いているように思えた。

「ペトロなの?」
ヘレネは面喰って、恐る恐るそう言った。
「ああ、おれだよ」
彼は戸惑うヘレネに、穏やかに微笑みかけて見せた。
「どうして!?ローマからにげたはずじゃない」
「そうなんだ。逃げたんだが、戻ってきてしまってな」
彼は例の日に犬にかまれた方の腕に包帯をしていた。包帯の上からも血と膿がにじんでいてヘレネがそこを心配そうに見つめると、ペトロは「大丈夫さ、安心してくれ」と小さく返した。
「聞いてくれないか。ヘレネ。不思議なことが起こったんだよ。おれの身に」ペトロは窓辺に肘をついて話し始めた。
「おれはローマから逃げていたんだ。ローマから反対方向へ向かう道に。まる一日以上、ただ逃げようとして、歩き続けていたんだ。そうしたらな、向かいから人が歩いてきたんだ。ローマの方向に向かっていた。まっすぐ、よどみなくローマに向かって歩いていたんだ。おれは……目を疑ったよ。信じられないかもしれないがね、ヘレネ。その人は、主だったんだ。天の国に帰られたはずの……おれの先生だったんだ。イエス・キリストだったんだ」
彼の表情は、ヘレネが今まで見てきたどんな人のどんな表情よりも、幸福そうだった。究極の幸福を受けた人はこのような顔をするのだろうとヘレネには思えた。笑顔なのかどうかすらも、もはやよく分からなかった。ただ一つ確実なのが、ペトロは、幸福そうだった。
「おれはあわてて問いかけたんだ。『主よ、どこに行かれるのですか』とね。そうしたら、あの人は……あの人は、少しも変わらない、おれの記憶通りの懐かしい声で、あの声で……おれに優しく言ったんだ。『私はローマに行って、もう一度十字架に上がるのです』と。あの人の両手には、釘の跡があった。おれが『主よ、あなたがもう一度、十字架にかけられるとおっしゃるのですか』と聞き返したら、あの人は笑って……まったく、昔通りの微笑み方で、『そうですとも。私がかけられるのです』と言って、そのまま、またローマに歩いて行った。その後姿を見て……おれの中で何もかもがはじけたような気分だったよ。おれは泣いた。泣きながらあの人の後を追いかけた。おれは……もう二度と、あの人を一人で死なせたくはなかったんだ。今度こそ、何があっても、あの人と運命を共にしたかったんだ。なぜか走っても走っても、全く距離が縮まらなかった。あの人はゆっくり歩いているだけなのに。走りすぎて息が荒くなったし、泣くのは全くやめられなかった。それで、息を切らしながらおれはこう言ったんだ。『おれも死にます!おれも帰ります、貴方と一緒に十字架にかけられます!』と……何回も途切れながら、必死でこう言ったんだ。言いおわった時、おれはいつの間にか、先生に追いついていた。先生は泣きじゃくるおれを優しく撫でてくれて……一緒に、ローマに向かって歩いてくれたんだ。気が付いたときには、ローマの市門に着いていた。先生はそこで、おれに向かってにっこり笑って、静かに天に昇って行かれたんだ」
長く、長くペトロは語った。語り終えると彼は満足そうに、空を見上げた。
「おれの運命は、こうだったんだ。ローマで殉教することが、あの人がおれに下された運命なんだ。ヘレネ、パウロが君に話しただろうから、知っているだろう。おれは死ぬよ。でも、何も怖くはない。覚悟はできている。おれはあの人を裏切った。でも、今度こそ、おれはあの人のために命を投げ出す。あの人のために、神の御業を示す。ここに来る前、地下墓所でみんなにも話したんだ。みんな、分かってくれたよ。パウロも、分かってくれた。それが神の定める運命なら、と……。おれは、ろくでもない弟子だったよ。あの人の行う奇跡にばかり目をとられていた。ただ目に見えるものしか見てはいなかった。あの人が本当に言いたかったこと、行いたかったこと、何もかも分かってはいなかったんだ。でも、あの人はおれを許された。誰もかれも、許された。だから、今度こそおれは、あの人の決めた運命に従うよ」
ヘレネも彼と一緒に空を見上げた。地上同様に、空も光に満ちていた。雲も、空も、輝いて見えた。
「ねえ、あなたのせんせいがいいたかったこと、おしえてよ」ヘレネは笑った。
「うん、いいよ」ペトロは、初めて会った時と同じ、生気に満ちた目で彼女に向かい合った。
「あの人は、人類の罪を贖いたかったんだ。人間が積み重ねた罪を、あの人はすべて一人で贖うために、神の子でありながら人間になって、十字架上で刑罰をうけられたんだ。……あの日、十字架にかかるべきだったのは、人類全員だったんだ。あの人は、それを、たった一人で受けられた。愛想を尽かすこともできたはずだ。人間はそんなに可愛げのある存在でもなかったはずだ。……それでも、あの人は、そして天の父は、その計画を実行された」
「やさしいのね」ヘレネは呟いた。「そうだよ」とペトロは彼女の声にしみこむような声で言った。
「おれ達の言うことを荒唐無稽と言うやつもいる。……でも、おれは、嬉しいんだ。そうして、救われたことが嬉しい。そして、そこまでの愛を、自分に、自分達に、この世の何もかもに持ってくれていた神が、存在することが嬉しい」
ペトロは鍵のネックレスをいとおしげに撫でた。
「ヘレネ……おれは今、幸せだ」
「うん、わかるわ」

風が吹き付けて、ペトロのマントを揺らした。心なしか、風さえも輝いているように思えた。二人とも、また空を見つめていた。
「ペトロ、あたしね」
「なんだい?」
「おいのりしてたの。じつは」
二人とも空を見上げたまま、目すら合わせない会話だった。
「あなたがさびしいだろうから、あなたのせんせいに、あなたにあいにきてください、って……」
その言葉を聞いて、ペトロが小さく声をあげて笑った。そして、透き通るような穏やかな声で「ありがとう」と言った。

しばらくの間、彼らはそこにいた。ようやく日の光が白から赤に変わってきたころ、一つ、君に謝っておかなくてはならないことがある、と、ペトロのほうが先に口を開いた。
「シモンの事だが」
「シモンさま、どうかしたの?」
「あいつは、おそらく死ぬ」
ペトロがヘレネの方を振り返って、ぴしゃりと言った。真剣な顔立ちだった。
「あいつの魔術は、悪霊の力だ。あいつ自身は気付いていないのかもしれんが、あいつは悪霊に取り込まれている。もうおそらく、救ってやることもできない」悔しそうに、ぺトロは呟いた。「シモンは明日、おれに敗れて死ぬだろう」
ヘレネは驚かなかった。驚かず、悲しそうな顔で「そう」と返した。
「万が一、おれが敗れたとしても」ペトロは言葉をつづけた。「あいつは死ぬよ。ただ、数日寿命が延びるだけの事だ」
日は少しずつ落ちてきている。オレンジ色が、どんどん真紅に変わっていく。庭の青い薔薇も、夕日の色を受けて、少しだけ赤い色を取り戻しているかのようだった。
「おれが消えれば、次にネロの標的になるのは……おそらく、シモンだ。このローマで、おれ達の教えの次に皇帝の邪魔になりやすいと言えば、シモンの教えだ。あいつの教えもまた、皇帝の主張にはなじまない。あいつがなぜネロに取り入ることができたか分かるか?セネカさんがパウロに話してくれていたよ。……おれ達を排除させるのに使うにはちょうど良かったから、だと。ネロにとってシモンは体のいいコマにすぎないんだ。今は放っておかれても、いずれこのまま大きくなれば、あいつはそれこそ自らの教えを持って皇帝の座を脅かす。ネロはその前に、シモンを殺す気だよ。……本当のところ、ネロが一番望む明日の結末は、おれがシモンに勝利して、おれも奴も、両方死んでしまうことかも知れない」
ヘレネはその言葉を聞いて、うつむいた。ペトロはそんな彼女に、言った。
「ヘレネ。君があの日、ネロに語った言葉を覚えているかい。ローマは変わらない、世界もこのままだ、と……あの君を見て、あの時の君の微笑みを見て、おれは、君の中に聖霊の光を感じたよ」
彼は窓辺に置かれたヘレネの手に、そっと自分の手を重ねた。
「ルカがあの絵を完成させたんだ。おれが出発した次の日に、出来たらしい。主の復活の場面だ。……ぜひとも、君に見に来てほしい」
「うん、みるね。ぜったい」
ペトロの手は冷たかった。硬くて、傷だらけだった。ヘレネは自分のもう一つの手も、彼の手に重ねた。彼の手を、温めるかのようだった。

ふと、足音を聞きつけたヘレネは「ペトロ、シモンさま、かえってきた」と小声で言った。
「すぐに、かえって」
「わ、分かった」
ペトロは手をひっこめると、マントを正した。
「ヘレネ」
そして、もう一度、ヘレネを見つめた。
「さようなら」
「さようなら、ペトロ」
彼はその言葉を聞いて、静かにその場から立ち去って行った。すぐに姿は掻き消えてしまった。



シモンは帰ってくるなり、何も言わずにヘレネをつないでいる縄を切り、食事の席に連れて行った。食事の席にはいつも通り、シモンとヘレネの二人しかいなかった。
シモンは彼女に葡萄酒を勧めた。彼女はそれを飲み干した。
「お前は、ずいぶんいやそうな顔をするな」
彼は帰ってきてから初めて口を開いた。
「ぶどうしゅは、きらい。とくにさいきんは」
「じゃ、なんで飲んだ」
「のめっていったのは、シモンさまですよ」
それで終わったまま、会話が続かなかった。
ヘレネは、数日間食べてない分を取り戻そうとするように、よく食べた。シモンのほうがそんな彼女を見つめているばかりで、ろくに食べようとはしなかった。

食事が終わり部屋に帰った後、ヘレネはポツリと「シモンさま」と言った。
「なんだ?」
「みて、すごく、ほしが、きれいです」
そんな言葉はあっさり一蹴されるかと思ったが、シモンは意外にも素直に自分も窓辺までやってきて、夜空を眺めた。しかし帰ってきたのは「そうでもないじゃないか」という一言だった。
「大体、雲がかなり出ているじゃないか。もっと晴れていないと、きれいな星空とは言えない」
「それでも、きれいなんです」
ヘレネは目を合わせないまま「あしたですね」と言った。
「ああ」
シモンはヘレネを睨みつけて、言った。「ヘレネ、明日が奴の命日になるのが、悲しいか?」
「ペトロの?」
「そうだ」
シモンは得意げに続けた。
「お前が守ったあいつは明日死ぬ。おれの手で、お前の目の前でな。おれの、真実絶対の神の力によって。ネロの馬鹿皇帝もますますおれの力を畏れるだろうさ。ローマの愚民共もそうだ。おれの教えはますます広がる、お前を女神と崇める者ももっと増えるぞ。そうとも、おれこそが大能だ。おれにできんことはない。おれこそが絶対の神だ」
ヘレネは、星から目を離して彼の表情を見た。彼は、信じ切っていた。何もかも、信じ切っていた。明日、彼はペトロを殺すということも、ネロは本当に自分を畏れ、重用しているのだということも、自分こそは真の神の力を使うものだとも、信じ切っていた。
知恵の足りない自分ですら知っていることを、この目の前の男は知らない。知らないまま、無邪気に信じている。ヘレネは彼が哀れに思えた。ペトロが死ぬなら、彼もまた死ぬのに、この男は自分だけは百年でも千年でも生きられると確信している。自分がネロに、悪霊に振り回されていることも知らずに、自分が彼らを振り回している気でいる。ヘレネは泣いた。シモンはその涙を見て、何も言わずに短く笑った。
「ヘレネ。ただの娼婦から、誰にも崇められる女神となれることが、うれしくはないのか」
彼はヘレネに問いかけた。ヘレネは口を開いた。口は錘でもつけているように重々しかったが、ヘレネはそれを持ち上げた。
「わたし、きょうのひる、ゆめをみたんです」
「夢?」
「そう。ゆめ」
シモンは全く脈絡のない彼女の発言に、戸惑ったような顔をした。ヘレネは続けた。
「まっしろなせかいを、あたしがあるいてた。ひつじさんがいっしょだったの。あのひつじさん。ペトロもいっしょだった。あと、もうひとり、おとこのこもいっしょだったの。でも、あなたはいなかった。あなたは、そこにはいなかった。わたしたちはずっと、ずっとあるいていたけど、でもそこにあなたは、いつまでたっても、あらわれなかった」
「それはどういう意味だ」
言い終わったヘレネに向かって、シモンは震える声で問いかけた。
「しらない。でも、あなたはいなかった」
ヘレネは細い指で涙をぬぐうと、シモンの目を見つめて見った。
「シモンさま、あした、ネロのところには、いかないで」
彼女はシモンに縋り付いた。縋り付いて、か細い声で言った。
「いかないで、いくとあなた、しんじゃうのよ」
「おれが死ぬだって?」
「そう、しんじゃうの」

次の瞬間、ヘレネは目の前が真っ白になるほどの激痛に襲われた。シモンが彼女の腹を力いっぱいなぐりつけたのだ。
「おれが死ぬ?おれが負けるって言うのか?」
彼の声も、拳も、怒りにわなわなとふるえていた。ヘレネは痛みに意識が飛びそうだった。
「よくもそんなことが言えたものだな。まさか本当に自分が女神だと信じ込んでいるんでもあるまいし……この娼婦風情が!おれが助けてやらなけりゃ、野垂れ死にしていたくせに!」
それが、彼の言葉か、とヘレネは思った。
彼に青い薔薇をもらった時、彼に娼館から連れ出してもらった時、自分は、本当に嬉しかった。その時の気持ちを思い出していた。
ヘレネは床に倒れたたまま、泣き出した。ペトロが言ったとおりだ。シモンは救えない。彼は死ぬのだ。死ぬようになっているのだ。自分の体以上に、自尊心が痛んだ。そしてそれ以上に、自分がシモンに対して保とうとしてきた敬意が全て崩れ去っていくのが、痛くて痛くてたまらなかった。彼女は泣いた。泣き疲れて眠るまで泣いた。シモンは立ったまま、じっとそれを見届けていた。

夜中に、ヘレネは声を聴いた。自分が起きているのか寝ているのか、夢の中なのかそうですらないのか、よく分からなかった。声は、体の中の声だった。
「こんばんは」彼は言った。「ひどいことするね。あのひと」
ヘレネは、彼に体さえあれば今にも彼に縋り付いて泣きたい気分だった。だが、彼は声だけの存在で、そんなものはないのだ。
「あのひとのこと、きらい?」
「そうだね、きらいかな」彼ははっきり言った。「だって、いたいことばっかりするんだもんね。……ちょっと、かなしくなっちゃうよ。あんなひとが、ぼくのとうさんだなんて」
ヘレネは「やっぱり、あなたって」と返した。
「うん。きみと、あのひとのこども。きみのなかにいるんだ」
彼は感慨深そうに言った。
「ねえ、そとのせかいって、みんなあんなひとばっかりなの?」
「ううん。やさしいひとは、いっぱいいるわ。それに、きれいなものも、いっぱいあるわ」
「そうなんだ、いいなあ」彼は夢見がちに呟いた。「ぼくもあいたい。みたいな」
「うまれてきて。うまれてくれば、あえるわよ」
ヘレネは胸の締め付けられるような思いで、そう言った。ふと、彼が涙を流したのが分かった。どうして泣いているのかとヘレネが問いかけようとした矢先、彼のほうが先に口を開いた。
「……ごめん。できないんだ」
どうして!?と彼女は金切声をあげた。叫びすぎて、もう言葉にもなっていなかったかのように思えた。涙の音がまた聞こえた。彼の声も、泣きじゃくったような声になってきていた。
「だって。ぼく、しぬんだもの。もうなんにちも、いきられないよ」
ヘレネは、自分の体が打ち震えているのが分かった。心臓が早鐘を打つ。息が荒くなった。体の隅々が痛めつけられた。そして何より、どことも分からないところが、握りつぶされるかのような凄まじい圧迫感と痛みに襲われた。ほどなくして、それが勢いよくはじけ、体中の節々に至るまで、それの破片がべちゃりと飛び散った。
「なんで、しぬの?」
やっと出した声で、彼女は言った。
「あのひとが、なぐるから」彼の声も震えていた。「ずっと、いきようとしてたんだ。でも、もうだめみたい。あのひと、きみのおなかごしに、ぼくをちょくせつなぐったから。ぼく、いたいんだ。くるしいんだ。ぼく、わかるの。もうしんじゃうよ。たぶん、まるいちにちもいきられないよ。ごめんね。うまれてこれなくて、ごめんね。ごめんね。ごめんね……」
彼は泣きながらそう言っていた。ヘレネは自分のお腹を抱いた。「あなたのせいじゃないわ。あなたは、なにもわるくないわ」
「ごめんね。ごめんね……」
「あなたのせいじゃない……」
ヘレネの涙が、彼女の胴を伝って、お腹を流れていった。それが、皮膚に吸い込まれるように彼女には感じられた。
「ぼく、いきてるから。きっと、きみがこのよる、いちばんさびしいよね」
彼は泣きながら、必死でそう続けた。
「だから、いきてるから、つぎのよるになるまでは、いきてるから。きみのそばに、いるから……」
そのまま、何時間も、ヘレネは声と一緒に泣きあっていた。ずっとずっと、二人で泣きあっていた。


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美女ヘレネ 九話

自分がつながれているのを知った時、ヘレネはさほど驚かなかった。シモンはそれくらいの事はする男だ。ヘレネにはきちんと分かっていた。
ベッドは彼女が寝ている間に青い薔薇で埋め尽くされていた。もはや、寝る部分がほとんどない。青い薔薇の茂みで眠るのとなんら変わらなかった。青い薔薇の茂みの間に彼女がいるようなものだ。
こうなってしまっては、ヘレネには何もすることがない。彼女はもう一度寝た。目が覚めても、眠るつもりだった。夢の中のほうがまだ何かをやれるような気がした。しかし、思いとは裏腹に彼女は寝つけなかった。以前よりもひどい体調不良を感じる。眠るどころではない。眠たいのに眠れない。ふと、彼女は体の中の声と会話してみることを試みた。
「もしもし、いきてる?」彼女は言った。「うん、いきてるよ」と声が答えた。
「あたしねえ、そとにでられなくなっちゃった」
「そうなんだ。ぼくもずっとここからでられないかもしれないんだ」
「あら。でも、いつかでられるわよ」
「そうかな」
「そうよ」
「じゃあ、だいじょうぶだね」
そこまで非常にスムーズに話が進んだのでヘレネは喜んだが、よくよく考えれば彼とあと他に話すこともなかった。結局、彼女は黙り込んだ。そんなヘレネを察してか、彼も黙り込んだ。

午後が回ったころに、来客が来た音をヘレネは聞きつけた。メナンドロスが必死に彼と話し合っていた。ヘレネ自身の名前が出たのを聞いたのをきっかけに、ヘレネは非常に注意深く聞き耳を立てた。自分に面会したがっている人物がいるようだった。
数十分は話し込んでいただろうか。メナンドロスはついに根負けしたと見えて「では、こちらです。どうぞ。シモン様がお帰りになる前に、手短にお願い致します」と彼に言ったのが聞こえた。ヘレネはあわててそ知らぬふりをした。
「ヘレネ様」メナンドロスの声が聞こえた。「ネロ帝にお仕えしている家庭教師のセネカ様が貴女にお会いしたいと」
ネロの名前を聞いてヘレネは一瞬すくんだが、すぐに平生は取り戻した。聞いた限りの声では、そのセネカとやらはそう用心するべき人物にも思えなかった。いいと言うと扉があいて出てきたのは、まさに声を聴いて思い描いていた通りの、白い髪とひげを蓄えた上品で優しげな老人だった。後ろに、マントをかぶった従者を一人連れていた。

「あなたがヘレネさんですね」セネカはにっこり笑ってそう言った。「お初にお目にかかります。皇帝ネロの師、セネカと申します」
「ヘレネです、よろしく」ヘレネはごく素朴な挨拶をした。
「きれいなお嬢さんだ。その名前をもらったのも分かりますよ」
セネカは友好的に微笑んだ。ネロのような美しさもなかったが、同時に恐ろしさもなかった。
「シモンさまは、いま、いません」ヘレネは言った。
「はい、大丈夫ですよ。彼ではなく、貴方に用事があってきたのです」
「そうですか。どんなですか?」
ヘレネのその声を聴くや、彼の後ろに控えていたマントの従者がマントをゆっくりと取った。
「つまり、セネカ殿は私を君のところまで連れてきてくれたというわけだよ」と言いながら現れたのは、パウロだった。

唐突に表れたパウロに戸惑うヘレネを見て「すまない、驚かせてしまったかな」とパウロは申し訳なさそうに言った。「このセネカ殿と私は友人なんだ。信ずる神こそ違うが、私の書に光栄にも感銘を受けてくださったことがあって以来、付き合いがあってね。……ああ、それはさておき。ペトロの奴から、どうしても君のところに行ってやってくれと言われたんだ」
「ペトロ!?」ヘレネはその言葉に反応した。「ペトロ、どうしたの!?」
「まず始めに言っておかなければならないことがある。私達はペトロをローマから逃したんだ。あの一件があった日の、夕方に」
パウロはヘレネに畳み掛けるように、早口でそう言い切った。
ヘレネはパウロの言葉がじんわりと自分の耳に浸透していくのを感じた。ペトロがいない。このローマに。もうすでに。
「なんで?」ヘレネは反射的にそう呟いた。
「彼は我々にとってなくてはならない人物だ」パウロはヘレネに言い聞かすように語った。
「我が主イエス・キリストの一番の直弟子、生きている彼の姿を覚え知る数少ない人物、それだけでも十分に私達には彼を守る義務がある。彼は殺されるのだ。このままだと殺される。たとえ、そのばかばかしい勝負の行方がどうなろうとも、彼はこれ以上生きては行けるまい」
パウロは遠い目つきでそう言い聞かせた。
ヘレネは今度こそ気が動転した。「なんで!?」と彼女は叫ぶような声で言った。「ペトロはかならずころされるって、なんで!?」
それに続く形で、セネカがゆっくりとした口調で彼女に話した。
「ヘレネさん。キリスト者がなぜ、地下墓所にいるか、ご存知ですか」
「いいえ」彼女は素直に返答した。
「キリスト者はないものであることが求められているのです」セネカはさびしそうな顔で言った。「ローマは多神教の国です。皇帝を神としています。それこそがローマの政治体制です。だから、ローマ以外の神を信じないばかりか、唯一の神の前に人類はみんな平等と説くキリスト教は嫌われます。それは、ご存知ですね」
「はい、知っています」ヘレネは地下墓所で聞いたネロの言葉がセネカの言葉に重なると思った。
「もともと、我々は宗教には寛容なほうです。しかし、キリスト者だけは別なのですよ。この国においてすべての事は、多神教の概念によって成り立っています。公式行事も、軍隊も、娯楽も、全て。他の宗教の者はそこまでそれらに反対はしません。彼らも多神教であることに変わりはありませんから。しかし、キリスト者の皆さんだけは頑として参加しません。いいえ。できないのですよ。彼らだけは多神教ではないのですからね。そういった集団の行く先は、孤立です。そして孤立した集団に与えられるのは、強烈な糾弾です。だから彼らには地下に掘った墓所にしか居場所がないんですよ。明かりの当たる場所では、祈れないのです」
セネカの優しい語り方は、実にするするとヘレネの頭の中に入っていくものだった。なるほど、セネカは優れた教師であると彼女にも分かった。
「迫害には理由が付けられます。皇帝の侮辱だとか、女達を誑かして夫のもとから離れさせただとか、いろいろな理由がね。……しかしね。ヘレネさん。私は分かっているのですよ。私もローマ人ですからね。私達がキリスト者を迫害している理由など一つしかありません。恐怖です」
セネカは目を伏せて自嘲気味に語った。
「唯一の神、という概念は非常に奇異なものです。私達にとっては万物には神があるものですから。全てが所詮同じ神に作られたにすぎない存在、など全く荒唐無稽と私達は笑い飛ばすことができます。しかし、笑い飛ばしても意に介さず信仰を変えない者がいる。こちらが村八分にすれば、されたもの同士で集まって励ましあうものがいる。日の当たるところから追い出せば、地下で祈りをする者がいる。分からせてやろうと暴力をふるえば、改宗して許しを請うよりも、神に殉ずる形での死を選び、それを幸せと考えるものがいる。……そこまでするほどに彼らを縋り付かせているものも、圧倒的な恐怖でも、物質的な見返りでもなく、ただ素朴な愛と救済の教えです。超人的な英雄ではなく、悲惨な十字架刑にかかってあっさりと死んだ男が語った。……恐怖せずにいられますか。人はたかだか愛の教えとあるかどうかも分からない天国への道のために全てを棄てられるのかと。そのために迫害されようとも、反撃はおろか喜んで死にさえするものかと。そしてその不条理を解明できるただ一つの合理的な理由があるとすれば、もうあと一つしか残っていません。……他とは格の違う、正真正銘の神の言葉であるからこそだ、と考えるしか。だから私達は怖いのですよ。神の前に我らの無力さを思い知らされるその瞬間、神の教えの前に自分達が築いてきた全てを打ち砕かれる瞬間を今にも突きつけられそうな気がして、怖いのです」
セネカの口調は相変わらずゆっくりと落ち着いていたが、それでも話しながらセネカ自身もその恐怖を少なからず感じていることがよく分かった。
ペトロがどうしてあんな地下にずっと寝泊まりしていたのか、パウロがなぜ「監視」され続けているのか、ヘレネの中でようやくすべてが繋がった。なんてことはないのだ。彼らは迫害されていたのだ。自分が思うように、ごく当たり前の宗教としての扱いは受けていなかったのだ。
ヘレネの心がちくりと痛んだ。自分はペトロの事を何も知らなかった。自分が思うよりずっと、彼は苦しかったのだろう。自分がいないところでも何回も、泣いていたのだろう。と考えた。

「その恐怖は当然、リーダーであるペトロに向く」パウロは話を元に戻した。
「ペトロは死ぬことを望まれているのだ。そのために逮捕のとっかかりが必要だった。ただ、信者を扇動して暴動でも起こせばまだ楽なものを、一向にそのようなものは起こさない。我々の教義からすれば当然の話だがね。そこで結局ネロが思いついたことが、シモンを利用することだったんだ」
シモンの名前が出て、ヘレネはピクリと反応した。心なしか、お腹の声も「シモンだって。なんでだろうね」と呟いた。
「シモンがペトロを殺してくれればむろんそれが一番いい。彼を憎み、恐れるローマ人達はそれを見て一気に溜飲を下げるだろう。だが、もしも彼がシモンに勝ってしまえば……それもまた、いい。シモンにもまた強烈な信者達が付いている。自らの神たるシモンを失った彼らのたっての願いということにして、ペトロを処刑してしまえばいいのだから。どちらにせよ、ペトロを殺す適当な理由になる。その気で、ネロはペトロにあのようなことを言ったのだ」
全てに納得がいった。
ペトロにとって、もはやローマは死に場所以外のどこでもなくなってしまったのだ。パウロはそのことを瞬時に理解して、すぐにペトロを旅立たせたに違いなかった。
「ペトロ、たすかるのね?」ヘレネは震える声で言った。
「助かるとも。彼には主の加護があるさ。彼が死ぬときは、主がそう定められた時だけだ」パウロは冷静に返した後、少し表情を崩して言った。
「奴は普段は抑えてるが、少し感情的なところがあるからな、放っておいたら意地を張りかねない。だから、これでよかったんだ。私達はやっていけるさ。何の問題もない。離れていても、私達は彼の無事を祈り続ける。詐欺師と呼ばれても構うものか。神の本質は奇術ではない。私達は本当の神を確信している。これからも変わらず、それを信じ続けるのみだ。それよりも、そんな下らんことで大切な兄弟が無駄に命を失うことの方が、よっぽど大ごとだ」
「ペトロのこと、たいせつにしてるのね」ヘレネは少し微笑んでそう言った、
「ああ」
パウロはもっと表情を崩した。はっきりといえば、笑った。彼の笑顔を見るのはヘレネは初めてだった。
「彼の過去を知っているかい?」パウロがゆっくりと切り出した。「彼はね、主、イエス・キリストが捕縛された晩、自分の身に火の粉が降りかかるのを恐れて、自分と主の関係を自ら否定したんだそうだ。三回もだ。自分可愛さに、主を裏切ったんだ。彼はその話を何回もした。私に向かってもした。そのことに一番苦しんでいるのは、彼自身だった。だが、主は彼を許された。彼の罪を許された。彼は、今自分が生きているのはそのおかげだといつも言っている。だから、ずっと頑張ってきたんだ。もう二度と裏切らないように。私はそんな彼に敬意を持っている」
ヘレネは静かに耳を傾けていた。ペトロが自分の師を裏切ったという話は、彼自身の口からは聞かなかった。おそらく、話せば彼は泣き出してしまっただろう。しかし、さほどショックでもなかった。彼の涙や彼の孤独、彼の師への感情、そして彼の信心の、その理由が明らかになった喜びの方が大きかった。ペトロもまた、神の放蕩息子達の一人だったのだとヘレネは理解した。
「私は彼を愛しているよ。息子のようにすら思っている。彼はよくやってくれた。重すぎる責任感を、ひとりで担っていたんだ。時にはやりきれなくなったことも何度かあったろうね。それでも彼はがんばった、神の愛のために。私達は、彼が運命のままに生きることを望むよ。きっと遠い土地でも、彼は神の使徒として、主に身を捧げ続けるだろう」
ヘレネは自分の心の中が温かくなるのを感じた。ペトロは死なない。ペトロはこの先も生き続けるのだ。そう思うだけで、幸せだった。

「ペトロは君に、絶対に自分がいなくなったことを話してほしいと言っていた。彼は君の事を、本当に気にかけていたよ」パウロが薄くだが、笑った表情を崩さずに言い、ヘレネと柱をつなぐ縄をそっと持った。
「これが解けたら、いつでも私達のところに来てくれて構わない。君が洗礼を受けていない以上、私達もすっかり慣れるのには時間がいるだろうが、それでも、君もペトロの残した意志の一つなのだから」
「うん、そうします」ヘレネは答えた。


ほどなくして、セネカとパウロは帰ろうとした。パウロがマントを羽織りなおす。
あの、とヘレネはセネカに声をかけた、一つ、唐突に彼に聞きたいことが頭に浮かんだ。
「なんでしょうか?」
「セネカさん、はキリストきょうをしんじては、ないんですよね」
「ええ、私はローマの宗教を信じていますから」
「じゃ、パウロさんのいうことも、うそだっておもってるんですか?」
「いいえ、思っていませんよ」セネカははっきりと言い切った。「彼の書は驚くほど、真理をついていると思いました。彼の教えに私は敬意を払いますし、またおそらくこの世で一番真実に近いと信じています。だからこそ、友人づきあいができるわけですしね」
釈然としなさそうなヘレネを前に、セネカは優しく微笑みながら、パウロには聞こえない程度の小さい声でこっそりと続けた。
「でもね、体に染みついた文化がそう簡単に取れない人もいるのですよ。私のように。改宗をする気にはならない人がね。でも、私はそれでもいいと思っています。わたしはパウロの神を否定しませんが、死ぬときにはマルスの信徒として死ぬでしょう。でも、それでかまわないと思っています。我ながらあきれるほどの矛盾ですが、しかしそれが世界というものでしょう。そして、それこそが神の作ったものでしょう」


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