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クリスマス市のグリューワイン

feat: Elijah  第六話

アハブは困っていた。エリヤが捕まらないことにではない。彼の居場所は確かに皆目つかめないままであり、それは懸念事項の一つに違いはないのだが、いま彼はそれよりもはるかに大きな問題を抱えていた。
問題と言うのは、アラムの王ベン・ハダド二世についてである。彼がある日、唐突に自分のもとに挑戦的な発言を仕掛けてきたのだ。その内容たるや、酷いと言うほかはない。すなわち、アハブの財宝、アハブの家族はすべて自分のものであると彼は豪語したのだ。
アラムは小さな国ではない。先代のオムリの時代から、イスラエルはアラムに圧力をかけられ、土地も幾分か手放していた。イスラエルのほうが力が弱いと言っても過言ではないほどだ。言うだけなら言わせておこう、戯れを本気で受け取って怒らせる方が面倒だと適当にあしらったのが悪かった。ベン・ハダドはその態度をもってして、アハブはたとえ自分が彼のものに本当に手出しをしても反抗はしないと読み取ったのか、本気でアハブが全てのものを無条件で差し出すように言ってきたのだ。
流石にアハブもこれを二つ返事で飲みこむわけにもいかない。王としても、夫、父親としてもまっぴらである。しかし、弱小国の王であるという立場は彼を弱気にさせた。彼は、イスラエルの長老や預言者たちをかき集め、会議を開いた。預言者たちと言うのは、昔ながらのイスラエルの神に従う預言者たちである。もう、神殿の中でバアルの預言者たちの立場はすっかりなくなっていた。


荒野の中に、一人の少年が立っていた。丈の合わない大きな外套を着て長い髪を三つ編みに結んだその美しい少年は、馬に乗ってあたりを見渡していた。誰かを探しているようだった。荒野に吹き付ける風が彼の三つ編みを揺らして、彼は目に塵が入りそうになって切れ長の目を細めた。
「こんなところにいたのか、ミカヤ!」
ふと、後ろから声が聞こえて、ミカヤと呼ばれた彼は振り返った。視線の先には、宮廷長のオバドヤがいる。オバドヤもまた馬に乗っていて、焦ってやってきたという体だった。
「散々探したぞ。どこに行ってたんだ」
「あっ、オバドヤさん、久しぶりですね」
ミカヤは何ら悪びれることもなく、オバドヤに友好的な態度で近づく。
「探したってなんです、ひょっとしてサマリアで何かありましたか?」
「アハブ陛下が問題を抱えていらっしゃるんだ、預言者を収集している。お前も宮廷預言者ならば、来る義務がある。……それなのに、一人ブラブラしているのはお前くらいなものだぞ!」
「オバドヤさん、怒ってます?」
「当然だ!」
オバドヤは痺れを切らしたように言って、馬を来た方向に後ろ向きにさせた。ミカヤも彼の視線を受けて、しぶしぶ自分の馬の向きを変えさせた。
「ボクの預言なんていらないと思いますけど」彼は悠々とそう言いながら、オバドヤの後をついて、一応は素直にサマリアに向けて走り出した。オバドヤはため息をついた。彼の父と祖父と家族同然の交流があったという縁で、彼の面倒を見てやっているものの、彼のこのマイペースな態度は正直疲れるものがある。
それでも、オバドヤはミカヤを突き放せなかった。彼の抱えたものを考えると、彼が哀れに思えて仕方がないのだ。そのため、多少のわがままくらいは許してやりたくもある。自分も、あの日の事を思い出すだけでいまだに心が痛むのだから。ふと後ろを振り返ってみると、ミカヤの表情は非常に物憂げだった。彼は切れ長の目を細めて、視線の先にはいない男を見ようとしていた。
「ミカヤ」オバドヤは言った。
「今度も、彼を探しにサマリアを飛び出たのかい?何も言わずに」
「はい。今度こそ見つかるって思ってたんですけど」ミカヤはぼんやりした口調でいった。
「二年間、見つかっていないのだぞ。お前に見つかるはずがない」
「どうでしょう?それはほかの人にとって、あの人がどうでもいい存在だからでしょう。ボクは違いますから。ボクだけは」
彼は強い口調でそう言い切った。それを受けて、オバドヤの口から再度ため息がこぼれる。ミカヤは独り言のように、広がる荒野を眺めて呟いた。
「会いたいなあ……エリヤ……」
彼の視線の先に、数羽の鴉が飛んで行った。


数羽の鴉がさらに数羽集まり、群れを成して荒野の真ん中の岩陰に降り立つ。彼らはとある男を中心に集まっていた。
男は鴉の鳴き声に似た声を上げながら彼に礼を言う。男と言うのは、エリヤだった。そばにはエリシャもいて、彼もぎこちなく「ありがとう」と、鴉たちに礼を言っていた。もっともそれが鴉に伝わっているか否かまでは定かではない。
鴉たちは、彼らにパンくずを運んできていた。パンくずとは言え、かなり多くの鴉たちが運んできたので、その量もそれなりになっている。獣の生肉を運んできたものもいた。
「じゃ、食うか」エリヤは全く当然と言った顔でエリシャにそう言った。

エリシャがエリヤと旅を初めてまず最初に面食らったのが、これである。あまりにも当然のように行うので最初は全く置いてけぼりを食らったような感触だった。エリヤは、鴉と会話ができるのだ。なぜできるのかと言われればエリヤ自身もよく覚えていないらしい。気がついていたらできたというのだ。そんなもので取り付く島もないので、最終的には分からないまま受け入れざるを得なかった。とにかく、エリヤは鴉の言葉がわかるのだ。それでも日数を重ねれば慣れてくるもので、今はエリシャは当たり前のように受け入れている。
エリヤは粉々になったパンくずをつかみながら食べ、集まってきた鴉たちもそれぞれ自由についばみ始める。エリシャも食いっぱぐれはごめんなので、急いで自分もパンくずを食べ始める。取り残されている暇はない。いつ食べ物にありつけるのかはわからないのだ。エリヤと旅をすると決めて当然このようなことにもなる覚悟は固めていたのだが、荒野での暮らしは予想以上に厳しいものだ。エリヤは何年間もこのような暮らしをしているらしいから慣れたものではあるのだが。
彼は食う傍ら鴉たちと何か会話を交わしていた。鴉たちはこうして彼に食べ物を分けてくれるほか、町の情報を彼に教えてくれるらしい。なるほど、荒野にいたままでも情勢を追えるわけである。
「エリシャ」エリヤが口を開いた。
「もうすぐ年末だろ?」
「ええ……そうですね、師匠」
「年が明けたらここ動こうか。……アフェクあたり、いいんじゃねえのかな」
「アフェク?」エリシャは怪訝そうに言う。「なんでです?」
「俺がやることったら一つだろ、神様が預言をしろって言ったからだよ」


数日後、アハブは抵抗を決意した。さすがにベン・ハダドのむちゃな要求をやすやすと飲むいわれはない。民も長老も、王に進言する立場の人間は全て挙兵すべしと言った。遠まわしにベン・ハダドにその体を狙われたイゼベルもさすがに勝気なもので、彼女も進軍以外ありえないと声を張り上げて言ってきたのだ。ベン・ハダドは怒りの手紙を突きつけてきたが、アハブはこう返した。「武具を帯びようとするものが、武具を解くものと同じように勝ち誇ることはできない」。
自分も挙兵せんとしている手前あまりたいそうな文句ではないと彼は思っていたが、それにしても頭に血の上ったベン・ハダドを挑発するには十分だったように思える。ベン・ハダドは戦を急いだ。それは即ち、先方の準備不足を意味する。
ベン・ハダドが一足先に挙兵をしたという情報が入ってきたときに、アハブの前に出たのはツィドキヤと言う名前の預言者であった。彼は預言者集団の中でもリーダー的存在であり、かつ、アハブに非常に忠実な男でもあった。
「陛下、私は主の預言を聞きました」ツィドキヤは言った。「ベン・ハダドの挙兵を気に病む必要はありません。陛下。主はこういわれております。あの大軍を、主は今日貴方様の手に渡されると。それを持って主は、自分こそ主であることを貴方様にお示しなさいます」
「我らが勝つというのだな」アハブは言った。
「主は誰を助け手によこすのかね」
「諸州の知事どもでございます」
「戦の指揮を執るのは誰かね」
「陛下、貴方様ご自身でございます」
このような問答の末、アハブも挙兵することに決まったのだった。その間、他の預言者たちも彼らのやり取りを見守り、ツィドキヤの預言に相槌を入れるなどしていた。だが、ただ一人ぼんやりとやる気のなさそうに構えている姿があった。めだって年の若い彼は、ミカヤであった。彼は何か別の事を考えているような表情をしたまま一言も話さず、退屈そうにしていた。王は彼を見咎めて、彼に向けて不快そうな表情をしたが彼は気にも留めなかった。

アハブはさっそく諸州の知事に収集をかけ、集まった兵力は七千二百人以程度であった。アラム群の軍隊は何万といるので彼らの間には不安の色が強かったが、その不安はなんということか、すぐに消え去った。すなわち戦いはツィドキヤの言葉が的中し、拍子抜けするほどすぐにイスラエル軍の優勢になったのである。イスラエル軍が攻撃をかけたのは正午ごろの話だったのだが、思い上がりの激しいベン・ハダドは幸運なことに同盟を組んでいた味方の王侯たちと酒を飲んで酔っ払っていた。そんな状態でも彼は、イスラエル軍が攻めてきても、「せっかくだから全員捕虜にしてしまえ、彼らが戦いのために出てきたのだとしても、和平のために出てきたのだとしても」と大口をたたいて、戦闘の準備を始めようともしなかったらしい。
そんな油断を突かれて見下していたイスラエルに大敗を喫したベン・ハダドの胸中はいかほどのものだったであろうか。彼は自分たちの劣勢を知るや慌てて馬に乗り逃げ去っていったそうだ。その頃には当のアハブ自身も戦争に出陣しており、彼らは王の逃げ去ったアラム軍を完膚なきまでに叩きのめして大損害を与えた。


「さて陛下、まだまだですよ」ひと段落して、戦車の残骸の残る、数時間前までは戦場だったところに、ツィドキヤがやってきた。彼は数人の預言者たちを引き連れていた。
「さあ陛下、勇気を持ってお進みなさい、主はイスラエル王たる貴方にすべてを渡すでしょう」
彼はアハブのそばに寄って、恭しい態度で預言の言葉を告げた。
「神は私に告げられました。もうじき年が改まります、それが過ぎるころまたあのアラム王は性懲りもなく我々を攻めに来るのです、立ち向かいなさい、偉大なるアハブよ、主は貴方に味方しておられる。我らが偉大なるアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は!」
仰々しく語るツィドキヤの言葉に、取り巻きの預言者たちもその通りとうなずいた。唯一、一応ついてきていて一番後ろに立っていたミカヤが誰にも聞こえないように「あほくさ」と呟いた。


「年が改まるころだって?いかにも神の預言臭く御大層に言っちゃって。アラム軍が軍備を整えたらそれくらいになるに決まってるじゃん、ばかなの?」
ミカヤはそう独り言をつぶやき、袋の中に適当なものを詰める。後ろではオバドヤが心配そうに見ていた。
「いや、そう言ってもお前、本当にそうなるかは……」
「九割がたそうなるでしょ、ベン・ハダドのあのアホな性格じゃ、急ぎに急いで兵を集めてイスラエルに復讐!ってなるはずですよ」
ミカヤは自分の家の衣装棚を今度は探りはじめた。オバドヤは彼の様子を見に来たのではあるが、彼がこのようなことを始めているのでまた心に不安を覚えつつ、彼に話しかけたのである。もちろん彼は、それで手を止めるようなことなど一切なかった。
「ミカヤ、まさかまたどこかに行くつもりじゃ……」
「そのまさか。安心してください、今度はあの人目当てじゃなくて、宮廷人としての仕事みたいなものですから」
彼は三つ編みをほどいて、長い髪をふわりとたらした。
「ま、ボクの独断だけど」
そしてそれを刺繍で飾ったベールでくるみ、着物も女性の着るような控えめなドレスにさっさと着替える。オバドヤの目の前には、一瞬で生意気そうな少年ではなくいかにもかわいらしい、大人しげな美少女が現れた。
「ミカヤ!」オバドヤは悲痛な声を張り上げる。「お前、またそんな恰好を……女装は律法で禁じられているではないか!」
「大丈夫でしょ、背徳のためじゃなく、信仰のためなら。ロトの娘たちだって生き残ったんだから」
ミカヤはそう言うと旅用の厚いマントをはおり、ふわりと軽やかな身のこなしで自分の馬に乗り、「それじゃ、行ってきます」と言った。
ため息をつくオバドヤを振り返ることもなく、彼はアラムの国の方向に馬を走らせた。


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feat: Solomon 第十五話

アブサロムの反乱から、さらに年月が経過した。アブサロムの三日天下はとっくに忘れられ、人民はあの美しい王子の事を思い出しもしなくなっていた。イスラエルは再びダビデの国と相成った。
彼は王に返り咲き、再び様々な事業に取り掛かり始めた。彼はアブサロムに次ぐ反逆者が出ようと見事に鎮圧して見せた。
飢饉も起こったが、それも無事に切り抜けた。切り抜けるにあたっての神の託宣は、先王サウルに連なる血を根絶やしにせよとのことだった。その中には、ダビデの正妻たるミカルが前夫との間に産んだ子供たちも含まれていた。しかし、ダビデはそれらを処刑した。ダビデの愛がミカルにないことはだれの目にも明らかであった。かくして、飢饉もぴたりとやんだ。
戦争もおこった。大規模な人口調査も行われた。ダビデは様々な事業を行った。彼の姿は、理想の王そのものであった。
ソロモンは、アブサロムの件以降、全く元の生活に戻った。ダビデの事業は数あれど、彼がアブサロムの反乱の時のようにダビデの手助けをすることなどなかった。彼は相変わらずいないものとして扱われたし、またソロモンにしても、さほど父に力を貸したいなどとは思わなかった。王宮の外の出来事など彼には無縁だった。王宮の外も、彼を知らないのだから。
彼は十一歳の時と同じように、日陰にシクラメンを増やした。最初、あの哀れなシクラメンたちの灰の上に植えられた彼らは、また同じように数を増やし、今ではすっかり元通りの花畑を構成していた。彼は花畑に包まれて、静かに微笑む。隣にはベリアルがいた。彼は毎日、静かに過ごした。それで、幸せだった。少なくとも、ベリアルが来る前よりは、彼の生活はずっと満ち足りていた。自分に許された小さな空間で、日々日陰に咲く花のようにひっそりと過ごすのが彼にとっての至福だった。将来など考えずともいい。もともと自分は死ぬことを望まれているのだ。ならばせめて、死ぬまで穏やかな思いをしようではないか。屈辱にまみれて死ぬことはない。ダビデもそう考えていたのだから自分がしたとて悪いことはあるまい。
ダビデともバテシバとも、あれ以来顔も合わせていない。二人とも、ダビデの命を助けた例の計画に自分が加担していたことさえ知らない。彼らにとっては自分はただ、何も言わずとどまり続けていただけなのだ。しかし、それでいいのだ。ソロモンは不満には思わない。彼はシクラメンに水をやって、虫よけ薬を撒いた。全く、十一歳の頃と同じだ。いや、しかし全く同じというわけでもない。と言うのも、花畑には彼とベリアルだけではなかった。花畑の空いたスペースに、花をつぶさないようにこじんまりと座る青年も、そこにはいた。そしてソロモンは、それを拒絶はしなった。
「きれいだねえ。いつも通り、きれいだ」と言った彼は、アドニヤだった。ソロモンは落ち着いて「お兄様、そこに居らっしゃると危ないですよ」と言った。
「なんでだい?」
「今からそこに水をまきます」
ソロモンがそういうと、アドニヤはあわてて立ち上がった。ソロモンもふっと口角を上げると、水を撒いた。後ろではベリアルが口を押さえてくすくす笑っている。当然アドニヤには見えないのだが。
あの日以来、アドニヤはちょくちょくソロモンに会いに来るようになった。アブサロムが死に、王位継承権は繰り上がって彼のものとなり、彼は格段に忙しくなったようだったが、その中暇を作ってアドニヤはよく彼のもとにやってきた。彼は仕事のついでに手に入れた外国の書物などをソロモンのところによく持ってきたので、ソロモンも喜んでそれを読んだ。それを見るたびにアドニヤは楽しそうに笑った。
ソロモンも最初のほうこそ警戒していたが、今では彼が隣に立ってもリラックスしている程度にはなっていた。彼は何やら大それた要求などはせずに、数日のうち数時間ほどやってきて、話したり花を眺めたりしているだけだった。ソロモンが心穏やかに暮らせるようになった理由としてアドニヤの存在は上げられるだろうと彼自身も思っていた。次の王となろうという存在が優しくしている弟とあったら、周囲の人間もそこまであからさまに軽蔑するような目を向けなくなった。見るとどうしてもそのような視線になってしまうのだろう、せめてもの打開策として彼らは見ないように努めた。ソロモンはそれで寂しさも感じなかった。忌み嫌われるよりずっとましである。それに、アドニヤ自身はソロモンと会っても顔色ひとつゆがめることなく穏やかに笑っているので、ソロモンも安心して彼のそばにいることができた。アドニヤは優しい。ソロモンはそう思い始めていた。
「ああ、もうぼくは行かなくちゃ」とアドニヤが言うときに、少しさびしさを感じるようにもなっていた。しかし、その時アドニヤはたいてい笑って「じゃあ、またね」と言ってくれるので、ソロモンも小さく手を振りかえす。その「またね」を言葉だけにとどめずきちんと実行するのがこの兄なのだ。

アドニヤが去った後、ソロモンはベリアルに対して口を開いた。
「ずっと居たんだな」
ベリアルは、ソロモンが他人と話しているときは決まって何処かに行っているのだが、アドニヤの時は割合そのまま居座っていることが多い。かといって別にアドニヤにどうするわけではなく、本当にいるだけなのだが。
「まあね。でも気にしないで」
「うん……?まあ、気にはしない」
ソロモンは雑草を抜き始めた。ベリアルはそんな彼の手つきを眺めると、ぼんやり言った。
「ボクもうれしい」
「何がだ?」
「君に心を許せる人ができたこと」
ベリアルはにっこり笑ってそう言った。ソロモンは少し顔を赤くして「別に…心を許すなどとは…」とボソボソと呟く。
「ああ、君ってばほんと、意外と照れ屋さんなんだよね!」
「うるさい」
ソロモンはベリアルから顔をそむける。ベリアルも無理に彼の顔を覗き込もうとはしないものの、口を閉じはしなかった。
「人間には、人間の仲間も必要だものね。やっぱり、人間じゃないやつと二人っきりで暮らす、っていうのはどこかしらうまくいかないものだ。……と言うか、人間同士であっても、結局二人だけじゃうまくいかないものだから」
「俺は……そんなにたくさんの奴らとなれ合いたくはない。そのために媚びもしたくない」
「媚びる必要はないさ。たくさんである必要もない。君はそういうのが苦手なんだから。ただ、君を認めてくれる人が来たなら、それを突っぱねるべきじゃないってこと」
「うん……そうか」


自室で、ダビデは急に咳き込んだ。何が理由か知らないが、最近体調がよくない。とはいえ明らかに、悩みからくるものではないのは確かだ。最近は特に頭を悩ますようなこともなく、日々が順調に過ぎている。懸念と言えば、いまだに神殿の納得するような設計図が来ないということくらいだ。
アブサロムが死んだ傷も徐々にいえようとしているように思えた。アドニヤは、ダビデに献身的につくした。誰がどう見ても理想の王子であり、理想の息子そのものだった。
アドニヤはアブサロムとは違う、とダビデはぼんやり考えていた。アドニヤもまた人好きのする顔の美しい青年だ。ただ単純に美しいということだけで言えばアブサロムのほうが勝っていたことは間違いない。そこは、誰もがそう認めるだろう。ただ、アブサロムの作り物じみた冷たい美しさとは違い、アドニヤは優しげだった。彼は人をひきつけるような柔かい魅力の持ち主だった。それに、他人のためにせっせと動くのをいとわない。思えばダビデはアドニヤをしかりつけた思い出がなかった。しかりつけるまでもなく、アドニヤはやんちゃもしないし出しゃばりもしない、間違いを犯せば素直に謝り、さっさと改善するいい子だったのだ。自分を抑圧する者がいなくなったこの環境においても、彼はわがままになりすぎることはなくその性格は揺るがない。彼の母のハギトが将来の皇太后になったとばかりに後宮で鼻高々になり、優秀な息子をここぞとばかりに吹聴しているのとは違った。彼は今でも控えめで、それもキルアブのような意気地なしともとれる控えめではなく、きちんと前向きさも持ち合わせていた。
自分には何の問題もないではないか、とダビデは心の中でつぶやく。この体調不良はなんのせいだ、きっと最近の冷え込む夜のせいだろう。彼は独り言を言った。最近、彼は体が異常に冷えるようになっていた。


ダビデのもとに新しい側室を迎えようという話が持ち上がってきたのは少し経ってからの事だった。ダビデの冷え症はなかなか長引き、薬を飲んでもよくならなかった。それを受けて、廷臣や貴族たちの間で体調不良の王のそばに侍る新しい女が必要だという下世話な話が盛り上がっていた。すなわち女を抱けば体も暖まるし、体調不良も治るだろうなどと言うのだ。さらに、そのような目的のためには、いくらか年を食った側室どもではなく新しい乙女がいいと彼らは言う。何においても新しくて若い女のほうがよいというのが彼らの言い分だった。
後宮は無論不穏になったが、ダビデは特に断りもせず、そう思うのならば探してきてくれと言った。どうせ断るほうがリスクが大きい。と言うのも、ダビデは普通の老齢に差し掛かった男とはわけが違うのだ。ただそのような年齢の男が若い女を欲にかまけて望んでいるだけならば、若い娘もその父も拒絶しよう。ゆえに、そんなものはいらないと口を出すことには意味がある。彼らの意向をくみ、嫌な思いをする人間を減らせるという意味だ。しかし、ダビデは王である。最高権力者たる王の妻とその父になり、王家とつながりを持てるというだけでも、そのような扱いを受けて十分な見返りがある。加えてダビデは、老齢に差し掛かったとはいえ、いまだにその美しさを神秘的なまでにとどめていた。老いが醜に直結するという真理が、ダビデのみには適応されてはいないかのようだった。その点を置いても、身を差し出す少女の苦痛と屈辱は大幅に軽減できよう。早い話が、ダビデの新しい側室になることを望まない女や、娘がそうなることを望まない父のほうが、イスラエルでは少ないのだ。いざこう盛り上がった以上、断るほうが彼らの期待を裏切って事態をややこしくすることになる。唯々諾々として集めさせておくのが一番いいのだ。
いくらか入り乱れた後に上がったのは、シュネムの領主の娘だった。今年で十六になる少女で、父親はイスラエルで自分の娘ほどの美少女もいるまいと豪語していた。美しいのみならず、教養にも才たけ、心優しい娘だと父は言っていた。むろん、今の今まで男などに触れたこともない、正真正銘の処女であるということも彼は言い忘れなかった。
ただ、そこまで彼の父親が言っていたことを聞いたのも、ダビデの廷臣までである。当のダビデは彼女にまつわる一切の情報を聞くことなく、決まったという情報だけを聞いて「いつでもいい。都合がよくなったら王宮に上がらせろ」と言った。


アドニヤは、ソロモンを木陰で休ませて自分は王宮で放し飼いにしている孔雀に餌をやっていた。彼らは王宮の庭の真ん中にいた。ソロモンを彼の庭ではないところに連れ出してみたら彼は了承するのか、興味がわいて試してみたら、思いのほかあっさりと彼はアドニヤについてきたというわけだ。ソロモンは木漏れ日一つでも嫌いらしく、黒いマントにくるまって、目すら見えなくなっている。好都合だな、とアドニヤは心の中で吐き捨てた。あの赤い目は不気味でしょうがない。白い肌も白い髪の毛も同じことが言えるが、ソロモンを見ていると、彼だけがごく普通の世界から切り取られた存在であるかのように不自然で、ひどい違和感を覚えざるを得ないのだ。ひとえに、彼の異常な色彩のせいだ。見ているだけで気がおかしくなりそうだとアドニヤは思う。ニコニコ笑っているのも楽じゃない、と彼は心の中で言った。ただ、表面には絶対に出さなかった。ソロモンは察しがいい。アブサロムの保身好きな性格も、彼とちょくちょく会っていたはずの自分以上に見抜いていたくらいだ。少しでも嫌悪感をあらわにしたら、せっかく築き上げた彼の信頼が全て無駄になってしまうではないか。この誰にも心を開かなかった生意気な弟が、今は自分にならのこのこついてくる程度にはなったのだ。これがアブサロムならば、絶対については来なかったはずだ。
もっと手懐けられる。孔雀に餌をやるように。アドニヤにはその自信があった。自分の面倒事は、全部彼がその賢さを持って処理してくれるようにすることすら、夢ではない。権力者にとって賢さは最重要事項だ。様々な問題をその手腕一つで解決するには賢くなくては始まらない。アドニヤが自身の頭を信じていないわけではなかったが、それよりも無条件でその代理となって、しかもそれで得られる名誉だけはアドニヤによこすような夢のような存在ができるのならば、それに越したことなどない。しかも、そんな非現実的なことが自分に限っては可能なのだ。パンに飢える孔雀のように、愛情に飢えるこの哀れな十四歳の少年を、偽の愛情で絆してやればよいだけなのだ。
「ソロモン、来たらどうだい。噛みつきゃしないよ」
「いいえ、私はここで」マントにくるまったまま、彼は首を横に振った。アドニヤはそっと孔雀を押す。孔雀は押されて、その結果ソロモンのいるもとにフラフラ寄ってきた。
急にやってきた孔雀を覗き込むソロモンに、アドニヤはパンくずを手渡す。
「ほら、君もやってみたまえよ」
ソロモンはそっと手を孔雀に向けて差し伸べた。すると孔雀のほうは、アドニヤを相手にするのと全く変わらずに無心でそれをついばむ。ソロモンがマントの下で、少しばかり楽しそうな顔をしているということはアドニヤにもはっきりとわかった。アドニヤも彼の視線の外でほくそ笑んだ。いっそこの弟に、軽い同情すら覚えたほどだ。

ふと、孔雀が鳴いた。それに合わせて、アドニヤとソロモンの視線も動く。しかし、彼らの目はそれで開けた孔雀の羽ではなく別のところに行った。と言うのも、孔雀の羽以上に注目すべきものがその視線の先にあったからである。
そこに居たのは数人の従者と、一人の高貴そうな身なりのいい中年の男性。そして、彼らの間に一人の少女がいた。彼女はつややかなゆるい撒き毛の黒髪を持ち、ぱっちりした可愛らしい目をした、小柄な少女だった。これも、男性と同じく高貴さを感じさせる良い身なりをして、宝石を飾っていた。まだ幼さが残りつつも、女性らしい美しさをふんだんに携えた彼女は、美少女と言う言葉に相応しかった。その華やかなたたずまいたるや、孔雀が完全にかすんでしまうかのようだった。彼女はその丸い目できょろきょろとあたりを見回していた。
「そんなに見回すのではないよ、はしたない」中年の男が彼女に言った。「お前も数日したら、ここで過ごすのだから。いいね」
「はい、お父様」少女が言った。
「よろしい。ではアビシャグ、来なさい。陛下にお目通りをしに行くのだから」
そのような会話を交わして、彼らは去っていった。中年の男と言うのは例のシュネムの領主で、少女のほうは彼の娘のアビシャグであった。

一行が全く見えなくなった後、最初に口を開いたのはアドニヤのほうだった。
「……綺麗な子だねえ」と、彼は驚いたように言った。
「あんな女の子がいるんだ。初めて見たよ」
「はい……そうですね」と、やや遅れてソロモンの方もそう返答した。彼は相変わらずマントですっぽり顔を覆いながらうつむいていて、これで本当に見えたのか?とアドニヤは少々心の中で疑問に思った。


「ソロモン」と、後ろから呼ぶ声が聞こえた。ベリアルの声だった。
「ベリアル?」彼はアドニヤには聞こえないように、かすむような声でそう言った。「何の用だ?」
「何さ、なんで君下むいてるわけ?」
ベリアルにそう言われて、ソロモンは少々怒ったように言った。
「何をしていようと俺の勝手だ」
「あっ、もしかして照れてるの、君?ふふっ、かわいい……」
「うるさい!」

ふと、アドニヤが怪訝そうな顔をしているのを見て、あわてて彼は手で口をふさぎ、「失礼いたしました」と継ぎ足した。そして、ベリアルを睨み返す。彼は罰の悪そうな顔をしていた。


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feat: Solomon 第十四話

ダビデはマハナイムの城壁の近くで、アブサロムについての知らせを今か今かと待っていた。やがて、アヒマアツが来た。
「陛下、戦は我らの勝利です」彼はきらきら光る眼でそう言った。ダビデは一応はそれに喜んで見せたものの、すぐにアブサロムの安否を聞いた。アヒマアツは知らないようだった。
しかし、次にクシュ人の兵士がやってきた。彼が告げたのは、今度こそアブサロムの死だった。彼は笑って、ダビデにアブサロムの死を話した。

ダビデは使者二人を放っておいて、慟哭しながら城門を上った。そして、城門の上で啼いた。
「アブサロム、アブサロム!」
彼は泣いた。身を震わせながら泣いた。
「私の息子……私のかわいい息子、アブサロム。お前の代わりに私が死ねばよかったのだ!私の息子……私の息子よ!」

ダビデの嘆きを知ったヨアブは、まっすぐに彼のもとに向かった。兵士たちはダビデの嘆きを知って喪に服していたものの、ヨアブはそのような気はないとそれを突っぱね、やや強引にダビデのもとに向かった。
「陛下、いい加減になさってください!あんな王子に嘆いてやる価値などありますか!」
ヨアブの強気な言葉を聞いて、ダビデは嘆きを一旦止め、彼のほうを見た。
「お前」ダビデは言った。
「アブサロムを殺すなと言ったはずだ。なぜ、殺してしまった。それも、死体すら持ち帰らずに」
「ではなんですか!?アブサロムが生きていて我々が全員死んだ方が、貴方にとっては満足だったのですか!?あなたのために戦ってきた兵士も、貴方のために城を守ってきた者たちも、貴方は全員侮辱されているのですよ、お分かりですか!?嘆くことなどおやめになってください、あれはただの敵、くだらん敵に過ぎませんでした!それとも何か、アブサロムの前には、我々など無にも等しいのですか!?」
ヨアブはダビデにそう問い詰めた。自分の忠誠心が、ダビデにすら否定されている気分だった。ふと、彼の頭に、アドニヤが浮かんだ。「臣下の心配をしないわけにはいかないだろう?」と言う、アドニヤの言葉が彼の脳裏に浮かんだ。ああ、アブサロムも、ダビデも、結局臣下のことなどこの程度にしか思っていない。しかし、アドニヤはああ言ってくれたのだ。彼はそう考えた。
「陛下」ヨアブはもう一回言った。
「アブサロムのことなどお忘れください。居るではありませんか。もっと、数倍も王子として忠実で、なおかつ王位を継ぐに相応しい……アドニヤ殿下がいるではありませんか」
ダビデは何も言わなかった。少しうなずくと、彼は立ち上がった。立ち上がって、城門の近くに誂えてあった、王の座に座った。兵士は皆、ダビデが立ち直ったと思い、そこに集まった。


その日も、ソロモンはアドニヤの声で目が覚めた。
「おはよう」とソロモンに言う彼は、嫌に小ざっぱりとした顔をしていた。
「今日父上様が帰るよ。戦は終わったんだ。アブサロムも死んだ」
「……では、もうこの隠れ部屋に居なくてもよいのですね?」
アドニヤはクスリと笑って「……ああ、自分の部屋に戻りたいのなら、そうすればいい」と言った。ソロモンはその言葉を聞くと、急いで部屋を出ようとした。
しかし、それは若干遅れることになった。と言うのも、隠れ部屋にどやどや押しかけてきた人々がいたからだ。あのダビデの十人の側室たちだった。
「アドニヤ、私のかわいい子!」ハギトが駆け寄って、アドニヤを抱きしめた。彼女は彼の巻き毛の髪を撫でまわした。
「まあ、本当に、なんていい子なのでしょう!なんて父に忠実な、いい子!あなたのおかげで、ダビデ陛下は勝てたと、誰もが言っていますよ!あなたのおかげで!」
ソロモンは出口をふさがれて、それをぼんやり見ていた。ふと、バテシバと目が合った。
数年ぶりに彼女と目を合わせた。彼女はソロモンを睨んでいた。悔しそうに睨んでいた。「なぜお前が、こうじゃないの」とでも言わんばかりに睨んでいた。彼女は明らかに、ハギトとアドニヤの母子に嫉妬し、そして称賛されることのないソロモンを憎らしく思っていた。
ソロモンはバテシバから目をそらした。それに気づいたらしいアドニヤが、「母上、皆さん、もういいです」と言った。
「皆さんの事は後で聞きますから。今のところは少し立ち去ってもらえませんか?」彼はごく穏やかな笑顔でそう言った。
「まあ、アドニヤったら、照れちゃって。良いですよ、後でゆっくりね。ああ、なんならダビデ陛下も交えて!」
ハギトは笑いながらそう言って、他九人を自慢げに従えるかのように、去っていった。バテシバは最後にソロモンのほうを睨みつけたが、ソロモン自身は無視した。
「ごめんね」彼は言った。
「でも……ソロモン。言ってもいいんだよ?今回の事はぼくだけじゃなくて、君の助力も多大にあったんだから。なんだか民衆はぼく一人が父上を救ったって言っちゃってるみたいで……君からすれば、あんまり面白くないんじゃないかな」
彼は心配そうに眉根を寄せて、そう言う。
「大体、フシャイをけしかけてアキトフェルを怒らせるのも、あの二人に物資集めの傍ら協力者を探しておくように言ったのも、フシャイの発言の内容も、入れ違いに川に向かう作戦も、全部君が考えたことじゃないか。ぼく一人の手柄になっては、君の立つ瀬がないだろう」
「……そもそも、私の存在を知っている人のほうが少ないですから、問題ないでしょう」ソロモンは冷静に言った。
「それに……父上だって、私からの手助けで勝てたとあっては、かえって妙な気持ちになるだけです。父上の心持ちのためにも、あなた一人の力と言っておいた方が単純でいい」
「でも、それじゃあ君、可愛そうじゃないかい?」
「……大丈夫、慣れたものですから」
ソロモンはそういって部屋を出て行こうとした。すると、アドニヤが彼の手首をつかんだ。彼はどきりとして、「まだ、何か?」と言った。
「ソロモン。覚えていて。誰が何と言おうと、ぼくは忘れないよ。君はぼくを助けてくれた、お父上を助けた、誰よりも賢い、立派な、イスラエルの王子だっていうことを」
彼は非常に優しく、そう言った。ソロモンは彼の手を払って「ありがとうございます」とだけ言った。
「ソロモン」背後で、アドニヤの声が聞こえた。
「じゃあ、また明日」
ソロモンは、その言葉に返答しないのが普通であっただろう。彼は明るい部屋に、もう居たくなかった。しかしその日、彼は不思議と返答したい気分に駆られた。
「はい、また明日。その……お兄様」
彼はそれだけ言うと、照れ隠しのように早足で去っていった。


アブサロムについていた軍は結局次々と手のひらを反して、再びダビデに従った。ダビデも彼らの事をとくには罰さず、ただ許し続けているようだ。聞く限り、寛容と言うよりも、少し投げやりな態度にもアドニヤには思えた。
アドニヤはアビアタルとともに廊下を歩いていた。
「まあ、父上らしいと思うよ。それに、何はどうあれ裏切ってびくびくしていた奴らには、父上の態度は寛容って映るんじゃないかな。別に悪い事ではないはずだ」
アドニヤはアビアタルにそう言った。アビアタルもうなずいた。
「ところで、アドニヤ王子」
「なんだい?」
「あのような……悪魔の子の力を借りる必要などあったのですか?」
アビアタルは神妙な顔で言ったが、アドニヤは「何言ってるんだ、ソロモンがいなけりゃこうまですぐは終わらなかったろ」と言った。
「は……まあ、そうですが、あのような不気味な外見は。おまけに、不倫の子でもありますし。第一、あのような卑しい子のご機嫌を貴方がとられるなどと」
「アビアタル、外見や出自で人を差別するなんて、お前はもう古い。人間の重大なところはその中身だよ」
彼はこつんとアビアタルを小突く。
「そうさ、お父上もバテシバも、この宮廷にいる誰もかれも、ソロモンを馬鹿にする連中なんて全員頭の中が古いんだよ。今回ではっきりわかった。ソロモンは欠陥品どころか、普通の人間の何倍だって使える奴だ。そういうやつの機嫌をわざわざ損ねとくなんて馬鹿の極みだ。敵に回すと厄介だが味方にすれば心強い、典型的なタイプじゃないか。ああいうのは、味方にしておくに限るんだよ。もっと言うなら、ぼくだけの味方に」
アドニヤは笑ってそう言った。
「(ソロモンがああいう容姿で生まれたのは、むしろ神様からの贈り物のように、ぼくには感じるね。有能な人間を独占することほど難しいこともないけど、愛に飢えた人間を独占するほど簡単なこともないもの。そう、簡単なんだ。そのためには心にもない褒め言葉なんて、いくらでも言ってやるさ。ソロモンがそれで喜んでぼくに尽くしてくれるなら、くだらないプライドの一つや二つ、捨てたってたっぷりおつりがくるよ)」
彼は巻き毛を指でいじくった。外には太陽が光っている。彼は青空を眺めて考えた。
「(ソロモンには、ぼくが王になるために……いや、なってからも、ぼくのために働いてもらおう。あいつほどいい道具が、この世にあるものか)」
彼はケラケラと笑った。そして、「どうした、アビアタル?ぼくが立派な王になるために、役に立つ味方が増えたんだぞ?お前も一緒に喜んでくれよ」と言った。アビアタルもその言葉を受けて渋々とだが、笑った。
「ははは……そうそう、それでいいんだよ!じゃ、お父上のお迎えの準備をしないとね!」
彼らは明るい足音を立てて、大広間のほうに向かっていった。


ソロモンは自分の部屋に戻った。暗く、冷たい空間。この冷たさが懐かしい。彼は部屋に入って、寝台に寝そべった。ふと、隣にいつの間にかベリアルが寝ていた。
「やあ、ベリアル」
「やっと会えたね。この頃、君の前に出るチャンスがなかったんだもの」
「いつだって来てくれてよかったのに」ソロモンは笑った。
「そうはいかないよ。人前でボクと話してたら、君が変な子になっちゃうもん」
ベリアルの笑顔を見て、ソロモンはようやく落ち着いた。ようやく、日常が戻ってきたと言った風だ。
「死んだね。アブサロム」ベリアルは言った。
「ああ……まあな」
ソロモンもぼんやり呟く。ベリアルは無言で、彼の前に手を差し出した。その手の中には、球根が握られていた。
「ねえ、もう一回、シクラメン育ててみない?」
彼は言った。「もうアブサロムもタマルも猫もいないんだし」
ソロモンは球根に手を伸ばした。どこか、懐かしかった。
「ああ……それもいいかもな」

彼は立ち上がって、黒いマントを羽織った。ベリアルもいつの間にか増やした球根をたくさん抱えて、立ち上がった。
ソロモンが扉を開ける。彼らは歩こうとしいて、ソロモンがふと、何か思い立ったように「そういえば、ベリアル」と問いかけた。
「なあに?」
「俺は今……何歳なんだっけ?」
彼の質問に、ベリアルは噴出した。頭がよくても、相変わらずそれにだけは無頓着らしい。
「十四だよ、何言ってるのさ」
「ああ……そんなにしていたか?いや、全くもって忘れていたよ。お前といると、時がたつのが早くてな」


(第一章・完)


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feat: Solomon 第十三話

「ご協力、ありがとうございました」と、二人の青年が壮年の夫婦に笑顔で告げた。バフリムはつい先日の緊張状態がとけて、全くの平和な状態だ。
二人の青年、ヨナタンとアヒマアツは、先日アキトフェルを振り切りダビデに物資を与えるために協力してくれた夫婦に、約束の謝礼を渡しにバフリムに来ていたのだ。
アドニヤ達から協力者を探すよう言われていた彼らは、この夫婦と協力の契約を交わした。バフリムにつくや否や、彼らは夫婦にかくまわれた。家の中では見つかる恐れがあるので、井戸の中に縄梯子を放り込み、そこに隠れ、物資は裏の倉庫にしまってもらった。夫婦には、もしアキトフェルが来たらヨルダン川のほうに向かったと言ってくれと伝えて。
結果、何もかもが計画通りにいった。アキトフェルは夫人のほうが言ったすでに川に向かったという情報に騙されて、自分たちより先に行ってくれた。あとは彼らが引き返してバフリムを通り過ぎたという知らせを待ち、彼らと入れ違いに川に向かうだけの事だった。
「いや、どういたしまして」家の主人は穏やかに笑いながら、金を受け取った。
「どうなんですか、その後、王様は元には戻れるんでしょうね」
「おそらくは。あとはもう、とんとん拍子に倒すだけですので」アヒマアツが笑う。「アドニヤ王子が我々にはいますから」


「ああ、くそ……どうすればいいんだ」
同じころ、王宮の大広間でアブサロムが一人悩んでいた。つい昨日聞かされた、ダビデが川を渡ったという情報は本当のようだった。それどころか、計算ならば彼らは遅くても今日中にマナハイムについてしまう。行くならば今しかない。
「いったいどこに行ったんだ、アキトフェルもフシャイも」彼は忌々しそうにぼやいた。実のところ、その情報を聞かされてから夜まで彼が動かなかった理由はと言えば、協力をしてくれることになった国や地方の領主からの援軍を待つためのほか、アキトフェルとフシャイの意見を待っていたからである。ところがフシャイが消え、アキトフェルもフラフラどこかに行ってしまったと言うので、どうしようもなかったのだ。
アキトフェルは自分のプライベートの事を語らなかったので、宮廷にいるだれもアキトフェルの家を知らなかったのである。そしてフシャイは、アドニヤ達のいる隠れ部屋に隠れていた。
孤独感を覆い隠せない。心もとなくてしょうがない。しかし、迷っている暇はないのだ。もう後には引けない。父親を倒さなくては。自分の野望のために、自分が生きるために。アブサロムは自分を鼓舞した。またあのような無気力な生活になど戻りたくない。あのころ、自分は本当に死んでいた。生命を維持していることがつらかった。もう、そんな自分はごめんだ。王となって、生きているものらしく生きねば、と彼は拳を固めた。
「もう時間がない。そうだ、時間がないんだ」
彼は決心したように言った。一晩開けたおかげで、戦力は現在できる最大限までは固まった。軍隊の機動力ならば、一応川もすぐには越せる。夕方頃にはヨルダン川を越えるくらいはできるだろう。
「タマル、僕に力をくれよ」
彼は髪の毛の腕輪を撫でて、総攻撃の命令をかけようと腰を上げた。


「ソロモン、起きて」
耳元でそんな声が聞こえたのでソロモンはぱちりと赤い目を開けた。彼のすぐに近くにアドニヤがいた。
「おはようございます」彼は目をこすりながら言った。
「君は呼べばすぐ起きるね、お寝坊さんじゃないのはいいことだ」
「どうもありがとうございます。……で、何かありましたか」
アドニヤから距離を取ろうとするソロモンに、アドニヤが笑顔で言った。
「アブサロムが出陣したよ。今日中にヨルダン川を超えるつもりらしい」
「え?もう城を出たと言うのですか?」
「うん、もう」
ソロモンはすっと部屋の外に出た。確かに、王宮は全く元の静寂に戻っている。もう昼間を過ぎて、日は熱く輝いていた。彼はちかちかする眼を抑えて、隠れ部屋の中に戻った。隠れ部屋はカーテンが閉めてあるから少しは楽だ。
「目が痛いの?」
「……はい」
「いたわりたまえよ、君の目はきれいなんだから、つぶれちゃったりなんてしたら大損だ」
アドニヤのその言葉に、ソロモンは眉をひそめ、ついでに目を覗き込もうとする彼から目をそらした。
「私の目が褒められたものであるなど、聞いたこともありませんね」
「何言ってるんだい、きれいじゃないか。まるでルビーの宝玉みたいで。他の誰もそんな目を持ってはいない。きれいだよ、ソロモン」
「…貴方は少し変だ」彼は再び変な気持ちになるのを抑えようと、また、この話題を変えようと「アブサロムが出て行ったなら、もう私たちの出番は終わりですね」と言った。
「うん、後はお父上様の番だ」


翌日、マナハイムで軍の体制を立て直していたダビデのもとにも、アブサロムの情報が入ってきた。アブサロムはヨルダン川を渡り、今はギレアド地方に陣を敷いているとのことだった。
「了解した」ダビデは報告を聞かせてきた使いに短くそう知らせた。
「陛下」隣に立つヨアブが口をはさむ。「応援を含めると、軍の数は十分整いました」
「そうか。全体ではどのくらいだ?…なるほど。これほど集まったのならば百人隊と千人隊に分ける必要があるな。さらに全体で三部隊に分けるぞ。指揮官はお前とアビシャイ、イタイでよかろう」
「それでよろしいかと」ヨアブは深々と頭を下げる。「これ程がそろえば、アブサロムの軍隊にも楽に勝てましょう。所詮は烏合の衆ですから」
「衝突が起こるとすればエフライムの森か」ダビデは近くにある密林、エフライムの森を思い出していた。アブサロムが陣地を敷いている場所から言っても、衝突が起こるのならばそこになるだろう。
ダビデは兵士たちの方に目をやった。マナハイムについてからようやく十分な食料にありつけた彼らは今ではすっかり元気を取り戻していた。すぐにでも出陣はかなうだろう。
だが、アブサロムの事がやはりダビデの中で引っかかっていた。最近、思い出すことはと言えば、アブサロムの昔の思い出ばかりだ。あのずば抜けて美しく、素直でかわいかった自分の息子の思い出だ。まだ今のように王権が強固ではなかったころ、アムノン、キルアブについで彼が生まれた時から、今に至るまでの、彼の思い出を振り返らずにいることはできなかった。
彼を今回のようなことにさせてしまった理由は結局自分の優柔不断のせいだと、分からないダビデではない。それが一層彼を優柔不断にさせた。彼を裁くべきか、許すべきか、同時に行えない二つの事が、どちらも捨てがたいのだ。こんな反乱を起こしておいて、許す道理がどこにあろうか。いや、あるのだ。アブサロムはかわいい息子、それで十分だ。そして、彼を追いつめてしまったのは自分自身なのだ。自分がもっと、アムノンにしっかり罰を下していればこのようなことにはならなかったかもしれない。なぜ自分はあの時そうしなかったのだ?自分の中で何かが引っ掛かったのだ。その何かとは何であったか?
ダビデはふと、ソロモンの事を思い出した。アブサロムに足蹴にされ、ボロボロになりながら、めちゃくちゃになった愛する花畑を見ていた彼を思い出していた。シクラメンを埋葬する彼の指先を思い出していた。そうだ、あの時も自分は、アブサロムを罰しなかった。アムノンの件とは違い、迷わずとも罰しなかった。あの時から、自分の中で罰を下すということが特別なことになってしまったのかもしれない。
相手がソロモンだから罰さなかったのだろうか?ソロモンはどんな仕打ちを受けても、大人しく黙っている。それよりも興奮状態にあるアブサロムとタマルのほうが一大事だと思って、彼らに罰を与えなかったのだ。そうだ、それが自分ではないか。アムノンのいない今、アブサロムは何よりも可愛がってやるべき存在じゃないか。ダビデは心の中でそう言った。
今回のクーデターの事とてなんだというのだ。彼はようやく決心がついた。今からでも遅くはない。自分はしっかり王位に返り咲く。そしてもう一度、アブサロムと王と王子の関係になってやり直せばよいではないか。
「ヨアブ、明日にでも攻撃をかけられるな?」彼は言った。
「私も一緒に出陣するぞ」

彼ははっきりとした口調でそう言った。真剣な気持ちだった。
だが、ヨアブに至っては彼のその発言を歓迎せず、「それはなりません!」と言ってきたので、ダビデは少し決心に水を差されたような心持ちだった。
「我々が半数死のうと構いませんが、貴方様の命は我々一万人分の命にも等しい方、万が一と言うこともあり得ます!明日の出陣であれば、町の中にとどまって我々にご指示を出すにとどめてください!」
「それだというのなら」
ダビデは嘆息していった。
「明日兵士たちにも同じことは言うつもりだが……アブサロムを見つけてもけっして手荒には扱うな。私のもとに連れてくるのだ。よいか。彼は私の王子だ」
その言葉を聞いて、ヨアブに一瞬不満そうな表情が浮かんだ。ヨアブはよい軍人なのだが、少々忠誠心が強すぎて扱いづらいところがある、とダビデは常日頃感じていた。
それでも、なんとかヨアブは納得してくれた。「承知しました」と彼は敬礼して言った。
「ただ…陛下。これだけはよろしいですか」
「どうした?」
「今回、我々がアブサロムに追いつかれるまでに川を超えられたのはだれの助力だとお思いです?」ヨアブは険しい顔で言った。「すべて、王宮のフシャイと、アドニヤ王子が指示を出してくれたおかげなのですよ」
彼はそれだけ言って、「失礼いたします、武器を見てまいりますので」と、その場を立ち去った。ダビデは、その場に残されて、立ち尽くしていた。
ふと、風が彼の髪を揺らした。白髪が混ざっていた。


アブサロムはその晩、眠れなかった。眠ろうと思うと悪夢が襲ってくるのだ。あの美しい悪夢が。シクラメンの悪夢が。彼は何度も寝ようとしては、何度も跳ね起きた。一人だけの天幕の中で、彼は悪夢におびえていた。
「(なぜだ、なぜ、こんな重要な時になって?)」
アブサロムは乱れる息を整えながら、必死で心を落ち着かせようとした。
「(明日…明日にでも攻撃を仕掛ける。僕の人生の岐路なんだぞ!今まで生きてきたうえで、一番の!全てにおいて万端でなくてはならないのに……なぜ、僕を落ち着かせてくれないんだ!?なぜ僕は怖がらせられなければならないんだ!?あんな花ごときに!)」
彼は頭をかきむしった。ふと、分厚い天幕でも通してしまうほどの強い光が天幕の外から発せられているのがわかった。何事かと、アブロムは驚いた。外は全く静かで、誰ひとり気がついてはいないようだった。彼は恐る恐る、天幕を開けた。
そこに、天使が立っていた。波打つ長い金髪、空色の目、真珠の飾り、花冠、そして真珠のような光輝く翼を持った天使が。
彼は驚いて、声をかけようとした。しかし彼は、ベリアルは、アブサロムをしっかりと見据えてにやりと不敵に微笑みかけるとそのまま消えてしまい、彼の光も消え、元通りの闇がそこに残った。


翌日、決戦は起こった。ダビデはヨアブの進言通り町に残ることにし、兵士たちには先日彼に言ったとおり、アブサロムを見つけても決して傷つけるなと命じた。そして兵士たちは出て行った。ほどなくして、アブサロム率いるクーデターの軍も進軍を始めた。

エフライムの森で始まった戦争は、何というべきことだろうか、あっけないほどにすぐにどちらが勝つのかということは明白になった。はじまってから少しもせずに、ダビデの軍が圧倒的優位になった。アブサロムのもとにも多くが付き従ったとはいえ、軍隊の中でも、もともと優秀で戦争慣れした軍人はほぼ全員ダビデの方についていたのだから、無理からぬ話でもある。加えて彼らはフシャイの言ったとおり、ダビデを侮辱したアブサロムに対しての怒りを隠そうとはしていなかった。彼らはアブサロムに従った残りのイスラエル軍を裏切り者と罵り、怒涛の勢いで攻めた。対するアブサロムの軍は、彼らに比べると士気が足りていなかった。まして戦いが進むにつれ、ダビデ軍の勢いに完全に飲まれてしまい、怖気づいたのだからなおさらのことだった。

倒れる兵士はどんどん増えていく。エフライムの森の近郊はあっという間に、すっかり戦いにのまれ、剣の音と血の匂いが充満した。
「どけ、僕が行く!」アブサロムは見かねて、高いところから弓を放った。彼の弓の腕は流石のもので、たちまちにダビデの兵士数人を打ち取った。アブサロム軍はようやく少々元気になり、アブサロムもこの調子で士気を低めないよう自分が健闘せねばと歯を食いしばった。
しかし、それもまた上手くはいかなかった。彼がようやくこちらに風が向いてきたと思い矢筒から新しい矢を取り出そうと一瞬動いた矢先、彼の頭を何かがかすめた。そして、邪魔にならないように束ねてあったはずの長髪がパラリとほどけ、彼に覆いかぶさった。ふと、彼の首筋に血が流れた。
彼は前方を見た。ヨアブだ。ヨアブが自分に矢を放ったのだ。自分の髪留めを正確に打ち抜くことで、ヨアブは自分を威嚇してきたのだ。遠方からでも、彼が自分に対する怒りに燃えていることがしっかりとアブサロムには分かった。
彼は前髪を払いのけて、ヨアブのほうを見た。たちまち、心に恐怖心が巻き起こってきた。それは、軍隊にも伝染したようだった。アブサロムの髪がほどけたのを何人もの兵士が目撃した。そしてそれと同時に、彼らの緊張の糸も切れ、恐怖心に支配されてしまったかのようだった。総大将たる彼が、ともすれば首を射抜かれて死んでいたのだから、怯えるのも道理である。
彼らはパニック状態になって、逃げだした。「おい、逃げるな、どこに行く!」罵声が飛ぶ。アブサロムに従っていた将軍、アマサの声だ。彼らはその声にも耳を貸さず、一目散にエフライムの森の奥に入っていった。エフライムの森と言えば、奥の方は遭難者を多く出す密林でもあるのだが、彼らにはどうでもいいようだった。そしてアブサロムにも、そのようなことはどうでもよかった。アブサロム自身の手も震えた。
彼は矢を射た。しかし、それはだれにも当たらなかった。何発撃っても、今までの成果が嘘のように、当たらない。弓を習い始めた子供の打つそれのように、彼の矢は情けなく飛んだ。ヨアブがこちらにやってくる。ヨアブは王子を相手にするように自分の前には来ていない。反逆者をとらえる勢いでやってくる。
アブサロム自身も、恐怖を感じていた。先ほどようやく調子に乗ってきた気分が、矢で射抜かれて地に落ちてしまったかのようだった。
彼の体に冷や汗が伝った。息が荒くなる。汗で、矢を取り落してしまいそうだった。
「(なぜだ?僕は王になるんだ、こうでもしなきゃ僕が生きる道なんてないんだ!それなのに、それなのに、どうして、僕はこんな……?)」
ふと戦場独特の高揚が冷めてきたあたりで、アブサロムの目には死屍累々と横たわる死体の山が目に入った。それがとてつもなく気持ちの悪いもののように、アブサロムには思えた。アブサロムは吐き気を感じた。
そして、彼がそれでも持ち直そうと、弓ではなく剣に手をかけようとした時だった。

アブサロムの目に移る景色が変わった。音も、匂いも一切遮断され、彼には視覚だけが許された。
彼の目に、人間は映らなくなった。そして、血も映らなくなった。彼の目の前には血の代わりに、シクラメンの花が一面に生えていた。それは液体が広がるようにどんどん広がり、アブサロムの目の前までやってきた。
アブサロムの顔から血の気が引いた。
「や、やめろ……」
彼のその言葉を聞いてアマサが「どうなさいましたか、陛下?」と問いかけたものの、彼に聞こえるはずもなかった。
彼の足もとまでシクラメンが広がった時、彼らは夢の中のようにアブサロムのもとに這い上がっては来なかった。しかし、彼らはその代わり、一斉にうつむいたその顔をアブサロムの方向に向かってあげた。アブサロムは悲鳴を上げる。彼らは一本が一つずつ、まるで心臓から直接搾り取った血のような、鮮やかな赤色をした眼球をその中に持っていた。
彼らはぞわぞわとアブサロムのほうに寄ってきた。やがて、夢の中と全く同じように、アブサロムの体をヤドリギのように蝕み始めた。
「やめろ、くるな、くるな!」彼は剣を振り回してシクラメンを威嚇した。一輪のシクラメンの首が飛ぶ。その花は、桃色と白のまだら模様の花束を持っていた。
それと同時に、夢では起こらなかったことが起こった。その花が、燃えた。いや、違う。花は火に変わったのだ。まるで篝火のような形をしたシクラメンの花が、本物の火に変わった。
それが皮切りになった。
次から次へと広がる無数のシクラメンが一つ、二つ、と、炎の花弁をもつ花にその身を変えた。彼らは炎の花弁を携えてアブサロムを包み始めた。
「い、いやだ、熱い、熱い、苦しい……」彼は呟く。火の熱がすぐ迫ってきている。そして次の瞬間、髪に火が燃え移ったのがわかった。

「助けてくれ!シクラメンが僕を燃やそうとしている!」
彼の叫び声は、周囲の人間にはどう聞こえたろうか。おそらく彼らはこう思ったに違いない。負け戦を目の前にして、アブサロムは発狂してしまったのだと。
「陛下、お気を確かに!」アマサが声をかけた、しかし、アブサロムには聞こえていなかった。彼は手探りで自分のラバを探し当てると、「走れ、逃げろ!あの花から逃げるんだ!」と怒鳴った。
「陛下、アブサロム陛下、どこに行かれますか!」という声を無視して、アブサロムはどこへともわからない方向にラバを走らせた。だかその方向と言うのは、まさしくエフライムの森の奥深くだった。


彼はシクラメンを振り切ることができなかった。それどころか行く手にも無数の炎の花が折り重なっている。アブサロムは無我夢中でラバを走らせた。もうどのくらい長い間は知ったのかもわからない。彼は恐怖に声にならない悲鳴を上げた。彼は樫の大木の絡まりあったところに来た。彼の目には、それすらもシクラメンの集まりのように思えた。彼の頭は真っ白になり、ただひたすら、そこを駆け抜けようとした。
ふと、彼は違和感を感じた。自分が動かない。ラバを走らせているはずなのに。いったい、何が起こったのだろうか……。

そこで、幻覚が終わった。彼の目の前に広がっていたのは、うっそうとしたエフライムの森だった。自分はラバに乗っていない。いや、前方でまさに自分のラバが必死で駆け抜けていく。自分を乗せずに。自分の体が動かない。いや、足が地についていない。何やら髪の毛の付け根が痛い。全体重を髪の毛でささえているかのようだ。いったい何だというのか。彼は少しして、理解し、そして絶望した。
ヨアブに髪留めを射抜かれたおかげでばらけた長髪が、絡まりあった樫の木の枝に引っかかってしまったのだ。そして、自分は今、まるで首つり死体のように、樫の木の間に宙づりになっているのだ。
彼は抜け出そうともがいた。しかし、髪の毛は非常に深く絡まりあって、ほどこうとすればするほど枝に食い込むようだった。彼の剣は途中で落としてしまったのか手元にはなく、髪を切って逃れることすらもできない。このままヨアブが来ては、自分は殺されてしまうかもしれない。助けを呼ぼうにも、叫んだりなどすれば、自分の存在がばれてしまう。
「誰か、助けてくれ…頼む、アマサ、アキトフェル……父さん……」
彼が涙を流しながらそう言った時だった。彼の目の前に、光る何かが現れた。


「アブサロムを樫の木の森で見つけた!?」部下の声を聴いて、ヨアブはそう怒鳴った。
「はい、樫の木に髪の毛で宙づりになって、身動きが取れないようでした」
「それでお前、それをそのままにしておいたのか?」
「はい、陛下がアブサロム様には手をかけるなと命じられましたから……」
ヨアブはそう言いかけた彼を一発殴った。
「馬鹿!お前には期待せん!」
彼はそう言い切って、自分も森の真ん中のほうにかけて行った。
「(アブサロム!お前に甘くしていたのも、お前がダビデ様の息子であればこそ!ダビデ様に反旗を翻した貴様を甘やかしておく道理などないわ!)」
彼の頭には完全に血が上っていた。かの一件でアブサロムにさんざん世話を焼かされた鬱憤もあったのかもしれない。
「(お前がいずとも……その何倍も、王子に相応しい方がいる!)」
走りながら彼は、アドニヤの事を思い出していた。ダビデとアブサロムの仲を仲介し、今回ダビデを助けても何一つ威張りはせずに構えていた、あの青年が、彼には理想の王子のように思えていた。


現れたのは、彼が昨夜見た天使だった。すなわち、ベリアルだ。
「天使……?」彼は言った。
「こんにちは、アブサロム王子。お話するのは初めてだね」ベリアルは笑って、彼にそう語りかける。
「お、お前はだれだ……?僕を助けてくれるのか?」
「助けに…?あは、おっかし。アブサロム。ボクはむしろ、君にこう言いに来たんだよ。もうキミは、死ぬって」
その言葉を聞いた途端、アブサロムの血の気が引いた。「死ぬ……僕が、死ぬだって?」彼は震える声でそう言った。ベリアルは笑って「うん」と言った。まさに天使のそれに相応しい、穏やかで優美な微笑みだった。
「そんな……なぜ、なぜ僕が死ななきゃならないんだ」
「なぜって……王に反逆したからじゃない?今ね、ヨアブって男がこっちに向かっているよ。君を殺す気満々で」
こともなげにベリアルはそういう。アブサロムは真っ青な顔で、もがいた。
「天使、頼む、これをほどいてくれ!」
「なんでボクが解かなくちゃならないのさ?」
「僕はまだ生きたいんだ!僕はもっと生きたい、いろいろやることがあるんだ!こんなところで死にたくない、死ぬのは嫌だ!僕はまだ生きられるんだ、生きたいんだよ!死ぬのは怖い!いやだ、助けて!」
ベリアルはアブサロムの言葉に耳を傾けた。
「人間は皆、そう言うよ」彼は豊かな金髪を掻きあげて、そうつぶやく。
「でも、仕方ないだろ?これが神様がお決めになったことなのさ。君は王になる運命じゃなくて、こういう形で死ぬ運命だったんだよ」
「僕は……僕は、誰よりも王に相応しかったはずだ」
「違うね。王になる子はもう、決まっている。君じゃない」ベリアルは人差し指を立ててアブサロムを指さした。
「僕が何をしたんだ」アブサロムは絞り出すように声を上げた。
「僕は何も……何も悪い事なんてしてないぞ!アムノンを殺したのだって、タマルを犯したからだ!反旗を翻したのだって、こうでもしなきゃ僕はずっと廃人だったからだ!僕が全くの悪いことをしたことなんてないだろう!このくらいの悪い事なら誰でもするさ!なのに、なんで僕だけ、なんで僕だけこんな形で死ななきゃならないんだよ!それほどの悪いこと、僕はしてないだろ!こんなの理不尽だ、やりすぎだ!」
次の瞬間、ベリアルはアブサロムの顔を覗き込んだ。そして不気味なまでに美しい笑顔で、「ねえ、それ本気で言ってるの?」と言った。
「悪いことがない……?あっはは、人を殺すのも、国をひっくり返すのも、十分悪い事じゃない。理由なんて知ったこっちゃないよ。君は悪い。ああでも安心して、君だけじゃないよ。ダビデにヨアブ、アムノン、ヨナダブ、君の妹、アキトフェル、みんなみんな悪かった。そうさ、悪いんだ。人間なんて、生まれた時から悪いんだ。全員が悪いんだ。あの日、君らのご先祖が神を裏切ってエデンを追放されたあの日から、君たち人間が悪くなかった日なんて一日もあるものか」
彼は両手でアブサロムの頬を抱いた。「ああ……綺麗。さすがに人間だ。神が何よりも愛される存在だ。罪深くとも、神は人間を愛される……なぜだか分かるかい?……いや、分からなくてもいいか。不平不満をぼやくなよ。人間として生まれて死んだ、それ以上の幸せがこの世にあると思っているのかい?笑って死ねばいいさ。君らは何より素晴らしい。罪深くとも、素晴らしい。ボクも、そんな人間が大好きだ」
そういって、彼は立ち去った。アブサロムは助けてくれ!行かないでくれ!とわめき続けていたが、ベリアルは静かに立ち去った。
やがて、異質な音が聞こえた。彼の叫びを聞きつけた、ヨアブの足音だった。


アブサロムは死んだ。ヨアブと彼に続いてやってきた彼の部下によってめった刺しにされた彼の遺体は、その場でエフライムの森の奥深くに葬られたと言う。彼はエルサレムはおろか、父の胸元にすら戻ることはなかったのである。


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feat: Solomon 第十二話

朝になりしばらくすると、アキトフェルのもとに彼の送った密使が戻ってきた。
「アキトフェル様、ダビデ達の位置を特定しました」
アキトフェルはようやくかと思いつつ、素直に彼らを誉め、そしていよいよダビデを打ち取れるという歓喜に打ち震えた。
彼は自分の口からこの事実をアブサロムに伝えると言い、速足でアブサロムのもとへ向かった。

ダビデに忠誠がなかったわけではない。彼がダビデに仕えはじめたのも、もとはと言えば他の何人もの部下同様にダビデの王としての手腕や、その見るものすべてを圧倒するかのような美貌、全てをねじ伏せる力に魅せられ、このような人物のためにこそ自分の力を使おうと思ったからだ。繰り返すが、何もアキトフェルだけではない。同じ理由で何人もの有能な人物が、ダビデのもとには集った。
しかし初めてアブサロムと会った時、彼の肉体にダビデには感じたこともない衝撃が駆け巡ったのだ。アブサロムはまだ幼いと言ってもいい年齢の、全く無垢な少年だった。だが亜麻色の髪をたなびかせる、しなやかで涼しげな美少年の姿は彼にとってダビデ以上に偉大なものに思えた。彼は、アブサロムこそ王位を継ぐべきだと考えた。なぜかと言えば、王と言うのはイスラエルで最高の称号で、アブサロムのような美しい人間こそ最高の人間で、最高の人間が最高の称号を持つべきだと彼は考えたからだ。
彼は時を待った。アブサロムに最も貢献できるようになるまで。アブサロムが何の苦労もなく育って居るうちは、自分の存在など不要だ。しかし一旦雲行きが怪しくなれば、自分はアブサロムを助ける第一の人物として彼の前に立つことができる。彼は待った。そして、待つ間に情報という情報をかき集めた。アブサロムの利益になりそうなもの、脅威になりそうなものは自分が一番知っておくべきと考えたからだ。それ以外の事は何にも興味をはらわなかった。彼がただの人物ならば存在すら知らないか、知っていたとしても一顧だにしないソロモンの存在を知ったのもその時だ。
王子ならば全員警戒が必要と彼は考えていた。そして、ソロモンに関する情報も集めようと思った。彼につながる人物はほとんどいなかったので難儀な話だった。やがて、彼の教育係がナタンであることを彼は知った。そしてそれとなく彼の事を聞いてみた。アキトフェルはおののいた。注目すらしていなかったソロモンが、自分と同じく知性に恵まれた人間であることを知ったからだ。
知性は狂気と紙一重だ。知性ある自分だからこそ、それを一番知っている。ソロモンこそがアブサロムを脅かし得る人物だ、と彼は考えた。ただ、それ以上ソロモンについては突っ込めなかった。ナタンに面会を頼んでも彼はだれにも会いたがらないと言うだけだったし、彼の部屋には常に鍵がかかっていた。
そして、ある日例のナタンの預言を、アキトフェルは偶然耳にした。その場に、アブサロムが居合わせていた。
ソロモンこそが脅威だという自分の観測が的中していたこと、そして満を持して、アブサロムの役に立つチャンスが狙い澄ましたかのように、全く偶然にやってきたこと、二つの事実に彼はこの上なく喜んだ。これこそが神の恵みだろうとすら考えた。
ソロモンの事を気にかけているかのようなアブサロムを見て、彼は心の中でつぶやいた。「(ソロモンがどんな人間であろうと、私は知っている。ソロモンが貴方より美しいものか!)」

そして自分は今、アブサロムの隣に立つことができる。玉座はアブサロムにこそふさわしい。王冠もアブサロムでなくてはその輝きを失う。ダビデも、ソロモンも、アブサロムを差し置いて王冠をかぶる権利があるはずはないと彼は思った。
「アブサロム…なんと素晴らしい」
誰に言うではなく、彼は呟いた。彼はアブサロムのいるはずの広間につながる廊下を歩いていた。


「おはよう」と、ソロモンの背後から声が聞こえた。振り返ると、アドニヤが起きていた。
「どうしてカーテンを閉めるんだい?」
「日の光が嫌いなので」
「そうかい?まあ、そこは人それぞれだね」
「……それと、私らが万が一見つかってしまっては台無しでは?」
「それもそうだな」
彼は寝癖を手で治すと、「ところで、あの二人どうなった?」と言った。
「ヨナタンとアヒマアツならその……貴方が寝ている間に使いが来ましたよ。エルサレムにいるのは危険なのでエン・ロゲルにとどまっています。いつでも出発できるそうです」
「お兄様でいいってば」彼は笑い、「じゃあ、後はフシャイを待つだけだな」と言った。


アブサロムのもとについたアキトフェルは面喰った。むろん、そこにフシャイが一緒に立っていたからだ。
「なぜお前がここにいる?」至極当然な疑問を彼は投げかけたが、フシャイの代わりにアブサロムが答えた。
「昨日僕のところにやってきたんだ。僕に使ってほしいって」
「アブサロム様、信用がなりません」
「ほう、アキトフェル。それはつまり君は君ひとり王に媚を売り、得をしたいということだね」
アキトフェルの言葉を遮るように、フシャイが冷静に言い返した。
「なんだと?」
「そうではないのか?君とてアブサロム陛下に昔からつかえていたというわけでは無かろう。前王、ダビデ陛下もそうだったが、国を守るために王が多くの人材をかき集めるのは至極まっとうなこと。アブサロム陛下の行動には何の問題もない。また、私も国を守るという私の使命のため、新しく国となったアブサロム陛下のもとに来たまでの事。しかし君は自分一人が王に取り入り得をするために、国を守るという王家に仕える者の最大の任務すら忘れているのではないかね。そのような人物に、侮辱をされるいわれはない」
フシャイの冷静な言葉がアキトフェルの神経を逆なでした。アキトフェルは何よりも、自分のアブサロムへの忠誠心をただの私利私欲と同列に扱われたことに激しい不快感と屈辱を覚えた。自分のこの感情はそのようなさもしいものではない。自分はもっと崇高だ。しかしフシャイの言うことも言うことでまた間違いもなかったので、彼は反論しようとは思わなかった。したところでアブサロムが聞き入れるとも思わなかった。アブサロムの顔は完全にフシャイを信用していた。それがますますアキトフェルの心を波立たせた。
「アブサロム様」彼はフシャイを無視するように言った。
「私の送った密使どもが帰ってまいりました。ダビデ一行はマナハイムに向かう道中で、ヨルダン川で足止めを食っております。この調子ならばあと三日ほどは膠着状態であろうとの事ですが」
「なるほど」アブサロムは言った。
「私に軍隊を指揮する権利をお与えください、アブサロム様」アキトフェルはアブサロムに懇願した。「絶好のチャンスです。今こそ、ダビデを全力で叩き潰すとき。彼らに戦闘の準備が整っていないところを吸収し、ダビデの首を貴方のもとに持ち帰りましょう。ダビデがいなくなれば兵は散り散りです。その者たちを、貴方のもとに連れ返しましょう。ダビデに仕えるように、彼は貴方に仕えるようになりましょう」
アブサロムは少し考え込んだ。「悪くない、が……」彼は少し視線を泳がせていった。「フシャイ、せっかくだからお前の意見も聞いてみよう」
アブサロムの発言にアキトフェルがまた不快感を見せたのは言うまでもない。しかし、次にくる言葉が本格的に彼を刺激した。
「アキトフェル、愚策だな」
「なんだと!?」アキトフェルは激昂して言い返した。
「今行くのは得策ではない。三日動けないのであれば、その時間は有効に活用すべきです。諸地域の指導者に呼び掛けて、我らの軍勢を強化しましょう。その時間のうちに、ダビデを確実に打ち取れるだけの軍勢をそろえることこそ、我々の取る道でしょうな」

「なんだって?」声を荒げてアキトフェルは言った。
「それでも軍師か?時間を作ることは得策ではない、今できることなら今片づけるに限る。いつまでも『この調子』である保証はどこにもないのだぞ」
「普通の相手なら私も君と同じ判断をしただろうな」フシャイは言った。
「だが、私はダビデを知っている。あの方に長年お仕えし、そばにいた。そんな私だからこそ、ダビデには普通の常識は通用せぬということを知っている。ただの羊飼いの少年でありながらペリシテの巨人兵士を何の抵抗も許さずに倒し、王位を脅かし、ついには一国の王になったあの人の得体のしれぬ底力を私は知っている。それに、その偉業を成し遂げるにあたって大きな力となった勇士たちも、依然ダビデに従っているのだぞ。イシュバアル、エルザアル、シャンマの三勇士をはじめ、ヨアブ将軍にベナヤ、そのほかにも……アブサロム陛下、ダビデの軍隊に関して普通の常識は通用致しません。ダビデへの神の加護が残っていないとは言い切れない。準備が許されているのならば準備を万端にするに越したことはありません。付け焼刃の軍では、ダビデが勝利する可能性は十分にある」
「ふうん……」アブサロムは困ったように口に指を添えた。
「その間にダビデが逆転したらどうする?」
「幸い、有能な殆どのもとはダビデにぴったりとついていきました。裏を返せばはるばるとダビデに応援を送るほどのものの可能性はほぼ潰えてしまったということです」
言うまでもなく、フシャイはヨナタンとアヒマアツの事を知っている。実に大した演技だと彼は彼自身に言い聞かせた。
「おまけに、追い詰めると計算外の力を発揮するのが人間と言うものでございましょう。私のように国にではなく、ダビデに従っていた者たちは、今時分そのダビデが最大級の侮辱を受けたことで怒り狂っているはず。そのことを頭から外す方が危険でございましょう。ついでに言えばね、アキトフェル。君はダビデ王を打ち取ると言っていたが、あの人はもともと軍隊と一緒に休むのを好まない方だよ。自分の生死の重要性をよく知っておられる上、生半可な兵士など一人でも十分返り討ちにできるお方だからな。いまにしても、不測の事態に備えて彼だけ離れた場所にいる可能性は十分にある。万が一それが理由でダビデ討伐にしくじり、この作戦を失敗に追い込んでみたまえ。こちらの士気はがた落ちだ。ダビデやダビデの勇士たちの武勲は国中が知っているからね。結局このクーデターも無駄に終わってしまう」
アキトフェルはそこまで言うと、アブサロムに向かっていった。
「アブサロム王。今すべきは、ダンからベエルシェバまで、イスラエル中に我々の兵力を拡大することです。貴方様ならば数日でそれはできましょう。ましてアキトフェルがいるのならば鬼に金棒。人数さえ増えれば、ダビデを取り逃がすこともありません。町という町に目を光らせればよいのですから。そして彼をとらえてさえしまえば、あちらは何の脅威もなくなりましょう。ダビデに従う者どもは、ダビデがいなくては戦えません。ダビデのために戦う者どもと言うほどですから、その目標を失ってはどうにもなりません。ですから、ここはじっくりと、確実に勝てる道を選ぶべきでしょう」

アブサロムは考え込み、やがてアキトフェルに向かっていった。
「アキトフェル」
「は、はい」
「僕はフシャイの提案に納得しよう。お前に頼みごとがある。僕の軍勢が増えるよう、各地、各国へ使いを送ってくれ」
博打嫌いのアブサロムらしい考えではあった。彼ならば、いかにも安定性のあるフシャイの方を好みそうなものだ。「確実に勝てる道」と言うのはアブサロムの耳には、非常に聞こえがよかった。
アキトフェルは言い返せなかった。絞り出すように「仰せのままに」と言ったが、内心では屈辱に燃えていた。自分のアブサロムへの忠誠をアブサロム自身にないがしろにされたかのように思えた。


フシャイはアドニヤ達の待つ場所に向かった。その秘密部屋にはアドニヤとソロモン、ザドクとアビアタルがいた。フシャイは彼らに、こういった。
「お喜びください。アブサロムは私の提案を受け入れました」
「本当かい!よくやった、ありがとう!」アドニヤが言った。
「では、計画の最終段階に入れますな」口を開いたのはアビアタルだった。「エン・ロゲルにとどまっている我らの息子たちに使いを。今すぐに」
「フシャイ」ソロモンが口を開いた。「アキトフェルは?怒っていたか?」
「はい、非常に心外と言った風でしたな」
「だったら問題ないな。話した通りに行動するように、彼らに言っておいてくれ」
「ただちに」
それだけ言って、フシャイは去っていった。
アドニヤはソロモンの頭に手を置いて、「凄いじゃないか、何もかもうまくいっている」と言った。ソロモンはと言えば、少し眠そうだった。
「眠いのかい?」
「はい。まあ……昼は眠いのです」
「眠かったら寝ていてもいいよ、必要になったら起こすから」アドニヤは彼に優しくそういった。


数時間後、アキトフェルのもとに一人の男が駆け込んできた。
「アキトフェル様!」と息を切らしてラバに乗って駆け込んできた男は、礼をする余裕もないと言った風に叫んだ。彼はアキトフェルの密使の一人だった。
「大変です!ヨナタンとアヒマアツを見かけました!しかも、大量の物資を持って!」
「なに!?」
「エン・ロゲルでです!奴ら、ダビデの援助に行くつもりです!」
アキトフェルは焦った。それみたことかフシャイ、やはりダビデがこのままのうのうと三日間とどまっているはずがない。そう思いつつ、アブサロムのもとに申し開きをする時間すら惜しかった。エン・ロゲルからヨルダン川までのルートは彼の頭の中にも入っている。途中の街、バフリムを経由するのが一番のルートだ。
彼ははじけ飛ぶようにアブサロムのもとに行き、そのことを言った。
「時間がありません。すぐに私に一番速い馬と兵隊数人を使う許可をお与えください!」彼は早口でまくし立てた。アブサロムは「そんなことが…?」と少々動揺したように言ったが、「まあ、お前に任せる」と言った。アキトフェルは一礼すら忘れて厩に走り、早馬に飛び乗って数人の兵士とともにエルサレムを出発した。

バフリムについたあたりで、アキトフェルは念のため兵士数名と一緒に情報収集に走った。
忌々しいことに、聞き込みは難航し、誰もそんな男は知らない、と困ったような顔で言った。振り切られないためにもこのまま進もうかとアキトフェルが思い始めたあたりで、やっとのことで彼はとある大きな家のおかみさんから彼ららしい情報を聞いた。
「ああ、あの人たちなら川のほうに行きましたよ。ほら、あの道で」と、彼女は川に向かう道を、アキトフェルの予想通りに指差した。アキトフェルは、血走った表情で兵士たちとともにその道を走った。

彼らは、出会わなかった。行けども行けども、ヨナタンとアヒマアツに等出会いはしなかった。そのうち、あろうことか彼らのほうがヨルダン川についてしまった。
アキトフェルは物陰からじっと伺ったが、フシャイの言うとおりダビデの姿はそこにはなかった。そして、密使が言っていたような物資が届いたような跡もない。また、最初から二人だけを捕まえる目的で連れてきた兵士たちだったので、当然今ここで奇襲をかけても何が成功するわけでもないから、アキトフェル達は全くの無駄足を踏んだことになる。
それにしても何が起こったのだろうか。彼は混乱した。なぜ、ヨナタンとアヒアマツに出会わない?彼らは自分たちと鉢合わせするのを恐れ、逃げ出したのだろうか?
それならばそれで悪くもない、とアキトフェルは考えた。どうにせよ、アブサロムの時間が増えるのだ。フシャイの案のほうが最初から正しかったのかもしれない……
アキトフェルはそのまま落胆し、エルサレムに帰った。

エルサレムで待っていたアブサロムは、「なんだ、デマか見間違えだったということか?」と言い、アキトフェルにフシャイの言った通りの事を実行するように責務を課した。彼は、それに甘んじた。情けなさでいっぱいだった。

翌日、アキトフェルは屈辱に耐えながらアブサロムに味方をしてくれるような国への書状を描いていた。なぜかフシャイは宮廷に出ていなかった。
その時、彼のもとに急ぎの知らせが届いてきた。

「大変です!ダビデがヨルダン川を渡りました!」

アキトフェルはその言葉を聞いて、持っていたペンを取り落した。

「なんだって…?」アキトフェルは言った。
「夜が明けたら、もぬけの殻になっていたのです!ダビデ達は一晩で川を渡りました!」
「馬鹿な」彼は頭を抱えた。「私が行ったときには、確かにヨナタンにもアヒマアツにも出会わなかった……」
その瞬間、彼の頭にはっとひらめいたものがあった。彼は理解した。自分が出し抜かれたのだということを。
ヨナタンとアヒアマツの目撃情報は本当だったのだろう。援助の物資無くして、こんなに早く川越えの準備が整うとは思えない。彼らの物資は届いていたのだ。しかし、自分の行った時点では届いていなかった。とすると、自分の帰った後と言うことになる。これら二つを総合して出てくる答えは簡単だ。彼らは、自分をやり過ごすためにわざと一旦踏みとどまったのだ。どこの地点かははっきりしないが、隠れ場所の多さなどを考えるとおそらくそれは町だ。道中に大した町は一つしかない。バフリムだ。自分はおそらく、彼らがすぐそばにいるとも知らずに、血眼で聞き込みを行っていたのだ。
そして彼らは、自分たちが帰るためにバフリムを再度通ったのを見計らって、すれ違いにダビデ達のもとに向かったのだろう。時間を計算すると、それでちょうど夕方前になるはずだ。日のあるうちに大急ぎで作業を終わらせ、彼らは一晩かけて川を渡った……考えれば、全てに納得が言った。
そこまで複雑な策ではない。普段の自分ならみすみす引っかかるはずなどない。しかし、自分はあの時フシャイへの嫉妬とアブサロムの役に立ちたいという焦りでいささかばかり冷静さを失っていた。それがこのようにまんまと出し抜かれたことに無関係だとはとても言いきれない。そして、そこまでが敵の手のうちであったことも十分に考えられる。アキトフェルとて、人の感情を巧みに操り戦を勝利に導いてきた経験がある。アキトフェルは負けた。策に負けたのだ。
アキトフェルは真っ青になって崩れ落ちた。知らせを運んできた男が心配そうに彼に声をかけたが、彼の耳には届いていなかった。

「王に」
彼はぼそりと呟き、ふらふらと立ち上がった。彼の目は光を失い、ぼんやりと見開かれていた、。
「お前が、王に、このことを、お知らせしろ」
そういうと彼は夢遊病の患者のように、部屋を出て言った。
「お待ちください、アキトフェル様!どこに行かれるのですか!」
「さあ……私にもわからん。行きたいところに行くのだ」
男は彼を引き留められなかった。彼は自分のラバに乗って、黙って郊外にある自分の家に向かった。

彼の頭に浮かんでいたのは絶望のビジョンだった。ダビデはもはや、絶対に自分達より早くマナハイムにつく。着かれれば絶望的だ。彼はそこで体制を整え、戦に出るだろう。
ダビデが本気で戦の準備を整えれば、烏合の衆たるアブサロム軍がどうなるとも思えない。やはりどう考えても、あの時にアブサロムは自分の案をとっておくべきだったのだ。火事場の馬鹿力などに気を配らず、ダビデが弱い可能性があるときに、彼を殺そうとしておくべきだったのだ。
もうダメだ、全てが終わった。アブサロムは負けた。彼はラバの上でそうぶつぶつ呟き続けた。
家に帰ると、アキトフェルは唐突に家の隅々を掃除し始めた。衝動的と言ってもよかった。彼はアブサロムのためにこの人生を使うと決めた時から、家族も何もかも捨てて家を出て一人暮らしをしていたので、彼に気を止めるものはだれもいなかった。
すっかり終わったころには夕方になっていた。彼は部屋から一本の縄を取出すと、庭の木に吊るした。そして、夕日を眺めた。
「ああ、美しい」
彼は呟いた。
「アブサロム、それにもましてあなたは美しかった」
彼の目に涙がつたった。彼の精神が一気に逆上した。
「信じていたのに。何よりも美しいあなたに、何もかもをささげてもよかったのに。貴方は私を信じなかった。それで身を滅ぼしたのだ。はっはっは……ざまあみろ!ああ、アブサロム、何と憎らしく、ひどく、美しいお方!あなたは死にますよ!貴方は父には勝てない!このアキトフェルを信じなかったのだから!誰よりも貴方を愛し、貴方に忠誠を誓っていた男が、貴方にはわからなかったのだから!そんな人間が、王になれるものか!」
彼はわめき散らし、縄を木に引っ掛けた。
「ははは……それでも私も臆病だ。貴方と同じくらいに臆病だ。貴方に面と向かってこうは言えない。言えるものか、こんな事!貴方の前であなたを侮辱などできるものか。すべてに勝る美を持つ貴方に!ああ。アブサロム。これだけは揺るがない。この世の何よりも私は、貴方を愛していましたよ」

彼はその言葉を最後に、首を吊った。死に際に彼が見ていたのは、ちょうど王宮の方向だった。


その夜、アブサロムは悪夢を見て跳ね起きた。悪夢と言うには、ずいぶんと美しい夢だった。
無数のシクラメンが咲いていたのだ。見渡す限りのシクラメンが。ただ、それらにアブサロムは何か、ただならない恐怖を感じた。
シクラメンは無限に増えて、そのうち彼の立っている場所を蝕み始めた。やがて彼は、自分の足にシクラメンが生えてきたのがわかった。シクラメンは彼の体に生え、腕に生えた、彼が恐れていくら毟りとっても、無限に生えてきた。そのうち、彼は自分の口の中にシクラメンが生えるのがわかった。口の中で大量に増えたそれで、彼の口は無理矢理にこじ開けられた。同時に、視界が赤や桃色に染まり、光景が見えなくなった。目が花弁に覆い隠されてしまったのだろう。
そこまでで、彼は跳ね起きた。彼は人を呼んだが、誰も来なかった。
彼はベッドのわきに置いた水差しの水を一気に飲みこんで、荒れる息を整えながら夜風にあたった。まだ体中をあの花に蝕まれているような気分だった。今やイスラエルの王にならんと言う自分が花ごときにおびえるなどばかばかしと鼓舞するも、確かに彼が感じていたのは恐怖だった。
彼は震えながら、なんとか心を鎮めようと自室のベランダに出て夜風を吸い込んだ。アブサロムは知るよしもなかった。彼が見ている方向のちょうど先に、アキトフェルの死体があったことを。


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feat: Solomon 第十一話

「あなたは?」
夕方になりかけているようで、格子窓から見える空気は赤く染まっていた。それにやかましいパレードの音か響き渡っていた。
ソロモンの部屋の扉を開けてやってきたアドニヤは、穏やかな微笑みを浮かべてソロモンに向かい合っていた。蝋燭をつけていないので、部屋はかなり暗い。彼は静かにソロモンの部屋に入ってきた。
「その後、階段からは落ちていないかい?」
「はい」
「それはよかった」
まさかそんな話をしに来たのでもあるまい。ソロモンは警戒心を緩めはしなかった。アドニヤは彼が読んでいたままの本をとると「へえ。バビロニアの書物じゃないか。こんなものも読めるのかい。大したものだ」と笑って見せた。
「勝手に触らないでください」とソロモンが言うと、アドニヤは「ああ、悪かったね。そうだ、確かに君には君のプライバシーがある。ごめんよ」と言った。
「何をしに見えたのですか」ソロモンは問いかけた。
「君にもわかるだろう。アブサロムがたった今、城に入ってきた」
「そうですね」
「ずいぶん冷静だな」
「私には関係ありません」ソロモンはアドニヤに目もあわそうとしないままそう言った。
「関係がない?どうして関係ないんだい。君も家族じゃないか」
「…父上の家族であるというのなら、アブサロムの家族でもありますからね」
そっけなく答えたソロモンに、アドニヤは笑って「なるほど、一本取られたな」と言った。
ソロモンはそのまま彼に部屋を出てほしいと思っていた。しかし、次のアドニヤの言葉はソロモンにとって非常に衝撃的だった。
「君がお父上のために働きたくない気持ちもぼくには分かるよ」

アドニヤにそっけなくあろうとするソロモンに、アドニヤは急に近づいてきて、そっと囁いた。彼はソロモンの肩に手を置き、長く伸びた彼の白い髪を手ぐしで梳いた。ソロモンは急に距離を詰められたことに怯んだ。
「そりゃあ、小さい時から邪険にされて、こんな部屋で育てられてきたんだ。今さら家族なんだから父上のために働けなんて、実に虫のいい話だよね。君はおそらく、ここに残されたんじゃなくて、置き去りにされたんだろ?ぼくはアブサロムとお父上ならお父上の味方をするけど、でもそれに関しては酷いよね」
アドニヤは優しくそういった。ソロモンはどうしようもない違和感を覚えていた。こんなことを他人から言われたのは、生まれて初めてだ。
誰も彼の境遇に同情しはしなかったし、ダビデの彼に対する扱いを否定はしなかった。ナタンですらそうだった。それがなぜ、今日になるまでろくに話もしなかった異母兄にそんなことを言われているんだろうか?彼は状況が呑み込みがたかった。呑み込むにはあまりに突飛な状況だった。
凍えそうな寒さの中、急に熱湯を喉に直接流されたような感触だった。
彼は赤い眼をパチパチ瞬かせた。アドニヤは彼の目をまっすぐ覗き込んでいた。居心地の悪さすらソロモンは覚えた。妙な気持ちだ。
「それ以前の問題ですよ」ソロモンはあくまで冷静であろうと努めて、そういった。「何ができます。私のような年端もいかないものに」
「いや、君はできる。この館に今のこっている人間のだれよりも君はできるよ、そうだろ?」
アドニヤの言葉は今度こそとてつもない異質感とともにソロモンに降りかかってきた。「溺れる者は藁にもすがる、とはよく言ったものです」ソロモンは吐き捨てた。何か妙に心がざわめく。ベリアルに優しい言葉を与えられて感じる感情とは勝手が違う。もっと体中が熱くなる。もういいから、とっととアドニヤには部屋を出てもらいたかった。
「そうとも、その言葉はよくできている。しかし君は藁じゃない」アドニヤは必至で目をそらそうとするソロモンの顎をつかんで、自分のほうに引き寄せた。日はいよいよ落ちて、アドニヤの顔もうっすらとしか見えない。それでもしっかり彼の体温をソロモンは感じていた。自分とは違って、大切に育てられた彼の手はしっかりとした体温があった。彼は震えた。
「ナタン様から聞いたよ。君、とても頭がいいんだって?」アドニヤの声が小さな部屋の壁に反響する。パレードの音は消えていた。アブサロムはすでに宮廷内に入ったのかもしれない。
「今、宮廷に残っているぼくたちでは、奴らに真っ向から立ち向かう力はない。だが奴らが城に来た今、内部から崩すことはできるかもしれない。それに力は必要ない。ただ、知恵が必要だ」アドニヤは一層顔を近づけて、ソロモンの耳すれすれに自分の唇を置いてそう言った。なれない距離に、ソロモンの心臓は早鐘を打つ。ぞくぞくと変な感触だ。
「君がここに残されたのは、きっと神様のお導きだ。他の誰が君を認めなくても、ぼくが君を認めよう。ソロモン、力を貸してくれる気はないかい?」彼はほぼ密着しそうな距離感でそう言った。ソロモンは彼から逃れようと慌てて手を動かして抵抗した。彼は意外にもあっさりと離れた。
部屋はさらに暗くなって、アドニヤは彼の影しか見えない。影だけの彼は外套を正して「来たくなったら来てくれたまえ。ぼくは君を信頼してるよ。君の知性を信頼している」と穏やかな声で言って、部屋を出て言った。


ダビデはエルサレムの近くに、様子見に戻ってきていた。郊外にあるオリーブ山の頂上に立ち、彼は都を見下ろした。
ふと、一人、物資を積んだろば数頭を連れた男がやってくる。「陛下、ろばと食料をお持ちしました」と彼は言った。
「ご苦労だった。……エルサレムは今どうなっている?」
「アブサロムはエルサレムに入城したようです。城内で死者が出たという話は聞きません。彼は『今日にでも、父は私に王座を返すだろう』と豪語しております」
「……そうか」
「それと、将軍の一人アマサがアブサロムに寝返りました。このどさくさに紛れて、前王サウルの血を継ぐ者も、彼らの王位継承権を主張し始めているという噂も立っています。想像以上に、謀反の勢いは大きくなっております」
ダビデは柳眉をひそめた。
「私は野営場所に戻る。お前も物資を運びについてこい」
「はい」彼は短く返事をして、ダビデはオリーブ山を下り始めた。所狭しと実るオリーブが彼らを隠した。
「(……主よ。私になぜ、このような責め苦を負わせるのですか)」彼は心の中でつぶやいた。道中、彼の目に実際あるはずの景色は映っていなかった。彼の頭の中には、何人もの姿が渦巻いて見えた。彼らは皆、ダビデに向かって石を投げた。ダビデは石打ちの刑に処せられた罪人のようだった。
「このいやしい羊飼いめ!主君であったサウルの恩も忘れて、サウル家を貶めた人でなしめ!これがその報復だ!主の報いだ!お前も恩を知らない息子に蹂躙されるのだ!」彼らはダビデを攻め立てた。
「(主よ、これが貴方の下さることですか。私は受けましょう。私は貴方に与えられた使命を受け入れます。貴方が私の苦しみを受け取ってくださいますように)」ダビデの目から、涙がはらはらと流れた。ろばを連れた男はあえて、何も言わなかった。

同じころ、アブサロムは大広間の玉座に座った。玉座は全く何の抵抗もなくアブサロムを受け入れた。これはどうして王しか座れぬ椅子なのだろうか。ただの椅子ではないか。全く、ただの椅子だ。アブサロムはそう思った。
「玉座は私の手に落ちた。次は王冠だ」彼は大広間に集まった自分の従う人々の前でそう言った。彼らは狂喜乱舞して、「アブサロム様、万歳!」と言った。
アブサロムは有頂天だった。彼は腕にはめたタマルの髪の毛の腕輪を撫でた。
「(タマル、見ているかい?お前を見殺しにした理不尽な国はもうすぐ終わろうとしているよ。ああ、お前にも見せてあげたい、本当に!)」
彼は隣に立つアキトフェルにも笑いかけた。「すべてお前のおかげだ。ありがとう、アキトフェル」
「なんの。アブサロム様の手腕と魅力のなせるわざでございます」
「正式に王になれば、お前にも何か、誰にも勝るいたわりをせねばならないな」
アキトフェルはその言葉を聞いて、笑って首を横に振った。
「アブサロム様。お忘れですか。私は貴方の味方をできればよいのです。貴方を初めてお見かけした時から、貴方こそが王になるべきだと私は確信しておりました。それが現実となったこの瞬間に勝る褒美が、どこにありましょう」
「アキトフェル…」アブサロムは照れ臭そうに笑った。「お前のような男を部下に持てることほど、僕にとっての僥倖もない」
彼はアキトフェルに「さて。次に何をするべきか、お前の意見を聞かせてはくれないかな」と言った。アキトフェルは「アブサロム様、お疲れでしょう」とにやりと笑っていった。
「貴方様が次にすべきことは、お父上の権威を奪ったということを示す具体的な行為でございます。それで、ダビデの誇りは地に落ちたと示せましょう」
「と言うと?」
「簡単なことです。王の残したあの側室どもを貴方のものにしておしまいなさい。それも、宮殿のバルコニーに天幕を張って、晒し者にしておしまいなさい」彼は下卑た笑いを浮かべてそう言った。
アブサロムもそれを聞いて、にやりと笑い「……なるほど、面白いかもしれないな」と言った。


ソロモンはフラフラと散歩していた。なんとなく部屋でじっとしているのが落ち着かなくて、外の空気を吸いたい気分だった。アドニヤの体温と手の感触がまだ残っている。心臓が嫌な鼓動を打った。
「(俺の事を信頼しているだって?こんな状況にならなきゃ、はなもひっかけなかったくせによく言う)」彼は心の中でそう毒づいたが、なんとなくそれで心を固めることはできなかった。非常時に都合よくすがってきただけとはいえ、「信頼している」等と言う言葉をかけられたのはソロモンにとって初めてだった。
アドニヤは自分の技量を見たことなどないはずだ。確信が持てないままに彼を頼ってきたのだ。なんと計画性がないのだと笑うことは簡単だ。しかし、彼は笑い飛ばせないでいた。正直に言えば、ソロモンは嬉しかった。初めて、他人に友好的に話しかけられ、しかも信頼されたのが嬉しかった。自分を人間以下という扱いをせずに、むしろ他の人間より優秀だと言ってくれたことが嬉しかった。そんな自分の感情を、ソロモンは分かっていた。わかっていても、彼はなんとか押し殺そうとした。
「(しっかりしろ、他人を信用していい事なんてあるはずがない!この状況が終われば、アドニヤだって俺を捨てるはずだ、どいつもこいつも、俺を見下しているのだから)」
ソロモンはたった一人で王宮の庭をうろうろしていた。夜だが、人がそれなりにいるので彼はマントをかぶっていた。
ふと、彼の耳に、マント越しに異様な音が聞こえてきた。女の喘ぐような声だった。何事だと思って彼は、声のする方向を見た。彼はバルコニーの斜め下に立っていたが、バルコニーの上からその音は聞こえてきた。

バルコニーには天幕が張られていた。何人もの女の声がその中から渦巻いているのだ。何かにあえいでいる声。苦痛と言うよりも妙に官能的な色を伴ったようなその声が、ソロモンの耳に響いた。彼はとてつもない不快感に襲われた。吐き気すら覚えた。体中に鳥肌が立った。気が付けば、その場にいる数人も音の方向を見ていた。その場にいるのはほとんど男だったが、皆下品ないやらしい笑いを浮かべてそれに釘付けになっていた。
天幕の中は何本ものろうそくで明るく照らされているようで、中にいる人々の様子が影絵のように映っていた。ソロモンの目に映ったのは、立派な長髪を持った、他の誰よりも一回り大きい影が他の影を蹂躙している姿だった。みんなにやにやしてそれを見ていた。ソロモンは彼ら自身に注意を払った。股間を膨らませているものすらいた。ふと、大きく聞こえてきた喘ぎ声が、彼にはバテシバのものであるような気がした。
ソロモンは天幕の中で何が起こっているのか理解した。とたんに、不快感が燃え上がった。
彼は顔をしかめてその場を立ち去った。静かに、何物も気にかけないように。
なんと醜いんだ。あの卑猥な空気が彼には耐えられなかった。権威のため父の妻を犯す息子、それを拒まない女たち、それを見て下種な笑いを浮かべ欲情する男たち、何もかもが醜い。タマルもあのような汚らしい性欲のもと死んだのか。自分の復讐は百倍も千倍も成功したかのように思えた。ああ、自分もあの醜さの中で生まれてきたのか。あのはしたない行為のもとに。自分に対する嫌悪感すら彼の中に湧き上がってきた。あのような行為を行わず球根で増えるシクラメンの花のほうがずっと高尚な存在のように思えた。
ソロモンの心の中で、何もかもが冷めきってしまった。くだらない。この宮殿はなんとくだらない空間だ。自分を見下していたこと以前の問題ではないか。そのような宮殿に生まれた自分もくだらない。この場にいると言うだけで、彼は自分自身すらばかばかしく思えた。
アブサロム、なんと見下げた男だろうか。最初から彼に尊敬の念など持っていなかったが、彼も所詮は父と同じなのだ。性欲、権威欲、欲のためにつき動く猿に過ぎない。ダビデを見ていればわかりきっていることだったが、アブサロムを見てあのように偉ぶっていた、美しい男でも助平な感情を持っているのかとソロモンは改めて実感した。そしてソロモンは非常に無気力になった。なんてくだらない世界なのだろうか。自分ももっと大人になれば、あのような感情を持つようになってしまうのだろうか。ようやく少し静かなところについて、彼は考えた。
彼はしばらくそこに居た後、宮殿の中に歩みを進めた。アドニヤの場所は何となく目星がついていた。宮殿内の何もかもがソロモンには醜く思えていた。ただ、自分を認めてくれたアドニヤだけは不思議と否定する気になれなかったのだ。
信じるわけじゃない、どうせ裏切る。だがアブサロムよりましだから行くだけだ。彼はそう呟いて、アドニヤのもとに向かった。バルコニーの上で、淫蕩な宴はまだ続いていた。


「よく来てくれたね、ソロモン。来てくれると信じていたよ」ソロモンの姿を見たアドニヤは笑った。彼は自分の隣に立っているきりりとした顔つきの老人を指して言った。
「こちらはフシャイ。父上にお仕えしていらっしゃる軍師だ。アブサロムの目を隠れて、応援に駆け付けてくれたんだ」
「お初にお目にかかります、ソロモン王子」彼はソロモンに恭しく膝をついて挨拶した。王子にする態度としては当然だが、ソロモンにそんな態度をとる臣下などほとんどなかった。アドニヤが、自分の機嫌をとるためにちゃんとそうしろと言ったのだろうと彼は何となく察した。
「ではソロモン、さっそく君の意見を聞かせてほしい」アドニヤは真剣そうな顔をして言った。彼が手で合図をすると、フシャイはイスラエルの地図を広げた。
「エルサレムはここ」アドニヤは指差した。「つい先ほどやってきた伝書鳩からすると、父上は今このあたりだ」と、ついで荒野の真ん中を指さす。
「荒野にとどまっている状態ですか」
「ああ、おそらく」アドニヤが言う。
「ヨルダン川の向かい、マナハイムにつけば一息つける。あの町には要塞があるからそこの装備を使えるし、体勢を立て直せる。父上は今、そこを目指しているんだ。だけど今のままの進みだとアブサロムの軍勢に追いつかれてしまうかもしれない。大勢連れているから進みが遅いんだ。なんならアブサロムがやろうと思えば、一晩で追いつけるかも」
「ヨルダン川を早く渡らないのは、雪解けの時期だからですね?」ソロモンは言った。フシャイが「その通りです」と言った。
「ダビデ様のもとにはただの群衆も付き従っていますから。十分な用意ができないうちは安全に渡せません。犠牲者を出すわけにはいきません」
ヨルダン川はそこまでの大河ではない。モーセの前に立ちはだかった紅海とは違い渡ろうと思えば渡れる。ただ、増水の時期になると水かさはかなり増える。戦いの心得もない素人や女子供を含んでおいて全員を安全に渡そうとするのならば確かにそれなりの手間だ。
「アブサロムはそこを狙うだろうな」ソロモンは言った。「アブサロムに軍師はついているのか?」
「アキトフェルと言うやつが」フシャイが言った。「なかなか切れる奴ですよ。少し変わり者ですが」
「なるほど……おそらくアブサロムに味方を集めさせたのもそいつだな」ソロモンは言う。「それほどの奴なら、父上のルートもわかっている可能性がある。伝書鳩が捕まっていなければ、今日に各地に密使を派遣したとしてそれらが帰ってくるまでの計算をすると特定までにかかる時間はおよそ一晩強かな。明日にでもアキトフェルはアブサロムに、ヨルダン川に全力で追い打ちをかけるようにするだろう」
「なるほど」フシャイが言った。「…して、王子。何か策は?」
「一晩しかないんじゃ、大変だね」
「違いますよ」ソロモンは言った。「一晩あれば十分だ」
ソロモンはその場で、すぐに彼の考えた計画の全貌を話し始めた。


数時間もするころ、アブサロムは天幕から出てきた。彼はぐったりしている父の側室たちを置いておいて、一人ガウンを羽織ると王宮の中に入っていった。しかし、彼は廊下で自分を待ち構えていた男の存在に驚いた。
「新王、アブサロム様に栄光あれ」彼は言った。
「なんだ、なぜお前がここにいる?」アブサロムは戸惑った。フシャイはダビデの部下の中でもヨアブ達と並んでかなりの古株でその能力の高さのみならず王と非常に仲が良かったことで知られていた。
「王よ、私目はただ貴方に万歳を言いたく思っているだけです」フシャイは恭しく言った。
「なんだ、お前。ダビデはお前の友だったのではないのか?お前の忠誠心とはそのようなものなのか」
フシャイがダビデを裏切ってこの場に来たのだとアブサロムは理解した。そして新しい王たる自分に取り入ろうとしているのだと。アブサロムは若干嘲笑気味に彼にそういったが、フシャイは意に介してはいないようだった。
「王よ、私が忠誠を誓っていたのはダビデにではありません。イスラエルにでございます」彼は言った。「イスラエルの選んだ王が私の仕える主人でございます。私はイスラエルの民が選んだ方とともにあり、その方に忠誠をささげます。アブサロム様、今や貴方がイスラエルに選ばれ、神に祝福された王となった身。この私が仕えるべき相手はどなたでしょう。ご子息様、あなた以外にあり得ましょうか。私はお父上に仕えたように、貴方にお仕えさせていただきたく存じます」彼はまっすぐな目で、はっきりとそう言いきった。
彼のその言葉を聞いて、アブサロムの心の中で、何かがざわめいた。父に圧倒的な忠誠を誓ってきたこの男すら、自分になびく。父の女をわがものにしてやったのと同じ快感が彼の脳に駆け巡った。
フシャイの言葉にわざとらしく媚び、すり寄ってくる様はない。彼はあくまでイスラエルへの忠義のもと、アブサロムに従おうとしているのだというように見えた。そこが帰って彼のプライドを満たした。この男にとってイスラエルたる人物は父では無くアブサロムなのだ。まさに自分は今、父から最も大きなもの、国を奪っているのではないか。それにアキトフェルだけでは心もとなくもある。良い軍師は多いに越したことはない。
「わかった、面を上げろ、フシャイ」アブサロムは言った。フシャイはその言葉通り、顔を上げた。アブサロムが満足そうに笑っているのを見て、彼は内心で安心した。
「よろしく頼むぞ。この僕の率いるイスラエルのために」
「アブサロム王、万歳」彼ははっきりとした口調でそう言った。


「成功したよ、ソロモン」アドニヤが言った。
「そうですか。よかった」
ソロモンは、アブサロムはあっさりとフシャイを信用するだろうと思っていた。あれはプライドが高いが、見た目よりも弱気だ。安全な策がとれるのならばそちらを行き、博打には出ることができない。だからこそ、内心ではここまで大それた権威欲があるのにずっと文句も言わず第三王子の地位に甘んじていたのだ。
そんな彼なら、非常のために保険をかけておこうと軍師を増やすことはするだろうと彼は思っていた。ダビデに忠実なことで知られていたフシャイならば、アブサロムの高いプライドを満たすこともできて一石二鳥だ。だから彼は、フシャイがアブサロムに取り入るのは一瞬で済むと判断し、フシャイを送った。唯一心配があるとすれば、彼のダビデへの忠誠心ゆえにアブサロムになびくことが計略と思われてしまうところだったが、フシャイは演技をし通して見せると言ったのでソロモンも彼に賭けることにした。結果、見事に成功したというわけだ。彼は文句なしにアブサロムのプライドを立ててみせた。
「ヨナタンとアヒマアツは?」ソロモンは言った。ヨナタンはアビアタル、アヒマアツはザドクの息子である。二人は、ダビデのもとへの伝令の係を請け負っていた。
「川を渡す準備の物資をそろえているよ。君の言うとおり、一晩あれば父上様のところで足りない分は補えるだろう」
「ではここまでは順調だ。明日は正念場ですね」
「大丈夫さ。君の立てた作戦だ」と言うアドニヤの声を聞いて、ソロモンは少しばつが悪そうに作戦会議に使っている部屋の窓から月を見た。北向きの自分の部屋からは月など見えない。月はきれいな三日月だった。
「ソロモン、ぼくは少し寝るよ。君は?」
「…いえ。夜は眠くないのです。先にお休みください」彼は言った。自分の部屋ではないところで夜を過ごすのも珍しい。
アドニヤは簡易な寝場所に横たわり、「じゃあ、おやすみ。ソロモン」と言った。
「はい、おやすみなさいませ……」
言葉に詰まったソロモンをみて、アドニヤはくすりと笑った。
「お兄様でいいよ。だって、兄弟じゃないか」

夜は更けようとしていた。

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feat: Solomon 第十話

アブサロムの計画は、あくまで水面下で、しかし着々とおこなわれた。彼は対外的には今まで通り静かなままでいて、アキトフェルがその口八丁でアブサロムの味方を集めていたのだ。
元々アブサロムを慕う人間は多かったので、味方集めはそう難しい事でもなかった。タマルがアムノンに受けた仕打ちがばれたこともあって、アブサロムに味方する者も多かったのもある。おまけに、最近のダビデの優柔不断さがアブサロムの件でかなり如実に浮き彫りになり、そのせいでダビデを見限ったほうがいいと思っているものも少なからずいることをアキトフェルは知っていたのだ。アブサロムのもとには、たちまちそれなりの数の衛兵がそろった。
兵隊の次は、人民の支持を得る番だ。これも、大っぴらには行えない。ただアキトフェルは実にうまく立ち回った。
彼は王宮で、ダビデに直訴に来る人民を、引きずり込みやすそうなものを見極めたうえで呼びとめた。イスラエルにおいて、裁判は王が行うものである。おまけに人民がたくさんいる中で、もめごとが次から次へと起こらないはずがない。それゆえに王宮の大広間には人がいつも絶えないので、アキトフェルの眼鏡にかなうものは日に何人も出て、実にその作業ははかどった。
彼は直訴に来た人民の中でも、裁きの結果に満足していない人民を即座に見極めた。敗訴したものはもとより、勝訴したものの中でも彼の取り分に満足の行っていなさそうなものを呼び止めて、彼に同情するようなそぶりを見せた。
「先ほどの裁判を見ていたがね、貴方の訴えは何も間違ったことはないのだし、貴方が損を受けていることは確かだ。なのになぜ、ダビデはあのような裁きを下されるのか」アキトフェルは非常に巧みな男で、一見すれば怪しそうな言葉でも、彼の口から出ると不思議と怪しむ気分になることができなかった。おまけにアキトフェルは彼らは納得のいかない裁判の直後、冷静さを失っているところをとらえてそう言ったので、彼らは全くアキトフェルのペースにのまれ続けていった。
「思い出しても見たまえ、派手な噂になったからあなた方も知っているだろう、ダビデの王宮で起こったことを!王はアムノンに罰を下されず、アブサロム様にも罰を下されなかった。ダビデに裁きの力はない。そうだろう?今すぐにでも正しい裁きをできる王が立てば、これ以上不当な裁きに苦しむ人間も少ないものを」
実際のところダビデの裁判がそこまで無能とアキトフェルは思っていなかった。そう名裁きもないが、あくまで彼は自分の家族にまつわること以外は昔と変わらずごくそつなく扱っていた。しかし人間とは欲深いものである。正当な裁きで納得しないものは毎日毎日、大量に出る。アキトフェルはそれにつけ込み、同じような台詞を彼らに語って聞かせた。
「もしもよろしければ、アブサロム王子のもとに来たまえ。父の判決は覆せないが、貴方がもともと貰うはずだっただけの賠償を担う、とはおっしゃってくれているぞ」
彼がこういう頃には、たいていの人々はアキトフェルに完全にのまれていた。そして、大喜びでアブサロムの館に向かったのだ。
アブサロムはもちろん、アキトフェルに言われた通り私財を使って彼らに「正当な賠償」と銘打って、金や物をよこした。金は物凄い勢いで減っていったが、全く構いはしなかった。確実に、人民の心が少しずつ自分に向いてきているのがわかったからだ。それに何をするにおいても、投資は必要だ。
「なぜこうまでしてくださるのですか」という人民の問いに、アブサロムは「僕はただ、不当な裁きが許せないだけだ」と感じた。何も口先だけではなく、本音でもあった。タマルが受けたのは、明らかに不当な裁きだったではないか。裁きが正当でさえあれば、彼女が死ぬこともなかったのだと思えば、間違いなく彼は不当な裁きを憎んでいた。自分のもとにやってきた彼らの受けた仕打ちが本当に不当かはさておき。
彼を支持する人間は、そのような活動のかいあって日に日にどんどん増えて言った。人好きのするアブサロムの容貌もあったのだろう。彼は自分の野心を隠し、ただ正義感にあふれた優しい王子としてふるまった。そしてそんな彼は、非常にカリスマ性にあふれる支配者の器と、少なからぬ人民の目には映っていた。それなりの月数が立つ頃には、アブサロムの支持は馬鹿に出来ないほど大きくなっていた。
彼の中で、父を蹴落とすというのは少しずつ現実味のあるものになっていった。そして、それは彼にとって楽しかった。目の前が明るくなっていくようだった。彼はもう酒の世話にはならなくなっていた。

更に月数が経過した頃、アブサロムのもとにアキトフェルがやってきた。
「そろそろ潮時でしょう」彼は笑った。アブサロムの評判は、彼に直接助らえた人々から次々口伝えで広がって、とうとう国中に広まっていた。人民と言うのはこれほどまでに馬鹿で扱いやすいものなのかと、アブサロムは一種の感心すらした。



「父上様、ヘブロンにお礼参りに行く許可をお願いしたく思います」と、アブサロムはダビデの前で頼んだ。ヘブロンはダビデの王権がまだ今のように強固でなかった頃にダビデが拠点としていた町で、アブサロムもヘブロン生まれであった。彼はヘブロンの神殿で割礼をうけた。それで、イスラエルに無事帰ることができたお礼参りを自分の割礼が行われた場所で行いたいと彼は主張したのだ。
「お前の好きにしなさい」とダビデは短く答えた。
アブサロムは、最後の最後まで父は子供たちに対しての感情を持て余したな、と思った。内心では、父が自分のたくらみを看破して、力ずくでも引き留めてもそれはそれで自分の本望だったかもしれない、と彼は考えた。しかし、その答えはすぐに打ち消した。自分はもう、ダビデを敬愛する存在ではないのだ。ダビデはアムノン同様、愛する妹の仇だ。そして、自分が生きる気力を得るために蹴落とすべき存在なのだ。ダビデが自分の計画を見抜けずに、何を嘆くことがある。これこそが神の恵みではないか。彼はそう心の中でつぶやき、王室を後にした。今度ここに来るときは、あの玉座には誰もいないと確信して。彼は、心の中でダビデに残っていた未練をすべて消し去った。

彼は自分の従者たちとともに、ヘブロンに向かった。ヘブロンにある別荘で、彼は自分がイスラエルの王となることを宣言した。クーデターを開始した。

彼はイスラエル全土に密使を送った。そして彼らに、アブサロムが王になったと高らかに宣言させた。アキトフェルの計略が功を奏して、アブサロムを支持する人々の数は膨大になっていたので、クーデターの出だしは非常によかった。彼らは密使たちの言葉に乗り、「アブサロム王、万歳!」と叫んだ。その叫びがイスラエル全土を多いかくすようだった。それを見て、アブサロムは今までに感じたことのない充足感に浸った。彼の隣に立つアキトフェルも満足そうに笑っていた。


アブサロムの事が伝わってきて、王宮は大パニックになった。今までにないほどの騒ぎようだった。
「変なことになってきたな」ソロモンは呟いた。
「俺はアブサロムからタマルを奪ってやっただけなんだが……どうしてその後もあいつはこんなに、忙しそうなんだか」
「ほんとにね。でも……面白いと思わない?」
ベリアルは格子窓のカーテンを開けて外を少し見た。格子窓の外からでも、慌てふためく人々の姿が見えた。
アブサロムの軍勢は全く誰も知らないうちに膨大になっていて、彼らはまっすぐエルサレムに入場する気でいるという噂だ。そしてダビデは自分に従う臣下や兵士、そして家族を連れて王都からの脱出を企てているらしい。もしも本当に誰にも悟られることなくそれだけ味方を集められたというのなら、大したものだと思った。

「アブサロムだけの力じゃないな。最初からおそらく、奴に従う知恵袋がいたはずだ」
「まぁね。奴がこんなこと思いつくとも思えないし」ベリアルは再びカーテンを閉めた。
「どうでもいいな。俺にはどうせ無関係だ」ソロモンは諦めたように、寝台に横たわった。ベリアルはクスリと笑って、寝台のそばによる。
「アブサロムがああするのって、やりきれないからだよね」ベリアルは呟いた。「初めはタマルを失ったことがだけど、次は、アムノンを……というより、家族を殺してしまったことが」
「ん?」ソロモンは怪訝そうに言い返した。「そうなのか」
「うん。少なからずね、人間ってのは家族を殺しちゃうと深くショックを負うようになっているんだ。人間にとって家族を殺すってのは、体中一生治らない大けがを負わせるとか、全てを奪って人生を破滅させるとか、そんなのとは一線を画した特別な行為なんだよね。アブサロムは現実逃避してるだけ。家族を殺しちゃったって言う事実から。もしもこれでダビデが死んだら、彼は結局泥沼に引きずり込まれるだろうね」彼は寝台に肘をついて、頬杖をついた。
「そうか。理屈としては、少々不合理にも思えるが」ソロモンは涼しげに言った。「生きにくいことだ」
「だよね。人間ってなんて、善良な生き物なんだろう。ボクはね、そんな人間が大好きなんだ」


三日ほどたった。ソロモンは目が覚めて、王宮が全く閑散としてしまったことに気が付いた。ダビデは逃げてしまったらしい。王宮の人間も、ほとんどいなくなっていると見えて、王宮は不思議なほどに静かだった。
アブサロムの軍勢はまだ来ないのだろう。ソロモンは今までにないほど、不思議な解放感に包まれた。やはり静かなのはいい。静かであれば落ち着く。ベリアルと話すのは楽しいが、彼とて四六時中喋っているわけではない。それに、ベリアルが現れるまで彼にとって一番心地よいのは静かであることだったのだ。彼にとって外部からの音と言うものは、雑音か罵り言葉の二つだけだったのだから。長らく培ってきた価値観から、静寂はソロモンに非常に安らぎを与えるものになっていた。
彼は日よけにマントを着て、部屋から出た。後ろにはベリアルもついていた。


王宮を歩けども歩けども閑散としていた。おまけに静かだ。夜が光だけを得たようだとソロモンは思った。
しかしいくらなんでも全く人が残っていないわけではなかった。彼は大広間のほうから、いくつかの声を聴いた。それで、そちらの方に足音を殺していった。だが、彼は拍子抜けした。
そこに居たのは十人の、ダビデの側室たちにすぎなかった。バテシバもその中にいた。ソロモンはバテシバがいたことを不快に思った。それに二人の祭司。古株のアビアタルと、若手のザドクという二人だった。そして、彼らの息子が一人ずつ。それだけだ。兵士たちなど残ってもいなかった。これでは守るもへったくれもありゃしない。結局誰もかれも、命が惜しかったのだな、とソロモンは思った。彼らに自分の命惜しさに王の命令を突っぱねるだけの度胸がありさえすれば、この王宮に残るのは正真正銘ソロモンだけであったかもしれないのだ。
彼は柱の陰に隠れながら、伝書鳩から受け取ったらしいダビデたちの今の様子について話をしていた。ダビデのもとには大勢付き従って、外国人すらもアブサロムよりダビデにつく道を選んだらしい。そんな彼らは今荒野を通って、ひとまず落ち着けるところを探しているところだそうだ。
愉快な話ではないか。ソロモンは思う。変化など無しに穏やかな日常のまま消えたいと願いすぎたことで、とうとうこんな変動が起こってしまったのだ。これらはダビデの招いた罪だろう。

「王宮に残ったのは私たち十五人」名前も知らない側室の一人が、そう言った。「いったい、どうすればいいのかしら……」
「(十五人?)」ソロモンはいぶかしんだ。ここには側室たちが十人、ザドクとアビアタルと彼らの息子。十四人しかいないはずではないか。
と、疑問に思ったところ、すぐその疑問は解消された。一人が広間に駆け込んできた。
「見張り台を見てきましたよ。ひとまず今のところはアブサロムは来ていません」
第四王子のアドニヤも、宮廷に残っていたのだ。


アドニヤの登場で、側室たちは安心そうな顔をした。彼は皆の中心に入っていき、こう言った。
「しっかりして下さい、みなさん。ぼくたちは父上様に宮廷を任された身ではありませんか。アブサロムの計画など、必ず倒れます。父上様は神に魅入られた王なのですから」
彼は自信たっぷりに演説した。それで彼らの心を実際やわらげているのだろうとはソロモンもぼんやり思っていた。
これ以上何かを聞く必要もない。生まれてから初めてというほど宮廷が静かなのだ。あと数日もせずアブサロムは入城してくる。この静寂を楽しまないのは損と言うものだ。彼らの声を聞いている時間すら惜しい。
ソロモンは身をひるがえして、足音も立てず中庭のほうに出た。

「ああ、可愛いアドニヤ」先ほどの側室が言った。彼女はハギトと言う名前で、アドニヤの母だった。
「お前はなんて頼もしいのかしら。お前がいるだけで……たった十五人でも、このお城を守っていけるような気がしますよ」
「ありがとうございます、母上」アドニヤは母の手にキスをした。
「ぜひとも十五人で父の尊厳を、宮廷を守り通しましょう」お互いに励ましあう母たちを見て、アドニヤはソロモンの去って言った方向に目をやった。
「(いや……正確に言えば、二人、になるかな)」


それからさらに数日後、アブサロムは大軍を率いてエルサレムに入城してきた。残った十五人は結局まともな抵抗ができるわけでもなく、彼の入城を許した。その時も、ソロモンは自分の部屋にいた。静寂で包まれていた中に、急にやかましい音が入ってきたので、アブサロムであるということは嫌でも理解できた。
ラッパと笛の音からするに、彼はかなり派手に城に入ってきたのだろう。おそらく今の彼は得意満面に、あの長い亜麻色の髪を馬上から受ける風にたなびかせているに違いない。彼は王座に座り、高らかに王位を宣言するだろう。ダビデを打ち破ったと。
「どうでもいい、俺には関係ないことだ」
ソロモンは一人でそうつぶやいた。自分は王宮を守れと言われたわけでもない。ただ、無視されただけだ。いないものとして扱われただけだ。それは本気で彼の存在を忘れていたのだろうか。ダビデに至っては、忘れていたわけではなく、あわよくばこれで命を落としてはくれないかと彼をわざととり残したのかもしれない。もっとも、あのハギトの「十五人」という言葉は確実にソロモンの存在を忘れきっていたのだろうが。
しかしとにかく、ソロモンは見捨てられたのだ。自分をそう扱うものに、なぜ同じ扱いをしてはいけないのか。ソロモンにとって、別に何の変わりもないのだ。誰一人、ソロモンに逃亡を勧めては来なかった。あの大騒ぎの三日間、彼の部屋には誰も訪れなかった。ナタンすら来なかった。ソロモンはベリアル以外だれとも話をしなかった。そして、彼は逃げようとも思っていなかった。
彼にとっては、ただの日常だった。彼は図形を描く気分ではなかったので、本を読もうとした。その時、ガチャリと扉がなった。
ソロモンは驚いて、警戒心をあらわに扉の方を睨みつけた。彼の部屋の鍵を開けて現れたのは、意外な人物だった。
「やあ、今、大丈夫かい?」
アドニヤがそこに立っていた。後ろでは、アブサロムのばかばかしい行進の音が鳴り響いていた。

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feat: Solomon 第九話


アブサロムはゲシュルに行ったきり、彼のほうからは何も言ってこなかった。ゲシュルの地の、母親の親戚のところに彼は身を寄せて、そこで何をするでもなく、やはり腕にはめたタマルの髪の毛の腕輪を撫でながら一日中無気力にしていたそうだ。昔の彼を知る母の親戚は、それを見て心を痛めていた。

彼がイスラエルに戻ってくるまで、随分と時間を要した。アブサロムも何も言わなければ、ダビデも何も言わなかったからだ。最終的に口火を切ったのはイスラエル軍の最高司令官であるヨアブだった。彼はダビデの親戚で、彼に仕える者の中でも、かなりの古株だった。ダビデに非常に強い忠誠心を誓っていることで知られた男だった。
「アブサロムのしたいようにすればいい」と、ダビデが最初取り合わなかったことに、ヨアブは腹を立てた。「それによいではないか。奴は兄を殺したのだ。第一王子を殺したのだ。国外追放の手間が省けたとでも思っておけ」彼はヨアブに目もあわさずにそう言った。
自分が仕えた時のダビデ王と、何と違ってしまったのだろうか。ヨアブはダビデに仕えてからもう長い。彼が今のような絶対的権力を持つ前、ひとつ前のサウル王の治世の頃からの付き合いだ。昔の彼はこんなものではなかった。彼は輝かしかった。血なまぐさい戦場の中にあって、彼一人が戦地を照らす太陽のように美しく燦然と輝いていると思えた。今このように目の前の問題から目をそむけ、自分の気持ちにも嘘をつくダビデなどヨアブは見たくなかった。ヨアブは、ダビデがアブサロムに未練を持っていることを知っていた。
アブサロムはダビデにとっても、またイスラエルにとっても重要なのだ。アムノンが死んで以来、ダビデの心はもともと特別に目をかけていたアブサロムにむしろ傾いているのをヨアブは見ていた。彼はアブサロムの不在に心を痛めているように思えた。彼はまだ、息子がかわいいのだ。無理もない。ダビデに息子は数居れど、アブサロムは極めて出来がよかったのだから。
おまけに、第一王子であるアムノンが死んだことで、後継者争いの問題も発生してきた。一応、後には第二王子であり、カルメル地方に住む貴族の娘であったアビガイルとの間に生まれたキルアブという名の男子がいた。だが彼はそもそも昔から自分は王の器ではないと言い、今では王宮を離れて母親の故郷で長官としてそれなりの暮らしを送り、それで満足しているようだった。控えめなことは悪いことではないが、確かにこの負けん気の無さは王には向かないとヨアブも感じていた。事実、彼はアムノンの死を受けても王になる気はさらさらないらしかった。
となれば、順当に行けば次の順位は第三王子であるアブサロムだ。これはかなりの大きなことだった。もともと、アムノンの生前から容姿も実力も聡明さも兼ね備えるアブサロムは人気があった。少なからぬ人がアブサロムこそ王に相応しいとほめそやしていた。アムノンがそれを笑って許していたので、大事には至っていなかったまでだ。だが、第一王子が死に、第二王子が王位継承を拒否した今、彼らの言葉が現実になろうとしている。アブサロムを慕う彼らは興奮していた。そしてヨアブの目から見ても、アブサロムが王に相応しいように思えた。ダビデも長くはない。後継者問題は深刻だ。アブサロムはイスラエルに居なければならない。あと十年か二十年後にやってくるであろう王の死のそばに寄り添うために。そして、その後その王冠を受け継ぐために。
最終的に彼は知り合いの女に依頼して、一芝居うってもらうことを考えた。つまり、彼女を息子を二人持っている未亡人に仕立て上げ、弟息子が兄息子をちょっとしたいさかいで殺してしまい、親戚中から弟を殺せと迫られている、とダビデに言うように、彼女に言ったのだ。女性の地位の低いイスラエルにおいては、女性一人での生活は非常に難しい。未亡人ともなれば、彼女の生活を支えるのは彼女の男児しかいない。息子を完全に失うというのは未亡人にとって社会的な最大の損失である。なので、弟息子がどのようなことをしでかそうと、彼には生きていてもらう必要がある。それに何より、どんなことをしても息子は息子、可愛い息子を殺すなどできない。だから弟息子を周囲の反対を押し切り生かすため、ダビデにお墨付きをもらいたい、と言う設定のもと、彼は彼女をダビデのもとに送り出した。
ダビデはと言えば、嬉しいことにあっさりとその芝居に引っかかってくれた。彼は弟息子が今は逃亡していると聞いて、彼を引き戻すように言い、また何の罪咎めもうけさせないと墨付きを付けた。あとは簡単だった。ヨアブと彼女は、それならばあなたの息子も同じことだ、アブサロムを連れ戻してくれ、アブサロムを失いたくないあなたの気持ちも、アブサロムを失う損失も、そっくりそのまま同じようなものだろう、とたたみかけた。ダビデは言ってしまった手前と、とうとう根負けしたのもあってか「よろしい。ヨアブ。お前に命じるから、アブサロムを連れ戻してこい」と彼に命令した。

そんないきさつで、アブサロムはイスラエルに連れ戻された。アブサロム自身は何も言わなかった。イスラエルにつくまで、ヨアブが彼の護衛をした。久しぶりにアブサロムの姿を見て、彼は愕然とした。アブサロムはアムノンに復讐する前以上に、何もかもが抜け落ちてしまったような様子だったからだ。よく光っていた眼はすっかり濁って、肌の色は幾分不健康になったようだった。しまりのある肉体も、心なしか少しだけ衰えてしまったように見える。なによりも、あの美しかった髪はひどく艶を失っていた。
「父上様は、本当に僕と会うことを望んでいるのか?」虚ろな目でアブサロムは言った。
「もちろんのことです。殿下」
ヨアブは確信した口調で答えた。自分とて、ダビデとの付き合いは長いのだ。彼がどれほどアブサロムに対する愛を捨てきれていないかはヨアブ自身が承知している。きっとダビデはアブサロムにすぐ会うだろうと彼は確信していた。

ところが、事態はなにもかも、ヨアブが踏んだようにはいかなかった。

彼の予想に反して、ダビデはアブサロムに会おうともせず、謹慎を命じた。彼がまだ葛藤しているらしいことに、ヨアブはひどく落胆した。
「陛下はいつの間にこれほど歯切れが悪くなってしまったのか」
年老いはじめたダビデの姿を思い出しながら、ヨアブはため息をついた。昔のダビデならば、すっぱりと許すなり、許さずに処刑にするなり、何かしらをしたはずだ。しかし、今の彼にはどうやらどちらもできないらしい。アムノンへの父としての手前と、アブサロムへの捨てきれない愛情、どちらも捨てきれないままどっちつかずでいるのだ。彼は王の仕事は今まで通り着々とこなし、その仕事ぶりに特にそつがあるようにも思えなかった。ただ、アブサロムの件に関しては答えを先送りに、先送りにした。謹慎を解くとも何とも云わず、彼自身の感情に関しては一言も言及することはないままで、結局ろくに事態は進展しなかった。その話が出るたびにダビデ自身もつらそうにため息を繰り返すため、いまひとつダビデを恨む気にもなれなかったのもまたヨアブにとって悩みどころであった。繰り返すが、昔のダビデならあり得ないとヨアブは思った。何が彼を変えたのか、彼を変えた得体も知れない何かを、ヨアブは何より恨めしく感じた。
アブサロムにしても、引きこもる先がゲシュルの親戚の家から再びイスラエルの自宅に戻っただけの話で、何も変わりはなかった。立派な装いで王子らしく振舞うことを、もはや彼はしなかった。それどころか、彼は呼び返されたにもかかわらず父親が冷たい態度をとることに絶望したらしく、今ではひどく酒を飲むようになっていた。ダビデどころか、アブサロムにもだんだんヨアブは幻滅し始めてきた。こんな王子ではなかったはずだ。自分がアブサロムを呼び戻そうと思ったのは、アブサロムこそ王位に相応しいと思っていたから、と言うのも大いにあるのだ。こんな無気力な青年ならば、キルアブのほうが何倍もましではないか。
ヨアブはなんとか二人の仲を取り持とうと、何日も何日も懸命に王宮に通い、王に直訴した。しかし、ダビデは生返事しかしなかった。

ある日、彼はその件で忙しかった中何とか時間を作って、久々に自分の地所に帰ってきた。彼はどちらも煮え切らない親子に少し苛立っていた。しかし、忠誠を誓うダビデのためと思えばこそ、このような面倒な事態であっても苦も無くいられるのだ。久しぶりに会う家族は、自分を温かく迎えてくれた。しかし、やはり彼の頭の中はどうやってアブサロムとダビデを和解させるかのことでいっぱいで、なかなか家族との会話に身が入らなかった。
夜に、彼は眠れずにぼんやりと窓の上から、自分の地所の大麦の畑を見つめた。月の光に照らされたそれは夜風を受けて酷くざわめいていた。ふと、畑の中に何か人影が見えるのがわかった。彼は畑に何かを撒いていた。こんな時間に召使たちも農作業をしないだろうし、誰だと思って彼は身を乗り出した、そして月明かりに照らされたその姿を見て、彼は驚いた。
「アブサロム殿下?」
その時、アブサロムは手に持ったたいまつを畑の中に放り込んだ。大麦畑は一瞬で火の海になった。アブサロムはその場に立ち尽くしていた。

彼は大声を上げて召使たちを呼び、畑に向かった。確かにアブサロムと自分の地所は非常に近い。来ようと思えばすぐ来ることのできる距離だ。しかし、彼がなぜそのような行動をしたのか、彼の頭は混乱していた。
大麦はかなり燃えてしまったが、幸い火はすぐに消されたため酷い火事騒ぎにはならずに済んだ。アブサロムも少し髪の毛の先が焦げてしまった程度で、大きな火傷もなく、無事に保護できた。

「どうしてこのようなことを?殿下」ひとまず自分の家に彼を寝かせて、ヨアブはあくまで落ち着こうと努めて彼に言った。アブサロムは酔っているようで、多少おぼつかない口調でこういった。
「お前に何度も使いを送っている、なんで返事をよこさない」
アブサロムが言うには、アブサロムはヨアブの家に何度も、ダビデに取り合ってくれるように依頼の手紙を出していたそうだ。しかし、単独でダビデに交渉していたヨアブのもとにそれは届かず、結果、アブサロムはヨアブに無視をされていると思って彼への報復のためと、畑に火をつけたらしい。
「こんなくらいなら、僕はゲシュルにいたほうがましだった。イスラエルはまだ、タマルの思い出がある。タマルの事を忘れられない」
彼はそうぼそぼそと語った。ヨアブはその場では怒りを収め、次の朝彼を家に送り返した。しかし、内心では彼に溜め込んでいた不満が彼の炎によってふつふつと煮え立たされたような気分だった。


一体どうしてアブサロムはこんな風になってしまったのか。ヨアブはこの放火のことを報告せんと、王宮のダビデのもとに向かっていた。いくらなんでも堪忍袋の緒が切れそうだ。ダビデは許せるが、彼は所詮ダビデの息子でしかない。ここまで世話を焼いてやる義理がどこにあるというのだ。昔の威厳に満ちていた彼ならまだしも、こんな気力も何も抜け落ちていしまった若者を世話してやっている自分すらひどく情けないように、ヨアブには思えた。
「どうしたんだい?ヨアブ将軍。ひどく憂鬱そうな顔をしているが」
ふと、声が聞こえた。振り返ると、アドニヤがいた。
「アドニヤ殿下」ヨアブは深くお辞儀した。
「何か気になることがあるようだね」
「いえ、殿下のお耳に入れるほどの事でも」
「そんなこと言ってくれるなよ、ぼくも暇なんだ」
アドニヤはヨアブの肩にポンと手を置いた。
「ぼくにできることなら手伝わせてくれたまえ。貴方が父の臣下なら、ぼくの臣下でもあるんだ。臣下の心配をしないわけにはいかないだろう?」
彼はそういってヨアブに笑いかけた。ヨアブはたった一人で二人分の我がままに付き合わされていたのもあって、ちょうど助け舟がほしい気分だったので、彼がこう言ってくれるのは願ってもない事だった。
彼は一部始終を洗いざらいアドニヤに語って聞かせた。「そういうことか」と彼はうなずいた。
「よし、ぼくも一緒に父上に直訴に行こう。君ひとりよりも、少しはたしになるだろう」
彼はそういって、ヨアブと並んで歩き始めた。最近一人で精神をすり減らしていたヨアブには、今までそう気にもしていなかったアドニヤがひどく頼りがいのある存在に思えた。

父が会ってくれないショックで放火までしでかしたのと、アドニヤも一緒になって懸命に頼んでくれたおかげで、ようやくダビデはアブサロムの謹慎を解くことを命じた。数日後、ダビデとアブサロムは再開し、親子の抱擁を交わした。ヨアブはやっと一息ついた。
彼のそばに立つアドニヤが「よかったね、将軍。君のおかげだ。ぼくからもダビデの息子、アブサロムの弟として礼を言わせてくれ。ありがとう」と、ヨアブそっちのけで再開の言葉を交わしあうダビデとアブサロムの脇で、彼をそうねぎらった。ヨアブはボロボロになったアブサロムと、隣に立つ青年を見比べて、少し、不思議な気分に襲われた。



謹慎が解けてから、アブサロムは少しずつ王宮にも来るようになった。しかし、父との仲はぎくしゃくしたままだった。そして何より、彼の無気力は完全にそのままだった。彼は常にタマルの髪の毛の腕輪を外そうとせず大量の酒を煽り続けた。
そんなある日、彼のもとに来客が来た。
「アブサロム様、ご無沙汰しております。ご達者でしたか?」という声には、聞き覚えがあった。
「アキトフェル!?」
来客の正体は、あのダビデの軍師、アキトフェルだった。

「アブサロム様、これほどお酒を召し上がってしまってはお体に毒でございます」
以前と変わらず、少しねちっこい低い声でアキトフェルはアブサロムに言った。アブサロムは彼に目も合わせずに言った。
「酒を飲まないとやっていけないんだ。何もかもつらい」
「ほう、それはなぜ?」
「何故だろうな……タマルの復讐を、果たしたはずなんだが」
彼はぐったりと背もたれつきの椅子に寄りかかって、虚空を見つめて話した。
「そうだ……むしろ、タマルの復讐を果たしてから、一気にこうなったんだ。ゲシュルについてから、本当に、何もやる気がなくなった」
そう語るアブサロムを見て、アキトフェルが言葉を飲み込むようにうなずいた。あのアムノンが死んだ日、ヨナダブが王の間でぶちまけた言葉から、結局、アムノンがタマルにやったことはすべて明るみに出たので、アキトフェルは何のことかは理解していた。
「あのときは、本当に精神が高揚していたんだ。アムノンが死んで、本当に胸がスカッとした。アムノンの死体を何重にも切り刻んださ。こいつがタマルの人生を奪ったんだと思えば、憎くて憎くて、しょうがなかった」
アブサロムは酒のコップをサイドテーブルに乱暴に置くと、頭を抱えてつづけた。
「でも、むしろ復讐してから、タマルを失った時以上に、ひどい喪失感から抜け出せないんだ……なんて空虚なんだ、これが復讐か?僕はなんて不毛なことしたんだろう、と……アムノンに同情するわけじゃないさ、あいつに同情してやる価値なんぞあるものか。でもとにかく、僕はあいつを殺したことでタマルと同じくらい大切なものを捨ててしまった気がするんだよ。なんというか……人間として空っぽになってしまった気分なんだ」
うなだれる彼の頭に、アキトフェルは自分の片手を置いた。
「アブサロム王子。アムノンが死に、キルアブが王位を継ぐ気のない今、貴方様が王位継承者であります」
「知ってるさ。でもなんだか、ピンとこないんだ、はっきりって、嬉しくもなんともない」アブサロムは、きっぱりと言い切った。
「あと何十年かして父上様が死んだら、僕にその王位が来る……不思議なもんだな。嬉しがるはずなんだろうがね、今、当の僕は全く嬉しくもなんともないんだ。悲しいわけでもないし。そもそもそんなことが約束されたんなら、僕はその日までこのまま生きているだけでいいんだ。何もしなくていいと思ったらなおさら何もする気がなくなる。何もかもが面倒臭くてしょうがないし、面倒くさいこと自体が辛くてしょうがないよ」
「王子。なぜあなたがそうお思いになるのか、教えて差し上げましょうか」
アブサロムは床に膝をつき、椅子に座るアブサロムを見上げ、今度は彼の膝に手を置いた。
「それは、もはや貴方がダビデ王を愛していないからですよ」
「父上を?……そうかもしれない」
タマルが犯されたと断腸の思いで話した時、アブサロムはダビデがアムノンを罰してくれるものだと思っていた。しかし、彼は何もしなかった。何も起こらなかった。それがタマルに最後のとどめを刺したのだ。それ以来、あれほどまでにあった父への愛情が、自分の中からぷっつり消え失せてしまったような気もする。
「もう王を愛してはいないからこそ、王から与えられる、王のおこぼれに預かった王冠など、貴方は興味もなくしているのです」
「……そうか。そうかもしれんな」彼は言った。
「今のあなたは希望を失っておられる。今のあなたに必要なのはね、もっと大きい希望なのです。生きる活力が貴方には必要です」
アキトフェルは目をそらそうとするアブサロムの目をしっかりと自分の目で追って、そういった。
「生きる活力?……ふ、言葉はきれいだが、そんなもの、あるもんか」
「ありますとも、アブサロム様。王におなりなさい」
アキトフェルははっきりと言い切り、彼の手を握った。

「……僕が王に?」
その言葉を聞いて、アブサロムはあきれるように目を細めた。
「聞いてなかったのか?王になるも何も、もう決まってるだろ。次の王は僕だよ、でも僕は王になんてなりたくもないんだ。ダビデからもらう王冠なんて、欲しくない」
アブサロムはぷいと顔をそらしたが、アキトフェルはにやりと笑って耳打ちするように彼にささやいた、
「貰う王冠ならば、そうでしょう。しかし、奪う王冠ならば、どうですか?」
「奪う……王冠?」
ふと、その言葉がアブサロムの耳に引っかかった。アキトフェルはその興味をがっちりとらえるように、ゆっくりとアブサロムに話しかけた。
「そうでしょうとも。奪う王冠です。待つのはおやめなさい、アブサロム。貴方は王に戦いを仕掛けるのです。革命を起こすのです。そして自分の王冠を自分でつかみ取るのです。のうのうとこのまま年を取り、時間に運命を任せるのはおやめなさい。貴方は若い。貴方は美しい。若く美しいうちに、王とおなりなさい。生きる活力とは、得る力の事を言うのです」
「得る力……」
アブサロムは、初めてアキトフェルのほうをしっかりと見る得て、そうつぶやいた。
「貴方はアムノンに復讐した、しかし満たされない。それはなぜだかわかりますか?あなたはアムノンを殺しても、最初から何も得られなかったからですよ。何も生まぬ争いは虚無しか生みません。あなたは何かを生む争いをなさい。自分の人生を切り開くのです。王冠は貴方自身が得るのですよ。それこそ、貴方の生きる活力です、あなたの希望です。貴方が息を吹きかえす道です」
「生きる希望……僕が、父上様に、戦いを……」
アブサロムは半ば自己暗示をかけるようにぶつぶつつぶやいた。やがて彼は、アキトフェルの目を自分のほうから覗き込んでいった。
「アキトフェル」
「なんでございましょうか?」
「お前は…なんで僕に、こう言ってくれるんだ?」
アキトフェルはアブサロムの膝に置いた手を這わせ、彼の頬を撫でた。
「理由等ございませんよ、アブサロム王子。以前にも言ったとおりです。私はただ、貴方の味方です。貴方にお仕えしたいのです。貴方のためにこの人生をお捧げしたいのです」
そういうと、彼は手を放し、代わりに床に手をついて、アブサロムの前に恭しく礼をした。
アブサロムは自分の心に、何かしらが湧き上がるのがわかった。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。アムノンに復讐を決めた時も、これほどではなかった。体中の血が沸騰するようだ。死にかけていた細胞に大量に血が流れ込み、体が端の方から息を吹き返した。停止していた体のすべてが目まぐるしく動く。自分が王になる、ダビデの死を待つのではなく、自分の力で。自分の生きる活力……。
「アキトフェル。面を上げろ」
アキトフェルはアブサロムの声を聴いて、震えあがるほどに歓喜が自分の体を駆け巡るのを実感した。彼の声は、久々に、あの力強い声色だった。
彼は顔を上げた。アブサロムの目は元通り、光がみなぎっていた。
「よろしく頼むぞ。僕は……すべてを倒そう。もう一瞬もダビデを王座においてなどいられない。王となるのは、この僕だ」



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feat: Solomon 第八話

長い時間が経過した。季節は夏で、羊の毛刈りの季節になっていた。
アブサロムはタマルが死んで以来、ずっと家にこもっていた。どのくらいの時間が経過したのか、はっきりしない。彼は深いショックに襲われたまま、ずっと家から出てこなかった。
彼は本当なら、タマルの死体をずっと家に置いておきたかった。父親がそれを許さず彼女はすぐに埋葬されてしまった。アブサロムはタマルの髪の毛で腕輪を作って、それを決してはずそうとはしなかった。
彼は来る日も来る日も、あまりの理不尽にむせび泣いた。タマルは明らかに被害者なのだ。それなのに責めることもできない。泣き寝入りをするしかない。そしてタマルは死んだ。追い詰められ、絶望のあまりに死んだ。なぜあの妹がそんな目に合わなくてはならなかったのだ?彼女は美しかった、優しかった。幸せな人生が確約されているかのような存在だった。そして、自分は彼女を何よりも愛していた。どんな女より、タマルが大事だった。生まれてからずっと、一緒に生きてきた。
ヨナダブの意見に、自分は言い返すことができなかった。自分の持っていた圧倒的な自信が、肩書と言う絶対的な立場の前に崩された。第一王子と第三王子だから、自分は何も言い返すことができない。たとえ、妹を辱められて殺されてもだ。ヨナダブはそこのところをきちんと計算ずくだったのだろう。なんとよくできた計画だろうか。
「(こんな事があっていいはずがない)」アブサロムは泣きながら考えた。「(言葉で言い返せないからなんだ?タマルは…被害者なんだ!被害者が加害者を罰する、これ以上に道理にかなったことがどこにある!)」
数か月間ただ泣いていただけのアブサロムの心に、突然に炎が巻き起こった。それは夏の焼きつけるような陽光のせいだろうか。
「(殺してしまえば、屁理屈をこねることもできないだろう)」
彼は決心したように、髪の毛の腕輪をなで、寝台から立ち上がった。従者に、ぼさぼさに伸びた自分の髪の毛を手入れさせようと、鈴を鳴らした。数か月ぶりに、兄弟たちの前に立つのだ。身だしなみに不備があってはならない。それが彼の意地だった。

アブサロムは後日、自分の所持する羊の牧場で刈り取りを行うと言った。
「つきましては、父上様。宴会を開こうと思うのです。父上様や兄弟たちたちをおよびしたいのですが」
数か月前にダビデの前に現れたアブサロムは、何か月も悲嘆に暮れていたとは思えないまでに自分を磨き上げてきた。自慢の長髪は輝かんばかりで、手入れの行き届いた品のいい服に身を包んでいた。彼は心の悲嘆を隠して、すっきりとした表情で父の前に臨んだ。威厳に満ちた王子そのものの姿だった。
「兄弟たちを?全員かね」
「はい。久々に血を分けた兄弟たちと食卓をかこってみたいと思いまして。いけませんか」
アブサロムは全く屈託のない様子でそう答えた。
ダビデはそんな彼をじっと見つめていた。彼はアブサロムをそう見つめて、何か考えているようだった。
「私はしばらく、忙しくて王宮は離れられない」ダビデは言った。「それに、ぞろぞろ行ったところで邪魔になるだろう」
「なら、アムノンの兄上だけでも……いえ、王子の皆さんだけでも」
「アムノン……」
ダビデは呟いた。
「お前、アムノンの事は……」
アブサロムはその言葉を聞いて、ふと顔に影を落とした。しかし、彼はごく自然にふるまわんと声を作って父に言った。
「あなたの望む通り、私は兄弟同士、仲よくしたいのですよ。そのためにも過去の事を水に流し、ともに食卓を囲むのは大事なことです。そうではありませんか」
彼はきっとダビデを見つめて、懇願するように言った。ダビデは結局、アブサロムの申し出を許可した。アブサロムは早速王子たちに招待状をばらまいた。
ダビデは無論、嫌な予感はしていた。しかし、これで本当にアブサロムとアムノンが仲直りをしてくれればそれに越したことはない、と思っていた。神殿建設は完全に凍結してしまっていて、彼には焦りが生じていた。なぜ事態は自分の安心するようにいかないのか。なぜこの世はこうも冷たいのか。

「アブサロムが食事会を開くって?」
「そうだ。まあ、当然俺には招待は来てないがな」
夏の熱い中でも、ソロモンの北向きの部屋はそこまで暑さが襲ってこなかった。硬い壁に厚さはさえぎられていたし、北向きの窓は絶対に直射日光を入れることはなかったからだ。ソロモンはベリアルと一緒に適当に話しをして楽しんでいた。
タマルが死んだと正式に聞いたとき、ソロモンは喜んだ。ただただ、純粋に喜んだ。噂はタマルの死んだ次の日の早朝に飛び込んできて、朝っぱらから王宮中が騒がしく、ソロモンもその声を聴いて目を覚ました。ほどなくして、タマルが死んだと分かったのだ。
本当のところ、もっと心が痛むかと思っていた。しかし、全くそんなことはなかった。後にはただすがすがしい気分のみが残った。「これが復讐と言うものか」とソロモンは恍惚とした表情で、喧騒の中誰に言うでもなく呟いた。
タマルは死んだのだ。踏みにじられ、燃やされたシクラメンと同じ末路を彼女はたどったのだ。尊厳を奪われ、暴力を振るわれ、その命を絶った。アムノンの事は何の恨みもない手前、このような形で罪をかぶせてしまって若干気の毒とは思った。しかし、それほどではなかった。あの兄も、自分を庇ってくれたこと、優しくしてくれたことなど一度とてなかったのだから。ほどなくしてベリアルが現れ、彼もその白い歯を見せて「いいザマ」と笑った。二人はその後、シクラメンの畑の跡地を掘り返し、部屋に散らばしてあった灰を全部そこに埋めた。
「お前たちの仇は取ったよ。もう大丈夫だ」
ソロモンは笑って、彼らにそういった。不思議と、灰がキラキラ光って、瞬いているようだった。ソロモンは彼らに土をかぶせた。
それから数か月して、ソロモンはようやく傷が完治した。今では普段のように動けるし、また図形を描く作業を再開している。彼の中で、謎の建物はいよいよ細かくその全貌を明らかにしてきた。彼は建物に窓を開けた。自分の部屋にはまっているのと同じような格子窓だ。壁の周囲を、三階建ての脇廊で覆った。こうすることで、建物の壁余分な梁を入れることなく建物を支えることができると彼は理屈付けた。
彼の建物とは、宮殿のようなものではなかった。部屋数はあくまで少なく、途方もない大広間がそこにはあった。その大広間も内陣と外陣に分かれている。内陣は奥行き、高さ、幅ともに20アンマの立方体。所狭しと刻まれた彫刻模様は、イスラエルの重要な食品であるナツメヤシ、天使。そして何よりもシクラメンの花。土台は石で作っても、表面はレバノン杉製にして、さらに金メッキをするために建物は全てが豪華絢爛に光り輝いていた。ソロモンはよく想像をめぐらしながら、その中を旅した。誰もいない金ぴかの建物に、ソロモンは一人たたずんでいた。彼は鎖で覆われた内陣に入る。鎖は建物の創造主たる彼の存在に呼応するように勝手にほどけて、彼の侵入を受け入れた。内陣の中には……。
「……これは、一体なんなのだ?」
ソロモンは独り言を呟いた。隣のベリアルは勝手にアブサロムの食事会について話していたが、ソロモンのほうはそれどころではなかった。
内陣の中に何があるのか、彼にはわからない。イメージが何もなかった。そこはただ、真っ白だった。これは一体何のための建物だ。何か意味はあるのか。それとも、自分と同じく、何の意味もないただの無用の長物なのだろうか。


アムノンの館に、ヨナダブは戻ってきた。と言うのも、彼は所用で数日間館を留守にしていたからだ。彼は、アムノンがいないことに酷く驚き、他の召使いたちに慌ててヨナダブの居場所を尋ねた。
「アブサロム様の地所の牧場での食事会にお呼ばれしていますが」召使が言うと、ヨナダブは血相を変えた。
「アブサロムの!?どうして私に言わないんだ!どうして私に何も言わずにのこのこアブサロムのところに!!」
ヨナダブは召使を払いのけると、自分のラバにのって急いで駆け出した。すると、町中に噂が飛び交っていた。
「おい、聞いたかい?アブサロム王子が、ダビデ王のご子息をを皆殺しだってよ!」
「(ああ、やっぱり!)」
ヨナダブは心の中で絶叫した。アブサロムの地所に走らせようと思っていたラバを、急いで向きを変えて王宮のほうに走らせた。


何か王宮全体が妙に騒がしくなってきたのをソロモンは感じていた。早くに静かになってくれないとゆっくりもできない。彼は黒いマントで体を覆って、部屋の外に出た。
彼はダビデのもとに急いだ。アブサロムがダビデの王子を皆殺しにしたという情報が耳に入ってきたからだ。昼間の王宮を闊歩することはほとんどなかったが、なんとはなしに出て行く気分だった。アブサロムのこととあって、皆がどれほど悲しんでいるのか興味があった。

王の間につくと、皆が悲嘆に暮れていた。玉座に座っているはずのダビデは地面に身を投げ出し、神に許しを乞うていた。そして、周りにいる彼の従者たちも同じだった。
「父上様」
誰もかれもが悲嘆にくれうつむいていたので、ソロモンはだれにも気づかれずにダビデの前に立った。彼は膝をついて父に目線を合わせると、彼の耳元にささやくように言った。不意を突かれたダビデははじかれたように顔を上げた。
「ソロモン!?」
「こんにちは。お父上様」
ダビデはいつの間にか自分の目の前に現れていた、赤い目の息子を見て慌てた。ソロモンはそんな彼に、落ち着いた口調で話しかけた。
「心配なさらなくてもよいですよ、お父上様」
アブサロムが王子を皆殺しにしたという情報が入った瞬間、ソロモンの頭には事件の全貌が見えた。アブサロムはプライドの高い男だが、なんだかんだと三位の地位に甘んじてきたような男だ。妹の件のショックがあるとはいえ何の見返りもなくこのような大それたことをする勇気は彼にありはしない。見返りがあるとすれば邪魔者を全部殺して自分が確実に王位につくことだが、彼がかなり年配の王子である以上その線は薄い。そもそも王子を全員殺すなら、アブサロムが大嫌いなソロモンを呼ばないはずがない。つまり、ショッキングな事件が多少誇張されただけの事なのだ。
「アブサロムが殺したのは」
「アムノンだけです!」
ソロモンの台詞を遮るような形で、何者かがまた王室に突進してきた。髪をふり乱した、必死の形相のヨナダブだった。


ヨナダブは息を切らしながら、ソロモンの事は構いもせずにダビデ王に言った。
「アブサロムはアムノンを殺したんです!アムノンだけですよ!ありゃあ根性無しです、わけもなく王子を皆殺しにする度胸なんざありません!でも一人殺しはしたんです、だから噂が広まっているんでしょうよ!あいつが殺す可能性があるんなら、アムノンです!あいつはアムノンに恨みがあるから!タマルの恨みが!アブサロムの奴、きっとこの計画をあらかじめ練ってたんですよ!タマルの復讐のために!アムノンがタマルをレイプしたから、タマルのやつ、心が弱すぎてその程度で死んじゃった、だからアブサロムはアムノンを逆恨みして、それで殺したんですよ!」
悲嘆に暮れていた大広間がヨナダブの言葉でざわめいた。ほとんどの人間はアブサロムとアムノンの因縁など知らないのだ。タマルが死んだ理由も公にされていない。
ソロモンは言おうとしていたことを全部この宮に突撃してきた男にとられて、血の色の目をぱちぱちさせながら行く末を見守っていた。
「お、おちつけ、ヨナダブ」
ダビデはヨナダブの剣幕に押されてそう言ったが、彼が「これが落ち着いていられますか!?アムノンが死んだのに!殺されたのに!」と怒鳴り散らした。
「王よ、あんたがあんたの甥っこである僕をアムノンにあてがってから、僕たちはずっと兄弟のように暮らしてきたんですよ!その片割れが死んだんです!悲しまずにいられますか!ああ満場の人々!よおく聞いてくださいよ!王子全員なんて死んじゃいません、殺されたのはアムノンだけ!アブサロムはたった一人しか殺せませんから!あんな妹一人のために!ああアムノンが!僕のアムノンが!」
ヨナダブは勝手にぺらぺらまくしたてたので、もはや大広間中の人々が彼の剣幕に押されていた。もはや嘆きどころではなくなっていた。
「ヨナダブ、まだ死んだと決まったわけでは……」
そうダビデが言った時、ヨナダブははっとしたようにソロモンに目を向けた。
「……そーだ……ちょっと気になることがあるんだった。おい、そこの赤い目のガキ、お前僕が来る前に何を言ってた?お前……お前も、死んだのはアムノンだけ、って言おうとしてたんじゃないのか?」
彼はソロモンに顔をグイと近づけて、ボソボソとドスのきいた声で言った。彼はソロモンが王子だとは知らないようだった。
「おい。答えろよ。なんで知ってたんだ?なんでアブサロムがアムノンを殺すって、知ってたんだ?理由は僕とアムノンとアブサロムと、ダビデ王しか知らないはずだぜ。なんで知ってたんだ?もしかして、お前、この計略に、何か一枚……」
彼はソロモンの細い腕首を捕まえた。
「おい。答えろよ。……そーいえば、アムノン、何かおかしかった。おかしいって言えばお前の目もおかしいな。色がじゃないよ。お前、なんか狂ったような目をしてる。人を平気で殺せる目だぜ。アムノン、なにかおかしかった。……思い出した。アムノンがおかしくなった日、過越祭の晩餐からだった。確かお前がいたな。確かに見た。白い髪した、赤い目のガキ……」
彼は片手でマントの中からソロモンの髪を引き摺り出した。彼の声は非常に小さかった。ソロモンに直接響かせるような声だった。おそらくダビデにも届いてはいなかったのではないかと思う。ヨナダブはソロモンに詰め寄った。ソロモンの心臓が非常に早く鼓動を打った。
「どーしたんだ。心臓、鳴ってるぞ。おい。お前、なんかしたんだな?僕のアムノンになんかしたんだな?変だと思ったんだ。あのアムノンが、レイプしたいくらい性欲過多になるなんてさ。答えろよ。答えようによってはただじゃおかないから……」
彼がソロモンの腕をへし折る勢いで手に力を込めた時だった。

「父上様!」と何重もの声が聞こえた。ダビデの王子たちだった。
彼らはなだれ込むようにダビデのもとに入ってきた。ヨナダブはそれに気を取られて、ソロモンを手放した。解放されたソロモンはあわててヨナダブから距離をとり、ヨナダブももうソロモンから注意が離れて行ってしまったようだった。ダビデの王子たちはみんな顔が真っ青で、急いで遁走してきたと言った体だった。そしてその中に、アムノンとアブサロムだけがいなかった。

その二人の不在を見て、ダビデは青い顔で「何があったのだ」と言った。王子たちの中から、アドニヤが進み出てきて、「父上様」と話を勧めた。
「私たちはアブサロムの牧場で、宴会をしていたんです。何事もなく……ええ。何事もなかったんです。しかし、酒がまわってきたあたりに、急にアブサロムの部下たちが剣を持って立ち上がりました。…次の瞬間、アムノンが殺されていました。申し訳ありません。止める暇も、なかったんです。アムノンは体中めったざしにされて……何も言わずに、その場に倒れて死にました。私たちは、その……一目散に、逃げてきたんです。アムノンの死体を拾いもせずに……」
その言葉に、王宮中が再び水を打ったように静まり返った。
「ほうら……見ろ。王子たちが帰ってきた。僕の言ったとおりだ」
アムノンの死を聞いて、ヨナダブはふらりと狂乱の表情で立ち上がった。
「アムノン……死んだんだ。やっぱり死んだ、アブサロムに殺されたんだ。アブサロム…頭がいいと思ってあの計画を立ててやったのに、まさかこんな馬鹿だなんて。ああ、なんて情けない!アムノン、まってて、僕も君と一緒に死ぬから!」
ヨナダブは一人でそう叫ぶと、一目散に王の間を後にしていった。

「あの頭おかしい男、誰?」
冷めた声がソロモンの後ろから聞こえた。ベリアルだった。



アブサロムの地所にも家にも、すでにアブサロムはいなかった。アムノンの死体は、めったざしにされたのみならずアブサロムがその後ひどい損傷を加えたと見えて、人間の原形をとどめてはいなかった。
アブサロムは母の故郷であるゲシュルに逃亡しようと、ラバを走らせていた。
「タマル、タマル、仇は討ったよ……!」
長い亜麻色の髪をたなびかせ、彼は泣いていた。ラバを速く走らせていたので、涙は彼の美しい目を横に伝っていった。

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feat: Solomon 第七話

タマルが泣きじゃくりながら話した話からすると、起こったことは以下の通りだった。アムノンはここ数日病気で寝込んでいるそうで、彼女の菓子を食べて元気をつけたいと見まいに来た父親を経由して彼女に言ってきたそうだ。ここまでは侍女も聞いた通りだ。
彼女は何の警戒もなく、アムノンの家に行った。アムノンは全くいつも通りのようにふるまって、病気を心配するタマルににっこり笑って「心配してくれるのか、ありがとう」と言ったそうだ。全く、この後に恐ろしいことを考えている顔ではなかったそうだ。
アムノンの病室には簡単な調理器具が誂えてあって、彼は「せっかくだからお前が作るところから見ていたい」と言った。その言葉を受けて、素直にタマルは菓子を作り始めた。彼はレビボットと言う菓子、菓子の中でも一番タマルの得意なものを作ってほしいと言ってきたそうだ。彼女は快諾して、いつも通り粉を練って、蜂蜜を混ぜて、油で揚げてレビボットを作った。その様子を、アムノンはじっと病床の中から見ていた。
レビボットが揚がるや否や、タマルは早く食べさせてやりたくて「アムノンお兄様、できましたわ」と、鍋ごと持って彼のところに笑顔で駆け寄った。そこからがおかしかったのだ。
アムノンは目の前に差し出された出来立てのそれを見ても、食べようとはしなかった。そして、周囲の医者や召使に「すまないが、見られていると食べづらくてね。お前たち、出ていっては貰えないか」と指図した。彼を看病してた彼の昔馴染みであるヨナダブがそれに乗っかるように、誰にも何も言う暇を与えないまま「王子がこう言っているのです。出て行こうじゃないですか」と言い出した。ヨナダブはアムノンの幼馴染であり、なかなか頭のいい男だったので彼の腹心でもある存在で、この家の中では彼の次に地位が高かったと言ってもいいほどだった。それで、皆ぞろぞろ出て行った。タマルもそれらに混ざって鍋を置いて出ようとした。しかし彼は、タマルだけは引き留めた。
「君はいてくれ。手ずから食べさせてほしい。ものを持つのもだるいんだ」か細い声で彼はそう言ったので、タマルは全く信じてしまった。それなりにいた人はすっかり出払って、最後にヨナダブが「それじゃ、ごゆっくり」と笑って出ていった。
二人っきりになって、タマルは改めてアムノンにレビボットを食べさせようと、彼のそばに寄った。そして熱いそれをつかんで、彼の口元に渡した。
その時だった。彼が豹変した。彼の腕が伸びて、タマルをとらえた。レビボットは彼女の手を離れて、床に転がった。
「アムノンお兄様!?」タマルが叫んだ。アムノンは鬼気迫る顔でこういった。
「タマル。おいで。こっちに来て一緒に寝よう」
物凄い力だった。ものを持つこともできない病人の力では断じてなかった。タマルは、彼が仮病を使っていたのだと悟った。そして、彼の目的も。
「お兄様、やめてください!」金切り声をあげてタマルは叫んだ。「こんなこと、許されません!私、お嫁に行けなくなってしまいますし、お兄様も罪人になってしまいます!そうだ、お父様に、まずお父様に話して!お父様に話して、結婚すれば、まだ……」
それ以上、タマルは言えなかった。アムノンはタマルに猿轡を噛ませた。彼は彼女の両手を押さえつけると、彼女の着ているものを片手で取り払った。
タマルは助けを求めようともがいたが、どうしようもなかった。声は出せない。動きも封じられている。そのまま、彼女は凌辱された。処女を奪われた。どうしようもなかった。

アムノンの寝台にしみこんだ血を見て、タマルは泣いた。自分の血だ。アムノンは彼女を気が済むまで犯しきった。すっかり冷めたレビボットは、手も付けられずに埃だらけになって床に転がっていた。
彼は彼女の手を放すと、彼女を睨みつけて言った。「立て。出ていけ」彼は床に放り投げた彼女の着物を指さした。「服を着て、とっとと出ていけ」
彼の態度を受けて、タマルはショックに打ちひしがれた。暴力を受け、凌辱されて、無責任に捨てられようとしている。自分は今、アムノンに道具のように扱われている。タマルは絞り出すような声で言った。
「追い出さないでください」
しかしアムノンは「聞こえなかったのか。出て行けと言ってるんだ」となおも険しい口調で言った。
「今私を追い出したら、貴方は罪人ですよ」タマルは言った。「今なさったことより、もっと、悪い事です」
アムノンはその言葉を聞いて、しばらくの間黙っていた。しかし、せきを切ったように急に怒りだした。
「黙れ!お前のせいだぞ!男を惑わす美貌を持ったお前のせいだ!お前のせいで私は、こんな人でなしになってしまったんじゃないか!」
彼はタマルに無理矢理服を着せて、脇に置いた鈴を鳴らした。鈴の音を聞いて、従者たちが戻ってきた。
「この女を閉め出せ」彼は言った。従者たちは何があったのかと怪訝そうにしたが、彼は強い口調でもう一度言った。
「聞こえなかったのか?こいつを閉め出せと言ったんだ!扉を占めて鍵をかけろ、いいな!」
彼らはアムノンの勢いに押されて、あわててタマルを引っ張ってドアの外に連れ出した。タマルは叫ぼうとしたが、再び口をふさがれてしまった。彼女は突き飛ばすようにドアから追い出された。彼女が戸口に倒れこんだ瞬間門が閉まって、鍵のかかる音が聞こえた。
彼女は泣いた。大声で泣きながら、歩いて帰った。放り出されたせいで彼女は泥だらけになった。彼女を見たものは、きっと誰も、この泥まみれのみじめな女性が美しい王女タマルだとは思わなかったことだろう。


アブサロムは話を聞き終わって、頭の中が真っ白になった。彼は妹を抱きしめた。この体は汚されたのだ。アムノンに汚されたのだ。自分のあずかり知らないところで、タマルは処女を奪われ辱められた。女の受ける最大の恥辱を受けたのだ。
彼は震えた。妹の体を抱きしめながら震えた。
「ここにいろ。すぐ戻ってくる」
彼は短くそういうと、矢のようにタマルの部屋を飛び出して走り出した。自分のラバを引き出すと、彼は無言でアムノンの家に向かって全速力で駆け出した。怒りに体中が震えていた。
あっという間に、彼は都より少し離れたアムノンの家についた。「アブサロムだ、開けろ!」彼は激しく戸をたたいた。すでに日は落ちて暗くなっていたのだが、かまいはしなかった。あわてて出てきたアムノンの従者がアブサロムを案内しようとしたが、彼は彼らを突っぱね、一人でアムノンの部屋に走った。
アムノンの寝室の扉は当たり前だが閉まっていた。前には、ヨナダブが立っていた。
「おや、今晩は、アブサロム王子!」ヨナダブは愛想よく返事した。アブサロムは彼の胸ぐらをつかみ、「扉を開けろ。アムノンに用がある」と言った。
「それはできませんよ。今王子ははやり病でしてね。病人は早く寝ないといけませんから。もうお休みになっていますよ」
「何がはやり病だ?」彼はヨナダブを睨みつけて言った。「仮病じゃないか!僕の妹に乱暴するために仕組んだ!」
「あら、もう言っちゃったんですね」ヨナダブはすっと友好的な表情を消して、彼に言った。「まあ、そうであっても、彼は貴方に会う義理なんてありませんよ」
「何故だ!僕の妹は被害者だぞ!」
「そうですが、彼は第一王子ですから」
ヨナダブはきっぱりと、何も悪びれることなくそう言った。アブサロムはその言葉を受けて、硬直した。
「何もかもばれたようですし、せっかくだから全部話しますよ」ヨナダブは笑って言った。
「もともとねえ、アムノンはあんたの妹の事が好きだったみたいなんですよ。でも、彼は第一王子ですしね。ちゃんと婚約者もいますから、なかなか言い出す機会がなかったんですよ。王になればともかく王子の身空で何人も側室抱えるなんて非現実的ですし、第一異母妹なんて言い出しにくいじゃないですか。一応腹違いなら結婚は認められないでもないですけど、頭の固い爺さんがたなんかは抵抗持つ人も多いですし。王が死んで即位するまで、彼は思いを秘めておかなくちゃならない。タマルがその間誰とも婚約しないことを願いながらね。でもアムノンはずっと我慢してたんですよ。いい子でしょ。しかしね、この前の過ぎ越しの祭りの時から、もうとうとう恋の病と言うべきか……とにかく、調子が悪くなるほどになってしまいましてね。私は彼に聞いたんですよ。どうしてそんなにやつれているのか、なんでこの僕に打ち明けてくれないのかと。彼は打ち明けましたよ。全部胸の内を打ち明けました。ああ、貴方にも聞かせてやりたいくらいですよ!本当にアムノンは貴方の妹に恋焦がれて可哀想なくらいだったんですから!だから私、彼のために何ができるか一生懸命考えました。それでうまいことを思いついたんです。言ってやったんです。仮病をでっち上げてタマルを油断させて犯してしまえばいいって」
彼の台詞を聞いて、アブサロムは怒りに震えた。彼は拳を握りしめた。ヨナダブはそれをしっかり見届けたが、なおも話し続けた。
「そりゃあアムノンはいい子ですから。最初のうちはとんでもないと言って断りましたよ。けなげなことじゃないですか!でもね、やっぱりもうとうとう辛くなったと見えて、決行するってなったわけです。アムノンこそ被害者ですよ!あなたの妹が美しすぎるから、あんないい子だったのに、王位を約束されている身なのに強姦魔の汚名を着せられてしまったんですから。彼はこれから、いつこの望まずに背負わされた罪がばれるか恐れながら生きていかなくてはならないのですよ?いや、むしろ、ばれずともずっとその罪悪感に苛まれながら生きていくことになるんです。君の妹が美しすぎて、彼を惑わしたおかげでね。私はむしろあなたたちに謝ってほしいくらい……」
その瞬間、アブサロムはヨナダブを殴りつけた。彼の体は吹っ飛んで、壁に叩きつけられた。
「黙れ、黙れ、黙れ、ふざけるな……よくも、よくもそんなことが!」
床につっぷしたヨナダブの胴体を、アブサロムは殺意を込めて踏みつけた。
「僕の妹はどうなるんだ!?他人に犯されたとあっては、もう結婚なんてできない!もう普通の女のように幸せに生きられなくなったんだぞ!アムノンが責任をとってめとるというならまだ許せる、それなのに被害者面して追い出すのか!?一体何事なんだ!タマルの人生はどうなるんだ!ふざけるな、ふざけるな!」
アブサロムは泣き叫んでそう言った。
ヨナダブは自分の体を庇いながら、隙を見て立膝をついて起き上がり、アブサロムに向かいあったかと思うと、瞬時に彼の足に鋭く蹴りを入れて逆に彼を転ばせた。
「アブサロム王子。私に暴力をふるうのはいいですけど、どうにもなりませんよ」
彼は不意を突かれ地面に倒れたアブサロムを押さえつけてそう言った。
「さっきも言ったでしょ。アムノンは第一王子で、君は第三王子。立場はアムノンのほうがずっと上なんですよ。いいかい?アムノンはね、揉み消そうと思えば揉み消せるんだよ、君の妹にしたことくらい」
アブサロムに顔を近づけて、ヨナダブは答えた。彼の目には一転の罪悪感もないかのように見えた。
「な……」
「忘れてないかい?君は臣下なんだよ。アムノンの臣下。主君が臣下をどうしようと、罰なんて受けずに済むんだ。だってダビデ王がそうじゃないか。あのバテシバを手に入れるとき、ダビデ王は何をした?あの方は自分で自分を鞭うち台に送ったかい?そういうことだよ」
アブサロムの心の中に、彼の一言一言が重く染み込んだ。臣下。自分はアムノンの臣下。彼に逆らうことは許されない。彼に何をされても、自分は黙っていなくてはならない。
「父上に、父上に申し開きをしてやる」
彼は震える声でそう言った。しかし、ヨナダブは挑発的に返した。
「ああ、そう!可哀想だねえ、君の妹も!黙ってりゃ処女のふりし続けてられるのに、お兄さんが申し開きなんてしでかしちゃったら、あとはもうダメだなあ、彼女が犯されたこと、誰にも知れ渡るようになるね。そしたら本当にお嫁になんてどこにも行けなくなるな!」
その言葉を聞いて、アブサロムは本当に黙り込んでしまった。
「それにねえ。そのことくらいでアムノンが罰されるわけないだろ?女に乱暴したってことくらい、罪にはなるけど何年もすりゃ忘れられるよ。人を殺したんでもあるまいし。彼の人生は少し外れるけど、王になる将来はそのままさ。君の妹は本当に、生きるすべもなくなるけどね」
ヨナダブは冷たい口調でそう言った。絶望してその場にうなだれるアブサロムに、彼は元通りわざとらしさの混ざった恭しい口調に戻って言った。
「このことはお互いの胸にとどめましょうよ、アブサロム王子!それが一番いいんです。アムノンのためにも、貴方のためにも、タマル様のためにも!起こってしまったことは仕方がないじゃないですか。お互いにとって不幸な事故だったと割り切りましょう!取るべきは最良の、もっとリスクの出ない方法。そうでしょう?さ、もう夜も遅いですし、お引き取り下さい。タマル様もきっと一人ぼっちで寂しがっていらっしゃいますよ」
アブサロムはがっくりとしたまま、門を出て、夜道の中ラバを走らせ、宮廷に向かった。なるほどヨナダブは聞こえた知恵者だ。よく考えたものだ。臣下だから。自分が第三王子だから、アムノンよりも地位が低いから、何もできないままなのか。自分の最も愛する妹を汚されておいて、自分は何もできないのか。タマルを汚されておきながら、泣き寝入りするしか方法はないのか。

王宮で待っていたタマルに、彼は絶望した顔でこう告げた。
「タマル。今日あったことは誰にも言うな。忘れるんだ。アムノンは……第一王子だから」
タマルはそれを聞いて、床に崩れ落ちた。双眸からハラハラと涙がこぼれた。アブサロムも泣いた。亜麻色の髪をした美しい兄弟は、二人で絶望に打ちひしがれて泣いた。

タマルは王宮にはいられないと、アブサロムの家に移り住んだ。しかし、彼女の心は断じて晴れなかった。
アブサロムは、葛藤に葛藤を重ねて、そのことをダビデに言った。しかし、ダビデは何もしなかった。自分がソロモンを殴った時と同じように「アムノンの気持ちもわかる。兄弟同士で争ってくれるな」と言っただけだった。

数日後、アブサロムはタマルが庭で首をつって死んでいるのを見た。


ベリアルはソロモンの部屋で、例の薬の残りを、ネズミにやって遊んでいた。彼がネズミに薬を染み込ませた小麦をやると、ネズミはたちまち発情して雌ネズミを追いかけまわした。
「すごく効くね、君の作った薬」
ベリアルは笑った。
「生き物ってこんなもので動いちゃうんだからね。…理性をふっとばす、超強力な催淫剤」
雌ネズミと食い入るように交尾するネズミをベリアルは興味津々といった体で眺めた。寝台に横たわって蝋燭の光でナタンの持ってきた本を読んでいるソロモンは、それを見ていた。
「アムノンがタマルを好きなのは知ってたからな。あとは簡単だ」
彼は格子窓から夜空を眺めた。ふと、北の空に流れ星が一筋流れた。ソロモンは、ふっと笑った。
夜の街に、アブサロムの叫び声が聞こえたような気がした。


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