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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Elijah 第十話


アハブの王宮はイスラエル王国の首都であるサマリアにある。しかし、彼はイズレエルに別邸を持っていた。「象牙の家」という異名すらとるほど、建物をまるまる高価な象牙細工で覆ったそれはアハブのお気に入りでもあった。
ところで、そのイズレエルにある王の別邸のすぐ隣に、広い葡萄畑があったのである。ナボトと言う男の管理するそれは、イスラエル国内でも有数の広さを誇っていた。広いだけではなく、土もよく肥えていたし、景観もよく、葡萄畑としてのみならず、ただ土地としても一等級の代物だった。例の三年に及ぶ大干ばつの際は、さしものその畑も被害を受けたが、今ではすっかり息を吹き返し、瑞々しさを保っていた。

ただ、当たり前の話であるが、それはイズレエルのアハブの王宮のすぐそばにありながら、アハブと何の関係もない土地なのである。アハブはそれが面白くなかった。単なる支配欲からだけではなく、防衛などの観点からしても王宮周りの土地をすべて押さえておきたいのは当然の話である。それに、何と言ってもナボトの畑は素晴らしい土地である。ただそれだけで、買い取って王宮の土地とし、もっと良い方法で管理してみたいと思わせる風格があった。

アハブは、ナボトに再三再四、畑を売ってほしいという話を持ちかけていた。その代償は銀貨で払ってもいいし、もっと良い葡萄畑を与えてもいい、という内容でだ。

だが、ナボトの返しは常に「いいえ」だった。そもそも、イズレエルに王の別邸が建つ前からナボトの一族はその葡萄畑を守ってきたのだ。今さら自分の代になって畑を譲るなど、相手が誰であろうとできないというのだ。ナボトは穏やかな男だったが、こと先祖の土地を守るということに関しては頑固なところがあった。

その日も、アハブはイズレエルから不機嫌な体で帰還してきた。何回になるかもわからないナボトとのぶどう畑に関する件の交渉から帰ってきたのだ。彼の妻であるイゼベルは、彼の顔を見て、またその結果が思わしくなかったことを悟った。


「おかえりなさいませ」
彼女は無言で帰ってきた夫にワインを勧めながら言った。だが、彼は「葡萄なんて見たくもない!」と言って、すぐ寝台に寝っころがってしまった。
何があったかわかっているだけ、こちらからかけてやれる言葉と言うものもなかなかない。イゼベルは神妙に、夫の態度をうかがっていた。彼らの間に生まれた王子たちは賢いもので、父の不機嫌そうな帰還を見るやさっさと流れ弾を食らうまいと引っ込んでしまった。
アハブはしばらくじっと数時間にわたって寝台に転がっていた。ふてくされているようだった。ほどなくして食事の時間になったが、彼は一言「食事など食べたくない」と言った。そんな彼のそばに、イゼベルはずっと居続けた。彼にしても、出て行けとも何も言わなかった。殆ど、根競べのようになっていた。

日が傾きかけたころ、ようやく根競べに負けたのははアハブのほうだった。彼は寝台の横の椅子にずっと腰かけていたイゼベルに「ナボトがまた畑を譲らなかった」と憮然とした声で言った。イゼベルは「あら、そうでしたの、わが君様」と答える。
「はっきりと言ったのだ!『あなたもしつこいお方だ。たとえ王様であろうと、この先祖代々の嗣業の土地を譲り受けることはできません』とな!神にかけてまで、あいつは誓いおった!」彼は初めてイゼベルのほうを向いて、彼女に当たり散らすように言った。イゼベルは怒りのぶつけ先を自分にされたことにちらとも不快な色を見せずに、夫の言葉を聞き続ける姿勢をとった。アハブはものすごい剣幕で、彼がナボトに言われた台詞をイゼベルに語って聞かせた。どこか、いじめられた子供が母親にすがるような態度でもあった。
「王であっても!なぜだ、私は王だぞ、私のおかげでだれもかれも、食っていけるのではないか!イゼベル、ナボトだけではないのだぞ、私は普段から、そういう態度の奴らばかりに囲まれて仕事しているのだ。あの小生意気な預言者ミカヤにそれに……ああ、何を思っても、あの預言者だ、エリヤだ!ええい、誰もかれも、私に求めるものは求めておきながら、差し出すものは差し出さない!文句ばかり言って敬いはしない!イゼベル、分かるか!?私はそのような中で生きているんだ!お前が王宮で何一つしていない間!」
「ええ、分かっていますわ。分かっていますとも」
「分かっているはずがない!」
「そうでしたの。わが君様の痛みを分かってさしあげられなくて、申し訳ございません」
イゼベルは知っている。アハブは何も、葡萄畑の一つが手に入らないことに怒っているのではない。彼は、人ひとりすら自由にできない自分自身の人望のなさを嘆いているのだ。
そりゃあ、ナボトは頑固な男であるかもしれない。しかし、アハブの周囲にはアハブをぞんざいに扱うものが多い。ベン・ハダド王やあの許し難いエリヤは問題外。まだ若く生意気なミカヤは若気の至りと思って笑い飛ばせばいいにしても、宮廷長のオバドヤですら、実は王宮に疑問を持っているということなのだ。噂によれば、彼は干ばつ前の宗教改革の折、イスラエルの伝統的な祭司たちをこっそり保護していたという話も聞く。話半分なのでそれでどうなるわけでもないが、確かにオバドヤは宗教が元に戻って以来態度が変わったし、なによりあの目立って王を舐めているミカヤを必死で庇って王宮預言者として首をつながせている。彼にとっては、アハブよりも宗教が大事なのは、イゼベルにもなんとなくわかっていた。
また、アハブに忠実だったはずの預言者ツィドキヤすら、あのアラムとの戦以来どこかおかしくなってしまった。家にこもりがちになり、預言にもかつてのような切れがなくなり、どこか自分自身に迷いが出ているような様子だった。アハブにはそれが気に入らなかろう。無条件で自分を持ち上げていた存在が、一人、その道に疑問を見出したということは、つまり自分への忠誠の道を誤ったものかもしれないと思い始めたということなのだ。
宮廷長や預言者の頭ですらそうなのだ。アハブが顔も覚えていないような人民の中では、一体何人がアハブを王として敬っているのだろうか。

イゼベルはまた、知っている。アハブは自分の事を王として、自信の持てない男なのだ。そういう家の生まれなのだ。
彼の父、オムリは先祖代々の王ではない。オムリは軍人であった。王を誅殺して王座を手に入れた軍人であったのだ。その王すらも、クーデターによって王権をとったものなのだ。
彼らの国、イスラエル王国の歴史は血なまぐさい。アブラハムから連なるユダヤ民族の血を引いている割に、イスラエルの王家の体には、偉大なるダビデやソロモンの血など一滴も流れてはいない。ユダヤ民族はじまって以来の栄華を築いた稀代の天才、ソロモン王の子孫を裏切った奸臣ヤロブアムが作った国、それが現在のイスラエル、北イスラエル王国なのだ。そして、栄華を極めたダビデとソロモンの子孫たちは南のユダ王国にのみ生き残っている。
そしてそのヤロブアムの子孫すら、長続きしなかった。たった彼の息子の治世で、その王朝はクーデターによって途絶えた。クーデターを繰り返し、王座が空になることだけがなかったのが、このイスラエルと言う国なのである。アハブだけではない。誰も、ダビデやソロモンのように、誰からも王と認められるような身ではなかった。アハブはそのような中に生まれた存在なのだ。裏切りによる裏切り、そしてさらに裏切りを繰り返す系譜の中にポツンと存在する王にすぎないのだ。彼もまた、いずれ、裏切りによってその系譜にいつ幕を下ろすかわからないのだ。
「私が!私が!ダビデのようであったなら、ソロモンのようであったなら、皆私を慕うのか、ナボトは私に畑をよこすのか……」
絞り出すように言った言葉は、明らかに、アハブの気持ちの本質なのだ。
一通り怒鳴り終えて、アハブはようやくイゼベルに「出て行ってくれ、一人になりたい!」と言った。イゼベルはその言葉を受けて、静かに立ち去って行った。


「(弱い人!)」
イゼベルは心の中でそう言った。いい年をしておきながら、弱い子供のようにただ怒鳴り散らすアハブにだ。
しかしアハブを責め続けることも彼女にはできない。自分も王家の生まれだ。王でありながら王として信頼されない苦悩など、自分が一番わかっているつもりだ。
バアル信仰が途絶えて以来、イゼベルのことを言いたい放題になった宗教保守派は自分の事を阿婆擦れ、淫乱の売女と呼んでいるとイゼベルは知っている。しかし、そう呼ばれようとも、実際に自分が売女の如く性に奔放であったことは彼女の崇拝するバアルに誓って一回もない。アハブは愛する夫なのだ。たとえ彼があれほど優柔不断で心の弱い男でもだ。恋も知らぬシドンの王女であった自分が、初めて恋をした相手だと、イゼベルはアハブの事をはっきり言う自信があった。
アハブを心の弱い夫だと舐めるのは簡単だ。しかし、それで何が始まるものか。自分がイスラエル王妃としてすることは、自分をもアハブを舐め彼を傷付ける謀反人の一員になることではない。アハブを、このイスラエル王家を確たる存在とすることだ。イゼベルはそう確信している。

イゼベルは王宮地下に造らせた、自分の秘密の部屋に入っていった。真っ暗な階段を、蝋燭一本持って、彼女は迷うことなく進んでいく。
固い鍵に閉ざされた扉を開き、彼女は何本もあつらえた蝋燭に一気に火をともした。たちまちのうちに、部屋に昼間のように明かりがともされ、ブロンズでできたバアル像がその姿を現した。
イゼベルが秘密で作らせた、バアルの神殿だ。ここにはバアルの神官団はいない。参る人間はただ自分一人のみ。角付きの王冠をいただいたたくましい男神は、蝋燭の揺れる明かりに照らされてじっと物言わぬ目でイゼベルを見下ろしていた。
イゼベルはドレスが汚れるのも構わないまま地べたに膝をつき、バアルに向かって祈り始めた。
「おお、偉大なるバアル様、貴方様の一人の信女の言葉をどうかお聞きくださいませ。わが夫を苦しみからお救い下さい。イスラエルの神により苦しめられる、あの哀れな夫にどうか手をお差し伸べ下さい。真実なる神、絶対なる神、偉大なるバアル様……」
彼女の眼から涙がこぼれた。悔し涙だ。
エリヤの事を彼女は思い出していた。あの品も何もない、野蛮な男のおかげで国は一気にイスラエルの神の信仰に戻った。自分があれほどにまで情熱を傾けた宗教改革はすべてご破算となった。
それなのにだ!その神とやらは、アハブを助けてはくれないではないか。自分に一回でも不都合をした相手はそれ以降どうあっても切り捨て続けるということか?なんと理不尽な神だろう!とイゼベルはイスラエルの神をあざけった。バアルならば絶対にそのようなことはない!バアルは優しい神なのだ、人間の味方なのだ。あのように干ばつで人間をいくらでも殺す、残酷で非道なイスラエルの神ではなく!
エリヤだ、エリヤのおかげだ、何もかもエリヤが悪いのだ!彼女はエリヤを呪った。
「おお、崇高なるバアル様、この世に君臨する絶対の主よ、どうかあのエリヤに罰をお与えになってください、あの人心を惑わす魔術師と、彼の語る嘘の神に、その身に相応しい無残な死を!私の哀れな夫には、その地位に相応しい救いを!」
彼女がそう言った時だった。ふと、彼女の視界に不思議な光景が映った。
オレンジ色に燃えているはずの蝋燭の火が、何の前触れもなく、突然一つ一つ、最終的には全部全部真っ白な色に燃え始めたのだ。その冷たくも鮮烈な光を発し始めたその炎は、何かを呼ぶかのように揺らめいた。ブロンズのバアルの顔が青白い光を受けて冷たく輝く。
次の瞬間、イゼベルの目の前に真っ白な光が飛んだ。イゼベルは思わず、そのあまりの光の強さに目をつぶった。
「イゼベルよ、目を開けなさい」
男とも女ともつかない声でそのように言われたのは、数秒経った後の事だった。

イゼベルの目の前に立っていたのは、異様な姿の人物だった。割と小柄で、女にしては身長の高いイゼベルと同じ、いや、彼女よりも少し低いかもしれないほどだ。男装をした美少女のようにも思えたし、とびきり女のような容姿の美少年にも見えた。性別の見分けは全くつかないものの、便宜上、彼と呼ぶことにする。
彼は貴公子のような豪華な装いをしていた。真っ白な衣の上から、黒曜石を磨いた飾りを首や胸、頭につけ、真っ黒な色の外套を羽織っていた。外套には、透けるような白色の刺繍がしてある。胸元に、黒い色の薔薇の花を飾っていた。髪は異常なほど艶やかで美しい黒髪だ。イゼベルが見たこともないほど、それは真っ暗で、まるで夜空のような艶やかさを保ち、まっすぐに長く伸びていた。少女のように滑らかな細い指には、白い石をはめた指輪と黒い石をはめた指輪をしていた。
だが、何をおいても異様なのは彼のその顔にあった。彼の肌は、恐ろしいほどに白かった。もはや人の肌の色ではなく、アラバスター製の人形が命を宿したかのような真っ白な肌をしていた。そして彼の眼は、その光彩が真っ白だった。雪のように白い瞳が、イゼベルをじっと見つめていた。そして、彼の唇は赤くなかった。一片の赤さもなく、その肌と同じように、アラバスターのごとき非生物的な白さを持っているのだ。
抜けるような白と吸い込まれそうな黒のみで構成されたその人物を目にして、イゼベルは言葉を失った。彼はそんな彼女を見て「恐れるな。私はお前の祈りを聞きつけてやってきたものだ」と告げた。
「私の祈りを?」
イゼベルは震える声で言う。
「そうだ。お前たちが『バアル』と呼ぶもの。私はその使いとでもいえば分るか?」
彼はあくまで静かな口調で、イゼベルにそう言った。
「もっとも『バアル』と言うのは少しずれた発音だと言わざるを得ないな。より正確に『ベル』と呼べ。『ベル』の後ろに『ゼブブ』という呼称をつけて『ベルゼブブ』様。それが正しい名前だと、私はお前に告げねばなるまい」
胸に刺した黒薔薇を抜いて弄びながらそう言う彼を見て、イゼベルはガタガタと震えたまま、言葉を失っていた。これは一体なんなのだろうか?目の前に立つこれは、明らかに人間ではない。そのような雰囲気を持っていた。
自分は夢を見ているのだろうか?幻を見ているのだろうか?それとも、本当に自分は今、神からの啓示を受けているのだろうか?
揺らめく白い炎に照らされる彼を見上げ、イゼベルは恐る恐る問いかけた。「で、では 『ベルゼブブ』様は……私の祈りを受けてくださった、と言うことですか?」
「そういうことだ。イゼベル、忠実なる我らの信徒よ」彼は厳かに答えた。
「わが名はアスタロト。ベルゼブブ様の忠実なる臣下。さて……イゼベル。お前は言ったな。我らに、お前とお前の夫を悩ます者どもを始末してほしいと。それはナボトであり、預言者エリヤであり、そしてあの傲慢なるイスラエルの神であると」
「は……は、はい」同様に息を乱しながら、なんとか彼女は言った。
「了解した。イゼベル。お前はどのような時も我らに忠実だった。お前の望みをかなえてやろう。私のそばに寄るがいい。まず手始めに、不忠義者のナボトを始末する力をお前に与える」
アスタロトはそう言って、真っ白な手をイゼベルに差し伸べた。彼の爪すらも、桃色はさしておらず、真っ白だった。
イゼベルは恐れが抜けきらなかった。しかし、アスタロトがくいと手招きすると、まるで蛾が光に吸い寄せられるかのようにフラフラと、彼女はアスタロトのそばに寄った。アスタロトの真っ白で端正な顔が彼女を覗き込む。彼は色のない唇を開いて、彼女に言葉をささやいた。彼女は意識を失ったような状態で、ただ、その言葉だけを聞いていた。全く、自分と言う人間がそこに存在しているかのような感触がなかった。あるのは白い光に照らされたアスタロトの存在だけ。
彼女はいつの間にか気を失っていた。


彼女が起きた時、彼女は慌てて蝋燭の光を見た。蝋燭の光は全く普通に、オレンジ色に輝き、ブロンズのバアル像を照らしている。
あれは夢だったのかとイゼベルは混乱する頭で考えた。自分は幻を見たにすぎないのか?自分が少女の時からただ一途に崇拝してきたバアル、いや、『ベルゼブブ』と訂正されてしまったのだが……の使い、アスタロトと名乗る少年とも少女ともつかない異形の存在に自分は本当に啓示を受けたのだろうか?まだ蝋燭からは蝋がそこまで垂れていない。時間はそれほど立っていないようにも思えるが。
と、その時。イゼベルは自分の胸元に不思議な感触を覚えた。何かが添えられている。彼女はそれを取りだし、そして目を見張って驚いた。それは、光をすべて吸い込むそうなほど真黒な花弁をもった薔薇の花だった。アスタロトの持っていたものそのものだ。
彼女は最初、言葉がなかった。しかし、だんだんと、蝋燭から蝋が溶けその下に積もっていく頃、彼女の顔には笑みが浮かんだ。そののち彼女は声をあげて笑い始めた。
「ああ、偉大なる『ベルゼブブ』様!」
彼女はブロンズのバアル像に跪いてそう言った。アスタロトの言った言葉は、はっきりの彼女の頭の中に残っていた。彼女には、それを実行する自信があった。


夕飯の時間になったが、アハブは物を食べる気がしなかった。彼は相変わらずふてくされ続けていたのだ。彼はじっと寝台に寝そべったまま、誰とも話そうとしていなかった。
「わが君様」
しかし、後ろから聞こえてきたイゼベルの声に、彼は振り向かざるを得なかった。彼女の声には彼をなだめようという様子もなければ、咎めようという様子もなかった。ただ、不思議な自信に満ち溢れた声が聞こえたのだ。
体を起こし振り返ったアハブは驚いた。もう日も落ちた中、わずかな明かりに照らされたイゼベルの顔は、自信と威厳に満ちあふれ、彼が見てきたどのような彼女の表情よりも美しかった。圧倒されんばかりの美しさだ。
彼女はうろたえるアハブに、不敵に笑いかけて言った。
「いつまでもそうしていないで、起きて食事をして、元気をお出しくださいな。今、イスラエルを支配しているのは貴方様でございます。ナボトの畑の件ならば私にお任せください。私が貴方のために、あれを手に入れて差し上げましょう。私には、真実の神が付いているのですわ」

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feat: Solomon 第二十七話

イスラエルより北にあるイスラエルの属国、アンモンの王宮。その王宮の厨房で、カシャンカシャンと音が鳴り響いているのを聞きつけて、怒った顔の侍従長が早足でやってきた。
扉を開けてみれば、厨房の中では喧嘩が起こっているらしく、鍋やら銀の皿やら、調理器具やらがめちゃくちゃになっている始末だ。中心では数人の男たちが寄り集まっている。どうやらその中心に誰かがいるらしい。おそらくは、その誰かに全員が寄ってたかって、と言ったところだろう。だが、その誰かも全く無抵抗ではないようで、むしろ中心で酷く暴れているというように見える。何人かは彼に数発食らったらしく、顔に真新しい傷や痣ができていた。だからこそこのような惨状になったのだろう。調理場のように男ばかりが多いところ、それもあまり高貴な身分ではない男ばかりのところには、このようなことは必ずしも珍しい事ではない。侍従長は大きな声を上げて、彼らを制止した。
「やめんか、やかましい!」
厨房中に響き渡る侍従長の声を聴いて、頭に血の上った料理人たちは驚き、ひとまず彼らの腕を止めた。
「王の住まう王宮で何という浅はかな!一体、事の起こりはなんだというのだ!?」
年取った侍従長の厳かな、確かに怒気を含んだ声に、若い料理人の一人がおずおずと、先ほどまでの輪の中心にいた男を指さした。男とは言っても、まだ少年のような背丈である。彼はボロボロの黒いマントを庇うように抱きしめて、先ほどまで自分をいじめていた料理人たちを鋭い視線で睨みつけている。リンチを受けていただけあって、彼の体は痣だらけだ。ひどく真っ白なその身に、赤い傷や痣は鮮やかに、痛々しく映った。だが、彼らを敵意を込めて睨みつけるその視線には、一点の弱気さも見えない。その目は、彼の体を流れる血と同じように、鮮やかな赤色をしていた。
王宮には何人も仕える手前、侍従長とは言えど覚えていられる人数は限られているが、さすがに侍従長は彼の事を覚えていた。と言うよりも、覚えざるを得ない。この、人とは一線を画したような不思議な容姿をした奴隷の事は、一瞬見れば忘れられない。


彼がここに来たのは、つい先日の事であった。
厨房に人手が足りなくなり、適当な奴隷が必要だと思って奴隷市場に来た侍従長の眼に、全身を汚らしい黒いマントで包んだ一人の少年奴隷が入った。彼は品の悪そうな黒人の商人に連れられていた。
奴隷は肉体が資本である手前、男であれ女であれ裸のような格好で品定めされることが普通だ。それだというのに、全身を覆い隠した彼を不審に思い、目をとめた侍従長に、奴隷商人は目ざとく話しかけた。
「どうです、旦那。こいつはなかなか売れないんです。お安くしときますよ」
品のない話し方でそう言ってくる奴隷商人に、彼はその少年はどうしてそのような格好をしているのかと言った。奴隷商人はこう答えた。
「旦那、見れば驚きますぜ、こいつの容貌!」
彼らが言うには、この黒いマントの下には、彼が今まで見たこともないであろう容姿の少年がいるというのだ、すなわち老人のような髪の毛に、色白を通り越し、血の気の抜けたような白い肌、そしてその血の気を一点だけ集めたような赤い目を、彼は持っているという。聞くに、彼の白い肌と目は日光に耐えられず、だからいつもこのような格好をしていなくてはならないというのだ。だから男の奴隷がするような肉体労働は少し難しい、と奴隷商人は言った。彼らは、下種な口調でニヤニヤ笑いながらこう続けた。
「けどねえ、旦那。それでこいつが無能だなんて思っちゃいけませんぜ。その、ちょっとばかり気味の悪いところに目をつぶればね、あなた、そりゃあ信じられませんよ。こいつはどこの貴公子様かってくらい、綺麗な少年ですよ!どうです、その手の仕事なら容易ですぜ」
自分は厨房の奴隷を買いに来たのであって、男娼を買いに来たのではない、と強い口調で侍従長が言うと、「どうにしてもお安くしときますよ。どうです」と、彼らは悪びれずに言う。当の彼は、じっとうつむいているようだった。カリカリと音がするので何事かと思ってみてみれば、彼は爪を噛んでいるようだった。
侍従長は少し考えた。厨房なら、窓も小さいし、日の当たる場所での仕事ではない。日のもとに出られないと言うが、もとより日の当たらない場所での仕事ならば彼にもさせることができるだろう。彼は普通の男の奴隷の三分の一ほどの値段で売られていたので、そう考えれば得な買い物にもなるように思えた。
「よし、買ってやろう」と、侍従長は言った。奴隷商人はそれはもう、大喜びだった。
商人たちが侍従長の出した銀貨をはかっている間、侍従長は「言葉がわかるかね?」と、黒いマントの下の彼に問いかけた。奴隷は外国から売られてくるのも普通だから、言葉が通じないこともあるのだ。しかし、意外なことに、彼は「はい。大丈夫です」と、生まれながらのアンモン人の発音でそう言ってきた。
「おや、ずいぶん流暢だね。君はアンモン人かね」
「……そうです」
「名前は何という?」
「エディドヤと申します」彼はよどみなく言った。
「年齢は?」
「十五です」
「父親の職業は何かね?」
「羊飼いです」
侍従長が彼に関してそういくつかの質問をしている間、奴隷商人たちは値段を確認できたと見えて、どんとその少年奴隷の背中を押した。
「ああ、待て」侍従長はそう言った。「本当に、彼が言葉通りの姿をしているのか、確かめてみたいのだがね」
「いいですよ」
黒人奴隷はそう言って、彼にマントを脱ぐように言った。彼はその言葉を受けて、歪んだ留め金を外す。パサリとマントが落ちて、まさに奴隷商人の言葉通りの姿の少年が侍従長の目の前に現れた。彼は、商人の天幕の日陰のものでもまだまぶしいらしく、切れ長の目を細めていた。しかし、奥にある瞳は確かに真っ赤で、隣に立つ奴隷商人の黒とは対極的なほどに、抜けるようにその肌は白かった。しかし、また言葉通り、彼はその色を無視すれば、めったにないほど整った顔立ちをしていた。それすらも真っ白な長いまつげに縁どられた目はしっかりと左右対称で、彫は深く、鼻はまっすぐ細く立ち上がっている。唇は非常に薄かった。手の指や腕、足は非常に細長かった。女のように長く伸びた真っ白な髪が、その体にまとわりついていた。奴隷商人たちは先ほど色を無視すればと言ったが、彼を見るうちに、侍従長には、その不気味な色合いがむしろこの冷たい美貌にどことなく似合っているようにすら思えた。
不気味さと美しさの折衷したその少年を前に言葉を失う侍従長に、その少年は一つお辞儀をした。そのようなわけで、彼はアンモンの宮殿に奴隷としてやってきたわけである。


言うまでもなく、少年とは、ソロモンの事だった。彼はアドニヤに王宮を追われて以来、王宮に帰ろうとは思わなかった。むろん、具体的なこれからの計画があるわけではない。計画のとっかかりがないのだから。
だが、彼は誓った。彼自身の運命を切り開いて見せると。そのためならば、どのようなことにも耐えてみせると誓った。
彼は捨てられ目覚めてから一日と立たないうちに、自らを奴隷商人に売った。イスラエルを離れるべきだと思ったのだ。だが自分の虚弱な体で着の身着のままでは、ただ旅をしたのでは他の国につく前に野垂れ死にすることを彼はきちんと心得ていた。一番の方法は、奴隷となることだと彼は理解した。
下品な黒人の奴隷商人は、あっさりと偽名を使ったソロモンを買ったものの、彼の買い手はなかなかつかなかった。だが彼はそこまで悲観はしなかった。彼は奴隷商人の仕事を後ろから観察しながら、各地を転々とし、時期を待った。その間、彼はいろいろな国の言葉の発音を覚えた。言葉自体は知っていたものの、発音は現地に行かなくてはなかなか正確なものは覚えられない。彼は奴隷商人と各地を渡り歩く傍らそれを吸収した。
奴隷商人はもちろん、他の奴隷が売れる中延々と売れ残る彼に冷たくあたったが、彼は耐えた。彼らにとって自分は商品なのだから、いくらなんでもそこまできつく殴りつけることはないとは了承していた。彼は、時期を待った。その間、奴隷商人の命じることを彼は全く拒まなかった。奴隷として何処かに落ち着くことを目的とする以上、彼らの商品であり続けることは最優先事項である。彼はそれを不意にするほど馬鹿ではなかった。

ある日目の前にやってきたアンモンの宮廷の侍従長だという老人を見て、彼の中に何かしらひらめくものがあった。これだ。時期は来たのだ。と彼はそう感じた。
案の定、彼は、アンモン人の王宮に買われてきた。



話は、見るも無残な状態に成り果てたアンモンの宮殿の厨房に戻る。
侍従長はため息をついて、「エディドヤ」と、彼に話しかけた。
「何があったというんだ、そんなに暴れて」
「こいつがね、意地を張るんですよ!」彼が答える代わりに、料理人の一人が言った。
「こいつがいつも、この汚えマントをかぶっているもんで、ちっとはそいつを脱いで見せろって俺たちが言ったんですよ。でもこいつ、生意気なもんで、全くそれをしようともしないんで。だから俺たち、引きはがしてやったんでさ。そしたらですよ、こいつ、人が変わったようにマントを返せと怒って暴れるもんで。俺たちが思い知らせてやろうとしたって、まったく大人しくなりやがらないんでさ。マントを手放そうとはしないし」
「そのマントが恋人かい、黒と白で見事な取り合わせだ!」別の料理人がソロモンに声をかける。ソロモンはそれを無視したまま、ただ、マントをじっと握りしめていた。
侍従長は彼を見て、もう一度ため息をつく。大けがを負っていながらじっと無口に取り澄ましている彼が、本当にそこまで激怒したのかと疑わしく思えた。だが、おそらくそれが濡れ衣ではないだろうことは、痣を作った数人の顔が物語っていた。
「これは俺のものだ。俺以外の人間にどうこう言われる筋合いはない」
彼はそう周りに言い放ち、沈黙の中マントをかぶった。彼は次にそこらにおいてあった包丁を握りしめた。
一瞬侍従長は何をするのかと身構えた。周囲の人間も同様だ。だが、彼はただ近くにあった椅子に腰かけて、壺の中の野菜の皮を丁寧に剥き始めた。おそらく、侍従長がやって来て騒動が終わったのをいいことに、ちょっかいをかけられる前にしていた仕事を再開したということなのだろう。
彼のその態度に腹を立てたらしい先輩の料理人は再度「馬鹿にしやがって!」と怒声を上げたが、侍従長は見かねて「お前たち、とっとと仕事に戻れ!」と言った。だが、もう一度騒動が起こっては面倒なので、彼はそのまましばらく見張りに立つことにした。
他がしぶしぶ仕事を続ける中、エディドヤ、ことソロモンただ一人がじっと黙って仕事を続けていた。

侍従長は彼をじっと見つめる。こうしてみると、何か不思議な気持ちだ。彼は周りから、あきらかに浮いている。むろん、黒いマントを頭からかぶっているだけの理由ではない。彼は何かしら、特別なのだ。そう感じさせた。
侍従長は仕事ぶりを見守る意味もあって、ぐるりと厨房の中を一周した。ソロモンの剥いている野菜の皮は非常に薄かった。侍従長は彼に「経験があるのかね?」と聞き、彼は「はい」と言い返した。まったく、周囲の空気を気にはしていないようだった。
無口なものでてっきりおとなしくて従順な性格かと思ったが、とんでもないものを買い込んでしまったかもしれない、と侍従長は内心で思い、物言わず例の奴隷商人たちをなじった。


休憩の時間になると、ようやく侍従長も出て行った。先輩の料理人たちのうちの一人、特にがたいのいい男は、今度こそ邪魔された腹いせをしようと、「おい、さっきはよくもやってくれたな」と、ソロモンが座っていた方を見た。どさくさに紛れてソロモンに蹴りを食らったおかげで、顔に大きな赤い跡ができている男だった。怒りに任せて彼は大きく体を回す。そして、驚いた。彼はいつのまにやらさっさとその場から去っていた。
「イラつくガキだ!」
彼は行き場のない苛立ちを言葉に変えて、そう怒鳴った。


ソロモンはマントを着たまま、宮廷の中を早足で歩いていた。とりあえず今の自分が動ける範囲で目に入れられるものは全部目に入れることが必要だと彼は判断していた。
まず、無事イスラエルを離れ何処かに落ち着くという難関は乗り越えることができた。しかし、本番はこれからだ。
自分は力を身につけなくてはならない。自分の力に相応しい立場が、自分には必要だ。だが、そんなものが来るのをただのうのうと待っているような時間はない。自らの力で掴みに行かねばならない。しかし、掴むにしても、それすら何らかのとっかかりが必要だ。唯々諾々と奴隷の仕事を続けていてもそのようなものは来ない。チャンスは自分から探さねば。

彼は王宮の中に誂えられた神殿に到着した。礼拝の時間ではないらしく、神官たちが暇そうにうろうろしている。アンモン人の神はモロク神と言って、人身牛頭の偶像神だ。
彼は宮殿の外から、じっとそれを見つめる。なるほど、異国の神殿と言うのはユダヤのものとは雰囲気も何もかも違うと思った。ユダヤの神殿にはない金ぴかのシンバルや笛、太鼓などの楽器が所狭しと、人身牛頭のブロンズ像を中心とした祈りの場の周囲に置かれている。
彼は、神官たちに怪しまれることを考えてその場を離れ、次に王の大広間に向かった。

アンモン人の国でも王は裁きをするようで、それを見ようと野次馬が集まっている。ソロモンも、その中に紛れ込んだ。
アンモン王は人のよさそうな初老の男で、ダビデより少し年上かと言う程度だった。今はちょうど二人の男の訴えを聞いていた。なんでもものをとった、取らないの話であった。
アンモンの法に従って彼らの訴えを裁くアンモン王を、ソロモンはじっと観察し続けた。少しのチャンスでも、逃してはなるものかという思いだった。


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feat: Solomon 第二十六話


「ああ、お父上様、お許しください。私は……私は、罪を犯しました。お父上様の息子として何よりも重い罪を、私は犯しました!」
翌日の事だった。大広間で、アドニヤは悲痛な声を上げて、父に訴えていた。その目には涙が浮かび、ポロリポロリと床に落ちた。周りに控える従者や祭司たちの表情はそれぞれである。大方のものは、この誠実な王子がどのようなことをやらかしたのだという顔。そして数少ないものは、王となる少年がいなくなってしまったことに対する不安。
裁判を頼む群衆が来る前の時間に、玉座に座ったダビデのもとにアドニヤはやって来て、涙ながらに自らの罪とやらを告白した。それ即ち、自分のせいでソロモンがいなくなってしまったという内容のものだった。後ろにはヨアブも控えていた。ヨアブも、無論のことアドニヤに言われたうえで、悲しそうな表情を何とか演じていた。

いくらなんでもソロモンがいなくなったことが、いつまでも気づかれないわけはない。彼が本当に忌み嫌われていた時代ならあるいはそのまま、これ幸いにと彼の存在自体をなかったことにする可能性もなくはなかった。しかし彼が秘密裏に次の王と決められた今となっては、さすがにダビデも問題として扱うだろう。アドニヤはその前に手を打った。ソロモンがいなくなったと他の誰かに分かる前に、自ら出頭したのだ。

玉座のダビデはそれを聞き、相当に動揺しているようだった。
「詳しいことを話せ」震える声で彼は言った。アドニヤは内心では待ってましたとばかりに、「昨日起こったこと」とやらを、いかにも自責の念にとらわれ、今にも死んでしまいそうだという体で語り始めた。

「わが偉大なるお父上様、イスラエルの王ダビデ、この愚かなしもべをお許しください。私は昨晩、ソロモンを、あの哀れな弟を町に連れ出したのです。それはつまり、そのう、私は彼も年頃でありますし、遊ぶ楽しみというものを教えてやりたかったのです。何と申しますか……つまり、私も、時々こっそり宮殿を抜け出しては、そのような遊びをしておりましたもので。は、なんとも恥ずべきこと、不埒で乱れたことではありますが、とにかくも私は連れ出してしまいました。護衛に、ヨアブ将軍にも無理を言い、ついて行って貰ったのです。我々三人は、町の中でも、夜でも明るいところに入りました。ソロモンは少し落ち着かないようでしたが、私は無理を言って楽しむよう言いました。そのおかげで彼も、いろいろ見るものが珍しかったのもあるのでしょう、だんだんとあれこれ目を奪われるようで、少し私たちから離れるようにもなりました。私たちはそれを良いことだと思って、放っておいたのです。しかしです。人もそれなりに多いところに来ますと、私どもが少し目を離してしまった時、ソロモンがいなくなってしまったのです。我々は血眼になって探しました。そしてようやく、とある娼婦がそれらしき者を見かけたということを我々に告げました。黒い肌をした奴隷商人の男どもが、それらしきマントにくるまった少年を無理やり連れて行ったとのことでした。私たちは追いましたが、ついぞ、それを見つけることもできませんでした……私の責任です。全ては私の責任で、父よ、貴方は息子の一人を失ってしまわれました。お許しください、私のこの罪を!」

いかがわしく治安の悪いところなら特に、迷子になっている少年少女を奴隷商人がさらって勝手に奴隷にしてしまうことは珍しくもない。珍しくもないからこそ、彼らの話は真に迫っていた。おまけに、奴隷に売られたからには、生きて故郷になど帰って来れないというのは常識であった。

無論、でっち上げであることは言うまでもない。
彼らはあの後、ソロモンが息絶えたと判断し、彼を門の外に運び出した。門番ははっきりと見ていたが、いかんせん王子と将軍相手である。下手に引止めなどせず、彼らの好きに外に出させておいた。彼らは動かないソロモンを無理やり座っているような姿勢で馬の上に乗せ、アドニヤがそれを落ちないように支えていたのだ。
そして彼らは、町のはずれのゴミ捨て場の山の中に彼をうずめた。正確に言うのなら、アドニヤはそれをヨアブにやらせた。ヨアブが、もはやそれこそ死体と見分けのつかない体になってしまったソロモンを悪臭のするごみために詰め込んでいる間、アドニヤは彼の足もとで、一羽のヤツガシラが汚水の染み込んだパンくずを食べているのを見た。夜にこんな鳥がいるのも珍しい、と思いながら、彼はふと、ソロモンがヤツガシラが好きだったことを思い出し、哀れな弟に追い打ちをかけてやれと思い立った。彼はその場にいただけの、何の関係もないヤツガシラをその短剣で一突きにした。ヤツガシラは当然息絶えた。彼はそれを、短剣ごと弟の眠るごみ山の中において、ヨアブとともにその場を立ち去った。
彼らがソロモンを襲った時、その場に敷布を敷いていたせいで、地面に飛び散った血は一滴もなかった。彼らは一緒に持ち出した血の染み込んだ敷布を燃やしてしまい、それからしばらく夜の街で時間をつぶして、王宮に帰ったのだ。


だが、そんなことをその場に居合わせた人物と、居合わせないまでもその計画を聞かされていたアビアタル以外の人間は知るはずもない。ダビデはその言葉を聞いて、頭を抱えた。祭司たちの間に並んでいたナタンは、もっとの事だ。
「(なんということだ!)」彼は心の中で呟いた。
「(我々人間がどう思っていようとも、神はソロモンを選ばれたのだ!ソロモンこそが神の国を治めるにふさわしい人間であったことは間違いがないのだ!それだというのに、いなくなってしまったというのか?アドニヤが王になるというのか?)」
彼は混乱していた。取り乱していると言ってもいい状態であった。周囲には、彼がソロモンの教育係だったからそれほど悲しんでいるのだと見えただろうが、彼にとってはそれ以上の話だった。
「(私は見たのだ!何度も、何度も!ソロモンこそが王となると!なんということだ、運命が狂ってしまったのか!?一体どういったことだというのだ、神の計画が達成されないなどと!?)」
息を荒くするナタンを、アビアタルがニヤニヤ笑って見つめていた。アビアタルは彼のすぐ隣に立っていたのだ。
「ナタンどの」アビアタルは意地悪な声で声をかける。「どうも、貴方の預言はただの悪夢だったと見えますな」
「なんと!」
「だってそうでございましょう、神に選ばれたものがなぜ奴隷商人に誘拐されます?奴隷に売られては、もう生きて帰ってなど来れますまい。あんな虚弱な子供が」
彼は、うろたえるダビデを見て、責めるような視線でナタンを見抜き、言った。
「あなたとあの阿婆擦れのバテシバの計画もこれにてご破算ですな、いや、実にめでたいことだ。イスラエルは神の国。欲深の老いぼれと雌犬、悪魔の子の忌まわしき姦計によって神聖なる玉座が汚されることなどあり得てはなりませぬ」
「計画だと?何のことだ」
「あつかましい!神が、あのような忌み子を玉座に据えるはずがないだろう!お前たちは自分が後見に立つ人物、自分の息子を王につけ自分たちの地位も高めたいがために、何よりも崇拝すべき神の言葉すら捏造したペテン師どもにすぎん!」
アビアタルの勢いにのまれ、ナタンは何も言い返せなかった。ただ、自分のあれが預言だということも確信している。自分の見たあの血の海の夢がただの悪夢であるはずがなかった。アビアタルは神の言葉など聞いたことがないのだ。見分けのつかないものではない。断じてない。神からの言葉は神からの言葉なのだ。夢とも、幻聴とも違う。必ず、ソロモンはあの通り、王となるはずだったのだ。
アビアタルは自分たちを、神の言葉を捏造したものと本気で怒っているかのようだった。ナタンも知っている。この男は神への信仰において清廉極まりないのだ。彼もある種自分と同じで、宗教を商売ととらえるさもしい類の聖職者ではなく、ただひたすら神を信仰しているのだ。ただ、神の言葉を聞けないだけの事だ。
「(私だって!)」とナタンは心の中で叫んだ。「(私だって、私と言う人間個人があの気味悪い子供を喜んで育てたものか!あのアドニヤを差し置いて、わざわざあれを玉座に上げようなどと思うものか!あれは忌み子ではないか!売女の子ではないか!だが、しかし、ダビデも羊飼いの子であったのだ。末子の身であったのだ。それを神は見られた。神の眼は、人間の合理的基準と一致するものではない!神の声のきけぬ人間には、それがわからぬのだ!おお神よ、私が何をしましたか。このような責め苦を私に何故負わせるのです!)」

ダビデは王座で頭を抱えたまま、アドニヤに対する言葉がつむげないままであった。ダビデは、まだアドニヤにソロモンが次の王となるべき運命なのだと知らせていない。そこも、アドニヤの賢いところなのだ。
アドニヤがもし知っていれば、いくらアドニヤが誠実で優しい王子であるとはいえ、少なからぬ人がもしやアドニヤが、王の座を狙って誅殺したのではないかと疑うことだろう。しかし、アドニヤが件の事を知っているという事実はアビアタルとヨアブのみが知っている。ダビデを含めた他の人物には、アドニヤはソロモンが王座を奪うなどとはつゆ知らず、復讐どころか、唯一ソロモンに優しく接していた奇特な人物なのだ。そんな彼が理由もなしに、どうしてソロモンを殺すなどしよう。彼は良かれと思ってソロモンを連れ出し、それが裏目に出てしまったの過ぎないのだ。誰の目にも、そう映っていた。彼に、悪意があったはずなどないと。これは、事故だったのだと。
それに、ソロモンの件を知っていた人物の中の少なからぬ人数は、正直な話、この事件にほっとしているところもあった。これで元通り、誰にも王として求められる条件のそろったアドニヤが、王座に就くことになったのだと。彼らも、アビアタルと同じく、ナタンを疑っていた。彼は私利私欲のため、神に仕える身でありながら神を利用してまで、不当なことを王に強いたのだと。
ダビデも、王座の上からその雰囲気を体全体で感じ取っていた。だが、彼はナタンを疑っていはいなかった。

ここ数日で、ダビデにとってソロモンが王となることはそこまで現実味のないことではなくなっていた。それを一番に強めたのは、先日の蜂蜜の壺の裁きだった。彼は正直な話、息子に圧倒された。黒いマントに全身を纏った息子が、彼には一瞬、輝かしい存在に見えたのだ。

「(どういうことだ、ナタンの預言は間違っていたのか?)」
ダビデは顔を青くした。ずいぶんと沈黙が長引いている。アドニヤはつらそうだ。
どうであっても、自分は何かを言わなくてはいけない。王として、父として。彼は震える手でもって、アドニヤを指さした。
「アドニヤよ。私は、お前を、許そう」
王の言葉を待ちわびていた大広間に、彼の不安に満ちた声が響いた。やっと絞り出したと言った、つらそうな声を。
「お前に非はない。お前は、善意の上だったのだ。そして、ソロモンにも非はなかった。ただ、不幸があったのだ。あの子は、不幸な子だったのだ」
彼は手招きして、アドニヤを呼んだ。アドニヤはそれを拒むようなしぐさをする。もう一度呼ぶと、おずおずと近寄ってきて、ダビデの前にアドニヤは跪いた。
ダビデは身を乗り出し、息子の背中を撫でた。
「あの子は、不幸な子だったのだ。ただ、それだけだ」
ダビデはもう一度繰り返した。アドニヤはえずくような泣き声に混ざって「陛下のお慈悲を、ありがたく思います」と、ダビデにしか聞こえないような悲痛な声で言った。
無論、彼が心の中でほくそ笑んでいたことは言うまでもない。彼はダビデの言葉を、実に名言だと思った。そうとも、ソロモンはただ、不幸なだけだったのだ。

ダビデは、考えた。この状況において、自分が言うべき台詞など一つしかないのだ。
「泣くのではない。お前は、私の跡継ぎだ。私はお前に、いかなる罰も与えない」
もう、アドニヤを王位につける以外はないのだ。
アドニヤがはっきりと、次の王位を継ぐ存在と公言されるのは初めての事であった。


ダビデは大広間から出た時、バテシバが自分を待ち構えていたのを見た。バテシバはダビデを見るなり、掴み掛ってきた。彼女が何を言っているのかも、最初はよく分からなかった。彼女は完全に取り乱していて、自分の喉を破らんばかりの金切り声でダビデに叫びかかってきたのだ。
ようやく彼女の言葉が分かるころになってきたころ、彼女はこう言っていた。
「陛下、お約束したではありませんか!私の息子を、私の息子を王位につけると!私の息子です!アドニヤではなく!なぜアドニヤを後継者と!」
彼女はソロモンの名を呼ばなかった。ただ、「私の息子」と繰り返していた。
ダビデはそんな彼女を押さえつけ、「では、どうすればいいのだね、バテシバ」と言った。「アドニヤを王位につけるしかなかろう。バテシバよ、ソロモンはもういないのだ。私たちの間にできた最初の子のように、私たちの前からあの子は消えてしまったのだ。いないものをなぜ王位につけられようか」
口調こそなだめるようなものであったものの、ダビデのバテシバを見る目は冷ややかだった。
「(この女は、自分の事しか考えられんのだ。自分のためなら夫も殺す。息子すら、自分のためのものでしかないのだ。嘆くのは彼らの不幸ではなく、自分の不幸だけだ。実際、下らぬ女を部下殺しの罪をかぶってまでひっかけたものだ。ああ、なんと、この私も愚かなことか。ある意味では、私と彼女は、まるで運命のように似合いの取り合わせだったかもしれん)」
バテシバは彼のその視線には気が付いていなかった。ただ、憧れつづけた地位が手に入りかけたのにまたしても手のひらから逃げてしまったという事実に対する行き場のない憤りを、ダビデにぶつけ続けていた。


ナタンは、それを離れたところから見ていた。
「(何をおいても、哀れなウリヤよ)」彼は心の底で、今は亡きバテシバのかつての夫に改めて哀悼の意を示した。結局、彼を殺してまで成った二人の結婚も、このような見苦しい結果にしかならなかった。ウリヤは全くの死に損であったとしか言いようがない。彼にこそ、何の非もなかった。
それはそうとして、さすがに彼も、いくらかはソロモンに同情した。ナタン自身も含め、この宮殿ではだれも、ソロモンと言う一人の少年の悲劇を本気で嘆いてなどいないのだ。アドニヤを除いて。アドニヤすらもそうでないことは、ナタンが知るはずはない。
それにしても、なぜ神の預言が外れたのだろうか?ナタンは考えた。自分は確かに見たのだ。王座に座るソロモンを。誰もいない空間で、天使か悪魔にのみ祝福され、王冠をいただく白と赤の王の姿を……。
それに思い当って、ナタンははっと思い出すことがあった。
そうだ、ひょっとすると、このまま順調にソロモンが王についても、それはそれで預言から外れていたのではなかったか?
預言の中で、彼はいつも、一人だった。彼は、周りに祝福されての即位などはしていなかった。血みどろの空間の中、ただ一人、生き残って玉座に座っていた。
無論、そのことを忘れていたわけではなかった。むしろ、ナタンとダビデの二人はそれを意図的に外したくて、ソロモンが万が一凶行に出る前に、穏便に運命だけには添おうと、彼に早々と油を注いだのだ。
ナタンのしわくちゃの背中に冷や汗が噴出した。まさか、と。神の預言は、一片たりともはずれないのか?ここにおいてソロモンが穏便に玉座につくことがなくなった時点で、預言はまだ、続いているのだろうか?

その時だった。
「ナタン様?」と声が聞こえた。ナタンは驚いて体を震わせた。
「おどろかせして、申し訳ありません」と顔を出したのは、中年の祭司。ザドクだった。後ろには軍人の装いをした背の高い若者を連れていた。その若者の名前も、ナタンは知っている。イスラエル軍に仕える軍人の一人、ベナヤだ。若いながらもなかなかの実力者で将来が楽しみと言われている人物だった。彼はザドクに大分世話をされた恩があって、彼と親子のように仲良くしているのは有名なことだった。
「な、なんですかな、ザドクどの」
「実は……ナタンどの、ここだけの話にしておきたいのです。このベナヤが、私にだけと話してくれた話があります。ですが、この話はあと一人、貴方も聞かなくてはならない内容なのです。……ソロモン王子にまつわることですから」
「ソロモンの!?」ナタンは叫び声をあげた。ザドクに促され、ベナヤが口を開く。
「……預言者様。俺は、昨晩……信じられないものを見てしまったのです」



その晩、ヨアブは夜の街に出た。あたかも、今日アドニヤが言ったうその証言のごとくである。
いろいろあったが、これでアドニヤの王位は盤石なものとなった、とほっとして、景気づけの意味もあったのだ。アブサロムの反乱以来、ヨアブはアドニヤこそ王子と信じて生きてきた。邪魔者のソロモンが消えただけではなく、ダビデ直々の口からアドニヤを王にするとはっきりとした言葉も聞けたのだ。これで本当に、安心と言うものだ。せめて豪勢に祝わずにいられるものかと。
ヨアブは思いきって少々奮発して、高い娼婦を買った。彼女はなかなか良かった。

事のあと、ヨアブがぼんやり彼女の部屋から外を見ていると、黒人の男が二人目に留まった。彼はふと、自分達がしたうその証言に、黒人の奴隷商人、と言う言葉を使ったことを思い出し、奇遇だなと思った。
「どうしました、旦那さま。何か気になるものでも?」
「いや、あの黒人を、ちょっとな」
「彼ら?奴隷商人ですわ、ここらじゃちょっと有名な」
その言葉を聞いて、ヨアブは一瞬ぎょっとした。趣味の悪い偶然の一致だと思った。彼女はなおも話し続けた。
「まあ、よくよく人をさらうんで悪名のほうが有名なんですけれど……もう、本当に。聞いてくださいな、本当酷いんだから。ついさっきねも、男の子を一人連れて行きましたのよ。年の頃は十四歳くらいかしら?ねえ、そんな年頃の子をさらって売るなんて、酷いじゃありませんの」
その言葉を聞いて、ヨアブは追い打ちをかけられたような気分になった。男の子?十四歳?いや、まさか。自分とアドニヤは全く適当に話しをでっち上げたのだ。まさか、神が悪戯しているのでもあるまいし、と彼は思った。彼はわざと、「どんな子だったんだい?」と言った。
「ええ?なんでまた。暗かったからよくは見えなかったのですが……明かりに照らされてみた限りではね、そりゃもう、いかにも奴隷商人が好みそうな子でしたわ。髪が長くて、それを夜風にたなびかせていて。黒髪じゃなかったんですのよ。蝋燭の明かりに照らされているだけだったからはっきりは見えなかったけど、きっと金髪ね。コーカサス地方の人みたいに。色もすごく白かったもの。それでね、横顔がとても綺麗だったわ。……旦那さま、どうなさったのです?そんな青い顔をして」
ヨアブは震えていた。娼婦の言う言葉一つ一つ、ソロモンに結び付けられるような気もした。
確かに暗い中ランプのオレンジ色の光に照らされ、しかも遠目からならば、ソロモンを見たこともない人間には、彼は薄い金髪と色白の肌、程度にしか思えないだろう。ヨアブは恐る恐る、彼女に問いかけた。
「ひょ、ひょっとして、その子は黒いマントを着るか、持ってはいなかったか?」
「あら!?旦那様のお知り合いでしたの!?」娼婦は驚いた声を上げた。
「ええ、その子、黒い、長いマントを大事そうに抱きかかえていましたのよ」
ヨアブはその言葉を聞いて、がたがた震えだした。娼婦は心配そうに寄ってきて、自分に何かしらの励ましの言葉をかけてくる。大方、ヨアブが彼の家族か何かで、彼を探していたのだと思ったことだろう。
「(ソロモン……まさか……!?いや、そんなはずはない!アドニヤ様は確かに、あいつにとどめを刺したのだ!あいつは、息をしていなかった!確かに!一体なんなのだ、一体、何が起こっているのだ!?)」



一年ばかり過ぎ、それからさらに日が過ぎた。
不意に、大きな音が聞こえてくる。鍋やら何やらがひっくり返った音だ。続いて、男たちの罵声が飛ぶ。
事が起こっているのは、とある王宮の中央だった。しかし、その王宮と言うのはイスラエルではない。イスラエルの近隣の王国にしてイスラエルの属国である、アンモンの国だった。


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feat: Solomon 第二十五話

「誰だ?」ソロモンは、扉を叩いた人物に答える。
「アビシャグですわ、ソロモン様。アドニヤ様がお呼びしてほしいって」
「お兄様が?」その言葉を聞いて、ソロモンはマントを正し、深く被りなおした。「分かりました。すぐに行きます。待っていて下さい」
彼はベッドに横たわったままのベリアルから離れた。数時間前から、ずっと一緒に寝ていたのだ。ベリアルの暖かさから離れて、彼の体がひんやりとした空気にさらされる。
ベリアルはそんな彼をふと見上げて、寝台のすぐ側に立てた蝋燭の明かりにその顔を照らして言った。
「行っちゃうのかい、ソロモン?」
ソロモンは彼の顔を見て、「ああ、お兄様が呼んでいるらしいからな」と答えた。
「早く帰って来てよ。ボク、待ってるから」
ソロモンはそれは勿論だ、と返答した。蝋燭を静かに吹き消して、ドアを開けた。ドアの前には、明かりを持ったアビシャグが立っている。
「アビシャグ、兄はどちらに?」
彼女の眼には、ソロモンの部屋は映っているはずだ。しかし当然、ベッドに横たわるベリアルの姿など彼女には見えないだろう。彼女はいつも通りの笑顔で、「こちらですわ」と言った。
「兄が何の用ですか?」
「私も聞かされていませんの。日が沈んだら呼んできてくれ、と言われまして」
そのような話をしながら、ソロモンは鍵を閉めた。ベリアルはずっと、横になったまま彼のほうを見ていた。


彼はアビシャグについていきながら、宮廷の中庭に出た。東の空から、見事な満月が上ろうとしている。
綺麗だ、とソロモンは素直に思った。日の光はつらいが、月の光はさほど彼にとって脅威ではない。アビシャグも自分を案内しながら、東の空から生まれた見事な満月の美しさに見とれているのが何となくわかった。
彼らは広い庭園の端の方に来た。西側にあって、ちょうど登り始めの満月がよく見える。ふと目を凝らすと、たくさんの、赤や黄色の花に包まれた植え込みの中、見事に育った大きな樫の木の下にアドニヤが座っていた。木の下に誂えられた大理石の椅子に腰かけ、彼自身も首を上げて満月を眺めていた。
「ソロモン。よく来たね」彼はぽつりと言った。「アビシャグ、ありがとう」
「いいえ」アビシャグは言う。ソロモンも「お兄様、お呼びいただいてありがとうございます」と口にした。
「座れよ」アドニヤは自分の隣を指した。冷たい大理石の椅子の上に、厚い敷布が敷いてある。金色の房飾りのついた緑の敷布だ。敷布はかなり広く、アドニヤを冷やさないため椅子を覆い隠しているばかりか、その裾も広がって、椅子の周囲の地面を覆っていた。彼は言われるまま兄の隣に座ると、彼を見上げた。数日前は、ろくに話もできないままザドクに連行されてしまった手前、こうしてじっくりと兄と向き合うのは久しぶりと感じられる。アドニヤにはこの庭園が本当によく似合う。光に包まれた庭園が。
「ソロモン。ぼくの顔に何かついているかい?」
「とても形の良いお鼻と唇と、優しそうな眼が」彼は言った。アドニヤは笑って、彼に片手を差し伸べた。
その手はすっとマントの中に入り、ソロモンの手がどこにあるかをまさぐり始める。ソロモンは少し驚いたが、抵抗はしなかった。
彼の手は、なおも何かを探っている様だった。ふと、彼の手が何か固いものに触れた。それは、ダビデからもらった指輪だった。
「ソロモン。何かをつけているね」彼は言った。「なんだい?」
「指輪……です」
彼は答えた。
「それはそれは。君も指輪をはめるのか。……見てみたいものだね、君のしている指輪を。ソロモン、ぼくにそれを見せてくれないか?」
マントの下で手と手を重ね合わせながら、アドニヤはそう言う。ソロモンは言葉に詰まった。
もしも兄が、この王位を継いだ証の指輪を見たら、彼はどう思うだろうか?彼は王に相応しい存在だというのに。言うまでもなく、自分はアドニヤを蹴落として王になる気など毛頭ない。ただ、アドニヤがショックを受けるかもしれないとは思う。
ただ、彼は拒めなかった。アドニヤの声音には逆らえない。彼の声は優しいのだ。ずっと聞いていたい。彼と親しくなる以前に聞かされた、思い出したくもない言葉の数々によってできた心の傷が、すっかりおおわれてしまうまで、彼の声を聴いていたい。アドニヤはソロモンにとって、そのような存在なのだ。
彼は片手で指輪を外した。そして、兄の手にそれを握らせた。
アドニヤの手が離れる。彼の手はマントから出て、再び月明かりのもとに返り咲いた。彼は二つの指で、径の小さなその指輪をもう少し上った満月の光に照らす。ソロモンの眼にも似たその赤色が、光を受けて鮮やかに煌めいた。
「素晴らしい。誰にもらったんだい」
「お父上様からです」
ソロモンは答えた。
「なるほど。そうだろうね。お父上の紋章が描かれてる」
その言葉を聞いて、ソロモンは心がずきりと痛んだ。アドニヤにばれたのだ。自分が彼を差し置いて王に選ばれたことがとうとう露見してしまったのだ。
アドニヤの表情は彼には見えなかった。彼は必死で言おうとした。これは両親とナタンがなぜだか言い出したことなのだ。自分の意志は貴方が望む道をただ手助けすることだけだ、と。
だが彼が口を開きかけた時、アドニヤは「ソロモン。何も言わなくていいよ」とぴしゃりと言った。
「きれいな指輪ですこと」と口を開いたのは、まだその場に立っていたアビシャグだった。アドニヤは彼女に「ええ。とても美しい。それで、アビシャグ。この意味が解るかい」と言った。
「いいえ」
「これは、王位を得るものにのみ与えられるものだ」
アドニヤの言葉が、ソロモンの心に突き刺さる。何も言うなとはどういうことだ。アドニヤは怒っているのだろうか、この自分を!自分は自分を可愛がってくれた兄を困らせているのか、と彼は罪悪感に心が縮む思いだった。
ソロモンが再び何か言おうとした時、アドニヤは彼の肩を抱いた。彼は、ソロモンを自分の体にうずめるように抱き寄せる。ソロモンは何か、圧倒されるような思いで、何も言えなかった。心臓が早鐘を打つ。アドニヤに体も心も抑え込まれているようで、彼の顔を見上げられない。彼を見ることができない。
「ソロモン。君ってば、本当にすごいな」彼は言った。
「お父上は貧しい羊飼いの身でありながら、偉大な王に上り詰めたのだっけ。なあ、ほかの奴らは君をダビデの家に生まれた禍と言うがね、ぼくはこう思うよ。君ほど、お父上に似ている息子もいないんだ。ひょっとすると、君と父は同じなのだろうね。君も、選ばれる人間の身なのだろう。君はあれほど皆に嫌われていながら、このようなものをお父上からもらいうける身にまでなった。お父上が預言者に油を注がれたように」
ソロモンはなぜか身震いした。なぜだ、アドニヤに抱かれているというのに。
「ソロモン。こう言おうじゃないか」
次の一瞬だった。彼は、ぐっと肩をつかまれて、アドニヤの顔すれすれに向かわされた。
ソロモンは目を疑った。幻覚を見ているのでは無いかと思った。アドニヤはこのような醜い顔をする男だっただろうか?このような恐ろしい顔をする男だっただろうか?違う、アドニヤはだれにもこんな顔はしなかった。アドニヤは、余にも恐ろしい、憎しみを一身に集めた表情で、ソロモンにこう言い放った。
「お前のような弟を持ったことが、おれの何よりの不幸だったのさ」

その言葉が終わると同時に、ガサリと植込みのほうが揺れた。ソロモンが振り返る暇もなく飛び出してきたのは、剣を携えたヨアブだった。
ソロモンは、自分の背中に激痛が走るのが分かった。ヨアブが背中を一文字に切り裂いたのだ。


彼はその場に崩れ落ちる。アドニヤが手を放し、彼は大理石の椅子から転げ落ちて、敷布に覆われた地面に倒れた。「おい、手加減したろうな?」と、アドニヤは言った。
「は。これで死にはしませんよ」
ヨアブの声。
「もっとも、殺してやりたいのですがね。私は、今すぐに」
「ばか、殺すのはおれだ」
ソロモンは背中の激痛に耐えながらその声を聴いていた。
「お兄様……」
彼は言う。
「ソロモン。おれはお前に言うことがある」アドニヤは、ソロモンの前に立ってそう言った。
「お前はきっとこういうのだろうな。『私はお兄様から王位を奪う気など毛頭ありませんでした』と。そうさ、お前がそう言わないはずがない。お前はおれに忠実だもの。気味が悪いほどに。だが、それが何の関係があるというんだ?」
アドニヤはソロモンの背中に手を置いた。傷のある部分だ。切り裂かれた場所を刺激されて、ソロモンは激痛にあえぐ。
「おれにとって重大なのはな、ソロモン。おれではないお前が王位につく可能性を持ってしまったということなんだよ。お前の意志なんぞ関係ない。お前は邪魔だ」
ソロモンは、高熱を発する背中を感じる。だが、それ以上に目頭が熱くなった。彼はぼろぼろ泣きながら、「お兄様、お兄様」と言った。
「なんだ、泣いているのか、一丁前に。それともなんだ。まさかお前、おれが本当にお前の事を、弟として大切にしていたとでも思っていたのでもないだろうな。ハッハッハ、まさかな、お前のような賢い奴が、まさかそんなこと思っていたのか?馬鹿か、お前のような奴を、誰が好きになるんだ!」
彼は赤い指輪をヒラヒラと見せびらかせた。「見ろ、王位につくのはこのおれだ!お前がこれを、おれに譲ったんだ、何の文句もないだろう!」

「アドニヤ様……これは、どういう……」ふと、アビシャグの声が聞こえた。彼女はショックでその場に立ち尽くしていた。ものも言えないようだった。ヨアブが彼女の事を、逃げないように取り押さえているのがソロモンには見えた。
「どういうこと?アビシャグ、簡単なことさ。こいつは悪い弟だったんだ。このおれから王位を奪おうとした」
「そ、そんなことが……」
「あるのさ。この指輪が何よりの証拠」
「ア、アドニヤ様!このような、こと……ソロモン様は、ソロモン様は、本当にあなたの事を慕っておりました!」
アビシャグは悲痛な声でそう言う。だが、アドニヤはそれを笑い飛ばした。
「なんだアビシャグ、君らしくないな。なあ……どうかしてしまったのかい、愛するおれを疑うなんて」
アドニヤはそう問いかける。
「ああ、そうか!君が信じられないのも無理はないな、君はソロモンを見たことがないんだもの。驚くぞ、この弟がいかにおぞましい存在であるか、神は、彼の身にそれをしかと刻み付けてくれたのだからな」
アドニヤはしゃがみこみ、ソロモンを無理やり起こす。そして、彼のマントの留め金に手をかけた。
ソロモンの放った声は聞こえなかった。彼は勢いよくそれを引きはがし、一文字の傷が入った黒いマントがばさりと夜の冷たい空気に舞った。
それに合わせて、ソロモンの姿があらわになる。満月の光が、容赦なく彼の姿をアビシャグの前に照らしだした。マントに包まれていた長い白髪が宙を舞った。薄い部屋着から覗く彼の肌は、死体のような、生気を感じさせない真っ白な色。そして、アビシャグを見る母親譲りの切れ長な目にはまっているのは、まさにアドニヤの持つ指輪のような、人間の眼にはあり得ない、どぎつい赤色だった。
マントの風に舞いあがった彼の白髪が宙を降りたころ、「どうだね、アビシャグ」と、アドニヤの冷たい声が聞こえた。次の瞬間、絹を引き裂くような叫び声が聞こえた。アビシャグのものだった。
「あ……悪魔!」
彼女の表情を見て、ソロモンは、完全に言葉を失った。


「さあ、アビシャグ、答えてくれたまえ。ぼくとこいつと、どっちが信頼できる?」
「それは」
アビシャグはひきつったような笑いを浮かべた。ソロモンにはその理由が分かりすぎるほどよくわかる。それは、見たことのない悪魔の子を見た恐ろしさゆえのものでしかないのだ。
「もちろん、貴方様ですわ!貴方様は私を愛して下さった方なのですもの!きっと、ソロモンは悪い子だったのですわ!私が騙されていたのですわ!だって主は、彼を、悪魔だと言っているのですものね!」
ソロモンは再び、力を失ってその場に崩れ落ちる。「分かればいいのさ」とアドニヤは言った。
彼はソロモンの手を踏みつける。ソロモンは反撃する余力すら残ってはいなかった。
「ソロモン。今でもおれを愛しているかい?愛しているだろうね、おれをおいて、お前に優しくしてくれたものなど、一人だっていたはずがなかったんだから。おれを失ってしまったら、お前はもう、誰からも安らぎを得られないんだから」
彼はヨアブから短剣を受け取り、その刃を月に煌めかせた。
「お前がいては、おれは王になれないのさ。だから死んでくれよ。おれのために死ねるなら、お前にとってこれ以上嬉しいことはないだろう?」
ソロモンは、最後に何か言おうとした。しかし、口がパクパクするのみだった。そんな彼を見下ろすアドニヤの顔は、笑っていなかった。彼の眼には、憎しみがこもっていた。
「この期に及んで何を言うんだ」彼は、今までのあざけるような態度からは打って変ったような声で言った、真剣な目だった。
「おれが……おれがどれだけ、王になりたかったかも知らないで。この出来そこないの犬風情が」


その言葉が最後だった。激痛が走って、視界が真っ暗になった。ソロモンは意識を失った。


死んだと思っていた。暗い中、自分は激痛を抱えていた。何も見えなかったし、何も聞こえなかった。
何かが飛んでくる。ソロモンはそれを不思議に思った。てっきり、何もない世界のように思えたのだが。
飛んで来たのは、天使だった。ベリアルとは違った姿、彼のように美しい姿だった。まっすぐな金髪をたなびかせ、頭の上には光の輪が浮いている。背の高い体を丈夫な鎧と長いマントに包み、腰に立派な剣を指した、将軍のような姿だった。片手には金色に輝く天秤を持っていた。
目が言えるようになったとは感じられない。ただ、彼の姿が全身で認知できるのだ、とソロモンはそう思った。彼は大きな白い翼を羽ばたかせて彼のもとに舞い降りた。彼の厳しそうな隙のない視線、それでいて、どこか優しそうでもある視線が、ソロモンを射抜いた。彼は片手でソロモンを抱き上げ、再び翼を広げ、飛び立った。


ソロモンは急に目が覚めた。全身が割れるように痛い。熱さえ持っている。しかし、まだ生きている。
とんでもない悪臭と湿気の中に自分がいることを彼は自覚した。恐る恐る、手を動かす。少しずつだが、動いた。
彼は自分の視界を遮る何かから体を起こした。自分はどうやら何かにうずめられていたらしい。幸いにも場所は日陰のようで、昼間ではあったが彼の眼に直射日光は襲ってはこなかった。それでも眩しいので彼は目をしかめ、自分のいる場所を確認する。そして気が付いた。自分は、ごみの山の中にうずめられていたのだ。
彼はぐらぐらする頭の中で、自分の身に起こったことを整理する。ああ、そうだ。自分はアドニヤに殺されたのだ。なぜ生きているのだろうか。運がよかったからなのか、それとも、天使が助けてくれたのか。
彼は、アドニヤの言った言葉を思い出した。そして、絶望した。
アドニヤは自分を見捨てたのだ。あれほどまでに信じ、あれほどまでに愛していた彼は、自分を切り捨てたのだ。何の躊躇もなしに。ヨアブまで噛んでいた。そしてアビシャグも、自分のこの見た目を忌み嫌った。あんなに優しかった彼女が。
彼はごみの山に下半身をうずめたまま、泣き出した。なぜ自分は生き返ってしまったのだろう。死んでいた方がましだった。なぜ、アドニヤに捨てられた瞬間を、自分はまた思い返さなくてはならないのだろう。あの、自分を愛してはくれなかった兄の。
弟だと思っていた。しかし、彼は言ったのだ、自分の事を、犬だと。
母を信じずとも、父を信じずとも、あの人だけは信じていたのに。あの人を、自分は、愛していたのに。
彼にとって自分は、忠実な犬でしかなかったのだ。殺しても何の心も痛まない、その程度の存在でしかなかったのだ。

「(ベリアル!)」
彼はふと、友の名前を呼んだ。自分にいつもついてきてくれた、あの美しい金髪の天使の名前を。
「(ベリアル、ベリアル、来てくれ!頼む!俺はつらい、死んでしまいたい!お兄様が俺を裏切ったんだ、頼む、そばに来てくれ、俺を抱きしめてくれ、ベリアル!)」

返事はなかった。
彼は何度もベリアルを呼んだ。しかし、その声はむなしく虚空に響いた。十一歳の誕生日からずっとそばにいてくれたはずの彼は、いつまでたっても傍に来てはくれなかった。そこにはただ、ソロモン一人だけがいた。彼の体を抱きしめるものは、ただ、腐りかけたごみの山だけだった。
「ベリアル……」
彼はがっくりとうなだれた。
「お前まで、お前まで、俺を見捨てたのか。ベリアル……!」
彼は泣き叫んだ。誰も来ないゴミ捨て場に、彼の悲痛な泣き声だけがこだました。
父に避けられ、母に憎まれ、信じた兄に裏切られ、恋した女性に拒絶され、誰からも愛されなかった少年は、ずっと信じていた友の庇護すら、失ってしまったことを悟った。彼は泣いた。延々と、泣き続けた。それでも、そこに来る人物はだれもいなかった。

ふと、ソロモンの泣きはらした視界の先に、一本の短剣が映った。その短剣に、小鳥が刺さっていた。ヤツガシラだった。一羽のヤツガシラが、刺されて死んでいた。短剣は、アドニヤのものだった。血に錆びて刃はボロボロになっていた。
それを見て、すっと、ソロモンの眼から涙が引けた。気のせいか、背中に走る激痛も、忘れてしまったようだった。

「そうだ……俺は一体、何を考えていたんだ」
彼は短剣を見つめ、そう言った。とても今の今まで泣いていた人間とは思えない、よどみのない声だった。
「俺は分かっていたんじゃないか。人を信じれば、愛せば、利用されて捨てられるだけだ。俺を愛する存在などいない。知っていたことじゃないか、最初から。俺は忘れていたんだ」
彼はごみの山を片手でかき分けた。もしやと思ったからだ。案の定、彼の片手は残飯のこびりついた黒いマントを引き出した。留め金はひしゃげ、背中には一文字の穴が開いている。彼はそれを身に纏い、無理矢理に留め金を閉めた。
「これは俺の責任さ。俺が俺自身を守ることを怠った結果起こったことだ。ならば他を恨むのは筋違い。俺自身で決着をつけねばならなかろう」

十四歳の傷だらけの少年は、よろよろとごみの山を出て立ち上がった。彼は、王宮の外を初めて見る。王宮の外の日差しは王宮のものよりもずっと暑苦しく、不快なものだと感じた。

「俺の人生の責任は俺が負おう。俺を幸せにするのは、俺しかいないんだ。俺はずっと、一人だったんだから。生まれてからずっと、誰も、俺の幸せを願わなかったのだから。ただ一人、この俺を除いて」

彼の眼にはもう、涙は流れなかった。彼はずるずると体を引きずって、炎天下の太陽の照りつける日向に出た。彼はなおも、歩き続けた。



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feat: Solomon 第二十四話

ソロモンはパピルス紙に走らせるペン先を止めた。
「やった……やったぞ、ベリアル!」彼は叫ぶ。寝台の横たわってのんびりしていたベリアルが、「なにがやったのさ?」と言った。
「もう、描くことは何もないんだ。俺は描ききったんだ」
ベリアルがソロモンの手元を覗き込むと、彼は得意げに最後の一枚と言うパピルスを見せてきた。ソロモンは例の図形を描き終わったとのことだ。彼の頭の中にある空想上の建物を、彼は隅から隅まで、余すところなく描きあげたというのだ。ベリアルが来るよりも前、ずっと小さな時から、延々と描いては消し、描いては消しを繰り返していたそれを。
ソロモンは感動に震えているようだった。ベリアルは、彼の手を取って「おめでとう!」と興奮した様子で言った。
ソロモンは置いてあった大量のパピルスを並べる。どれも、成功作として保存しておいたものだ。
建物の奥行きは六十アンマ、間口は二十アンマ、高さは三十アンマ。建物は内陣と外陣に分かれていて、外陣前の廊下は間口と同じ二十アンマの奥行き。内陣の入り口が十アンマ。内陣自体の大きさは奥行き、間口、高さともに二十アンマの立方体。入口にはオリーブ材で作った扉が付いていて壁柱と門柱は五角系。外陣の方の扉は糸杉製で、二枚の折り畳み扉が付いている。ここにもオリーブ材の柱が立っていて、そっちの方は四角形。格子造りの窓があいていて、内陣と外陣の間には脇廊。螺旋階段でつながった、三階建てのもの。幅は一階のものが五アンマ、二階が六アンマ、三階が七アンマ。切り石とレバノン杉の角材で幾何学的な模様を描いた中庭もある。大黒柱になるのは青銅製の二本の柱。格子模様と、百合と、柘榴の浮彫のある柱頭をいただいた美しい柱だ。柱頭はそれぞれ五アンマずつ。建物全体は木造で、主にレバノン杉や糸杉を使用。そして、それら全てを純金で覆う。全体の彫刻の主なモチーフはナツメヤシと天使、そして彼の愛するシクラメンの花。
ここに挙げた以外のことすら、彼のパピルスには懸命に描かれていた。非常に緻密に、まるでその場にあるものをそのまま写したように、その空想の建物についてのあらゆる情報が描かれていた。ただ一つ、内陣の中身をのぞいて。
「ここに、何かが入る気がするんだ。しかし、俺はそれを描く気にはなれん。思い浮かばないのなら、それでいいのだ。彼も、俺の前に姿を現したくないだけだろう」
彼は笑った。ベリアルもつられて笑う。
「何年もかけて……ようやく完成か。ボクが来る前から描いていたものね。おめでとう、本当におめでとう」
「どういたしまして。……その、なんだ。嬉しいな。うん」
ソロモンは照れたようにそう言った。自分のここまでを人生をかけた偉業をほめたたえる相手はベリアルしかいなかったものの、それでも彼は何かしら満たされた思いだった。ベリアルが来るまでの孤独な十年間と、その後の四年間、自分に付き合い続けてくれた彼へ、ようやく報いることができたような思いだった。


その日は非常に気持ちのいい日だった。さんさんと晴れていたのにもかかわらず、厚さはあまりなく、ソロモンにもそこまで辛くはない光だと感じた。
いくらかの勉強を終えてしまって多少暇になった彼は、シクラメン畑に向かった。そこには既に、あのヤツガシラがいる。
彼が持ってきた餌を目の前にまくと、ヤツガシラは喜んでそれをついばみ始める。鳥と言うのは本当によく食べる。ソロモンはそれ、本当に嬉しくて、楽しかった。ベリアルも笑っていた。
「ねえ、ソロモン」ベリアルは言った。
「このヤツガシラ、好き?」
「ああ、勿論だ」ソロモンは言い返した。好きでないはずがあるだろうか。このような稀有なる美しさを持つ鳥が。自分に寄って来てくれるものが」
「君、この子の言葉を聞きたいとかは思わないの?」彼の言葉を受けて、ベリアルが返す。
「言葉だって?」
「うん、言葉。ボク、天使だよ。シクラメンを生み出したみたいに、どんなことだってしてあげられるさ。ソロモン、君がこの子を好きなら、この子と君がおしゃべりできるようにしてあげられるよ」
ベリアルはそう言って、自分もヤツガシラをつついた。ただ、ヤツガシラは彼を認識できないのか、どこ吹く風と言ったようでまるっきり反応を示さない。それに対してベリアルは少々不満そうな色を含んだ笑い方をした。
「(こいつと俺が、会話を……)」ソロモンは考える。この、自分の自慢の花園を気に入ってくれる美しい客人と、もしも会話ができるとすれば自分はどんな思いだろうか。ベリアルならばそれくらいのことはできる。できないという可能性は考慮する必要はない。彼は考えた。
「いや、やめておこう」と、彼は返した。
「どうして?」
「……怖いから」
ソロモンはそう言って、もう一度パンくずをヤツガシラの前に撒く。
「もしも……もしもこいつのほうは俺の事を好きじゃなくて、本当は俺の事を嫌っていて、ただ、餌をくれるからついてきてくれているだけなんじゃないかって、そう考えてしまうんだ。俺は、こいつが俺の事を嫌いじゃないって思いたいんだ。そう思っていて幸せなんだ。守れる幸せなら、守りたいじゃないか」
パンくずをあいも変わらず上品についばむヤツガシラの姿をぼんやり眺めて彼はそう語った。
ベリアルは無言でソロモンを抱きしめた。暖かいと感じる。ベリアルは暖かいのだ。体温とは何かが違う、まるで焚火にあたっているような暖かさが彼にはある。彼はその暖かさを持って、ソロモンを優しく包んだ。
信じていられるというのは幸せなことだとソロモンは感じた。気が付くと、アビシャグが手を振りながらやって来ていた。ベリアルもそれに気が付いたか、ゆっくりとその身を離した。


ソロモンはアビシャグを無言で花畑に案内する。彼女は座り込んだ。
アビシャグは安心している。ソロモンはあの一件以来、本当に自分とアドニヤの関係を誰にも言ってはいないようだった。最初のうちから不安を完全に拭い去ることはできなかったものの、いくら日がたっても彼女に送られる周囲の視線はそのままなのだ。とても、不倫の女に送られる視線ではない。そのうち、彼女も完全に確信することができた。ソロモンは本気で、誰にも言うつもりはないのだ。いったい、なぜ彼はそうまでするのだろうか。それほどにまで彼は、あの兄を慕っているのだろう。アドニヤはそこまで慕われる価値のある男だ、と彼女も思っていた。彼はどこまでもやさしい。まるで、自分が待ち望んでいた人物であるかのように。父はここまで優しくなかった。アドニヤは、自分に接してくれた誰よりも、自分に優しいのだ。
アビシャグはそのおかげで、ソロモンとも打ち解けられたように思っていた。アドニヤという愛すべき対象を共有するものとして、彼女は彼に感じていた一種の得体の知れなさを完全に忘れることができた。どちらもアドニヤをこれ以上なく愛しているのだ。恋愛と兄弟愛の差はあれど、それは同じだ。ヤツガシラと遊ぶ黒いマントにくるまった少年をみて、アビシャグはふと、話そうと思っていたことを口に出すことを決めた。
「ソロモン様、昨日、ダビデ陛下の代わりにお裁きをしたみたいですわね。素晴らしい事ですわ」
目を輝かせてそう言う彼女に、ソロモンは「ありがとうございます。アビシャグ」と返す。
「私、その場にいられなかったことを本当に悔やみますわ。聞くところによれば、とても素晴らしいお裁きだったようで」
「それは……言いすぎでしょう。噂には尾ひれがつくものです」
彼はマントの下で、少し照れたように目をそらしたが、それはマントの外にある彼女の視線に捕らえられることはなかった。
「あら、もっと素直にお喜びになればいいのに。……凄い事ですわよ。王の職務を立派に果たしたなんて」
「わかりました。素直に喜ぶとします。……ありがとうございます」
「まあ、なんで私にお礼をおっしゃるんですの?」
「いや……そういって頂いて、嬉しかったもので」
彼はマントの上から、裾にくるまった手で口元を抑えた。まるで照れ隠しのしぐさだが、いかんせん全身マントで覆われているために普通の人間がするそれよりも不思議な見てくれである。そんな仕草を見てアビシャグは少しばかり笑みを浮かべてしまう。
やはり、彼はどこかしら子供っぽい。アドニヤの前ではもっとあからさまなのだが、自分の前でそのようなそぶりを見せるのは初めての事だった。この王子が自分にも心を許し始めているのだろうかと彼女は思った。彼女はそんな彼がどこか、可愛らしくも感じた。
「何かおかしい事でも?」
口調はすっかり大人なのだが、と、そのちぐはぐさも彼女にはおかしく感じた。彼女は彼に感じたことを素直に言おうと思ったが、さすがにもう子供でもない年齢の男の子に面と向かって可愛いというのも気が引け、代わりに彼女はこういった。
「いいえ。ただ……ソロモン様を見ていると、厚かましい事ですが……弟ができたような気分になりますの」
「弟?」彼は疑問の色を込めたまま言った。
「ええ。私、弟がほしかったんですの。兄もいないけれど弟もいなくて。王に仕える身で王子様にこのようなことを言うのも不躾と存じますが、何かそのような気分になって、つい……」
その言葉を聞いて、すぐに返答はしなかったソロモンを見届け、アビシャグは慌ててその間を埋めるために次の言葉を言った。
「ソロモン様、お姉さまはいらして?」
「異母姉はいました。でも、あなたのようにシクラメンを大切には扱ってくれなかった」
彼は、その言葉にはすぐに返答した。
「まあ……」
「弟ですか」今度は、彼が例の話を蒸し返す。彼がマントの下で小さく笑ったような気がした。彼の笑い声を聞くのも初めてだ、とアビシャグは思った。彼はいつも不愛想だから。ああ、この王子もちゃんと笑えるのか、と彼女は実感を覚えた。
「私も、どうせ姉ならあなたのような方がほしかった。不躾などとんでもない。嬉しいですよ、アビシャグ。そう言ってくださってありがとうございます」
彼の声は、とても穏やかだった。満面の笑顔ではないだろうが、静かに微笑みながら言っているのが感じ取れた。
「どういたしまして」
彼女がにっこりとそう返して、ソロモンは返答せずに、代わりに縦にうなずいた。少しの間沈黙が続いた。
その沈黙の中で、彼女はヤツガシラをすくい上げて膝の上に乗せたソロモンの姿を見て、とあることを考えた。彼の微笑みとはいったいどのようなものだろうか?アビシャグには想像がつかない。あのダビデの息子であのアドニヤの弟なのだし、まさか目も当てられない不細工ではないだろう。現に、醜い人間と言うのはまず目元の時点でみっともないものだが、先日一瞬だけ見えた彼の眼はそうでもなかった。彼の眼もとは、彼の母だというバテシバに似ていた。後宮で、数回だけ姿を見たことはある。ソロモンに似て随分人付き合いは苦手そうだが、それにしても美しい人物だとアビシャグは思っていた。一瞬見えた彼の目つきは、彼女によく似て、切れ長で形がよかった。
だがこうやって隠すからには何かしら人には見せられない外見なのだろうか?と、急に彼女は疑問を感じる。何も今日初めて感じた疑問ではないが、彼女はふと、マントをとってみたくなった。無意識のうちに、手が伸びた。
無言のまま彼女の手が伸びるのを見て、ソロモンは「なんですか、アビシャグ」と言う。彼女はその声を聴いて一瞬、びくりと怯んだ。先日のように激しく手を弾き返されることはなかったものの、何か咎めるような声色を聞いて、彼女は慌てて言った。
「ソロモン様、その……お顔を、見せてはいただけませんか?」
気が付いたときにはずいぶん正直な物言いをしていた。
ソロモンはその言葉に、一瞬言葉を飲み込んだ。沈黙の中、ヤツガシラだけが鳴き続ける。アビシャグはソロモンをじっと見つめていた。
彼はマントの留め金を抑えると「それはできません」と言った。
「どうしてですか?」
「私は姿を見せたくなどありません。貴女がご存じないのなら、一生知らないままでいてほしい。他の方々にも同じです。私の姿を、見てほしくなどない」
アビシャグは何も聞かされていないのだ、と、ソロモンは知っている。自分の容姿も、生まれも、境遇も、彼女は知らないのだろう。彼女の前に自分はただ、奇怪な格好の少年でしかないのだ。
アビシャグはその言葉に戸惑う。彼女には理解ができなかった。そんな彼女の口から言葉が出た。
「アドニヤ様にも?」
「兄は知っています」
一瞬だけ間を置いて、ソロモンは兄の名前を出した。
「兄だけです。私が姿を見せても平気なのは、兄だけです」
彼はそう言って、体の向きを少し斜め向こうにそらしてしまった。彼女は、彼の触れてほしくないところについ触れてしまったのがわかって「ごめんなさい」と謝罪の言葉を述べた。
「いえ。もう大丈夫です」彼はそう返した。彼のマントの留め金は、ずいぶん古くなっていて、すっかり輝きを失っていた。


ソロモンが立ち去った後、アビシャグも彼と別れた。宮殿の中に入り、少し早足でダビデのもとに向かう。その時、柱の陰から人が出てきた。
「アドニヤ様!」
彼女は嬉しそうに声を上げる。
「アビシャグ、ちょっといいかな」
「ええ、勿論、アドニヤ様のお願いであれば」
顔を赤らめて心底嬉しそうにそういう彼女に、アドニヤはそっと耳打ちした。


ソロモンが扉を開けると、ベリアルは先に部屋に帰ってきていた。
「おかえり」
彼の机にいるベリアルがそう言う。彼は、ソロモンが描き終えた設計図を一枚一枚眺めていたようだった。
「ただいま」とソロモンは言って、彼自身は寝台のほうに腰かけた。アビアタルの授業が終わったせいで、午後に暇な時間が増えたのだ。日がかなり傾いている。あと1時間もせずに、日が暮れるだろうか。
「なあ、ベリアル、俺は幸せだな」
彼はぽつりと、唐突に言った。
「そうかい?」
「ああ。俺は幸せだ。お前が初めて来たあの時より、ずっと」
彼は、格子窓の外を眺めながらしみじみ呟いた。
「俺はものを描け、書を読めるだけじゃない。俺は生き物を育てることができる。それを美しいと感じられる。人を尊敬することも、人に恋することも俺にはできるんだ。そういう人に会うことができた。そして、人に感謝されることもできる。それが可能なことは、本当に幸せだ。なあ、ベリアル。幸せであるとは素晴らしいことだな」
「もっと素晴らしい事を教えてあげようか」
マントを着たまま寝台にその身を横たえてそう語るソロモンのそばに、ベリアルも寄り添いながらそう言った。
「君は神に選ばれた」
「そうだな。そして、お前が来てくれた」
ソロモンは、寝台に腰かけて片手だけをソロモンの顔の横に置き、それで体重を支えているベリアルの顔を見て思った。あの日、十一歳の時に見た夢は、現実だったのだろうか。ベリアルはこんなように自分を見下ろして、光の王冠を自分に与えた。ソロモンの事を、神に選ばれた子だと言って。
ベリアルはそっとソロモンの手に自分の手を添えた。
「ベリアル。俺の幸せは、お前から始まったんだ」
ソロモンはその手を握り返した。


日が落ちたころ、彼の部屋の扉を何者かが叩いた。


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feat: Solomon 第二十三話


「殿下に教えることは、もう一つもありません」
そう言ったのはアビアタルだった。カーテンを閉めたうす暗い部屋で、彼はソロモンにそう言った。彼は、心の中に渦巻く屈辱を抑えつつ、今目の前で、律法の勉強をすっかりおさめてしまったソロモンにそう言った。
自分は若い時、かじりつくような気持ちで何年もかけてこれを勉強してきたというのに、この目の前の穢れた生まれの子供がここまであっさりとものにしてしまうとは、と、彼はソロモンに対して嫉妬心すら覚えていた。アビアタルが思っていた数倍の速さで、律法の教授は進んだ。そもそも、もともとソロモンは律法を相当知っていたのだ。どこで習ったと聞けば、ナタンに書物を借りたと彼は返した。余計なことを、とアビアタルは心の中で言った。
相手がただの子供で、また、状況が状況でなければ、年端もいかない少年にこのような感情を持つアビアタル自身を、彼自身が内省しただろう。実に大人げない感情である。優秀な若いものが生まれるのならば、大人はそれを喜ぶべきではないか。老いたものが優秀な若者に嫉妬するなど、実に醜く、大人げない。もしも違う祭司が、全く普通の優秀な若者にそのような態度をとっていれば、アビアタルはたちどころに彼をいさめ、諭すだろう。
だが、ソロモンは別なのだ。アビアタルにとって、彼は称賛される権利があるとされることすら、目を覆いたくなるほどにおこがましい存在なのである。ダビデとバテシバの結婚を聞いたとき、彼はめまいがした。夫を見すて王と交わった女が、よりにもよって神に選ばれた王であるダビデの妻の座となるとは、と。アビアタルは生まれながらの祭司である。神を疑ったことなど一回もない。だからこそ、律法に背く不義の女の存在がどうあっても許せなかった。そして、それから生まれた子などは穢れた忌み子でしかるべきなのだ。ソロモンに人間としての権利などあっていいはずがない。それが彼の言い分だった。現に見てみろ、彼の容貌を。普通の人間から離れた、おぞましい姿を。神がこの子と穢れたバテシバを罰している証拠ではないか。彼らに人間らしく扱われるいわれなどないのだ。彼らは神に背いた存在なのだから。神自身がそれを証明したのだから。
それに比べて、と彼は思った。アドニヤはなんと素晴らしい事か。彼はアドニヤに心酔していた。アドニヤは本当に、小さいころから気の付く少年だった。王子だからと思いあがることなく、臣下である自分たちに細やかに気の配れる男に育った。
アムノンが死に、キルアブが王位を拒否し、アブサロムすら死んだとき、アビアタルはこれぞ神のおぼしめし、と思った。それまで王に相応しいと絶賛されていたアブサロムすら、その醜いわがままさと自分勝手さを露呈して、自分で自分の命を散らしたのだ。王に相応しくないものはすべて淘汰され、王に相応しい人格を持ったアドニヤが、神の力で繰り上がり、王位を継ぐべき立場となったのではないか。それだというのに、王はなぜソロモンを自分の座に据えようというのか。ナタンの預言と言ったって、あのぼけ老人の預言など信じられん、神がそのようなことをするはずはない、とアビアタルは思った。もしもだ、もしもソロモンが神に選ばれた存在であるのなら、なぜ彼は迫害されるような容貌で生まれたのだ?なぜ神に愛された存在に相応しい、健康的で美しい姿に生まれなかったのだ?そもそも、なぜ人から後ろ指を指されるような生まれ方を、彼にさせたのだ?明らかな矛盾ではないか。その時点で、もはやソロモンが神から選ばれた存在だという言い分など破綻しているのだ。おおかた、あの阿婆擦れのバテシバが、その色香を持って王を惑わしたに違いない。あの遠い昔の日のように、とアビアタルは思っていた。アドニヤのみならず、何より敬うべき神の言葉すら彼らは捏造し、侮辱している、とアビアタルが憤怒を覚えないはずはなかった。

アビアタルは、帰り支度をするソロモンの姿を見ながら「(待っていろ、王位を継ぐのはアドニヤ様だ!本当の神の采配が下されるのだ、この不心得者の悪魔めが!)」と、思った。


はじけるような笑顔で「よかったねえ!」と言ったのは、ベリアルだ。ソロモンは彼の言葉を受けて、少し困ったような目つきをしつつも、口元はしっかりと笑った。彼らは、王宮の二階の廊下にいる。廊下にはちょうど、誰もいなかった。
「もうあの怖い顔したハゲ爺にかからなくていいんでしょ?ほんと、よかった」
「ベリアル……まあ、たしかにハゲた老人ではあるか」ソロモンは困りと笑いが混ざり合った表情のまま、形容しにくい微妙な笑い声を出した。
「ボク、時々後ろから見てたけどさ」ベリアルは言った。「あいつ、君のこと嫌いだよね」
「だからどうした。俺が嫌われるなんて、今さらだろう」
「そうだけどさ。他の先生方は、あんなにあからさまじゃないのに」
「そんなものは人それぞれさ。得意なこともあるし、苦手なこともあるだろう。彼は、俺に対する憤怒と軽蔑を隠すのが人より苦手なだけだ」
彼はそう言って、すたすた歩いていこうとしたが、ベリアルはそれを少しとどめるような身振りをした。「なんだ」とソロモンが返す。
「ソロモン、ボク、まだ言いたいことがあるんだけど」
「な、なんだ?」
ベリアルは満面の笑みで「お疲れ様!律法のお勉強、よく頑張ったよね」と言った。
ソロモンは彼のそのはじけるような笑顔を受けて、「……別に、それほどでも」と言ったが、ベリアルは「そんなことないよ。ボクが君のしていることを知らないはずないじゃないか」と言い返す。
ソロモンは照れ臭そうに頭を掻きながら、「ありがとう。そう言ってくれて」と、ベリアルとはまた違う、少し不器用な笑い方をした。彼の目の下には、うっすら隈ができていた。


その様子を、遠巻きから見ている影があった。
「なんだ……あいつ、誰と話しているんだ?」
アドニヤだった。ソロモンは彼の気配に気が付いていないようであったが、アドニヤにははっきり誰かと話すソロモンが見えていた。だが、その視線の先には何もない。
「(あいつ、気がふれてるんじゃないのか?そうなってもおかしくない環境で育ってきたし、十分あり得る話だ)」
彼はそう考えながら、弟の前に出て行くかどうか迷う。調べてみたところ、信じたくない話だが、ソロモンを王とするべく教育が始まっているというのは疑いようのない本当の話だった。アドニヤは嫌悪感に背筋が冷たくなった。
ソロモンに優しくしてやったのも、全て自分が王となった時のこれ以上ない優秀で忠実な手ごまとして利用するためだ。ソロモンが代わりに王となってしまっては、本末転倒もいいところだ。なぜ、ソロモンに自分を差し置いて王となる権利があろうかと彼は心の中で思った。ヨアブもアビアタルも同じ意見で、太鼓持ちのように彼に同じことを言ってくれた。いけない。このままソロモンを大人しく王座に上げる気など、自分には毛頭ない。この状況をこの状況のまま放っておく気は、アドニヤにはさらさらない。
しかし、だ。アドニヤは一つ、思うところがあった。それは、ソロモン自身がこのことをどう捉えているのかと言うことだ。はっきり言って、アドニヤにはソロモンが、大人しくアドニヤを差し置いて王になるようにも思えないのだ。
アビシャグを彼のもとに送って、弟の様子が知りたいという名目でつぶさに語って聞かせたことから読み取れたことがある。ソロモンは、彼女に自分の好意を全く見せてはいないのだ。恋する少女と二人きりであっても、彼は何もしないのだ。そのくせ、普通に会話はする。何が原因なのか、アドニヤにはわかった。ソロモンの不器用さのみゆえではない。彼は、自分に遠慮しているのだ。彼女をアドニヤの女と思えばこそ、彼は自分の感情を押し殺し続けているのだ。
それほどまで遠慮がちで自分に忠実な弟が、みすみす兄の立場を奪うことに賛成するだろうか?彼にはそれがあやしく思えた。ひょっとすると、ソロモン自身も本気で王位を継ぐ気などないのではないだろうか?彼ならばとりあえず波風立てないために聞くことは聞いておいて、いざ自由になればアドニヤに王位を譲り渡す、くらいの事は考えそうなものだ。
アビアタルとヨアブは、ソロモンに強気な態度で当たるようにしきりに勧めてくる。特にヨアブなど、放っておいたら今にでもソロモンを切り殺さんばかりの剣幕だ。
しかし、そうしてソロモンがこの期に及んでも自分のために働いてくれるなら、それに勝るいいことなどないではないか。アビアタルは、ソロモンが貴方を差し置いて一瞬でも王座に座ること自体が許せないと言っていたが、アドニヤはそれを「古い」と一蹴した。結果として彼が玉座につけて、ソロモンが忠実な僕になってくれるのならば、アドニヤは何でもいいのだ。そして、このような状況になっても、そうなる可能性は多大にある。
今日は、それを確かめたかったのだ。ソロモンの意志を。この王になどなれっこない、正気がどうかも怪しい弟が、王に相応しい尊敬すべき兄に、自分の受け継いだ王位を渡す意思があるのかどうかを。

「ソロモン」
声をかけられて、ソロモンは驚いた。ベリアルとの会話を聞かれたのではないかと思ったからだ。ベリアルは素早いもので、すっとどこかに消えてしまった。
「ああ、お兄様。お久しぶりです。どうかしましたか」
ソロモンはアドニヤに久しぶりに会えて、落ち着いたと言ったような声色で話しかけてきた。周囲には誰もいないことだしとアドニヤが話を切り出そうとした瞬間、ソロモンを呼ぶ声が聞こえた。
ソロモンは声のした方角を振り向く。ドタドタと走ってきた中年男性は、アビアタルの部下、若手の祭司ザドクだった。
「ソロモン様!いらっしゃったのですね」
「……なんだ、俺に用か?何のだ?」
警戒心を強めてそう言うソロモンに、ザドクは慌てた声で言った。
「ソロモン様、今すぐ裁きの場に、大広間にいらっしゃいませ、ダビデ陛下が貴方をお呼びです」
その言葉にソロモンが何かしら反応をする間を与えず、ザドクはソロモンをマント越しにつかんで引っ張っていった。ソロモンもあわてて、転びそうになりながら彼についていく。アドニヤは、一息遅れて、あわててその後をついて自分も走っていった。ザドクは特に止める様子はない。
「お父上が俺に何の用だ!」
「厄介な裁きが行われているのです。証人も証拠もないのですが、両方自分の言い分を全く譲らないのです。そうして、ダビデ様がどうお裁きをするかと思っていたら、ダビデ様がおっしゃったのですよ。『この件は、ソロモンに裁かせる。今すぐここに連れてこい!』と」


ソロモンは大広間の真ん中に引きずられてきた。光をよく吸い込む明るい大広間の中に、一人黒いマントで全身を覆った少年が来たことに、その場にいる全員が、その異様さに引き付けられた。
彼はザドクに引きずられて、ダビデの玉座のすぐ隣に連れてこられた。
「ザドク、ご苦労だった。ソロモン、よくぞ来たな」ダビデは言った。
ふと、ダビデの前に跪く男と女のうち、男のほうが「陛下、この者は誰でございますか」と言った。
「誰でもいい。だが、私に代わりお前たちを裁くものだ」
ダビデは男にそう言うと、その発言に動揺する周囲の喧騒の中、ソロモンにだけ聞こえるような声で彼にささやいた。
「ソロモンよ、話は聞いているだろう。私はこの裁判を、お前に任せる。裁きは王の重要な職務だ。勉強の一つと思って、やってみなさい」
なるほど、父は自分の力をテストせんと、自分を呼んだのかと思った。いや、デモンストレーションの役割もあるかもしれない。王の職務を代わりにやらせるということで、また一歩、ソロモンを次の王たる存在として、周囲にほのめかすこともできるだろう。
どうにせよ、このような大勢の前では引き下がることはできない。ソロモンはダビデに向かってうなずき、二人に向かい合い、「改めて、お前たちの訴えを聞かせよ。お前たち自身の口から聞きたい」と言った。

訴えはこうだった。罪状としては、金銭の強奪。だが、その事実を、片方があったと言い、片方がなかったと言っているのだ。
具体的にはこうだ。まず、女の言い分は以下の通りだった。彼女は裕福な家に嫁いだが数年前、未亡人となった。それを受けてとある有力者の老人が彼女との結婚を望んだのだが、彼女は夫に貞節を誓うためそれを拒んだ。だが彼があまりにしつこく、彼女は身の危険すら感じ、しばらく国外にいる親戚のもとに身を寄せることに決めたのだ。問題はその後である。彼女は逃げるにあたって、大金を持っていくのも危険なので、財産をほとんど金貨に変えて隠したうえで、自分は着の身着のまま逃げようと決めた。それにあたって、彼女は隠し場所に蜂蜜の壺を選んだのだ。彼女は大金を複数の壺に分けて入れ、その上を蜂蜜で満たし、ふたをした。そして、隣人にそれらを預けたのだ。彼は快く、預かってくれた。もちろん中に金があるなどとは知らないままに。数年たって、礼の老人がようやく死んだと聞いて、彼女は安心して家に帰り、隣人から蜂蜜を返してもらった。だが、壺の中には蜂蜜があるばかりで金貨は一枚も残ってはいなかったのだ。隣人が盗み取ったことは明らかだった。
しかし、男、つまりその隣人の家族の主人が言うには、最初から壺に金貨など入ってはいなかったとのことだ。彼は、彼女が壺の中に金貨があったなどと言う有りもしない話をでっち上げて、詐欺行為で自分たちから金貨をせしめようとしているのだ、と言い張っている。自分たちには何のやましいこともないというのだ。何せ大金のかかった話、二人とも、鬼気迫る表情で必死にまくしたてた。
難儀なことに、女が金貨を隠すとき、立会人が一人もなかった。彼女は例の老人から逃れんと、ひっそり夜逃げするように逃げたからなのだが。男の側では、彼の家族が蜂蜜しかないのを見たと言っているが、いかんせん家族の証言とあってはそう参考にもならない。状況証拠だけではどちらが正しいのかわからない。かといって、かくたる証人も、どちらにもいないのだ。あるのはただ、蜂蜜だけが詰まった壺だけだというのだ。
なるほど、なかなかの応用問題だとソロモンは思った。ダビデも、彼が何かしら超人的な力で隠された真実を暴くとも思ってはいまい。王になればこのような、律法通りには裁けない厄介な裁きもいくらでも舞い込んで来よう。そして、そうであっても白黒つけなくてはならないのが王なのだ。ソロモンは、ダビデが自分に求めているのが、できる限り律法に沿った、最大限納得のできる判決だというのがわかった。男を罪に定めるか、女を罪に定めるか、賠償をいくらに設定するか、などなど。
さて、この場合は……とソロモンが考え始めた時、ふと、声が聞こえた。
「ソロモン?それじゃ、だめだよ」

ベリアルの声だった。彼は驚いた。ベリアルは彼のすぐ背後に立っているようだ。ベリアルの手が、すっと自分を抱く。彼は後ろからソロモンを抱きしめているのだ。ベリアルの声がすぐ耳元で聞こえた。マントにそこだけ穴が開いてしまったかのように、はっきりと聞こえた。ふと、周囲が自分とベリアル以外は存在しない不思議な空間につながってしまったようにも思えた、。の声のおかげで、何か周囲が重苦しい。柔らかくとろけたような、そう、まるで話に上がっている蜂蜜の壺の中だ。
「分かるはずだよ。君なら、事の真相が」
そんなことを言っても、と言おうとした瞬間、ベリアルはその手をソロモンの心臓の上に乗せた。波打つ鼓動をベリアルに読み取られているのを実感しながら、ソロモンは彼の声を聴いた。
「ダビデにできなくても君ならできる。大丈夫だよ。君は、賢いんだもの」
彼の声が、じんわりと染み込んでいく。まさに蜂蜜のようだとソロモンは思った。そのぼんやりするような甘さの中、彼は考える。できる、大丈夫だ、だって?しかし、事の真相を確かめる方法はと言えば……。

ふと、彼の頭に、ある考えがひらめいた。彼はマントの下で、目を見開いた。ひょっとすると、試していないことがあるはずだ。
「お前達」彼は二人に向かいあって言った。「その壺は今どこにある?」
「私の家に」女のほうが言った。
ソロモンはそれを聞くと、今度はダビデのほうに向かって「ダビデ王、兵に命じて、この女の壺を持ってこさせてください、調べたいことがあるのです」と、早口で言った。


女はそう王宮から離れたところに住んではいなかったので、壺は割かしすぐに持ってこられた。大きく丸く膨らんでいて、それに太めの首が付いている形のものだ。それがやたらとごろごろ持ってこられる。相当量隠していたらしい。
ここに来る前に調べたのだろう。蜂蜜は抜かれていて、裏面がべとべとしていたり、結晶化して砂糖になっているのが見える程度だった。確かに、ざっと口から覗いて見た限り、何もない。
「いかがですか?」と、口をそろえて男と女が言った。男が「何もないでしょう」と言い、女が「あなた方がとったんじゃありませんか!厚かましい」と言った。口論が始まったのを憲兵が抑えた。その次の瞬間だった。大広間に、大きな音が響いた。
ソロモンは、大広間の石造りの床に、勢いをつけて、激しく彼の持っている壺をたたきつけたのだ。ひとたまりもなく、壺は粉々に壊れ、破片や蜂蜜の結晶がその場に散乱した。
その音に、その場にいる全員が怯んだ。ダビデも、自分の息子の行為に少々面くらっていたようだった。目の前の二人すらも、その、物が壊れるとき特有の高く不快な音に縮み上がって、口論をやめた。
ソロモンは二つ目の壺をとって、それも叩き割った、次に三つ目、四つ目、と、彼は粉々にしていった。大広間の中に、次々と音が響く。彼は、一つ割っては次、といったように、その場ですべての壺をたたき割った。しんと静まり返った中、壺の割れる音だけが、いっそ軽快なほどに響き渡った。
その音がようやくやみ、恐ろしいほど静まり返った中で、ソロモンは大量にできた破片の中にしゃがみ込んだ。「何をなさるんです!」と、ようやく出てきた人間の声、すなわち女の声を、彼は無視した。彼はその場で、破片を一つ一つ調べ始めた。指先を蜂蜜の残りかすでべたべたにしながら、彼はじっと破片を見ていた。
と、その時、彼の視線は一つの破片に吸い寄せられる。彼はそれを拾い上げた。内側にひびが入って、そこに蜂蜜の結晶が張っていた。だが、よく見ると、その結晶はひびに挟まった何かを覆い隠すようにできている。そして、それは金色をしていた。
彼は指先で、結晶を削り下ろした。甘く、べたついた柔かい結晶の壁の中から出てきたのは、小さく薄い金貨だった。
「お前たち、これはなんだ?」
彼は、男と女の前にその、挟まったままの金貨を見せた。二人の顔はみるみるうちに変わっていった。男の顔は絶望、女の顔は希望に満ちた顔に。

「決まりだな」ソロモンは男に向かって言った。「この男とその家族こそが盗人だ。女の訴えこそが真実」
彼の声が、大広間に厳かに響き渡る。
「女よ、盗み取られた金の金額は?」
「財産を換金した時の証文が残っております。その通りです」
「では、ただちに男は律法に沿って、その分の賠償を払うように」
顔を真っ青にしながらわめく男に、ソロモンはそう言い放った。彼が振り返ると、ダビデも目を真ん丸に見開いて、目の前で起こったことを見ていた。
「ダビデ王。彼女の壺の弁償にあたって、都合をつけてはいただけませんでしょうか」
「……ああ、それはもちろん」
うろたえたようにそういうダビデに、ソロモンは一礼して「それでは、裁きも終わりましたので、私は失礼させていただきます」と言い、その場をさっさと立ち去ろうとした。
しかし、彼はふと立ち止まった。自分に向けられた声が聞こえたからだ。
女の声だった。済んでのところで財産を取り返すことのできた幸運な女は、跪いたままソロモンに向かって、泣きながら感謝の言葉を言っていた。
「ありがとうございます……ありがとうございます!!本当に、ありがとうございます!」

ソロモンはその顔をじっと見つめた。彼女には見えていないかもしれない。しかし、彼は見詰めていた。
初めて見る顔だ、と彼は思った。自分がここまで、他人から「ありがとう」と言われるようなことなどあっただろうか?アドニヤになら数度言われている。そういえば、先日アビシャグにも言われた。だが、それらとは何かが違う。
この女性と自分は、おそらくもう会いはしないだろう。アドニヤのように自分を庇護しはしないだろう。ただ、偶然今日会って、後はもう会わないだけの関係だ。
そんな相手に恩を売ったからとて、何のいいことがあるというわけではない。それなのに、ソロモンは、なぜだか、たまらない幸せを感じた。「ありがとうございます」と言う言葉が、彼には非常に甘美に思えた。一見意味のない事でも、確かに意味があった。自分が何かをして、その結果として感謝をされて、彼は、ただ単純に嬉しかった。
ソロモンは彼女の前に座り込んだ。そして、「……どういたしまして。……こちらこそ、ありがとうございます。そう言ってくださって」と言った。そしてそのまま、その場をつかつかと立ち去った。


アドニヤは目の前で起こったことを、ざわつく大広間の中で反芻していた。彼は群衆に交ざって、ソロモンの裁きを見ていた。
発狂したようにわめく男と、嬉しさに泣く女。散らばった破片。後ろには別の訴えをする人々がいるはずだったが、彼らすら次に進めと茶化しはしなかった。玉座に座るダビデは、信じられないと言った顔のままかたまっていた。
アドニヤの目をとくに引いたのは、訴え人の女だった。彼女は、去っていくソロモンになお思いをはせるような目つきをしていた。アドニヤはそれを知っている。自分がさんざん向けられるものだ。理想の王子、頼るべき人、そう仰ぎ見られる目を、ソロモンが向けられていたのだ。
アドニヤの背筋に悪寒が走った。
今まで彼にとってソロモンとは、頭はいいが、王の器ではない人物だった。人見知りで他人嫌い、不愛想で生意気。優秀なので右腕としては非常に役立つだろうが、間違っても人の頂点に立つような性格はしていないと思っていたし、彼についていこうという人間も現れるはずがないと思っていた。だからこそ、彼はソロモンをライバルとして見たことなどは一度もなかった。王継承のライバルとして、ソロモンは自分に劣る存在でしかないとアドニヤは確信していた。
しかし、どうもそうも言っていられないらしい。見ろ、この雰囲気を。
アドニヤは自分の不注意を叱責した。ソロモンは、本人も気づいていないだろうが、持っているのだ。人の上に立つ力を。自分のそれが人望なら、彼のそれは知性と結びついている。優秀な知性を持って、彼は人の上に君臨するのだ。
もしも、だ。アドニヤは考える。もしも、ソロモンがそれを自覚し、それを伸ばしてしまったら、どうする。もしも彼が王位を自分に明け渡したとして、ソロモンの方を王に相応しいという人物が増えたら?
それすら、夢ではないように思えた。現に彼は、大広間の人間を完全に呑み込んでしまったではないか。もしも……もしも、そうなれば、一切は無駄になる。結果として、アドニヤは王位を離れ、ソロモンが王位につくのだ。あの、自分の犬が。

どうやら、とアドニヤは考えを改めた。もうソロモンに彼の意思を確認する必要などはない。自分の思惑は、ソロモンが王の器では自分に遠く及ばないことが前提としてあって、初めて成り立つのだ。
彼の意志などは関係ない、重要なのは彼の危険性だ。彼がアドニヤの地位を脅かす人間である可能性だけが今となっては重要なのだ。
彼は大広間を後にし、ヨアブのもとに向かった。
ソロモンはもはや、彼に取って、完全に切り捨てるべき存在となった。さぞ、アビアタルやヨアブも喜ぶだろうとアドニヤは思った。



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feat: Solomon 第二十二話

イスラエルの祭司の長として君臨するアビアタルの前に、つい数日前ソロモンが送られた。彼を見るのは、アブサロムのクーデター以来だった。その時も、彼とソロモンはろくに言葉など交わさなかったどころか、目すら合せなかった。ソロモンはほとんど口をきかなかったし、アドニヤに促されるか、あるいは自分の策を語るときのみその薄い唇を開いた。クーデターが終わってからはなぜだかアドニヤにはべったりなつくようになったものの、アビアタルとは依然赤の他人と言うにふさわしい距離感だった。だというのに、彼が突然送られてきたのだ。しかも、彼の目に悪いから、部屋のカーテンは閉めておけと、ダビデ王から直々に来たものだ。昼間の明るい時間にカーテンを閉めるなど、薄暗くて気持ち悪いじゃないか、と言いたいのを彼はぐっとこらえた。ましてや自分も少々年で若い時ほど目はよくないのだから、手元が暗いのは喜ばしい事ではないというのに。
一体私に何の用だ、この売女から出た化け物風情が、とアビアタルが内心で思っていると、ダビデは彼に、律法を教えるように言った。王の頼みとあっては断る理由はないものの、ただ何故今になってこの塵芥にも等しい王子を教育するのです、とアビアタルは言った。
ソロモンはそれに対して特に何も言わないどころか反応すらせず、彼の代わりにダビデから帰ってきた返答に、アビアタルは言葉を失った。
「塵芥か。私はその発言を、二つの理由で咎めよう、アビアタル。一つには、どんな出生、どんな容姿であれ、彼はお前の主人である私の息子であり、お前は私の臣下であるとともに彼の臣下なのだ。お前の態度は、どう考えても臣下のそれではない。もう一つには、彼は神の意志によりこの私の家を継ぐ存在となるのだ。そのため必要な教育をせんと、お前に律法の教師を頼んでいるのだ。それの何が塵芥であるものか」
自分の耳を信用したくなかった。アビアタルにとって、その言葉は受け入れがたいものだった。ソロモンは相も変わらず、マントの下にその表情を隠していた。ただ、そのたたずまいには、自分が異形の悪魔であると自覚した卑屈さも、将来の王になるのだと調子に乗った尊大さも感じられなかった。彼は、菜をむしばむ霜のように透明なただずまいをしていた。彼はただ、教育を受けにきた少年として、アビアタルに向かい合っていた。それがさも当然であると言ったように。


「もう一度聞くが……本当に、ソロモンを王位につける動きが始まっているんだな?」
「はい、アドニヤ様。間違いはありません」
人気のない王宮の端に、祭司の頭と、軍の総司令官と、一番年上の王子。実に不思議な光景だと、アビアタルも思わざるを得ない。しかし、このような場所でこのような面子で話さなくてはならないことが、残念ながら今起こっているのだ。
アビアタルは目の前のアドニヤの表情に、自らも痛ましく思う。彼はアドニヤを信じていた。アブサロムのクーデターが起こった時も、責任者として宮廷に残ったアドニヤにつき、決してアブサロムに心を売ろうなどとは考えなかった。アブサロムが反旗を翻したあの日より、彼が王子と認めるのはアドニヤをおいて他にはなかった。
この隣に立つヨアブも同じようだった。彼はアドニヤより早く、アビアタルから件の情報を聞かされて、その場で激しく怒り狂った。アドニヤを置いて、他に王など認めないと彼は言った。
彼は、混乱しているらしいアドニヤに言う。
「ああ……お可哀想に、アドニヤ様!あの日、自分の危険を顧みずに陛下の命を救った王子をないがしろに、あの出来そこないの売女の子を王に据えるなど、陛下は何を考えているというのか!あの雌犬が王に取り入ったに違いない!アドニヤ様、清廉な貴方様が彼らにみすみす侮辱されるいわれがありましょうか!」
彼はアドニヤの肩をつかんで、激しくガクガクと揺らす。アドニヤはそれをうけて、「すまない、痛いから離れてくれないか」と、少し震える声で言う。ヨアブはあわてて離れ、「申し訳ありませんでした」と言った。
「お前たち、もう行っていい。……ぼく自身で情報を確かめたい。信じないわけじゃないが、なにせ、あまりにも奇怪なことだから」
アドニヤの顔から、普段の余裕たっぷりな笑顔が消えていた。アビアタルは興奮するヨアブを抑えて、「は、殿下」と、礼をし、言われるままに立ちさろうとした。その際、ヨアブが叫んだ。
「殿下!我々は何をおいても貴方様の味方です!たとえダビデ王に逆らおうとも!」
アドニヤは一言「声が大きいぞ!」とだけ、その言葉に返した。



昼下がりで日の光の気持ちいいころだったが、影になっているソロモンの花畑にそんなことは関係なかった。彼は花畑にいて、折よく遊びに来ていた例のヤツガシラの相手をしていた。彼はソロモンは手ずから差し出す餌を上品についばみ、聞いていて気持ちのいい泣き声を上げた。
「かわいらしいですわね」と声をかけたのは、隣にいるアビシャグだ。彼女もあれ以来、毎日のようにここに来る。ソロモンは黒いマントの下から「もっともです」とだけ言った。
「ソロモン様は小鳥がお好き?」
「嫌いではありません」
「あら……そんなに楽しそうに餌をあげていらっしゃるのに」
その発言に、ソロモンの体がピクリと反応する。「楽しそうですか?」と彼は問いかけた。
「ええ。とても。貴方様を見ていると……そう、アドニヤ様を思い出しますわ。あの方も楽しそうに鳥や動物に餌をあげますもの」
アドニヤの名前が出て、ソロモンはアビシャグのほうに目線を移した。と言っても、その赤い目はマントに隠れて彼女には全く見えない。
「餌を上げるという行為は、兄から教わりました」彼はそう言った。
「あら、そうでしたの」
ソロモンのほうに寄ってくるヤツガシラを、彼はそっと膝に乗せる。ヤツガシラは逃げなかった。彼は、指の先にヤツガシラのふわふわした羽毛の感触を感じた。なんと、この鳥は美しいのか。金と黒色のコントラストが、実に高貴ではないか。派手に立ち上がった冠羽も含めて、本当に王のごときたたずまいだ。彼は、アビシャグに向かい合うことに対する多少の照れを隠す意味もあり、再びヤツガシラに視線を返した。
「兄を思い出すと言いましたね、アビシャグ」彼は目を合わさないままそう言った。「光栄です。私も、あの兄のようでありたかった」
「ソロモン様は、アドニヤ様を尊敬していらっしゃいますのね」
「はい。最高の兄です」
ソロモンはよどみなくそう言う。アビシャグはそれを聞いて、クスリと笑った後、彼女自身の頬を赤らめて言った。
「私もそう思いますわ。本当に、素敵なお方」
「兄が好きですか、アビシャグ?」
彼が唐突にした質問に、アビシャグは一瞬言葉を詰まらせ、そして戸惑った。まさか、彼との関係がばれているのでは?と彼女は不安に思った。ソロモンはそのような彼女を見て、「兄の事を、素晴らしい男だと思いますか?」と、質問を変えた。
この王子は気が付いているのだろうか?と、アビシャグは不安な気持ちを抑えられなかった。しかし、逢瀬には気を使っているつもりだし、第一、今目の前が見えているかすら怪しいこの少年に、自分たちの関係がわかるわけはないではないか。最近はアドニヤにもろくに会っていないらしいのに。
それに、ソロモンがアドニヤに、多少異常なほど愛を感じているのはアビシャグの目から見てもわかった。はた目から見ると、もう子供と言った年齢でもないのに、まるで乳母から離れられない幼児のようにソロモンはアドニヤについて回っていた。男をろくに見ずに育ったアビシャグにさえ、それが異常だということは分かる。しかし、要はそれほど兄への愛が深いということなのだろう。彼は兄を無邪気に愛するものとして、他人にも兄の事を聞いているだけなのだ、とアビシャグは自分に言いきかせた。それに、たとえ保身のための嘘であっても、愛しい男に対する感情に嘘をつくつもりはなかった。
「ええ……本当に、素晴らしいお方だと思っていますわ。アドニヤ様は。あんなお方と会ったのは、初めて」
彼女はできるだけあたり触りのなさそうな言葉を選んだ。口にするだけでも、アドニヤの声が思い出される。あの美しく整った顔も、自分のものに重ねられる唇も、しっかりと男らしい肉体も、彼の事を口に出しただけでありありとよみがえった。彼女自身は気が付かなかったが、彼女の柔らかい頬にほんのりと赤みが差した。
ソロモンはそれを横目で見ると、ヤツガシラを壊れ物を扱うように指先だけでなでながら「それは嬉しい。……私も、愛しています。兄の事を、誰よりも」と、ぼそりと呟いた。

アビシャグはその言葉を聞くと、妙に複雑な気持ちになった。ふと、彼女もようやく、ヤツガシラに触れるため彼がマントから指先だけ露出させていることに気が付いた。彼女は、彼の噛まれすぎて白いところのなくなった爪の先より、その色に驚いた。目の間違いだろうか、影になっている中、色がよく見えないのだろうか、と、彼女は黒いマントから覗いている、冷たい白色を見た。
ソロモンはその視線に気が付いた。そして、指先をそっとマントに隠した。
「どうかしましたか」彼は言った。重い声だった。アビシャグは「いいえ、何も……」と、多少混乱したような声で答えた。
彼はヤツガシラを地面に離した。ヤツガシラもとっとと花々の間に降り立つ。
「アビシャグ、兄の事を好きだと言ってくれましたが」彼は言った。
「私は嬉しかったです。貴方が兄をそう言ってくれて。ありがとうございました」
彼の言葉の意味が、アビシャグには理解しがたかった。ひょっとすれば、やはりこの彼は自分たちの関係を知っているのでは、と感づいた。一度そう思うと、恐ろしさが一度に襲ってきた。何か、彼ならばわかっているのではないかという気すらしてきた。彼女にとってソロモンは何か得体の知れないところがある存在だ。何にせよ、アビシャグとて王宮に来てからそれなりに時間はたつのに、いまだに彼の素顔どころか、肌の一片も見たことがなかったのだ。先ほど見た指の先が初めてだ。何か、彼なら見透かしているような心配が膨らんで、彼女の心を離れなかった。彼女はあたりを見回す。誰もいないようだ。アビシャグは決心を固めた。ソロモンはそんな彼女を見て「どうしましたか」と言う。
「ソロモン様……ひょっとして、気づいていらっしゃいますの?」
「……?」
「私と、アドニヤ様の、ことについて……」
ソロモンはその言葉を聞いて、一瞬びくりと動揺した。次になるほど、自分の言ったことがまずかったかと反省をした。正直な話、自分でもあのようなことを言うべきではなかったと思っている。気づくも何も、自分がその件に一枚かんでいるのだから、知っているのも当然だ。だがそのことを忘れてしまうとは、完全に自分の落ち度だ。昔の自分なら信じられない。
ソロモンは返答に困って黙っていた。アビシャグはそんな彼を見て、言った。
「お願い、おっしゃって。……知って、らっしゃるの?」
ソロモンは観念した。静かに「はい。存じております」と、彼女に告げた。どうせしらを切ったところで、彼女にしてみれば、何も知らない人間にむざむざ自分の不倫の恋をばらしてしまったも同然なのだから、正直に言ったほうがまだ彼女に優しい対応であろうと思ったからだ。
アビシャグは案の定真っ青な顔になった。ソロモンはその顔を見て、おそらく兄と彼女が、もうお互いに愛し合うようになったどころか、深い関係になったのであろうということも理解した。アビシャグはどうも、自分がそこまで承知の上だと思っているようだったが、そこに関しては彼は今初めて知った。自分の関わった計画が完全に成就したらしいことを、彼はようやく知ったのだった。
アビシャグはガタガタ震えだした。それはそうだ。王の妻の身で不倫などしたことがばれれば、彼女だけでなく一族ぐるみでどのような報復が帰ってくるかわからない、と考えるのは当然の事だろう。実際のところ、ソロモンはダビデがそこまでするとも思っていなかったが。あの、何もかもにどこか淡泊な感情をもった事なかれ主義の父が、今さら若く美しいだけの側室一人の不倫にそこまでの激しい怒りを向けるとはソロモンは思わない。自分の娘が自分の息子に手籠めにされても黙っているような男なのだ。だが、自分と違って彼と一年も知りあっていないアビシャグがそこまでダビデの事をわかっているはずはない。
ソロモンはどう声をかけていいものか分からずに、目の前のアビシャグをぼんやり見ていた。彼女がここまでうろたえるのを見るのは初めてだった。彼から見る彼女はいつも楽しそうにしていたから。

彼女は震える頭を上げた。涙ぐんでいた。「ソロモン様」彼女は半ば泣いていた。「お願い、絶対に誰にも言わないで。お願いします。悪事を働いているなど承知の事です。貴方のお父様を侮辱しているとよく分かっています。でも……でも、止められないのです!お願い、誰にも言わないで下さい。お願いします、お願いします。私にできることならば何でもしますわ、だからお願い、絶対に、誰にも……」
彼女は泣きながら、必死な顔でソロモンにすり寄ってきた。急に彼女と距離を詰められて彼の心臓が跳ね上がった。彼女の愛らしい眼が涙にぬれ、頬を濡らしている様子が間近に見えた。「お願い……秘密にしてくれるのなら、何も惜しみませんから。この愛を守るためなら…」
彼女が今にも彼に触れようかと言うときに、彼は反射的に、マントに包んだ片腕でアビシャグをはじいた。彼女には一瞬、マントの下から見たことのない色の目が見えた。
彼に払いのけられたアビシャグは茫然として、その場にへたり込んだ。ソロモンはバクバク鳴る心臓の鼓動を整えようと、何回か深く息を吸い込んだ。マント越しに、口に手を添え、乱れた息を整えた。
アビシャグの目には、彼の態度はこう映った。この少年は、自分の兄を誘惑し、自分の父を侮辱するこの不埒な女など、断固として拒否する存在なのだと、その体を持って示したのだ。それを黙っておけなどなんとおこがましい行為だと、彼は自分に知らしめたのだ。と。
彼女は絶望したように、その場で泣き出した。ソロモンはその様な彼女にやっと気がついて、同時に自分のやった行為にも気が付いた。
何と言うことだ!とソロモンはショックを受けた。自分は父にばらす気などない。しかしあのような態度を取られたら、アビシャグは自分がダビデに、周囲に彼女とアドニヤの関係をばらすと表明したと思うのは当たり前ではないか。先ほどからの自分は、何と短絡的で感情的なのだ。何が自分をこうさせているのか。
彼は泣きじゃくる彼女に、泣き声を切り裂こうかと言う鋭い声で「アビシャグ!」と言った。
その言葉に反応して、跳ね返るように彼のほうを見るアビシャグ。彼は慌てて言った。
「何か勘違いなさっていませんか。私は別にあなたたちの事を父や誰かにばらす気など毛頭ないし、それに何の見返りも貰おうとは思わないのです」
一気に言い切り、彼は少し息切れして言葉を切った。アビシャグは泣きはらした瞼をぱちりと瞬かせ、「黙っていてくださるのですか?」と言った。
「はい」
「そんな……」
彼女は信じられないと言った風だった。無理はないだろう。ソロモンには二人の仲を黙っておく理由など特にないというのが、彼女の視点から見た当然だ。ソロモンはマントを深くかぶりなおして、彼女に言った。
「先ほども言ったではないですか。私は…兄を愛しているのです。兄は、貴女に対する恋の感情を私には吐露しました。ならば、貴女と結ばれて兄は今幸せでしょう。兄の幸せを守ることは弟には当然です。見返りを求めることですらありません。貴女はそれをご存じないのだ。私ではない、貴女には」
彼の言葉は真に迫っていると、アビシャグには思えた。どこかしら、妙な真剣さがあるのだ。ふと、彼が頭一つ程度しか違わないアドニヤに、まるで幼児のように寄り添ってついていく様子が思いおこされた。なるほど、このソロモンなら、アドニヤにそれほどの感情を抱いていても不思議はない。彼女は納得した。納得と同時に、安堵した。
彼女はふと、いまだに震える声で、ソロモンにお礼の言葉を言った。何度も、何度も言った。ソロモンはそれを止めた。
ソロモンは、自分に湧く、この複雑な感情はなんなのだろうかと思っていた。自分はだれを愛し、誰に嫉妬しているのだろうか。アビシャグにここまで愛される兄に嫉妬しているのだろうか。あるいは、自分とは違い、女の身でアドニヤと愛し合えるアビシャグに嫉妬しているようにすらも思えた。このように人目をはばかるほどの愛に堕ちている二人の、どちらにも自分は嫉妬し、どちらをも自分は守りたいのだ。
ただ、アビシャグの目には、彼は自分とアドニヤの愛を守ってくれた、優しい少年とだけ、彼の姿は映っていた。彼女の安堵の表情から、それが読み取れた。そして、それは素直に嬉しかったようにも思える。もうすぐ、昼の休憩時間が終わろうとしている頃だった。



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feat: Solomon 第二十一話

彼自身の言った言葉通り、ソロモンはダビデに後継者となるよう指名を受けて以降勉学に励んだ。たっての頼みでシクラメンの世話をする時間は与えられ、依然として彼のシクラメン畑に彼以外の人間の手入れが入ることなどはなくなったものの、以前のようにそこで何時間もただ座っていることはなくなった。彼はありとあらゆる学問を頭に詰め込んだ。
前知識はあるものの、やはりこうしてみっちりと教育されると改めて大量に得るものはある。彼はそれを聞いた先から吸収するように努め、また、それを実行した。彼は立て板に水でありとあらゆる知恵をその優秀な頭に詰め込んだ。彼の出来の良さは、ダビデの付けた教師と、そしてダビデ自身を震撼させた。ダビデ自身が王としての仕事を彼に教える時間も取っていたからである。
ソロモンの頭の良さについてはナタンから聞いていたものの、ダビデ自身がそれを目の当たりにするのは初めての事である。いざ目にすると、実際異常なものだ。より一層、ダビデには彼が恐ろしいものと思えるように思えた。彼は尋常ではないスピードで教えたことを吸収していく。十四年分のひずみなどすぐに取り返してしまい、彼はもっと先に行くであろうことが、ダビデには想像できた。
「(これは私を殺すのだろうか?)」ダビデは自分の目の前で大人しく教育を受ける息子を見て、ある日そう思った。彼の細い手にはペンが握られている。彼がもし、それを今自分の首元に突きつけたら?そのこともあり得なくはないように思えた。
「(長生きするというのはなんと難儀なことか。私も、あの日、あの愛を失った日のままならば、いっそそれもいいと思えたものを、今私はこれと言った根拠もなしに見苦しい生への未練を持ってそれを恐れている。人間など若いうちに死んでしまうのが一番よいのだ……あの人がそうであったように。私のように無駄に年を取りなおも老いていくことで死に対する感情すら余計に醜いものになっていく。私より年上だったあの人、美しいまま死んでいったあの人の年齢を私はとうに超えた。それでもなおも生きている。優柔不断に生きている。ああ、今日は体の底冷えが群を抜いて酷い!私の体に今血は通っているのだろうか?返す返すもこの息子のなんと冷たげなことか!しかし今や私もそうであるのかもしれん。不思議な話だ。息子が成長することで父に似るのは聞いたことがあるが、父が老いることで息子に似るのだからな)」
「父上様?」ソロモンの目がゆらりとダビデのほうを向いた。彼は相変わらずマントを羽織っている。北向きの彼の部屋でなくては、室内の明かりすら彼には眩しすぎるというのだ。
「お考え事ですか」
「大したことではない、気にはするな」
ダビデは冷静にそう言いかえすと、課題を片付けたと見えるソロモンに向かい合ってまた講義を始めた。ソロモンの指にはルビーの指輪がはまっていた。


ソロモンが父親直々の個人教授を終えて部屋から出ようとしたところ、すれ違う人物があった。彼より少しばかり年上のその黒髪の少女は、アビシャグだった。父に言いつけられて来たというところであろうことは推測できた。
「あら、ソロモン王子様!ごきげんようございます」ぱっちりと開いた丸い目を輝かせて、彼女は言う。ソロモンも「ええ、ごきげんよう、アビシャグ。父上様をよろしくお願い致します」と返答し、そのまま無駄話をすることはなく歩き去っていった。アビシャグは、ソロモンが最近になってようやく自分相手にもそれなりに友好的、と言うよりも、警戒心をむき出しにしたようではない口調で返答してくれるようになったと感じている。彼女はそれを素直によい傾向と受け取った。
ソロモンのほうはと言うと、彼が廊下を歩いている途中、ベリアルが彼の目の前に現れた。
「ベリアル!」彼は少しだけ声を上げて驚いた。
「どうしたんだ、こんな真昼間に」
「んー……君が忙しそうだったからね、気晴らしにでもならないかって思ったんだけど」彼は長い金髪をさらりと片手で揺らしながら言う。髪の毛が浮かび上がったおかげで、彼の細い首筋が一瞬あらわになった。
「機嫌がよさそうだね」
「良いと言うほどの事でもないが」ソロモンは言った。
「強いて言うなら、先ほど、アビシャグに会ってな。彼女が幸せそうな顔をしていたのがそれなりには嬉しかった」
「へえ……?」
「あれからどうなったのか、忙しくてお兄様にも聞けていないのだが」ソロモンは指輪をはめていないほうの手を顎に添えて控えめな声で続けた。「あの顔を見る限り、おそらく結ばれたのだろう。お兄様とアビシャグは」
「それが幸せ?」ベリアルは形のいい眉を少しひそめる。
「俺らしくもない発言と笑ってくれても構わんが」ソロモンは少しだけ挑発するような声色でそう言った。「俺は今でも彼女が好きだ。お兄様のことは言うに及ばずだ。愛する女と愛するお兄様が同時に幸せをつかめていることが、俺にとっても幸せと感じるんだ。不思議なものだな…自分に一切直接的な利益はない他人の幸せが自分の幸せにもなりう得るなど、他人に足を救われる甘ったれ者の考えと馬鹿にしてかかっていたものだが……いざ得てみると、なかなか、悪くはないじゃないか」
彼はほかにはわからない程度に、静かに笑ってみせる。
「そりゃあね。ソロモン。君だって人間だもの」
ベリアルは細い腕を組んで、宮殿の廊下の壁にもたれかかった。彼の視線は何処か、遠くを見ているようだった。天の国に思いでもはせているのだろうかとソロモンは思う。
「それは非常に人間的なものの考えだよ。実際、徳にもならない幸せって言うのは人間の世界には無数に存在するんだ。そしてそれが人間の素晴らしいところだよね。いくら合理的がいいと言っても、人間は不合理をやめられないし、そしてだからこそ人間は神に最も愛される種族たりえるんだから。そういう意味で、今、君は非常に人間的な幸せをつかんでいると言えるだろうね。うん……ボクも嬉しいよ。君もそういう幸せを持てるようになったんだなあと思えば、そりゃあ感慨深いさ。ボクは君が、他人を憎むことしか知らなかったころから知っているんだもの」
「どういたしまして。ふ、お前との付き合いも思えばなかなか長いものになってきたな」
ソロモンはそのまま、自分の花畑に向かった。ベリアルも一緒だ。花畑に到着してみると、ちょこんと、例のヤツガシラが彼を待っていた。
ヤツガシラはここが気に入ってしまったのか、今ではすっかり定例の客になっていた。ソロモンは笑って彼に挨拶すると、彼も心なしかポッポッポという鳴き声を持って彼に何かしらの言葉を返したように思えた。



そろそろ太陽に赤色が差し込もうかと言うときに、アドニヤの部屋で、寝台に横たわるアビシャグはアドニヤにその細長い腕を巻きつけて甘えた声で言った。お互い一糸まとわない身、二人の体温は素肌を通して混ざり合う。アビシャグはそれを感じて恍惚のため息をついた。
「ああ、アドニヤ様。これが終わればまたお別れしなくてはならないなんて……つらいですわ。父はどうして私を貴方の妻として送り出してくださらなかったのでしょう。そうすれば人目をはばかることもなく、ずっと貴方様とともに居られましたものを」
「大丈夫さ、ぼくたちの間には愛があるさ。何にも勝る強い愛が」
アドニヤはそんな彼女にきわめて優しくそう言い、彼女の唇にキスをした。数秒のちに呼吸を解放された彼女は、うるんだ瞳でアドニヤを見つめる。彼はそんな彼女を静かに隣に寝かせた。
「どうだい?お父様の容体は……」
「そうですわね…いつも通りですわ。いつも通り、よくありませんの。最近、忙しくなったからかしら」
「忙しくって……何があったんだ?最近新しい仕事が入ったなんて聞いてないぞ」
「あら、ご存じありませんでしたの?陛下は、最近、ソロモン王子様と毎日のように一日数時間お話しなさっておりますわ。どういうお話かまでは存じないのですが…何にせよ、陛下の執務室で、その間はお二人だけですので」
ダビデは、やはり急にソロモンが後継者だということを伝えては混乱が起こると思い、少しずつ明らかにしようとしていたのだ。なににせよ、アドニヤを支持する人物は多いのだし、タイミングを間違えてはいらぬトラブルが起こりかねない。今は、ダビデと、ソロモンの教育を受け持った数人、そして王宮の中でもトップクラスの重臣のみがそのことを知っている。アビシャグが知らないのは無理もなかった。そして、アドニヤにもそのことは知らされてはいなかったのだ。
アドニヤはアビシャグの話に引っかかり、大きな疑問を持った。父と弟が一体何をしているというのだろうか?と。彼は、それは自分にとって無関係な事ではなさそうだと推測した。思えば、最近は全くソロモンと会っていない。会おうと彼の部屋に行ってもなぜか留守だし、かといって花園にも居ないのだ。殆どその空間だけを身の置き場としていた弟のことを考えれば、数日そのような状態が続くなど不審でしかなかった。しかし、自分もここの所偶然暇ではなかったのも重なって問いただす時間もなかったのだ。
「そうそう、ソロモン王子様ですけど、最近ようやく普通にお話してくれるようになりましたのよ。普通……と言いますか、まだあちらからは話しかけては下さらないんですけれど、前みたいによそよそしい態度ではなくなりまして」
「そうかい、それはよかった」
だが、これ以上アビシャグを突っついてみてもおそらくなにも役に立つ情報は出ないであろうことくらいはアドニヤには容易に想像できた。この話はこれで切り上げようと思い、彼はアビシャグの話に乗った。
そういえば、ソロモンの事が今度は気がかりになってくる。自分が会ってやる時間がなかなかないとあれば、せっかく慣らしたあの弟も自分に対する恩義が薄れていくのではないかと彼は少し危惧した。何かここでもう一つ、彼に恩を売っておく方法はないものか。彼は、ぴんと、あることを思い立った。
「アビシャグ」彼は少しだけ、ごく少しだけ、幼げな色のこもった声で彼女に語りかけた。
「なんでございましょう?」
「実はね……ああ、厚かましいようではあるが、君に頼みたいことがあるんだ。大したことではないんだよ。でもね、やはり君に頼むのは図々しいかとも……」
「まあ、アドニヤ様ったら!」アビシャグは明るく笑った。「水臭いですわ、なんでも言って下さいませ!愛し合うものの仲ではありませんか!」
「ああ、そう言ってくれるのかい!?嬉しいよ、可愛い人!いや、その頼みと言うのはだね……」


翌日の事だった。その日も、ソロモンはダビデから講義を受け、別の場所に移るためにマントで身を包み、渡り廊下を歩いていた。同じ時刻、アドニヤも王宮内を歩いていた。ソロモンは二階、アドニヤは一階を歩いていたので、彼らはすれ違うことはなかった。彼らはお互いの顔を見ることはなく、それぞれの目的地に向かわんとしていた。
ふと、アドニヤは後ろから自分を呼ぶ声に気が付いた。
「誰だい?」
彼がそう言って振り返った先に、彼はいささか面食らった。そこに立っていたのは、イスラエル軍の総大将であるヨアブと、祭司長のアビアタルだ。どちらもイスラエルのトップクラスの重臣である。そのような二人がこんな場所でこそこそと人目をはばかるように顔を突き合わせて何の用であるというのか。
「アドニヤ様、実は、内密なお話が……」
アビアタルがひそひそ声で言う。アドニヤも、彼らの真剣な表情に何やらただならないものを感じて、彼らのそばに寄った。彼らはそのまま、アドニヤを人気のない場所に誘導する。ふと、その少し遠い後ろを、ちょうど階段を下りてきたソロモンが通りすがったが、彼らは気が付かなかったし、またソロモンも気がつかなかった。ソロモンはまっすぐ、シクラメン畑のほうに向かっていった。

ソロモンはいつも通りシクラメン畑で花の世話をした。そして、ふっと息をついて久々に冷たい北側の城の壁にもたれて、その場に座り込んだ。最近は忙しくて、なかなかこうする機会が取れない。ヤツガシラも、大人しくソロモンの膝の上に収まっていた。彼は、ヤツガシラにパンのかけらをあげていた。
ふと、足音が聞こえて、ソロモンは身構えてマントをかぶった。現れたのは、意外な人物だった。
「アビシャグ?」
彼は言った。別に考慮しての事でもないが、彼のほうから彼女に声をかけたのは思えば初めてだったようにも思える。
「何の用ですか?」彼はよりマントを深くかぶりながら、しかしぎこちのなさは消えた口調でそう言った。彼女は兄のものとすっぱり諦めてしまったことで、自分の中にあった緊張が消えうせかえってリラックスできるようになったと彼は自己分析をした。
アビシャグは裾の長いドレスをふわふわ揺らしながら、そっと遠慮がちに花畑に近づいた。
「ソロモン様、ごきげんようございます」
「ええ、ごきげんよう。それで……何でしょう?」
事務的な口調でそう言うソロモンに、アビシャグは少し困ったような笑いを浮かべて、人差し指でこめかみを軽く掻きながら言った。
「あの……実は、アドニヤ様に頼まれましたの」
「お兄様に?」
兄の名前を聞いて反応の色を示したソロモンに、アビシャグは「はい」と答える。
「アドニヤ様は最近自分が忙しくてソロモン様に構えないとのことなので……私に代わりに話し相手に行っては貰えないかと。ああ、勿論大丈夫ですわ!ダビデ陛下の了承も得ての事ですから。陛下も、王子様には話し相手が必要だって」
アビシャグのその言葉に、ソロモンはぱちぱち怪訝そうに眼を瞬かせた。しかし、アビシャグがおずおずと「あの……」と言ったあたりで、「はい、なんでしょう?」と冷静に言葉を返す。
「お花畑に入っても、よろしいですか?」
そう困り笑いの表情のまますこし首を傾げた彼女を見て、数秒のちにソロモンは「ええ。花をつぶしさえしなければ」と返答した。


「何!?」
人気のない場所で、アドニヤは驚きのあまり声を上げた。そして、あわてて自分の失敗に気づき、周りに誰もいないかと警戒をめぐらす。幸いなように、誰にも聞かれてはいないようだった。彼は落ち着きなおし、「本当なのか」と、ヨアブとアビアタルに聞いた。
「本当でございますとも。現に、私は今、彼に律法を教えているのでございます」
ひきつった顔でそう言うのは、アビアタルである。
「アドニヤ王子様、我々は貴方様以外に王子と認めるものなどおりません」必死の形相で、ヨアブもそう言った。「あってはなりません。このような事態は。貴方様以外のイスラエル王などあり得ましょうか」
「嘘だろ、おい……」
アドニヤは頭を抱えた。
「当たり前だろ……あっていいはず有るかよ、ぼくじゃなくて、ソロモンが王になるなんて……それもあの父が、それを直々に進めているなんて……」
彼は驚きのあまり、半ばうわごとのような口調でそれを言った。だが、内心で、ふつふつと怒りに煮えたぎるものがあるのが、アドニヤにはわかった。
「(おい……ふざけるなよ。主人を差し置いて玉座に座る犬なんて、そんなもん居ていいはずがないだろ!)」


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feat: Solomon 第二十話



空の端に赤い朝日が出てきたころに、アドニヤは目覚めた。
「アビシャグ、起きて」
彼は自分の隣ですやすやと眠っているアビシャグを軽く小突いた。彼女は眠そうに眼を開ける。
「そろそろ夜明けだ。帰らなくては怪しまれるよ」
その言葉を聞いてようやく目が覚めたのか、アビシャグはあわてた声で言った。
「そうだわ!どうしましょう、アドニヤ様、このことがもしばれたら」
「大丈夫さ、意外とみんな気になんてしてないよ。王がだれと寝たか、あるいは一人で寝たかなんて。だって気にするのも野暮なことだもの。後宮のみんなはてっきり君が父と一晩過ごしたと思っているさ」
彼はそう言って、体を起こしたアビシャグの細い裸の肢体を優しく抱きしめ、うろたえる彼女をなだめるように軽くキスをおとした。彼女はそれを受けて満足そうに微笑むと、急いで服を身にまとい始める。アドニヤは寝台に寝ているままだった。
「アドニヤ様」服を着終わった彼女が、振り返って言った。
「ありがとうございました。……幸せ、本当に、幸せな時間でした。私が生きてきてここまで幸福に満たされた瞬間なんてありませんでしたわ。本当に……素晴らしかった」
「ありがとう。…それは、ぼくにとっても言えることだよ」
彼は裸の体を寝台に横たえたまま、そう言う。
「じゃあ、またね。アビシャグ」
「はい……アドニヤ様」
アビシャグの顔にはいまだ抜けきらない恍惚の色が見て取れた。
「アドニヤ様……愛していますわ」
「ああ。ぼくもだよ」
そう言葉を交わして、アビシャグは名残惜しそうに部屋を出て行った。彼女の足音は遠ざかっていき、やがて、まるで聞こえなくなった。
そのタイミングが少し過ぎたあたりで、アドニヤはだれもいない、見張りすら外に立っていない空間で、唐突に笑い出した。最初はまるで滑稽なものを見たようにふっと吹き出し、それからゲラゲラと笑い出した。朝の冷たい空気の中、彼の声は部屋の中によく響いたようだった。
「全くこの世は馬鹿ばかり……どいつもこいつも、皆馬鹿!ははは…真実愛するもの!一生に一度しか起こりえない、破瓜の相手に相応しいもの!おれは神じゃないさ、お前にとってその相手がどんな奴かなんて知るもんか。だが一つ言えるね、おれじゃなかった!これが運命の愛と言うのなら、これが愛のとばりと言うのなら、人が愛を尊ぶものか!」
彼は笑った。ただひたすらに笑った。何もかもが愉快でたまらなかった。息子に若妻を寝取られる父も、少しばかりの甘い言葉であっさり処女を男に捧げる女も、そして人以上の能力を持ちながら、自分にいいように利用される孤独な弟も。
「そう。それにしても、あのソロモン……お前も本当に馬鹿なんだな!まるで野犬は人間を襲っても、三日飼えば忠犬になるかのように!ソロモン、お前は犬だ、おれの犬だ!おれのためなら自分の恋心すらお前は抑え込むんだな、おれはお前のことなんてなんとも思っていないのも知らないで!飢えとはかくも恐ろしいものか、父に感謝せねばなるまい!おれはそのような環境に置かないでくれていた父に、あれほどのいい犬をこの世に存在させてくれた偉大なる父に!」
彼はもう一度布団をかぶった。寝たりないと思ったのだ。


起きてしばらくしたあたりに、アドニヤは父から呼び出された。さすがに昨夜のことが露見してしまったかとひやりとはしたものの、彼は何食わぬ顔で父のもとに向かった。そして、父が何かをとがめるかのような表情をしていないのを見て、どうもばれてはいないらしいと安心した。
ダビデは彼にたっての頼みがあって彼を呼んだらしい。たっての頼みというからにはどれほどの事かと思えば、ソロモンを自分のところに呼んできてほしいというのだ。
それほどの事かと思いはしたが、ダビデからしてみれば、自分が呼んだとてソロモンが素直に来るかどうか怪しいというのだ。そう語る父の顔には、どこか自分のほうからソロモンにのこのこ顔を出すことに対するためらいや恐れのようなものも感じ取れた。
「どういうわけだか、お前には随分なついているようだから」と、ダビデはアドニヤに頼んだ。「いって来てはくれないか。お前が言うのならば、あれも素直に来てくれよう」
「もちろんです、父上様」
アドニヤが快諾しないはずはなかった。どんな話があるのかは知ったことではないが、断ることではないと思ったからだ。


アドニヤがダビデのもとに来てくれないかと言った時、ソロモンは一瞬ダビデの名前を聞いて躊躇するような色を見せた。いや、躊躇と言うよりも、怪訝そうであった。今さらあの父が自分に何の用なのかと。それに関してはアドニヤも同じ気持ちだった。
「ソロモン。父上様は、本当に君に逢いたいと言ったんだ。ぼくの顔を立てると思って、一緒に来てはくれないか」
アドニヤがそう言って、ソロモンは無言で腰を上げた。外に出るでもないのに、彼はさっさとマントを着込んだ。そして、やはり何も言わないままにぴったりアドニヤの後をついてダビデの待つ場所に向かった。場所は、ダビデの王座のある大広間ではなく、彼の執務室だった。

執務室について扉を開けた時、彼らを驚かせたものがあった。執務室には王とナタンがいた。しかし、普段ならばその場にそぐわないような人物が、まさに王のそばに控えていたのだ。美しい女性。すでに花の盛りをとうに過ぎた年齢ながらも、いまだに他の女を圧倒するほどの美貌の輝きを失いはしない彼女は、バテシバだった。ソロモンの母親だ。
ソロモンは彼女を見て、憮然とした表情を崩さないまま、彼女に冷たい視線を向けた。彼女も同じような視線を向けてくるであろうと思っていたからだ。生まれてから彼女と目を合わせたことなど今となっては片手の指で勘定できそうな気すらしてくるが、そのすべてにおいて彼女が息子である自分を見る目とはそのようなものであった。その学習の成果だ。
しかし、次の瞬間、ソロモンは石造りの仮面じみた硬い表情にはあらわさねど、動揺した。バテシバは初めて見るような視線で彼を見ていた。彼女は笑っていた。自分を見て笑っていた。慈母と言う言葉に相応しい笑いを浮かべた彼女は、普段の苦しみと屈辱にあえぐ彼女よりも数段美しい。なるほど、聞こえた美女であると、バテシバに対する憎しみを踏まえても十分に納得できる華やかさがあった。
その彼女の表情を受けて、一瞬ソロモンは、自分の知らないうちに自分の肌に色が付き、髪の毛と目が黒色になったのだろうかと思った。しかし、マントの中から出てきた彼自身の手は相変わらず痩せこけた、真っ白な手だった。引き出した一本の髪の毛も、指の触感がなくてはあるのかもわからないほど白く、細く、弱々しかった。
「ソロモン様、どうぞこちらへ」ナタンが椅子をすすめた。ご丁寧に、窓にはカーテンが引いてあって直射日光は入らない。多少薄暗いがソロモンに対する配慮と言うことなのだろうか。ソロモンは椅子に座る前に「お兄様の椅子は?」と聞いた。
「ああ、アドニヤ……ご苦労だった。彼を連れてきてくれてありがとう、感謝しているよ」ダビデはアドニヤに向かって、そう話しかける。アドニヤは恭しい態度で、礼を言った。
「だが…すまない。これからの話は、私とソロモンと、バテシバと、このナタンのみで行いたいのだ。お前は席を外してもらえないかね」
「なぜです!?」
口を開いたのはソロモンだった。
「お兄様も一緒に……」
ソロモンは若干の不安を感じながらそう言った。この場にアドニヤがいなくなることを恐れていたのだ。彼にとっては、この場に心を許せる人間はアドニヤだけなのだから、無理はない。
ダビデは少し困ったような顔で、そっとアドニヤに目くばせした。アドニヤもアドニヤで、この場で一体どんな話し合いが行われるのか多少の興味はあったが、その視線を持って、自分はこの場から確かに離れなくてはならないのだということを自覚した。
「ソロモン、お父上を困らせないでくれ。後でぼくとはゆっくり遊ぼう、ね?」
彼はそう言って、ソロモンの頭を撫でる。ソロモンは取り残される孤児のような顔をしていると彼は思った。実際のところ、彼がこれから話すのは彼の実の両親であるというのに、全く不思議な話だと彼は思う。彼は半ば振り切るように、「それでは、失礼しました」とお辞儀をして、部屋から出て行った。立ち聞きをしようかとも考えたが、ばれた時のリスクなどを考慮すると、素直にその場から離れるのが一番いいと思えた。好奇心と保身を天秤にかけるようなことはない。


アドニヤに取り残され、仕方なくナタンに勧められるままに椅子に座った自分の息子に、ダビデは目を合わせた。バテシバも彼を見つめる。
「お久しぶりです、お父上様、お母上様」
久しぶりと言う言葉に多少の皮肉の色を込めて、彼はそう言った。そして、両親にお辞儀をする。彼のそばには、彼をどこか拘束するような立ち位置で、ナタンが立っていた。
「ああ、そうだな……今、お前はいくつだったか。……なかなか、背が伸びたな。そろそろ子供でもなくなってきつつある」ダビデはあいまいな言葉で返答すると、「ソロモン、今日はお前に話すことがあるのだ。この場にはお前と、お前の両親と、お前の後見人のナタン以外はいない」
その言葉はソロモンを安心させようとするものだったのだろうか。彼は、かえって表情をさらに硬くした。心の中でベリアルを呼ぼうと試みたが、なぜかベリアルすらその場に現れる気配はなかった。彼は観念した。まさか両親じきじきに自分をなかったことにしようという決心がようやく固まったというわけでもなかろう。いや、そうだったらそうだったで別に何も困ることなどない。これ以上生きていてしたいことも特にないのだから。シクラメンの世話を誰がやるのかが多少心配ではあるが。
何も言わずにダビデの次の発言を待っているソロモンを見て、ダビデは机に置いた宝石箱を開けた。そして、中からルビーの指輪を取り出す。ダビデの紋章である六芒星の刻まれたその指輪は、ソロモンの瞳のように、透き通りすぎていっそえげつないと言うべき赤色に輝いていた。
「ソロモンよ、これがなんだか分かるかね」
「お父上様の紋章の指輪でございます」
「そうとも、私の紋章だ。これを所有できるのは私だけだ。もしくは、私を継ぐ者のみだ」
ダビデはそれを親指と人差し指でつまみ上げ、宝石箱の外気にさらす。
「ソロモン、これをお前に譲ろう」
ダビデの発言を受けて、ソロモンはすぐに言い返せなかった。状況が呑み込めなかった。思いつめたような表情のダビデと不気味なほどに明るく微笑むバテシバ。ナタンの顔は角度からして見えない。外気にさらされ少々所在なさげに輝く指輪と、彼は最も感情を共有できているかのような気分だった。

ダビデは自分の椅子をから立ちあがり、ふとソロモンの手を取ろうとした。ソロモンは反射的に、その、自分に向かって伸ばされてきた手を振り払い、平手で打った。何か考えての事ではなかったが、心臓が跳ね上がる思いではあった。ぴしゃりという音が響き、彼の手はダビデの手をはたいた。その後、少しの沈黙が生まれた。
「まあ、何をするのです、この子は」最初にものを言ったのはバテシバだった。「お父上様をひっぱたくなんて」
「よい、バテシバ。許してやれ」ダビデが鷹揚に言う。「ソロモン、指輪をはめさせてはくれないか」
「おっしゃることを理解しかねます」ソロモンは手を引っ込めないまま言った。
「その指輪は、アドニヤお兄様にこそふさわしいのではありませんか」
「ナタン、説明してくれ」ダビデはナタンに言う。横に座っていたナタンが、そっと近づいて、話し始めた。
「ソロモン様、手短に申します。私のもとに、神の預言が来たのです。内容は、貴方を玉座に据えろと言うものでした」
ナタンの言葉を聞いて、さすがにソロモンも同様の色を顔面に出すことを止められなくなった。彼は目を瞬かせて、不審なものを見るかのようにナタンを眉をひそめて睨みつける。ナタンはそれを受けて自分も表情をしかめたが、なおも続けた。
「本当でございます。玉座にあなたが座っておりました。王の清め油も、王冠も、まるで即位する者そのままに。そして…実は、昨日の今日の預言ではないのです。ソロモン様。貴方様が二歳の時にも、私は同じ預言を見ました。そして、あのアブサロム王子がまだご存命の時にも、私は同じ夢を見たのです。これはただの夢などではありませぬ、神の預言です。ソロモン様、貴方がイスラエルを継承するお方なのです。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が選んだ、王の器なのです」
ナタンは、預言のグロテスクなビジョンについては一切話さずにソロモンにそれを語って聞かせた。ソロモンは信じられないと言った体で、それを聞いていた。
「我々としても信じがたい」ダビデは言った。
「だが、神のお告げとあらば、お前はきっとイスラエルに相応しい王になるはずだ。私たちの思う以上に。……今日は、その話をするためにお前を呼んだ。どうだ、ソロモン。私の病は治らない。私もそろそろ、後継者を決めねばならんのだ。後継者となる気はないか」
ソロモンは黙って聞いていた。全くもって非現実的だった。たったの数分前まで、自分はひっそりと死ぬことを何よりも望まれた身だったというのに、この目の前の人物たちは自分に何を言っているのだ。後継者だって?理解ができないにもほどがある。正気のものならばこのようなことを言うはずがない。奴らは全員狂ってしまったのだろうか?
しかし、その非現実性が、かえって「神の預言」と言うことにおいて説得力を持っているようにも思えた。神とは人間とは無縁なものなのだ。人間と違う感覚を持っていたとて何がおかしいものか。現に、天使であるベリアルは人間の理解を超えた範疇の世界にいる。人間の理解の範疇において、しっかりと姿を持った物質が特定の人物には認知され、別の人物は無と同じであるということなどはありえない。そのような次元のものであれば、この理不尽もまた道理であろう。人間としての常識からすれば、ダビデとてアドニヤが王位についた方がいいに決まっているのだ。
ああ、そうだ。この話を受けたら、アドニヤはどうなってしまうのだろうか?と、ソロモンはふと考えた。しかし、あるアイデアが心の中にひらめいた。
「(そうだ……俺が王になれば、俺はそれこそお兄様の望めるものは何でも与えられる立場になるじゃないか!俺はお兄様に尽くすことができる。お兄様が王位につきたいと言えば、すぐにでも譲ればいいんだ。どうせ奴らも、俺が永遠に玉座につくことなど望んでいなくて、形式的にいやいやこのような場を設けているに過ぎないことくらい、顔と声色を見てわかるのだし、誰も損はしないじゃないか。それに、もしもお兄様が俺を許してくださるのなら、それこそ俺は全てをかけてでもお兄様の世話をしよう。それが何よりの恩返しじゃないか)」
ソロモンの頭の中にその考えが浮かんだ瞬間、彼はふっと口角を緩めて、父のほうを見た。
「父よ、私にはもったいない話でございます。……ですが、イスラエルは神の国。神の命であるというのならば、私はお受けいたしましょう」
そう言って彼は、手を差し出した。
ダビデは自分の事をどう思うだろうか?当たり前の人間と同じように、呪われた子には身分不相応な思い上がりと出世欲からこの申し出を喜んで受けたと思うだろうか?そう思われたとてなにも心などは痛まない。自分は高潔な兄弟愛によってこれを受けるのだ。いくらこの目の前の優柔不断な、父とも思ったことのない男が下種の勘繰りをしたところで自分はもっと高潔であり、彼はそれを預かり知らぬ哀れな愚か者にすぎないのだ。愚か者に恥じ入る必要などはない。ソロモンはそう考えた。
ダビデの手が彼に伸びる。今度こそ、彼はふり払わなかった。ダビデはソロモンの右手の中指に指輪をはめた。不思議に、その指輪はぴったりと彼の指に収まった。彼の指は非常に細く、ダビデの指とは似ても似つかないのだから、ダビデの指輪がはまろうはずはないのに。実に不思議な話だった。
「ソロモン様、清めの油を塗ります。マントをお取りを」ナタンの声が聞こえた。ソロモンは黙ってマントを脱ぐ。彼の髪の毛がばさりと落ちた。
髪の毛を伝って、香りのよい清め油が自分の頭、そして体を流れることを感じた。これのどこが神に選ばれた人間にのみ許された行為なのだろうか、とソロモンはあざけるような気持ちで黙ってその行為を受け入れた。
頭の上の壺が空になったと見える。頭の頂点がようやくすっかり油に侵されて油を注かれる感覚を実感できるようになったあたりで、その感覚が途切れたからだ。
ソロモンはゆっくりと起き上がった。香油の匂いが鼻につく。埃臭い部屋と香りのないシクラメンとともに年月を過ごしてきた彼の嗅覚には、その香り高さはいささか刺激的だった。
不意に、自分の体が抱きしめられたのが彼にはわかった。アドニヤの体とは違い随分と脂肪分の多いその体の正体は、視界に入った着物の色から判別できた。バテシバのものだった。
「まあ……なんと、誇り高い子かしら!私の胎から生まれた子供が、王になるなんて!夢みたいよ。ソロモン、貴方はなんて母親想いの良い子なんでしょう!夢だったのよ、私の子が王となることは!なによりもの夢だった!お前はそれをかなえてくれたのね、なんという孝行息子でしょう!ああ、香油を塗られて、指輪をはめられて!こんな立派に、本当に信じられない!お前が生まれた日からは思いもしなかった、あの十四年前からは!よく今まで耐えて、よく育ってくれましたね。貴方をないがしろにしていた私を許してちょうだい、ソロモン!あなたは私の自慢の息子よ!これからはずっと大切にしましょう!かわいい息子!」
彼女はそうまくしたてた。彼女の柔らかい体は、アドニヤの引き締まった体の抱擁を受け慣れている彼にとっては異常にブヨブヨとしていた。体温を持ったナメクジに等しいと彼には思えた。
「(俺はこんな奴に、今まで異常な体と馬鹿にされていたのか?お前のほうが、よっぽど異常だ)」
心の中でそう吐き捨てて、ソロモンは「ありがとうございます、母上様」とだけ言い、さりげなく彼女をいなした。そして、ダビデのほうに振りかえった。
「父上様、一つ、頼みごとがあります」
「申すがいい」
「私自身の呪われた外見のおかげで、私は王子としての教育を受けてもおりません。ナタンの持ってくる本は読みますが、それでも王として君臨するには不十分もよいところと心得ております」
ソロモンは淡々と話した。
「私は貴方様のように武勇をたてることができません。私の虚弱な体では。しかし、私は幸い、知性のみは人並み程度に持っております。となれば、王となるのであれば、私は智謀にたけた王でなくてはなりません。智謀で他全てを圧倒できなくてはならないのです。そうしなくては私だけの問題でもなく、イスラエルの問題にもなります。栄光の国は優秀な王のもとでなくては存続すら叶いませんから。イスラエルを栄光の王国として存続させるため、父よ、どうか私を今からでもご教育ください。貴方様の王国を私は滅ぼしたいとは思わない。私に大勢の教師をお付け下さい。王となるにあたってのすべての知識を、この十四年学ぶはずだった分、全て私に叩き込んでください。私も努力しましょう。私が王になるには、それが必要です」
人並み程度とは何を言うやら、と言うナタンの心のつぶやきを聞いたものはいなかった。ダビデはその言葉を聞き、「うむ、勿論だ。さっそく手配し、明日からでも始めさせよう」と言った。
カーテン越しの光が四人を照らした。ルビーの紋章に、彼の髪から滴った香油が垂れた。別の雫が、床に落ちて染み込んだ。彼の髪の毛から首筋、背中を伝って、彼の脚から滴り落ちたものだった。少々くすぐったいような感覚をソロモンは覚えた。

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feat: Solomon 第十九話

翌日から、ソロモンは兄に依頼された一件に取り掛かった。筆はとても速く進んだ。窓の外は明るい。まだ午前中なのだから、当然である。
彼は当たり前のようにさらさらと、愛を語る優美な歌を羊皮紙の上に書いて見せた。まるで図形を描くかのように、その筆はスムーズに進んだ。どこか、机のわきに追いやられた図形を描いた方のパピルス紙の束が自分たちが構われないことに不満を抱いているかのようにも思えていた。ソロモンはそれを想って、これが終わればきちんと彼らにもかまってやろうと考えた。
「早いね」と、暇そうに後ろに構えているベリアルが声をかける。
「お兄様が待っている。仕事は早い方がいい」
彼は、ベリアルには目もくれずにそう答える。
ソロモンはそう言い流すも、実際のところ自分でも随分と速く書けるものであると関心を覚えていた。一体何が自分にそうさせているのだろうか。反射的ともいえるほど次々浮かぶ言葉を紙に書きつけると同時に、ソロモンは自己分析をする。
『わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい』彼は彼女をほめたたえる文句を書いている途中に、ふと、その自己分析の結論に至った。
「そうだ」
「……?ソロモン、どうかした?」
「いや、俺も何故こうさっさと筆が進むのか考えていたところなんだよ」
「書きながら…?まあ、いいか。で、それがわかったんだ……なぜなの?」
「そうだな……上手く形容しがたいのだが、その……理由のほどはまだわからないのだが、俺は何処か、本心からこのようなものを書きたいと思っていたふしもあるんだと思う」
彼はパピルスから目を離すことも、手を止めることもなくそう語った。ベリアルは彼のそばによって、より言葉をじっくり聞こうと構えた。
「そうなの?」
「何か、こう……楽しいんだ。俺の中にくすぶっている何かが形を持って現れているのをはっきりこの目で見るような感覚で」
「ソロモン、君は詩作にも興味があったってことかい?」ベリアルが言う。
「ううん……どうなんだろうな。無かったというほどのものでもないのだが…」
彼はなおもさらさら書き続ける。彼の字は流れるように繊細で美しい。あまりに文字の形、大きさ、全てにおいて整いすぎていて、どこか非生物的な印象すら与えた。ベリアルはソロモンのそばでそれをじっと、愛する者を見るような柔かい目つきで見ていた。ベリアルの体の光に手元が照らされて、いささかばかりソロモンは筆記がしやすかった。ベリアルは片手だけを机の上に置いて、そこに体重をかけるような姿勢で傍に立っていた。彼の光の糸のような金髪が格子窓から入ってきた風に揺れる。彼はそれを白い手で一つにまとめると、ソロモンの邪魔にならないようにそのまま片手で押さえつけた。
「ベリアル」ソロモンがふと口を開いた。
「どうしたんだい?」
「俺は、詩が作りたいというより、ただ彼女にこのような言葉を送りたかっただけかもしれない」
少し目をうつむかせて、彼は言った。彼の手は、アドニヤの言葉と言う名目での、シュネムの少女に対する愛の言葉をつづっていた。そして、それがもう終わりに差し掛かろうとしていた。格子窓からもう一度風が吹き込む。窓の外はシクラメン畑だ。シクラメンに香りはないので風に乗って香りが入ってくることはなかったが、どこか、風の中にシクラメンの気配が確かに感じられた。なぜか、畑にヤツガシラも来ているような気がソロモンにはしていた。
「俺も、彼女が好きなのかもしれない。だから、これがただの代筆ではなく、俺の本心たりえるのかも」
その言葉を聞いて、ベリアルは静かに微笑んだ。ソロモンは彼に目を合わせようとはせず、書き終わってペンを置いても、しばらく顔をうつむかせたまま、椅子から立ち上がろうともしなかった。


ナタンはここのところ、王宮に上がっていなかった。と言うのも、不吉な預言に彼は苛まれていた。王に伝えねばと言う義務感はあれど、知らせなくてはならないと思っていても、渋る気持ちを彼は止められなかった。神の言葉を知らせるのが自分の使命だという自意識の強い彼であっても。
彼は心のどこかで願っていた。この預言は神の意志など介入しないただの自分の夢であることを。何事もなかったかのように忘れ去ってしまいたかった。十二年前見たものも、三年前見たものも。
彼はここのところ、幾度となくソロモンの夢を見ていた。全くいつも寸分たがわず同じ夢だった。自分自身の行動や発言すら、違うことをするのを許されていないかのように同じに事は進んだ。光景は、宮殿の大広間だった。大広間の玉座に、ソロモンが座っていた。三年前とは違ってグロテスクさを感じるものは一切存在しなかった。ただ、そこは恐ろしい空間であるようにナタンには思えたのだ。息をすることができない。自分がそこに居ることを本来許されてはいないかのようであった。
王の周囲には何人もの侍従が控えているのが普通ではあるが、そのようなものは一人もない。生きている人間は、ソロモンとナタンの二人だけだ。
ソロモンはナタンに片手を差し伸べる。彼は王の衣装を身にまとい、あの黒いマントを着てはいなかった。
「清め油を」彼は口を開いて、ナタンにそう言った。ナタンの手には清め油の壺が握られている。彼は人形師に糸を引かれる人形のようにソロモンのもとに寄ってきた。彼とナタンしか生物はいない空間で、響き渡る音もナタンの足音一つだった。今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。しかし、足がそれを許可してはくれなかった。
ソロモンの前に立った彼は、壺を開け、清め油を頭から彼に注いだ。彼の髪は、不思議と、いつになく艶めいていた。老人のようだったか髪の毛が、いっそ美しいと言ってもいいようになっていた。白い髪の毛に交わった油がそれらを伝って、彼の長い髪の表面をゆっくりと滑り、彼の肌に注いだ。彼の生気のない肌が油にぬれて不思議なきらめきを放つ。彼は自分の唇のわきに流れてきたそれを細い指でぬぐった後、ぺろりと舐めとった。油にぬれてまっすぐになった髪の毛の先から滴り落ちた油が、彼の衣装をもぽつぽつと濡らした。ナタンはその間ずっと、息ができなかった、自分の体が自分の思うままにならなかった。誰もいない空間で、ソロモン一人が生命を維持していた。
目を上げた時、彼の頭の上にはどこから現れたともわからない王冠が乗っていた。光でできたそれは、不思議とシクラメンで作った花束のようにも見えた。それをナタンが見た次の瞬間、ソロモンはナタンの首を絞めた。彼の赤い視線がナタンを睨む。この世の恨みと憎悪のすべてを持っているかのような目だった、彼はナタンの首を折らんとする勢いで締める。意識がいよいよ消えるとなった時、最後に映る光景があるのだ。そこは墓地のようにも思えた。大量の棺桶と一緒に、ナタンもそこに、ゴミを投げるかのように放り込まれた。人間一人を片手で放り投げたそれは、ソロモンのようにも思えたし、天使のようにも、悪魔のようにも思えた。
そこで、目が覚めるのだ。そのようなことが、ここ数日続いた。
ナタンは、ある結論をもう出さざるを得なかった。これが神の意志なのだ。ただの幻覚と割り切るには、もうはっきりしすぎていた。波風の立たなくなる時期を待って、先延ばしにしておく時間ももはやないかのように思われた。


午後になって、アドニヤは来客の声を聴いた。そして、驚いた。扉の前に立っているのは黒いマントを着込んだ弟の姿だった。彼はアドニヤの部屋の近くに控える衛兵を警戒するようなそぶりで、「お兄様」と彼に声をかけた。ソロモンが自分の部屋に来るなどと言うのは初めての事だった。
「やあ、どうかしたのかい?」と、アドニヤ。
「先日のものができました。どうぞ」
彼はマントから延びる白い手に握った羊皮紙の束を彼に手渡した。アドニヤはそれを見てもう一度面食らう。
「昨日の今日で?」
「はい……いけませんか」
「いや、そんなことはないんだが……へえ、君、字が綺麗だな。隙のなさと言うのはこういったところにも表れるものだね」
彼はソロモンから受け取ったそれをまじまじと眺めていた。その間、ソロモンはずっと居心地悪そうにしていた。それを見て、アドニヤは文を読むのをやめて、そっと彼の頭を撫でた。
「ありがとう……本当にありがとう」
いじらしいまでの声で、彼はソロモンにそう言った。彼は幼児にするように、何度も弟の頭を撫でる。それを受けて、ソロモンはマントを少し上げて、赤い目を彼に向けた。
「お兄様、事がよく行くことを祈っております」
そうだけ言って、彼は速足でアドニヤの部屋を後にした。


「ソロモン、よかったのかい?」
その足でシクラメン畑に向かおうとしたソロモンの耳元で、ベリアルがそうささやく。
「良いって、何がだ」
「アビシャグがアドニヤの事好きになってもいいの?」
「合理的に考えてみろ、それが一番いい。俺を好きになる女などいるはずがないのだから、俺の感情を優先したところで誰かにとって特になるということがない。俺が彼女に好意を持っていたとして、それが実ることなく、かといってアドニヤの思いも同時に実ることがないのならば、当たり前の結果として誰かが新たに幸せになるということはない。それに万が一にも俺の感情のほうが成就してしまえば父やアドニヤ、そしてこんな俺と付き添うことになる彼女にも害があると言えよう。だが、アドニヤならば……そう、あの兄なら関わる人間をみんな幸せにできる。少なくとも兄も彼女の二人は幸せになれる。数値から言って、それのほうがどう考えてもよい道じゃないか。俺が合理的ではない道を選ぶと思うのか」
「そんなこと言いたいんじゃないけど……と言うか、ややこしくてこんがらがってくるよ」
ベリアルは頭を掻いた。
「それにだ……ベリアル。そのことを差し置くにしても、俺がアドニヤを、お兄様を裏切れるか?俺が自分の勝手な感情のために、すがってきたお兄様を見離したら、あの人はどうなる」
ソロモンはカツカツと足音を立てて、渡り廊下を歩く。人は少なく、彼の声を聴く者はいなかった。ソロモンは渡り廊下の一本の柱に身を寄りかからせて、遠い目で言った。
「俺はお兄様のために働きたいんだ。あの人が俺のおかげで喜んでくれるなら、俺は、それで幸せなんだ」
彼らは外に出た。昼間の日差しが強い。ソロモンはぐっと、マントを深く押し下げた。そして、その場を離れ、庭に降りた。後には、マントをかぶることもなく日に照らされた白い柱だけが残った。


そして、日も沈み切ったころ、全く同じ場所にやはり人がいた。庭に出る渡り廊下。そこに、人影が立っていた。月明かりが彼を照らしていた。
無論、ソロモンではない。もっと背が高いその彼は、アドニヤだった。黒色の巻毛を月光に光らせて、彼はたたずんでいた。彼の手には竪琴が握られている。彼はそれを演奏していた。ちょうどソロモンがふれたのと同じ柱に彼もに背を預けて、竪琴を奏でていた。彼の長い指が弦の上を滑り、様々な音が混ざり合う。ふと、弦の上を走る指を止めて、彼は足音の聞こえてきた方角を見た。小さな足音だった。
「アドニヤ様?」少女の声が聞こえる。月明かりに照らされたその声は、アビシャグのものだった。
「やあ……アビシャグ。来てくださったのですね。嬉しいですよ」
彼は彼女に目を合わせることなくそう言った。
「ぼくの竪琴もなかなかのものではありませんか。父上には劣りますが」
「ええ……素晴らしかったですわ」
体重の軽さを思わせる足音を立てて、アビシャグはアドニヤの柱に近づいた。石造りの廊下にそれが響き渡るかのようだった。アドニヤは静かに、竪琴を足元に置く。
「アドニヤ様…あの、お文を……私、読みました」
「ええ。だから、ここにいらっしゃるのでしょうね……アビシャグ、ぼくを軽蔑し、なじりに来ましたか。敬愛すべき貴方にあのような思いを抱く、このぼくを」
彼は悲観的な言葉を言いつつ、その口元は笑っていた。幻想的な月明かりとも相まって、彼はまるで天使のように清らかな表情だった。アビシャグは彼のその表情を見て、言うべきか言うまいかと悩んでいた言葉を言う決心が、ようやくついた。
「アドニヤ様…実は私も、貴方様をお慕いしております。ずっと前から…貴方を愛しております。ふしだら女と笑ってくださいませ、夫がいる身でありながら、と……でも、それでも私も、貴方様に惹かれているのです。貴方様をお慕いしております。父や、ダビデ様に感じる愛情などではありません。私は……」
ふっと、自分の体が浮いたような感触をアビシャグは味わった。アドニヤが彼女を抱きしめたのだ。アビシャグの胸が高まる。服越しに、アドニヤの男らしく引き締まった肉体の感触が感じられた。
「ありがとう」彼は、アビシャグにそうささやいた。そして、静かに彼女と唇を重ねた。渡り廊下にいる二つの人影が、今は重なって一つとなっている。その状態がいくらも続いた後、アドニヤは静かに彼女の唇を解放した。
「アドニヤ様」彼女は息を吐きながら、ほんのり上気した顔で言った。
「なんだい?」
「信じていただけないかもしれませんが……私、生娘なのです。ダビデ様には、一回とて、抱かれたことなどないのです」
アドニヤは一呼吸おいて「そうですか」と鷹揚な口調で言った。
「そのことを私、悲観しておりました。でも、今となってはその必要もありません。おそらく、この時のためだったのですわ。私が真実愛するお方と、清らかな姿で愛の言葉を交わすため、神様が私にこのような運命をお授けくださったのですわ」
その言葉を聞いて、アドニヤはもう一度笑って、彼女にキスをした。そして、彼女の体を一層強く抱きしめた。夜の鳥の泣き声が聞こえ、彼らは恍惚とした表情でお互いの目を見つめあった。



それと全く同じころに、ダビデは一人、部屋で昼間の事を思い出していた。昼間、ナタンが現れてこういったのである。
「陛下、陛下の跡を継がれる人物の預言が、幾度となく私に降り注いでおります。恥ずかしながら……私は恐れます。その預言を。しかし陛下、言わねばなりません。我らが主、神の意志なのです。お聞きくださいませ。王位を……ソロモン様に約束するのです」
そう言ったナタンは、思いつめたような顔だった。目には濃いクマができ、なんなら今にも死んでしまいそうなほど衰弱しているようにも、ダビデには見えた。一体どんな張りつめた預言だったのか、推して知ることができようというものだった。
「ソロモンを…?」彼はナタンに言った。
「しかし、アドニヤはどうなる。あの息子は……あの善良な息子は」
「へ、陛下、私は…」ナタンは震える声で言った。「私も、同じような意見です。あのソロモンに王が務まりましょうか。あのような恐ろしい悪魔の子、不倫の子に誰がついていきましょう。おぞましい事です、彼のあの白髪に清め油が注がれ、赤い目の王が玉座につくなど、あってはならぬことでしょう。もしも神の言葉が介入しなかったら、私がなぜあのアドニヤ殿下を差し置くようなことを言えるというのでしょうか。しかし、しかし……ああ、神のご意志ではあるのです。神のおぞましさは我らのおぞましさと必ずしも一緒ではない。ダビデ陛下、ご決断を。イスラエルは神の国。神の意志に従わずいることは、アドニヤではなくソロモンを王の座につけること以上に、国が終わるも同じことなのです」

ダビデは、宝石箱を開け、自分の紋章の刻まれた指輪を中から取り出す。ルビーでできたそれは、そのおぞましいほど透き通った赤さにおいて、彼の息子の瞳を連想させた。
このようなことになるのではないか、と、ダビデは考えていた。ソロモンが生まれた時より、ずっと自分はそのような恐れにどこかしら苛まれてきたのだと、彼はルビーの赤さを眺めながら、思いをはせた。
初めて、泣き声一つも立てない白い赤ん坊を見た時から、ダビデには、このような不吉な未来が何となく思えていたのだ。これは自分の罪の権化だろうか、いや、それだけではないと。彼が自分の罪の裁きを下すのだとしたら、それはその誕生においてのみではないと、彼は考えた。
もう十四年も前の事になるのに、はっきりと思い出す。自分はあの時、確かに赤ん坊だったソロモンを見てこう思ったのだ。自分の人生が幕を閉じるとき、その舞台には二人しかいない。一人は醜く年老いた自分、そしてもう一人場に立つ演者は、この屍のような息子だと。


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