クリスマス市のグリューワイン

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預言者ナタンの懺悔 五話


その次の日、予定通りにシバ人共は自分たちの国に帰っていきました。私はあの後、すごすごと自分の家に帰り、無断で何日も、王宮に出ないままでした。王の顔を見るのが、怖いような思いだったのです。王からは不思議と、何も言ってきませんでした。
家に籠っている間、私は、幾度となく、あの夜聞こえてきた音の事を思い出し、あの時、ソロモンの部屋の前で行ったのと同じ行為にふけりました、。不思議なもので、私はすっかり年老いていたはずなのに、まるで若者に戻ったようであったのです。
しかし、いつまでもそうはしていられませんでした。それから何日もした頃、王から、王宮に来いとの達しが、私の息子を経由して入りました。私の息子の一人も祭司であり、王と親しい中だったのです。私にそれを言う息子は、痛ましい表情をしておりました。


私は、王の執務室に通されました。ソロモンは、私と二人きりで話をしたいと言っていたのです。私は何度も立ち入ったことのある執務室に、その足を進めました。
部屋の中に座っている少年を見て、私は背筋が凍りました。彼の美しい緑色の眼は、地獄に行って帰ってきでもしたかのように、絶望そのものの色に染まっていたからです。
「ナタン。僕は聞いた。お前の息子で、僕の友たるザブドから」彼は、何の前置きもなく、抑揚に欠けた言葉で、そう言いました。
「お前は、あの日の前に、何か薬をもらっていたそうだな」
その言葉を聞き、私ははっとしました。ばれていない。そのはずだったのです。何日間も、私は、まさかばれているなどとは露ほども考えませんでした。しかし、私は私の息子の事を忘れていたのです。今にして思えば、彼は、父の異常を私が思っている以上に見抜いていたのではないでしょうか。起こったことと、私が薬を買ったことを即座に結び付けるのは、いささか難しい事であったはずです。しかし、父の異常は彼にとって、十分結びつける手がかりになったのでしょう。それのみならず、息子は薬屋から、薬の内容までを聞き出していたようなのでした。
ソロモンはそれを聞いて、全てを悟ったのでしょう。理性高きはずの自分の体が度を越した欲望に犯された原因を。私は彼に、いつでもそれを仕込むことはできたのですから。
彼の視線がきっと、私を睨みつけました。それ以上、なんの問い詰めの言葉もいらなければ、弁解の言葉はおろか、罪を認める発言さえも必要はなかったのです。私はただ、ソロモンの前に、視線を合わせ、彼は「何故だ」と、震える声で私に言いました。
「なぜ、このようなことをした」
「王よ」
私は素直に、自分の思惑を話そうと思い立ちました。今思い出して恐ろしい事ですが、あの時、私に一切の罪悪感はなかったのです。私の言葉を思い返してみても、そうとしか思えません。
「私が、貴方を愛するあまりです」
彼は、それにピクリと眉根をこわばらせました。
「愛していた?僕を?」
「そうですとも。貴方以上に、私が貴方を愛していたまでの事です。貴方は、マケダを愛していらした。しかし、その愛を成就させることを、貴方は拒み、貴方自身を傷つけた。ですから、私が貴方を痛めつける貴方に代わり、貴方を愛し、その思いをかなえた、それだけの話です」
次の瞬間、私は起こったことが信じられませんでした。年老いて軽くなった私の体が、執務室の壁に強くたたきつけられたのです。視線を上げると、ソロモンが私を殴りつけたのだということがわかりました。
ソロモンは争いごとを好まぬたちでした。彼が誰かに暴力をふるったことなど、私は見たこともありません。彼の政敵ですら、手を下したのは私どもで、彼自身は最後までナイフ一本彼らに向けることはなかったのです。
にもかかわらず、ソロモンは私の体を殴りつけました。彼は、倒れた私によって、重々しい言葉で私に「そんなわけが、あるものか」と告げました、そして、はっきりわかりました。彼は泣いていました。怒りながら、泣いているのでした。
「お前が僕を愛していた?僕のために、これを行った?……ナタン、お前は僕を愛したのじゃない、汚したのじゃないか!……何よりも、彼女と、僕の間にあった愛は清らかだった。それで……僕たちは満足していたのに」
彼は私を力づくで押さえつけ、まくしたてました。
「けだものか虫がするような愛が、僕たちになぜ必要だった?ナタン、お前はよく言った。僕は賢いと。ああ、僕は賢い。そして彼女も、賢かった。僕たちが理性と知性に恵まれた存在なら、どうして理性のみで愛することができないなど、あり得るだろう?……僕たちの間に、肉体などいらなかった。精神のみで、僕たちは愛し合っていたのだ。体を結べぬのならば、それでもいい。彼女は、それにふさわしい存在だった。太陽に誓った永遠の処女、永遠に純粋たるべき存在だもの。そして、僕もそれにふさわしかった。無知なものが体を持って行う行為を、僕たちは全て、知性と精神を持って行っていただけだ……それを、お前が壊したんだ。お前に僕の気持ちがわかるのか!朝になって、理性がこの身に戻ってきたときの、僕の気持ちを!あの汚れない彼女に自分が何をしたか、分かってしまった時の僕の気持ちを!」
彼は私の胸ぐらをつかみ、そう言っていました。悲しみと怒りが入り交ざり、激情としか言いようのない感情に、ソロモンは身を置いていました。
「……彼女は、何も言わなかったんだ。僕を、責めもしなかった。許しもしなかった。ただ……ただ、一言、『帰ります、さようなら』とだけ言って……僕のところから、去っていってしまったのだ。永遠に。お前にわかるか。僕の手を離れて朝日に照らされた彼女を見て、僕がどのような思いになったのか、お前にわかるのか」
彼はもう一発、私を殴りました。それだけでなく、何発も何発も、殴りました、私はそれに、苦痛を、なぜか感じませんでした。苦痛どころか私はむしろ、それに快感を覚えていたのです。ソロモンに殴り殺されるのならばそれもまた本望と思えてきました。
彼は最後に、こう言いました。
「ナタン。強いてお前が誰かを愛していたというのなら……お前はお前を愛していたのだ。家に帰れ!もう二度と、王宮に顔を出さぬがいい!お前の顔など、一生見たくもない!」


私はその後、家に帰って初めて、自分のしたことが何もかも、分かったのでした。自分が今まで、いかに誘惑のため盲目となっていたのかを悟りました。
ソロモンは私に「私が愛していたのは私自身だ」と言いました。そう……何のことはありませんでした、全ては、その言葉に尽きたのです。ソロモンの愛をかなえてあげたい。そのように私が思っていたことは、すべてただの絵空事だったのでした。私が私を欺いていただけだったのです。
ソロモンは最初から、マケダと非理性的な方法で愛し合うことなど、望んでいなかったのです。冷静に考えれば、分かったはずでした。彼らの間にあるのは、極端に汚れない純愛であり、彼らは、それをするに足るほどの理性を持ち合わせていたのですから。私は、それを確かに崩したのです。ソロモンが心底愛したシバの女王との結びつきを、私は永遠に断ってしまったのです。彼が激怒するのは、当然の事でした。
私はただ、私のために、あの事を行ったのだと、私はようやく分かったのでした。そうです。私はなぜ、マケダを犯すソロモンに、ああも興奮したのでしょうか。簡単なことです。私の行動はただ、私がソロモンを汚したかったゆえのものなのです。私には、彼らほどの理性はありませんでした。理性の愛と言うものを、彼らほどには信じられなかったからこそ、私はマケダに嫉妬していたのです。彼女に、イスラエルに輝く純朴な美少年、ソロモンを汚されてしまうかもしれないとあり得もしないことを思い、私は彼女を憎悪していたにすぎないと、私はその時悟りました。私はソロモンと言いう美少年に欲情を抱いていたにすぎないのです。それはおそらく、即位式の頃からだったのでしょう。
マケダに汚されてしまうなら、私がソロモンを汚してしまいたいと思ったのです。精神のみで愛し合えるほど高潔な彼を、理性を失い女性を犯すけだものじみた存在へと貶めてしまったことに、私はあの時、興奮していたのです。私は彼を犯したかったのです。


彼の言葉通り、私はそれ以降、王宮から追われました、私はずっと家にて、たまに息子が心配そうに様子を見に来ました。
ソロモンはあの後しばらくふさぎ込んでいたということですが、ひと月もするころには、元のように王の仕事を順調にこなすようになりました。

ソロモンが結婚するということを聞いたのは、その時から一年ばかりしてからでした。行商隊の噂を聞くことには、マケダはあの後、国でソロモンの子供を産み落としたということです。処女しか女王になることを許されぬ国で、彼女がどうなったのか、行商隊のうわさはそこまで私に教えてはくれませんでした。ですがソロモンはそのことを聞き、急に、結婚をすると言い出したと言うのです。彼が選んだのは、エジプトの王女でした。エジプトは大国です。国の結びつきのため、最も力あるものを彼は選んだにすぎないということは明らかでした。
はるばるやってきたエジプトの王女は、不美人と言う言葉が実に似合いました。マケダとはとても比べ物になりません。しかしソロモンは、彼女を迎え入れ婚姻の準備を整えました。その間、私はずっと自宅にいて、ソロモン自身の顔は見なかったのです。
しかし、婚姻の前の晩、私はふと、例の薬の残りを持って、王宮に向かいました。

夜の王宮で、私は勝手知ったように、ソロモンの寝室に入りました。衛兵をごまかすなどたやすいものでした。私は寝ている彼に、静かに、あの薬を飲ませました。ほどなくして、彼は体の火照りのために、寝てもいられなくなりました。
私が何をしたか。言うもおぞましい事と思います。しかし、私は懺悔いたします。私は彼の前で、女となったのです。女がするように、私は、彼に抱かれました。そのように、彼の体を仕向けたのです。私自身が汚した彼の身を、私は、その身を持ってどんな女よりも先に味わったのです。
悪魔は人間に快感をよこすものと、私はその時、はっきりわかりました。私の人生の中で、それ以上の快楽はなかったのです。私は長い人生のうちいつよりも、その瞬間、満たされておりました。

ああ、神よ。以上が、私の、何物よりも、大きな罪でございます。私は、道理に外れた情欲にその身を焦がしたばかりか、罪もない少女を侮辱し憎み、彼女の人生をズタズタに引き裂き、そして、何より愛した少年の純粋な思いを土足で踏みにじって、彼の心身両方に消えない傷を刻み付けたのです。


薬が効き目を失ったころ、彼は私を見ました。そして、笑ったのです。何もかも、捨て鉢になったように、狂ったような笑いを彼はしました。
「ナタン、もう良い。僕はお前を許そう」彼は言いました。
「僕に、お前が汚れているなど、責める権利はどこにもないもの。僕も汚れているのだ。この世で何物よりも清らかな存在を、僕はこの身で汚してしまったんだもの」
その時、私は、私が惚れた少年は死んだのだということを悟りました。おそらく、それは彼自身が殺したのでしょう。もう二度と私が、それに会うことがないように。ソロモンも、全てをわかっていたのです。彼は、賢い子でありました。


ソロモンが美しくもないエジプトの姫を妃に迎えたころから、私も王宮に帰ることを許されました。彼はわざと私に、時たま挑発するような視線と態度を投げかけました。そして、それに興奮してあらぬ姿になる私を何度もあざ笑いました。


やがて、私は死の床に就きました。ソロモンの治世は七年になり、あのマケダが来たころにはまだ作りかけだった貴方様に捧げる神殿も完成間近となったころでした。
年齢も年齢ですので、みんな私を大往生と言い、私に最後の別れをしようとしてきました。しかし、ソロモンだけは、ついぞ今の瞬間まで、私のもとに現れません。当然です。私は彼に、それほどの事をしたのですから。
神よ、私には見えます。ソロモンの破滅が。彼は何もかもにやけになって、今に貴方の道を外れるでしょう。あの日夢枕に貴方を見たように、神を感じることなど彼にはもはやできぬでしょう。そして、おそらく、私がいなければ彼がそうなることなど、ありえなかったのです。彼から理性と純朴な心をはぎ取ったのは、この私です。


主よ、イスラエルの神よ。この途方もなく罪深い、悪魔に魅入られた男を、どうぞ罰して下さい。貴方の愛するイスラエルの罪が、少しでも清められますように。そして願わくば、ソロモンが狂気に身を染めるまでの時間を、少しでも、長くしてください。
ああ、気が遠くなる。主よ、私はもうおしまいです。

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預言者ナタンの懺悔 四話

いよいよ翌朝に彼女が国を立つという夜、晩餐の前に、私は彼女を待ち伏せしておりました。彼女は私を見て、挨拶こそしましたがあまり面白くなさそうな様子でした。当然でしょう。彼女も私の無礼なまでの敵意を感じ取っていたのです。
「お別れには少し早いですが、イスラエルにはお世話になりましたわ」彼女はそう言いました。私は、感情を殺すように、彼女に言いました。
「シバの女王よ。貴女のような下賤な国の者から離れられることを、私はたいそう喜ばしく思いますな」
私はわざと、度を越して無礼な言葉を彼女に浴びせかけました。彼女を挑発するためです。彼女は、まんまとそれに乗り、不快感もあらわに、そのソロモンを魅了した瞳で私を睨みつけました。私はさらに、言葉を浴びせました。
「所詮、貴女は異教徒だ。乞食や盗人にも劣る存在だ」
「……ずいぶんなお言葉ですこと」
彼女が言葉を持って私に返答したことに、私は内心でほくそ笑みました。
「おや、違うのですか。貴女は盗人ではないと?」
「私がいつ、イスラエルのものをとりまして?あんまりと言えばあんまりな言い方ですわ、預言者様」
「今とらずとも、これからとるかもしれませんな。何にせよ、盗人と言うのは最後まで油断がならん」
「私が尊敬すべきイスラエルの王の物を盗むなど、ありえないことです!」
「ほう、それは本当ですか」
私はいかにもわざとらしく、大げさな笑顔を作りました。そして、彼女に言い放ちました。一番、言うべきだった台詞です。
「私は、貴女が物をとらないなど、信じられませんね。そこまでほらを吹くのなら、イスラエルのものを何か一つでも不当に取ったなら、我々、真実の神の民たるイスラエルに口答えする権利はなくなるという覚悟をお持ちでしょうな。高慢な女王よ」
最上級に侮蔑の心を込めて、私はそう言いました。彼女はいわれのない敵意に臆するほど臆病な女でなかったのを、私はよく知っておりました。男を男と言う理由のみで敬うしとやかなイスラエルの娘ならば、そうもしたでしょう。しかし、彼女のそうでないところが、ソロモンをきっと引き付けたのですから。
「ええ。誓って差し上げますとも。シバの女王の名にかけて」
彼女も、私に最低限の礼儀を払うことすらやめて、私を見下しにかかりました。私はそれを聞いて、去ってゆきました。

宴会の場で、私はいつもの通りソロモンのそばにおりました。マケダは私の存在が気に食わないようでしたが、最後まで、例のことをソロモンに告げ口することなどありませんでした。彼女のプライドがそうさせたのでしょう。
彼らはいつも通り、二人きりで話し込みました。「ソロモン」彼女は、言いました。
「私は真実、この目で見るまで、これほどあなたの国と貴方自身が素晴らしいとは、思っておりませんでしたわ」
彼女は葡萄酒に浮かされたように、そう言いました。私はわざと、奴隷に、彼女には葡萄酒のみをやってあまり水をやらないように指示しておりました。
「貴方の事績、貴方の知恵……遠い国で聞いてきたものと、同じどころかそれ以上だった。実際に、こうして目に見るまで、私はそれに半信半疑だったというのに。……ソロモン、イスラエルの王。貴方のおそばに居て、貴方の言葉を聞ける貴方の臣民は……なんて、幸せなのでしょう」
その言葉は甘く、穏やかで、まるで詩の調べのようでした。そしてそれを語る彼女の顔は、非常に切なく、愛らしくあったものです。彼女をここまで憎悪する私ですら、そう思えるのですから、そうでないはずがありませんでした。
それはおそらく、彼女の本音そのものなのでしょう。ソロモンのそばに居られることが、何よりも幸せであると、彼女は言ったのです。それは賢王を尊敬する女王の言葉でもあり、目の前の少年に恋する少女の言葉でもありました。
「ありがとう、マケダ」ソロモンは彼女にそう言いました。
「僕も、貴女に礼を言いたい。僕が生きてきた中で、貴女ほど素晴らしい人物はいなかった。貴女は理知的で、心優しい。貴女の治める国、シバの民は、きっとこれから、幸せに生きられることでしょう。シバを良くお治め下さい。僕は……このイスラエルで、貴女と貴女の国が祝福に満たされることをずっと願っております」
彼はそう言いました。最後まで、イスラエルに残ってほしい、自分のそばにとどまってくれ、とは、言いませんでした。
「(しかし、もう心配はない)」私は思いました。「(私が全て、してさしあげるのですから)」

宴も終わりに近づきました。もう明日の出発も早い事ですし、マケダはすっくと立ち上がって、ソロモンに何か語りかけようとしました。
しかし、うまい別れの言葉も、さすがに出なかったのでしょう。彼女は一言「お休みなさいませ、ソロモン」と言ったきりでした。

侍女に連れられ去っていく彼女の姿を、ソロモンはじっと名残惜しそうに見ていました。その時です。私は懐に隠してあった薬を、さっと飲み物のカップに注ぎ入れました。そして、それとなく彼に渡したのです。
彼は無言でをそれを取り、飲み干しました。つらそうに、ため息をつきました。「陛下」私は、彼に、非常に優しく言いました。
「陛下もお休みください。もう、夜も遅くなっております」
「うん……そうだな」
彼の顔は火照り、目はぼうっとしていました。……どこか、少女のようでもある、艶っぽい表情に思えました。私は心の中に再び、何らかの感情が立つのを感じました。私の胸が異常なほどにざわめいたのです。どくりどくりと早鐘を打ち始めました。ソロモンのその表情に、私は妙な興奮を覚えたのです。
彼はフラフラと立ち上がり、自分の寝室に歩き始めました。護衛兵たちが後をついていこうとしましたが、彼は「一人にしてくれ」と言うのみでした。


私は急いで、さっさと目的の場所に向かいました。衛兵をごまかし向かった先は、マケダのいる迎賓館の部屋に付属している中庭でした。近づくたびに、庭からパチャパチャと水音がしました。私は、恐ろしいほど口角が吊り上るのが解りました。
私はそっと物陰から様子をうかがいました。満月の光に照らされて、私には、マケダが庭の噴水の水を必死で飲んでいる光景が見えました。
イスラエルの料理はただでさえ刺激が強くて、喉が渇きやすいものです。その上、水ではなく酒ばかり出されていては、相当喉が渇くのも当然でしょう。その上私は奴隷女に、マケダの部屋の水差しを空にするように仕向けておいたのです。
夢中で噴水の水を飲み続ける彼女の前に、私は静かに歩み出ました。マケダは私の気配に気が付き、驚いた声をあげました。客に配慮して男は絶対にここに入れぬ決まりとなっていたのですから、当然です。
「なぜ、ここにいるのですか!」
「何故でもよろしい。それよりも、シバの女王よ。貴女はやはり、とんだ盗人でしたな」
私に言われた言葉に目を白黒させるマケダに、私はこう畳み掛けました。
「この乾いた国、イスラエルで水がいかに大切なものかは、貴女もよくご存じのはずだ」
それを聞いて、彼女ははっと口をつぐみました。彼女も気が付いたのでしょう。彼女のしていたことは、確かにイスラエルのものを盗むことだったということに。
自分は盗みなどしない、女王の言葉に二言はないと言ったのは彼女自身です。茫然と立ち尽くす彼女の手を、私は強引に引きました。
「貴女は言った、もう、貴女が私どもに対して口答えし、権利を主張することはないと、貴女自身がその立場にかけておっしゃったのだ」
「わ、私は……」
彼女自身とて、何かおかしいことに感づいたのでしょう。ひょっとすれば私が仕組んだということも、すでに気づかれていたかもしれません。しかし彼女の誇りは、許しを請うことを許さなかったのでしょう。
「こちらに来なさい」私は強迫するように彼女を引きました。宮廷を熟知する私は、誰にも気づかれることなく、マケダを目的の場所まで連れて行くことができました。その場所と言うのは、ソロモンの部屋でした。
私は彼女を、あらんかぎりの憎しみを込めて睨みつけました。
何か言ってやりたくもありましたが、彼女は何か言うにも憎たらしすぎる相手でした。私はノック一つせず、彼女を、彼の部屋に放り込みました。

おそらく、彼女は最初戸惑ったことでしょう。最初のうち、部屋からは扉越しにも聞こえるような声は聞こえてきませんでした。しかしほどなくして、マケダの悲鳴が聞こえました。
当然と言えば当然です。この私が、ソロモンに飲ませたのですから。理性を吹き飛ばし人間を欲望のみにしてしまうほどの、強力な催淫剤を。
理性が彼の望みを阻害するというのなら、それをはぎ取ってやればいいのです。彼女は、ソロモンのものです。いもしない太陽の神のものなどではありません。もしもマケダが真に彼の妻だというのならば、地平線から舞い戻り、一瞬でソロモンも、この私をも焼き払ってしまえばよいというのに、彼女の夫は西の地の底で呑気に眠ったまま、来ることもしなかったのですから。
叫ぶような抵抗する声が徐々にかすれ、泣くような声に変わりました。それに加えて、はあはあと荒い息遣いが聞こえるような思いでした。私は部屋の前を立ち去れなかったのです。立ち去れなかったどころか、確かに私は、その部屋で行われていることの音を聞いて、今までの人生で一度も感じたことがないほどに、興奮していたのです。
私は、自分のものが熱くなるのを感じました。自分はもうヨボヨボに老いた身で、そのようなことが起こるはずもないと思っておりましたものを。私は、それに手を添えました。部屋の中から、音が聞こえてまいります。その中で行われていることが、私の脳内にありありと思い浮かぶような思いでした。神よ、お許しください。その時、私は完全に、悪魔の差し出す快楽にその身をゆだねました。私は興奮に身を任せ、その身を突き動かしました。誰もいないソロモンの部屋の前で私は一人、絶頂の快楽に老爺の体を蝕ませ、果てたのです。

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預言者ナタンの懺悔 三話

ソロモンとマケダはそれ以降、一層親しくなったように思えました。彼らは今まで以上に、よく話をするようになりました。時に私すら、その場に立ち入ることはありませんでした。
彼女は建設途中のソロモンの神殿や、ソロモンの宮殿、そして我らがイスラエルの臣民を見て、本当に感心しているようでした。彼女はいつも、イスラエルをほめたたえ……私のように。そうです。私のように、口汚く異国を罵ることなどはしなかったのです。
彼女はイスラエルの男尊女卑には少し抵抗があるようでしたが、それでも、イスラエルの女性たちも男性たちも、同様にほめたたえました。
花の咲き誇る庭園でいつものように話をしあう彼らを、私はある日ふと見つけました。そして不快感が私を襲いました。彼らはじっとお互いを見つめ合って、楽しそう、と言うよりも、幸福のうちにあるように会話をしておりました。
この感情はなんだろうか?私は常々、疑問に思っていました。私が、あの娘をこれほどまでに嫌うのは、何故だろうか。今になってわかります。彼女が女性を重んじているから、彼女が嫌いなのだと、私は思っておりました。しかし、違うのです。私は、先に彼女が嫌いで、その他の事は全て、それに対する理由づけにすぎませんでした。


アフリカの宝石と言わんばかりの美しい女王と王が親しいことが、あらぬ想像を呼ばないわけはありませんでした。ソロモンにはまだ妻などいませんでした。彼もまだ若いのですし、マケダも同年代の少女です。おまけに、お互いが美しいもの同士です。そのような感情が生まれたところで、何の不自然がありましょう。
ただ、私はソロモンはそのことを一切気にしていないと思っていました。彼は驚くほどに理性的であり、清廉であると確信していたからです。しかし、それもまた、正解でもありませんでした。ソロモンは確かに、自分の事を気にして噂をとがめはしませんでしたが、彼女のために噂するものを激しく注意しました。彼女は国のしきたりにより処女たることを求められているのだから、たかだか噂であろうとも、男との関係があるなどとすることは彼女への侮蔑にあたるとしたのです。普段の穏やかさからは想像できない剣幕でそうはっきりと告げるソロモンは、どこか、憤りを感じているようにも見えました。
私はふと、そんな彼が心配になりました。彼はマケダとともに話すときはいつも通り穏やかながら、自分と彼女に関するうわさを聞くたびに、どんどん過敏に反応するようになっていったのです。そこに、彼の言っている理由以上のものが私には感じられました。

ある日、思い余って私は彼に、そのことを話しました。夜の事で、彼の部屋には私と彼の二人だけでした。彼は椅子に座って腕を組みながら、私の問いを聞いていました。彼は、私の懸念を素直に認めました。
「ナタン。……お前の言う通りかもしれない。僕はいささか、僕と彼女に関してあらぬことを言われるたび、我を忘れてしまう」
「お落ち着き下さい。ソロモン様」私は言いました。「所詮は噂です」
「だが、噂であっても、僕は我慢ならないんだ」彼はきっとした目つきになって、そう言いました。「いや……そんな噂を立てられること自体が、僕は嫌だ」
「何故ですか」
彼はその問いに、言葉を詰まらせました。長い間があきました。ちらちらと窓の外に燃える小さな火は、シバ人がテントを張っている場所であることがわかりました。彼らは、遠く離れた場所で祭儀をしていたのです。その日、シバの女王も祭儀に出るため、迎賓館を離れておりました。シバ人の太鼓の音が、うっすらと、こちらまでで聞こえてくるようでした。「……僕たちの」彼はゆっくりと言葉を紡ぎました。
「僕たちの間にあるものは、もっと清らかだからだ。僕たちの間には、そのような下種な言葉では語れない愛があるんだ」
彼はそう言って、火が瞬くように燃えている方をじっと窓から眺めました。そしてもう、私の方を見ようともしませんでした。
愛。
その言葉がどれほど、私に重くのしかかったことでしょう。うっすらと、そのような気はしていたのです。ソロモンの、そしてマケダの頬が色づくのは、会話の熱気のためだけではないと、私も思っていたのです。
愛。愛。私は、ソロモンの口からその言葉が出たことが、何にもまして重く感じられました。そして自分の中に、突然に、黒く渦巻く感情が竜巻のように湧きあがるのが解りました。その感情の中身はなんであったか、当時の私にはわかりませんでした。
ですが私にはわかりました。愛しているなどと言うことは、彼らは使いもしないのです。彼らはただ、話すだけです。二人にしかわからないことを話しているだけで、彼らの間には絆ができるのです。出会って一月ばかりしかたっていない仲の二人に、十七年もソロモンと付き添っている私以上の絆ができていることが、私にはわかったのです。ソロモンはじっと、シバの太陽神を崇めるための太鼓の音を聞いていました。その耳は、主の祈りの文句しか聞かないはずの耳であったのに、彼はじっと太鼓の音を聞いていました。


ソロモンがマケダを愛している。そして、おそらくマケダもソロモンを愛しているのだ。私の頭は、日を経るにつれ、その考えをより強固なものとしていきました。見れば見るほど、彼らは確かに、愛し合っていたのです。その時まで気が付かなかった私が馬鹿でした。繰り返しますが、不自然な話ではありません。ソロモンと言えども、若い少年です。あのような美しく魅力的な少女と親しくして、なぜ、そのような感情をちらとでも持たずにいられましょう。マケダも同じです。美しく聡明で、立派な志を持った少年に、女が少しも欲を抱かないなどあることでしょうか。
しかし、どうなりましょうか。ソロモンの言うように、マケダは永遠の処女たるべき存在なのです。シバの因習がそう定めているのです。ソロモンには、彼女を妻にすることなどできません。
ソロモンはどれほど、そのことを苦痛に思っているのか。それを私は、推し量れませんでした。女を知らぬ彼はそんなことなど考えもしていない、そのように思えました。彼はただ、マケダと一緒に話ができれば幸せと言ったように見えました。「(ですが、痛ましく思わざるを得ない、いずれ貴方に訪れる苦痛を考えると!)」私は、そう思いました。ソロモンがマケダを愛することに対して生まれた途方もない悲しみを、私はそう解釈したのです。


シバの民がもう帰らなくてはならないという話になったのは、間もなくの事でした。当然の話です。マケダも一国の女王、いつまでもイスラエルに長居をしているわけにはいきません。
それに、元からそうだった彼女は、ソロモンの知性に身をさらしたことで今やソロモンがそのまま女になったかのごとく、明哲さにあふれていました。もはや、彼女は頼りない新米の女王などではありえないのは誰の目にも明らかでした。
「あと一週間ほどで、国に帰ろうと思いますの」マケダはある日の晩餐、そんな話を切り出しました。
ソロモンはその言葉を聞き、一瞬ぴくりと表情をこわばらせました。しかしそれを言う彼女の方も、また、悲しげな表情をしておりました。
「そうですか」彼は、そう言いました。
「申し訳ありません」
「何故、謝る必要があるのですか」彼は言いました。
「別れの前の夜には、貴女が来た日のような、盛大な宴をいたしましょう」
彼はそう言って、一応は美しい笑顔をつくって見せました。

それからの一週間は矢のように流れました。おそらく二人にとっては、永遠に過ぎてほしくない時間であったでしょうにもかかわらず。
私はその間、以前にもましてひしひしと心を痛めていました。頭に浮かぶのは、ソロモンの事ばかりです。彼は女を知らず、みだらなものに心惑わされることなく、育ちました。そのような彼が、初めて愛した少女が、今目の前から去ろうとしているのです。
悲しい事ではありませんか。しかし、彼にそのことを問いただそうとも、彼はただ「彼女は女王だ。いずれ、帰らねばならない」と返すのみでした。決して、彼女を自分のものにしたいという心を表に出すことはなかったのです。
私はそれを、彼の理性ゆえに、と思いました。そして、この上なく悲しみました。なぜ、彼が傷つかなくてはならないのでしょう。彼は自らの思いを押さえつけ、自分自身で彼を傷つけているのです。私はそう思いました。そして、私の心にぽつりと、ささやくものがありました。
それは甘く、私の心に染み込んできたのです。その時私は気付かねど、あの時、私は初めて、誘惑と言うものに出会ったのだと思います。なるほど、世の人間が誘惑に打ち勝てぬはずです。誘惑とはあそこまで、正体を見せずに忍び寄るものですから。
「彼自身が彼を救わないのなら」誘惑は言いました。「彼を救うのはお前しかいなかろう」。

誘惑は、悪魔は、実に私の心を突きました。「(ああ!そうだ!なぜ今まで気が付かなかったのだろう。私にとって何にも勝るものは、ソロモンを救うことだったのだ。ソロモン、私が赤ん坊のころから育ててきた、何にも勝る美しく、賢い王子。あの子にまつわることだけが、私の欲望だったのだ)」私はその時、はっきりと心に思いました。
ソロモンの理性が、シバの因習が、彼の愛を苦しめるならば、そのようなものはすべて私が無に帰してやろう。私の心の中で、悪魔はまるでパン種のように膨れ上がりました。私が知り合いの薬屋のもとにやってくるころ、それは膨れに膨れ、とうとう、私の良心全てを押しつぶしてしまったのです。

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預言者ナタンの懺悔 二話



やがて月日は過ぎ、ある日イスラエルに、ダビデの時代でもあったかどうかと言うほどの華やかな行列がやってまいりました。事前に受け取っていた知らせから、それがなんであるかは無論のこと私どもにはわかっておりました。シバの女王の率いる行列です。
エルサレムの民は皆、生まれて初めて見るほどのその華やかな行列に見とれておりました。宮廷の者も、少なからず窓からその様子に見とれておりました。シバの国、アフリカにある異国の国のものなど、見る機会はそうそうないのですから無理からぬ話ではありました。当のソロモンは、静かに玉座から降りて、国賓を自ら出迎えるため宮廷の前に誂えた椅子に向かって歩きだしました。私も後ろにつきました。

にぎやかな行列はまっすぐイスラエル王宮に向かい、やがて彼らのうちの先頭が到着しました。行商隊の提督がソロモンに恭しい挨拶をしたのち、金糸で燃え盛る太陽の模様を織り込んだ赤いじゅうたんが敷かれ、その上に若い女奴隷が薫り高い花を撒き散らしました。そしてやがて、その上を静かな歩き方で、迷いなく歩いてくる姿がありました。まっすぐにソロモン王を見据えるその異国の少女こそ、シバの女王、その名をマケダと言いました。
その場の雰囲気を、私は今でも忘れるはずがありません。いや、私以外のだれでも、忘れられたはずはないのです。シバの女王マケダは、私たちの想像していた弱く、たよりのなさそうな少女とは似ても似つかぬものでした。
彼女はつつましやかなイスラエルの娘のように、その頭をスカーフで覆うことはしていませんでした。ふわふわとした豊かな黒髪はまるでやわらかい雲のように、それに飾ってある花飾りと宝石を包み込んでおりました。背は流石に少年ほどではなくとも、同年代の少女の事を考えればすらりと高く、背筋をまるで男がするように伸ばして、威厳と知性を思わせる堂々とした態度でありました。アフリカの太陽の国から着たに相応しく黒く日に焼けた肌を、イスラエルの色白の娘は笑うこともできたとも思いますが、誰ひとりそのような感情は持っていなかったはずです。彼女の肌は、黒くともその場にいたどの娘よりも美しいものと映っておりましたから。ぱっちりと開いたその瞳は、宝石よりも光り輝いておりました。そしてその顔のつくりを思い出すたび……私の心には、憎悪の念が湧き上がってまいります。彼女は、美しかったのです。たった十七の小娘でありながら、私が生涯に見たどの女よりも、彼女は美しいと感じました。そう……言うのならば、彼女の美しさに匹敵しうるものは、この世では、ソロモンだけである。あの時、私はそう思ったのです。
王宮の前庭に立つ者共は、祭司も護衛兵も野次馬も、皆彼女のその美貌に圧倒されて、惚れ惚れとしてさえおりました。たかだかつい最近王座に就いたばかりの少女とは思えぬほど、彼女に子供じみたあか抜けなさはまるでなく、高貴な女性の魅力を彼女は持ち合わせていたのです。目の前に現れたそれに、イスラエルの男どもが胸をときめかそうとも、不自然ではないでしょう。神よ、貴方が我らを、そのようにお創りになったからです。
しかしただ一人、その中で例外がありました。ソロモンです。彼は彼女を目の前にしても、全く平生のまま、理性的な笑みを浮かべて彼女と向かい合っておりました。私はそれを見て、何か妙に、安堵するものがあったのです。その理由がなんなのか、その時の私にはわからずじまいでした。
彼女はソロモンの前にたどりつくと、一国の王が一国の王に取るものとして最上に敬意を払った礼をしながら、「お目にかかれて光栄ですわ。イスラエル王、ソロモン様」と、完璧なヘブライ語で告げました。
「シバ王国女王、マケダと申します」
「お顔をお上げください。マケダ女王様。遠い異国よりの旅、本当にお疲れ様でした。私も、貴女と会えたことをうれしく思います」
ソロモンとマケダはそう、挨拶を交わしました。行列の後ろの方が到着し、シバからの贈り物が次々と王宮の前庭に広げられていきました。ソロモンはそれに、丁重な感謝の言葉を告げました。
「これ程までの贈り物は、父の治世にも見たことがない」彼は言いました。マケダはそれに対して、静かに上品な微笑みを持って返しました。
「どうぞ、旅の疲れをお癒し下さい。貴女の到着を祝い、今宵は盛大な宴を開きましょう」ソロモンは彼女に言いました。「お心遣いに感謝いたしますわ」と言い、彼女はもう一度、ソロモンに礼をしました。

その夜の晩餐で、ソロモンの隣に座ったマケダは、彼と楽しげに話しておりました。私はソロモンの教育者として、彼の近くに座っていたのでそれがよく分かりました。
「ソロモン王様。貴方は大変、賢いお方と伺いましたわ。一つ、そのお知恵を試させてもらってもよろしいこと?」彼女はふと、不敵な笑みを浮かべて彼に言いました。ソロモンはそれに、同じような笑みを返して「良いですとも。どのような方法で?」と返しました。
「謎かけでも致しましょう。知恵のみをただ単純に測るには、一番良い方法ですから」
「理にかなっている。それでは、どうぞ」
彼女は少し考え、言いました。
「嵐の海で船乗りを助け、富豪はそれを誇り、貧者はそれを恥じ、鳥はそれを喜び、魚はそれを恐れるものは、なんだと思われますか?」
ソロモンはそれを聞いてにやりと笑い、返答しました。
「亜麻は、船の帆になりますし、富豪の贅沢な服にもなれば貧者のボロ服にもなりますし、鳥の餌にも魚取りの網にもなりますな」
「正解ですわ!」マケダはパッと明るい表情で、すぐに答えを導き出したソロモンに笑いかけました。私は、そんなものソロモンなら答えられて当然だ、と言う思いで二人を見ていました。二人は私のことなど全く意に介していないようでしたが。
「今度は私からもよろしいですか」ソロモンは彼女に言いました。
「ええ、勿論」
「……この場に、イスラエルの女が布で作った薔薇が九十九輪と、神が地から出でさせた薔薇が一輪あるとしましょう。貴女はそれらに触れることも嗅ぐこともなく、どうやって神の作った一輪を見極めますか?」
「私なら」彼女はすぐさま言いました。「一匹の蜜蜂の手を借りますわ。彼女は女王に蜜を与えるため、すぐさま真なる一輪を探し出してくれましょう」
「お見事だ!」彼は言いました。
「ソロモン王様、貴方は確かに、噂通りのお知恵があると見えますわ」
「それはこちらの台詞です。マケダ女王様、貴女もなんと、賢いお方であることか。私は貴女と言う客を向かえ入れられたことを、本当に主に感謝いたしましょう」
そう言って、彼ら二人は笑いあいました。
彼らの会話は続きましたが、その会話は十七の少年少女がよくするような、下らぬものではなかったことをよく覚えております。マケダは貴方が何にも勝る英知をお授けになったソロモンには及ばねど、確かに非常に知的な少女でした。ソロモンの話す話に彼女もすっかりついてきていたので、いつの間にやら周りに控える我々大人たちが彼らに舌を巻いてしまいました。
私はふと、ソロモンの表情を見ました。そして、ちくりと心が痛みました。私は彼の父親よりも長い間彼の傍にいたというのに、あそこまで楽しそうな表情を、見たことがないのでした。
彼と彼女は結局随分と馬が合ったと見えて、会うたびに我々を放っておいて、我々では追い付けない会話に花を咲かせるようになりました。


シバの女王の到着から数日した日の事でした。ソロモンはいつもの通り、王の果たすべき務めとして、人民の裁判に臨んだのです。ただ、例外が一つありました。彼の玉座の左側に、ちょこんと美しい椅子が誂えてありました。シバの女王のたっての頼みで、裁判に同席させてほしいということだったのです。裁きの場に女性が立つなど、ダビデの治世にはなかったことですので私は反対しました。しかし、ソロモンは「彼女は僕の知恵を見たいと言っている。そのために来たことは、僕達も知っているはずだ。ならば、見せてやるのも道理だろう」と言いました。ならば他の人民と同様立って見るのが当然だと、私はよっぽど言いたかったほどです。しかし、曲りなりとも彼女は女王の身、いくらなんでもそれを言葉にはできませんでした。
私は普段通りに王の右側に立ちながら、酷い不快感に襲われておりました。この異国のあどけない小娘に、神聖なるイスラエルの伝統が歪まされるとは。一度、耐え切れずに嫌悪の眼でマケダをそっと睨みつけました。ですが彼女は目の前で行われる裁きに集中しているのか、全くそれに気づくことはありませんでした。私はかえって、それを腹立たしく思いました。
裁きが進む中、私の心の不快感を不意にこみ上げたものがやってきました。進み出たものは、女が二人と赤ん坊が一人。そして、女はスカーフをかぶっておらず、代わりに派手すぎて安っぽい宝石を身に着けておりました。その風体が示す通り、彼女は売春婦だったのです。
売春婦!女の中でももっとも汚れた存在が王の前に進み出、厚かましくも裁きを請うことに私はいよいよ腹を立てました。もとからシバの娘がそこに同席していることへの不快感も相まって、私はついに「陛下」と口出しをしました。
「この者達の裁きは、執り行う必要などありません。彼女たちは、売春婦です」
ソロモン王はそれを聞いて、ピクリと反応しました。「陛下!」と、発言を許されたけでもないのに、一人の売春婦が勝手に口を開き、耳障りな高い声でわめきました。
「お願いです、お慈悲を!私の赤ん坊が、奪われたのです!」
「陛下、彼女らは姦淫の女です。汚れた存在です」私は言いました。「貴方のごとき清廉なお方が相手にするものではありません。立ち去れ、売女ども!裁きの場はお前たちのためにはない!」
女たちはなおもわめきました。ソロモンは困っておりました。その時です。
「それはおかしいですわ。預言者様。売春婦もまた、人間であり、母よ。母が子を失ったというのなら、悲しみも憎しみもするし、訴えたくなるのは当然だわ」
王の左隣に腰かけたマケダが、口を開いたのでした。私の不快感が一気にこみ上げたのは、言うまでもありません。私はソロモンを挟んで、彼女と口論しました。
「異邦人は黙っていてもらおうか!お前の国ではどうか知らんが、イスラエルの国では姦淫は律法に背く罪なのだ!」
「ええ、そうでしょうね。でも、それがどうしたの?今まで歩み出てきた訴え人が、誰ひとり、一つの罪も犯さなかったという証拠は、どこにあって?」
「女はただでさえ汚れているのだ、さらに堕ちた女など、裁く価値もない!」
「貴方が女をどう見ているかは関係ないわ。訴え人はイスラエルの人民であり、子を失ったことを嘆く母親よ。裁きを受ける権利はあるわ」
彼女はやはり、女をちやほやする民族の者です。女は男よりも劣っているということを全くわきまえていないと見えて、ずけずけと私に次から次に反論してきました。私はさらに頭に血が上りました。しかし、その次です。私の血はさっと引けました。
「黙るんだ、ナタン。僕は、彼女の言い分を正論と認める。売春婦であれどイスラエルの民であり、確かに僕には彼女らの裁判をする義務がある」と、ソロモンが言ったからです。
もう、私は何も言えず、ただ縮こまってしまうしかなかったのでした。しかし、私は内心では、マケダを非常に憎々しく思いました。


その夜の晩餐の事でした、ソロモンとマケダは、その裁判のことを話しておりました。むろん、裁判は神よ、貴方がソロモンにお与えになった知恵のおかげで、滞りなく解決しました。ですが、ソロモンは、ことをそれだけにはとどめなかったのです。彼は晩餐の席で、彼女に感謝の言葉を述べました。
「マケダ、ありがとうございます」と、ソロモンは彼女の顔をしっかりと見て言いました。「あれが解決できたのは、貴女のおかげでした」
「そんな。貴方様のお知恵あっての事ですわ」
「いえ……貴女が、売春婦であれど母であり、子への愛情を持つものだ、と言ってくれればこそ、私は公平な裁きを下すことができたのです。ひょっとすれば、裁きを放棄していたかもしれなかった。……やはり、違う価値観を持つ相手に触れることは必要ですね。今日は勉強になりましたよ。私が男尊女卑のイスラエル社会の中で、いかに知らず知らずのうち偏見の心を持ち女を不当に軽んじているか、知ることができました」
その言葉が私にはっきりと聞こえてきたのです。私は、心臓がどきりと跳ね上がりました。明らかに私のことを話しているではありませんか。
それにしても、これはいけない。ソロモンが、あの賢い、神の道にかなった子が女性を重んずるというばかげた異国の風習に、心を惑わされている。私はその時、そう感じたのです。
「マケダ。貴方は私の話を勉強になると言ってよく聞いてくれますが」ソロモンはカップの中の葡萄酒の水面を揺らして、言いました。「私の方もあなたからもいろいろと教わりたい、と思いましたよ。構いませんか」
「ええ、つつしんでそうさせていただきますわ」彼女はにこりと明るく笑い、それを快諾しました。
私はめまいがしました。何物よりも賢いと私が崇めていたソロモンが、異国の小娘風情にそんなへりくだったことを言っているのを聞いて、です。彼にはイスラエルの教えだけで十分なのです。そう私は思ったのです。彼女に、彼を汚されてしまうような思いでした。よっぽど、唸り声をあげて彼らの間に入って、ソロモンを異国の女から引きはがしたい気分でした。しかし、いくらなんでも宴会の席で、どうしてそのようなことができましょう。私はそれを断念しました。

それから先、彼はよくよく、彼女の口からシバの話を聞きました。女性を重んじ、血統をないがしろにする、ばかげた国の話をです。
シバの国では、女性しか王になれないばかりか、その女王は絶対に未婚の処女でなくてはならないというのです。なぜならば女王は彼らの崇める太陽を唯一夫とする存在であるから、らしいのです。ですから無論、女王の娘が女王を継ぐということでもないらしいのです。シバには王家などなく、有るのはただ、女王だけらしいのです。また、女王の国に相応しく、臣民たちの間でも、女性の方が上位なのがシバと言う国らしいのでした。我々イスラエルでは女性はつつましやかに家にいる者ですが、シバの国では能力次第で女性も男がするような仕事をし、スカーフなど被らずに出歩くというのです。ありえない、なんといかがわしい事でしょう。きっとかのソドムもこのようなものだったのだ。私は聞きながら、そう身震いしました。女性なんぞを重んじているからシバは小国なのだ、と茶々を入れたくもなりました。
「女性側から離婚を申し立てる権利もありますわ。それに、乱暴者の夫は厳しく罰せよという法律もありますの」
「ふうむ……面白い。イスラエルでは、そのようなものはありませんからね」
しかし、私の心を最も波立たせたのは、そんなおぞましい話に相応な反応をしないソロモンだったのです。彼は本気で興味深そうに、それを聞いていました。
「いずれ私も、シバの国に行ってみたいものです」
「ぜひおいでください。貴方様がなさってくれたように、手厚く歓迎いたしますわ」
私はその言葉を忘れたくて、酒に強いわけでもないのに一気に葡萄酒を飲み干しました。

……ああ。主よ、申し訳ありません。ずいぶんと、感情的になってしまいました。
彼女に関する何もかもについて、思い出しても、全く怒りが収まっておりません。罪深いことです。私は、彼女に憎まれど、彼女を憎む権利などはないというのに。私の罪は、それほど根強いのです。お許しください。私はよく覚えております。感情のあまり、私はソロモンまでを馬鹿にしてしまった。今にして思えば、ソロモンの対応の方が立派ですし、また、それは非常に彼らしかったと思います。彼は自分の知らぬものを素直に認め、知ろうとする気概のある人物でした。
しかし主よ、そのような日々、耐え難い嫌悪感に襲われながら、私の心を一つ快楽にくすぐるものがあったのです。話に熱中するあまり、ほんのりと頬を上気させたソロモンの表情が、私には、安らぎを与えるほど美しく思えました。

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預言者ナタンの懺悔 一話

全知全能なるイスラエルの神よ、私は死の間際でございます。私は貴方に罪を告白いたします。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ。私は幼少の折、貴方のお選びになった世にも偉大なサムエルに師事を受けて以来、預言者でございました。貴方の言葉を受け取り、神に仕えるものでございました。
恥ずべき事でございます。私は清らかに生きなくてはならぬ身でありました。私は神に仕える者の身として、貞淑な妻をめとり、彼女が死の床に就くまで、姦淫を犯すことなく添い遂げました。私たちの間には、一切の贅沢もなければいかがわしい欲望もありませんでした。私たちの間にできた子供はよく成長し、立派な大人となりました。その時まで、神よ、貴方に誓って申します。私は一切の罪も犯しはしませんでした。ですが、妻が死に、私もとっくに老爺となったころ、私は初めての罪を犯したのです。そしてそれは、なんと、悪魔の所業と言うにもふさわしき罪でございました。私は懺悔いたします。洗いざらいを主、この世をお創りになられたお方、あなたのもとに白状いたします。願わくば、この身に、相応の罪を降りかからせ、私の魂をお浄めください。

私の罪が始まった日の事は忘れも致しません。それは主よ、貴方様がお選びになった偉大なる英雄ダビデ王、彼にとこしえの誉れがありますように、が崩御し、彼の遺言に従って彼にかわり王位を引き継いだ彼の息子ソロモンが、年端もいかぬその身を玉座に置いた日の事でありました。私はすでに老いたその身を持って、王宮の大広間に来たのでございます。ダビデ王は遺言で、もしもソロモンに王位を継がせる際には、王冠は私の手からかぶせるようにとおっしゃっておりました。
初めて座るはずの玉座に身を携えたソロモンは、とてもそうとは思えないほど非常に堂々としておりました。まだ、彼はたったの十四歳の少年であったのです。それだというのに、彼の顔には一国を任されたことに対する不安などは見えませんでした。彼の表情にはただ、自信のみがあふれておりました。私は今でもありありと覚えております。金色の王の衣装に身を包んだ、十四歳の美少年の、なんと輝かしかったことでしょう。
そうです、ソロモンは美しかったのです。主よ、貴方が彼を愛されたことは一目見てその時にわかりました。武勇の誉れ高きダビデの血をよく受け継いでいると見えて、彼は背が高く、すらりと長い足を持っておりました。のみならず彼の母親であるバテシバの、イスラエルに並び立つものもなき美貌を、彼は余すところなく引き継ぎました。深い、緑色のかかった瞳は切れ長のまぶたに縁どられ、怯えた色など見せることもなくしっかりと我々を見据えておりました。その顔の整い方たるや、しっかりと健康的に小麦の色をした彼の肌の色さえなければ、よっぽど目に緑の宝石をはめ込んだ石造りの像かとでも思ったほどです。彼の美しさは、完璧と言ってもよいほどでした。美少年、その言葉があれほどふさわしかった人物など、きっと二度とはあらわれぬでしょう。私はそう確信しております。
私は別段、その日初めてソロモンに会ったわけでもありませんでした。私は預言者として、彼の教育係をしておりました。しかし、その日から彼は、私が今まで見てきたソロモンと言う名の王子とはまるで別人と相成ったのです。彼は元から美しい存在でした。しかし、その日より、私の眼に、彼の汚れなき美しさは威厳と輝きを兼ね備えた完全なものと映るようになりました。

私は彼に近づき、その頭にずっしりと重い金の王冠を載せました。彼は、静かにそれをいただきました。その時です。おそらく、主よ、私の心の中に悪魔が入り込んだのはこの時なのでしょう。私の指の背が、彼の母親譲りの黒髪に揺れ、私はふと、心の中にざわめくものがあったのです。彼の艶めく髪の感触を、私はしわくちゃの肌で感じ、何か、それがたまらなく魅力的なものに思えたのです。触れたというよりも、なでられた、と言ったような気分に私は陥ったのでした。無論、大切な式の最中、私はそれにふけるほどの暇もありませんでした。しかし、確実にそれは私の心の中にあるものを落とし続けたのです。



彼は実によく、父親亡き後のイスラエルを収めました。彼の業績について、私は貴方に語るまでもありません。彼は、ダビデのどの子よりも優秀で、なおかつ、神の道をよく知っておりました。むろん彼は長男ではありませんから、彼の即位に文句を持ったものがあるのは事実です。しかし、我々共、ソロモンに従う者達はみんなしてそれを黙らせました。我々共は皆、ダビデの他の王子よりもソロモンのほうが王に相応しいというのを重々わかっていたからです。
「ソロモン(平和)」の名が示すように、彼はいたって平和主義者で穏やかな性格でした。彼の兄アブサロムが血なまぐさい反乱の末に命を落としたことと比べれば、なんとすぐれたことでしょう。その上、貴方様がお選びになったソロモンは平和主義者ではあっても、戦いをむやみやたらとさけようとする弱虫でもなければ、平和を愛するあまり現実を見ない夢見がちな愚か者でもありませんでした。彼はその年齢に相応しくないほど至って聡明で、無駄な戦などすることもなくイスラエルを発展させる方法を熟知しておりました。

忘れがたいことがあります。「ナタンよ。僕の夢枕に今日、神が立ったのだ。神が、僕を祝福してくださった」と、ある朝彼は私に、少年らしさをまだどこか残す笑い方で、そう言いました。
「いったいどのようなことがありましたか」と、私は返しました。神の国であるイスラエルにあってさえ、神の言葉など普通は聞けぬものです。彼は、つつましやかに言いました。
「神は僕に、何かを望めとおっしゃった。それは富でも良いし、敵の命でも、メトセラにも勝る長寿でも良いというのだ。神に与えられぬものはないと。僕は知恵をくださいと頼んだ。だって、僕はまだ若く未熟者なのだし、父のように素晴らしい統治はできない。だから僕は神に、民を正しく裁き、善悪を判断する心を願った。そうしたら、神様はとても喜んでくださり、僕にそれを与えるとおっしゃったのだ」
それを聞いて、私がどれほどにまで嬉しかったことでしょう。彼は若いものがよく陥るように目先の利益や欲を老い求めるのではなく、ただ神に従うものとして、王として、自分に求められているものは何かを懸命に見抜き、それを望んだのです。主よ、私は私以上に貴方がそれを喜んだことを存じております。なぜならば、その日を区切りに、私どもの眼から見えてもソロモンは以前にもまして冴え冴えと知性に輝く人間になりましたから。
私どもは以前にもまして、ソロモンへの忠誠を誓いました。もはや、ソロモンの兄たちを支持していたがため、または彼がまだ若いということを理由に、彼の統治に懐疑的な心を持つ者はいなくなっておりました。彼がダビデが生前にはついぞ着手できなかった、イスラエルの神殿の建設に乗り出した時も、誰一人反対をしないばかりか、どの貴族も有力者の家も、諸国の王すら喜んで金や銀、資金の寄贈を行ったものですから。

彼の統治は申し分なく、彼は神の道を行く誠実なものでありました。そして私も、即位式の日に感じた不思議な感触を忘れ、以前の通り若い王に敬意をもって接しておりました。ゆえに悪魔もその忌まわしい顔を私の前に出すことはありませんでした。
それが変わったのは、あの、南の国の女王が来た日でありました。ソロモンの統治の、三年目の事でした。


シバと名のついたその王国の名を、知らないはずはありませんでした。はるか南のアフリカにある、前王ダビデの治世から香料や宝石などを大量にイスラエルによこしていた、貿易国の名です。私は他の国と同様に、この国を嫌悪しておりました。理由は貴方もご存じでしょう。イスラエルの神よ、彼らは異邦人であり、偉大にして真実なるあなたを知りもしないものだからです。おまけに、シバに至ってはそれだけではありませんでした。彼らは太陽などと言うあなたの作ったただの火の塊にすぎぬものを崇拝するばかりではなく、その王座に就き彼らを統治するものを、常に女性でなくてはならないと定めているからです。女性が男の足を引っ張る無価値なものと言うことは、貴方のお創りになられたイヴがはるか昔に証明したことではありませんか。にもかかわらずシバの民は、女性こそ素晴らしいものとして、民により選ばれた処女をその命尽きるまで太陽神の妻とし、玉座につけるというのです。ばかばかしい、浅はかな話ではありませんか!……いや、失礼いたしました。私の中で、彼女への憎悪は、ついぞ、消えぬままなのです。神よ、不信の人間とは言えど、貴方の作りだしたものをむやみと非難する権利は人間にすぎぬ私にはありません。反省いたします。
ともかくも、ある日そのシバ王国から、いつも通りの貿易の品に加え、一通の手紙がやってきました。その内容と言うのが、若くして大国を収めるソロモン王の英知を、ぜひともシバの女王がその目で確かめたいと言っている、と言う内容でした。彼らは女王がイスラエルに客としてやってくることの許可を得に来たのです。
シバ王国は、つい最近前の女王が崩御して、新しい女王が選ばれたと言うばかりなのを、私どもは知っておりました。彼女はまだ少女であり、ちょうど、我らが偉大なるソロモン王と同じ年齢とのことでした。まだ女王になったばかりで、周囲の大臣たちに支えられ何とか統治をするか弱き少女の姿が、私どもには想像できました。そして、私どもは苦笑いしました。特に私と同じように、女性と言うもののくだらなさを知る老人たちは。私どもは、愚かな慣習に縛られる余り相応しい王を立てぬこともできぬシバの民を物言わずとも嘲笑ったのです。しかし、その女王が直々にソロモン王にしたためたという手紙をじっと読むソロモンは、私たちのその笑いを、真摯な声で咎めました。
「お前達。勝手な憶測でものを語るのはやめないか。彼女は一国の君主であり、父の代からイスラエルと友好的に接している国を治めるものだ。お前たちに、彼女を侮辱する権利などない。それに」
彼はひらりと、自分が呼んでいた手紙をこちらにひるがえして言いました。
「彼女はイスラエルに物見遊山に来るのではない。自分と同じく若くして国を治める僕の統治を見て、君主に必要なものを学ぶことを望んでいるのだ。この手紙から、それがよく分かる。お前達も、見てみるがいい」
差し出された手紙は、繊細で丁寧な文字がつづられていました。そしてそれは、完璧なヘブライ語でしたためられていたのです。ヘブライ語を学ぶことはなかなかに骨が折れることだと外国人は口をそろえて言うものですが、その手紙に一切の間違いはありませんでした。おまけに内容はいたって腰が低く、ソロモン王への敬意と、自分もまた民を支えるに足る人間となることへの真摯な思いがよく表れていました。
「僕も、生まれながらに今のようであったわけではない。努力して今があるのだ。民の治めるにふさわしい人間たれという王の本質を忘れずに、そうあろうと努力する一国の若い君主を、男であれ女であれ、なぜお前達のように侮辱できよう。僕は彼女を国に招こうと思う。敬意には、敬意を持って返さねばならない。異存はあるか、お前達」
私どもは何の反対もできませんでした。少し、我々の意見が聞き届けられなかったことを不満に思わないではなかったのですが、ソロモンは王です。そのことを考え、私は思いをしまいました。そして、自分が敬愛するソロモンが良き王の模範として見られているのだという事実の方に目を向け誇らしさを感じることで、その不満を忘れようと努めました。
ソロモンはシバの女王の頼みを快諾する旨を、シバ語で書いた手紙にしたため、シバの行商隊の提督に持たせました。


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feat: Solomon 第三十九話

ソロモンがダビデの寝室に入ってきたとき、そばにはバテシバがいた。バテシバは彼を見て、酷く驚いているようだった。彼は彼女を払いのけるようにし、彼女はその手つきに誘導されるように、すごすごと立ち去ってしまった。彼は二人きりで、父と向かい合った。
久しぶりに見る父は、見る影もなかった。もはや体中が黒く腐っていて、人間の言葉をそのままに話しているのが不思議なほどの物体に成り下がっていた。それでも、ソロモンには不思議と、彼が相変わらず美しいと思えた。
「ソロモン」ダビデは言った。「そこに居るのだね」
「はい、おりますとも」
彼は、ソロモンの方を向いた。
「お前は、大きくなった」
「あれから何年も立っておりますから」
「お前は生きていたのだね。遠い地で生きていて、私たちに復讐するため、戻ってきたのだね」
ダビデの口調は、不思議と優しかった。ソロモンにしても、ダビデにあったが最後、どんなに恨み倒してやろうかと思っていたものが鳴りを潜めた。
「主の霊は私のうちに宿り、主の言葉は私の舌にある」ダビデはどこか、歌うような口調でつぶやいた。
「ソロモン。私は、この世のすべてのものがたどる道をたどろうとしている。お前は、私の跡を継ぐのだ。イスラエル王となりなさい。私はお前に約束しよう。私のもとに、主のお告げが下ったのだ。お前が帰ってくると。そして、私の王座を継ぐと。……ソロモン。お前は、私に似ているな。本当に、私に似ている。誰も、私が王になるとは思っていなかった。それでも、私は戦った。そしておまえも、誰にも軽蔑されていた。それでも、戦い続けたのだ。敵のすべてを排除して、愛したものすら犠牲にして……私も、お前も、王冠を手に入れたのだ。ソロモン。お前は確かに、私の息子だったよ。今になって、初めて、それがわかる。戦い続けなさい。勇ましく、雄々しくあるのだ。お前にはそれができる。主の教えを守って、善き王となりなさい。神は私におっしゃった。わが子孫が、真に神の道を歩み続ける限り、イスラエル王家の血は途絶えないと。きっと、主はお前にそれを成し遂げてくださるはずだ」
滔々と彼は語った。ソロモンは「分かりました、父上」と、返した。
「ソロモン、一つ、頼みたいことがある。私が建てようとしていた、主の神殿についてだ」彼は真剣な口調で、そう言った。
「私はあれを立てることを、若い日に主と契約した。しかし誰も満足な設計の作れぬまま、ついに今日に至っている。そして、夢の中で主が私に言われたのだ。私の手は、異邦人の血で汚れすぎた。もう、私にあの神殿を建てる権利はないと。ソロモン、お前にこの計画を託す。主を崇める神殿を建設するのだ。それがお前の運命、お前の仕事なのだ。そして、私が父としてお前に頼める、唯一の事だ」
父。父と思ったことなど、ありはしなかった。ダビデはソロモンにとっては、自分を無視し、全てを無視する、ろくでなしの男にすぎなかった。なのになぜか、彼は今、ダビデを冷たく突き放すことができなかった。
自分は彼に愛されたかったのだろうか。彼を愛したかったのだろうか。ソロモンの知性をもってしても、その問いに対する答えは出なかった。愛などと言う言葉を基準に語れるほど、自分のダビデに対する感情は単純ではないのだと、彼が出した結論はそれだった。
彼はただ、指を失った父の手をとった。指輪のはまった手で。そして「お言葉に従います。イスラエルの偉大なる王、ダビデ」と、厳かに言った。
ダビデは満足そうに笑った。
「ソロモン王よ。貴方にすべてを託そう。私はもう、おしまいだ。貴方が持っているものをくれるかね。私は、それが欲しいのだ」
ダビデは言った。ソロモンは、懐から小さな小瓶を取り出した。
瓶のふたを開け、彼は、ダビデの口に中の液体を注いだ。液体は何の抵抗もなしに、ダビデの体の中に飲み込まれていく。
ダビデはふと、笑った。「ありがとう」と、彼は言った。ソロモンも同じようにふと、切なげに笑った。芥子の実からとった薬。全ての苦痛を忘れて眠りについたまま、楽に死ねる薬。なぜダビデは、自分がそれを持っていることを知っていたのだろうか。神が彼に教えたのか、それとも、彼と言う人間の直観が理解させたのか。ソロモンはおそらく、両方だろうと思った。
ソロモンに手を取られたまま、ダビデは眠りについた。そして静かに、安らかに、その英雄の人生に幕を下ろした。側にはただ、彼が生涯避けていた息子のみがいた。


父の死を見届けて、彼は、眠りにつきに自分の部屋に向かった。自分の部屋。暗く湿った、北の独房。彼の足が向くのは、結局はそこなのだ。
部屋に鍵はかかっていなかった。彼はゆっくりと、扉を開けた。真夜中ではあったが、部屋の中には光がみちていた。ベリアルが、寝台の上で眠っていたのだ。十四歳の頃と同じ、何も変わらない清らかな寝顔で、彼はそこに居た。
ソロモンは、自分の心が動かされるのがわかった。
彼にも捨てられたと思っていた。憎悪の感情を持ったこともあった。しかし、それらすべてを浄化するほど、目の前にいる彼は清らかなのだ。まさに、天使の美しさなのだ。
待っていると言っていた。その言葉通り、彼は自分を、待ち続けていたのだ。

まもなく、彼は寝返りを打って、ソロモンの方を見た。「ソロモン?」彼は言った。
ソロモンの心に、何かがこみ上げてくるのがわかった。だがソロモンが何かを言う前に、ベリアルは彼を抱きしめた。ふわりと優しく、あの暖かさを持って、彼を包み込んだ。この三年間、一度も味わうことのなかった暖かさだ。
「おかえり。ずいぶん、長い用事だったね」
「ああ……でも、帰ってきたよ。ただいま」
ソロモンはベリアルの肩に顔をうずめて、そう言った。彼のふわふわした羽毛の感触が心地よい。ベリアルはソロモンの頭をなでながら「とても、背が伸びたね。十八歳、おめでとう」と言った。ソロモンはその言葉を聞いて、じんわりと涙がこみ上げてきた。
「つらかった?」
「ああ、つらかった」
「よく頑張ったよ。君は。とてもよく頑張ったね。つらかったよね。苦しかったよね。お疲れ様。ゆっくり、休むといいよ。ここは、君の部屋だもの」
ベリアルは彼を、寝台に連れて行った。そして、彼の体をそこに横たえさせた。ソロモンも抵抗はせず、彼になされるままになった。
「ほら、見て!ボク、君の描いた図面を、ずっと手入れしていたんだよ。虫やネズミにも食わせなかったし、シミもつかせなかった!」
彼は懐かしい図面の書かれたパピルスをソロモンの目の前に広げた。ソロモンも笑って、ベリアルの発する光で、それをに目を通す。懐かしい。自分の愛したあの建物のイメージが、また華やかに脳裏に躍った。金色の、美しい、豪華絢爛な建物。構造から装飾に至るまで、自分が思い描いた、自分だけのもの。彼は何枚も何枚も、それを懐かしそうに眺めた。

と、急に、部屋をノックする音が聞こえた。ベリアルは慌てて自分の姿を引っ込め、部屋は真っ暗闇になった。
「誰だ?」ソロモンは言う。蝋燭を持って入ってきたのは、ナアマだった。
「貴方がここにいるって聞いて……この部屋、何?」
「俺の部屋だ。それよりもどうした、貴様。俺に何か用か」
ソロモンはナアマを睨みつけてそう言った。彼女はアンモンを出発して以来、すっかり前のような口は叩かなくなってしまった。無理はない。彼女がソロモンを見下すためにすがってきた最後の切り札である、「生まれが違う」ということも、ソロモンがアンモンより格上の国であるイスラエルの王子として生まれ、しかも王位継承者であったということを持って、完全に崩れさってしまったのだから。結局、ナアマはソロモンにもはや何も威張れる立場ではなくなった。威張ることでしか自己顕示をできなかった彼女にとって、それは大きな損失であったことだろう。
「跡継ぎの俺がいなくなって、お前の父を心配しているのか?安心しろ、アンモンに使いを出した。俺が作った薬を持たせた。あれを一日一回、一週間も飲めばすっかり元通りになるさ。跡取りは、ゆっくりアンモンのお偉い方の息子からでも選ばせろ」
彼は、アンモン王の事も信頼はしていなかったとはいえ、彼には特に恨みはなかった。むしろ感謝していた。だから見殺しにするのも後味が悪いと思い、解毒剤を飲ませることにしたのだ。解毒剤さえ効けば、すっかり昔の王に戻るはずだ。
だが、ナアマが気にしているのはそれではないらしかった。彼女は気味悪がるような顔で、彼に言った。
「あなた、正気なの?」
「……何のことだ」
「あなたのお兄さんや、お兄さんの部下が目の前であんな死に方をしておいて、なんであなた、そんなにけろっとしているのよ?あの人たちが貴方の敵だったのは分かったけど、それにしたって異常よ。もっといいやり方はあったはずだわ。それに、あのお爺さん……あのお爺さんと、あなたは同じものが見えていたの?おまけに……貴方、王になったんでしょ?なんでこんな汚い部屋に居たのよ、気持ちよさそうに。アンモンにいたころから思っていたけど……あなた、ひょっとして……狂っているのよ。普通じゃないわ。貴方は確かに天才よ。認めざるを得ないわ。でも、普通の人間じゃない。普通の感性をしていない」
その言葉を聞いて、ソロモンは自分の唇に手を置いた。そして、言った。
「そうかもしれんな、ナアマ。俺は狂っているのかもしれない。俺はイスラエルを追い出されてから、ずっとこう思って生きてきたからな。俺は、正気の乞食であるよりは、狂った王でありたいのだ」
彼がそう言い放つと、ナアマは彼をもう一度恐怖の眼で見て、その場を駆け出した。
「誰?」後ろから、ベリアルの声。
「なんてことはない。結婚しただけの間柄の女だ」
「そう……でも、ちょっと君にはオバサンすぎない?」
「まだ二十二歳さ。そう言ってやるのも可愛そうな年齢だ。」
その言葉を聞いて、ベリアルは悪戯っぽく笑った。ソロモンも、ナアマの事を忘れて、また図形を見直すことにふけった。彼は、気づかずに眠りにつくまでの間、図面を見て過ごしていた。


後日、ソロモンは王として即位した。ザドクが祭司として、改めて彼に清め油を注いだ。彼の即位に反対する者はだれもいなかった。ダビデの王子たちでさえ、その通りだったのだ。
もっとも、反対するのなら誰でも殺してやる気ではいた。自分の敵を生かしておく意味など、どこにもないのだ。
「祭司アビアタルよ、こちらへ」玉座の上で、彼はアビアタルを呼んだ。あの日さっさと逃げ帰ってしまった彼も、即位式に出ないというわけにはいかず、ずっと決まりが悪そうに端の方で小ぢんまりとしていたのだ。
「わが政敵アドニヤについていた、お前の処遇を決めなくてはならん」ソロモンは言う。
「私個人としてはお前は十分殺してやるに値する人間だが、お前はわが父ダビデの治世、実によくイスラエルに尽くしてくれていたことも、私は知っている。父がサウルの家との王権争いで苦悩してきたときも、お前は常に父とともに辛苦を共にしてきた。その功績に免じ、死刑は免れさせてやろう。家族ともども、お前の故郷アナトトに帰るがよい。畑を耕して余生を過ごせ。今日を持って、お前並びにお前の一族はわがイスラエル王宮の祭司の職から罷免する」
アビアタルはその言葉を受けて、屈辱と絶望に震えながら「お慈悲に感謝いたします、ソロモン陛下」と、なんとか言葉を絞り出した。
アドニヤの権力とヨアブの武力さえとってしまえば、アビアタルなど恐怖にもならない。かえって、あっさり死刑にするよりもイスラエルの祭司の職から追い出された屈辱を長く味わわせてやる方がよいと思えたのだ。
彼は続いて、ザドクをアビアタルの後釜に据えることも発表した。ヨアブの後釜を、ベナヤにすることもだ。ベナヤとの、一応の契約の内容はこれで守ったことになる。
もっとも、当のベナヤはソロモンの目に付くところにはいなかった。彼はおおかた、王宮のどこかで息をひそめているのだ。なんということはない、自分の命令を遂行するためだ。
即位式の前に、ソロモンはベナヤと話をした。バテシバの事についてだ。「あんな女だが、それでも私の母だ。それなりの親孝行はしようと思う」彼はベナヤに、淡々と語った。
「私が即位して、ようやく自分が王の母になれたと喜び勇んでいるときに、お前が彼女を殺せ。気づかれずに後ろから、一発でだ。どうしようもない女だが、それでも、私をこの世界に存在させてくれたのは彼女だからな」
バテシバは幸せそうだ。この上なく。ソロモンはそんな彼女に笑いかけた。もう、彼女を見るのも今日限りだ。何、いろいろあったが、幸せな人生だったことだろう。少なくとも、彼女の一生をかけた悲願はかなったのだから。
女と言えば、あの後、即位式に臨むまでの数日のうちに変な噂が聞こえてきた。ソロモンがアドニヤと相対したあのゾヘレトの石の近くに、変な女がいるというのだ。彼女はよっぽど恐ろしいものを見たのか、すっかり正気を失っていて、ただぶつぶつと何かを呟いているか、いきなりケラケラと笑いだすかだというのだ。不審に思った近隣の住人が話を聞いても、彼女は「私はイスラエル王妃」以外の言葉を言わないという。
ただ、その女が二十歳ばかりの、パッと見は高貴で美しい女だということと、うっすらとシュネムのなまりがあるということを聞いたとき、ソロモンには彼女が誰であるのか見当がついた。おそらく彼女は、愛した男が目の前で雷に打たれ、灰になるところを見て、狂人となってしまったのに違いない。ソロモンは、適当な従者を見繕って、彼女を保護するよう命じた。そしてシュネムにある彼女の家、すなわちシュネムの領主の家に、そのまま彼女を送り届けてくるようにと。そのようになってはもう嫁の嫁ぎ先もあるまいが、まあ美しい顔がそのままなら、いくらか食い扶持は稼げるだろう。シュネムの領主が変わり果てた娘を恥と思い殺すなら、それもまた、彼女の運命なのだ。

即位式が終わり、ソロモンは続けて、神殿建設の発表を行った。ダビデが完遂できなかった計画を、あとを継いだ自分がやるという旨を。
「王よ。それは、新しくまた、設計士を探すということでしょうか」
大臣の一人がそう言う。設計図。神殿の設計図。そうだ、それがないがために、神殿はついに作り始められないままだったのだ。だが、神殿の設計図、と言う言葉が、妙にソロモンの中で引っかかった。自分は、それを探す必要などない。

と、その時だ。彼の頭の中に、とあるイメージが浮かんだ。荘厳なる、モーセの十戒を収めた聖櫃。それが輝いていた。しかし、その場は今聖櫃を収めてある聖所の天幕の中ではない。黄金とシクラメンの彫刻に彩られた、豪奢な建物。そうだ。なぜ気が付かなかったのだろう。あれは、神殿だったのだ。自分が小さい時から、ずっとずっと、描き続けてきたイメージ。あれこそが、主の神殿だったのだ。何故気づかなかったのだ。主は、小さいころから確かに、自分を選んでいたのだ。
自分は今、それを作れる。自分の心を慰めてきたものを、現実のものとして、生まれさせるだけの力を自分は得たのだ。
「その必要はない!」彼ははっきりと言った。その声は、どこか嬉しそうだった。
「設計図のあてはある。待っていろ、すぐに、この場に持ってきてやろう!」
彼はそう言って、玉座を降りるや否や、自分の部屋に駈け出した。自分がこれからできることが、次々と分かるような思いだった。
部屋にはベリアルが待っていた。彼は、ソロモンの楽しそうな表情を見るや否や彼の言いたいことを察したらしく、図面を引き出して彼の前に並べ始めた。


(第二章・完)

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feat: Solomon 第三十八話


巨大な火が燃やされ、まだ日の出ているエン・ロゲルの地に一層の光が湧き上がった。「アドニヤ様万歳!」「アドニヤ様万歳!」と、言う声が響き渡る。
エン・ロゲルのアドニヤの地所で行われている宴会。護衛兵たちと、戦車と、馬と、招待客がずらりと並ぶ端っこにはひっそりと、アビシャグが来ていた。結局、アドニヤの言った通り、彼女は彼女が聞いたことを誰にも言うことはなかった。誰にも言わないまま、アドニヤが父を裏切り、全てを裏切るのを黙って見ていた。
ヨアブは真剣な表情で、彼の連れてきて護衛兵の中心にいる。アビアタルも結局最後まで渋ってはいたものの、大人しく言うことを聞いて、生贄の儀式を終え祭壇を降りたところだ。
エン・ロゲルにはゾヘレトの石と名付けられた大石があり、その土地の周辺をアドニヤは所有していた。彼はそこに祭壇を組み立て、肥えた家畜たちを生贄に捧げた。
めらめらと燃え盛る獣たちの躯は、やがて灰になり、消えていく。家畜であるということはつまらぬ一生だ。アドニヤは生贄を見るたびに、つくづくそう感じる。
「父はもはや死人も同じ。ぼくは父の座を継ぎ、今、ここで王となろう」
彼は威厳に満ちた声で高々とそう言った。この声すらも、作り声だ。熱狂する宴の客人たち。彼は、王宮に仕える高官や自分以外のダビデの息子たちすらみんな招いた。そして、その悉くが参加し、今こうして自分をほめたたえているのだ。ダビデの王子たちなど、本来ならば王位継承のライバルであるはずである。にもかかわらず、彼らは、アドニヤが王となるのを支持していた。むろん、アドニヤは彼らにも、信頼されるように気を配って生きてきたのだから。
ぶすぶすと肉の焦げる音が聞こえる。おそらくいずれ火も消えるだろう。日が暮れる頃にでもなれば。無残に消えゆく動物の体を見て、彼はふと、昔、誰も友達がいなかったころに自分がやっていた遊びを思い出していた。あの日の加虐心が刺激されるような思いだった。
周りの喧騒は彼にとって、酷く虚ろなものに聞こえる。アドニヤには、彼らがいたって本気で、大真面目にアドニヤを賛美していると分かるのに。だが、アドニヤは感じていた。自分は何も変わっていない。残酷で、孤独で、誰にも好かれなかった子供の頃の自分と、今の自分は何も違わない。優しい王子を演じてきた。誰にでも信頼される、理想の王子を演じてきた。しかし、ついぞ、自分の芯はそれになれないままだった。
どれほど、なりたかったことだろう。本当に愛される存在に。しかし、それはできなかった。いくら演じ続けても、仮面は仮面のままだった。彼自身は自分勝手で冷たい心を持ち続けたまま、周りがどんどん、彼ではない彼の姿を求めてきたのだ。
彼らが崇めているのはアドニヤではない。アドニヤが作り出した王子の仮面だ。しかし、アドニヤはそれでもいい、と感じていた。
「(おれはよく知っているもの。本当のおれなど愛されなくてもいい!愛される価値などないんだ!おれだったら、絶対に愛さない。ただ残忍なだけの子供など。おれでないものを崇めるのなら、崇めるがいい、愛するがいい。まんまと騙されているがよい。いくらそう言おうとも、仮面ではないおれの方は、お前らを愛しはしないのだから。おれは誰も愛せない。誰も愛さない。愛し愛される幸せなど、求めるのはもういやだ。見るがいい、おれは王だ。おれを愛するがいい。王を愛する、お前たちはそれを望んできたのだ。おれはよく知っているぞ、愛する者に愛されない苦しみを。お前たち全員、その苦しみに落とされろ。おれはそれが、愉快でたまらないんだ)」
めらめらと燃える火の熱をアドニヤは後ろで感じていた。彼は息を吐く。そうだ。演じるのだ。今までも、これからも。
誰も彼自身を愛さない。だから彼も、誰も愛さない。ただ愛しているふりをするだけだ。
アビシャグはあの後、結局、関係を続けていくことを選んだ。もう、妻にしてくれなどとは言わない。ただ、愛人になってでもアドニヤに縋り付くことを望んだ。彼女が恋をしていたのも、王子の仮面に過ぎないのに。ただ、彼女は、その仮面と同じ顔をした人物でもいいから、縋ろうとしたのだ。それほどにまで、彼を愛したのだ。アドニヤにはそれがわかっていた。そしてアドニヤは、彼女をこの上なく嘲笑した。
むなしい喧噪、無駄な賛美。だが、不思議だった。アドニヤはそれを受けて、全く、自分のしたことが虚ろなものであると失望しはしなかったのだ。王になるとはこんなものか、と言う考えなど全くもたずに、彼は確かに、満たされていたのだ。自分が今までの人生を賭け追い求めてきたものを、確かに得たのだという感覚があった。
アドニヤにはわからない。彼は果たして、王位を求めることで愛を求めてきたのだろうか。愛されたかったのだろうか。それともただ単純な愛の関係ではなく、愛されても愛しはしない、そんな関係を何よりも望んでいたのだろうか。それともこんな問答は全くの無駄で、彼はただ平凡な自己顕示欲と名誉欲、野心のためだけに、必死で王となることを求めてつき動いてきたにすぎないのか。
彼は一息つき、生贄を燃やす煙の立ち上る先を眺めて、まるでその先に言葉を突き刺すような思いのもと、心の中でつぶやいた。
「(一つ、確実に分かることがあります。例えあなたがそうおっしゃらずとも、おれが思います。おれは、勝利しました。おれを苦しめてきた何者かに。それは果たして、誰であったのか。人間なのか俺の両親か、悪魔か、運命と名のつくものか、あるいは……あなた自身だったのか。おれはただの人間です。そんなものは分からない。しかし、おれは確かに、この荘厳な空虚がほしかったのです。おれの生は今、報われました。感謝いたします。この瞬間をお与えいただいたあなたに、感謝いたします)」


「アドニヤ王子はどこにいる?」
「エン・ロゲルで宴を開いております。今日、あの方が王となるために」


喧騒の音がダビデに聞こえた。ダビデの耳があるかどうか、ダビデ自身にはわからない。わかりたくもない。わからないが、聞こえた。
「あれは何の音だ」弱々しく、ダビデは言った。そばでは、アビシャグがいないので、バテシバが看病をしていた。
「アドニヤが王になったと言っているのです」静かな空間に、彼女の声が鮮烈に響いた。「ダビデ王、貴方が約束していただいた通り、私の息子が王になるのです」
「ああ、そうだな。お前は全く幸福な女だよ。バテシバ」彼は言った。「お前の息子は、王になるのだ。お前は王の母だ。お前はダビデの系譜の中に、その名を留める女であった」


宴も進み、やっと彼らが食事をあらかた終えたころ、日が暮れた。アドニヤはそろそろ宮殿に帰り、即位を行おうと思い立った。
その時だった。何かの音がする。角笛の音だ。町の方から聞こえてくる。
「何故、町がこんなに騒がしいのだ?」言ったのはヨアブだった。
彼の刺すような声に呼応するように、転がり込んでくる一つの影。アビアタルの息子、ヨナタンだ。所用で少し、宴の席を外していたのだ。彼は顔を真っ青にし、信じられないものを見たという体だった。体中をがたがた震えさせ、冷や汗をかくあまり濡れ鼠になっていた。
「どうした」アドニヤは言った。「良い知らせだろうな?」
ヨナタンはぶんぶんと首を横に振った。そして、絞り出すように言った。
「町に、軍隊が来ております。小さい軍隊ですが。その……その、先頭にいるのが……」
「軍隊?」アドニヤは反応する。ヨナタンはそんな彼には特に構うことなく、途切れ途切れに続けた。
「……ソロモン王子様なのです。見間違えようもありません。白い体に赤い目をして、黒いマントを着ておりました。そして……ソロモン様に付き従っている者どもは、『ソロモン王、万歳!』と、角笛を鳴らし、言っているのです。ソロモンが……帰ってきたのです。アドニヤ様」


その言葉に、その場が凍りついたことは言うまでもない。ソロモンが帰ってきた。もう彼が行方不明になってから三年以上もたつというのに。
うろたえようは千差万別だった。ソロモンが王位継承者であったと知らないものは、ただ行方不明の王子が帰ってきたということに驚き、そして、彼がなぜ自ら王と名乗っているのかに不信感を持った。彼の継承権を知るものは、彼が何とか生き延びて帰ってきて、今継承権を主張し、アドニヤから王座を奪おうとしているのだということが分かり、それに対してうろたえた。そして、一番困惑し、起こっていることを受け止められないものが四人いた。アドニヤにヨアブ、アビアタル、アビシャグだ。ソロモンは死んだ。なのになぜ、この場に来れるというのか、確かに見たのだ。ソロモンが息を引き取るその瞬間を。
角笛の音はどんどん大きくなる。客人たちはパニックになって散り散りに逃げだし始めた。恐怖に駆られる余りだ。アビアタルは急いで息子とともに帰ろうとした。だが、彼らが帰途につこうとしたその瞬間、彼らは、宴席の場が一小隊に包囲されていることに気が付いたのだ。
アビアタルは逃げることをあきらめ、後ずさりしながらもといた場所に収まった。自分と同じように、逃げ遅れた客人たちも同様だ。ヨアブは顔を青くしながらも、それでもなんとか、自分の護衛兵たちを指揮しようと自分を奮い立たせていた。当のアドニヤはと言うと、彼は不思議なことに、その場から一歩も以後いていなかった。動けなかったのだ。まるで足が凍りついてしまったかのようだった。
やがてずらりと、全貌が姿を現した。百人ばかりの兵隊に囲まれ、一人の男がゆっくりと、足音を全くさせない足取りでアドニヤの前に進み出た。黒いマントの下に着た見違えるほど立派な衣装。小綺麗に整えられた長髪。記憶にある彼の姿は、これよりももっと惨めなものだった。しかし、自分の方を見る切れ長の鋭い目の赤さを、まさか間違えるはずもない。彼は、ソロモンだった。信じられるはずもない現実が、無慈悲なまでにアドニヤの前に立ちはだかった。自分が殺したはずの哀れな弟が、今、目の前に立ち、彼を怨嗟の眼で射すくめているのだった。確かに彼はソロモンであると分かっているにもかかわらず、その威圧感は、昔自分に心を許していた十四歳の少年とは、くらべものにもならなかった。

「ソロモン……」
アドニヤは、言葉を詰まらせたように、そう発した。かける言葉など、見当たらない。彼が自分を恨んでいることは、明らかであった。
アドニヤはじわじわと、自分の体からどんどん血が抜け落ちていくような思いを味わった。体中が凍りつく。先ほどまで希望に満ちていた体が、一気に絶望に満たされていくと分かった。
ソロモンはすっと、赤い指輪のはまった手をその場にいる全員に差し出した。そして、それを見せられた彼らは委縮して縮こまる。
「ここでアドニヤが、王位を継ぐための宴を開いていると聞いた」ソロモンは演説するような口調で言った。
「誰がそれを認めたのだ?ダビデ王が認めたか?この私、正当なる王位継承者、ソロモンを差し置いて?」
彼の声は冷たく、重く響き渡った。正当なる王位継承者、彼は確かにそう言った。そして確かに、ダビデが王位を認めたものにのみ与える指輪、アドニヤすら所持していなかったそれを、ソロモンは持っているのだった。
逃げ遅れた客のうち、ソロモンがその指輪を引き継いだなどとは知らないものは、混乱してざわめいた。
「私の問いに答えよ。この私、ダビデから指輪を受け継いだ王位継承者、ソロモンを差し置いて……私を、王座欲しさに殺めたその兄弟殺しが、王座に就くというのか」
アドニヤは息苦しさにすら襲われた。言い訳をしなくてはならない。だが、言葉が出ない。息を少しずつ、吸って吐くのがやっとだ。まるで水におぼれているかのようだ。アドニヤがソロモンを殺した。そのことを聞いて、いよいよ会場は混乱にどよめく。それはそうだ。彼らは、このことを知らない。
ソロモンが静かに手で合図をした。現れてきたのは、ベナヤだった。
「皆さん、聞いてくれ!」ベナヤは言った。
「俺は見たんだ。ここにおわすソロモン様がいなくなった前夜、俺は、アドニヤ様とヨアブ将軍が、彼を暗殺するのを見た!」
「そして、私から証言しよう!」ザドクが言う。
「この指輪が証明する通り、ダビデ様は彼こそを王位継承者とする予定だった!そのために彼に油を注ぎ、教育を施していたのだ!祭司長アビアタル様、貴方もご存じのはずだ!あなたが、彼に律法を教えたのだから!」
二つの事実を、彼らはぶちまけるように言った。ベナヤが続ける。
「分かるだろう。アドニヤ様は弟を殺して自分が王となるために、ソロモン様を暗殺したんだ!だが、その暗殺は未遂に終わった……この方は、生きながらえたのだ!そして、異国の地で復讐の時を待っていた!」
「ご苦労だった。ベナヤ」ソロモンが、ベナヤの言葉を遮った。あとは自分で話すとでもいうように。
「そういうことだ。そして私は、今舞い戻ってきた。今度こそ自分の継ぐべきもの、イスラエルの王座を手にするために。そして……私を殺した兄に復讐するためにな」
アドニヤは視界が歪んだ。まともな景色が見えない思いだった。自分が今まで隠してきたものを、何もかもぶちまけられてしまった。何もかも、自分の凶行が知られてしまった。
誰もが、そのことを疑いはしていなかった。ソロモンとベナヤ、ザドクの鬼気迫る雰囲気、そして唯一真実の言葉だけが持ち得る説得力に、彼らは完全に飲まれていた。
ソロモンがきっとアドニヤの方を見た。彼の瞳は、兄を見る目ではなかった。憎たらしい政敵を相手にする目だった。
「あ……あ……」震える声で、アドニヤは何かを言おうとした。だが、言葉は出てこない。無駄なうめき声が出るだけだった。
「おのれ、よくもぬけぬけとそんな作り話を!」
沈黙の中、そのような果敢な声で空気を引き裂いたのは、ヨアブだった。
「アドニヤ様が兄弟殺し!?よくもそんなことを言えたものだな、死にぞこないの悪魔の子め!皆様、騙されるな!こやつは嘘をつき、アドニヤ様を貶め、玉座を簒奪せんとしているだけだ!悪魔の子がやりそうな、卑劣な手ではないか!」
「ヨアブ将軍よ、貴方はどうも、いささか耄碌しすぎてもはや周りを見る目もないと見える」ソロモンは冷ややかながらも、明らかに敵意を込めた口調で、彼にそう言った。
「周りをよく見ろ。誰も、貴方の話なぞ信用していないぞ!」
ソロモンの言葉の通りだった。ヨアブの言葉に便乗して、ソロモン達を責めるものなどいない。
ヨアブは、行き場を亡くした視線をベナヤに向けた。
「ベナヤ、あのコソ泥はお前だったのだな……」
彼の視線はまるでただそれだけでもベナヤを殺せそうなものだったが、ソロモンはベナヤの背中をポンとたたき「ああ、そうだ。それで、人殺しに泥棒を非難する権利があるのかね?」と、ヨアブを負けじとしっかり見据えて言った。
「今でもはっきりと思えているぞ。貴方に切り付けられた瞬間は」
「お前たち!」ヨアブは叫んだ。「何をボサボサしている!アドニヤ様を裏切り者からお守りせんか!その命に代えてでも!」
彼は、自分の連れてきた護衛兵たちにそう言ったつもりだった。しかし、遅かった。護衛兵たちは全員、ソロモンの連れてきた兵隊達にとっくに押さえつけられていた。
ヨアブは言葉にもならないうめき声を上げる。そして、自ら剣を抜き、ソロモンに切りかかってきた。ソロモンは、その場を一歩も動かなかった。それで傷一つつくことはなかった。ベナヤが盾を差し出し、ソロモンを守ったからだった。
「おのれ、ベナヤ……」
「ヨアブ将軍、悪いが、俺ももうあんたには我慢ならない!」
彼は自分も剣を抜いて、ヨアブに応戦した。その時、一瞬の事だった。ソロモンはぎろりと、ヨアブを、激しい憎悪の念を込めて睨みつけた。
ヨアブは、歴戦の軍人だ。今さら、睨みつけられるだけで隙ができるなどあり得ないはずだった。だが、今までに戦ったどんな敵よりも、ソロモンのそれは恐ろしかった。心火が燃えるあまり彼の血の海のような目が、暗闇で化け猫のように輝いたかのようにすら思えた。
彼は一瞬、びくりとすくんでしまった。ベナヤはそれを見逃さなかった。一瞬の隙をついて攻撃した衝撃で、ヨアブの剣は彼の手を離れて、飛んで行った。すかさず、アンモンの兵隊の一人がそれを拾い上げた。
「く……」ヨアブはそれでも、なおも食い下がった。
「ソロモン。このダビデの家を惑わした忌み子が……」
彼は、先ほどの眼の光の余韻がまだ残っているようだった。そうだ、さんざん悪魔悪魔と罵ってきたこの王子は、人間ではない。人間ならば、あのような目つきができるものか。あれほどにまで激しい憎しみに燃えた目つきを……。そうだ。ナタンは言っていた。これらは全て、ソロモンの呪いだと。ソロモンのせいだ。ダビデが苦しんだのも、アドニヤの人生が崩されたのも、全部全部、ソロモンのせいだ。ヨアブはそう、心の中で、ソロモンに対する絶え間ない憎しみを感じた。
「私は、お前になど屈さない!アドニヤ様を捨て、お前の手に堕ちるくらいなら、この場で死んでしまったほうがましだ!」
彼ははっきりと言った。ソロモンはその言葉を聞いて、目つきだけはそのままに、口元だけでにやりと笑った。
「ベナヤ」彼は言う。「ああ言っていることだ。せっかくだ、今、ここで殺してやれ」

彼の言葉は、重く、宴の場に響いた。彼が指を鳴らすと、アンモン兵が二人やって来て、直ちに、ヨアブを取り押さえてしまった。
その言葉を受け、一瞬怯むベナヤ。ソロモンは続ける。
「奴がダビデの家のため、アドニヤのためと流した、理由もなき血を拭い去るがよい。ヨアブ、お前の死を持ってイスラエルはますます平和に栄えることだろう。お前が流した血の報いは、今ここになされるのだから」
彼はそう言い終わり、ヨアブを見下した。そして、ベナヤに向き直る。
「私の命令だ。ベナヤ。ヨアブを殺せ。誰よりもイスラエルに忠実だった、この人殺しを」
ベナヤはっきりと実感した。この言葉から逃れることは、許されない。
彼は押さえつけられたヨアブのもとに歩みを進め、刃を翻した。
「ヨアブ将軍。許してください」
ヨアブは、震えながら、憎悪に燃えていた。恐怖すればいいのか怒りを覚えればいいのか、もはや彼自身にも分かっていないようだった。その目は、ソロモンを見ていた。ベナヤには彼の眼に、ソロモンはまるで、会ったこともない恐ろしい悪魔に映っているのだろうと思った。輝く刃が振り下ろされ、断末魔の悲鳴とともにソロモンの眼にも似た赤色が噴水のように迸った。その血もやがて地面に落ち切り、ヨアブは息絶えた。

宴会場は再びパニックになる。兵隊たちがヨアブの護衛兵を抑えているのもあって、逃げ遅れた招待客たちもほうほうの体で逃げ出した。アビアタルも同様だ。ソロモンは兵隊たちに、追わないでおけと言った。それは、肝心のアドニヤ一人はそこに残っているのを見たからだ。
ヨアブの血を受けた彼は、自分の顔についたそれを軽く袖でぬぐうと、「お久しぶりですね。お兄様」と言った。周りの兵たち立は再び陣形をくんで、アドニヤの逃げ場はもうどこにもない。
「ひっ……ヨ、ヨ、ア……ブ……」
ヨアブの死を受けて、彼はもう、今にも気を失ってしまいそうだった。走ってきた犬のように息はとぎれとぎれで、瞳孔は開いている。
ソロモンはそっと、彼の前に立ちはだかった。
「ソロモン……ぼ、ぼくは……」彼は震える声を、押し出すように言った。
「ぼくは、お前を愛してやったじゃないか!だれからも化け物と言われていたお前を!そんなぼくを殺せるか!?殺せないだろう!ソロモン、おれを許せ、お前をまた愛してやるとも!だってそうだろう、お前は愛されたい!おれは誰よりも、それを知っている!」
「お兄様。一つ伺いたいことがあります」ソロモンは言った。「今日は、何の日ですか?」
「え……?」
少しの間が開いた。そののち、ソロモンはふうと息をつき、そして、少し悲しげにすら思える声で、言った。
「今日は私の、十八歳の誕生日です」
ソロモンはもう一度、腰を抜かして倒れている兄に向って言った。
「あなたの言った通りだ。貴方は、私を愛してなどいない。偽りの方法ですら、私を愛せない。結局、私の誕生日を忘れる程度にしか、貴方に私を愛する力はないのだ」
彼はふと、手をふった。そして、アドニヤはぎょっとした。兵隊たちがじりじりと、彼ににじり寄ってくる。
「お兄様」ソロモンは言った。
「貴方の髪の毛一筋さえ、この地に落としたくはなかった」
アドニヤには、無論のこと分かった。彼が次に何をしようとしているかを。
「や、やめろ」アドニヤは言った。
「止めろ、やめてくれ!頼む!!」
ソロモンに聞く様子はなかった。言葉にこそしなかったが、彼はこう思っていたのだろう。貴方は、あの時私がそう言ったら止めてくれたのかと。
自分に付き従っていた弟は、今や復讐の鬼と化したのだ。アドニヤはそれが、ありありと分かった。
彼は腰が抜けて動かない体を引きずりながら、逃げようとした。周りには何も見えない。彼の視界にあるのは、ソロモンだけだ。何も聞こえない。何も感じない。ただ、ソロモンから逃げねばと、彼の思考にはそれしかなかった。おそらくはナメクジのような歩みだったのだろう。それでも彼は、心臓がはちきれんばかりに逃げているつもりだった。

ふと、彼の周りの時間が止まったようになった。ソロモンの視線すら感じない。ここは、どこだろうか?真っ暗な空間の中にいるようだ。全ての感覚が止まった謎の空間。そこに彼は置かれていた。
彼は言いあらわし様のない不安に襲われ、まわりを見渡した。すると、ふと、目の前に立っている人物に気が付いた。その人物を忘れるはずもない。黒いマントを翻し、派手な踊り子の服に身を包んだ金髪の美青年。ただ、前に見た時とは違い、彼は背中に大きな真珠色の翼を生やしていた。
「お前は……」
「ベリアルだよ。お会いしたのは二回目だね、アドニヤ王子」
彼はそう、ひょうひょうと語りかけた。
「お前は……そうだ。お前に問いたいことがあったのだった。お前が来てから、お父上はおかしくなった。あれは、お前のせいだったのか」
彼はその言葉に、静かに笑った。
「お父上だけじゃない、ヨアブも、ナタンも、あれ以来おかしくなった。バテシバも、おれの母も、異常に取り乱すようになった……そうだ。お前だ。お前が来てから、イスラエル王宮はおかしくなったのだ。ベリアルとやら。あれは、お前のせいだったのか。全て、お前がおれ達を呪っていたのか」
ベリアルは軽く笑って、言った。
「ボクのせいでもある。そして……神様のせいでもある。だって、この世のすべての定めを決めているのは神様で、実際に君たちに呪いをかけて、狂気のどん底に落としたのは、このボクだからね」
「どうして」彼は言った。
「お前は、おれ達に何の恨みがあったんだ?」
「恨み?恨みなんて、何もないよ。ボクはただ、ボクのやることをするだけのつまらない存在さ」
「お前のやること?」
「ああ、そうさ」
ベリアルはアドニヤの頬をそっと撫でて、彼に顔を近づけて軽やかな口調で告げる。
「運命は、いつでも変わったよ。神様はいつでも変えられたもの。……もしも……もしも、君たちのうち、誰でもいい、誰か一人があの子を、ソロモンを、心の底から愛して抱きしめてあげたなら、こんなことにはならなかった。でも、誰ひとり、結局それはやらなかった。だからこうなった。……それだけの話さ。アドニヤ王子。君たち人間は所詮、それだけの存在なのさ」
そういって、ベリアルはふっと手を離した。すると、今までアドニヤの体を支えていた何かは消え、彼の体は奈落の底に堕ちていった。そう、アドニヤには思えた。

アドニヤがふと気が付いたとき、彼は生贄の祭壇の上にいた。意識もおぼつかないまま逃げるうちに、こんなところに来てしまったのだろう。ソロモンがいる。彼の連れている兵隊もだ。祭壇の上、自分の体が動かない。殺される。早く、こんなところから降りないと。しかし、足が動かない。その時だった。
ソロモン達はなぜか上を見ている。上?上に何かあるのだろうか。
気が付けば、空の上にはいつの間にか、黒雲が渦巻いていた。そして、その中に光るもの。
アドニヤははっとした。しかし、次の瞬間だった。黒雲から真直ぐに稲光が降ってきて、轟音と共にアドニヤの体に直撃したのだ。
体が破裂するほどの衝撃の中、アドニヤは、ものをいう間もなく、あっけなく死んだ。後には、火が燃えた。


ソロモンは目の前に起こったことを、非現実的な思いで見ていた。
殺そうとにじり寄ったアドニヤは、ふらふらと、来るな、来るなと呟きながら、祭壇にその足を進めた。よっぽど、彼が錯乱しているのだろうと思った。
しかし、祭壇に昇ったアドニヤは、その場で何かを見たようだった。彼は、自分たちなど意にも介さず、目に見えぬ何かと、わけのわからない言葉で話し始めた。その時、気が付けば空に黒雲が沸き起こり、落雷が起きるかのような空気になり始めた。
そしてアドニヤが正気を取り戻したと思えた瞬間、落雷が彼の頭上に降り注ぎ、彼を一瞬のうちに殺してしまったのだ。
祭壇はよく燃えている。まるで、生贄の動物を燃やすように。
一体何が起こったというのか。ソロモンには理解しがたかった。アドニヤの、あの愛した兄の体を燃やす火は、なぜ燃えているのだろうか。祭壇には薪もない、油も撒いていないというのに、その火は延々と燃え続けていた。

「ソロモン」
ふと、自分を呼ぶ声がした。
「ソロモンよ。新しい、イスラエルの王よ。私はお前を祝福しよう」
厳かな声だった。自分が今まで、聞いたこともないような声。ソロモンはなぜか、その声を聴くと、これまでの人生で感じたこともない安らぎを感じるような思いだった。
ソロモンはふと、声の主の見当がついた。なるほど。全ての説明がつくだろう。急に雷を落とし、アドニヤを殺し、燃えるはずもない火を永遠に燃え上がらせることができる者。ソロモンはふっと、表情を柔らかくした。
「なるほど……つまり、貴方なのか。イスラエルの神よ」
天使を自分のもとに使わした者。自分をイスラエルの王に選んだ者。彼が、今、ここにいるのか。今ここで、生贄アドニヤを受け取っているのか。
ソロモンは不思議な思いに満たされた。嬉しさとも違うが、憎しみと言うわけでもない。ただ、妙な安らぎがそこにはあった。誰も信じないし、誰にも頼らないという自分の信念を、そこでなら忘れてしまいそうだった。周りの空気が温かい。冷たくとがった彼の心を、今ここでのみ、解きほぐしてくれるかのような雰囲気が、その声にはあった。全く非人間的で漠然とした、人間では到底出せない暖かさだった。
「ソロモンよ。祝福を授けよう。お前の望むものを言うがよい。私はお前に、それを授けよう」
聞こえるのは声だけだ。目の目では、アドニヤが黒こげになり、天に向かっているところがありありと見えている。熱風に、自分の顔すら焦がされそうなものだ。だが、ソロモンは退かなかった。焦がしはしない。彼ははっきりと、そう確信していた。
「望むもの……貴方は、それをご存じのはずだ」
ソロモンはそっと、目を伏せて、小さな声で言った。
「富も、敵の死も、長寿も、私はいらない。……その程度のもの、何もいるものか!あなたは見ていたはずだ、貴方に願わずとも、私はそんなもの、いくらでも手に入れられる!今までも、これからも!私は自分ですべてを得られる。貴方はそれを見てきたはずだ!普通の体になりたくもない!そんなものは無意味だ!私は私なのだ、悪魔と呼ばれる異形の身でも、私はここまでになれたのだから!ああ、全能なる神よ、私が唯一、私の力で得たものではないものを与えてください。私はもっと知性がほしい。もっともっと、賢くなりたい。全てを、思いのままにするために。このイスラエルの王として君臨するために、私に、何にも勝る知性をください。貴方が最初の人類に、最も与えるのを拒んだものを、この私に与えてください」
火の柱が巻き起こる。「承知した。見よ、私はお前に、今まで以上に知恵に満ちた心を与える」と、声が聞こえた。
「ダビデのもとに行くがよい。彼の命は、もうすぐ消える。行って、彼の言葉を聞くがよい。私はお前に約束しよう、ソロモン。わが目にかなう、賢く、強きものよ。お前の生涯にわたって、お前より偉大な王はどの国にも現れはしない。お前が私の道を歩む限り、お前は生き続けるだろう」
彼の声は、あくまで重々しく、厳格であった。にもかかわらず、それは、ソロモンを安心させた。どこか、彼が、ソロモンが今この場に立っていることを喜んでいるような感触すらソロモンは味わったのだ。
声はぷつりと途絶えた。空気は元通り冷たくなり、ソロモン自身もまた元のつららのような心の人間に戻っていくのが、彼自身にはわかった。
「(主よ……)」
ソロモンは、頭を数度振って、気持ちを取り直した。そして、元通りよく通る声で、兵隊たちやベナヤに告げた。
「イスラエル宮殿に向かう。アドニヤが死んだ今、ここにはもはや用はない」


「ああ、高貴なお方、どこへ向かわれますか。もし、よろしければ、ここにおわすダビデ様のお子様を受け取ってください。この子を養ってくださいませ。哀れな子なのです。誰も、この子を愛せないのです。きっと貴方様ならできるでしょう。高貴なお方。お願い致します。この子の父はもうすぐ死にます。どうか、彼の代わりに愛してくださいませ」
ソロモン達がギホンの泉を通りかかった時、そう言いながらふらふらと出てきたその気の振れた乞食坊主の正体を、ソロモンは最初、分からなかった。彼は何日も食べていないかのように痩せ衰えて、何もない空間にある何かと手を必死につないで、まるでそこに子供がいるかのように話していた。
だが、ソロモンが彼の顔を見た瞬間、ソロモンには彼がわかった。彼は、ナタンのなれの果てだ。あの、自分の教育係の。
何故、彼がこんなところでこうしているのか。そんな疑問は問いかけても、無駄のように思えた、ナタンは必死で目に見えない子供を世話しながら、ソロモンに語りかけた。
「高貴なお方。お願い致します。貴方様だけが、この子を愛せるのです」
「その子の名は」ソロモンは言った。「ダビデとバテシバの子、ソロモンか」
「はい、そうでございます」
ソロモンの眼に、ふと涙が伝った。幼い自分。誰にも、抱きしめてはもらえなかった。
ソロモンは、乗っていた馬の上から手を差し伸べた。ナタンはそれに喜び、いもしない小さなソロモンを彼の手に渡した。彼は、それを抱きすくめた。彼の手は虚空を切るだけだったが、それでも、彼は、涙があふれた。
「愛するとも。愛するとも。この世の何よりも。お前よりも、この子の両親よりも、私はこの子を愛しよう」
「ああ、その言葉を聞いて安心しました」ナタンはやつれた顔を安堵の色に染めて、そう言った。「ありがとうございます。高貴なお方。名前をうかがいたく思います」
「……私は、ソロモンと言うのだ。この子と同じ名前だ。誰よりも、この子を知っているものだ」
ソロモンは短くそう言って、そのままそこを立ち去った。何があったかは知らないが、もはや十四年間も一緒にいた自分の顔すらわかりはしないほど気の狂ってしまったナタンを、どうかしようなどと言う気は彼にはなかった。死ぬのなら、あそこで死ぬのもよかろう。どこか彼はそれを望んでいるようにも、ソロモンには思えた。彼は後ろを振り返らずに、自分の兵士たちとともに、王宮に向かって進んだ。

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feat: Solomon 第三十七話



病床に伏せるアンモン王の前にソロモンが現れたのは、とある日の朝の事だった。刺すような朝日に照らされて、マントをかぶったソロモンのシルエットが鮮烈に彼の目の前に浮かび上がった。
「陛下、私に軍隊を動かす許可をください」
アンモン王はぼんやりする頭で、あっさりとそれを了承した。


ベナヤがソロモンに軍隊を動かせと言われた時、彼はようやくか、と思った。ベナヤを雇い入れてから、彼は全くいつも通りに仕事をこなしていたのだ。ベナヤとしては、一日でも早く帰りたくて仕方がなかった。だが、ソロモンは彼がせかすと、待て、と言うのみだった。そして、「私の言うことには従え」と来るものだ。
実際、ベナヤはもう彼には逆らえない。彼は完全に自分達より優位なのだ。自分達は彼を切り捨てることはできない。彼は自分たちを切り捨てても、おそらく何の損失もないというのに。そう、自分たちは今、お情けでソロモンの味方にしてもらっている存在でしかないのだ。
だから、ベナヤは待つしかなかった。それがようやく、進もうというのだ。
「今夜出発をする。お前は兵を揃えろ。何、そんなに数はいらん。百人程度で十分だ。ただし、選り抜きの実力の者にしろ。アンモンの古株の軍人の判断もあおげ。わかったな」
こんな発言にもとくには驚かなかった。ソロモンは日光に弱いうえに夜に強いのだから、夜に出発することは全くおかしくもなんともない。付き合わされる方は楽なものではないが。
見れば見るほど、ソロモンは昔少しだけ見た思い出の姿とは違っていた。それは、成長して背丈が伸びたせいもあったのだろうが、もっと根本的なところで違っている。
彼が今マントをかぶっているのは、純粋に日光を避けるためと言う印象を受けた。変な話ではあるが、あの日、裁判の席に立った少年は、もっとそれ以上に、外を拒もうとしていたのだ。自分の姿を一片でも他人に見せてなるかと言う強固な面が感じ取れたのだ。
目の前に立つ彼は、長いマントの留め金を止めず、ただ羽織るにとどめている。白い髪も、顔も、あらわなままである。目には若干影がかかっているが、それでも、彼の眼の赤色ははっきりと見えていた。屋内だから、その程度で十分いうことなのだろう。
「では、私はこれで」彼はマントを翻し、さっさと次行くべき場所に立ち去って行った。ベナヤはその後姿に威圧されるような思いだった。そうだ。根本的に違うというのはこれだ。今、彼には威厳があるのだ。


「ナアマ。旅の支度をしろ。今夜出発する」と、ソロモンは彼の妻の部屋に入るなり、だしぬけに言った。ナアマはいきなり部屋に入ってきた夫の姿に一瞬怯んだものの、すぐにいつも通りの態度に戻って「私がついていく必要も義務もないわ」と言った。
「ほざけ。俺が付いて行けと言っているんだ。夫であるこの俺が」
「たいそう偉そうね、奴隷上がりのくせに!」
「お前はそれ以外の言葉は言えんのか?支度をしたくないなら勝手にしろ、その薄い恰好で夜の荒野の寒さに耐えきれるというのならそれもまたよかろう」
皮肉の色がたっぷり入ったソロモンの言葉に、ナアマは唇をかみ、彼を睨みつけた。彼の視線は全く別のところにあったので、彼女の眼を彼が捉えることはなかった。
「どこに行くの、教えなさい」とナアマは言おうとした。だがソロモンはそれより早く「今日、アンモンを離れるからな」と言った。
「なんですって!?」
「アンモンを離れる。俺の故郷に帰るのだ。お前のような女でも一応は妻だ。連れて行かなくてはならんだろう」
故郷、と言う言葉に、ソロモンは我ながら不思議な感触を覚える。懐かしさと言えるものはおよそ、どこにもないはずだ。あの土地のどこに自分が感慨を感じるいわれがあったというのか。
ただ、それであってもイスラエルは自分にとって特別なところなのだ。アンモン以上に。だから、故郷と言う言葉にも不思議なものは感じても皮肉なものは感じなかった。あそこは確かに自分の故郷なのだ。たとえ、王宮以外のものを自分が知らなかったとしても。
ナアマは呆気にとられている。ソロモンは「急いでお前の侍女にも伝えろ」と短く言いきった。
不意に、ナアマが笑う。ソロモンはそれを持ってようやく彼女に言葉以外の初めての反応を見せた。彼は眉をひそめた。
「ほほ……ほほほ!笑っちゃうわ!故郷って、貴方の故郷なんて羊の牧場じゃない!この私を、アンモン王女を!羊の群れの中に連れて行くのね!いや、そもそも、アンモンのような立派な国の王座を約束されておきながら羊たちの世話に帰ろうなんて、ああ、あほらしい!ほっほっほ、やぱり猿知恵があろうとも、羊飼いの息子は羊飼いの息子だわ!それなりの常識しか持ち合わせていないのだわ!」
彼女は鬼の首でも取ったかのように、あざける笑い声を出した。ソロモンは彼女の言葉が終わるのを聞き届けると、自分もにやりと笑って言った。ナアマはその顔を見て、思わず笑いを引っ込める。彼女にはわからない。彼がどうしてこうも、残忍な笑い方をできるのか。
「ナアマ、俺の父の飼っている羊はただの羊ではない。お前にもいずれわかるだろう」
ナアマは、自分の夫の指に輝く赤い指輪に気づくことはなかった。



王になれないのなら、誰も自分を愛さない。アドニヤが生まれて初めて気が付いたのは、そのことだった。
彼の母は、彼を相手にしてくれなかった。そして、周りにいる人間もそうだ。彼らは、第一王子のアムノンか、彼以上に王に相応しいと言われているアブサロムのもとにこぞって集まった。彼はもちろん悲しかったが、その悲しみを傍にいて受け止めてくれるものも、誰もいなかった。彼はやがて、それが、どうせ王にはならない自分を愛したところで周囲の人間にとって何の見返りにもならないからだと悟った。
小さいころアドニヤは、動物をいじめるのが非常に好きだった。その悲しさを紛らわせたかったのかもしれないし、彼の天性の残虐さがそうさせたのかもしれない。ともかく、彼は発散させようのない怒りを自分より小さいものにぶつけた。虫やカエルを捕まえてはバラバラにし、鳥や小動物を逃げないように縛り付け、石をぶつけて遊んでいた。誰も一緒にそうして遊んでくれる者がないから、彼は、一人きりでずっとそうやっていた。
しかし、ある日彼は、全くの気まぐれでアムノンやアブサロムがやっているように、動物に餌をやってみようと試みた。すると、彼は驚くこととなった。てっきり、自分は普段から動物たちをいじめているから寄ってもくるまいと思っていたものが、うきうき喜び勇んで彼のまき散らすパンくずに寄ってきたのだ。
孔雀が自分の掌をつつきながらパンを食べた時、アドニヤの中で全く、動物たちがくだらなく思えた。ああ、そうか。この程度なのだ。動物を傷つけるというのは。自分がいくら残酷であろうとも、ただ良い人間を装えば、彼らは騙されてしまうかもしれない、と、彼は考えた。その日以来、彼は変わった。
自分の趣味をぱったりやめて、動物たちに優しくするように努めた。動物たちはすぐに彼になついた。そのうち、彼は、これは人間にも適用できるのではないかと考えた。
彼は一人きりになるのをやめた。ニコニコした笑みを浮かべて、相手がどんな相手であろうとも、貴族であろうと奴隷であろうと、手伝いがほしそうにしている相手に手を差し伸べた。つらそうにしている相手に、優しく、語りかけた。彼らは満足している様であった。その時、初めてアドニヤは今まで気づいていなかった自分自身の才能に気が付いた。自分は、生まれながらにして人心掌握の才能があるのだ。他人が求めるものを見極め、それを演じることが、他人以上にできるのだ。そう、彼は自覚した。彼はそれに徹底した。残酷な自分をありがたがるものなど誰もいない。彼は常に、仮面をかぶり続けた。彼らの求める人間であることに努めた。まだ、年端もいかない子供だった頃の話である。
成長していくにつれ、そのような彼をありがたがる人間はますます増えた。彼の、他人の思いを見抜く腕も、めきめきと上がっていった。腕を上げ、そして最終的に、彼は見抜いた。彼らはいつしか、自分を良い手伝い程度の者でなく、尊敬するかのようなまなざしで見ていた。そしてもう一つ、彼には気づくところがあった。彼らはアブサロムやアムノンに、同じようなまなざしを向けているのだ。
それを自覚した瞬間、アドニヤは歓喜に打ち震えた。王とならなければ、誰も自分を愛さない。しかし、自分はこれを持って、王となることができるかもしれないのだ。王となるには人望が必要だ。自分はアムノンよりも、アブサロムよりも、それを集めることができる。自分にはそれだけの力がある。少年の日のアドニヤは、そう確信した。
彼はもう、動物をいじめることなどなくなった。そんなところを誰かに見られたら、自分のイメージが崩れるかもしれない。だんだん、優しくするにも相手を選び、効率よく自分の好感度を上げるように努めてきた。ただし、だからと言って下賤の者に冷たくしたわけではなかった。彼らにもまた、あくまで目上の者として最大限に払える優しさと敬意を見せ、丁重に扱った。何人もの人間を観察し、どうすれば自分がその人間の求める姿になれるか、どうすれば彼らに尊敬されるかを観察した。
彼はそれを、母親にも試してみた。簡単なことだ。彼女に、自分の王としてのポテンシャルを見せつければいいだけの話だったのである。取り巻きの数こそまだ兄たちに及ばないが、貴族や祭司たちに一目置かれている彼の姿を、母親にそれとなく見せつけるだけで十分だった。
ハギトは人が変わったように、アドニヤに構い始めた。今まで一瞥もくれなかったのに、途端に過保護になり、アドニヤにべったりとくっつくようになった。そして暇さえあれば、貴方は自慢の息子だと繰り返した。アドニヤは、彼女が息子も同じように自分を愛してくれることをも望むようになったのを見抜き、そんな母の愛情を世間の仲むつまじい母子のするような形で受け止めたが、内心では母をあざ笑い、軽蔑した。
アドニヤは着実に、力をつけ、信頼を得ていった。彼は、王となりたかった。王になれるからこそ愛されるのだ、王になることが自分の存在意義なのだと、小さいころ得た確信を信じて、動いた。王となれば、もう昔のような屈辱にあえぐこともないのだ。誰もかれも、動物のような馬鹿ばかり。その馬鹿にでも、自分は愛されたいのだ。
天の恵みかと思う瞬間は、ある日突然に訪れた。アブサロムに呼ばれて出席した宴会で、突然、アムノンが凶刃にかかって殺されたのだ。彫刻のごとき美しい顔をこの上なく深い憎しみの色に染めてアムノンを切り刻むアブサロムを見て、アドニヤは心の中に沸き立つものがあった。ああ、なんという表情だ!まるでこれは、破滅の表情だ。人の心を見抜くアドニヤは、その時も見抜いたのだ。アブサロムの破滅の予感を。彼がいかに自暴自棄になっているかを。
邪魔な長男が消え、三男の命も風前のともしびとなったのを誰よりも一足早く見て、アドニヤの心が希望に燃えた。自分が望んできた地位が今、手に入るチャンスが生まれた!と。
アブサロムのクーデターが起こった時、誰もかれもが城を離れたがる傍らアドニヤは自ら、城を守ると名乗り出た。アブサロムに負けるなどと言う気はさらさらなかった。彼にはそれだけの自信があった。
それに、これほどにまで、自分はダビデ王家に忠実に使える王子であるということを顕示する機会もない。案の定、周りはみんな心配そうな顔をしながらも、同時にアドニヤに対する敬意の心が沸き立っていた。理想の王子とあがめられたアブサロムが父を裏切るなどと言う出来事があった直後なのだから、さぞかし父王に忠実な王子の姿は、彼らの心を打ったことだろう。
いよいよ他のものが出ていくときになって、預言者のナタンが彼に言った。
「アドニヤ殿下、よろしければ、ソロモン王子に助けをお頼みください」
ソロモンの名を聞いて、アドニヤは不審に思った。なぜナタンが彼の話を出すのか。しかし、次の言葉に彼は納得した。
「ソロモンは、天性の知性を持っております。役に立つかもしれません。なにとぞ、ダビデの家をお守りください」
アドニヤはその言葉に、了解の意を示した。天性の知性。もしもそうなら、確かに、この状況で自分が今一番欲しいものだ。
ソロモンの事は知っていた。不気味な白い体に赤い目。おまけに夫を裏切ってダビデに嫁いだいわくつきの女の息子。誰もかれも、彼を忌み嫌い、軽蔑し、避けていた。そして彼も、不気味なまでに、他人に媚びることを拒んでいた。誰にも愛されない天涯孤独の弟。それはまるで……昔の自分のような。
ソロモンを自分の味方につけることは、今までの誰よりも簡単だ。アドニヤは、そう確信した。だって、ソロモンが何よりも欲しいものを、自分は誰よりも知っている。それはかつて、自分自身が強く、強く望んだものなのだから。


夜が更け、アンモンの王宮にかがり火がともされた。ベナヤが選んだ兵隊たちは一列に並べられ、出発を待つ段取りとなった。ナアマも結局しぶしぶと旅支度をすることを強いられ、文句ありげな顔で少し離れた場に立っている。
ソロモンはどこにいるのか。肝心の彼が来ていない。彼は隣に立つザドクとともに、そのことを心配していた。
だが、心配は不必要だった。彼はすぐ、その場に来て全員の前に立った。そして、自分の体に覆いかぶさるマントを、ばさりと翻し、夜の空気を切り裂いた。
彼の長い髪が冷たい夜風にふわりとなびく。真っ白なそれは、いつのまにやらよく手入れされていて、艶やかに輝いているようにすら思えた。夜風に翻されたマントも、あのみすぼらしいぼろぼろのものではない。真っ黒なのは同じであるが、上等の布地で作ったものだ。彼はそれを片手でまとめ、背筋を伸ばして彼らに向き合った。月明かりに彼の鋭い視線がはっきりと照らされる。彼は見下ろすように、彼の前の軍隊を眺めていた。誰もが、それに知らず知らずのうちに威圧されているようにも思えた。
美しい。ベナヤはそう思い、畏怖すら覚えた。彼が生きてきた中で、今まで、これほど美しく、厳かで、……このような感情をソロモンに持ったことなど、おそらくイスラエル人の中では誰もないだろうにもかかわらず、彼はこう思えた。これほど高貴な男がいただろうか。はかない月の光を受けてレバノンの山の上に降る雪のように白く輝く若者は、まるで人間を超えた、はるかに高貴な存在のように、ベナヤには映っていた。
彼は細長い指にはまったルビーの指輪をかざし、言った。
「ものども。我らはこれより、イスラエル王国に向かう。そして、イスラエルの王位をわがものとするのだ」
彼らは一瞬どよめいた。イスラエルは宗主国である。そのような大それたクーデターが、なぜここまで少人数なのかと。だが彼は言った。「うろたえるな!私には、イスラエルの王位を継ぐ権利がある。このダビデの指輪が、何よりの証拠」
ベナヤはいつかと同じような感触を覚えた。月明かりに照らされ星よりも煌めくルビーの赤色は、ソロモンの眼の色と全く同じだ。ソロモンは三つめの眼を、その手に携えているかのようだった。ルビーの指輪は彼の眼同様、冷たく、彼らを見下していた。
「ものども、私についてこい。イスラエルの王座は、アンモン王の婿エディドヤのものにあらず。この私、ダビデの指輪を持つもの……イスラエル王子、ソロモンのものだ。」
何の威厳も威圧感もないものが言っているのならば、軍人たちはなおもどよめき続けそうなものだ。いったい、この目の前に立つ王の婿はどんな気の振れたことを言っているのだろうと、信用できなくても不自然な話ではない。ましてや、彼は、名前さえも彼らが知っているものとは違うものを唐突に明かしたのだ。混乱しても当然である。
だが、不思議とそのような思いを持つものは一人もいなかった。ソロモンの冷たい威厳もそうだったが、何よりも、イスラエルの王位と言う言葉から、ソロモンがそれに感じている静かな、そして途方もない怒りと恨みの念が感じられ、彼らを圧倒しているのだ。
彼らは傀儡のように、その言葉を聞き、そして、自分の感情を知らず知らずのうちに忘れていった。ソロモンは指輪のはまった腕を振りかざし「出発する!」と言い放った。誰ひとり、従わないものはいなかった。ベナヤもそうであった。

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feat: Solomon 第三十六話



アドニヤは気が気ではないという風だった。ヨアブはそれを見て、非常に痛ましい思いに駆られた。
アドニヤの感情はもはや一口に言い著せるものではないほど、いろいろな思いを内包しているのは見るだけでもわかった。恐怖であり、焦りであり、苛立ちであり、憤りであり、絶望でもある。
アドニヤの苦悩は自分の苦悩でもある。ヨアブの思いはそうだった。今となっては、なぜあの日自分はアブサロムのために駆けずり回ったのかわけがわからない。今目の前でこの王子が苦しんでいること以上につらいことなど、ヨアブにとっては存在しない。
そのつらさの一端を担っているのがまぎれもなく自分であることを自覚していたからこそ、その思いもひとしおだ。あの泥棒が入って日以来、自分の部下であるベナヤと、祭司の一人ザドクが逃亡したことが分かった。それゆえ彼らにあたりを付けたはいいのだが、彼らは捕まらなかったのだ。まんまと逃げられて、今は行方も分からない。彼らの家族も何も聞かされていないと言ったので、彼らが犯人であることは疑いようもなくなってからも、彼らの音沙汰はつかめないままだった。
「どうすればいい、どうすればいい」アドニヤはぶつぶつ呟いていた。ヨアブを責めるようですらあった。ヨアブはそれを甘んじて受けとめた。
「捕まらないのか、逃げられたんだな。まんまと逃げられたんだな」
アドニヤは目に見えてやつれていた。ダビデの容体が急変してからまだいくらもたたないのに、アドニヤは明らかに変わった。顔色はずっと悪くなり、クマが濃くなった。目つきがおかしくなって、独り言が多くなり、時々急に叫んだりすることが多くなった。明らかに、パニックに陥っているのだと分かった。無理もない。彼は父の指を、自ら落としてしまったのだ。
「お父上はあれだ。それに、ぼくのことを知るやつらに逃亡されてしまった。奴らはぼくを脅かす。ぼくは王になれなくなる。どうするんだ。ああ、どうしたら……」
彼はバリバリと巻毛の髪をかきむしった。ヨアブは何も言うことができなかった。ただただ、心臓が押しつぶされるような思いでそれを見ていた。
「何も言わないんだな、お前」忌々しそうにアドニヤが呟く。ヨアブはそれでも、その言葉通り何も言えなかった。
「殿下、失礼いたします」と、扉を開けてもう一人人物が入ってくる。アビアタルだった。彼は「ダビデ陛下の容体を見てまいりました」と言った。
「どうだったんだ?お父上は」
「……無駄です。病はどんどん、進んでおります」
アビアタルの顔も真っ青だった。あれ以来、ダビデの病室には看病係のアビシャグと医者と、あと数人を除き、ろくな人物は寄り付かなくなってしまった。だが、それも当たり前だ。
とうとう末期となったダビデの病気は、彼の体をじわじわと壊死させていった。あの、かつてはイスラエルに咲き誇る太陽の花のごとき美青年だった体が、醜く、黒く、腐り果てていくのだ。とてもとても、好き好んでみる者などはいるまい。
アドニヤはアビアタルの言葉を聞いて、がっくりとうなだれた。彼の体が細かく震える。彼は恐怖に打ち震えているのだ。
自分の立場が今にも脅かされるかもしれないという恐怖と、得体の知れない非現実的なまでの絶望が襲ってくる恐怖。それら二つにはさまれて、アドニヤは、今にも押しつぶされそうなのだろう。
「そうだ」
彼はふと、疲れ切った目でふわりと虚空を見つめて呟いた。
「なんでこんな簡単なことに気が付かなかったんだ。ヨアブ!アビアタル!いい方法を思いついたよ。ほんと、なんで今まで思いつかなかったんだろうね?あほらしい!実に単純さ、ぼくが今すぐ王になってしまえばいいんだよ!」

「今すぐですって?」ヨアブは言う。
「そうだよ。ベナヤとザドクが帰って、ぼくに関してなんだかんだ言うまでに、ぼくが王になってしまうのさ!そしたらもう、過ぎてしまったことはどうしようもないだろう。ぼく自身が王になれば、奴らの言い分なんていくらでも無に返せるんだ。あはは、そうだそうだ!今すぐ王になるぞ!奴らに揚げ足を取られる前に!アブサロムのように、仲間を集めて宴会を開いて、王になるぞ!」
口調こそ笑っていたが、彼の眼は笑っていなかった。笑うには既に疲れすぎているかのような目つきをアドニヤはしていた。
「ぼくが王になれば、おれ以外の王位継承者なんて全部なかったことにできるもんな!指輪の一つや二つで動かされない立場になっちまえばいいんだよ!」
「お、お言葉ですがアドニヤ様」と言ったのは、アビアタル。
「まだ王は生きておられます。即位式は執り行えません。それに、貴方様はお母上の喪中であります。喪中の者は、儀式や宴会の場には立てぬしきたりです」
「相変わらずお前は古いな!そんな伝統、臨機応変に変えりゃいいんだ!」アドニヤは言い返す。
「だいたい父上だって、先代の王を殺して即位したんじゃないか!なぜおれが父の死を待たねばならない!それに母が死んだからどうした!おれは死んでないんだからどうでもいいじゃないか!ヨアブ、お前に命令するぞ。護衛兵を集め、生贄の獣の手配をしろ。おれはエン・ロゲルに自分の地所があるんだ。用意ができ次第、おれはそこで宴会を開く。そして、その場でおれはおれが王であると宣言しよう。そうして即位に臨むのだ!ことは急がねばならんのだ。ベナヤ達が帰る前に!お前たち、何をぼさっとしているんだ!?とっとと動け!」


二人をとり残して、アドニヤは乱暴に自分の部屋を飛び出した。じっとしていられなかった。動いて気を紛らわせでもしなくては本当に正気を失ってしまいそうなほど、彼は切羽詰まっていた。
だが、彼はすぐ立ち止まることになった。部屋のすぐ外に、アビシャグが立っていたからである。しかも、彼女は恐ろしいことを聞いたような顔でそこに立ちすくんでいた。
彼女もダビデの世話を一人任されているとあって、目に見えて精神が参っていた。だが、そこにもう一つ恐ろしい場面に出くわしてしまい、混乱に頭が追いついていないような様子であった。
「アビシャグ、そこで何をしていたんだ?」アドニヤは彼女を睨みつけるようにして問いかけた。
「お前はお父上の看病の仕事があるはずだ」
「わ、わたし」アビシャグは震える声で言った。「アドニヤ様にお会いしたくて、その……」
「自分の仕事を放ってか。良い身分だな。……お前、おれの話を聞いたんだな?」
アビシャグは震えながらうなずいた。後ろでは、そそくさとヨアブとアビアタルが退散していた。アドニヤは彼らと入れ違いに、アビシャグの手をつかんで半ば強引に自分の部屋に引き入れる。
「聞いていたんならまあ、いいだろう。聞いての通りだ。おれはすぐにでも王になろうと思う。父が死ぬのなんぞ待ってられん。だが、分かってるな。いいか、俺の言うとおり、このことは黙っていろ。誰にも言うんじゃない。あの時と同じように」
「アドニヤ、様」彼女は相変わらず、おぼつかない口調で言った。顔色は真っ青になっていた。「そんな、そんなこと、許されませんわ……」
「許されない?なんで?」アドニヤは恐ろしい形相で言った。「何の不都合があるんだ。お前たち、言っていたじゃないか。誰もかれも言っていたはずだ。おれが王に相応しいと。お前なんか、おれがソロモンを殺すのを見ておいて、なおもそう言っていたんだ。それで、なぜ許されないんだ?」
アビシャグはそれに対して、何も反論もしなかった。する心のゆとりがなかった。代わりに、彼女は震えながら言った。
「あなたは、変わりましたわ」
「変わった?おれが?」
「アドニヤ様は、もっともっと、優しいお方でしたわ。お父様の事をそう扱う方じゃなかった、お母様が死んでも嘆かない様なお方ではなかった。……そう!私、知っていますのよ、知っているんです!アドニヤ様!あなた、バテシバと寝ていらっしゃるんですって!バテシバが自慢してきたんです、この私に!いかにも誇り高そうに、嬉しそうに!どういうことですの、アドニヤ様!あなたはなぜ、あんな女と、しかも自分の母と寝るんです!あなたには私がいるのに!どうして!貴方はあんなにやさしくて、素敵なお方だったじゃありませんか。なのになぜ、お父君と、お母君と、そして何より、愛している私を裏切られるのです!」
アビシャグは泣きながらそう言った。彼女のぱっちりした双眸は涙にぬれて、彼女の目に映る景色はすっかりぼやけてしまった。彼女は片手でそれをぬぐった。つるつるした手の甲の肌は涙をよくはじき、大量の液体が肌を伝い、そこが湿気と冷気に犯される。
「ねえ、どうしてです!?私を愛していらっしゃるんでしょう!この世で一番!何度も何度も、そう言ってくださったではありませんか!私が貴方を愛しているように、貴方も私を愛しているのでしょう!」
アビシャグはもう一度、アドニヤを見た。しかし、次の瞬間、彼女は後悔した。一生、こんな涙はぬぐわないほうがよかったかもしれないと思った。アドニヤは非常に冷ややかな顔で、アビシャグの方を見下していた。
「おれは何も変わってないさ」彼は言った。
「アビシャグ。お前、本当に馬鹿の能無しだな。おれがソロモンを殺すのを見ていただろう。……それなのに、なぜそう思えるんだ?相当な思い上がりだな、お前と言う女は。いいか?弟を裏切れるやつが、なぜお前を裏切らないと思ったんだ?なぜ、ソロモンを愛さないおれが、おまえを愛していると思ったんだ?」
彼のこんな表情を見るのは、アビシャグは初めてだった。冷ややかだと思った。そして、醜い顔だと思った。
「だって、あなたは、私を愛しているとおっしゃってくれました」
「馬鹿だな。同じことは、ソロモンにも言っていた。誰にでも言っていた。教えてやろうか、バテシバにも言ってるよ。愛してる?そんなただの言葉がどうしてそこまでの価値があるんだ。いいかい、アビシャグ。おれは誰も愛したことなどないし、誰も愛したいとは思わない!お前に何がある?年老いればクシャクシャになるその美貌と、男を楽しませる、股の間に空いたものだけさ!お前よりはまだソロモンのほうが有能だった!おれはそれも愛さなかったし、切り捨てた!それなのになぜおれがお前を後生大事に取っておく!お前と一緒によく、動物に餌をあげて遊んだっけね。結局、お前もあのけだものどもと同じだよ。甘い餌をよこせば、相手がどんなものであろうとついていく、馬鹿な雌のけだものに過ぎなかったんだ」
アドニヤの言葉を、アビシャグは信じたいとは思わなかった。しかし、信じざるを得なかったのだ。彼の言葉は重くのしかかり、彼女は床にうなだれた。普段なら差し伸べられるはずの手は、勿論来ることはなかった。
「わたしは」アビシャグは言った。「私ははもう、純潔ではありません。貴方を愛していればこそ、お捧げ致しました」
「それで?」
「奥方にしていただけるのでしょう?だって、貴方は私を……」
「お前ったら、ほんとに馬鹿だな。処女を奪ったから結婚しなきゃならない?どうしておれがそんな古い、非合理的なことをせねばならん」
アビシャグは床に突っ伏し、背の高いアドニヤは立ったままである。彼の言葉は重いものが上から下へと落ちるように、重々しく鋭くアビシャグに降りかかった。
「王になれば、結婚だって重要事項の一つさ。おれは何処か近隣の国の王女の中から正妻を迎え入れるつもりだし、お前は、まあ、なりたいというのなら後宮の愛人程度にならしてやるさ。もっとも出ていきたければ出て行け。くだらない男とでも結婚して、お前に似合いのくだらない人生を送れ。おれは止めん。未練もない。正直、そろそろお前に飽きてきたから」
「そんな……そんな!私はダビデ様との結婚歴が既にあるんですのよ!まともな家なら貰ってもくれませんわ!」
「だったら何にでもなればいい。お前は言ったな、父は女衒だと。父が女衒ならお前は娼婦さ。お前は所詮、売られるため、抱かれるために生まれた女だ。娼館と比べれば、どんなところでもましだろう」
何を言っても、アドニヤの心は変えられないのだ。アビシャグははっきりと、それを自覚した。彼女は泣いた。もう、涙でアドニヤの心を変えるためではない。ただ体が泣くことを欲しているから泣くのだ。化粧が剥げて流れるのがわかった。涙をぬぐう手の甲に、黒いものがこびりついているからだ。
自分が愛したのは、こんな冷たい男だったのか。それを見抜けないままに、自分は、少女として何よりも大事なものまでを彼にささげたのか。
「ぴいぴい泣くな、人の部屋で!」彼は怒鳴った。「いい年をして、子供のように!とっとと自分の持ち場に戻れ、おれの話は誰にも話すな!」
「話さない……そうお思いですの?」
アビシャグは頭を上げた。そして、その言葉を言いながら、精いっぱいにアドニヤを睨みつけた。アドニヤに向かって湧いた憎しみを一身にぶつけるように。
「私が、話さないとでも?」
しかし、彼女の試みは無に帰ることになった。彼女の湧き立つような憤怒も一瞬で冷やしてしまうほど、アドニヤの視線は冷ややかだった。彼女も知らない彼女のすべてを見通しているかのように。
「話さないし、話せないさ。お前はそれほどの人間じゃないもの。度胸もないし、知恵もない。おれは全てを知っているさ」

結局、彼女はアドニヤの部屋を閉めだされるように後にした。彼女は全てが抜け切ってしまったような無気力な歩き方で、その場から去った。


目が覚めた時、ダビデの周りには誰もいなかった。アビシャグもいなかった。彼女は勝手に後宮に帰って泣き出してしまったからなのだが、ダビデのそのことは分からない。ダビデはそれが帰って、良いようにも思えた。彼は、夢を見ていた。言葉しか存在しない夢だった。
自分の体を少しでも動かしたくはなかった。手を動かせば、自分の指がどうなっているのか分かってしまう。足も同じことだ。視界にうつる黒いものはなんだろうか?高い高いとほめそやされた、自分の鼻なのだろうか。
だが、これ以上にない苦痛と恐怖の中にあってしかるべきだろうに、ダビデの心は不自然なまでの穏やかさも、また同時に保っていた。
ふと、カーテンが揺れ、何者かが入ってくるのがわかった。ダビデは無言で出迎える。入ってきたのは、ナタンの姿だった。
髪はぼさぼさで、服もだらしがない。まるで、ふらふらと夢遊病のごとく、家から王宮まで来たかのような、そんな姿だった。
彼の眼は焦点があっておらず、彼の足取りはおぼつかなかった。彼は手を後ろに回して、誰かを引きずるような姿勢でダビデのほうに歩いてきた。
「ナタンよ、どうかしたのか」ダビデは優しく言った。ナタンは今や完全に狂気に犯されたようであった。彼は、突き動かされるように言葉を吐いた。
「王よ、王位につかれるのはアドニヤでしょうか。貴方様は、まだ、自分の跡を継ぐ者がだれであるのかをしもべどもにお示しになってはおられない」
言っていることは実にちぐはぐだった。ナタンとて、ダビデが王座の上で、アドニヤを自分の後継者としたことを覚えていたはずだ。
だが、ダビデはそれを受け入れた。おそらく、ナタンは自分がどうやってここに来たかもわかっていないはずだ。彼はここに、呼び出されたのだ。自分のもとに夢が舞い降りたのと同じように。全ては神の導きだ。
夢は、神のお告げだったのだ。そして、ナタンを持って、神は、それを実行せんとしているのだ。
「ダビデ様。貴方のご子息を連れてまいりました」彼は何もない空間を指さし、そう言った。そして、うって変わってとても優しい声で話しかけた。
「ほらほら、何を怯えているのです。心配しなくてもよいのですよ。誰も貴方をいじめはしない。私が守って差し上げますよ。貴方は神に選ばれた子ですから」
そう、何もないところを見つめて、ナタンは喋っていたのだ。
「そこにいるのは私の子か。バテシバの子、ソロモンか」
ダビデは言った。ナタンは「そうですとも、勿論です」と言い返す。
ダビデの眼に、勿論ソロモンは見えない。だがナタンはダビデに「お慈悲をかけてください。アドニヤではなく、この子を王に。頭を撫でてあげてください。まだ、ほんの幼い子なのです。生まれたばかりの子なのです」と、見えない彼をそっとダビデの方に突き出すように、手を動かした。
ダビデの眼に、不思議と涙があふれた。何の感情から来る涙なのかもわからない。涙は寝台にしみこんだ。
「ナタンよ、主は生きておられる」ダビデ自身も、どこか突き動かされるような気持ちで、ちぐはぐな返答をした。
「主は私を救ってくださった。あらゆる苦しみから、救ってくださった。その主は生きておられる。たとえ我らがどうなろうとも、底知れぬ狂気に犯されようとも、主は生きておられる。私はバテシバに言った、お前の子を王に立てると、神にかけて誓い、その子に指輪を渡した。そのことを間違いなく、私は執り行おう。私の声は、この部屋の外には届くまい。だが、主はご存じだ。そして、お前が知っている。それでもう充分なのだ。ナタン、私にその子を撫でることはできないよ。私にはもう、指がないのだ。そしておまえも無理だよ。さあナタンよ、私はお前に命ずる。わがエルサレムに水をそそぐ大いなる泉、ギホンの泉に下るのだ。そこでその子に水を飲ませ、休ませてあげなさい。その子はとても疲れているから。そしてそこで待つがいい。ナタンよ、私は主から言葉を聞いたのだ。この世でただ一人、その子を愛せる男が、そこを通る。お前は彼に、その子を預けるのだ。私でも、誰でも、あの子を幸せにできなかった。その男ならできるのだ。ナタン。頼む。私はもう動けない」
ダビデの言葉を聞き、ナタンは「承知いたしました、陛下よ。その言葉を聞けてうれしく思います」と言った。そして、ふらふらとまたおぼつかない足取りで、王の寝室から出ていった。


「イスラエルの神よ。貴方を信じましょう。ソロモンが王位につくのならば、私はもう疑わない。何をするにも疲れました。もう何が是であり、何が非であるのでしょう。人間にそのようなものを見比べる知恵などないのです。それがはっきりわかった。今までで一番、実感できた。あの子は最初から、王となるべき子だったのだ。羊飼いの子が、王となる運命だったように。私は今、とても穏やかです。貴方の選んだ子を、どうか愛してください。きっとあの子は、私のよき後継ぎとなることでしょう。主よ、感謝いたします。全てに、感謝いたします」

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feat: Solomon 第三十五話


「それで?……一体、どういったわけだ?」
一通りの仕事が終わり、ソロモンの執務室に通されたザドクとベナヤに浴びせられた最初の質問はそれだった。
その言葉はこっちが吐きたいくらいだ、とどれほどザドクとベナヤが思ったことか。彼らの認識では、ソロモンは完全に死んでいたのだ。それがピンピンして生きているばかりか、たった二年半程度で一国を任される立場になって、ついでに知らない間に結婚までしている。理解に苦しむのはどう考えてもこちらの方だ、と言うのが彼らの言い分だ。
しかし、ザドクは律儀な男で、彼はソロモンに当然の疑問をぶつける前に、まず、彼らの身にあったことをつぶさに聞かせた。まずベナヤの紹介から始まり、彼がソロモンがアドニヤに襲われた日の目撃者であったことを話し、彼がもう一つ見たものを話し、イスラエルから出ることになった詳細すらもつぶさに話した。
アドニヤとバテシバの間に起こったことを話すときは、さすがにザドクも居心地が悪そうだった。その話を受けて「まあ、あの女と兄ならやりそうなことだ」と、返答や相槌と言った風ではなく、ただぼそりと呟いたソロモンの眼の冷たさに、ベナヤは一種の恐怖を覚えた。
ザドクが彼と話している間、ベナヤはずっとソロモンを見ていた。この王子とこうして会うのは正真正銘初めてだ。あの時に姿を見はしたが、あの時はアドニヤの行為ばかりに気をとられ、彼自身の姿に関してはあまり印象に残っていなかった。彼は昔のように厳重にマントで全身を覆い隠しはしていない。おそらく屋内だからと言うのが大きいのだろうが、それが、彼を昔とは違う、気高い存在に見せていた。
パッと見た感想は、意外、と言うものだった。化け物、忌み子、と散々な話を聞いていたので、どれほどにまで化け物じみた醜い顔をしているのだろうと、正直な話思っていたのだ。しかし、こうして見ればそんなことは全くない。醜いどころかむしろ、彼は非常に繊細で端正な顔をした十代の美少年だ。ただ、かといってやはり、普通ではない。その父親と母親両方から譲り受けたとよく分かる美しさが、尋常ではない色彩を持つことで、その美しさと同じ度合いの不気味さをも持って輝いていると言ったような印象も、彼は受けた。
「なるほど。大体の話は分かった。まあ、貴方とは知らない仲でもないし、そういうことならアンモンに隠れるなりなんなりしていればいいだろう。私は邪魔立てしない。そのベナヤも雇ってやる」
それはそうだ。彼には、イスラエル王家に裏切り者を引き渡す義理などあるまい。とベナヤは考えた。
「話は終わりですか?」ベナヤは口をはさむ。「じゃあ、俺からあんたへ質問だ。あんた、なぜここにいるんだ?」
ザドクの話が終わったと見えて、ベナヤはかねてより気になっていた話題を切り出した。ザドクは彼の非礼の態度をとがめるようなことを言ったが、ソロモン自体は特に気にしていないようだった。
「俺は見た。あんたは確かに、心臓にナイフを突き刺されたはずだ。なぜ、生きているんだ?」
「なぜ……か」
ソロモン自身も、その返答の答えに困っているようだった。
「なぜか、と言われれば、私にもわからない。とにかく、私はお前が見たその一件の後奇跡的に息を吹き返したのだ。その証拠に、私の左胸には、まだナイフの傷跡が残っているぞ」
それを聞いてぎょっとしたベナヤに、ソロモンは無言で少しだけ着物の胸元をはだけて見せた。左胸には確かに、ナイフで刺したような傷跡が残っていた。それを見届けてさらに顔を真っ青にするベナヤとザドクに向かって、ソロモンは着物を正しながら続ける。
「とにかくも、私は生き返ったのだ。それで、誓った。この落とし前を必ず付けるとな。それで、アンモン王宮に入って、王に取り入って婿になって、今ここにいる、と言ったわけだ」
「……大したもんだ」
ベナヤはほとんど、素の感情からそう言った。独り言のようでもあった。
自分達がああでもないこうでもないとぐずぐずしていた間に、この目の前の男は、着の身着のままの手負いの少年の身で、のし上がってきたのだ。
ソロモンはそこまで多くを語ったわけではない。彼の語り口は、あくまであっさりとしていた。しかし、ベナヤはなぜか彼のたたずまいから、ただならぬ雰囲気を感じられたのだ。彼がこれまでの期間、一体どのような思いで過ごしてきたかを、彼はその姿で物語っていた。
「ベナヤ、何を言う。お前の言葉づかいはひどすぎるぞ」
ザドクのそんな言葉など、聞いていられなかった。とにかく、事実として分かったのだ。ソロモンは生きている。生きて、今、目の前にいる。
自分の目的のためにこれ以上良い材料があるだろうか!ベナヤは決心を固め、ソロモンの前に身を乗り出した。
「ソロモン王子、俺はあんたに取引を持ちかける!」
そう言って彼は、ソロモンの前に先ほどの指輪を差し出した。

「取引……?」
「ああ。あんた、さっき落とし前をつけるって言ってたな。その口ぶりじゃ、あんたはアンモンをのっとってそれで満足ってわけでもなさそうだ。あんたの最終目標はイスラエルに帰って、自分の復讐を完遂すること。そうだろう?あんたは憎んでいるはずだ、イスラエルを。自分の家族を」
彼はそう畳み掛けた。ソロモンは彼の言葉が終わるのを待ってから「よく分かったな。……その通りだ」と言った。
「これはあんたの指輪だ。あんたがダビデ王からもらったもんだ。王位継承者に選ばれたことの証拠として、これ以上のものがないことくらい王宮の人間なら誰でも知っている。俺は、あんたにこれを渡そう。それで、あんたは自分の王位継承権を十分に主張できるはずだ。アドニヤを差し置いて」
「なるほど」ソロモンは少しだけ口角を上げて、言った。「で……取引ならば、お前は私に何を要求するのだ?」
「アドニヤ達を完全に滅ぼし、王になってくれ!」ベナヤは言った。
「俺はもう耐えられない、あの狂気の王子に!それを取り巻く周囲にもだ!ダビデ王はもういつ死ぬかもわからん、アドニヤを止められる正当な権利を持っていたのはあんただ!ならば、あんたが一番それをできるはずだ。それで、王になったら、俺とこのザドクさんを、それぞれ軍と祭司の最上位の位につけろ。俺たちはそのくらいの貢献はできるつもりだ」
ソロモンはその言葉を聞いて、薄く、にやりと笑った。「ベナヤ!」と、ザドクが大声で静止する。だが、それは無視された。
「断ると言ったら?」
「断れねえ。あんただって、この指輪がほしいはずだ」
その言葉を聞くと、ソロモンはいよいよ高らかに笑い出した。だが、ベナヤはそれに戸惑い、思惑違いに慌てた。と言うのも、その笑いは、王子たるものに媚ではなく厚かましく取引を持ちかける不敵さに感心したものではないと、彼のあざけるような雰囲気から実によく分かったからだ。ベナヤは肝が冷える思いだった。
「不安げだな。顔に出ているぞ。取引を持ちかけるなら、もう少しはったりでもいいから堂々としていろ。付け込まれるぞ」ソロモンは狐のような目つきでベナヤを見据え、そう言った。なぜ自分より年下の少年にこんな説教を受けているのか、と、情けなく思うような余裕は、ベナヤにはなかった。
「ザドク。こいつ、あまり頭はよくなかろう。頭の悪いものが、虚勢を張って取引などするものではない」
「……それは、心外だな」
ザドクが言葉をはさむ前に、ベナヤが言う。だがソロモンは「違うか?お前の話を聞くに、指輪を盗んだ話云々は全く考えなしの無鉄砲の所業としか思えんがな。結果的によく転んだから、まあ良かったものの」と言う。ベナヤはそれは全くの図星ではあるので、言い返せなくなってしまった。
「お前の前提は間違っている。はっきり言うが、私には今、そんな指輪一つ、たいして重要な存在でもない」ソロモンは悠々と続けた。
「なんだって?」
「お前たちがだらだらやっている間に、私は今の今まで、イスラエルに帰り復讐するために、ずっと戦ってきた。誰に頼ることもなかった。ただ、利用しただけだ。私はだれも信じなかったし、たった一人で何でもやってきた。いくらでも侮辱を受けて耐えてきたし、最終的にそいつらも全員黙らせて、今、ここにいる。……この意味がわかるか?」
ソロモンは再度、ぞっとするような冷たい雰囲気に戻っていた。彼は明らかに、ベナヤとザドクに少し苛立ちを覚えているかのようだった。
「私はもう、イスラエルに戻って復讐するには十分な力があるんだよ。そこにお前らがのこのこやってきた。それで、すべて一人で得てきた私に、いまさら要りもしないものを得意満面に差し出して、自分たちの力が必要だろう、貸してやるからこちらの要望も聞けと自慢げに言ってきたというわけだ。笑うしかあるまい。要するにお前たち、私に取り入るには少々遅かったというわけだ」
彼は口角をあげて笑ったが、目が相変わらず冷淡なままだった。ベナヤは威圧された。何か言わねばと思ったが、うまい返しが思いつかなかった。確かに、そう言われてみればそうだ。
だが、ここで引き下がるわけにもいかない、と彼は感じていた。自分はともかく、ザドクは妻子がある身なのだ。おそらく今、自分たちの不在がばれているだろうし、彼の家も仕打ちを受けているはずだ。なんとしてでも、彼は復権させねばならないし、それで出世もさせてやらねば示しがつくはずもない。それに、軍隊をあのヨアブや、彼の息のかかった部下に任せるわけにはいかない。ベナヤの義憤がそれを許さなかった。
ソロモンがアドニヤを倒すのが、無論本質なのだしそれはそれでかまわない。だが、それだけではだめなのだ。なんとしてでも、自分たちの出世も同時にかなえさせねばならない。ここで引き下がってはだめだ。
ベナヤは急いで頭を回転させて、どう言おうか、どうソロモンを納得させようか、この抜け目のなさそうな王子を、と考えた。だが、その時である。
ソロモンの白い指が目の前に伸びてきて、ベナヤの指に捕まれたままの指輪をそっと取り上げたのだ。
「何をそう苦虫をかみつぶしたような顔をしている。私は取引に応じないとは言っていないぞ。ただ、お前の至らなさを指摘してやっただけだ。お前があまりにも取引向けの人間じゃないから」
気が付いたころには、ルビーの指輪はソロモンの掌の中にあった。見れば見るほどソロモンの瞳の赤とルビーの色がそっくりで、まるで彼の掌にもうひとつ目が開いたかのようだった。
「え?」
「まあ、不要とはいえあって困るものでもない。あるに越したことはない。それに私はともかく、お前たちは真剣にその条件を飲んでもらう必要がありそうだからな。だから、聞いてやる。お前たちの要求全て。それでかまわんだろう」
そう言ってソロモンは、彼の右手の中指に指輪をはめた。まるでおあつらえ向きといったように、それはすっぽりとはまった。
「それに、そろそろイスラエルには帰ろうと思っていたところだ。まあ、良い部下ができたとでも思ってやろう」彼は笑った。
「お前はひとまず、私の護衛に雇ってやる。詳しいことは後で話そう。良いな」

「(『聞いてやる』か……!)」
結果的には、話しが実にうまく進んだ、とベナヤは思った。しかし、引っ掛かるものがあった。こんなはずではなかったのだ。
そうだ。自分は当初、取引を持ちかけたのだ。それはつまり、ソロモンと対等な存在として、イスラエルを打倒する間柄になろうという意図あっての事だった。そう思った理由は簡単だ。彼には、ソロモンを信頼する理由がなかったからだ。鋭い瞳でこちらを見つめる年下の少年が、酷く油断のならないものだと、軍人特有の直観が彼にそう告げたからだ。
しかし、現実ははるかにソロモンのほうが上手だったのだ。そして、ソロモンもまた自分と同じように、自分を信頼してなどいなかったのだ。それが、ベナヤには今わかった。
彼のペースに巻き込まれてくるくると話が進み、気が付いてみれば、彼は完全にソロモンに主導権を握られてしまっていたのだ。
ベナヤは身震いした。この少年は、これほどまでだったのか。もしも彼がイスラエルに帰りたくはないと言った時、ベナヤは最悪のケースとして、剣で脅迫してでも言うことを聞かせようと思っていた。自分の腕っぷしに自信はあることだし、ひ弱そうなソロモンならなんとか成功する可能性もあるかもしれないと思っていた。しかしソロモンの方は、武器すら使わず言葉と行動だけで自分を屈服させてしまったのだ。ザドクが、それに心配そうに声をかける。だが、気休めにもならなかった。
ソロモンが強かすぎるから怖いのではない。ソロモンの知性ではなく、何かもっと根底にある、もっとささくれ立ったものが、自分が恐れているものだと、ベナヤはぼんやりと感じていた。目の前に立つソロモンはベナヤよりも背が低いにもかかわらず、彼はソロモンに見下されている気分だった。その赤い目は、いったい、どのような世界を見ているのだろう。おそらくは、自分の見ているそれとは違うのだろう。そうであれば、このような目つきをするはずはない。世界はこんなに、睨みつけるべき忌まわしいものではないのだから。少なくとも、ベナヤにとってはそうだった。

ソロモンは手元の鈴を鳴らして、人を呼んだ。おおかた、ベナヤを雇い入れるという発表をするためだろう。

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