FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

feat: Elijah 第十四話

アハブの追っ手から追われることもなく、エリヤとエリシャは荒野に逃げた。
「ここまでくりゃ大丈夫だろ」エリヤは言った。
「エリシャ、平気か?」
「大丈夫です、師匠」
そんな言葉を交わして、彼らは近くにあった洞窟に逃げ込む。炎天下の陽光を逃れて彼らは一息ついた。
「あの……師匠」
「ん。なんだ」
「その……良かったです。またこうして、会えて」
「何言ってんだよ。後から追いつくって言ったのはお前だろ」
エリヤは笑った。
「ああ言ってくれたから俺も逃げられたし、お前だって助かったんじゃねぇか。ありがとな。お前は本当にいい弟子だよ」
彼にそう言われて、エリシャも照れ笑いをする。
「(でも、そもそもあそこで僕が手さえ離していなければこんなややこしい事にも…)」
ふと、彼は自分の手の甲についた傷に気が付いた。
そうだ。あの時、自分は手の甲を何かに急に切り裂かれた気がしたのだ。それは黒い薔薇のような、矢のような何かでイゼベルの方から飛んできたような気もする。しかし、それがなんであろうとイゼベルがそんな真似をできるだろうか。
エリシャに、アスタロトは見えていなかったのだ。彼にとっては急に、何かよく分からないものが飛んできて自分の手が傷つけられただけだった。
エリシャは急に、そのことが気になってきた。彼はエリヤに、その傷を見せながらそのことを話した。話を聞き終えた時、エリヤは神妙な顔をしてエリシャに告げた。
「エリシャ……俺も感じてたよ。得体のしれねぇもんが飛んでくる、って感覚。ひょっとすると……ただ事じゃねぇことが起こっているぞ。お前の傷……これ、人間がつけたもんじゃない」


イスラエル王宮でイゼベルはアハブの部屋の前に立ったきりだった。彼女がノックしても、アハブは「一人にしてくれ!」と言うのみだ。彼女を部屋にすら入れようとしない。
アハブはすっかりおびえているようだった。エリヤの預言の事を気にしているのだろうと彼女には思えた。考えれば考えるほど、エリヤが憎々しい。あの男は何回イスラエル王国を貶めれば気が済むのだろうかと彼女は地団太を踏んで悔しがりでもしたい思いだった。
やがてイゼベルも観念して、アハブの部屋の前から立ち去る。そして、例の地下の神殿に行った。
「アスタロト様!」
彼女がアスタロトの名を呼べば、すぐさま、そこにアスタロトの白と黒の体が浮かびあがった。
「イゼベルよ……エリヤは捕まらなかったのか」
「申し訳ありません。アスタロト様……またしても、雲がくれです」
アスタロトは悔しそうに舌打ちした。
「お教えください、アスタロト様。なぜ……なぜ、あの男を捕まえられないのでしょうか」
「何故だと!?理由など知れているわ、イスラエルの神と名乗るもの…偉大にして唯一なる真の神ベルゼブブ様にこそ許される賛辞を傲慢にもその身に受けうぬぼれている偽物の神が、奴に肩入れしているからだ!」
アスタロトは荒々しく言った。
「私も私の力を使い、奴らの居場所を突き止めようとした。……だが、無駄だった!イスラエルの神が、奴らを捕まえ殺すことを妨害しているのだ!どこに居るのかもわからん。あの、ベルゼブブ様の敵が……」
「あれは……私たちに不幸な預言をしました」
「ああ、聞いていたとも」アスタロトはうなずいた。
「イゼベルよ、偉大なるベルゼブブ様はたたえられなくてはならん。お前が宗教改革を行っていたあの時代、あのイスラエル王国の燦然と輝く正しき時代のようにな。お前はもう一度聖なる時代を作り出すために、人間の中で我らの使徒たるべき存在だ。断じてあってはならん。あの呪われた偽神の預言が成就することなど」
「はい」
「今回こそ逃してしまったが、イゼベルよ。わかっているな。呪われた神の卑しき使徒、エリヤに制裁を与えるのだ。それこそが、何にもましてすべきこと」
「はい、承知しております。アスタロト様」


自分の部屋の中で、アハブは苦しんでいた。彼は誰もいない中、荒布の上に横たわっていた。
「(私が……私が悪いというのか?すべて私のせいなのか?神ではなく、私の?)」
彼の頭に浮かぶのは、エリヤの恐ろしい預言ではなかった。どちらかと言えば、エリシャの言葉であった。
エリヤのような無礼で荒々しい物言いではなく、田舎者らしく洗練されてはいないがそれでも精一杯に礼儀正しく、たどたどしく話そうとした少年が自分に言った言葉が、彼に突き刺さっていた。
全て自分が悪い。自分が慕われないのは神が自分に意地悪をしているからではなく、自分がイスラエルに人民に好かれることをしてこなかったからだ。自分が舐められているのは神が自分を見捨てているからではなく、自分が弱気であるからだ。
そして、神は厳しくもする。だが、時として優しくもする。神は、自分を甘やかすためだけに生まれた存在ではない。
なぜそのようなことが言えるものか、と、アハブは最初の方こそ彼らを馬鹿にし、毒づいた。彼らに自分の不幸がわかるはずがない。あんなに気ままに生きていける身分のものが、王として多大な重圧を感じて生きている自分のつらさなど分かるはずもないのだ。民衆はいつも勝手だ。上のものを悪人扱いしていれば気が済むのだから。そう思っていた。
だが、考えが進むうちに、どんどんエリシャの言葉が忘れるどころか心に食い込んできた。あの少年は、怒ってはいなかった。むしろ、つらかった時、苦しかった時を思いだしているようだった。
彼らを苦しめたのは誰だったろうか?神か?それとも、自分だったろうか?イゼベルは何人も、宗教改革に乗り気でなかった人物を殺した。自分はそれを黙認していた。確かに、彼らが何よりも頼りたかったのは、自分ではなかったのだろうか?
人民の声など、聞いたこともなかった。彼らは皆馬鹿で、何一つ理解していないと思っていた。
しかし、彼らもまた少なからず悲しんでいたのだ。あの少年のように。そのことが彼に、初めてわかった。
次第にアハブは、怒りではなく悲しみに自分の体が満たされるのがわかった。彼は、何も食べる気にはなれなかった。誰も部屋に入れず、断食をした。


「(主よ)」
断食が数日続いた日の事だった。彼は、どこに向かって言うべきなのかもわからないまま、ただ、その言葉を頭に浮かべた。
「(もしも我が祈りが届くのであれば、私にまだ祈ることが許されているのであれば、どうか、この私が悔いることをお許しください)」
彼が主に向かって言った言葉は、それであった。
我ながら厚かましいとアハブは思わないでもなかった。だが、それでも彼は言いたかった。バアルに向かって妻と共に手を合わせたその手を、イスラエルの神に差し伸べよう。イスラエルの神は、存在するのだ。イスラエルに干ばつを起こし、雨を降らせた。自分が目をかける預言者エリヤとその弟子を何回も助けた。全て偶然の一致と言うには、できすぎた話だ。神はいるのだ。そして、自分はそれを侮辱していたのだ。
「(神よ、あなたがもし残酷なだけではなく、モーセ達をエジプトから逃がした時のように慈悲深い存在であれば、どうか私の願いをお聞きください。私は、イスラエル王として死にたい。私の悪名は消えぬでしょう。私は悪なる王として、歴史にその名を留めるでしょう。しかし、イスラエルの主よ、もし貴方のお慈悲が私を許すのであれば、私は最後だけは、最後だけはイスラエルの王として死にたい。私の死を嘆くものが、この世に少しでも多くあってほしい。私は悔いましょう。バアルを拝し、貴方の忠実であった人民を、そして罪なきナボトを無駄に殺した自らの罪を。そして、私のみならず、私の家族の罪を、私は悔いましょう。あの少年の言うとおりです。私は確かに、罪深い存在でありました。自らの罪をすべて貴方に責任転嫁していた、子供のような王でありました。主よ、しかし私にも、慈悲をかけてください。犬死には嫌です。裏切り者の家に生まれたものには、犬のごとき最後しか許されないのでしょうか)」
アハブの言葉は懺悔であり、苦しみの表明であった。彼は自分の弱さを実感した。自分は罪深い存在である。しかし、それで自分を地獄に落としてくれとは言えない。自分もまた、救われたいのだ。彼は無力な子供が悪さをしてしまい、親に懺悔しつつも許してもらえるようすがるような気持ちで、神に、声には出さねど自分のありったけの感情を吐露した。
身から出たさびと自分の事を糾弾するのは簡単ではなかった。だが、彼は泣いている間に不思議な気持ちに襲われた。誰かがそばに居るような気がするのだ。それは、彼の母よりも、イゼベルよりも暖かく彼を包んだ。彼は思い切り泣き、荒布を濡らした。


そこは、白い空間であった。どこであるのか、はっきりしない。真ん中に大きな存在がいた。それは、玉座に座っていた。
その場に集まっているものがある。あれは軍隊だろうか?だって、武器を持っている。しかし彼らは、人間ではなかった。ミカヤにはそのことが分かった。
ミカヤはその場にいるのではない。ただ、見えているのだ。
真ん中の存在が口を開いた。
「来るべき運命の日、アハブを唆しラモト・ギレアドに攻め上らせ、戦死させるものは誰か」
アハブ?ラモト・ギレアド?戦死?ミカヤは突然出てきた言葉に戸惑った。だが彼の戸惑いなど露知らず、周りに控えている兵隊の一人がその前に立ち、言った。中性的で美しい姿をしたそれは、白い百合のつぼみにも似た真っ白な矢をその背中に背負っていた。
「私がそれを行いましょう。貴方様のご命令とあらば私はその時、アハブの預言者たちに、アハブが戦場に向かい、勝つと言う預言を言わせます」
「お前ならばそれはできるであろう」玉座に座る存在は言った。
「来たるべき日になった時、行ってその通りにするがよい。だが、これだけは忘れるな。預言者エリヤにも告げたとおり、私はアハブの命がついえるまで、アハブの家に危害は加えぬ。あの男は自らの罪を自覚し、我が前にへりくだったからだ」

そこで、そのビジョンは終わった。ミカヤの目の前はふいに現実世界となった。ミカヤは驚いて、自分の寝床から起き上がった。
何度目を瞬かせてみても、目に入るのは真っ暗な自分の家の壁だけだ。あのような真っ白な世界ではない。
「(……あれは、一体!?)」彼は戸惑った。
「(アハブを戦死させるもの?ラモト・ギレアド?)」
ラモト・ギレアドとはアラム王ベン・ハダドに抑えられているとある城壁都市である。昔はイスラエルの土地であった。しかし、アラムの台頭により奪い去られてしまったものの一つなのだ。以前のアフェクの戦いでイスラエルはアラム王から失地回復をしたものの、ラモト・ギレアドは依然としてアラム王の手にあったのだ。

「(この前もボクの目に見えた……アハブが、戦死するビジョン。そんな、まさか?だってボクには預言の力なんてない。エリヤみたいなことはできない。……でも、神の預言じゃないとしたらこれはなんなの?あれは……あの玉座に座っていたのは、間違いない。あれは、確かに、神様だ。夢にしては鮮烈すぎる。ボクは……ボクは、あれを見せられたんだ。きっと、神様に……)」



数日後の事だった。アハブは相変わらず部屋から出てこないので、イゼベルもいい加減辟易していた。その時だった。ダマスカスから使いが来たという話がイゼベルの耳に飛び込んできた。
「陛下は今、他人とお会いになりません。私が話を伺いましょう」
そう言ってイゼベルは、自らがダマスカス王ハダドエゼルの使者と面会した。

「実は、最近のアッシリアの台頭にあたって、わが王からアハブ様にお頼みがあって来たのです」ダマスカスの使者はそう言った。
イゼベルも知っていたが、ここのところアッシリア王国の勢いには目を見張るものがあった。それは、イスラエルはもちろんのことシリア地方の諸国全てを脅かしかねないほどだった。
ダマスカス王はそれにあたって、周辺諸国にかたっぱしから対アッシリア同盟を組みアッシリアと戦争をする提案をしていたのだ。そしてアハブにも呼び声がかかったというわけだ。
「そのような話であれば、決断は王に仰がねばなりません。申し訳ありませんが、しばしお待ち下さい」イゼベルはそう言いかえした。

イゼベルはダマスカスの使者を面会室にとどめておき、いまだに部屋から出てこない夫に、扉越しにそのことを事細かに伝えた。
「(アッシリアと戦争?)」
久しぶりに聞こえる外の上方に、ここ数日非現実的な思いに浸っていたアハブの意識も一気に現実世界へと引き戻された。
それと同時に、それを引き金にするように彼の頭に様々なことが思い浮かんだ、泣きに泣いて、頭の中がすっきりしたような思いだった。
「(もう泣くのは十分だ。泣いているだけでは何も始まりはしない。私のおかげで私が虐げられているというのならば……私自身が、何か行動を起こさねばならんだろう。私は、腐ってもイスラエル王だ)」
彼は久しぶりに荒布を脱いで、王の衣装を身にまとった。そして、扉の向こうの妻に少し待っていてくれ、自分が直接それについて話をすると伝えた。

スポンサーサイト

PageTop

feat: Solomon 第四十六話

ベナヤとナアマが宮殿についたとき、ちょうどソロモンはいないということだった。ベナヤは彼女を庭園にある、人の寄りつかない東屋にいれて、彼女を問い詰めた。
「ご説明していただきたい。なぜあのようなことをしたのですか」
彼の眼は血走っていた。おそらくは怒りによって。
ベナヤは火打石を使って東屋のランプに火をともした。ランプの光のもとで浮かび上がってきた彼女の表情は、血の気が引けていた。
「ベナヤ」やっと口を開いたナアマが言ったのは、質問に対する回答ではなかった。
「夫が、貴方にこれをしろと言ったの?」
彼女の声は震えていたが、同時に少しばかりの希望もあった。言うに及ばず、それはこれによってソロモンを落胆させられるという希望だった。だが、それは報われることがなかった。ベナヤの口から出てきたのは「いいえ」と言う言葉だったから。
「いいえ。王妃殿下。これは私の独断です。陛下は、このことを少しもご存じありません」
「あなたの独断?何もかも、貴方が勝手に動いているだけだというの?」
「はい。ナアマ様、貴方は一体、なぜあのようなことを……」
ナアマはその言葉を聞いて、当てが外れたことにガカkリした。ふと、彼女は悲しくなった。
「何故、ですって?」
彼女は絞り出すような声でそう言う。
「何故ですって?なんでそんなことを言えるのよ。普通に考えればわかるでしょ」
彼女の声は恨みがましかった。うつむいてしまっているせいで、ベナヤに彼女の表情は見えなかった。
「分かりません!あなたはなぜあのような不義を」
「妻が何か月も毎晩出歩いていて、それを全く気にもかけない頓着しない、そんな夫の妻の身になったことがあって!?」
彼女ははじけるようにそう言った。
「嫌っていた存在と無理矢理結婚させられた身になったことがあるの!?そのくせ愛してもらえないものの身になったことはある!?毎日毎日、あんな夫にどのような面でも服従しなくてはならない屈辱に身を置いたことがある!?私は、私は王女だったのよ!幸せだったのに!あいつによって何もかも壊されたの!そんな夫のもとを抜け出して、たかだか百や二百の男と契ったからと言って何が問題だって言うのよ?!ベナヤ、言えるもんなら行って御覧なさい!」
「王妃殿下、お言葉ですが、それであっても問題です!」正義感の強いベナヤらしい言葉だった。
「貴方様のお立場には同情も致します。しかし、貴方は国王陛下の妻ではありませんか。妻は夫に貞節を誓うものです。普通の夫婦であれば、みんなそうです!」
「普通!?普通と言ったの!?何を言っているの!?そんな言葉、私達には通用しないわ!だって、ソロモンは普通じゃないじゃない!」
ナアマはそう怒鳴った。暗くなり人気の少ない王宮だから誰にも聞かれてはいないだろうが、これが昼間なら間違いなく人が集まって来ていたことだろう。
「ベナヤ、貴方だってあの男にそばで仕えているから分かるでしょう!ソロモンのどこが普通なのよ!?言ってみなさいよ!あの男ほど普通からほど遠い人間なんていないわ!あれは狂人じゃない!」
「王妃殿下!」
「何よ、口が悪いなんて言い方は聞かないわ!狂人を狂人と言って何が悪いの!?あれは頭がイかれているのよ、生まれつきの気狂いだわ!あれは容姿もおかしいけど、でもそれ以上にずっと中身がおかしいのよ!」
彼女はソロモンに対する恨みつらみを爆発させるようにそう言った。
「女が夫のもとを抜け出して男と契ることがなぜいけないのよ!?男は皆何人も女を相手にするじゃない!それと同じことを女がやることが、なぜいけないのよ!不平等じゃないの!そうされたくないのなら、まっとうな人間になればいいんだわ!好かれる価値のある人間になればいいだけなのよ!それもしやしない気狂いに貞節を誓ってやる価値なんてないわ!だって、彼らとするほうが何倍も、何倍も楽しいんですもの!」
「王妃殿下!あまりにもお言葉が過ぎますよ!」
ベナヤはたまりかねて、彼女に負けない剣幕で怒鳴った。
「ソロモン王は立派にイスラエルを治めておられるではないですか!あなたの事も王妃としてきちんと面倒を見ているではありませんか!貴女が言うように他の女と浮名を流すような真似もしてはいない!なぜそのようなことをおっしゃるのです!」
「さっきも言ったでしょう。無理に結婚したくせに愛してもらえない屈辱なんて、当事者にしかわからないわ」
ナアマは突き刺すように言った。
「幸せな結婚をしたかったのよ。私の事をちゃんと愛して、可愛がってくれる素敵な夫と結婚するのをずっと夢見ていたのに。お姉さまたちのように。なのに、なんで私に来るのがあんな夫なのよ!私が何をしたって言うのよ!何も悪い事なんてしてないのに!
彼女がうつむいたまま、ぽろぽろと泣き出したのがわかった。その涙を見て、さすがにベナヤも怒りよりも戸惑いが出てきた。彼はナアマを泣き止ませようとした。だが、ナアマは泣きながらも起こったような口調で言った。
「ベナヤ。貴方だって覚えているでしょう!?貴方が一番わかるはずよ、あれのそばにいちばんいる貴方なら、あれがどれだけ狂った男か、分かるでしょう!」
その言葉を聞いて、ベナヤも揺るがされるものがあった。


確かに、ソロモンは普通ではない。ベナヤはそれを認めた。何にせよ、彼は自分の母親を殺せとベナヤ自身に命令してきたのだから。あの日の事は彼は鮮烈に思い出せる。
ソロモンは彼女の死体の前にやって来て、一切の名残惜しさも見せなかった。かえって、彼は喜んだ。その喜び方には、確かに異常なものがあった。
いくら実の兄と契るような女とは言えど自分の母が死んでここまで喜べるものだろうか、と。彼を幼いころから知る人物ならともかく、彼と母親の確執をそうは知らないベナヤに、彼の態度は非常に鮮烈だった。
それに、ベナヤはまっとうに家族に愛されて育ってきた。だから彼の中では、血のつながった家族と言うのは愛すべき存在であって当たり前なのだ。それだというのに、ソロモンは自らの家族の死を全く悲しまなかった。ベナヤの中では、家族の死と言うのはいくらかであっても悲しんで当たり前の事であるのに。確かに彼も家族といくらかの確執を抱えたことはある。しかし、それでもいとおしいのが家族と言うものだ。
ソロモンには彼のその常識が一切通用しなかったのだ。彼は全てを拒絶し、息子と言うものが本来であればこの世で最も愛しく思うはずの母親を憎んでいた。

そのことを思い出してしまうと、ベナヤもいつの間にか大声でナアマを責められなくなっていた。ソロモンは、確かに普通ではない。
彼は、不要になれば自分もあっさり切り捨てるだろう。そういうことのできる人物であると、ソロモンのすぐそばに居ることでベナヤはひしひしと感じていた。
もともと、ソロモンと自分は台頭には程遠いのだ。自分はソロモンがいなくては生きのこっていけなかった。ソロモンにとっては、仕方なく生かしてやるだけの存在にしかなれなかったというのに。
彼は人に普通なら感じるはずの情など感じてもいない。ベナヤの中で、その思いはどんどん膨らんでいった。
妻を愛していないことも明らかだ。ほかの女と浮気する事こそなかれど、それはただ単にそもそもソロモンがどこか性自体を嫌悪しているようなところがあるからであって、どう考えてもナアマ一人に貞節を誓っているからではなかった。
彼の義憤はいつの間にか行き場をなくしていた。ナアマに同情すべきであるようにも思えた。確かに、何不自由ない王女のみで育ってきたのに、不幸な生活ではあるだろう。


それでも、とベナヤは自らの心を奮い立たせた。
それでも、姦淫は許されないはずだ。このような淫乱な行為は、絶対に悪なのだ。
ベナヤはなんといったのかも覚えていなかった、ただ、淫乱は悪だ、と主張したと思う。
しかし、ナアマはそれすらもさえぎった。そして、言った。
「淫乱が悪?何を言っているのよ。悪だというのなら、その証拠を出してちょうだい。姦淫することが、何故悪なのよ。人を殺すのが悪いのは分かるわ。ものを盗むのもね。だって、それは何か実在するものが明らかになくなるから。でも、男と交わったからって誰が死ぬわけでもないし何がなくなるわけでもないじゃない。貴方が見つけるまでは、私だって全く無罪だったのよ。ねえ、なんでそれが悪なのよ。説明しなさいよ。なんで女に生まれたってだけで、あんな狂った夫にすら貞節を誓わなければならないのよ」
ナアマの言葉に、ベナヤは反論することができなかった。彼は生真面目だった。なぜと言われれば、何故だろうか。結局は貞節の問題になってくる気がする。しかし今度は、そもそもソロモンが夫としてそこまで彼女にとって大切な存在たり得るかと言う問題に突き当たってくるのだ。
ベナヤは言葉をなくした。ただ、それであっても姦淫はいけないというのみだった。そんな言葉でナアマを動かせるはずもないことをわかっていながら。

ナアマは、ふと目を上げた。そして涙で流れた化粧を一気に安い衣装の袖でぬぐった。
「貴方がそこまで言うのなら、もうこんなことはやめるわ」
「そうですか」
ベナヤはやっと我に返ったというように、精いっぱい喜んだ声を出してそう言った。だが、ナアマの顔は悲しそうだった。
王妃の威厳はまるでなく、そこにあるのは、ただ一つの楽しみも剥奪された哀れな女の顔だった。それが、ランプの光に照らされていた。
「つらい……私、つらいわよ、ベナヤ!」
彼女は本格的に泣き出した。
「こんな生活、もういや!つらいのよ、苦しいのよ!」
ベナヤは彼女を泣き止ませようと、あわてて彼女のそばに寄った。彼女はベナヤに体を持たれかけさせて、彼に泣きつく。
「アンモンに帰りたい!王女だったころに戻りたいわ!イスラエル王妃なんてもういや!」
彼女はまるで子供のように、素直に泣いた。ベナヤも起こる気がすっかり失せて、彼女のするがままにさせておいた。


彼女は長い間、ベナヤの背の高い、たくましい体に寄り添って泣いていた。ふと、彼女の心に沸き立つものがあった。
「ベナヤ」彼女は言った。
「どういたしましたか」と彼が答える前に、彼女の細い腕は彼を描き抱いた。
「私を抱いて」
その言葉を聞いて、ベナヤは当然驚いた。「何を言われますか!」
「お願い、抱いて、抱いてちょうだい。抱いてくれたら、私もあんなことをしなくて済む。貴方は……貴方は、優しいんですもの」
「優しい?」
ベナヤの言葉に、ナアマも涙声で返答する。
「イスラエルに来て、こんなふうに……こんなふうに、私を寄りかからせて、慰めてくれたのは貴女が初めてなんですもの。おねがい、ベナヤ。抱いてちょうだい。つらいの。とても、悲しいの」
そして彼女は、ベナヤに強引にキスした。
ベナヤは真面目に生きてきた手前、女と言うものはあまり触れたことがない。そのため、自分に密着してくる柔かい女性の体の感触と、ふわりと香香水の匂いは彼にとって目をちかちかさせるほど刺激的だった。
「なりません、王妃様」彼は言った。しかし、その言葉は何処か弱弱しかった。
「お願い」
彼女はもう一回、言った。そして彼の首を掻き抱いた。


東屋のランプが消え、二つの人影が去っていく。一つのほう、ベナヤは王宮に入ると、一人の奴隷に向かって聞いた。
「陛下はお帰りになられているか?」
「いいえ、まだ」
不幸中の幸いのように思えた。少なくとも、自分は主君のいる所でその妻と契るような罪は犯さずに済んだ。
初めて味わう女の体の味が、ベナヤの体にありありと残っていた。ふらふらとその熱を様るようにさまよっているうち、ベナヤはあの、アドニヤとバテシバの不義密通を見た日の事を思い出していた。あの時あれを見て義憤に満たされた自分すらも、時を経て同じ罪を犯してしまったのかと。
「(いや!違う、断じて違う!彼らは欲情のためだけにあれを行っていた、俺は違うのだ!俺はただ、お可哀想なナアマ様を、少しでも救って上げられればと、そうしたのだ!あれらと一緒にされる筋合いなどない!人助けがなぜ、罪となろうか!)」
彼は心の中で必死にそう自分に言い訳した。その時だった。
「どうした、ベナヤ?」
う色からそのような声が聞こえてきた。驚いて振り返れば、そこにソロモンが立っていた。
「へ、陛下!?お帰りになられたのですか!?」
「つい今な。どうしたのだ、そんなにうろうろしていて」
「なんでも…ありません。なんでもないのです。じき、家に帰ります」
ソロモンは「そうか」とだけ言って、自分の部屋に帰ろうとした。いくらなんでもここまであからさまに不自然なことに彼が気付かないはずがない。彼でなくても気づく。だからおそらく、気づいていないのではなく、ベナヤの一度では明かさない程度の異常など自分にとってはどうでもいいと判断した、とでも言ったところだろう。
彼は、一瞬ソロモン王にナアマの件を言おうとした。しかし、ためらい、結局なんの言葉も出てこなかった。白い髪をなびかせた後ろ姿はそのまま足音一つ立てずに消えていった。

ベナヤは悩んだ。自分は主君を裏切ってしまったのだ。ナアマが夫を裏切ったように。ふと、ナアマの言っていた姦通がなぜ悪いのか、と言う言葉を思い出した。そして、ソロモンは貞節を誓ってやるほどいい夫ではない、と。
ベナヤの中にある、必死に自分は悪くないと主張したがる気持ちが、その台詞を発展させた。ナアマが彼をそう言うように、自分も、ソロモンにそこまでの忠義を誓ってやる義務などあるのか、と。給料分の働きはちゃんとしているつもりだ。それに、ソロモンは必要とあらば自分を裏切るだろう。殺すだろう。あれは、家族ですら殺せる男なのだから。そんな君主に、そこまでの絶対忠誠を誓う義理などあるのだろうか。それに殺しや盗みとは違って彼女の言うとおり、何も失うものはないのだから。
ベナヤはそんな自分の思考に気が付き、必死でそれを押しとどめようとした。こんな問答は高等すぎる、ソロモンのような人間ならばともかく自分のような凡人が考えるべきではない、と彼は一所懸命に彼自身に言い聞かせた。形容しがたい感情に心が押しつぶされそうになり、苦しかった。
帰るとき、彼の眼には後宮が映った。ナアマが住んでいる場所だ。ベナヤはそれを振り切るように夜の街に出て、自分の家に帰った。

PageTop

feat: Solomon 第四十五話

ヒラム・アビフが来てからそろそろ半年の時間が過ぎようとしていた。
神殿は目に見えて建設が進み、彼が来るまでにはこの先10年もかかるかもしれないという見通しがぐっと減った。この調子ならば、後二年とすこしもすれば終わるだろう。
ソロモンはその日も、視察をしにモリヤ山に訪れていた。乾いた気候のイスラエルには珍しいほど曇った日で、陽光を嫌うソロモンにとって楽であったばかりではなく労働者たちも幾分か楽そうだった。
彼はアドニラムからいつもの通り現場の状況を聞いた。ヒラムは今ではすっかり職場に慣れて、ありとあらゆるところを手伝ったり指示して回っているそうだ。
建築総指揮者としての役割に、ヒラムはしっかりと責任を持って取り組んでいるのがよくうかがえた。相変わらず人を扱うことに対しては不得手のようだが、それでも彼は仕事そのものには誠実ではあったし、自分の技術を鼻にかけて他者を見下すようなことはなかった。
夜のうちに仕事が進むのも、もはや当たり前のことになっていた。今さら誰も驚くようなこともない。
ソロモンは機嫌よく、できかけた神殿を見た。ヒラムの作った青銅の柱、ボアズとヤキンは繊細かつ力強い装飾を誇り高そうにその身に飾り、高くそびえたっていた。
ソロモンはそれにそっと手を添える。ひんやりと冷たいが、その冷たさすらも非常に力強いもののように思える。
石切り場から石を運んでくる男たちの列の向こう側に、ヒラムが見えた。彼は今は一人で、青銅細工のための鋳型を作っているらしかった。
「ああ、そうそう」アドニラムがソロモンに行った。「どうも、ヒラムに影響されたか夜中に仕事をするものが増えてきたらしいですよ」
「ほう、それは本当か」ソロモンは興味深そうに言った。
「はい。たまにですがね。石切り場で石が大量に切られていたり、いつの間にか資材が運ばれていたりするんですよ。いくらなんでもそんな作業、ヒラム一人には無理でしょう」
それはそうだ。それらは明らかに、大勢で行う仕事に他ならない。ヒラムに影響された人夫たちがやっているのだということは想像に難くなかった。良い傾向だ、とソロモンは笑った。何かしらの方法で彼らの事も褒めなくてはなるまい。正当な褒めの言葉は、やる気を促すものだ。


ソロモンがとっくに王宮へと帰り、作業の時間も終わったところ、相変わらず山のふもとには娼婦がたむろしていた。そして、その中にはナアマもいた。
彼女はなるべく「強そう」な男を選ぼうと目を泳がせていた。やがて、彼女は一人のエドム人の労働者に、銀貨二枚の値段で話を付けた。値切りに値切られた結果だが、もともと彼女は金など欲しくないのだから、それでも十分なのだ。
ナアマは体を売って作った金を使いはしなかった。彼女はそれを鎖でつなぎ合わせて、装飾品にしたのだ。首飾りを作り、腕輪を作り、頭飾りを作り、髪留めを作った。全て小汚い銀貨だったが。彼女はそれを見に纏って度々ソロモンの前に姿を現した。自分が体を打って喜んでいることの証拠を夫に見せつけているような快感は相当のものだった。

彼らは、近くの安宿に入っていく。
その途中、彼らは一人の男とすれ違った。ブロンズのたくましい肌に、高く伸びた背。このエドム人よりも、精力はありそうに見えた。だが、ナアマは彼に全く魅力は感じなかった。それどころか彼を見ていると、自分の夫、ソロモンを見ているかのような嫌悪感に襲われたのだ。その男とはヒラム・アビフであったが、彼女はそれを知るはずがなかった。彼は、三人の職人と何かしら揉めていた。
話を聞いている限り激しく言い争っていたようだが、ナアマは彼に興味を持ちはしなかった。それに、自分の客であるエドム人の人夫にとっても、他の男にどういう形であれ気を取られるのは無礼なことだろう。彼女はヒラムの事は全く気に留めず、汚らしいエドム人に科を作ってみせた。


日が暮れて真っ暗になったころ、ソロモンは再びモリヤ山に訪れた。理由は言わずと知れている。
娼婦と労働者の声で隠微な音に満ちた路地ではない、裏道を通ればそこはもうモリヤ山だった。そして、工具の音が彼を目標へと導いた。
「ヒラム!」
ソロモンは声を上げて、その男を呼んだ。
「やあ、ソロモン王」
ヒラムの方も作業の手を止めて、ソロモンの方を振り返った。夜風のもとに流れ出る汗を、彼は汚れた布でふく。寒い夜にも汗をかくほどなのだから、よっぽど集中していたのだろう。
「ちょうどいま終わったところだ」
彼はあっけらかんとした声でソロモンに言い、前のように指の組方が独特な握手をした。
ソロモンとヒラムはあれ以降、たまに夜に会うようになった。今では二週間に一回ほどである。
ソロモンにとってもヒラムにとっても、話すことは楽しかった。何にせよ話すことはいくらでもあった。技術の天才たるヒラムの口から語られる建築の知識は、ソロモンにとって非常に興味深いものと映った。自分は本能的に図形とはなんたるかを悟りそれらをパピルスに書き記していたものの、ヒラムはそれらをちゃんとこまごまと体系として認識しているのだ。今さらながらに説明されて驚かされることが、彼の話の中にはいくらでもあった。
ソロモンは外の世界等にかかわりを持とうともしないヒラムに、いくらでも外の話をした。外交の事、貿易の事、そして、彼の来たティルスが今どうなっているかも、ヒラムはほかのだれでもなくソロモンを通じて知ったのだ。ヒラムも、ソロモンの話を面白いと言った。
無論、彼らはただの世間話もいくらでもした。人間嫌いな二人同士だから普通の若い友達同士がするほどのものにはならなかったが、それでも彼らは彼らの眼から見た自分以外のものについて、心行くまで語り合った。ソロモンと話している間は、ヒラムは工具を握っていなくとも生き生きとしていた。そしてソロモンも、彼と話している間は気楽でいられた。
いつの間にか、自分たちは完全に打ちとけられたとソロモンにはわかった。ヒラムと会った時に感じた親近感は、ただの勘違いではなかったのだと彼は確信した。
「ああ、そうだ。ヒラムよ」ソロモンは言った。
「先日話に出したものを持ってきた」
ソロモンはそう言ってマントの中に手を入れ、ごく小さな袋を取り出した。そしてその袋の口を開け、中にあるものを取り出す。
それは、一粒の大きなルビーだった。スリランカ産の飛び切り上等なもので、ソロモンの持つ王権の指輪とは一味違い、毒々しい赤色ではなく鮮やかながらもどこか優しさと可愛らしさを持ったピンク色の、少し色が薄いタイプのものだった。近隣の国から貢物として持ってこられた宝石の一つだ。
ヒラムはそれに目を輝かせて、慎重に手に取った。
「確かにすごいな……話に聞いていた通りだ!」
先日何とはなしにソロモンがかの国から宝石を大量に貢物として贈られたという話を彼にしたら、彼はそのうちから一つを持ってきてほしい、神殿の仕事の息抜きがてらにあんたに何か一つ拵えてみたい、と言ったのだ。そう言ったわけで、彼はその中でも彼自身が特に気に入ったこのルビーを持ってきたのである。
ヒラムは一通り眺めると、ソロモンから袋も取り出して、それを慎重に袋の中にしまった。
「何を作るんだ?」
「次会う時のお楽しみにしといてくれ」
ヒラムは笑った。
「お前は装飾品も作れるのか」
「ああ。小物作りは気分転換にもなっていいからな」
彼はそう冗談めかして言って見せた。気分転換にも仕事とは、彼の神経を体現しているかのようなものだ。
「お前は、本当に職人であるために生まれたようなものだな」ソロモンは言った。
「人間はいずれ老いるものだ。老いれば、体は動かなくなる。ヒラム。考えたことはないのか?自分が体が動かなくなった時のことは」
「……いや、ないね。俺は今ある俺の事しか考えられない」
ヒラムははっきりとそう言いきった。
「それにソロモン。それはあんたも同じだろ。年を取ればボケるもんだ。あんたのその天才の頭脳だって、きっとそうなっちまうよ。そこんとこ考えたことはないか?」
「……ないな。なるほど、確かに、私も今ある私の事しか考えられんようだ」
ソロモンとヒラムは、その言葉に笑いあった。


ある日の事だった。ナアマは少し早くにいつもの場所に向かった。
彼女はここ一週間、月のものがあった。いくらなんでも付きのもののある身で客などは取れない。いくら下賤なものとはいえ、月のもののある女を買うようなものはそうそう買いはしないだろう。
だから、彼女は一週間の間欲求不満に耐えかねるような思いだった。ようやくそれが終わり、水浴びをして身を清め、彼女はいつもの通り自分の居場所に行ったのだ。安っぽい着物に身を包んで。
人通りの少ない中うろうろしていると、彼女の頭にふと思い浮かぶことがあった。月のものから連想されたことだった。
彼女とソロモンの間に子供はいない。だが、いくらソロモンがあんな男でも、王である以上世継ぎは絶対に必要だろう。そして、それを生む義務があるのは妻である自分だ。
もしも、だ。もしも、自分がこのことによって子供を孕んだら、ソロモンはどんな思いをするだろうか。自分の子と思っていたのが、どこの誰ともわからない汚らしい労働者の子供だと分かれば。そして、妻がそのような男と淫行に及んだ結果の子供だとしたら。
男として、王として、それ以上の恥辱があるだろうか。妻を寝取られる以上の恥辱ではないだろうか。彼女はそう考えた。
今まで、彼女は彼らと楽しめればそれでいいという思考で動いてきた。しかしこの時、彼女の中に急に子供を産みたいという願望が頭をもたげてきた。何か月もの間毎日のように淫行に浸っておいて子供ができないのも運の悪いことだが、このまま続けていけばそれが起こらないなどあり得ない。
彼女はわくわくしながら、いつもの通り通りに人が増えるのを待った。


やがて夕方になり、労働者が下りてきた。より取り見取りの下品な娼婦たちも集まってくる。自分が大好きな時間だ。
ナアマは目を輝かせて男を物色し始めた。たくましく盛り上がった筋肉に、むせ返るような男の匂い。自分が一週間忘れていたものだ。
彼女は適当な男に声をかけようとした。その時だった。自分の眼に一人の男が止まった。非常によく目立つその彼は彼女をじっと見据えていた。
どの男よりも、彼は精悍だった。そしてのみならず、労働者とは程遠い高貴な雰囲気を彼は持っていた。当然である。ナアマは、彼の事を知っていた。
彼は、ベナヤだった。労働者たちをかき分けるようにして、自分に黄色い声やなまめかしい声をあげて寄ってくる娼婦たちをはねのけながら真直ぐにこちらへ向かってきていた。
ナアマは気付かれていないことに期待しながら、その場から逃げようとした。しかし、無駄だった。彼女は彼に、がしりと手をつかまれた。
「王妃殿下。何をしておいでですか、このようなところで」
彼の声がはっきりとベール越しに聞こえた。
「人違いですわ、兵隊様。私が王妃殿下などと、何を」
ナアマは震える声で、必死にそう言って逃げようとした。だがベナヤは「ごまかすのはおやめなさい!」と一喝するように言って、彼女の顔のベールをはぎ取った。
ナアマは悲鳴を上げる。その中から出てきた顔を彼に見せておいて、さすがに言い逃れできるはずもなかった。
ベナヤはその顔を見て、衝撃を受けている様であった。小声で言った。騒ぎを大きくしないためなのであろう。
「以前、ここに来た時、どうも引っかかるものがあったのです。その原因は、貴女でした。」
幸いその場は賑やかで、彼らに注目するものは誰もいなかった。安い娼婦は乱暴に扱われることも多々あることだし、見世物にもならないのだ。
「あなたの侍女から聞きました。貴方が顔を隠してここに居ると。……まさかと思って、来た次第です」
彼の声は小さかったものの、その声は義憤に震えていた。それは当たり前だ。自らが仕える主君の妻、イスラエルで最も高貴な女がこのようなところに居る。そして、この場に女がいてすることなど一つだ。正義感の強いベナヤが許容できるはずがない。常識を持つものなら、誰も許容などはしないはずだ。
何の言い逃れもできるはずはない。
「王宮に帰りましょう。今すぐに」
彼はナアマの手を引いて、立ち上がらせようとした。この場にそのままいさせてくれるはずもなかった。彼女はなされるがままに立ち上がった。
ベナヤは彼女を見た。その目には、涙が浮かんでいた。


その頃、ちょうどそこから離れた裏道をラバでとおる黒い影があった。ソロモンだった。
彼は人の一通りはけたモリヤ山に立って、ラバをいつものようにつないだ。そして、ヒラムのいる所に向かう。
「なんだ、ソロモン王。今日は早かったな」
ヒラムがそう言いながら出てきた。
「まだ夜でもないぞ」
「ああ、だが、夕方に来てもいいと言ったのはお前だ」
ソロモンは視察の日、こそりとヒラムに礼のものができたと言われたばかりだった。ヒラムは例の小さな袋を取り出した。
中から転がり出てきた来いピンク色の輝きは、確かにあのルビーのものだった。だが、その輝きはヒラムの手が加わったことで数百倍にも膨れ上がり、夕日の淡い光のもとですらまぶしいほど煌めいていた。
それは、指輪だった。大きくて華やかなルビーが繊細な彫刻を施された真鍮の台に収まっている。そして、特筆すべきは、そのルビーには紋章が施されていた。
ダビデ王家の紋章である六芒星よりも角が一つ少ない五芒星の模様の細工をされて、スリランカ産のルビーは誇り高そうにしていた。
「なんと、美しい……」ソロモンはマントを正しながらそう言った。そして、ヒラムのゴツゴツした武骨な手とその指輪を交互に見た。
このような太い指からこんな繊細なものが作られるなど、にわかには信じがたい。だが、これが彼なのだ。職人の神秘だ、とソロモンは感じた。
「気に入ってもらえたかい」
「ああ。……この星は、なんだ?」
「あんただ」ヒラムは当たり前のように言った。
「ダビデが六芒星なら、息子であるあんたは五芒星だろうよ」
「そうか。私の指輪か」彼は照れ臭そうに笑い、白い手の上でその芸術品を大切そうに転がした。
「ありがとう。……とても、嬉しい」
彼はそれを袋に入れてしまいながら「これ程のものをただで受け取るわけにもいかん。いくらかでも出させては貰えないか」と言った。
「いや……俺はあんたに売るために作ったんじゃねえ。あくまでも息抜きだ」
「そうにしても、仕事に見合うものを送るというのは私の主義でな」
それを聞くとヒラムは照れたようにはにかみ、「金など貰っても使い方も知らん。高い酒をくれないか。安酒しか飲んだことがないんだ」と言った。ソロモンは無論、それを二つ返事に了承した。
日は今にも沈もうかと言うところだった。ソロモンは太陽の断末魔のごとき光から自分の身を守るためマントをしっかり正した。
「ヒラム」ソロモンは言った。
「私の紋章とは、本当に良いものだな。この五芒星が語るのは私はダビデの息子でなく、ただソロモンと言う一人の人間であるということだけだ」
「ああ、俺はダビデなんて知らんからな」ヒラムが言った。「あんたは、十分それを持つだけの価値があると思うね。それに、俺は六芒星より五芒星のほうが好きなんだ。バランスを取るのが難しい分、取れたらとても美しく仕上がるからな。より知的だし、幾何学の美しさを内包していると思う」

それから、話はいつの間にか幾何学の議論に発展した。日が暮れて松明をともす時間になっても、彼らは話し込んでいた。


PageTop

feat: Eve 第四話

ある夜、イヴは眠れなかった。アダムも同じだろうと希望を持ったが、隣を見るとアダムはぐっすり眠っている。
何故眠れないのか理由もよく分からなかった。確かに昼間にたっぷり昼寝はしたが、それでも眠れる日などままあった。
月と星明りだけが薄くあたりを照らしているのみで、天使たちもいないので森の奥は真っ暗に等しい。イヴは、寝ようと試みる気にはなれず、立ち上がって夜の森を散歩しようと思った。
天使達を呼ぼうかとは考えたものの、その気にもなれなかった。彼女はたった一人で、暗闇にその身を投じた。

森の奥は、彼女が思っているよりもずっと暗かった。彼女は自分の手がどこにあるのかもわからなかった。視界が通じないので手さぐりと静かな足取りで行く手を遮るものを探し、それを避けて道を見つけるということをイヴは自然に覚えた。
恐怖には感じなかった。普段は鮮やかな緑に覆われて輝いている森が真っ暗と言うのも、またすばらしいと彼女は感じた。どこか、川の中を泳いでいるかのようだった。息ができないのが、目が見えないのに変わったようなものだ。普通に目が見え、息ができる世界と違う世界を遊泳するのはイヴにとって楽しい事であった。

大分歩いたように思えた。アダムのいるところからは大分遠ざかってしまっただろうか。イヴの眼は暗闇に慣れてきていた。昼間のようにはっきりと見えることは当然ないが、うっすらとものの輪郭くらいは見えるようになる。彼女は木の枝を器用に避けて、ひたすらに森をかき分けた。
余裕が出てくると、道を見つけること以外にも感覚が向くようになる。イヴは、夜の鳥の鳴き声を聞いた。ラファエルがふくろうと呼んでいた鳥の声が、彼女に耳には特に鮮やかに聞こえた。
その時、イヴは気が付いた。複数あるふくろうの歌い声の中でも一番鮮やかで、美しいものがあった。それは高く、美しい声でイヴを誘惑するように暗闇の中に響いているのであった。
彼女は、声が聞こえてくる方向がはっきりわかった。そして、そこに向けて歩き始めた。歌声は素直なもので、追ってくる彼女から逃げることはなく同じところで響き続けていた。

そして、イヴが歌声のもとにたどりついたときも、彼女はそこにいたのだ。
彼女の姿が、イヴにははっきりわかった。鳥ではなかった。その証拠に、彼女に翼など生えてはいないし、嘴もない。どちらかと言えば、自分に似た姿だった。人間の姿を、その歌声の主はしていた。
イヴよりも長く伸びた髪の毛は暗闇に溶け込みそうなほど真黒だった。イヴより背が高くすらりと伸びた肢体は、百合の花で飾られていた。しかし、百合は百合でもガブリエルがその身に纏わせる白ユリではなかった。オレンジ色をした百合だった。イヴにとってそれは初めて見る花だった。彼女に見る百合は、全て雲のように真っ白な色をしていたのだ。
目つきはするどく、その顔立ちはガブリエルの柔和さとは対照的なように思えた。しかし対照性はあれど、その美しさは彼女と同じほど、とイヴは思った。その涼やかな歌声に劣ることなく、彼女は美しかったのだ。
ふと、イヴはなぜ暗闇の中彼女の姿がわかるかを不審に思った。彼女は、天使のようにその身を光らせてはいない。彼女の体はイヴの体のように、ともすればすぐに闇に溶け込んでしまいそうだ。彼女は鳥がするように木の枝に座っていたのだが、彼女のすぐ上の枝に丸い何かがぶら下がっていた。大きな木の実の殻を削ってできたようなものだった。その中に入っているものが発光して彼女を照らしているのだと、イヴはようやく理解した。丸い物の中の光は、太陽の光とはだいぶ違うようだった。透明感がなく、赤い。夕日の色には似ている。だが、太陽のように堂々とはしておらず、ゆらゆらとうごめく不定型なものだった。それが、目の前に立つ黒髪の女性の、ガブリエルとは対極にある美しさを象徴しているようにも見えた。
その主もイヴに気が付いたようだった。彼女はイヴのほうに顔を向けて彼女を見据え、程よくぷっくりとした唇を動かして、笑いかけて見せる。それでいて、歌うのはやめなかった。イヴを聴衆として認めた、と言った風であった。
暗闇の中に響き渡るその歌がおわった時、黒髪の女性は「こんばんは」と歌の延長にその言葉があるように、リズミカルに告げた。
「こんばんは。ねえ、貴女は誰?綺麗な歌ね」
イヴも、彼女に向かって笑ってそう言う。黒髪の女性は彼女のその問いにすぐ返答した。
「リリス。あたしの名前はリリスよ」
少し低い声だったが、話し声も彼女の歌同様聞いていて心地の良いものだった。リリスは長く、非常に細く伸びた指が五本付いた手でイヴを自分の方に招いた。
「そんなところに居ちゃ、話しにくいでしょ。こっちにいらっしゃい」
イヴはその言葉に答え、素直に彼女のいる大木に昇り始めた。木はごつごつしていて曲がりくねっていて、足場になるものは非常に多かったので木登りをするには容易かった。あっという間にイヴはリリスのいる所までたどり着いた。
彼女はそこで初めて、リリスのいる枝が異常に苔むしていることが分かった。いや、苔むしているわけでもない。苔をちぎってきて、枝の上に敷き詰めているのだ。おかげで枝のうえは草地のように柔らかくしっとりとしていて、彼女の素肌を優しく受け止めた。
イヴは、リリスの隣に座った。リリスは身長の低いイヴを見下げて「貴女のお名前を当てましょうか」と言った。
「できるの?」
「できるわ。貴女の名前はイヴね」
彼女は当然と言ったようにそう答えた。それを受けて、イヴは驚く。リリスはイヴのその反応を面白そうに笑い飛ばした。
「知っているわよ。天使たちが話していたもの。アダムの新しい伴侶の話をね」
「アダムの事も知ってるの?」
「ええ、勿論知っているわ」
「すごい!すごいのね、貴女」
リリスの顔が、ぶら下がっている揺らめく光に照らされた。イヴは、その不定形のものが光だけではなく熱をも持っていることが近づいてみることでよく分かった。
明らかに固体ではないが、液体でも、空気のような存在でもない。光そのものですらないようだった。
「これが気になるの?」リリスは指差して言った。
「火、っていうのよ。とても素敵なものよ」
「そうなの」イヴは言った。
「初めて見るの。本当にきれいね」
「ええ。触ってみる?」
リリスにそう言われるまま、イヴはオレンジ色に輝くそれに向かって手を伸ばした。しかし、触れることはなかった。近づけば近づくほど、それは尋常ではない温度を持っているということが肌で分かったからだ。降り注ぐ太陽の光のような暖かさではなく、自分の体を傷つけ得るものだということを彼女は本能的に悟った。彼女は慌てて手を引っ込めた。
「触らないの?」リリスは残念そうに言った。
「うん。怖いから」
「あらそう。ならいいのよ。あたしも火には触れないわ。熱いから。火は、こうして少し離れて当っているのが一番だわ」
彼女のその言葉に、イヴも同意した。
「ここで何をしていたの?」と言ったのはリリスだ。
「眠れなかったの」
「ええ、眠れない夜はあるわね。それで?」
「散歩していたら、貴女の歌声を聴いたのよ。すごくきれいだったから、もっと近くで聞きたいと思ったの」
「あらまあ。それは光栄だわ。ありがとう。イヴ」
「どういたしまして。リリス、貴方はなんでここで歌ってたの?」
今度はイヴが質問をする番だった。リリスはあっさりと「あたしがここに住んでいるからよ」と言った。
「あなたもエデンの住人なの」
「ここはエデンなんだから、当然じゃない。変なこと言う子ね」
「じゃ、私のお友達?」
「なんですって?」リリスは怪訝そうに言った。「エデンに居るのはみんなお友達だって、天使が言ってたわ」
その言葉を聞いて、リリスはケラケラと笑う。「良いわ。そういうことなら、貴女とあたしは確かにお友達よ」
そして、彼女はイヴを片手で引き寄せ、彼女の体に密着させた。イヴはリリスの肌を不思議なもののように思った。彼女が今まで味わったことのない感触だった。リリスは、本当に自分と同じような姿をしている。だから、動物のようにふわふわとした毛皮は彼女にはない。かといって、蛇のように固いうろこでおおわれているわけでもない。天使たちのように光り輝く非物質的な感触もなかった。リリスは確かに物質的な存在だった。アダムの肌はかなり近しいものだった。だが、リリスの肌はアダムのものよりも柔らかく、繊細である。一番近いのは、自分を自分でなでた時の感触だと、イヴは思った。
自分ではない、だがこのエデンで一番自分に近い物の素肌の感触に触れ、イヴは幻想的で非現実的な思いをした。
リリスは長い腕を伸ばして、彼女を自分の胸元にうずめた。彼女の胸には大きく膨らんだ隆起がある。イヴは自分にも、大きさは違えどそれがあることにその時初めて気が付いた。生まれてからずっとあったはずなのだが、その存在をはっきりと意識したことは覚えはなかった。彼女のそれを感じることで、イヴは自らのそれをも意識したのだ。
「ねえ」と、イヴはそのままの状態で聞いた。
「アダムを知っているの?だったら、アダムのお友達でもあるの?」
「いや、あたしとアダムはお友達でも何でもないわ。ついでに言うなら、天使ともね」
リリスに抱きすくめられているおかげで、イヴはリリスの顔は見えなかった。ただ、彼女の軽やかな声のみが上から降り注いでくる。エデンにもたまに降る雨のようなものだった。
「そうなの?じゃあ、なんで知ってるの?」
「お友達でなくても知りあうことはできるからよ」
リリスはそう言って、イヴの赤みのかかった髪の毛を手ぐしで梳いた。
「素敵な髪の毛ね」
「ありがとう。リリスの髪の毛も素敵よ」
イヴが言うと、リリスはそのまま彼女の頭を撫でた、そして、自分の胸元から解放する。
「お腹がすいたでしょう、食べない?」
彼女は苔の中から、果物を取り出した。それも、イヴが初めて見るものだった。林檎のように丸くなく、三日月のように湾曲した細長いものだった。色は鮮やかな黄色をしていて、ところどころが茶色くなっていた。
イヴは「うん、食べる!」と元気よく返事をすると、自分の方によこされた一本にかぶりついた。しかし、彼女は驚いてすぐに口を離してしまった。
お世辞にも美味しいと言える味ではなかった。厚い皮を噛んで出てきた汁は甘い果汁には程遠い、苦みと酸味の混ざったような刺激的な味だった。おまけにまっすぐ縦に入った繊維はとても固く、噛みきれない。ありていに言えば、まずい。イヴは嫌そうにして、彼女の口の中に広がったその不愉快な味を唾液で洗い流そうと試みていた。だがリリスは彼女のその様子を見ておかしそうに笑った。
「イヴ、これはね、こうして食べるのよ」
そう言って彼女は、三日月の頂点にある茎のようなものを持って下に引っ張った。リリスが引くとすとんと皮は縦に裂ける。裂けた中から、白い、細長い果肉が現れた。
「食べるのはここよ、中の部分だけ。どうぞ、イヴ」
彼女はそう言って、細長いそれをイヴの口元に差し出した、彼女はそれにかぶりつく。なるほど、これは食べられる味だった。
液状の果汁には乏しかったが決してまずくはなかった。柔らかくまろやかで甘い果肉は、先ほどのまずい味を覆い隠した。イヴは先端を噛みきって、咀嚼して飲み込んだ。
「ありがとう。美味しいわね」
「でしょう?バナナって言うのよ」
リリスはその名前を言って、イヴが一口食べた後のそれを自分でも食べた。イヴも、自分が先ほど皮にかぶりついたものをリリスがしたような手順で向いて、食べる。なるほど、アダムの言うとおり、全てのものが同じように美味しいというわけではないらしい。しかし、皮さえ剥いてしまえばバナナはとても美味しかった。
「これ、見たことないわ」
「貴方がこれが生えているところに行ったことがないだけよ。そこにはたくさんあるわよ」
「そうなの?リリス、貴方がつけているオレンジ色の百合も、私初めて見るわ。百合って白い物じゃないの?」
「そんなことないわ。エデンの北のあたりに行って御覧なさい。そこに生えている百合は皆オレンジ色よ」
バナナの味をゆっくりと味わうイヴに対してリリスの食事は非常に速かった。彼女は食べ終わって残った皮を気の上から放り投げた。そしてそれは、茂みの中に落ちた。リリスの頭上の火の光はうっすらとだがそこまで届いていて、茂みの中に不恰好な黄色い花が咲いたようだった。
「もうお帰りなさい、イヴ」彼女は唐突にそう言った。
「なんで?私、まだリリスと話してたいのに」
「話すことはまた出来るわよ。どんな夜にもできるわ」
彼女はそう言って、イヴが食べ終わった後のバナナの皮を彼女の手から預かった。そして、同じように茂みの中に投げ、不格好な花は二輪になった。
「イヴ、いいこと?あたしと会ったのは秘密にしておいてね。あたしと会うときは、ずっとあたしたち二人だけよ」彼女はイヴの頬を片手で抱いて、ささやくようにそう言った。
「なんで?リリスは私のお友達でしょ。お友達は、皆で遊びたいわ」
「あら、そう?でもねイヴ、二人っきりだけの秘密のお友達って言うのも、それはそれでいいものよ」
リリスはにいっと笑いを浮かべて言った。彼女の鋭い目が穏やかに細められる。その言葉を聞いて、イヴは確かにそれも悪くないような気がした。
「うん、わかった」彼女は言った。
「お約束よ、イヴ。破っちゃだめだからね」
リリスはそう言って、木を降りるイヴを見送った。再び真っ暗な森に戻ると、もうリリスの住処の火は見えなくなった。
暗い闇に、再びリリスの歌声が響いたような気がした、イヴはその中をひたひたと歩いた。
ふと、彼女は気が付いた。帰り道を覚えていない。それはそうだ。真っ暗な中、法学など分かるはずもなかったのだから。
しょうがないので、イヴはひたすら暗い森の中を歩いた。眠くなって寝るまで歩こうと思っていた。


気が付いたとき、あたりは明るくなっていた。森は暗闇の世界ではなく、光に満ちた緑色の、イヴがよく知った世界になっていた。
「おはよう、イヴ」と声をかけるものがあった。振り返ってみると、蛇がそこに居た。
「蛇さん!おはよう!」
「なんでこんなところで寝てたんだ?」
蛇は至極まっとうな質問をした。イヴはそれに対して、答えようとした。だがすぐに、リリスとの約束が思い返された。
リリスとの仲は誰にもばらしてはいけないのだ。彼女は友達は友達でも、秘密の友達なのだから。だからイヴは、そのことだけは隠すようにした。
「夜にね、眠れなくなったからお散歩してたの。そしたらアダムのところに帰る道がわからなくなったから、ここで寝ることにしたの」
「そうか……」
蛇は半ばあきれたようだった。だが、イヴの隠しごとに気が付いているといった様子ではなかった。「アダムのところに帰るんだな。きっと心配しているぞ」蛇が言ったのはそれだけだった。
イヴはその様子が、不思議と楽しかった。なるほど、たったお互い同士しか知らない秘密の友達関係と言うのも、リリスの言う通りなかなかいいものだと彼女は思った。

PageTop

feat: Solomon 第四十四話

日はとっぷりと暮れていた。
寒気と湿気に覆われたその空間は明らかに不潔なものであり、また下等なである、と、ナアマは思っていた。あの四年前の日、彼女にとっては悲劇としか言いようのない結婚を言い渡される前の幸せなアンモン王女である自分ならば、このような場所に決して幸福など見出しもしなかったであろう。
しかし、そのような場に身を置いて、安っぽい衣装をはしたなく乱しながら必ずしも心地よくはない湿気と悪臭を体で感じつつ、ナアマは確かにそこにわずかではあるが幸福があると見出していたのだ。少なくとも、ソロモンの王宮に居るよりはある。
固い、臭いベッドに身を横たえ、たった数枚の銀貨を代金に粗野で卑しい労働者たちにまるで犯されるように抱かれることを、ナアマは確かに楽しんでいた。むろん、多大な苦痛はある。しかしそれでも、あの夫、ソロモンとともにいる事よりはましなことだと彼女には思えていたのだ。売春婦以上に、彼女の体は激しく肉体労働者の男の体を求めた。売春婦たちは金のためにやっているのだろうが、ナアマに金はいくらでもある。ナアマは純粋に、悦楽のみのためにこの行為に浸っているのだ。
自分を抱いているこの外国人の男すら、まさか自分が王宮に住まう王妃であるなどとは思ってもいまい。彼の眼には自分はただの小汚い売春婦なのだ。そうでなければこのような乱暴な抱き方などできるものか。ナアマはその事実に酷く愉悦を覚え、また、自分の体に入れ代わり立ち代わりは言ってくる男を感じながら確かに満たされる思いを味わった。

彼女は、思いつきのようにこのことを始めた。あの時、彼女はやけになっていたのだ。
ソロモンが憎い。彼をコケにしたい。その結果選んだのが、売春婦になりすまして、日々、何人もの卑しい男たちに抱かれることだった。あれほど賢者とたたえられるソロモンも、まさか妻が彼の命令で日々働いている下賤な男に抱かれているなど露ほど知りもしない。その事実を彼女は楽しみ、それを持って彼女は彼を侮辱できるような思いだったのだ。やがて、それだけでもなくなった。彼女は、毎日に何度も行われるようなような性交がただ純粋に楽しくなってきたのだ。精力を持て余した彼らは、ひと月に一回自分のところに来るか来ないか、来たとしてまるで淡白に、義務的と言ってもいいほどに無感情にさっさと済ませて帰るソロモンとは何もかも違っていた。
彼女は目の前の男が入ってくることに嬌声を上げつつ内心で夫をあざけった。彼がいくら自分を侮辱しようとも、所詮彼は知らないのだ。妻が自分を離れ、自分よりも何倍もの悦楽を持ってこのような行為に浸っているということを。ああ、なんという惨めだろうか!?夫として、男として、最高の恥ではないか!彼女はそう思っていた。
「(ほほ、ごらんなさい、ソロモン。貴方よりもこの男の方が、貴方の何倍も馬鹿なこの男の方が、私を悦ばせることができるのよ!)」彼女は内心で、笑いようにそう言いながら悲鳴のような
ソロモンはこのことを知ればどんな顔をするだろうか。それを勝手に彼女は思い浮かべた。あの氷のように澄ました顔は、妻が娼婦の真似事をして、労働者に抱かれていると知った時、一体どのように崩れるのだろうか。その想像が、孤独を感じてやまないナアマを癒した。

やがて良い時間になると、ナアマは数枚の銀貨を携えて労働者とともに泊まっていた安宿を離れ、王宮に帰ろうとした。なぜ娼婦がこのようなものをと不信がられてもいけないので、馬は離れたところに留めてある。
ナアマは夜の道を歩いた。女の身で夜の道を歩くことが危険だとは彼女も知っている。しかし、その危険すら彼女は恐怖とも思っていなかった。若い女が合う「危険」など、むしろいま彼女は望みたいほどでもあった。そのような乱暴者に欲望のまま人間としての尊厳を踏みにじられるように犯されることも、彼女はきっと楽しいであろうと思えていた。彼女は、それほどまでに荒れていたのだ。
ふと彼女の眼にモリヤ山が映った。暗い中シルエットのみになったそれにはいくつも松明がともっているのが見えた。労働者たちから聞いたことがある。夜でも仕事をしている、一人の職人がいるのだ。他の職人たちが娼婦とともに一日の疲れを癒している間にだ。
ナアマは彼の存在を冷ややかに見た。所詮女を悦ばせられない存在なら、それほどまでの価値はないと名前も知らない男を評価した。


その夜も、ソロモンは自室の窓からモリヤ山を見ていた。
「どうしたの?」と声をかけるベリアルはずっとベッドに我が物顔で寝ている。ベリアルはここのところ、いないか、疲れたようにベッドに寝ているだけだ。
「ヒラム・アビフの奴、毎晩よくやるな」
「うん、ほんとにそう思う」ベリアルが言う。
ソロモンはその日、眠くなかった。王になってから生活リズムは昼型に矯正されてきたものの、その日、彼は眠る気分ではなかったのだ。目は不思議と冴え冴えとしていた。
夜が明けたら仕事が進んでいる、という現象は今でも続いていると聞く。おまけに、ヒラム・アビフが普段する仕事量の数倍の速度だというのだ。彼は人がいないほうが仕事の性が出るのだろうか。そもそも、あの男はいつ寝ているのだろうか。ソロモンは考えれば考えるほど、ヒラムに対して興味がわいてきた。
彼は急に座っていた椅子を立ちあがる。ベリアルが「どうしたの?」と声をかけた。
「今から、モリヤ山に行ってみようかと」
「今から?もう夜中でしょ」
「昼間に出歩くよりは楽だ」
「まあ、君にならそうだろうけどね……」
ベリアルは明らかに一緒には行きたくない、と言った風であった。ソロモンはそれを察し、「夜が明けるまでには戻る」と付け加え、部屋を出た。
明かりの伴っていない夜の王宮を歩き回るのは、子供のころから慣れたものである。彼は毛並みのいいラバを一頭静かに起こして、彼に乗ってそっと王宮を抜け出した。門番は眠っていた。


本来ならが来るはずのない音をヒラムは耳ざとく見つけたのだろう。ソロモンは、ひびいてくる作業の音が止むのを聞き届けた。
「誰だ?」と、たいまつの揺らめく光の奥から響いてくる声は、間違いなくヒラムのものだった。

ラバからひらりと飛び降りたその人物を見た時、さすがにマイペースなヒラムも驚いたらしい。彼は目を見開いて、「ソロモン王?」と聞いた。
「私以外に、このような姿をしたものがどこに居る」
彼は防寒のためマントに胴体をくるんではいても、白く、長く伸びた髪の毛は全く空気にさらしたままだった。半月の白い光とたいまつの赤い光は、彼の真っ白で整った顔を幻想的に照らしている。
「何のために来た」
ヒラムは警戒心そ込めた口調でそう言った。
「強いて言うのならば、お前の夜の仕事ぶりも見たいと思ったまでだ。いうなれば視察だな」
「視察ね」
ソロモンは乗ってきたラバを適当な場所につなぎ、ヒラムのそばに歩み寄った。
「大丈夫なのか、王のくせに護衛もつけずに」
「護衛が私を襲わないとは限らん」
ソロモンは軽く冗談じみた口調でそう言ったが、ヒラムは真に受けたらしく「そうか、そう言われてみればそうだな」と言ったので、ソロモンも苦笑いした。

ヒラムは前に制作していた二本の青銅の柱、ボアズとヤキンの仕上げに取り掛かっているようだった。彼はやすりがけをしていた。ソロモンはしばらくの間、後ろから彼の仕事ぶりをじっと見ていた。
目の前に横たわる巨大な聖堂の柱を、彼は美しいと思えた。自分が小さいときに、たった一人だった時に思い浮かべていた青銅の大黒柱そのものだ。全体的な滑らかでありながら荘厳なたたずまいから、ごくごく小さな花や格子の彫刻に至るまで、余すところなく自分の思い描いていたものそのものだ。ヒラムに自分の頭の中を見透かされているようですらあった。
ただやすりをかける行為にしても、その手つきは見事だとソロモンには感じられた。いくら彼でも職人仕事にそう通じているわけではないが、少なくとも彼の技術は何においても美しかった。青銅の柱がみるみるうちに磨かれ、月明かりの下で輝きを増す。いかにも、神の住まう神殿を飾るのにふさわしい神秘性をヒラムは柱に付与していると思えた。
いつの間にかソロモンは彼の手つきに見入っていた。非常に背の高いそれを丹念にやすりが消していく好意に、何時間もたっていただろうか。気が付けば月は一足先に地平線の底に沈み、空は真っ暗になってたいまつの光だけがヒラムの手元を明るく照らしていた。
ヒラムの手が止まった。作業が終わったのだろう。
「結局ずっとそこに居たな」
ヒラムは振り返って、ソロモンに向かってそう言った。
「ああ。目が離せなくてな。つい」
「ああ、そう言えばこれを設計したのはあんただもんな」
「そうとも、よく覚えていたな」
彼は、やすりを適当な場所に置くとソロモンの方に歩み寄ってきた。まるでソロモンが気まぐれを起こしてヒラムのもとに来たように、ヒラムも気まぐれを起こしてソロモンと話をしようと思ったかのようだった。
「やっぱり楽しいか?自分の創ったものが出来上がっていくって言うのは」
「無論の事だ」ソロモンはうなずく。
「分からんでもないな。あんたの設計図は本当に緻密に書かれている。思い入れがよく分かるよ」
ヒラムは王としてというよりも、今自分が取り掛かっている仕事の設計者としてのソロモンに向かい合って話をしていた。ソロモンはそれを嫌にも思わなかった。口調はなっていなくても、ヒラムは確かに設計師としての自分に敬意を払っているのが見て取れたからだ。
「王の仕事の中であれだけのものを作るのは大変じゃないか」彼は職人たちの休憩のため誂えられた簡易な椅子に座ってそう言う。ソロモンも同じ椅子に腰かけた。
「王になってからじゃない。あれは昔に書いていた。昔は暇だったからな」
「へえ。昔ってことは王子様だった時代か」
「そうなるな」
「設計技術もあって、王様の仕事もこなして、あんたは確かにうわさに聞く天才だな」ヒラムは言った。
「天才と言うのならばお前も同じだろうに。お前ほどの技術を持つ者はいないぞ」
「ああ。俺は天才だよ。だが、職人仕事のみに限るな」
ソロモンは笑う。「自分の事を自分で天才と言える自信のあるお前に、謙遜の言葉は似合わんな」
その言葉を受けて、ヒラムも笑った。
「俺は昔から、これしかできん。子供のころからずっと、職人仕事をやってきたんだ」
「そうなのか。普通の子供の用に友達と一緒に遊ぼうなどと考えたことはなかったのか?」
「……ああ、ないね」彼は答えた。
「俺の世界にあるのは昔から、これだけだ」
「不思議な奴だな、お前は。人間は普通、一つだけの世界では生きていないというのに」ソロモンは呟く。「この場を離れるお前は、まるで死んでいるかのようだ」
「それは間違っちゃない。俺は、作業場以外では生きられないんだ」
「だが、私はそれを否定はしないぞ。お前と言うものを得られたおかげで、私はこのように自分の望みをかなえられるのだから」
ソロモンは赤い光に照らされる青銅の二本の柱を赤い目でじっと眺めた。
「私の思い描いた通りだ。寸分の狂いもなく、その通りだ。私がこれを描いたのは、11歳の時だった。その時に思い描いていたもの、そのものだ」
「そりゃあどうも。それと、思っていた以上に早いんだな。11歳か」
「書き始めたのはもっと早い。と言うよりも、物心ついた時からこの設計をしていたようなものだから」
「あんたがなぜ生まれつきの設計士じゃないか、俺にはそこが不思議だな。話だけ聞いていればそうなりそうなものを、あんたは別の事までいくらでもやってのける」
冷たい夜風が二人を冷やした。肌に突き刺さるような寒さの風だが、そう不快とも思わなかった。気が付けばソロモンは、ヒラムと話し合うのが楽しくなっていた。それによって生まれた熱気を、風が冷やしたのだ。
存在すらも邪魔者にされていた自分が王になったように、創造の中にしか生きられなかった彼らも実在のものになった。彼は時間の移り変わりを感じた。この柱を描いたとき、あの傲慢なアブサロムはまだ生きていたのだから。

そのまま、いくらも話し込んでいただろうか。ヒラムは、「そろそろ小屋に帰る」と言った。
もう夜もだいぶ経っていた。さすがにもうそろそろ寝ないと、確かに明日の作業に差し支えはするだろう。
「そうか。すまなかったな、時間をとらせた。作業も、あまりできなかったろう」
ソロモンはその時になって、ヒラムが自分と話し込むあまり彼の本分である作業ができなかったであろうことに気が付いた。職人としてプライドが高い彼の望むところではなかったかもしれない。だが、ヒラムは意外にもいやそうな顔をしていなかった。
「気にしてねえよ。あんたと話せて楽しかった。他人とこんだけ話ができたのは久しぶりだ」
彼はそう軽く言いながら、たいまつの火を一つ、手に持った小さなたいまつに移した。揺らめく火の中聞こえてきたその言葉に、ソロモンは親近感を覚えた。他人とここまで話ができたのは久しぶり、ソロモンも、同じことを考えていた。
彼は衝動的に言葉を言った。
「また、来てもいいか」
「ああ、勿論だ」
返答は直ぐだった。そして、短かった。
別れ際にヒラムはソロモンと握手をした。彼の握手は少々独特で、指の組み方が通常とは違っていた。だが彼にとってはそれが正式な握手であるかの湯に、彼はいたって自然だった。
やがて力強く太い指をソロモンから離すと、ヒラムはそのまま、小さいたいまつの火とともに山のふもとに消えていった。


長い髪を刺すような寒い風にたなびかせて、ソロモンはヒラムの事を考えていた。
ヒラムに対して、ソロモンは共鳴するところがあった。ソロモンは確かに、あのティルスから来た男に対して今まで他人に感じる事のなかったものを感じていたのだ。
また彼と話したい。もっとさまざまなことを語り合いたい。不思議と、彼はそのように思えていた。
ラバを走らせソロモンがイスラエル王宮についたのは、東の空が白むとは言えないまでも青色になりかけてきたころだった。門番は相変わらず寝ていた。

PageTop

feat: Eve 第三話


「最近楽しそうだな」と、アダムは口を開くなりイヴに言った。
涼しい朝の事で、彼女は薄緑の葉っぱの上にたまっている光り輝く朝露を、葉っぱの上で転がして遊んでいた。
「うん、だって、楽しいもん!」
「ふーん……そうか。いや、いいことだと、思うけどな」
アダムはそうとだけ言うともう話すのをやめて、朝の冷気の良く冷えた林檎に自分の白い歯を勢いよく突き立て、あっという間にガリガリと一つ食べつくしてしまった。それを見て、イヴは少しばかり笑う。
「どうした?」
「アダム、林檎好きになったのね」
アダムは少し顔を赤くして「余計な世話だ」と言った。


「蛇さん、どこ?」
アダムのいるところを離れて歩き始め、一つの小さな針葉樹の森についてからイヴは蛇の名前を呼んだ。蛇はこの森に住みついているというのを彼女は知っていたからだ。
森は特徴的で、すぐわかる。蛇を除いて立った一匹の生物も、ここには住んでいないのだ。
「俺はここだよ」
上の方から声が聞こえてきて、一本の針葉樹の幹を伝ってするすると蛇が下りてきた。地面に降りた彼と視線を合わせるように、イヴもその場に座り込む。
「おはよう、イヴ」
「うん、おはよう、蛇さん。ねえ、今日もどこか連れてって、素敵なところ!」
針葉樹の森はうっそうとしていて、少しばかり暗い。蛇の金色の鱗もあまり輝きはしなかった。イヴは両手を彼に差し出すと、彼は小さな体をそれに乗せる。そして彼女の腕を伝って、彼女の肩のあたりに巻きついた。
「良いよ。じゃあ行こうか」

蛇はイヴにとても優しかった。のみならず、彼は確かに、様々な知識を持っていた。
彼はまるでアダムのようにエデンの園の隅々を知っていて、イヴをエデンの中にある様々な美しいところに連れ出してくれた。
エデンは本当に美しい空間だと、イヴは実感していた。蛇が目的地とするところもさることながら、そこに向かう道中も、本当に穢れなく、美しいのだ。

ふと彼女が気付けば、目の前を一対の鹿の夫婦がゆっくり通りすぎた。雄の鹿は角が大きく、見ていて非常に立派だった。そして、自分以上に彼の妻の方がそれに惚れ惚れしているだろうとイヴは思っていた。
イヴが彼らを眺めていると、彼らの方も気が付いたらしく、二匹そろってイヴに向かって鳴き声であいさつを返してきた。イヴのほうも「こんにちは」と、彼らに笑って挨拶した。仲睦まじそうな二匹が、イヴには少し羨ましく感じられた。少しは、アダムもあの雄の鹿のように自分と一緒にゆっくり散歩でもしてくれたらいいのに、と彼女は思う。鹿の夫婦が過ぎ去るまで、彼女は彼らに見とれていた。
やっと彼らの姿が木陰に隠れて見えなくなったころ、イヴはあることに気が付いた。
「蛇さん!?蛇さん、どこ!?」
蛇の姿がいつの間にかいなくなっていたのだ。自分の肩に巻きついていたはずの彼が影も形もない。
だが、そう心配することはなかった。「大丈夫だよ、ここだ」と言う声とともに、彼はイヴのすぐ後ろに会ったイチジクの木の、大きな葉っぱの影から姿を現した。
「なんでそんなところにいたの?」
「君があいつらをゆっくり見たがっていたからな」蛇は言った。「俺がいると邪魔だろう。俺を見たら、あいつらは逃げて行ってしまう」
蛇が自分に気を使って隠れてくれたのだと、イヴにはわかった。イヴは「ありがとう、蛇さん」と、イチジクの実に頭を乗せた彼に言った。
「どういたしまして、イヴ。このイチジクの実は大分熟れているぞ、食べてみてもいいんじゃないか」
その言葉に了承すると、イヴは上に乗っている蛇ごとイチジクの実をもぎ取った。蛇はするすると彼女の腕を伝って、もともといた位置に収まる。彼女はイチジクの実を食べながら、また蛇の誘導する方向に向かって歩き出した。イチジクの実を食べるのも思えば初めてだったが、繊維質で柔かい果肉の感触を彼女は非常に好ましく思った。


蛇がその日連れて行ってくれたのは、川と言うものだった。イヴは水を見たことはあったが、川を見るのは初めてだった。
ゆっくり、ゆっくりと流れるその水面はきらきらと陽光を受けて眩しく輝く。水は非常に住んでいて透明で、気持ちの良い冷たさが周囲の空気を伝ってイヴの方にもやってくるようだった。
「素敵!」イヴは素直に、そのような感想を述べた。
「そうか、気に入ってもらえて俺も嬉しいよ」
蛇は、イヴが何かを気に入るたびにそういう。イヴは丸い石が多い河原を駆け抜けて、川のすぐそばまで来た。
覗き込んでみると、水は一層透明で、川の底がはっきりと見える。イヴには、それが非常に美しいもののように思えた。
彼女は水面をじっとのぞきこんだ。さらさらと波打つ様子も、彼女の気に入った。水の中には銀色の魚がその流線型の体を優雅にはためかせて泳いでいた。
彼女は、そっと川の中に足を踏み入れた。川はすぐに彼女を受け入れた。
蛇はと言えば、するりと彼女の体を抜けてしまった。理由を聞けば「俺は泳げないから」と言った。
「泳ぐって何?」
「うーん……説明しにくい。とにかくイヴ、川で遊ぶのならば気を付けてくれよ。俺はここで見ているから」
「うん、わかった。ありがとう!」
イヴは川の水の冷たさを肌で感じながら、水の中に入っていった。脚までならまだよかったが、お腹までつかる段階になった時、イヴは本能的に躊躇する気持ちが感じられた。しかし水は美しかったので意を決して潜ってみると、意外と大したことはないということがわかり、イヴは楽しくなり、どんどん川の深みに入っていった。
水の中で自分の体が軽くなるのを感じ、イヴは楽しくなった。彼女はパチャパチャと音を立てて水の中で遊んだ。何をして遊んだと言いあらわすのも難しかったが、強いて言うのならば水の中に居るということ自体を彼女は楽しんだ。
彼女はふと、自分の顔も水の中に入れてみようと思い立った。ぱちゃりと水面に顔を突っ込むと、水中の世界はまた違って見えた。先ほどの銀色の魚が目の前に居る。イヴは、上から見るのではない彼らも美しいと思った。川底に散らばっている丸い石の曲線も大変可愛らしく感じられた。
イヴは水中を楽しく思う気分のまま、いつも通り息を吸い込もうとした。
すると、何かが異常なのがわかった、いつものように、鼻の孔は空気を吸い込まない。代わりに何か別のものが入ってくる。イヴは慌てて、口でも息を吸い込もうとした。しかし、結果は同じだった。
「(何!?何!?)」
イヴは混乱して、あわててどんどん息を吸い込もうとする。しかし結果は同じで、イヴは、自分の体の中がどんどん空気ではない何かに犯されていく恐怖を味わった。


気が付けば、彼女は気を失っていたらしい。彼女が目を覚ますと、そこは河原に生えている背の低い広葉樹の木陰だった。
「起きたか!?良かった」
そう語りかけたのは、蛇ではなかった。イヴにとっては初めて見る存在だったが、何であるかはわかった。彼は、ガブリエルやミカエルと同じく天使である。なぜかと言えば、自分たちに近い容姿をしていて、かつ、背中に真っ白な翼を生やしていたからだ。
イヴは何か言おうとする。しかし、その代わりに出てきたのは咳だった。何か言うどころか、まともな呼吸ができない。
「イヴ、無理するなよ。ちょっと落ち着いて」
彼はそう言って、彼の右手をイヴの胸の真ん中に当てた。その手はほんのりと発光していて、太陽の光のように暖かかった。
そのほのかな熱が胸にしみこみ、イヴは、自分の胸の中にある自分を苦しめているものが取り去られるような感覚を味わった。
気が付けば、イヴはまたいつも通り、息を吸って吐くことができるようになっていた。それを見届けて、彼は「治ったか?良かった」と言った。
「イヴ、水の中で息はできない。すまなかった、言うのを忘れてたよ」
気が付けば、蛇が隣にいた。
「まあ、身を持って分かったろ。水遊びをするときには、呼吸には気を付けてな」
そう明るく笑う天使に、イヴは「助けてくれたの?ありがとう。貴方は誰?」と言った。
「オレは天使ラファエル。会うのは初めてだな。でもガブリエルから話は聞いてるよ、イヴ。よろしく」
そう言って顔全体で笑う彼はミカエルやガブリエルとはまた違った雰囲気を持っていた。彼はとても明るく、親しみやすい人物のように思えた。
「蛇がオレを呼んだんだよ。君が溺れているからって」
「俺じゃ助けられないしな」
蛇は自分の小さな体を見せびらかすように尻尾をパタパタ揺らして見せた。それを受けて、イヴとラファエルは笑う。
「あのー、溺れるって」
「さっきの君みたいに、水の中で息ができなくなって動けなくなっちまうことさ」
それを聞いて、確かにイヴは先ほどまでの自分の症状と溺れるという言葉がはっきりと一致した。彼女はまた、新しい言葉を覚えられたと実感した。
「ラファエル、優しいのね」
「オレは癒しの天使だからね。君やアダムが怪我をしたり、今回みたいに危険な目にあったときはオレの役目なんだ」
ラファエルはそう、ガブリエルほどではないがふんわりと伸びた長い長髪をたなびかせて言った。
「癒し?」
「ああ、君たちが傷ついたときに、それを元に戻してあげる力さ……イヴ、この木をみていて」
ラファエルはイヴが寝ているところに木陰を作っている木の幹に手を当てた。よく見てみれば、その幹には傷がついていた。
ラファエルは手を先ほどのように発光させ、その暖かさで傷を包み込む。すると、たちまちのうちに傷は治り、木の幹は傷一つない完璧な状態にもどった。
「わあ……」
「こんなふうにな。これが癒しさ」
イヴは思わず手を叩く、ラファエルも得意げな顔で「ありがとう」と言った。
「癒しの力は神様の力なんだ。オレはオレが天使として造られるとき、この力を神様からめいっぱい貰ったってわけ」
「何のために?」
「そりゃ君、このエデンにあるものや君たちみたいに、神様が大切に思っているものを癒すためさ」
ラファエルは親しみやすい笑顔のままそう言った。

イヴはラファエルに感謝しつつ、思った。水の中で呼吸ができないということは、水の中に入ることはできないのだろうか。水の中の空間はああも美しかったのに、それは残念だ、と、彼女はラファエルに、そのような疑問をぶつけてみた。
ラファエルはそれを聞くと「いや、そうでもないよ」と言った。
「呼吸に気を付ければ、水の中で遊ぶことはできる。エデンの川は君たちを襲いはしないからな。イヴ、ためしてみるかい?オレの指示の通りにしてごらん」

イヴはラファエルの言われるまま、水の中に入った。水の中では呼吸ができないことは分かったが、代わりに息を目いっぱい吸ってから入っておけば、ある程度の時間は楽だと彼女は身を持って知った。
「いいぞ、イヴ。水底から足を離してみな、沈まないから」
ラファエルにそう言われて、イヴは自分が足をつけている水の底の石たちから足を浮かせた。ふわりと変な感触で、一瞬自分の体が沈もうとする。だがラファエルが繰り返し大丈夫だと言うので、彼を信じてじたばたはしなかった。
すると、彼の言う通り、彼女の体は水に浮いた。顔を出して息を吸うこともできた。
「よおし、イヴ。いいぞ、ついでに泳いでみるかい?」
「泳ぐ?」イヴは、あの蛇が言っていた単語が出たことに反応した。
「ああ、俺の言うとおりに足と手を動かしてみな、泳ぐのは楽しいぞ」

ラファエルの説明は分かりやすかった。いくらもしないうちに、イヴは泳げるようになっていた。
泳ぐという行為は確かに非常に楽しかったが、確かにこの行為は蛇にはできないだろうとイヴには思った。彼には彼女のような手足はないのだから。
呼吸の事を覚えてしまえば、潜るのも簡単だった。彼女は思う存分、地上とは一味違った川の中の世界を楽しんだ。
イヴはぱしゃりと水面から顔を出すと「ねえ、もっと泳いでいい?」とラファエルに言った。彼女の長い髪の毛は、すっかり水に塗れてぺたりと彼女の体に張り付いていた。
「もちろん!好きなだけやってみろよ、やってみるのはいいことだ」
「いいんじゃないか、イヴ、俺の分まで楽しんでくれ」
蛇の自虐的な冗談にラファエルと一緒に笑って、イヴは川の流れとは反対に泳ぎ始めた。川の流れに従って泳ぐのも心地が良かったが、逆らって泳ぐのもまたやりがいがあるようで楽しい、と彼女は思った。

ふと気が付いたとき、川べりにラファエルも蛇もいなかった。ずいぶん長い間泳いでいたのだろうか。イヴは、かなりの上流に来ていたようだった。それでもイヴは、元に戻ろうとは思わず、そのまま進み始めた。
やがて川底も浅くなり、泳げるようでもなくなった。彼女は濡れた髪を絞ると、浅くなった川の冷たい感触を足だけで楽しみながら、上流へ上流へと進んでいった。

彼女が長く歩き始めてまたしばらくたった時、彼女はあるところについた。そこは、水源だった。エデンの川が流れ出ているところだ。
だが、彼女の目を引いたのはそこではない。
いつの間にか彼女は、不思議な空間に迷い込んでいた。そこは、森におおわれた広場のようだった。イヴの知るどんな森よりもうっそうとしたそれば、広場の外のものすべてを遮っていた。しかし、そこは明るかった。しかも、太陽の光のような強烈さはない。光っているのに、眩しくない。それらは非常に優しい光だった。
底を明るく照らしているのは、二本の木だった。広場には、彼ら意外のいかなる植物も生えてはいなかった。彼らは光の線の集合体のようなたたずまいをしていて、夫婦のように仲睦まじく寄り添い、静かにイヴを出迎えていた。
片方の木は十色もの色、もう片方の木は真っ赤に輝く木の実をつけている。木の実と言っても、それは林檎やイチジクのようなものではなかった。それはカラフルに発光していて、具体的な形を持っていないようであった。
そのとき、イヴはふと気が付いた。片方の木、十色の色の木の実をつけた木に、誰かがいる。彼は、そこに磔にされているように、一瞬、イヴには見えた。しかし次の瞬間、違うと分かった。彼はただ、木の上に居るだけだった
天使だろうか。いや、天使にしては翼がない。しかし、自分やアダムと同じ存在でもないとイヴは直感した。
彼はイヴに気づいたようで、彼女に視線をよこした。
「どうしました?」
彼は言った。
不思議だとイヴは思った。自分は彼を知らない。でも、自分が生まれる随分前、自分は、彼に会ったような気がうっすらとするのだ。
「川を上っていたら、ここに来たの」イヴは言った。
「そうですか、迷いこんでしまったのですね」
彼はふっと微笑んだ。
太陽の光がないこの空間は、明らかにエデンにあるどの空間とも違う異質さを秘めているとイヴは思った。優しくありながら、どこか、無機質であり、非物質的だった、
イヴは急に、この空間に居るのが怖くなった、どこか、自分がここに居るべきではない、と言う印象を受けたのだ。
「どうしました?怖そうですが」
「どうやったら、戻れるの?」
その言葉を聞いて、彼は少し考え込んだ。
「川を下れば戻れます。でも、私が戻してあげることもできますよ」
「お願い、元いたところに戻して!」
彼は彼女のその言葉を聞くと「はい、それでは」と、木の上から指をぱちんと鳴らした。


気が付いたとき、イヴは元いた河原に居た。そばには、ラファエルと蛇がいる。
「あれ、イヴ?どうして急に?」ラファエルが言った。蛇も怪訝そうな顔をしている。
イヴは、川上で自分が見てきたものについて話した。すると、それをまだ話し始めてすぐのうち、彼女が変な空間に迷い込んだという時点で、今まで笑顔だったラファエルが急に真剣な表情になった。
「イヴ!そ、それで……そこに木が二本あったろ!?それになっている木の実を、食べたか!?」
「ううん、食べなかったわ」
その言葉を聞いて、ラファエルはほっと安心したように肩の力を抜いた。ラファエルのその態度を怪訝に思い、イヴは問いかけた。
「イヴ……君が見たのはな、エデンの園の中央だよ」
その言葉を聞いて、イヴは驚いた。
「エデンの園の中央に生えている二つの木のうちの一つ、善悪の知識の実だけは食べてはならない」と言うのがイヴが以前から言われていることであった。あれのうちどちらが知識の実であったのかはわからないが、イヴは改めてそうだったのかと感じ、そして得体の知れない恐ろしさを感じた
「いや……食べてないんならよかった。イヴ。これからも絶対、あれだけは食べてはいけないよ」
「うん、わかったわ」
彼女のその言葉を聞くや、ようやくラファエルも元通りの明るい顔にもどって「じゃあ、どうする?まだ泳いで遊ぶかい、それとも帰るかな?」と何事もなかったように言った。
あたりはすでに日が暮れて暗くなっていたのでイヴは「そろそろ帰りたいわ」と言った。
その言葉を聞いて、ラファエルは普段ガブリエルがするように彼女を連れてアダムのところまで歩きだした。蛇も、来た時のようにイヴの首元に巻きつく。いつの間にか彼女の髪は乾いて、もと通りふわふわとしていた。

ふと、夜空によく響く声が聞こえた。
「あれななに?」
「なんだろうね、ふくろうかな」
ラファエルがそう言う。
確かに鳥の鳴き声のようにも聞こえるが、昼間の小鳥に負けず劣らずの美しい歌声にも、イヴの耳には聞こえていた。イヴはそれを、とても素晴らしい歌だと思った。

PageTop

feat: Elijah 第十三話

イゼベルの言葉に、護衛兵たちは反応しエリヤたちを捕えようと走り寄った。だが、それよりも早く、エリヤは耳をつんざくような鋭く、大きな声で鴉のような鳴き声を上げた。
と、同時に、大量の鴉が大広間の窓から舞い込んでくる。そして、黒い羽をまき散らしながらアハブの衛兵たちに襲いかかった。
当然のように大広間は大混乱である。護衛兵たちは鴉に遮られて前が見えなくなり、鴉の鳴き声に交じってわけのわからない声をまき散らした。

「エリシャ、行くぞ!」
エリヤはエリシャをひょいと肩に抱え上げるとその場から駆出し始める。イゼベルはそれを見咎めた。
「何をしているの、お前たち!エリヤが逃げるわ!」
その声に慌てて護衛兵たちは反応し、彼に抵抗しようと試みるが、鴉に妨害された状態では思うように彼を拘束できなかった。おまけに「邪魔すんじゃねえ!」と、エリヤは自分に寄ってくる衛兵に蹴りを入れた。相当強烈な蹴りのようで、彼らはあっけなく倒れていく。
あの俊足の持ち主、逃してしまっては捕まえられはしない。だが、このままでは逃げられるのも時間の問題だ。イゼベルは頭を抱えた。

「何をしている、イゼベル!」
ふと後ろから声が聞こえた。振り返れば、そこに居たのは怒りの形相をしたアスタロトだった。
「奴は偉大なるベルゼブブ様に仇なす者、生かしてはおくな!」
「し、しかし」
エリヤは気が付けばとっくにめぼしい衛兵たちをのしてしまって、大広間から逃げうせていた。だが、アスタロトはイゼベルに反論する余地すら与えなかった。
「黙って私についてこい、お前の兵隊はだめだ!」

そう言うとアスタロトはイゼベルの手をつかみ、かっと白い眼を光らせた。とたんに、イゼベルの意識が飛んだ。


「エリシャ!」兵隊たちをまき、エリヤは走りながら自分の肩に乗ったエリシャに声をかけた。
「裏庭の塀を飛び越すぞ、来た時みたいにな!」
「は、はい、師匠!」


イゼベルの意識が戻ると、彼女は裏庭に立っていた。まだ意識のぼんやりする彼女を、「シャキッとしろ、時間がない!」とアスタロトは小突く。
「アスタロトさま、あの、ここは……」
状況の呑み込めないイゼベルだったが、次の瞬間、彼女はなぜアスタロトが自分をここに連れてきたのかがわかった。目の前にエリシャを担いだエリヤが走ってくるのを見たのだ。。

「エリヤ!」彼女はヒステリックに叫んだ。さすがのエリヤとエリシャも、驚いた。
無理もない。馬ですら追い越せるエリヤが、走りにくいドレスに身を包み、若くもなく、しかも女性であるイゼベルに追いつかれるなどほとんど考えられない。
イゼベルは息巻いた。
「お待ち、卑怯者!逃がしはしないわ!」
「エリシャ」エリヤは言う。「あわてんじゃねえ。予定通り逃げるぞ」
「はい、師匠!」
「あばよ、イゼベル!」
エリヤはそう言うと、走る勢いを緩めないまま、急に、さっと飛び上がった。彼は楽々塀の高さまで飛び上がり、それを超えようとした。イゼベルは彼を罵ることはできれど、結局彼を止めることはできない、と己の身体面での無力さを感じていた。
だが、その時だった。
アスタロトがすっと黒い薔薇を一輪構え、そして、それを矢のように、エリヤめがけて物凄い勢いで飛ばしたのだ。
薔薇の茎の先端は金属のようにとがり、たちまち本物の矢のようになる。エリヤも、何かがものすごい勢いで自分たちを襲ってくる気配に気が付いたらしい。彼はあわててそれから逃げようとした。
しかし、遅かった。
エリヤが薔薇の矢をかわした時、エリヤにしがみつくエリシャの手をその矢が射抜いたのだ。風よりも早く飛んでくるそれはあっという間にエリシャの手の甲をえぐり、その痛みと、エリヤがかわそうとしたことでわずかにバランスが崩れたおかげで、エリシャの手がエリヤから離れた。
「エリシャ!」エリヤは塀の上から叫んだ。彼はエリシャをつかもうとしたが間に合わず、エリシャは背中から地面に落下した。
ふと、衛兵たちが来る音も聞こえた。イゼベルは起こった事態にのまれていた自分に気が付き、はっと我に返って「こちらです!こちらに来なさい!」と、大声で叫んだ。そして、自分は地面に倒れるエリシャを押さえつけた。

エリシャに悪寒が走った。何が起こったかはわからないが、エリヤから離れてしまった。衛兵もこちらに向かってきている。
エリヤは自分を助けてくれるだろうか。しかし、もたもたと自分を助けていたらせっかく逃げ出したチャンスが不意になってしまうかもしれない。
そこまで考えれば、十分だった。エリシャは逡巡することすぐにをやめ、塀の上に居るエリヤに叫んだ。
「師匠、早く逃げてください!僕は後で合流しますから!」
その言葉だけで十分だった。
エリヤは鴉の羽の色をした瞳でエリシャを見据えると「ああ、分かった。ありがとう、エリシャ」といい、さっと塀を降りて城の外に消えていった。
「ああ、お待ち!」イゼベルは、まさかエリヤがこうもあっさりと逃げるとは思わなかったのだろうか、動揺して、エリシャを押さえつける力を緩ませた。
エリシャは、そのチャンスを見逃さなかった。背中の激痛をこらえながら思いっきりイゼベルをはねのけた。いくらなんでも女、すぐに拘束は外れた。
またしても彼女の油断をついて急に起こった事態に動揺するイゼベルをよそに、エリシャは力いっぱい駆出した。さすがにエリヤ程の速さではないものの、目の前で起こったことに呆然とするイゼベルは彼を追いかけられず、彼はすぐ視界の外に行ってしまった。


「くっ……何たることだ、不覚!」アスタロトは言った。
「イゼベル、何故しっかり押さえつけておかん!」
「申し訳ございません……アスタロト様」
震える声でいうイゼベルを睨みつけ、「エリヤめ、まさかあんなにあっさり弟子を見捨てるとは……」と、アスタロトは言った。どうやら、彼もエリヤの予想外の行動に動揺し、そのあまり対応を取れなかったようだった。
ほどなくして、衛兵がやってきた。イゼベルは彼らに向かって怒鳴り散らすように「エリヤが城の外に逃げました!お前たちのうち半分、すぐに彼を追いなさい!そしてもう半分、エリヤの弟子がまだ城の中に居ます、彼も捕まえなさい!」と命令した。


エリシャは広い王宮の庭を無我夢中で走っていた。だが、王宮など初めて見る彼の事だ。どちらに向かえば出口なのかもわからない。
衛兵の声が聞こえる。自分を探しているようだ。エリシャは焦った。ここでつかまるわけにはいかない。
その時だった。
「あ、エリシャだ」
聞き覚えのある声に、彼は振り返った。見てみると、誰もいないと思っていた空間に、ミカヤがいた。彼は井戸に腰かけて、エリシャの方を向いてにやにや笑っていたのだ。
「あ、貴方は……」
エリシャがミカヤの名前を呼ぼうとした時、ミカヤはぴょこんと立ち上がって、エリシャの手を引いた。
「こっち来いよ、捕まりたくないだろ」
エリシャは、ここはミカヤに任せようと判断した。むやみに逃げていてもつかまるだろうし、知らない仲ではないミカヤを頼る方がいいと考えた。
だが、ミカヤはエリシャを自分が先ほどまで座っていた井戸のへりに連れて行った。そしてエリシャが怪訝に思った次の瞬間、エリシャを井戸の中に叩き込んだ。

物を言う暇もなかった。井戸は比較的深くはなく、水もたっぷりしていたのでそう大きな怪我を負うことはなかった。エリシャは井戸の中に浮かんでいた縄を括り付けた水桶にしがみつき、「何するんだよ!?」と言おうとした。
しかし、その言葉は言えなかった。上にある穴からのぞくミカヤの顔は真剣で、口に人差し指をつけてエリシャに何も物を言わないように命じていた。
「いい、そこでじっとしててね!?大丈夫、殺さないから」
そう言って、ミカヤは、その場から去って行ってしまったようだった。

ほどなくしてざわざわと物音がした。衛兵が来たのだとエリシャは感づいた。彼はぎょっとした。ひょっとしたら、ここが見つかるかもしれない。見つかってしまえば、逃げようがない。
だが、彼はミカヤの「じっとしていろ」と言う言葉を思い出した。今は、彼に賭けるしかなかろう。どうせここから逃げ出すというのも無理のある話だ。
井戸の上から覗き込む顔が見えた。エリシャは一瞬、心臓が跳ね上がった。だが、安心だということが分かった。彼を覗き込んでいたのは、衛兵は衛兵でも、エフーの顔だったからだ。彼はエリシャを安心させるようにウインクしながら笑って、またしても口に人差し指を当てていた。そして彼は脇を向き、「ここにもいません!」と叫んだ。
そして、それっきり、また衛兵は去ってしまったようで、周囲は再び静かになった。

静かになってから、しばらく時間がたっただろうか。
「もういいよ、あがってきなよ」と、上から聞こえた。ミカヤの声だった。彼は縄梯子を井戸にたらした。
エリシャがそれを伝いながら上がっていくと、ミカヤのほかにも縄梯子を押さえつけているエフーがいた。エフーのそばには、衛兵の服があった。
「これに着替えろよ。安全なところに案内するぜ」と、エフーは笑った。ミカヤは少しだけ、面白くなさそうな顔をしていたが。
自分は二人に助けられたのだ、と、エリシャは心の底から実感した。そして、安堵した。


正門から堂々と抜けて通されたのは、一つの家だった。
「ここは……?」
「ボクの家」
ミカヤはエリシャに、機先を制するように言った。
エリシャは面喰った。ミカヤの家は、かなり立派な家だった。それだというのに、奴隷や使用人はほとんどおらずひっそりとしていた。
「早く上がれよ」彼は言った。彼に案内されて、エリシャは言われるままに今に通された。
彼はそこで床に座り込むと、緊張が完全に途切れたからか、大きく息をついた。そして、「ありがとうございました……本当に、ありがとうございました」と、二人に言った。
「気にすんなよ、それより君、よく頑張ったな、偉い偉い」
エフーはケラケラ笑って、エリシャの背中を軽くたたいた。事実、ずっと緊張状態だったうえに冷たい井戸の中にかなりの時間放置されていたので、体力の消耗はかなりのものだった。
「よく、すぐに師匠から離れる決心をつけられたよな。なかなかできることじゃないぜ。戦場でもとっさの決断は必要でありながらも難しいもんだし、オレにも凄さは分かる。本当に偉かったな、エリシャ君。師匠を信頼してるんだな」
「ええ、まあ……」
「ボクとしては、君を助ける義理なんてなかったけど」ミカヤはぶすっとしていった。「でも君がいないと、エリヤが悲しむもんね」
「エリシャ君、気にしなくていいぜ。こいつ、君に妬いてるだけだから」
またしても馬鹿にするような笑いを浮かべるエフーに、ミカヤは、不機嫌な態度を隠そうとしなかった。
「エリシャ、こうやって助けてやったんだし、ボクの質問に答える義理くらい君にはあるよな?」
彼はまだ息の荒いエリシャに、そう詰め寄った。なるほど、とエリシャは思った。ミカヤはどうやら、エリヤの弟子になっている自分を嫌っているようだったことは覚えている。エリヤのためだけではなくそのことを問いただすために、こうやって救い出したという一面もあったのだろう。
だが理由がどうであれ、自分はミカヤとエフーのおかげで助かった。そのことには間違いなく感謝している。エリシャは首を縦にふった。

「じゃあ聞くけど……どうして、エリヤは君なんかを弟子に選んだの」
「それは……僕にもわからないんです」
エリシャは説明した。自分の故郷に、急にエリヤが来ていて、そしてそれはその土地で自分が連れ歩くものを見つけろと神がエリヤに命じたおかげだったという旨を。
「……それさ」
「え?」
「ボクの事だったかもしれないよ?」
ミカヤはエリシャを睨みつけるようにしていった。
「ボクも、君たちが立った次の日に君の故郷に来ていたんだ。エリヤを追って。ねえ、それ、ボクだったんじゃない?エリヤが合うべきだったのって、ボクのことだったのに、一日違いで君が間違えられたとか、そういうのってあり得ると思わない?」
「え、そうだったんですか……?いや、でも、その……」
「おいおい、それは無理があるよ、ミカヤ」エフーが横から茶々を入れた。「神様はエリヤさんに、お前を連れて行かないようにわざわざお前を名指ししていったんだろ」
「うるさいなあ!」ミカヤは怒ったように言った。
「なんでボクじゃなくて君なんだよ!?ボクのほうがずっとふさわしいと思わない!?君、なんなの!?ただの田舎もんだろ!?ボクは宮廷預言者なんだよ!どう考えたってボクの方が、相応しい存在じゃないか!なんで君なんかがエリヤに!」
「おい、宮廷預言者ってお前、神様の言葉なんて聞いたことないじゃないか」
またしてもエフーが脇から冷やかしの言葉を入れた。それを聞いて、ミカヤは悔しそうに唇をかむ。
「え、あの……」エリシャが言った。「あの……預言者って言う肩書なのに、神様の言葉を聞いたことがないんですか?」
「ないよ、当然じゃん!っていうか、宮廷預言者なんて誰ひとりとして、本物の神様の言葉なんて聞いたことないよ!まさか信じてたの!?預言者って名乗るからには神様の言葉聞けるって!?馬鹿なの!?やっぱ田舎もんだな!預言者なんてねえ、ただ知識や洞察力を駆使してそれっぽいこと言って、後は適当に王様をおだてているだけの集団だよ。エリヤみたいな……そう、エリヤみたいな本物の預言者、誰一人、いないんだから……」
エリヤは最初、いらだったような口調でまくし立てた。しかし、徐々に勢いを失って、か細い声になっていった。
「エリヤ……エリヤだけが、本物なのに……なんで、お前みたいななんでもない奴が……」
彼はサイズの合わない大きな上着で顔をぬぐった。かすかに、泣いているようだった。
「ミカヤさん……」
「うるっさいなあ!なんだよ!?」
泣き顔で彼を睨みつけるミカヤに、エリシャは思い切って話を切り出した。
「師匠から聞いたんです。なんであなたが、そんなに師匠にこだわるか、貴方の口から聞いた方が僕のためになるって。……教えてください。なぜなんですか?」
その言葉を聞いて、ミカヤは目をぱちぱちさせると、急に長いまつげに縁どられたその目を伏せて、震えだした。そして、言った。
「良いよ……見せてあげる。こっち、来て」
彼は立ち上がって、歩き出した。


エリシャはミカヤに案内され、ある部屋にたどりついた。そして、その部屋を見た瞬間、彼は小さく悲鳴を上げた。
その広い部屋の床は、茶色いもので塗られていた。そして、エリシャにはわかった、それは、古くなった人の血だった。
「どうしたのさ?」ミカヤはじっとりとした目つきでエリシャを見ると、言う。そして、その血の床にかがみこんで、手をついた。

「ここでね……ボクの父さんとおじいちゃんが、殺されたんだ。たくさんの仲間たちと一緒に。もう、ずっと昔の話だけど……」


ミカヤの話はこうだった。
ミカヤの家は、代々イスラエルの神に忠実に使える祭司で、王宮とのつながりもあり地位の高い家だった。だが、イゼベルによる宗教改革が始まった折、イスラエルの聖職者である彼の家族はもちろん攻撃を受けたのだ。
ミカヤが小さい時、彼らは幾度となくバアル信仰に改宗し、バアルの祭司となるように命令されていた。だが、彼の父イムラもその父、つまりミカヤの祖父もをそれをかたくなに拒んだ。
やがて、彼らはイゼベル直々に、祭司としての職を終われた。しかし、彼らはそれでもあきらめなかった。
宗教改革の逆風の中、以前としてイスラエルの神を信じ続ける仲間たちと一緒にイスラエルの神に対する祈りを行い続けていたのだった。ミカヤはそれを、ずっと一緒に見ていて、それに参加していた。

だがある日、悲劇が起こったのだ。

いつもの通りミカヤの父と祖父、それに仲間たちが礼拝をしていると、王宮の軍隊が急にやってきた。そして、静止する祖父と父に、彼らは剣を抜いて切りかかったのだ。おそらくだが、再三再四注意しても行動をやめないミカヤの家族は、逮捕するまでもなく殺すべきだと判断されたのだろう。
父親と祖父の血が飛び散るのを見て、幼いころのミカヤは、その場で気を失った。

夕方となって、ミカヤは目が覚めた。彼の目に映ったのは、屍となり果てた、見慣れた人たちの肉体だった。誰ひとりとして生き残ってはいなかった。血が床に大量に流れていて、ミカヤが立ち上がって歩くとちゃぷちゃぷという音が鳴った。
自分だけは、なぜか殺されなかったらしい。理由は分からないが、気を失った彼は、混乱状態の中すでに死んでいると勘違いされたのかもしれない。
顔や体を親しかった人の血にまみれさせて、ミカヤはその場で泣きじゃくった。差し込む夕日が血の海に映していたのは、本当に彼ただ一人の影だったことを、ミカヤは今でも覚えている、と言った。


彼はエリシャに言った。
「この外套ね。父さんのなんだよ。その時、ボクがはぎとったの。ねえ……ここのところ、見てみて。黒い外套だからわかりにくいけど、血が付いているでしょう。洗っても洗っても取れないんだ。だから、取ろうとするのもやめちゃった。だってよく考えたら父さんの血だもんね、洗い流しちゃうのなんてもったいないや」


ミカヤはさらに話を続けた。
不幸はそれだけでは終わらなかった。後日、王宮の軍隊が家を差し押さえにやってきたのだ。ひとり家に残っていたミカヤは、自分が生きているところを見られたら殺されると、父の外套を一つ身にまとったきりで、家を逃げ出した。そして、放浪の生活に入ったのだ。
彼は乞食になって、イスラエル中を回った。非常にみじめな、食うや食わずの日々だった。バアルの神殿の前で物乞いをしていたら、神殿男娼と間違われて襲われそうになったことすらあった。その時の事を思い出せば、屈辱で泣けてくる、とミカヤは語った。
おまけに、あの三年の飢饉がおこった。ミカヤはどうにかして、地獄のような三年間を生き残った。自分を一人ぼっちにしたくせに雨の一滴も振らせられないバアルを憎みながら。

そして、三年目、ちょうどミカヤがハイファで物乞いをしていた時、あの事件が起こったのだ。

アハブ王が配給のついでに、イスラエルの預言者とバアルの預言者の対決を行うと言うので、乞食は皆カルメル山に集まった。だが、ミカヤは彼らとは違う理由で集まった。イスラエルの預言者。それは、彼にとって非常に懐かしい存在だった。
ミカヤの家族が命を賭してまで守ろうとしてきたイスラエルの宗教をいまだ守り通すものがいる、と言うことを、その言葉の響きはさしていたからだ。

そして、現れた預言者エリヤは、バアルの預言者者たちを完膚なきまでに倒してしまった。
「主こそ神だ」と、彼はその場で、思わずつぶやいた。それは、彼の父たちがよく言っていた言葉だった。

炎に顔を照らすエリヤが、ミカヤにとっては、まさに救いに思えた。自分の身に起こった悲劇、自分の家族に起こった悲劇、それらすべてに彼は決着をつけてくれた。彼は、憎いバアルの預言者たちを殺し、仇をとってくれた。
誰も頼るものがいないと感じていたミカヤにとって、エリヤはまさに、自分が唯一信頼すべき存在だった。ミカヤにとってエリヤは救い主だった。

ミカヤは大雨の中、彼の後を必死で追った。そして、彼に頼んだ。自分を連れて行ってくれ、貴方にどうしてもついていきたい、と。そして、自分に起こったことをすべて話し、自分を救ってくれたのは貴方だけだ、貴方以外に信じられる人なんていない、一緒に居させてほしい、と言ったのだ。
だが、彼はミカヤの手を払って、厳しい口調でこう告げたらしいのだ。
「俺は一人で十分だ、誰もついてくる奴なんていらん!」
そして、雨の中ミカヤをおいて走り去っていったというのだ。

バアルの神官団は失墜し、宗教改革は終わった。ミカヤはそれを知って、サマリアに帰り、父と旧知の仲だったオバドヤを頼って家に戻してもらい、宮廷預言者として雇い入れてもらったのだ。だが、やはりエリヤをあきらめられず、長い間彼を探していたという。


「そして、出会ったら……誰もいらないなんて言ってたくせに、エリヤは君を連れていた、ってこと。わかるでしょ?不自然な話だって」
ミカヤの話が終わって、エリシャは目を白黒させていた。イゼベルの宗教改革が苛烈だったことは知っている。だが、彼の故郷であるアベル・メホラではそこまでの事件は起こらなかったので、彼は知らなかったのだ。彼は、イゼベルとバアル神官団を改めて恐ろしく思った。
「君は……どうせ、田舎でバアルを拝んでいたんでしょ?エリヤがああするまでさ。なんでだよ?なんで、このボクが、イスラエルの神を信じていたボクがエリヤに選ばれなくて、君なんかが?」

彼は床に突っ伏して泣いていた。エリシャは、何か声をかけたかったが、どうかければいいのかもわからなかった。
「エリシャ君」エフーが言った。ミカヤには聞こえないように、小さな声だった。
「気にしなくていいさ。何がどうあれ、選ばれたのは君なんだろ。こいつに同情するのはいいにしても、後ろめたく思う必要はないと思うぜ」


やがて、夜になった。ミカヤはエリシャに結局、一言も口を利かなかった。不意に、扉を叩く音が聞こえた。
ミカヤは、それを見に出て言った。そしてエリシャのもとに戻ってくるなり、少し毒のある口調で言った。
「エリシャ……エリヤが迎えにきたよ、君の事」

玄関のそばに居ると、確かにエリヤが通されていた。エリヤは「エリシャ、無事でよかったぜ!」と、彼に笑いかけた。
「鴉から聞いたんだ。ミカヤ……本当に、ありがとうな、こいつを助けてくれて」
「……どういたしまして」
ミカヤは不機嫌そうにそう言う。
「行っちゃうの?エリヤ」
「……ああ。早く逃げねえと、捕まるかもしれねえし」
「ボクなしで?」
「……本当に、すまないとは思ってるよ」
エリヤはミカヤに気まずそうにそう言った。
「……行ってらっしゃい」
ミカヤは短くそうとだけ言うと、エリヤとエリシャを送り出した。だが、エリシャをすこし引き留めると、彼に言った。
「……あのね、君、神様の事、好き?」
ぼそぼそとした口調だった。エリシャは一瞬のち「はい」と言った。
「……そう。行ってらっしゃい」
その言葉が、今度こそ最後になった、エリシャを連れたエリヤの姿は、たちまち闇に消えていった。


「気を取り直せよ、ミカヤ」
エフーはミカヤに励ますようにそう言ったが、彼は「うるさい黙れ」と言って、目をつぶって片手でそれを覆ってしまった。
だが、その時だった。

ミカヤの脳内に、急に爆発するように光景が駆け巡った。見たことのあるものではない。謎の光景だ。それがまるでミカヤの体全体を刺し貫くような衝撃をともなって、彼の脳裏に展開されたのだ。ミカヤは思わず痛みの声を上げ、驚いたエフーは「どうした!?」とあわてて問いかけた。

あれはアハブだ。ここは戦場だ。だって、皆鎧を着て、剣や弓を持っている。ミカヤにははっきりと見えた。戦場で、アハブが、矢傷を負って、息を引き取っているところを。

「アハブが」
「え?」
「アハブが、戦死する」
ミカヤはそう、誰に言い聞かせるでもなく、むしろミカヤ自身の口が誰かによって動かされているように、ぼそりと呟いた。

PageTop

feat: Eve 第二話


イヴはここのところ、気になるものがあった。ある種類の木の上になっているそれは、明らかに果物である。
赤くて丸く、アダムが好むベリーの実よりもそれはずっと大きかった。ずっしりと木の枝に生えたそれを、イヴが指で叩いてみるとベリーの実とは似ても似つかないほど固く、果肉に食い込むかと思った指は簡単に弾き返された。指で叩いた衝撃で、それも小さくだがゆらゆらと揺れた。
「アダム。これ、なに?」
イヴはある日、隣に居るアダムにこう言った。アダムは「林檎だ」と返した。
「林檎。アダム、これ食べないの?」
アダムはイヴのその言葉を聞いて「食わないよ、何言っているんだ」とぶっきらぼうに返した。
「なんで?」
「当たり前だろ。ベリーは柔らかいけどそれは固いじゃないか。そんな固いものがうまいはずがない」
「でも、神様はどんな木の実でも食べていいって言ったんでしょ」
「お前は生まれたばかりだから知らないんだよ、イヴ。この世には食べられない木の実はたくさんあるんだ。硬くて噛めないものもあるし、苦くてとても食べられないものもある。ただ、園の真ん中にある木の実と違って食っても罰せられないって言うだけだ。俺がすでに食べられて美味いものを知っているんだから、それでいいじゃないか」
「アダムは林檎、食べたことあるの?」
「ないよ、固いものはどうせ食えないから」
アダムのその言葉で、その会話は終わった。


イヴはその日の昼間、一人で取り残された。アダムはいつもの通り彼女を置いて仕事とやらに行ってしまった。神は、いくらでも新しいものを作るのでアダムの仕事はなくならないというのだ。
頭上から聞こえてくる音に合わせて上を向けば、枝の上で小鳥たちが歌っていた。彼女が彼らににっこり笑うと何羽かはそれに気が付いたらしく、歌のトーンを変えて歌うことで彼女に挨拶した。イヴはその枝にも、例の木になる木の実、林檎が付いていることに気が付いた。
イヴはそれをじっと見つめる。小鳥たちは全く林檎がそこにあることは意に介さず、ただ歌っているだけだった。
「(やっぱり食べられないのかしら?)」とイヴは思う。確かにアダムの言うとおり、何度見ても触れてみてもアダムの好むような木の実のような透明感のある柔かさはない。アダムはベリーやイチゴ、桃などが好きなのだ。
しかし、皮の上からはとても甘くておいしそうなにおいが漂っている。それに真っ赤につやつやと輝いている様子はとてもきれいだとイヴは感じていた。
無論そのこともアダムに言ってみた。しかし、甘いにおいがすることや見た目がきれいなことが美味さに一致するとも限らない、と言うのがアダムの言葉だった。たとえば、花は甘いにおいがするし見た目も果物より色とりどりで美しいが、花はどれも苦いし食べられたものではない。それよりはいくつかの一見すると地味な野草のほうが食べられるものだ、と彼は言うのだ。自分がまだイヴのように生まれたてだったころ、花を食べてそのまずさに辟易したとアダムは少し決まりが悪そうでありながら、それでも彼女を説得するために語った。
イヴは何とはなしにその場に腰かけ、当のリンゴの木に背中を持たれかけさせた。エデンの上空に輝いている太陽は今日もやさしく光を降り注がせていて、イヴの小柄な体を温めた。彼女の体や眼を必要以上に傷つけるような強い光は、全て林檎の木をはじめ、数々の木の派が影になってさえぎってくれた。
彼女はぼんやりとする。小鳥はしばらくの間、歌を歌ってくれていたが、やがて歌の時間も終わったのか、まるで雑談をするように不規則な泣き声でお互い話し始めた。鳥の言葉のわからないイヴは彼らから仲間はずれにされたようにも思え、彼女は少し、暇だと感じ始めていた。
と、その時である。まるで彼女が暇だと思ったのを嗅ぎつけたかのように、現れたものがあった。
「やあ、こんにちは、イヴ。暇そうだな」
そう言って彼女の目の前に現れたのは、蛇の頭だった。良く見てみれば、彼は彼女の頭のすぐ上にある枝から、そのほど長い体を垂らして、頭を丁度イヴの顔の前に来る位置に持ってきていたのだ。
彼が現れたのを見届けてか、小鳥たちは歌うのをやめた。そして、いっせいにではなく、少しずつこそこそと飛び去って行った。蛇はそれを特に気にはしていないようだった。
「降りてきてもいいか?」
「うん、どうぞ」
イヴがそう言ったのを見届けると、蛇は自分の体を幹から離し、下に落下した。そしてイヴのお腹のあたりに着地すると、彼女の体を伝うようにして進み始めた。体温が冷たくひんやりした彼の体の感触を、イヴは少し面白く思った。
「何を考えていたんだ?」
やがて彼女の体を離れて地面に降り立った蛇は彼女の隣でとぐろを巻くと、金色の鱗を木漏れ日にキラキラと反射させながらそう問いかけた。
「んー……林檎を見てたの。アダムがね、林檎はたぶんまずいから食べちゃダメだって言うのよ……だから、食べてまずい木の実ってあるのかなって」
「あるな。間違いない」
イヴの問いに、蛇の方は少しの間もいれずにはっきりと答えた。
「まずい木の実って、食べたことないんだもの」
「そうか。エデンの園にだってありふれているがな、そんなもの」
蛇は少し意外そうに、また呆れたとも言った調子で彼女に語りかけた。「本当に食べたことないのか?」と彼は疑わしそうに言ってくる。
「うん。だってねアダムはいつもおいしいものばっかり持ってきてくれるから」
イヴはそう言った。
日差しはどんどん暖かくなって、林檎の木の実は一層甘いにおいを振りまいてくる。蛇はその言葉にくすくす笑った。イヴがなんで笑うのかと聞くと、蛇は「いや、君はほんとにアダムが好きなんだな」と言った。
「えっ?」
「ああ、いやなんでもないよ。君はアダムに大切にされているんだな。だって奴は、君がまずいものを食べないように気を使ってくれているわけだろう」
その言葉を聞くと、イヴの方も彼と同じく笑い顔になった。
「うん!アダムは優しいの」
「それはよかった。優しい伴侶を得るというのは幸せなことだよ、イヴ」
彼は木々の葉っぱの間からから漏れてくる光を二つの眼でじっと見つめた。「優しい神や、天使に守られているのと同じくらいにね」
彼は尻尾でイヴをつつくと、「日向に出てみないか。ここは少し寒いんだ」と言った。イヴは特に寒いとも思わず、むしろ涼しくて気持ちがいいとも思っていたが、彼の言葉に素直に従って体を動かした。鳥たちがもう一羽たりともいなくなってしまったせいで、彼らの動くカサカサとした音がよく聞こえた。
すぐそばの日向に出ると、上空で天使たちが飛び回っているのがイヴにははっきりと見えた。何人も、何十人もいるようだ。白く光り輝く翼をはためかせ、彼らは歌っているようにも見えた。だが、鳥たちのようにそれは分かりやすい音として彼女の耳には入ってこない。しかし、それでも天使たちは歌っているのだった。
「あれは、神を賛美しているんだ」
蛇が、彼女にそう言った。イヴはそんな説明を聞きつつ、あの中にミカエルやガブリエルもいるのだろうかと考えた。
「なんで賛美するの」
「奴らの仕事の一部だからだな。アダムが、俺や君や、すべてのものに名前を付けるように、奴らはそれをするために生まれてきているからだ」
羽ばたく天使たちの真っ白な羽毛が、上空の風にあおられて宙に舞っているのがイヴには見えた。彼女はそれを捕まえようと、上に向かって手を伸ばす。しかし、天使の羽は彼女の手に届く前にすぐ光に溶けて、見えなくなってしまうのだった。
彼女は少しがっかりして、手を引っ込める。それを見て、また蛇は薄く笑った。今度は、そんな彼女を少し滑稽に思うと言ったように。
彼はそんな表情のままイヴに顔を近づけると、言った。
「イヴ、少し待っててくれよ」

蛇するすると急にその場を離れて行ってしまい、茂みの中に隠れる。イヴは陽だまりの中に取り残されたが、不思議と寂しいとも感じなかった。ただじっとその場に座っていて、昼下がりの暖かい光の熱の中、蛇の帰りを待っていた。
やがて、彼が隠れた茂みから、きらりと金色の光るものが頭を出した。蛇の頭だった。
「蛇さん!」イヴは彼の名前を呼んで、茂みに駆け寄った。茂みから出てきた彼は、口に一輪の花が付いた茎を加えていた。とても大きな花で、真っ白で大きな花弁を円錐状に開いていたが、花弁の先端は滑らかにカールしている。花弁に収まってる大きなおしべとめしべは茶色と黄色で、とても綺麗な色の取り合わせだとイヴは思った。イヴはこの花に、少し見覚えがあるように思えた。エデンの園には時々映えている花だ。しかし、名前を聞くのは思えば初めてだった。
蛇は頭を突き出して、その花をイヴの手にさし出すようにする。イヴは素直にそれを受け取った。
「それを上げよう」口が自由になった蛇は彼女に笑って言った。
「ありがとう。綺麗なお花ね」
「百合の花だよ」蛇はじっと顔を近づけて百合を見るイヴにそういう。
「気に入ってもらえたかな?」
「うん、すっごく嬉しいわ。ありがとう、蛇さん」
イヴは満面の笑みで、蛇に礼を言う。蛇は「どういたしまして」と笑った。
「どこに咲いてたの?私も見たい」
「なら一緒に行こうか」と蛇は、くるりと細長い体の向きを変えて歩き出した。イヴは、片手に百合の花をしっかり握って、彼の後を追いかけた。


着いたのは、イヴが来たことのない場所だった。広場になっていて、真っ白な百合の花がぎっしりと、所狭しと咲いていた。イヴはその光景を、とても美しいと思った。
「ここに来たの、初めて」イヴは喜んでいう。「ありがとう、蛇さん」
「そうか。そう言ってもらえて俺も嬉しいよ、本当に」
イヴは夢中になって、百合の花畑の中に飛び込み、真っ白なその花弁の造形の美しさを楽しんだ。ふと、背の高い百合に紛れて蛇の姿が見えなくなってしまったので一瞬心配になったが、それは杞憂だった。蛇はするすると彼女の胴体を這いあがって、小さい体を彼女の肩あたりに巻きつかせた。
百合に見とれるイヴに、蛇は「イヴ。エデンには、きれいなところが沢山あるぞ」と言った。
「どうせアダムのように仕事がないんなら、それを見て回ればいい。俺が連れて行ってやってもいいし、お前が自分で行っても、天使どもに連れられて見に行ってもいいんじゃないか。そうすれば、少なくともアダムに構ってもらえずとも退屈ではなくなるはずだ」
「うん、そうかもね」
イヴは笑って言った。真っ白な百合の花が、ほんのりと紅色に染まっているのが見えた。ふと気が付けば、もう日は赤くなっている。夕方だ。蛇の金色の鱗も、少し紅色に輝いていた。その様も綺麗だ、とイヴは思った。
ふと、夕霧をかき分けてやってくる存在があるのに彼女は気付く。「ガブリエル!」と、彼女は手を振って、その近づいてきた天使を呼んだ。

「こんにちは、イヴ。素敵なところを見つけたわね」
「蛇さんが教えてくれたの」
イヴのその言葉と同時に、彼女のふわふわしたボリュームのある髪に半ば埋もれたようになっていた蛇が金色の頭を出した。
「久しぶりだな、ガブリエル」
「あら。こちらこそ久しぶり。イヴにいいところを教えてくれたのね。わたしからもお礼を言わせて頂戴」
ガブリエルがそう笑う。彼女の顔や翼もを受けて、赤く染まっていた。
「蛇さんがね、私にこれくれたの」
イヴは蛇が彼女に挙げた一輪を見せた。ガブリエルは笑って「良かったわね。とても綺麗よ」と言った。
「私も、ガブリエルに上げるわね」
イヴは、近くにあった百合の花の一輪を、丁寧に摘み取った。プチリと言う音とともにそれが茎から離れると、彼女はガブリエルのそれを手渡す。ガブリエルは喜んでそれを受け取り「有難う」と言った。
その時になって初めて、イヴは気が付いた。ガブリエルは自分とは違い、何か薄いヒラヒラしたものを体に纏わせている。いうなればドレスのようなものだが、イヴはドレスと言う概念を知らない。彼女にとってそれは何処か、彼女たちが今立っているよりもっと美しく、もっと純粋な白百合の花園を着ているようでもあった。
ガブリエルはイヴからもらった一輪をその自らが纏った花園に刺した。美しい白い百合はあっという間にそこに溶け込み、ガブリエルの神秘的な美しさを引き立てるものの一つとなった。
「もうすぐ夜になるわよ、イヴ。そろそろアダムのところに帰りましょう。蛇、貴方も一緒に来たら?」
「そうさせてもらうよ。どうせ暇だからな」
太陽は落ちかけていて、すでに薄暗くなっていた。ガブリエルは彼女の周囲を明るく照らしていた。


帰る途中、ふと、甘い香りがイヴの鼻をくすぐった。林檎の匂いであることは分かった。林檎は暗い闇の中葉っぱと一緒に溶け込んでいたが、よく注意をこらしてみるとガブリエルの発する光を反射しているのが見えた。
「どうしたの?」ガブリエルが言う。
「あの林檎、とってみたいなって」
「あら、取ればいいじゃない。良いわよ。待っているから」
ガブリエルはにっこりとそう笑った。「あの、でも……」と、イヴは少し迷う。アダムは林檎なんて食べられないと言っているのだから。しかし、今度は彼女の肩に乗った蛇が、こう言った。
「別にまずくてもいいじゃないか。まずかったらそれ以上食べなければいいだけだ。食べたいんなら、食べてみるのが一番いい」
蛇のその言葉で、イヴもようやく決心がついた。
一番低いところになっている林檎の実は、イヴの低い背丈でも、取るにあたって背伸びをする必要はなかった。イヴは赤くて丸いそれを静かに枝から離し、口をつけた。
確かに、固い。ベリーのように柔らかく歯が食い込むことは全くない。しかし、鼻を近づけたことで、林檎の美味しそうなさわやかな香りはより一層漂ってきた。
彼女は表面に歯を立てて、思い切って、それを下ろしてみた。しゃくっとした感覚と一緒に、林檎がかみ切れたことが分かった。
果肉はやはりアダムの好きな果物のように柔らかくはない。しかし、思っていたほど固くもないと分かった。そして何より、林檎は、その匂いと同じように、とてもさわやかで甘く、おいしいものだとイヴは感じだ。
「おいしい!」か彼女は素直に、そう言った。
「ガブリエル。蛇さん、これ、すごくおいしいわ」
「よかったわね、イヴ!」ガブリエルは満面の笑みでそう言った。蛇はするすると彼女の腕を伝うと、彼も林檎に噛みつき、削り取ったひとかけらの果肉を丸呑みにした。
「ああ、うん、確かに。よく熟れてる」
「蛇さんも、食べたの初めて?」
「いや、別に。俺は何回も食べてるよ」
「え?」イヴは言う。「じゃ、なんでおいしいって言ってくれなかったの?」
「別に聞かれてないからな」
蛇は悪戯っぽくケラケラ笑った。それを見て、ガブリエルも先ほどまでの満面の笑みを苦笑いに変えた。


アダムが彼らの寝場所にしているところに帰ってきたとき、イヴはガブリエルと蛇と一緒にすでに帰ってきていた。
だが、アダムの目を引いたのは彼らではなく、イヴが大量に林檎を持ってきていることだった。「おかえり、アダム!」と、彼女はぴょんと彼に飛びついて言う。そして、林檎の実を差し出した。
「これ、今日のお夕飯!私がとってきたの」
「は!?」アダムは素っ頓狂な声を上げた。
「硬くて食えないって言っただろ、何回も」
「そんなことないわ、結構おいしかったわよ。私、食べたもの」
その言葉を聞いて面食らうアダムに、イヴはさらに林檎を差し出した。
「ねえ、騙されたと思って食べてみてよ」
アダムは少し対応に困りながら、視線をガブリエルと蛇のほうに向ける。しかし彼らも、どちらかと言えばイヴの方に味方しているのはその視線から見て取れた。
彼は観念して、イヴの手から林檎を一つとるといやいやと言った風に口を開けて、それに歯を突き立てた。そして気持ちのいい音とともに、その少し固い果実を噛み切った。
「……」
「どう?おいしいでしょ」
イヴがそう言うと、アダムは目をそらすようにして、もう一口林檎を食べる。
「あー……うん。思っていたより、まずくはないな」
彼は恥ずかしそうにそう言った。そして、食べることはやめなかった。止めるどころか彼は視線を脇にそらしたままもう一口、さらにもう一口と林檎を食べ続けた。イヴはそれを見て不思議と温かい気持ちになり、笑いがこぼれて、自分も彼と一緒に林檎を食べ始めた。

PageTop

feat: Solomon 第四十三話


モリヤ山では、妙なことが起こっていた。
全ての作業場で、前の日にやったよりも作業が進んでいるのである。むろん、総監督のアドニラムをはじめ誰もがそれを不審に思った。しかし、いくら探してみてもものがとられていたり、こっそりと建築物が壊されていたり傷つけられていたりすることなどなかった。ただただ、作業が進んでいるのである。
異常なことだ。手放しで喜ぶ者もいるにはいるが、そう気楽に喜べないものの方が大多数だ。彼らはそれを気味悪がり、何人かは作業場をやめて故郷に帰ろうとすらした。得体の知れないものがいる職場になどいられないというのだ。
そのことはソロモンの耳にも入り、彼も不審に思ったが、はっきりとした理由がつかめるまで作業は続行されることが発表された。誰もが怯えるなり、面白がるなりしながら建築作業にいそしむ中、一人だけ、まるで何事も起こっていないかのように一切意に介さず、ただ黙々と自分に与えられた仕事をこなす男がいた。ヒラム・アビフであった。


公務を早くに終えたソロモンは、久しぶりに趣味のシクラメンの世話でもしようかとお見たち、王宮の庭に出た。ソロモンのシクラメンは、今や、王宮中に色とりどりに咲き誇っていた。日の当たる所でも、当たらないところでも、変わらずにそれは生き生きと咲いた。
庭師は雇ってあるが、それでも時々はソロモンが世話をしたいとも思う。何にせよ、花を眺めているときはソロモンは本当に珍しく幸福な気持ちになれた。こればかりは、11歳のころから自分を裏切らない。ソロモンはほとんどの花は好きだったが、やはり中でも群を抜いてシクラメンが好きだった。
空は晴れていて、ソロモンの眼にはまぶしすぎた。庭にしいた石に反射する光すら彼の眼に突き刺さった。彼はしっかりと目にマントの影を落とし、目を細めつつ、庭を散歩した。最近生まれた縮れた花弁のシクラメンを、ソロモンは非常に可愛らしいと思った。
「(ベリアルも呼ぼうか)」
彼はそう思い立ち「ベリアル?」と彼の名を呼んだが、彼が来る気配はない。彼は仕方なく、ベリアルと一緒に散歩をするのは諦めようと思った。
「ベリアルって何?」
ソロモンが歩き出した途端、後ろからそのような声が聞こえていた。振り返ってみれば、ナアマがそこに立っていた。侍女などは付けず、一人きりである。
「なんでもいい。俺にとっては非常に大事な奴だ」
「あらそう。ものじゃなくて人なのね。なんでこんな誰もいないところで呼んだのかは知らないけど」ナアマはいぶかしげな眼でそう言い、次に、彼女の首に下がっている首飾りを揺らして言った。
「あなた。これ、どう思う」
ナアマの首飾りは、今まで彼女がつけているのを見たことのあるものではなかった。だからおそらく、新しいものなのだろう。不思議なことに、プライドの高い彼女に似合わず、たいして豪華な代物ではなかった。くすんだ銀色の、丸い飾りを数枚細い鎖でつづり合わせたものだった。よく見ればそれは、銀貨であることが分かった。
「みすぼらしいな。あまりお前には似合っていない」
ソロモンは率直にそう言った。ナアマに対する面白くない気持ちを抜きにしても、確かにあまり似合ってはいなかった。だが彼女はそれにどこか皮肉っぽい微笑を浮かべて「あら、そう。それはそれは、気が付かなかったわ。ご忠告有難う」と言い、そのまま去っていった。
「(変な女だ)」
ソロモンはそう思い、再び縮れた花弁のシクラメンに向かい合った。彼の愛らしさを楽しむとともに、ソロモンは少し、ベリアルの事が心配になった。ベリアルはここのところ、自分のそばに姿を現していない。


ソロモンは結局、暇に任せてモリヤ山に向かうことにした。視察の日ではなかったが、例の妙な事件について少し調べる必要がある。
小さめの屋根つきの馬車に乗って現れた王の姿を見て、アドニラムは当然驚いた。ソロモンは例の事件について詳しく聞きたいと言った。
アドニラムは王に詳しくそのことを説明した。証人ならば腐るほどいる。絶対に半ばにして詰所に帰ったはずの作業が、朝起きたら全て終わっていたというのだ。
彼の言うとおり、確かに作業現場に何やら悪さをしたわけでもないということが分かった。それどころか、夜のうちに進んでいた仕事は非常に素晴らしい出来栄えだった。何かのもの盗りや陰謀に対する目くらましとして、それは上出来すぎるようにも思えた。ヒラムの仕事より少し下か、同じと言っても遜色ないほどだと、ソロモンの目にはそう映った。
だが、こうして自分の目で見るとやはりいよいよ不気味であるともソロモンは思った。
「陛下、無断で作業場を離れた者もいますが、いかがいたしましょうか」
アドニラムがそういう。ソロモンは「…連れ戻してもどうせボイコットするだろう。逃げる者は逃げるままにしておけ」と言った。
彼はふと、ベリアルが言っていたことを思い出した。真夜中に、誰かが作業をしていると。
「おい、貴様。仕事が終わって夜になった後、誰かがこっそりと仕事を進めている……そのようなことはないのか?」
「陛下。そのようなことがあれば、いくらなんでも誰かが気が付くでしょう」アドニラムは言った。
「それに、誰が喜んでそのようなことをしましょうか?給金ももらえないというのに。そんな人目をはばかるように、慈善活動をするなんて」
「……そうだな。すまん。荒唐無稽なことを言った」
ソロモンはアドニラムとそのように話しながら、作業場全体を歩き回った。もうすぐ夕方とはいえまだ日は明るいし、炎天下である。人が大勢いて、火を使った仕事すらある。そのためかなりの熱気があった。労働者たちは皆裸のような格好でいるものの、ソロモンは体中黒いマントにくるまっているのだから、暑苦しく思っても仕方がない。視察の時よりも隅々を詳しく見て回っているうえ、おまけに傾斜もきつく荒れた道なので、ソロモンはいささか体力を消耗した。体力のなさは自覚するところだ。だが、まさか臣下であるアドニラムの前でそう弱々いところを見せるわけにもいかない。耐えることは得意だ。ソロモンは顔色一つ変えなかった。
と、その時、目の前にある人物が現れた。
「なんだ、ソロモン王。来てたのか」
そう言ったのはもちろん、ヒラム・アビフだった。

「ヒラム」ソロモンは言う。
「ちょうどよかった。お前からも聞きたい。聞いているだろう。夜に何者かが作業をしているという話を」
「聞くには聞いてるぜ」
「お前、何か心当たりはないか」
「……いや、ない」
ヒラムはソロモンの問いに少し間をおいてから、抑揚のない声でそう答えた。彼はソロモンから目をそらしていた。
「本当か?」ソロモンは詰め寄る。あからさまに怪しい。
「知らんと言ったら、知らん」
「この作業場で、最も仕事に打ちこんでいるのはお前と聞いているからな」と、ソロモン。「何かしら、知ってはいそうなものだが」
「……本当に、知らない。しつこいぞ、ソロモン王」
彼はごつごつした手をソロモンの前に差し出し、ひらひらと横に振った。
「それよりも、早く帰るか休むかした方がいいんじゃないのか」
「は?」
「あんたは疲れているみたいだから」
ソロモンはその言葉を聞いて、少々決まりが悪くなった。アドニラムまで「陛下、お疲れですか?」などと聞いてくる。
「うむ、まあ……そうだな。慣れぬ熱気のある場所で、実際少しばかりくたびれた」
「お、お気づきもしませんで……」
「よい。それよりも休ませてもらえるか、アドニラム」
慌てるアドニラムに、ソロモンはどうにか冷静さを保とうとして言う。
「は、国王陛下が休むに値する場所などは……」
「日差しがしのげて水が飲めればなんでもいい」
そう言うソロモンに「かしこまりました」と言ってアドニラムは彼を休憩所に連れて行った。そしてそれよりも早く、ヒラムは自分の作業所に戻っていってしまった。


休憩所の一つになけなしのクッションを敷きつつ、アドニラムはソロモンに休むことを勧めた。そして、他の作業員たちにその休憩所は使わないよう指示を出しに行った。
出された水を飲みながら、ソロモンは考える。やはり、ヒラムが怪しい。隠し事をしているのはよくわかった。しかし、簡単に話しもしないだろうということも同時にわかっていた。別に今のところ困ることではない、むしろ起こっていることだけを見れば好都合なのだが、このままでは労働者たちのモチベーションに悪影響ばかりを与えている。問題解決が必要だ。
さて、どのような方法が、とソロモンは考えあぐねた。考えていると、そのうち、アドニラムが戻ってきた。
「アドニラム、お前に聞きたいことがある」
彼が何か言う前に、ソロモンの方からそう口を開いた。

「ヒラムの事ですか?」アドニラムはソロモンの問いを反芻する。
「奴がよい働きぶりをしているのは知っているが、どれほどのものなのかまず、今一度聞きたい」
「は、それはもう」アドニラムは謹んで答え始めた。「彼は青銅細工も、彫刻も、木工も、石細工も、鳶の仕事もこなしますからね。今では本当に、あいた仕事を片っ端から彼に任せていますよ」
「相変わらず不平は言わないのか」
「彼にとっては、仕事以外のものはないのでしょうな。職人仕事をしているときのみ生きられる、そんな人間ですよ」
ソロモンは分かる気がする、と思った。ましてや近場でヒラムを見ている彼なのだから、なおさらそう思うだろう。
「アドニラム。夜の作業の件だが、正直、お前はどう思う?例えば、ヒラムがやっているとは思わんか?」
「……本当の事を申しますと、何人かの作業員はそんな噂を流しておりますね。私も……まあ、信じているというほどでもないのですが、ヒラムならばやりかねない、とも思いますよ」
「ふむ……そうか。よし!」ソロモンの頭に一つ、ひらめくものがあった。
「アドニラム。件の事については不明瞭だが、ここはひとつヒラムがやっているのだという暗黙の了解を浸透させておいた方がいいな」
「それは分かりますが、王よ。どのように?」
「アドニラムよ、私はヒラムに一つ位と権利をを与えようと思う。総監督であるお前のプライドが私の言うことを聞けばの話だが」
アドニラムは慌ててその場にひれ伏し「無論、国王陛下のご命令とあらば」と、まだ内容も聞かないうちからそれを請け負った。ソロモンは彼の頭を上げさせ、そのことを話し始めた。


やがて夕方になり、作業の終わりの時を迎えた。アドニラムは各般の班長に連絡し、作業に従事している是認を呼び集めさせた。
班ごとにアドニラムの前に整列する中、一人ブラブラとやってくる男がいる。言うまでもなく、ヒラムだった。
「今日もご苦労だった。解散せよ、と言いたいところだが」アドニラムは大勢の作業員たちを前に大きな口調で言う。「この事業を我々にお命じになられたソロモン陛下がおわしておる。陛下は我々に発表するべきことがあるとのことだ。皆のもの、ひれ伏せ」
アドニラムの言葉とともに、黒いマントをかぶったソロモンが夕日の中にさっそうと、マントの裾を翻して現れた。おびただしいまでの労働者たちは一世にひれ伏す。ヒラムも、ぼうっとしてたのか少し遅れてだが、その場で同じようにした。
「アドニラム。ヒラム・アビフをここへ」
ソロモンはわざと、聞こえるようなはっきりと通る声でアドニラムにそう言う。少しもせずに、ヒラムが連れてこられた。
「ヒラム・アビフよ」
彼はヒラムとその場にいる職人全員に言い聞かすように言った。
「ここに居る私の忠実な臣下アドニラムより、お前の働きぶりを聞いた。ここに居る労働者共も、分かっていることだろう。その働きをたたえ、また、お前のその才能を今以上に生かすために、私はお前にエルサレム神殿建設総指揮権を与えようと思う」
夕暮れの空気の中響き渡るソロモンの声。
ヒラムは「そう……指揮権?」と、眉を顰めながら少し理解に困ると言ったような顔をした。
「労働者の管理は、今まで通り総監督のアドニラムにやらせる。しかし、アドニラムは職人としてはヒラムに劣るものである。よって、明日より、全ての制作物と作業の出来栄えは、ヒラムの責任とする。ヒラム・アビフ。お前にはこの神殿を最高によい出来栄えのものとするため尽力する義務を課そう。ヒラムが気に入らぬと言えば、貴様らは作り直すがよい。ヒラム、お前も彼らがそれをできるように、その人並み外れ優秀な手を貸すがよい。そして、お前はその仕事のため、いくらでも好きなだけ、好きなように自分の仕事をする自由を課そう。お前の職人としての心が赴くままに、働くがよい。お前がそれで仕事に手を抜くような人間ではないということは、私やアドニラムをはじめ誰もが確信しているところだ」
そう言ってソロモンは、じっとヒラムを見据えた。そして、大きく息を吸ってから言う。
「ヒラム・アビフ。お前はわが親愛なるティルス王からイスラエルに送られて以来、実によい働きぶりをしてくれている。昼夜を問わず、お前は実によく働く、職人の鑑のごとき男だ。お前にはふさわしい地位であり権利であると私は思っている。受けるか、ヒラム・アビフ」
ソロモンがふと気が付けば、彼のその言葉に、ヒラムは目をキラキラさせていた。その現金さに、ソロモンは苦笑すらこぼれた。
「ああ、もちろんだ、ソロモン王」
「皆のもの!今を持って、ヒラム・アビフには建設総指揮権が付与される。明日からは私の言ったとおり、ヒラムの出す仕事上の指示には従うがよい。良いな!」
そう言い終わると、ソロモンは再び、下がっていってしまった。アドニラムは彼らの顔を上げさせ、改めて解散の命令を出した。


なるほど、とアドニラムは感心した。
彼がさらっと言った「昼夜を問わず」と言う台詞、夜の事件を気にしている者達には、なかなか衝撃的だっただろう。要するに、ヒラムがこっそりと山に戻って作業をしている、と、王自らの口から明かしたようなものだ。
ヒラムの仕事熱心さと技術力なら、どこか信じられるところもあるのだ。加えてソロモンの話術はこういう時に本当に巧みで、すぐに心に入って行ってしまう。
おまけに、確かに指揮権と言うのは彼にぴったりだと思った。今でも複数の仕事にかかわっている万能の彼に、全ての仕事を負わせる現実的な方法だ。これを持って、神殿建設は確かにもっと質の良いものとなるだろう。労働者の方からしても、やはり班の仲間でもないものに指図をされるのと王直々にその地位を賜ったものから指図されるのとでは感じ方も違う。それにヒラムが明らかに人を使う事は不得手な手前、労働者の管理は今まで通りアドニラムに、仕事の事はヒラムに、と言うのも、ヒラムにとっては気軽なことだろう。ごく自然な流れで問題を解決しつつさらに良いおまけまでソロモン王は付けてしまった、と、アドニラムは思った。
とにかくも、これで夜の作業についても、前のように大きな問題になることもないだろう。アドニラムはソロモンを見送りながら、彼を誉め、また、感謝の言葉を述べた。
「陛下、ふもとの場所は避けて通ったほうがよろしいかと」彼は、馬車に乗ろうとするソロモンにそういう。
「作業帰りの者共でごった返しておりまして、とても馬車は通れません」
「そうか。良い道はあるか?」
「ここから左へ」
「礼を言う。ご苦労、アドニラム」
それだけ言って、ソロモンは馬に鞭を入れた。彼はすぐ去って行って、アドニラムはそれを見送った。


「王妃様。……また、今夜も?」
「平気よ。バレはしないわ。あの人は、そんなことに気を配る性格じゃない」
外出しようとするナアマに、彼女の侍女が渋い顔をする。だが、ナアマの意志は揺るがないようだった。
「お前、適当にごまかしておいて頂戴。……それじゃあ、行ってくるわ」
「……行ってらっしゃいませ」
こっそりと裏口から人目を避けるように出ていった彼女は、わざと安い衣装に身をくるみ、顔を薄いベールで隠していた。
ソロモンがヒラムを総指揮者に任命すると言った、少し前の出来事だった。


夜が更け、ソロモンは自分のバルコニーからモリヤ山を眺めた。今日も相変わらず山のふもとが明るい。
だが、この前とは違うところがあった。彼の部屋からでも分かるほど、かがり火が大量にたかれていた。
まさかヒラム、好きなように作業をしていいと言われるや否や、さっそく夜に作業をし始めたのか、とソロモンは少し愉快に思った。だが、なんとかこれで作業員たちを落ち着かせるために言った話も本当の事になったのだ、喜ぶべきだろう。

「……あー……」
そのような、気の抜けた声が部屋の中から聞こえてきた。何事だとカーテンを翻し部屋の中に入ると、ベリアルが寝台の上でぐったりしていた。
「ベリアル!?」
「あー……疲れた。ソロモン。疲れたよ。ちょっと君の寝床貸してもらうよ。きもちいいんだもん。寝心地良くて」
「ど、どうしたんだ?ベリアル」
「……別に……」
ベリアルは気力のない声で、ソロモンの返答に返した。
「ボクにもさぁ、君の知らないところでの仕事くらいあるよ……そんだけ」
「そうか……」
ソロモンはそう返して、自分は椅子に座りこんだ。
「お前は天使だろう。そんなに大変なのか」
「天国って楽なとこだと思ってる?」ベリアルは言う。「天国とかさぁ……君たち人間が思うほど、ほわほわしたところじゃないよ」
ベリアルはふっと、細い腕を伸ばし、ソロモンを自分のところに手繰り寄せた、ソロモンは慌てて椅子から腰を浮かせ、寝台のところに膝をつく。
「一緒に寝よ……昔みたいに。ボク、ほんとに疲れちゃったよ。君もつかれてて寝なきゃいけないでしょ……寝ようよ」

いつも天使のように微笑むベリアルの、こんな姿を見るのは本当に初めてだった、だが、ベリアルにも自分の知らない面があるのかと、ソロモンはかえって弱々しくなった彼を好意的にとらえた。
「ああ、いいとも」
ソロモンは、彼と一緒に寝台に横たわった。ベリアルの体は少し温度が下がっているように思えた。


PageTop

feat: Elijah 第十二話

ナボトの死から数日が過ぎた。
「馬鹿じゃない!?そんな話信じられるわけないでしょ!?」
「やっぱそう思う?オレも同意見だよ」
イスラエル王宮の中で、若者が二人話している。ミカヤと、エフーの二人だった。
アハブは前々から所望していたナボトの葡萄畑を自分の地所にするという手続きを終えて、妻を連れてつい先ほどイズレエルの別荘に下ったところだ。
ナボトの噂は詳しい話はイズレエルを出ることはなく、ただ彼が主の前に罪を起こした罪で処刑されたという話のみがサマリアに届いた。
「ナボトってそんなに不信心な人じゃなかったってのボク知ってるよ。イズレエルに行ったこともあるし」
「ああ。怪しいよな。ひょっとすりゃアハブとイゼベルの陰謀かもしれねえ」
エフーは冗談のようにそうケラケラ笑う。
「声、大きくない?聞こえたらどうすんの」
「聞こえねえよ。大丈夫。ま、証拠ないしな。結局俺の発言は推測にすぎないわけだし」
笑うエフーに比べ、ミカヤの表情は深刻である。
「エフー、なに笑ってんの?冗談じゃすまない事だろ」
「悪かった、悪かったよ」
「もしもさ、もしもこれで本当に、王の陰謀だったとしたら」
ミカヤは壁を殴りつけた。
「また一人、死ぬんだね。アハブとイゼベルのおかげで、主を信じていた人が。……ボクは許せない。絶対に、許せない」


朝露に輝く深い緑を見て、アハブは感嘆した。ナボトの葡萄畑は、やはりいい土地だ。
ナボトが死んだという話をイゼベルから聞いたとき、彼は半信半疑だった。しかし確認してみれば、確かに彼は亡くなっていた。死刑にされたというのだった。
それからは簡単だった。アハブは畑を自分のものにするという手続きをすませた。ナボトの息子たちは死刑になった父親を恥じてか、彼の意思を尊重しようなどとはせずあっさりとアハブに畑を譲り渡し、代わりにアハブから与えられた畑に移った。
「なんと美しいのでしょう。わが君様に相応しい高貴な土地ですわ」イゼベルは彼に、笑顔でそう言った。
「ああ、そうだな」アハブは少し非現実的な思いで、妻の言葉にそう返した。手に入らないとばかり思っていたものがいざ手に入ったという事実に、頭が追いつけなかったのだ。
それに、あのナボトがまさか、死刑になったなどと言うのは彼にとってあまり現実味のある話ではなかった。しかし事実として、死刑にはなったのだ。人間は見た目ではわからないものなのだ、とアハブは思った。そのおかげで結果、アハブはほしかったものを無事に手に入れられたのだ。
イゼベルはそばにあるアハブの別荘を指さして言う。
「さあ、わが君様。一休みいたしましょう。畑をじっくり巡るのはその後からでも十分ですわ」
アハブは妻のその優しい言葉にうなずいて、再び彼女の手を引きつつ馬車に乗った。
ふと、結い上げた彼女の髪に刺さっている簪が目に留まった。ごく普通の簪である。自分がまだ若いころ、彼女に買い与えたものだ。
あの日、彼女の結い髪に刺してあった黒い薔薇はなんだったのだろうか。アハブはそのことを思い出した。聞くタイミングもなく、結局問うことはできなかったし、イゼベルもその後黒い薔薇を頭に刺すことはなくなっていた。疲れた余り何かを見間違えたのだろうか、とすらナボトは思っていた。
アハブの伴に来ていた数人も、めいめい馬に乗るなりなんなりしてアハブの後に続いた。ただ、アハブとイゼベルは、その中にある一人の顔色が非常に悪い事には気が付かなかった。


「まあでもよ、気持ちを直せよミカヤ。ナボトには不幸だったけど、俺たちにとっては不幸中の幸いが起こるかもしれないだろ?」
「もうしゃべるな」
サマリアでは相変わらず、ミカヤとエフーが話していた。冷たく彼を突き放すミカヤに、エフーはにやりと笑って言う。
「もしもアハブがこれを起こしたってんなら、あのエリヤは黙っているかな」
エリヤの名前を聞くや否や、ミカヤは今までの憮然とした態度を引っ込めてピクリと反応した。エフーはそれを面白がって、からかうように続ける。
「ひょっとしたら、サマリアに来たりしてな」
「エリヤ……エリヤが、サマリアに……」
彼の意識はあっという間にエリヤに行ってしまったようで、エフーはそれに苦笑した。
なにも、エフーにとってもミカヤを冷やかすための言葉だけでもない。指名手配されている男、アハブとイゼベルの陰謀だということを知る由がないどころか事件が起きたことを知っているかも怪しい男がサマリアに来るなど、普通なら考えない。
だが、エフーはぼんやりと、エリヤならやりかねないと思っていたのだ。

エフーは、あの日、エリヤがカルメル山で起こした事件の後に、後片付けに駆り出された。彼の眼には今でも鮮烈に残っている。あれほど威張り散らしていたバアルの預言者たちが、全員物言わぬ死体になり、枯れ川に積みあがっていた。彼らの汚らしい血は、雨水に混ざって流れていた。バアル像ですら、ただの石以下の存在になっていたのだ。
非常に刺激的な光景だったが、同時に、エフーはそれに感動を覚えた。イスラエルの神を信じているという理由だけで自分たちを迫害してきたものも、所詮は肉塊になってしまうのだ、と。エフーにとって、それは常識を覆す光景であり、また、希望でもあった。
エリヤが姿をくらまして、一部の人々がエリヤを英雄視しだした時、エフーはそれを当然とすら思っていたのだ。あの殺戮は、本当に心地よかった。殺されたものに同情など、一片たりともエフーはしなかった。そのような感情を覚えるまでもなく、殺戮自体が非常に神秘的だったのだ。
エフーは、自分もまたエリヤが来ることを期待していると知っていた。


昼下がりの事だった。
ツィドキヤは、冷静にふるまわねばと思いつつ、手の震えを止められなかった。イズレエルの長老に、不審に思わせてはいけないというのに。
「(こんな……こんな、ことが!!)」
「ツィドキヤ様、どうかしましたか?」
「い、いえ。良いのです。旅の疲れがまだこたえていまして。長老殿。この手紙は必ずや国王陛下にお返しいたします。では、私はこれで」
「は。国王陛下並びに王妃殿下によろしくお伝えください」
その声を聴き、ツィドキヤは彼の目の前を去る。そして、彼の家の門を出るや否や、大急ぎで馬に乗って自分の止まっている宿まで駆け抜けた。

荒い息を必死で整え、窓の外に誰もいないことを確認してから、ツィドキヤは長老から受けとった『手紙』を広げた。
全部で三枚。預言者や祭司、王の名前までサインしてあり、その中にツィドキヤのサインもある。だがツィドキヤは絶対に、こんな文書に署名した覚えなどなかった。
勿論、その手紙と言うのは、イゼベルがナボトの畑を奪うにあたってイズレエルの長老や貴族たちに向けて送った手紙だった。

あの日、イゼベルが手紙を書いた日、ツィドキヤは少し思うところがあって王宮に残っていたのだ。するとどうだろう。イゼベルが真夜中だというのに、密使に手紙を渡していた。こんな人目をはばかるように手紙を渡すというのは不自然だと、ツィドキヤは胸騒ぎがした。そして、彼は耳を凝らした。手紙は、イズレエルに遅れとのことだったのだ。
彼は嫌な予感に襲われた。つい前の日に、アハブがナボトとの交渉に負けて帰って来たばかりで、そのようなタイミングでこそこそとイズレエルに送る手紙と言うのは、どうも穏便なものとは思えなかった。
そして数日後、ナボトが死刑されたという話が届いたとき、ツィドキヤの中の嫌な予感は膨れ上がった。まさか、あの手紙は、と。
だから、今回、ツィドキヤはアハブに同伴することを願った。事の真相を確かめたい一心でだった。
彼は思い切って、カマをかけることにした。あの日イゼベルが密使を送った日付を上げて、「その日にこちらから送った手紙の事ですが」と、彼は話を切り出した。すると、大当たりだったのだ。「ああ、あの手紙が、どうかしましたか?」と、長老は返してきた。
ツィドキヤは激しく波打つ胸の鼓動を抑えつつ、「実は、国王陛下が、その手紙を回収してきてくれと私に命じたのですが……手紙は、まだありますか?」と、途切れ途切れに嘘を言った。長老は彼を疑うことなく、あっさりとその手紙とやらを持ってきたのだ。
その場でそれを広げて、そこに書いてあった内容に、どれほどツィドキヤが打ちのめされたことだろうか。嫌な予感は当たっていたのだ。全ては、仕組まれていたことだったのだ。ツィドキヤはそれを知ってしまった。

彼は宿屋の床に三枚の手紙を広げ、特に三枚目に目を通す。ナボトに無実の罪を着せ、殺してしまえ。恐ろしいことがそこには書かれていた。
冷や汗が流れ落ち、ぽとりと手紙に落ちた。王はこのことを知っているのだろうか。王のサインも印章もある。知っていてもおかしくはない。
だが、違う。おそらくアハブは知らない。ツィドキヤはそう確信していた。このような計略を使ったにしては、アハブには罪悪感がない。彼は本気で、たまたまの偶然でナボトの畑を手に入れられたと思っていることは、臣下として王に仕える身のしての視点から、よく分かった。
おそらくは、イゼベルの手引きだ。あの日密使に手紙を託していたのもイゼベルなのだから。印章は王妃であるイゼベルならばいくらでも借りられるだろうし、ツィドキヤのサインをここまでそっくりに書くのなら王のサインを捏造できてもおかしくはない。
ツィドキヤは恐ろしさに吐き気がした。これは、明らかに罪ではないのか。しかも、当のアハブはこれを知らないのだ。
彼は、何かに突き動かされるような気持ちで王宮のアハブのもとに向かった。


「王よ!」
軽い宴会を終えて休みに向かおうとするところをツィドキヤに呼び止められて、アハブは驚いた。隣にはイゼベルもいて、「おや、なんですの、ツィドキヤ」と彼に代わって返事をした。
「王妃殿下、申し訳ありません。こればかりは国王陛下にじかに……」
ツィドキヤの顔色は目に見えて悪く、声はかすれている。不信感を抱かないはずがなかった。だが、彼はあまりに鬼気迫る顔をしていたので、アハブはそれに気圧され、「イゼベル、お前は先に休みなさい。私はツィドキヤと話さねばならぬようだ」と、妻を引き下がらせた。

暗い執務室にろうそくの明かりを数本ともし、アハブは「何があった?ツィドキヤ」と問いかける。ツィドキヤは「王、これをご覧ください」と、例の手紙を三枚、彼の前に差し出した。
アハブは怪訝そうに、それに目を通す。だが、読み進めるうちに、彼にもその真の意味が解ってきたようだ。
自分がナボトの畑を手に入れられるようになった、その真相。
「陛下、ご存知でしたか」
「いや……全く、知らなかった」
アハブの顔も、ツィドキヤ同様に真っ青になっていた。そうだ。あの日確かに、イゼベルは、自分の妻は言っていた。アハブのために、必ずナボトの畑を手に入れると。律法に触れない行動を持って。
手紙がばさりとアハブの手から離れた。
アハブは、何かに打ちのめされたようになった。イゼベルは、確かに自分のためにこれをしてくれたのだろう。彼女は、自分のせいで無実のナボトが死んだことに等少しも心痛めることなく、自分とともに美しい葡萄畑を散歩して微笑んでいたのだ。自分とは違って、その手で、この計画を遂行していた彼女が。
アハブの中で、何かが壊れるような感覚を彼は感じていた。
神がいるというのなら、なぜ、ナボトは死んだのか。自分を救わず冷たくあたった神は、神に忠実だったナボトさえも救わなかった。かえってバアルに心酔している異教徒のイゼベルの願いが、叶ったのだ。
そしてイゼベルは、純粋にアハブのために、これを行ったのだろう。ナボトを殺したとて、彼女には何の利益もなかったのだから。曖昧な神などと違って、彼女の思いのなんと鮮烈に輝いていることか。異教徒と批判された、一人の人間にすぎない彼女の。
全てが空しく思えてきた。アハブは心の中が真っ白になった。

「陛下?」
ツィドキヤの声は、届かなかった。
「(何が神だ)」
アハブは心の中で、そうつぶやいた。呟きは彼の体中に反響した。
「陛下。このことについて……」
「私はこのことについて、何もせんぞ。ツィドキヤ」
アハブはぼそりとそう言った。
「ナボトの畑は私のものだ。ナボトは処刑された。私は誰も殺していない。殺したのはイズレエルの人民だ。私が畑を手に入れることに、何の不都合がある」
「王妃様は、このような恐ろしい計画を……」
「あれも私のためを思えばこそだ。良いではないか。夫のためにここまでの事をする妻など早々得られるものではない。私は果報者の夫と思わざるを得ないな」
口をパクパクさせるツィドキヤを、アハブは見下ろすようにしていった。
「よいか。ナボトは死刑になったのだ。私は、その畑を受け継いだ。起こったことは、ただのそれだけだ」
「王よ」ツィドキヤは、なおも言った。
「神は、このようなことをお許しになりますまい」
「神だと」アハブは起こったように言う。「どうでもよいではないか。どうせ神は、私のために何も行ってくれなかった。ならば私が神に従う義務などどこにある。敬いたいものは勝手に敬え。だが私はそうしはしない。神を敬う意味などあるか。旱魃を起こし、大軍を死なせ、神はただ、暴力をよこすだけだ」
アハブはぴしゃりと、冷酷な表情でそう言い切った。
「このことを他言すれば、お前の一族にどのようなことが起きるかは分かっているだろうな」
アハブはそれだけ言い切ると、執務室にツィドキヤ一人を残して、自分は去って行ってしまった。


数日たって、アハブの一行はサマリアに帰った。ツィドキヤは結局、誰にも彼の知ったことを他言せず、手紙は焼き払われた。正真正銘、証拠と名のつくものはなくなってしまった。
これでいい、とアハブは感じていた。宗教と言うのは、道具の一つで十分なのだ。振り回されるべきものはない。酒などと一緒だ。宗教に振り回されたらおしまいだ。アハブはもはや、そう思っていた。元から希薄だった彼の宗教意識は、ナボトが死んだということを持って、あっさりとないに等しくなってしまった。

アハブが帰ってきたとき、大広間には誰もいなかった。公務の時間ではないのだから、当たり前である。
アハブは手持無沙汰にそこに座った。そして、ぼんやりと天井を眺めていた。
と、その時だ。
「お前は人を殺しといて、その持ちもんを奪うのか。泥棒と変わんねえな」
聞き覚えのある声だった。忘れるはずがない。彼は前の時も、このように玉座に座り自分の前に現れた。彼は視線を下ろした。
毛皮の服に、ボロボロの頭巾。房にして束ねた髪。そして、鴉の羽のような瞳。
「エリヤ……」
「久しぶりだな、アハブ」
良く見れば、彼に後ろに少年が一人ついてきていた。アハブはエリシャを初めて見る。彼も、エリヤほど落ち着いてはいなかったが、それでも毅然とした態度でそこに居ようと努めていた。
「どこから入った?」
「どっからでも入れるぜ」
「私の敵め」
アハブはあらん限りの敵意を込めて、エリヤにそう言った。
「私をまた見つけたのだな」
「ああ、そうさ。お前が悪いことをしたのを、神様は見ていた」
「悪いこと?何がいけないんだ」アハブは言った。
「私自身はナボトを殺していないぞ」
「強いて何が悪いかと言えば、お前が自分自身を売り渡したことだ」エリヤは言った。「悪魔にな」
「悪魔だと」
アハブはエリヤを睨みつける。
「もしもだ。もしも悪魔の手管によって私がナボトの畑を手に入れられたのならば、私は悪魔を祝福しよう!神は私に何一つしなかった。悪魔はこのように、はっきりと私を祝福した。どちらがいい存在か、どちらが崇拝するに足るべき存在かなど明白だ!無学で頭の悪いお前にはわからんかもしれんがな!」
「神様が、お前に何一つしなかった?」
「そうだ。……お前にはわからんだろうな。神のために生きる、などと言えるようなお前には」
アハブは震える声で言った。
「誰も私を尊敬しない。人民は私を嫌う。諸国の王は私を侮辱する。イゼベル以外、誰もが!私を馬鹿にするのだ!ダビデやソロモンのように、神は私を祝福された存在とはしてくれない!乞食坊主に過ぎないお前にわかるか!私の苦悩が、分からんだろう、分からんからそのようなことが言えるのだ!」
「ああ、お前の苦悩は、俺にはわからん」エリヤは髪の毛の房を指ではじきながら言った。どことなく、遠い目だった。
その時だった。
「師匠……僕も、少し、言っていいですか」
エリヤの後ろに控えていたエリシャが口を開いた。エリヤは「良いぜ、言いな」と、彼を促す。
エリシャはエリヤの後ろから出てきて、礼儀正しくアハブに一礼する。しかし、視線は彼をしっかり見据えていた。
付添いの少年が口を開いたことに、アハブも少々面くらう。エリシャはゆっくりと話し出した。
「僕は……師匠のように、何年も人里離れて暮らしてきた存在じゃありません。ただの農家の出です。王としての貴方を、ずっと見ていました。アハブ王、貴方に言いたいことがあるんです。僕たちは、確かに宗教の面で貴方を嫌っていました。師匠があの事を起こす前はバアルに従っていた人たちも、貴方を嫌うようになりました。でも理由がなかったわけじゃない。僕のお爺さんや年上の世代が伝統的な宗教を守りたいと言っているのに、イゼベル王妃が無理に宗教改革を進めるのを、貴方は黙認していました。イスラエル人の僕たちにとって、イスラエル人であってなおかつイゼベル王妃を止められる貴方が一番頼れる存在だったのに、貴方は僕たちよりもイゼベルをとりました。だから嫌いだったんです。貴方も王としていろいろやらなければならないこともあったんでしょう。そこまでは学のない僕にはわかりません。でも、貴方はあまりにも、イスラエル人である僕たちの声を聴いてくれなかった。貴方はシドンの王じゃなくてイスラエルの王なのに。だから嫌いだったんです。その不満が、表に出ただけなんです。貴方が嫌われるのだって、ちゃんと理由があるんです。もしも、僕たちの声を聴いてくれて、僕たちの事を少しでも気遣ってくれたら、僕たちだってあなたをもっと尊敬していた。それに貴方が外国に甘くみられるのも、貴方があまりにも弱気な姿勢だから舐められているだけなんじゃないんですか?それなのに、勝手に誰にも一方的に嫌われて軽蔑されているなんて思いこんで、その上なんでも神様のせいにしないでください。……神様のせいじゃありません。結局、貴方のせいなんです」
「な……」アハブが言う。
「農家ならばよく知っているだろう?あの干ばつを!あれも言うなれば神が起こしたものだ。お前は神を憎んでしかるべきではないか?その男に影響され、理性が麻痺しておるのか!?神は暴力しか行わん!干ばつを起こし、戦を起こし、ナボトを殺した!そのような神の、どこの敬うところがある!」
「でも、神様は雨を降らせてくれました」エリシャは言った。
「神様は、自ら追い出したアダムとイヴに毛皮の着物を与えました。弟を殺したカインに許しを与えました。罪深い人間を見捨てても、ノアやロトを生き残らせました。それに……神様は、人を、生き返らせたんです。僕は、それを見ました」
エリシャの頭には、彼の隣人、弟のように可愛がっていた少年が浮かんでいた。
「それは一面的な意見にすぎません。神様は確かに、絶対的に甘い存在ではありません。でも、だからと言って神を邪悪とするなんて、短絡すぎます。神様は、大勢殺すように、また、大勢を助けているではないですか。そもそも今こうして、イスラエル人が自分の国に居られるのは、神様のおかげではないですか。貴方は結局、神様のあら捜しをしているにすぎないんです。その理由は、義憤じゃない。ただの八つ当たりです。そうではないのですか。貴方は悪いことが起こっても、それを直接やった人を責めず、神様を責めた。でも、それってやっぱりおかしくはないですか。貴方は自分の見たいものしか見てはいないんです。神様に救われた人がいるっていうことを、貴方は見ようともしていないんですから」
エリシャの声は、三人しかいない大広間によく響いた。その言葉を聞いてアハブは、目を瞬かせていた。

「よし、よく言ったなエリシャ。偉いぞ」エリヤはエリシャの頭を撫で、再び彼を庇うように後ろに立たせる。
「聞いての通りだ、アハブ。ガキじゃあるめえし、なんにでもかんにでも神様に愛されなかった、なんて言って、ましてやらだから神様を崇拝しないなんて、そんなわがままほざくんじゃねえ」
エリヤは彼に言った。
「アハブ。お前は勘違いしてるぞ。この世は、誰か一人をちやほやするために神様が作ったものなんかじゃねえ。ましてやお前ひとり、何も苦労しなくても気を配らなくても都合いい人生を送れるなんてそんなことあるわけねえだろ。お前が雲の上の存在と思っているダビデやソロモンだって、血反吐を吐くほど苦労もしたし嘆きもしたさ。奴らだって神様の助けがもらえなくても頑張ったんだ。なのになんで、自分に問題があるってことをわかろうともしないお前が、そんなに都合よく神様に特別扱いしてもらえると思ったんだよ?」
「だ」アハブは呻くように言った。「黙れ……黙れ、黙れ!」
「黙らねえ!お前は神様を侮辱したんだ!神様はなあ、てめえのための道具なんかじゃねえ!」
アハブは手元の鐘を鳴らした。
「狼藉ものだ!出会え、衛兵ども!」
「アハブ!聞け!主の預言だ!」
衛兵がドタバタと欠けてくる音にはざって、エリヤは大声で、以前と同じように、王宮に響き渡るような声で言った。
「神様はこう言われる!『見よ、私は貴方に災いを下し、貴方の子孫を除き去る』!!お前の血筋の男子は全て死に絶えるんだ!ヤロブアムと同じように、バシャと同じように、裏切者のオムリの家に生まれたお前の家系は、裏切者に相応しい末路をたどるんだ!」
衛兵が集まってくる。その中には、イゼベルも混ざっていた。
「わが君様!」イゼベルは金切り声を上げて、彼の方に向かっていく。「おのれ、乞食坊主。また私たちの前に現れるとは!」
「ああ。アハブ。お前よりももっと悪い存在がいたっけな」エリヤはイゼベルを睨みつけた。
「イゼベル、お前はナボトを殺した。ナボトを無残に殺した罪を、てめえらは負うんだ。ナボトと同じ末路をたどるんだ。聞け、イゼベル」
エリヤはイゼベルに向かってはっきり言った。
「お前はナボトと同じく、イズレエルで死ぬ。お前の死体は犬の餌になるのさ!ナボトの死体が犬に食われたようにな!アハブ、てめえの末路もおんなじだ。てめえの血はナボトの血が流れたところと同じところに流れて、ナボトの血がそうされたように犬がお前の血を舐める。これは、神様のお告げだ」

過激な言葉を受けて、イゼベルはわなわなとふるえる。
「よくも……よくもそんな侮辱を。真実の神の加護があるこの私に」
そして、彼女はアハブを差し置いて命令した。
「この者達をとらえて、処刑しておしまい!」

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。