クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第五十一話

友人。
そう呼べる人間ができたのは、初めてだ。
ヒラムは夜空を眺めながら、そう考えていた。ソロモンが去って、一人の鋳造所で、彼は自分の言葉を思い出していた。
『ソロモンに避けられるのが怖い』と、気が付けば言っていた。
彼は自嘲気味に笑う。そのようなことを言える相手も、初めてだ。昔に至っては、自分は、そんなことを他人に言う権利もないと思っていた。
ティルスでソロモンの事を初めて聞いたとき、彼は知った。彼が、かつてその異常な風体から「悪魔の子」と呼ばれていたことを。彼はそれを聞いて笑ったことを思い出した。悪魔の子。そのような者が、めったにいるはずがない。彼はただの人間なのに、不当なことを言われていたにすぎないのだと彼は予測した。
そのことをヒラムに語るティルスの役人も、笑っていた。彼はおそらく、単純に面白かったのだろう。この世に、ヒラムと同じあだ名で呼ばれた人間がいて、その二人がこれから出会うことが。


エルサレムに届いた「海」の出来栄えは、絢爛たるものだった。ヒラムによって細かい彫刻がなされ、立派に磨き上げられたそれは、ソロモンがヨルダンで見た時よりも数万倍も煌めき、美しいものに仕上がっていた。
まさに神殿を象徴するような圧倒的な美をたたえたそれを見たがる人が次々やってきたため、その日のモリヤ山は仕事にならなかった。すっかりお腹の大きくなったナアマも、そのことが気になって馬車に乗ってそれを見に行った。護衛にはベナヤが付いた。彼女の眼にもそれは相当に美しいものと映ったらしく「……綺麗だこと」と、素直に言った。
ソロモンは無論のこと、その場に立つ者の中で最上位にある存在として、ヒラムに数々の賛辞の言葉を述べた、しかし、その言葉が形式的なものでなくソロモンの本心であったことはもちろんだった。彼は自らの首にしていた真珠の首飾りを外し、それを自分の前で跪くヒラムの首にかけた。
「お前の仕事ぶりの祝福のあかしとして、受け取るがよい」
ソロモンの言葉にヒラムは静かにうなずき、自らの首に無骨な彼には似合わないような繊細な真珠の首飾りをかけられることを誇らしそうに受け入れた。
「海」は本当に美しい。ヒラムの職人としての素晴らしさを一身にその身に集めたようなたたずまいをしていた。
周囲の人々は誰しもがそれを誉め、また、そんな職人ヒラムがまたモリヤ山に戻ってきたことを喜んだ。



その夜の事だった。
松明を何本も点したモリヤ山で、ヒラムはじっと待っていた。やがて、ラバの足音が聞こえて彼は振り返った。
「やっぱり来たか。ソロモン」
「ヒラム、聞かせてもらうぞ」
彼は真剣に言った。ヒラムも「……わかった。俺の言葉にも二言はない」と観念したように言った。
彼は、彼の手にはまった黒曜石の指輪を見せる。ソロモンはそれを、じっと見た。ヒラムもそれを見届け、ブツブツと唐突に何かを唱え始めた。
と、その時だ。
黒曜石に、不思議な模様が浮かび上がった。金色をした三角形のような紋章が、ゆらりと浮かび上がる。
ヒラムはソロモンに「目をそらさないでくれ、絶対に」と言った。ソロモンはじっと見守る。
すると、視界の外でいくつもの方向があがった。どれもこれも、聞くに堪えないような声。まるで、人間のそれではないような。
「顔を上げてくれ」
ヒラムの声。ソロモンはすっと指輪から視線を離し、顔を上げた。そして、仰天した。
ヒラムの後ろに、いくつもの不思議な存在がいる。人間でも、生物でもないそれは、何十体もいて、みんな違う姿をしていた。人間のような姿、動物のような姿、それらが混ざり合ったような異常な姿。だが共通することが一つあった。彼らは一人残らず静かにヒラムに従っていた。
「お前達」
流石に動揺を隠せない様子のソロモンを庇うようにして立ちながら、ヒラムはまるで、王のように威厳のある声で彼らに命令した。
「石切り場から石を運び、神殿を建設するがよい」
ヒラムの声に従うように彼らは次々と石切り場に飛んで行った。ヒラムはソロモンの方を振り返り「……どうだ?」と言った。
「ヒラム?……お前は……」
ヒラムはゆっくりと言葉を継ぎ、告げた。
「ソロモン。あいつらは、悪魔だ。そして……俺はそれを使役できる。俺は、悪魔の子孫だからだ」


異形の悪魔たちがヒラムの指示通りに、何も言わずただただ忠実に資材を運び神殿の建設をしている間に、ヒラムはソロモンに自分の事を語った。
「悪魔の子孫……とは、どういうことか。まず、それから話さなきゃならんな。ソロモン。この世の最初の人間から出た、この世の最初の殺人鬼の話を知っているだろう」
「……ああ」
知らないはずはない。イスラエル人なら、誰でも知っていることだ。
この世の最初の人間は、アダムとイヴと名付けられた二人。そして、その二人から生まれたアベルとカインと言う兄弟の話。二人は兄弟ではあったが、神に愛されたアベルとは正反対にカインは神の愛を受けられなかった。それに絶望し嫉妬した彼はある日、カインは弟のアベルを殺してしまった、と言う。
「だが、あれはただの」
「神話かおとぎ話?違う。あれは、実在した、本物の出来事だ。何千年も、何万年かもわからねえ昔に、確かに、それは起こったんだ。なぜ、そう言えると思う?……俺は、カインの子孫だからだよ。そしてだな、カインは、何故そんなことができたのか、なぜ、地上の初めての殺人者だったか、分かるか。……奴は、悪魔の血を引いていたんだ。奴は、アダムではなく、イヴと悪魔の間に生まれた子供だからだ。そして……だから、そのカインの子孫である俺も、悪魔の子孫なんだ」



ヒラムは、ティルスの支配下にある、とある田舎の共同体で生まれた。青銅職人の父と、イスラエル人の母。彼が語ったように、彼らはどちらもやさしかった。
母はイスラエル人で彼にヘブライ語を教えてくれたが、それでも彼女は、イスラエルの神の信仰を捨てていた。ヒラムはそれを疑問にも思わなかった。彼は父と母の愛情を受けて、普通に育っていた。
ヒラムは父から職人仕事を教わり、才能を開花させていった。父も母もそれを素直に喜び、彼らは本当に、ただ普通に幸せな家庭だった。

だが、ある日「彼ら」はやってきた。
「悪魔の娘はここに居るのか」
そう告げて、彼はずかずかと部屋に入っていった。何事だと思って父は抗議し、自分も彼らを攻めたが、当の母親は彼らを見て真っ青な顔になっていた。
大変な騒ぎになり、近所の人も追い出そうとしたので彼らはいったんは引き下がっていった。しかし、当然ながら父親は母親にそれについて問い詰めた。ヒラムはその時、初めて、カインの事を知った。

母は、生まれた時自分の親からそのことを聞かされていたらしい。代々語り継がれてきたというのだ。自分たちがカインの子孫であることと、それはすなわち呪われた悪魔の血筋であるということ。
彼らは、カインの血を憎み、自分を殺そうとしているのだと母は言った。そして、彼女はそれに耐えかね、イスラエルを捨ててここに来たのだと。
「バカバカしい」父はそう言った。
「そんなもの、単なる作り話だよ。君やあの人たちは考えすぎだ。信じすぎているんだ。君にもヒラムにも、何の罪もないのだし、皆普通の人間じゃないか」
父は優しく笑いながらそう言ってその場を収め、うろたえて泣きじゃくる母をなだめた。ヒラムはそれをしっかり覚えている。それが、彼が見た最後の、仲のいい家族の思い出だったからだ。

彼らは、全く攻めの手を緩めなかった。ヒラムの母を殺してやると息巻き続けた。それが続き、また彼らがあまりにも必死かつ真剣なので、次第にヒラムの母を庇っていた近所の人々も、実は本当に彼女は忌むべき存在なのではないかという疑念の目を向けるようになってきた。
ヒラムの一家はだんだん住みにくくなり、母親はより一層精神的に錯乱してきた。
「なにがカインの子孫よ」母は言った。「生まれたくて生まれたんじゃないわ、そんなもの!誰が、誰が嫌われ者の悪魔の汚名を着たがるのよ!なのに、どうして、私が、悪魔扱いされなくてはならないの」
ヒラムはそんな母親を慰めた。しかし彼がいくら言っても、母親はもう落ち着くことなく、同じように錯乱し続けるだけだった。彼女は家の仕事もできなくなり、代わりに彼にそれをやらせた。やらないと母親は貴方まで私を攻め立てる、と理不尽なほどに怒ったので、ヒラムは少しでも母を落ち着かせたいという気持ちから母親の一切の仕事を行い、母を慰めた。
やがて、父親の様子もおかしくなってきた。最初の方こそ彼女を信じていたのに、だんだん巻き添えを食って責め立てられる重圧と、精神的におかしくなってきた妻に付き合わされるストレスが彼をも追いつめたのだろう。
彼は、いつの間にか庇っていたはずの妻を攻め立てた。やっぱりお前は責められるべき立場なのかと。母は、それを否定するとことはなくただ錯乱して泣き叫んだ。それにいらだった父は母を殴った。それを機に、父から母への暴力はエスカレートしてきた。
そしてある日、ヒラムが目を離しているうちに、母親は自殺した。父も、それを悔いたか、それともこれ以上生きることに疲れたか、後を追うように自殺した。

ヒラム一人が残り、まだ子供でろくに稼ぎもでき居ない彼は近所の厄介になるしかなかった。イスラエルから来た人々はもう来なくなっていたが、彼のいた村の人々はすっかり彼をいぶかしむような目で見ていて、それでも一応親のない子供は成長するまで共同体で面倒を見ねばならないという地元のしきたりに従って、彼を冷たい目で見て罵りながら彼を育てた。ヒラムはずっと、彼らの迫害の眼に耐えながら成長していった。
「悪魔の子孫などではない、考えすぎだ」と言ってくれた父親の言葉が、心の支えだった。
彼らが何を言おうとも、自分は責められるべき存在ではない。そのような確信のみが彼を動かした。
彼は職人になりたかったが、誰も彼を弟子に使用などとはしなかったので、ヒラムは独学でそれを学んだ、父の仕事を思い出すようにして、何回も火傷や怪我をしながら職人仕事を覚えて言った。

そして、ある日の事だった。それは彼が、15歳になった日だった。

彼のいた共同体では15歳になれば完璧に一人前の大人であるという暗黙の了解があった。それはすなわち、もう彼を義理でも世話する必要はない、と村の皆が大手を振って言えるようになったということだ。
誰も彼に何も恵んではくれなかった。かといって、彼を雇おうとする人もない。狭い共同体で育ち続け、そこを抜けるという選択肢が思いつかなかったヒラムは、誰もいない家の中で考え事をしていた。
「(悪魔の子孫、だって)」
彼はそれを皮肉に思った。そして、急にそう言われていることに腹が立ってきた。彼は誰もいない仲で、まくしたてるように、目には見えない何者かに言った。
「悪魔の子孫?は、誰が言った、そんなこと!おい、俺の先祖の悪魔さんよ、悪魔なら死にもしねえだろ、ならあんたの可愛い子孫様が何を言ってるか聞いてみろ。悪魔なら何でもできるだろ、俺にその力でもよこしてみやがれ。俺はなんもしちゃいねえのに、あんたの血筋のせいで、こんな人生送らされているんだ。先祖のあんたが責任取るのが当然の話じゃねえか」
悪魔に声など届くはずがない。彼はそう確信しての事だった。彼は、こういっても何も起こらないだろうと思っていた。そのことをもって安心したかったのだ。悪魔なんていない、だから自分が悪魔の子孫であるはずもない、自分が馬鹿にされるいわれなどないんだと、彼は信じたかった。
そのまま、彼は眠った。

彼は夢を見た。
ゆらゆらと炎の揺れる、不思議な空間に彼はいた。夢にしては酷く鮮烈なイメージがあり、彼は視覚と聴覚のみならず、硫黄のようなにおいも、燃える炎の温度もその体で味わった。
不意に、彼の目の前に一匹の蛇がいることに彼は気付いた。片目のつぶれた蛇だ。蛇はじろりと彼を睨み、彼はそれにすくんだ。それを見届けたかのように、不意に蛇はするりと姿を変えた。それは、灰色の翼を背中に生やした人間のような姿だった。
「お前は……?」ヒラムは、恐る恐る言った。すると、目の前のその男は口を開いた。
「お前が俺を呼んだんだろうが」
「え……?」
「先祖に、来れるものなら来てみやがれと言っていただろ」
その言葉に、彼は寝る前に行っていた言葉を思い出した。しかし、そんなまさか、と彼は震えた。目の前に立つ、明らかに人間とは違う彼の姿を、ヒラムは急にすさまじく恐ろしいものだと思った。彼がなんであるか、言葉を聞かずとも、そんなことは明らかであった。
「じゃあ……じゃあ」彼は震える声で言った。
「じゃあ……俺はほんとにあんたの……悪魔の、子孫、だったのか?お、お袋も?お袋も、ほんとに悪魔の子孫だったのか?」
「ん?当たり前じゃないか。カインは、確かに俺とイヴの子だ。そして、お前は間違いなくカインの子孫だ」
その言葉は、重々しかった、悪魔のおどろおどろしい声とともに発せられたからかもしれない、ヒラムはその場に立っていられず、地面に突っ伏した。地面すらも赤黒く、流動するものだった。悪魔はそんな彼を見下ろしていった。
「どうした。嘆かなくていい、そんな必要、何もないんだぞ。誇るがいい。イヴは素晴らしい存在だった。間違いなく。俺にとっては、神よりも大切な存在だった。お前は彼女と、そして俺の血を引いているんだ。けがらわしく傲慢なアダムの血を、お前は普通の人間よりも引いていないんだ」
「煩い、だからどうした!それの何が誇りなんだ!」
ヒラムはまくしたてた。
「お前やらイヴやらがどうだったかなんて俺の知ったことか!俺はそのせいで、さんざんな目にあってるんだ!」
彼は母親がそうしたように、狂ったように泣いた。自分がすがってきたものを、今間違いなく否定されたからだ。悪魔の子孫などではないと思っていた。それなのに、悪魔の子孫であると当の悪魔自身に知らされたのだ。
だが、目の前に立つ彼は冷静に言った。
「ああ、そのことも勿論聞いている。まったく、アダムの子孫は変わらんのだな。……俺を否定する。俺を避ける。……まさに、神の現身だ!イヴは……イヴは違ったのに!ヒラム・アビフ。俺はアダムの子孫が憎い。だから、お前に目をかけてやる。俺の力がほしいと言ったな。渡してやらんでもない」
「えっ?」
ヒラムはその言葉に驚き、顔を上げた。悪魔は細長い指を伸ばし、彼の顎を持ち上げた。
「ただ一つ、悲しいことがある。俺は悪魔だ。残念なことに、お前はほとんど人間だ。アダムの血が色濃く入ってしまっている。だから、これを受け継がせるにも一筋縄ではいかない」
「なんだ、何か問題があるのか。……別に俺は、どんな問題でも構わん」
ヒラムは深い考えなど思い浮かばなかった。ただ、目の前の絶望から、彼は何でもいいような気がしていた。
「十年後だ」悪魔は言った。「十年後、お前の人生が終わる。そうだとしたら、どうだ?」
「どうでもいいよ。もっと短くても構わねえくらいだ」
ヒラムは、目の前に出された条件がひどく小さいものであると思えた。
十年?なんて長い時間だ。こんな人生、もう一日でも短ければそれだけいいのに。
「かまわん。お前の力とやら、よこしてくれ」
彼はヒラムがあまりにすぐ返事をしたので少し意外そうだったが、やがてにやりと笑い、彼の手を取って言った。
「ヒラム・アビフ。俺はこう見えても、ずいぶんと力ある悪魔でな。こういう力はどうだ。お前に、悪魔を呼び出し、使役する力を授けてやる。奴らは俺に逆らえないように、お前にも逆らえない。お前が死ぬまでの十年間はな。悪魔は何でもできるぞ。奴らは、お前の望みを叶えるだろう。俺はお前に指図などせん。お前の好きなようにやれ。アダムの子孫を虐殺しようと何をしようと、お前の自由だ」
「それは結構だな」
ヒラムのその言葉を最後に、彼の視界はふいに途絶えた。ヒラムが混乱していると、「では、契約成立だな」と言う声が聞こえた。

そこで、ヒラムは目が覚めた。彼は戸惑い、見たものが夢であると悟った。
なんてひどい夢だったんだ。夢の中でさえ、自分は言われたのだ。悪魔の子だと……。と、ヒラムは視線を落とした。そして、心臓が止まるかというほど驚いた。
見覚えのない指輪が指にはまっている。がっちりと。黒曜石をはめ込んだその豪華な指輪は、どこか禍々しい雰囲気を持っていた。
まさか、と、ヒラムは疑った。そして、念じてみた。悪魔よ、現れろ、と。

するとだ。
恐ろしいまでの悪臭が立ち込め、彼の目の前に、異形の悪魔たちが次々と現れた。それが厳格であるなど、ありえないと彼は悟った。彼は、その時はっきりと知った。自分は本当に悪魔の子孫で、本当に悪魔と契約を交わしたのだと。
彼は、恐れる気持ちを抑えながら、彼らに言った。
「……お前たち、なんでもできるんだな?」
彼らはコクリとうなずいた。ヒラムに逆らえないと言うように。鞭を恐れる猛獣のように。
「……俺は偉い職人になりたい。それを叶えることができるな?」
それが、彼が悪魔たちに命じた初めての命令だった。


彼は、自分でも信じられないほど職人のして天才の域になった。彼は自分で瞬く間に何でも作ることができるようになった。
悪魔たちは父親が残した道具を新品同様に磨き上げ、彼に心行くまで訓練をさせた。そして、彼の創ったものをどこかしらで売りさばいてきて、彼のもとに金を届けた。
近所の人々は後は死ぬを待つしかないような悪魔の子孫がなぜか金を得ているのを得て、いぶかしがった、強盗でもやったのだろうと彼らは彼を非難した。最初の方こそ、ヒラムはそれがつらかった。しかしだんだん、彼らの言うことになど耳も貸さなくなってきた。彼は、自信がついてきたのだ。
自分はできる、自分は有能だ、と信じたが最後、彼らの非難に心は傷つくことなどなくなってきた。なんだかんだと言っても彼らは自分より無能なのだ、できないものなのだ。彼はそう確信した。
ヒラムの住む集落にティルス王ヒラムの使いがやってきたのは、彼が悪魔と契約を交わしてからまだ一年もしない頃だった。

「これを作った職人がここに住んでいると聞いた。名前は、確か、ヒラム・アビフとか」
王宮からの使者は確かにヒラムが作り、そして悪魔がそれを討ってきた装飾品を差し出した。
「陛下はこの職人の腕を大層お気に入りで、そのものを首都に連れて行きたいとお考えだ」
「ヒラム・アビフと言うものならいますが、そんな職人ではありません。あれは、呪われた悪魔の子です。強盗もやっているのです」
共同体の人々は口々にそう言った。だが、王宮からの使者が来てそう言っているということを聞きつけたヒラムは自信満々に彼らの前に出て言って、自分がそのヒラム・アビフだと攻め立てる人々の声にも負けないほど大声で言った。
王宮の使者たちもさすがにヒラムが若すぎることに戸惑っていたが、彼は彼らの見ている前で素晴らしい装飾品を作り上げて見せた、それを見て、使者たちも納得せざるを得ず、ヒラムは共同体を生れてはじめて離れることになった。ただの偶然でここまでうまく者が行くはずがない。悪魔が自分の命令通り動き、自分を売り込ませたのだとヒラムにはすぐわかった。

彼が悪魔の子である、という評判は彼と一緒にはいってきて、王宮の関係者たちはそれを半ば面白がった。何人かは閉鎖的な田舎の戯言だとヒラムの故郷そのものをさげすみ、また、何人かはいささか真面目に受け取り、彼は危険な存在なのではないかと故郷の人々と同じように彼を避けた。ティルス王ヒラムはどちらかと言えば後者の方で、本当に悪魔の子孫などとはさすがに思っていないものの、彼の家系になんか問題があるのではないかと予測しているらしかった。たとえば、強盗や殺人者の息子であるなどと。ヒラムはそのことを悪魔から経由して聞き、そして笑った。
首都で、ヒラムはさらにその技術を磨いた。悪魔たちも協力し、彼に万能の才能を授けた。彼はあらゆる職人仕事に精通するようになり、王も彼のことを危惧しながら重用せざるを得なくなってきた。悪魔たちは非常に忠実に彼に従い、彼の言う「偉い職人にならせろ」という命令をかなえさせた。


ヒラムは若くして、ティルス一の職人であると絶賛された。もはや、彼を悪魔のこと言いこそすれ彼の腕前を疑うものはどこにもなくなっていた。
彼は、職人仕事が本当に楽しくなってきた。ここで生きている間、誰も自分を否定しない。そして、工具を握っている間、自分の魂が揺さぶられる。生きている、と実感できる。
たのしいことなど、子供時代なかった。だが、彼はいつの間にか、心の底から楽しいと思えるようなことを見つけていた。
王の命ずるままに様々なものを作り、それを褒められ、家に帰れば自分が首都で妻として娶った女とともに過ごす。そんな生活が、何年と続いた。


やがて、約束の10年が半分以上過ぎたある日のことだ。ヒラムは王宮に呼び出され、そして言われた。
「イスラエルを知っているか?」
知らないわけがない。自分の母親の故郷だ。
「イスラエルの王、ソロモンは今神殿を建設しているそうだ。それも、オリエントに存在しないほどの豪華絢爛たる大神殿だ」
「それはそれは……」
ヒラムは王が話していることがよくわからず、適当に聞き流した。王はそれを察してか、簡潔に要点から述べた。
「ヒラム・アビフ。私はお前を、貢物としてそのイスラエルに送ろうと思う。神殿建設の人材としてな。もちろん、嫌とは言わんだろう」
王はそういってのけた。ヒラムの意見など、聞く気はないようだった。むろんヒラムとていくら天才技師とは言えど王宮に仕えている身だ、いいえなどと言えるはずがない。
そして、その巨大神殿と言うものが、ヒラムの心を揺さぶった。イスラエルの神など正直な話、どうでもいい。もしも自分や自分の母を貶めたのが神の意志によることでの事なら、どちらかと言えばイスラエルの神は恨む存在であるかもしれない。しかし、そんなことは本当にどうでもいい。オリエントにこれまでにないほど精密な、美しい神殿。職人として、それを作りたい。それのために、定規を、コンパスを、のみを、槌を、思う存分ふるいたい。
迷う意味などなかった。ヒラムはイスラエルに行くことを了承した。

長い仕事になるであろうことで、彼の妻はもちろん嘆いた。しかし、彼は、職人として大きな仕事ができることをどうか誇りに思ってくれ、と言った。彼の妻は最後まで寂しがって抵抗していたが、やがて、彼が旅立つ予定の前日になって、泣きながら彼の門出を祝う言葉を述べた。



夜のモリヤ山で、悪魔たちは必死で働いている。自分の主君たるヒラムの命令を遂行するために。
今、何もかもわかった。夜に進んでいる仕事の正体は、これなのだ。ヒラムは誰もいない真夜中、こうして悪魔を使役して、神殿建設を手伝わせていたのだ。
ヒラムが「海」の爆発から生きながらえたのもそうだ。彼は悪魔の力を借りて逃げ出したのだろう。
「……そんな、事が……」
ソロモンは言った。ヒラムの話は、終わったようだった。
「どうだ。ソロモン王」
彼はぽつりと言う。
「俺がこんな化け物でも、友達でいてくれるか」
「何を言う」
ソロモンは言った。
「お前がそこまで気にするからどれほどの事かと思ったじゃないか。それのどこが、私に嫌われる理由なのだ。悪魔の子であっても、お前は素晴らしい奴じゃないか。正真正銘の人間であっても、下らん奴は山ほどいるのに」
ソロモンはヒラムに、静かにそういってのけた。ヒラムはそれを聞くと、笑って「有難う」と言った。

「初めてなんだよ。……俺と何の関係があるでもない。同じ共同体に居たわけでもねえし、俺を頼ってくる理由もない。それでもこんな仲良くなれて、何でもかんでもぺらぺら話せるし、俺の話を分かってもくれる、あんたみたいな奴は」
「ああ。……私もそうさ。私とこんな何時間でも話す奴、お前しかおらん」
「だから、あんたに避けられたくなかった」
「私も同様さ、ヒラム」
ソロモンとヒラムはそう言って、お互いに笑いあった。ふと、ソロモンはあることを思い出した。そして、それに対する答えがすでに出たことを思い出し、まさか、と彼の背筋に悪寒が走った。
「ヒラム……!?それでは、お前の言っていた、時間が足りない、と言うのは」
ヒラムはその言葉を聞き、ソロモンが言わんとしていることをわかって、うなずいた。
「ああ。俺は今24だ。今は、俺に与えられた最後の年なんだ。俺の人生はもうじき終わる。それまでに、俺は完成させたいんだ。エルサレム神殿を」

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feat: Solomon 第五十話

「身ごもっている……」
オウムのように言われた言葉を返すベナヤに、ナアマは言った。
「ええ、そうよ。ベナヤ。この子は、貴方の子よ。私は貴女と、何度も契ったんですもの」
それはそうだ。おそらく妊娠したであろう頃には、ナアマは不特定多数の男に体を売るような真似をすっかり止めていた。それに、彼女自身がはっきりとそう確信しているらしいのだ。
ベナヤはそれを聞いて、無論のこと酷い罪悪感に襲われた。だが、目の前に居るナアマは全くそのような罪悪感はなさそうだ。それどころか、かつてはあったソロモンを見返してやると言う気概もそこにはないように見えた。じゃあ何があるのかと言えば、彼女は初めて見るほど、穏やかな表情になっていた。彼女は、幸せそうだった。ベナヤの子供を身ごもったことが。


ヨルダンから帰ってきて、勿論ソロモンにも早くにそのことは知らされた。ソロモンはそれを聞いて「そうか、それはめでたい」と無難な言葉を発した。
そして、体調の悪くなった妻のためにより一層侍女たちに気を使わせろと言って、自分はいつも通りに仕事に戻っていった。

ベナヤはそれを見て、ソロモンも以前言った言葉の通り本当に自分の子でないかどうかなんて気にもしていないのだということを再確認した。彼はそれを気にもしていないし子供が生まれることを特別喜んでいる様にも見えないが、かといって疎ましがっている様子も見えない。
ただ、全くの冷静と言うのも齟齬があるようにも見えた。彼は誰の子かはさておき、「赤ん坊」が生まれるといいうことに対して、少し戸惑っているようにも見えた。ベナヤの眼から見て、ソロモンはそのことを聞かされてから、前にもまして意図的にナアマにかかわることを避けていた。
いずれにせよ、当事者であるソロモンとナアマ、どちらもこのことを問題視していないのならば、発言権などない自分がいくらうろたえても無駄なことだ。ベナヤは腹をくくり、起こったことを受け止めようと努めた。生まれるのは、自分の子だ。そしてそれが、王子か王女、いずれにしてもソロモンの子供として育てられる。



更に月日が経過した。ナアマの腹は少しずつ大きくなって、今ではだれがどう見ても妊婦となった。彼女の妊娠が確定したことに対して王宮は喜んでいた。偉大な支配者ソロモンの初めての子供がこの世に誕生する事を、多くの人が待ち望んだ。
彼女は妊娠中の不安定な体調を損ねることのないように以前にもまして手厚い世話が施されあまり後宮から外に出ることもなくなったが、それでも王宮の庭を時々散歩し、その身に子供を宿した王妃の姿を多くの人が見た。
その頃になればベナヤも罪悪感を忘れたわけではないが、さすがに耐性が付いてきた。彼も、王宮の人々と一緒になって子供に恵まれて幸せそうなナアマを祝福した。
ただ、ソロモンだけが相変わらずそのことに違和感を感じているようだった。彼女は妻の妊娠を祝福する数多くの声には無難な返しをしていたが、彼自身は妻を避けた。良い侍女を何人もつけ滋養のある食べ物や暖かい衣服を届けさせはしたが、彼自身が妻をねぎらいに後宮に来ることはなくなった。ナアマはそれに不満を表明しようともせず、ただ、自分に宿る生命の誕生を楽しみにし続けた。


そんなある日の事だった。
ソロモンは一連の仕事を終えた後、一通の書簡を受け取った。それはヨルダンにある、ヒラムのいる鋳造所から来たものだった。
彼はそれを読むなり、赤い目を輝かせた。

「私は明日、ヨルダンの鋳造所に行くぞ」と言うことを、彼は高らかに周囲の人間に告げた。それも、たった一人で行くと彼は言った。
周囲が反対したのは言うまでもない。予定にない事で、まだ仕事も残っている。おまけに王の身で護衛もなしとは危険だ。それでも彼は、一日も早く鋳造所に行くと言い張った。王直々にそう言い張られては結局臣下は黙るほかはない。彼の無理は通され、出発が決まった。
ソロモンは意外とこのように明らかなわがままを権力を持って押し通すようなことは珍しく、その為みんな書簡に何が書いてあったかをいぶかしがったが、ソロモンは理由を得に言おうともしなかった。
出発にあたって、彼はベナヤに公然と言った。
「知っての通り、私の妻は妊娠中だ。私の不在中、私の一番の臣下であるお前が彼女を世話しねぎらうように」
その言葉に隠された真意がなんであるかなど、ベナヤにも推し量られた。うろたえては不自然と思い彼は忠実な風を装ってそれを了承した。


急いで馬を走らせ、彼はすぐにヨルダンの鋳造所についた。「ヒラム!」と彼が叫ぶと、すぐにヒラム・アビフはソロモンの前に姿をあらわした。
「久しぶりだな」と、彼は数か月ぶりの、あの指の組み方が独特な握手を持ってソロモンを出迎えた。
彼はソロモンを、急いで鋳造所の中に案内する。そして、ソロモンは感嘆の声を上げた。「海」の鋳型だ。数か月前に燃えてしまったものが、今、完全に目の前にあった。
ヒラムはここ数か月で、神殿の金属器を余さず作り上げた。そして、最後にこの「海」が残された。
ヒラムは数か月前と同じように丹念に、丹念に鋳型をこしらえたのだ。そして、その仕上げ作業をする予定だということを彼は書簡でソロモンに知らせた。
ソロモンを、その場に立ち会わせたいと、彼は言ったのだ。

彼は、ソロモンを近くに座らせると、自分は青銅を流し込む準備をした。
熱く溶けた青銅は、この前の様に爆発することはなく、するすると彼の用意した鋳型の中に入っていった。鋳型をいっぱいにするまで、次々とそれが流し込まれていく様子をソロモンはじっと見守っていた。鋳造所には、彼らしかいない。青銅の激しい熱が渦巻く中、彼らは「海」に携わったもの、すなわち製作者と設計者として、そして友達同士として、その場を構成していた。
そしていくらも時間がたったころだろう。ヒラムは、青銅の流し込みが終わったとソロモンに告げた。一切の事故は起こらなかった。鋳造は無事、成功したのだ。


後は冷えるのを待つだけだ。彼はソロモンを与えられた住居の中に案内した。そして、酒を出して彼にふるまった。
「お前はこんな安い飲むか?」「別に、なんでも大丈夫だ」と言ったやり取りがかわされたのち、彼らはかつて同じように話し込んだ。話の内容は、以前どおり何でもよかった。ソロモンはエルサレムの事を彼に話した。ヒラムが言うに、王妃の妊娠の事はこの土地にも聞こえているようでヒラムもそれを耳にしたということだ。国王の第一子の誕生は国家の重大事項である。全く、おかしくはない事であった。
「おめでとう」とヒラムは言った。ソロモンはそのことがに一応の礼を返した後「……だがな、正直に話せばだ。ヒラム。私には今一つ、実感がわかないんだ」と言った。
「それはそうさ。お前は父になるなんて初めてだから」
「……そんなものか?」
「そんなもんだろ」
彼は非常にあっさりと返答した。
「……私は今一つ、家族と言うものがわからんのだ」
彼はぼそりと、ヒラムにそうつぶやいた。
「ヒラム、お前の家族はどんなものだった?」
「……別に。悪かなかったよ。良い家族だった。親父は腕のいい職人で、俺は尊敬してたぜ。おふくろは俺に優しかった。いつも」
「そうか、それは幸せなことだ」
ソロモンはその言葉に笑いつつ、自分の良心を思い出した。尊敬すべき父。優しい母。彼にとってそれは、幻のような存在だった。彼には、それを持っているヒラムが少し遠い存在のように思えて、寂しい気持ちになった。
「そうかい?ありがとな。二人とも、喜ぶぜ。あんたにそう言ってもらえたら」
ヒラムはからっと笑って、ぼんやりと視線を宙に浮かせた。
「もう、二人とも死んじまったから」
ヒラムは言葉こそそう言ったが、そこに自分の不幸を表明するような嫌味さは感じられなかった。だからこそソロモンはその言葉を素直に受け取り、彼の悔やみの言葉を述べ、彼はそんな必要はないと言った。
「いいんだよ。運命だものな。全て、運命だ。ありがとうな」
「ヒラム」この空気を断ち切ろうと、ソロモンは話題を別のものに変えようとした。
「子供が云々と言っていたが、お前に子供はいるのか」
「さあね……いるかもしれんし、いないかもしれん」
「故郷に女をおいてきたのか?」
「似たようなもんさ。ああ、ソロモン。このことに関しても詫びは結構だ。俺は後悔なんざしてねえ。俺には女より、職人仕事の方が大事だからな」
ヒラムらしい、とソロモンは思った。


「ねえ、ベナヤ?」
後宮にソロモンの代理として訪れたベナヤと二人きりになり、ナアマは言った。
「お腹を撫でて頂戴。貴方の子よ」
彼女が笑いながらそう言うので、ベナヤは言葉の通りにした。ナアマの腹の中に居る者はぴくぴくと動いていて、それが確かに生命であることがよく分かった。
「ベナヤ、どうしてそんな渋い表情をするの」
「いいえ……王妃様、私は、そんな顔はしていません」
ベナヤが自分の感情に触れられたくないということを察し、ナアマは言った。
「私ね、すごく気分がいいのよ。貴方に言ったでしょ?お姉さまたちがうらやましかったって。素敵な結婚をしたかったって」
「はい。王妃様」
ナアマは穏やかな微笑みを浮かべて、彼に言った。
「かなったなって、そう思ってるのよ」
「王妃様、それは……」
「あなたに会うことができたから。そして、こうしてあなたの子を宿すことができたから」
彼女も、静かに自分のお腹を撫で、そして掌に感じるその小さな生命と、そしてベナヤに向かって言った。
「もう、私、不幸じゃないわ。私、幸せだって思えるの」



青銅が冷え切り、「海」が完成するまで、ソロモンはヒラムとともに鋳造所にとどまった。
ヒラムはその時が来たと見るや、砂を固めてできた鋳型を崩しにかかった。鋳型は彼の思うがままにぼろぼろと崩れ、中からは輝く「海」の姿が見えた。
ソロモンはその一連の作業にも付き添った。やがて、すっかり「海」は全貌を著した。
巨大にして豪勢、華麗な青銅製の器。これにたっぷりと水を満たせば、まさに本物の海のような芸術品となるだろうという美しさを、それは確かにもっていた。
「海」は完成したのだ。三人のならず者の狼藉により一度は死んだヒラムの芸術は、見事にここに復活したのだ。ソロモンはそれに感動を覚えた。ヒラムも、同じようだった。
ヒラムはひらりと降りてきて「あとは仕上げだけだ」と言った。ヒラムが仕上げて、後はエルサレムに送られるのを待つだけとなった。
流石にソロモンは仕上げが終わるまで待っていることはできなかった。彼は、さすがにもうエルサレムに帰らねばならなかった。
だが、それも心寂しく、ソロモンはぎりぎりまで彼とお言おうと、彼と一緒に景色を眺めて休みながら話した。
「もうエタニムの月も終わろうとしているな」彼は言った。
その時、ソロモンは何か違和感を感じた。ヒラムは、その言葉を聞いて急に何かを思い出したような態度だったからだ。
「エタニムの月……もう、そんな時期、か……?」
「……?ああ」
急に、ヒラムはうろたえたようになって、ソロモンに行った。
「ソロモン、頼みがある。この仕上げが終わったら『海』はエルサレムに行くんだろ?俺もそれで一緒にエルサレムに帰る。もう鋳造の仕事はないんだ、問題ないだろう?」
ヒラムのあまりの慌てように、ソロモンは面喰った。
「な、何だって?」
ソロモンが聞いていたことの中に、例の三人の狼藉ものが故郷から消え行方をくらましたということがあった。そのためにも、ヒラムはまだここに隠しておきたかったのだ。ソロモンはヒラムに落ち着くように言い、また、その三人の事を云った。だが、ヒラムは「それでもかまわん!」と言い張り、落ち着こうともしなかった。
「頼む、ソロモン、時間がないんだ!」
「時間……?」
そんなことを言われても、神殿建設に時間も何もない。ティルスの王だって、このヒラム・アビフをよこすのに期限など儲けなかった。いったい何の時間があるというのか。「時間だと?お前、それはどういう意味だ」
ソロモンは当然、そのことを問いただした。それを聞かれて、ヒラムはぎょっとした顔でうろたえ、「そ、それは……」と口ごもってしまった。
「教えろ。お前の身の安全にかかわることだ、正当な理由なくしては私はそれを許可できん」
「……ソロモン王、こればかりは……」
「……私に、話せんことなのか?」
ソロモンはふと、心が痛んだような気分にさいなまれた。ヒラムとは、何でも話せる間柄だと思っていたからだ。
「……友達、だろう?」
ふと、その言葉が口をついた。何でも話せる。それが、友達だと彼は思っていた。
「なのに、なぜ、話せないんだ……?」
「……ソロモン」
ヒラムはきっと、ソロモンを見下ろしていった。
「あんた……約束するか?」
「約束?」
「もしも俺が何者であっても、俺の友達でいてくれると約束してくれるか?」
ヒラムは非常につらそうに、その言葉を吐露した。彼は、ソロモンの赤い目からその言葉が終わるや否や目をそらしてしまった。
だが、「当然のことだ」とソロモンは即答した。ヒラムがなんであろうと関係ないと、彼は思えていた。人間ではないベリアル以外に、初めて、友と思える存在ができたのだ。たとえ彼が殺人鬼であろうと全く問題はないと、彼は思えていた。
ヒラムはその言葉を聞いて「……王の言葉に二言はないな?」と、言った。
「ソロモン。怖いんだ。俺は……俺は、お前に、避けられたくない」
「……私も同じなんだぞ、ヒラム。お前が死んだと思った時私がどう思ったか、私はお前にさんざん言ったつもりだ」
ソロモンのその言葉を聞いて、しばしの沈黙が流れた。それは、本当に長かった。ヒラムが葛藤しているのだということはよく分かった、ソロモンは彼に何も言わず、彼をそのままにしておいた。
やがて決心がついたか、ヒラムは言った。
「……まず、俺を帰してくれ。俺がエルサレムに帰ったら、その日の夜に、またモリヤ山に来てくれ。訳は、その時話す。何もかも」

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feat: Solomon 第四十九話

例の夜が明けた時、ベナヤは流石に自分とナアマに何かが降りかかってくるだろうと思って覚悟していた。しかし、そのような心配はなかった。ソロモンは全く何も気にしていないように普段通りにふるまった。とうとう自責の念に堪えかねたベナヤが、自分の方からあの事を罰さないのかと彼に吐き出すように言った。
「あの事?」
ソロモンは言った。そして、ようやく思い出したようだった。
「なんだ。お前、処罰してほしいのか?」
「……陛下。何事にも、けじめは必要でございます」
彼が硬い表情でそう言ったので、ソロモンは少しの間思案していた。やがて彼の手を引いて「ならばついてこい」と言いながら、後宮に向かった。


後宮で、ベナヤと一緒に彼はナアマに向かい合った。ナアマは昨晩のような得意げそうな、いかにも夫を見下した表情を作ろうと心掛けてはいたが流石にその顔には若干の焦りがあった。
「ベナヤがけじめをつけなくてはならんと言うので来たぞ。昨日、お前たちが私の部屋で抱きあっていたことについてだ」
彼はベナヤにナアマの隣にすわるよう指図した。言われるままにベナヤはナアマのいた長椅子に座り、ソロモンは勝手に小さな椅子を取り出してそこに腰かけ、二人に向かい合う形になった。
「それは御大層ね」ナアマはソロモンに行った。「……それで、どんなことをされるのかしら?この不義の妻は」
彼女はニヤニヤ笑っていた。ソロモンはそんな彼女にあっさり「何もせん。ベナヤにもだ」と言った。
「ナアマ。いい機会だから、この際私の意志を表明しておこう。お前がベナヤだろうと他の男だろうと、何人と契ろうとそれはお前の勝手だし、私はそれに関して何も咎めん。それで子供ができたとして、それをそいつに押し付けるのも私の子として育てさせるのも全くお前の自由だ」
ナアマはソロモンの発言に目を瞬かせていた。彼女より先に、ベナヤが口を開いた。
「陛下!?おっしゃってはなりません、そのようなことは!」
「何故だ?」彼はそれに、冷めた口調で切り返した。
「私は恋情や性欲と言うものの存在を否定はせんぞ。幼い子供でもあるまいに、気に入った男がいれば契りたいと考えるのは当然の話だ。ちょうど、男がしょっちゅう浮気を繰り返したり娼婦を買ったりするようにな。私は個人的に男女を問わずそれを行う権利はあると思っているし、ナアマにもその権利を認める。それがけじめだ。いけないか」
だって、まさか、こんな返答が来るなんて思ってもみなかったし思えるはずもない。ベナヤは昨夜に引き続き混乱した。ソロモンは思いついたように続けた。
「……ああ、しかしだ。何にせよしみついた文化的価値観と言うものは私個人で払拭できるものでもないしな。人目は気にしろ。対外的にお前は常識の範疇で私の妻としてふるまいなさい。隠れずに公然と愛人と愛し合うことがあれば、私もさすがに形式上処罰を行わなくてはならない。先ほど子供の処遇についても言ったが、子供の親権をどちらにやってもいいが愛人の子だと表明しつつ王子として育てさせる、などと言ったことは流石に許されんぞ。それは受け入れろ。私は夫としてお前にするべき衣食住や金の提供などはぬかりなく行っているつもりだ。お前も妻として基本的な義務を果たすべきだ。それは問題ないな?隠れてする分には、全くお前の自由だ」
「陛下!」ベナヤは叫んだ。「い、いくらなんでも……貴方の妻ですよ!そして、私は貴方の部下です」
「そうだが、だからどうした。所詮は結婚しただけの間柄だろう。私達に愛がないくらい、お前も見て知っているはずだ」
ソロモンは次第に面倒くさそうな様子になってきた。
「お子様は、どうなさるのですか」ベナヤは言った。「貴方の子供として、どこの誰とも知らぬ馬の骨の子供が育てられるかもしれないのですよ!」
「だからどうした。私の子として育てられたなら、生物学的な父が誰であろうと私の子だ。血統などに何の意味がある。そんな、見てもわかりもしないものに」
ソロモンは閉めとばかりに言った。
「私がお前らを罪に問うとすれば、私の部屋に無断で立ち入ったことくらいだ。だがこれに処罰を出すのも正直な話もう七面倒くさい。だから私は何の処罰も下さん。これからもお前たち、人目を忍んでなら存分にやりあえ。ナアマの夫である私直々に認める。以上だ」
ベナヤは背筋がぞくぞくした。
この目の前の男は、本当にかけらも気にしてはいないのだ。自らの妻と部下が愛人関係にあったことを。彼はまるで鳥は飛ぶものである、草は緑色である、といった至極当たり前の事の一つとして、それをとらえているかのようだった。
イスラエル人が非常に重んずる血統主義だって、彼は否定した。彼は部下の息子だろうと、労働者の息子だろうと、自分の息子だろうと、同じことなのだ。彼は血縁関係にない親子に希望を持っているというよりは、血縁関係のある親子を信用していないという方が正しいのだろうということは推し量られた。血縁関係があろうと家族など呼べるものじゃない。彼が育ったのは、そんな環境だ。
その環境が彼をこうさせたのか?それとも、それは全くの邪推で彼は生まれた時からこのようなのか?ベナヤがぐるぐる考えていると、ソロモンはそろそろ帰りたがっているようだった。
後宮は基本的に王しか入れない。ベナヤが入れたのは、彼の護衛であるような風を装っていたからだ。ベナヤ一人置いていくわけにはいかない。もしもそれをしてしまえば、つい先ほど言った「妻としての最低限の振る舞い」に抵触しかねない。
ベナヤは震えるまま、ナアマにそっと別れを告げてソロモンの後に従った。ナアマはぼんやりしていた。


やがてソロモンもベナヤもいなくなったころ、ナアマは自分一人寝台に突っ伏した。そして、泣いた。
「何よ……何よ!負け惜しみ言って!寝取られ男が!」
そう嘆きはしたものの、あれが負け惜しみなどではないことは彼女にも分かっていた。悲しいほどわかっていた。
激怒してくれればどれ程まで良かっただろう。初めてソロモンのプライドを折ったと確信できれば、どれほど嬉しかったろう。彼は、全く気にしなかったのだ。自分があくせくと他の男と契った期間を、彼は全部肯定することで、それは心底どうでもいいことだし彼のプライドには全く何の影響もないと表明して見せた。
もう、彼は傷つかない。自分がベナヤと寝ようと、労働者の子を産もうと、彼は眉一つ動かさずに目の前で起こったことを当たり前のように受け止めるだろう。昨晩のように。しかも、それは、ナアマが彼にとって価値のない者なのだからなのだ。
ソロモンのプライドを追ってやろうと思っていたのに、ナアマは、逆に自分に残ったわずかばかりのプライドさえも完全にへし折られてしまった。許しと言うのは時に恐ろしいのだ。慈悲ではない、無関心からくる許しがいかに恐ろしく、屈辱的であるかかをナアマは味わった。
彼女は体中が空虚になった。夜でもないのに寒くてしょうがなかった。誰かに抱きしめてほしいような気持ちだった。
「ベナヤ……早く、来て……」
彼女は蚊の鳴くような声でつぶやいた。


執務室でヤツガシラと遊びながら、ソロモンはじっと昨日の事を考えていた。やはり、おかしい。自分は見たのだ。ヒラムが火の中に飲み込まれるところを。周りの職人の反応からしても、誰もがヒラムを死んだものだと思っていたのだ。
一体、ヒラムは何者だ。彼は少々、怖いような思いでもあった。
「ソロモン?どうしたの」
ふと、気が付いたら隣にいたベリアルが肩を叩いた。
「ベリアルか。いや、少々、考え事を……」
その時、ソロモンは急に思い出した。ベリアルのような存在を彼が見たことを。
ソロモンはベリアルに、それを聞いた。しかしベリアルからの返答は「ボク、知らないよ。見間違えでもしたんじゃない?」だった。
ベリアルがこのように言ってくるのは珍しい。しかし、何にせよ当のソロモンも記憶が不確かなのだ。本当に見間違えであったかもしれないと思い、彼は会話をそこで切り上げた。とにもかくにも、ヒラムのこの後については早急に手を打つ必要がある。このままにしておくのは得策ではない。



二か月ばかりが過ぎた。
ソロモンはアドニラムと数人の護衛とともに、馬に乗ってとある場所に来ていた。ヨルダンの低地、スコトとツェレダの間にある、良質な粘土の産地である。ここに、王宮が所有する鋳造所があった。
「ヒラム・アビフ!視察に来たぞ」と、ソロモンは大声でヒラムの名前を呼んだ。当のヒラムは、ソロモンの声を聴きつけてすぐに来た。
傑作になるはずだった「海」が台無しになったショックは大きく、さすがのヒラムも気落ちしていると聞いて、ソロモンは彼をここに単身うつさせたのだ。彼がここに居ることは公表されてはおらず、ソロモンやアドニラム、口の堅い一部の人間しか知らない。
ヒラムの精神衛生上もその方がいいかと思われたし、また例の三人が逆恨みでヒラムに危害を与えに戻らないとも限らない。彼の身の安全を考えても、しばらくの間彼をこっそりと他のところに移させるのはいいことだと思えた。

「何を作っていた?」
ソロモンは少し楽しそうに、ヒラムに言った。ヒラムも笑いながら、金色に輝く薔薇の花を差し出した。神殿の備品の一つにするはずの、最上の黄金で作った造花のうちの一輪だ。
「素晴らしい!まるで生きているようだ」
ソロモンはヒラムの仕事ぶりを絶賛した。
ヒラムはしばらくの間直接神殿建設には携われなくなったが、神殿の備品としてまだまだおびただしいほどの金属器具を作る必要もあるのだ。ヒラムの最も得意とする青銅製のものなら台車や、「海」に水を満たすための水盤、「海」を支えるために台座、壺に十能、生贄の獣用の肉刺し。黄金で作る道具だって、また大量にある。それらのうちどれも細やかに美しく作った芸術品でなくてはならないというのがソロモンのこだわりだった。
ソロモンは、いい機会であるとヒラムのその作業を一任した。元が青銅職人なのもあって、ヒラム自身もそう嫌そうにも見えなかった。事実、彼は少しショックから立ち直っていると見える。
ソロモンは周囲のものをさがらせ、しばらくの間ヒラムと二人きりにしてほしいと言った。彼らが忠実にそうすると、彼はヒラムと話し始めた。
「以前のように頻繁に会うことはできなくなってしまったな」
彼は惜しそうにそう言った。
そう。ここはモリヤ山のように直ぐに来れる場所ではない。よって、前のように夜に会いに来て語り合うということもなかなかできなくなってしまった。
「気にしちゃねえよ。それより、エルサレムはどうなんだ?」
ヒラムは全く気軽そうにそう話しかけてくる。その元気さが、かえって不気味なようにも見えた。
だが、ヒラムには不思議な雰囲気があったのだ。聞くのをためらわせるような、そんな感覚。ふいに、彼の手にはめた黒曜石の指輪が光ったような気がした。
「ああ……問題はない。いつも通りだ。あ、ただな、お前のいるときにはあった、夜の作業が、なくなってしまった」
そうなのだ。あの謎の出来事が、今では怒らなくなってる。殆ど、ヒラムと一緒になくなってしまったように。職人たちは皆それを不思議に思ったが、元が不可思議なことだったのもあって、誰ひとりそれをとくに追求しようとはしていなかった。ヒラムはそのことを聞いて「ああ……そうかい」と、いささか興味なさ気な様子であった。
しばらくたわいのない話が続いて、ソロモンはふとひらむに聞きたかったことがあるのを思い出した。
「ヒラム……あの」
「なんだ?」
それは、あの日、「海」が爆発した日の帰り道にソロモンが考えていることであった。ヒラムに、このことを聞きたいと思っていたのだ。
「私たちは……友達か?」
「え?」
ヒラムはその言葉に面食らったようで、唇に指を当てて考え出した。
「友達……ねぇ。俺には、生まれてこの方いたことがないんだ。だから……正直、友達なんてものがどういうものを指すのか、それがそもそも、実感としてわかねぇんだ。ソロモン。あんたはどうなんだ?なんで、俺を友達だ、なんて思ったんだ?」
「……お前が、爆発に巻き込まれた日」
ソロモンは少し決まりが悪そうに、いっそいえば少々照れているように話し始めた。
「お前が目の前からいなくなるのが、悲しいと思えたんだ。それも……誰にも、感じたことがないほど。だから、私、お前の、友人なのではないかと思えた」
「悲しい?俺がいなくなることが?」
ヒラムはその言葉を信じられないと言った様子で聞いた。そして、不意に笑って、「ありがとう」と言った。
「ソロモン、あんた、俺の何倍も頭がいいんだ。あんたが思うんなら、間違いねえな。あんたと俺は友達だよ」



ナアマはここの所、苦しんでいた。体調が悪い。食欲がなく、吐き気がする。
ただの体調不良と片づけるには明らかに異常だ。彼女は、侍女に言いつけて医者を呼ばせた。

しかし、ほど無くしてそれの原因が分かった。彼女は今までの苛立ちはどこへやら、その顔を希望に満ちたものに変えた。


「ベナヤ!」
彼女は王宮に居るベナヤを呼んだ。一応のところ、ソロモンに命令されたように王妃然とした態度でだ。
だが、ベナヤには当然彼女の意図は分かる。彼は彼女のもとに歩み寄り、「なんでしょうか、王妃様」と形式的に挨拶したが、そのまま二人きりのところに行った。
ソロモンはちょうどヒラムのいる鋳造所に行ってしまって、王宮には数日間不在になる予定だった。その機会にと言うことか、と思ったが、彼女の意図するところは違うようだった。
ナアマはベナヤのそばにより、そして、にっこり笑って言った。

「ベナヤ、私ね。身ごもっているのよ。今日、そう言われたの」

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feat: Solomon 第四十八話


「何事だ!?」と、ソロモンは叫んだ。同じような声が一気に湧き上がった。
鋳型が炎上し、一瞬でヒラムの姿は火に包まれた。ゆらゆら揺れる中見える彼の姿は、逃げようとはしておらず、代わりに自分の作品を守ろうと火を消しにかかっていた。
「ヒラム!」ソロモンはたまらずに叫んだ。すかさずアドニラムが「陛下、こちらへ!」と、彼の手を引いた。
「何をする!」とソロモンは怒鳴った。しかしアドニラムは強い口調で「陛下、鋳物の事故は大変に危険でございます!陛下にお怪我を負わせるわけにはいきません!」と言った。アドニラムも職人である。その盛り上がった筋肉は、細身のソロモンの体を楽に引っ張った。
周囲はパニックになり、労働者や職人たちがあわてて水をかける。しかし、逆効果だった。火はどんどん飛び火し、ますます燃え上がる。たちまち周囲は大火事になった。ヒラムが出てくる様子はなかった。
「ご避難下さい!」アドニラムはソロモンにそう言った。だが、ソロモンの赤い目はじっと燃え盛る「海」を見つめていた。
「……ヒラム、ヒラム……」
その時だった。
ソロモンの眼に、何かが映った。「海」のなれの果てに、ふわりとやってくる何者かの姿。光り輝き、翼を生やしたそれは、大慌ての労働者たちの眼には届いていないようだった。
「(……ベリアル?)」
ソロモンはそう思った次の瞬間、唐突に気を失った。


目が覚めた時、ソロモンは労働者たちの休憩所に寝かされていた。前に自分が休憩を取ったところだ。相変わらず、王である自分に配慮してか誰もいない。周りが薄暗い。そろそろ日が暮れかかっているのだろうか。
彼は、頭の中で起こったことを整理した。そうだ。大きな火が燃え上がって、ヒラムが……と、考えたところで彼はぞくりと背筋が震えあがった。
「(ヒラム!)」
彼は慌てて勢いよく扉を開き、休憩所から出た。

「陛下!お目覚めですか!」
アドニラムがすぐ外に控えていた。彼はまだ言いたそうだったが、ソロモンは焦って「ヒラムはどうなった!」とまくし立てた。
アドニラムはそれを聞いてつらそうな表情になると、「……おいでください、陛下」と、「海」があった場所に向かって歩き出した。

ようやく火が収まったと見えて、周囲は真っ黒に焼け焦げていた。ヒラムが苦心して作った鋳型はすっかり燃えてなくなってしまっていた。
ソロモンは目がちかちかする思いだった。その場に、ヒラムの焼死体らしきものはない。
「ヒラムは、見つかりませんでした」アドニラムはそういった。
そんなまさか、ヒラムは火の中で、骨まで焼けてしまったというのか。ソロモンは思った。そして、その場で頭を抱えた。
他のものには、何よりも優秀な職人を失ったと王が嘆いているように思えただろう。しかし、ソロモンはとにかく、悲しいと思えていた。心臓が抜き取られてしまったような、空虚な気持ちだった。
それは、彼にとって初めての感情だった。生まれてから一度も、こんな思いになったことはない。激しい怒りはあった。激しい悲しみもあった。しかし、こんなに、静かな、そして押しつぶしてくるような悲しみは初めて体験する。
「(ヒラム……!ヒラム!)」
彼は言葉が見当たらなかった。心の中でさえ。普段の饒舌な自分からは信じられないほど、今この感情を形容する言葉など思い浮かばなかった。彼はただ、ヒラムの名前を心の中で読んだ。何回も読んだ。それが一番、自分が望んでいることのように思えた。こんなことは初めてだ。本当に、初めてだ。


ソロモンがそのように思いながら放心していると、三人の職人たちがアドニラムのそばに寄ってきた。彼らの名前はそれぞれジュベラ、ジュベロ、ジュベルムだった。
「アドニラム様、悲しんでもいられません。ヒラム・アビフ亡き後の仕事を決めなくてはなりません。神殿の建設は明日以降も続くのですから」彼らはそう言った。
「私どもを元の職にお戻しください」
アドニラムはそんな彼らに嫌悪感を覚えた。いくらヒラムが嫌いだったからと言って、彼がこうしていなくなり、なおかつ普段冷静な王すらそれにひどく動揺している目の前で、あんまりと言えばあんまりな態度だ。
だが、いずれそうせざるを得ないのも事実だ。アドニラムは彼らの無礼をとがめた後「言われずともそうしてやる!」と叫んだ。彼らはそれに、顔をほころばせようとした。

しかし、それはかなわなかった。
「その必要はねえぜ、総監督」という、聞きなれた声が彼らの耳に聞こえたからである。


彼らは慌てて振り返った。ソロモンも、その声に一気に現実に引き戻され、がばりと顔を上げた。地平線に消えようとしている赤い夕陽を背中に受けて彼らの前に仁王立ちに立っているのは、まさにヒラム・アビフだった。


「ヒラム!?」
彼らのうちのだれよりも早く、ソロモンが声を上げた。そして、彼に駆け寄った。彼の体には、軽い火傷がある程度で、とてもあの火に巻き込まれたとは思えない綺麗な体だった。
「よお……ソロモン王。それに総監督。聞いてくれ」
彼はなぜ生きていた、いつ逃げた、と言う彼らの問いよりも先に、自ら口を開いた。そして、三人の職人をその太い指で指差した。
「そいつらが、俺の青銅に混ぜ物をした。そのおかげで、あの爆発と火事が起こった」
その言葉に、ソロモンとアドニラムは今度はジュベロ達の方を振り返った。彼らは、なんとか取り繕うとはしていたが、明らかにヒラムを見て真っ青な顔をしていた。ヒラムは続けた。
「すまんな。『海』は作り直す」
「ヒラム……わかった。ご苦労だ。しばらく、休んでいろ。私とアドニラムはこの三人に問いたださねばならない」
ソロモンにも何となく、ヒラムにもろもろの事を聞いてはならない気がした。とにかくも、彼は生きていた。そのことで、ソロモンは心の空虚感が一気に埋まり、急に安堵に満たされたようになって、普段のペースを取り戻せて来ていた。
ヒラムはその言葉に素直にうなずくと、さっさと休憩所に帰っていった。

ソロモンは三人を並べ、アドニラムに言った。
「アドニラム。この三人は何者だ?」
「は、あのう……」
アドニラムは言った。ジュベラたちの事と、その立場、そして、彼らがヒラムを恨んでいたということも。
アドニラムはそのことを王に報告するなり、早めに手を打つなりしなかったことを激しく後悔しているようだった。ソロモンはそれに対し「以後厳重に気をつけろ。私への報告も行るな」と言うと、三人の職人に向かい合った。
「さてと……お前達。お前たちは自分の嫉妬から、ヒラムを殺しかけ、おまけにあのような大規模な事故を引き起こしたのだな?」
「へ、陛下、それは、その……」
地べたに跪いたままあたふたと何か言おうとする彼らに、ソロモンは「言い訳などせずともよい。私の目は節穴ではないわ。真実を隠そうとしている人間など、見ればわかる!」と言い切った。
「幸い死人も重傷人も出なかったことだし、前科もない。実刑は免れさせてやる。……だが、この罪は重い!アドニラム、こやつらをさっさと追い出し、二度と作業現場に居れるな!そして私にこやつらの故郷と言えを教えるがいい、賠償を払わせる」
「は、ただいま」
アドニラムは忙しそうに、彼らの故郷を言い始めた。



すっかり一連の事が終わって、三人の職人たちもまず牢につながれるため一足先にモリヤ山を離れ、ソロモンは帰路についた。夜になっていた。
ラバの背に揺られながら、ソロモンは今日あったことを考えていた。自分の目の前で鮮烈に爆発し跡形もなく焼けた「海」。そして、何故かそれから平気な顔で生還したヒラム。いったい自分は何を見たのか。全く非現実的だ。そうだ。あの時自分が見たものはなんだったのだろう。あれは、ベリアルだったのだろうか。思いだろうとしても、記憶力に自信のある彼には珍しくどうもイメージがぼやけて思い出せなかった。
代わりに思い出されてきたのは、ヒラムが死んだと思って彼が抱いた感情だった。そっちの方は、嫌に鮮烈だった。
自分は、誰に愛された覚えもない。人間のうち、誰も自分を可愛がってはくれなかった。
何人も、身近な人間の死を見てきた。だが、誓って言えるのは、その時一回も、先ほどのような感情に浸ったことなどない。
ヒラム。ヒラムは特別なのだ。ああ、自分はヒラムを失いたくないのだ、と、彼は冷たい夜の風を受けながら考えた。
ヒラムは、親しくそばによってくれる。遠慮はせずに、いくらでも話をしてくれる。そして自分も、彼にいくらでも話をできる。
ふと、自分のもとに始めてベリアルが来た時の事を思いだした。「友達」と、ベリアル入っていた。
「(友達……なのか?ヒラムは)」
ソロモンは考えた。
ヒラムといると楽しい。ヒラムは、自分が今まで出会ってきた誰とも違う。ヒラムを失いたくない。
アドニヤの時にも同じことを考えていた、と内省的な考えも頭に浮かんだ。しかし、それはすぐに打ち消された。またしても、形容しがたい。しかし、はっきりと感じる。何かが違っていた。
もっと爽やかでもっと心地よい、と、ソロモンは感じていた。
彼は急に、どっと疲れが出た。奇妙な出来事に、慣れない感情。元から疲労が強かったのもあって、彼は本当に疲れた。彼はラバを急いで走らせ、王宮に向かった。


王宮に入るなり彼は憮然として廊下を進み、そして自分の寝室の扉を開けた。寝室には誰もいないはずだったが、それは間違っていた。自分の寝台に、ナアマとベナヤがいた。裸で、抱き合っていた。


ベナヤは、部屋に入ってきたソロモンを見て、さっと血の気が引けた。いつの間にか夜になっていたことに、彼とナアマはその時初めて気が付いた。それほどにまで、夢中になっていたのだ。窓から見える暗さも目に入らないほどに。
月は丸く明るく、寝台の上を明々と照らしていた。
何と言おうかと思ったが、言葉が出ない。そもそも、こんな状況で何の言い訳ができるというのだ。彼は顔を真っ青にしたまま、口をパクパクさせた。ソロモンは憮然とした表情でこちらを見てきている。
ナアマは、最初こそうろたえていた。しかし、しだいに彼女の視線は挑戦的なものになっていった。彼女は得意そうに、口元で笑いながらソロモンを睨みつけていた。ベナヤもそれを見た。そんな態度はいけない、と言いそうになってもそんな言葉も出なかった。
ナアマは明らかに、この状況に満足しているようだった。憎い夫に、この状況を偶然見せつけられたことに、彼女はただならない興奮を覚えているようだった。その証拠に、彼女は無言のままベナヤの体を一層強く抱きしめた。そもそも、彼女は夫への憎しみのためにもとはと言えばこのようなことを始めたのだから、本懐がとげられたも同じではあるだろう。
その沈黙は、非常に、非常に長い時間であるとベナヤには思えた。月が地平線に静むまでソロモンはその場で硬直しているかのように思えた。
しかし、全くそんなことはなかった。実際にソロモンが無言であったのはほんの数秒の事である。彼は、ベナヤに向かって「ベナヤ。ナアマ」と言ったのだ。
ベナヤは縮み上がるような思いで、返事をした。ナアマは「あら、なんですの、あなた」と、ソロモンを見下すような高飛車な口調で答えた。ソロモンは相変わらず憮然とした表情で言った。
「さっさとそこをどけ。それは私の寝台だ。お前たちのものではない。私は疲れていて眠いんだ」

それが、彼の言葉だった。

ベナヤは全くこの場に相応しくない言葉に混乱した。ナアマも、先ほどまでの表情をやめ戸惑ったような顔になった。
ソロモンはもう一度「早くしろ」と言った。その時になって、ようやくベナヤにはソロモンの不機嫌そうな顔の合点がいった。ソロモンは本気で、今ただ眠いのだ。
ベナヤはうろたえながらも、体を反射的に動かし、ソロモンの寝台から離れた。ナアマの手も引っ張って。
ソロモンは彼らが離れるなり頭にはめてあった王冠だけ取るとあとは寝間着に着替えもせずにそのまま寝台に横たわった。
「あ、あの……もしもし、陛下?」
ベナヤは彼に声をかけた。しかし、返答は帰ってこなかった。代わりに、規則正しい彼の寝息が聞こえてきた。
ベナヤは茫然としていた。目の前で起こったことがただ非現実的だった。彼はナアマの方を見た。
ナアマは屈辱にその身を震わせていた。その目には涙が浮かび、月明かりがそれを光らせていたが、その顔自体は怒りに燃えていた。
「何よ」
彼女は絞り出すように言った。
「何よ……なによ、この、ろくでなし!寝とられ男!」
彼女は自分の夫にそう吐き捨てると、裸の身を衣服に滑り込ませて、ベナヤをおいてさっさとその場を立ち去って行ってしまった。止める暇も、追いかける暇もなかった。
ベナヤはその場に取り残された。彼の眼には、月明かりに照らされた横たわるソロモンの白い体が映っていた。ベナヤは、昔のようにそれを美しいと思った。そして、たしかに、そこから異常性を感じた。彼は確かに歪んでいる。ナアマが彼を称するように。

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feat: Solomon 第四十七話


執務室で、一人きりで仕事をしながらソロモンは軽くため息をついた。最近少し仕事が立て込み、忙しい。自分は少々疲れているのだと分かった。
執務室の窓に、ヤツガシラが数羽寄ってくる。執務室の見慣れた客で、部屋の中には彼らにふるまうための餌もいつも用意してある。ソロモンはそれを窓のすぐ内側においた小さいテーブルにまき、彼らはまるで執務室に来る高官や長老、外国の使節のように礼儀正しく入って来てはごちそうにありついた。
その様子をソロモンはぼんやりと、少し穏やかな気持ちで眺めていた。忙しい中、このようなつかの間の休息も大変な潤いに感じる。


ある日の事だった。
「おい、ベナヤ」と声をかけられてベナヤはどきりと心臓が跳ね上がった。それはソロモン王の声だった。
「な、何でしょうか、陛下」
「今日モリヤ山に視察に行く。暇ならばお前ひとり護衛に連れて行こうと思う。何人も護衛といるのは性に合わん」
ベナヤはその言葉に安心し「無論の事、お引き受けいたします」と言った。ソロモンはそれでは昼食が終わったころにとだけ言い残して、さっさと自分の執務室に行ってしまった。

ベナヤは胸をなでおろした。しかし、それと同時に心が痛ましくもあった。ソロモンは、まだ気づいていないらしい。
あの後、結局ベナヤはまたナアマと関係を迫られた。彼はそれをも断れなかった。そのままずるずると不倫関係を続けたままで、今に至る。
最近、ソロモンにこのことが露呈しないかとヒヤヒヤし通しだ。見つかれば自分はもちろん、ナアマにも当然凄まじい罰が襲い掛かってくるであろう。ソロモンなら情に流されるようなことがあるわけがない。ましてや、ソロモンが彼女にそこまでの愛おしさを感じていないことなど赤ん坊にも分かりそうなものだ。
しかし、それでも断れない理由がただ自分の優柔不断でないことも確かにベナヤは自覚しつつあった。そもそも、元から別に優柔不断な方ではない。
仮にも自らの妻である女性を寝取られ、そのことを知りもしないソロモンが一番の被害者であるのは承知の上だ。その上で彼は、ナアマを確かに憐れんでいた。
彼女は会うたびに、自分は不幸だ、ソロモンなどと結婚したくはなかった、と語ってくる。そんな彼女の荒れた心を少しでもいやしてやれればと言う気持ちが、日に日に強くなっていくのをベナヤは感じていた。だから、断れない。自分との逢瀬と言う唯一たのしいことまで奪われてしまっては、この若い王妃はあまりにも哀れだと思ってしまうのだ。
ナアマは、最初の方こそやけになっているように彼に抱かれた。しかし、火がたつごとにそれは変わっていった。
彼女は、ベナヤと会うときごとに少しずつ、少しずつ態度を軟化させていき、今ではただ楽しそうに見えた。彼女はソロモンといるときのように怒っているような表情をそうしなくなり、柔かい表情でいることが増えた。穏やかに笑うことすらあった。
ベナヤはそんな彼女を見て、彼女が可愛らしいと思えるようになった。彼女にはあのバテシバやアビシャグのような誰が見ても甘い美辞麗句を並べ美しいと絶賛するような美貌はない。しかしギスギスした表情を解きにっこり笑えば、案外可愛らしい顔をしているのだ。
責めてソロモンも彼女のそう言うところを見てくれれば、と彼は思う。彼らは夫婦であるのに、お互い荒んだ顔しか見せないのだ。そうではないのに。穏やかに笑えば、ナアマももっと魅力的なのに。彼の思う、愛するに全く足りない女などではないのに、と、彼は誰に言えるはずもない嘆きを抱えた。



視察に行った先で、ソロモンはため息をついた。呆れからくるものではない、感嘆からくるものだ。
ヒラムは今、「海」と呼ばれるものの制作に取り掛かっていた。それは巨大な青銅の器で、平たく言えば儀式用の、祭司の清めに使うための水をためる水盤を大きくしたものだった。だが、ただの水盤とするにはそれはあまりに大きい。容量で言うのなら、三千バトの水は入る。そしてもちろん、それは大きいだけのものではなく、また、繊細な彫刻をぎっしりと施した華やかな芸術品として仕上がる予定にもなっていた。まさにソロモンの神殿を飾るにふさわしいものに。
これを作るにはかなり高度な技術が必要であることはソロモン自身もよく分かっていた。そしてヒラムは元青銅職人と言うだけあって、この存在を知ったとたんこれは自分がやりたいと言っていた。それで満を持して制作に取り掛かったのだ。
当たり前だが、青銅で作る以上入念な準備が必要になる。大きなものであればなおさらだ。彼は何日も何日もかけて丹念に鋳型を作っていた。少しのずれも許されないので、ヒラムはこればかりには誰の手も触れさせず、正真正銘自分一人で作業を行った。そして、それももう完成らしかった。
彼は、見上げるほど大きな鋳型をこしらえていた。そして、その上に立って作業をしていた。ソロモンはそれを眺めて、これに青銅を流し込まれできるものの荘厳華麗さが早くも透けて見えるような気分だった。
「ソロモン王?」
鋳型の上から彼もソロモンの気配を察したか、ひょこりと首を出して彼を見下ろした。ソロモンは彼が下りようかと逡巡しているのを見抜き「良い、そのままで結構だ」と言った。
「はかどっているようだな、ヒラムよ」
「ああ、青銅を流し込むまでもう後いくらもありゃしねえ、楽しみに待っていてくれ」
上か誘う言葉を浴びせてくるヒラムに、ソロモンはさらに言った。
「楽しみにしているぞ。お前の創ったものであれば、まさにその名の通り広々とした大洋のごときものができるであろう」
鋳型を作る彼の手には、彼の数少ない持ち物である巨大なコンパスと定規が握られていた。ヒラムはこれさえあればどんな図形でも描ける、と、それを大層気に入っていることをソロモンは知っていた。ヒラムが上に居るせいで彼の手元が見えず、彼がそれを使っている様子が見えないことは少し残念だとソロモンは思った。できる事ならば、彼の手つきの美しさも見たいのだが、と。
遠目に彼の作業を、ジュベラ、ジュベロ、ジュベルムと言う三人の職人が恨みの眼で見ていたことには、ソロモンは気付かなかった。彼は、ヒラムの鋳型をじっくりと眺めてそれに見とれていた。


ねぎらいの言葉をかけてベナヤとともに王宮に帰っていくソロモンを見送りながら、アドニラムは思うところがあった。言おうとしていたのだが、今一つ迷っているうちにいだせなかったことがあるのだ。最近、作業場で少し心配なことがあるのだ。ヒラムに関してだ。
ヒラムは確かに有能だ。それに、そのことを素直に尊敬する職人や労働者たちも多い。だがしかし、やはり彼の才能と力、そしていきなり彼に与えられた重要役職に嫉妬する者もいる。
なかでも、とある三人の職人、ジュベラ、ジュベロ、ジュベルムが不穏だと、アドニラムは感じていた。彼らはヒラムが来る前にいずれもアドニラムのすぐ下で現場指揮をしていたものだが、ヒラムが来て、そして彼が責任者になってから仕事を干されたも同じで、今ではずっと格下の職人に混ざって仕事をしているのだ。そして、彼らは当然ヒラムの事を面白く思っていない。彼らは、彼に対する憎しみや嫉妬を隠そうとしないのだ。
アドニラムはこのことに関して、何か嫌な予感がしていた。このことを放置しておくのは得策ではないように思えてならないのだ。だから、できる事ならばこのことを王の耳に入れ、彼らの処遇についての判断を仰ぐべきかもと思っていた。
しかしそう思うと、今度は違う感情が邪魔をするのだ。これを、忙しい王にわざわざ聞かせるべきかと。有能なものが嫉妬されるのは往々にしてよくあることだ。それに、ヒラムは具体的に何かいじめや邪魔を受けている様子でもないし、第一彼自身ジュベラ達に憎まれていることなど全く気にもしていないようにも見える。その態度が余計にその三人を刺激するのだが。
大勢の集まる場所で、このような感情の交錯はしょっちゅうだ。ヒラムがはなもひっかけていないだけ、穏便な方である。その事実だけを見れば、わざわざ王に手間を取らせるのは失礼なようにも見える。
それに、ヒラムが有能すぎるだけで、根本的には誰に非があるわけでもないことなのだ。ジュベラたちだって、ヒラムには相当劣るがそれでも一般的に見れば優れた職人である。誰が悪いとも言い切れないし誰を切り捨てるのも道理が通らなさそうな、こんなややこしい事態を持ちこむのもまた失礼なように思えた。


数日が立った。ヒラムの「海」の制作は着々と進み、いよいよ、その日青銅が流し込まれることとなった。ヒラムは青銅職人の技術を駆使して青銅を絶妙な調合でこしらえた。どろどろと溶けたそれすらも、美しいものであると何人もの目に映った。
ソロモンはそのことを聞いて、ようやく仕事に暇ができたのも加わって、その場にどうしても立ち会いたいという思いに駆られた。ヒラムの仕事の、真骨頂をその目に焼き付けたいという気持ちがあったのである。
彼は護衛もつけずに、さっさとラバに乗って宮殿を後にした。ベナヤは彼に心配そうに声をかけたが、彼は心配するベナヤを一応ねぎらった後「だが、心配はいらん」とだけ言って、一人行ってしまったのだ。
ソロモンがその時、視察に行く王と言うよりは、どちらかと言えば夜毎にひっそりヒラムと会って何時間でも話し合う気の知れた間柄の相手として、そして彼の芸術作品を愛する者としてその場に立ちたい気分だったということまでベナヤは知りはしなかった。ソロモンは夜にヒラムのところに行くときはいつも一人だ。今回はまだ日のある午後だったが、その気分でいたかったのだ。
釈然としない様子でベナヤが所在なさげにしいていると、不意に彼の前に現れるものがあった。ナアマだった。
「王妃殿下」彼は言った。そして、急いで周りを見渡す。幸い、周りに人はいなかった。
ナアマは彼よりも早くそのことに安心して、彼に抱きついてきた。ベナヤは慌てた。今いないとはいえ、急に人が来ないとは限らないと彼女に言う。だが、彼女は笑ってこう言った。
「ねえ、ベナヤ?ソロモンが出かけたのね。どこに?」
「モリヤ山に。職人ヒラムの大仕事の完成を見守るとかで」
「へえ……そんなもの見て、何が面白いのかしらね。全く、分からないわ」
彼女は笑て、ベナヤからひょいと体を離した。はた目から見て誤解を招く可能性は少ないだろう程度に。
「ねえ……ベナヤ。私の頼み、聞いてくれる?」
彼女がそういうとき、自分はたいてい断れないのをベナヤは分かっていた。しかし、いくらなんでもまだ日が明るく輝いている時間である。こんな時間にそんな、と言おうとしたが、ナアマはそれを許さない様子であった。
「……何か、おありでしたか」彼は渋い顔でそう言う。
「昨日、あの人が私のところにきたのよ。ずいぶん久しぶりに」
彼女はわざとらしく首を曲げてそう言った。
「は……」
「何にも云わずにね。すぐ終わったわ。それでさっさと帰っていって。全く、いつも通りよ。……ねえ、分かるでしょ?ベナヤ、昨日の夜から、ずっと、私が貴方といたかったってこと」
彼女はそう言って、ベナヤに鍵を見せた。
「ここなら、見つかるわけないわ。ねえ、一緒に来て頂戴」
そう言ってナアマは、ベナヤの手を引いた。ベナヤは彼女の暖かさを腕越しに感じながら、彼女に半ば引きずられるようにしてついていった。


その部屋の目に付いたとき、ベナヤはいくらなんでも、と声を上げかけた。しかし、ナアマはそこで「する」ことを非常に楽しみにしている様だったので、ベナヤは結局拒めなかった。とにかく、不幸なナアマが幸せになれるなら、と、彼はこういう時、いつも思ってしまう。


いよいよ青銅が流し込まれる段階になった。ソロモンのためには特別に椅子が誂えられようとしたが、ソロモンはそんなものはいらないと言った。遠慮や見栄と言うよりも、立った方がよりヒラムの様子がよく見えるという気持ちからだった。
そう言うわけで、代わりにソロモンは一番前に立って、周りの者はアドニラムをはじめとする重臣以外は彼のそばに無礼に近づかないよう心掛けた。
ヒラムは解けた青銅を、一気に鋳型に流し込んだ。彼が長い間かけて作り上げた芸術が、いよいよクライマックスを迎える。ソロモンは心臓を高鳴らせた。きっと、ヒラムも同じ様子だろうと思っていた。
青銅がどんどん落ちる。ソロモンの描いた立派な角を持った雄牛牛や花の彫刻の形を、まずは形作っていく……
と、その時だ。


急に、「海」が爆発し、火が燃え上がった。

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feat: Elijah 第二十三話


エリシャはエリヤがいなくなった後、預言者として活動した。ツィドキヤなど預言者の仲間たちと一緒に、神の言葉を聞き、それを述べ伝え、神の奇跡を執り行い、イスラエルの宗教を守っていった。エリヤの捜索を行うものもいたが、エリシャはそれを無駄だと言った。そして事実、エリヤは二度と彼らの前に姿を現さなかった。
神はなぜ、自分を選んだのか?神に従う、神を理解する、とは結局何だったのか。
確固たる答えなど、何もない。神は貴族を選ぶかもしれないし、乞食を選ぶかもしれない。エリヤ、ミカヤ、アハブにエフー、オバドヤ、ツィドキヤ、皆、立場も主義も違った。しかし、誰もかれも、自分なりに神と向き合い、覚悟を固め、神は、彼らに何かしらを返したのだ。
人間が考えるだけ無駄なことかもしれない。エリシャは最終的に、そう考えた。そして不思議なことに、そんな空虚な結論に何の寂しさも感じなかった。そう思わせるのもまた、神の力ではないか、とエリシャは考えていた。特別な理由などないのだ。神はいて、そして、覚悟を固めた人間に、何かしらを返してくれるのだ。



ベルゼブブの一件もあり、もはや宗教改革は不可能になっていった。アハズヤには子供がいなかったので、彼の弟であるヨラムが後を継いだ。ヨラムはアハズヤよりは状況のわかる男だったので、イスラエルからめぼしいバアル神殿を取り払った。ただ、母に逆らいきれないのは彼も同様で、彼も結局イスラエルの神に仕え続けることはなかった。そして、彼も父同様に、人民を顧みることのできない王だった。そのおかげで、人民の心はどんどん、王家から遠ざかっていった。
イゼベルは、バアル崇拝をやめなかった。彼女は、自らの崇める「バアル」にすがり続けた。そして、息子と、自分の腹心のものたちにそれを強要したが、もうイスラエルをバアルの国にすることは不可能であると彼女もわかっていた。彼女が他人にそれを強いるのは、ただただ、自分が少しでも心穏やかにありたいためだということは彼らにも分かった。彼女は来る日も来る日も亡くなってしまった夫と息子を嘆き、そして、バアルに向かって祈った。彼女はエリヤに向けていた憎しみをエリシャとほかの預言者に向け続けたが、エリシャはそれを意に介しはしなかった。


それは、ある日の事だった。
イスラエルはアラムと戦争をしていた。あのベン・ハダドはすでに誅殺され、アラムの軍人であったハザエルが王権を握った時の頃だった。
前線となっていたのはラモト・ギレアドで、戦場に出ていたヨラム王は当のハザエルに傷を負わされ、イズレエルで療養をしている最中の事であった。軍の長たちが会議をしていた中に、一人、現れた影があった。それは、エリシャであった。
軍の長たちは当然驚いたが、エリシャは静かに「将軍、貴方にお話があります」と言った。それを言った先は、すでに将軍に上り詰め、のみならず、彼らのうちでも頂点に立つような存在となっていたエフーであった。


「どうしたんだ?エリシャ君」
二人きりになった時、エフーは彼に、彼らの少年時代の時のような話し方で語りかけた。エリシャは少しエリヤに似てきたと、エフーはその時思った。
「僕が昔、師匠から聞かされたことがあるんです」エリシャは言った。「師匠は立派な人でした。しかし、神から命じられたあることをせずにこの世からいなくなりました。と言うのも、その時期が来ないままだったからです」
「と言うと?」
「エフーさん、貴方を、イスラエルの王として任命する事です。アハブの王家に代わり、イスラエルを治める存在に」エリシャは言った。
「神様はこう言われます。『お前はお前の主君、アハブの家を打たねばならない。イゼベルの手にかかって死んだ私のしもべ達、預言者たちの血の復讐を為すためである。アハブの家を、ネバトの子ヤロブアムの家のようにする』」
そして、懐から清め油の壺を取り出した。
エフーはそれに対して当然しばらく戸惑っていたが、追及の言葉は決して発さなかった。彼は静かにその場に跪いて、エリシャのそそぐ油を頭に受けた。


エリシャが裏口から帰り、エフーが仲間の将軍たちのところに出て行ったとき、将軍たちは「あの気狂いに何を言われたんだ」と、彼に詰め寄った。彼はにやりと笑いながら言った。
「俺が王を打ち、代わりに王になる、と言うことを言ったのさ。そして、油を注いだんだ。この俺に」
それにうろたえる彼らに、エフーは高らかに告げた。
「アラムとの戦はやめだ。王家は今、イズレエルに居る。俺はイズレエルにいって、クーデターを仕掛けてこよう。お前たち、王につくか、それとも、この俺につくか、どちらだ?」
彼らにとってそれは考えるまでもない事だった。戦いに優れたエフーは、彼らの信頼を十分すぎるほど集めていた。彼らはエフーの前に跪き、角笛をついて「エフーが王になった」と宣言した。

エフーは部下を連れて戦車に乗り、イズレエルに向かった。誰も、先回りして王家にこの事を知らせようという忠誠心のあるものはいなかった。
イズレエルにある見張り塔が、それを見つけた。狂ったように全速力で戦車を走らせるその走り方は、エフー独特のものだった。そのため、彼らにはすぐ来た人物がエフーだとわかった。
ヨラム王はそのことを聞くと、戦場で何かあったのかもしれないと心配に思い、自分も戦車に馬をつないで彼を迎えに行った。ちょうど彼を見舞いに来ていたユダ王アハズヤ、彼の母はアハブとイゼベルの娘だったので彼の親戚にも当たる存在、とともにだった。

彼らが合流したのは、ちょうど、かつてのナボトの所有地だった。
「エフーよ」ヨラムはエフーがやってくるのを見て言った。「無事か?」
「無事だと?」
エフーは遠く離れた場所から、駆け寄りながら、叫んだ。
「貴様の母の破廉恥な不信仰があいも変わらず行われていて、何が無事なものか!」

その声を聴いて、ヨラムははっと気づいた。エフーは、自分にクーデターを仕掛けるため戻ってきたのだ。
彼は慌てて手綱を引き「アハズヤ、逃げよう。裏切りだ!」と言った。そして、一目散に宮殿に逃げ帰ろうとした。だが、その時だ。
エフーはさっと弓をつがえ、一瞬でそれをヨラムに向かって打った。矢は、正確に心臓を射抜き、ヨラムは戦車の中に崩れ落ちた。
エフーは部下に命じた。「この男はナボトの畑に捨てておけ。預言者エリヤの預言が、これを持って成就されるように」
そして、それを見て怯えながらも一目散に逃げるアハズヤをも見て、言った。「アハズヤも逃がすな、彼も一緒に殺してしまえ」
彼のその指示に従った彼の部下たちによって、アハズヤも懸命にメギトまで逃げたが、殺された。彼の遺体は、そののちにエルサレムに運ばれた。


イゼベルはそのことを聞いた。エフーがすぐそこまで迫っていることも、彼が二か国の王を殺したことも。イゼベルはそれを聞いて、自分の侍女を呼んだ。そして急いで、自分に化粧を施させ、髪を結わせた。彼女はすでに老婆と言って差しさわりのない年になっていたが、彼女は自分を、少しでも美しい存在にしようとしたのだ。それが、彼女のプライドであった。

彼女はバルコニーに出た。ちょうど、エフーは城門に入ってきたときであった。
「ご無事ですか、主人殺しのジムリよ」
彼女はエフーに、よく通る声でそう言った。ジムリとは、イスラエルにあまたあった裏切り者の一人の名前であった。アハブの父オムリが、それを討った。
イゼベルの声は誇り高く、エフーを心の底から見下している様子であった。それは、誰がどう聞いても、王女として生まれ、王妃として生きた、途方もなく高貴な女性の発言だった。

しかし、エフーはその言葉に眉一つ動かさず、うろたえることは少しもなく、言った。
「虚勢を張っても無駄だ。お前の味方なんぞ、もういない。そして、もしもそれが虚勢じゃないなら、お前はただただ、本物の馬鹿だ」
そして、イゼベルの方を指さした。
「そこに、俺にくみする者がいるはずだ。お前たちに命ずる。そのイスラエルを堕落させた阿婆擦れを、突き落せ」

イゼベルはその言葉を聞き、そしてふと背筋が寒くなったので後ろを向いた。そして、彼女は絶望した。その場にいた宦官や侍女たちが、全員、自分を突き落そうと迫って来ていたからだ。
「止めなさい」
イゼベルは言った。しかし、彼らはやめようともしなかった。とうとう、宦官の一人が彼女に触れた。
「おやめなさい。私はイスラエルの皇太后。お前たちの主君です」
自分の体に触れた宦官に、彼女はそう言った。彼女はあくまで誇り高かった。しかし、その宦官は言った。
「イゼベルよ。私の眼を見なさい」

イゼベルはその言葉にはっとし、彼の眼を覗き込んだ。彼女は驚いた。その瞳は真っ白だった。目の前にあるのは、アスタロトの顔だった。
「あ……アスタロト、様……」
「イゼベル……貴様が使える奴だと思ったからこそ、私はお前を選んだのだ」
アスタロトは彼におびえるイゼベルにそう言った。言葉の出ない彼女に、彼は続けた。
「だが、違ったな。お前たちはいつもこうだ。やはり、人間は使えない」
彼は白い唇の底で、そう言った。そして、エフーと同じように眉一つ動かすことなく、イゼベルをバルコニーから突き落した。
数秒もしないうちに彼女の高貴な体は石で覆われた地面にたたきつけられ、イゼベルは息絶えた。彼女の血は、壁に、床に、そしてエフーの馬に飛び散った。馬はそれを嫌がってか、彼女をその前足で踏みつけにした。エフーは戦車を降りて、イゼベルには目もくれないまま、主のいなくなったイズレエルの宮殿に入っていった。


エリシャは、夕方、そこに訪れた。夕焼けに染まったイズレエルの象牙の宮殿は、主が変わったにもかかわらずその姿を変えはしなかった。宮殿の表には誰も出ておらず、門番すらもおらず、宮殿の前に居たのはエリシャだけだった。
イゼベルは、そこに死んでいた。どこからかはいってきた野良犬が彼女の死体を貪り食い、彼女の美しかった顔面は頭骸骨となり、肉が残っているのは両足と両手首だけだった。犬たちは、それらも先を争って食べていた。その残った手は、一つ、小さな黄金でできた偶像を握っていた。それはバアルの像で、彼女がイスラエルに嫁ぐとき、親から貰ったものだった。
「これが、イゼベルの末路か」
エリシャはそう呟いた。かくして、アハブの家のものがイズレエルで犬に食べられるというエリヤの預言は、完全に成就したのである。


その後、イスラエル王エフーが行った血の粛清によって、アハブの家の者、そしてバアルの神官たちは、一人残らずイスラエルから消えた。



(完)

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feat: Elijah 第二十二話

その夜、エリシャは夢を見た。
何者かが言っていたのだ。それを、視覚だけでそう感じたのか、聴覚だけでそう感じたのか、はっきりはしないが。
ただ、彼は「エリヤ、エリヤ。お前はもうすぐ取り去られる。私のもとに」と言っていた。こちらの方を向いて。
ふと、エリシャは気が付いた。自分の視界に映る、髪の毛の房を。それは自分のものではなかった。それは、エリヤのものだった。これは、エリヤが見ている光景なのだと彼は悟った。エリヤの見たものを、自分も見たのだ。


翌朝、イスラエル宮殿からエクロンに、アスタロトとイゼベル、そしてベルゼブブの祭司たち、それにエリヤとエリシャ、アハズヤと医師たちを連れた行列が出発した。
エクロンへ続く長旅は病気で弱ったアハズヤにはかなり苦痛なようで、医師が何度もそれを訴えたがアスタロトは取り合わなかった。イゼベルも、彼の息子に「心配をしないように。ベルゼブブ様が必ずお前を治してくださいますよ」と言うだけだった。母に頼り切りなアハズヤは、母にそう言われると何も言えなくなってしまった。
エリヤは一応縄で縛られた。エリシャの処遇に周囲は困ったようだが、イゼベルは興味があるのはエリヤだけで、この少年はエリヤに付き従う以外何もしてはいないのだから片手だけをつなぎ、処刑が終わったら鞭をうって国外へ追い出すだけにとどめなさい、と言った。

やがてエクロンにつくと、彼らは真っ先にベルゼブブの神殿に向かった。顔色が蒼白になったアハズヤは体中の痛みに耐えながら、病床ごと神殿に運び込まれ、司祭たちがアスタロトに指示されて準備するのを待ちながら、黄金で作られた立派なベルゼブブ像を見ていた。ベルゼブブ像と言っても、バアルの像と全く同じだ。角のついた冠を被った、精悍な男性の姿の偶像だ。
エリヤとエリシャは数人の兵とともに少し離れたところに監禁しておかれた。と、その時だ。何者かの集団が、彼らのところにやってきた。少人数ではなかった。そしてその中には、ツィドキヤもいた。

彼らは兵に何か交渉している様子であった。兵たちも迷っていたようだが最終的には彼らを通すことに同意し、彼らをエリヤとエリシャに引き合わせた。
それは、預言者や祭司たちの集団だった。ベテル、エリコ、ヨルダンからやってきた、いまだにイスラエルの神に仕え続ける者達だった。
彼らの代表が前に歩み出てきて、言った。
「預言者エリヤ様、おいたわしく思います」
彼らはエリヤにそのような言葉を述べにやってきたのだ。宗教改革を一度は食い止めたエリヤが、イゼベルに捕まったと聞いて、わざわざ別れを告げにやってきたのだ。エリヤは笑顔になり、彼らのその思いをうれしく受け止めた。そして、彼らと話をしていた。
そのしばらくの間、エリシャの方にも数人の預言者たちが寄ってきた。その中には、ツィドキヤがいた。ツィドキヤは、エリシャに言った。
「君は、あのエリヤ様のお弟子かね」
「はい、そうです」と、エリシャは答えた。ツィドキヤは切なげな顔で、彼にこう言った。
「私たちは昨日、神の言葉を聞いた。エリヤ様が明日、神のもとへと取り去られるのだ。君は、それを知っているかい」
彼の言葉に、エリシャは出来る限り気丈に「はい……存じています」と言った。
それ以上、言葉は続かなかった。エリシャはなんとか気丈にふるまおうとしたが、それでも涙が気が付いたらぽろぽろ流れていた。ツィドキヤやほかの預言者たちはは息子をいつくしむ父のように、彼のその様子を優しく、また同じように悲しげな表情で眺めていた。
ツィドキヤ達は言った。「君の名前はなんだね」
「シャファトの子、エリシャと申します」
「エリシャ君。私たちは何があっても、味方であり、仲間だ。私たちは、イスラエルの神を信じ続ける者たちなのだから」
彼らはそう言った。


やがて預言者たちは名残を惜しんで帰っていった。彼らは、イゼベルのいる場に同席することを許されてはいなかったからだ。エクロンの神殿の準備ができると、いよいよエリヤとエリシャは神殿の前に連れて行かれた。
「エリシャ」エリヤは、弟子に言った。
「俺がお前の前から離れるにあたって、俺がお前のために出来ることはねえか。なんでも言いな」
エリシャは片手だけを縄でつながれていたので、縛られていないほうの片手で涙をぬぐうと、「では、師匠。貴方の……貴方の霊の力を、僕に受け付かせてください」と言った。
「僕が、貴方の後継者として、生きられるように。僕が、貴方とずっと一緒に居られるように」
「難しい問いだな」エリヤは言葉とは裏腹に気軽に笑って言った。「いいか、エリシャ。これからベルゼブブの神殿で起こることを、しっかり見ていろ。もしも、俺がこの世から離れる瞬間をお前が見ていれば、その時、俺の力はお前に宿る。お前は俺と同様に、神様の声を聴ける存在になるだろう」
「師匠……」
それは、エリシャにとってもつらい事だった。それは、エリヤが死ぬところを見ていろと言うところだ。エリヤが死ぬところを、どうして直視できようか。できれば目をつぶりたい。顔をそむけていたい。そんな感情もあった。だが、エリシャは覚悟を決めると「……わかりました。貴方の最期の瞬間まで、僕は見届けます」とはっきり言った。
「ありがとうな、エリシャ」
彼は言った。そして、その時のエリヤの顔を、エリシャは忘れることができない。エリヤは鴉の羽の色の眼をきらりと輝かせて、そして、自信たっぷりに笑って見せたのだ。
「安心しろ。俺はこの世から消える。だが、みすみす無残に殺されるとは言っちゃいねえ」

その言葉に、エリシャが一瞬戸惑い、どういう意味かと聞こうとした時だった。その場を揺るがすような大きな声が響いた。
それは、大勢によって発されたものではなかった。声の主はただ一人、アスタロトだった。
彼は祭壇に火をともし、そして大量の供物を並べ、大声で祈りの言葉を唱え始めたのだ。小柄で美しい姿からは想像もできないほど、その声は地響きのように深く、恐ろしい声だった。
その場にいたものは、思わず耳をふさいだ。それを聞かされて、アハズヤはいよいよ苦しそうだった。苦痛の限界のようでもあった。だが、イゼベルはそんな息子の方を見ることもなく、ただ、アスタロトに圧倒されていた。ベルゼブブの祭司たちもそうだった。そこにあるのは、感心ではなく、ただ単なる圧倒だった。恐怖に似た感情と言ってもいいかもしれない。
「わが主、わが主、偉大にして唯一なるベルゼブブ様」
アスタロトは言った。炎の揺らめく中に、彼はそう問いかけていた。
「貴方様の忠実なしもべ、アスタロトが願います。今、お出でになってください。この愚かな人間どもの前に!貴方を信じぬ、人間の前に!」
その時だった。
ぐわりと炎が広がって、その場一瞬を焼き尽くしてしまいそうになった。黒と赤の光にその場が満たされ、熱風がただよった。
ふと、その場にいる者達は異常に気が付いた。悪臭がする。何かが腐ったようなにおいだ。
ぐしゃりと供物台に乗せられた供物が一気に腐って落ちた。それに、数人の祭司は悲鳴を上げた。

ただ、アスタロト一人はそのことを意にも介さず、広がった炎の中にその身を投じた。彼には、全く火がつかなかった。

「さあ、こちらへ!」
彼はそう言った。その時、炎の中に黒い渦ができた。そして、その中からアスタロトの声にも負けないほど大きく、耳をつんざくような奇声が響いた。そして、悪臭が旋風のように巻き起こり、勢いよく何者かが渦から飛び出た。
「アアアアァァーッ!アアアァァァウ、アア、ガガ、ギギャアアァァ!!」
途方もない大きく、意味不明な奇声を発する彼を見て……人々は、絶句した。

人間の子供と蠅が混ざり合ったような姿を彼はしていた。その目は蠅の眼のように、光彩がいくつもあった。そして、その腹は異常なほどに醜く膨張していた。
「ああ、いらしたのですね!ベルゼブブ様!私の主よ!」
「ウ……ウァ?ア?ア!!アア!アア、アアァァ!!」
彼は、人間など意に介さずに、ただ腐った供物に飛びついた。そして唾液を撒きちらしながらそれを貪り食い始めた。
明らかに異形の存在だった。だが、アスタロトはそんな彼を見てうっとりしていた。
「おお、偉大なるベルゼブブ様、貴方はなんとお変わりのない事か!おお、その偉大なる威厳に満ち溢れたお姿、ごらんなさい、あの人間たちも、貴方の壮麗なるお姿に感嘆しております!」
彼は全く本気でそう言っているようだった。陶酔したような目で、彼は、ベルゼブブにそう告げた。
誰もが、その以上に気が付いた。やがて、祭司の一人が言った。
「あ……」
そして、彼は叫んだ。
「悪魔だ!あれは、悪魔だ!」

その声が、その場に響き渡った。ベルゼブブにそれは聞こえていないようだが、アスタロトがそれを聞きとがめた。
「なに?悪魔だと?」
彼がクルリと振り返った顔を見て、他の祭司たちも恐れの声を上げた。アスタロトも、いつの間にか人間の姿を変え、白と黒の姿に戻っていた。のみならず、その顔は狂気に彩られていたのだ。
「このお姿を見て、なぜそう思えるのだ!?不信心の人間は目も不確かだ!イゼベル、それに、彼とは違い信仰心厚きベルゼブブ様の祭司たちよ!お前らは見えるだろう!?ベルゼブブ様のお姿が!」
アスタロトはそう叫び、そして、他の祭司を見た。だが、アスタロトは驚いた。彼らもまた、同じように、目の前の光景を信じられないものを見る目で見ていた。
そして、何よりも、イゼベルがそうだった。
彼女は、全てに裏切られたような目をしていた。「そんな……そんな……」彼女は呟いていた。彼女にも分かったのだろう。いや、誰にだって分かる。これは、人間ではない。かといって、神の姿ではない。
狂気と醜悪が具現化したような空間。彼らが身を置かれたのは、それだった。
「ウウゥゥ……」
ベルゼブブは供物を平らげ、そして、赤ん坊の泣き声を低く、よりおぞましくしたような声を発しながら、ガリガリと自分に捧げられた黄金の像を頭からむさぼりめた。
ベルゼブブとは似ても似つかないその像は、エリヤに雷に打たれた時のように、バラバラになり、地面へ崩れた。ベルゼブブはそれをもガリガリと食った。
イゼベルはそれを見て、自分も地面に崩れ落ちた。

「イゼベル、なぜだ」
アスタロトも、期待を裏切られたように言った。
「なぜ、ベルゼブブ様を褒め称えんのだ。お前が最も敬っていた存在を。お前が娘の頃から、その忠誠をささげていた存在がその前に姿をお現しになり、何故、そのような態度をとるのだ。なぜ、喜ばんのだ」

イゼベルは悟った。
全ては、違ったのだ。アスタロトに会った時から。
アスタロトは最初から、狂気の存在だったのだ。このような狂気の存在を、心底神と信じているのだから。
アスタロトはふと、イゼベルに近づいた。その顔は、途方もない怒りがあった。
「答えよ!まさかお前までが、イスラエルの神の暴虐に屈し、ベルゼブブ様を疑うのではあるまいな!」
アスタロトはすっと、イゼベルに手を向けた。その時だった。

「……ア?」
ベルゼブブが不思議そうな声を上げた。アスタロトはそれに急いで反応し、「いかがなさいましたか、ベルゼブブ様!」と言った。そして、彼の視線の先を見て、はっとした。
エリヤが、いつの間にか自由になっている。彼を縛っていた縄が、引きちぎられたようだった。彼を見張っているはずの憲兵も腰を抜かしていた。それはベルゼブブになのか、エリヤが自力で縄をちぎったことに関してなのかはわからないが、とにかく、憲兵は彼を抑えることなど不可能だった。
「ガ……アアウァ……」
「やっぱりな」エリヤは言った。
「アスタロト。てめえだったのか、イゼベルに取りついて、俺の弟子を傷つけたのは」
彼はそう言って、まっすぐに立ちはだかった。
「てめえらは悪魔だ!」
「違う……違う……!何をぬかすか!ベルゼブブ様は、神なのだ!」
アスタロトは彼に言った。「ベルゼブブ様!彼を、貴方を侮辱するものを、殺してください!」
ベルゼブブはその言葉自体には意に介さなかった。ただ、エリヤの方を見ていた。エリヤを見ていたのかはわからない。ひょっとしたら、彼ではなく、別のものを見ていたのかもしれない。
「カミ……」
彼は言った。彼はエリヤの方を見て、その表情を怨嗟のこもったものに変えていった。
「カミノ……ツ、カイ……」
その時だった。ベルゼブブは今までにも勝る大きな叫び声とともに、蠅の羽をばさりと広げ、猛然とエリヤにとびかかってきた。その声を、文字に表わすことはできない。ただ、それは大きな音であった。もはやそれだけにしか、人の耳には聞こえなかったのだ。
エリシャは目をつぶりそうになった。だが、エリヤとの約束を思い出し、カッと目を見開いた。その時だった。
エリヤの足もとから、火が燃え上がった。そう。一瞬のうちに、火に燃える天馬に引かれた火の戦車が現れ、エリヤを乗せたのだ。
それはすっと宙に舞いあがった。「きな、ベルゼブブ!」エリヤは叫んだ。
「戦ってやるぜ、てめえはこの世界に居るべきじゃねえ!」
エリヤのその声に合わせて、その場で猛然と嵐が巻き起こり、頑丈に作られたはずの神殿の天井、そして壁を一瞬で吹き飛ばした。全てが崩れ去りそうな暴風の中、ベルゼブブは同じような声を上げ、エリヤとともに昇って行った。
エリシャは上を見上げた。嵐のなかで、激しい音が聞こえる。光もだ。
「戦って……いるんだ。師匠が、戦っているんだ!ベルゼブブと……」
彼は言った。誰に聞かせるでもなく、言った。そして、祈った。
「わが父、わが父、イスラエルの戦車、その騎兵よ、どうか、あの方をお守りください……」

大嵐は続いた。そして、天の上で巻き起こる轟音も続いた。エリシャは神に祈りながら、ずっと、空を見上げていた。
すると、だ。
目をつぶしそうな閃光が巻き起こり、ベルゼブブの悲鳴が響き渡った。
「ギャアアアァァァアアアァァッ!」
そして、嵐の中、何か、黒いものがまっさかさまに地上に落下した。それが地面につく前に、地面に黒く、大きな裂け目ができ、彼を吸い込んでいったのだ。

「ベ……ベルゼブブ様っ!!」
アスタロトが悲痛な声を上げた。
「ああ、ベルゼブブ様、ベルゼブブ様!お待ちを!」
彼はそう言って、彼もまた裂け目の中に入っていった。後には、ボロボロになった神殿と、あれほどの事が起こったにもかかわらず、何故か一人も飛ばされることはなかった人間だけが残された。
それは、何故だったのだろうか。当然だ。あれは、神の起こした嵐なのだ。ベルゼブブのために。人間を殺すためではない嵐だったからだ。


勝りが騒然とする中、エリシャは一人、空を見上げていた。ふと、嵐が明けて、そこから空がのぞいた。
エリシャははっとした。そこに、エリヤがいたのだ。
エリヤはにっこりと笑って、そして、それを最後に、天馬の引く戦車に乗りながら、天に向かって消えていった。それを見たのは、エリシャだけであった。

「あ……」彼は、エリヤの姿が見えなくなってから、再び泣いた。
「ああ……師匠……!」
彼は悲しみのあまり、自分の衣を引き裂いた。その時だった。パサリ、と、彼の上に何かがかぶせられた。
エリシャは起き上がって、それがなんであるかを知った。それは、エリヤの着ていたケープだった。エリヤに弟子になれと言われた日、彼にかぶせられたものだった。
エリシャは再び、涙が出た。そのケープが、彼の涙を吸い込んだ。しかし、その涙は悲観のためだけではなかった。


「あれは……」ベルゼブブの祭司たちは、うろたえていた。跡形もなく吹き飛んだベルゼブブ神殿を見て。そして、ベルゼブブとアスタロト、二人の消え去った割れ目を見て。
その割れ目はすでにふさがり、ただの地面の亀裂のようになっていた。しかし、確かに、ベルゼブブとアスタロトはここに消えていったのだ。
「あれは、悪魔だったのでしょう」彼らは口々に言った。イゼベルはまだ、ショックが冷めやらぬようだった。
「ああっ!」不意に、彼らのうちに声が響いた。それは、医者の声だった。
「どうした?」
「アハズヤ様が、国王陛下が……」
彼らはうろたえて、アハズヤの方を見た。見ると、アハズヤはすでに苦悶の表情で死んでいた。重い病気と重症の体を抱えながらの長旅、そして、目の前で起こった衝撃的な出来事に、彼の体は耐えられなかったのだろう。
「そんな……」イゼベルはフラフラとした足取りでアハズヤの方に向かった。そして、彼の死体に倒れこんだ。
「アハズヤ!私のアハズヤ!!」


もはや、周囲は残されたエリシャどころではなくなった。エリシャはその場を立ち去った。エリヤのケープを身に纏って。
「エリシャ、エリシャ。聞こえるか」
ふと、彼の心に聞こえる声があった。彼は、その声の主がだれなのか、はっきりとわかった。
「はい。聞こえています。……神様」
その声は、聞いていて、非常に心安らぐものだと、エリシャは感じた。まるでそれは、父親のように。そして、自分の師、エリヤのように。
「お前は私の心にかなうものである」
彼はそう言った。


エリシャが歩いていると、そこには、川があった。
彼はその時、感覚として、神から預言を受けたような気分になった。自分のすべきことが、直感的に分かったのである。
「エリヤの神、主はどこにおられますか」
彼はそう言いながら、エリヤのケープで川の水面を打った。
川は真っ二つに分かれ、エリシャはそこを通って、イスラエルへと帰っていった。


その様子を見ているものがあった。ベテル、エリコ、ヨルダンから来た預言者の集団であった。
「ご覧ください」彼らは言った。
「エリヤの霊が、エリシャの上にとどまっております」
彼らはそう言って、急いでエリシャの後を追った。彼を迎えに行くためであった。

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feat: Elijah 第二十一話



エリヤは、親の名前を知らない。彼が親に関して覚えていたのは「親がいた」と言うことだけだった。
およそ二歳か三歳ごろだったろうか。とにかく、物心がついてすぐの頃だったらしい。エリヤは、どこかもわからない集会所の前に置き去りにされた。
自分を見ていた男性と女性。「ここにいなさい」とだけ言って、自分が置いて行かないでと叫ぶ声に振り返りもせず、すぐに自分から遠ざかっていった二つの影。それが、エリヤが親に関して覚えていることのすべてだった。

エリヤは天涯孤独の身で育った。街々を転々とした。彼を拾おうというものは現れず、誰もが親のない彼を全く無視した。
小さいころ、彼は毎日残飯を漁って過ごした。いくつかの店から出る残飯を、その店の人間の目を盗んであるだけ口に詰め込み、後は人目に付かず、なるべき猛獣も来ないところを見つけて寝る。それ以外の事は何もした覚えがなかった。誰とも話さず、誰とも打ち解けなかった。彼は、ただ一人だった。

ある日の事だった。また彼が残飯を漁っていると、一羽の鴉がやってきて、エリヤの食べようとしていた肉片を一瞬でついばみ、飲み込んだ。エリヤはそれに関して、特に考えることもなく鴉と一緒に食べられるだけ食べた。彼らにとって食べられるだけ、と言うのは彼らの胃袋が許す限り、と言う意味ではなく、食べ物の量がある限り、と言う意味だ。それは俺のものだと怒る時間ももったいない。食べなければならない。彼らはそう感じていたにすぎなかったのだ。
だが、翌日、鴉はまた同じところに来た。次の日もそうだった。そんな日が何日も続き、気が付いたら、エリヤと鴉は一緒に居るようになっていた。

鴉に名前はなかった。それに、エリヤも自分の名前を知らなかった。そして、それで何の問題もなかった。名前を付けて区別する必要がある世界に、彼らはいなかった。人間のたくさんいる街の中にあって、残飯と、薄暗くて不潔な寝床と、エリヤと鴉だけがその世界には存在した。
「なあ」ある日、鴉が口を開いてエリヤに言ったという。いつごろからそうなったのか覚えてはおらず、ひょっとしたらその時だったかもしれない。出会ったときには確かにわからなかったはずなのに、エリヤには鴉の言葉がわかった。そしてそれに、何の驚きも感じなかった。
「お前はなんで、一人ぼっちなんだ」
鴉はそう言った。
「この町にも、前いた街にも、捨て子が沢山いた。お前だって捨て子だろ。お前はなんで、あいつらの仲間にならないんだ」
「あいつらは盗みをして食ってる。あるいは集団で強盗したり、春を売ったりしている」
エリヤはそう答えた。飢饉が激しく、食べ物が不足していたので残飯を出す店すら三日間見つからないような日の事だった。彼らは泥水の薄いところを見つけて飲んでいた。
「だからどうした」
「俺は、やりたくないだけだ」
「善悪の問題か?」鴉はそう聞いた。「そんなことでもしなくちゃ、生き残れないだろう」
「そんなことをしてまで生き残りたい人生でもない」
エリヤは鴉に向かって言った。
「もしも狂って王になれるのだったら、俺は狂った王より正気の乞食でありたい。俺は、俺が正気でありたいのを知っているからだ」
「じゃあ、お前は人生に悲観しているのか」
「それは分からん。もしもそうなら、俺はとっくに食うことをやめていると思うからな。ただ、やりたくないだけだ」
鴉はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。大人の女の悲鳴が聞こえた。飢饉のおかげで街の治安は大分悪くなっていた。彼女を襲ったのは大人だろうか、子供だろうか。それもわからない。
「奴らがそれをしなきゃ生き残れないのは」鴉が言った。「ここが人間の町だからだ。ここには肉と肉の狩りなどない。金と物資の狩りがあるのみだ。奴らは動物的本能に従って狩りをしているだけだ。少なくとも、奴らはそう言っているんだから、おそらくそうなんだろう」
鴉は黒い羽を散らした。そして、エリヤに言った。
「ここで狩りができないんなら、いっそ人間の町を飛び出してみてもいいだろう。人間が町に居なきゃならんのは、そこに家族があり、仕事があるからだ。しかし、お前には何もない。それに、運が良ければ少なくとも今よりは食えるだろうからな」
「確かにそうだ。俺は町に居る意味はなかったっけな」エリヤは鴉の言葉にそう納得して返した。その日を最後に、エリヤは人里を離れ、そして乾いた風の吹きすさぶ荒野に出た。エリヤが荒野で暮らし始めたのは、その頃である。


荒野での生活は、エリヤの肌に合っていた。人の気配を感じず、何のためでもなく、ただ納得のいく方法で生き延びるだけの生活がより自然なものとなったようだ。広く、高大に伸びる荒野を彼は駆けずり回った。
彼は鴉と一緒に獲物をしとめてそれを食べて過ごした。最初はネズミやウサギを。しかし、しだいにどんどん大きなものを、彼は狩り取れるようになっていった。
それに、身体能力もどんどん向上していった。荒野で生き延びるにあたって身体能力を磨くことは大変重要なことだったし、また、彼にも天性の才能があった。
人間を見るのは、行商隊や修行者を遠くから見るとき、そして時々起る戦争のときくらいなものだった。戦争が起きると、決まってエリヤは鴉と一緒に軍が残していった物資を漁った。食料があるときもあったし、刃物があるときもあった。彼は残飯を漁るようにそれを時々はぎ取ってつかった。
そんな生活は、彼が成長し、そして鴉が死ぬまで続いた。鴉が死んだのは突然の事で、ただ、昨日まで普通に食べながら話していたものが、起きたら物言わなくなっていて冷たくなっていただけだ。二、三日の間、彼は鴉が生き返るかもと思っていたが、その兆しはなかった。
エリヤは悲しいという感情が解らなかった。ただ、心の中が不思議と空虚感に満たされた。彼は誰にそう教わったでもないが、穴を掘ってその遺体を穴に埋めた。彼にとって、何か動物が死んでいて、それが目の前にあるときそれは常に食べるべき対象であったのだが、その時限りはそのような気分にならなかった。

鴉が死んでから、彼はしばらく、空虚感に満たされた。何かを食べて生きる気がしなかった。狩りの腕が、鈍ってしまったかのように思えた。
今狩りをすれば自分が怪我を負うかもしれない。彼はそう判断して、その時ちょうど人里が見えていたので、小さいころよくしたように残飯を漁りに行った。その町が、ティシュベの町だった。


飢饉はとっくに終わっていたらしく、ティシュベの町はにぎわっていた。久しぶりに残飯を食べて、彼はこんなにまずいものを自分は食っていたのかと実感した。新鮮な動物の肉と比べて、それはあまりにも冷たく、臭く、味気なかった。
それでもエリヤは食べた。そして、寝るところを探した。宿に泊まる金など当然ない。やがて彼は、とある建物の屋根裏に潜り込めそうであるのを発見し、そこに宿をとることにした。屋根裏は野獣も入らないし、泊まるには最適な場所であった。それに、木や壁を伝って屋根裏に入ることは彼にとってはたやすいことだった。
建物の下では何かが行われているようで、人の声が聞こえた。エリヤはそれを聞かずに眠ろうとした。しかし、不思議と、眠れなかった。彼は目をつむったまま、話されている内容を聞いた。数年ぶりに聞く人の話し方。もう忘れかけてすらいた。話されているその内容を、彼は一日で理解することはできなかった。だが、何日もその屋根裏部屋に居るうちに、彼にはわかってきた。
この建物は、集会所なのだ。そして、自分の下で、祭司が神の教えを説いているのだ。

少しずつ、人の話し方を思い出してきたエリヤは、いずれそれに耳を傾けるようになった。エリヤのような身寄りのない人間は集会所には入れない。だから、たとえエリヤが一階にいたとして、それはエリヤに向けられた言葉ではないのだ。ちゃんと親がいる少年たちを教育するために語られた言葉なのだ。それでも、少年の日のエリヤは聞き続けた。エリヤにとって、神と言う概念を知るのは、その時が初めての事だった。「この世は、神によって作られた」という言葉、そして、様々な律法、神の教えの数々は、エリヤの耳にとって非常に新鮮なものに聞こえた。

その日の事を、エリヤははっきりと覚えている。その日、祭司の声はこういっていた。
「神は常に、私たちを見ているのです」
名前も知らない、顔も知らないその祭司の言葉は、妙にエリヤの心に残った。夜が更け、集会も終わった時、エリヤは集会所の屋根裏部屋で、その言葉について思いを巡らせていた。

おそらく、祭司はその言葉を、だから罪を犯さぬように、と言う言葉の意味で使ったのだろう。しかし、エリヤにとっては違う意味を持っていた。エリヤは自分の人生を思い出していた。
自分は生まれながらに、一人だった。誰も自分に手を差し伸べなかった。悪事を行うか、町を出て荒野で暮らす以外、腹いっぱいになる方法すらなかった。一羽の鴉を除いて、自分に話しかけることすらなかったのだ。
もしも、だ。エリヤは思った。もしも、自分のこの人生に、本当に神がいて、そして、神が見守っていたのだとしたら。
彼はそこまで考えた。そして、口を開いた。
「神様、聞こえますか?」
言おうと思ったのだ。むろん、目の前には誰もいなかったが、神が実際にすべてを見ているのなら、きっと届くだろうと思ったのだ。「聞こえるのなら、俺の言葉を聞いてください」彼は言った。そして、神妙に自分の言いたい言葉をどうあらわしていいか、数瞬の間悩んだのち、言った。

「ありがとうございます。……俺の言葉を聞いてくれて、ありがとうございます」

彼は、嬉しいと思った。
鴉が死んだとき、自分はこの正反対の感情だったのだ、と、彼は悟った。そうだ、自分は嬉しかったのだ。誰かに、言葉を聞いてもらえるのが。父と母は、置いていかないでと言う自分の声を無視した。誰もが、自分の声を無視した。それを鴉に聞いてもらえたのが、嬉しかったのだ。そして、それを失ったのが、悲しかったのだ。
だが、と、エリヤは思った。もしも神がいて、そして本当に、自分を見ているのなら、つまり、自分の声は常にその神に聞かれているのだ。彼はそれがたまらなく嬉しかった。自分の声が聞かれないことなど、実は、ずっとなかったということなのだから。
彼はそれを思って、心が満たされた。彼は、神を信じたかった。
彼は少し後、もっといい言葉を思って、そして付け足した。
「俺を一人ぼっちにしなくて、ありがとうございます」


彼はその後、荒野での生活を続けた。鴉もいなくなり、本当に一人だったが、さびしいとは思わなかった。鴉と過ごした日々は確かに存在するのだし、彼が存在してくれた事に、エリヤは心底感謝した。そして同時に、神にも感謝した。自分を一人ぼっちにしはしない存在に。エリヤは疑うことなく、神を信じた。時々心寂しくなると、彼はティシュベの集会所の屋根裏部屋に潜り込んで神の教えに耳を傾けた。そのうち、彼自身のしゃべり方にもティシュベのなまりが付いてきたというわけだ。

そのような生活が、さらに十年以上も続いた。ある日、眠っていたエリヤは声を聴いた。

そこは、どこともわからない空間だった。
エリヤの眼には、何かが映っていた。何の形とわかるものでもなかったが、とにかくそこに存在していたのだ。
「お前の名前は何か」彼は、厳かな声でエリヤにそう問いかけた。
「……わかりません。知りません」
彼は、謎の存在に素直にそう答えた。
「私は、お前を、私の御心を叶わせるものとして選んだ。お前が、私を信じているからだ」
その言葉を、エリヤは不思議な気持ちで受け止めていた。と同時に、彼は目の前の存在がなんであるのか、薄々と分かったのだ。
そのことを悟ってうろたえるエリヤに、彼はなおも言った。
「名前がないというのならば、付けるがいい。お前がほしい名前は何かね」
唐突にそう言われて、エリヤは少し戸惑うも、考えた。しかし、やがてある言葉が頭に浮かんだ。もしも自分が名乗るのであれば、それがいいと思えた。
「……『エリヤ』……」
それは「主こそ神だ」と言う意味だった。そして、彼が屋根裏に潜んでいた集会所で、幾度となく言われていた言葉でもあった。
「エリヤ」彼は言った。
「俺の名前は、エリヤがいいです」
目の前に立つ彼が、静かに微笑んだのだと、エリヤにはわかった。彼は右手を伸ばし、そして、子供にするように、彼の頭を撫でた。
「良い名だ。お前にぴったりだ。エリヤ。お前の名はエリヤだ」
それを、彼は暖かいと思った。人生で初めて感じるほど、それは暖かかった。
ビジョンはそこで終わった。彼は目が覚めた。目が覚めた時、彼はもう一度、自分の名を呼んだ。

それからの事だった。彼に、神の預言がたびたび下るようになったのは。
彼は、預言者になったのだと自分の事を知った。ちょうど、イゼベルの宗教改革が進んでいた頃の話だった。
エリヤはそんな自分に誇りを持った。神は彼にとって偉大なものだった。そして、その神の計画に携われることを幸福と感じた。
エリヤは神の預言に導かれるままに、アハブの宮殿に向かった。そして、干ばつの預言を告げたのだ。

干ばつのイスラエルを逃げながら生き延びることなど、荒野で長い間生きてきたエリヤにとっては今さらたやすいことだった。彼は、干ばつの三年間の間考えていた。
何故、イスラエルがこうなったのか。誰も、神の事を信じていないのだ。彼はそう思った。
彼は本当に、神に感謝していた。なのに、そのように神を信じられる人間は少ないのだ。神は自分を選ばれた。自分を。自分以外に、選ぶ人間がいなかったのだろう。彼はそう思った。だって、イスラエルの預言者たちはイゼベルのされるがままになっているのだから。
エリヤの中で、イスラエルの人民全てに対する怒りが湧き上がっていた。彼らには信仰心がなかったのだ。
一人、それらしき人間をある日見つけた。彼は老人だった。エリヤは一目見て、彼は信仰に熱い人間だと分かった。それはエリシャの祖父だった。
だが、干ばつが終わろうと言うとき、エリヤは彼の葬式が行われているのを偶然見届けた。それを見て、彼はいよいよ、信仰深き人間など一人もいなくなってしまったのだと思い込むようになった。
干ばつで、人々が神を罵るのをエリヤは自分の耳でも聞き、また、鴉たちからも聞いた。エリヤは、イスラエルの人民に冷ややかな思いを抱くようになっていた。
このように人民はわがままなのに、神はそれをも超越するほど偉大なのだ。このように干ばつを起こし、罪を悔いさせることができるのだから。それだけの力のある、大いなる存在なのだから。彼はそう思った。

そして、そのままアハブの前に現れ、カルメル山に向かったのだ。バアル崇拝への怒りを持つままに。自らの崇拝する神を侮辱したイゼベルとアハブに対する怒りのままに。

そこで起こったことは、もう語る必要はない。干ばつは終わり、雨は降った。

しかし、そこから立ち去ろうとしたエリやを引き留める存在がいた。それが、ミカヤだった。ミカヤは必死に、貴方についていきたい、とすがったのだ。
しかし、エリヤは言った。エリヤは思っていたからだ。これも所詮、自分より不信心な人間にすぎないのだ。神に、その信仰を認められたような人間ではないのだ。自分しか動かなかったのだから。動けなかったのだから。それほどの人間がいなかったのだから。
「俺は一人で十分だ、誰の助けもいらん!」

生まれてから、人間の仲間など作ったことなどなかった。自分には、鴉と、神がいれば十分だった。
彼は、目の前の少年を振り払い、そして、走り去っていった。

そののちエリヤは自分に対する指名手配がなされたことを知った。そして、荒野に身を隠したのだ。


彼は、ベエルシェバの方向に逃げた。そこに行ったのに理由などなく、ただ足の赴くまま進んで行ったらベエルシェバだっただけの事だ。
彼はエニシダの木の下に座った時、ふと、生まれてから初めてともいえるような感情に襲われた。それは非常に鬱々としていて、暗く、重く、冷たかった。
自分の体にあふれる生命力が、全て流れ出てしまったような気分だった。鴉を失った時以上に、彼の心は空虚に満たされた。
これは一体なんだというのか。彼は考えた。しかし、答えはなかった。彼はただ、空虚だった。だかしばらくその場に寝転んでいて、彼はようやく答えを見出した。疲れたのだ。彼は、非常に疲れた。
カルメルでやったことにではない、と感じた。自らの、今までの人生にだ。
ただ喰い、ただ寝て、ただ走り、そして、ただ神の声を聴いていた。もうそろそろ、走りつかれてしまった。彼はそう思った。
そう言えば、集会所では昔の偉大な者たちの話をしていた。アブラハム、モーセ、サムエル。彼らは、立派に戦ったらしい。立派に、その人生を、神にささげたらしい。
こんなにも疲れることだったのに、それができたのだろうか。エリヤはそう感じた。いや、できるはずがない。エリヤはその時、立ち上がれもしなかった。それほどまでに、疲れていると感じた。
「神様」エリヤは言った。「もう、俺の役目は終わりです。そうでしょう。俺は、疲れるような人間なんですから」
彼はそのまま、寝た。

ふと、誰かに触れられたような感触があった。見てみると、美しい姿の存在がそこに居た。人間に似ていたが、背中に翼を生やし、白百合を握っていた。
神の使いである、と、エリヤは直感した。
「エリヤ」彼女は言った。
「お食べなさい」
彼女の言葉は、それだけだった。しかし、そっけなさはなく、染み込むような優しい言葉だった。気が付けば、エリヤの目の前には焼きたてのパン菓子と水瓶がおいてあった。
エリヤはそれを食べた。最初のうちは勢いがなかった。
だが、天使は「もっとお食べなさい。もっと、力をつけなくちゃだめよ。貴方の行く道は長いのだから」と、微笑みながら優しく語りかけた。そう言われているうちに、エリヤはだんだん食欲だけはついてきて、目の前に出されるものをひたすら、満腹になるまで食べた。気が付いたら、天使はいなくなっていた。

彼は、導かれるように、当てもなく旅を続けた。ものを食べたのだから何とはなしに力はつき、眠っていることは億劫になってきたからだ。しかし、心は相変わらずどこか鬱々としていた。
四十日も歩いただろうか。気が付くと、彼は大きな山に居た。彼はそこに上った。ちょうど洞窟を見つけたので、彼はそこに潜り、夜を明かすことにした。

だが、その時だった。
「エリヤ、エリヤよ」
見知った声が聞こえた。それは紛れもなく、主の声だった。
「エリヤ、ここで何をしているのか」
「何をって……」
彼は言った。
「あんたも見て、知ってるでしょう。俺は、ずっとあんたを信じて生きてきました。でも、イスラエルの人民は、あんたを信じないんです。珍しく信じる奴がいたって、どんどん死ぬか、王や王妃に殺されて死んでいくんです。残ったのは、俺一人だ。その俺も、殺されるかもしれないっていうんです」
彼は言った。
「どうせ死ぬんなら、殺されるんじゃなくて、あんたに殺してもらった方がいいな、って思っていたんですよ。だって、あんたは、生まれてからずっと俺と一緒に居てくれたんだから」
エリヤは、全く正直な気持ちで神にそう言った。それは本音であった。
むなしいと思えてきたのだ。この世は、神を信じない。信じても、助からない。
神はいる。自分はそれを知っている。激しい嵐と雷の中、自分は神を見た。しかし、いくらバアルの預言者たちが死んでも、失った人たちは帰ってこない。
「神様、あんたはなぜ、俺たちをみんな正しくしてくれないんですか、雷を起こして、あいつらを焼き払ったみたいに」
エリヤはそう言った。


神はその発言をとがめなかった。その代り、「外に出て、私の前に立ちなさい」と言った。
エリヤはよろよろと洞窟の外に出た。その時だった。
エリヤを吹き飛ばしてしまいそうな激しい突風が吹き荒れた。彼は風にさらわれまいと必死にしがみついた。岩肌が突風のあまりはがれ、大きな石つぶてが何個も彼方に飛んで行った。しかし、その中に神はいなかった。
やがて突風が終わると、エリヤは安心した。しかし、安心してもいられなかった。山全体が、激しく揺れたからだ。エリヤは地震のあまりの激しさに立っていることもできず、バランスを崩して手とひざをゴツゴツした岩肌に打ち付け、血が出た。だが、その大地震の中にも、エリヤは神を見いだせなかった。
最後に、地震が止んだ時、どこからともなく火が舞い降り、あっという間に山火事になった。エリヤは息苦しさを感じながら、咳き込んだ。目を覆うほどの光と熱が彼を襲った。
しかし、その中にも神はいなかった。あの日、自分の夢枕に似た存在は、決してそこにはなかった。

気が付くと、山火事はすっかり止んでいた。
「エリヤ」
しいんとした、異常なまでの山の静寂の中、静かな、非常に静かな囁き声が聞こえた。エリヤにはわかった。それは、神の声だ。そして、その声自身が、あの日見た存在であるような気も、彼にはした。
その時、彼の心の中で何かが洗い流された。


ああ、そうだ。自分はいつの間にか、勘違いしていたのだ。神は、このような激しい自然災害の中にはない。大きな出来事を起こしても、それは本質ではないのだ。
干ばつも、大嵐も、力だ。しかし、本質ではない。神の本質は、自分があの日ありがたいと思ったように、こうして静かに、人間とともに寄り添ってくれることだったではないか。
自分は忘れていたのだ。神の偉大な力に触れるあまり。

ぼうっと立ち尽くす彼に、神の言葉は続けた。
「ここで何をしているのか」
「…神様、俺はあんたにお仕えしてきました。でも、イスラエルの群衆はまだまだ、不信心です。預言者たちも殺されました。俺も、殺されようとしています」
彼は同じことを言った。だが、その言葉の最後に一言を付け足した。
「……教えてください。俺は、何をすればいいですか?」

彼のその言葉に、神は答えた。
「戻るがよい。アベル・メホラの地に、お前が後継者とすべき存在がいる。行って、彼を連れなさい」
「後継者?」
「そうだとも」神は言った。
「エリヤ。イスラエルに、七千人の人間を残しておいた。彼らは皆、バアルに跪かなかった者達である」
その言葉を聞いて、エリヤは目をぱちぱちさせた。神は続けた。
「彼らは皆、同じように私を信じ、また、私の言葉を聞くものだ。エリヤ。お前一人ではない。お前一人で、全部背負ってはいない。何人も、いるのだ。イスラエルにまだ、何人も、何人も、いるのだ」
その言葉を聞いて、エリヤの眼から涙がこぼれた。
彼は泣いた。神はそれを、暖かく受け入れた。エリヤは安堵のあまり泣いたのだ。自分一人ではない。その言葉に。
長い間、一人だと思っていた。神と通じはしても、人間の仲間などいないと思っていた。
だが、違うのだ。人間として、自分は人と分かちあえるものがある。自分だけ特別ではない。特別とは、孤独であることだ。
残されたその人たちと、自分が平等であることを知ったのだ。そして、同じようにこの時代を生き抜き、イスラエルの信仰を守る存在であると知ったのだ。それが、たまらなく嬉しかった。
自分は一人ではなく、そして、自分と同じような存在が何人もいる。それは、彼の人生で初めて知ることであった。

翌朝、彼はイスラエルに戻った。戻るとき、一つ知ったことがあった。自分が立ち寄ったのは、シナイ山だったのだ。かのモーセが、律法を受け取った場所だ。
エリヤは思った。おそらく、彼も悩んだのだろう。疲れたのだろう。モーセも、アブラハムも、サムエルも、ダビデも。彼らもみんな人間であったのだから。だが、その苦しみを乗り越え、その人生を全うしたのだろう。
エリヤはまっすぐに、アベル・メホラに向かった。



そこで話は終わった。
「ミカヤが来た日、俺とあいつが話したろ」エリヤは言った。
「俺がシナイ山で神様に語られたこと、話したんだよ。神様はな、あいつがその選ばれた七千人の一人だから、俺にあいつを連れて行くなって言ったんだ。あいつは俺と同じ立場であるべきで、俺の下に立つべき存在じゃない。あいつも、それをわかってくれたんだ。わかってくれたからこそ、自分で、自分の戦いに赴いた」
「立派ですね」エリシャは言った。
「エリシャ」彼は、自分の弟子を傍に引き寄せて言った。
「ありがとな。人と居るのは本当に楽しいって、俺は、お前のおかげで実感できたよ」
彼はそう言って、にっこり笑った。
「ありがとう。……本当に、ありがとう。俺のそばに居てくれて」
「何を今さら」
エリシャも笑った。
「最後まで一緒ですよ、師匠」

彼らはいつの間にか眠っていた。眠りは安らかで、穏やかな夜の静寂が彼らを包み込んでいた。

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feat: Elijah 第二十話

サマリアについたエリヤは、すぐにアハズヤとイゼベルの前に連れてこられた。
イゼベルは目の前に現れた人物が確かにエリヤであることを見届けると、すぐにエフーを言ったとおり将軍職に就けると宣言して王の印を押し、そのあとその場をさがらせた。
エリヤを前にしたアハズヤはすっかりおびえていた。病気もひどくなっていたのもあって、顔色は真っ青だった。

「お前とこうして会うのは四回目ですね」イゼベルは静かに、そして途方もない怒りを込めてエリヤを見た。エリヤはエリシャを後ろに庇うようにしながら、その言葉を受け止めた。
「前にも見ましたが、その後ろに居る者はなんですか」
「俺の後継者だ。名前はエリシャ」エリヤは答えた。
「そうですか。まあ、どうでもよろしい。エリヤ、我が息子に不吉な預言を告げたそうな。その言葉、言えるものならばもう一度、この場で言ってみなさい。この哀れな子の前でね」
イゼベルはそう言って、話をアハズヤに振った。アハズヤは一気にすくみ、助けを求めるような視線を母親に送ったが、彼女はエリヤを睨みつけたままだった。
「ああ、いいぜ。アハズヤ王」エリヤは言う。「俺が神様から受け取った言葉は全く、何のかわりもありゃしねえ。あんたは死ぬんだ。もう二度と元気になることはない」
それを聞いていよいよ顔を青くするアハズヤを背に、イゼベルは言う。
「何を余迷い事を。この子は真実なる神、ベルゼブブ様が助けてくださるのです」
「前々から思っていたけど、ベルゼブブ、ってなんだ?」
「偉大なるバアル様の真名です」イゼベルはお高く留まって答えた。「お前たちイスラエルの妬む神とは違う、真に偉大なるもの」
「まだ目が覚めてなかったのか、イゼベル。バアルだかベルゼブブだか知らんが、そんなもんはいねえと、あんたのお気に入りが四百五十人死んでもまだわからなかったかよ?」
その言葉を聞くと、イゼベルは唐突に笑い出した。それを見て、さすがにエリヤも異常な気配を察知した。
「ほっほっほ……いない!ベルゼブブ様がいないと言ったのね!まったく、視野の狭い頑迷な乞食坊主はこれだから」
「どういうことだ?」
「私は見たのです!真なる神の使いと、その口で語らったのです!何回もね!」
自信満々に言うイゼベルの顔にはったりは見られなかった。見られなかったからこそ、エリシャはそれに怯んだ。だが、エリヤは違った。彼はにやりと笑って「……なるほどな」と言った。
「なんですって?」
「イゼベル。俺はだな、二年前お前とアハブに会った時、妙なものがここに居るってわかったんだ。今何もかもわかったよ。お前は確かに、見たんだろうな。神じゃなくて、悪魔を。お前は悪魔に騙されているんだ。悪魔に、神を語られているだけだ」
エリヤはさも当たり前のように、さらっとそれを言ってのけた。

その場はしばらく、水を打ったように静かになった。エリシャもアハズヤも、周りにいた臣下たちも全員エリヤの発言の前に言葉を失った。一番最初に口を開いたのは、イゼベルであった。
「なん……ですって……」
イゼベルの声はわなわなとふるえ、今に出もエリヤを絞め殺さんばかりの剣幕だった。エリヤには悪びれた様子が一切ないのも、彼女の怒りを増幅させた。
「あの方が……ベルゼブブ様が、悪魔……?」
彼女は呻きながら、エリヤの前ににじり寄ってきた。その目は狂気を孕んでいるようにすら見えた。エリヤは全くそれに怯む様子も見せなかった。
イゼベルが今にもエリヤを締められるのではないかと言うほどにじり寄ったその時だ。彼女の手が伸びるよりも早く、一つの声がその場を切り裂いた。
「聞き捨てならん!ベルゼブブ様が、悪魔だと!?」

男とも女ともつかないその妙に高い声は、その場のだれの耳にもなじみがない者だった。ただ一人、イゼベルを除いて。その場にいるすべての人間の視線が、アハズヤの病室のカーテンを翻して現れたその人物に注がれたのも当然だろう。
だがイゼベルはその人物を知っていた。少年とも少女ともつかない体に、真っ黒な長い髪。白と黒の衣装。肌は色白の人間程度には色づき、唇もそれなりに赤く目の色も白から黒に代わって一応普通の人間の姿のようにはなっていたが、それは明らかにアスタロトであった。
「アスタロト様」思わずイゼベルは彼の名前を呼んだ。
「皇太后陛下、この者は……」
「あ……私の腹心のものです。ベルゼブブ様の司祭で……」
そう取り繕うイゼベルをよそに、人間に化けたアスタロトはエリヤに詰め寄った。エリヤも初めて会うその人物に目を瞬かせていた。
「貴様。神聖なるベルゼブブ様が悪魔だと?」アスタロトは彼の反応にもお構いなしに、イゼベルに代わってエリヤに非難の言葉を浴びせた。それを聞いて、エリヤも言う。
「ああ、悪魔だ。間違いない」
「よくも……そのようなことが言えたものだな!イスラエルの神こそ悪魔ではないか!偽りの神だ!ベルゼブブ様こそが正義、ベルゼブブ様が真実の神だと分からぬ、無知蒙昧で哀れなものめ、私はお前に同情すら覚えるぞ。お前はこの世の真理を知らず、悪魔を神とあがめ罪に身を落としているのだから」
初対面の人間にこのような台詞を巻き散らかされて不快にならない人間はそうはいないだろう。だがエリヤは自分自身よりも、イスラエルの神を侮辱されたことの方が癪に障ったらしかった。
「なんだって!?神様が、悪魔!?」
「そうであろう!お前たちが神とあがめているものが邪悪なる悪魔でなくては一体なんだと言うのだ!」
「てめえ……知った風な口叩くんじゃねえ」
「知った風な口だと?私はお前よりもイスラエルの神を知っているぞ。あいつがいかに邪悪で、救いようもなく愚かで、強欲で、傲慢で、この世を闇に落とす最低最悪な存在かをな!」
アスタロトが笑いながらそう言い切った時、エリヤは一瞬すっとうつむいた。
「おお、どうした?否定もしきれないか?そうだな、そうだそうだ。はっはっは。イスラエルの神は残忍だからな!お前のためについ先日も百人も殺したばっかりだ!我らの神偉大なるベルゼブブ様はそのようなことはなさらない!」
しかし、アスタロトがそう言ったかと思うと、次の瞬間、エリヤは恐ろしい目つきでアスタロトを睨みつけた。青や緑の混ざった黒い瞳そのものが輝いたかのようだった。
「言うに事欠いて、好き放題ぬかしやがって。神様が、お前にそこまで侮辱される謂れががどこにある」
「どこにあるだと?強いて言うのなら、ベルゼブブ様は絶対にこの世に存在し、私たちを見守る慈悲深い存在であるという事実がある!」
アスタロトはそう言うと、ふと眼を動かし、イゼベルを指さした。
「イゼベル!私はよいことを思いついたぞ。この預言者エリヤを処刑する前に、偉大にして神性なるベルゼブブ様をこの男に見せてやる」

「な、なんですって!?」
アスタロトの言葉に、再びその場は騒然となった。だが、アスタロトは続ける。
「明日にでも、エクロンに向けて出発しよう。このアハズヤをベルゼブブ様のご加護で治して見せよう。ベルゼブブ様に不可能はない!この人間は不遜ではあるが、罪ではないのだ。罪はただ、イスラエルの神のみにあり、後の人間はその偽が身にまんまと騙された被害者にすぎないのだからね。哀れにもイスラエルの神にすっかり洗脳されてしまった人間に、真の神がなんたるかと言う真実を見せてから死なせてやりたいと思うのだよ、イゼベル」
「な!?」それを聞いて驚き、あわてて言葉を挟もうとしたのはアハズヤ付の医者だ。「少々お待ちを、アハズヤ様の病状では、エクロンへの旅など……」
だが、アスタロトはそれを無視した。「イゼベル、それでいいだろうな!?」と、彼は威圧するように言った。
イゼベルはその声と、彼の顔を見ているうちに、またあの日、アハブを亡くして嘆いていた日のように、不思議な気持ちに陥った。

「……良いでしょう」やがて彼女は物を言った。「エリヤ憎さに、お優しい貴方様のような視点を忘れておりましたわ。ええ。この哀れな人間をお救い下さい、アスタロト様」
「ま、まって下さい」またしても口が挟まれた。今度は、アハズヤのために祈祷をしていたベルゼブブの神官だった。
「あなた、先ほど、ベルゼブブ様を見せる、と……?」
「ああ、そうだ。ベルゼブブ様を見せてやる。私にはそれができるのだ。ベルゼブブ様は私が懇願すれば、いつでもその姿を現してくださる」
「神が、人間の前に姿を現すというのですか!?」
「ん?おかしい事ではあるまい。ベルゼブブ様は、存在しているのだから」
神官たちはうろたえ、イゼベルに彼について尋ねはじめた。イゼベルが口ごもっていると、アスタロトは答えた。
「私は偉大なるベルゼブブ様の使い、アスタロトだ。それ以外のなんの存在でもない。では、それで決まりだな。番兵を呼び、この男を明日まで牢につないでおけ!」
アスタロトはそう、まるで自分が王であるかのように自信満々に命令した。



エリヤとエリシャは、牢獄に連れて行かれた。番兵は彼が逃げ出さないかと多少びくびくしていたようだが、意外なことに彼は一切抵抗はせずに、むしろ番兵たちの先を歩きすらした。その間にも、不安げなエリシャを慰めるように彼と手をつないでいた。
エリヤの前に、一晩分の食べ物を持ってきたのは侍従長オバドヤだった。
「おいたわしく思います、エリヤ様」彼は言った。
「私はイスラエルの神を信仰しておりました。貴方を、尊敬しておりました」
「ありがとよ。侍従長さん」エリヤは軽くそう言って、食べ物を受け取った。
「私はミカヤの保護者でもありました」彼は言った。
「ミカヤは、ずいぶんあなたに迷惑をかけたことでしょう。手間のかかる子でしたから。でも、彼は潔く最期を遂げました。彼の呪われた運命が救われたのは、神と貴方のおかげだと私は思っております。本当に、ありがとうございました」
オバドヤは半ば涙ぐみながら、そう言った。エリヤもミカヤの事を思い出してか、「……いや、もう一人、あんたのおかげでもある。あんたも、大した人だ」と言った。


すっかり日が沈んだとき、エリシャは全く眠くなかった。牢獄に他につながれている人間は居ないのか、それともここが遠く離れた独房であるのか、周囲に人の気配は全くなく、沈黙そのものであった。
エリシャはエリヤの方を見た。彼は寝そべりすらせず、牢獄の窓から月を見ていた。月の明かりに、彼の顔が照らされた。
「……師匠」
エリシャは、彼に何と声をかけていいのかわからなかった。エリシャは処刑されるのだろうか。イゼベルはエリシャには興味がなさ気だったので、意外とその線は薄いように思われた。
それよりも今はエリヤだ。エリヤは言った。もう、自分は荒野に戻ることはない。自分はこの世を離れるのだと。エリシャには、それがひどく非現実的なことのように思えた。エリヤが死ぬなど、信じられないことだった。
エリヤは英雄だった。人間離れした存在だった。そして、明るく、生命力にあふれた人だった。死などとは、この世で一番無縁の存在だと、エリシャは感じていた。
「どうした?エリシャ」
「いえ……」
そう言って口ごもってしまった彼に、エリヤは静かに笑って言った。
「なあ、エリシャ。せっかくだ。少し、話をしてもいいか。お前が、俺の後継者になってくれるって、はっきり言ってくれた時から、話そうって決めてたんだ」
静かでひんやりと湿った牢の中に、エリヤの声が優しく響いた。どことなく、幻想的な思いでもあった。
エリシャはもちろん、首を縦に振った。それを受けて、月明かりのもとでエリヤは静かに話しを始めた。
それは、エリヤの昔話だった。誰も素性を知らない、生まれも知らない、エリヤ自身しか知らない、エリヤの人生を、彼は唯一の弟子に語った。

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feat: Elijah 第十九話

王子アハズヤが後をついでから、イスラエルはアハブの治世より良くなることはなかった。若く弱気な彼は、政治的才能にも乏しく、全てを母に任せきりだった。
イゼベルはアスタロトの預言通りエクロンにベルゼブブ神殿を作り、そこを拠点にベルゼブブ崇拝を行った。彼女の手腕だけは年月がたっても確かなようで、前のように急進的ではないまでもバアル、もといベルゼブブ崇拝はじわりじわりと息を吹き返しつつあった。
彼女は、自分の息子にもベルゼブブを拝むよう強いた。そしてそれは実に簡単なことであった。王が直々に崇拝しているとなれば、宗教改革も進む。アハブの治世のときも同様だったのだから。
サマリアにもベルゼブブ神殿が立った。子供たちには、ベルゼブブ信仰を行うような教育がなされた。イスラエルの宗教は、またに追いやられていった。たった数年の出来事であった。


ところで、アハブが死んでからと言うものの、諸国はまたイスラエルを舐めはじめた。特にイスラエルに服従を誓っていたはずのモアブ人が反旗を翻したのだ。そのおかげで、イスラエル軍は幾度となくそれの鎮圧に向かうことになった。
ただ、アハズヤはイゼベルの言うことでなくては実行しない。イゼベルはもとより戦争事には興味が薄いのだ。彼女が一番興味があるのは宗教だ。イゼベルはこれに関して、息子にろくな意見を言わなかった。
軽い鎮圧をして、モアブ人が懲りずに反旗を翻す。その繰り返しが続く中、軍人たちは何度も「モアブ人共はこれしきで怯むことはありません。鎮圧は甘すぎます。戦争をお起こしください。陛下のご命令さえあれば我らはモアブを今一度仕留めてまいりましょう」と口をそろえて言った。
しかし、アハズヤの返事はこうであった。そして、それは常に同じなのだ。「それに関して、私は考えておこう。……今は、時期ではないと、思うのだ」と、いつも同じことを言うのだ。当然、それに苛々する軍人は少なくなかった。
そして、ごく少数の人は、覚えていた。エリヤの予言した「アハブの家の不幸」をだ。


それは、アハズヤの治世の二年目に突然訪れた。


王宮に悲鳴がこだました。「王が欄干から落ちられた!」そのような声が広い王宮中をかけずりまわったのだ。

アハズヤは王宮の屋上から、イスラエルを眺めるのが好きだった。王としての仕事も血なまぐさい戦いも好まないが、派手でいかがわしい遊びも性に合わない内気な王が珍しく好んでいることの一つが、それであった。彼は何時間でも屋上に数人の護衛だけを離れておいて、日光浴をしながら景色を眺めることを楽しんでいた。
しかし、欄干がだいぶ腐っていたらしいのであった。その日、アハズヤが欄干にもたれかかった時、それが折れて、王は落下した。一瞬の事で、護衛兵たちが駆け寄り引き戻す時間もなかった。
幸いなことに何度か木や屋根にぶつかり、引っ掛かり、直接地面にたたきつけられることはなかったので死は免れた。しかし当然のことながらアハズヤはかなりの重傷を負ったばかりか、傷口から悪い菌が入ったか病気になってしまった。


「ああ、私の可愛いアハズヤ!」
病床に伏せった彼を、イゼベルは嘆いた。
「お母様、助けてください。死にそうです」彼は体中を蝕むような痛みに苦しみながら、自分の母にすがるようにしてそう何度も言った。イゼベルもそんな彼のそばに居続け、彼を慰めた。
「お母様、僕が助かるためにはどうすればよいでしょうか?」
そのように言われて、イゼベルが返す言葉など、どんな場合でも一つしかない。彼女は涙を流しながらうめくように言った。
「エクロンにあるベルゼブブ神殿に使者を送り、お前の病気を治してもらえるようお祈りしてお貰い。お前はベルゼブブ様への信仰厚い息子ですもの、ベルゼブブ様がお助けにならないはずがないわ」


イゼベルの助言通り、アハズヤはエクロンに使者を送った。だが、彼らがエクロンにもつかないであろう日数のうちに、彼らはアハズヤのもとに帰ってきた。そばにはイゼベルもいた。
「お前たちはなぜ帰ってきたのですか!」イゼベルは弱ったアハズヤの代わりに怒鳴り散らした。
「自分たちの王が死んでもよいというのですか!」
彼らの話を聞かないうちにイゼベルは言う限りの言葉で彼らを罵った。彼らはイゼベルの言葉が終わるのを待っていたが、やがてようやく隙ができると「国王陛下、皇太后陛下、どうぞ我々の無礼をお許し下さい。しかし、どうあっても貴方様にお伝えしなくてはならぬことができたのです」
「なんですって、王の生死よりも重大なことですか」
「はっ……お言葉ではありますが」
使者はずいぶんと必死で、イゼベルの剣幕の前に職を失うことはおろか処刑も覚悟したような風だったので、イゼベルも彼らの言うことを聞こうという気分になり「何があったかを聞かせなさい」と言った。死者のうち一番地位の高い、年老いた男がその場に跪いて厳かに口を開いた。

「私どもがエクロンに向かう間、荒野である男に出会ったのです。彼が私どもを呼び止めました。そして、私どもに言ったのです。『お前たちを遣わせた王のもとに戻って、今すぐにこう伝えろ。主はこう言われる。エクロンに行く必要などはない。お前は寝台から降りることなど決してない。お前は必ず死ぬ』と」
その言葉を聞いて、イゼベルとアハズヤは凍りついた。アハズヤに至ってはそれを聞くなりガタガタ震えだした。イゼベルも、使者たちを責めるのをやめた。
ただの無礼な人間の戯言とするのは簡単だが、イゼベルは直感したのだ。死者を通して告げられたその男の口ぶりは、確かに自分の知っているものだという実感があった、
「その男の事をお聞かせ。どのような男でしたか。お前たちが見たものをすっかり、詳しく話すのです」彼女は言った。使者たちは慌てて従った。
「不思議な男でした。破れた毛皮の衣とケープを着ていて、皮の帯を締めていました。頭には長い頭巾をかぶっていました。脚は裸足でした。一人の若い従者と、何羽もの鴉の他には連れ立つものは何もない男でした」
イゼベルは拳を握りしめた。
「……エリヤだ!」
彼女は吐き出すようにそう言った。

「エリヤ……」アハズヤは言った。
「お父様と僕たちに不吉な預言をしたあの魔術師ですか、お母様」
「ええ、そうですとも!お前たち、エリヤの居場所は分かるわね!」
イゼベルは再び先ほどのような剣幕で使者たちに言う。使者たちはもちろんですと言った。
「ギルガルのすぐそばにある土地でした」
「お前たちの罪は許しましょう。その代り、お前がその男に会ったところに軍隊を連れてゆきなさい。その男は不幸を運ぶ者です!わがイスラエルのため、殺さなくてはなりません!」



ギルガルには、過去の偉大な預言者サムエルが建てた神学校のうちの一つがあった。同じものはベテルやエリコにもあった。律法を学び、神の前に生きる道を学ぶ学校である。イゼベルの宗教改革の影響でなくなろうとしていたが、それが途絶えてからまた息を吹き返したのだ。
若い少年たちがそこを出入りしトーラーを読んでいる。宗教改革がまた行われたとはいえ、ギルガルの土地にまだそれらは及んでいないようだ。

エリヤは高台の上からギルガルの町を眺めていた。無論のこと遠くなので、学校も小さく、そこに出入りする人間たちも麦の粒よりも小さいが、それでもエリヤには見えていた。
彼はそれを見て、楽しそうに笑っていると、エリシャには後姿を見るだけで分かった。エリシャはエリヤの隣に座ると「師匠、楽しそうですね」と言った。
「おうよ」
エリヤは短く言う。エリシャは薄く笑って言った。
「……師匠も、ギルガルにあるような神学校で教えればいいのに、と、僕は思いますよ」
「ははは、俺に町でそんな仕事するのは向かねえよ」
エリヤは明るく笑ってそう言う。
「それに、俺がそんなことはじめたらイゼベルがすっ飛んでくるんじゃねえか」
「はは……まあ、そうですね」
そうして同意しつつ、エリシャはこのことを惜しいとも感じていた。エリヤが神の事を何人もの人間に教える立場となるのに一体何の不都合があるというのだろうか。確かに彼の性格は一つの所に長くとどまり、町の人として生活するのにいささか不向きである気がしないでもなかったが、それにしても、だ。彼にしてもこんな生活よりは、町での生活の方が楽そうなものだが。
エリシャは祭司や預言者たちがするように神学校で学んだことなどはない。そうであればこそ、多くの人間が学べればいいのにと考えていることも、この考えを手伝った。


と、そのように思案しているときだ。不意に、周りに群がっていた鴉たちがうるさくなり、何羽かが黒い羽をまき散らして急いで飛び去った。
エリシャは驚いた。エリヤはすぐに異変の原因をつかんだらしく、一瞬で立ち上がると後ろの方を睨みつけた。高台の下の方をだ。
エリシャはぎょっとした。百人ばかりの兵隊が集まってきている。隊長と思しき人間は二人いる所を見ると、二つの五十人隊のようだ。
人相の険しい彼らは、大声で「魔術師エリヤよ、聞こえるか。偉大なる王アハズヤ様と皇太后イゼベル様からの使いだ」と怒鳴った。
「エリシャ、少し下がってろ」とエリヤが短く言ったので、エリシャは下がった。エリシャから彼らは見えなくなった。
「ああ、聞こえている。王宮が俺に何の用だ」
「降りてこい。先王の治世王家に不遜な預言をし、また信実なる神ベルゼブブ様の預言者を過去虐殺した罪、さらに今回アハズヤ王に無礼を働いた罪で、お前を今ここで処刑にせよと、国王陛下と皇太后陛下直々のお達しである」
その言葉は身をひそめているエリシャの耳にも聞こえた。彼はぎょっとしたが、エリヤが怯んでいない様子であるのを見てじっと息を殺していた。
「それであるのなら俺は降りてなどいかん。お前らに処刑されるいわれなんぞねえ」
「降りて行かねばこちらから行くぞ、邪悪なる魔術師が!」
「俺がベルゼブブだかなんだかの預言者たちを殺したと言ったな。もしも神様が、俺をここで殺す運命でないのなら、だ」
エリヤの声が聞こえて、エリシャはぎょっとした。
「お前らも同じ死に方をするぞ」
音を聞く限り、軍隊にためらいはなかったようだった。彼らはエリヤの事を見くびっていたのだろう。「大口をたたくな、魔術師が!」と五十人隊長たちが言い、だっと馬が高台を上ろうとした時だった。


エリシャの耳を、轟音がつんざいた。忘れもしない、エリヤと初めて会った日に会ったような音。雷の音だ。
轟音と悲鳴。衝撃で地面が震えるのが伝わってくる。エリシャは目をつぶり、耳をふさいで地面に突っ伏した。あの日の、体を内部から揺さぶられるような衝撃がまた襲ってきたような感触だった。
音が止み、彼は目を開けた。そして、そろりと体を持ち上げてエリヤの方を見た。立っているのは、エリヤ一人で、二つの五十人隊は全員雷に打たれて死んでいた。


「エリシャ」彼は振り返った。
「帰ろう」
彼はそれだけ言った。ここを離れよう、とは言わなかった。エリシャは衝撃が冷めやらぬまま、その言葉にうなずくしかなかった。彼らは死体の山を乗り越えて、現在の住居にしている洞窟に向かって言った。


その知らせを聞いてイゼベルがヒステリーになったのは言うまでもない。彼女は体調の悪い息子の前で怒り狂った。
「エリヤめ!エリヤめ!」彼女は言った。その時だった。知らせを聞いていた軍隊の隊長の中から、とある若い男が歩み出た。
「皇太后陛下」彼はすっと膝をつき、彼女に言った。
「エリヤを殺すことは無理ですが、王宮に、貴方達の御前に連れてくることならば私になら可能かもしれません。いかがいたしましょうか」
「それは本当ですか」イゼベルは言った。
「はい。もちろん」
「もしできるのであれば、褒美を差し上げましょう」
「では、昇格させていただけますか」
「百人隊長にも千人隊長にも、望むなら将軍にしてもかまいません。エリヤを連れてこられれば、ですが」
「それはお任せください」
そうして恭しく礼をした青年は、エフーであった。



数日後、エリヤは例の高台にじっと座ってギルガルを眺めていた。あの五十人隊を殺した時と全く同じように。
エリシャは落ち着かなかった。エリヤは険しい顔をして、鴉の運んできたパンくずを鴉たちと一緒に食べていたのだ。
あれから、エリヤはずっとこんな調子であった。何かを神妙に考えているようにも見えた。
もう三年以上もエリヤと一緒に居るのに、彼がいまだに理解しきれないことにエリシャは歯がゆさを覚えた。彼は今、怒っているのだろうか。悲しんでいるのだろうか。自分は、エリヤの感情に寄り添うこともできない。


と、その時だ。また、あの日のように馬の音が聞こえた。エリシャは怯んだ。エリヤもピクリと視線を動かし、立ち上がった。
だが、高台の下に居る人物を見てエリヤは少し意外そうな顔をした。部下たちを待たせて馬を降りたその人物はエフーであった。
「オレの部下を殺さないで下さいよ、エリヤさん」彼は高台の下から言った。そして、剣を鞘から抜き、地面に突き立て、来ていた鎧も脱いだ。
「ご覧のとおり、オレは丸腰です。あんたを不意打ちしようなんて思ってもいない」
「そのくらいは剣を抜かなくてもわかるぜ、エフー」エリヤは言った。「来な」
エリヤがそう言うと、エフーは彼の部下たちに合図して彼らを待たせておき、一人で高台に上って行った。

「良い景色ですね」
彼はついでに持ってきたらしいパンを鴉たちに投げた。鴉たちはそれに群がり、食い漁る。「そうだろ」とだけ、エリヤは言った。
「エリヤさん。オレからの頼みです。イゼベルとアハズヤの前に来てくれませんか。もちろん、オレだって奴らの傀儡としてこんなこと言ってるんじゃないですよ。ただ、何かしらが起こらないとあきらめるような奴らじゃねえ。かといって、あんたはあっさり死にゃしない。このままあんたが逃げ回っても人命の無駄だ」
エフーは彼らしく、率直に用件を伝えた。エリヤはそれを聞いていたが、少しすると「ああ、分かった。ついていこう」と言った。高台に吹く風がエリヤの頭巾を揺らした。

「本当ですか!?」エフーは言った。
「神様が……俺に言われた」
ゆっくりと、エリヤは話した。
「お前とともに、イスラエル王宮に行けってな」
その言葉を聞いて、エフーは軍人らしくきびきびと、しかし深く頭を下げ「ありがとうございます」と言った。


「エリシャ」エリヤはエリシャの方を振り向いていった。
何を言うのかとエリシャは不思議に思った。そして、出てきた言葉に彼は驚いた。それは、初めて聞く言葉だったからだ
「お前は、ここに留まっていてもいいんだぞ。俺についてこなくても、いい」

エリヤがそんなことを言ったことはなかった。彼はいつも何も言わずに、エリシャを連れ歩いていた。そしてエリシャも、何も言わずに彼についてきた。アハブの王宮に乗り込んだ時だって、エリヤは当たり前のようにエリシャと一緒に居たのだ。
「師匠、何故」彼はそう言った。エリヤはそんな彼に言い返した。
「もし、お前が俺と無関係になるなら今が最後のチャンスだからな」
「し、師匠!?」
「エフー、悪いが、ちょっと下で待っててくれ」
彼がそう言うと、エフーはうなずいて素直に高台を降りて行った。取り乱すエリシャに、エリヤは続ける。
「エリシャ、いいか?」
「な、何ですか、師匠」
言い含めるように言ったその言葉は、エリシャの耳に、雷よりも深く響いた。

「俺はな、もう荒野には帰れねえ。イゼベルの前で、この世を離れるんだ。神様は俺に、そうおっしゃった」


エリヤがこの世を離れる?
エリヤが死ぬというのだろうか?
エリシャは混乱した。頭の中はぐるぐるする。悪酔いしたような気分だった。

彼はガタガタ震えながらエリヤにしがみついた。何かにしがみつきたかったのだ。彼はそれを拒まず、また、それに関して何も言わなかった。代わりに、彼はエリシャに言った。
「エフーはお前を逃がしてくれるはずだ。お前もわかるだろう。お前は顔は知れているけど名前も出身地も知られちゃいねえし、俺みたいに目立つわけでもねえ。だが、だ。俺がこの世からいなくなったら、お前は逆に、もう俺から離れることはできねえ。お前は、俺の後継者として語り継がれるだろうから」
彼は震えるエリシャの頭をなでながらそう言った。
「イゼベルやイスラエル王宮の俺への敵視の眼は、全部お前に行くだろうよ。それから逃げたくっても、それはお前の自由ってだけだ。エリシャ。お前の人生はお前の人生だ。選択権はお前にある。それははっきりさせたい、それだけだよ。お前を突き放したいわけじゃない。安心しろ」
エリヤの手つきは優しく、エリシャのパニック状態になった心を安心させた。エリシャは考えようとした。しかし、考えられなかった。考えるまでもない事だったからだ。

「師匠」彼は言った。
「僕は、貴方のおそばを離れません」

まだ、神もわかっている自信はない。預言をしたこともない。このエリヤの後継者となって、何ができるだろう。そんな考えはエリシャにはなかった。考えるのがひどく無価値なことのように、彼には思えていた。
「主は生きておられます。貴方も、生きておられます」
彼は、不思議と口が突き動かされるような思いであった。
「僕は貴方の後継者です、貴方を最後まで見て、語り継ぐのが、僕の役目です」

エリシャはそう言って、エリヤから離れた。エリヤは「そうか、なら、一緒に来てくれ」と、笑って言った。そして、エフーに今すぐ行くと合図をした。

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