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クリスマス市のグリューワイン

feat: Eve 第六話

「悪魔!?」
ウリエルのその報告に、ガブリエルも悲鳴を上げる。
「どういうこと!?詳しく説明して頂戴」
「……俺が、エデンの園を監視していた時だ」
ウリエルはぽつぽつと語りだした。彼がエデンの園を監視していた時、天使の一団がエデンの上を通り過ぎようとした。しかし、彼はその中に不審なものを見つけたのだ。彼はそれが悪魔だと分かった。
彼はそれをしとめようとした。しかし当てが外れ、彼に傷だけは負わせたものの肝心のその悪魔はエデンの園に墜落し、行方が分からなくなってしまったのだそうだ。
「……すまない。俺の責任だ」
「そうね……神様に申し開きして頂戴。貴方とも思えない初歩的なミスだわ」
「面目ない……」
そう語り合う天使たちの後ろで、イヴは怪訝そうにしていた。
「あの、ちょっといい?」
「なあに?イヴ」
「悪魔、って何?」
彼女はまず、そこから聞いた。天使たちが当たり前のように話している悪魔と言う存在を、イヴは知らないのだ。
「ええっとね……」とガブリエルが答えに困っているさなか、ウリエルの方が「……神を信じず、神に反乱する者達の事だ」と答えた。
「神様を……信じない?でも神様って、偉くて、すごい方で、だから必ず信じないといけないんでしょ」
「ああ……だが奴らは信じない。だから……奴らは悪い奴らで、俺たちは、奴らを根絶やしにするのが仕事のうちなのだ」
「ふうん……」
イヴは分かるような、わからないような感覚だった。このエデンでは、誰もが神に感謝し、神を信頼している。そうでないものが、はたしてこの世にいるのだろうかと言うのは彼女にとって疑うところであった。
「イヴ。いいこと。悪魔たちはね、とにかく悪い存在なの。絶対にかかわらないことよ」
ガブリエルは珍しく厳しい顔で、イヴにそう言い聞かす。
「うん、わかった……」
「……すまなかった。俺の責任にかけても、必ずきゃつを見つけ出し、……神様の名のもとに八つ裂きにしてくれよう」
「そうして頂戴。ぼやぼやしているとアダムやイヴが危ないもの。わたしも協力するわ。神様の所にも付き添ってあげる。……貴方の責任ではあるけど、悪魔どもが頭が回るのは事実だしね。完全にあなただけが悪い事でもないわ。弁護してあげるわよ」
「ああ……有難い、ガブリエル」
そう語る天使達に、イヴは「わたしは?」と言った。
「イヴは心配しなくていいのよ。イヴは何も悪くないんだから」
「……君たちに、平和な暮らしを守るのが……俺たちの仕事。……君たちに一切の害が及ばぬよう、尽力しよう」
「わたしたち、ちょっと神様のもとに行ってくるわ。イヴ、後は一人でも大丈夫?」
そう穏やかに語りかけるガブリエルに、イヴは笑顔で「うん、大丈夫!」と返す。すると彼女は笑って、去り際にこう言った。
「イヴ。もし万が一悪魔を見つけたら、絶対に私たちに言ってちょうだいね。約束よ」
「うん、約束するわね!」
そうイヴが言ったのを聞き届け、ガブリエルは微笑んでから天に昇っていった。ウリエルの巨体も彼女と全く同じように身軽そうに浮き上がり、天に消えていき、ほどなくして見えなくなった。

イヴはエデンの園を一人、ぶらぶら歩いた。歩いていると、彼女は途中で、蛇に会った。
「あ、蛇さん」
「どうした、考え事か?イヴ」
「うーん……」
いつもの通り自分の首元に巻きついてきた彼に、イヴは言う。
「蛇さんは、悪魔っての、あったことはあるの?」
「……あるよ」
「どんな人たちだったの?」
「ろくでもない奴らだったよ」
蛇は少し昔の事を思い出したらしく、懐かしささえ込めて彼女に語った。
「エデンに悪魔が入ったんだってな?」
「しってるの?」
「俺は何でも知ってるよ。イヴ、気を付けるんだぞ。悪魔たちは、実際……悪いと言うよりも、本当に、ろくでもない奴らばっかりだ。関わり合うもんじゃない。関わりあって、いい事なんて起こらない」
「うん。ありがとう、蛇さん」
イヴは蛇とそんな話を交わしつつ、アダムのいる所に戻った。アダムも悪魔に関することを聞いていたらしく、彼もやはり、イヴにそのことに関して釘を刺してきた。そろそろ言われるのも三回目なので、イヴは適当に聞き流していた。


次の日、ガブリエルは来てくれなかった。まだ忙しく、神への申し開きなどをしているのだろうか。それとも、別の仕事だろうか。それは分からなかった。
なんとなく気分で、イヴはその日エデンを一人でぶらぶらと歩いた。ガブリエルや蛇がおらずたった一人真昼のエデンを歩くのも、また結構なものだった。
彼女の足は、まだ彼女が行ったことのない方向に向かっていた。すたすたとその道を歩いていけば、やがて彼女はうっそうとした密林にたどりついた。
エデンにはこんなところもあったのか。彼女は新鮮に思い、密林の入口になっている深い草をかき分けて、体をその中に滑り込ませた。なるほど、見た目の通り、中もまるで普通の森とは違う。
木漏れ日となって差し込む光は森と比べてもほんのわずかなもので、夜の暗さとはさすがに比べ者にはならなかったが、それでも密林の中はずっと暗かった。よくガブリエルや蛇と遊ぶ森のさわやかさよりも、そこは重く冷たい空気が立ち込め、生命感に乏しかった。普通の森ではこだまする鳥の声や獣の足跡も、一切が聞こえず、ただイヴが地面を進む音のみが響いた。イヴにとってそれは、また一味違った神秘性を感じさせるものだった。
彼女は足の下に何かを踏んだ。ぬるりとしたその感触に、彼女はびっくりする。慌てて彼女が足を上げると、その下には彼女が初めて見るものがあった。
湿った土の黒色とそこに生える様々な緑色の中の鮮やかな赤い色は一見花のようにも見えたが、花のように花弁も、花粉もない。赤くて丸く、黄色い粒をいくらかつけたそれを、イヴは次に木の実が土に落ちたものだと思ったが、それも違った。それは赤くて丸いものを、下に生えた太い茎で支えた、れっきとした地面に生えているものだった。
草だろうか。草にしては変だ。だが、草だろうと草では無かろうと、イヴはその丸っこい体と赤と黄色の色の取り合わせを、非常に可愛らしいと感じた。花のようなきらびやかさには欠けるが、このしっとりとした密林の雰囲気によくあった可愛さと美しさは、花よりもこの場に相応しいと思える。
よくよく注意してみれば、似たようなものがそこかしこにあった。地面のみならず、太い木の上にも、彼らの仲間らしきものが生えている。花で言う花弁にあたるところはそれぞれだ。赤だけではなく黄色もあれば百合のような白色もあるし、木の幹に溶け込みそうな黒色や茶色もある。丸っこくなく平たいそれを持ったものもあれば、茎の方も様々で、がっしりと太短いもの、ひょろりと細長いもの、その中間のもの色々とあった。
イヴはキノコと言うものを知らなかった。だからこそ、彼女はこれの名前についても後で聞かねばならない、と思い、彼らの姿を目に焼き付ける。普段の森ではあまり出会えないような素敵な発見を見つけたことに、イヴの心は浮足立った。
もっと彼らの仲間を探そう。そう思って黒い地面を注視するイヴの眼に、ふいと灰色の羽が目に留まった。
彼女はそれを拾い上げる。それは確かに、羽だった。イヴはこの森にも鳥がいるのか、と思った。
よくよく見てみれば、同じような羽がもう一本落ちている。それは、いくつもいくつも転々と落ち、道になっているのだ。彼女はその羽を拾い集めながら、その後をたどった。
やがてその終着地点のようなものが見えた、それは森の中心の、巨大な木のうろだった。イヴは「鳥さん、こんにちは!」と中を覗き込む。と、同時に、その中から、悲鳴が起こった。
中に居るのは、鳥ではなかった。天使たちと同じように、自分たちの姿に似ていながら、背中に翼を生やした生き物だった。


そう、天使だ。彼は天使に一番似ていた。しかし、いつも誇り高そうにしている天使達とは一味違い、彼はうろの中を覗き込んだイヴを、がたがたと震えながら必死で睨みつけていた。
背中から生えた一対の翼は灰色をしていて、見事に根元から折れていた。おまけに大量の水を吸って重そうで、ぐったりと地面にまとわりついている。
翼と同じような灰色の髪の毛はぼさぼさで、ほとんど目が見えなかった。これも水に濡れて天使らしからぬ不潔そうな印象すら与えた。
「どうしたの?あなた誰?」とイヴは声をかけた。
「俺に近づくんじゃない!」
彼の第一声は、それだった。
「良いか、そこから一歩でもこっちに来てみろ、殺してやるから」
初対面の相手に急にそんなことを言われたのは、イヴにとって初めての事だった。こんな時、蛇かガブリエルがいればもう少し彼らは現状を説明してくれたのだろうが、あいにく、彼らは二人ともいないのだ。とにかく、自分で何とかするほかはない。イヴは少し戸惑った後、まず疑問に思った一つの事を言った。
「殺す、って何?」
「煩い!」
彼はもう一度、きっとイヴに向かって言った。
「俺を攻撃するんじゃない、したら、たたじゃ済まさんぞ」
イヴはますます意味不明になって首をかしげた。この目の前の生物は一体全体、何を言っているのだろうか?攻撃?なぜ、イヴが彼にそんなことをする必要があるのだろう?
「落ち着いて。攻撃なんてしないわよ。でもあなた、背中の羽、怪我してるから」
「いいんだ、ほっとけ!俺がここにいたと誰にも言うなよ、いいな!」
「でも、痛そうじゃない」
イヴは彼の警戒をものともせず、手を伸ばして彼に近づいて背中の折れた羽に手を触れた。彼がそれに、びくりとすくむ。
「ほら、折れてる」
「貴様に何の関係もないだろう!ほっておけと言ったんだ!」
「そうだ!ラファエルを呼んでくるわ、ラファエルは何でも治せるから」
「ラファエル!?」彼の顔から血の気が引いた。「やめろ!そんな奴死んでもここに呼ぶんじゃない!」
「どうして?」
「どうしてもだ!」
彼はとにかく、必死なようだった。話しかけるイヴを彼は必死で拒み、怪我の事を持ち出せば絶対にラファエルの事は呼ぶな、の一点張りだった。
しかし、イヴはやはり彼の事が心配だった。大丈夫だ大丈夫だと言っているが、明らかに大丈夫ではないことくらい、いくら彼女にも見てわかる。このまま放っておくべきではない、と彼女は思った。
踵を返そうとする彼女の後姿に、彼は「お、おい、貴様!」と怒鳴った。
「良いか、俺がいたことを誰にも言うなよ、ここに誰も呼ぶな、命が惜しかったらそうしろよ!」
「うん、わかった!」彼女は元気よくそう言いかえして、いったん密林を駆け足で出た。そして、よくなじみのある日差しの満ちた空間に出ると、声を上げてラファエルを呼んだ。
ほどなくしてその場に光がみち、ラファエルと、彼と一緒にいたらしいミカエルが現れた。

「ラファエル、こんにちは!それにミカエルも!久しぶり!」
「よう、こんにちは、イヴ!今日も元気そうだな、何よりだぜ!」
「久しぶりだな。アダムとは仲良くやれているのか?」
「うん、もちろん!」
ラファエルとミカエルはいつもと変わらない、人懐っこい笑顔と、真面目そうながらも美しい微笑を持って彼女に相対した。
「それで、何の用でオレを呼んだんだ?イヴ。見たところ怪我はしてないみたいだし……まさか、悪魔見つけたとか!?ハハハ!」
「ラファエル……」
彼の冗談に鋭く釘をさすように、ミカエルが低い声で一言いう。
「……冗談だろ。で、どうしたんだい?イヴ。遠慮なく話して御覧」
「私じゃないんだけど、怪我している子がいるの。その子、羽を折ってるんだけど……どうすれば治るか、ラファエル、教えてもらえない?」
「どうすれば、って……」ラファエルはそれを聞いて、まず当然の疑問を投げかけた。
「その子、鳥かな?今すぐオレのとこに連れてきな!あ、もしかして大きくてイヴじゃ運べないとか?だったらその子の居場所を教えてくれよ、オレが一発で治してやるぜ!」
「駄目!それはだめなの!」
イヴはそれに関して反論した。ラファエルは、きょとんとしていた。
「なんで?」
「その……私が、治したいんだから……」
あの彼がだれだかは知らないが、とにかくラファエルは呼ぶな、自分の事を誰かに知らせるな、と言った以上、それは守らなくてはならないだろう。彼もエデンの住人なのだ。エデンの住人は、皆イヴの友達だ。友達との約束は守らなくてはならない。
ラファエルはそれを聞き「ははぁん、そう言うことか……」と言った。
「おい、ラファエル」唐突にミカエルが口をはさむ。「あまりイヴを知恵づかせるのも……」
「いいじゃねえか、これくらい。イヴは自分の手で困った鳥を治してやりたい、って思ってんだよ。優しい子じゃねえか。『あいつ』にはこんなセンスなかったぜ。イヴが完全に成功した子、って証拠だ。むしろ神様の望まれた通りだろ」
「むう……そう言えんこともないが」
彼らはイヴの目の前で、いまいち彼女には理解できない会話をした。だが、ラファエルはミカエルとの舌戦に勝った見えると振り返り「良いぜ。教えてやる」と言った。それを受けて、イヴも笑顔になる。
ラファエルはふっと手のひらを広げ、念じる。すると、彼の掌に炎の鳩が湧き上がった。だが、彼は密林にいた彼と同じように、翼を折っていた。
ラファエルはその鳩を空中で固定すると「いいかい、イヴ。翼を折っている鳥には、まずね……」と説明を始めた。


密林の中、イヴは一目散に木のうろの中に駆け寄る、例の彼は同じように、昨日炉の中で折れた羽を抱えながら息をひそめていた。彼は戻ってきたイヴに気が付き、そしてビクリの彼女に反応する。
「だ、誰だ!?……何だ、またお前か……何の用だ、何故戻ってきた!」
「治し方、聞いてきたわよ!」
その言葉に目を白黒させる彼を尻目に、イヴはひょいとウロの中に入る。彼女は、長い草の蔓を持っていた。
「な、何だ!何する気だ!」彼はうろたえながら後ずさる。
「暴れないで。折れた羽はね、固定して安静にしているのがいいんだって」
彼女は彼が木のうろの奥に入りこみ背中を向けたことをいいことに、先ほどのラファエルの見よう見まねで彼の羽に蔓を撒きつけ、折れた羽を固定しようとした。
「や、やめろ、俺に触るな!勝手に治る、勝手に治るってのに!」
「暴れないでってば……暴れさせるのが一番よくないって、ラファエル言ってたわ」
と、その時。彼があまりに暴れるのと、イヴ自身こんなことは初めてなのが手伝って、イヴは力加減を間違え思いっきり蔓を締め上げてしまった。当然彼に襲い掛かった痛みは凄まじいらしく、彼は悲痛な叫びをあげる。
「ご、ごめんなさい……」
「き、貴様ぁ……」
彼は荒い息で後ろを振り返りながら、肩ごしに彼女に話しかけた。
「いい加減にしろ、俺に何をするつもりだ!」
「何って、翼、治してあげようと思って」
「ふざけるな、俺にそんなことする奴がいるか!理由がないだろ!」
「理由って……だって、貴方、エデンの住人でしょ?だったら、私のお友達じゃない」
「……は?」
きょとんとする彼に、イヴは続ける。
「エデンに居るのは皆私のお友達って天使がみんな言ってたわよ。さ、じっとしてて。今度は締め付けすぎないようにするから。ごめんね」
「友達……?俺が……?」
彼はようやく反抗するのをやめた。彼の思考は、別の所に行ってしまったようだった。彼はイヴに何を言われたのかわからない、と言う風だった。しかし、イヴにとってもそちらの方が好都合だった。彼女はすっかり、彼の羽を蔓で固定できた。
「できたわ!……貴方、名前、なんていうの?」
「……お前は?」
ようやく逡巡から戻って来たらしいその相手は、逆にイヴに言い返した。
「私はイヴ!」
「イヴ……」
彼はその名前に、何か思うところがあるらしかった。だが、イヴにそのことは分からなかった。彼は暗いうろの中で自分が名乗るのをじっと待っているらしいイヴに、ぼそぼそとした声で言った。
「俺は……サマエルだ」
「サマエル!」イヴは、いつもの通り、言葉を覚えるにあたってそれを復唱した。
「サマエル、また来るわね!」
そう言ってイヴは、戸惑っている彼を残し、彼のもとを離れた。


その夜の事だった。イヴの去った密林は、光るキノコだけがぼんやりと緑磯に輝いていた。サマエルはうろの中から這い出てきて、密林からわずか除く空を見つめながら、うめく。
「ルシファーさん……ルシファーさん……聞こえないんですか?俺です、サマエルです。すぐに来てください。天使……あのバカ力のウリエルに翼を折られました。見つかったら、殺されます……どうして返事して下さらないんですか?俺を見捨てたんですか?お願いです、助けてください、ルシファーさん……」

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feat: Samson 第十三話

サムソンは、アビメレクの治める地、ガザに連行された。彼はただで処刑にはされなかった。彼がペリシテ人にさんざん味あわせてきた屈辱を返すためと、彼は両目をくりぬかれ、足かせをはめられて、朝から晩まで、家畜のように粉ひきの仕事をさせられた。彼は不思議とそれに対して何も言わなかった。ペリシテ人たちは、完全にサムソンの心を折ってやったと有頂天になった。
サムソンを失い、マノアも失ったイスラエルはまた混乱状態になったが、サムソンの耳にそれは届かなかった。彼はずっと、粉を引かされ続けた。一日中、誰とも話さないまま。

ペリシテの領主たちは、あの厄介なサムソンが打ち取れたことに対する祝いの儀式と宴会を執り行おうという話をした。彼らを束ねる王もそれに乗り、ガザにある巨大なダゴン神殿で、その祝いは開かれることになった。


ダゴンの祭壇が燃え上がる。ダゴンの祭司たちは、生贄をそこで大量にささげ、喜び祝った。ペリシテ王が彼らの先頭に立ち、ダゴンに礼を言った。
「我々の神、偉大なるダゴンは敵サムソンを、我々の手に渡してくださった!」
そして、その巨大神殿を埋め尽くすほど大勢、もう何千人かもわからないほど集まったペリシテ人たちもまた、喜び歌って言った。
「我が国を荒らした張本人、数多くの同胞の仇を、偉大なるダゴンは、我々の手に渡してくださった」

そんな祝いのさなかだった。ふと、誰かが言い出したのだ。
「そのサムソンを、ここに呼ぼう。惨めな家畜になったそいつを、見世物にして楽しむんだ」
最初は誰が言ったのかもわからない。しかしそれはあっという間に宴会場に伝染し、彼らは口々にここにサムソンを呼べ、と言った。それに、誰もがそれに楽しさを覚えていた。
「アビメレク!」とうとうペリシテ王までもが言った。「サムソンを牢屋から出してここに連れてきなさい!」
「仰せのままに、王様」
アビメレクももちろん了承し、数人の召使いを連れてサムソンの牢に向かった。

「そう言えば、あの不気味な娘はあの後どうなったんだろうな?」
アビメレクがサムソンを連れに行っている間、彼の取り巻き達は話していた。
「ああ、あの大量の金をもらっていった業突く張りの醜い小娘な」
ある一人が、それに関して口を開く。
「一応、めったなことをしないように監視をさせたが、大したことはしてねえよ。小屋を一つと、機織り台を買って、後は仕立て屋と宝石屋に行ったんだと」
「それだけか?」彼らは笑った。
「服に宝石。……女の望むもんなんて、どんな身分でも一緒だな。は、ばかばかしい!」
彼らがそう言って笑っているときだった。宴会場がわいた。サムソンが到着したのだ。

彼らは、乞食のようなぼろを身にまとい、抉り出された目に覆いを付けたサムソンの姿を見た。彼はこの上なく、愉快に嘲笑した。
笑うしかない。何千人ものペリシテ人をたった一人で葬ってきた英雄サムソンのなれの果てがこれだ。鎖につながれ引きずられもはや目も見えず、足には何も履かずに、その背の高い体には汚れたぼろきれ一枚しか纏わせてもらえない。あの長かった髪はすっかり切られ、別人のように貧相にすら見えた。
サムソンはアビメレクの秘書に引きずられながら、アビメレクの後を歩くように、宴会場中を引きずり回された。巨大なダゴン像の前すら、彼は歩かされた。
最後に宴会場の中心に見世物のように置かれ、アビメレクはそんな彼を指して言った。
「皆さん。これがサムソンだ!我々の仇だ!だが今や、奴隷以下の存在、惨めなわれわれの家畜にすぎない!」


サムソンはそれらを聞いていた。自分を嘲笑する、数々の声。
何千人いるのだろうか?いや、一万人といそうな気すらしてくる。誰もかれもが、惨めになった自分をあざ笑っていた。
サムソンはそれに関して、特別に心が痛むところはなかった。ただ、彼らの嘲笑を聞きながら、彼は思っていた。

力が入らない。しかし、これがひょっとして普通の人間の力なのだろうか、とサムソンは思っていた。彼にはいまや粉ひきの臼を引くことすら重労働だった。
彼は真っ暗な視界の中で、そのことを別段不幸とも思ってなかった。彼は不思議に、気が軽かったのだ。鎖につながれていながら、彼は、鎖よりも彼を束縛していた大きなものから解き放たれた、そのような気がしていたのだ。彼は満足していた。

「(だがなあ)」サムソンは思っていた。
ここ数日、ずっと一人だけでただ粉を引くところに居させられたのに、今、急に数千人の嘲笑の渦巻く空間に来させられて、サムソンは酷い不快感を覚えていた。彼らが見て笑っているのは、道化師の踊りではないのだ。目をえぐられ、動物のように扱われた一人の人間を、彼らはここまで面白がっているのだ。それは、彼が、彼らの同胞を何千人と殺したから。
それについて、彼は笑いの渦巻く中静かに思いをはせた。自分は何のために殺してきたのだろうか。親のため?イスラエルのため?
殆ど、そうであったのだろう。だが、親は、イスラエルは、断じて彼にそうは言わなかった。
彼らは、こう言った。これは「神」のためだと。神のため、彼らはサムソンを生んだのだ。神のため彼らはサムソンを働かせたのだ。神のため、彼らはサムソンを、ペリシテ人と戦わせたのだ。

「(神様、か……)」
サムソンはそう思った。そして、ふっと面白いこと考えついた。彼は、心の中で、神に向かって言葉を発した。神ならば、このような言葉も聞こえようと思って。


「(神様、神様、聞こえるか?俺さ、覚えてるか?忘れてたら思い出してくれ、十四年間あんたに仕えて、あんたのため何人も人殺ししてきたサムソンだ)」
返事はなかった。だが、サムソンは別にかまいもしなかった。彼は心の中で、神に語りかけ続けた。
「(あんたは俺に確かに力を与えてくれた。こうして力を失って、はっきりと分かるぜ。……けどよ、その力は、俺じゃねえ。俺の親が望んだもんだ。俺がもらったのは、他人が望んだ力。俺が望んだ力じゃねえ。だからこうして、手放させてもらったぜ。それくらい、いいだろ。俺は、俺なんだから)」
サムソンに、巨大な青銅のダゴン像は見えない。自分を嘲笑する人々も一切見えない。自分の前で、恨みが晴らせたとばかりに満足げな顔をしたアビメレクも、一切見えない。だが、彼は暗闇の中、何かを見ようとしていた。
「(……俺には分かる。俺の人生は、もうじき終わる。……最後の最後によ、神様、俺は、俺が望んで俺の力を得たいもんだ。……望んでやったことじゃないとはいえ、やっぱり俺は、このペリシテ人共が、大人が、大嫌いだからな)」
その時だ。サムソンの真っ暗な視界に、何かが見えた。サムソンは、それを感じたのだ。それは、光のようだった。光と言うこと以外は分からない。だが、サムソンはその光に向けて、言った。
「(神様!俺と取引をしようぜ。一瞬で良い、俺に、元の力を戻してくれ。その代りに俺はあんたに代わって、このイスラエルの敵どもを、一網打尽にしてやるぜ!)」
その時だ。サムソンの真っ暗な視界が、一瞬、真っ白に変わった。


「……この神殿の、大黒柱はどこだ?」
サムソンが神殿に来て、初めて口を開いて出した言葉はそれだった。ペリシテ人への悪態でも、なんでもない言葉。それを、彼は自らの鎖を握るアビメレクの秘書に言った。秘書は一瞬びくりと驚くが、サムソンはそれに続いて「それに寄りかからせてくれ。疲れたんだ」と言う。
無視することもできたが、彼はサムソンの言うとおりにした。あの豪傑が、これしきの事で疲れて泣き言を言う様もまた面白いと思ったのだ。
その神殿の大黒柱は二本、並んで立っていた。サムソンはその間に連れてこられた。
「さあ、ゆっくり休みな」
秘書は言った。だが、サムソンは彼が思った通りにはしなかった。
彼は両手を広げ、ぴたりと、両の手をその二本の大黒柱につける。秘書は怪訝に思った。次の瞬間、サムソンは口を開いた。
「てめえら、よく聞けよ」
その声は宴会場に響いた。渦巻く嘲笑も消え去るような、重々しい響きだった。それと同時に、ペリシテ人は目を疑った。
サムソンの刈り込まれた頭から、一斉に髪の毛が生えたのだ。あっという間に彼の身長ほども長く伸びたそれは、一気にぶわりとなびいた。
「俺は生まれた時から、てめえらを殺して生きてきた。俺が死ぬときも……てめえらと一緒だ!」
そう言うなり、サムソンは両手に力を込めた。懐かしい。生まれたころから、持っていた怪力の感触が、両の腕を稲妻のように走るのがわかった。
ペリシテ人たちが気付いたときにはもう遅かった。サムソンの怪力を一身に浴びた石の柱は、一瞬でビキビキとひびが入り、石の屑になって崩れ落ちた。そして、建物を支えていたその二本を失ったことで、数千人のペリシテ人を内包していた巨大なダゴン神殿も音を立てて一斉に崩れたのだ。
「(……どうも、神様)」
悲鳴が上がる。神殿内は、パニックになった。
崩れ落ちる神殿は、彼らをすぐに殺してしまった。天井から落ちる石に打たれ、柱につぶされ、大勢いるのが仇となって逃げることもままならなかった。
「おのれ……」
アビメレクは呻いた。
「おのれ!おのれ、サムソン!」
だが、それが彼の最後の言葉になった。そのすぐ後、彼の頭の上に大きな石が降り注ぎ、彼はあっけなく潰されて死んでしまったのだ。領主たちも、ペリシテ王も、みな平等に、ぺちゃんこになって死んでいった。


巨大な石の神殿が崩れ落ちるのに、そう時間はかかるまい。だから、そのパニックはそう長いものであるはずがなかったのだ。数千人のペリシテ人は、ほぼ即死してしまったはずなのだから。
だが、サムソンは一人、現実から切り離された空間にいるようだった。なぜか、自分の上に石が落ちてこない。彼は崩壊するダゴン神殿の中、一人たたずみ、そして、つぶされた目で何者かを見たのだ。
それは、燃えるような恐ろしい目をした巨躯の天使だった。ハツレルポニが彼を身ごもった際、彼女のもとに現れた天使だ。だが、彼はそれを知らない。彼は両手を広げ、長い髪をその天使の巻き起こす突風にたなびかせて、言った。
「さあ、連れてけよ。天国でも地獄でも、俺の行くべきところにな」
サムソンの意識は、そこで途絶えた。


三日後、マハネ・ダンの人々がガザに来て、崩壊した神殿の中からサムソンの死体を見つけ出した。自慢の金髪を刈られ、目もなく、惨めな姿ではあったが、彼らはそれをマハネ・ダンに運んだ。そして偉大な英雄の死を嘆いたのち、彼をマノア達と同じ墓に埋葬した。サムソンが死の間際殺した数は、彼が生前殺した数よりも多かった。


所で、その墓に後日、おかしな女が訪れた。彼女はまるで貴族か王女のような、豪奢なドレスに身を包み、目の覚めるような黄金のベールをまとっていた。どこからどう見ても花嫁の装いだったが、彼女の近くに花婿はおらず、彼女は一人きりだった。話しかけても彼女はベールで顔を隠したまま無視し、ただ、その墓の前に七日間居続けた後、ある朝に首をつって死んでいた。

その時、人々には二つの事がわかった。一つはその娘が、顔中焼けただれた世にも醜い顔をしていたということ。しかし、その顔をもってしても、不思議と、豪華すぎる花嫁衣装は彼女によく似合っていた。そしてもう一つは、彼女の被っていた途方もなく美しい金のベールが、この世のものとは思えないほど見事な、人の髪の毛で織りこまれていたということだ。

その娘が英雄サムソンの花嫁であると、誰がわかっただろうか。誰もわからない。サムソンは記録上、独身で死んだとなっている。


(完)

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feat: Samson 第十二話

「決心が付いたのだね?サムソンを我々に売り渡すという」
「……はい」
アビメレクは彼女を、自分の部屋に通した。彼についてきていたペリシテの領主たちもそれを聞いて部屋に一堂に会し、全員でデリラと向かい合った。
「……本当にできるのか?」
領主の一人がデリラに言う。デリラは「はい」と言った。
「……サムソンは」
どうやって?普通に縛り上げてもあれは抜け出してしまう、と、彼らが口々に言いかけようとしたところ、デリラは彼らの機先を制して口を開いた。
「サムソンは、人間離れした怪力の持ち主です。……おそらく、それは、イスラエルの神が彼に力を与えているからなのでしょう」
「証明のしようもないが、確かにそれが一番説明がつくことも事実だ」アビメレクは相槌を打った。「説明をするには、あまりに常識から離れすぎているからね」
「サムソンは、ナジル人です。生まれた時から。彼は、神にその身をささげられた存在なのです」
「それと引き換えに、神が力を与えているということか?」
「はい。……おそらくは」
「それで、どうなるんだ?」と、領主の一人が聞く。デリラはそれに答えた。
「……ナジル人は、三つの誓いを立てます。一つは、葡萄を食べないこと。一つは、死体に触れないこと。そしてもう一つは、髪の毛を切らないことです。……サムソンは、このうち、二つの誓いを破りました。私の目の前で、です。……もしも、最後の誓いを破れば」
「……サムソンは神の加護を失い、全くの無力になる、と?」
「無論断定はできません。しかし、可能性があります」
そう語るデリラに、アビメレクは笑った。
「可能性!あのサムソン相手にそれがあれば十分だ。……して、お嬢さん。君が、サムソンの髪を切ると?」
「私以外に、それができる者がおりますか?」
「いるはずがないね。結構だ!お嬢さん、このランプを渡しておこう」
アビメレクはデリラの手に、一つの銀色のランプを手渡した。
「金曜の夜、君がサムソンの髪を切ったら、このランプに明かりをともして合図したまえ。我々はサムソンの家に乗り込み、無力になった奴を連行する。それでいいな?」
「かまいません」
「よし、交渉は成立だ」アビメレクは楽しそうに笑って、そして秘書に金の袋を持ってこさせた。
「では、約束の金を……」
「そのことですが」
デリラはアビメレクの発言を遮り、鋭い声で言った。
「あれしきでは、足りません」
「は?」
「足りないと言っているのです。みなさんがめいめい百枚ずつでは」
「な……」ペリシテの領主たちは彼女の言葉に憤った。「何を言う!奴隷風情が銀貨七百枚ももらえるのだぞ!?結構なことではないか!」
「まあまあ」そんな彼らを、アビメレクが制す。「このお嬢さんの言い分もわかるさ。相手はサムソン。いくら彼女に心を許していると言っても、危険なことに変わりはない。もう少し高く、と交渉したいのも、それは人情さ。いいとも、デリラ。何枚欲しいんだ?」
「千枚……」
「そうか。よし、三百枚くらいなら、私が都合をつけよう」
アビメレクは余裕を持って笑って言った。だが、デリラはそんな彼に刺すように言う。
「何を言っているの?余分に千枚よこせ、と言ってるのよ」
「な……」
それを聞いて、さすがのアビメレクも戸惑う。だが、目の前のデリラの表情は、本気のようだった。
「……よろしい、飲もう!千七百枚だな、それで済むなら」
「アビメレク様!」と彼の秘書が、彼を制するように言った。だが、彼は続ける。「仕方があるまい。サムソンを打ち取れるなら、このくらいの出費は……」
「アビメレクさん、ひょっとして、勘違いしてるの?私の言う余分千枚は、あなた一人に言ってないの。そこにいる領主の皆さん全員に言ってるのよ」
「え……?」
彼女のその言葉を聞いて、いよいよアビメレクも戸惑いに言葉を失う。デリラはそこのすきを突くように、たたみかけた。
「一人百枚の所を余分に千枚。一人千百枚、都合七千七百枚よこして。それで、サムソンの髪を切ってあげる」

「な……」アビメレクも、いくらなんでもこれが限界だった。彼は驚いて、言った。
「七千七百……お前に、よこせと言うのか!?ただの奴隷の小娘に!?」
デリラは「払えないの?」と彼らを睨みつけた。
「馬鹿な!常識を超えている!貴様、私たちがだれだと思っている!?ペリシテの領主だぞ!お前はただの女奴隷じゃないか!」
「ペリシテの領主?それが何?そんなもの、サムソンの前で役に立ちはしない」
彼女はアビメレクに、全くひるむ様子もなく言った。
「貴方達、いくら偉そうなことを言ったって私がいなけりゃサムソンを打ち取ることなんてできない。彼の髪の毛一本だって、ひき抜けやしない。その前に、彼に殺されちゃうんでしょ。貴方たち全員、所詮、ただの奴隷の小娘以下。銀貨七千七百枚でペリシテの国が買えるんなら、そんなもの、安い買い物でしょ」
デリラの言葉に、アビメレクは呻いた。無理もない。ペリシテの中でも指折りの有力者の自分が、惨めな姿の奴隷の小娘に足元を見られ、たかられているのだ。彼のプライドは今、激しく傷んでいるのだろう。自らのプライドにかけて、こんなことを言ってしまって申し訳ありません、喜んでお引き受けいたします。と彼女に言わせたいのだ。
しかし、彼の頭は、そんな方法がないことをわかっていた。そうだ。そうなのだ。デリラの言うことが正しい。いくら言っても、この小娘がそれをわかっている限り、無駄なのだ。つまり、いくら自分たちが威張ろうと、所詮デリラの力がなければ、自分たちはサムソンの髪を切れない。
アビメレクはしばらく逡巡していた。ペリシテの領主たちや彼の秘書は、そんな彼を心配そうに見ていた。だが、しばらくして、ついに彼は「分かった、お前の言うとおりにしよう!」とデリラに言った。
「皆様、めいめい銀貨千百の準備を」
「アビメレク様!」
「しょうがないだろう!……これしきで国が買えるなら、確かに安いものだ!
「そんな、絶対にサムソンが打ち取れると決まったわけでもないのに……」
「出さないなら、結構。私は何もしません!」
デリラは渋る彼らにはっきりと言った。彼らは憎しみのこもった視線で彼女を睨みつける。だが、彼女はそんなもの、全く怖いとは思わなかった。
「しかし、すぐに用意はできない。君がサムソンの髪を切ってからで構わないね?」
「何言ってるの?構うわ」
デリラはアビメレクのその言葉にも、はっきりと言い返した。
「なっ……そんな大金、全て先払いにしろと言うのか!?」
「ええ。あなた方が踏み倒すかもしれないから」
「言うに事欠いて……」
「証文を書いても無駄。私は字が読めないもの。貴方達がどんなに適当なことをかいたって。私にはわからない。決行までに約束通りのお金を受け取らないと、私は動かないわよ」
「こ……」とうとうアビメレクも耐えかねてか、叫んだ。
「このアビメレクを!ペリシテの領主たちを!散々たかった挙句、詐欺師呼ばわりするのか!?」
「ええ、するわ」デリラは冷たく言い返す。「だって私、あなた方のうち、誰一人信用なんてしてないもの」
そして彼女は、アビメレクに最後に告げる。
「今すぐは無理なら、金曜までに用意して。……ここから少し離れたところに、荒野に立っているお墓があるの。小さな石を載せたお墓よ。そこの近くに穴を掘って、銀貨千百枚を入れた袋を七つ、埋めて頂戴。金曜の夜までにそれができていたら、約束通り、私はサムソンの髪を切るわ」
そうとだけ言って、彼女は彼らに手渡された銀のランプを持って、さっさと帰って行ってしまった。ペリシテ人は皆、屈辱に言葉が出なかった。しかし、誰もかれもわかっていたのだ。どんなに侮辱されようと、結局、この要求を呑むしかない。



木曜日が終わろうとするとき、デリラはメレクの墓に、彼と一緒に七つの袋が隠されているのを見つけた。彼女はそれを、秘密の場所に持っていった。



金曜の晩の事だった。
デリラはサムソンと一緒に、彼の部屋にいた。彼は、夕食に出たパンを一つ部屋に持ってきていた。
「デリラ。今日もお疲れさん」彼は言った。そして、パンを裂いて、彼女に大きく裂けた方を手渡した。
「あれっぽっちの飯じゃ足りねえだろ、食えよ」
デリラは彼の手ずから渡されたそのパンを受け取り、自分の唇に押し込む。彼もいっしょに、小さいほうのパンを食べた。
彼は三つ編みも解かないまま、寝台に座るデリラの膝を枕にして、寝そべった。デリラはそんな彼の額を静かに撫でた。
「なあ、デリラ」彼は言う。
「なあに?」
「俺、大人になりたくねえな」
彼はもう一度、そのことを言った。デリラは包帯の下で笑って「ええ」と言う。
「俺が大人になったら、俺、お前と結婚したくなるから」
彼は彼女の顔を見上げながらそう言った。
「結婚したら、あんなことしなきゃならないんだろ。そんなのはいやだ。したくないし、お前がされるのも嫌だ」
「大丈夫、大丈夫よ。サムソン」
その会話は、非常に穏やかで温かかった。非現実的と言ってもいい心地だった。彼らはまるで、そこが外界から隔離された夢の空間のように、話し合った。
「デリラ、俺、お前が好きだ」
「ええ、私も」
驚くほど、その言葉はするりと出た。
「デリラ。俺を、憐れんでくれてありがとう。俺のそばに居てくれて、ありがとう。……大丈夫だ、って、言ってくれて、本当にありがとう」
サムソンは何を分かっていたのだろうか。彼の感がなせる技かもしれない。しかし、ひょっとしたら、彼はデリラの心をすっかり分かっていたのかもしれない。そう、デリラは思った。デリラにも、サムソンがこれから何を言うか分かっているような気分だった。サムソンが言う言葉の一つ一つに、全く意外性がなかった。まるで自分の心とサムソンの心が同一になった気分だった。
デリラは彼を自分の膝に乗せ、ずっと彼の頭を撫で続けていた。彼はデリラを下から覗き込み、言った。
「お前、髪が伸びてきたんだな」
「ええ」
「いいな、お前の赤毛。素敵だ」
「ありがとう。顔は酷いものだけど」
「顔がどうしたよ。お前は赤毛が綺麗で、そして、あったかいんだ。それで十分じゃないか」
サムソンはそう言って、デリラの細く痩せた膝に深く顔をうずめた。
「あったかい。お前、本当にあったかいよ」
痩せこけて骨ばんだ体、働き疲れて冷え切った体を、サムソンはそう言った。そして、その上で涙を流した。デリラも彼と一緒に泣いた。彼らの涙は寝台に転がり落ち、そして、一緒になって混ざった。
「サムソン」
泣きながら、彼女は彼に告げた。
「大人になんか、ならなくていいのよ。サムソンは、今までずっと頑張ってきたんだもの。何十年も生きている大人よりずっと、頑張って、頑張りぬいて、生きてきたんだもの」
彼女の涙が、彼の顔に転がり落ちた。デリラは、サムソンの頬を優しくなでる。サムソンは、彼女の言葉に「ありがとう、ありがとう、本当に、ありがとう」と、何度も、何度も繰り返した。


夜は更けて、遅い時間になっていた。彼は、デリラに「頼むから、寝ないでくれ。そこに、いてくれよ」と言った。彼もデリラも、泣きに泣いて、非常に疲れていた。
「ええ。大丈夫よ。サムソン。私はずっと起きているから」
彼女もう一度、彼の頭を撫でた。そして、自然に歌を歌った。ペリシテ人の子守歌だ。
自分は、この歌をどこで初めて習ったのだろうか。屋敷に仕える乳母が、屋敷の子供に歌っていたものだろうか。それとも、覚えてもいないほど遠い遠い昔に、彼女の母が、彼女に歌ってくれたのだろうか。
サムソンは、それを聞いて心地よさそうだった。やがて彼はデリラの膝の上で、穏やかな寝息を立てて、眠りについた。


デリラは、衣服の懐から小さな鋏を取りだした。そして、サムソンの七房の三つ編みのうち、一つの根元をつまみ出し、刃を当てた。
デリラが鋏に力を込めると、それは動いた。絹糸のようにしなやかで美しい彼の金髪に、二枚の刃が食い込む。デリラは毎日のように自分が手入れし、磨き上げてきたその金髪に、一層強く刃を付きたてた。プチリ、とした感触があった。一本、彼の髪が切れたのだ。
彼女は切り続けた。プチリ、プチリと根元から、彼の金髪はまるで素直に、奴隷にすぎないデリラに追従するように彼の頭から離れた。一度に大量の髪が切れていくその様子は、リズミカルですらあった。
しかし、デリラは決して、乱暴にしはしなかった。彼女は彼の髪の毛と、そして彼自身をいたわるように、丁寧に髪を切った。やがて、三つ編みの一本が彼の頭を離れ、だらりと寝台にその身を横たえた。
これでいい。これでいいのだ。奴隷が鎖で縛られるように、サムソンはこの髪の毛に縛りつけられてきたのだ。親に、イスラエル人に。そして、イスラエルの神に。この長い、美しい金髪は、彼を生まれた時から拘束し続けていたのだ。
そんなものはいらない。誰も切らないというのならば、自分が切ってやろう。神が許さなくても、自分がそれを許そう。サムソンはずっと、そうしてくれる人を探していたのだから。惨めな奴隷の自分を憐れんでくれる人を。
デリラは切り続けた。いたわるように、優しく、彼女は鋏を動かして、彼の金髪を切っていった。二房、三房、彼の三つ編みはどんどん彼の頭から離れた。丁寧に、美しい切り口を持って、彼らは熟れた果実が木から離れるように、サムソンの体を離れていった。
そして、最後の七房目を、デリラは切り落とした。掌に感じる滑らかな髪の感触。デリラはそれを、たまらなく、いとおしく思った。鋏が数千、数万の髪を切り刻む。彼女は最後まで気を抜くことはなかった。自分がずっとこの髪にしてきたように、細心の注意を払い、丁寧に、彼の髪を切ったのだ。やがて、七房目の最後の一本が切られ、寝台に落ちた。短髪になったサムソンは、まるで、別人のように思えた。
デリラは部屋に点してあった蝋燭から火を移し、サムソンの部屋にかくした銀のランプを点した。そして、それをそっと彼の部屋の外に吊るした。


ほどなくして物音が聞こえた。どかどかと、サムソンの邸宅に殴り込む音。悲鳴が聞こえる。
ふと気が付くと、サムソンが目を覚ましていた。しかし、彼は自分の髪の毛が切られていることに何の疑問も示さなかった。
「なんだ?デリラ」
「ペリシテ人が来たの」
「そうか」
サムソンはそう言った。
マノアと、ハツレルポニの声が聞こえる。彼らは叫んだ。叫んだあと、全く彼らの声は聞こえなくなった。切り捨てられたのだろう。
「サムソン」
デリラは、寝ている彼に顔を近づけた。そして、彼の唇に、自分の唇を重ねた。彼も腕を伸ばし、彼女の両頬を抱いた。
何秒間、そうしていただろうか。足音が近づいたのを聞いて、サムソンは彼女から顔を離した。
「ありがとう」
最後に、彼は言った。
「ありがとう、デリラ。行ってくるよ。いつもみたいに」
「ええ」
彼女も、笑って言った。
「行ってらっしゃい、サムソン」

彼が部屋から出ていく。「サムソンはここだ!」彼の声が聞こえた。そして、いくつかの物音。激しい音は一切しなかった。やがて、足音は去っていき、彼らが家を出たのがわかった。
デリラはしばらく、サムソンの部屋の中にいた。サムソンが残した七房の金髪を手でまとめ、それをいじっていた。すると、再び部屋に向かってくる足音があった。それがサムソンのものでないことは簡単に分かった。
「作戦は成功だ」
そう言って入ってきたのは、アビメレクであった。

「君の読みは正しかった」
アビメレクは、デリラにそう告げた。
「サムソンは、別人のように非力になってしまったよ。我々は、今までの苦戦が嘘のように簡単に彼を捕えることができた。今、我々は彼を縛り上げ、ガザに向かって連行している。……君には大分たかられはしたが、それでも銀貨七千七百枚は無駄にならずに済んだよ」
「そう」
彼女はアビメレクの方をろくに見もしないで、そう言った。アビメレクは彼女を嘲笑するように笑って「分からんものだな」と言った。
「英雄色を好むという言葉はあれど……どうしてあのサムソンのような英雄が、君のような、醜く、貧しく、強欲な裏切り者、何のとりえもない女に、あっさりとしてやられたのかね」
「それは、貴方には永遠に分からないでしょう」彼女は答えた。「私達も、分かられたくもありません。私達さえ分かっていれば、それで十分なんです」
彼女はそう言った。アビメレクはそれに対して言葉も返さないまま「では、さらばだ。恥知らずのお嬢さん」と言い捨てて、部屋を出ていった。

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feat: Samson 第十一話


サムソンはマハネ・ダンに帰ろうとしなかった。そのまま走りに走って向かった先があった。それは、エタムの岩の裂け目、彼の秘密基地だった。
そこにつくやいなや、サムソンはデリラと一緒にボロボロの毛布にくるまって、彼女を抱きしめながらひどく泣いた。彼が大きな精神的ショックを受けてしまったのだということがデリラには何となく分かった。
「汚い!汚い!あいつら、汚い!」
サムソン自身もおそらく自分の激情を言葉では言い表せなかったのだろう。そう繰り返し続けた。ひたすらに。
自分にとっては当たり前の事だった。しかし、女を抱くとはなんたるかすら知らなかったサムソンにとって、それは非常におぞましく、恐ろしいものだったのだろう。自分を噛み殺そうとしてくるライオンよりも、殺意を持った千人の敵よりも、ずっとずっと、彼は、女が強姦されている光景の方が恐ろしかったのだ。
彼は震えていた。デリラは彼を落ち着かせようと、「サムソン様、お可哀想に」と言った。
「何が可哀想だ!?違うだろ、可哀想なのはお前だろ!」
サムソンは彼女の言葉を聞いて、そう激昂する。
「違うだろ、お前がつらいんじゃないか!お前があいつらに虐められてたんだろ、お前があいつらに傷つけられたんじゃないか!なんで俺が可哀想なんだよ!可哀想なのはお前だよ!悲しかったって言えよ、言ってくれよ!」
泣きじゃくりながら、サムソンはそう言った。
「私は、大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないだろ!」
彼は自分の長い三つ編みで自分の涙をぬぐう。
「お前、いつもそうだよな!ババアにどんなこと言われたって黙ってる。なんだ!?また『奴隷は』なんたらかんたらって言うのか!?奴隷はどんなことされても、黙ってなきゃいけないのか!?自分で自分の事可哀想って思っちゃいけない、って決まりがあるのか!?」
彼がそうまくしたてることは、当たっていた。デリラの中では、全てそうだった。嘆くことは時間の無駄だ。その時間を、少しでも主のために捧げなくてはならない。
だが、サムソンはそのことに対して泣いた。メレクが死んだときには流した涙を、彼女が今は一滴も流さないことに対して、彼は泣きじゃくった。大声を上げて。人気のいない岩山に、彼の泣き叫ぶ声がこだまするかのようだった。
「そんなことない、そんなことない」
「ありがとうございます」
「ありがとうなんて言うなよ!そんなことないもんはないんだ!ちっとも有難いことなんかじゃねえんだよ!当たり前の事なんだぞ、当たり前の!」
デリラには、ぼんやりと、サムソンの涙のわけがわかるような気がしていた。
サムソンは今、自分自身を見せつけられたような気分なのだ。だって、彼も同じなのだから。悲しむこと、自分を憐れむこと、彼は一切許してもらえなかった。
デリラがそう思っているときだった。不意にサムソンは、デリラの頭を抱いて、自分の胸元にうずめた。
「可哀想なんだぞ。お前、可哀想なんだぞ。お前が可哀想なんだ」
デリラが口を開いて礼を言おうとした時だった。サムソンは彼女の口をふさぐように、一層強く彼女を抱きしめた。
「何も言うな。言ったら殴るぞ」
デリラからは、サムソンの顔は見えなかった。だが彼の声は、ほぼ泣き声のようなもので、言葉では凄んで見せても、不思議と全く怖さを感じなかった。それは一度に千人の敵を殺した勇士の言葉などではなく、酷く力のない虐められっ子が、泥だらけになり、泣きながら、誰にも手を差し伸べてもらえず、それでもなお言い続けている負け惜しみのようであった。
デリラは言葉をつかわず、代わりに首を振って同意を示した。その時、彼女は、自分の眼に涙がにじむのがわかった。
サムソンの服を濡らしてしまう、とも思ったが、サムソンはいざ服が濡れても、全くデリラを離そうとしなかった。デリラはそのまま泣いた。彼女にははっきり分かっていた。これは自分の涙だ。自分が流したくて流す涙だ。義務感ではなく、命令されたからではなく。誇り高い他人の不幸のためでもなく。ただ、この惨めな自分が可哀想で流す涙だ。
そんな涙を出すのは、何年振りだろうか。そうか、小さいときは泣いていたっけ、と彼女は思い返した。やがて泣いていると叩かれるから、隠れてひっそり泣くことを覚えたのだった。そしてさらに、ひっそり泣いていようとも、勝手に時間を無駄にすれば怒られると知って、泣かなくなったのだっけ。それは、初めて男に犯されるよりも前だったような記憶がある。
デリラは久しぶりに泣いた。サムソンが手を離そうとするまで、彼女は泣きつくした。声を殺すように、彼女はサムソンに抱きしめられたまま泣いていた。
彼女が泣き疲れてへとへとになった時だった。彼らは、空腹を覚えた。空はとっくに暗くなっていて、今にも消え入りそうな細い月と、小さな星が光っているだけだった。
何か食べ物をとってこないと、と思った矢先、デリラは、岩の裂け目の入口に実を付けた草の蔓が生えているのに気が付いた。ここに来た時、こんなものはあっただろうか。覚えていない。サムソンもデリラも、全く必死だったのだから。草などに構ってなどいられないほどに。
デリラはそれを手繰り寄せた。そして、それが何か分かった。それはたわわに黒い身を付けた野生の葡萄だった。何故気づかなかったのか不思議なほど、それはサムソンの秘密基地、岩の裂け目の前に密生して生えていた。
デリラは、彼にそれを見せた。彼は何も言わず、デリラの手からひったくるようにそれを奪い取り、自分の口の中に詰め込んだ。
彼は葡萄の身を噛む。慌てて食べたせいか、彼は咳き込んだ。それでも彼は、黒い果実をその中の種ごと、自分の胃袋の中に飲み込んだのだ。
「食えよ」
サムソンは咳を何とかおさめてからデリラに言った。
「お前も腹いっぱい食えよ」

デリラとサムソンは、その一晩中、葡萄を食べていたように思える。葡萄は信じられないほど、甘く、かぐわしかった。しかもそれでありながら非常にすっきりとしていて、高貴な味だった。デリラは生きていた中で、ここまでうまいものは食べたことがなかった。そして、サムソンにとっても、そうだった。彼が生まれて初めて食べる葡萄は、彼が想像していたよりもずっと、神聖なほどに美味な食べ物だった。

夜が明けた時、二人は葡萄の汁でべたべたになったお互いの顔を見た。そして、昨日さんざん泣いたのを取り戻すように、二人してその様子に笑った。そして、岩の裂け目の中で明るい日差しを避けるように静かに二人並んで眠った。起きた時には、とうに昼が過ぎていて、彼らの足はマハネ・ダンに向かった。


ようやくマハネ・ダンが見えてきたとき、デリラはふと言った。
「サムソン様、この近くに、メレクのお墓があります」
サムソンはその言葉を聞くと、迷うこともなくデリラにそちらの方を案内された。デリラが案内した先には、大きな石を目印にした、小さな墓があった。
サムソンは手で、土を掘り返した。やがて出てきたのは、まだ土になっていない腐肉がいくらかこびりついたジャッカルの骨だった。グロテスクなものではあったが、サムソンはそれを抱き上げ、いとおしいものを相手にするかのように頬ずりした。デリラにも、その光景が不気味なものだとは全く思えなかった。
「大丈夫だからな、メレク」サムソンは言った。
「お前にもどうしようもなかったんだろ。俺は、何も恨んでないよ。大丈夫だからな。大丈夫だ」
彼はひとしきりそう言った。そして、元の通りに静かにメレクを埋葬し、彼の墓を元通りにした。


家に戻ってきたサムソンを待っていたのは、やはりいつも通りのマノアの説教だった。もっとも、勝手に彼がどこかに数日行方をくらましていたとはいえ、彼がなんだかんだと戦争で勝利を治めたのは事実なので、説教はそこまで長いものではなかった。サムソンはもはや何も言わず、神妙に座ってマノアのまくしたてることを聞いていた。
デリラはサムソンの側に居てやりたかった。だが、彼女にもハツレルポニの小言が待っていた。そしてそれが終われば、彼女は市場に買い物に行かされ、屋敷から叩き出された。ハツレルポニの言う通り彼女はいつも通り市場に行き、言われたものを買って帰ろうとした。
だが、彼女が人気のない道に入り込んだ時だった。
彼女の前に、見知らぬ男たちが立ちはだかった。みんな一様に高貴な身なりをしている。その中の一人の男、最も身分のよさそうな男が驚く彼女の前に歩み出て、言った。
「イスラエルの士師サムソンの女奴隷の……デリラだね?怖がることはない。私はガザの知事、名前はアビメレクだ」
アビメレクは自分の秘書たちに、彼女の荷物を代わりに持ってやれと指図した。彼らは言葉通りに、デリラの手から丁寧に荷物を奪い、彼女を逃げないよう拘束するようにも見える立ち方で、彼女の隣に立ちはだかった。
「何も君に手荒なことをするわけではないよ。お嬢さん。我々は君に、素晴らしい話を持ちかけに来たのだ。……デリラ。君のことは調べさせてもらったよ。サムソンに仕えてはいても……君は元は、ソレクの町にいた人間。ソレクの唯一の生き残り。ペリシテ人……我々の同胞だそうだね」
デリラはそのことを聞いてびくりと震える。目の前の男は、なんでも知っているようだった。
「ペリシテ人なら、ペリシテ人の味方をするのが道理だろう?率直に言おう。デリラ。あのサムソンがいるままでは、我々ペリシテ人はイスラエルに勝てはしない。ペリシテの誇り全てをかけても、サムソンを捕えなくてはならんのだ。だかしかし、サムソンの近くにいる君は話さずとも分かるだろう。奴の滅茶苦茶な力が。それでも、我々はやらなくてはならない。そこでだ。……君ならば、サムソンを縛り上げることができる。そうだろう?」
「な……」デリラはおどおどしながら口を開いた。
「そんな、私はお付きと言えどもただの奴隷……」
「またまた!奴隷と言うことは知っているとも。だが『ただの』奴隷ではないはずだ!サムソンは君を大切に思っている。ただの奴隷以上にね」
「そんなことは……」
「そうでなければ、どうして君が犯されていることにショックを受け、激昂して、その日に戦を終わらせる、などをする?」
デリラはまたしても怯えた。このアビメレクは、本当になんでも知っているのだ。
「デリラ。ペリシテ人として、我々に協力したまえ。次の金曜の夜、我々は兵をマハネ・ダンに連れてくる。君はサムソンの力を奪えるはずだ。サムソンを縛り上げられるはずだ。私の目に狂いはない。サムソンは実の親に縛られるのを拒んでも、君になら縛られるはずだ」
「……私に、サムソン様を裏切れと?」
「ああ、勿論。君だって奴が憎かろう?奴は、君の故郷を灰にした張本人。君にとっての仇でもあるのだぞ。それがどうしてかいがいしく身の回りの世話をする?ペリシテの誇りがないのか?嘆かわしい。……無論、イスラエル人の方が君よりはるかに力はあろう。だから君が一人で逆らえないのもまあ不思議な話ではない。だが、我々がいるぞ。我々は、君をペリシテ人に戻してやる。……無論のこと、ただで、とは言わん。ここにいる私を含めた七人は、全員ペリシテの領主だ。我々は君に対し、一人銀貨を百枚ずつやろう。奴隷には過ぎた額のはず。いや、さしあたりそれだけあれば惨めな奴隷を抜けることもできるはずだ。君にとって、悪いことは何もないだろう?」
デリラは彼の言葉には答えず、ただ、彼女の両脇に立つアビメレクの秘書たちに「返してください!早く帰らなくてはいけないんだから」と言った。
「おやおや。話を断るのかね?仇を打ち取れる絶好のチャンスに」
「……」
デリラは黙ったままだった。アビメレクは彼の秘書たちに「返してやれ」と指図した。秘書たちはすっと、元通り荷物をデリラの手の中に戻す。
「すぐにとは言わないさ。金曜の晩、それがタイムリミットだ。覚悟が決まれば、いつでも来なさい。我々の宿を教えておこう。……デリラ。君が奴隷なら、よくわかっているはずだな。権力者に逆らえばどのような報復が来るのかを」

デリラはアビメレク達と分かれて、再び岐路に立った。どうも、顔の火傷がじくじく痛むような気がした。
サムソンが、仇。仇と思ったことなんて、一度もない。サムソンを憎まなくてはならないほど、ソレクの町は、自分に優しくなかった。
自分をさげすみ、罵り、犯し、まるで道具のように扱った街。それが、ソレクだった。今更そんな街のために働けと。サムソンを裏切れと言うのか。
サムソンの邸宅に帰るまでの道で、彼女は自覚した。自分はサムソンを裏切れはしない。自分は、彼を大切に思っているのだ。
彼は、言ってくれた。デリラが自分の事を可哀想だと言ってくれたのが嬉しかったと。デリラも同じだ。彼女も、嬉しかった。サムソンが自分を可哀想だと言ってくれて、それがたまらなく、嬉しかった。
自分を泣かせてくれた。可哀想だと言ってくれた。自分のために、怒ってくれたのだ。ソレクの町に、ペリシテ人に、誰もそんなものはいなかった。
サムソンを裏切れるものか。たとえペリシテの領主たちがどんな報復をとっても、何もかまうものか。死ぬのは怖くない。昔から、それだけは、ちっとも怖いと思ったことなどない。こんな人生に、何の未練があるだろう。そして、どんな辱めも怖くない。今さら自分に、これまでの人生以上につらいことなど起これるものか。

デリラは、邸宅についた。そして、台所に買い物を下ろし、自分も手を洗って台所仕事の手伝いをしようとした。だが、そこに、サムソンが現れた。サムソンは彼女を呼んだ。
サムソンの命令とあって、周囲の人々も邪魔立てはできず、彼女は彼の部屋に向かった。


「どこに行ってたんだ?」彼は言った。
「買い物に。命じられましたので」
「行くな、そんなもん」サムソンはずばりと言った。
「お前はいつも働いてばっかり」
「奴隷ですから」
サムソンはそんな彼女を自分のもとに引き寄せた。
「いいよ。仕事なんかしなくて。俺が許す。そのかわり、ずっと、俺のそばに居ろ」
彼はポツリポツリとそう言った。彼はデリラと一緒に自分の寝台に腰かけた。
「可哀想って言ってくれ。俺も、言うから。お前にいくらでも言うから」
彼は寝台の上に三つ編みの先を泳がせながら、彼女にそう言った。
「はい。いくらでも」
デリラはサムソンの頭をそっと抱きしめた。
「お可哀想に。お可哀想に。サムソン様」
サムソンは彼女に撫でられ、泣いた。エタムの岩の裂け目のように響き渡る泣き方ではなかった。まるで人の目をはばかるように、泣いた。

「デリラ。俺な」
彼は、言葉を吐き出した。苦しそうに、つらそうに。
「大人になりたかったんだ。ずっと」
彼の手は震えていた。デリラは片手で彼の頭を抱いたまま、もう片手で彼の手を握った。彼の手は彼女の手よりもずっと暖かかったが、それでも彼はガタガタ震えていた。
「お前は子供だ、子供だ、って言われて。ずっとそれで威張られて、だから、早く大人になれば、大人になれば解放される、って思ってたんだ。大人になるのが、楽しみだった」
デリラは彼の言葉をうなずきながら聞いた。自分の痩せた胴体にうずめられた彼の表情は見えず、彼からも自分がうなずいていることは見えないはずだ。それでも、彼女は「はい、はい」と言い、うなずきながら、彼の言葉を聞いた。
「でも……でもよ。大人になったら、この傷、消えちまうんだよな。医者が言ってた。この傷、すっかり良くなってきてるって。いずれ、傷跡もなくなってさっぱり消えるって。俺、この傷、消したくないよ。メレクが、メレクが俺につけた傷だぞ。メレクがこの世にいた証なんだ。それを、俺が、俺自身が消すなんて、そんなのは嫌だ」
サムソンの片手が、デリラの手をぎゅっと握った。その手は汗ばんでいた。
「それだけじゃねえ。……聞いたぞ。お前が、何されてたのか、俺、分かったんだからな。……なあ、デリラ。結婚ってよ、俺、しようとしてたよな」
「はい」
「結婚したら、あれ、しなくちゃならないんだって?」
「はい」
「そんなのはいやだ……あんなこと、誰がするかよ。あんなきたねえ事。嫌なこと、誰がするかよ」
彼の震えは止まらなかった。彼は息も切れ切れに、必死で、小さく言葉を紡いだ。
「大人になったら結婚しなくちゃならないのか。大人になったらあれしなくちゃならないのか。そんなの嫌だよ。デリラ。俺、嫌だ。あんなこと、したくない」
プルプルと恐怖に打ち震えている彼を、デリラは小柄で痩せた体で、抱きしめ続けた。
「大人になろうとして、色々やった。でも……分かったのは、大人が、どいつもこいつも汚くて、嫌な奴で、俺にはかないもしない癖に威張り腐って、俺が戦えば戦うほど、馬鹿にしてくるってだけだ。あと何年?何年したら、俺は大人になるんだ!?」
彼は、一層デリラの胴体に深く自分自身をうずめた。いっそこのまま彼女の子宮に入り込み、もう一度赤ん坊として生まれることはできないかと、無意識に彼の心が悲鳴を上げている。そう、デリラには感じられた。
腹を圧迫される苦しさよりも、デリラの心につらいものがこみ上げた。ああ、分かった。今、はっきりと分かった。自分の心の中に渦巻いていた疑問のわけが。
何故、自分はサムソンを憐れんだのか。可哀想だと思ったのか。そんな、自分以下のものに抱く感情を、なぜ自分は、この世で自分が一番格下のものだとわかっておきながら、サムソンに抱いたのか。それがはっきりとわかった。
「デリラ、俺、大人になりたくなんかない。あんな奴らに、なりたくない」
サムソンは最後に、そう吐きだした。そして、泣くのにどっと疲れたのか、デリラに抱きとめられたまま、彼女の膝の上に身を横たえた。
「お可哀想に。大丈夫、大丈夫ですよ、サムソン様」
「様って呼ぶな」
彼は言った。
「サムソンって呼べよ」
「はい」
驚くほどに、彼女は、自然にそれを受け止めた。身分の高いサムソンを呼び捨てにすることが、酷く彼女の中では自然なこととなった。
サムソンは瞼が重そうであった。たくさん泣いて、疲れたのだろう。
「おやすみなさい、サムソン」
彼女はそう言った。サムソンはその言葉に笑って「おやすみ」と、静かに瞼を閉じた。


寝込んだサムソンの頭をなでながら、デリラは思った。わかったのだ。なぜ自分がサムソンを憐れむのか。
簡単なことだ。自分とサムソンは、同じなのだ。
自分もサムソンも、主に抗うことを許してもらえない。いくら言葉に出しても、自分の辛さも、苦しさも、聞き届けてもらえない。
生きても死んでも、同じこと。生きるか死ぬかより、自分が仕える相手のために自分の職務を果たすことの方が大切なのだ。
奴隷か、士師か。仕えているのが人間か、親か民族、あるいは神か。その程度の違いしかないのだ。
デリラは初めて出会ったのだ。自分と同じ、自分のように惨めな存在を。英雄とあがめられはしても、その実、本当の尊敬は向けられない。道具としてしか見てもらえない。見下され、利用され、憎まれ、自分の心の楽しさ、自分の心の苦しさ、それを受け止めてくれる相手は、人間の世界に全く関係のない一匹のジャッカルをおいては、この少年には他に居なかったのだ。嘆くことを許してくれ「可哀想に」と人の言葉で告げてくれる相手は、いなかったのだ。この少年に許されたのは、自分の不平不満を、親の目、人の目を盗んで、一人ぼっちの岩山で、あるいは自分の部屋で誰にも聞こえないように声を殺し、こっそりと、誰にも責め立てられないようにこぼすことだけだったのだ。
親の悪口を言えるようになった、と、彼は嬉しそうに言った。親の目を盗んで。それは、彼にとって、昔は親の目を盗んですら悪口を言うことは絶対に許されないことであったという事実を指しているのだろう。デリラはそれを、自分自身に重ねた。嘆くことが責められるから、誰にも責められないよう、人目に付かないように嘆いていた、小さいころの自分に。
デリラは、サムソンをいとおしく思った。生まれて初めて会った、自分と同じ存在。同じく奴隷の鎖に縛られ、打ち震え、それでも結局どうしようもない。自分と違ってこんなに大きな力を持っていても、彼は、逆らうことができない。
大人になりたくない。彼の嘆きが、彼女の心にこだました。それはそうだろう。彼は、大人に踏みにじられすぎたのだ。必死に背伸びし、戦場に出向き、結婚したがった。その結果自らの誇りも、感情も、恋した人も、親友も、何もかも、大人が勝手に奪い、そして、彼らはそれに、少しの罪悪感も感じなかったのだ。彼らは反省すら、しなかったのだ。
自分は、サムソンに何ができる?憐れむことができる。慰めることができる。だが、それ以上に、彼のためにできることがないだろうか?彼を分かってあげられる存在として。
そう考える彼女の頭に、一つの考えが急にひらめいた。
彼女はもう一度、サムソンの手を取った。メレクがつけた傷は、確かにもう治りかけ、ただの痣のようになっていた。これが消えるまで、あと何日だろう。金曜の晩までには、持つだろうか。

デリラは、彼の寝顔を見ながら、一つの決心を固めた。サムソンのため、自分が今何ができるか。この哀れな少年のある一つの幸せの鍵を、自分は握っているはずだ。
デリラはそっと、人目をはばかるように屋敷を抜け出した。そして、マハネ・ダンの町の隅にある宿にたどりついた。


「やあ、待っていたよ。お嬢さん」
彼女を、アビメレクが直々に出迎えた。

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feat: Samson 第十話

「メレク!?」
彼はただならぬ気配を感じた。目の見間違いかと思った。だが、違う。メレクは確かに猛獣のような目つきで、サムソンの方を睨んでいた。なわばりを荒らした敵を排除するかのように。
「メレク、俺だよ……」
サムソンはメレクにそっと近づく。だが、メレクは吠えたてるのをやめなかった。そして、あろうことか、彼に向かって真っすぐに、矢のように突っ込み、その鋭い牙を突き立てたのだ。彼に差しのべられた両手に向かって。彼の牙がサムソンの掌をえぐり、血が噴き出した。
サムソンはその激痛のあまり、声を発した。
「サムソン、どうした!?」
マノアがその声を聴きつけ、家の外に出てくる。近所に住んでいるイスラエル人たちもだ。そして、絶句した。サムソンが、あのいつも仲良くしているジャッカルのメレクに襲われている。

「メレク、メレク!」サムソンは必死で彼に言った。掌を牙に貫かれた激痛に耐えながら、彼はなんとか両手でメレクを押さえつけようとする。
「どうしたんだよ、おい!」
サムソンは抵抗しなかった。力を入れれば、いくら最強のジャッカルであるメレクと言えども、一匹捻りつぶすのは容易なことだったろう。だが、ただの野生の凶暴なジャッカルならともかく相手はメレクだ。彼を殺す。そんな選択肢は、サムソンの頭にはなかった。
サムソンは痛みのため本調子が出ない掌でメレクを何とか押さえつけながら、彼を正気に戻そうと試みる。
「おい、何があったんだよ。俺だよ、サムソンだよ!」
だが、力が出ない。それどころか、メレクの力にやられてしまいそうだ。メレクは鋭い爪を持って、なおもサムソンの掌にできた傷をえぐった。傷つけられたところにさらに追い打ちをかけられ、彼の掌は痛みに悲鳴を上げんばかりだ。
とうとう、手のひらが痛みに耐えかね、メレクの力を許してしまったのを、サムソンは理解した。メレクはそれを期に、大口を上げて高らかに吠え、彼を噛み殺そうとした。

と、その時だ。
サムソンの視界から、メレクが消えた。メレクは地べたに倒れこんだのだ。



アビメレクは、正気を失うほどに錯乱してしまう毒薬を持っていた。人間にも効くが、獣の類にはさらに良く効く。
これをメレクに投与するよう、彼は仕向けたのだ。いくらサムソンでも、可愛がっているメレクは攻撃できまいと。赤の他人を千人殺せても、自らの愛する者を殺せはしまい。アビメレクはそう踏んでいたのだ。
そしてあわよくば、殺されてしまえ。そこまでが、彼の算段だった。


ずるりと地面に落ちたメレクの誇り高い体は、ピクリとも動かなかった。
「メレク……?」
サムソンは目を白黒させながら、血まみれの掌を彼に向けて差し伸べようとした。その時だ。
「いかん、サムソン!お前はナジル人、死体に触れることは断じて許されん!」
死体?
その言葉がサムソンの脳内に浮かんだ。そして、彼の思考はなかなかその言葉を受け付けようとしなかった。
メレクが、死体。どういうことだ?気が付けば、メレクの体には矢が一本刺さっていた。
サムソンは慌てて、その矢が飛んできたと思しき方向に目をやった。イスラエル人の男性が一人、弓を持っていた。
「サムソン様」
その男性は自分がサムソンの目に留まったのに気が付くと、歩み出てきて一礼し、言った。
「私が、その獣に毒矢を打ち込みました。貴方を助けるために」
「サムソン、何故貴様、抵抗しなかった」
マノアは責めるような口調でサムソンに言った。だが、サムソンはやはり、目の前で起こったことを信じられないと言うように、そこに突っ立っていた。
地面に落ちたメレクの体は、本当にピクリとも動かない。「おい、メレク」彼は呼んだ。しかし、反応はなかった。
そこにいるのは、荒野の最強の王、誇り高いジャッカルでもなく、可愛らしく陽気なサムソンの友のメレクでもなかった。そこにいたのは、ただの死体、毒矢を打ち込まれたジャッカルの肉体だけだった。
「礼を言わんか!」というマノアの声も聞こえない。掌の激痛すら、忘れてしまいそうだ。
「そんな、そんな、メレク……?メレクが、死んだ……?」
サムソンは、メレクを抱き上げようとした。だが、それよりも早く、彼の傷だらけの両手はマノアに持ち上げられてしまった。
「酷い傷だ……すぐ医者を!」
マノアのその叫びとともに、イスラエル人が動き出す。数人が、メレクの死体を運ぼうとした。
「待て!」それを見て、サムソンは叫ぶ。
「持ってくな、メレクの死体、持ってくな!」
「サムソン!」
マノアはもう一度、叱責するように怒鳴った。
「ジャッカルの一匹より、お前のことを心配しろ!こんなに手を怪我してしまって!お前の武力がなくなったら、イスラエルはまたペリシテに付け上がられるかも知れんのだぞ!」
そしてマノアは、そのままサムソンを引きずっていった。サムソンは力が入らなかった。抵抗するための力が。


報告を聞き、アビメレクは狂喜乱舞した。
「そうかそうか……サムソンは、そんなに?」
「はい、相当なショックを受けているようでした。それに、手のひらに大怪我を負ってしまったようで」
「奴を殺すには至りませんでしたが……」
「よい。獅子を殺せるものを殺すなど、ジャッカル一匹にそこまでの期待はかけていないさ。それよりも、サムソンの精神的ショックと手のひらの傷が治らない今が重要だ」
アビメレクは笑顔のまま言った。
「すぐに兵を用意しなさい。イスラエル人に奇襲を仕掛けるのだ」


サムソンの掌には薬が塗られ、包帯が何重にも巻かれた。傷は深かった。
「何故抵抗しなかった!」と、マノアはサムソンを叱った。サムソンがイスラエルの自治を勝ち得て以来、以前よりはマノアは彼に甘くなっていたので、こうして強く叱るのは本当に久々の事だった。
「お前がこんなに怪我をして……ペリシテ人が攻め込んできたら、どうするつもりだ!?いくらお前に力があろうと、その手で武器を握れるか!?その手で、敵を殴り殺せるのか!?」
マノアはショックを受けているサムソンに、ずっとそんなことを繰り返した。
「だって……だって……相手はメレクだったんだぞ」
サムソンは震え声で言った。だが、マノアそれも怒号をもって一蹴した。
「だからどうした!ジャッカル一匹を、イスラエルと天秤にかける気か!?」
「メレクは……俺の、友達だったんだ」
「サムソン!」マノアは叫んだ。
「いい加減にしろ!ようやく自覚が出てきたと思えば、少し気を許せば甘えおって!何が友達だ!?サムソン、お前は士師だ!イスラエルを支える存在なのだ!お前がこの世に生を受け、我々がお前をナジル人として偉大なる神にささげたその日から、お前の命はイスラエルのためにあるのだぞ!士師としての自覚と責任を持たんか!自分の事より、イスラエルの事を優先しろ!それが士師たる者の責任だ!」
「……うるせぇっ!」
急に、マノアの怒号にも負けないほど、サムソンは叫んだ。
「誰がしてくれなんて頼んだよ、士師なんかに!誰がナジル人なんかにしてくれって頼んだよ!責任持てだ?俺が望んでしたことならそうしてやるよ!いくらでも責任持ってやるよ!でも、違うじゃねえか!全部全部、あんたが勝手にやらせたことだ!何でそれなのに、やりたくもない事やらされて、本当に大切だったメレクの事は、見捨てなきゃならないんだよ!」
サムソンはタガが外れたようにそう言った。そして、マノアの胸ぐらをつかんだ。

親に文句を言うことが許されていなかったサムソンにとって、それは精一杯の反抗だったのだろう。自分の親友であるメレクの命を侮辱したマノアに、少しでも、彼の命の誇りを示すための行動だったのだ。親に歯向かうという行為を持って、お前のしたことは自分にとってそれほど重苦しい事だったんだ、とサムソンは彼に示そうとしたのだ。

だが、マノアの反応は、ただサムソンの頬を激しく打って「口答えするな!屁理屈をこねるんじゃない!子供のくせに!もういい年なんだ、少しは士師らしく振舞わんか!」と言うことだけだった。

サムソンは、激しくマノアを睨みつけた。マノアはそれに、威圧的な視線を持って返した。
「……ああ、そうかよ」
サムソンは吐き捨てた。そして、走るように自分の部屋に行った。
「おい、説教は終わっておらんぞ!なんでお前はいつも……」
そう言うマノアの声を無視して、サムソンは内側から鍵をかけた。

サムソンは一日中、部屋から出なかった。ひっきりなしに外から声が聞こえる。とっとと開けろ親不孝者、と脅迫するような声。そして、イスラエルの英雄サムソンがあんな大怪我をしては、このことをペリシテ人に知られては一大事、と、イスラエルの行く先を不安がる声。
当然のように、メレクを心配する声は、そのうちのどこにもなかった。
サムソンは、泣いた。一人ぼっちでベッドに横たわりながら、ただ泣いた。掌の、包帯から染み出る血を眺めながら彼は泣きつくした。


夜になった時、サムソンの部屋をトントンと静かに叩くものがあった。「入ってもよろしいですか?」と言う大人しい声。怒った声ではないそれは、デリラのものだった。
サムソンは黙って扉を開けた。デリラは一礼し、サムソンの部屋の中に入る。
「……メレクの死体は、荒野に埋めました。お墓を作ったんです」
「……ありがとう」
サムソンはそう言って、また自分の部屋に鍵をかける。
「……メレクが」
「はい……」
「デリラ……悲しいか?メレクが死んで」
「はい」
「だよな。お前だって、メレクと仲良くしてくれたもんな」
サムソンは、デリラに向かい合って言った。
「お前、泣いてないな」
「はい」
「なんでだ?奴隷は、余計に泣くのは生意気だからか?」
「……はい」
「じゃ、主人の俺が許可してやる。……思いっきり、泣け。泣きたいだけ、泣いていいんだ。今日は、メレクが死んだんだから」
「……はい」
その言葉とともに、デリラの小さな眼からぽろぽろと涙があふれた。それは彼女の包帯にしみこみ、包帯の下のやけど跡が残った肌にしみこんだ。乾燥したそれが、ピリピリと傷んだ。
「メレク……メレク……」
デリラは、メレクとのことを思い出して泣いた。彼にもらった肉の味を思い出した。彼の美しい毛並みを思い出した。そして、彼の勇敢な、無邪気な、様々な声色の鳴き声を思い出した。彼のありとあらゆるものを思い出して、彼女は泣いた。
「なんでだよ」
サムソンも、彼女の前で泣いていた。
「なんでメレク、殺したんだよ!大人しくなったのに!俺にまかせときゃ!あのバカ野郎ども!」
サムソンとデリラはその晩、メレクのために泣き明かした。昨日まで、晩が明けたらメレクがやって来たのに、明日からはそのようなことはないのだ。幾つの晩が過ぎようとも、もう永遠に、彼らのもとに、メレクは訪れないのだ。


「ああ、どうすればいい。なんとかこのまま、サムソンの傷が癒えるまで何事も無ければいいが……」
マノアはサムソンの傷のことを気に病んで、眠れない様子だった。その時。深夜のマノアの家の扉を激しく叩くものがいた。
「何事だ!?」
マノアは飛び起きて、その来客にあいまみえる。それは、先日のユダの軍隊に所属していた一人だった。
「マノア様、すぐに応援をお願い致します。それと、士師サムソンを!……ペリシテ人の奇襲です!」
「なんと……おお、なぜこんな時に……ペリシテ人め!」
マノアは頭を抱えた。だが、ともかくもやらないわけにはいかない。
「いそいでマハネ・ダンの若者を叩き起こせ!戦の準備だ!」
その声がいの一番に届いたのは、無論、サムソンの部屋だった。


戦はあっさりと始まり、サムソンも両手の大怪我をまだ生々しく残したまま、駆り出された。サムソンの到着とあって、イスラエル軍は歓喜に沸いた。この戦も、すぐに終わるだろうと。
だが、そうはいかなかった。サムソンの傷が思った以上に酷く、彼はやはり戦うことはできない、と父に言った。付添いの医者が言うことにも、傷がどんどん酷くなっているらしい。ジャッカルは不潔だし悪い菌が入ったのだろう、と医者はマノアに説明した。
マノアはそれを聞いて「そこをどうにか頑張らんか!お前は神に授かった子ではないか!」と言ったが、医者はサムソンの味方をした。
「無理なものは無理ですよ、マノア様!かえって無理に戦わせたら、サムソン様の手が一生元に戻らなくなるかもしれませんよ」

そう言ったわけなので、戦況は思った以上に長引き、泥仕合になった。ペリシテ側が優勢で、せっかくの英雄の登場もぬか喜びに終わったイスラエル兵は、疲れ切っていた。


そんな戦況が続きに続いた日の事だった。戦場にサムソンの世話のため連れてこられていたデリラは、水を汲みに近くの川まで来ていた。
彼女は壺に水をいっぱいまで満たし、天幕まで運ぼうとした。と、その時だ。五人ばかりの見知らぬイスラエル兵が、彼女の前に立ちふさがった。彼らは何も言わなかったが、じっと彼女を見ていた。
ああ、と彼女は納得した。彼女は、この目を知っていた。彼女が納得したと同時に、彼女の顔に荒布の袋がかぶせられ、口が閉められた。彼女の視界は薄汚れたベージュ色だけになった。
男が五人がかりで自分の体を抑えたのがわかった。抑えなくていいのに、と彼女は思う。抑えなくても自分は、何ら抵抗しない。
自分のそまつな衣装が脱がされるのがわかった。デリラは全く何も抵抗しなかった。彼女には全て、分かっていた。

マノアは言ってたっけ、と彼女は思い返した。自分を見た日、「これ程醜い女なら、間違いも起こらなかろう」と。彼女はその時自分が思ったことを思い返していた。この男は本当に育ちがよく、清廉な世界に生きてきたのだろう。男の性欲はせいぜい美しい女にしか向けられることはない。男と言うのはそれほどまでに理性的で見境のある生物だ。そんなことを信じてその年まで生きてこれたのだから。
十四年間の間、デリラはペリシテの貴族の家で奴隷として働かされていた。そんな彼女が初めて性暴力を受けたのは、七、八歳の頃だっただろうか。屋敷の使用人たちに、彼女は面白半分に犯された。
まだ、わずかながらも自分に誇りの残っているときだった。自分はそのことを、周囲の人間に訴えた。その時の彼らの反応を、デリラはよく覚えている。その時、確かに、自分の自尊心はまた一歩削り取られたのだ。
「馬鹿を言うな、思い上がりも甚だしい。お前のような醜い娘が犯されるわけがないじゃないか」
誰一人、デリラが受けたことを本当であったと信じてくれなかったのだ。
「陥れようとしているのか、その顔で?付くならもっとましな嘘をつけ」
「醜い娘は心まで歪んでいるな」
数少ない、事実を受け入れてくれる意見はこのようなものだった。
「もしそうだったとして、お前が色目を使ったんじゃないか?ああ、こんな年でその顔で、怖い怖い」
「どうせ一生男になんて相手にされないんだ、抱いてもらっただけありがたいと思ったらどうだ?」
もうすでにソレクの町とともに燃えて灰になってしまった人々の言葉の数々を、デリラは鮮明に覚えていた。
学んだのだ、自分は、その時に。男は自分にも性欲を向ける。愛せずとも、性欲をぶつけてくる。そして、そのことは周りに言っても一切信じてもらえない。自分は醜いのだから。だから、自分は我慢するしかないのだ。第一、抱いて貰えるだけでも、自分にとってはありがたい事なのだから。自分のような価値のない者にとって、男という自分よりは価値のあるものに、少なくとも性欲の処理という役目を与えられるだけ、喜ぶべき僥倖なのだから。たとえ、自分を犯したその後で、醜いと罵られても。
使用人たちは味を占めて、ストレス発散に彼女を犯した。何年も。あの、ソレクが焼打ちにあう前の晩ですら、そうだった。彼女は台所に野菜を運ぶ途中彼らに乱暴され、そのせいで遅れてこっぴどく叱られたのだった。
ここは戦場だ。この五人も、度重なる戦争のストレスを発散したいのだろう。その発散のタネに、折よく自分を見つけた。それだけの事だ。自分にはこれを拒む権利もない。訴える権利もない。何もない。自分にできることは、これが終わるまで、ただ動かずに声も立てずにじっとしているだけだ。
自分の体が蹂躙されていくのが分かった。下半身に痛みを感じる。自分の上で揺れ動く肉体を感じる。デリラは薄汚れたベージュ色を見ながら、じっとそれに耐えていた。自分は、これをされて当たり前なのだ。しょうがない。
そう思っていた時だった。彼女の視界にふと、赤黒いまだらが浮かんだ。

彼女の上に、何かが倒れこむ。それは冷たかった。考えるまでもなく、鎧を着た男に違いない。
デリラの片手が解放された。自分を押さえつけていた男たちが手を離したのだろう。だが、いくつかの打撃音が聞こえ、そして、数人が地面に崩れる音が聞こえた。
デリラは自由になった手で、自分の顔に被せられていた袋を取った。そこに立っているのは、サムソンだった。
彼は、まるでこの世で一番醜い、恐ろしいものを目撃したような表情で、デリラの方を見ていた。デリラの体の上で、いましがた彼女を犯していた男が兜ごと頭を割られて死んでいた。そして、他の四人も死んでいた。

「サムソン様……」
彼女がそう言いかけた時だった。サムソンは無言のまま、片手で彼女の上に覆いかぶさるその兵士をつまみ上げた。彼のむき出しの性器がずるりと出てくる。
彼は、やはり無言だった。彼はデリラにも何も言わせないまま、彼女を抱きしめ、そして、先ほど彼女が水を汲んだ川の中に彼女と一緒に飛び込んだ。
「サムソン、様?」
サムソンは自らの長い髪で、水の中に浸されたデリラの体をごしごしとこすった。彼は無言のままだった。先ほどの、怯えるような目つきのままだった。この世で最も醜いものを見てしまった、そんな目つきのまま、彼は自らの艶やかな金髪で、デリラの体を磨いた。まるで、これで穢れを落としてやるとでもいうように、冷たい、肌を指すような川の水の中で、彼はデリラの体の隅々までを、自らの髪の毛で磨いた。
「汚い」
サムソンはそう呻いた。彼女の体をいっそ擦り取ってしまいそうなほどに、激しく、激しく自らの髪の毛をこすりつけながら。
「汚い、汚い、汚い」
彼はそう繰り返した。デリラは、何も言うことが出来なかった。彼の髪の毛の感触が痛く、激しく、同時に心地いいとも思えた。
「どいつもこいつも汚い!」
サムソンはそう言うと、ざばりと川の中から上がった。そして川の中に取り残されたままのデリラに叫んだ。
「デリラ、待ってろ!今すぐ終わらせてくるから!」
そう言って彼は、戦場の中に飛び込んでいった。掌の包帯には、まだ血膿が滲んでいるというのに。
必死で駆けるサムソンと、それを呆然と見送るデリラは、二人とも、その一連の事を物陰から見ていた男の存在に気が付かなかった。


その日、戦いは終わった。
戦場に突如現れたサムソンが、ペリシテ兵を片っ端から殺したので、生き残った者もほうほうの体で逃げ帰り、戦いはあっさりと終結したのだ。イスラエルの勝利で。


「奇跡です」その夜、サムソンの手の包帯をほどいて医者は言った。
「治りかけている」
サムソンの戦いぶりは、とてもとても手に大怪我を負っているとは思えないものだった。それをいぶかしんだ医者が包帯を解いてみると、一歩間違えれば腐ってしまうと言うほどの生々しく崩れていた掌に、新しい皮が張り、もうほとんど傷が治りかけていたのだ。
「いや、めでたい!」マノアは言った。「これも神様のご加護だ!」
だが、サムソンは違った。彼は、傷の治りかけた手のひらを愕然とした表情で見ながら、全く喜ぶ雰囲気ではなかった。
「どうしました?」
医者が声をかけた、その時だった。

「うるさい!」
サムソンははじけたように彼らに言った。
「どいつもこいつも出て行け!戦が終わったんならとっとと自分らの町に帰れ!帰れ、帰れ、お前ら全員帰りやがれ!」
がむしゃらにそう叫び散らしながら、サムソンは天幕の外に自分から飛び出した。そして、外で作業をしていたデリラの手首をつかんだ。
「デリラ、逃げるぞ」
「え?」
彼女の疑問の声も聞かず、サムソンはデリラを引っ張って、駆け出した。
「逃げるんだよ……こんな所、もういられるか!」


「くそう……サムソンの奴め!」ペリシテ人たちは悔しそうに呻いた。
「結局、あいつに対抗する手段はないのか……」
彼らがそう言うのも無理はない。結局、サムソンが怪我をしたというのも、精神的ショックを負ったというのも、大したアドバンテージにはならなかった。やはり、サムソンにはやられてしまうのだ。
だが、彼らはアビメレクの様子に気が付いた。いつもなら悔しそうにしている彼が、そのような表情をしていない。
アビメレクの秘書が彼に聞いた。彼は、答えた。
「見つけてしまったかもしれん」
彼は見た。そして、この戦でサムソンとデリラ以外の人間で、唯一知っていたのだ。サムソンがあそこまで暴走した、その理由を。
「(サムソンの女奴隷……あれだ!あの娘だ!)」
そしてそれは、彼にとっては、サムソンを陥れる最良の鍵であった。大きな被害のうちから、彼は最上の利益を見出したのだ。

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feat: Samson 第九話

マハネ・ダンに帰る道中、サムソンはデリラに、メレクの事について話した。彼がメレクと出会ったのは、やはりこんな荒野での事だった。
理由も分からなかったが、どうしても家に居たくなくなって飛び出した日に、彼はメレクに会った。メレクにはまだ名前などなく、ただ荒野に居るジャッカルでしかなかった。サムソンは彼に初めて会って、まるで磁石のように彼に引き付けられた、と言うのだ。
「なんでかね。なんか、うまくは言えねえんだが……」
サムソンはその時の事を思い出そうと、デリラに結われた三つ編みの一本を手で持ってぶらぶら揺らしながら言っていた。
「俺、その時、ジジイとババアが嫌で……嫌だ、ってこいつに、初めて会ったこいつに愚痴ったんだよ。そうしたら、こいつ、そのまま聞いてくれて、それが、すっごく嬉しかった。こいつ優しいんだな、って、そう思えたんだ」
風邪の吹きすさぶ荒野で、サムソンはその日、何回も何回も、マノアとハツレルポニの悪口を言ったらしい。そして、彼がそう言ったのは、生まれて初めての事だったのだ。
「ジジイもババアも、俺が悪口言うことなんて許してくれなかったから。俺がちょっとでも口答えすりゃ、誰が産んだと思ってる、誰が育てたと思っている、この親不孝者、何で神様から直々に命を与えられておいてお前はそんなろくでなしなんだ、って、いつもそればっかりで……だから、悪口なんて、言えやしなかった」
メレクはクウンと鳴く。サムソンはそんな彼を撫でた。
「今は違うぜ。俺、言えるもんな。メレクにも、そしてお前にも」
「そうですね」
デリラはそれに了承した。なんとなく、彼女は彼のエピソードを自分と重ね合わせて考えていた。自分とは比べものにもならない身分の彼の過去を、あろうことか自分の過去に。しかし、彼女にとって不思議とそれは非常に自然なことだった。
自分にとっても、メレクが初めてだった。自分を奴隷扱いしない存在。自分に、自身を差し置いて食事することを許してくれた存在。そして、自分にそう丁寧にしなくていいのだ、と言ってくれた存在。全て、メレクが初めてだった。
奴隷としての十四年間の生命を暮していて、確かにメレクと出会って、何かが変わった。デリラはそう思えることを自覚した。サムソンが親の悪口を言えるようになったのと、デリラがメレクを相手にだけとはいえ敬意を払わずとも話せるようになったこと。その二つは、非常に似ているような気がした。
彼らはガザから大分遠ざかり、マハネ・ダンはもうすぐ近くになっていた。


ガザの町ではアビメレクがやはり思案にくれていた。サムソンを力づくで突破するなど、ほぼ不可能に等しい。それどころか、智謀で何とかしようとしても生半可な策では全くの無意味なのだ。サムソンの圧倒的な力の前では。
どうすればいいだろうか?彼は延々と考えた。
「(まてよ、そのサムソン、この前見た時もジャッカルを連れていたな?私は見たぞ、ジャッカルが宿の屋上から、確かにあいつにろばの顎骨を渡していた)」
そう、あの時、アビメレクも別の宿の屋上にいた。彼は注意深い事には自信のある男だった。メレクがサムソンに武器を手渡すところをはっきり見ていたのだ。
「(それに、ティムナの田園地帯が燃えた時も、確かジャッカルが火を付けた、とかなんとか、ティムナ人共は言っていたな……間違いない。そのジャッカルとやら、ずいぶんサムソンと懇意にしているペットのようだ)」
アビメレクの頭の中に、とある策謀が浮かんだ。
「(ふむ……自らの民でもぞんざいに扱うような奴、と言ってしまえばそれまでだが、あのくらいの年の子供ならば自らの職務よりも、自分が好きな者の方を優先してもおかしくはない……)」
そして彼は、決心する。
「(どうせ正攻法では無理。……一か八かだ。やってみよう)」


マハネ・ダンではサムソンの旅の帰りをハツレルポニ達が温かく迎えた。
「神様にお前の旅が無事終わったことへのお礼をお言いなさい!」とハツレルポニが言ったので、家に帰ってすぐにサムソンはマハネ・ダンにある祈祷所に行った。異邦人であるデリラはそこに近づくことすら許されていなかったので、彼女は留守番で、洗濯の仕事をしていた。
ほどなくしてサムソンが帰ってくると、サムソンはデリラを自分の部屋に呼び、髪の毛の手入れをさせた。
「デリラ」彼は言った。
「なんでしょうか?」
「神様、ってなんだろうな?」
彼はぽつりと、そう呟いた。
「ジジイやババアは俺の事を神様に授かった、なんていうよな。お前の怪力も、お前が神様にその身をささげてこそ得られたものだって」
「はい」
デリラは深くうなずく。
サムソンの怪力は、常軌を逸している。これが人間ではないもの、神からのご加護だというのも、デリラには何となく信じられるような気がした。
「……じゃあ、なんでジジイやババアの方にその力よこさなかったんだろうな」
サムソンは、少しもの寂しそうに言った。
「俺は、こんな力くれなんて頼んだ覚え、一回もねえのに」
彼は、デリラが磨き終わり、元通りの滑らかな美しさを取り戻した金髪を触っていった。
「俺なんかより、ずっと、神様だけを愛している奴がいるってこと……神様なら、分かんだろ?どうして?どうして俺なんだよ」


マハネ・ダンに向かって出発した斥候をアビメレクは見送った。
「うまくいくことを祈りましょう」彼の秘書が、彼に言う。
「私も様々智謀を凝らしてここまで上り詰めはしたが」アビメレクは夜の寒さから身を守るためのマントに身をくるみ、秘書に語る。
「こういう時のみは、結局いつも神頼みだな。……我らがペリシテの神、ダゴンに祈るほかはありはせぬのだ」
「はは、アビメレク様、貴方が?」秘書は笑う。「いつも常日頃、神など頼りにならない、と言っている貴方が」
「そして、結局神からの加護もたびたび受けてきた。……神など、案外簡単に欺けるか、あるいは意外と性悪な人間が好きということさ、君」


ある夜の事だった。その日もサムソンは、メレクと一緒に遊んで帰ってきて、そして、眠りについたと思っていた。
「デリラ?」
女奴隷たちの眠る部屋の中で、デリラは声を聞いたのだ。彼女は起き上がった。見ると、長い真直ぐな髪を垂らしたままのサムソンが、部屋に入って来ていた。
「サムソン様?どうなさいました?」
「……来てくれ」
彼は息が荒かった。少し、震えているようにも思えた。デリラが起き上がって彼の側によると、彼は彼女をわしづかみにするようにつかみ、自分の部屋に走っていった。物凄い勢いだった。
何事か、と聞く余裕もなかった。あっという間にサムソンは自分の部屋に走りこみ、鍵をかけた。
「どうかなさいましたか、サムソン様……」
「デリラ。……俺を、抱きしめてくれ」
サムソンは青い顔で、そう言った。
デリラが唐突な彼の申し出に戸惑ったのは言うまでもない。ましてやそんな恐れ多い、と言う言葉すらも出そうになった。だがサムソンは震えながら、理由も説明しないうちに「こうやれって言ってんだよ!」と、デリラを抱きしめた。小柄な彼女の体は、背の高いサムソンにすっぽり覆われるような形になった。
「は、はい……」
彼女はそう言って、自分の腕を伸ばし、サムソンの背中に回した。自分の背中が守られたことが分かったサムソンは「背中じゃなくて、頭を抱いてくれ」と、細々と言った。デリラはそれも忠実に守り、彼の頭をしっかりと抱く。彼は体制を下げて、大きな体を丸めるようにうずくまって、デリラの膝の上に頭を乗せるような形になった。
彼の息が荒い。デリラは片手で彼の頭を抱いたまま、彼の背中を撫でた。サムソンはずっと、それに甘んじていた。やがて呼吸も落ち着き、彼も少し平常心に戻ってきたかと言うあたりで、デリラは彼に問いかけた。
「どうかなさいましたか、サムソン様」
「怖い、夢を、見たんだ」
彼は言った。
「怖いもんは何も出なかったんだ。化け物も、猛獣も出なかった。でも……俺が、殺される夢、だったんだ。敵にじゃなくて。イスラエル人とか、ジジイとババアとかが、みんな俺の方見て、俺に石投げて、鞭打って、……俺を晒し者にして笑ってたんだ。それで、俺、不思議と全然力が入んなくて……ただ、されるがままになってたんだ。もうお前はいらないって、のたれ死ねって、そう言われたんだ」
彼は泣くような口調で、そう言った。
「怖い、怖いよ」
彼はデリラの膝の上で、急にポロポロと泣きだした。それは年相応、いや、年よりもずっと幼いような態度でもあった。彼はデリラの奴隷の服の膝をいくらでも自分の涙で濡らした。
「お可哀想に……大丈夫、大丈夫です、サムソン様。誰もサムソン様に、そんなことはしません」
「違う、違う。するんだ。たとえば、俺よりもっと強い、俺よりもっとすごい奴とかが出たら、あいつらそれをするんだ」
サムソンは泣きじゃくりながら、虐められたのを母に言いつける子供のように、デリラにそう言った。
「俺には分かるんだ。あいつらにとって、神様にとって、俺なんてただの道具だもんよ。イスラエルを良くするために居るだけの、道具だもんよ。俺が必要な間は生かしてるだけだ。必要じゃなくなったらあっさり捨てるんだ。あいつら、そう言うやつなんだ」
小さな小さな、消え入りそうな声で、しかし確かに泣きじゃくりながら、サムソンはそう言った。彼の頭の中には、まだその悪夢の内容が渦巻いているように、デリラには見えた。
彼を抱きしめながら、デリラは、サムソンの気持ちがわかるような気がした。実の父であるマノアすら、イスラエルの誇りのためなら、彼をペリシテに手渡すことを全く拒まなかったどころか、それを彼に殆ど強制したのだ。手柄を上げて帰ってこれたからよかったものの、あそこで彼が死んでいたらどうするつもりだったのだろうか。嘆くだけ嘆いただろうか。彼の息子の死を?いや、神様から授かった英雄の死を。
「あったかいな」
彼はふと、そう言った。デリラの痩せた腹に静かに頭を擦り付けるようにして、彼は言った。
「お前はあったかいよな、デリラ」
「……お褒めに預かり、光栄です」
包帯の下で笑いながら、デリラは彼に言った。
「デリラ、俺な。嬉しかったんだ」
「何がでしょうか?」
「可哀想、って言ってくれて」
彼はまだ泣いたまま、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「泣き言言ったら、そんなこと言ってる暇があるか、神から授かった子が、それでどうする、って、言われてばかりで。文句言ったら、お前は十分恵まれているじゃないか、わがまま、親不孝者、って言われて。ちょっと何ができない、って言ったらそんなもの頑張ってなんとかしろ、って言われて。そんなやつなんだよ、俺の親父。酷いだろ。酷いだろ」
「はい。酷いです。とても、酷いです」
自分は本心からこの言葉を言っている。デリラはそう思った。仕えるべき相手であるマノアの中傷をしているのに、彼女は不思議と、罪悪感も何も感じていなかった。
「だから、お前が可哀想、って言ってくれて、俺、すごく、嬉しいんだ」
いよいよ本格的に泣いて、彼は彼女に縋り付く。
「俺はやっぱり可哀想なんだって。そう思えて、すごく、すごく嬉しいんだ。もっと言って。もっと、俺の事、可哀想だって、言ってくれよ。デリラ。ずっと俺の側に居ろよ。俺の事、可哀想だって言ってくれ」
これが、ペリシテ人を千人殺した男だろうか。イスラエルのトップに立つ士師だろうか。
醜く焼けただれた顔をした、惨めな、何の力もない女奴隷に泣きすがり、そのような彼女から憐みの言葉を乞う少年が、ほんとに彼と同一人物なのか。
しかし、窓から差し込む月光に輝き、美しく流れる彼の金髪が、目の前にいるのは確かにサムソンであると、彼女に教えていた。
彼女は、はっきりと理解した。自分は、サムソンを可哀想だと思っている。産まれてから持たなかった、持つことも許されなかった感情を、確かに自分はこの彼に感じているのだ。なぜだろう?理由は分からない。強いて言うなら、このように、汚らしい奴隷に泣きじゃくりながらすがるこの姿が、可哀想でなくてなんだというのだろう?
デリラは彼をしっかりと抱きしめた。
「お可哀想に。お可哀想に。大丈夫、大丈夫ですよ、サムソン様、お側に居ますから。私は、離れませんから」
「なんでだよ、なんでだよ。……俺は、お前の故郷、滅ぼしたんだぞ」
「はい。でも、離れません。サムソン様が、お可哀想ですから」
サムソンは際限なくぼろぼろと泣いた。彼女の痩せこけた太ももの間を、彼女の薄い衣服が吸いきれなかった彼の涙が流れていくようであった。
「ありがとう……ありがとう。もっと……もっと言って」
彼はそう呟き続けた。


「こいつか?」
ガザから下ってきたペリシテ人の斥候は、一匹のジャッカルを捕え、吠えないように口をふさぎ、全身を押さえつけた。ジャッカル一匹にここまでするのにも、ざっと二十人がかりだった。うち六人は相当抵抗され、かなり深い傷を負ってしまった。
「間違いねえだろ。サムソンと一緒に居て、後をつけてきたんだから」
「じゃあ、アビメレク様に言われたことをさっさと済ませて帰ろうぜ」
彼らは瓶を取り出した。そして、抵抗できないようしっかりと押さえつけたそのジャッカル、メレクの口の、ふさがれていない狭い隙間に、その瓶の細い口をあてがった。
メレクは必死で抵抗した。しかし、瓶の中の液体はさらさらと流れ、彼の喉の中に落ちていった。


朝になってみると、あの後泣き疲れて寝てしまったサムソンは、全くいつも通りになっていた。あの惨めな少年の面影はなく、いつも通りの、生意気そうな彼がそこにはいた。だが、デリラはそれでもいいと思った。
非現実的な幻想であったのなら、それでもよかろう。気分の悪いものではなかったのだから。
彼女はサムソンの髪をいつも通り梳かして、七本の三つ編みに結い上げた。今となってはこの作業も、ずいぶん手早く出来るようになった。
サムソンはさっさと朝食を済ませ、いつもの通りにメレクを迎えに外に出た。
だが、荒野からやってきたそのジャッカルは、様子がおかしかった。

彼は凶暴な目つきでサムソンを見据え、警戒するような唸り声を発した。

「メレク……?」
サムソンは言った。
「おい、メレク、どうした……」
サムソンがそう言って手を差し伸べた瞬間、メレクはその異常な目つきのまま、サムソンに向かって走ってきた。

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feat: Samson 第八話


サムソンのおかげで、イスラエルには平和が訪れた。ペリシテ人はもはや彼らを下等民族と呼べなくなった。イスラエルは彼らの支配するところではなくなり、彼らと対等になったのだから。
長く続いた屈辱の時代を切り開いたサムソンは、士師として非常に褒め称えられた。彼の治世はたった二年であるにもかかわらず、もはや彼は二十年分の働きをした、と言いうものもあった。
マノアやハツレルポニは、息子を強く誇りに思い、そしてそのような息子を与えてくれた敬うべき彼らの神に深い感謝を毎日のよう捧げ、生贄の獣を何頭も焼き尽くした。
「一時はどうなることかと心配していたが、やはりお前は神様が我々に与えて下さった、たぐいまれなる贈り物だったな!」と、マノアはサムソンの事をほめたたえた。
「お前は偉大なるヨシュアや歴代の士師のように、立派にイスラエルを背負っていく器となろう。お前の将来が楽しみだ」
彼は若い時からずっと、一途に神を信じ、イスラエルを愛する心を持つ身でペリシテに支配される屈辱にあえいできたのだから、自分の息子がその時代を終わらせてくれたとあって、喜びもひとしおだったのだろう。
「ここはモーセによって約束された嗣業の地。イスラエルが生きるべき土地なのだ。サムソン、お前は偉大なるモーセの意志を受け継いだのだ」
サムソンはその言葉に適当に礼を言いながら、否定せず耳を傾けていた。


サムソンが少しの間家を出て気ままに旅したいと言い出したのは、その少し後の事だった。
マノア達はもちろんあまり面白そうなようではなかったが、まだサムソンがイスラエルを独立させたことに対する余韻も残っていたし、機嫌もよかったので、一応その褒美に少しくらいサムソンの好きにさせてやってもいいという気持ちはあったのかもしれない。マノアはそれを了承し、供に何人付けるか、と言った。
サムソンはそんなに大勢いらない、と言った。しかし、やはり一人くらいは身の回りの世話をする者がいなくてはマノアもハツレルポニも心配なので、結局デリラが彼に同行することになった。
大した旅支度もすることなく身軽な姿で、サムソンはある朝に挨拶もせずにさっさとマハネ・ダンを出発した。すぐにメレクもやって来て、彼も旅に加わった。

「なんで旅に出ることにしたとか、聞かねえのか?」
荒野の真ん中で、サムソンはデリラにそう言った。
「はい」
「奴隷にとっちゃ、聞くことが失礼だから?」
「はい」
「お前はもっと俺に聞いていいんだぞ。もっと話したっていい」
サムソンは袋に入れて持ってきていたパンを食べながらそう言った。彼らは荒野を歩いていた。メレクはもちろん、サムソンも慣れたもので、まるで平らな草原を歩くかのようにひょいひょいと荒れた荒野の道を進んで、デリラは一歩間違えれば取り残されそうだった。
「では……なぜですか?」
「あいつらと一緒に居たくねえんだ」
サムソンは吐き捨てるように言った。
「デリラ。……お前だって、おかしいと思うだろ?あいつら。特に、俺のジジイ」
サムソンは平らな荒野にポツリとあった一つの岩の上に腰かけて、隣にデリラも座らせた。そうしてから、こう述べた。
「……ペリシテ人を、殺せとか殺すんじゃないとか。三十人殺すのは悪くて千人殺すのはいいとか。さんざん俺のこと馬鹿にしといて手柄立てりゃ神様から授かった自慢の息子とか……何なんだよ?ほんと、何なんだよ?」
彼は吐き出すようにそう言った。荒野の風は砂が混ざっていて、デリラは片手で庇を作って砂から目を守った。サムソンもうつむいて膝にひじをつき、両手で目を覆って、それで目に砂が入らないようにしていた。
サムソンは、あの彼が帰った一晩に彼が言ったようなことを、今度は大きな声で吐きだした。
「何なんだよ!?本当に虫がいいよな、あいつら!俺に戦ってもらってる癖によ!都合悪くなったらすぐ大人の特権振りかざして威張り散らすし!俺が困ったときは助けないくせに俺が手柄立てりゃ自分の息子って吹聴するし!ほんとなんなんだよ!?俺は都合のいい道具か!?普通の親子ってこうじゃねえだろ!?なあ、こうじゃねえよな!?こうじゃねえんだよな!?」
「は……はい」
「ジジイとババア、変だよな!?」
「はい……」
「なんでお前、はいはい言うんだ!?俺の言うこと聞いてなきゃ、奴隷として失礼だからとかそんなんかよ!?」
「いいえ、そんなことは」
サムソンは叫ぶうちにどんどん冷静さを失い、取り乱していると言ってもいいほどの状態になった。
「違うよな!?違うんだよな!?お前が貴族でも、お前は俺の事、可哀想って言ってくれたよな?!俺が可哀想だから、そうだよな!?」
「はい……はい。安心してください。サムソン様」

貴族だったらなんて、そんなこと、分かるはずがない。自分は貴族じゃないのだ。もしもそうだったら、と仮定して空想することができるほどの自尊心も、もうとうの昔にすっかり削り取られてしまった。
貴族は美しく、力があるのだ。自分ごときが空想でそうなることすら、死にも値するほどおこがましいほどに。
ただ、彼女はサムソンの言葉に同意し続けた。不思議な感覚だった。義務感以上に、何か感じるものがある。そう、デリラは自覚し始めていた。それは今ここで生まれたものじゃなく、少し前からそうであったような。
メレクが足もとで寝そべりがらあくびをした。

「昔からそうだ。昔から、お前は神様に捧げられた身だからって、正しく清く育つべきだからって好きなことは何もさせてくれねえし、友達なんて一人も作らせてもらえなかったし……メレクと、メレクと荒野で初めて会った時だって、ジジイもババアも散々メレクのこと馬鹿にしやがった、腐肉を食う汚いジャッカルなど汚れているからとっとと離れろ、お前はこんなものと一緒にいちゃいかん、って。メレクが一緒に頑張ってくれて、一緒に抵抗してくれたから一緒にいること許してもらって……そん時が、すごく嬉しかった」
「ええ、メレクはとても優しいですものね」
「そうだよ。メレクは優しいんだよ。俺の友達だもんよ」
メレクは彼らの足もとで、それらを聞いて嬉しそうに吠えた。
「昔から、メレクは優しくて……メレクがいっつも、俺のそばについてくれていた」


彼らは進みに進んで、やがてガザに到着した。ペリシテ人の一大都市だ。
すっかり日は暮れていて、いかがわしい通りだけがにぎやかだった。サムソンはそれに目を止めた。
「デリラ」
「なんでしょうか?」
「ああいうところにさあ……いるんだっけ?娼婦とか言うやつらが」
デリラは「はい」と言い返した。
それを聞くなり、サムソンは「面白そうだな、行こうぜ」と言い出した。

デリラは止めようかと思った。ハツレルポニは何よりも、サムソンが乱れたことをするのを嫌うし、その目付け役に自分を置いているのだ。娼婦のもとに行くなど、彼を潔癖に育てようとするハツレルポニが許すはずがない。
だが、不思議と彼女は、サムソンを止められなかった。それのどこが不思議かと言えば、主人の言うことには絶対に従わねばならない、と言う彼女の信条ともまた少し違ったもののように、彼女は確かに感じていたからだ。
何故か、サムソンを邪魔したくない。サムソンは、楽しそうだった。
いいか。このままでも。彼女の心の中に、そんな見覚えのない感情が湧き上がってきた。どうせマノアやハツレルポニの眼のないところなんだ。彼はそんなところを求めて、彼らと一緒のところになどいたくないから旅をしたんだ。彼らが禁じることの一つくらいをしても、いいじゃないか。ましてやサムソンは、結婚相手を失った身なのだ。女が恋しくなったところで、構わないじゃないか。
そんなことを感じる自分に、デリラはたまらない違和感を覚えていた。だがこれもまた不思議なことに、その違和感は不快感と言うわけでもなかった。

サムソンは路地の隅にひっそりとあった少しばかり年増の売春婦の家の前に立った。窓から男を呼び込もうとしていた彼女は、彼の異常に長い髪の毛や、顔中包帯まみれの女とジャッカルを一頭連れているという異様な風体に面食らっていたようだったが、それでも気を取り直し「坊や、あたしを買うつもり?お金は先払いよ」と言った。
「金はこんだけある」
サムソンは財布から金を取り出して言った。
「これなら一晩とは言わず、四日はあたしのところに泊まっていけるわよ。あたしは安さが売りだしね」
「じゃ、頼む」
「そっちの子たちは?あんたの召使いとペットかしら?その子たちも一緒に?寝室は足りてないけど、地下室ならただで貸せるわよ」
「かまいません」デリラは言った。まともな寝床など普段から与えられない。どんなところでも寝れる自信はあった。
「じゃ、決まりね」と、その売春婦は、サムソンたちを自らの家に連れ込んだ。そして、デリラと一緒にまずは夕食を作り始めた。


ガザの知事、アビメレクは仕事を片付けながら、いらだつ心を隠せないでいた。イスラエル人がペリシテの支配から逃れ、税を治めなくなったせいでペリシテ全土が大損だ。無論のこと彼の実入りも少なくなっている。彼は真実、イスラエル人を腹立たしく思った。そして、その原因を。
「(サムソン!サムソン、あの小僧め!)」
ここ数日の間、彼の心にあるのはサムソンの事ばかりだ。自分よりもうんと年端のいかない少年を、彼は智謀で捕えたつもりだった。彼には馬鹿力はあっても所詮は下等民族の、しかも子供。自分の頭が切れることに自信のあったアビメレクは、力は負けても智謀では彼に勝つだろうという絶対的な自信があった。
そのこと自体は間違っていなかったのだ。彼は智謀でサムソンに勝った。だがしかし、彼の計算違いは、サムソンの馬鹿力は智謀で得た勝利をそれこそ力づくで無理矢理覆すことができるほど膨大なものだった、と言うことだ。
「(イスラエルの神の加護を受けた英雄……か。ふん、異教徒の神を肯定するのはしゃくだが、それをもってしてもありえる話だ!あれが人間業なものか!)」

そんな彼の前に、とある昼間一人の青年が言うことがあると言ってやってきた。彼はアビメレクの部下の一人だった。アビメレクはその青年に「何があったのだ?」と率直に聞いた。
「アビメレク様。実は、私の姉……個人で売春宿を営んでいる女なのですが、その私の姉の家に、気になる者が入っていくのを見た、と我が知人に告げられまして。私は……それが、知事様が探しているものなのではないかと思うのです」
「何?」
「異常に長い金髪の背の高い少年で、顔中包帯を巻いたちびの娘と、ジャッカルを一匹連れていたというのです」
青年の報告を受けて、アビメレクは顔を青くした。もちろん、そんなものなど世界広しと言えども、サムソンぐらいしかいないだろう。
「お、お前の姉は何をしている!?」
「姉は気が付いていないようです。若い時からふしだらで家から半ば勘当されて、そのおかげで学もないような女ですから、サムソンの名前は知っていても彼の髪の毛のことなどはあまり知らないのではないでしょうか?ですから一応言ってはいませんが……いかがいたしましょうか?」
「……無論、捉えるしかあるまい」
アビメレクは真剣な顔でそう言った。自分が恨みを尽くしてきた相手が自分の領内にいる。これほどまでにうまいことはあるまい。
「だが……焦りは禁物だな。あれは一度に千人を殺せるような化け物だ」
「おっしゃる通りです」
「よいか、サムソンを見張っておれ。我々がまずガザを封鎖する。そして陣を整え、完全に準備をしてから奴を迎え撃つのだ。千人以上の軍隊を集めればならない。万が一にも奴の目に付くことがないように、ひっそりとな。……奴はガザから出しはせぬ、飛んで火に居る夏の虫、今度こそ殺してやろうではないか」


やがて三日が立った日の事だった。サムソンはその間、ずっと売春宿に入ったまま、外に出ようともしなかった。彼はハツレルポニに家の中には入れてもらえないメレクと室内で一緒にいられるのが嬉しいようで、メレクと一緒に遊んでいた。
ところでその三日目の朝、売春婦がデリラの所にやって来て言った。
「ねえ、ちょっと、あんた。あんたのご主人、何なんだい?」
「は……何がでございましょう?」
「あの子、何しにここに来たってのさ?」
デリラは売春婦の質問の意味が分からなかった。だが、彼女は渋ったようにこう言った。
「あの子を来させてからずっとあたしはあの子と一緒に寝ちゃいるけど、あの子、あたしを抱きゃしないのよ。あたしと一緒の布団で、文字通り寝るだけだよ。ぐうぐういびきかいて。……そりゃ仕事の手間が省けたと思いや楽だけど、一体全体売春宿に来といてどういうつもり?変な気分よ、こちとら」
それを聞いて、デリラ自身も変な気分になった。衝撃を受けた、と言ってもおかしくはなかった。
売春宿に来て、売春婦を抱かない?文字通り、ただ一緒に「寝る」だけ?そんなことがあるのだろうか。だって、サムソンはここがどういうところなのか知っているのではなかったのか?女を買うとはどのようなことか知っていて、だから面白がっていたのではないのだろうか?
目の前の売春婦は、おそらく泊まるだけ泊まって先払いでもらった金を値切られはしないかと言うことを心配しているようだった。だが、デリラはそれ以上にサムソンに思いをはせた。
「あの方は」
デリラはふと、ある言葉が口を突いて出た。それはまるで、デリラ自身の疑問に答えるような答えでもあった。
「知らないんだと思います。女を抱く、と言うことを」
「は?」
売春婦は怪訝そうだった。それはそうだろう。しかし、デリラはその答えに納得した。
彼は、ひょっとすると、知らないのだ。ハツレルポニ達に「神に与えられた者」として清く正しくあることを強要され続けた彼は、女との交合というものを存在自体知らないのだ。彼にとって女と寝るというのは文字通り添い寝するだけの事、売春宿と言うのはただ金を払って女と一緒に添い寝するだけの場所なのだ。
サムソンの何を見てきたわけでもない。なぜ分かるのだろう。彼女自身にも不思議だった。だが、その答えは天啓のように彼女に振ってきた。
「……変な子ね」
売春婦はそれだけ言って、後はもう十分と言うことか、下がっていった。地下室の上の階からサムソンとメレクの遊ぶ無邪気な声が聞こえてくるのを見て、デリラは妙な気持ちになった。急に、涙がこぼれた。
自分はなぜ、泣いているのだろうか?その疑問に対する答えを、口は出してくれなかった。だが、デリラはなぜか、それがひどく悲しい事のように思えたのだ。


「あんた、何してんのよ?」
例の売春婦は自分の家を出て、そして彼女を見張っていた彼女の弟に行った。弟は隠れていたが、彼女はいともたやすく見つけた。
「な……」
「言い訳したって駄目よ。ここ数日ずっとあたしの家を監視しやがって。お客さんもいるのよ、失礼なことをしないで貰いたいね」
「うるさい、家の恥さらしめ!俺は知事様のご命令にしたがってこれをしているんだ、邪魔をしないでもらおうか!」
彼は姉に深く追求されないように、アビメレクの名を出した。しかし、それは結局裏目に出た。
「……知事様のご命令?それ、どういうこと。あたしが何かしたっての?何か理由がありそうだね」
売春婦は弟のした発言、なぜか自分の家を見張ることが非常な重大事項であるということに目を付けた。そして、弟にそれを問い詰めた。弟は最初の方こそ断っていたもののとうとう根負けして、姉に話した。
「お前の宿に来ている小僧は、イスラエル人サムソンだぞ」
「え!?あの、ペリシテを苦しめてるっていう……」
「ああ。だから、俺たちはあいつの動向を見張りながら、警戒態勢を敷いているんだ。あいつが帰ろうとした時待ち伏せして殺せるようにな。お前もしっかり、あいつを見張っていろ。ペリシテのために」


その夜の事だった。次の朝になれば、サムソンは帰るという夜の事だった。サムソンは夢の中で、変な感覚を覚えた。自分の長い髪の毛が自分の体に巻きついて、自分を拘束している夢だった。彼の髪の毛が鋭く彼の体に食い込み、ぎりぎりと締め上げた。彼の体中が痛みに悲鳴を上げた。とても寝てなどいられない激痛だった。
彼はそこで目が覚めた。と、同時に、自分が縄で縛られているのに気が付いた。
「な……」
彼は声を出しかけたが、例の売春婦はそばに居なかった。だが彼はすぐに理解した。おそらくあの売春婦も、セマダールと同じだ。自分を寝ているところ縛り上げれば何とかなるとでも思ったのだろう。
だが、自分にそんなものが通用するものか。サムソンがぐいと力を込めると、夢の中の自分の髪の毛とは違い、それは糸のように簡単にほどけた。
かえって売春婦がいないのがチャンスだ。編んでいる暇はないので、サムソンは切れた縄で自分の長髪を一気にきつく縛り上げ、邪魔な分を首回りに巻きつけ長さを調節した。そして、地下室のデリラとメレクの所に下って行った。
「おい、俺らの正体がばれたぞ」
デリラはそれを聞いて驚いたようだった。サムソンは彼女の手を引き、「すぐに逃げよう」と言った。


「サムソンを縛り上げたから、今すぐ来て捕まえてほしい」と例の売春婦から連絡が入った。サムソンを狙い撃ちしようと閉ざされたガザの門の前に居た兵隊たちはそれを聞き、彼女の手引きで彼女の売春宿に向かった。
それを聞いたとき、アビメレクはなんだか嫌な予感がしたのだ。自分の予定と外れてしまうが故に、この計画も失敗してしまうような。
そして、その予感は当たった。兵たちが売春宿に着いたとき、サムソンはすでに拘束を逃れ宿から逃げていた。そして、守りが手薄になったガザの市門に入れ違いに向かってしまったのだ。

「追え、サムソンを逃がすな!」アビメレクはその報告を聞き、血眼でそう命令した。ガザの門はがっちりと閉められているのだ。逃げられるはずがない。せめて、兵が引き返すまでの時間稼ぎにはなるだろう。
だが、そうはならなかった。兵たちがたどりついたとき、ガザの立派な門は、扉、いや、門柱ごと、かんぬきもろとも引き抜かれてただの四角い穴と化していた。
寝ずの番が恐る恐る言った。
「はい……申し上げます。サムソンです。サムソンが、素手でこの扉を引き抜いて逃げて行ってしまったのです。……お許しください、知事様。我々にはどうすることもできませんでした」
「……イスラエルの生んだ化け物め!」
アビメレクは唇を噛んだ。一度ならず二度までも、自らの作戦を力押しで乗り切ってしまい、自分に煮え湯を飲ませたサムソンに対する怒りが一層激しく燃え上がった。
必ず、必ず彼を捕えて死刑にしてやる。そのような思いが、彼の怒りに火照った体中を満たした。


高い、名前もよく知らない山の上に着いて、サムソンは先ほどから担いだままのガザの市門の扉をそこに置いた。すでに夜が開けていて、うっすらとした朝日の光で山の上から雄大な景色が見渡せた。彼らの視界にうつる町はヘブロンだったが、サムソンにとってはそれは大したことではなかった。彼はぼんやりと、景色を眺めていた。ほんの数時間前に脱出劇を演じたとは思えないほど、彼に興奮した様子はなかった。
彼はずっと黙っていて、デリラも傍でそれを見ていた。彼女は、ガザの町で自らが感じた思いについても、少し思いをはせた。
何故、自分は悲しくなったのだろうか。自分は、サムソンを可哀想、と感じているのか?そのような感情、何物にも劣る自分が持つのにはおこがましいものなのに。可哀想、と言うのは対等以下の相手の人間に言うもので、イスラエルを統べるサムソンがそんな相手なはずないのだから。この世の何に至っても、デリラに可愛そうなどと呼ばれる筋合いのあるものなどない。彼女はそう言われたし、そう信じて生きてきたのに。そして、禁を犯すことは絶対にダメだと自分に言い聞かせ、誰に言われるよりも早く、強烈に、自分自身を責めてきたのに。そうでなければならなかったはずなのに。
朝露にぬれた雑草の葉を食べるメレクの背中を撫でながら、彼女は自覚した。自分は、サムソンを憐れんでいる。全くの穏やかな心で。それは彼女にとって、人間が素手で門柱を引きちぎることよりも、非現実的なことだった。

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feat: Samson 第七話


サムソンはマハネ・ダンに帰らなかった。それも、何日もの間。
彼はデリラを引っ張って、メレクと一緒にエタムにある岩山の、岩の裂け目に入った。そこは、彼が時々メレクと一緒に訪れる、彼の隠れ家だったそうだ。その証拠に、ボロボロになって汚れてはいるが、毛布が一枚、その中に置かれていた。
「嫌いだ。……あいつら全員、嫌いだ」
昼間のうちはサムソンは時々そんなことを言うだけで、後は全く自由気ままにエタムの山岳地帯を駆けずり回った。そしてメレクと一緒に野生の鹿や山羊を狩り取って、デリラに料理させた。デリラはそれに何も抵抗しなかった。サムソンがやりたいことならやらせてやる他ないのだし、逆らおうとしてもどうなるものでもないではないか。
今頃は勿論マハネ・ダンではサムソンを探して騒ぎになっているだろう。だが、サムソンは当然そのようなことは全く関係ないようだった。
夜になれば、焼いた鹿を食べつくして、寝転がりながら、サムソンはデリラに言った。
「デリラ」
「何でしょうか」
「……俺、悲しいよ」
デリラはそれを聞いて、「お可哀想に」と言う。
「なんで、こうならなくちゃならなかったんだよ」
彼はえずくように、体の中の異物を吐き出すように、そう言った。あの夜一晩、いや、あの結婚式の日からずっと彼の身に起こったことを、彼はうまく言葉に言い表せなかった。ただ彼は自らの苦しみを表明した。
「お可哀想に、サムソン様」
デリラはそう繰り返し続けた。サムソンは彼女にそう言われ、メレクにもいたわるように指を舐められながら、ぽろぽろ泣いた。
「なんでだよ?なんでだよ!?どうしてこんなことが起こったんだよ!?俺が悪いから?全部、俺のせいだから?」
「お可哀想に……」
いつの間にか、デリラも貰い泣きしていた。あまり感情を貰うことなどなかったが、彼と自分とメレクしかいないような空間で、彼の感情は驚くほどデリラに伝播した。うまい理由は見つからなかったが、彼女も悲しくて仕方がなかった。
「もっと言って」サムソンは呟いた。「もっと、可哀想って言ってくれよ。デリラ」
「はい、言います。何回でも申します。お可哀想に、サムソン様」
彼らしかいない岩山に、そんな声が何回も、何回も響いた。


マハネ・ダンではもちろん、サムソンがいないことが問題になっていた。しかも、それはただの問題ではなかった。
マノアのもとに、一人のペリシテ人の、高貴な身なりをした男性が現れたのだ。彼はガザの知事、アビメレクと名乗った。
「無論のことあなた方もお聞きしていることではあるでしょうが、先日のティムナの町で、サムソンが大量に人を殺しました」
普段のマノアであるのなら、ひょっとすると啖呵を切って追い出したかもしれない。しかし、今は勝手が違った。
マノアは先のペリシテ人への反乱で、反乱の戦果としてイスラエル人の自由をいかに認めるか否かの交渉をずっとしていたのだ。そして、それが最近ようやく功を奏しそうになっていた。そんな時に、サムソンが事件を起こしたのだ。しかも大義のある反乱ではなく、全く狂乱的な大量殺人にすぎなかった、と、しつこすぎるほどにアビメレクは彼に言ってのけた。
マノアも、無論のこと初めて聞くそのことに頭を痛めた。仮にもイスラエル人のリーダーとして、サムソンが起こしたのはあまりに破天荒すぎる事件だった。言い訳の余地はなかった。
「サムソンはティムナ、いや、ペリシテを支える前途ある若者を皆殺しにしたのです。ペリシテ人として、ただで許すわけにもいきませんな。私はあなた方の事を、異教徒ではあれど民族に強い誇りを持った気高い人々と思っておりましたものを」
アビメレクはマノアにさらに言った。
「すでに、このことに対する報復のため、ユダの地に我がペリシテの軍隊を向かわせましたよ」
「なに!?」マノアは驚く。
「無論のこと、あなたと結んでいたイスラエル十二部族のうち五部族に対する減税と自治の件も、我らが王は無しにすると言っております。まあ、当然ですな。我々は敵ながらあなた方の大義と誇りに敬意を表してそれらの事を取り決めたのです。ところが当のサムソンは誇り高い戦士ではなく、ただの気の狂った大量殺人犯にすぎぬのですから」
「ま、待ってくれ!」マノアは慌てて彼に食いついた。
「それだけは困る!イスラエル人たちに自由を与える事こそ我らの使命だ!」
「あなたの使命など、なぜ我々が考慮せねばならんのですか?」アビメレクはねちっこく言った。そして、答えに困り黙りながらも、それでもなお言わなくてはと困っているマノアをしばらくの間放置し、頃合かと思った頃に唇を開いた。
「そうですねえ……あなた方が本当に大儀ある存在ならば、けじめを見せてください。それで、例の件も引き続き執り行ってもよろしいでしょう」
マノアはパッと顔を明るくして「それならば、無論のこと、どんなことでもしよう!」と言った。アビメレクはそれを受けて、にやりと笑った。


もう何日経ったのかも分からない。三日も経っていないような、ひと月は軽くたったような、そんな感覚の早朝だった。ザワザワと騒がしい遠くから聞こえる音を聞きつけて、デリラは目を覚ました。案の定、サムソンもメレクも起きていた。
何だろうと彼女がうろたえていると、サムソンは「デリラ。ここに居て待ってろ。俺が見てくる」とはっきり言い、彼女の返事を待つまでに彼はメレクさえ置いて行ってしまった。
彼女はそれを承知するつもりだったが、やはり心配なのもあってそっと彼の後をつけた。すると、彼女はすぐに驚いて足がすくんでしまった。影から伺った先には、ざっと三千人はいそうな軍勢が、まだ日も登り切っていない岩山に、松明をともしてやって来ていたのだ。そして彼らは、サムソンに向かい合っていた。
ペリシテの軍勢か、と彼女は思った。だが、違った。彼らはイスラエルのうち、ユダ族の軍隊だったのだ。
「イスラエルの士師、サムソンは貴方か?」彼らはサムソンに言った。
「そうだ、なんか用か?」
「よくもそんな口が聞けたものだな!貴様がしでかしたことのおかげで、我々ユダ人はペリシテの軍隊に攻め込まれたのだぞ!」
彼らは怒った口調で、何が起こったのかを把握していないサムソンに説明した。要は、サムソンの起こしたことのおかげでユダは攻め込まれるしようやく決まろうとしていたイスラエル人に対する減税がふいになってしまった旨などをだ。
「何が士師だ!我々がペリシテ人の配下にあることも分からないなんて」
「うるせえな。俺はただ奴らが俺にしたことをやり返しただけだよ。何が悪いんだ」
悪びれることなくそう言うサムソンの前に、一人すっと歩み出る者がいた。軍隊の中にありながら鎧を纏っていないその男は、マノアであった。
「親父……」
サムソンが言い終わる前に、マノアはサムソンを平手で思い切りぴしゃりと打った。そして「この、馬鹿息子が!」と言った。
「お前のおかげでイスラエルがめちゃめちゃだ!」
「んだよ……俺は、ペリシテ人を殺しただけだぜ?なんで責められなきゃならねえんだ?」
サムソンの言葉には、繰り返すが全く悪びれた様子がなかった。マノアはその言葉を聞くなりいよいよ激怒し「良いか、我々はお前を探しておったのだ。このことに対するけじめをつけるため!」と言った。
ユダの軍の長が、さらにマノアの隣に歩み出た。「サムソン。我々は君を縛ってペリシテ人のもとに連れて行く。ペリシテの法律で君を裁かせるためだ。ペリシテ人を殺した、と言うが、今回君がしたのはそれほどの事だ。ペリシテの王は、そうしさえすればひとまず結んだ条約は破棄せずにいてくれると言っている」
彼らはサムソンに高圧的に言った。デリラは物陰で、ただ震えながらそれを見ているだけしかできなかった。
サムソンは彼らの前に仁王立ちになったまま、返した。「じゃあなんだ、つまりお前ら、俺を捕えるために来たってことか?……こんな軍隊引き連れて?」
「そうだ」
マノアはもう一度、サムソンに威圧的に言った。
「息子よ。まさか怖気づくではあるまいな。お前はイスラエルを救うのが本分なのだぞ。潔く向かうがいい。お前が行きさえすれば、イスラエルは助かるのだ。喜んで向かわんか!」
サムソンはその言葉を聞いて、ぎっと歯を食いしばった。そして、「分かったよ……やればいいんだろ、やれば。イスラエルのためにペリシテのもとに向かえばいいんだろ」と言った。
「そうだ!それこそがお前の仕事だぞ、何故分からぬ、昔からお前をそう育ててきたというのに……」
「分かったって言ってんじゃねえか!しつけぇな!」
彼はマノアの説教をそれ以上は聞かず、代わりにユダの軍の隊長に言った。
「あんたらは、俺に害は加えないと誓えるか?」
「ああ、誓うとも。我々はペリシテ人のもとまで君を護送するだけだ。殺しはしないよ」
「……俺の女奴隷を一緒に連れてきている。そいつを一足先にマハネ・ダンに戻してくれ。あいつは俺と一緒にいただけで、虫一匹も殺しちゃねえ」
「承知した」
彼らがそうやり取りした後、サムソンは踵を返して彼の秘密基地に向かった。だが、それよりも早く彼はデリラを見つけた。
「なんだ、聞いてたのか」
「はい、あの……」
「そう言うことだから、お前は一足先に帰ってろ。またババアがうるさいと思うけど、ごめんな」
サムソンは淡々とそう言った。顔は明らかに不快そうではあったが。
「あ、あの、サムソン様は……」
「心配すんな。大丈夫だから。それと、メレクは一緒に戻らなくていいぞ。あいつは、俺の後をついてきてくれる」
「は……はい」
デリラはそうとだけしか返せなかった。サムソンはあと余計な言葉は言わずにすぐにまた踵を返してしまい、彼らのもとにすたすたと向かった。そしてデリラを引き渡すと自分も護送されてユダの軍隊と一緒に行ってしまった。デリラは数人の兵士と一緒に、それを見ているだけだった。


サムソンが向かったのは、エタムからは近いペリシテ人の町、レヒだった。レヒの町では、ペリシテ人を苦しめるサムソンが縛られて連れてこられた、と聞いて大歓声がおこった。彼らは広場に出ていって、縛られたサムソンの姿を見た。しかも、それを縛っているのは彼の同胞であるはずのイスラエル人なのだ。愉快でないはずがない。憎らしい相手が同胞にも見捨てられるほどおちぶれる。これほどめでたいことがあるだろうか。彼らはサムソンとイスラエル人を嘲笑し、侮辱する歌を大喜びで歌った。サムソンはじっとそれを聞いていて、ユダの軍隊は屈辱に明らかに耐えかねていた。

「お見事です、アビメレク様」
アビメレクはレヒの宿屋の屋上から、その様子を見ていた。彼の取り巻きは、口々に彼をほめたたえた。
「まさかサムソンが実際に捕らわれるとは」
「ふふ。いくら豪傑と言えども、同胞のため、とあらばメンツのため出て行かざるを得まい」
これは、アビメレクの策略だった。
まず、サムソンを激昂させ、言い訳のしようのない罪を彼に負わせる。そのタネ自体は何でもよかったが、彼はセマダールの家を焼打ちにさせ、彼が放火犯を殺すことを選んだ。どうせセマダールの家も裏切り者として白眼視されていたのだし、ティムナの町はサムソンのみならず裏切り者一家も処刑できて一石二鳥となるだろうという判断だった。事実それは当たりだったし、作戦に乗ってくれるものも多くいて実に事は進めやすかった。もっとも、その同胞たちは殆どサムソンに殺されてしまったが。
とにかく、そうしてサムソンに罪を負わせた後は、ようやく決まりかけていた減税と自治の件の取り消しをちらつかせ、倫理的圧力も加えてイスラエル人を追いつめる。彼らが豪傑サムソンを縄で縛ってペリシテ人の前に差し出さねばならないように。そして、サムソン自身もめったな反抗ができないように。
まともに向かっていってもあの怪力相手では打ち取れまい。アビメレクはサムソンに関して、そのような考えを持っていた。その上で、今回の作戦だ。
「まあ、少し考えれば分かることだ」
「王様も大変お喜びです。このレヒに直々においでになっていらっしゃいますよ」
彼の取り巻きのうち一人が、広場を指した。広場には確かに、豪華に誂えられた椅子に座るペリシテ王が見えた。
「あとでアビメレク様にも褒美をよこすとか。これで貴方様のご名声も、さらに広まりましょう」
「ははは、そいつはめでたい」
彼らがそう高みの見物をしながら話している間、サムソンは縛られたまま引き回され、ついにはレヒの広場に立たされた。ユダの軍の長とマノアが、ペリシテ王の前に跪き、何やら証文をもらっていた。おそらくは、サムソンと引き換えに例の詔を改めて認めるという旨のものなのだろう。彼らは何やら少しだけ話すと、そのまま急いで帰っていった。ユダの軍隊と入れ替わりにペリシテ王の親衛隊がサムソンを押さえつけ、広場に居るイスラエル人はサムソンだけとなった。

サムソンは憮然とした顔で広場を見渡していた。
「そこの者」王のそばに侍る長老が言った。
「礼をせんか。国王陛下の前だぞ」
「俺はイスラエルの士師。てめえなんぞに下げる頭はねえな」
「無礼者!」声が湧き上がった。「お前はティムナの若者を何人も殺した大量殺人犯としてここに来ているのだぞ!」
「サムソンとやら」ペリシテ王は高い椅子の上から彼に告げた。「イスラエルの士師とは聞こえたものだな。お前はイスラエル人に、ここに引き渡されたのではないかね?」
「ああ、ああいう奴らだから」
「ははは!自分の民を信頼せぬとは、下等民族は全く知れたものよ」
ペリシテ王はそう言った。そして彼は「石打ちにせよ!」と合図する。その合図とともに、ペリシテ人は待ってましたとばかりに嬉しそうに沸き立ち、手に持った石を一斉にサムソンに向かって投げつけた。
はずだった。
石打ちの前に、サムソンを押さえつける護衛兵たちが離れた。無論のこと、自分たちまで巻き添えを食わないためだ。だが、それが命取りだった。サムソンは、その隙をついた一瞬で、自分を縛っていた縄から抜け出したのだ。

どうやって抜け出した?と、次の瞬間、ペリシテ人たちは目を疑った。何のことはない。彼は、引きちぎっただけだ。自らを縛った縄を。まるで、焦げた亜麻紐のように。
そして、そのペリシテ人たちが戸惑っている瞬間の事だった。ひゅうと空から、何かが降ってきて、サムソンはそれに合わせて手を伸ばした。彼の手に落下してきたそれは、ろばの顎骨だった。
「ありがとな、メレク」
彼は言った。彼を追って武器になりそうなものを持ってきて、それを彼に投げ落としたメレクは、レヒの民家の屋上からワンと鳴いた。
そして、さらに次の瞬間の事だった。ペリシテ人たちは慌てて彼に石を投げようとし、兵士たちは彼を取り押さえようとした。だが、彼はそこにはいなかった。いつの間にか一人の兵士の裏側に居て、ろばの顎骨で彼の頭を殴りつけたのだ。それは兜を貫通し、彼の頭を直接えぐった。その兵士の頭から血が吹き出、彼は絶命した。
「まだるっこしいな。要するによ、『大義』がありゃ、お前ら俺を許すんだろ?じゃ、俺は今からてめえらに反乱するぜ」

広場に悲鳴が沸き起こる。パニックになった。サムソンは、そのできた隙をぬって、二人目を打ち殺しにかかった。次に三人目、四人目。まるで蟻をつぶすかのように、彼は、一秒一秒ごとにやすやす人を殺した。

アビメレクは、宿の屋上からその一部始終を見て、目を疑っていた。パニックになる広場。腰を抜かした人はもちろん、逃げる事すらままならない。逃げる前に、サムソンが彼らをしとめる。たった一人しかいないのに。剣どころか、そこいらに転がっているようなろばの顎骨しか武器に持たぬと言うのに。彼は大勢でとらえようとすれば飛び上がって上に逃れ、剣を振り回される前にろばの顎骨を体に叩きこんで相手を殺してしまう。
「なんだ……なんだ、これは?」
アビメレクはそうとしか言葉が出なかった。彼の取り巻きが慌てて彼に「お隠れください、アビメレク様!危険です!」と言った。
だが、アビメレクはその様子から目が離せなかった。これは現実か?現実であるはずがない。そうに決まっている。あそこにいるのはたった一人の少年。百人でも、千人でもないのだ。それなのに、それなのに、やはり、目の前にあるのは現実だった。人間業とは思えぬ俊敏な身のこなしで身長ほどもある長髪をたなびかせながら、その少年はいっそ見事、妙義ともいえるほど、ペリシテ人をあっさりと絶命させていく。次々と。アビメレクはそれを、一部始終見ていた。見るしかできなかった。

広場がようやく静かになるころ、広場には、ざっと千人の死体が積み重なった。その頃になれば、広場に生きている人間は二人しかいなかった。サムソンと、ペリシテ王だ。ペリシテ王の周囲にいたはずの彼の護衛も、彼の隣に倒れていた。
「ろばの顎骨で、一山、ふた山、ろばの顎骨で、千人を殺した……俺は、千人殺した」
サムソンはそうぶつぶつ呟いていた。
ペリシテ王は腰を抜かし、玉座の上を動けなかった。サムソンはゆらりと、血で真っ赤に染まったろばの顎骨を持ったまま、彼の前に立った。
「ひっ……」
ペリシテ王がそうとしか言えなかったのも無理はない。サムソンは真っ赤に染まった顔で、彼に言った。
「そうガタガタすんな、爺さん。俺はまがりなりにもイスラエルの士師、あんたはペリシテの王だ。民族を統べる者同士、俺はあんたとサシで対話する権利はある。そうだよな?」
「あ、ああ……」
目の前での大殺戮を見せつけられて、ペリシテ王は正気であるのがまだ上等なほどに精神的ショックを受けていた。ましてや、当の相手が目の前にいるのだ。
「見ての通りだ。俺はあんた達に向かって反乱した。それであんた達を打ち取った。……じゃ、俺の要求を飲んでもらえるだろうな?」
サムソンはペリシテ王を睨みつけてそう言った。要求と言うよりも脅迫であったが、ペリシテ王はそう言って反論する気概など持てない。今は息を吸って吐くことすら苦しいのだ。
「は、はい……」
「減税と自治の件だ。五部族じゃなく、十二部族全部に認めろ。……それと、減税もこれっぽっちじゃ減ったことにもなんねえよ。あー……そうだ。いっそてめえら、俺らから税なんてとるんじゃねえ。俺らはイスラエル人だ、ペリシテ人じゃねえ。今日を持って、お前の口自ら、イスラエルは自分たちに服従する存在じゃない、って言え。もちろん十二部族全部だぜ。これが俺の要求だ。どうだ?爺さん」
彼の手にはまだろばの顎骨が握られたままだった。自分を守る兵士は全員死んでしまった。ペリシテ王が出来たことなど、震える手で紙を取り出し、勅命を書くことしかなかった。


マハネ・ダンに戻ってきたサムソンを出迎えたのは、あの日ユダの軍勢と会った時とはうって変わっての歓迎の声だった。それはそうだろう。彼のおかげで、イスラエルはペリシテの支配を逃れたのだ。
「サムソン、サムソン!」彼らはペリシテ人とは全く違う大歓声を持って、彼を出迎えた。
「イスラエルの救い主よ!」
サムソンを迎えるための色とりどりの上着が敷かれた道の上をマノアがやって来て、彼を抱擁した。
「お前がこのたびやったことを、私は誇りに思うぞ、サムソン!」
サムソンの方が彼よりもずっと背が高いので、マノアは息子の胸板に顔をうずめる形になった。
「ダン族だけではない。ルベン、シメオン、ユダ、イサカル、ゼブルン……偉大なるヤコブから出た十二の部族のものは皆、お前に本当に感謝し、お前を祝福しているぞ!さあ、お前を祝う宴会の前に神様の前に礼を言おうではないか。お前にこれほどの栄光を与えて下さった偉大なるアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に祝福あれ!」
「まあまあ、こんなに汚れて……」
ハツレルポニも出てきて、一人で長旅の末帰ってきた息子を祝った。
「宴会の前に、体だけでも洗ったほうがよさそうですね」
マハネ・ダン中が盛り上がり、彼の帰りを祝福した。デリラは彼が帰ったのを屋敷で掃除をしながら、その歓声を聞いて知った。そして、それを喜ばしく思った。


「何たることだ!」アビメレクはすっかり人のいなくなったレヒでそう叫んだ。レヒの広場に広がった大量の血はまだ乾かず、まるでそこに血の泉が湧いたかのようであった。
ペリシテ王はすっかり錯乱したまま、帰っていってしまった。このままでは、自分は褒美どころか処罰ものじゃないか!とアビメレクは思った。
「(それにつけても、あのサムソン……まさかここまで滅茶苦茶な存在だったとは……)」
彼はサムソンに恨みを向けた。
「(覚えていろ、あのイスラエル人の小僧が!この私がお前を必ずや、死刑にしてやるわ!)」


宴会が終わり、ようやくサムソンは開放された。彼は自分の部屋にフラフラと入ってきた。デリラはすでに仕事を終えて、彼を待っていた。
「おかえりなさいませ。おめでとうございます」
デリラは彼にそう告げる。そして、どっかり座った彼の三つ編みをほどいて、水桶の水で静かに洗い始めた。さすがの彼の艶やかな髪も、いささかばかりもつれているようだった。彼女は丁寧に、彼の髪を洗った。
デリラはふと、不思議に思った。サムソンからの返事がない。サムソンは、ずっと嬉しくなさそうにふさぎこんでいた。
理由を聞くべきか、とデリラは思ったが、サムソンは沈み込んでいるようで、その気にもなれなかった。
「デリラ」彼がやっと口を開く。
「はい」
「可哀想に、って言ってくれ」
彼は全く唐突に、そう言った。
「可哀想にって言ってくれよ。誰も、言ってくれなかったんだ。俺、今度は悪いことしなかったのに、誰も言ってくれないんだ」
デリラはその言葉を受け、サムソンの金髪の汚れを洗い流しながら、赤ん坊を落ち着かせるように「お可哀想に、サムソン様」と言った。
「俺は道具か?」
彼は、デリラに言った。小さな、小さな、間違っても部屋の外には聞こえないだろうという音量で、彼女に言った。
「イスラエルの誇りを汚したら、自分の息子でもあっさりペリシテ人に引き渡す。そんなことしても、イスラエル人の誇りのため戦ってきたら、大喜びで迎える……なんだよ、それ?それ、親のすることか?俺、子供じゃないのか?道具なのか?イスラエルのために働く道具なのか?」
彼の声は本当に小さかった。万が一にも、マノアやハツレルポニに聞こえることがないように、と言った風であった。
「いいえ、サムソン様は、道具ではありません」
「じゃ、なんで俺のジジイは、俺をそう言うふうに扱うんだよ」
「……お可哀想に、サムソン様」
デリラの持った手拭いは、彼の金髪に付着した血のかすと荒野の埃でどんどん黒く染まっていった。

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feat: Samson 第六話


マハネ・ダンに戻って、サムソンはずっとふさぎ込んでいた。毎日毎日朝早くから夜まで外に出て、メレクと一緒に、荒野や岩山を駆けずり回っていた。ハツレルポニがうるさいので、デリラもそれに同行した。彼はデリラの事は拒まなかった。
「バカ野郎」
誰もいないところで、彼は何度も何度も、あの結婚式の事を引き合いに出して怒った。
「どいつもこいつもバカ野郎だ」
セマダールは結局マハネ・ダンに来ず、音沙汰がなかった。と言うよりも、サムソンが連絡を取ろうとしなかったのだ。
デリラはサムソンの愚痴を聞いた。聞き続けた。彼女は決して否定しないし、打ち切りもしない。馬鹿にもしない。否定するのも話を打ち切ることも、馬鹿にすることも、全てデリラには禁じられていたからだ。しかし、サムソンにそんなことは関係なかった。
「どいつもこいつも子供だからって馬鹿にしやがって。自分が困ったら、急に責任取れなんて言うくせに」
「はい」
「どいつもこいつもクズばっかりだ。どうせ俺にかなわないくせに。俺が本気で殴ったら、簡単に死んじまう奴らのくせに」
サムソンは親から離れた場所で、毎日そう嘆き続けた。士師としてすべき仕事は元から殆どマノアが代わりにやっているものだったので、彼は余計に一日中外に居続けた。マノア達の説教など右から左に聞き流した。デリラも同様にひどく怒られたが、彼女も怒られるだけ怒られて、後は耐えた。自分がサムソンに仕える奴隷である以上、サムソンの言うことを聞くべきなのだ。


「まったく酷いことだ!何がイスラエルの士師……ただの不良少年の強盗じゃないか」
例の葡萄園の主は、娘をおいて帰ってしまったサムソンに対して愚痴を言っていた。
「これだからイスラエル人は信用できなかったのに!どうすればいいんだ。ティムナでの信用も失ったも同然だぞ。……あの疫病神め!」
ジャッカルを連れていたことからも、異常に長い髪の毛を持っていたことからも、アシュケロンの強盗がサムソンではないと疑うものなどどこにもいなかった。事実サムソンなのだからしょうがない。だが、そこまでの事を一人と一匹でやらかすほどの相手に堂々と向かっていくのも、彼らは気が引けた。プライドと恐怖の板挟みが、依然として彼を傷つけ続けた。


時が過ぎて、小麦の収穫の頃だった。サムソンは急にデリラに「おい、俺の小遣いはどれだけある?」と聞いた。
「子羊を買えるくらいはあるかな」
「はい。その程度は……買われるのですか?」
「ああ」
サムソンはぼそりとそう言った。
「セマダールの家に戻って、仲直りしなくちゃ……」
彼は子羊を、手土産に持っていくつもりらしかった。マノアが所有している家畜などいくらでもいたが、彼の小遣いで買いたいというのは、さんざん子ども扱いされたことに対する彼の意地だったのだろう。
デリラはそれを分かって、彼の代理で子羊を買うと、それを引いて彼とメレクと一緒にティムナに向かっていった。

久しぶりに葡萄園に現れた彼を見て、葡萄畑の使用人たちがうろたえたのは言うまでもない。彼は静かに子羊を渡して、主人と話をさせてくれるように頼んだ。葡萄畑の主人はすぐ出てきたが、サムソンの顔を見るなり、こう言った。
「何の御用で?セマダールなら、もう別の男の嫁に出しましたよ」
その言葉を、サムソンが一瞬現実のものとして受け止められなかったのは無理もない。

「なんだって?」
「貴方は、娘を放って故郷に帰って行ってしまいましたからね。てっきり、あの娘を嫌ったものだと思って。もうとっくにセマダールは、ティムナの貴族の息子に嫁がせました」
彼は迷いに迷った挙句、プライドの方を取ったのだ。サムソンが長い間連絡一つよこさなかったので、彼がもう娘を見捨ててしまい、ならプライドの方を取っても彼からの報復はないだろうと思い、ようやくこの行動に乗り出せたのだ。
だが、違ってしまった。サムソンは来てしまったのだ。
葡萄園の主は、やはりサムソンに対する恐怖を捨てきれないでいた。彼は彼を目の前にして、毅然とふるまおうとしていてもどこか顔色は青かったからだ。そして、サムソンの顔色も、それ以上に青くなっていた。
しかし、同じ青い顔でも、葡萄園の主は確かに彼に恐怖を感じた。
「そのう……あの子には妹もいて、妹の方もあの子より美人ですよ。そちらの方を貴方にさし上げても……」
彼はサムソンに会ったらズバリと皮肉を言って追い返してやろうと思っていた。「貴方が娘の結婚相手にするには早すぎると、実によく分かりましたからな」「大体、最初からやりたくなどなかったんだ。貴方のような野蛮な下等民族の小僧に、大切な娘を」などとサムソンに言う自分をこの数か月何度も想像していた。だがいざサムソンを目の前にするとそんなことも言えず、こんな曖昧な言葉しか出なかった。サムソンは長い間黙ったままそこに立っていた。

サムソンは結局、葡萄園の主に何も言わず、無言のままそこを後にした。彼は、酷く打ちのめされているようだった。
デリラはそんな彼をじっと見つめた。無理もない。彼はやはり、セマダールに惚れていたのだから。
惚れていれば何でも許せるなんて、綺麗ごとだ。彼は、裏切られたから怒った。それだけだ。それで恋が冷めるか否かなど、決まったものじゃないのだ。デリラの仕えていた家の主人たちがそうだった。主人はしょっちゅう浮気を繰り返し、主人の妻はそれに怒り悲しんでいた。主人もそれに怒り、夫婦喧嘩など何回も起こった。それでも主人は、ずっと妻を愛していたのだし、妻も主人を愛していたのだ。
サムソンはマハネ・ダンにその日帰らず、メレクとデリラと一緒に、荒野で野宿した。ハツレルポニは怒るだろうが、サムソンが絶対に家には帰りたくない様子だったので、デリラは彼の思うままにさせた。
ぱちぱち燃える薪の火を見ながら、サムソンは言った。
「俺とセマダールは、結婚の約束を交わしてたんだよな?」
デリラはそれに「はい」と言った。
「じゃあ、あいつら、約束を破ったわけだ」
「はい」
「だったらよ」
焚火に浮かび上がるサムソンは、泣いていた。目をかっと開いたまま、彼は泣いていた。
「今度ばかりは、俺がペリシテ人に何しても、俺に罪なんて全くねえよな?」
デリラはそれにも「はい」と答えた。「はい」以外の選択肢など存在しない。サムソンはメレクの背中をポンとたたいた。
「メレク。頼む」

サムソンとメレクが何をするつもりか、デリラには分からなかった。メレクはそんな彼女をよそに鋭い声で、荒野中に響き渡るかと言うほど吠えた。
すると、途端にジャッカルが何百匹と現れたのだ。まるで、メレクの命令を忠実に聞く部下であるかのように。
「メレクはな」サムソンは言った。「この荒野じゃ、最強のジャッカルなんだよ。メレクの命令聞かねえ奴なんていねえ」
取り残されているようであるデリラに、サムソンはそう言った。メレクが何か言うと、彼らはすぐさま松明を集めてきた。
「デリラ、手伝え」
サムソンは彼らは松明を集めてきたのを見届けるや、今度は三百匹いる彼らの尾を二匹一組ずつ結び始めた。彼らは大人しく、されるがままにしていた。デリラも手伝い、彼らはデリラの手つきにも抵抗しなかった。
百五十組が結び終わると、今度はサムソンは彼らの尾の間に松明を一本ずつ立たせた。そして、百五十本の松明に、火を一つ一つ、点したのだ。
彼らは火を怖がらなかった。一気に松明が燃え上がり、荒野はまるで昼間のように明るく輝いた。
メレクは唯一、一本だけ松明を体に縛り付けて立たせ、彼らの先頭に立った。そして彼の一声で、火を纏ったジャッカルの一軍はすぐそばに見える田園地帯めがけて突進していった。
「高みの見物、するか?」
サムソンはデリラにそう言って、彼女を高い場所に連れ出した。やがて彼女の眼に、ティムナの田園地帯がぱあっと明るくなっていく様子が見えた。
次から次に炎が伝染する。叫び声が聞こえるようだ。ああ。同じだ。ソレクの町と同じだ。

「心が痛まないのか、って思うか?」サムソンはデリラに言った。そして、彼女の答えなど待たずに一人で言った。その声音も、どこか、悲しそうだった。
「痛むわけねえだろ。初めてペリシテ人を殺したの、三歳の時だぞ。お前はペリシテ人を殺せ、って言われ続けてきたんだぞ」


その夜、ティムナ一帯は大被害に見舞われた。せっかく収穫した小麦はあらたか焼かれ、葡萄も、オリーブも、全て炭になってしまった。


当然、ペリシテ人の間でそれは大問題となった。「誰がこんなことをやらかしたんだ」彼らは嘆いた。
「サムソンだ。あのイスラエルの士師……俺らの敵だ!」
「だが、なぜこのようなことが?物事には、理由があるはずだ」
そう発言したのは、ペリシテ人の中心都市であるガザから訪れた知事、アビメレクだった。ティムナで起こった未曽有の大被害を聞き、はるばる訪れたというわけだ。
「復讐ですよ」ティムナ人のうち一人が言った。
「あのサムソンはあるティムナの男の婿だったんです。にもかかわらず、そいつは自分の娘を婿から取り上げて、他の男にやってしまったのです。それを憎んでの事でしょう」
「そう言ったことならば」アビメレクは言った。
「根幹を叩く方が、今回は安上がりだろうな。お前たちの溜飲も下がろうし、サムソンをとらえる算段も付く」

例の葡萄畑の主人は、自分の畑も焼き尽くされてしまい、途方に暮れた。
「どうすればよい。ジャッカルが火をつけた。明らかに、サムソンのやったことじゃないか。……私を恨んでいるんだ。みんな、私を憎むに違いない」彼は慌てていた。
そんな彼を、物陰からセマダールが見ていた。彼女も、これはサムソンが彼らを恨んでやったことだという噂が広がり、夫に追い出されたのだ。娘の出戻りと言う更にショッキングな事件を父にたたきつけるに忍びず、セマダールは父のもとに出れずにただうろうろしていた。
「(どうすればいいの……)」セマダールは追い詰められ、考えた。そして、小さな拳をぎゅっと握りしめた。


後日、マハネ・ダンにすでに戻って来ていたサムソンのもとに一通の手紙が届けられた。手紙は、セマダールからだった。
「あなたにもう一度会って謝りたい」手紙には、そう書かれていた。
サムソンは彼女が頼む通りティムナに向かうことにした。サムソンは、まだ彼女を諦めきれてはいなかったのだ。ろくな準備もしないままいつもの通りデリラとメレクを連れて、彼は出かけて行った。ティムナに着いた頃には、すでに夜になっていた。

まっ黒こげになった田園地帯を抜けると見知った家に彼はたどり着いた。「サムソンさん」と、彼女はいつも通りの穏やかな顔で出迎えた。
「父は、今寝ていますの。寝込んでしまいまして」
彼女はデリラとメレクをいつも通り遠ざけるよう彼に頼んで、彼だけを家の中、それも自分の部屋の中に案内した。


「サムソンさん」
部屋に若い男女が二人きりになるなど、性に厳しいこの地方ではめったにあることではなかった。しかし、セマダールはそうせねばならなかったのだ。
「許してください。私には、どうしようもなかったんですもの。父親が結婚しろと言って、逆らえる娘なんておりますか?……決して、貴方を嫌ったわけではないんです。信じてください。謎かけのことだって、私は、脅されていただけなんです……」
こんな泣き落としでサムソンが納得するだろうかとはセマダールも思っていた。だが、彼は意外とあっさりと「もういいよ。俺は恨んでない」と言った。
「俺はまだあんたが好きだしな」
「そう言って貰えて……嬉しいですわ」
彼女はサムソンを、部屋に一つしかないベッドに案内した。そして、決意を固めて言った。
「さあ……どうぞ、お床にお入りください。……寝ましょう。ご一緒に」
サムソンはその言葉に「ああ……夜も遅いしな。それじゃ」と言って、ベッドに入りこんだ。

セマダールは体中に力を込め、意を決して彼と同じ寝床に入ろうとする。しかし、彼女は違和感を覚えた。
男がするように、彼は腕を伸ばして彼女を抱きしめはしない。彼はそこにいるだけだった。七房の三つ編みを解かないまま寝床に広げて、彼はそこにじっとしていた。二つの鋭い目は、閉じられていた。そして、彼は、規則正しい呼吸をしていた。
「サムソン……さん?」
彼女は呼んだ。返事はなかった。代わりに、いびきのような声が聞こえてきた。
セマダールは目を疑った。彼は、まさか。
彼女はもう一度、サムソンの名を呼んでみた。帰ってくるのは、やはりただのいびきだった。
「(寝た……の?本当に?)」
そんなことがにわかに信じられるはずはなかった。彼に抱かれる、その覚悟で行ったことだ。その絶対に起こると思っていた過程が、彼自身によって弾き飛ばされてしまい、彼女はただ戸惑った。だが、事実として、彼は寝ているとしか思えないのだ。
やがて、彼女も目の前の状況を冷静に受け止めると、次第に心を固めた。
「(いいえ……何を。好都合じゃないの。余計な手間が省けて)」
彼女は、七本の弓弦を取り出した。


外で待たされていたデリラは、メレクと一緒に今日はこのままこの屋敷の軒下で極力見つからないように寝ようかと思っていた。メレクも彼女の事を思っていてくれたらしく、うるさくすることはなく彼女と一緒に気配を消して彼女と一緒にいた。
だが、ある時だった。メレクは急に、吠えだした。ワンワンと、非常に大きな声で。
「メレク!」デリラは言った。「聞こえる、見つかるわ!」
だが、メレクは必死に吠え続けた。警鐘を鳴らすように、彼は吠えた。


遠いところでメレクが鳴いている。サムソンはそれを感じた。そして、目を開けた。
「メレク……?」
彼はそう呟いた。だが、目を開けて、目の前にいるのはメレクではなかった。刃物を自分に突き立てようと向け、しかしメレクの吠え声とサムソンが起きたことに慌てているセマダールだった。
「セマダール!?」
彼はその時気が付いた。七本の弓弦で自分の体ががんじがらめに縛られている。
「ど、どういう……」
「……うるさいっ!」
彼女はやけになったように言った。
「うるさい!なんで起きるのよ!なんでこんなに早く起きるのよ!貴方、私を好きなんでしょ!?愛してるんでしょ!?じゃあ、死になさいよ!私のために死んでよ!」
彼女は戸惑うサムソンに向かってまくしたてた。
これが彼女の作戦だったのだ。サムソンはきっとまだ自分が好きだろう。自分が誘惑すれば、一緒に床につかせられる。そしてそこで眠ってしまうはずだ。そこを縛って刺してしまえば、サムソンが打ち取れる。サムソンを打ち取れさえすれば、自分たちの名誉も回復できる。
床についてからの一工程が抜けたものの、後は順調に進んでいるはずだった。それなのに、急にジャッカルが吠えだしたのだ。まるで彼に悪いことが起きるのを察知したように。
彼女はパニックになっていた。セマダールは青い顔で叫んだ。
「貴方のせいで!私もお父様ものけ者にされてるのよ!裏切り者呼ばわりされてるのよ!貴方を殺せばまだ間に合うの!貴方をこの手で殺せば、まだティムナの同胞だって認めてもらえるの!だからとっとと死になさいよ!このませガキ!」
そう怒鳴り散らして、セマダールはサムソンの喉元に刃を突き立てようとした。
だが、それはかなわなかった。丈夫なはずの弓弦は、まるで麻の紐が火にあぶられて切れるように、ぶちりと切れた。まるで非現実的なほどに、がんじがらめに縛ったはずの拘束から、あっさりとサムソンは逃れたのだ。たった一瞬の出来事だった。セマダールが刃を彼に突き立てた次の瞬間、彼はその刃を両手でとり、力づくで彼女の手から外したのだ。

セマダールは床に崩れ落ちた。
「死ね、死ね……」
それでも彼女はぶつぶつ呟いていた。サムソンはしばらくの間、現実が信じられない様子のままだったが、やがて「じゃあ」とだけ言うと、二階にある部屋の窓を塞いでいた扉を殴って破り、そこから七房の三つ編みをふわりと宙になびかせて飛び降りた。真下にはメレクとデリラがいて、メレクは彼の帰還に嬉しそうに吠えていた。
彼はやすやすと着地すると「デリラ。……もう、本気で、ここに用はなくなった」と言った。そして、踵を返してマハネ・ダンに帰ろうとした。


セマダールは放心状態でその場にいた。刃を握りなおす気力も、サムソンを追う気力もなかった。最後のチャンスが、ふいになってしまったのだ。
だから彼女は、自分の家に何者かが入って来たのに気が付かなかった。父親や使用人が襲われ、縛られたのにも気が付かなかった。彼女が気が付いたのは、彼らが彼女の部屋を訪れた時だった。彼らはティムナの若者たちで、あの宴会に呼ばれていた金持ちの息子たちも混ざっていた。彼女のかつての夫すら、そこにはいたのだ。
「ああ!皆さん、サムソンが」彼女は彼らに行った。「サムソンが逃げて……すぐ、追いかけなければ……」
「ああ、勿論彼は彼で対処するが」
セマダールはぎょっとした。やってきたティムナの若者たちは、縄を持っている。彼女は逃げようとしたが、まさかサムソンのように窓から飛び降りることが出来るはずもない。彼女はあっさり数人に捕まり、縛られてしまった。
「なんですの!?」
彼女の問いに、彼女の元夫が進み出た。
「悪く思わないでくれ。ガザの知事、アビメレク様が、こうしろとお達しでね」
彼らはセマダールを見下ろして言い放った。
「まあ、裏切者の家にはお似合いの最期だよ」


ティムナを離れようとしているサムソンは、ふと何かに気が付いて振り返った。
「……燃えてる?」
その言葉にデリラは反応する。メレクも、その鼻で嗅ぎつけたようだった。炎が燃えているのは、セマダールの父の家の方角だった。
「……セマダール!?」
彼は急いで、その方角に走っていった。メレクも同じだ。矢のような速度で、彼に続く。彼らのようには走れないデリラが、取り残された。それでもデリラも、彼らと同じ方向を目指した。


セマダール達の家はすっかり炎に包まれていた。もはや助かる見込みなどなかった。
家の周囲には足跡が沢山あった。まだ新しい。何人もが、ここに訪れたのだ。そしてセマダールは、確か、自分たちが裏切り者扱いされていると言っていた。
導き出される答えなど、一つしかなかった。
「……ペリシテ人共」
サムソンは自分の拳をゴキリと鳴らすと、うめくように言った。
「これが……てめぇらのやり方か」
サムソンには聞こえた。深夜にはありえないほど、ティムナの町の方は騒がしい。人がいるのだ。起きている人間が、何人も。なぜか、こんな時間に。彼は、そちらの方に駆けていった。


次の朝だった。
「アビメレク様」
アビメレクは自分のもとにやってきた秘書からの報告を受けた。
「例の家は灰になりました。父も娘も使用人も、全て死にました。それと、放火犯に使ったあのティムナの若者共も、市中で一人残らず打ちのめされて死んでいました。おそらく、サムソンがやったのかと」
秘書は非常に淡々と報告した。アビメレクは笑って「ほう、それではサムソンが昨夜いたんだな?それは意外だったが、いずれにせよ、早いのはいいことだ」と言った。
「あれだけ余分に殺して、大丈夫でしょうか?」
「何を言う。被害は大きければそれだけいいのだ。それに、馬鹿な若者が数十人死んで、どうしたというんだ?いま大切なのは、サムソンを捕えることだ。」
秘書は「……おっしゃる通りです。申し訳ありませんでした」と彼に言った。

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feat: Samson 第五話


当時の結婚にあたっての慣習通り、サムソンはティムナに来て、そこで一週間の宴会を催した。花嫁衣装に身を包んだセマダールはいつも以上に美しく、サムソンは大喜びだった。周囲の大人たちがみんな歓迎する態度ではなく、セマダール自身もそれを感じて居心地悪そうにしている中、サムソン一人が楽しそうだった。

デリラはあくせくと支度に使われた。セマダールの家、ティムナの葡萄園の使用人たちに混ざっての事だった。みんな、初対面でデリラの事を異常なものを見る目で見た。だがそれも当たり前だ。デリラは視線に耐えながらひたすらに、黙々と裏方仕事をしていた。
メレクも呼ばれてもいないのにサムソンにぴったりくっついてやって来て、鬱陶しがられながら宴会場を勝手知ったるように歩いていた。
メレクはやがて上質の花婿衣装を着たサムソンに近づくと、嬉しそうに寄ってきて彼にじゃれつきながらはしゃいだ。彼も嬉しそうにメレクと一緒に遊んだが、ハツレルポニがそれを許さなかった。
「まあ、何なのです!こんなところにもジャッカルを連れてくるなんて」
先述した通り、メレクは勝手についてきたのだ。だが、サムソンはそのことを言い訳のタネにはせず、「いいじゃねえか、別に」と言うだけだった。その光景を、セマダールも見ていた。

「あなた、ジャッカルを飼っていらっしゃるの?」ハツレルポニが一人の使用人の女に呼ばれその場を離れた時、彼女は怪訝そうに聞いた。
「俺のペットじゃねえよ。でも昔っからの友達だ」
サムソンはセマダールの前にメレクを抱き上げて、突き出した。メレクは相変わらず、彼女に対する警戒を解いていないようだった。
サムソンにすれば、自分が彼を可愛がるようにセマダールも彼に好感を持つと思いそうしたのかもしれない。だが、セマダールは嫌そうに顔をそむけ、彼に言ったのだ。
「そんな……腐肉を食べる動物じゃないですか。近づけないでください」
その言葉を聞いて、サムソンは目をぱちぱちさせた。戸惑っているようだった。彼は「そう……そうか?」と言って、メレクを地上に下ろし、手を離した。メレクはセマダールを不服そうなじろりと眼で見ると、そのまますたすたと駆けていった。
「俺……なんか、悪いことしたか?」彼は彼女に聞く。セマダールはあいまいに唸るだけだった。


「あれがセマダールの婿?」といぶかしそうに言うのは、ティムナの金持ちの息子たちだった。町でも有力者の娘の結婚式とあってめぼしい身分の者は皆葡萄園の主人が招待したのだ。主人は彼らにとっては面白くもないだろうと内心ひやひやしての事だったが、意外にも彼らはほとんど了承した。それはやはり、異教徒、彼らにとって劣等民族でありながら彼らの憧れの的であったセマダールをかっ攫っていってしまった男の顔を拝みたいという気もあったのだろう。
「ガキじゃねえか」
率直に、彼らは口を揃えてそう言った。
サムソンは背が高い。すでに立派に成人している彼らよりも、体格は立派だ。そこまで極端に童顔と言うわけでもない。だが、うまくどこが、とは言えなかったが、彼は確かに子供じみていた。明らかに、セマダールのような大人の女性に釣り合うような大人ではなかった。
「なんだってセマダールがあんなガキの妻にされなきゃいけないんだ?」
「イスラエル人はあんなガキンチョを指導者にしてるらしいぜ。はは、お笑い草だな」
「でもすごく強いんだろ?ライオンを素手で倒したってのも聞くじゃねえか」
「馬鹿、素手で倒したわけないだろ?ナイフくらいあればちょっと強けりゃライオンくらい倒せるって!嘘だよ、嘘」
彼らは裏からこそこそサムソンの悪口を言った。彼らにすればサムソンは共通の敵なのだから、無理からぬ話ではあろう。それに、見るからな子供に気に入っていた女性を奪われて、彼らのプライドも傷ついていた。一つ、サムソンに一杯喰わせなければ気が済まなかったことだろう。
彼らの話は次第にそちらの方に移っていった。あのませた子供に、一つ恥をかかせて思い知らせてやろうと言うのだ。


やがて宴会は始まり、しばしの間盛り上がった。サムソンは機嫌がよさそうだったし、マノア達ももうここまでくれば、と言った風な感じで、当初よりは宴会を楽しんだ。やはりその根底には、異教徒と宴会をする不満も多大にありはしたろうが。
「セマダールはほんとに綺麗だな」彼の妻の顔を見て、サムソンはそう言った。セマダールは慎み深く、袖で口元を覆いながら、その言葉を聞けて嬉しいという自らの気持ちを表明した。
「やあ、花婿さん!」
その言葉とともに彼の前に現れたのは、例の金持ちの息子たちであった。セマダールは彼らに対してばつが悪そうに顔をそむけた。
彼らは自分たちがティムナの有力者の息子だということを言い、サムソンに挨拶しに来たのだと言った。サムソンはそれに対して「ん……ああ、よろしく」と、何の変哲もない返事をした。
「ずいぶん若いなあ、そんなのでイスラエルのリーダーがやっていけるのか?」
「ああ。なんとかな」
「……そうかい」
彼らはサムソンを取り囲むように勝手に座り、彼を質問責めにした。そして、その中でしばしば彼らは、サムソンがまだ子供であることを露悪的なほどにからかってきた。
「酒、飲まないのかい?」
「ああ。飲まない」
「飲めないの?結婚するくらい『大人』なのに?」
サムソンはそれを言われて少しむっとしたが、「余計な世話だ。俺は飲まないと言ったら飲まない。お前らに指図される筋合いなんか無いな」と言った。サムソンからしても、彼らの厭味ったらしい態度は分かった。彼らに挑発されたくらいでナジル人の請願を破るのはしゃくだった。
「どうだい、花婿さん」酒云々では彼を挑発しきれないと分かったか、彼らのうち一人が、サムソンにこう言った。
「ここは『大人同士』、謎かけでもしないか」
謎かけと聞けば軽いようだが、当時は知的遊戯の一つでもあり、十分に大人同士の遊びになり得るものだった。
「それもただの謎かけじゃつまらないからな。賭けでやらないか。この宴会には三十人ばかり招待されてるだろ。謎かけであんたが負けたら、三十人分の、そうだな、晴れ着でも貰おうか。無論俺たちが負けりゃ、同じ分の晴れ着をそっちにやるが……」
それを聞いて、サムソンは少しの間動きが止まった。何にせよ、彼にとってこのような賭けをするのは初めてだった。マノア達が厳しく育て、賭け事などやらせたこともなかったのだ。
彼らは彼のその様子を敏感にかぎつけ、さらに挑発するように「まさか受けれないじゃないだろうな?」と厭味ったらしく、にやにや笑った。サムソンも、さすがに頭に来て血が上った。
「俺の親父はな」彼は喧嘩腰になって口を開いた。「向かってくるペリシテ人は全員仕留めろ、って俺にいつも言ってきたんだ。良いぜ。受けてやる」
「そりゃいいや!」彼らは笑った。「かけるのはお前さ、花婿さん!ちょっと時間をやるよ。こんなことは初めてかい?大賭けになるからな、大人でも解けそうにない難しいのをよおく考えな、ハッハッハ!」
彼らはそう言い捨て、余興を見るために離れて行ってしまった。
サムソンはその場で考え込んだ。何にせよ、賭けもやったことがなければ謎かけなんてものもやったことはない。彼は困った。しかし、あそこまでコケにされて引き下がるのは彼のプライドが許せなかった。
「サムソンさん、大丈夫?」とセマダールが聞いた。「大丈夫だよ!」と彼は乱暴に言い返す。無論の事、ちっとも大丈夫ではない。謎かけの謎なんて、思いつくはずがなかった。戦うのは得意だが、頭を使ったことは彼はあまりなかったのだ。

そこに、ハツレルポニから飲み物を注ぐように命じられたデリラがやってきた。
「サムソン様?」彼女は、サムソンが困っている様子なのを敏感に嗅ぎつけた。返事はなかった。デリラは隣にいたセマダールに、何が起こったのかを聞いた。
セマダールは彼女の包帯だらけの顔を不気味がっているようだったが、それでもなんとか起こったことを話した。
それを聞いて礼を言った後、デリラは一つひらめいた。そうだ。なかなか解けないだろう謎のタネなら、自分は持っている。
「サムソン様」彼女は彼に囁いた。「少し、こちらへ」
彼女はサムソンを別のところに連れ出した。そして、そこで彼に、その謎をひっそりと教えた。


「どうだ、思いついたか、花婿さん?」と、また彼らが戻ってきたとき、サムソンはデリラの持ってきたアルコールの入っていない飲み物を一気に飲み干してから、彼らに言った。
「『食べるものから食べものが、強いものから甘いものが出た』これ、なんだかわかるか?」

彼の言葉を聞いて、ティムナの金持ちの息子たちは最初の方こそそんなの簡単だ、と思った。だが、考えてみても、パッと答えは出てこなかった。
食べるものから食べものはまだいい。強いものから甘いもの?てんでバラバラな二つの言葉が、彼らには結びつかなかった。彼らはしばしの間、そこで固まってしまっていた。
「解けねえのか?」
いくらも時間がたった時、サムソンがじろりと彼らを睨みつけながら言った。
彼らも、さすがにその態度を受けて不快になる。サムソンを馬鹿にして恥をかかせるつもりが、自分たちがさっぱり解けないのだから。だが、彼らにもやはり意地と言うものがあり「宴会が終わるまでには解いてやる」と悔しそうに言った。


「ありがとな、デリラ!」と、彼のため用意された天幕に入って、彼は自分の髪を手入れするデリラに言った。この七日の宴会が終わったのちに、サムソンはセマダールと夫婦になるのだ。だから、まだ寝床を一緒にする段階ではない。
「いいえ。お役にたてて、光栄です」
デリラはいつもの通り彼の金髪に櫛を通しながらそう笑った。主人に礼を言われる。奴隷にとって、これほどの僥倖もない。サムソンは美しいセマダールと結婚できて幸せそうだったが、デリラも幸せだった。ついでに言えば、宴会の残り物を使用人たちの手を逃れながらとはいえ、好きなだけ漁れるメレクも幸せそうで、今は満腹になるまで食べた腹を抱えて、満足そうにサムソンの膝で彼に撫でられていた。


宴会は七日間続いたが、結局サムソンの出した問いは解き明かされないままだった。今では三十人のペリシテの招待客全員にそのことが知れ渡り、彼らもペリシテ人のメンツにかけてとばかりに解きにかかったが、やはりこれぞ、と言う答えが出ないのだ。
マノア達はそれを見て、機嫌がよくなった。
「息子よ!」彼はサムソンに言った。「お前がこんな方法でも、憎いペリシテ人をやり込められるなぞ思ってもみなかったぞ!やはり、お前は神から授かった子だ」
サムソンはそれに照れくさそうに礼を言ったあと、彼とハツレルポニに耳打ちした。「でもな。できればそっとでいいから、デリラの事も褒めてやってくれ。この謎、デリラが俺の代わりに考えてくれたんだ」
「なんと……ペリシテ人が、ペリシテ人をやり込める謎を」マノア達はそれにも満足しているようだった。ハツレルポニが「勿論、あの子の事も褒めましょう!貴方の侍女として、デリラは実に忠実に職務をこなしておりますね」と笑って言った。
その言葉通り、働かされているデリラもハツレルポニにその後こっそり呼ばれ、こっそりとだが褒められ、祝福の言葉を受けた。こっそりとやるのは無論のこと、この謎がサムソン自身ではなく奴隷女の考えたものだとばれたら沽券にかかわるという理由であったが、それでもデリラは心の底から嬉しかった。この宴会に来て、本当に嬉しいことだらけのように感じる。彼女はハツレルポニが去ってから一人、包帯の下でにっこりと笑った。笑うのは久しぶりの事だった。

一方、例の金持ちの息子たちは気が気ではなかった。宴会の終わる日は着実に近づいているというのに、招待客全員を集めても謎が解けない。
「あんなガキに!」と彼らは怒った。
だが、怒ってどうなるものでもない。むしろ怒れば怒るほど、彼らはサムソンと言う腹立たしい存在に見事にやり負かされてしまったのだと言うことを自覚し、さらに腹立たしくなるという、全くの悪循環に陥った。
謎は全く解けない。だが、サムソンにはペリシテ人は実際苦しめられているのだ。下等民族のくせに。そして、今度は彼にセマダールを奪われ、しかも、さらにこんな形でも自分たちは負かされようとしている……彼らは、それがたまらなかった。なんとしてでもこの謎を解かねばならないと思った。
七日目の朝、彼らはついに「あること」を決めた。できれば取りたくない手段ではあったが、彼らの沽券に係わる緊急事態なのだ。彼らは、セマダールを呼び出した。

「セマダール、お前と結婚したあのガキに、あの謎のこと聞いて、俺たちに教えろ」彼らはセマダールに実に率直にそう言った。
セマダールは無論、花嫁の被る長い豪華なベールの下で、大いに戸惑った。しかし、彼らは彼女がいいえと言うことを許さなかった。
「もしお前がいいえと言うんなら、それでもいいんだぜ」
彼らは、自分たちをふったセマダールに対する恨みもある程度持っていた。だからこそ、彼女にこんなことも言えたのだろう。
「どうせお前たちは劣等民族のイスラエル人に嫁いだ裏切り者さ。いつでもお前とお前の親父を家や畑ごと焼き殺したって、ティムナ中誰も文句は言わねえよ。あのガキが得すりゃお前らだって得する。まさか、同胞からたかるために俺たちをこんな宴会に招待したわけじゃねえだろう、え?」
こんなことを言われて、首を縦に振らないでいることが出来ようか。サムソンほどの力があれば出来るだろうが、セマダールは了承するしかないではないか。


「サムソンさん」彼女はその日、彼にすり寄った。
「あの謎かけの答えですけど、私もずっと考えているんです。でも全く分かりませんの」
「ああ、難しいからな」サムソンはこともなげに笑った。だが、セマダールにしては死活問題だ。彼女には笑えなどできない。彼女は必死にサムソンに泣きすがった。
「お願い。サムソンさん。私にあの謎の答えを教えてくださいな。夫婦の間に、隠し事があってはなりません」
彼女は必死でそう言った。サムソンは彼女のその態度にいささか戸惑ったが、彼女が置かれている状況を理解することなどできなかった。
それに、セマダールに泣かれてしまっては、彼に勝ち目はなかった。彼はセマダールの澄んだ目に浮かんだ涙をごしごしと拭き取りながら、彼女のベールを上げ、彼女にしか聞こえないように囁いた。デリラから聞いていた答えを。
「猛獣の死骸と、蜂蜜だよ……」
「え……あっ!」
それを聞いて、ようやくセマダールも合点がいった。
大きな獣の死骸に蜜蜂が巣を作るのはよくあることだ。それは当然、猛獣の死体でもそうだった。例えば……ライオンのような。
デリラはあの日見たライオンの死骸と蜂蜜からそのことを思いついたのだ。
「どうだ、すっきりしたか?」とサムソンが言う。だが、彼が余計に戸惑うほど、彼の妻は急いで立ち上がった。
「申し訳ありません。私、少し席を外しますわ」
「?ああ……」
戸惑いながらサムソンは彼女を見送った。

そしてようやく日が暮れる、つまり、最後の七日間が終わる直前の頃だった。
「サムソン様!」と、突然彼のもとに、デリラが慌てた様子でやってきた。彼はデリラに向かって怪訝そうに何があったかを問おうとしたが、その前に、デリラを遮るものが現れた。得意げな顔をした例の一行がやってきた。デリラは彼らに押されて、何も言えなくなってしまった。
「よう。解けたのか?」サムソンもデリラの事を忘れて得意げな顔で彼らを出迎えた。解けるはずがない。代償を減らしてくれとでも言いに来たんだ。彼はそう思っていた。だが、彼らは鼻高々に言った。
「分かったぞ、答えは『猛獣の死体と蜂蜜』だな?」
その言葉を聞き、サムソンの顔から笑いが消えたのは言うまでもない。


「な……」
「どうだ?正解なのか?不正解なのか?花婿さん」
「正解……だ」
サムソンは驚いたまま、面喰ったったようにそう言った。なぜだ?あんなに難しがっていたのに。まんまと解かれてしまったのか。
正解。その一言を聞き、その場が湧き上がった。招待客たちも、一気に盛り上がった。やった、ペリシテの勝利だと言わんばかりに。
サムソン一人がきょとんと、現実から取り残されたような顔をしていた。彼らは勝ち誇った顔で、サムソンに「じゃあ、晴れ着三十枚をもらおうか!」と言った。

「サムソン!」
騒ぎを聞いて、マノアとハツレルポニが駆けつけてきた。
「と、解かれたのか!?」
「……ああ」
「こちらに来い!」
マノア達はサムソンとデリラを引いて、サムソンの天幕に入っていった。

「どういうことだ!ペリシテ人共に、してやられたではないか!」
「デリラ……お前って奴は!やはり、ペリシテ人はペリシテ人の味方なのね!」
「ジジイ、ババア、ウダウダ言うなよ!デリラは悪くないだろ!」
「……申し訳、ありませんでした……」
「まったくです!貴女ごときを信頼した私が馬鹿でした!」
「黙ってろっつっただろ!?」
そんな親子喧嘩の様子は、ひょっとして外にも聞こえていたのかもしれない。それほど大声だった。マノア達はとにかく、ペリシテ人に勝利を与えてしまったことに対して酷く取り乱していた。
「とにかく、賭けに負けたんだから……」
「サムソン、これは貴様の責任だぞ!?」マノアは怒鳴り散らした。「私は面倒をみんぞ、イスラエルの士師でありながらペリシテ人ごときの挑発に乗り、ペリシテ女の言うがままにしたお前の責任だ!」
「な……そんなこと……」
「私は一切助けん!代償の晴れ着は、お前が勝手に用意しろ!」
彼はそう怒鳴り散らした。そして「この不良息子!」と言い捨てると、もうサムソンの顔は見たくないとばかりに自分たちの天幕に引っこんでいった。

「サムソン様……」
「気にすんなよ。デリラ。お前のせいじゃねえよ。それにジジイとババア、あんな奴らだから。とにかく神とイスラエルが一番で、ペリシテがその下じゃなきゃ気が済まないような奴らなんだ」
サムソンは長い三つ編みを乱しながら「どうすりゃいいんだよ……俺、そんな金ねえぞ」と嘆いた。だがしかし、デリラは弁解ではなく、もっと言いたいことがあるようだった。
「サムソン様、私、見たんです」
「見た?何を?」
「……セマダール様が、あの方々と会って、謎の内容を話しているところを……」
それを聞いて、サムソンはガバリと反応した。デリラは詳しく話す。彼女はその時、話を偶然影から聞いていたのだ。気配を消して歩くのが得意な彼女にとって、彼らに気づかれないように全て盗み聞くのは容易であった。
そして、サムソンに急いでそのことを知らせようとかけ寄ったも一足遅く、彼らが来てしまった、と言うわけだ。

「……そうかよ」
彼は全ての話を聞き終えると、やにわに豪華な花婿の上着を脱ぎ、自分の動きやすい軽装の外套を羽織った。デリラは慌てて着替えを手伝おうとしたが「いい、時間の無駄だ!」と彼は言った。そして、そのまま天幕を飛び出した。

外では例の青年たちがニヤニヤ笑って「で、晴れ着三十枚はいつもらえるんだ?」と出てきたサムソンに言った。
「てめえら……」サムソンは言った。
「ぬかしてんじゃねえよ。セマダールに聞かなきゃ、解けなかったくせに」
「な……」彼らはうろたえる。「何だよ、この期に及んで。証拠はあるのかい?証拠がなけりゃ、何にもならないぜ。すごみゃなんとかなると思ってるなんて、まるでお子様だな」
サムソンはそれにも言い返そうとした。晴れ着三十なんて、彼一人で用意できるものか。
だが、彼にとって非常に困ったことが起こった。マノアが騒ぎを聞きつけて再び来たのだ。
「サムソン!」サムソンには分かった。彼は、息子がペリシテ人にケチな要求をすることを許さなかったのだ。イスラエル人のプライドにかけても。
だが、そんな彼は賠償は自分ではしないと言ったばかりじゃないか。子供で金もろくに持たない自分に、お前の責任だからお前が全てとれと言いきった。まさかこの父がペリシテ人と手を組むなど、彼の一生のうちでもこれが最初で最後だろう。
「さあ、とっとと寄越せよ!」
「サムソン、恥になるようなことをするなよ!」
二つの声に挟まれて、サムソンは業を煮やした。
この二者とも、出来るなんて思っていないのだ。ただ、サムソンを困らせたいだけなのだ。片方はセマダールを取られた恨み、片方はペリシテにしてやられた苛立ちからくる不快感を、サムソンを追いつめることで憂さ晴らししているだけなのだ。
サムソンはついに耐えかねて叫んだ。
「ああ分かったよ!どうにかしてやるさ、持ってくりゃいいんだろ持ってくりゃ!」
サムソンは夜風を引き裂くように鋭く口笛を吹いた。すると突然、突風のような勢いで彼のもとに向かってくるものがあった。メレクだった。
「メレク、ついて来てくれ。てめえら、明日の朝には戻るからな!」
彼はそれだけ言って、夜の闇に消えていった。


誰も、サムソンができるなんて思っていなかった。彼は逃げたのだと思っていた。ペリシテの若者たちは彼を笑いながら宴会が終わった後の宴会場で一晩中酒を飲み、マノアは屈辱にあえいでなかなか眠れもしなかった。
だが、早朝だった。

宴会場に、サムソンとメレクが現れた。しかも、大量の晴れ着を持って。
ティムナの若者たちは当然驚いた。彼は、大量の上着の塊を彼らに投げつけた。
「おらよ、もってけ!」
無造作に投げつけられたそれは、彼らの宴席を散らし、めちゃくちゃにした。彼らが目を白黒させていると、サムソンは言った。
「とっとと持ってけって言ったんだよ。てめえら……消えろ」
そう言って彼は、彼らを睨みつけた。
その目は恐ろしい。彼らは、舐めきっていたサムソンの事をそう思った。
止めとばかりに、メレクが激しく吠えたてる。ティムナの若者たちは、あわてて晴着をもって退散していった。


サムソンは気が荒れていた。「デリラ!」彼は彼の奴隷を呼んだ。デリラはもう起きていて、彼のその声に駆けつけてきた。
「家に帰るぞ、こんな所、いたくない。すぐ支度しろ!」
それを聞いて彼女があわてたのは言うまでもない。
「あの……マノア様たちは?」
「知るか!俺とメレクとお前だけで帰るんだよ」
「セマダール様は……?」
「あんなん裏切りもんじゃねえか!いいからとっととやれよ!」
サムソンが苛立っているのは彼女にもよく分かった。彼女は結局彼の言うとおり荷物をすぐ纏めて、天幕だけはその通りにして彼と一緒に一足先にマハネ・ダンに戻った。マノアやセマダール、ほかの人々が起きだした時、サムソンたちはすでに見えなくなっていた。


ティムナの若者たちはパニックになった頭も冷めてよく見てみると、その晴れ着は多くのものに、血が付いていた。
これは何事かと彼らがうろたえていると、彼らの耳に一通のニュースが飛んできた。
「昨晩、アシュケロンで宴会をやってたら、ジャッカルを連れた一人の強盗がやって来て宴席をめちゃくちゃにした挙句、参加者を三十人ほど素手でのして、着物を剥いで帰っていったそうだ」
彼らはそれを聞いて身震いした。

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