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クリスマス市のグリューワイン

feat: Jephthah 第二話


イスラエルの長老たちはトブの中心にある家、そう、エフタの家に通された。エフタの命令通り、万が一に備えて、何人もの若い者がエフタの家の周りに取り巻いていた。彼らがエフタを慕う余りだ。もっとも、あんな力のない長老や貴族後時に闇討ちされたと手エフタならばなんとかなるという信頼も、彼らは同時に持ち合わせてはいたが。

「で、何のお話だったか、もう一度聞かせてもらえねえか?おいストルジェ、こいつらに酒」
エフタは彼らを前に、どっかりと椅子に足を組んで座ってそう発言した。
「エフタよ」
ギレアドの長老は震え声で、そんなあからさまに無礼な態度を取る彼に言う。
「我々の町に戻り、我々を指揮し、アンモン人と戦ってくれ」
やはり、何度聞いても同じか、とエフタは彼らを睨みつけながら思う。彼らの顔なんて見たくもない。そんな気持ちは、この年になっても一向に変わらない。今まさにこの時の彼らの表情も、彼をそんな気分にさせた。頼みに来たのは彼らの方だというのに、誰もかれも、屈辱に耐えかねる、今にでもここを逃げ出したい、という表情をしている。なぜ自分たちがエフタに頭を下げ頼み事などせねばならないのかと思っている顔だ。何も変わらない。自分を追い出した時から、相変わらず、ギレアドの住民は何も変わってないのだ。
「興味ねえな。勝手にてめえらで戦ってろよ。イスラエルの神様とやらがお守りになってくださるはずさ」
エフタはそっけなくそう言いかえした。
まず、予想できた言葉に口をふさぐギレアドから来た客たちの前に、ストルジェは「はい、酒」とこれまたそっけなく言って乱暴に人数分のコップを置いた。
「兄さん」
口を開いたのはゼブルだった。
「ギレアドを、故郷を、救いたいと思わないのかい?兄さんにとっても、故郷のはずだ。そして私たちは、ギレアドで生まれ育った家族のはずだ」
「故郷?俺の故郷はトブだ。家族はトブに居る奴ら全員の事だ。お前ぁ誰だ?赤の他人じゃねぇか」
エフタはゼブルにそう言い放った。
一人の若者が自分を睨み返したのをエフタは見つけた。彼はまだ、ハモルの名前を知らなかった。こういう状況において、一番早く義憤に駆られるのは決まって若者だ。血気盛んだからだ。実際、窓から見ている部下たちの中で、そんな彼らの態度にあからさまに腹を立てているのも若いものが中心だ。
なんてことはない。エフタは、彼らが来た時から答えなんて決めていた。彼らのために戦う義理があるはずなんてない。
「俺が戦うのは、トブと、こいつらのためだけだ」エフタは言い切った。
空気がピリピリと張り詰める。お互いのプライドが、こいつにだけは頭を下げてなるものかと言いあっているのだ。そして、お互いが相手こそ本来、自分に無条件で頭を下げてしかるべきなのだだと思っている。エフタ達は、そもそも彼らの問題に関して頼みに来たのだからという理由で。ギレアドの金持ちたちは、エフタ達のような社会からの脱落者と自分たちは全く身分も育ちも違うのだという理由で。

「エフタよ、頼む、帰って来てくれ」ついにギレアドの長老が、その根競べに白旗を上げた。彼は初めて、はっきりと「頼む」という言葉を使ったからだ。
「我々の戦力では限界がある。お前の指導力があれば、我々もアンモンと戦える」
「やなこった」
だが、エフタはこれに対しても、やはり承諾などしなかった。
「てめえらは俺を追い出したじゃねえか。さんざん、俺をのけ者にしたじゃねえか、それが困ったことが起こったからって今頃頼みに来るってかい?ええ、爺さん。てめえみたいに育ちの良いお方様ならよ、この言葉も当然知ってんだろ。……『虫がいい』って言葉だよ!」
そろそろ根競べも長引いてきて、エフタ自身も自分のいら立ちを隠せなくなってきた。彼が折れたのをきっかけに、彼も自分に感情的になることを許して、こうどなりつけた。そもそも、承諾する気などなかったのだから。それに、彼らに対して紳士的であろうとも思わなかった。彼らの心情と、彼らから見た自分の姿を気遣うくらいなら、自らの誇りを、あの日傷つけられた少年の日の自分を必死で庇う方が、自分にとってずっと価値のあることだとエフタは思っていた。
彼らから受けた屈辱を忘れたことなどない。一日たりとも。トブに生きるのは、皆、そう言う人間たちだ。
エフタはそれだけ言って、椅子の足を組み直し彼らを見下ろした。窓から見ている自分の部下たちも、そろそろしびれを切らしかかっているのが彼にはわかった。
どうせ彼らにとっては力づくで屈服させるなんて真似も到底無理だ。エフタは彼らを睨みつけて言った。
「黙ってるな。もう話すことはねえのか。じゃあ足もとが明るいうちに帰んな。もう二度と俺らの町に顔出すんじゃねえ」
その言葉でいよいよ我慢の限界が訪れたのだろう、エフタの部下たちも「そうだそうだ!」「無事でいられるうちにとっとと帰れ!」と家の外から言い出した。それだけではない。「そうだよ、あたしらをなめんじゃねえよ!」という声が台所からすら聞こえたのだ。明らかにストルジェのものだった。
「……なんて、下種な……」とうめき声が聞こえた。先ほど、真っ先に自分を睨みつけた若者、ハモルの言葉だというのがエフタには分かった。彼は、ハモルのその言葉は全く無視した。こんな相手には突っかかりたい気もしなかった。エフタは、彼らが立ち上がるまで待付きでいた。

「……いや、違うんだ。聞いてくれ」
だが、自体はエフタの予想通りにはいかなかった。ゼブルが、口を開いたからだ。
「違うだぁ?何が違うんだ」
「今さらになって来た、と……兄さんは言うな。そんな言い方市内でくれ。今だから来たんだ。私達だって……別に、ただで頼みに来たのでもない。……代償を、持ってきた。ああ!何も言わずに聞いてくれよ、頼むから。別に私たちは、兄さんたちがやったことをすべて法的に許すとか、そんなものを代償に持ってきたんじゃないんだ。というのも、どうせ私たちがそれをしなくても、兄さんたちは実質、自分の力でそれらを成し遂げてしまっているからね……違うんだ。もっと、兄さんたちじゃ確実に手に入れられない報酬を、私たちは持って来たつもりさ」
「俺たちじゃ得られない報酬だぁ?」
その言葉に、さすがにエフタも反応する。外の声も、いったん静かになった。ストルジェも、怪訝そうに台所から顔だけ出して反応していた。
ゼブルの声が今まで以上震えてている。これから先の事を云うのは相当、彼のプライドが許さないことなのだ折るというのが推し量られた。しかし、彼はとうとう自分自身のプライドを押さえつけて言った。その言葉に、思わず、エフタもそりゃあ声も震える、と納得した。
「……もしも、アンモン人と戦ってもらえるのなら……私たちは、兄さんを……ギレアドの子エフタを、ギレアド全住民の頭に……イスラエルの士師にするつもりだ」


「……なんだって?」
その言葉を聞いて、さすがにエフタも言葉が止まった。彼の部下もだ。
「……てえと、なんだ?俺がお前らのところに帰りゃ、俺をお前ら全員の頭にするっていうのか?」
「……そうだ。どうだ?兄さん。私達が出せる、最大限の謝礼ではあるが……」
エフタは目を瞬かせた。さすがに、これはゼブルや長老たちは屈辱を感じても当然だ。彼らの対する憎しみをもってして、当のエフタ自身もそう思えるのだから。
ゼブルは懐から、一枚の文書を取り出した。そこには文字が書き連ねてあった。
「ここに、すでに証文はある。兄さんが私たちの望み通りギレアドに帰ってくてくれれば、兄さんを頭に据えるとね。すでに、ここにいる私たちは了承し、サインもしてある。……私たちは、本気だ」
「正気かよ……」
エフタは戸惑い、ゼブル達は屈辱隠せないまま、それでも話は進んだ。
「……私たちとて、虫のいいことをしているという自覚はある。……だが、私達が頼める中で、一番頼れそうなのが兄さんであるのも事実なんだ。私達の軍隊は、とてもアンモン人にはかなわないから……だから、これが私たちが見せられる、最大の誠意だ」
ゼブルは証文をエフタの前に広げると、がばりと頭を下げた。
「兄さん、ギレアドの家を代表して、私があなたに今までしてきたことを謝るよ。……本当に、すま……なかった!私たちがやったのは、家族の、する、ことではなかった……貴方が起こるのは当然だ!だが、私たちの気持ちも汲んでくれ!イスラエルを守りたいんだ!力を貸してくれ!」
ゼブルは震え、途切れ途切れに、自分のプライドを必死で押し殺して、そう言っているのがわかった。エフタはそれを見て、しばらく黙りこんでいた。
「……エフタさん、騙されるわけないとは思ってますけど、騙されちゃなりませんよ」
気が付くと、窓の外からそんな声が聞こえた。エフタが数ある部下の中でも最も信頼をおいている男、アブドンのものだった。
アブドンは窓から身を乗り出して、彼らの方を覗き込んでいた。
「そんな奴らの言うことが信じられますかい!どうせ一連の事が終わりゃ、何もかも反故にするに決まってまさ。……そいつらは、そう言うやつだ!」
「違う!」エフタの言葉も聞かずに、ゼブルがあわてて反論した。
「お前は兄さんの部下か?なら、何故兄さんが出世しようとするのを邪魔するんだ!それでよく、兄さんに親切な言葉がいえるな!」
「は!あんたにエフタさんを語られたかあねぇな。エフタさんはあんたの事を話してたぜ、エフタさんの事を人間とも思ってなかったってよ!そんな奴がその軽い頭一つや二つ下げたからなんだってんだ、そんなんではいそうですかと信用するくらいの奴ぁ、このトブに住んじゃいねえよ!」
アブドンの言葉のほうが、どちらかと言えば的を得ているかのように思えた。ゼブルがエフタの事を考える、などにわかには信じがたいし、さっきの謝罪もエフタの機嫌を取るために必死で言っていることは明らかだ。そもそも、このような、エフタの身になってすれば当然の謝罪にすら「必死」にならなければいけないほど、ゼブルはエフタを今なお見下しているのだ。ゼブルの言葉は、明らかにエフタを自分の方へ誘導するため、邪魔な意見をかき消すため、それだけのものでしかない。そして、それをアブドンもよく分かっていたのだ。
ゼブルや長老たちが何か言おうとした時、また窓の外が騒がしくなった。
「そうだ、てめえら!」
「信じられるか、んな約束!」
「エフタさんはてめえらの都合のいい道具じゃねえぞ!」
声はどんどんエスカレートしていった。いつの間にか、トブのめぼしいものがほとんどエフタの家の前に集まってきてしまったかのようだった。
エフタは無言のままだったが、それでも、彼の心は決まっていた。こんな約束、突っ返してやる。そう思った。ひとまず、彼らが若いものを好きなだけ怒鳴らせておこうと思っていた、その時だった。

「てめえらギャーギャーうるせえぞ!寝てもらんねぇじゃねえか!」
そう、その場を引き裂くような、その場全体を圧倒する大声で怒鳴り散らしながら、客間に殴り込んできた人物がいた。イフィスだった。しかも、もう日が明けてからそうとう経っているのにまだ寝てたらしく、神は輪をかけてぼさぼさで、肌着一枚だった。

イフィスの一声と彼女の登場で、その場は水を討ったように静かになった。イフィス跳ね起きの不機嫌そうな眼をこすって、見慣れない客をじろじろ見つめた。
「なんだ?誰だてめえら」
彼女はそう言ったが、その台詞はギレアドの金持ちたちこそ言いたい言葉であったろう。彼らにとって、女性は慎み深くあって当然だ。それなのに、今、彼らの目の前に堂々と男のような大声を上げて現れ、長い髪をベールで覆い隠さずもせずに、そして……ここが彼らにとって一番重要なことで立たが、大勢の男の前でその瑞々しい若い体を肌着一枚にしか包んでない状態で、年頃の、態度は豪快でも美しい若い娘が現れたのだから。こんなことは女性も男性と同じく品とは無縁なトブでは当たり前だったが、彼らがそれを知るはずもない。
彼らはあきれを通り越し、完全に目のやり場に困っているようだった、一番若いハモルなどは、女性の体を見たところどころか、女性と触れ合ったこともおそらくないのだろう。顔を真っ赤にして怯えながら、それでもイフィスから目を離せないようでいた。
「あ?てめえ、じろじろ見んじゃねえよ」
イフィスはそんなハモルをじろりと睨みつけて大股で歩く。
「お、おい、てめえら!俺の娘だぞ、変な目で見んじゃねえ!」
エフタ自身もあわてて彼らにそう釘を刺したあたりでイフィスは窓辺にたどりつき、アブドンに聞いた。
「アブドン、何が起こってんだ?話せ」
「は……はい、お嬢様」
アブドンも戸惑いながら、起こったことを話した、彼らはギレアドから着て、エフタに戦乗合をしたということと、戦の代償にエフタをギレアドの長に据えるということ、そして今、自分たちがそれに反対していたということ。
一連の事を聞き終えると、イフィスは「ふーん」とだけ言うと、父親に聞いた。
「父ちゃん」
「おう、なんだ?」
自分の隣にどさりと座ってきた娘に、エフタはそう言う。
「受けてもいいんじゃねえの?こいつらが全員父ちゃんの言うこと聞くようになるんだろ?悪い話じゃないって、あたいは思うんだけどな」
この場で初めて出る意見を、イフィスはこともなげに言ってのけた。

「あのう、お嬢様?」
窓の外からアブドンが声をかける。イフィスのおかげでギレアドの長老たちが冷静でいられないのをいいことに、彼らは落ち着いて話し合った。

「そりゃ、エフタさんが偉くなるに越したこたないですよ。こいつらの上に立つってのだってスカッとする話でさ。でも肝心なことがあります。こいつらはですね、きっと約束を反故にしますよ」
「あ?てめえら、そんくらいの事であんだけギャアギャア騒いでたのかよ」
イフィスはさらっと言ってのけた。
「んなもん、こいつらが約束を反故にできない状況にしちまえばいいだけの話だろ?」
「と、おっしゃいますと」
「簡単さ」
イフィスは立ち上がると、ギレアドの長老の前に仁王立ちになった。長老は驚いて目をそらそうとするが、イフィスは彼の禿げあがった頭をつかみ、強引に自分の方を向かせる。
「おい、爺さん。答えな。お前らにとって、一番大切なもんってなんだ?」
「……は?」
「一番大切なもん、だよ」
詰め寄る彼女に、彼は恐る恐る答える。
「それはもちろん……イスラエルの神だ」
「だとよ、父ちゃん」
そう言ってボサボサの髪をたなびかせながら自分の方を向いたイフィスを見て、エフタにも合点がいった。
「イフィス。……お前、本当に俺の自慢の娘だなあ」
彼はそう言って笑うと再び自分の隣にどっかり座ったイフィスの背中をバンと叩いて、そして長老たちに言った。
「お前ら、そんなに神様のことが大事か?なら、誓えるか?俺がお前らの味方になってアンモン人と戦えば、この山賊の頭である俺をギレアドの頭にするってことを、お前らが最も大切にしている神様にかけて、誓えるだろうな?」
エフタのその言葉に、長老とゼブルは一瞬うっと言葉を詰まらせる。神にかけて誓う、というのは神を敬虔に信じる彼らにとって、非常に重要なことだった。だがエフタは彼らに「本当に約束する気があるんなら、そんくらい簡単に言えんだろ?」と詰め寄った。
「……もちろんだ」
そして、ゼブルはそう答えた。
「……神が、我々の一問一答の証人だ。私達は間違いなく、そのようにするよ。兄さん」
「おっしゃ。その言葉、父ちゃんとあたいとアブドンと、トブ中の奴らが聞いたからな」イフィスはそう言って笑った。
「……で、これでどうする?父ちゃん」
「ふん……断る気でいたけどよ」
エフタは急に、豪快に笑い出した。
「可愛い娘におぜん立てもしてもらったことだし、ちっと気が変わったな!てめえらの上に立って見返してやんのも、悪かねえ!」
「ほ、本当か、兄さん!」
「エフタさん!?」
その言葉に、その場がどよめいたのは言うまでもない。
「ただし!もうちっと条件を付けてもらおうじゃねえか。ひとつ、俺だけじゃねえ、このトブにいる俺の部下ども全員の権利も回復して、俺がお前らの頭になった際には全員俺の部下として抱え込むのは許可してもらおう!」
「そ、それは……」
「いやなら降りるぜ?さっきも言ったが、俺に問っちゃお前よりこいつらのほうが、よっぽど俺の家族でな」
エフタさん!とアブドンの声が聞こえる。アブドンだけじゃなく、何人分も聞こえた。彼らは、嬉しそうだった。それを聞いて、エフタも嬉しくなった。
「……の、飲もう」ゼブルは言った。
「兄さんの部下たちも、兄さんの率いる戦力で、我々が求めている強さには直結しているわけだしね……」
「よし、じゃあ、それとっとと証文の端っこにでも書いとけ。で、二つ目だ」
彼はエフタを見上げるゼブルに言った。
「アンモン人と戦うだけでそれが来る、ってのが気に食わん。俺はお前らの上に立つのはまんざらでもねえが、お前らからの施しばっかりはまっぴらごめんよ。俺らは盗賊だが、乞食じゃねえ。お前らは俺がギレアドに帰るだけでそれをよこす、って言ったが、その条件……アンモンの戦で俺が勝ったら、に書き換えとけ」
「なんだって!?」
その言葉に、ゼブルが驚いた。エフタ自身が、どちらかと言えばエフタの損になることを言ったのだから無理はない。
「それで異論はねえな?お前たち!」
だが、エフタは窓の外に向かってそう叫ぶ。そして帰ってきたのは、スk添いのためらいの色も見えない「もちろんでさ!」の合唱だった。
「さっすがエフタさん、よく言ってくれました!」「そうだそうだ、施しなんざいらねえよ!」
イフィスも満足げににっこり笑っている。
ギレアドから着た彼らは、全く状況が呑み込めていなさそうだった。トブの住民に、いっそ不気味さすら覚えていた。彼らは、トブがこういう土地であるということをわかっていなかったのだ。
ただ、ゼブルは言われるままに証文の内容をさらさらとその場で書き換えた。「終わったよ」と彼が言うと、エフタはそれをひったくり、自分の懐に収めた。

「てめえらの今の陣地は?」
そしてしまい終わるや、彼は言った。
「……ミツパだ」
「聞いたか、野郎ども!」エフタは叫ぶ。「ミツパに向かうぞ、全員、準備だ!」
「はい、エフタさん!」
窓の外の彼らは散り散りになって、自分たちの家に急いで帰っていった、そしてエフタも「ストルジェ!」という。
「まかしときな、昼までに終わらせてやるよ。イフィス!いつまでも下着一丁でいないで、お前も手伝いな!」
「分かったよ母ちゃん」
イフィスは慌てて立ち上がってストルジェの後をついていった。「……エフタ」長老が、恐る恐る聞いた。
「ま、まさか……もうすぐ、行く気かね?故郷の町にも帰らずに?」
「長老さんよ、事は一刻を争うんだろ?」エフタは言う。「時間は一瞬でも惜しいんだ」
そう言うエフタの顔は、すでに、指揮官のそれになっている。ゼブルは不思議に思った。それは彼にとって、初めて見る兄の表情だった。彼は、迫害される兄の表情しか見たことがなかったのだ。堂々と生きるエフタの姿は、ゼブルにとってたまらなく違和感のあるものだった。

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feat: Judith 第五話

《三日目》


気が付けば夜明け近くになっていた。また泉の同じ場所で水浴びをしながら、ユディトは赤く染まろうとしている東の空を見ながら神に祈った。ミルツァもともにそうした。
彼女は思った。願わくば、本当に、過去の預言者たちのように神が預言を下してはくれない者か。イスラエルの民を救うという旨の預言を。
だって、先日話したこと、あれはでっち上げなのだ。ベトリアの民は今なお忠実に、神への信仰を守っているに違いないのだ。
エリヤの生きた時代の北イスラエル王国の民のように神に不信心ならさておき、今なお神を信じ、雨を待っているであろう彼らの願いを聞いたという預言を神は自分に下してはくれないものだろうか。少しでも、この心を和らげてはくれないだろうか。
ユディトは水から上がった体を太陽に照らしながら、心の底で神にそう訴えかけた。


その日も、ユディトたちはホロフェルネスに奴隷たちの手伝いをするよう言いつけられ、それに従っていた。ユディトは当然焦っていた。もう三日目になる。今日が終われば、期限の半分が過ぎてしまう。
ホロフェルネスの心を溶かすどころか、昨日はろくに話もできないまま終わってしまった。このままではいけない。しかし、どうすればいいのか。
ユディトがそう考えながら甕に水を汲んでいると、不意に、一つ甕が浮かび上がった。
「手伝いますよ」
そう言いながら現れたのは、メロダクだった。

少年と言えども、やはり男である。メロダクの助けは非常にユディトとミルツァにとって有難いものだった。
「ありがとう、メロダクくん」ユディトは言った。
「でも、あなた、こんなところに居ていいの?あなたも兵隊でしょ?」
「良いんですよ。どうせ僕がいても邪魔ですから」ミルツァのその問いに対して、メロダクは言った。
「家の体面のためだけなんです。この戦に駆り出されたのなんて。ぼく、本当は戦ができるほど強くもないし、皆さんにも迷惑がられてるんですよ。だからこういう仕事をさせてもらえる方が実は嬉しいんです」
彼はそう言って苦笑いした。
「なんか……ひどい話ね」と言ったのはミルツァ。
「そもそも、ネブカドネザルがプライドを傷つけられた仕返し、なんて言ってこんなにバンバン戦してるわけでしょ。そのことくらい許せばいいのに、心の狭い奴!」
「はは……陛下の事をあんまり悪く言わないでくださいね」
メロダクは苦笑しながらミルツァにそう言う。
「特に、ホロフェルネス様の前では気を付けたほうがいいですよ。閣下は本当に、国王陛下に心酔しておられますから」
「そうなの?」とユディトが聞く。
「はい。……あの、ご存じないかもしれませんが、閣下は生粋のバビロニア人ではないんです。……流れ者で、相当いろいろなことがあって、バビロニアにたどりついたとき、ネブカドネザル様に拾われたんだそうです。そのことから、本当に陛下には感謝していらっしゃるんですよ」
ユディトはそれを聞いて、ちくりと心が痛んだ。存じていないわけがない。彼がそうなる原因は、ベトリアにあるのだから。
「閣下は、どんな時でもネブカドネザル様のため、って言うんです」
彼のその言葉を、ユディトはきっとそうなのだろうという気持ちd家いいていた。ちらりと話したおととい、ホロフェルネスはネブカドネザルの事を語っていた。彼にとっては、本当にかけがえのない絶対的君主なのだろう。
やがて水汲みが空陣地に入ると、ユディト達は水瓶を地面において一息入れた。その時、メロダクが彼の祖父に所用で呼ばれた。
「すぐに行きます」彼は素直にそう答えてから、ユディト達の方を向き直って、まだ、少し顔を赤くしてこう言った。
「あの……何か困ったことがあったら、なんでも手伝いますから、気兼ねなく言って下さい。それじゃあ」
「ありがとう」という間もなく、メロダクは立ち去って行ってしまった。


メロダクがいなくなってから、ユディトとミルツァはしばらく二人きりで兵士たちの物品の整理をしていた。太陽が天の一番上に昇っていた。
早く、早くホロフェルネスにもう一度話さなくては、ユディトの心にそんな焦りが生まれていた矢先の事だった。不意に彼女の視線の外で、ミルツァのうめき声が聞こえたのだ。
「ミルツァ!?どうしたの!?」
彼女がそう言って振り返った時、二人の兵士がそこにはいた。メロダクとは違い、体も屈強で、いかにも兵士と言った風の二人だった。ミルツァは彼らに猿轡を噛まされ、体を押さえつけられて何か言いながらもがいていた。
ユディトは、急にぞっと背筋が寒くなった。二人のうちの一人がミルツァを押さえつけると、彼らは口で合図して、今度はもう一人がユディトを押さえつけ、地べたに押し倒した。
これから何が起こるかなど、言わなくてもわかることだった。

「や、やめて!」
彼女は叫んだ。だが、二人の兵士は返事すらしなかった。
「お前が先でいい、でも次は俺だからな」こんな会話を二人の間同士でしているだけで、彼らは全くユディトの言葉に耳など貸さなかった。猿轡を噛まされたまま必死で抗議しているミルツァなど、全く意にも介していないようだった。抵抗しようにも、力の差は歴然だった。
「やめてってば!」
ユディトがそう叫んだ時、彼女を押さえつけている兵士は彼女の細い両手首を片手で押さえつけ、彼女の上に馬乗りになった、ユディトは、またったく身動きの取れない体制にさせられた、眼前に、今まさに自分を犯そうとしている兵士の姿が間近に見えた。
彼女はそのうち、声も出なくなった。当の兵士は、ハアハアと息を荒くして、いよいよ彼女に口づけしようと顔を近づけてきた。彼の膨らんだ下半身の感触を、彼女は衣服越しに太ももの間に感じた。彼女はいよいよ身振るいし、目をぎゅっとつむった。耳に聞こえるのは、彼の荒い息遣いとミルツァのくぐもった声だけだった。

か、のように思えた。
「何をやっている?お前達」
ユディトの唇に来るべき感触が訪れるよりも先に、非常に冷たい声がその場に響いたのだ。
ユディトは自分を押さえつけていた兵士が体を起こし、自分を解放したのを悟って、目を開けた。目の前には、ホロフェルネスが経っていた。

「しょ、将軍閣下!」
兵士は慌てて声を上げた。
「こ、これは、その……」
「その、何だ?」
ホロフェルネスはその霜のような冷ややかな目で、地面に四つん這いになる兵士を見下しながら言った。
「ぜひ、聞かせろ。お前たちは何をしていたのだ?」
兵士は慌てて何か取り繕おうと二人とも慌てたが、しどろもどろにしか言葉が出ない、ホロフェルネスは目つきだけはそのままに口門を笑うように歪ませて「さっぱり要領を得んな。お前たちは何をしていた、と俺は聞いているのだが」と彼らに詰問した。
「い、いや、そのう……」
「貴様ら、この俺が、この女が陣地に来た時、なんと命令したか覚えているのか?いないのか?」
ホロフェルネスは彼らにそう言った。
「どうなんだ?」
「は、それは……」
「よし、覚えているのだな。復唱してみろ。俺は、この女の処遇について、なんといった?」
兵士たちは顔を真っ青にして口をパクパクしえ知多。だがホロフェルネスは地べたを段と踏み鳴らし「復唱しろ!」と言った。
「か、閣下は、おっしゃいました……この女は、戦が終わり次第、ネブカドネザル様の女奴隷として献上する、と……」
「そうとも。全くその通りだ」
ホロフェルネスは相変わらず口元だけを歪ませて、彼らに言った。
「ネブカドネザル様は何者だ?」
「お、お慈悲を……閣下……」
「ネブカドネザル様とは何者か、と俺は聞いている」
ホロフェルネスは彼らの胸ぐらをつかんだ。彼らは今にも死にそうに、「わ、我々が仕える誰よりも偉大な、神に等しきバビロニアの帝王、でございます……」
「そうとも。ネブカドネザル様こそ、世界を統べる王。神に最もふさわしき存在……良く分かっているではないか」
ホロフェルネスは、彼らに畳み掛けるように言った。
「……わかっていながら、貴様らはその帝王にさし上げるべき貢の品を、貴様らごとき下賤な者の汚い手で汚そうとしたのだな!?」
「お、お慈悲を、お慈悲を、閣下……」
彼らはまるでつい先ほどまでユディトがそうしていたように、がたがた震えて恐怖におののいていた。
「こちらへ来い」
ホロフェルネスは、そんな彼らに手招きをした。
「お慈悲を……」
「司令官は俺だ!俺が来いと言ったら来い!」
ホロフェルネスは飛び切り威圧的に、大声で彼らにそう命じた。彼らは震えながら立ち上がり、ふらふらとホロフェルネスについていった。
「貴様ら!」続いて彼は、ユディトとミルツァにも命令した。
「貴様らも来い!」

彼は、人知に残っていたバビロニア軍を招集すると、その縛り上げた二人を彼らの前で晒し者にした。
「皆の者、よく聞け!」ホロフェルネスは大声で言った。
「この者は、バビロニア軍でありながら、仕えるべき主であるネブカドネザル様のものであるべき、この女、ユディトを犯そうとした!」
彼の声はよく響いた、縛り上げられた二人は、もう気絶しそうなようにも見えた。ユディトはふと、その演説を聞いてざわついているバビロニア軍の中にメロダクの姿も見つけた。メロダクは、信じられないものを見る目で二人を見ていた。
「我らは、いわばネブカドネザル様に仕える奴隷……ネブカドネザル様に無礼を働くことなど、あってはならぬ」
「お慈悲を……閣下……」
なおもそううめく彼らの声も聞かず、ホロフェルネスはすらりと剣を鞘から抜いた。良くとがれた銀色の刃面が、真昼の厚い陽光のもとに煌めいた。
「良く見ておけ、これが偉大なる王をないがしろにした不忠義者の末路だ!」
銀の刃が振り下ろされた。
次の瞬間、二つの首がごろんと地面に転がった。そして、勢いよく二つの胴体から大量の血が吹き出て、たちまち地面を赤く濡らした。

「貴様らも覚えておくといい」
ホロフェルネスはいきなり処刑された二人に右往左往するバビロニア軍にもはっきり通る声で言った。
「ネブカドネザル様に少しでも仇なす者が、この俺の刃を逃れられると思うな」

ユディトは目の前で起こったことのあまりのショックに、気絶してしまいそうな思いですらあった。
ホロフェルネスが、人を切り捨てた。それも、自分の味方の兵士を。彼らの助けを求める言葉にちっとも耳を貸さずに、眉一つ動かすことなく、彼は二人を殺したのだ。王、ネブカドネザルへの忠誠のためだけに。

ホロフェルネスはバゴアスに怒鳴って言った。
「死体を片付けろ!けがらわしい反逆者の体だ、とっとと焼いてしまえ!」
そして、彼はバゴアスの返事も聞かず、さっさと自分の天幕に入って行ってしまった。

ユディトは、反射的に体が動いた。「あっ、奥様!」というミルツァの声は聞こえなかった。幸いバビロニア軍の殆どは先ほど切り捨てられた二人の兵士に釘付けで、彼女のことなど注目してもいなかった。
彼女は、ホロフェルネスの天幕に体を滑り込ませた。

「ユディト?」
自分も天幕に入ったばかりのホロフェルネスは、まるで先ほどの彼らを見下すような冷たい目で、ユディトの事も見た。
「ホ、ホロ、フェルネス……」
「和平の話なら、受け付けんぞ。お前らの事を俺は許さん」
ユディトはそれを聞いて、なぜ自分がここに来たのか、良く考えれば自分自身でも良く分からないということが分かった。ただ、反射的に体が動いたのだ。先ほどのようなことを行ったホロフェルネスを目の当たりにし、彼と話さずにはいられないような思いだったのだ。
「なんで、何で、貴方……?」
「……は?」
「貴方の味方、だったんでしょ……?」
「……ふん、いかにも天使と呼ばれるお前らしいな。自分を犯そうとしていた相手に同情か」
彼はユディトを冷笑した。
「そ、そう言うわけじゃなくて……」
「ちょうどいい。この際だからお前にも言おうか。自分の身の事は気をつけろ。ネブカドネザル様にお前を受け渡すとき、不備があるなど論外だ。今日の見せしめは、お前にも向けたつもりさ、俺はな」
「なんで、味方を……」
ユディトは身震いしながら、彼に詰め寄った。犯されそうになったことはショックだったが、そんなものはもう吹き飛んでしまうほど、ホロフェルネスのやったことは彼女の心に深い衝撃を与えたのだ。
「あなたは……とても、周り思いで、優しい人で……私たちを恨んでも、たどり着いた先の人たちには……変わらずに」
「変わらすにいたとでも思ったのか?味方?俺に味方などいない」
ユディトの言葉を、彼はうるさそうにさえぎった。
「俺に居るのは、敬うべき君主、ネブカドネザル様のみだ!」
「あなた……」
ユディトは自分自身が何に打ちのめされたのか、ようやく分かった。記憶の中のかつての恋人、ホロフェルネスと、今の彼のあんまりと言えばあんまりなほどに開けた違いを、目の前で見せつけられたことに対するショックだったのだ。
「さっきからずっと、ネブカドネザル様、ネブカドネザル様……それ以外の事は何も言いやしない」
「当たり前だ。俺にとって、ネブカドネザル様以外などいないも同じだ」
彼はユディトに吐き捨てた。
「あの方だけが、俺を救ってくれた。あの方だけが、一人きり、生きているか死んでいるのかもわからなかった俺を救ってくれたんだ。俺を、見つけてくれたんだ……」
「ホロフェルネス……」
まだ何か言おうとする彼女に、ホロフェルネスはもう一度強く言った。
「もう一度言うぞ、ユディト!出て行け!俺はお前たちを許す気もないし、ネブカドネザル様に賜った命令を捨てるつもりもない!お前たちは滅ぶべき者共だ!俺の母を殺し、ネブカドネザル様を侮辱したお前たちに生き延びるだけの価値があるなど、全くお笑い草だ!……とっとと出て行け!俺はお前の顔など見たくない、その天使面はもううんざりだ!」
「そんな……」
なおも言う彼女に、ホロフェル杜松は一息つくと、言った。
「ユディト、お前たちは俺に言ったな。俺たちは悪魔だと。……アッシリア人は、悪魔だと」
「私、そんなつもりは……」
「いや……いいのさ。正直な話、俺はそのことを今信じたよ。俺の母さんはともかく、俺自身はきっと、悪魔なのだろう」
彼はユディトに顔をグイと近づけると、毒々しい口調で言った。
「だってそうじゃないか?俺はお前という天使を、ここまで憎んでいるのだから!人間ならば天使を愛するものなのだろう!?なら、天使を憎む俺は、間違いなく、悪魔だったんだ!そう言うことだな!ああ、正しいとも、お前らは正しかったよ!そこに関してだけは、お前らの正しさを認めてやろうじゃないか!」
彼はそう怒鳴りたてると、ユディトの肩をつかみ、彼女を強引に天幕の外に追い出した。それきり、何の返事もしなくなってしまった。

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feat: Judith 第四話

《二日目》

夜になった。
ユディトは体を洗おうと、山の上の泉に昇った。ベトリアの水源になっているイズムだ。ホロフェルネスは彼女がそこで身を洗うことを許可してくれた。特に意図はなかったのだろう。
守りは手薄になっていた。もっとベトリアに近い方に守りを固めているのかもしれない。ユディトとミルツァはようやく、兵士が周辺に一人もいなさそうな一帯を見つけた。そこで水を汲んで飲んだ後、ユディトは裸になり、泉に身を浸からせた。ミルツァは周囲の見張りをしていた。
自分の肉体を洗いながら、彼女は昼間にホロフェルネスに言われた言葉と、そしてマナセの事を思い出していた。
思えば、マナセは無理に自分を満足させようと、一生懸命だった。結婚した時点ですでに老齢だったのだから、子種もとうに尽きている頃だろうに、それでもマナセは必死でユディトを抱こうと毎晩躍起になっていた。そしていつも、彼のものは固くなることはなく、ユディトは柔らかいままそれを無理やり押し込まれたりもした。本当のところ、ユディトが男のそれは本来固くなるものだということを知ったのは、結婚から三年もたった時だったのだ。
何も夜の事だけではない。マナセはとにかく、年齢を忘れようとしていた。若者ぶりたがっていた。もう隠居する年齢だろうに、必死で様々な仕事を引き受け、老体に鞭を打っていた。
三年と四か月前、マナセは畑の見張りをしている時に日射病で亡くなったのだ。その時の事もよく覚えている。自分はマナセに、影に入ることも、水を飲むことも、何度も勧めた。それでも彼はやせ我慢をやめずに、若い者達がするようにしていて、その結果死んでしまったのだ。
彼は自分の年齢をコンプレックスに思っていたのだろう、と、ユディトは思う。もっと言うなら、彼はひょっとすると、ホロフェルネスを常に意識していたのだ。自分とは違い、権力や金がなくとも、若さと美しさのあった彼を。そのため、自分もまた彼と同様に若いのだと自分に言い聞かせなければ、やっていけなかったのだろう。
ユディトにもはっきりわかることだった。彼はユディトに、本気で恋をしていたのだ。だからこそ、ホロフェルネスから奪い去る形になったことに、優越感と劣等感の混じるような複雑な感情を死の間際までずっと持っていたのだ。その感情を取り払うためには、自分は全ての面でホロフェルネス以上なのだ、放っておいてもユディトは自分の方になびいたのだと彼自身に言い聞かせるしかなかったのだろう。若さも、体力も、自分にはないものだ、それを補って余りあるものが自分にはある、と、彼はどうしても思えなかったのだ。思おうとすれば、若く活気に満ちた、自分とはくらべものにならないほど美しいホロフェルネスの姿が常に目の前に浮かんでしまったのかもしれない。ユディトは月の光を眺めながら、そのようなことを考えていた。夫の生前から、何とはなしに思っていたことではあったが、こうして改めて考え、そしてホロフェルネスに再開してみると、がぜんそれに説得力が増す。ホロフェルネスは一五年たった今も、美しかった。


不意に、ミルツァが「誰!?」と声を上げる。それに向かって、ユディトも反応した。満月の明るい寄りだし、ミルツァの持ったたいまつの光で、自分の裸体は明々と照らされている、
バビロニア兵か、と彼女は思った。その予想は外れてはいなかった。
だが、少し勝手の違うところがあり、姿の見えない彼はわぁと叫んだあと、、「ごめんなさい!ごめんなさい!そんなつもりでは!」と焦って叫び、慌ててがさがさと逃げて行ったのだ。まだ声変わりもしていない、幼い声だった。
バビロニア人生に来てからと言うもの、下品な舐めるような視線をむけられ続けていたユディトとミルツァにとっては、そのあまりに純情そうな声は非常に拍子抜けだった。彼女達は顔を合わせて、お互いに小首をかしげた。


その夜が明けて、ユディトとミルツァがバビロニア軍の奴隷たちを手伝って雑用の仕事をしながら陣営の中を歩いているとき、ふと、離れたところにポツンといる一人の少年兵を見つけた。彼はユディトを見るなり、顔を真っ赤にして目をそむけてしまったのだ。もしや、とユディトは感づき、彼に話しかけた。
「あの」
「は、はいっ!なんでしょうか!?」
彼は焦って声が裏返っていた。そして、その声は確かに、夜に聞いた斧と同じだった。
「……いいえ、なんでもないの。お名前は?」
「……メロダク、と申します」
「そう」
ユディトが笑うと、彼はますます真っ赤になってしまう。間違いない、昨日自分の水浴びにたまたま居合わせてしまったのはこの子だ、とユディトは確信した。まだほんの年端もいかない、ミルツァと同い年くらいにしか見えない少年だ。それでも、非常に育ちがよさそうな印象を受けた。バビロニア兵の不躾さも相まって、ユディトは彼に好感を持った。
「貴方、……気にしないでいいのよ、昨日の事は」
彼女は彼に笑いながらそう言うと、彼はいよいよ耳まで真っ赤になってしまい「は……はい」と言った。彼女はそれを、少し愉快に思った。
と、その時。宦官のバゴアスがやって来て「ユディト殿!おや、メロダクも」と言った。メロダクは彼を見て「おじい様!」と明るく言う。
ユディトは合点がいった。この二人は、祖父と孫なのだろう。バゴアスは宦官と言っていたが、おそらくは子供が生まれた後、宦官になったのだ。
「ユディト殿、孫と何かありましたか?」
「いいえ、何かと言うほどの事も……優しいお孫さんですのね」
「ええ、自慢の孫です」
バゴアスは流石に年の功があるらしい。上品な態度で、ユディトに接してくれた。
メロダクは顔を相変わらず真っ赤にしたままユディトに向かい合えない様子だったが、ユディトはそんな彼の事を可愛らしく思った。

「奥様?」
そこに、ユディトの変え売りが遅いのを心配したのか、ミルツァが現れた、メロダクはミルツァを見るなり「あっ……と声を上げ、その声から、ミルツァにも彼が誰だかわかったらしい。
「貴方……」
「ごっ、ごめんなさい!そんなつもりじゃなかったんです、信じてください、本当です!」
慌ててそう言う彼に、ミルツァも噴き出す。いくらなんでもここまででは、毒気も抜かれるというものだ。
「ミルツァ、私は気にしてないのよ、貴方もとやかく言わないでね」
「ええ、勿論です。奥様」
「あの……メロダクとの間に、何があったんです?」
「大したことじゃないんです、奥様にもメロダクさんにも、あんまり問い詰めないでください」
バゴアスは相変わらず腑に落ちなさそうな顔で、メロダクは照れ臭そうんしている。だが、ようやくメロダクも口を開いた。
「……あのう」
「なんです?」
微笑みながらそう言ったユディトに彼はせっかく落ち着いてきた顔をまた赤くしながら、それでもいった。
「……ネブカドネザル王やホロフェルネス将軍は、ユダヤ人を散々悪く言っていますが……そうでもないんですね。アキオルさんの言うとおり、優しい方がただ」
その言葉を聞いて、ユディトは一瞬面食らった後、「ありがとう、そう言ってくださって嬉しいわ」と彼に言った。
ミルツァも、悪い気はしなかった。「ありがとう」と、彼女も彼に向かって言った。
「お前も優しい奴だな、メロダク」
バゴアスは流石に立場上、こんなにこそこそ出会っても王や将軍の言い分を否定することはできないのだろうか、代わりにメロダクをそうやってほめた。


その日、ホロフェルネスはベトリアを見張っている兵たちの視察に来ていた。視察とはいえ、同づと言っては皆隊メインを取り繕うに決まっている。彼はわざとこっそりと影から、彼らをうかがった。
彼らはまさに、ホロフェルネスに対して愚痴を言っているところだった。
「いつになったら開戦するんだ、待ちくたびれるよ」
「大きな口叩いといて、あの将軍、かなり臆病なんだな!イスラエルの神を畏れているなんて」
「大体、あんな得体のしれない流れ者に将軍職を任されるなんてな」
「自分より若い奴に命令されるなんて、プライドが許さんよ」
「どんな手を使ったが知らねえが、あくどい野郎だ、ホロフェルネス……」
そのあたりで、ホロフェルネスはわざとらしく表の道に出て「どうだ、様子は」と大きな声で言う。彼らは慌てて縮み上がり「い、異常ありません!」と震える子和えで告げた。
ホロフェルネスは意味ありげに笑って見せ、彼らの怯えた反応を楽しんだとに「では、続けるがよい」とだけ言って立ち去った。後ろから、彼らの安どのため息が聞こえてきた。

所詮この程度だ、とホロフェルネスは思った。どの兵もいくら生意気を言おうと、自分が一にらみするだけですくんでしまう。
ベトリアの住民はさておき、彼らに至っては怒りの念もわいてこない。彼らが自分を軽蔑し、忠誠心などこれっぽっちも持っていないことなど、ホロフェルネスは知っていた。自分はまだ若いのだし、流れ者だ。武術の腕に自信がないではないが、そこまで超人的に強いわけでもない。せいぜい並の上程度だ。
それなのに、バビロニア王ネブカドネザルはこの討伐をするにあたって、ホロフェルネスを何の前触れもなく将軍職にした。ユダヤを討たせるためだけに、彼は将軍になったようなものなのだ。
コツコツと武勇を集め将軍にならんとしている軍人たちにとっては、わけもわからず流れ者のホロフェルネスがその立場になってしまうのは、さぞ面白くなかろう。だが、ホロフェルネスは別にそれで構いはしないと思っていた。
「(どれだけ他人に馬鹿にされようと……あの、砂漠で受けた屈辱よりは、数段ましだ)」
彼にはそう思えていた。そして、さらにこうも思えていた。彼は将軍になった際に王から賜った剣の柄を握りしめ、心に思った。
「(誰に好かれずともいい……ネブカドネザル様だけいてくだされば。孤独だった俺を拾い、俺に目をかけてくださったネブカドネザル様……あのお方こそ、神だ!あのお方のためなら、俺は何でもできる!そしてあのお方が俺に目をかけてくれる以上、たとえ世界中の人間が俺をさげすもうとも、俺の心は鉄のように傷つかずにいられる。神であるネブカドネザル様が、俺を庇ってくださるのだから!)」
彼は柄に刻まれたバビロニア王家の紋章を撫でながら、ついでに思い足した。
「(もっとも、ベトリアの民とユダヤ人共は別だがな……あれは、俺がこの世でネブカドネザル様の次に大切に思う存在を、母さんを、恥辱にまみれた死に追いやったのだから)」


その日、ユディトはホロフェルネスと会話する機会がなかった。夕方ごろ、彼とすこしでも話せればと思ったのに、それはふいになってしまったのだ。そのことの顛末は以下の通りだ。
いざ隙を見て向かってみれば彼の天幕は空で、バゴアスとメロダクが仲の掃除をしていたのだ。
「おや、ユディトさん、また会いましたね」
バゴアスとメロダクはそう挨拶した。メロダクはまだ照れているようだった。
「将軍閣下は何処かへ行かれておりまして……」
そう言ったバゴアスの隣で、メロダクが何かに気が付いたように言う。
「……ユディトさん、将軍閣下に、どのようなご用なのですか?」
彼は恐る恐ると言った風にそう聞いてきた。ユデイxトは慌てて言葉を濁したが、その答えは意外にもすぐに帰ってきた。
「和平の申し込みさ」
低い声で、後ろからホロフェルネスが現れたのだ。ユディトは驚いて道を開けてしまい、バゴアス達は彼に慌ててひれ伏した。
「和平……?」メロダクが顔を下げたまま言う。
「ああ、そうとも、その女、大層美人なのはお前の眼にも分かるだろう。その武器一つで、このホロフェルネスに慈悲の心を持たせられればと、そう思ってきた、それがこの女の魂胆さ。俺たちに寝返ったなどすべて嘘っぱちでな。特にメロダク、世間知らずのお前は覚えておけ。女とはこう言った生き物さ」
ホロフェルネスは早口でそう言う。ユディトは慌てた。
「おろおろするな。俺はこの話を、一応このバゴアスとメロダク以外にはしていない。俺は夕食まで昼寝する、バゴアス、誰も俺の天幕に入れるなよ」
彼はそう言いきって、天幕のカーテンを閉め切ってしまった。それで、ユディトはそれ以上彼と会話できなかったのだ。


「あの……」
その話が終わって、メロダクは目を白黒させていた。ユディトはバビロニア軍に潜入した自分の魂胆をばらされて顔を青くしたが、やがて彼は笑ってこう言った。
「……安心してください。ぼく、皆さんに言うつもりないですから。……ユディトさんは、本当にお優しいんですね。敵も味方も、無傷で済む方法を考えてらっしゃっているんですね」
メロダクのその無邪気な笑いが、ユディトにとっては心の救いにもなりそうだし、また同時に、心を痛めつけるような気もした。
バゴアスの方は反応に困っているようだったが、やがて彼も穏やかな笑いを浮かべ「ご安心を。私とて、このことを言いふらすつもりはございません。……だいたい、この戦自体、立て続けに怒って少し無理のある代物なのです。和平で済むならそれが一番いいのです。バビロニアの兵隊たちにとっても。それに、不可解なことも多いですが……貴方は、信じられるお方と言う気がするのですよ、ユディトさん」と穏やかに笑った。
「平和のうちにすむなら、それが一番なのです。戦など、なければないだけ良い」
「僕も、おじい様と同意見なんです……戦争は、嫌いです。だから……貴女に騙されたなんて思いません。むしろ、尊敬します…」

ユディトはとにかく、心優しい、とんでもないお人よしと言ってもいいかもしれないこの老人と孫によって、ひとまず自分の立場が崩れなかったことをまず神に感謝し、次に彼ら自身に深く感謝した。

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feat: Judith 第三話


15年前まで、ホロフェルネスはベトリアに居た。ベトリアで、彼の母とともに住んでいたのだ。
父ははっきりしない。彼は正確にはベトリアの生まれではなく彼が物心つく前に母親とともにベトリアに流れ着いたのだ。今の冷徹さからは想像もできないほど、当時の彼は優しくて、誠実な少年であった。母を支えて毎日よく働いて、それに不平の一つもこぼしたことはなかった。
同じベトリアの民として、少年の日のホロフェルネスと少女の日のユディトは、たがいに惹かれあった。同じ年の美少年と美少女。ホロフェルネスの家は貧しかったがユディトの家もまた同様に貧しかったので、周囲の大人たちは彼らの恋についてやいのやいの言わなかった。むしろ実にぴったり、彼らに相応しいものだとして祝福していた。そして彼ら同士の家もまたお互いの娘と息子を気に入り、彼らが15になるころ、めでたく、二人は婚約者同志となった。
彼らは、ホロフェルネスの野良仕事の暇を縫って、一緒に愛し合った。誤解のないように言っておくが、愛し合うとはいえ少年少女のそれである。ホロフェルネスも真面目だったし、ユディトも真面目だった。彼らは愛し合っているとはいえ、社会的規範を破ってまで性交渉をしようとは思わなかった。ただ言葉を交わすだけで、彼らは幸せだったのだ。
「ユディト、好きだよ」と言う彼の言葉を、ユディトは今でも覚えている。何回も言われた。昼間にも、夕方にも言われた。雨季にも、乾季にも言われた。彼が自分の手を優しくつかんで、端正な顔をほころばせながら、何度もそう言ってきたのだ。ユディトはまた、覚えている。その言葉に、自分も笑みを浮かべようと目を細め口角を上げて「私も好きよ、ホロフェルネス」とささやいたのだ。彼は、それに対して照れくさそうに、しかし、嬉しそうに笑った。性の悦びを知らないし、また無理に知ろうとも思わない子供にとって、それが何よりの快楽であり、愛し合う方法だった。

だが、そんな牧歌的な幸せはある日突然壊れた。ひょんなことで、ホロフェルネスの家から、あるものが見つかったからである。それは、偶像だった。
ひっそりと人目をはばかるように置かれていた男性の偶像神。町の長老オジアはそれがなんであるかを知っていた。その神の名はアッシュールと言い、アッシリアの神だった。

長老たちはそれについて、ホロフェルネスの母を問い詰めた。なぜ、貴方は経験にユダヤの集会に顔を出しておきながらアッシリアの神の偶像を持っていたのか。貴方はイスラエルの神に従うものではなかったのか、と。偶像崇拝はイスラエル人が最も嫌うことだ。敬虔な長老たちがそれについて非常に神経質になってもおかしくはなかった。
ホロフェルネスはそんな偶像のことなど何も知らなかった。知らなかったからこそ、彼はユディトとともに戸惑いながら事の顛末を見守って居た。彼の母は最初のほうこそ何も言わなかったが、やがてある日、ついに長老たちの激しい詰問に耐えかねて、吐き出した。自分とホロフェルネスは、実は、アッシリア人なのだと。

ベトリアは騒然とした。もはや彼女の家の罪は、偶像崇拝の罪のみに留まりはしなかった。
「この敬虔な神の都市に、あの北のイスラエル王国を侮辱し蹂躙し、イスラエルの十の部族を全滅させた悪魔の王国、アッシリアから来たものがいるなどと!偉大なるイスラエルの神の名において、到底、許されることではない!」彼らは口をそろえて言った。
北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた屈辱を、民族への誇りの強いベトリアの民が忘れるはずがなかったのだ。アッシリアは永遠の敵だ。憎むべき対象だった。彼らはホロフェルネスの母と彼を無理やりベトリアから追い出そうとした。そして、ユディトの家も、そんな悪魔の民族と婚約した罰だ、不埒な裏切り者め、と言って一緒に追放されそうになったのだ。
しかしそんな時、町一番の大富豪であるマナセが口をはさんだ。
マナセはその時七十ばかりの老人だった。先だった彼の妻は不妊の女で子供はなかったのだが、その旨は割とどうでもいい話だ。重要なのは、彼がユディトの家に訪れこう言ってきたことにある。
「周囲の者はああ言うが、君たちは彼らがアッシリア人と言うことを知らなかった身だ。私は君たちを助けたい」
その言葉に、ユディトの家が飛びつこうとしたのは言うまでもない。だが、このような美味い話がただではないないのは当然のことだ。彼は、条件を提示してきた。それが、ユディトとの結婚だったのだ。
彼は人払いをして、ユディトと二人きりになった。赤の他人の男性と二人きりと言う状況になり怯えるユディトの手をつかみ、彼はこういってきたのだ。
「……ユディト。君を救おう。私と結婚すれば、ベトリアに居られるだけではない。今日までの貧しい生活からも離れられるのだよ。ベトリア一の金持ちの家族になれるのだ。君も、君の家族も。君に一切の不自由はさせない。ユディト、受け入れてはくれないかね。……私は、ずっと、君に懸想していたのだ」
そう、ホロフェルネスとは似ても似つかぬ皺くちゃになった顔を悲痛さにゆがめ、彼はユディトにすがってきたのだ。ユディトの家の方が彼へすがる立場であったにもかかわらず、彼はむしろユディトに結婚を必死で嘆願した。
ユディトは、その日、彼の求婚を了承してしまったのだ。一瞬で金と命の無事に目がくらんだというわけでもない。ホロフェルネスの事が頭に浮かばないではなかった。だが、やはりそれでも……まだ人生の楽しみもろくに知らない十五の少女は、恋した少年とともに心中する事よりも、この先の人生をより豊かに生きること、自らの家族を豊かにすること、そしてこの目の前の、自分への慕情に苦しみすら感じている老人を愛ではなく同情によってではあるが救うことを選んでしまったのだ。

マナセの財力には長老たちも逆らえない。ユディトの一族は助けられることになった。彼が言えば、ユディト一家は彼らがアッシリア人だということは知らなかったのだから一蓮托生は理不尽な話だという言い分にも説得力が出た。

ホロフェルネスとその母のみが、ベトリア中の住民に憎まれながら、追放された。ベトリアを遠く離れた砂漠に。ユディトは覚えている。彼の最後の言葉を。彼はしばりつけられながら、その美しい顔を怒りの色に染め、こうどなりたてていたのだ。
「覚えていろ、てめえら……!俺は復讐してやる!このベトリアを灰に変えてやる!呪われてしまえ、てめえらなんぞ!」
そんな彼の台詞を負け犬の遠吠えと笑い飛ばし、ベトリアの住民は引きずられていった彼と彼の母を見送ったのだ。その中には、ユディトもいた。ユディトは、ホロフェルネスがしっかり自分も睨みつけていたのを覚えていた。


「そんなことが……」話し終って口をつぐんだユディトに、ミルツァは絶句していった。
「驚いたでしょう?でも……これが、起こったことなのです。お分かりね。彼がなぜ、私たちにあんなに不快感を示しているか」
「で……でも、奥様!」ミルツァは必死に弁解した。「奥様は何も悪くありません!奥様のしたことがなぜ責められることでしょう、奥様は生きたいと思っただけではありませんか!」
「言わないで、ミルツァ!お前の気持ちは嬉しい、でも、その言葉が私を傷つけるの。十五年間ずっと、私を傷つけ続けるのです……」
ユディトは顔を伏せて言った。
「ホロフェルネスは死んだのだと何年心に言い聞かせ、その心を抑えてきたのに!生きていたなんて、彼が、生きていたなんて。しかも……こんな立場になって!そのことが分かった時の私の気持ちを、どうか何も言わず受け止めておくれ、ミルツァ。そして、私に罪がないなんて言わないでおくれ。私はこの場で、むしろ罪びとでありたいのよ。下手な弁解はホロフェルネスの心をより閉ざしてしまうだけ、あの人は……せめて、私たちに少しでも後悔の念があると分かれば心を緩めてくれるかもしれないわ」


その夜、ホロフェルネスは天幕を出て夜の陣地の散歩に向かった。さっそくあの美女に手を付けたのだろうと部下たちが下種ににやにや笑うのがわからない彼ではなかった。彼はわざと、集まって酒を飲んでいた部下のもとにどっかり腰を下ろし「俺にも一杯よこせ」と言った。彼らがそのことについて噂していたのを知っての事である。
彼は驚いて会話をやめた部下の反応をひとしきり楽しむと、受け取った盃からぐびりと酒を喉に流し込んだ。月に照らされ、ベトリアを頂上に頂く山のシルエットが彼には見えるようであった。
気まずそうな雰囲気の部下たちの気配を愉快に感じつつ、彼は思った。
「(母さん……ようやく、取れますよ。貴女の仇が!)」


まんじりとも出来ない夜が明けた。ユディトはその朝、なぜ自分がここに来たかをバビロニア軍に向かって説明しなくてはならなかった。
「ベトリアが敬虔なる神の都市と呼ばれたのも、もはや昔になってしまいました……」
ユディトは真実を半分、嘘を半分織り交ぜたような話を展開した。
「貴方方の行ったことのため、ベトリアは飢えと渇きに襲われております。彼らは食べ物に困り、律法で禁じられている生き物まで食べようとし、さらには神殿に奉納したはずの小麦や葡萄酒、オリーブ油も食べようと決議しているのです。昔、エルサレムでも飢饉の訪れた時同じようなことをしたことがあり、伝書鳩でそれをしてもいいかどうか伺いを立てている所です……もしもエルサレムから大丈夫だという旨の返事が来れば、たちまちベトリアに偉大なるイスラエルの神のご加護はなくなってしまうでしょう」
実際、ベトリアがそこ前上渇き苦しんでいるのは本当だ。ともすれば、今頃本当にそうなっているのかもしれない。
「どうぞ、貴方方の追放したアキオル将軍の言葉を重く見てくださいませ。我々イスラエル人は、常に神の加護で買ってきました。裏を返せば、神から見放された時、我々は常に負けてきたのです。しからば、その隙をつくのが得策でありましょう。ベトリアから出る情報をすべて、お見張りください。それまで、進軍のご予定はなさらない方がよろしいかと思います。ベトリアに、まだ仮にも神のご加護のあるうちは……」
とにかくも、まずは時間稼ぎの口実が必要だとユディトは思った。ホロフェルネスを説得できる時間も伸びるし、ともすれば雨が降ってくれるかもしれない。いずれにせよ、今すぐにベトリアに攻め込める状態になっているバビロニア軍を食い止めないことには何もならない。
ただ、こんな口実が通用するか、とは思っていた、イスラエルの神を基準に語っても、彼らはイスラエル人ではないのだし、異教徒の戯言と流されてしまう可能性が高いこともユディトはよく分かっていた。ユディトはそのことも感じ、付け足すように「無論のこと、バビロニアの王ネブカドネザルさまは世界を支配なさるお方でございます。私はイスラエルよりも彼を敬愛しております。なればこそ、このように言うのです……」と言う。
だが、反応は意外にも、その後半の付けたしを除いても好評だった。
「ユディト殿、あなたはその美しさに釣り合うほど、頭もよいお方のようですな!」
そう言った老人は、バゴアスと言う名前だった。ホロフェルネスの身の回りの世話をする宦官だった。
「まあ……お褒めに預かり光栄です」
ユディトはぺこりと頭を下げる。だが、その次にバゴアスが何の気なしに言った言葉に彼女は凍りついた。
「いや、なんのなんの!戦の敬虔もないであろう女の身のうえ、たった昨晩ここについたばかりなのに、あのホロフェルネス将軍と全く同じ策を言っておられるのですから」
「……ホロフェルネス、将軍、も……?」
「ええ」バゴアスはやはりこともなげに言う。
「アキオルは追放されましたが、彼の言葉に思うところがあったらしくてですね、ベトリアの住民がすっかり神に見放された、と言う証拠が出るまで、ベトリアには攻め込まない、と」
ユディトはそれを聞いて、何か嫌な予感がした。
「鳩はよく見張らせましょう。しかし、他に手立てはない者ですかな……」と、別の軍人が呟く。ユディトはすかさず言った。
「そ、それならば、私に毎晩、お祈りをする許可をくださいませ。イスラエルの神は私に預言を授けてくれるやもしれません……」
「過去の偉大な預言者、サムエルや、エリヤのようにか?」
先ほどから一段高い椅子に座り、足を汲んで話を聞いていたホロフェルネスがようやく口を開いた。
「あ……ええ、はい」
「エリヤはたしか、異教徒を一度に四百五十人も殺したのだっけな。お前も同じことをするか?ベトリアの女」
ホロフェルネスはユディトに冷たくそう言った。ユディトが答えに窮していると、彼は代わりに口を開く。
「冗談だ。お前にそんなこと、できるわけがなかろう。祈りたいなら勝手にしろ、止めはせん。万が一その神の預言が下ろうものなら、すぐ我々に報告しろ。忘れるな、お前は我々に投降した身だ」
「はい……それはもちろんです」
「そのバビロニアへの忠義心さえ忘れなければ、俺たちはお前に危害は加えない。お前はそれほど美しいのだ、わが偉大なる王、ネブカドネザルへの良い土産になるだろう」
彼はそう言うと、次に自分の兵隊たちに向かって「聞いての通り、俺はこの女を戦が終わり次第ネブカドネザルさまの女奴隷として献上しようと思う、異論のあるものは?」と重々しい声で言った。誰からも異論などは出ず、満足したようにホロフェルネスは笑った。
「よし、それでよいだろう。それでは貴様ら、今日もベトリアを包囲せよ。鳥一匹でさえ、ベトリアから出る者は用心し、撃ち落とすのだ」
ホロフェルネスの命令に、兵達は散り散りに散っていった。


ユディトが天幕に一人いると、そこに訪問するものがあった。ホロフェルネスだった。
「お前がただ命惜しさに降伏なんぞするはずはない」
ミルツァが抗議の声を上げようとする前に、彼はそう言った。
「お前は、俺に用があってきたここに来たはずだ。そうだろう?おそらくは……和平の申し込みだな」
ユディトは、その言葉を聞いて、しずかにうなずうとミルツァに外に出て行くよう命じた。彼女も女主人の命令とあらば、それに従わないわけにはいかない。彼女は出て行った。


「さて……久しぶりだな、ユディト。ざっと十五年ぶりだ」
ミルツァもいなくなり、正真正銘彼らだけになった空間で、ホロフェルネスは言った。
「……なぜ?」
「何がだ?」
「なぜ、私が……命惜しさに降伏などしない、と?」
「当たり前だ、『ベトリアの天使』がそのようなことをするか?……お前は、異教徒の親子は見捨てられても、イスラエルの民とベトリアだけは捨てられんさ。だってお前は、そう言うやつだからな」
彼は彼女をあざけるようにそう笑って見せた。
「ホロフェルネス!あの時の事は……!」
「ユディト、一言言っておくがな、俺は断じて和平なんぞ結ぶ気もないし、この15年間、ベトリアに対する恨みを忘れた日なんぞありはしないぞ」
それに対しては、ユディトは「なぜ」とは言い返せなかった。その代り、こう言った。
「……私の、ことも?」
ホロフェルネスはその言葉に、刃物で切りこむように即答した。
「当然だ、この売女」
その言葉に、沈黙が流れる。ユディトは「……あのときは……」と言おうとした。だが、ホロフェルネスは淡々とこう言った。
「お前も女の端くれなら、想像できるだろう?着の身着のまま、後ろ盾も何もない、何をしてもどこからも文句の飛ばない弱い女がいたとしよう。身を守ってくれそうなものは年端もいかない小僧一人だ。それで……荒くれ者の砂漠の遊牧民に見つかった時、一体彼女はどんな扱いを受けると思う?」
ユディトはその問いに、目を白黒させた。ホロフェルネスは悔しげに吐き捨てる。
「……俺の母の身に起こったのは、そう言うことだ!」
彼はユディトに怒鳴りつけた。
「半年も、母さんは生きていられなかった!砂漠の遊牧民たちにさんざん傷だらけになるまで、死ぬまで、犯され続けたんだ!ラクダや羊と全く同じ、体力ばかりは無駄にある彼らの性欲処理の道具にされて!俺は、それを見ているしかできなかったんだよ!俺も一緒に奴らに犯されながらな!」
ユディトはめまいがした。「で、でも……」と、それでも、彼女は言おうとした。ベトリアは、マナセは、悪気などなかったのだ。それに、十五年前は存在してすらいなかったベトリアの子供たちすら一緒になって苦しんでいるのだ。彼女はそう訴えようとした。だが、ホロフェルネスはそんな彼女の言葉を遮るようにまくしたてた。
「ユディト。胸に手を当てて考えてみろ。その、金だけはある汚い老人にさんざん吸われただろう胸にな。……偉大なる帝王ネブカドネザル様が和平を結んでやるに値するほど、ベトリアと、そしてユダ王国は、大した国なのかどうか?それで分かるだろうよ、お前が来たことがいかに無意味か。……本当は、お前なんぞ偉大なるネブカドネザル様に献上する価値もない。あのお方はお前には高貴すぎるさ。俺は今にでも、飢えた遊牧民共の間にお前とお前のあの姫様気取りの女奴隷を裸にしてほっぽり出したいくらいさ、お前たちが俺の母さんにしたようにね」

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feat: Judith 第二話


《一日目》

黄昏時になって目の前に現れたユディトの姿をいて町の長老、オジアにカブリス、カルミスは驚いた。ここ三年間喪服にしか身を包んでいなかった彼女が、香油を塗り、豪華なドレスに身を包み、丹念にすいた髪の毛にはいくつもの髪飾りをつけ、美しい靴を履き、アンクレットに腕輪、指輪、イヤリング、付け得る装飾品は余さずに見つけていたからだ。彼女は、彼女のできる最高の装いをし、ベトリアの城門の前に現れた。どんな男でも、これほどの美女に心を惑わされぬことはないだろう。そうとすら思える装いですらあった。
ただでさえ美しい彼女がこうも美しく着飾って、彼らは感嘆した。
「ユディト殿、神様が貴女と、このイスラエルを祝福してくださるように」彼らは言った。
「ええ……ありがとうございます。さあ、城門を開け下さい、長老様。……貴方方の言葉を、私が成就させるために」
その言葉を最後に、ベトリアの城門は開かれた。貴婦人の装いになったユディトは、バビロニア軍への大量の贈り物、ワインにオリーブ油、煎り麦、干しイチジク、上質のパンなど……を持ったミルツァと一緒に、たいまつの光を頼りに山を下り始めた。

「ホロフェルネスに簡単に会われてもらえるとは思いません。ただ和平のために来たと塀に言っても、その場であしらわれるのが落ちでしょう」彼女は言った。「……良いこと。表向きは、私たちは、ベトリアを裏切ったという体にしましょう。そうすれば、彼らは私たちを油断し、将軍のところにも案内してくれるかもしれません。お前にまで、それに付き合わせるのは酷なことですが…」
「いいえ、奥様。私は信仰と貴女のためなら、どんなことでも怖くありません。たとえ、自分自身の心を裏切ることでも」
ミルツァはそう笑顔で答えた。事実、その算段の方が公算が高いように思われた。彼らはユディトの美貌の前に、簡単に油断するはずだ。

やがて、彼女たちが歩いていると、バビロニア軍の陣地についた。
彼らはやはり、ユディトを見て一瞬、びくりとすくんだ。彼女の美貌の故にだろう。だが、彼らは少しした後落ち着きを取り戻し「止まれ、貴様は何者だ」と言った。
「兵隊さま。我々はベトリアのものです。貴方方に降伏すするため、侍女とともに町を抜けてまいりました」
「降伏だと?」
「はい……皆様。どうか私に、道案内をさせてくださいませ。私は貴方方が抑えた道よりももっと良い道を知っております。それを教えますから、どうぞ、私たちの命だけはお救いになってくださいませ」
高貴な女主人が下賤なバビロニア兵にそんな口をきいていることに、ミルツァは激しい不快感を持った。しかし、これもユディトのためだと思えばこそ、彼女も跪き、同じように彼らに懇願した。
彼らはしばらくの間話し合っていたが、「分かった。我らとともに山を下りるがよい。我らの将軍、ホロフェルネス閣下に判断を仰ぐためだ」と言った。彼女たちは、百人ばかりの兵に護送され、山を下って行った。


山を下り、バビロニア軍の陣営を通り過ぎる間、ずっとミルツァは女主人に向けられる視線に敵意を持っていた。彼女の立派な人柄を知るベトリアの民ならいざ知らず、彼らにとっては降ってわいたこの上ない美女でしかないのだ。そのような視線を向けることにも無理はなかろう。だが彼女は、やはり、優しいユディトが侮辱されているような気がしてたまらなかった。
やがて彼女たちは、とある立派な幕屋に案内された。「将軍閣下」と、一人の兵が言った。。
「どうした?」
幕屋の中から聞こえてきた声に、ミルツァは驚いた。将軍と言うから年のいったものだと思っていたのに、意外と若い男性の声だったのだ。
「ベトリアの女が二人、我らに降伏し、道先案内をしたいと申しております。どうぞ、ご判断を」
そう言うと、静かに彼が起き上がる音がした。そして、足音とともに、豪華な銀色の燭台を何本も点し、非常に明るい天幕の光が現れ、その中から将軍ホロフェルネスが姿を現したのだ。

ホロフェルネスの姿は、またもやミルツァを驚かせた。彼はその声にたがわず、若かった。多く見積もっても三十ばかり、ユディトと同じくらいだろう。そして、彼はぞっとするほど冷たい美貌の持ち主だった。顔かたちは非常にスマートで、しかも、それに不気味なほどの冷やかさをたたえていた。長いまつげに縁どられた鋭い目が、二人を見ていた。
ミルツァは最初、彼もまた女主人に彼の部下たちが向けていたような下品な視線を向けるのだ、と思った。しかし、どうも勝手が違った。彼は石のように冷たく、固い表情を解かないまま、ただ二人を見ていた。
「入れ」
彼は何も聞かず、短く彼女たちにそう言った。
その言葉に怯むミルツァを期にもせず、彼は言った。
「入れと言ったんだ、俺の天幕にな」
彼がそう言って、明るい天幕の中に自分は踵を返して入っていく。「ミルツァ、行きましょう」というユディトの声に従って、ミルツァも入った。そして、彼女たちを護送していた百人ばかりの兵にはこう言った。
「お前は結構だ。俺は、この女たちだけと話す」
その言葉を聞いて、兵のリーダーは「……承知いたしました、閣下。それでは」と一応は軍事然とした態度で言う。だが、その中には確かに、少しばかりの冷やかしも混ざっていた。他の兵たちすらも、ああ、つまりそう言うことか、と笑っているようにすらミルツァには思えた。
ホロフェルネスは先ほどまで自分が休んでいたのであろう紫布を敷いた寝台の上にどっかりと腰かけるると、ユディト達が口を開く間もなく、次の言葉を言った。
「来ているものをすべて脱げ」
彼は全く淡々と、そう言ってのけたのだ。

その言葉に、いくらなんでもミルツァが素直に従えなかったのは当たり前だろう。「なんですって!」と彼女は声を上げた。
「脱ぐんだ」
だが、彼の言葉は変わらなかった。彼はその大理石のような硬い表情を崩さないまま彼女たちに告げる。
「言うに事欠いて……貴方達の兵隊もそうだったけど、私たちを何だと思っているの!私たちは売春婦じゃない!」
「むしろ貴様こそ、自分たちを何だと思っているんだ?」彼は言い返した。「ここはベトリアじゃない。バビロニア陣営だ。貴様らがベトリアでどんな身分だったかは知らんが、ここでは売春婦以下だ」
「なっ……」
「降伏とはそう言うことだ」
「お……お前みたいな男なんて!」
頭に血の上ったミルツァの肩に、ふと、柔らかい手が置かれた、ユディトの手だった。
「ミルツァ……脱ぎましょう」
「お……奥様!」
「彼の言うことの方が正論です」
そう言ってユディトは、恐る恐る、静かに飾り帯をほどいた。そして。全身に付けた宝石を取り……静かに、全身に纏ったドレスを脱ぎ始めた。敵の将軍が見ているその前で。
ミルツァは怒りと屈辱に気が狂いそうであった。しかし、自分の女主人がしているのに、まさか侍女である自分がしないなどと言うことはできない。彼女は悔しさに震えながら、自分も服を脱いだ。天幕の中に大量に置かれた燭台の明かりに、二人の裸体が照らされた。
やがてユディトが何も言わないうちに、ミルツァが言った。
「ぬ……脱いだわよ、これでいいでしょ」
だが、ホロフェルネスはあい変わらずの冷徹さを持って、彼女たちにこう告げた。
「俺は全て脱げ、と言ったのだ。何故貴様ら、腰巻を残している」
「……」
ユディトは黙っていた。ミルツァは、彼女は周知の屈辱のため言葉が出ないのだと判断した。
「……いい加減にして!」
「いい加減にするのは貴様だ。貴様は姫君扱いをされにバビロニア軍に来たのか?先ほどから、大層な態度だな」
両手で必死に上半身を隠しながら、ミルツァはホロフェルネスに抗議した。だが、ユディトがぼそりと呟いた。
「……従いなさい、ミルツァ。私達は、その覚悟はあったはずです」
「奥様……」
パラリと、ユディトの腰巻がほどけ、彼女の秘所があらわになった。それを見て、ミルツァは惨めさや悔しさに涙をこぼした。
地獄に落ちてしまえ、こんな下種なバビロニア人なぞ。そう心の中でホロフェルネスを呪い、彼女は自分の腰巻もほどき、全裸になった。
それを見届け、ホロフェルネスはゆっくりと座っていた寝台から立ち上がり、まっすぐにユディトとミルツァのもとに向かった。そして、二人の体など一切興味を示さずにかがみこむと、二人の来ていた服をつかみ、探り始めたのだ。
ミルツァははっとした。やがて、彼がミルツァの着ていた服の中から一本の短剣を見つけたからだ。
「……用意がいいな」
彼はそれをミルツァに見せびらかしながら言った。
「ミルツァ!?」
ユディトは驚いて彼女の方を見る。それはそうだ。ユディト自身は武器など持っていくつもりはなかったのだから。
彼は彼女たちの残りの服をみんなミルツァが持ってきた手土産の袋にぶち込み、代わりにそばに置いてあった石造りの箱を指さして「その箱に奴隷用の服がある、それを着ろ」と告げた。
「貴様らはバビロニア陣営に居る間、イスラエルから持ってきたものは一切合切に身に着けることは許さん。……いつまでそんな見苦しい恰好をしている?バビロニア将軍の前で」
彼は裸のユディトとミルツァに蔑むような視線を送ると、自分は彼女たちの服と手土産の持った袋を持って天幕の外に出た。
「これを灰になるまで燃やせ」彼が言う声が天幕の中から聞こえた。
「ベトリアの民のものだ、何を仕組んでいるかなど分かったものではないからな」

奴隷の服を着たユディトを見て、ミルツァは「……奥様!」と、言葉にならないうめきを上げた。
「仕方がありません。ミルツァ。……それより、何故勝手に、武器など持ってきたのです」
「だって、だって……」
バビロニア軍に行くにあたって、少しでも無防備でいることなど彼女にはできなかった。いや、あわよくば、そのホロフェルネスを隙を見て殺してしまえればベトリアは救われる。そんな思いすら、彼女にはあったのだ。
彼女は、イスラエルに対する誇りを捨てきれなかったのだ。彼女はそこまで、ベトリアと、民族に強い誇りを持っていた。
だが、ユディトの咎めるような視線の前に、ミルツァは謝罪の言葉しか出てこなかった。
「……ごめんなさい」
「謝る必要などない。持っていようといまいと、どうせ俺は貴様らを味方としては見ないからな」
気が付けば、ホロフェルネスが戻って来ていた。
「ひとつ言ってやろうか。俺はお前たちなどこれっぽっちも信用しないし、油断もしない。貴様ら、少しでも特別扱いをしてもらえると思ったら考えが甘いぞ」
これっぽっちも信用しない。油断もしない。それは、先ほどの行為でも明らかになった通りだ。彼は周囲のバビロニア人とは、明らかに違っていた。色欲故ではなくただ自らの身の安全のため、彼は彼女たちに恥辱を与えたのだから。その証拠に、彼は少しでも顔色を変えず、服をまさぐる間、ちらともこちらに視線を向けず、裸になった自分たちに鼻の下を伸ばすどころか侮蔑の視線すら与えたのだから。
「馬鹿な兵隊どもがどう思おうと」彼は冷たく、美しい……そう、まるで、ユディトに匹敵するのではないかと言うほどの美しい顔で、ユディトに向かって言った。
「俺は今さらお前の美貌ゆえに心を緩めたりなどせん……お前にも分かっているだろう。ユディト」
ホロフェルネスはそう言った。
彼がなぜ自分の女主人の名前を知っているのだ?ミルツァは混乱した。自分たちは彼の前では名乗らなかったはずだ。名乗る時間もなかった。なぜだ?それに……「今さら」とはどういう意味だ?


彼女たちに割り当てられた粗末な天幕の中で、ユディトはミルツァに言った。
「……変だとお思いでしょうね。ミルツァ。あの将軍、ホロフェルネスのことを」
彼女はミルツァが当より早く、話を切り出したのだ。
「は、はい……」ミルツァは素直に答えた。
「なんで彼が私の名前を知っているのか。なんで私が彼の事を気にしていたか……それに、なんで彼が、ベトリアの攻略法を知っていたか、すべてお前に教えるわ。ミルツァ。私達は、ここまで来てしまったんですもの」
一本だけ照らした蝋燭の光のもと、ミルツァの女主人は語り始めた。

「ホロフェルネスは……あの人は、お前が生まれる前の話になるけれども、ベトリアに住んでいたの。そして……私と、あの人は、愛し合っていたの。心の底から、誰よりも……愛し合っていたの。でも……ベトリアと、そして、私は、あの人をまるでごみくずをそうするように、捨ててしまったのよ」

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feat: Judith 第一話


バビロニア帝国にはユダヤ人居留地がある。そこで、一人のユダヤ人の老女が息を引き取った。
彼女の周囲の人は、まるでバビロニアの帝王が死んでもこれほどまでには悲しまないだろうと言うほど悲しんだ。彼らにとって、彼女は英雄であった。この世で最も天使に近い存在がいるとするのならばそれは彼女であると、誰もが思っていたのだ。
彼女の名前はユディトと言った。
百五歳にも及ぶ大往生、彼女の天使の人生は幸福に満たされたものであったと誰もが思っただろう。だから、彼らはまさか思うはずも無い。棺桶に隠された彼女の表情が、苦しみに満ちたものであったと。いや、数少ないそれを知っていた医者なども、ただ単に病の苦しさゆえの苦悶の表情だと思ったことだろう。
だが、そうではない。ユディトは何十年もの間、苦しんで生きてきたのだ。彼女が何に苦しめられたか。それは、罪悪感だった。天使のような女性に罪などあるはずもないと誰もが思っていただろう。だが、彼女は死の寸前まで、罪悪感に悩まされていたのだ。

どのユダヤ人も知り得なかったことの真相を、今一度、ここに語る。


《前日》

彼女は、ベトリアと言う要塞都市に生まれた。ユダヤ人の住む都市で、ユダ王国きっての要塞都市であり、イスラエルの神と、偉大なるダビデとソロモンの系譜に連なるユダ王への忠誠心を忘れない都市だった。
それは、ユディトが三十ばかりになったころの話だった。ベトリアに、ある衝撃的なニュースが飛び込んできたのだ。
「バビロニア王ネブカドネザルの軍が、こちらに向かっております。貴方方もご存じでございましょう。ネブカドネザルはメディア王アルファクサドと戦をし勝利しました。しかし、その際に彼は諸国の王や知事に援軍を求めたにもかかわらず、誰も彼の味方には訪れなかったのです。と言うのも、貴方方も当事者ですからよく知ってはいるでしょう。ネブカドネザルの力をあるものは侮り、またあるものは所詮異教徒の戯言に協力などするかと彼をないがしろにしたからです。しかし、ネブカドネザルはそのような状況でも戦に勝っていしいました。……ええ、もうお分かりでしょう。なぜ、ネブカドネザルがこのところ戦を仕掛けに仕掛け、小さな国や街をいくつも滅ぼしているか?全ては報復のためなのです。自らを侮りプライドを傷つけた罰を、ネブカドネザルは与えているのです。申し上げます、敬虔なるユダヤの民、ベトリアの方々。今まさに、その一隊が、ベトリアに向かってきております。貴方方の属するユダ王国の民も、例の際に、ネブカドネザルの頼みを蹴り、彼に侮蔑の言葉すら与えたからです」
そうまくしたてたのは、アンモン人の将軍、名をアキオルと言った。彼は、高い山の上にそびえたつ都市であるベトリアの近くに、何者かに酷く殴られ、しばりつけられていたのだ。
話しを聞いてみれば、彼はその当のネブカドネザルの軍隊に居たものの、ユダヤ人を討ち滅ぼすのは無理ではないか、という進言をした所、いたくその軍を率いていた将軍の心を害して、その見せしめにこのような目にあったらしい。そこを、ベトリアの住民に保護されたのだ。
「私は生まれ育ちはアンモン人でありますが、それでも、貴方達に敬意を払うものでございます。どうぞお慈悲を」そう語り、ボロボロの体で深々と頭を下げる彼を、ベトリアの長、オジアにカブリス、カルミス、めいめいは無論の事歓迎した。
「無論の事です、アキオル殿。我々は貴方を歓迎いたしましょう」
「ありがとうございます」
そのような話をしている頃には、ベトリア中のめぼしいものは集まって彼の話を聞いていた。このベトリアの危機の鍵を握っている人物の言葉でもあるのだ。
「このご恩は忘れません。私の知っている情報ならば何でもお話いたしましょう、お慈悲ある貴方方の町が滅ぼされることがないように」
「それはありがたい。では……ネブカドネザルはどのような陣営を持ってここに向かっているのですかな?」
そのことがにアキオルは息をのみ、話す。
「バビロニア人だけでも歩兵が十二万、騎兵は一万二千でございます。また、これまでに起こした数々の戦の結果多くの連合軍がネブカドネザルに慌てて媚びた結果後から従い、今やその数はとてもとても数えきれないほどに膨れ上がっております。彼らを統べるは、ネブカドネザルより、このたび、特別にベトリア討伐を命じられた将軍……その名を、ホロフェルネスと申します」
「えっ、ホロフェルネス……」
「大国同士の戦ならさておき、貴方方のベトリアがいくら要塞都市とは言えど、とても数の上ではかなわぬ人数です」
苦虫をかみつぶしたような顔でそう語るアキオルに、オジアはあくまで落ち着いた態度で続ける。
「ああ、無論のこと、そのことは存じておりますとも、アキオルどの。実は、貴方から賜った情報ほど詳細では無かれど、実は我々も、エルサレムにらっしゃる大祭司ヨアキム殿と長老会議の皆様より、不埒なバビロニア軍側がベトリアに向かってきているという情報は受け取っておったのです。かの方々は……有難いことに、我々に援軍を送り、また、策を授けてくださいました。このベトリアは、山の上に立つ都市。狭い山道には二人も一度に渡れぬ代物です。そこを封鎖せよ、と。さすればバビロニア軍は身動きもとれなくなるであろう、と。我々は夜が明け次第、さっそくその作戦に取り掛かるつもりでございます」
それを聞いて、アキオルは安心したような顔で言った。
「おお、それならば安心ですな!不肖、このアキオルもその作戦に参加させてください」
アキオルはそう深々と頭を下げた。様子を見に来ていたベトリアの人々も、いったんはその策を聞いて安心し、絶望するものはなかった。
ただ、数少ない何人かは、ある名前が引っ掛かっていた。

「ホロフェルネス……」
アキオルの話も終わり命名家に帰る野次馬の中、その名を呟いたのは、若い日のユディトであった。
「どうなさいましたか、奥さま」と、彼女の侍女、十四歳の少女であるミルツァが声をかける。彼女は「いいえ、なんでもありませんよ、ミルツァ」と、美しい顔をほころばせ、彼女を安心させるように笑って見せた。


ベトリアの天使、ユディト。このころから、誰もが彼女をそう褒め称えた。
ユディトの美貌たるやベトリアでも並び立つものはない。髪の毛は黒々と波打ち、透き通った白い肌と悲しげそうな黒い目は彼女に相応しい上品さをもって控えめに光り輝いていた。
彼女はその時、寡婦であった。三年と四か月前に夫であるマナセを亡くしたばかりだ。しかし、彼女は世で糾弾される女性がするように、若い男との恋に溺れたり、再婚をしたがることは断じてしなかった。彼女は夫の残した財産を立派に管理し、自分は美しい体を粗末な喪服に包んで何年間も過ごした。夫の喪が本来あける期間を過ぎても、彼女はそうし続けた。その美貌のみならず、家を治める者としての責任、貞女としての忠実さ、どれをとっても理想の女性、いや、もはやそれ以上ではないかと誰もかれもが彼女を崇めたものだ。だからこそ、彼女に無理に言い寄る男などいなかった。みんな彼女を性欲を超えて尊敬していたのであるし、よしんばそんなことをすればベトリア中からの反感だって買っただろう。女性一人が生きることが難しいイスラエルにおいて、ユディトは特別だった。彼女は女一人のみで、大量の資産を管理し、家の長として生きていたのだ。

ユディトはミルツァとともに家に帰った。しかし、彼女の顔から不安感は消えないままだった。
そして、その不安感を持つのはユディトのみではなかった。あの長老たちも持っていたのだ。大多数のベトリアの住民が知る由もなく、今やオリエントを征服せんとする侵略王ネブカドネザルの高い鼻っ柱を、偉大なイスラエルの神の加護によってへし折ってやれると確信していた中、彼らだけは嫌な予感を持っていたのだ。

そして、その嫌な予感は的中することとなってしまった。


後日夜が明けて、ベトリアの民が山道を封鎖しに出かけようとした時だった。彼らを待ち受けていたのは、バビロニアの歩兵たちだった。
彼らは狼狽した。バビロニア歩兵はろくな装備もないままにバリケードを築こうとやって来たベトリアの若者たちを狙い撃ちにした。生き残った者は、アキオルを含め這う這うの体でベトリアに帰還した。
アキオルはそのことを、青い顔をして報告した。そして、その青い顔はもっと青くなることになった。ちょうどその時、オジア達は一匹の伝書鳩からの手紙を受け取っていたのだ。エルサレムからベトリアに向かう道が、あべこべに封鎖されてしまったというのだ。さらに、バリケードを必死で崩そうとしたところを、彼らはバビロニア軍に不意打ちされた。エルサレムからの援軍は壊滅し、ベトリアに援軍を送ることは無理となった、と言う旨だ。
自分達が夜が明けてからしようとしていた策戦を、バビロニア将軍ホロフェルネスは機先を制し夜のうちに成し遂げてしまった、と言うことだ。
このニュースはベトリア中を駆け巡った、昨日まで希望に満ちていたベトリア人たちが、一気にその士気をくじかれ、腰が引けてしまったのも無理はない。

「皆の衆、落ち着け!」オジアはそんな彼らを鼓舞した。
「神を疑ってはならぬ。イスラエルの民はいついかなる時も、神をないがしろにした時、危機に陥ってきたのだ。ここで神を忘れ、我々が負けるかもしれぬ、などと思ってはならぬ!ネブカドネザルは今や偉大なるユダ王国を支配下においてしまうのではないか、とうわさされているのだ。そのような者に我々がひざを折ってはならぬ。神に祈るのだ。主の前にへりくだり、忠実であれば、主は我々を助けて下さる!」
彼は必死でベトリアの住民にそう言い聞かせた。彼らも、それで一応のところ、大人しくなった。ベトリアの住民は本当に、実に神に忠実な人間たちだったからだ。
彼らは老若男女揃い、必死で神に祈った。どうか、ネブカドネザルの進行を食い止めてくれ、このベトリアを救ってくれ、と。
だが、祈りも続き昼時になった時、彼らはもう一つ、大変なことに気が付いた。

昼の食事をしようとある主婦が泉に水を汲みに行った。そして、彼女は驚いた。ベトリアに水を引く水源の泉が、バビロニア兵に占拠されていたのだ。
彼女は驚いて逃げかえり、そのことを報告しようとした。だが、もう遅かった。ベトリアの水源を、バビロニア兵は完全封鎖してしまった出しい。井戸は干上がり、泉にもバビロニア兵がいるのでまさか水汲みになど行けるはずがない。彼らは顔を青くした。このままでは、乾くのを待てって死ぬしかないではないか。
信じられるだろうか?これが、たった丸一日もしないうちに起こった出来事だったのだ。半日で、バビロニア軍はベトリアの民を完全な絶望に追い込んでしまった。
さすがにこれには、オジアもなかなか強気な言葉を言えなかった。だってそうだ。水がなくては、どうやって助かるというのだろう。
彼はそれでもあきらめず、神に祈った。きっと神が雨を降らしてくださるはずだ、皆の者、神を疑うな、と、彼は言い続けた。

だが、状況は彼の思う通りにはいかなかった。水瓶の水は徐々に底をついてきて、老人や女子供などは早々に苦しみ始めた。それと同時に、食料もなくなってきた。
「してやられたか!」オジアは苦しそうにつぶやいた。「我々の町が真正面から乗り込めるものではないと分かって、じわりじわりと我々を弱らせる気だな」
「なんということでしょうか……」彼のそばに居たアキオルも言った。「何故……なぜ、ホロフェルネスは、こうも巧みにベトリアを封じられたのでしょう?初めて見るはずの土地なのに……」
その言葉に、オジアはびくりと反応した。アキオルは不審に思い、そのことを聞いたが、オジアはろくな言葉を言わなかった。
代わりに彼が言ったのは「祈ろう。祈れば、助けていただけるはずだ」と言う台詞だった。
だが、もはやそんなオジアの言葉は、ただの数日で意味のないものとなっていたのだ。ベトリアの民は口々に、バビロニア軍に降伏すべきではないか、誇りを失っても、渇き、飢え苦しみ死ぬよりはましだ、と言い始めたのだ。

オジアにカブリス、カルミスも、もはやその言葉を無視できなくなってきていた。神への信仰が大事とはいえ、民を無駄に死なせるのは、長老たる者のするべきことではないと思えたのだ。
彼らは苦渋の決断で、こう言った。
「五日だ。ベトリアに残っている水は、五日分だろう。もしも五日たって、神が我々を救ってくださらないのならば、我々は……屈辱ではあるが、バビロニアの軍門に下ろうではないか」


「聞きましたか!?奥様」
声を張り上げてミルツァが言った。
「あのオジア様が、とうとう、バビロニアの軍門に下ろうって……」
その言葉を聞いて、ユディトも心を痛めた。オジアがいかにユダヤ民族に、イスラエルに誇りを持っていたか、彼女は痛いほどにして散るからだ。
彼女は柳眉をひそめて、言った。
「……本当に、その将軍は……ホロフェルネス、と言う男は……一瞬でベトリアを封鎖してしまえたのね」
「はい。不思議な話だと、アキオル様も言っていました。まるで、ベトリアを昔から知っているようだって……」
そのことを聞いて、ユディトの顔がさらに曇った。ミルツァはそれを見て、おそらくはベトリアの絶望の故だと思ったのだろう、「奥様、お嘆きにならないでください、奥様」と言った。
「ベトリアにはまだ希望があります、奥様……!」
「ええ、ええ、ミルツァ……」
ユディトはとぎれとぎれにそう言い、ミルツァを抱きしめた。夫との間に子供の生まれないまま夫が死んでしまった彼女にとって、ミルツァは娘のように可愛がっている存在だ。
そして、ユディトは知っている。ミルツァもまた、これ以上なく信仰に厚く、イスラエルに誇り阻持っている少女なのだ。この状況は彼女にとって、身を切られるように辛かろう。
ミルツァと長く抱きあったのに、震える声で、ユディトは言った。
「……猶予は五日、有るのですね?」
「え?」
「私は……その間、行こうと思うところがあります。ともすれば……ベトリアを、救える、かも、しれません……」
彼女はとぎれとぎれにそう言った。

「ほ」ミルツァは驚いた。「本当ですか!?奥様!」
「……ええ……ミルツァ、このことを、長老様にもお知らせしておいで。もう一刻も余裕はないもの。……早ければ、早い方がいい」
「どこに、どこに行かれるのですか、奥様!?」
「……その将軍、ホロフェルネスのところにです。私は、彼と…和平の交渉をしに参ります。仰々しく武装した兵より、私のような女の方が、逆に、敵にも心を開くやもしれませんでしょう」


そのことを聞いて、ベトリアの民たちが驚いたのは言うまでもない。ユディトのような美しい女性が、敵陣に乗り込み……そして、どうなるか、考えられない彼らではない。だが、ユディトは言った。
「たとえ、どんなことになろうとも……可能性が、そう、この進軍を止める可能性がある限り、私はその将軍のもとに出向こうと思うのです」
だが、このような決断、彼女が一番つらい上に恐ろしいに決まっている。それに、このままではどっちみち、バビロニアに降伏する以外の選択肢はないのだ。ベトリアの民はいつもの通り、その発言をユディトの天使のように広い自己犠牲の精神と思い、彼女のために涙を流し、また、彼女を敬った。もはや、反対するにもできなかった。ああ、ユディト、貴方はなんと優しいのか。彼らの心が痛むのは、その彼女の優しさゆえにであった。
ミルツァも、彼女の主人に逆らいはしなかった。彼女は数年間女主人が着ていない晴れ着や宝石、化粧道具を引っ張り出した。彼女を最も美しく飾り立てるために。
自らの体、自らの誇りの危険にも構わずに、祖国のため死地に赴く勇敢で、途方もなく心優しい天使。彼らの眼に、ユディトはそう映っていたことは間違いない。

何故なら、ユディトが出発の直前、誰もいない自分の部屋で窓から差し込む夕日を受け、布団に顔をうずめながらうめいていた言葉を、誰も聞いていなかったからだ。彼女は、自分自身でもわからなかった。和平のために敵の手中に行くのか、それとも、かの将軍に、もう一度、自分は顔を合わせたのか。
「ああ……ああ、許して、ホロフェルネス。……お願いよ。この、ベトリアを、そして、私を、許して……」

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feat: Eve 第七話


「あの忌々しい悪魔はまだ見つからないのか?」
「奴の隠蔽能力は、私たちを越しているんだわ……」
「チッ……神様を裏切ったやつらは、嫌なとこばっかり進化していくな」
「……どこに隠れていようと、見つけ出してくれる……」

空からそんな会話が聞こえてくるような気が、イヴにはした。
天使達はその悪魔の捜索ですっかり忙しそうだ。イヴは彼らに遊びをねだる気分になれなかった。無論のこと、話しかけたら笑顔で返してくれるし、彼らはイヴを鬱陶しがることなどしない。だがイヴには、今自分の事を優先してもらうのは彼らの邪魔になる、と、理由もあまりわからないがきちんとわかっていたのだ。
アダムは悪魔が入った、と言うことを聞いて、前にもまして無口になった。どこか、不安感にとらわれているようだった。
彼女はそれを慰めようとしたが、アダムは彼女に素直に甘えては来ず「……何でもない。気にするな」と言うだけだった。イヴはこれに関しても、これ以上自分が構おうとするのはかえってアダムにとって鬱陶しいだけではないか、とぼんやりとわかった。それに、アダムがイヴに対して素直でないのは今さらの話だ。

それに、イヴは一人ぼっちになったわけではない。なにしろ、新しく出会えた友達との交流が、今の彼女にとっては楽しいのだ。
「サマエル!」
彼女はいつもの通りサマエルのいる密林に入り、キノコが大量に生えた道を通りながら彼の名前を呼んだ。両手には、大量の果物を抱えていた。
サマエルの返事は帰ってこない。もっと彼のそばに行かないとだめなのだろうか。イヴは彼のいる木のうろに向かって歩みを勧めた。
ここは本当に静かだ。あの日川をさかのぼってみたエデンの園の中心部ほどではないが、それでもエデンの園の、他の場所からは隔離されたような印象を受けた。
上を見上げてみても、光はわずかに粒上に差し込むだけで、その上を飛び回る天使など見えもしない。
それでも、ここにはここなりの美しさがある。イヴはそれを良く分かっていた。色とりどりに咲き誇る花の代わりに、丸く可愛らしい、これまた色とりどりなキノコが今日もイヴを出迎える。彼女はその中の、赤く白い斑点のついたものに目を付けた。
これは特に、見れば見るほどおいしそうに見える。林檎に勝るとも劣らない綺麗な赤色は、果物と同じような美味しさがあるのでは無いかと言う思いを彼女に持たせた。彼女は片手でそれを一本収穫すると、再び歩みを進める。ほどなくして、サマエルのいる木のうろが見えた。
「サマエル、こんにちは!」
うろのなかでぐったりと寝そべっていた彼に、イヴはそう無邪気に声をかけた。彼も、「……ん、ああ、こんにちは」と手持無沙汰そうに声をかけなおした。

「じっとしてた?」
「してたよ……あのな。本当に、こんな翼勝手に治るって言ってるのに……」
面倒くさそうにそう言い放つ彼は特に意に介さず、イヴは手に置いた荷物を地べたに置くと彼の翼に縛ってあった草の蔓をほどいた。彼の翼は確かにもう治りかけていて、しっかりと元の形を取り戻しているように思える。
「良かったわね!もうすぐ治りそうじゃない!」
「……治るって言ってるだろ」
彼は少しアダムに似ている、と、どこと話にイヴは思った。要するに少し照れ屋なのだ。なかなか素直にありがとうと言えない。アダムの事もあるものだし、こういうものだろう、とイヴは受け止めた。
「ラファエルや蛇さんがね、貴方が弱らないように食べ物を上げないといけないって言ったから、たくさんとってきたわよ。どれがいい?」
次に彼女は、自分が持ってきた数々の果物を彼の目の前に並べる。だが、彼女の意向に反して彼はそれらに冷ややかな目を向けた。
「別に……俺は食っても食わなくても同じだ」
「そんな……食べなきゃ元気でないよ?」
「……チッ!うるさいな……お前、ほんとに……」
サマエルはそう言って、イヴを睨みつけた。
「どうせ……どうせ、俺をとらえようとしてるんだろ?正直に言えよ!何が友達だ!俺に友達なんてできるわけないだろ!」
彼はそうまくしたてる。しかし、イヴにとってはやはり、そのことはまだ理解のできることではなかった。エデンの園に住むものは、皆友達なのだ。
アダムや天使たちのように、精神的に忙しいだけなら放っておくこともできるが、彼のように明らかに体に傷を負っているのに見殺しにすることは、さすがにできない。それは友達にすべきことではないと感じる。だからこそこの密林に一人通い詰めているのだ。
それなのに、彼はそもそも、自分とイヴが友達と言う大前提から崩しにかかる。天使達や蛇はもちろん、言葉は通じねど動物たちも皆イヴには友好的に接してくれる。リリスだって友達と言ってくれたのだ。イヴにとって、友達であることを否定されるというのは初めて会う予測不可能な出来事だった。
「とらえようって……何でそう考えるの?そんなの、してないわよ!ねえサマエル、知らないの?」
「は?なにを?」
「今ね、このエデンに悪魔ってのが入ってるのよ。だからすごく危険なの。貴方、そんな怪我したまんまで悪魔に襲われたら大変じゃない!」
「……」
彼はそれに対して無言のまま、ため息だけを一つついた。イヴはたくさん持ってきた食べ物を指さして「お願いだから食べてよ、弱っちゃうじゃない」と彼に言った。
彼はじっとりした目で、その中から赤いキノコを取り出す。イヴはようやく彼が食べてくれる気になったと思ったが、彼はその手を彼自身の口に運ばず、代わりにイヴの口元に運んだ。
「毒見しろよ」
彼はそう言って、にやりと意地悪に笑った。彼の笑い顔を見るのは、これが初めてだった。
「え?」
「俺のこと心配してんなら、それくらいできるよな?これに毒が入ってないか、お前が喰って確かめろ」
毒という言葉も、イヴには耳馴れなかった。しかし今はそれを聞くよりも、サマエルに食べ物を食べさせることの方が先決だ。とにかく自分がこれを食べさえすればサマエルも食事してくれるらしい。
「うん、わかった!」
イヴはそう言って彼の手にあるキノコを取って、彼が「え……」と言った瞬間に、その赤い帽子に歯を立てた。
キノコを食べるのは初めてだ。これはどんな味がするだろう。イヴがそう、赤いキノコを味わおうとした時だった。イヴの体に衝撃が走り、イヴの口はその赤い傘を吐き出した。
「ば……バカか、お前!?それ、毒キノコだぞ!」
サマエルが彼女を叩き、キノコを吐き出させたのだと分かった。
地べたに彼女の唾液のついたキノコの傘が転がり落ちる。サマエルは彼女の手から残りのキノコもひったくって「……本気で知らなかったのか?」と聞く。
「……何言ってるの?」
「お前、毒を食うところだったんだぞ、ってことだよ!」
「毒って何?」
まだ状況は呑み込めないが、ようやくこの疑問を呈することができた。
「……食ったら体に悪いものの事だよ!」
「そのキノコ、毒なの?」
「そうだよ!見て分かれ!」
見て分かれ、と言っても当のキノコは林檎のように鮮やかで真っ赤で、果物を品定めする基準から言えば十分合格点のように思えた。果物とキノコは違うのだろうか。それはおいおい学ぶとして、今ここでサマエルに言わなければならないことがあるのを、イヴは知らないではなかった。
「サマエル!あの……毒、持って来ちゃって、ごめんなさい!」
悪意があるわけではないが、彼に食べてくれと毒を差し出してしまったのだ。好ましい好意ではないだろう。
イヴは深く頭を下げる。サマエルはそれに対し「……別に、どうでもいいよ」と渋い顔で言った。
「あの、でも、貴方に毒を食べさせようって気はなくて……この、この林檎とかすごくおいしくて、貴方にも……」
イヴは必死で弁解しながら、サマエルの前に彼女の大好きな赤いリンゴを差し出す。これも断られるだろうか。毒が体に悪い者ならば、林檎は毒に当てはまらないことはイヴはよく知っているのだが。
サマエルは相変わらずじっとりとした目でそれを見ていたが、やがて手を伸ばして「分かったよ。貰えるもんはもらっとく」と林檎を彼女の手からかすめ取った。そして、その非常に薄い唇に隠れた歯でそれをかみ砕いた。
イヴはそれを見て、嬉しくなった。
「美味しいでしょ?」
「あー……まあまあな」
イヴはそう言うサマエルの背中の翼を固定し、また巻きなおした。サマエルはその間、無言でイヴの持ってきた食料を食べていた。
「イヴ」
「なに?」
「……ありがとう、うまいぞ」
「どういたしまして!たくさんあるから、ゆっくり食べてね」



その日、サマエルと別れてから、イヴは蛇のもとにどのような食べ物には毒があるのかを教わりに行った。
そのことを聞かれた蛇は非常に怪訝そうな顔で「なんでお前がそんなこと聞くんだ?」と言ってきた。
「アダムや、天使たちが、十分毒じゃないものを教えてくれるだろ」
それはそうだ。しかし、イヴはサマエルに毒を持っていってはならないという思いはもちろんのこと、もう一つ、自分に関する恐怖もこころの中に芽生え始めていた。
「でも……私が新しく食べようとしたものが、毒だったら、困るもの」
イヴのその答えに対して、蛇は嘆息して「……お前は、本当に、新しい事が好きだな」と言った。
「悪い事なの?」
「一概にそうとも言えないさ。もったいないって言う気はするがね」
「どうして?」
「……ここが、エデンだからさ。お前たちが何も考えなくても、何も学ばなくても、永遠に、幸せに、生きていける場所なんだ。……それは、物凄く、幸せなことなんだぞ」
蛇の口調はどこか悲しげであった。
「……エデンじゃない所ってあるの?」
「あるよ」
「蛇さんは行ったこと、あるの?」
「ああ」
蛇は小さい頭をコクリとうなずかせて返事する。
「学ばなくてはならない世界なんだ」
蛇はゆっくり頭を上げた、彼は、エデンの外を見ようとしているのだろうか、とイヴは思った。
「幸せをつかむには、学ばなければならない。行動しなくてはならない。そういう世界だ。……そして、それはおそらく、エデンにある幸せからは程遠い」
蛇はエデンの外で何を見てきたのだろうか。イヴはそう思った。彼女は、蛇に悪いことを言ってしまったのかとうつむいたが、彼の方がそんなイヴを見て、気を取り直すように言った。
「まあ、いいさ。毒くらい。教えてやるよ。でもな、イヴ、そんなになんでもかんでも自分でやろう、覚えようとせずに、もっと率直に俺たちに頼って、甘えたっていいんだぜ。それだけの話だ」
「本当!?」
イヴもそれを聞いて、パッと顔をほころばせる。
「ありがとう、蛇さん!」
「なあに、お安い御用さ」
蛇はにやりと笑って「エデンには毒もたくさんあるからな、どれから説明すればいいやら」と言った。
「今日中じゃなくてもいいの、何日かかっても」
「分かったよ、じゃあ今日は、たぶん一番危ないだろう毒になる草について勉強するか」


イヴのいなくなった密林で、サマエルはイヴの残して言った食料を手持無沙汰にむしゃむしゃ食べた。
「……俺は獣じゃねえんだ。こんなもん食べたって、どうにもならんと言うのに……」
そうぼそぼそと独り言を言いつつ、彼の視界には地べたに転がった、イヴが吐き出した毒キノコの破片が入る。彼はそれを拾い上げ、ぽいと口の中に放りこんだ。そしてそれも咀嚼して食べる。
「……毒だろうと毒じゃなかろうと、関係ねえしな。生き物じゃないんだからよ……」
そうは言いつつ、サマエルは手が止まらないようだった。生き物一匹いない密林の中、彼の咀嚼音が響いた。
「なのになんで、俺は食っているんだ……?ばかばかしい……ルシファーさんなら絶対こんな無駄なことしねえってのによ……ましてや、『人間』に恵まれたものを」
彼は背中をいじってみた。羽は大分回復しているようだった。


その夜の事だった。イヴは目が覚めた。
リリスが呼んでいるのだろうか?と思ったが、リリスの歌声は聞こえない。その代わりに自分を起こした声は、リリスの歌とは似ても似つかない、苦しそうなうめき声だった。そしてそれは、自分のすぐ隣から聞こえてくるのだった。
「アダム……?」
月明かりに照らされたのは、寝ながらうめいているアダムだった。その表情は、苦悶に満ちていた。
彼の顔は真っ赤になっていて、息はハッハッと早く、多すぎるほどに吐いていた。吐きすぎて息が苦しいようだった。体中ががくがくと震えていた。
アダムが何者かに苦しめられている、と言うことをイヴは分かった。彼女はそれまで、悪夢と言うのを見たことがなく、またうなされるという行為も知らなかったためそれであるとは分からなかったが、アダムが危険なのはわかった。
イヴは慌ててアダムのそばによる。彼女はぎょっとした。大量の汗をかいていて、彼の体は余すことなくじっとりと濡れていた。
「アダム、アダム、大丈夫!?」
彼女はそう言ったが、彼には聞こえていない。彼は寝たままパニックになりながら、うめいていた。
「悪魔……」
彼の手がぴくぴくと動く。何かを拒絶したがるように。
「来るな……いやだ、いやだ、助けて……」
いつものアダムではない。いつもの、不愛想で不器用ながら、それでもしっかりとしたところのあるアダムではない。目の前の彼は、イヴには見えない何者かにおびえ切る、弱い、弱い生き物だった。
「助けて……」
「アダム、大丈夫!悪魔はここにいないから!私がいるから、アダム!」
イヴは彼を落ち着かせたくて、必死にそう言った。そして、彼の汗まみれの体にギュッと抱きつく。
すると、その時だ、彼の体がこわばった。夢にまた、新しいものが出たのだろう。彼は手をバタバタと動かした。
「離れろ、離れろ……」
彼にそう言われて、イヴはますます不安になる。「アダム……」と彼女が言いかけた時だった。
「離れろ、リ……リス……」

リリス?
何故、彼女の名前が?
イヴは混乱した。その隙に、寝ぼけたままのアダムはイヴを引き離してしまった。彼女はどうすればいいかわからなくなった。しかし、その時はっと思い出した。
何のことはない。ここの所サマエルを看病しすぎて忘れていたが、目の前にいる彼はサマエルではないのだから安心して彼を呼べるじゃないか。
「ラファエル!ラファエル!来て、アダムがおかしいの!」
イヴは声の続くまま叫んだ。すると、夜空の星が一つ煌めき、すい星のようにラファエルがあっという間にイヴの目の前に現れた。

「どうしたんだ!?」
「アダムが、大変に……」
イヴは指差してアダムの方を見せた。ラファエルもぎょっとして、急いで彼に詰め寄る。
「アダム!落ち着け!オレだ、ラファエルだよ!」
そうして彼は、ぐっしょり濡れたアダムの体を抱きしめると、全身をさあっと太陽の光のように発光させ、その光でアダムを包み込む。あまりに明るいので、イヴも直視できなかった。
だが、それに対する効果がてきめんなのはわかった。アダムのうわごとや荒い息はみるみるうちに聞こえなくなり、代わりに、規則正しい呼吸音になった。そして、ラファエルが光を弱めた時だ。
「ラファエル……?」
アダムの声が聞こえた。彼が目を覚ましたのだ。

「よかった……大丈夫か?」
ラファエルはアダムを抱きしめたままそう言う。イヴも、彼に駆け寄った。
「アダム、アダム、元に戻ったの?良かった、よかった……」
彼女はアダムの目の前でぽろぽろと泣く。アダムは目をぱちぱちさせて「イヴ……なのか?お前は……イヴか?」と言った。
「?何言ってるの?私はイヴよ、ずっと、イヴよ」
「そうか……」
彼が大きな息を吐く。安心したというように。
「ありがとう。ラファエル……それに……イヴ」
彼はぼそりとそう言った。いつも通りの彼だ、とイヴは思った。ラワエルは自らの光の衣でアダムの嫌な汗を拭いてやり、「すまんな、悪魔がエデンに居るのが、そんなに不安だったんだな」と言った。
「……ああ」
「申し訳なさそうな顔するこたねえよ。お前の身に起こったこと考えりゃ、お前がそんだけトラウマ持つのは当然だ」
ラファエルはアダムを安心させるようにニコリと笑う。
アダムは悪魔が嫌いらしい。それも、尋常ではなく。事情の分からないイヴにも、そのことは分かった。
「今日はオレが一緒にいてやるよ。だから、大丈夫だからな、アダム」
「うん……」
まだほんのり光る彼に包まれたまま、アダムは言う。ラファエルは自分が身にまとう長い光の衣の裾を広げると、それでアダムを包み込んだ。
そして、彼はもう一方の裾を広げて「イヴも来いよ」と言う。
「オレ達が守ってやる」
ラファエルのその優しい笑みに誘われるように、イヴも彼の衣に身を包んだ。そこ希ぶかぶかのものを着ているようにも見えなかったのに、彼の衣は、アダムとイヴと、そしてラファエル自身を包んでも不思議とまだ余るようだった。そして、それは暖かく、優しく、精神を落ち着かせた。
ラファエルの片手が自分を抱くのがイヴにはわかった。もう片方はもちろん、アダムの方に伸ばされているのだろう。
ラファエルに抱かれながら、アダムとイヴは眠った。
悪魔とは何か。リリスとは何か。疑問は尽きないはずだった。だが、そんな疑問も、不安も、すべて吹き飛ばしてしまうほど、ラファエルの与える眠りは心地よかった。

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feat: Jephthah 第一話


エフタは四十年あまり生きてはいるが、彼の子供時代はと言えば、彼自身が思い返してみても惨憺たるものだった。
そりゃあこの世は広いのだし、探せばいくらも彼以上に不幸な人間も出てこよう。だが、それに何の意味があるだろうか。エフタは自分の過去が不幸だったと確信しているし、それを否定する気に等なれない。

彼はギレアド地方の、、そこそこ裕福な男の息子として生まれた。父の名前もまた、ギレアドであった。だが、自分が受けた父親の恩恵など、乞食が得る者と比べてもそう違いがあったためしもない。わずかばかりの冷えた食べ物に、汚れた、不潔な着物。寒い夜などは体が凍えそうになるペラペラの寝具。それが彼には与えられた。彼は、公然と露骨すぎるほどに露骨な差別を受けた。
彼は、ギレアドがとある娼婦に産ませた子供だった。エフタは顔も見たことがないし名前も知らない。彼女はもう死んだのか、あるいは逐電したのか、周囲の人々は最後まで彼に何も教えてはくれなかった。
ただわかることが、ギレアドは彼女にかなり入れ込んでいたらしい。だからこそ彼女が産んだエフタの事も、見捨てることなく引き取って育てたのだと、エフタは何度も恩着せがましく言われたものだ。
当然、ギレアドの妻にすればそれほど面白くないこともないだろう。彼女は彼女の息子たちと一緒に、先述したようにエフタをいじめた。ギレアドはそれを止めず、ただただ黙認していた。彼も、妻に内緒で他の女に心揺らぎ挙句子供まで産ませ、しかもそれを育てさせていることに対する罪悪感はあったのだろう。それは間違ってはいない。不倫の恋をしておいて、被害者であるはずの妻に堂々と開き直るのも感心できない行為であることは間違いない。ギレアドの妻に関しても同じだ。彼女が被害者であるのは間違いない。どのような事情があろうと、結婚したならば一生責任を持って添い遂げるのは夫婦の義務だ。その義務を一方的に破られて怒らないのが道理と言うのはさすがに無理だ。
ギレアドの妻に非はなく、ギレアド自身も罪を認めている。誰も責められることのないのに、ただ不快感と憎しみだけが残る状況。それがより、エフタを八方ふさがりにさせた。
自分が一番罪があるのか?ただ生まれてきただけの自分が。少なくとも、ギレアドの妻、息子たち、そして、彼女や彼らの肩を持つ人々、つまり周囲の人全員が、彼にそう言った。一番厄介で一番責められるべきはお前、売女の子供なのだと。
エフタは小さい時、それに対し怒りようもなく、泣くことも許されず、ただ、耐えていた。そして彼が成長し、ギレアドが病に倒れた時だった。いずれ死のうかと言う彼を目の前に、ギレアドの家族たちは、エフタに向かって言い放ったのだ。
お前に与える財産なんぞ穀物の一粒もありはしない。とっとと出て行け。父がいなくなっては、お前を養ってやる義務もない。出ていって、のたれ死ぬがいい。
そうして、着の身着のまま、エフタは石をぶつけられ強引に追い出された。いくつの頃だったか、もう記憶もはっきりしない。あそこまで、生まれてこなければよかった、と、はっきり思ったこともない。



トブの地に今日も夜が訪れる。この地では、日は一足早く暮れるのだ。切り立った岩山は、地平線よりもずっと早く太陽の姿を隠してしまうから。
エフタは馬のひづめを鳴らし、自らの町に帰ってきた。彼が馬を止めると、後ろにつく子分たちも同様にする。そして、めいめい持っていた荷物を広げ始めた。
穀物や乳製品、衣服に、金貨。それらすべてを山にすると、エフタは彼らに大きな声で告げる。
「分け前を取りな。いつも通り、自分の家族に必要な分だけ取るんだ」
彼のその一声で、子分たちは分捕り品の山に群がる。ただ、意外にもその身分から連想されるような、卑しい奪い合いはおこらない。誰もかれも、どこかお互いに遠慮するように、一種の品の良さすら持って、つい先日襲った商隊から奪った荷物を分け合った。子のあるものはその分だけ多く、独り身のものは少なく。
最後にわずかばかりの一山が残り、それをエフタ自身がとった。
「今日もご苦労だった。家に帰って休め」
彼が最後にそう言うと、子分たちはめいめい、帰っていく。エフタも、彼らの帰りを見届けてから自分の家に向かって踵を返した。


この切り立った岩山に囲まれた街、トブに住むものに、まともな者はいない。理由も生い立ちも様々だが、彼らは皆、世を憎んだならず者たちだった。男も女も老いも若きも、全てがそうだった。彼らの産んだ子供たちも、周囲のすべての大人がそうなので、そのような考えを持っていた。
もっとも、それは今の話だ。少し前までは、トブもごく普通の田舎町だった。エフタが来る前の間は、だ。


「帰ったぞ!」
エフタは自分の家の前で、大声で叫んだ。一週間ぶりの自宅だ。ドタドタと音がし、「父ちゃん!」と出てきたものが一人いた。彼女は真っ先にエフタによってきて、「おかえり、収穫ぁどうだった」と言った。
「上場さ。母ちゃんは元気にしてっか」
「モチのロンだ。母ちゃんは切ってもついてもびくともしねぇよ」
そう言ってガハハと豪快に男のように笑っては見せても、イフィスは年頃の少女で、エフタの一人娘だった。むろん年頃の少女とはいえ、町に居るしっとりとした女らしさなどイフィスにはまるで無縁だ。髪の毛はぼさぼさのものを無造作にまとめ、言葉づかいも立ち居振る舞いもおよそ品からはかけ離れている。化粧なんて生まれてこの方したこともない。
それでも、親の欲目じゃないがエフタはイフィスの事を可愛らしい娘だと思っていた。少なくとも、十人並よりは上の器量をしているはずだ。
イフィスは父の持っている荷物を自分でそそくさと持ちながら、父を家の中に案内した。父、エフタ。トブの町のリーダーであり、そして、この一帯で恐れられている悪党の頭を。
「今日の収穫は大きいんだな」
「まぁな。過ぎ越しの祭りが近いからよ、お偉いさん方はどいつもこいつも気合入れて準備する。ま、俺たちゃ神様なんぞ関係ねぇし、信じねえがよ」



エフタは覚えている。若い時、自分が必死で家を逃げながら、どんなことを思っていたか。
あの時、自分は世間に絶望したのだ。ただ生まれただけの自分をさげすみ、貶め、それを正義と信じて疑わない世間をエフタは知り、そして、心の底から憎み倒した。
そしてそれは、巡り巡ってトブについてからも同じことだった。彼は、相変わらず冷ややかな目で見られた。世間と言うものは少年の頃の彼が思っているよりもずっと、異端者を見つける目が肥えていた。彼がどうにかうまく繕おう、この自分を知るものがいない地で、今まで送れなかった生活を送ろうと思っても、彼がまともな育ちをしていないということは、「まとも」と呼ばれ尊敬されている人間ほどよく見抜いた。そして、そんな育ちをしているからには問題があるのだろう、と、誰もがやはり彼をさげすみ、卑しい仕事を押し付けた。エフタが娼婦の子だということは知らずとも、神に呪われ産まれてきた子供なのだ、と言うことは、恐ろしいほどにあっさりと周囲は理解した。
どこに行っても、自分の生まれからは逃れられないのだろうか。少年の彼は思った。誰からも存在を歓迎されなかった自分は、所詮、「まとも」に生きることなど許されないのか。一生、さげすまれ、嘲笑され、まともな人間の踏み台になるしかないのか。
それが、イスラエルの神が自分の下した運命なのだろうか。ああ、きっとそうなのだろう。神に生贄をささげ、祈りをささげ、そして神から幸せな生活を贈られたつ彼らが、そう主張しているのだから。
エフタはそう思った日、生まれて初めての事をした。それは、殺人だった。彼は金を得るために、イスラエル人が何より遵守すべきもの、モーセの律法を犯した。

捕まると思っていた。死刑になると思っていた。そして、それはそれで本望だった。こんな世界に生きていて何になる。どうせ自分は生まれながらに罪人だ。神に愛されぬ、地獄行きの存在だ。何をしてもいつまで生きても同じことなら、少しでも胸のすくことをして、それから地獄に落ちる方がいい。彼はそう思っていた。
だが、そのもくろみは外れた。エフタは捕まらなかった。エフタはそれを見て、もう一件、もう二件と、トブでも知られた金持ちの家に入り殺人と強盗を続けた。それらは驚くほどすんなりとうまくいき、なぜ世の金持ちの防犯意識はこれほどまでに低いのか、と彼を疑問に思わせた。
やがてそんなことが続くと、エフタはようやくトブの知事付きの兵隊に見つかった。彼はそこで、死ぬだろうと思っていた。そして、今までと同じようにどうせ死ぬなら一人でも「まとも」な人間を道連れに、と剣を抜いて彼らと切り結んだ。
そして、エフタは自分は傷一つつかず、彼らを簡単に殺してしまえたのだ。

彼はその時、自分に腰を抜かして後ずさる控えの兵士たちを見ながら、かねてよりの疑問の答えをおのずと理解した。。周りが弱いのではない。自分が強すぎたのだ。周りの防犯意識が脆弱なのではない。彼は、まさに、悪党として生きるには天才的な人物だったのだ。


彼は悪党として生きることを決めた。ケチなコソ泥ではなく、大悪党になると彼は決めた。彼は、トブの地を恐怖に震え上がらせ、やがてトブに住むものはエフタを恐れて次々と出て行ってしまった。
そして、入れ違いに入るものがあった。彼らは、エフタと同じく、様々な理由で「まとも」に生かしては貰えない者達だった。そして、彼らはエフタの話を聞いて、彼を頼ってやってきたのだ。
エフタは彼らを自らの治める町の住人として歓迎した。
神も守らぬ自分の身は、自分たちで守るほかはない。どうせ地獄に行くのなら、その日まで生きようじゃないか。自分たちは、自分たちによってでしか愛されないのだから。まともな世間は、イスラエルの神は、自分たちが惨めに死ぬことを望んだのだから。


エフタたちはトブの地で生きた。まともな人生を送ることを神によって拒否された者達を次々と自分たちのもとに迎え入れた。不思議と、荒くれ者の彼らはトブの町ではいさかいを起こさなかった。それは、彼ら自身にもよく分かっていたからだろう。この町に住むものは、正真正銘、誰もかれも、自分と同じような境遇をたどった者達だと。
彼らは、良く協力し、隣人を愛した。エフタも上に立つものとして彼らを良くまとめあげ、万一口論が起ころうものならすぐさま調停した。
トブは平和だった。生まれてから一度も幸せを感じられなかった人間が、世間から、神から離れ、生まれて初めて幸せを享受できる場所。それが、エフタの築いた街だった。
彼らはそこに住まい、そして、岩山や荒野に出ていっては、自分たちを虐げたような金持ちの商人たちから略奪行為を行った。彼らは皆、一様にまともな人間を恨んでいたのだ。



「またトブの盗賊団か!」
ギレアドに長老たちは頭を抱えた。きたるべき過ぎ越しの祭りに備えて商人に依頼していた荷物がすっかり奪われ、商人も殺されてしまったというのだ。
「ただ物を盗むだけでも恥ずべき大罪だというのに……!ましてや!偉大なるモーセが神より与えられた過ぎ越しの日を祝うのは、イスラエル人にとって何よりも大事なこと!奴らは、それをもコケにするのか!神を信じぬ恥知らずの悪党どもめ!」
その日、ギレアドの貴族や長老は身を寄せ合い、会議を開いていた。彼らは口々にエフタを罵った。
「全くだ……エフタ……あの、わが父から出たとも思えぬから出た恥知らずめ!」
そううめく男性が一人いた。彼の名前はゼブルといい、エフタの弟だった。ギレアドとその妻の間で一番最初に生まれながらエフタより年下だった彼は、エフタの事を何よりも恥に感じていた。子供の頃は、自分より年上のギレアドの息子が娼婦の息子であることが。そして、大人になってからは、のたれ死んだと思っていたその恥知らずの兄が、有ろうことか盗賊になっていて自分たちを苦しめていることを。
ゼブルにとって、周囲のギレアドの人々が自分に理解があり、エフタの罪と自分の罪を同一視しないのが幸いだった。なればこそ、彼は余計にエフタに対して強い嫌悪感を燃やした。
「下手に力だけはあるから、めったな真似もできんし……」
「この前など、軍隊ひとつ送っても、エフタの率いる盗賊団にやられてしまいましたからな。とにかく、ありゃあむちゃくちゃです。恥を知らない分戦いにも見境がなく、それで結局我々を打ち破って勝ってしまう」
「……酷い話ですね」
彼らの話にふと口をはさんだ若者がいた。彼の名前はハモル。ギレアドではこれまた名の知れた名士の息子である。
「僕たちと同じアダムの子孫で、しかも仮にも同じアブラハムの血統から出たものに、そのような者達がいるとなると吐き気がしてきます。そんなことだから、神はイスラエルを見捨てられたのだ」

この時、ギレアドに住むイスラエル人を悩ませているのはエフタだけではなかった。彼らはかつてギレアドを治めた偉大な士師ヤイロを失い、十八年ばかり混乱の時代に陥っていた。異教神に対する崇拝すらはびこり、ペリシテ人やアンモン人に圧迫される状況が続いた。
無論のこと、しっかりと信仰を守ってきた彼らのようなイスラエル人にとっては嘆かわしいことこの上ない状況だった。
「やれ、エフタの事も重要ですが」
別の長老が口を開く。彼は、ハモルの言葉に乗る形で、このままエフタに対する愚痴の言い合いになりそうな会議の話題の矛先を変えた。
「アンモン人の事もまた、頭の痛い事ではありませんか。奴らに対抗するためミツパに陣を敷いて久しいですが、それでも一向に戦況はよくならぬばかり。このままでは我らが奴らにのまれてしまうのも時間の問題です」
「それは……確かに」
彼のもくろみは成功し、会議の方向は今ギレアドの住民を悩ますアンモン人の話になった。
「斥候の持ってきた情報によりますと、アンモン人たちは近日中大規模な戦を仕掛けるようです。こちらからも対策を練らないと……」
「しかし対策と言えど、アンモン人の軍事力との差はあの通りですし……」
しかし、会議の方向が終われど、会議がなかなか進まないことは変わらなかった。彼らは分かっていた。アンモン人とイスラエル人の間には歴然とした戦力差があり、まともに戦をして勝てる相手ではない。
だがしかし、イスラエルの神に選ばれた民として、異教徒であるアンモン人に跪くなど彼らが許せるはずがなかった。彼らは考えた。
「もし、アンモン人に立ち向かえるほどの軍事指導者が現れれば、その人がギレアド全土の頭となろうに……」
その言葉が出た時だった。ゼブルが、何か思いついたと言ったようにふと顔色を変えた。

長老たちも彼のその様子を見て、彼に注目する。抱か当のゼブルは顔を白黒させ、自分で編み出したその考えに対し随分悩んでいるようだった。
「どうかしましたか?ゼブルさん」ハモルが声をかけた。
「対策が見つかったのですか?」
「見つからないということもないが……」
ゼブルは相変わらず言葉を渋っているようだった。長老たちはそれを聞き、「子の際です、柵は多い方がいい!」と、ゼブルをせかした。彼はそれでもいうに忍びない様子だったが、やがて吐き捨てるように言った。
「……みなさん!ご安心してください。私の策は、損をするということはありません。どのような結果になっても、必ずある得が残ります。……しかし、これを実行するには、我々は一瞬、そう……たったの一瞬のみですが、我々の誇りを捨てねばなりません」
「その策とは……?」
長老たちは、ゼブルに問いかけた。



トブが真っ暗になった時、エフタは眠れずに、自分の家の居間に来た。奇遇なことに、彼の妻、ストルジェも起きていた。彼女は机の上にランプをともし、酒を飲んでいた。
「おや、あんた」彼女は明るく言った。
「眠れないの?」
「おうよ。……ちっと、いろいろ考えちまってな」
「いろいろってなんだい?」
「昔の事を思い出したのさ。特に理由なんてねえが。ジジイになったのかね、俺も」
それを聞いて、ストルジェは愉快そうに笑う。
「金持ちの長男に生まれときながら、売女の息子、ってさんざん迫害されて奴隷見たいにされていた、あんたの昔話を?」
「ああ」
「それだけかい?あたしの事は思い出さなかった?」
彼女は勝手に手酌で酒を注ぐ夫の手つきを見ながら、ランプの光に少し小じわの増えた顔を浮かび上がらせていった。
「なつかしいねえ……貧乏子だくさんの家に生まれたばっかりに、親に二束三文で売られてさ、ついた先の家の坊ちゃんに好き放題おもちゃにされて……あまりに耐えきれなくてその坊ちゃん殴り飛ばしたら、いつしか立派な札付き娘。あんたはそんなあたしを気に入ってくれたっけねえ」
「おう。そしておまえも、こんな俺に惚れてくれたっけな」
「それで結婚して、子供産まれて、トブの皆には慕われて……ほんと、あんときを考えりゃ、信じられねえくらい幸せだねぇ。あたしは」
「そりゃ、俺も同じよ。ガキンときゃまさか、自分がこんなに……幸せになれるなんざ思ってもみなかった」
彼はゆくりトランプの炎だけが揺れる静かな空間の中、穏やかに語り合った。彼らが黙ってしまえば、その場は恐ろしいほど静かになった。離れた部屋で寝ている娘、イフィスの寝息が聞こえてくるようだった。彼女はかなり遅くまで友達とサイコロ遊びで盛り上がっていて、ようやく切り上げて帰ってきて、寝たところだったのだ。
「……なあ、ストルジェ」エフタは言った。
「俺の親ってもんは、ろくでもねえ奴らだった。親のくせに、ガキを幸せにする、なんていう義務、はたす気も何にもねえ奴らだったからなぁ。俺ぁそんな奴らをまだ軽蔑してるし、嫌ってるよ。ガキを幸せにしねえで、何が親だ」
「……まったくだね」
「俺のガキの頃夢があったとすりゃ、それはこんな悪党の頭じゃなくて、ある日急に俺の親父が俺に優しくなってくれるか、俺のおふくろが帰ってきて俺を可愛がってくれるか、そのどっちかだったなぁ」
彼はちびちびと酒を飲みながら話を続ける。彼の風格は、怖いもの知らずの大盗賊ではなく、どこにでもいる父親の顔だ、と、どこにでもいる父親と言うものを知らずとも、ストルジェは感じることができていた。
「俺ぁ軽蔑する奴の二の舞にだけはならねぇ。……俺自身が親に苦しめられたからこそ、俺は今親として、あいつを……イフィスを幸せにしてやらなきゃと思ってるんだ」
そう語るエフタの盃に、今度はストルジェが酒を継ぎ足した。エフタはそれを受けて、ストルゲの盃にも酒を継ぎ足す。
「イフィスがどんな人生歩もうと、俺には、あいつが死ぬときに、ああ、幸せな人生だった、って言いながら死ねるような人生歩ませてやる義務がある。……そう思ってるよ」
「ああ、ぜひそうしておくれ。……あたしも、全く同じこと考えてたから」
「偶然だな」
「偶然じゃないさ。だってあたしら、夫婦じゃないか」
トブの夜に響く音は、その二人の会話だけだった。



やがて日が明けたころ、トブの町の見張り番からエフタに連絡が入った。何者かが来ている。しかも、自分達を討伐する軍隊ではない。身なりのいいギレアドの、貴族たちが徒党を組んでまっすぐにトブを目指してきているというのだ。
「どういうことでしょうかね?まさか略奪されに来たんでもあるまいに……」
「……よし、とりあえず迎え入れな。俺が先頭に立つ。てめえら、万が一に備えて用心だけはしておけ」
「はいよ、エフタさん!」
そのようなやり取りの後、エフタは自分自身が彼らを迎えにやってきた。やがてトブの門があき、トブに住まう人々とは似ても縫付かぬ高貴な身なりの一団が姿を現した。

「よう、ギレアドのお偉いさんよ、何の用だ?」
「盗賊エフタよ、我らはお前に言うことがあってきた!」
一番先頭に立っていたもっとも年輩の男が、彼に向かって言う。
「お前も存じているだろう。アンモン人が我らがギレアドを、そしてイスラエル人を苦しめている。近日中に、大きな戦が起こるのだ。イスラエル人エフタよ、お前の故郷ギレアドに帰るのだ。そして、アンモン人と戦うため、イスラエル軍を指揮してくれ!」

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