クリスマス市のグリューワイン

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feat: Judith 第十話

真夜中にベトリアの城壁が叩かれ、門番はもちろん驚いた。それよりもさらに驚いたのが、門の向こうから聞こえるのはユディトの声だったことだ。
ベトリア中は急いでかがり火をたき、老若男女皆が起きだした。血まみれになり顔を真っ青にしたユディトを見て人々は驚いたが、ユディトが彼らに袋の中に入ったホロフェルネスの首を差し出した時の驚きように比べれば、そんなものは何でもなかった。
「ユディト殿、どうやってこれを……」オジアが当然、彼女に問いかけた。彼女はぽつぽつと、有ったことを話した。だが、全ては話さなかった。だって、誰が信じるだろう、ホロフェルネスのしたことを。彼女はただホロフェルネスが酔いつぶれて寝てしまいその隙に彼の首を切ったのだと主張した。いずれにせよ、彼らは一連の事を聞いて、それに納得した。事実、将軍の首は目の前にあるのだ。
「間違いなくホロフェルネス将軍だ……。ユディト……貴女は、なんと素晴らしい女性だ」アキオルがそう言った。オジアの家からやって来た彼は、数日前まで自らを指揮していた将軍の生首を目にして、まずれ気絶してしまいそうなほど足を震わせていた。「そしてユダヤの神……聞きしに勝るその力だ。決めました。オジア様。私も今日限り、割礼をうけ、イスラエルの一員となりましょう。このような神のみ技を見せられ、ユダヤの神を信じぬわけにはいきませぬ」
「その言葉を待っておりました、アキオルどの」
そして集まった皆は、ユディトを賛美した。彼らはとにかく、言葉の限りを尽くしてユディトをほめたたえたのだ。地上のすべての女よりも神に祝福された女と、彼女の事を呼んだ。
だが、彼女の耳に、そんな言葉は聞こえなかった。彼女は虚ろな声で彼らに言った。
「その、首は……どうにでもなさってください。夜が明けたら、どうぞ、ご進軍為されますよう。将軍がいなくては、バビロニア軍もこれ以上進めないでしょう。……私は、少し疲れました。家で眠ります」
誰も彼女を止めはしなかった、事実、疲れてはいるだろう。真夜中だし、このような大仕事を成し遂げた後だ。

ユディトは一人きりの自宅に戻った。そして、体を洗うこともなく、泥のように眠った。もう二度と、置きたくなどなかった。彼女の心は、悲哀に満たされていた。このまま、眠ったまま、死んでしまいたいと、彼女の勇敢な行為をを賛美する声を遠くに聞きながら彼女は何よりもそれを望んでいた。


夜が明け、目覚めたバゴアスは、酷い後悔と罪悪感に襲われた。孫を殺された恨みがあるとはいえ、所詮は人を殺したこともない平和主義の善良な老人は、一晩寝て怒りが冷めてみれば、人を一人殺してしまったという事実に耐えきれなかったのだ。
それも、バビロニアの将軍を。冷静になってみれば、自分にあるのは人殺しの罪だけではない。バビロニア軍を敗北に導いてしまう責任まであるではないか。
彼は心をすり減らすような気持ちだった。ホロフェルネスの天幕に行こうかと何度も考えた。だが、足はすくみ、なかなか前に踏み出せなかった、自らが殺した将軍の死体を見るに忍びなかったのだ。

彼がそうこうしているときだった。見張りに立っていた兵隊が一人、兵営に急いで駆け付けてきたのだ。
「申し上げます!ベトリアの民共が隊を組み、武装して我らには向かってきました!」
「なんだと!?」と兵営は当然大騒ぎだ。兵の一人が言った。「ホロフェルネス将軍を起こせ。あの下等民族どもが自滅しにやってくると知らせるのだ」
その言葉は、当然バゴアスに向けられていた。彼は心臓が縮み上がる思いだった。だが、行かないわけにはいかない。将軍が死んでいると知りながら。
大丈夫だ。証拠はない。自分が殺したなどと、まさかわかりはすまい。そう、必死に心に言い聞かせながら、バゴアスは震える手で将軍の天幕を開けた。

だが、老人はすぐに悲鳴を上げることになった。間違いなく、ホロフェルネスは死ぬには死んでいる。だが、その死に方はバゴアスが思い浮かべていたあるべき姿とは全く違いものだったのだから。だが寝台から転げ落ち、首から上をうしなったその死体は、見に纏った豹のストールから言っても、間違いなくホロフェルネスのものだった。
彼の声を聴きつけて兵隊が駆けつけてくる。一人が気付いた。
「あのユダヤ女は!?」
そうだ、昨夜ホロフェルネスとともに寝たはずのユディトも、彼の首とともに消えている。
彼らは急いでユディトの天幕に言った。だが、彼女の喪りつぁも、跡形もなく消え去っていた。
してやられた、とバビロニア軍は息をのんだ。

将軍がなくなっては、戦いようもない。兵営に残っていたバビロニア軍はそのまま、ほうほうの体で逃げ帰った。ベトリアを包囲していた前線のものも、兵営に残っていた隊が逃げたと知るや、自分たちも急いで戦いを放棄しバビロニアに逃げた。
オジアたちは急いでユダ王国の諸都市にその旨を知らせ、敗走するバビロニア軍に追い打ちをかけるよう指示した。作戦は成功し、バビロニア軍は大きな亜被害を受け、ベトリア包囲戦はこのようにしてあっけなく終わりを告げた。

バビロニア軍の宿営の残った沢山の戦利品は、ベトリアの民のものとなった。


《その後》


ユディトが行った様々なことは、イスラエルの地にも届いた。大祭司ヨアキムとユダの長老たちが彼女のもとにやって来て、彼女を祝福した。
「貴女はイスラエルの栄光だ。イスラエルの大いなる誉れ、我らの民の偉大なる誇りだ」
彼らはそう、言葉を尽くしてユディトをほめたたえた。そして、ベトリアの民は皆それに同意した。
ユダヤ人の間では王に並ぶ権威者である彼らの祝福を受けても、ユディトは幸せでなかった。なぜ、幸せになれるというのだ。彼女の心を少しなりとも癒したのは、バビロニア軍の陣営から持ち出した戦利品のうち、ホロフェルネスの所有物だけだった。将軍である彼には一番高価なものが充てられていたため、それらはユディトのもとに行くのがふさわしいと判断されたのだ。血だまりにぬれた紫布から、ホロフェルネスの匂いが感じられそうな気がして、ユディトはそれに縋り付いた。何日も、そうしていた勝った。
だが、それは許されなかった。

「奥様……皆様が、待っております」
ミルツァの声が聞こえる。ユディトはその言葉に「今行くわ」と返した。
外を一歩出れば、ユディトに憂いの顔は許されなかった。彼女は笑っていなくてはならなかった。「貴女は英雄だ、ベトリアを救った英雄だ」誰もが、彼女をそう言ったからだ。英雄は、笑っていなくてはならないのだ。今やベトリアの城壁の前に晒し者になったホロフェルネスの首を、誰よりも誇りに思わなくてはいけないのだ。

自分を素直に慕い、敬い、自分の周りで自分を賛美しながら無邪気に舞い踊るベトリアの少女たちに、ユディトは微笑みながら松かさを飾った枝を配った。そして、自分も彼女達と同じようにオリーブの冠を頭にかぶり、彼女たちの真ん中に立って、少女たちの奏でるタンバリンの根に合わせて、その素晴らしい唄声で、神をたたえる歌を長く、長く歌うのだった。
誰もが自分を天使を見る目で見ている。誰もが自分を崇めている。この、何もしなかった女を。自分の侍女も、けなげな少年も、愛した男も、何も守れないまま、ただその場にいただけ、本当に、何もできなかった女を、心底英雄と信じ、崇めている。
そして自分は、嘆くことを封じられたのだ。自分は、これから永遠に罪悪感に苛まれながら、苦痛にしかならない賛美を受け暮らしていくのだ。英雄として。そして、それも仕方がないのだ。これが、ホロフェルネスが自分に下した罰だったのだ。

ユディトはあることを聞いた。限界であるはずの五日目にしては、ベトリアの住民は不思議と進軍する元気はあった。それはなぜか。アキオルが話してくれた。非常事態だからやむなしということで、彼らは神殿の奉納物を食べたのだ。きっと神はお許しくださるだろう、何の根拠もなく、そう言って。
ユディトはそれを聞いて、全てが空しいように思えた。


大祭司ヨアキムに連れられて、ユディトと長老たちはある日、エルサレムに行った。そして、エルサレムのソロモン神殿で神を賛美したのだ。イスラエルの英雄として。
ユディトはその時、ホロフェルネスの寝台に敷いてあった紫布を神殿へ奉納した。それは彼女を癒してくれるものであった。だが、彼女はいっそ、一切の癒しなどない方がよいと、その時思い始めていたのだ。
エルサレムの神殿の前で悦び祝うベトリアの民を見て、ユディトは一人こうつぶやいた。かがり火で金色に照らされた、偉大なソロモンの神殿の前で、彼女は誰にも聞こえない声でこう言ったのだ。
「神なんていない。どこにも……どこにも、いやしないわ」



バビロニアに帰ったバゴアスのもとに、ネブカドネザル王の新鋭隊長であるネブザルアダンが来たのは、ベトリア包囲戦が終わってから少し経った頃の事だった。まさか軍の指揮官もない自分が戦争の責任を取らされるはずはない、と彼は怪訝に思いつつ、新鋭隊長の言葉を聞いた。
「お前に、国王陛下直々の伝言を賜っている」
「な、なんでございましょう」彼は答えた。
「一人の兵が、例のベトリア包囲戦の際、あの戦で命を落としたホロフェルネス将軍の天幕から一つの壺をちょろまかしたそうだ」
「は……そ、それで」
「その壺の中から、面白いものが出てきてな。ネブカドネザル様は出した覚えもない王の名前での手紙……王の印章も押ししてはおらず。第一、王の筆跡とは微妙に違っていたそうな……そうだな……例えば、お前の筆跡になかなか似ていた」
それを聞いて、バゴアスは一気に背筋が冷たくなった。いっそ、その冷たさで凍え死ねそうなほどであった。そんな彼を見て、ネブザルアダンは続けた。
「陛下は前々からどうもおかしいと思われておられたのだ。あのホロフェルネス将軍が、まさか女の色香に迷ってそのあげく寝首をかかれるなど。……だが、理由があれば納得できる、と陛下はおっしゃられた。あれが、何か理由があって何もかもに自暴自棄になってたら。あるいは自死の道を選んだかもしれない……」
「か、閣下……」
「その手紙の内容を、お前が知らぬはずはないな、バゴアス?」
ネブザルアダンはバゴアスを睨みつけた。彼は腰を抜かし、床にへたり込んだ。
「陛下はこうお達しだ」
「お、お慈悲を」
「『私はホロフェルネスに目をかけていた。あれには、あれが確実に勝てる戦で戦果を挙げさせ、より私のそばにおいてやるつもりだったのだ。彼を死なせるつもりなどなかった』」
「お慈悲を……」
そう震える老人に、ネブザルアダンは冷静な目で、あっさりと告げた。
「来い。国王陛下の勅令で、お前は死刑だ」
抵抗もむなしく、一人の老人は、親衛隊長の連れていたバビロニア兵にあっさりと連行されていった。


数年後、ユダ王国はネブカドネザル王率いるバビロニアの侵攻により滅ぼされた。そしてそれと同時に、ベトリアもあっさりとバビロニア軍に敗北した。ベトリアの民はバビロニアに連行された。ユディトもその中にいた。
ベトリアの町は完膚なきまでにバビロニアに叩きのめされ、跡形もなくなった。今では、その町がどこにあったのかを突き止めることすら、不可能な話である。


(完)

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feat: Judith 第九話

ユディトが宴の事を聞かされたのは間もなくの事だった。だが、ユディトは自分もてっきり手伝いに駆り出されると思ったものの、彼女のもとにやって来たバゴアスはホロフェルネスからの命令と言う言葉を彼女に告げたのだ。
「将軍閣下が、私にこう言ったのです。『さあ、あのユダヤ女をここに連れてこい。そして、一緒に飲み食いさせろ』と」
ユディトは当然、不思議に思った。彼女は、顔の怪我がまだ痛む様子であるミルツァを看病していた。
「将軍閣下は、貴女をお汚しになるおつもりです」
「なんですって!」ミルツァが寝台に横たわったまま叫んだ。
「あれだけ陛下、陛下言っておいて、奥様を汚すなど許せないって言っておいて、自分はやろうって言うの!?」
彼女は無論、自分の女主人が欲望の眼で見られていることに憤慨した、だが、今となってはもはやそれ以上に、あの異常なまでに自らの主を崇拝しているはずのホロフェルネス将軍の心変わりに驚いている様子だった。
「いったい何が……」彼女の言葉に、バゴアスは目を伏せた。彼だけは知っているのだから。そのわけを。
「ユディト様、おいで下さいませぬか」
いずれにせよ、気分が悪くないことだとは思っていた。あの孫の仇が、自分の死に瀕してやけっぱちになり、今まで保ってきた自分のポリシーまでかなぐり捨てるのはなかなか痛快だ。この目の前の美しく清らかな貴婦人の体に降りかかる屈辱を考えると、心は痛むが。
「美しいお方、どうぞ、わが将軍の前に歩み出て、一緒に葡萄酒を飲んで楽しんでください。我が王ネブカドネザルの急転に仕えるバビロニア人の娘のようになってください」
そうだ。ホロフェルネスの事を考えれば痛快だが、それでもバゴアスはこのユディトに対する敬愛の情を忘れたではなかった。彼も、孫が彼女を慕っていたことを気付いていたいわけではなかったのだ。きっと死んだ孫とて、このことを知れば泣いて悔しがるだろう。そしてこのユディトにしても、絶対に気が進まないだろう。断固として拒否するかもしれない。
だが、彼のその考えは全て杞憂に終わった。ユディトは「もちろん、喜んでそうしますわ」と、考えることもなく即答したのだ。
バゴアスはそれに対して、一瞬戸惑った。ミルツァは「奥様……!」とうめいた。だが、ユディトは彼らの言葉が続かないうちに、自ら言葉を継ぎ足した。彼女の黒い目は新月の夜のような真っ暗闇に染まっているように見えた。そして、それは間違いなく、美しいものであった。
「何も言わないでくださいな。……これこそ、わが生涯の喜びなのです」


宴が始まった。ユディトは、バゴアスに連れられて、宴の準備がしつらえられたホロフェルネスの天幕に入っていった。彼女は彼の用意してあったバビロニア軍の略奪品の中から一番に高貴な女の衣装を着せられた。そして、彼女がここに来た日のように、バビロニア陣営にあるだけの宝飾品を飾り、化粧を施した。ミルツァも何とか立ち上がって、女主人の豊かな黒髪を粗末にまとめられただけの形から、見事に結い上げ、その上か飾り輪を付けた。バゴアスが指導したそれは、バビロニア風の結い方だった。ユディトはどこからどうみても、バビロニア人の貴婦人の装いとなった。
バゴアスが彼女によこした毛皮の敷布をミルツァが敷くと、ユディトはその上にそっと腰かけた。主演に招かれたホロフェルネスの側近たちは、皆彼女の美しさにため息を漏らした。彼らはもはや、みだらな目で見る気にもなれなかった。そう。彼らはベトリアの住民と同じような気分で、ユディトを見たのだ。
やがて、ホロフェルネスもその場に現れた。
軍人には似つかわしくないほど、彼は静かな足取りで自分の天幕の入口を開けて入ってきた。彼は豹の毛皮でできた長いストールを巻き、首元を厚いそれで覆い隠していた。そして、彼は軍人の服を着ていなかった。金布の飾りがついた白い上絹を着て、金の房飾りのついた紫の帯をつけていた。立派な宝石のついた指輪をその長い指にいくつも飾っていた。首には何連もの金の首飾りを豹のストールの下からつけていた。唯一彼の軍人らしさを物語るのは、彼の帯に大事そうに差し込まれた、バビロニア王家から賜った剣だけだった。
ユディトは、彼のその姿に絶句した、いや、ユディトだけではない。ユディトの美しさに絶句した者たちは、それと同じほど、ホロフェルネスに絶句した。将軍の服を脱ぎ、まるで王子のように豪華に、煌めかんばかりに着飾った彼は、美しかった。誰も、これほどまでに美しい男を、今まで見たことがなかったのだ。
彼はユディトの隣に座った。戸惑うユディトを横目に見て、彼はただにやりと笑うだけだった。二人が並んだところは、
「皆の者、毎日、ご苦労だ」
ホロフェルネスがそう口を開いて、宴が始まった。兵士たちは慌てて、我に返った。
ホロフェルネスは一口で葡萄酒の盃を開けると、ぺろりと唇についた分のそれも舐めとった。
「さあ、ユディト」
そして彼は初めてユディトのほうに顔を向け、気味が悪いほど穏やかに言った。
「お前も飲め。俺も、今日は死ぬほど飲みたい気分だ」
ユディトには分からなかった、ホロフェルネスの真理が。わかるはずはない。彼は、毒を盛られたが故の激痛など、全く顔に出していなかったのだ。なぜ、昨日まで自分を避け、憎んでいた彼が、自分を隣に置き、こうも穏やかに話しかけているのか。
だが、ユディトは目の前のホロフェルネスを、美しいと思った。途方もなく美しいと思った。彼の端麗な顔に、金属や宝石、紫布の煌めきの、なんと似合うことか。思えが、一回猛装いをこらした彼を見たことはない。
ユディトは思った。そうだ。自分たちはまるで、花嫁と花婿だ。
神の与えたもうた運命の性で、自分たちにその時は訪れはしなかった。だが、今こうして、この場にいる誰よりも美しくあり、そして隣同士に座る自分達はまさに、一生に一度の、晴れの婚礼のために、一生で一番の美しい装いをする恋人たちだ。少なくとも、ユディトはそう思いたかった。
自分が捨てた幼馴染の少年が、今成長して、そして自分の隣にいる。何よりも美しい存在となって、今自分の隣で酒を飲んでいる。彼女はそれに、快感を覚えた。幸福かどうか、わからない。まだ酒には一口も口をつけていないのに、まるで飲みに飲んで酩酊してしまったかのような、退廃的な快感だった。
彼女は盃を上げた。そして、ホロフェルネスの言葉に「はい」と言った。
「いただきます……将軍様。生まれてから、これまで心の高鳴りを覚えたのは、今日が初めてです」
そう言って彼女は、彼がそうしたように、一気に盃を傾けた。ホロフェルネスは彼女の言葉に何も言い返しはしなかった。彼女は、空になった彼の盃に静かに酒を注いだ。
自分はこれを言いたかったのだ。浮かされるような気分で、彼女は思った、ホロフェルネスとともに駆け抜けた青春時代、自分が彼に言いたかったのは、子の台詞だったのだ。間違い用もなく。このように美しく着飾り、酒を酌み交わして、彼にこの台詞を言うことを夢見た日々が、確かにあったのだった。「生まれてから、これまで心の高鳴りを覚えたのは、今日が初めてです」。

そして、それを壊したのは、自分だったのだ。彼女は今さらながらそう思った。

宴は長く続いた。彼らは飲みに飲み、そして食べた。ホロフェルネスは彼の言葉通り、まるで浴びるように酒を飲んだ。彼は酒には強いのか、それでも意識ははっきりしているようだった。
やがて、時刻は夕方になっていった。
ホロフェルネスの側近たちはその時刻になると、そろそろめいめいの天幕に帰り始めた。バゴアスも、ホロフェルネスにそうするように命令され気を効かせてと言うべきか、天幕を外から占めて、護衛の兵達も遠のかせた。そしてユディトも、ミルツァに自分の事は心配せず、帰りを待っていなさい、と伝えた。ミルツァは女主人の言うことに、もはや黙って従った。

すっかり人がいなくなり、宝石をちりばめた天幕の中には、豪華に着飾ったホロフェルネスとユディトしか残らなくなっていた。そして、やがて夕日も西の空に沈んだ。

《五日目》

ホロフェルネスはユディトに燭台に火をともすように命じた。彼女は言われた通りにした、彼は紫布を敷いた寝台に腰かけ、豹のストールの襟を治している様であった。
「ユディト。俺の所に来い」
やがて蝋燭の明かりが全てともった時、重々しい声で、ホロフェルネスはそう言った、ユディトは「ええ」と、彼のそばに言った。
飲みすぎたのだろう。彼は相当酒臭かった。それでも、赤く高潮した彼を、ユディトは変わらず美しいと思った。先ほどそっと触れてみた限り、自分の顔も、相当血が上って赤くなっているのだから。
ホロフェルネスは用意された酒の最後の一滴を飲み干したようだった。ユディトは言われるがままに彼の寝台に腰かけ、彼の隣に立った。
「ユディト」ホロフェルネスは言った。
「お前、なりたいものはあるか?」
彼はユディトにそう問いかけた。彼女は「いいえ」と言った。
「だろうな。お前はすでに、なっているもの」
「ベトリアの天使?」
「そうだ」
「違うわ」彼女は言った。「私は、何にもなっていない。私には、何もできなかったもの」
彼女はぼんやりと呟いた。
「貴方の心を変えることなんてできない。ミルツァをあんなふうにしてしまった。メロダクくんも、何もできずに死んでしまった。本当に天使なら、そんな情けない事ってある?私はただの人間だわ。無能で、臆病で、どうしようもない、ただの人間よ。少し美しくて少し優しかったのを、誇張されただけだわ」
「ようやく分かったか」ホロフェルネスは言った。「ああ。いないさ。この地上に、神も天使もあるものか。居るのはただ、人間だけだ」
彼の目線の先を、ユディトは追った。彼は、剣の柄に刻まれたバビロニア王家の紋章をじっと見ていた。
「俺も、何にもなれなかった。何かになりたかったさ。でも、何にもなれなかった」
彼は柄を撫でながら、そう言った。そして、その柄を握り、すらりと銀色の刃を抜いた。
「お前にはチャンスがある」
彼は剣を目の前の地面に立てた。
「ユディト。英雄はいいぞ。人間がなれるうち、最も栄誉あるものだ」
彼は彼女の髪を結い上げたせいで露出した首筋を撫で、そう言った。
「お前がこの剣を振るえば、俺を打ち取れるかもしれん。そうすれば、お前は英雄さ。ベトリアを救った英雄だ。俺の記憶に間違いがなければ、まだ、ベトリアは首の皮一枚で命が持っているはずだ。俺の首を切り落とし急いで逃げかえれば、間に合わんこともなかろう。五日間俺たちのそばに居たお前なら、兵の目をかいくぐることもできんではないだろうしな」
彼はそう、不気味なほど静かに呟いた。だが、ユディトはそれに恐ろしさを感じなかった。酒の酔いのせいだろうか。彼女はその残酷な言葉に、退廃的な快楽を今なお見出していたのだ。
「どうだ。ユディト。英雄になる気はないのか。モーセや、エリヤのような人物に、なりたいとは思わないか」
彼の言葉はどんな言葉でも、自らの体内にしみいるようだった。彼女は彼の言葉を聞くことに、いっそ性的快感すら感じるように思えた。目が勝手にうるむ。彼女は首を横に振り「いいえ」と言った。そして、剣の柄を人差し指でつき、それを床に寝転ばせた。
「そんなもの、なれなくていいの」
「ほう」ホロフェルネスは笑った。「ベトリアが滅んでもいいと」
「良いわ。それも、運命でしょう」彼女は言った。
「私が貴方を殺そうと殺すまいと、滅びるときには滅びる。滅びないときには滅びない。所詮、そんなものじゃない」
彼女は、実感していた。ホロフェルネスがメロダクを殺したその時、自分は全てに絶望したのだ。ベトリア等救えなくてもいい。彼女はそう思ってきた。だって、ベトリアは、確かに悪いことをしたのだ。罪のないホロフェルネスとその母を、アッシリア人という理由で無残に追い出した。このような報いを受けることに、何の不思議があろうか。ホロフェルネスの怒りはもっともだ。きっと、町の長老オジアも、カブリスも、カルミスも、同じ目に合えばそうしたことだろう。滅ぶなら、滅びればいい。自分はただの人間だ。何もできない、無力な女だ。この数日、それが激しく分かった。
自分のために戦ってくれたミルツァも、メロダクも、守れなかった。自分はただ、懇願するしかできなかった。ホロフェルネスのように必死で生き残ろうともがくことすら、自分はしなかったのだ。自分に、ベトリアを守る責任などない。自分は、天使でも何でもないのだから。
彼女ははっきりとわかった。自分は、ホロフェルネスが好きだ。この目の前にいる、自分のように美しいこの男を、今でも愛している。彼が変わり果てたことにショックを受けたのも、その為だ。自分はまだ、彼が好きだったのだ。
自分は、彼に罪を犯した。今わかった。十五年ぶりに、彼女は分かった。あの時、彼について行けばよかったのだ。砂漠であってもどこであっても、彼の隣で、「生まれてから、これまで心の高鳴りを覚えたのは、今日が初めてです」と、ただそれだけ言えれば、天師と尊ばれるより、自分は、それが幸福だったのだ。いっそ、もはや自分がここに来た理由も、はっきりわからなくなってしまった。心の底で、ユディトはひょっとしてこの瞬間を待っていたのではないかと思った。本当は、自分は、ただ、もう一度彼に会いたかったのではないか。
ホロフェルネスの前に犯した罪を、償いたい。愛する男に犯してしまった罪を償えるなら、どんなことでもしてよかった。この場で彼にめちゃくちゃに犯されようと、復讐心の赴くままに殺されようと、構わない。彼の主君のもとに送られようと、それで彼が褒められれば、それで何も構わない。ホロフェルネスに、復讐してほしい。彼女はそう思ていた。そうだ。ホロフェルネスに復讐をさせる。それが自分のすることだ。自分はベトリアの天使などではない。ホロフェルネスの恋人だったのだから。
「何になりたいか、と言われたら」ユディトは言った。
「私は、貴女の望むものになりたいわ。……貴女の望むものなら、なんでも」
ホロフェルネスは薄く笑った。
「こんなお前をベトリアの奴らが見たら、なんていうか」
「なんて言ってもいいじゃない」
ユディトはホロフェルネスの頬に手を触れた。彼の頬は、酒のおかげか、まだ熱を持っていた。
「貴方が、もう一度幸せと言えるなら」
「それが、お前のけじめか。ユディト」
「ええ」彼女は言った。
「ごめんなさい。……十五年前、貴方に酷い事をしてしまって。本当に……本当に、ごめんなさい」
ホロフェルネスは、それ以上何も言わなかった。
彼は寝台にユディトを横たえた。そして、自分はその上に覆いかぶさるようにした。ユディトは自分の顔がほころぶのがわかった。
彼の両手が紅色に染まった自分の頬に触れる。そして、静かに彼の唇が重ねられた。15年ぶりに彼と交わすキスの味は、何の変りもなかった。
彼女は心が一気に高まるのを感じた。彼女は感情の高ぶりのままに、ホロフェルネスの首に抱きついた。

彼女の頭が、何か固いものを押す感触がした、そしてその固いものは、何かに食い込んだのだ。食い込む先など、一つしかない。ホロフェルネスの首だ。
その感触に、彼女は驚いて首を話した。そして、腰を起こす。ホロフェルネスは、笑っていた。狂気に満たされたような笑い方をしていた。


「フフフ、ユディト……」
彼の口角が歪む。彼女は目を白黒させた。ホロフェルネスは得意げに、彼の首に巻いた豹の毛皮のストールをはぎ取る。そしてその下に、ユディトは絶句した。
彼の首に短剣が突き刺さっている。携帯できるほど小さなそれは、ここに来た日、ミルツァが持っていたものだった。
「ホ、ホロ、フェルネス……あなた……」
「ユディト……俺が、お前を許すと思うか?」
いびつな笑いのまま、彼はかすれ消えそうな声でユディトにそう言った。刃の隙間から、血がにじみ出ている。あれを抜けば、間違いなく、彼は死ぬ。
「俺を殺したのはお前だ。俺を捨てたように、お前は俺を殺した。お前は英雄さ。良かったな、ユディト。俺を殺して、お前は立派な英雄、立派な天使様だ」
彼は短剣に手をかける。
「や、やめて……」
「良いか。ユディト。俺がいずとも、ネブカドネザル様はユダヤを滅ぼす……あの方はそのようなお方だ」
「やめて!」
彼女の叫びも無駄だった。ホロフェルネスは最後の力を振り絞って、大きく叫んだ。
「偉大なる帝王ネブカドネザル、栄光の帝国バビロニア、万歳!」
彼は勢いよく、自分の首の短剣を引き抜いた、それと同時に、大量の血が噴き出し、ユディトの上に雨のように降り注いだ。
視界を赤に遮られ何も見えなくなったユディトの耳に、ホロフェルネスの嘲笑の笑い声が聞こえるような気がした。ユディトは、絶叫した。


血の雨も終わり、ホロフェルネスが寝台の上にうつぶせに倒れた時、ユディトは我に返った。彼女はホロフェルネスのもとに寄ったが、当然のように、彼はこと切れていた。
彼女は彼の死体に取りすがって激しく泣いた。泣かずにはいられなかった。彼女は、彼の復讐心がこれほどまでに深かったことをありありと実感した。彼は、彼女に、罪を償うことすら許しはしなかったのだ。自分自身が死ぬことで、一生彼女に愛した男を裏切った罪を負わせる。それこそが、ホロフェルネスの復讐だったのだ。
あまりに惨めだった、あまりに悲しかった。そして、あまりにも、ホロフェルネスを哀れに思った。なんという残酷な運命が、この男にはついて回っていたのだろう。
彼が何をしたというのだ。彼は、ただアッシリア人だっただけだ。

ユディトは、彼の血にまみれ、血だまりの中で倒れる彼を見て、思った。彼女ができることなど、もう一つしかないのだ。たとえそれが、いかに自分の本意に沿わないものだったとしても。
「全能なる主よ」彼女は、無機質に祈った。ただ、何かにすがらなくては、心が折れてしまいそうな思いだったのだ。
「エルサレムの栄光のために行うこの手の技を、今こそあなたのその目に留めてください。今こそ、私は貴方の遺産を救います。私は、貴女の敵を粉砕します」
ユディトは床に寝転んだ、ホロフェルネスの件を取った。そして、それを彼の首に突き立てた。素晴らしく切れ味のいいそれのおかげで、女であるユディトの力でも、ホロフェルネスの首を切り落とせてしまった。胴体の方はバランスを崩して、寝台から転がり落ちた。
胴体から外れたホロフェルネスの首を取って、ユディトはそれに向かい合った。そして、彼にキスをした。
ユディトの眼から、涙がなおもあふれた。このまま大量の血を洗い流せるほど。無限に泣けそうな気分だった。
「ホロフェルネス、私の、恋人……!」
彼女は彼の生首を抱いて、泣きじゃくった。これが、神の決めたさ駄目なのだ。自分は間違いなく、神の敵を倒し、かのモーセやエリヤと同じ存在になったのだ。ああ、それなのに、なぜこうも悲しいのか。
「イスラエルの神よ、今こそ私に力をください」
そう祈っても、無駄だった。彼女の心には、無限に悲しみがあふれた。


血まみれの女主人が帰ってきて、ミルツァが仰天しなかったはずはなかった、だが、彼女の女主人は彼女に、袋に入ったホロフェルネスの首を見せた、ミルツァも、それでようやく、怒ったことが理解できたようだった。
「行きましょう。ベトリアに」

二人の女は、彼女らの故郷、山の山頂を目指して月の光を頼りに走った。

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feat: Judith 第八話


宦官になってから何年だろうか。その間、自分はずっと穏やかな気分で過ごしてきた。妻や息子夫婦が死んだときは悲しみに満たされもした。しかし、憤怒だけは感じることがなかった穏やかに悲しみ、穏やかに楽しみ、それこそがバゴアスの人生であった。
彼は、数十年ぶりに、心の底から熱い感情を感じた。彼は、ホロフェルネスに途方もない怒りを感じたのだ。
殺してやりたい。孫のように。
平和を愛する老人の心に、今まで思ったこともないような感情が、その時、確かに湧き上がったのだ。


ユディトはショックのあまり泣くしかできなかった。つい、数時間前の事だ。数時間前、泣きじゃくる自分を抱きしめ、そして自分に対する愛の言葉をつぶやいてくれた少年が、確かにこの世には存在していた。なのに、それはもうこの世にいない。彼は痛々しい、真っ赤な人型の物質にしかならなかった。立った、数時間の間に。
むごたらしい。この光景を直視できない。ユディトの体から、何か、全てが抜け落ちてしまったような感覚だった。
彼女は、全てをあきらめてしまおう、とその時初めて思った。ベトリアの天使と言う彼女の立場も、あの鞭に引き裂かれ、崩れ落ちてしまったのだ。彼女には、それがはっきりわかった。
彼は言っていた。ネブカドネザルと、そして自分の母を侮辱したのだと。メロダクが彼に何を言ったのかはわからない。ただ、彼にとって、自分の母とネブカドネザルはそこまでに重要な存在だったのだ。乱暴をされた自分の侍女と、そして殺された少年の二人を見て、彼女は、彼の心は自分ごときでは絶対に変えられない、と絶望した。もっと早いうちにわかったじゃないか。と彼女は自分のあまりに楽観的な性格を責めた。そして、ホロフェルネスの恨みのほどに思いをはせた。最初から、許されなかったのだ。許してもらうことなど。自分たちは、彼にそれほどの事をしたのだ。今あらためて、それが心にしみた。どうすればいいのだおる。どうすることもできない。ベトリアは負けるしかないのだ。ベトリアの民は一人残らず死ぬか、奴隷になるしか道はないのだ。


青い顔でバゴアスが洗濯物を持ってくるため天幕の中に入ってきたとき、ホロフェルネsは言った。
「俺を恨んでいるだろうな」
バゴアスは「私に何を言えとおっしゃるのですか」と、涙ぐんだ声で続けた。
「今日は仕事はせんでもよい。自分の事は数日位自分でやれる」
彼はそう言って、バゴアスを天幕から追い出した。肩を落としながら外に出るバゴアスを見送って、ホロフェルネスは寝台に横たわりながら、母親の事を考えていた。
罵られて死んでいった母親。だが、自分にとっては、彼女こそまさに天使だった。ユディトよりも、彼女の方が彼にとってはずっと慈悲深く、天使のごとき存在だったのだ。誰も、そうは言わなかったけれども。
そして彼は、王の事も考えた。飢えて倒れていた自分、なぜ生きているのか、別に死んでも何の損もないんじゃないか、と思っていたところにやって来て、確かに自分が生きる意味を与えてくれたネブカドネザル王。彼は、純粋な気持ちで王に感謝した。
もしも自分がこの世の王になれるなら、ネブカドネザルを神に、そして自分の母を女神にして永遠に崇め立てたい。彼はそう思っていた。彼は喉が渇いたので水差しの水を飲み、そして一息ついて眠った。

夢の中で、彼は母親の夢を見た。彼の姿は子供のようだった。
彼はたまらなく懐かしい気持ちになり、母に抱きついた。母は優しい笑顔で「どうしたの?」と答えてくれた。そして、自分を抱きしめ、頭をなでながら、優しい声であやしてくれた。
「ホロフェルネス。貴女の望みはなあに」母は彼にそう言った。「お母さんがかなえてあげる」
「母さんと同じ望みでいいよ」彼は言った。「母さんの望みはなんなの」
「それはね」彼女は言った。
「私が死ぬとき、一人だけでも、私の死を泣いて悲しんでほしいなって思うの」

その時、彼は急に体の内部が痛む思いに襲われた。体が奥からと化されていくようだ。その不快感に耐えかね、彼はうめき声を上げた、と同時に、彼は目が覚めた。


「(夢だったのか)」彼は思った。母親の夢はよく見る。別段驚くことでもない。それに、彼はもう一つ、思うところがあった。
「死ぬとき、一人だけでも、私の死を嘆いてほしい」それは、忘れもしない、母が最期に言った言葉だった。食べ物がほしいとも、金が欲しいとも、奴隷の身分から解放されたいとも、遊牧民たちのもとを抜け出して、また普通の生活に戻りたいとも母は言わなかったのだ。死ぬことにしか希望を見いだせなかった母の気持ちは、いかほどのものだっただろうか。そうだ。母は、それを言って、それから遊牧民に連れ去られていって、その体の下で惨めな一生を終わったのだ。
そこまで考えた途端、ホロフェルネスはもう一つの異常に気が付いた。体の中に違和感を感じる。体を内部から少しずつ蝕んでいくような不気味な感触と痛み。夢の中で感じたものと同じだ。しかし、これは確かに現実だった。
彼は慌てて、指を口の中に入れてたらいに吐き出した。遺産が喉を刺激し、遺産交じりの唾液がドクドク出てくる。ただ、体の痛みは抜けることがなかった。
彼は、この症状を良く知っている。
彼はバゴアスを自分のもとから遠ざけた。さすがに、孫を殺されたばかりの男を自分のそばに置いておくことに危機感を感じなくはなかったからだ。だが、やはりホロフェルネスはバゴアスの事を、所詮何もできない老人と甘く見ていた。彼が隙をついて水差しの中に毒矢に塗る毒を入れたことを、ホロフェルネスは気付かなかったのだ。この先そのようなことをされないようにとバゴアスを遠ざけたはいいものの、時はすでに遅かったのだ。
彼は分かった。自分は、毒薬を盛られたのだ。自分を孫の仇と憎むバゴアスに。この毒を、彼はよく知っている。口から服用しては、丸一日生きられることはない。

「……ぬかったな」
何に証拠もない。バゴアスを訴えることはできないだろう。自分はここで死ぬのか。
彼は考えた。死ぬことは怖くない。問題は、ネブカドネザルの命令を達成せずにこの世から命を落とすのは無責任だと彼が考えていたことだ。
夜になったところを狙おう。ユダヤ人が寝静まった頃に。彼はそう思った。夜までは何とか持つはずだ。たとえ持たずとも、気力一つで持たせてみせる。
兵隊たちに準備をするよう命令をせねば。そう彼が立ち上がった時だった。
「将軍閣下!」
一人の伝令兵がやって来た。何事だ、と迎えてみると、彼は一つの手紙を渡した。
「ネブカドネザル陛下から、でございます」
ホロフェルネスは血相を変えた。
「ネブカドネザル様!?」
彼は急いで伝令を閉めだした。そして、久しぶりの主君からの手紙に、体内をむしばむ痛みを忘れて胸を躍らせた。そうだ、自分には主君がいる。仕えるべき主君がいる。このような方のためなら、命一つなどおしくもない。希望に満ちた笑いさえこみあげてくるようであった。
彼は手紙を広げた。だが、次の瞬間、彼の笑顔は凍りつき、足はガタガタと触れだした。やがて彼は、天幕の床に膝をついた。
手紙に記されていた内容は、こうだった。いつまでたっても成果を上げず、ベトリアのような小都市一つもうち取れず、もたもたしているどころか、度を越した見せしめで兵士の士気まで下げていると報告を受けた、お前に失望した、とある。もうお前はこの任務に当たらなくてもいい、お前が無能だということがはっきりとわかった。こちらからもう一人、もっと優秀なものをよこす。お前のような馬の骨に期待した私が馬鹿だった、という旨のものだった。

ホロフェルネスは地面に床を突き、絶句した。敬愛する王が、自分の事を見捨てたのだ。将軍としての時分に愛想を尽かしたのだしたのだ。
「そんな……ネブカドネザル、様……」
死ねと言われれば死ぬつもりだった。彼の期待になら、なんでも応えるつもりだった。だが、これは正しいのだ。そうだ。正しいのだ。
自分はただの獣だ。他の有象無象のものと同じだ。偉大なネブカドネザルには、自分の代わりなどいくらでもいる。自分一人いなくなったからとて、柵s年位支障が出ることなど、まさかあろうはずもないのだ。
ホロフェルネスはその時になって、自分の中に一縷の望みが残っていたことが分かった。彼は自分の事を獣だと思いながらも、それでも神たるネブカドネザルに、愛してもらいたかったのだ。駒の一つにすぎないと分かっていながら、それでも特別な駒でありたかったのだ。許されないと分かっていながら心のどこかでそれを望み、そして現実を突きつけられれば失望する。なんと浅はかだ、なんと不忠義だ、と彼は思った、自分こそ、ネブカドネザルを侮辱している。こんな自分をわざわざ愛する程度の存在に、ネブカドネザルを貶めたのだ。彼はそれも、非常につらかった。
どんな目を向けられようとも、何も感じなかった。ただ一人、ネブカドネザルに批判されて、彼は母親が死んだときにも味合わなかったような真の絶望を味わったのだ。
彼のネブカドネザルに対する忠誠や愛がもう少し常識的なものであれば、彼はもうすこし冷静になれただろう。そうすれば、あるいはわかったかもしれない。この手紙に王の印章がない事や、早馬や鳩を使ってもおととい起こったはずの公開処刑で士気が下がったことをネブカドネザルが知っているはずがないこと、そして、一生懸命王の筆跡に似せて書いてあっても、その筆跡にはどこか、バゴアスの筆跡の様な色も含まれていることなどがだ。
だが、彼はそれに気が付かなかった。ネブカドネザルの名で自らを否定された彼は、それどころではなかったのだ。

兵士たちに命令をする気すら、彼は一気に抜け落ちた。ネブカドネザルは、もはや自分を見てくれない。彼のために働いても、彼にとっては見捨てた男が勝手にやったことにすぎない。それどころか、彼の選んだもっと適任の将軍の仕事を奪ってしまうことにすらなるのだ。

何をすればいいだろう。彼は思った。
ネブカドネザルへのあいを失い、自分は一体、何をすればいいのだ。自分を愛する事すらも、もう忘れてしまった。
ああ、復讐がしたい。ベトリアへの復讐がしたい。だが、それもかなわない。気力がない。自分に軍隊の指揮権はもうない。でも、最後に何かやりたい。
彼は総逡巡していた。そんな中、母の言葉が頭に浮かんだ
そうだ。そう言えば、母が死んだとき、母の望み通り、自分彼女の死を嘆いた。思いっきり嘆いた。自分が死んだら、誰が自分を嘆くだろう。兵士は自分を慕わない。ネブカドネザルは自分を見捨てた。そしてユダヤは、自分の敵だ。
誰も嘆きはしないのか。この人間の屑が死んでよかった、と、バビロニア軍も、ユダヤの民も、そしてベトリアも、自分の死を喜ぶのか。
そんなものは嫌だ、と彼は思えた。死に瀕し、絶望を感じ、まるで砂漠をさまよい続けたあの時と同じような気分だと思えた。しかし、何かが違う。昔はここまま死んでもいい、と思っていた。だが、自分は今、死ぬ前に何かをしようと思っていたのだ。
自分の死を誰かに嘆かせる。その方法が、彼には見えていた。彼はネブカドネザルの偽手紙を丁寧に畳ん出からの壺の中にしまい、そして天幕の外に出た。

「宴会を開くぞ」
彼は自分の側近としている兵士たちに唐突にそう言った。バゴアスが自分を睨みつけているようだ。彼はそれに薄く笑い返した。バゴアスは一体どう思っているのだろうか。最後の宴を開こうとしているかのようにも見えているのだろうか。
「ここのところ、戦も始まらぬうちから不心得者のおかげで血なまぐさいものを見せ、諸君らも少々辟易しているだろう。ちょうど食料の補給は明日だが、節約したおかげで余った食料は大分あるはずだ。それらをすべて、開けてしまえ。好きなだけ飲んで騒げ。ついでに貴様ら以外の下々の兵士たちや、包囲中の兵士たちにも、そこまで料理を運んでやってふるまってやればよい」
彼は兵士の群れの中でそう告げた。側近の兵士たちは当然ながら、怪訝そうだった。ひょっとしてこれは自分達へのご機嫌取りか、と思うものもいただろう。だが、もはやどうでもいい。自分の最後の時だ。
「日が沈んだら、陣地に松明を何本もともせ。それを持って、宴を始める」
体内の激痛は余計にひどくなっていた。しかし、ホロフェルネスは端麗な顔を苦悶のゆがめることは決してなく、その美しさに相応しい威厳を持った言葉で、彼の部下たちに告げたのだ。
「バゴアスよ。お前に言っておくことがある」
彼は次に、バゴアスに告げた。老宦官は険しい顔で、震える声で彼に言葉に返事をしたが、その引き締まった唇から滑り出たのは、意外なものだった。
「あのユダヤ女を、俺のもとに連れてこい。……あのような女を抱かずにいるのは男として情けない、お前たちはそう思っているのだろう。よい。俺が男であると見せてやる。あの女も所詮、それを望んでいるはずだ」

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feat: Judith 第七話

《四日目》

夜が明けた。ユディトはもう、気が気ではなかった。
ミルツァはゆっくり休ませている。彼女は侍女でありながら女主人の世話ができないことを気に病んでいたが、あんな状態の彼女を働かせられるわけがない。
ミルツァを責めることはできない。何を言ってホロフェルネスを怒らせたのは分からないが、自分と、そしてユダヤのためにしてくれたのだ。ユディトにはそれがわかっていた。
ああ、いっそ自分が、過去の偉大な預言者のように、本当に神に愛された存在であったら。彼女はそう願った。しかし、願ったところで何も変わらない。
時分は、モーセでもなければ、エリヤでもない。神の力を借りて民族を救うなど到底できない女にすぎないのだ。美貌はある。もしもホロフェルネスがただの他人の男であれば、あるいは自分の色香に迷った彼を殺してしまうこともできたかもしれない。だが、相手は自分が一度捨てた男なのだ。そんな風に都合よく行けば何の苦労もない。
それでも、とユディトは決心を固めた。
それでも、やらなくてはならない。やらないことを、体が許してくれないのだ。正義と慈愛の心に満ちた天使、と言われて育った彼女の体は、すでに彼女が正義を捨てユダヤを捨てることを許してくれなかった。彼女は、そういうふうに育ってきたのだと、自分の事を始めて実感した。ベトリアの天使と言う自分の本質から逃れることはできないのだと思い知らされることは、彼女の人生の中で今をおいて他にはなかった。
諦めない。諦めなければどうにかなるはずだ。でも、どうやって?分からない。どうともなるはずがない。それでもなんとかなるはずだ。彼女の思考はもうぐちゃぐちゃに混乱し、彼女自身もどうすることもできないほどになっていた。そしてなお、彼女の心は、彼女がそのままでいることを許してくれず、焦燥感は募るばかりだった。

朝になった時、ホロフェルネスの方からユディトの前に姿をあらわした。
「どうだ、ユダヤの神から、ベトリアを見離すという託宣はあったのか」彼は薄笑いを浮かべてそう言った。昨日彼女の侍女に乱暴を働いたことは、当然何の罪悪感もわいていない様子であった。ユディトはそんな彼に震えながら「……まだです」と答えた。事実、まだだ。自分に預言など下るはずがない。
「そうか、まあよい。今は追放してしまったアキオルに責めて誠意を払うためにも、俺たちは待つぞ。一週間でも、一か月でも。食料の補給は十分にあるからな」
ユディトは一瞬だけその言葉にほっとしたが、間もな句、それはだめだということに気が付いた。一週間に一か月?それほど包囲戦が長引いてしまえば、ベトリアの民は全員飢えと渇きで死んでしまう。彼女は止めるために何か言葉を発しようとした。だが、ホロフェルネスは「それともまさか、どうぞ今すぐベトリアに攻め込んでくれ、なんて言わないよな?」と厭味ったらしく言い返してきた。彼女は、黙るしかなかった。
ああ、神よ。神よ。貴方がどうにか言って下されば。あの敬虔なベトリアの民を救ってくだされば。ユディトは必死で神に祈った。しかし、頭の中は空っぽのまま、神を感じることなどできなかった。
ホロフェルネスは彼女を嘲笑すると、そのまま立ち去って行った。


「バゴアス」
自分の寝台を治しに来たバゴアスに、ホロフェルネスは言った。
「兵たちに発表するつもりだが。これから、ベトリア包囲は続ける。だがベトリアへ攻め込むことはない」
「?なぜですか、閣下……」
バゴアスも最初は、ユダヤの神が彼らを見捨てるまで待つと言った旨の発言に絡んだことだと思っていただろう。だが、それはいつ来るかわからないではないか。それなのにはっきり「ベトリア包囲を続ける」と言った彼の意図を、すぐには理解しかねなかったのだ。だが、しばらくすると、彼はその恐ろしさに気が付いた。
「か、閣下、それでは」
「ああ……俺は、最初からユダヤの神なんぞの託宣を待つ気はないさ。待つ気はないが、ベトリアにすぐ攻め込むつもりもなかった」
ホロフェルネスは戸惑うバゴアスを面白そうに眺めて言った。
「俺はだな、ベトリアの住民を、剣で楽に死なせてやるつもりなど毛頭ない。奴らは全て、渇きと飢えに苦しんで苦しんで、苦しみぬいて全滅させるのだ。それが俺の作戦だ。あの女奴隷共のように、バビロニアに、ネブカドネザル様に跪き惨めな奴隷になる覚悟を決めたもの以外は全員ユダヤの神を信じて、そのまま苦悶のうちに死ねばよい」

バゴアスはそれを聞いて、さすがに背筋に悪寒が走った。この将軍は、なんと残忍な勝利を望んでいるのか。だが、ホロフェルネスの端正な顔は、本当にそれを考えて楽しそうであった。
「(そう……これだ。これがふさわしいんだ)」ホロフェルネスは一人、考えていた。「(あの日、砂漠に追いやられた俺たちの悲しみと苦悶を、お前たちもたっぷり味わえばいい。水が飲めずに体が燃えるように火照るあの感覚を。汚い虫をつぶしてでも水分を必死でとったような、あの惨めさを。お前たちもあいわえ。そして干からびて死ぬがよい。投降してくるならよかろう。俺たちが受けた仕打ちのように、俺はお前たちを人間とも思わない扱いにしてやるのみだ。忌々しいベトリアめ、これがお前らの罪だ)」

ホロフェルネスは気が付いていた。それを天幕の外から聞いている存在を。だが、気が付いていて、無視した。彼にとっては誰もどうでもいいのだ。自分を含め、誰も、人間ではない。人間は、自分の母がいただけだ。そして、神として、ネブカドネザルがいるだけだ。後は全部獣と大して変わらない。それがホロフェルネスの世界観だった。


息を弾ませて、ユディトのもとにやってくる少年の姿があった。メロダクだった。
「メロダクくん!?」ユディトは彼の必死な形相に驚いた。周りに人がいないのを確認して、メロダクはまだ声変わりもしていない声をひそひそと小出しにして、ユディトに今しがた自分が聞いてきたことを語った。
「……将軍閣下は、最初から……ベトリアを、まともに殺す気などなかったのです。あの方は……ベトリア住民全てを、苦しんで死なすつもりなのです」
ユディトはそれを聞いて、めまいを覚えた。彼女にはわかった。ホロフェルネスの思いが。まさに彼が考えていたことが、彼女の頭にも浮かんだのだ。彼は、思い知らせるつもりだ。ベトリアから見捨てられた彼と彼の母がどんな思いをしたか。ただの剣の死では生易しいのだ。もっと、もっと長く続く苦痛を与えなくては、ホロフェルネスの気はすまないのだ。
ユディトはめまいのあまり、そこにへたり込んだ。ホロフェルネスの憎しみの底が見えない。彼の中にある人間的な情に訴えかけることが、日を経れば減るほど、不可能に思えてくる。人はここまで、憎しみに満たされることができるものだろうか。彼女は恐ろしくなった。ホロフェルネスに残る人間的な状。それが、ユディトが唯一頼れる一縷の望みであるというのに。それを壊してしまったのは、間違いなく自分たちなのだ。ベトリアなのだ。
そっと肩に手が置かれた。柔らかい手。メロダクのものだった。
「ユディトさん」彼は穏やかに、優しく語りかけた。「お可哀想に」
「ありがとう」
ユディトは、その黒葡萄のような目からころころと涙の玉を転がして、静かに泣いた。気が付けが、メロダクが彼女の顔を抱いて、自分の胸に押し付けていた。何か言おうとしたが、それよりも絶望のあまり泣きたくて、ユディトは彼に身を任せたまま泣いた。
「将軍閣下も、相当おつらかったのでしょう」メロダクは言った。「でも……あまりに、常軌を逸しています。先日ミルツァさんになさったこともそうですし。そして……ユディトさん。貴方は、こんなに優しいのに、将軍閣下のおかげで、こうもなくはめになる」
彼はユディトの背中を撫でた。ユディトの裸を見てしまい照れて慌てる少年らしい情けなさはなく、彼がしっかりと一人の男であることを、その手触りが物語っていた。
「……僕は、ここ数日で、どんどん将軍閣下が嫌いになります。誰も、人間とも思っていない。ただでさえむごたらしい戦争を、さらにむごたらしくする。全てはネブカドネザル様のため、そう言って……」
彼はユディトをなだめながら、そう語った。ユディトは涙をぬぐって、彼の顔を見上げた。その手つき同様、きりりと引き締まった彼の顔は、立派に、男のものであると思えた。
メロダクは、今度はユディトの眼をしっかり見ると、言った。
「ユディトさん。僕、貴女が好きです」
彼は唐突にそう言ったはずだった、。だが、ユディトにとっては特に唐突とも思えなかった。彼がそう言うことが、わかっていたような気がしたのだ。
「貴女はお美しい。貴女は清廉なお方です。正しく、勇気ある人です。平和を愛する、心優しいお方です。まだ、出会ってから何日もしていないのに、とお思いでしょうね。こんな子供がませたことを、とお思いでしょうね。でも、僕は貴女が好きです。貴女の、全てが好きです」
ユディトの眼から涙がこぼれるのをやめたのを見届けて、メロダクはそっと両手を彼女から話した。
「あなたの幸福のためなら、僕は何でもできます。バビロニアを抜け出て、貴女の故郷で、貴方に求婚したいとすら思っています。僕自身も、ユダヤ教に改宗して……」
「メロダクくん」
「もう一度言います。貴女の幸福のためなら、僕は何も怖くありません」彼はそう言って、立ち上がった。
「将軍閣下をこのままにはしておけない」
「メロダク君、何を!?」
踵を返した彼にユディトはそう叫んだ。彼は、後姿のまま、言った。
「平和にすめば、それでいい。あの方も人間です、平和の素晴らしさが心にしみないことはない……そう信じたいですよ。でも、あの冷酷な耳がそれを聞き届けないなら……どんな手段をしても、僕は、ベトリアの包囲網をとかせて見せます」
彼はそう言って、立ち去って行ってしまった。


「将軍閣下、貴方様のしもべメロダクが謁見することをどうかお許しください」
そんな丁寧な言葉を聞いて、天幕の中にいたホロフェルネスは「入れ」と言った、天幕の戸が開いては言ってきた彼の顔を見て、ホロフェルネスは面白そうに言った。
「良い面構えになって来たな。気弱なお前でも、戦場に居るうちに、軍人の風格を身につけてきたか」
「お褒めの言葉を賜り、光栄でございます」
「して、何の用だ」
紫布の寝台に足を汲んで腰かける総軍に、メロダクは頭を下げた姿勢で言葉を投げかける。
「先ほど塀に向かっての発表がありました、ベトリア包囲についてです」
「なんだ、何か悪い事でもあるのか?戦いは不得手なお前なら、嬉しくない令ではあるまい」
「閣下、あれは……ベトリア住民を飢えと渇きで皆殺しにする作戦ではないのですか?彼らの食料や水の補給路を、我々は全て断っているのですから」
ホロフェルネスは無論、わかっていた。わかっていたからこそ、彼は芝居がかかった笑いを含み「お前にしては上出来だ、その通りだ。それで、何の問題があるのかね?」と言った。
「無駄な血を流さずに済むのだぞ。悪い策戦ではないはずだ」
「いいえ……いくらなんでも、むごたらしすぎます。それに、その作戦だと、ベトリアの兵士たちではなく、民間人まで殺してしまうことになる。それは戦の流儀に反します」
「問題ない。ユダヤ人たちは彼らの歴史の中で、よく行っていたことだ」
「それとこれとは違います。時代も国も違います。このような残酷な戦争は……ネブカドネザル国王陛下のお顔に泥を塗りましょう。……かえって、ユダヤ人を生かしてやった方が、陛下の慈悲深さを物語ることになるかもしれません」
敬愛する王の名を出されて、ホロフェルネスは今度は自然な笑い方でははは、と笑った。
「なるほどなるほど。それはその通りだ。……もし、ネブカドネザル様が、この戦に赴くにあたって、俺にユダヤ人は老若男女全てに至るまで容赦するな、殺しても全くかまわん、お前の好きにするがよい、ただ、一切の情けは許さない、という命令さえ下していなければ、の話だが」
「なんですって」
メロダクはそんな会話のことなど当然知らなかった。ホロフェルネスは続ける。
「あの方は、俺以上にユダヤ人を嫌っておいでなのだよ。自分を侮辱したどの民族よりも、特別にね」
「そんな……」
メロダクは頭を抱える。ホロフェルネスはそんな彼に、何も言わなかった。
「でも……戦争は……こんな惨いことは……止めなくては……もっと、平和的解決が……」
「戦争が嫌いか?平和が好きか?」ホロフェルネスは相手の口が開いたのを見届けて言う。「ならば、いっそ死んでしまえ。お前は今この時代に生きるのに向いていない」
「将軍閣下……!」
「お前ひとりの言葉など、俺に何の価値もない。俺はネブカドネザル様のための忠実な駒。あのお方の命令がある以上、俺はいかなる情けもベトリアにかけんつもりだ」
「……ユディトさんは、何なんですか?」
メロダクはそうつぶやいた。
「ユディトさんに乱暴しようとした人たちを、無残に殺したことは?」
「話を聞いていなかったのか?ネブカドネザル様に剣序数る女に手をつけようとしたものを殺した、それのどこに不具合がある」
「……うそばっかり!」
メロダクは突然、今までの声色と打って変わるような大声を出した。それに、さすがにほろふぇねすも一瞬戸惑った。
「何……?」
「全部ウソだ!あなたの母親がどうとか、ネブカドネザル様がどうとか!」
「母さん!?」彼は驚いた。「メロダク、何故貴様が俺の母さんの事を知っている!」
「ユディトさんとミルツァさんから聞いたんです!」メロダクは責め立てるように言った。「あなたはそんな大義を抱えて、ベトリアを、ユディトさんたちを追いつめてるつもりですね!でも、違うんでしょう!あなたは、今でもユディトさんが好きなんだ!」
その言葉を聞いて、ホロフェルネスはすっと顔色を変える。
「なに……?」
「貴方はまだユディトさんが好きなんだ、彼女に未練があるんだ!だから、貴方とユディトさんを引き離した故郷が許せないんでしょう!ユディトさんに触れようとする人たちが許せなかった、彼らに嫉妬した、ただそれだけの事でしょう!」
その時だった。
ひゅんと空気を切る音がして、メロダクの顔に激しい痛みが走った。と同時に、彼の顔から血が出た。ホロフェルネスが、馬用の鞭で彼を叩いたのだ。
彼の顔は、怒りに染まっていた。
「言うに事欠いて……俺が、ユディトのためにベトリアを憎んでる?ユディトを取られることに嫉妬していた?この俺が?」
彼の声はわなわなと震えていた。
「だって」メロダクは痛みに耐えながら言った。「自分に何の利益もないのに、動く人なんていますか?」
「いるんだよ、それが」ホロフェルネスはまっすぐに血の切れ込みが入ったメロダクの顔を見つめて、無機質な声でそう返した。
「良い家に生まれて、祖父たちに愛されて、ぬくぬく育ってきたお前にはわかるまい。自分の幸せを望むこともできなくなった、それほどの不幸が、この世に存在するということを。お前にはわかるまい。恋だ愛だというものは、ずっと続くと信じているような、もの知らずの小僧には、俺の気持ちは一生わかるまい。俺の感情も、俺の憎しみも、お前たちの間には、所詮、他人の同情を引きたいがための自己憐憫のわがままとしか映るまい」
彼はもう一度鞭をふった。それは、メロダクの腕を直撃した。あまりに激しくたたきつけられ、メロダクは、出血するのみならず腕がしびれてしまった。
「俺はただの獣さ。お前たちと同じ、ただの下等生物だ。だから、俺を侮辱した罪については許そう。俺は所詮、侮辱されてもよい存在だ。だが、お前の罪はほかにある」
痛みへの喘ぎ声を必死で覆い隠そうとするメロダクをつまみあげて無理矢理立たせ、オロフェルネスは言った。
「お目の罪はだな、俺の母と、俺の敬愛するネブカドネザル様を侮辱した罪だ」
「えっ?」
メロダクはそう言って見せた。ホロフェルネスは続けた。
「お前が言ったのはそう言うことだ。まるでユディトさえ手に入れば、俺がこの復讐をやめたとでも言いたげだな。本当はネブカドネザル様で泣く俺がユディトを欲しいのだと言いたげだな。それはつまり、お前の考える俺の中では母が殺されたこと、ネブカドネザル様の誇りよりも、ユディトが俺のそばに居るか否かの方が重要事項であるようだ。……おまえは、俺の母と、そしてネブカドネザル様以上に、ユディトのほうがずっと価値ある存在だと、確かに言ったのではないか!あんな偽善者の売女が!なぜ俺の母と偉大なる王よりも大切なのだ!ええ、言ってみろ!お前は、俺の母とネブカドネザル様を、あのユダヤ女以下の存在と貶めたのだ!なんたる侮辱、なんたる大罪だ!」
彼はメロダクの着物を脱がせ、全裸にした。そして彼をつまみ上げたまま天幕の外に出た。外にいた兵士は、顔面を一文字に切り裂かれたメロダクを見て驚いたが、ホロフェルネスはそんな彼らに向かって言った。
「聞け!この小僧は、ネブカドネザル様を侮辱した!寄って、公開処刑とする!手の空いているものは濃い!この姿をあの破廉恥な二人の兵隊と同様に見せしめにするのだ!」


その声に、勿論ユディトも駆け付けた。「メロダクくん!」彼女は悲痛な叫びをあげた。
ああ、やはり無理だったのだ、ホロフェルネスを説得することなど。それどころかミルツァと同じく、彼の逆鱗に触れてしまった。その絶望も大きかったが、彼女はそれ以上に、メロダクの痛々しい姿の方に心を痛めた。メロダクは彼女の方を見たが、すぐに目をそらしてしまった。
「か、閣下!」そう言ってホロフェルネスの前にまろび出てきたのは、バゴアスだった。
「お許しください、孫が、何をいたしましたか」
「侮辱してはならんものをこいつは侮辱した。万死に値する発言をした。それだけだ」
「閣下!お慈悲を!」
バゴアスは地面に突っ伏し、土下座してホロフェルネスに頼み込んだ。
「私どもの息子夫婦が早世してからと言うもの、この孫だけが私の生きる望みでありました。孫の成長を楽しみに、今日という暇で生きてきたのでございます。孫の罪ならば私目がいくらでも償います、どうかお慈悲を!まだ若い子でございます、将来のある子でございます!お慈悲を、お慈悲を!」
ホロフェルネスは彼を見もしなかった。「どけ」と一言だけ言って、地面にうずくまるバゴアスを激しく蹴り飛ばした。彼はうめき声をあげて、地べたに転がった。
「貴様一人の命で替えがきくほど、こいつが汚したお方の誇りは軽くはない」
ホロフェルネスは兵隊にバゴアスを押さえつけるように言った。兵隊たちは躊躇しているようだった。バゴアスは長年群で宦官をしてきた身であるし、彼らとしてもホロフェルネス以上に親しく思っていた相手なのだから。だが、ホロフェルネスの剣幕の前に、とうとう兵隊たちもバゴアスを泣く泣く押さえつけた。
「お慈悲を、お慈悲を、閣下」
「黙れ!俺の母親と、ネブカドネザル様!この世で最も辱めてはならん存在を、この小僧は侮辱したのだ!」
ホロフェルネスは激しくメロダクに鞭を打ち込んだ。鞭が打たれるたび、彼の少年らしい、まだなめらかな皮膚が避け、赤い血が吹き出た。メロダクは必死で、苦悶の声を抑えているようだった。
首きりならいざ知らず、鞭打ちでは人は簡単には死なない。わかっていて、ホロフェルネスはむち打ちを続けた。解放する気などなかった。彼が死ぬまでやるつもりだった。バゴアスは、声がかれるほど、孫を許してくれ、すまない事をした、お慈悲を、と繰り返し続けていたが、それすらも彼の皮膚を切り裂く鞭のしなる音にかき消されていくような思いだった。一つ、また一つ、地べたに血が飛び散る。メロダクの体は真っ赤に染まっていった。それでもホロフェルネスは鞭打ちをやめなかった。彼の最も愛する者二人を侮辱された怒りは、彼をこのような行為に駆り立てたのだ。本当はもっと、もっと残酷な処刑法すらしてやりたい気分だった。だが、もうそのための準備をすることすら惜しいのだ。この小僧を一刻も生かしては置けない。その気持ちもあった。ユディトが自分にすがり寄って、また愛の言葉をささやけば、自分がベトリアを許すと思っているのか?ネブカドネザルを裏切ると思っているのか?ばかばかしいことだと彼は考えた。所詮、この血にまみれた小僧は、それしきの不幸しか経験してはいないのだ。不幸を自慢しても何にもならない事は確かだが、しかし、自らの気持ちを預かり知りもしないものに、訳知り顔で何かを言われたくなどない。ましてや自分の亡き母に対する無限の愛情と、ネブカドネザルに対する至高の敬愛を否定され、なぜ黙っていられよう。自分はもう、自分を愛する事さえできないのだから。彼らへの愛を失えば、もう、何をすればいいのかもわからないのだから。

数時間が経った。体中を余すところなく赤に染められたメロダクだったものは、ピクリとも動かず、ただの肉塊になり果てた。ホロフェルネスは満足そうに息を切らした。
「死体を片付けろ」
彼はそうとだけ言った。バゴアスが枯れ切った声で言う言葉など、もはや聞こえもしなかった。
彼は感じた。自分は今、軽蔑されている。無理もない。戦いが苦手だったとはいえ育ちもよく謙虚で、、自分にできることを必死にやっていたメロダクを好ましく思うものも多かったのだ。第一、年端もいかない者でもある。それを、こんな無残な殺し方をして、と自分を軽蔑するものが多く出ることくらい、彼にはわかっていた。だから、どうしたというんだ。彼らからの尊敬などいらない。ネブカドネザルの駒であり続けられれば、自分はそれで十分なのだ。
彼は踵を返し、天幕に帰っていった。

「おお……」
バゴアスはようやく兵士たちから解放され、変わり果てた孫の死体を抱いた。
「痛かっただろうね、つらかっただろうね。メロダク……お前みたいないい子が、なぜ、こんな目に……」
バゴアスは泣きに泣いた。そのほかのどの兵士も、それをとがめられなかった。バゴアスは宦官の服を孫の血にまみれさせ、そして、きっとホロフェルネスの天幕を睨みつけた。

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feat: Judith 第六 話


「何よ」とミルツァは呻いた。
「何よ、何よ、信じられない……」
彼女も奴隷として、切り捨てられた二人の兵士の死体の片付けにあたらされていたのだ。そばには、メロダクも一緒だった。
メロダクは、何も言わずに、地に転がった泥だらけの生首を取り上げた。しかし、その顔色が真っ青で、手はガタガタと震えていたのをミルツァは見逃さなかった。彼女は、彼に同情した。


天幕の中に閉じこもりながら、ホロフェルネスは昔の事を考えていた。一生分の涙を、自分は流しきってしまったのではないか、と思うほど、ベトリアを追い出された自分は泣いた。母親はそんな彼を責めなかった。「ごめんね、ごめんね、私のせいで。貴方は何も悪くないのに」彼の母は、どんなに彼が泣いても取り乱すことなく、彼を抱きしめてそう言った。彼にとって、唯一の救いは、母の声と体温であった。一袋分だけ水とパンを渡されて、日の照りつける砂漠を、彼らは当てもなくさまよった。何日も、何日も。
砂漠を行く遊牧民を見つけた時、自分たちはどれだけ嬉しかったことか。数日ぶりに口に入れる水が、どれだけ美味しかったことか。そして、その幸せゆえに、その「代償」を要求された時、どれほど、絶望したことか。
たった一袋の水で、自分たち親子は、一生彼らの奴隷にならなくてはならなかったのだ。かわるがわる母は犯された。何日も、何日も。昼間のうちは重労働をさせられ、夜も眠る時間すら与えられなかった。危険な旅路に妻を連れていくことができず、体だけは屈強な遊牧民たちは皆性欲を持て余していたのだ。母が月経の時も全くお構いなしに彼らは血まみれになった母を蹂躙した。ホロフェルネスも、その端麗な容姿のため、全く母と同じような目になったのだ。そして、そんな日々の間も、母は常にホロフェルネスの事を心配していた。なく涙もなくなった彼は、つらさを伝える手段などもはや持てなくなり、遊牧民の男たちはそんな彼を「素直になった」と褒めた。しかし、そうなっても、唯一母だけは、ホロフェルネスの心が悲鳴を上げる瞬間がわかったのだ。その度彼女は彼を抱きしめ「つらいわね。ごめんなさい。ごめんなさい」と言った。
「あなたを生んでしまって、本当に、ごめんなさい。アッシリア人の子などに生まれなければ、こんな目にもあわなかったのに」
ある夜、いつもと同じようにそう言われた次の瞬間、母はいつも通り遊牧民に手を引かれていった。そして、二度と、もうその言葉はかけてもらえなかった。母は、とうとう体の限界が来て、自分を人とも思わなかった遊牧民の男の腕の中でこと切れたのだ。彼が今思い出しても腹が立つのは、彼らはそれでも、何日間か母の死体を犯していたことだ。
ある夜、彼は数人の遊牧民の寝首をかいた。そして、ラクダの一匹に乗って、砂漠の中を逃げた。足も残りやすい砂漠だ。彼らの仲間たちに追いつかれ、殺されるか、今までにもまして侮辱を受ける可能性は十分にあった。しかし、彼はそれでも構わなかったのだ。母の命を侮辱した者たちに一矢でも報いなければと、彼の心にあったのはそれだけだった。
奇跡的に、逃亡は成功した。
一人きりで、町が見えるまで逃げた。惨めな生活を、何年も味わった。もう、自分の心の悲鳴を聞き続けてくれる母親も失った彼は、ただひたすら抜け殻のように、その後十年以上、ただ生きる事だけはやめなかった。

あれがいつの事だったかも覚えていない。ただ、彼は空腹で倒れていた。その時に、一人の男が手を差し伸べたのだ。そうだ、その時から自分の人生は、また変わった。


ベトリアの包囲網は今日も動かない。が、バビロニア軍の士気は落ちていると言えた。将軍が、兵士二人の公開処刑が行ったこととそれは、無論のこと直結していた。


「奥様に乱暴しようとした罪、っていうのならわかるわ。私だって、そこは憎いもの。こうして死体になっても、許せやしない」ミルツァは言った。
「でも……でも、そうじゃないのね。あの将軍は、乱暴の罪以前い奥様の事も、自分の仲間の事も、みんな一様にネブカドネザルの道具としてしか見ていないんだわ」
「……そうですね」彼女のそばに居たメロダクも言う。
「いくらなんでも……こんなの、耐えられない!」
メロダクが彼女の言葉に怪訝そうに反応した時、彼女はもう立ち上がって、端って言った。「あっ、ミルツァさん!」とメロダクもあわてて彼女を追いかけたが、すばしっこいミルツァにはなかなか追いつけなかった。


「ホロフェルネス!」
甲高い、幼い声が外からした。一人になりたくて護衛すらも遠ざけたから、おそらくここまで楽に彼女は来れたのだろう。
彼に声の主は分かった。追い返しても、無視してもいい。だが、彼は何とはなしに彼女と話す気分になった。ユダヤ人に言ってやりたいことなんて、履いて捨てるほどある。それに、奴隷のくせにのこのこと将軍のところまでやってくるその身の程知らずな正義感がいっそ滑稽でもあった。
「入れ」彼は紫布のベッドに寝転んだまま、天幕の外に向かって言った。声の主が自分が自分の方から出てこないことに不満なのが見て取れた、ホロフェルネスは、つくづく女奴隷のくせに姫様気取りで高慢ちきな輩だと思った。
「(ユダヤ人は選民意識が高いからな。自分の国では奴隷であっても、他の民族の王女にも当たると思っている良い証拠だ)」彼はそう思って、自分は一歩も動かなかった。
やがて、中に入ってきたミルツァに、ホロフェルネスは「さっそく報告事項を言うが良い」と言った。
「報告じゃないわ」
「言葉遣いが悪いな。お前たちは奴隷だということを忘れたのか?」
「私は奥様以外の誰にも仕えない。貴方の奴隷になんてなった覚えはないわ」
ミルツァは彼を睨みつけて言う。彼は「馬鹿につける薬はここにはない。今一度、お前のその態度を許そう。何を言いにいた」と言ってのけた。
「単刀直入に言うわ。貴方が供した仕打ち、人間としておかしい……どうにかしてるわよ」
「ほう?お前のように『奥様』に忠誠を誓う娘なら、主君たるネブカドネザル様に忠誠を誓う俺の気持ちも理解できると思っていたが」
「できるわけないでしょ!?」ミルツァは言った。
「あなたの部下よ!」
「お前はお前の郷里の人間がお前の奥様を犯したら、そいつらを無罪放免するのか?」
「馬鹿言わないで、私たちがそんなことするはずないでしょ!」
「ああ、悪い悪い!そうだったな、仮にそんなことが起こっても、お前の奥様は許すか。天使のような慈悲の心で」
ホロフェルネスが嘲笑吸うように笑ったことが、一層ミルツァの癪に障った。
「私たちは、同胞をあんな無残に切り捨てたりはしないわよ!」
「モーセは?モーセは味方のユダヤ人を虐殺したのではないのか?」
「あれとこれとは違うでしょ!?モーセが殺したのは偶像崇拝に走った人たちよ!今回の話とは関係ないわ!勘違いしないで!私はね、奥様が犯された男たちが憎くない訳じゃないの!貴方が、その男たちも、奥様の事も、人間として見てないことに腹を立てているのよ!」
ミルツァがそうまくしたてる。
「ネブカドネザル様、ネブカドネザル様……ネブカドネザル様のためなら、バビロニア人でも、ユダヤ人でも、人間らしくあることをやめろってあなたは言っている」
「ああそうだ。だって、そうあるべきじゃないか」さらりと、こともなげにホロフェルネスは言ってのけた。「あの方こそ、生ける神に相応しい」
「神様はただおひとりよ!」
「ああ、それがネブカドネザル様だ」
全く自分の話を聞く様子のない自分にミルツァが業を煮やしている様子が、彼にはわかった。わかって、彼はいっそうそれを面白がった。
「貴方、ネブカドネザル様が死ねって言ったら死ぬのね!」
「当たり前の話じゃないか?あのお方に人生を否定され、なぜ生きる価値がある」
淡々と語る彼の表情は、ミルツァの眼に異質なものであると映った。
先ほど、彼はユディトに対する自分の忠誠心と、王に対する自分の忠誠心を重ねて言った。だが、違う、と彼女は思った。重ねられるようなものではない。無論のこと、自分もユディトに仕えて以来、誰よりも美しく優しい女主人に命を差し出してもよいという思いで仕えてきた。だが、それでも違う。何が違うのか、彼女自身にもよく分からなかった。だが、ホロフェルネスの忠誠は間違いなくただの忠誠を超えた狂信的なものであると、全く素面のまま、当たり前のように話す彼の口調から見て取れたのだ。
きっと彼は、反省などしない。自らの口からユディトを奴隷呼ばわりしたことはもちろん、自らの兵士を命乞いを無視して切り捨て、そのせいで軍の士気を下げたことも。
「……哀れな人」
ミルツァの心に生まれた言葉が、ポロリと彼女の口からこぼれ出た。
「その王様の事ばっかりで、自分ってものがありはしないなんて、本当……哀れな人」
彼は彼女のその言葉を聞いて、薄く笑った。
「自分ねぇ。それを殺したのは、お前たちベトリアの民だからな」
「知らないわよ。そんなの。私が生まれる前の事じゃない」ミルツァは彼をきっと睨んで言い返す。
「ベトリアを解放しなさいよ。いつまでも恨んでいないで」
「駄目だね」
「何よ、貴女を不幸にした都市を、そんなに許せない……?」
「当たり前だ」
ミルツァは、だんだん自分を抑えられなくなってきた。それはおそらく、決して傲慢ではなく、彼女が持つユダヤへの誇りと神への信仰神、愛国心のためであったのだ。
「私だって……私だって、親の顔、見たことがないわよ。でも奥様に拾われて、侍女として、今、私は幸せだってはっきり言い切れるわ。奥様の事は尊敬している。あの方のためなら何をしてもいいわよ。でも、自分だけは、自分だけは見失ったことはないわ」
彼女は一息数と、とびきり刺のある声で言った。彼女は、交渉をしよう、という気ではなかった。ただひたすら、言わないと彼女の義憤が許さなかったのだ。
「恨みがましく、そんなこと引きずって、馬鹿みたい。貴方は今こうして将軍として、宝石で飾った天幕の中で紫布のベッドに寝転べるような立派な身分になれているのに、それに幸せも見出さないで、自分を見失って、そのくせ私たちの前ではこれ見よがしに不幸を見せびらかして見せて、ほんと呆れちゃうわ。馬鹿みたい。前を向きなさいよ。子供みたいね。全く、いい年して、甘えてばっかりだわ」
ミルツァはホロフェルネスを嘲笑するように、そう言った。彼が自分を嘲笑したように、自分も彼を嘲笑して見せたのだ。
だが、少しして、それがあまりにもいきすぎだったということを彼女は知った。ホロフェルネスは彼女の言葉を聞くや、みるみるうちに険しい表情になったのだ。
「……幸せ?前を向けだと?俺が、不幸を、見せびらかしている……だと?」
ミルツァは慌てて嘲笑の表情を引っ込めた。だが、時すでに遅かった。ホロフェルネスは憤怒の形相で彼女の頭をつかみ、「ふざけるなよ!」と地面に思いっきり叩きつけた。そして、何度も何度も同じように叩きつけながら、彼は怒鳴り散らした。
「母さんと俺が、何をした!普通に生きていただけだ!普通に畑を耕し、家畜の世話をしていただけだ!お前らはそんな俺たちを働き者だと言っていたはずだ!なのになぜ、何故、生まれが違うと言うだけで、その正義も悪になり得たのだ!見せびらかしたくなどあるものか!あんな過去、ないにこしたことがあるものか!いえ、ユダヤ人!俺たちの罪はなんだ!アッシリア人に生まれたことか!そうだろうな、それ以外、俺たちは何もしていない!アッシリアが罪か、ユダヤが正義か!?ユダヤの何が正義だ!生きれもしない女と子供を裁くに放り出すことの何が正義だ!いもしない神に選ばれたと鼻高々になりやがって、お前らこそ自分を甘やかしているじゃないか、この偽善者ども!幸せになれだと!?俺から幸せを奪ったのはお前達だ!お前たちが天使の崇めるユディトは、命惜しさに俺を見捨てた悪魔だ!アッシリアにとってはな!お前たちはただの偽善者だ!偽善者、偽善者!」
その時、人が入ってきた。メロダクだった。
「ミルツァさん!」
メロダクの叫びを聞いて、ホロフェルネスはようやく彼女の顔面を地面にたたきつけるのをやめて、彼の方を向いた。彼女は顔中だらけではれ上がり、鼻から血が出ていた。
「酷いけがだ……」と言いかけたメロダクから、ミルツァは目をそむけた。ホロフェルネスは何か言おうとする彼に言った。
「この娘をつまみ出せ」
メロダクのもとに彼女を蹴ると、彼は後、何も言わずにまたベッドに寝そべってしまった。メロダクは承諾するしかなかった。


「良かった。出血はしているけど、鼻は折れていないようですね」メロダクは彼女を介抱しながら言った。ミルツァは何も言わなかった。
「……実は、聞いていました、天幕の外から」沈黙ののち、メロダクはぼそりとそう言った。
「え?」
「ミルツァさん……将軍とベトリアの間に、何があったんですか?」
彼は神妙な表情だった。ミルツァも、聞かれていたからには話さないわけにもいかなかった。彼女は、ユディトから聞いた全てを彼に話し、終わるころには日が暮れようとしていた。
全てを聞き終えて、メロダクは頭を抱えた。
「なるほど……将軍がここまでベトリア討伐に燃えるのも、わけがあったのか」
「あの……私達」
「ミルツァさん。何も言う必要はないですよ」彼は言った。「こんなことで、貴方達を見下したりしません。将軍や将軍のお母様は本当にお気の毒でしたけれど、それでも、あの人も少し、やりすぎなところはありますよ」
彼は非常に穏やかにそう言って、包帯を巻いたみるつぁの頬を慰めるように優しくなでた。
「平和的に解決できれば、それが、どれほどいい事か……」
彼はそう、しみじみと言った。ミルツァは彼のその優しい言葉に、涙を流した。涙の塩気が、顔の傷にしみこんでひりひりした。

「ミルツァ!?」
そこに、ユディトがやって来た。話を聞いて来たらしい。
「まあ、メロダクくん……手当をしてくれたの?ありがとう」
「いえ……」
ミルツァが何を言う暇もなく、ユディトは彼女を抱きしめた。
「よしよし、つらかったでしょう?ごめんなさいね、何もしてあげられなくて……」
「良いんです……いいんです、奥様……」
ユディトに抱かれながら、ミルツァはますます泣いた。三日目の夕日が暮れようとしていた。

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