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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Mary and Joseph 第八話

有る秋の日のことだった。エルサレムに、ローマから新たな軍人が赴任してきた。ローマ人たちが異邦人に対してもつ感情はさまざまだが、彼はかなりユダヤ人たちには友好的に接したいという思いの持ち主であるらしく、赴任して真っ先に挨拶に来た先が、ヘロデ王の城と、エルサレム神殿であった。
そしてその彼がエルサレム神殿に現れた時、その彼をこっそり窓から見ていたマリアたちは皆色めきたった。
「お初にお目にかかります。ローマ弓兵第一コホルス隊長、ティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラと申します。以後、お見知りおきを。大祭司様」
そう、軽やかなラテン語で告げる彼は、非常な美男子だった。

流れるように滑らかな髪はツヤツヤと輝いていた。背はすらりと高かったがどちらかと言えば細身な体形をしていて、野蛮な軍人という雰囲気はまるでなく、洗練された都会的な魅力があった。しかしまったくひ弱そうでもなく、赤と金色の軍服という男性的な服装が実によく似合っていて、一見華奢ではあってもよく鍛えられている体をしているのだと分かった。
彫りが深く、とても長いまつげをしていた。中性的な美貌を持った煌びやかな美青年だった。
イスラエルで暮らす彼女達からすれば、大都会ローマからやって来た男性だ。のみならず、大変な美青年。彼女たちがはしゃがないはずがなかった。
彼が祭司たちに挨拶をしている頃、彼女たちは機織り仕事をしながら黄色い声で話し合っていた。

「もうすっごく最高!」
「初めて見るくらい素敵!」
「あー、お話しできないかな……」
一番年長のツェルヤだけが、微笑みながら静かに、はしゃぐ彼女たちの声を聞きながら七色の色を使った難しい機を織っていた。「お姉さまはどうなんです?」とマリアが問いかけると、彼女は「素敵な人よね。お近づきになれたらうれしいわね」と上品に笑った。
「でも、ローマから来たんだよねー」
「ローマに奥さんとか婚約者とかいたりするんだろうなー……」
「ねえ、やっぱローマの女の子っておしゃれで綺麗なのかな?」
「せめてツェルヤお姉さまくらい美人でおしゃれでお上品だったらなー……」
「あ、確かに!思う思う!」
「フフ、ありがと。そう言ってくれてうれしいわよ」
彼らはそうはしゃぎ合った。マリアもそれに嬉々として混ざっていた。本当に、あれほどの美青年を彼女は初めて見る。掃除中にみんなで集まって、格子窓の向こうから眺めた彼の横顔。思い出すたび、彼女はにんまりと笑った。


「……でね、ほんと綺麗でイケメンなの!その人!」
その日ヨセフと会った時も、マリアは興奮気味にそのパンテラ隊長について興奮気味にヨセフに語った。綺麗なものを見たのだから、彼とは一番にその感覚を共有したかった。
だが、マリアにとって意外なのは、彼がそれを聞いてあんまり面白くなさそうなことだった。
「もうイスラエルには絶対いない!って感じ!?ローマから来た都会の人っていうか、とにかく本当かっこよかったんだから!」
「ふーん……」
「何、ヨセフ?機嫌悪いの?」
「別に」
「また先輩と喧嘩した?」
「今日はしてねえ」
ぶっきらぼうにそう告げる彼を見て、マリアは少々気まずかった。
「あの……なんか、悪いこと言っちゃった?」
「別に?その人がかっこよかったんだろ?」
ヨセフは最近、ようやく簡単な文章なら、マリアがそばにいれば読めるようになって来た。今は創世記を読んでいる。さすがの彼も、創世記に語られる昔話のあらすじなら知っているので、いくらか読みやすいのだろう。彼はぶすっとしていた。マリアと話すとき彼はたいてい楽しそうだったので、彼女にとってもあまり気持ちのいい時間ではなかった。
やがて休み時間が終わり、ヨセフは「じゃ、また明日」と、結局その微妙な空気を引きずったままスタスタと帰っていった。

マリアは彼に悪いことをしたという予感はぼんやりと持っていた。だからこそ彼女は、台所に柘榴の実を運ぶ途中も、ヨセフの事を考えていた。なにか、確実に機嫌を損ねてしまった気はするのだが……。
そんなことを考えていたら、バランスを崩して、山盛りの柘榴の実が両手に持った籠の中で崩れてしまった。そしてそれらは、地面に次々にこぼれはじめる。
マリアがあわてて拾おうとすると余計に崩れ、柘榴はますます当たりに散乱する。とうとう彼女は半分以上のそれを急いで拾い集めるはめになった。その時だ。
彼女の目の前に、柘榴を持った手が見えた。少し節の入ったそれは、マリアの知っている少女の手ではなかった。
「大丈夫かい?お嬢さん」
ヘブライ語で話してきた。聞いたことのない声だった。「大丈夫です、ありがとうございます」と彼女が言いかけて視線を上げると、彼女は驚いた。親切そうに笑って柘榴を彼女の方に差し出しているのは、まさに午前中見かけ、今や仲間たちの間でもちきりになっている張本人、ティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラ隊長だった。
マリアは丸目をぱっちり見開いて「あ、はい……大、じょうぶ、です!」と、まさかこんな形で話すとは思っていなかった相手に向かってしろどもどろに言った。彼はもう別の柘榴を拾い集めていた。マリアはようやく理解した。この若い将軍は、親切にも自分を手伝ってくれているのだ!
マリアは彼に働かせすぎる訳にはいかないと急に羞恥心がわき、急いで自分も柘榴を拾い集めた。あらかた終わると、彼はにこやかに「これで全部かい?」と言った。
「は、はい」
「良かったね」
彼の笑顔がまぶしい。やはり、さすがの美青年だ。
「あの……本当に、ありがとうございます」
「いや、遠慮はいらないよ。私も、忘れ物を取りに帰っただけだ」
彼は気軽にそう言う。
「あの……へ、ヘブライ語、お上手ですね。ロ、ローマの方ですよね?」
パンテラ隊長が、自分を物陰から見てはしゃぐ視線に気づいていたかは知らないが、ローマ軍の軍服を颯爽と身にまとうその姿を見て、ローマ人だと思わない者がいるはずがなかった。
「ああ。こう見えても生粋のローマ人じゃない。シドン出身なんだ。イスラエルにも何年かいたことがあってね、その時におぼえた」
彼はそう言いかえす。そして少しの沈黙のちに「お嬢さん、名前は?」と言った。マリアはその言葉にびっくりし、「ヨアキムの、娘マリアと申します!」と少し声が上ずってしまった。
「そうか、私はティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラ。まあ長いからね。ティベリウスか、パンテラで構わないよ」
知っています、という言葉をマリアは焦って飲み込んだ。
「君はこの神殿の女官かい?」
「え、えっと、女官というより、行儀見習いみたいなもので……」
「そうか。じゃあ身分のいいお嬢さんなんだね、これは失礼した!」
彼は柘榴を丁寧に山積みにしながらそう言う。
「私は最近イスラエルに赴任したんだ。まあ、ヘブライ語が上手くできるからってくらいの理由でだがね……ちょくちょくこの神殿にも来るつもりだ」
「は、はぁ……」
「こうして出会ったのも何かの縁だ」パンテラはきれいに積みあがった柘榴の籠を持ち上げて言った。「また会うことでもあれば、仲良くしてくれるかい。マリアちゃん」
「は……はい!それはもちろん!あっ、も、もう持たなくていいです!それ、私がやりますから!」
彼女はパンテラの手から慌てて籠をひったくった。そして、彼に一礼すると台所に走っていった。

「ちょっと皆、聞いて、聞いて!!大ニュース!」
マリアは台所に柘榴を運び終えると、読書の時間に入らされていた仲間の少女たちのもとに駆けこんだ。
「なあに、マリア?それより遅刻よ」
「遅刻する理由があったんです、お姉さま!」マリアはツェルヤに食い気味に言う。
「何があったの?」
「みんな、私、あのパンテラさんとお話しちゃった!」
それを聞いて、一瞬その場は静まりかえった。しかし、次の瞬間。
「うっそー!ほんと!?」
「ねえねえ、やっぱ近くで見たら素敵な人だった!?」と声が湧き上がったのは言うまでもない。
「もうすっごく素敵!私緊張しちゃったもん!」
「なんで話すことになったの―!?」
「私が果物をぶちまけちゃったら、拾ってくれて……」
「うそー、羨ましいー!で、どんなこと話したの!」
「えへへ……それがね」
「それが?」
「こうしてあったのも何かの縁だから、これから会うことがあったら仲良くしてくれって……」
「ええーー!!いいなー、マリア!」周りは大はしゃぎだ。
「ヨセフ君と言い今度と言い、マリアってほんとにもてるよねー!いいなー!」
「そんな、ハダーサだってこの目初めて入ってきた神学生の可愛い男の子とか、かっこいい神殿商人の見習いさんといい感じになってたじゃん!私だって羨ましいんだからね!」
「パンテラさんは格が違うのー!」
そんなじゃれ合いが最高潮になってきたあたりで、ツェルヤが満を持して口に指を当て「シーッ」と言った。とたんに彼女達は静まり返る。
入ってきたのはアンナだった。
「皆さん、ちゃんと読書していましたか?」
「はい」とツェルヤ。アンナはにっこりと笑い、「良い事です」と言ってそのまま部屋を出て行った。
アンナの足音が消えたころ、ツェルヤが言う。
「気持ちは分かるけど、はしゃぎすぎよ」少し咎めるような声だった。
「外に聞こえていたかも。アンナ先生だから、見逃してくれたのかもしれないわよ。お気をつけなさい」
「はい、お姉さま……」その鶴の一声で、彼女たちは黙った。


その日の夜だった。マリアはなかなか寝付けなかった。
皆の憧れのパンテラ隊長と会ったことで忘れかけていたが、ヨセフと気まずい空気になったままだった。こうして熱が冷めてみると、今度はそちらの方がどうしても気になって、不安になってしまったのだ。
彼女達がいるのは、神殿に併設している、マリアたちのような神殿に仕える少女たちが使う寮だ。彼女はベランダに出た。鉢植えに咲いているシクラメンの花が、銀色の月の光を避けるようにうつむいている。その月の光は、神殿が工事中であることを物語る足場のシルエットをくっきりと浮かびださせていた。
それを見ながら、マリアはため息をついた。「マリア、寝れないの?」と後ろから声が届いた。それは、ツェルヤだった。
「お姉さま」
「貴女、不安そうだったものね」
そう言われたことにマリアは驚いた。どちらかというと自分ははしゃいでいたはずだが、しかし、こういうことも、彼女には分かってしまうのかもしれない。
「何かあった?大好きな彼と、とか?」
「お姉さま……」
「話して御覧なさい」
彼女に言われるがままに、マリアはポツリポツリと今日会ったことを語った。すると、途端にツェルヤは笑った。
「なんですか、お姉さま?」
「マリア……悪いけど、そりゃヨセフくんも機嫌が悪くなって当り前よ!あなた、もうちょっと男の子の心を理解する必要があるわね」
「え……」
その言葉を聞いて、マリアは一瞬で恥ずかしい気持ちになった。
「あの、お姉さま。ヨセフと私はそんなんじゃ……」
「あら、数日前に、ヨセフくんが『ハンナとアミールのお菓子が美味しいって言ってた』からって、こっそり拗ねていた子がいえる口?」
彼女にそう言われてしまっては、ばつが悪かった。ツェルヤは少し表情を真摯になものに戻して、「いずれにしても、あまり面白い思いじゃなかったのよ。でも、仲直りはすぐできるはずよ。あなた達、本当に仲良しなんだから」と言って、マリアの頭をポンポンと叩いた。
「お姉さま、やっぱりそう言うの得意ですね……」
「まあね、恋人がいるもの」
ツェルヤに恋人がいることは、周知の事実だった。その彼女が言うから、説得力も増すのだ。
「明日、ヨセフの事も褒めてみます」
「うん……まあ、いいんじゃない?」
彼女達はそれで話を切り上げ、床に就いた。


その翌日の事だった。ヨセフは、やはりいつも通り井戸のそばに来てマリアを待っていた。彼女は、昨日の気まずい空気がまだ続いていると感じた。
「こんにちは」
「こんにちは。あの……ヨセフ」
「え、何?」
「あ、あの!」マリアは言った。「あの、私、ヨセフの事もすっごくかっこいいと思うよ!?」
言い終わって、マリアは我ながら変なことを変なタイミングで言ってしまった、と思った、事実、その言葉ははっきり成功したとは言いにくかった。ヨセフは怪訝そうな面食らった目でマリアの方を見ていたからだ。
「あ……えっと。ありがとう。俺も、マリアのこと可愛いと思うよ……?」
結局彼はしどろもどろに言い返した。気まずい空気が全然治ってない、とマリアがどうしようかと考えたその時、意外な客がやって来た。

「おや、昨日のマリアちゃんじゃないか!こんにちは」
パンテラ隊長が来たのだ。

「パンテラさん!?なぜ……」
「水を飲みたくて井戸の場所を聞いたらここだったんだよ」彼は勝手に釣瓶を落として、井戸水を気持ちよさそうに飲んだ。
その様子を、ヨセフはじっと見ていた。様子というよりも、水を飲み込むパンテラの横顔を。
ひとしきり満足したのだろうか、彼はつるべを先におくと袖で口元をぬぐった。そして、その目はヨセフを捕えた。
「おや、君は?この神殿の商人かな?それとも神学生?」
「……いや、大工」
「そうか。あ、申し遅れたね。私はローマ弓兵隊第一コホルス隊長、ティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラというんだ!」
昨日のように、彼はヨセフのそばによって、その綺麗な顔を光らせるようにしてあいさつした。
「君は?」
「……ナザレのヨセフ」
「そうか。ヨセフ君!」彼は明るく続ける。
「君も、この神殿で働いているんだね。私はこの神殿によく来る気なんだ。よかったら、これから仲良くしてくれるかな?」

先日自分に言ったのと全く同じことを言うパンテラの姿を見て、マリアは何処か安心したような思いだった。先日の照れくささをむしろ中和できたような。
ヨセフは彼をしばらく凝視していた。だが、やがて自分の手をさし出して「……よろしく。お兄さん」と言った。

その日、先に帰ったのはパンテラのほうだった。彼にはこの後もまだ用事があるらしく、かなりすぐに帰った。
マリアは再びヨセフと二人きりになり、何を話そうかと焦っただが、その時だ。
「……なあ、マリア」
「な、なに?」
「あのパンテラってお兄さんさぁ……」
ヨセフは勢いよく言った。
「すげえ、かっこいい人だな!?」
彼の目はきらきら輝いていた。

「めっちゃさわやかな感じでさ!?俺の先輩とかにあんなのいねえよ!全然むさっ苦しくなくて!でも、手を握る力、すごく強くて!」
「そうそう、そうよね!」たちまちマリアも乗り気になった。
「あの線が細いところがいいんだよねー!ちょっと女性的な感じで、綺麗って言うか……」
「うんうん!男なのに綺麗で、でもなよなよしてなくて、な!?」
彼らは休憩時間が終わるまで結局盛り上がった。
まさかこんな形で仲直りできるとは思っていなかった。マリアはパンテラに感謝した。

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feat: Deborah 第四話

「わが軍は惨敗だ」
ストレスを全て彼女にぶつけようやく落ち着いた彼は、そう言った。ヤエルは濡れて体温の下がった彼の体をいたわろうと毛布を出し、濡れた服を脱いだ彼の体を包みながら、驚いた。シセラの軍が負けることなど、ありえなかった。
「貴様の夫も死んだぞ、ヤエル」
「そんな……」
ヤエルは目を白黒させた。にわかには信じられなかった。彼は彼女のそのような思いを知ってか知らずか「水を……のどが乾いた」と言った。
ヤエルは革袋を開けて、山羊のミルクを出した。シセラは気持ちを落ち着かせるため水よりもミルクをこういう時は飲みたがるのを知っていたからだ。
彼女が貴人のための豪華なコップにそれを注いで出すと、シセラは「気が利くな」と言い、ミルクを一気に飲み干した。
「ヤエル」
「なんですか?」
「人が来たら、私はいないと言え。良いな。私は少し眠る。寝て、これからの事を考えねば」
ストレスを発散し、ミルクを飲んでリラックスできたのだろう。彼は毛布にくるまって、やがていびきをかいて眠ってしまった。

ヤエルはじっと考えていた。デボラ。ごく普通の夫人でありながら、イスラエルを率いた女。そして、彼女を選んだイスラエル人の判断は、正しかったのだ。誰もが負けるはずがないと思っていた将軍シセラが、この通り惨めな姿になって帰ってきたのだから。
「(女なのに……弱いのに……)」彼女は考えた。
「(女……女ってこと、関係ないの?女でも、やれるときにはやれるの?……でも、その人、きっと強いのよね。腕っぷしとかじゃなくて、もっと何かが……私は、私は、同じ女でも、弱いから……)」
彼女がそう考えた時、はっと、今の状況に気が付いた。鎧もつけずに、無防備にシセラ将軍が寝ている。疲れとストレスで、ぐっすりと熟睡している。
彼女の背中に冷や汗が流れた。……もしも、もしもだ。望めば、こんな状況でなら、子供ですら、彼を殺せる。
自分はイスラエル人だ。もしも自分がイスラエルの味方をする、となれば、どうだろう?確かに戦場では自分は弱い。無力だ。だが、今この時間、シセラが起きるまでの時間、弱さも何もないのだ。
「(駄目、私は、ヘベルの妻なのだから、ヘベルに従わなくちゃ……)」
彼女は自らの心に湧いた恐ろしい考えを、その言葉で打ち消そうとした。しかしもう一つの考えが浮かぶ。ヘベルは死んだと、先ほどシセラは言った。自分を縛り付ける夫は、もういない。
自分を縛るものが、いつの間にか何もなくなっていることに、ヤエルはようやく気が付いた。そして、身震いした。誘拐され、ヘベルの妻という名の奴隷になってから、初めての瞬間だった。
「(どうするの。私、どうすれば……)」
ヤエルは必死で迷った。望めば、できる。望めば。自分の望みは、なんだったか。女も、弱さも、妻の立場も考えなくていい今、自分の望みは。
「(私……私)」
自分を理不尽に凌辱した男たち、理不尽に非難した女たちを、彼女は思い出していた。彼女は天幕を留めるための太い釘を静かに手に取った。つい先ほど彼に暴行された体の痛みを感じながら、彼女は思っていた。
「(本当は、本当は、ずっとつらかったの……)」
彼女はもう一つ、その釘を打ちつけるために使う、非常に大きな、重い金槌を手に取った。
「(ずっと、死ぬほど憎かったの)」

ヤエルはシセラのこめかみに釘を当て、金槌をを打ち付けた。か弱い女性の力とはいえ、非常に大きな金槌のおかげで数千倍にも膨れ上がったその力は、太い丈夫な釘を通して人間の頭がい骨を貫通するのに十分すぎる威力だった。不敗の将軍シセラは、眠ったまま何が起こったのかもわからず、息を引きとった。

イスラエル軍がシセラ将軍を追ってある天幕にたどりついたのは、しばらく後の事だった。
先頭に立っていたバラクが、天幕の入口から問いかけた。「頼もう、頼もう!」
ヤエルはゆらりと立ち上がって、天幕の入口を開けた。
「……イスラエル軍の方ですか?」
「ああ、そうだ……」
「おいでください」彼女は言った。「貴方たちが探している人をお目にかけます」

バラクたちが驚いたのは言うまでもなかった、将軍シセラは、こめかみに釘を突き刺されて、全裸で、眠ったまま死んでいた。数多の戦場を駆け回り、勝利をおさめた偉大な将軍にしては、実にみっともない最期だった。
「女」イスラエル軍は言った。
「お前が、殺したのか?」
考えられないことではあった。しかし、ヤエルは迷うことなく「はい」と言った。

ちょうどそのころ、ろばに乗ってデボラも彼らに合流した。デボラは彼の死体を見ると目を丸くして「まあまあ……ひどい死に方」と言った。
「なるほど」と、バラク。「女の手によって……か!まさか、こう来るとはね!無敗のシセラ将軍を打ち取る勇士が、まさかこんなところにいらっしゃったとは!」
彼は愉快に笑った。デボラもつられて笑った。
「ご婦人。お礼を申し上げたく思います。私はイスラエル軍司令官、アビアノムの子バラクと申します」
バラクは礼儀正しく、彼女の前に跪いた。と、その時だ。ヤエルの目が変わった。彼の名前を聞いて、信じられないとでもいうように。

「バ……ラ、ク?あなた……あなた、バラクなの?」
彼女は震える声でそう答えた。しかし、その震えは、彼女がこの数年間してきた震えとは少し違っていた。
自分の頭上から落ちてきたその声に驚き、バラクは閉じていた目を開けた。この声は、聞き覚えがある。
彼は慌てて顔を上げた。そこにあるのは、よく見てみれば、見覚えのある顔だった。
「まさか……ヤエル!?」
「バラク!?本当に、バラクなの!?」
次の瞬間だった。バラクは、ヤエルの事を物凄い勢いで抱きしめた。「ヤエル!」彼は彼女を深く胸に抱きながら、叫んだ。
「会いたかった……ずっと、会いたかった!」

「……どういうことよ?」怪訝に問うデボラに、バラクの部下の一人が言った。
「そう言えば、バラク様が話してくださったことがあります……昔、結婚を誓い合った恋人がいて、彼女の町が戦争に巻き込まれた時、行方不明になってしまっていたって……それでバラク様は、新しく恋をする国も、妻をめとる気にもなれなかったそうです」
「まあ……」デボラは目を丸くした。

「バラク……」彼の胸に抱かれながら、ヤエルが言う。
「私、あのあと外国人に誘拐されたの。そして、彼らに……だから離して。私、貴方にそばにいてもらう資格なんて、もう……」
「誰が離すものか」バラクは言った。「もう二度と、俺はお前を離さないぞ。お前と離れていて、俺は……本当に、苦しかったんだ」
彼は彼女の額にキスして、言った。
「……俺と一緒にイスラエルに帰ろう。そして俺と結婚してくれないか?今度こそ……」
彼はゆっくりとヤエルを自分の胸から解放する。彼を見つめるヤエルの目は潤んでいた。しかしヤエル自身に、その涙が今までずっと流してきたものではないこともわかっていた。
「私でいいなら……」ヤエルは泣きながらも笑って、うなずいた。
「ぜひ、そうさせて!」

「あらあら」周りをそっちのけで進むバラクとヤエルの会話を見ながら、デボラはくすくすと笑った。
「こんな未来は聞いてなかったわ。神様も、粋なことをするのねェ!」

イスラエル軍は意気揚々と凱旋した。司令官バラクの花嫁を乗せて。デボラは、彼女とすぐに仲良くなった。彼女は尊敬するデボラに出会えて、非常に嬉しそうだった。デボラも彼女を、イスラエル軍に勝利をもたらした女を、まるで娘の様に可愛がった。
「デボラさん、私……ですね」ヤエルはある日、デボラに言った。
「ずっと長い間、女だからどうせ何もできないって思ってて……デボラさんは、本当に、すごい人だと思います」
「あらあら。ヤエルちゃん、女が女を舐めちゃおしまいよ」からからとデボラが笑った。
「あの偉大なモーセだって、モーセ自身は男だったけどね。でも、彼を生かすって決めたお母さんや、彼を見守っていたお姉さんや、彼を拾ってくれたエジプトのお姫様がいなけりゃ生きることもなかったし、イスラエル人を導くこともできなかったでしょう。だから、しゃんとしてていいのよ。それに、びくびくしている子よりしゃんとしている女の方がよっぽど可愛くてかっこいいわよ!」
それを受けて、ヤエルは少し、顔をほころばせた。女二人の会話を聞いて自分もはにかんでいるバラクも、彼女に言った。
「ああ。俺も、しゃんとしているお前の方が魅力的だと思う……な」
「やだ、ちょっと!」
デボラはそんな二人にを見て、照れくさそうに笑った。「あらあら……若いって、良いわねえ」
あの雨は、雨季の始まりを告げる雨だったのだ。彼らの帰り道である殺風景な砂漠は、雨季に芽吹く植物たちがもう早々と茂ってており、色とりどりの花や鮮やかな緑の植物が、彼らの行く手を美しく、華やかに彩っていた。

帰ってこない息子をハロシェト・ハゴイムで待ちながら、シセラの母は怪訝な顔をしていた。母親想いの彼は、戦争がひと段落すると無事を知らせにすぐに自分に会いにくるし、そうであるからこそ自分も必ず彼の戦場の近くに滞在するのが習慣になっているのだが。
「何があったのかしらね?」彼女は、取り巻きの女官たちに言った。
「あの子の車の音も、馬の蹄も聞こえてこないなんて……」
女官たちは答えた。
「戦利品を分けていて、時間がかかっているのではないですか、女たちとか、染めた高価な布とか……」
「そうね、きっとそうでしょう」彼女はふんぞり返って言ったが、ふと思い出した。
「いや……待った。あのヘベルさんの淫乱妻が、もしやあの子をまたふしだらな道に落としているんではないでしょうかね」
彼女がそう思ったのは、ひょっとしたら建前だけだったかもしれない。要は彼女は、息子が帰ってこない不安とストレスをぶつけられる先がほしかったのだ。女官たちもそこは重々承知していたし、ヤエルよりも自分たちの女主人の方を取る気だった。彼女達も異教徒であるヤエルの事は馬鹿にしていたし、いつもはすぐ帰ってくるシセラが帰ってこないのは彼女たちにとっても不安ではあったからだ。
「こうしちゃいられないわ」シセラの母は言う。「すぐに車を!あの性懲りもない淫乱女に、女の先輩としてもっと厳しく罰を与えてあげなくちゃね。全く、阿婆擦れの妻をもらって、お可哀想なヘベルさんだこと……」
彼女は馬に乗るのが不得意だったので、従者たちに車を用意させた。そしてヘベルの天幕に向かって車を走らせた。泥でぬかるんだ悪路の上はなかなか進まなかった。
彼女はそれにいら立った。なかなかヘベルの天幕につかないその時間が実は幸せな時間、神の慈悲ともいえる時間だったのだと彼女が知るまでには、もう少し時間がかかる。


それ以降、シセラを失ったカナンのヤビン王はイスラエルに度々敗北を喫することとなった。イスラエル軍の将軍として戦場をかけるのは、デボラの神の預言とアドバイスを受けるバラクだ。いつの間にかカナンとイスラエルの力関係は逆転し、イスラエル人は虐げられることはなくなっていった。
そして、デボラはシセラを打ち取り、イスラエルを救った女性として、正式にイスラエルの士師となり国を治める存在、イスラエルの母になった。彼女も重大な責任を負うことになったが、心優しい夫のラピドトや、今ではすっかり笑顔を取り戻した将軍バラクの妻、ヤエルのサポートもあり、かいがいしく自らの任務を遂行した。デボラとバラクは、イスラエルになくてはならない二人となった。

ある日の事だった。
「デボラ殿!皆の者!」と意気揚々と、どの兵士よりも早くバラクが凱旋してきて、デボラが人の裁判を行っている大きなナツメヤシの前にやって来た。
いつにもまして嬉しそうだった。彼は自慢の雌ろばから降り、いの一番に彼を迎えに出たヤエルの、少し大きなったお腹を撫でて彼女にキスしてから、急いでデボラのもとに向かった。
「お喜びください」
「どうしたの?」
分かっているような口ぶりのデボラ。バラクは顔いっぱいに笑いながら、彼女に、その場に居る満場のイスラエル人に言った。
「ついに、この度の戦でヤビン王を打ち取りました!我々の完全勝利です!」
その日、イスラエル中が歓喜に沸いたのは言うまでもない。

デボラとバラクはその日、ともに楽器を取って陽気な戦勝の歌を歌った。ラピドトもヤエルも、デボラを慕うイスラエル人はみんな一緒だった。

『イスラエルにおいて民が髪を伸ばし進んで身をささげるとき、主をほめたたえよ。
イスラエルの神、主に向かって、私は賛美の唄を歌う。
貴方の敵が悉く滅び、主を愛する者が日の出の勢いを得ますように』

デボラが天寿を全うし、神のもとに召されるまで、イスラエルは平安と幸福のうちにあった。


(完結)

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feat: Deborah 第三話

ヤエルは真夜中に、ハロシェト・ハゴイム近隣に張っていた夫のテントから出て、町の中に行っていた。夫が好きな酒が切れてしまったのだ。あれがないと彼は非常に機嫌が悪くなる。そんな重大なものを切らすなんて私の馬鹿、無能、と自分を叱責し、なんとか町の酒屋に頭を下げて売ってもらったのだ。
だが、帰ろうとする彼女に絡むものがあった。シセラの母だった。
「いかなるご用でしょうか、奥様」彼女がいつも通りのおどおどした声で言うと、彼女は急にヤエルに殴り掛かってきた。
「この売女!」彼女は言った。ヤエルは力なく倒れた。
「召使が見ていたのですよ、昨夜の事を!よくも、妻も子もある私の息子を誘惑しましたね!」
ヤエルはギョッとした。確かに、自分は昨日シセラと寝た。それに昨日が初めてではない。夫は自分の事をシセラにも差し出していたのだ。だが、そんな言い訳は恐怖に震える口からはとても出てこなかった。
「ふしだら女め、恥をお知りなさい!お前なんぞ地獄にお堕ち!」
この女性は悪くない。私が悪いんだ。ヤエルはひたすらそう自分に言いつけて、耐えてきた。妻子のある男性と寝るのが悪いのは当然だ。この女性は何ら責められる謂れはない。自分だけ悪いのだ。
「(私……無能だから、悪いから、女だから……従わなきゃ、耐えなきゃ。この人に謝らなきゃ……)」
ヤエルは地面に頭をこすりつけて、ひたすらに謝った。シセラの母は女官たちにすらヤエルを蹴らせた。
どのくらい時間が経っただろうか。
「息子の友人、ヘベルさんの誇りのため今回の事は黙っていてあげましょう。でも同じことをしたら、分かっていますね、淫乱女!」
彼女達が去っていくのがわかる。ヤイルは無事だった酒の入れ物を抱えながら、立ち上がった。
「(帰って、家の事をやらなきゃ……)」
どうせ、誰も助けてはくれない。


その夜は、星がいつにもまして輝いていた。非常に明るい夜だった。
索敵に言った兵士たちが帰ってくる。彼らも明るい星明りのおかげで、実にうまく任務を遂行できたらしい。
「(なるほど、星が味方をしてくれる、か!)」バラクはそう思い、自分が先頭に立ち、タボル山を一斉に駆け降りる号令を出した。デボラも、ここから先はついていけない。彼らはデボラの持たせた松明を持ち、彼女に吉報を約束すると山を一斉に駆け降りた。
明るい星明りに、非常によくともる松明の光。彼らの軍隊は夜道に足を取られることなく、昼間のように一糸乱れずタボル山を猛烈な勢いで駆け降りた。

彼らに動きがあったことは、シセラ軍の夜警もすぐに見つけた。彼らは大急ぎで将軍たちを起こした。「イスラエル軍の襲撃です!」
シセラは飛び起きた。奇襲だ。しかし、彼も歴戦の将軍だ。奇襲ごときで慌てていては務まらない。彼は落ち着き払って、自分の軍勢全てを叩き起こし、戦に備えさせた。そして九百両の戦車に馬をつなぎ、戦車隊をあっという間に臨戦態勢にさせた。
彼らははすぐキション川で、迫りくるイスラエル軍を待ち構えた。

だが。その時、不思議なことが起きた。

明るすぎるほどに晴れていた星空が、一瞬で曇り、あたりは真っ暗になった。そして、シセラの肌に何か当たるものがあった。雨粒だ。
一粒。もう一粒。三粒、十粒。次々と水滴が落ちてくる。そして、その数は膨れ上がった。一瞬にして、タボル山のふもとは厚い雨雲に覆われ、大豪雨が降り注いだのだ。

両軍ともに、この不測の事態には驚いた。だが、先に落ち着きを取り戻したのはイスラエル軍のほうだった。
光を失ってしまったシセラ軍に対して、彼らの視界は明るいままだ。ラピドトの創った松明は、雨の中でも消えず、あかあかと火を燃え盛らせていた。
特殊な薬品を混ぜると、水につけても火が消えない松明ができることをラピドトは知っていた。松明職人というさえない職業ではあったが、それでも彼は自分の仕事に手抜かりはなかったのだ。バラクは大雨の中光る松明を見ながら、あの人のよさそうなラピドトに感謝した。彼らの勢いは止まらない。
「騎兵は全員、馬を降りろ!」バラクはそう言い、自ら愛用のろばを降りた。地面がすでにぬかるみ始めている。

目の前に光が見えてきた。イスラエル軍の襲撃だ。シセラは戦車隊を突撃させようとした。だがしかし、動かない。
すぐにぬかるみ、不安定になってしまった地面で、鉄の戦車は全く無力なものだった。車輪を取られ、全く前に進まない。この事態にはさすがに、シセラもあわてた。
「突撃、突撃だ!」彼は言ったが、明かりのない状態で何ができるだろう。その時、バラクたちもキション川にたどりついた。彼らはまっすぐにシセラ達の軍に切り込んでくる。

戦いの行く末は目に見えていた。早々に騎馬や戦車をあきらめ、さらに暗闇と雨の中でも光を持ち視界の定まったイスラエル軍が一方的に有利であるに決まっている。
鉄の戦車の力を信じ、なんとかそれらを走らせようとしていた上級の騎兵たちが真っ先にやられた。彼らはろくな抵抗もできずに身軽なイスラエルの歩兵たちに切り捨てられた。
カナン一の戦車隊の総崩れを告げる声が、雨音に混ざって戦場にこだまする。あっという間にシセラの軍は右も左もわからず、大混乱だ。名称軍の言葉も、こうなってしまってはなかなか届かない。
「何をしている、逃げるな、持ち場を守れ!」シセラは言ったが、効果はなかった。視界が悪くとも、彼には敗走する兵の声がすでに聞こえていた。
彼らは激しく切り結んだ。自分たちに優勢な状況になった、と悟ったイスラエル軍は、彼らは自分たちの八倍もいることを忘れた。その健忘は、ひとたびシセラ軍の事を思えば恐怖に震えあがってしまっていた彼らにとっては間違いなくいいものだった。事実、暗闇と大雨の恐怖で一転、腰抜けになってしまったカナン兵の恐ろしさなど、彼らの力の八分の一にも満たなかった。
バラクは先陣を切って、雨の中で相変わらず燃え続ける松明で戦場を照らしながら、片手に持った剣で次々とカナン兵を切り倒していった。
「将軍シセラはどこだ!」彼は大声で怒鳴った。

「腰抜けどもめ!」
「落ち着こう、シセラ。……どうやら、天空神バアルは彼らの神に今、負けていらっしゃるようだ」
ヘベルは自分の部下を恐ろしい声でしかりつけ、「光の方向に行け!一人でも多くイスラエル人を殺せ!」と命令した。彼らは馬を降り、歩兵となって突撃した。だが、彼らがキション川のすぐそばに沿ってイスラエル兵を追いかけたのが運のつきだった。

遠くの方から、ゴーという音が聞こえた。そして、何かがやってくる。突然の豪雨で、鉄砲水が起こったのだ。
気づいたときにはもう遅かった。川は彼らが逃げるより先に一瞬で水嵩を増した。どちらの軍勢にもまして猛烈な勢いで迫りくる鉄砲水はヘベルの軍隊を一瞬で飲み込み、下流に押し流した。悲惨な声が雨音に混ざって遠ざかっていく。丈夫な金属の鎧を着ているのだ。溺れてしまっては助からない。圧倒的な装備の差も仇になった。
イスラエル軍は住んでのところで鉄砲水の被害を逃れた。雨はますます激しくなってくる。稲妻の光が戦場を切り裂いた。遠くで雷が鳴った。イスラエル軍の士気は最高潮に達していた。
雨に濡れ、乗るものを失った鉄の戦車が力なく倒される音が響く。こうなってしまってはもはや、鉄くず同然だ。

「虫けら風情が……」
ヘベルが立ち上がって、「イスラエルの司令官よ、どこに居る!このカイン人ヘベルが相手になるぞ!」と叫んだ。その声に、一人やってくる男。
「アビアノムの子、バラクならここに居るぞ」バラクはヘベルの前に立ちはだかった。そして、松明を地面に刺すと「来るなら来い!」と剣の切っ先を向ける。
二人の軍人は大混乱を意に介さず、雨の中光る松明の光のもとで激しく切り結んだ。実力は互角というところだった。
だが、ついに決着の時は訪れた。雨で手元が濡れ、剣がつかみにくいのは両者にとって同じだったが、ついに片方が、手を滑らせたのだ。それは、ヘベルのほうだった。
バラクはその隙を突き、彼の剣を打ち飛ばした。そして、バラクが丸腰になった次の一瞬で、彼の鎧に守られていない首を切り裂いた。彼の冷酷な目が付いた首は雨の中宙に舞い、そして、地面に落ちた。
バラクはヘベルの首をつかみ「カイン人ヘベルは打ち取られたぞ!」と大声で言った。戦場に、イスラエル軍の歓喜とカナン軍のどよめきが行きわたった。

それから先は、カナン軍にとって惨憺たるものだった。
ヘベルが死んだことを受けて、彼らはハロシェト・ハゴイムまで敗走した。だが、イスラエル軍はそれを追いかけてきた。
もはや逃げる段取りになってしまった彼らが、完全に士気の高揚したイスラエル軍にかなうはずがなかった。赤子の手をひねるように、イスラエル軍は次々にカナン軍を打ち取った。
「感謝いたします、我らが母、デボラ様!」
彼らはそう叫んだ。デボラが自分たちを勇気づけてくれたからこそ、ここまで来れたのだ。
暗闇の中、たいまつの赤い光。雨粒の銀色の光。そして、それを纏って攻撃してくるイスラエル軍。
カナン軍たちは敗走しながら、こう思った。まるで、星が彼らとともに戦っているようだ。

一晩とたたないうちに、カナン軍は全滅した。

シセラは一人、逃げおおせた。だが、気が付くと、彼の周囲には誰もいなくなっていた。
「誰かいないのか!?誰か!」彼は声を上げた。しかし、帰ってくるのは静寂だけだ。雨はいつの間にか止んでいて、いつの間にかいやほど輝いている星空が元通りになっていた。
シセラは頭を抱えた。彼の人生で、これほどにまで敗退したことは初めてだった。彼はパニック状態になりそうになっていた。とにかく、落ち着かねば。落ち着いて、戦略を立て直さねば……。
そんな彼の目に入るものがあった。ハロシェト・ハゴイムのはずれにヘベルが張ったテントだった。彼は死んだが、あの妻がいる。シセラはまっすぐにそちらに向かった。馬は使い物にならない。豪華な鎧をガチャガチャと鳴らして歩兵のように歩いていく様子が、我ながら惨めだと彼は感じた。

その頃、ヤエルは手伝いに雇った、近隣の農家のおかみさんたちと話し合っていた。
「女性?」
「ええ。イスラエル軍は、あたし達みたいな女の方を、今回戦場に呼んでいるのですって!」
デボラの事は噂になっていたのだ。「男みたいな方なのかしら……。鎧を着て、剣を持って……それとも切れ者の軍師みたいな……」
「聞くところ、ぜーんぜん。普通の奥さんなんですって。ただ、不思議な力を持っているとかなんとか……」
ヤエルはそのことを聞いて、考えた。普通の女性。それが、戦場に出て、戦いに参加する。そんなことがあるのかと、彼女は舌を巻く思いだった。それに対外的に明らかにしていなくても、彼女はユダヤ人だ。ひそかにイスラエルを応援する気持ちも手伝い、彼女はそのデボラという女性に感心していた。
「(女なのに……その人……)」
気が付けば、酷かったどしゃ降り雨が止んでいた。おかみさんたちはこれ幸いにと帰っていった。ヤエルはそれを出迎える。
彼女達がいなくなって、ヤエルが一人、デボラに思いをはせていた時だった。天幕のもとにやってくる人物がいた。
夫かと思って彼女は身がまえ、「は、はい、ただいま」と慌てて天幕の入口を開けた。だがしかし、そこに居たのは意外な人物だった。
「シセラ様!?」
彼女は驚いて、彼を天幕に迎え入れた。異常なことだった。不敗の将軍である彼が濡れねずみになり、部下もつけずに歩兵のように歩いてきたのだ。
戦場でただならぬことがあったのは間違いない。ヤエルは彼が鎧を脱ぐのを手伝いながら、何があったのかと問いただそうとした。
だが、シセラは何かを話す前に、ヤエルを抱きしめた。そして彼女に何か言わせもせず強引に口づけすると、彼女とヘベルが使う寝台に彼女を力づくでうずめた。
ヤエルの頭が、数時間前にシセラの母に言われたことを思い出してすくむ。だが、抵抗できる力などなかった。
いつも言われている通りに、男は戦場でこうしたくなるのだ。受け入れなければ、と自分に言い聞かせ、彼女はいつも通り、あるがままを受け入れた。だがいつもと違うことには、彼女は考え事をしていた。彼に押しつぶされながら彼女はデボラの事を考えたのだ。
シセラが何かに必死になっていて、彼女のその上の空な様子を責めないのはおろか、本当に事が終わり彼が落ち着くまで何も言わなかったのが彼女にとって救いでもあった。

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feat: Deborah 第二話


イスラエル人たちが不敗の将軍シセラに無謀にも戦を仕掛けるらしいという噂はたちまちのうちにカナン十に広がった、無論シセラも、その無礼なイスラエル人に早々に制裁を下そうと、意気揚々と自慢の戦車隊の準備をしているそうだ。

そして、その噂はカイン人のある軍人の耳にも届いていた。彼はヘベルと言って、ヤビン王たちとは友好関係にあり、シセラとも心安い友人同士だった。
「シセラが戦?あの、神が唯一だとかぬかしている馬鹿な奴らとか?」ヘベルは面白そうに言った。
「なににせよ、彼の戦なら私も手伝わなくてはなるまい。私も駆け付けよう。いつも通り軍の近くに天幕を張るのだ。……何をぼさっとしている!?戦だぞ、さっさとやれ!」
彼はそう言って、そのことを伝言してきた彼の妻の頬を殴った。
「はい……申し訳ありません、あなた。ただいま」
彼の妻、ヤエルは震えながら、急いで夫の鎧をしまってある部屋に小走りで向かっていった。


タボル山が見えてきた。デボラとバラクはまずバラクの本拠地であるケデシュに向かい、そこで兵を集めてからタボル山に向かったのだ。イスラエルの評判の女預言者が味方に付いたとあって、確かに士気はそれなりに高くなっていた。
その日、彼らはタボル山から数十キロの地点で野営していた。
バラクは、焚火のそばでシチューを食べているデボラを見つけ、声をかけた。
「お隣を、よろしいですか?」
「勿論、どうぞ」
デボラは空を眺めているようだった。
「どうかなさいましたか?」
「星ですよ」彼女は言う。
「星が私たちの味方をしてくださるの」
彼女の発言にバラクは目を瞬かせた。
「神の声とは、そのようにして聞こえる者ですか?」
「ええ、そうですとも」と、デボラ。
「流れ星でも落ちてきてくださるのですかね」
「どうでしょうかねぇ。神の預言っていうのはね、時としてはっきりとはしていないものですよ。バラクさん」
彼女はそう言って、「ああ、自分で作らないご飯っておいしいわねえ!」と、歩兵たちが作ったシチューを喜んで食べていた。
バラクも星空を見た。晴れていて、満天の星空だった。
「貴女の旦那様は、素敵なお方ですね。デボラ殿」話題が見つからなかった彼は、ひとまず自分が好ましく思っていたラピドトに頼ることにした。「いつからのお知り合いで?」
「もうずっとちっちゃな頃ですよ」デボラは言った。「小さい村だからねえ、みんな顔見知りみたいなもんだし、昔っから婚約者同士ですよ。でも、後悔はしたことないわ。だって、あの人はとっても優しくて素敵だし、あたしにお似合いだもの」
「ええ、そう思いますよ」バラクは笑った。
「バラクさん、貴方は?」
「え?私ですか」バラクは自分の方に話が飛んでくるとは思っておらず、戸惑った。戸惑った後、シチューを一口飲みこんで、浮かない顔で言った。
「……いろいろありましてね、結婚はしていないし、したくもないのです。……もっとも、『産めよ、栄えよ、地に満ちよ』という神の言葉を守るため、いずれはしなくてはならないのでしょうが……」
そんな彼に、デボラは言った。
「あらあら。いずれ、いい人が見つかりますよ」
「そうだといいのですがね」バラクは少し笑って言う。彼女が言うと、なんだか安心できる。まるで、もう寿命でなくなってしまった母親を見ているようだ、と彼は思った。


夜が明け、彼らが本格的にタボル山に向かい始めた時、ろばで並走しながらデボラはバラクに言った。
「バラクさん、ひとつ言っておかなきゃいけないことがあります。神様からの言葉ですよ」
「なんですって?」バラクは言った。
「ちょっと、無礼な言葉かもしれませんが、それでもよろしくて?」
「我々は貴女の言葉に従って進軍したようなものですからね」と、バラク。「貴女様の言葉なら聞かないわけにはいきませんよ。それで……我らの神は何とおっしゃっていましたか?」
「今回の出陣で、貴方は栄誉を貴方の自分のものにすることはできないらしいですよ」デボラは彼の言葉を聞くやいなや、遠慮なく切り出した。
「え?」
「主はこう言われます。『私は、女の手にシセラを売り渡す』」
その言葉を聞いて、バラクは流石に暫くの間無言になった。しかし、結果的に憤るどころか、むしろ彼は笑った。
「かまいませんよ。シセラへの勝利はイスラエルの悲願。私のものになろうが、『女』のものになろうが、イスラエルのためになるなら同じでしょう」
「そう言って下さって、安心しましたわ。」
バラクははにかみながら言った。
「貴女様の旦那さまからの受け売りのようなものでもありますよ」
「ま!あの人、貴方に何を言って?」
そんな会話をしながら、バラクは思っていた。なるほど、ラピドトの気持ちも少しは分かる。男のプライド云々と言っていられるような問題ではない。それに、デボラの手で勝利を収めるなら、それはそれで本望なように思っている自分をバラクは知った。この女性を確かに、自分は信頼しつつある。


イスラエル人が一足先にタボル山の頂上にのぼり陣を張ったという情報が入ったころ、シセラも九百両の戦車と八万の軍勢を率いて、陣地の一つであるハロシェト・ハゴイムについた。そこには、例のカイン人の軍人ヘベルも来ていた。
「シセラ殿!」ヘベルは駆け寄ってシセラと握手を交わした。
「お疲れ様です。全く、今回は難儀なことになりましたね」
「全くだ。あの虫けら共が我々に逆らうなど、思ってもみなかった」
シセラは冷淡な目でそう言った。
彼は、イスラエル人に負けず劣らず自分の民族に国強い誇りを持つ男であった。そしてその地位と実力も手伝い、彼は自分たちの下に立つ民族の命を命とも思わない男であった。だからこそ、余計に戦争も強いのであろう。ヘベルも彼のそんな思いきったところが気に入っていた。彼もまた、暴力的で残酷な男だった。
「聞くところによれば、ユダヤ人はとうとう女の力に頼ったと言います」と、ヘベル。
「女……このシセラも舐められたものだ」
「全くです。まあ、プライドだけは高い虫けらに相応しい無様なあがきではありますよ!今日は我々のもてなしをお受けください。明日にはキション川の畔、タボル山のふもとに付きましょう」
彼はそう言ってシセラを天幕の中に通す。そして彼の妻に「何をしている、さっさともてなしをしろ!」と怒鳴った。
ヤエルは震えあがって「は……はい、承知しました」と言った。
息子に連れ添ってきたシセラの母も、馬車から出てきた。ごてごてとした宝石で全身を飾った、息子そっくりの冷たい目を持つ老婆だった。彼女もふんぞり返って、ヤエルが支度をするのを待っていた。

ヘベルの妻、ヤエル。彼女はどんな時も、ずっと恐れていた。それはひとえに、彼女は彼女の夫に恐怖していたからだ。
彼女は、ユダヤ人の町に生まれた。かのモーセの義兄、ホバブの子孫たちの創った村に生きる女性だったのだ。優しい両親も、友達も、恋人もいて、ごく普通の幸せな女性だった。
だがある日、その村が戦に巻き込まれたのが運のつきだった。カイン人の軍人ヘベルは彼女を無理やり連れ去り、妻にしたのだ。それも、奴隷同然の扱いで。
ヘベルが彼女を選んだ理由はよく分からない。ただ目の前に現れた気の弱そうな女性が、彼の生来の暴力に対する欲を満たしたのかもしれない。ただ明らかなことは、ヘベルは彼女に惚れたわけではなかった。
ヘベルは彼女を遠慮なく凌辱した。のみならず、自分の同盟相手の軍人たちにも、彼女をあたり前のように差し出した。戦場では女がほしくなる、これは男として当たり前なんだ。軍人の妻ならそれを受け入れろ。それが彼の言い分だった。誰が、惚れた女性に、そんな仕打ちをするだろうか。
彼女は故郷にも戻れなかった。異邦人に嫁ぐのは、イスラエル人の中では強い恥だった。それにどんな状況であったにせよ、男に抱かれたというのはその男を受け入れたということだ。この地域では、そう言う共通認識があった。ましてヤエルは、夫のみならず、何人もの男をその身に受け入れてしまったのである。
そこにあった事情がどうあれ、ヤエルは間違いなく当時の中東世界においては、祖国を裏切り異邦人の男と何人もと臥所をともにした淫乱女、という罪を背負っていたのだ。
そして男たちに犯され、奴隷のように使われて、彼女はそれを必死に受け入れようとしていたのだ。自分はヘベルの妻だ、ヘベルには従わなくてはならない。
「(……私は、私は、女だから)」
ヘベルのもとから逃げよう、そう思うたびに、ヤエルの心にはその希望すらも押しつぶすほどの強い恐怖が訪れるのだ。もしもヘベルに捕まったら、一体どんな目にあうだろう。そう考えるのが恐ろしくて、彼女は必死で、夫のもとを逃れようと思う自分の心を押し殺していた。
「(私は。女だから……女だから、女は無力で何もできないから……身の程知らずなことは考えないで、夫に仕えなきゃ……そうしなきゃ……。男の人の本能なら、どうしようもないんだから、女として受け入れなきゃ……そうするのが、幸せだから、女としての美徳なんだから……)」
殺されるより、奴隷でいる方が、彼女にはまだましだった。イスラエル女としての誇りのため死を選ぶことすらできない臆病さが、なおさらヤエルを自己嫌悪に陥らせた。


イスラエル軍はタボル山の頂上で野営していた。バラクがデボラの様子を見に行くと、彼女は松明の手入れをしていた。
せっかくだからと彼女が言うので、今度の戦のために松明を大量にラピドトの店から買ったのだ。それがしけていないか、彼女は点検していた。さすが松明屋の夫人なだけあって、慣れたものだった。
「デボラ殿、夕食の準備が整いましたよ」バラクは彼女の太い後ろ姿にそう言った。彼女は振り向いて「あら、もうそんな時間なの!」と返す。
「最初のうちは自分でご飯を作らなくていい状況で調子が狂っちゃったけど、慣れてくるもんですねェ!」
「そうですか」バラクは笑って言った。

パン菓子と干し無花果を交互に食べながら、デボラはバラクに言った。
「女の子がね、泣いていたんですよ」
「え?」バラクは怪訝そうに問いかけた。こんな山の上に、人は住んでいない。
「あたしの目の前に来たんじゃないの。どこか遠くで……いや、たぶんそれほど遠くないんだけど、とにかくどこかでね、一人、泣いている女の子がいたんです。声が聞こえたんですよ」
「貴女は、遠くの人の声もわかるのですか?」
「たまにね」彼女は言った。


昼間に、シセラの軍もキション川の付近に到着した。日中のうち、バラクの軍とシセラの軍はお互いに硬直状態で、機会をうかがっていた。地の利は五分五分と言ったところだった。山の上からシセラの軍を見下ろせる分にはいいが、シセラの抑えたところは非常に守りに適したところだった。
圧倒的な戦力差がある分、やはりシセラが有利なことには変わりがない。ここにきて実際に将軍シセラが目の前に居るということもあり、軍全体の士気が下がっているのもわかっていた。
「(真っ向勝負はできない……やはり、奇襲か?)」バラクも神経をとがらせ、そう戦略を巡らせていた。
「大丈夫、安心しなさいな」デボラはただ、全く揺るがない豪胆な笑い方でそう言って、兵士たちを安心させた。

シセラ将軍の陣地はそれとは逆に、落ち着いたものだった。偵察隊はすぐにバラクたちの情報を持ち帰ってきた。彼らが女性をリーダーに据えているのが噂通りであることも。しかも、女性と聞いて彼らは彼らの崇める多くの偶像神のうちの戦女神アナトのような女戦士を想像していたのだが、その場に居たのはまるで山村のおかみさん、でっぷりと太って鎧も来ていないし剣も持っていない、全く普通の中年女性だというのだ。
シセラとヘベルはそれを嘲笑した。恐れるには足りない。
戦慣れしていない女なら、大した戦略も立てられなかろう。男のような武力があるでもなし、男を骨抜きにし戦どころではなくしてしまう妖しい美貌があるでもなしの、全くただの夫人、ただの女によって、この不敗のシセラが負けるはずはない。彼らは確信した。

そして、夜になった時の事だった。日が暮れた瞬間、デボラはバラクにこう言ったのだ。
「今ですよ」
バラクはその言葉に反射的に振り返った。彼女は続ける。
「神様からの言葉が聞こえたんですよ。お立ちなさい。神様が、シセラをあたしたちの手に渡す日が始まりました。ほら、あそこに神様とその軍勢が、先だって行かれていますよ」
デボラが指差す先には何もなかった。しかし、そのようなことは問題ではなかった。きっと、あそこには神の軍がいるのだ。バラクにそれは分からない。しかし、わからないからこそ彼はデボラに連れ添ってきてもらったのだ。彼らを見ることのできるデボラに。ここまで来たらやるしかない。
それに、バラクも夜襲は自分たちの勝ち筋の一つであると思っていた。まんざら理屈に合わないことでもない。
バラクはすぐに承知し、全軍に出陣の指示を出した。

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feat: Deborah 第一話

その時代、イスラエルは二十年にわたって異邦人であるカナン人に支配されていた。まるで人とも思われない圧政を受けていた。
カナン王ヤビンは、イスラエルにとっては憎い敵だ。だがしかし、彼らはヤビンに逆らうすべを持ってはいなかった。ヤビンには圧倒的な武力がある。歩兵の数が段違いなのは言うに及ばず。装備の面でも、鉄の戦車は900両。イスラエルには戦車などせいぜい青銅製のものしかない。そして、ヤビンにはシセラ将軍がいた。
シセラ将軍の武勇はイスラエル中に伝わっていた。彼が戦をすれば、それだけで負け知らず。どの国にも、シセラにかなう軍人などまず、いはしない。敵の将軍のそのような噂が国中を駆けずり回るこの状況が、どれだけ悲惨な事だろうか。
だがしかし、イスラエル人というのはそれで黙ってはいない民族だった。彼らは誇り高かった。
唯一の神に選ばれた民族。それが、彼らを突き動かしている誇りだった。神は、偉大なるモーセの先導で、この約束の地にイスラエル人を連れて来たのだ。自分たちは誰の支配もうけることがなく、ここで暮らす権利があるのだ。
だから、異邦人に降参はするまい。いつか必ず、胸を張ってこの地に住むことができるように。それこそが彼らの悲願だった。


その日、エフライム山地の中にある名もない山村に一人の軍人が訪れた。背が高く、体格もよく、輝かしい青銅の鎧に身を包んだその青年を、村民はしげしげと見つめた。先ほども言ったように、都会からは全く離れた田舎だ。このような立派な軍人は初めて見るというものが多い。
その軍人、ナフタリ族のアビアノムの子バラクは、自分が見世物のようになっている状況にばつが悪そうにして、見事な栗毛の雌ろばの上から一人の男に問いかけた。
「人を訪ねてきた。女預言者デボラ女史が住んでいる場所を知っているか?」
高圧的ながらも何処か上品なその言いぶりに、男は少し圧倒されつつも、「も、勿論でございます」と言った。
「村の端に、大きなナツメヤシを庭に生やした松明屋があります。そこに」
「松明屋?」
「はい、デボラ様は松明職人の奥様ですから」
バラクはそれを聞いて「(あまりぱっとしない職業だな)」と思いつつも、彼に言われた方向にろばを走らせる。しばらくして、確かに遠目にも分かるほどの大きな、立派なナツメヤシの木が目に入ってきた。
ラピドトという男がやっている松明屋が、その下にある。そして、松明には使えないような木の屑でなんとかこしらえた余り立派とは言えないような長椅子が、ナツメヤシの木の下に一つ置いてあった。そこに、女預言者デボラ、バラクをこの町に呼び出した女性が座っていた。

バラクが女預言者デボラの名前を聞いたのは、数年前の事だった。ラマとベテルの間にあるとある村の女が、神の声を聞き預言をする力を持っている、というのだ。そしてその村のみならず、ラマやベテルのものは皆、時には遠くに住むイスラエル人すら、彼女のその力を頼りに彼女を頼ってくる。彼らは自らの裁判官に、彼らの長老よりもデボラを選んだ。デボラも聡明で強く、なおかつ優しい女性だったので、彼らの申し出をことごとく受け入れたのだ。そうして、田舎の松明職人の妻、普通なら名を上げるはずもない存在が、イスラエルの中でちょっとした評判になっていた。
バラクは彼女に少し感心はすれど、自分と彼女に関係があるとは思っていなかった。それが、できてしまったのはつい数日前のことだった。彼の住む町、ナフタリ族の町ケデシュに女預言者デボラからの使いと名乗る人物が訪れ、彼に知らせを持ってきたのだ。
彼女の言葉はこうだった。
「神はこう言われる。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万人を動員し、タボル山に集結させよ。私はヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。私は彼をお前たち、イスラエルの手に渡す』」
その預言を受け、バラクが戸惑ったのも無理はない。

彼は、神の預言を信じないわけではなかった。人並みにイスラエルの神は信じているし、そこまで疑い深い方ではない。ましてや偉大な神の言葉を聞くという人物をむやみやたらと疑うのも、彼にとっては無礼なことだった。
だが、これは簡単にはいそうですかと受け止められることでもない。確かに、自分は一万のナフタリとゼブルンの兵を指揮できる軍の司令官だ。それに、イスラエル人として将軍シセラは憎々しい。いつか自分が、自分の軍が奴を打ち取れたらと考えたことは幾度となくあった。
しかし、望みと現実は違う。バラクは慎重派だった。シセラと自分の実力差、カナンとイスラエルの軍事力の差は、到底民族への強い誇りだけで押し切れるものではないと彼は考えていた。だからこそ、この預言を聞いて彼は驚いた。
しかし、一笑に付す気にもなれなかった。彼は先述のように預言者というものに尊敬の念は持っていたし、ましてや相手は評判の女預言者だ。ただのペテンと思うにはどうも説得力がある。それに、よっぽどの国粋主義者でなければ、イスラエルカナンの実力差の事は知っている。それをわざわざ言ってくるからには、真剣に取り扱うべきものがあるのではないか。そう思ったバラクは、はるばると自分の町からこの山村までやって来たというわけだ。

デボラは、ナツメヤシの下で男二人を裁いている途中だった。バラクは今は話しかけられないと思い、先にラピドトに会うことにした。
出てきたラピドトという男は、「燃えさし」という名前の意味に似合いそうな、覇気はないが、大人しく人のよさそうな中年男性だった。彼は穏やかにバラクをもてなし、彼のろばをつないで水と飼葉を出した。そしてバラクにも飲み物とパン菓子を振る舞い、デボラがひと段落するまで待たせた。
「そうですか、家内がそのようなことを」
ラピドトはバラクに一連の話を聞き、うなずいた。
「ええ……疑うわけでもないですが、とにかく直接お話を伺いたいと」
「それはそれは。長旅、お疲れ様でした」
彼は丁寧にそう言う。バラクは横目でデボラの裁きを待つ人々を見ると「お噂通り、奥様は多くの人々に慕われておいでですね」と言った。
「ええ。嬉しい限りですよ。あれは本当に、若い時から気風がよくてね」
そうニコニコと嬉しそうに語るラピドトに、バラクは一つ問うてみたいことがあった。
「しかしラピドト殿、奥方様ばかりがあそこまでもてはやされる状況は、貴方様としても面白くはないのでは……?」
彼はあえて非常に直接的にそう言った。失礼かもしれないという思いがないではなかったが、もしそう思っているのなら、デボラを慕う人の多いこの小さな村より、今日来たばかりのよそ者である自分の方が話しやすいかもしれないとも思ったのだ。
イスラエルは男尊女卑の傾向が強い国である。彼らの伝承の中では、人間が神の創った楽園から追い出される罪の発端となったのは、男であるアダムではなく、女であるイヴだった。そのような文化の中だ。妻は夫の陰に隠れ、ひっそりということを聞くのがよしとされた。それなのにこのラピドトという男は、妻ばかりが目立って、自分は日陰の存在になっている。デボラの話を聞いた時から、この男がどう思っているのか、少し興味があったのだ。
ラピドトは目を少しだけ大きく開いてから、「いいえ、ちっとも」と言った。
「あれはいい妻ですよ。私もあれの、ああ云ったところに惚れたのです。その妻が慕われる。それほど嬉しいことがありますか」
「はあ……」バラクは言葉を続けた。
「噂では、デボラ殿がいずれ、イスラエルの士師になるのではないかということですが……」
士師とは、イスラエル人の称号だった。唯一の神だけを支配者と認め王政を持たないイスラエル人社会で、王に変わりトップに立つものだ。だがイスラエルには長い間、士師はいなかった。
「なったら、それほど嬉しいことはありませんね!」とラピドト。
「貴方様のプライドは?」
「プライドもへったくれもありますか。士師に相応しいものが士師になる。これは当たり前の事ですよ。そして、妻が幸福になることが夫の幸せ、これも当たり前のことです。あれは、確かに士師に向いてますよ」
彼の笑顔を見て、本当に彼が気のいい男性なのだとバラクには分かった。「無礼な質問の数々、失礼いたしました。ラピドト殿」と、バラクは言う。ラプドトは笑ってそれを許した。ちょうどそのあたりで、デボラは手が空いたようだった。ラピドトが手を挙げて合図すると、彼女はバラクのもとに歩いてきた。

デボラは、恰幅のいい中年女性だった。いかにも山村のおかみさんと言った、たおやかさとは無縁な容貌をしていたが、優しい夫にお似合いそうな気の良さが、たたずまいからもにじみ出ていた。
「あらまあ、バラクさん。こんなド田舎まで、ご苦労さまです」
見た目通りの声でそう言って、彼女は太った腰をどっかりと椅子の上に乗せた。バラクはそんな彼女に、「貴女様の預言の事をうかがいに、ここまでやってきました」と言った。
「伺いに?あたしは受け取ったままを、貴方に告げたんですがねェ」
「いえ、しかし貴女様もご存じのように、我々とカナン軍の間には圧倒的戦力差があります。いくら神の加護があろうとも、にわかには……」
デボラはうなずきながら「貴方が言うこともわかりますよ。でもねぇ、人間の戦力差なんて、神様の力とご意志の前には無力なものですよ」
「は、はぁ……」
「人間の力であなた、海を割ることができます?」デボラは言った。
「きっと、モーセの時代のユダヤ人も、そう思っていましたよ。『自分たちとエジプト人の間には圧倒的な力の差がある。エジプトから逃れることはできない』ってな感じにね!でも、実際、あたしたちはエジプトを抜けて今日のようにカナンの地に居るじゃありませんか!バラクさん、慎重派なのは結構ですが、時には思いきりも必要ですよ」
彼女の神秘的な巫女と言った風ではない、いかにも豪胆なおかみさんと言ったたたずまいと口調は、かえってその言葉に説得力を持たせている様にもバラクには感じた。なんとなく、彼女の言葉には安心感があるのだ。
「デボラ様」バラクは言う。「あなたは、本当に神の声をお聞きになるのですか?」
「ええ、昔から」彼女は答えた。
「年端もいかない娘の頃からですよ。どこからともなく、声が聞こえるんです……ちょっと、言葉じゃ言い表しにくいんですがねェ、とにかく、あたしには聞こえるんですよ。そして、それがはずれだったことなんて一度たりともないんですから!」
「請合いますよ」ラピドトも言った。「彼女が何か言ってくれたおかげで商売が助かったことも、命が助かったことも何度かあったんです。たとえば松明の材料を取りに森に入った時なんかね……いつもとは違う山に行けって言うから言ったんですよ。そしたらいつもの山で山火事が起こりました。デボラの言葉を信じなくては焼け死んでいたかもしれません」
そんな話を色々と聞いているうちに、バラクも、これ以上疑う気にはなれなかった。とにかく、彼女の言葉は不思議と信じられるのだ。
「そうおっしゃるのなら、このバラクも腹をくくりますが」彼はついにそう言った。
「しかし、やはり不安はぬぐいきれませんな……」
バラクは出されたぶどう酒を飲んで、少しそれについて考える。デボラも神も信じられるが、やはり目の前に物質的恐怖がある以上怖いものは怖い。
いずれにせよ、司令官である自分が懐疑的では戦に影響も出よう。この状況を打破する何かが必要だ。
彼はふと思いついた。彼が言うか否か逡巡している間、ラピドトとデボラは静かに彼を考えさせるままにしていた。
「デボラ殿」
「なんです?」
「貴女様も戦についていって頂けますか?」バラクは思い切って発言した。「貴女様のお力がおそばにあり、貴女様を通じて神のみ言葉を聞けるのならば、この私も兵たちも安心しますし、多少なりとも士気も上がりましょう」
戦に縁もゆかりもない女性がわざわざ危険なところに行くだろうか、という心配はあった。
しかし、意外にもデボラはすぐに「ええ、勿論、向いますよ」と言った。
「あんた、留守中店は頼むからね」
「ああ、無事で行っておいで」
目の前でとっとと話を進める夫婦を見ながら、本当に肝の据わった女性、いや夫婦だ、とバラクは舌を巻いた。
「……部下に貴方方二人を見習わせたいですよ」
冗談めかして彼はそう言った。夫婦はくすくすと笑い、それにバラクも少し緊張と不安の糸を解かされた思いだった。

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feat: Mary and Joseph 第七話

マリアは夢を見た。一人の男の子が、ひたすらに虐げられていた。
偉ぶる大人たちに、理不尽に。彼の父は死んだ。母は廃人になってしまい、狂気の中やはり死んだ。彼は必死で逃げ続けた。何も悪いことをしていないのに。
彼が誰だか、マリアにははっきりわかった。

そのような夢を見た後なので、マリアは当然寝覚めが悪かった。他の少女たちはまだ寝ている。喉が渇いたので、水でも汲んで飲もうと、マリアは井戸のそばに来た。
早朝で、まだ日は昇りかけだ。空も、黒がうっすらと青になって来た程度にすぎない。出かかってきた光を頼りにマリアはつるべを落とし、くみ上げた水を直接飲み込んだ。
「おはよう」
声が聞こえた。例の男性だった。こんな早朝から、起きていたのだろうか?マリアは少し不審に思ったが「おはようございます」と返した。
「ヨセフの事を、知ったんじゃないのか?」
彼は唐突にそう言ってきた。マリアはぎょっとした。
「あの……」
「夢を見たはずだ。君は」
早朝の冷たい空気に、彼の声はよく響いた。マリアは思わず、うなずいた。
「全部、あったことだ。本当に」
彼は言った。東の空に赤い日が昇ってくる。マリアは少し非現実的な思いに浸って、彼の言葉を聞き続けた。
「君がもしも構わないならば」彼はマリアに語りかけた。「彼のそばに、これからもいてやりなさい。彼には、優しくされることが必要なんだ。特にマリア…君のような、優しい人からね」
マリアは静かにうなずいた。不思議と、考えたがりの彼女には珍しく、頭は空っぽのまま、首だけが動いた。

その朝はそれで終わった。
彼とはそれで別れ、水を飲んだマリアはまた眠り、結局他の少女たちと同じ時間に起床した。今度は夢など見なかった。
一回の睡眠をはさんでしまうと、あれが本当にあったことなのか、既に記憶もおぼつかなくなっていた。
だが、やはり頭のどこかにある気がする。朝焼けの赤い空気、冷たい中に響く、彼の低い、優しい声。そして、頭を引き裂くような、理不尽で悲惨な、ヨセフの夢……。
ヨセフには話さないでおこう。彼女はそう思った。もしもこれが、あのおぼつかない早朝の思い出の通り本当にヨセフの過去なのだとしたら、他人がむやみに掘り返すことじゃない。恵まれて育った自分では到底気持ちを想像できないほど辛く、痛々しい過去だ。忘れたいこともあるだろう。
とにかく、自分は今まで通り、ヨセフに接しよう。マリアはその朝、心からそう思った。

そして、その日はいつも通りにすぎて言った。ヨセフはマリアが見たところ、何の変りもなかった。
彼はやはり、樫の木の下に居た。そして、ヨセフに読み書きや歴史をマリアと一緒に教え、今度はマリアも一緒に、彼の話に聞き入るのだ。


その日、とにかくヨアザルは気がくさくさしていた。朝からアンナスとカイアファに出会ってしまい、いびられたのが原因だ。
ヨアザルが成り上がり者でありながら、エリートであるアンナスと同じ立場、すなわち次期大祭司候補という立場にあることを、彼らが面白く思っていないからこそ自分をねちねちと攻撃してくるのだということはよく分かっていた。少しだけなら、彼らのことを逆に笑い飛ばすこともできたし、事実最初はそうしていた。
しかし、ここまで続くと腹に据えかねる。おまけに、確かに成り上がり者であることにヨアザルはコンプレックスを抱いていたのだ。それは、まぎれもない事実だった。アンナスとカイアファの前で自分に胸を張りきれない感情を、あの二人には見透かされているのだ。彼はそれをわかっていた。
彼はマリアのもとに行こうとした。だが、出てきたのはツェルヤだった。「あら、ヨアザル様!どうなさいましたか?」と、上品に、しとやかに話しかけてくる彼女すら、ヨアザルの心を波立たせた。彼女は、アンナスの娘だったからだ。
だがしかし、関係のない少女に八つ当たりするほど彼も幼くはない。「マリアがどうしているか気がかりになってな」彼は言った。
「あのヨセフとか言う大工の子供と、少しは距離を置くようになったか?」
マリアがその場に居ないのを見届けて、彼は適当な話題をふったが、ツェルヤから帰ってきた答えは「あら、どうしてですの?」だった。
「どういう意味だ?」
「あの二人、すごく仲いいですわよ」ツェルヤは言った。
「なに!?」
「ヨアザル様、彼がお嫌いですの?」ツェルヤはくすくすと笑う。「いい子ですよ。差し入れにお菓子なんか持っていくとね、すごく良い食べっぷりするんですから」
彼女の笑顔が、ヨアザルには少し不愉快だった。なんだか彼女にまで馬鹿にされているようだった。ツェルヤがいい娘なのには違いないが、彼女は少し垢ぬけていて大人っぽい。それはいいことには間違いないのだが、マリアと同じような朴訥な優しさは少し見出しにくかった。
「だが、君も知っているのではないか?」ヨアザルは言う。「いい年をして、教育もなっていないどころか、読み書きすらろくにできていない子供だ。自分が後見人として娘のように育ててきたマリアが、ろくでもない男にたぶらかされては困る」
ツェルヤはそんな彼に言い返す。「まあ……ヨアザル様は心配性ですのね」
「……で、マリアはどこに居る?」
「存じ上げません」ツェルヤはいった。「休憩時間中にどこに居るなんて、一々知りませんわ。申し訳ございません、ヨアザル様」
全くヨアザルに共感していないらしい彼女の言いぶりが、余計にヨアザルの癪に障った。彼女と話すだけ時間の無駄だった、と思った。

ヨアザルは結局悪い気分のまま、その場を離れた。マリアに一つ強く言ってやらねば、と彼は思っていた。

そのような気分になればなるほどマリアの事が心配になってきて、ヨアザルは彼女を探して回った。そして彼の脚は、彼女がそこにいたと確信していたわけではないが、裏口、井戸の近くの方に向かった。
マリアの声が聞こえる。あのヨセフも一緒だ。少し、二人そろって何か言ってやらねばと思っていた、ちょうどいいところだ、と考えヨアザルがその場に足を踏み入れたその瞬間、彼の目にはよく知っている二人ともう一人、見知らぬ男がいた。

旅人のようなみすぼらしい身なりをしている彼は、マリアたちと非常に親しく話していた。どこからどう見ても、さほどいい身分のものには見えない。ヨアザルは顔をしかめて「マリア」と言った。三人が、彼の方を振りかえる。
「あ、ヨアザルさん…」
「その方は誰かね?」
ヨセフがまず先に言おうとしたが、彼が喧嘩腰になるのを抑えようとしての事だろう。マリアが言った。
「あの……数日前から、ここに宿をとっていらっしゃる旅の方なんです」
「なに?神殿はそのような客を迎え入れた覚えはないが」
マリアは急にヨアザルに出てこられて焦ったのだ。全く正直すぎる回答をしてしまった自分に気が付いたが、もう取り返しもつかなかった。意外と、男性の方は全く焦る様子もなく、ぼんやりとヨアザルの方を見つめていた。
「あ、あの……」
「宿を取れもせず、ここに物乞いのように寝泊まりしていたというのか?」
その言葉を、マリアは肯定するしかなかった。事実そうだ。男性も、正直にその言葉に静かにうなずいた。
ヨアザルはその言葉を聞いて余計に頭に血が上った。口を酸っぱくしてろくでもない男にかかわるなと言っているのに、性懲りもなくこんな宿を取れもしないような外国人と仲良くしている。
もし彼が外国のごろつきで、売り飛ばされでもしたらどうなる。乱暴されるだけでは済まない目にあったらどうなる。この目の前の娘はそう言う危機感がないのかと思うと、彼は腹が立った。だが、マリア以上に、そんな物乞い同然の存在のくせに彼女になれなれしい、この初めて見る男に腹が立った。
「今すぐ立ち去れ、乞食が!」彼はきつい口調で言った。「此処をどこだと思っている、偉大なるイスラエルの神の神殿だ!貴様のようなものが足を踏み入れていい場所ではないわ、立ち去れ!」

その時だった。
ヨアザルは面喰った。マリアもヨセフも言葉を失った。
男性はヨアザルの言葉を受けて、怒るでも、悲しむでもなかった。穏やかにその言葉を受け止めるでもなかった。
彼は、笑った。それも声を上げて、げらげらと大笑いした。大人びていて落ち着いた彼の態度からはあまり考えられない笑いっぷりだった。
「なにがおかしい!」
ヨアザルは怒鳴る。彼は笑いを抑えて、言った。
「私に相応しくない……!?この場所が!?」
ヨアザルは彼の意外な反応にも負けず、彼を睨み続ける。先にペースを取り戻したのは、男性のほうだった。
「よろしい。お前がそう言うのなら、もう私はここには来ないとも。『私が足を踏み入れていい場所ではない』なら、しょうがないからな……はははっ!」
彼はサンダルの紐を結びなおして、すっくと立ち上がった。
「あ……」
「ちょ、ちょっと、おっさん!」
マリアとヨセフが声をかける。だが彼は二人の方を振り返ると「二人とも、楽しかったぞ。ここ数日、ありがとう」とにこやかな笑顔で言った。そして、すたすたとまっすぐ歩いて行った。彼の歩き方は早かった。そして、非常に速いのに足音一つ聞こえないほど、静かな歩き方でもあった。
「マリア。それに大工の少年。私はお前たちにこの際だから……」
ヨアザルがそう言いかけた時だった。ヨセフはすでにヨアザルなど気にせず駆けだしていた。そして、ヨアザルは驚いた。いつもなら素直に話を聞くマリアも、あわてて彼の後を追いかけたからだ。

その日、例の気のふれた老人は、神殿の脇で物乞いをしていた。
彼の目が、一人の男性を捕えた。旅人装束を来た男、足音一つ立てず、自分の前を通り過ぎて言った。一瞬だけ、ちらりと自分の方を見た。確かに彼は、その男性の目を見た。
彼は驚いて、後を追いかけようとした。しかし、それはかなわなかった。彼は非常に早く歩いて行った。


エルサレムの市街を出てはずれの農園地帯を、彼は歩いていた。麦の穂が青々と日に照っている、広々とした中、男性は悠々と歩を進めていた。
後ろから声が聞こえる。麦はたっぷり籾が付いた穂ばかりだ。今年は豊作だろう。
「待ってって、おっさん!」
ヨセフとマリアだ、ようやく追いついたのだ。
彼は立ち止って、振り返る。「おや、ヨセフにマリア」彼は言った。
「どうしたのかね?」
「ヨ、ヨアザルさんの言うこと、気にしなくても、いいですよ!」マリアは息も絶え絶えに言った、相当早く走って来ただろうから、息が上がっているのだろう。
「ちゃんと祭司の皆さんに掛け合えば、泊めてもらると思います。それに、その、ヨアザルさんはちょっと今日機嫌が悪くて、ついきついことを言っちゃったんです。本当は凄いいい人ですから、落ち着いて話して……」
「おっさん、あんな奴の言うこと聞くことねえだろ」ヨセフが言う。
「それより……俺は、おっさんともっと居たいんだ」
「わ、私もです!」マリアも続いた。「私も、貴方のお話ももっと聞きたいし、貴方と一緒に色々なことがしたいし、本当……まだいてもいいんですよ!本当です!あなた、すごくい人だから……私もヨセフも、貴方のこと大好きですよ!」
彼はヨセフとマリアの言葉を聞いた。そして、変わらない笑顔で笑った。
「ありがとう。君たちは、本当に優しいね」
彼は、ヨセフとマリアのもとに寄ってきた。そして、両手を伸ばして、二人の方を静かに抱き寄せた。右手でヨセフを、左手でマリアを、彼は抱きしめた。
マリアは思った。彼の笑顔は、父ヨアキムを思わせたが、彼の抱擁もまた同じようだった。たまに顔を見る父が自分にくれる愛情深い抱擁、彼の抱擁はまさしくそれを思い起こさせた。広く、暖かい胸の中に、彼女はヨセフとともに包まれた。
「覚えているかね?以前、私が言ったことを、私が、何故旅をするのか」
彼は、二人を抱きしめたままそう話す。彼の顔がすぐ上にあるのだと分かった。
「今回もそうだったのだ。人間が嫌になったんだ。うんざりしていたんだ。なんと醜くて浅ましい生き物が、この地上を埋め尽くしているのだと、そう思ったからこそ、私はイスラエルを訪れたんだ」
彼は笑っている。なぜか、それがマリアにはわかった。
「昔と同じだな」彼は言った。
「いくら人間が嫌になっても……君たちのような子がいるから、私はまだ、人間を、この世を、愛していける。本当に……本当に、ありがとう。ヨセフ。マリア」
そして、男性は彼らから離れる。陽光を背に受けた彼の顔は、確かに笑っていた。ここ数日で見てきた中で、いちばんきれいな笑顔だ、とマリアもヨセフも思った。
「変に心配をさせいてたのならば、すまないな。もともと、そろそろ帰る予定だったんだ。気にしないでいい。それと、あの男の事だが、むしろ君たちこそ彼をあまり責めないでいてくれたまえ。彼はね、マリア、君の事が心配だっただけさ。悪意と言えるような悪意はなかったんだ」
彼はあっさりとそう言った、そしてもう一度、ヨセフとマリアの目を眺めた。
「マリア。君は本当に優しい子だね。私にはわかるよ。君は誰にでも優しくできる。良い子だ。ヨセフにも、私にも、分け隔てなく優しくしてくれたのだからね……。君のそう言うところは、何よりも魅力的だよ。どうかこれからも、ずっとそうであっておくれ。ヨセフ。……覚えておいてくれ。誰が何と言おうと、君は偉いよ。君は、人間がどれほどひどいか、醜いか、知っているのに、それでも笑って生きている。それでも、ちゃんと人間を愛することができる。誰にでもできる事じゃない。君は本当に、強くて偉い子だ」
彼は最後にそう言いながら二人の頭を優しくなでた。そして、額にキスをする。夏の風が、緑の麦畑の、豊かに実った穂を揺らしていた。
マリアはその言葉を受け「はい」と笑った。すがすがしい気分だった。だが、ヨセフは違っただった。
彼は神妙な顔で暫くうつむいていたかと思うと、首に手をかけた。そして、首にかけていた指輪を取り出した。
「おっさん、これ、おっさんにあげる」ヨセフはそう、短く言った。強い日差しに、赤いルビーが輝いた。
男性も、さすがに驚いたようだった。
「なんだって?……これは、君の家族のものじゃないのかい?」
「おっさんは」ヨセフは食いつくように言う。「おっさんは、俺の家族……みたいなもんだから。おっさんといると……父ちゃんといる、みたいだったから」
彼はマリアとは逆だった。泣いていた。
自分と同じようにヨセフもまた彼の中に父親の面影を見ていたのだとマリアにはわかった。理不尽に殺されてしまい、離れ離れになった父親の面影を。
「あの、今度みてぇなことがあったら、あれだし……旅の足しにでも、してくれよ」
彼は必死でそう言った。指輪を差し出す手は、震えていた。
光のなか、右手が伸びてくる。そして、彼のその指輪をそっとつまんだ。
「ありがとう。ヨセフ。君の気持、確かに受け取ったよ」
男性の指の中で、赤い光が輝いていた。ヨセフはそれを見届け、強くうなずいた。彼は、泣くのをやめた。
「では、もう行こう。迎えも来ていることだしな……」
「え、迎え?」

ヨセフが意外そうな声を上げたその時だった。いつの間にか道の向こうから、一人の男がやって来ていた。
まるでいま空から降り注いでいる夏の日差しのような、眩しく輝く長い金髪の美男子だった。彼は将軍のような豪勢な装いをしている。そして彼は、隙のない速さで男性の前に歩み寄ると、深々と頭を下げた。
「お迎えに上がりました……主よ」
「ああ。ご苦労」
マリアとヨセフは面喰った。
金のない流浪の物乞いかと思っていたのに、こんな見事な装いをこらした部下にかしずかれる立場の人物だったのか?と、一気に疑問がわいてきた。だが不思議と、その将軍に見つめられ「君たちが我が主を助けてくれたのか?ありがとう。感謝しよう」と手を握られると、そのことを問いただす気が失せてしまった。彼に圧倒されたのかもしれない。
「マリア、ヨセフ」彼は最後に、もう一度微笑みかけた。
「君たちといられて、本当に楽しかったぞ。……もしも差支えなければ、君たちのもとに、また訪れてもいいかい」
それに対する返答に、迷う必要などあるはずがなかった。マリアとヨセフは深くうなずき、彼に別れを告げた。彼は金髪の将軍と並んで、光に満ちた麦畑の向こう側に歩いていき、いつの間にか消えていった。マリアとヨセフは彼らに、ずっと手を振り続けていた。

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feat: Mary and Joseph 第六話


例の男性が来てから、井戸の周りの裏庭に集う人物は三人になった。
彼は、マリアとヨセフが井戸に行くと、いつもそこにいた。まるで、彼ら以上に、昔からその場に居付いているかのようだった。
彼は、穏やかな好人物だった。のみならず、彼は非常に多くの知識を持っていたのだ。なぜ、これで行くところもないのかが不思議なほどだった。マリアは彼を、学者かなにかではないかと思ったほどだ。それにヨセフも、彼の知識を重宝した。彼は、ヨセフの無知をあざ笑うことなく、穏やかに何でも教えてくれた。
彼は、夏の日差しを避けながら、大きな樫の木の下でマリアとヨセフにいろいろなことを聞かせた。中でも面白かったのは、彼が見てきた国々の話だった。彼らが見たことも行ったこともない外国の話を、彼はいくらでも知っていた。
シリア、エジプト、ペルシア、ギリシア、ローマ……東の果てから西の果てまで、彼は見てきたかのようだった。彼の言葉を聞くうちに、まるでマリアたちも、その国を旅しているかのように思えた。
彼自身がどこから来たのか、それは分からない。彼は、自分の国を、非常に遠いところにあると言った。マリアやヨセフはおろか、この神殿に居る偉い祭司たちでも、出入りの大商人たちでも、誰も行きついたことのない国だという。
「自分の国はお好きなんですか?」と、マリアは彼に問いかけた。彼は深々とうなずき、「ああ」という。
「じゃあ」今度はヨセフが言った。「なんで旅なんかするんだ?」
「そうだな……」
彼はどこかしらに思いをはせて、やがて唇を開いた。
「時々だね、どうしようもなく、人間が嫌いになってしまうときがあるんだ。そんな時に、旅に出て、いろいろな人間を見ると、楽な気持ちになれてね」
「人間が嫌いになるのに、人間を見に行くのか?」
「ああ」彼は言った。
「人間がどうしようもなく嫌いになっているときに優しい人間を見つけると、ああ、まだこの世も捨てたものじゃない、と思えるからね。私は、その瞬間がたまらなく好きなんだ」
マリアは分かるような気分だった。自分も、気がくさくさしているときに人の優しさに触れると、それが数倍も嬉しく感じる。きっとこの人もそうなのだろう、と思っていたところ、ヨセフは違うようだった。ヨセフはその言葉に反論するわけではなく、どちらかというと、神妙に聞いていると言った感じで、黙り込んでしまった。
「どうかしたのかね?」
「どうしたの?ヨセフ」
彼らの問いに、ヨセフは「いや、おっさんもいい人なんだな、って思って」と返した。


ヨセフに関しての疑問は、最近マリアの中で少しずつ大きくなっていった。
周囲の大人と話すときの彼は、自分と話すときの彼に比べて、ずっと攻撃的に感じる。
ヨセフに関する評価は、大人と、マリアと同年代の少女たちの間では割れていた。ヨアザルは相変わらず彼が気に入らない様子だし、相変わらず先輩からのいびりも受けているようだ。しかし、マリアと同年代の少女たちは、やはりマリアが持つように、気さくでいい少年、という印象を持っているらしい。
お菓子を差し入れに言ったけど素直に食べてくれた、とか、箒が壊れた時にそばにいたから直してくれた、とか、全くマリアが接しているヨセフの姿そのものが、彼女たちの言葉の中にはあった。
何故、彼はこう態度を変えるのだろう。マリアはそれが疑問だった。なぜ、性根が悪いわけでもないのに、わざわざ大人に嫌われるような態度をとるのか。


ヨアザルは疲れていた。先ほどまで、大工たちと神殿改築の打ち合わせをしてきたばかりだ。
ヘロデ王は神殿に黄金の鷲の像を取り付けると言い張っていて、大工もそのように動いているのだが、祭司の立場としては、神聖なイスラエルの神の神殿にそのような偶像崇拝的なものを置くことは到底許容できることではない。しかし、大工たちも顧客はヘロデ王である手前、簡単には引き下がれない。結局のところヘロデ王の意見を聞くまで保留に、という結論に至るまで、何時間も不毛な言い争いが続いていた。そして、その場に居た大半は、それが不毛とは信じていなかったのだ。
ヨアザルもそうだった。彼はいら立っていた。偶像崇拝はしてはいけない、としっかりモーセの十戒に書いてある。律法の基本中の基本もいいところだ。それを知っているのならば、即刻辞めるべきではないか。こんな簡単なことが、何故わからない。そんな気分だった。ましてや、黄金でできた壮麗な鷲の像、ときたものだまるで、アロンやヤロブアム王が躓いた金の子牛の崇拝すらも思い出せる、あさましいものではないか。
ヨアザルは真面目な祭司だった。だからこそ、そのようなことが許せない気持ちがあったのだろう。彼は大工たちが、神を恐れもしない無礼者のように思えてきた。
そして大工たちの中でも一番憎らしいと思っているのが、やはりあの生意気なヨセフだ。しかも、先日のことを思えば彼は背筋に悪寒が走る。彼が持っていたのは、確かに話しに聞くユダヤ王家の指輪だ。偉大なるダビデとソロモンから連なったダビデ王家に代々受け継がれていた指輪。五百年前にダビデ王家の支配自体が途絶え、王家の血も散り散りになってはいたが、それでも直系のものにだけその指輪は与えられているのだろう、と、そのような憶測が飛び交っていた。
ヨアザルの悪寒は、腹立たしさからくるものだった。彼の先祖のうち、一体だれが、偉大なるダビデの血筋から指輪を盗んだのだろう。彼が信心深く、ユダヤの宗教と歴史に非常に誇りを持っていたからこそ、そのことは彼をこれ以上なく震撼させた。ユダヤ人に生まれておきながら聖書も知らず、律法も知らず、字すら読めないあさましい家系のもとに、偉大なダビデの象徴が奪われたのだ。歴史に残されることはなく。
ダビデの血筋は、ただの王家の血筋ではない。遠い昔から、預言者が伝えてきた一つの事がある。それは、いずれイスラエルには救世主が現れるということだ。
救世主が現れる。そして、罪に染まった人間たちを救い上げる。そして、彼は、ダビデ王家の家系の中から出るのだ。
その預言を知らないユダヤ人はめったにいない。(ヨセフは分からないが、と、ヨアザルはそのことを考えている途中、嫌味っぽく心の中で付け足した。)ダビデの家系というのは、ユダヤ人にとって、それほど価値のあるものなのだ。立派なものなのだ。汚されてはならないものなのだ。
だが、その意識も、所詮は信心深い人々のものでしかない。下劣なものは、ただの宝石の価値ゆえに、ダビデの血筋を汚すのだ。ヨアザルをいらだたせているのは、その事実だった。
そして、彼が手塩にかけて育ててきたマリアが、今そのような家系の少年にたぶらかされている。その事実も気に入らなかった。
「(マリアはいい子だ。だから、奴の汚さがわからないのだ)」
ここの所、何度も同じことを思っていた。廊下を歩いていると、自然と苛立ちからか、ドスドスと足音が荒くなってしまったようだ。
彼はそれに気づいて、あわてて静かに歩き出す。だがしかし、その足跡はその場に居た全てに聞き逃してもらえるわけではなかった。
「何かおありでしたか?ヨアザルさん」と、一人の少年が声をかけてきた。神学生カイアファだ。今日は、アンナスはそばにいないらしい。何にしても、このような気分の時に、気分の悪い奴に捕まった、とヨアザルは内心で頭を抱えた。
「いや……うむ、まあな。例の、神殿の金の鷲について」
「ああ、あれですか……」カイアファは勝手にヨアザルの隣につくと、話し始めた。
「まあ、偶像崇拝の観点からあれを非難する気持ちもわかりますが」彼はもったいをつけて話した。「ヘロデ王はあれを神の姿とはしていないようですし、偶像ではなく、あくまで装飾と考えてもいいのではないですか?それに少しヘレニズム調で、今風の趣向でもありますよ」
ヨアザルは眉根をひそめた。カイアファはサドカイ派だ。サドカイ派はヘレニズム文化にもいささか寛容である。そんな立場の意見らしいと言えば、らしかった。
だがとにかく、彼の言葉にはとげがあった。ヨアザルを馬鹿にしているようだった。
「いかがいたしましたか?ヨアザルさん」彼はねちっこく笑って言ってくる。「……いや、なんでもない」と彼は震える声で返した。
「僕があなたを馬鹿にしているなんて、思わないでくださいね」彼は笑った。ヨアザルは、彼に気持ちを見透かされているのを知った。
「いえいえ。貴方がたとえ『庶民に多い』ファリサイ派だとしても、僕も先生もあなたの事を差別なんてしていませんから……ね?貴方は先生や僕と距離を取りたいみたいですけど、少しは僕たちとも仲良くしてくださいよ。先生もあなたも、次期大祭司候補じゃないですか」
この言葉が言いたくて、わざわざ自分に声をかけたのか。ヨアザルはそれを悟った。差別していないなんて嘘っぱちに決まっている。わざわざ「庶民に多い」を強調する意味はなんだ。
彼はよっぽど、そう言いたかった。だが、さすがに大勢の前でどなるのは大人げないし、みっともない。彼はあいまいな返答しかできなかった。
彼の言うとおりだ。自分はアンナスやカイアファのように、代々のエリートの出ではない。言ってしまえば成り上がり者だ。それでも、神を信じ、神に仕えて生きてきた。だからこそ認められ、神殿に仕えている。それなのに、なぜ家が違う、育ちが違うと言うだけで、自分よりいくらも年下のこんな少年にまであざ笑われなくてはならないのだろうか。
それも、ヨアザルの頭を数年間悩ましていることだった。

ヨアザルは立ち上がった。「おや、ヨアザルさん、どちらへ?」カイアファが聞く。
「すこし、マリアの様子を見ようと思ってな。真面目に仕事をしているか、心配だ」
ヨアザルはあえて、自分がこれからしようと思っていることを正直に述べた。
マリアは、自分をファリサイ派だから、庶民の出だから、などという理由で差別しない。彼女も金持ちの家の出で、それなりにいい身分なのであるにもかかわらず、だ。彼女のそう言った優しさに、自分も救われているとヨアザルはしっかり自覚していた。
「おや、そうでしたか!それでは、お名残惜しいですが」
わざとらしいカイアファの言葉を振り切るように、ヨアザルはその場を離れた。


夕方だが、まだ暑さを残していた。大工たちの仕事が終わる頃だった。井戸端に、ヨセフは一人でやって来た。
屋根から落ちた。午後の休み時間に、先輩たちと喧嘩をしたのが効いたのだろう。確かに、誰かに突き飛ばされた。それが誰かは見ることもできなかったうえに、先輩たちは皆、自分が勝手に足を踏み外したのだと主張するだけだったが。
幸い、一瞬だけだが木に捕まることができ、減速できたので大した怪我にはならなかった。だがしかし、彼は悔しかった。
彼は井戸水をくみ上げ、全身に浴びた。痛みが冷たさによって少し抑えられる。彼は何回も、井戸水を頭から浴びた。
「どうしたのかね」声が聞こえた。例の男性の声だった。昼休みにマリアと一緒に会った時と同じように、そこにいた。
「大丈夫だよ」彼はそう言った。西の空に雲が多く、見事な夕焼けだった。 光そのものが、赤く染まっていた。
「マリアも心配していたぞ、ヨセフ」彼は優しく言う。「君はなぜ、彼らに向かっていくのかな」
「向かっていくんじゃねえよ」彼は言う。「奴らに心許す気がねえんだ」
ヨセフは、傷口に掌があてられる感触がわかった。
「おいで」彼の声がすぐ後ろから聞こえた。「水ばかり浴びては、風邪をひくぞ。薬を塗ってやろう」
ヨセフは大人しく、樫の木の下の、彼は座っていたところにいっしょに座った。傷口に、ひやりとした軟膏の感触が感じられた。
「君は、つらいのだね」彼はもう一度言った。ヨセフは彼に、打ち身になったところに軟膏を塗られながら言った。
「……うん」
日が沈んでいく。井戸のそばは、妙に静まり返っていた。全てのものが、この場に入ることを躊躇しているかのような静けさだった。
「おっさん」
「なんだね」
「……聞いて、くれる?」
男性は「もちろんだ」と言った。
「……大人のすべてが嫌いなんじゃねえんだ。おっさんみたいな人は好きだし……神殿の商人も好きだ。良く……困ったらものとか治してやるし。でも……俺、大っ嫌いな奴らがいるんだ。そいつらにだけは、絶対ペコペコしたくねえんだ。だって……ペコペコしてたら、殺されるかもしれねえんだ。その……俺……」
彼の声が震える。呼吸が荒くなる。膏薬を塗り終えた彼は、ヨセフを撫でながら「ゆっくりでいい。嫌になったら、いつでもやめていい。大丈夫だよ」とだけ言った。
ヨセフは必死で、消え入りそうな言葉を紡いだ。
「……言わせて。……言いたいんだ」
「ゆっくりでいいよ。急かしはしない」
「俺……祭司、大っ嫌いなんだ。あと……神殿に仕えてないやつでも、宗教家は、みんな……それと、仕事の先輩ってのも、駄目なんだ。どこにいっても……」
彼の声は震えた。男は優しく、ヨセフを後ろから抱きしめた。ヨセフは彼に身を任せるままに、ぽつぽつと話した。
「俺……父ちゃん、どっかの教団に、殺されたんだ。なんか言ってたけど……俺、すごい小っちゃかったから、覚えてなくて……でも、教団ってのは覚えてんだ。覚えてたってより、母ちゃんが言ってたから……なんか、すごく怖い顔で……父ちゃんの事、馬鹿にして、威張って、最後に、殺しちまって……父ちゃんが、俺に、この指輪渡して……俺、怖くて……」
彼は青ざめた顔で、服の下にしまった指輪のペンダントを取り出した。
「でも、逃げても、何回か、同じことあって……神殿の祭司、どっかの坊主、よく分からねえけどっ、俺の事ずっと馬鹿にして……こっちが下手に出たら、遠慮なく暴力……俺、だから、学校にも行けなくて……学校には絶対いるから、宗教家……イスラエルを離れなきゃならなかったことも、何度もあって……母ちゃん、それで、いつの間にか、気がおかしく、なって……」
日がどんどん沈む。夜の闇が押し寄せてくる。それは、普段明るく、強気にふるまっている少年のおびえた表情を、彼を庇う男と一緒に、優しく覆い隠した。
「俺が、仕事して、かせがなきゃって……でも、何回か、仕事の先輩たち、祭司とか、坊主とかに、俺の事告げ口して……い、今はまだ、でも、いつ、またって……怖くて……せめて、弱く見られたくねえんだよ!礼儀正しくして敬ってなんかもらえるかよ!ペコペコするってのは、弱みを見せるってことなんだよ!弱みを見せたら、遠慮なく、殺そうとしてくるんだよ!」
彼は悲痛な怒鳴り声をあげた。

彼は知らない。自分の持つ指輪の意味を。
ダビデ王家の血筋をあらわす、その指輪。ローマ帝国の属国になり、イスラエルが相変わらず不安定な中、「自分はイスラエルを救う救世主」と、どれほど多くの人物が名乗りたいことだろう?そう信じ込ませれば、どんな人間の先導も簡単だ。ヘロデ王よりも、大祭司よりも、ローマ皇帝よりも、多くのユダヤ人を動かすことができる。
そして、救世主はダビデ王家の血筋から出ると伝説の中にはある。なら、自分が救世主だと人民に示す格好の証拠は何だろうか?ダビデ王家の指輪だ。
彼は知らない。自分の父を殺して、自分たちをそんなものを持つのにふさわしくない、ふさわしい自分たちによこせと迫ってきた彼らが、その指輪を通じて、何を望んでいたのかを。いや、そもそも、「指輪」を望んでいたということすら、彼は認識できなかった。彼らの名誉欲や権威欲は、小さな子供には、ただ絶対的な恐怖としか映らなかった。ヨセフは、何も知らない。自分の体に流れる血の意味を、当の彼だけが知らなかった。
彼はただ、正体の見えない恐怖に怯えながら、必死で強がるだけだった。
ヨセフは全て話し終えて、ただ泣いた。
「君は悪くないよ」
男性の手が、自分の頭に乗せられるのがわかった。ヨセフは、彼に縋り付いて泣いた。
「君は何も悪くない。信じていいよ。本当だ」
彼はヨセフの頭を撫でた。泣きじゃくるヨセフに、彼は「良く、頑張ってきた。つらかったね」と、語りかけ続けていた。

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feat: Mary and Joseph 第五話

それは、焼けつくような暑い夏の日だった。マリアたち、神殿に仕える少女たちも暑さに耐えながら、聖書の勉強をしていた。
熱さに身を任せてだらしない恰好をすることは流石にできない。聖書の先生が目の前にいるからだ。彼女らにとって苦手な祭司たちでないことがせめてもの救いだ。彼女はアンナと言った。もうすぐ八十になる老婆だった。若い時に夫に先立たれたものの、女預言者として長年神殿に仕え、この年まで生きてきた。今ではマリアのような神殿に仕えている少女たちの教育役も担っていた女性だった。優しく穏やかな先生で、皆、彼女の事が好きだった。
若いマリアたちよりも老婆のアンナの方が体が弱そうなものなのに、この目の前の教師は全くしれっとしていたので、音を上げるわけにはいかなかったのだ。
彼女達はイザヤ書を読んでいた。
アンナの講義を聴きながら、マリアは別の事を考えていた。ヨセフの事だ。大工たちはこんな日も、ぎらぎら光る太陽の下で仕事をしているのだろう。それだけでも大変なのに、また彼は虐められてはいないだろうか。そう思うと心配だった。だが、彼女が心配をしていると、気が付いたらアンナが彼女のそばに寄ってきて、軽く彼女を小突いた。アンナは優しいが、さぼっている生徒に寛容ということはない。
彼女はこれ見よがしな説教はしないが、マリアをひとまず今のところは勉強に集中させるにはそれで十分だった。

やっと講義が終わり、アンナが部屋を出て行ったところで、マリアは大きく伸びをした。外の日差しはますます激しくなっている。少しだけ外を見る。物乞いたちもみんな涼しい日陰に引っ込んでいる。例の老人の物乞いがいれば、構わずに炎天下の中座っているのだろうが、あいにくと彼は今日はいなかった。金槌の音がひっきりなしに聞こえる。やはり、こんな中でも彼らは仕事をしているのだろう。
マリアたちにも仕事はあるが、掃除や機織り、糸紡ぎなど室内でやるものがほとんどだ。こういう暑い日にはそのありがたみを実感するが、すぐそばに暑い日も外で肉体労働をする人々がいれば、ありがたみもひとしおだ。マリアは、女に生まれてきてよかった、とこういうときに限り心の底から思うのだった。

他の少女たちが休憩時間に入ってぞろぞろ勉強部屋を出て行く中、マリアは窓の外を見ていた。そこに、引き付けられるものがあるような思いだったのだ。気が付いたら教室は彼女一人になっていた。その時だった。彼女の目が、ある男性を捕えたのは。

彼は、井戸のそばで、炎天下の日差しの下倒れたまま、動いていなかった。
マリアは仰天した。そして、やっと教室から出て、祭司たちに注意されない程度に早足で歩いて、井戸のそばを目指した。

井戸の所につくと、マリアは一人の別の人物と遭遇した。それは、ヨセフだった。事情を聴くと、彼も屋根の上での作業を終えて休憩時間に入ろうとした時に、ちょうど倒れている彼を見つけたというのだ。
井戸のそばはやはり非常に暑かったが、いつもにもましてひっそりと静まり返っていて、不気味、というよりも非現実的なほどだった。そこに、確かに一人、ものも言わず倒れていた。照りつける日光を体に受け、日陰に入る気力もないかのように。

マリアとヨセフは、協力して彼を日陰に引きずっていった。冷たい井戸水に浸した手拭いを彼の額に乗せたところで、彼は静かに目を開いた。その両目は、はっきりとマリアとヨセフを見つめていた。

「気が付きましたか?」
「大丈夫か、あんた?」
ヨセフとマリアは声をかけた。男性は目をこすると、深くうなずき、そして言った。
「君たちが助けてくれたのかね?ありがとう」
彼の声は低く、落ち着いていて、穏やかだった。マリアとヨセフは、その声に安心感を与えられるような心持ちだった。
「あんた、なんでこんなところに?」
ヨセフのその問いに、男性は少し目を宙に泳がせてから答える。
「まあ……旅に、と言った感じだな」
「え?じゃあ、外国の方なんですか?」
「まあ、イスラエル人ではない」
男性は笑ってそう言う。その言葉は、マリアとヨセフにとってひどく意外なものだった。というのも、彼は確かに旅人のような丈夫で質素な服を着ていたが、非常に流暢なヘブライ語を話していて、とても外国人の発音には聞こえなかったからだ。
マリアは思わず、彼のヘブライ語を褒めた。彼は笑って、彼女に礼を言い返す。
「そんなに話せるなんて。イスラエルには、よく来られるんですか?」
「ああ、ちょくちょく来るよ」
「で、それで行き倒れたのか?おっさん」
ヨセフは遠慮なしにそう言った。男性は照れ臭そうに「まあ、そうだね」という。
「ちょくちょく来るのに、知り合いとかはいねえのか?」
「……ああ。私の行くところは、ないよ。この国には」
淡々とした返事だった。
行くところも、宿もなく、せめて腰を落ち着かせられるところを探してここに落ち着いたのだろうか、と、マリアはぼんやりと予想した。ただでさえ、エルサレムはいつでも神殿の参拝客でにぎわい、貧しい旅人が宿を取るのは容易な話ではない。
ヨセフも彼に関してこれ以上突っ込みすぎるのも野暮だと思ったのだろう。それに、彼はおそらく、貧しいものとしての苦しみを味わっているのだ。(少なくとも、マリアはそう予想していた)。だからこそ、目の前の男性に対して同情の心が多く沸いたのかもしれない。
マリアとヨセフは、そのまま彼を神殿の境内に居てもいいだろう、と言った。もともと物乞いが多く集まるところではあるのだし、いて悪いことはないはずだ、というのが彼らの判断だった。
男性は「ありがとう」と笑った。非常に穏やかな笑みだった。マリアは、その表情の中に、父ヨアキムの優しさを見出した。



彼の王宮は、悪趣味なほどに煌びやかだった。
イスラエル自体そこまで豊かな国ではないのに、彼は自らの財産を湯水のようにつぎ込み、こんな豪華な宮殿を立てたのだ。
金ぴかの壁に柱、赤いじゅうたん、毛皮の敷物に宝石の飾り。美しい奴隷たち。ヘロデ王は、そのようなものがなくては我慢ができないたちなのだ。
そして、王はなおそれでも苦しみ続ける。彼は知っているからだ。ローマ皇帝は、これ以上に持っている。イスラエルの歴史になおとどめる、栄華を極めたソロモン王の宮殿は、このようなものではなかった。
彼は苦しんでいる。自分が王に相応しくないのではないかということを、極度に恐れている。
彼が自分の妻、マリアムネと、彼女との間に生まれた子供たちを剣にかけて殺したことは、記憶に新しい。マリアムネは、先の王族、ハスモン朝の血を引いていた。
アンティパスの父は、エドム人だった。エドム人。その名は、ユダヤにおいて軽蔑される名前だ。
ユダヤ十二部族のもととなった十二兄弟の父、ヤコブ。その彼の、呪われた兄であるエサウの子孫こそエドム人であると、聖書の物語はユダヤ人に連綿と伝えてきた。
賢く、偉大な弟に常に後れを取っていた愚かで暴力的な兄の末裔が貴様らだ、とエドム人は何度、イスラエルに笑われたことか。ハスモン朝の圧力でユダヤ化はしても、その屈辱をエドム人が忘れることはなかった。そして、正当なイスラエル人からの軽蔑の視線が収まることもなかった。
少なくとも、ヘロデの父にとっては、そうだったのだ。
ヘロデの父は、エドム人であることを強く誇り、それと同時に、強く恥じていた。なればこそ、彼はハスモン家を憎んだ。
彼は軍人だった。表向きはハスモン家に忠誠を誓いながらも、彼はローマと通じた。全ては、エドムの誇りを守るため、自らを傷つける正当なイスラエルを侮辱するため、であったのだろう。
一方で、父はヘロデを溺愛した。恐らくは、長男として、自分亡き後も自分の野望を継いでくれるものを、という意識だったのだろう。ヘロデは、そんな父を信じた。イスラエル人を軽蔑し、ローマに媚び、そして、今の地位を手に入れた。ローマ直々に認められた、イスラエルの王。もう、妻を通じてのハスモン家とのつながりも必要がなかった。
だが、彼は思う。自分は、まだ足りない。自分は、まだ偉大ではないのではないか。
王になるという目標のもと生きてきた若い時代では考えなかった恐れが、いざ王座に就いてから次々と彼の頭の中に湧いてきた。
誰もかれも、自分をあざ笑っているのではないか。ローマも、ハスモンの血も、「正統」なユダヤ人たちも、皆自分を笑っているのだ。市場の見世物小屋に飾られた、王の服を着せられた猿を見るような目で、自分を見ている。ヘロデ王は、そのように感じていた。
彼は都市をいくつも立てた。港湾都市のカイサリア、要塞都市のマサダ。そうそうたるものだった。そして彼は豪華な宮殿を立てた。最後のハスモン王、自分の義弟に、妻、そして、自分の息子たち。ハスモン家の者をことごとく殺した。
それでも足りない気がする。ローマ皇帝は、ソロモン王は、こんなものではない、なかったはずだ。
彼らはきっと嘲笑っている。自分をあざ笑っている。そうに違いない。足元をすくわれるのではないか。自分は、正当なものではないのだから。
ヘロデ王は苦しんでいた。彼の眉間のしわは、恐ろしいほど深いものだった。

彼は、自分に逆らうものを片っ端から殺した。最近では、実際に逆らっておらずとも、ヘロデが逆らいそうだと信じたならば、それだけで殺すことすらも、多くなっていた。彼はそのたびに、落ち込み、苦しむ。自分と、ローマ皇帝との違いを痛感して。

神殿の建築がいつ終わるか。彼の関心事は、それだった。
ソロモン王。壮麗なエルサレム大神殿の建設で、彼の名はイスラエル人の歴史の中で何よりも知られている。もしも自分がソロモンの建てたものよりも大きな神殿を立てれば、きっと自分は楽になれる。ソロモンより偉大だ、と信じることができる。彼はそう思っていた。その気持ちにすがっていた。その気持ちにすがることで、今まで何をしても、結局その劣等感がぬぐえなかったことを忘れようとしていた。今度こそは、と彼は思い続けていた。


細い絹糸のような髪の毛を揺らして、ヘロディアは王宮の目を見張るほどの濃い緑色と、目に痛いほどに光に彩られた王宮の庭を歩いていた。隣には、ヘロデ・フィリッポス王子が一緒だった。
フィリッポスとヘロディアは婚約者同士だ。だが、年は十五歳以上も離れている。ヘロデ王が決めた婚姻だ。だが、フィリッポスはヘロディアを邪険にはしなかった。彼はまだ幼い将来の妻に紳士的に接していた。
彼らは池のほとりについた。柳の木の下にある長椅子に腰かけ、フィリッポスはヘロディアに話しかける。
「やあ、池の睡蓮が綺麗だね、ヘロディア」
彼女は石の人形のような硬く、美しい表情を崩さないまま、無言でうなずく。
「睡蓮は好きかい?」
彼女はもう一度、うなずいた。睡蓮の池に、白鳥が遊んでいる。水面に極めく陽光と光を反射する白鳥の白い羽が混ざり合って、眩しいほどに、池の上は光に満ちていた。フィリッポスはもう一回問いかけた。
「じゃあ、白鳥は好きかな?」ヘロディアはこれに対しても無言でうなずいた。彼女は、フィリッポスのこのような質問には、いつも無言でうなずくだけだった。フィリッポスは笑って言った。
「君は何でも好きなんだね。優しい、いい子だ」
ヘロディアは彼のその答えに関しても何も言わなかった。ただ、うなずいて、彼の言葉を光栄であると言ったように受け止めた。

「兄上」
そこに入ってきた声があった。
光に満ちた池に負けずとも劣らないほどに光り輝く美少年、ヘロデ・アンティパス王子だった。彼はフィリッポスのもとに急いで駆け寄ってきた。
「父上がお呼びです。アルケラオスの兄上とともに、今後の建築事業について話し合いたいと」
「父上が?分かった、すぐに行こう」
フィリッポスは立ち上がると、ヘロディアに「では、またね」と軽くキスをして、その場を急いで立ち去って行った。

後には、アンティパスとヘロディアが残された。夏の日中、特に暑い時間だ。庭に出ているものはほとんどいない。
「ヘロディア」アンティパスは彼女に言った。
「舐めてあげようか」
彼女はそれにうなずくと、周りに誰もいないのを確認しつつ、ゆっくりと自分のドレスの裾を持ち上げた。彼女の幼さを物語るほど柔らかく、きめ細かい肌に包まれた細い二本の脚が露わになった。
アンティパスは頭の飾り輪を外すと、静かに彼女のスカートの間に頭を埋める。ぺろりと、彼の舌が這う感触がわかり、ヘロディアは小さく声を上げた。夏の池と白鳥の羽が、なおも光り輝き続ける中のことだった。
誰も言っていないだけだ。言えば恥をかくから。ヘロデ王がかき集めた美男美女の奴隷を始め、宮廷に居る美しい者の中で、アンティパスと関係を持っていないものなどいない。天使のような美少年、ヘロデ・アンティパス王子の本性を、彼の家族は誰も知らない。

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feat: Mary and Joseph 第四話

ところで、ヨセフは仲間の大工たちとはあまりなじまない様子であった。ヨセフは少し、十二歳の見習いとしては生意気すぎる節があったのだ。それを、マリアは仕事中の彼もよく見かけるようになって察した。
ヨセフは、腕がよかった。腕力ではさすがに体格の都合上劣っているものの、単純な手先の器用さなら、度々先輩たちを凌駕しているようなところがあった。なるほど、大工は彼にとって天職だったのだろう。しかし、必ずしもそれは好意的にのみ取られることはなかったようだ。彼は、多くの先輩たちから不愉快に思われていた。
ヨセフが控えめな態度を取ればもっと違ったのだろうが、あいにくとヨセフはそのような視線を向ける先輩たちに、無遠慮に言い返す方だった。それでますます関係がこじれるのだ。喧嘩になったことも何度かあった。まだ少年の体格のヨセフは、そうなると結局叩きのめされてしまうのだが、それが彼に植え付けるのは、より一層の無能な先輩大工たちへの軽蔑の心だけだったようだ。

ある日、ヨセフがいつも通りマリアに読み書きを教わりに来た時も、彼の腕や顔には生傷があり、顔には大きな青痣までできていた。
「どうしたの!?」とマリアが言う。彼は「なんでもねぇ。いつも通り、喧嘩しただけだよ」と言った。
「こんな、酷い」
「別にいい。慣れてるから」
彼はそう言って、いつも椅子代わりにしている平たい岩にどっかりと腰かけた。
「薬も塗ったし、本当に心配しなくていいよ。しょっちゅうだから。こういうの」
彼は引き続き、淡々と言う。大丈夫と言いつつ、先輩たちにいら立っている様子であるのも読み取れた。マリアは彼の隣に腰かけると、「本当にひどくなったら、誰かに言った方がいいよ」と言った。ヨセフはあいまいな返事をした。
ヨセフとはよく気が合うが、彼のこういうところは、彼女は不思議に思っていた。自分たちが祭司たちに反抗的な態度を取るときは、たいていこっそり隠れての事だ。祭司たちの前では、優秀な生徒たちでいなくてはならないと分かっている。ところが、ヨセフはそのようなことをしないのだ。不満があれば遠慮なく目上の者にも言うし、いくら折檻されても、生意気と言われてもその態度を改めようとはしない。彼が女ではなく男だからそのようなことができるのか、事実優秀な技術をすでに身に着けていればこそとれる態度なのか、ただ単に彼の性格上の問題か、それはずいぶん複雑そうだが、そんな彼の姿を眺めるのにはいろいろな感情が付きまとった。痛快さがなかったとは言い難い。自分たちも、厳しい嫌な祭司たちにガツンと言ってやりたいものだ、と思わないではない。だが同時に、それで容赦なく痛めつけられるヨセフを見ると、目上の者に歯向かう恐ろしさも同時に実感してしまうのだ。そして、そんな傷を負ってもなお生意気な態度を崩さないヨセフに、どこか、自分とは違うものを感じる。彼は少なくとも、普通に生きている人間ではないのではないかとマリアは思うところがあった。十二歳にもなって読み書きができないという時点で、既に「普通」のユダヤ人を基準にすれば、相当に異常な生い立ちが見え隠れしている気はするのだが……。
「あの先輩たちは嫌いだ」ヨセフは語った。「でも、大工の仕事は好きだ」
ヨセフがそう思えていることが彼にとっての幸せであると、マリアは思う。自分も、機織りや糸紡ぎ、聖書の勉強が好きであるからこそ、長年神殿に仕えていられるのだ。自分の仕事が楽しいのは最高の事だ。そのことを伝えると、ヨセフも嬉しそうにうなずいた。

マリアは神殿から持ち出した書物の一つを開く。「自分の名前が書けるようになったのは、大きな進歩だよ」彼女は言った。「今日から、実際に聖書を読んでみよう。私が好きなのを持ってきたから」
彼女は書物を膝の上に広げる。ヨセフはきょとんとしていた。
「なんだ、これ?」
「雅歌って呼ばれてるの。ソロモン王が書いた歌だよ」
「ソロモン王?」
彼はまず、ソロモン王を知らないらしかった。その事実に、マリアはまたしても驚いた。
「ちょっと待って、ソロモン王を知らないの?本当に?」
「親方がちょっと言ってるのを聞いたことがある」
恐らく、神殿の改築工事に向けて、依頼主であるヘロデ大王が言った「ソロモンの神殿よりも豪勢に」の言葉だろうとマリアは予測した。
「じゃあ……ダビデ王は?」
「誰だそれ?」
マリアは書物をいったん閉じると。「あー……じゃあ、今日は、やっぱり歴史のお勉強にしよっか」と彼に告げた。とにかく、イスラエル人でダビデとソロモンを知らないというのは流石に基礎知識が欠如している。そこの基礎からまず教えるべきではないか、と彼女は思ったのだ。
「今の王様の先祖なのか?」
「いや、違って……」
マリアはどこからで説明しようかと思ったが、シンプルに「昔の、とても偉い王様たちだよ」と言った。
「ダビデは最強の名軍人で、戦争でいくつもの勝利を収めてイスラエルを栄えさせたの。ソロモンは彼の息子。様々な才能に恵まれた大天才で、彼の治世にイスラエルは最盛期を迎えたの。もう千年くらい前の話だよ」
「ふーん……」ヨセフはうなずく。
「特に、ソロモンはイスラエルに目を見張るような大神殿を立てたの。貴方達、ヘロデ王に『ソロモンの神殿より豪勢に』って言われているんでしょ?そう言うことなの。ソロモンの神殿がすごかったからこそ、ヘロデ大王はもっとすごいものを立てろ、って言ってるんだよ」
「なるほどな」彼はうなずく。「でも、そんな偉い王様なら、なんで今の王様の先祖じゃねえんだ?」
「えっとね……イスラエルは、いったん滅んでるんだ。その時に、ダビデ王家も途絶えたの。で、その後またユダヤ人が国を作って…ハスモン王家って言う王家が生まれたの。でもそのハスモン王家も滅んで、今イスラエルはローマの支配下だけど……今のヘロデ大王が、王として君臨することを認められてるの。……どう?分かった?」
「分かった……」
そうは言いつつ、彼は一度に与えられた情報を苦労して噛み砕いているようだった。マリアにとっては当たり前なことが、やはり彼には当たり前でないことを彼女は知った。幸いなことに、彼は彼女の言ったことはすっかり理解してくれたようだった。
「そっか……そんなに偉い王様たちがいたんだな」と、彼は言ってくれた。
「そう!しかもね、ダビデ王の家系がとても重要なのは、それだけが理由じゃないの。実はね……」
マリアがその言葉を言いかけた途端、休み時間の終わりを告げる鐘の音が鳴った。マリアとヨセフはあわてて「じゃあ、続きはまた明日ね」「あ、うん」と言いお互いに別れの言葉を言おうとしたが、それよりも先に彼らのもとに来るものがあった。
「マリア。またその子と会っていたのか」と咎めるような声で言ってきたのは、ヨアザルだった。
マリアは多少、しくじったと思った。ヨアザルがヨセフを快く思っていないことを知ってから、少しは気を付けてきたのだが。
「今日は何を教えていた?読み書きか?」と、彼は聞いてきた。マリアよりも先に「ソロモン王とダビデ王について、教えてもらってた」とヨセフが自慢げに言った。ヨアザルは驚いて、年老いて落ち窪んだ目を見開いた。「何!?ダビデとソロモンを知らんと!?」
「今知った」
「信じられん……」ヨアザルが受けた衝撃は、マリアが受けたそれよりもやはり大きかった。
「なんという、浅ましいまでの不教養……お前がいかにろくでもない、怠惰な人生を送って来たかわかるというものだ」
マリアはヨアザルの言葉をとがめたかった。ヨセフが怠惰な人間ではないということは、ここ数日の学習への態度や、日々見かける労働への姿勢から読み取れた。しかしマリアが何か言う前に、ヨセフはヨアザルに聞こえるように、わざと大きな舌打ちをした。それ以上何の言い訳もしなかったが、ヨアザルにさらなる不快感を植え付けることに、彼は成功した。
「なんだ、その舌打ちは?」
「うるせぇ、クソジジイ」
彼は乱暴にヨアザルにそう言った。そして自分の荷物をまとめて、さっさと仕事場に行ってしまった。
マリアは恐る恐るヨアザルを見上げる。彼はあからさまに不愉快そうだった。「マリア。あんな不良少年と付き合ってはいけないよ」と、彼は言い含めた。
「真面目で働きものな子ですよ」マリアも、さすがに黙ってはいられなかった。ヨアザルに叱られるかと思ったが、彼は「お前は優しいね。だから心配なんだ」と、不快感の消えきらない表情で言ってきた。

そして、その日の午後の事だった。大工たちの作業現場で、酷い音が聞こえたのだ。マリアたちは暇にしていたので、数人の少女たちは連れだって野次馬としてその騒ぎを見に行った。
大工たちが仕事中に喧嘩していた。見ると、数人の大人の大工たちに少年が一人袋叩きにされていた。言うまでもなく、その被害者はヨセフだった。
マリアはぎょっとした。周囲の少女たちも勿論心配だから、あわてて止めに入る。屈強な大工たちは「女は邪魔だ、どいてろ!」と言った。暴力まで振るいそうになるので、彼女たちは慌てて物陰に引っ込んだ。
「てめえ、どこまでも生意気で……」
「先に突っかかってきたのはそっちだろ」
自分を殴りつける男を、ヨセフは睨みつけて言った。
「口答えするんじゃねぇよ!」
「ああ!?どっちの台詞だ!俺よりぶきっちょなくせに!」
その言葉は彼らを逆上させるものらしかった。彼らはまた拳を振り上げた。しかし、その場に少女たちの声よりも重々しい静止の声が入った。祭司たちも止めに来たのだ。
「やめんか!」と言ってやって来たのは、ヨアザルだった。
「神の住まいである神殿で、なんと浅ましい!」
身分の高い彼らの静止は、さすがの大工たちも聞くしかなかった。ヨセフは先輩たちの手から逃れるとよろよろと立ちあがった。マリアは物陰から彼のその様子を見て、彼が非常に心配になった。負けず嫌いも、ほどほどにしてほしい。このまま殴り続けられていたらどうするのか。
「事の起こりはなんだ?」
「こいつらが」
ヨセフが言おうとしたのを遮り、年長の大工が言った。
「この子供が、仕事中だというのに身の程をわきまえないことを言って俺たちをからかったんですよ。あまりにしつこいから、躾をしていたまでです。祭司様」
嘘だ。マリアにはそれがわかった。ツェルヤ達も分かっていたはずだ。あまりにあからさまな嘘だった。ヨセフの苦々しい表情がそれを物語っていた。
ヨセフは言う。
「嘘っぱちだぜ。もとはと言えば……」
「黙れ!」だが、ヨアザルはヨセフの方にきつく当たった。
「お前は実際、呆れた奴だ。いい年をして読み書きも知らん、歴史も知らん……その上、礼儀も知らんときたか。お前のようなものが神聖な神の住まいたる神殿にかかわること自体、恥さらしだ!」
ヨアザルは、もうすっかりヨセフが嫌いになっているらしかった。先ほど舌打ちをされた屈辱もあるのだろう。事実、間違っていないとはいえヨセフのしていることが礼儀正しいと言えないのもマリアは承知していて、ハラハラしながら事の顛末を見守っていた。
ヨセフは相変わらず憮然としていた。もういいから少しでも謝って、と、その頃になるとマリアは心の中で祈っていた。
「祭司様もこう言ってるんだぞ!謝れ!」
先輩の大工の一人が、ヨセフの胸ぐらをつかむ。と、その時だ。その先輩は、何かをつかんだようだった。怪訝な顔をした。
よく見れば、ヨセフは何か首飾りをしていた。その紐を服の中に隠しこんで、見えないようにしているのだ。
「なんだ?」
ヨセフは顔色を変えた。
「よせ、触るんじゃねぇ!」
彼の制止も聞かず、先輩たちは彼の薄い着物の中からあっさりとそれをつかみだした。それは、指輪だった。それも、ただの指輪ではない。読み書きもできない少年が持っているはずがないほど、高価そうな指輪だった。金色の土台に、燦然と輝く大きなルビーがはまっていた。そしてそのルビーにはには、金色の六芒星の紋章が刻まれていた。

大工たちはしばらく、固まっていた。彼らはこんな見事な宝石など見たことがなかったのだろう。それをなぜかこの少年が持っていることに対して、頭が追いつかなかったのだ。
「おい……」
彼らはヨセフに問いかけようとした。なぜ、お前ごときがこんな高価なものを持っているのか、盗みでもしたのか、と。だが、彼らがそう言うより早く、さっと別の男の手が彼らから指輪をかすめ取った。ヨセフではない。しわくちゃなそれは、ヨアザルの両手だった。
彼はしげしげとそれを見ていた。青い顔だった。
「何見てんだ、クソジジイ」ヨセフはヨアザルを睨みつけた。そして、ものすごい剣幕で怒鳴った。
「返せ、それは俺のだ!」
「お前……」震える声で、ヨアザルは言った。「これを、どこで……誰から盗んだ?」
「盗んでねえ。譲り受けたんだ。俺の親から!」彼は怒鳴った。「俺の家に代々伝わっている宝もんだって言ってた!」
「代々?これが、お前の家の……?」ヨアザルは震えた。
「先祖が盗んだのか……?」
「ちげぇ!俺のひい爺さんのひい爺さんのそのまたひい爺さんあたりからずっと受け継がれてんだよ!」
ヨアザルの震えを、そばにいる大多数は理解できなかったが、ヨアザルは「そんなはずは、そんなはずはない……」と繰り返した。
「返せって言ってんだろ!」彼は必死でヨアザルに掴みかかった。彼は、指輪を見つめたまま、ヨセフに返そうとしなかった。先輩の大工たちはそれに慌てて、止めにかかる。彼らはもみ合った。と、そのような中だ。
手が滑ったのだろう。指輪は飛んで、転がって、あっという間に彼らの視界から外れて行ってしまった。

ヨセフはそれを受けて絶叫した。
「何しやがる!」彼は叫んだ。そして、なりふり構わずをその場を駆け出した。
「あ、ヨセフ!」先輩たちが言う。「仕事はどうした!」
「やかましい!さっき言った見てぇにあんたらが俺よりずっと優秀なら、俺一人いなくてもどうってことねえだろ!」彼は怒鳴り返した。そして、植え込みの中に消えていた。
ヨアザルは「大丈夫ですか、祭司様!?」「帰ったらもっときつい仕置きをします、ご容赦を……」と言っている大工たちの声をよそに、茫然としていた。
「あの指輪を?あいつが?先祖代々……?そんなわけがない、そんなわけがない、あんな教養のない不良少年ごときが、まさか、そんな……」彼は小さな声でつぶやいていた。ヨセフは必死で探していた。

「凄いことになっちゃってるわね」ツェルヤが呟く。その時だ。
「お姉さま、すみません。私も探しに行ってまいります!」
マリアが言った。とにかく、彼女はヨセフが心配だった。ツェルヤは微笑んで「ええ、行ってらっしゃい。何かあったら祭司様たちには私から上手く言っておいてあげるから」といた。マリアは彼女にあわただしく礼をすると、ヨセフの行った方向に駆けだした。ヨアザルは放心状態なので、彼に気づかれずに彼のいる所を横切るのは簡単だった。

ヨセフは植え込みの中を必死に探していた。腫れた跡や青あざ、擦り傷に枝がこすれて痛そうだったが、彼は構わない様子だった。
「ヨセフ、手伝いに来たよ」マリアは言う。彼は目線だけちらりと彼女の方にやると「ありがとな!」と勢いよく言った。余裕はない様子だったが、彼が感謝しているということは分かった。
マリアも複雑な植え込みの中、小さな指輪を苦労して探した。「ヨセフ、あれは何なの?」と彼女は言った。
「俺の家の宝もんだ」先ほどと同じことを言った後、彼はもう一言、先ほどは使わなかった言葉を付け足した。
「俺の家族だ」
彼が当たり前のように言ったその言葉が、マリアの印象に残った。と、その時だ。彼らの探している植込みの向こうで、一人の、彼らよりも年下の少女が身をかがめた。そして、身を起こした時、彼女は赤く光るものを持っていた。それにいち早く気が付いたのは、マリアのほうだった。

彼女は、貴族風の品のいい服を着ていた。十歳になるかならないかの少女だったが、非常に細身で、そして、隙がなく整った、めったにないほど美しい顔立ちをしていた。だが、その少女に関して特筆すべきところはそこではなかった。彼女のその美しい顔は、不自然なほど、表情が硬かった。まるで大理石の仮面をはめ込んだように無機質で、その美しさも相まっていっそ不気味なほどだ、とマリアは感じた。
彼女は拾ったそれをまじまじと眺めると、後ろを向いた。気が付くと、彼女の後ろには、彼女と同じくらいの年齢の小柄な少年がいたのだ。彼女は、呼びかけもせず、無言で彼にそれを見せていた。
その少年も、少女以上に高貴な、豪華な装いをしていて、そして感嘆すべき容姿の持ち主だった。まだ子供だが、おそらくもう二、三歳ほど年上だったら、まず自分たち、神殿の少女たちの格好の品評の対象になるだろう。そして、ほとんどが彼に満点を出すはずだ。彼は、非常な美少年だった。年齢に似合わず艶めかしい目つきをして、その程よくぽってりした唇は薄い笑いを浮かべていた。髪の毛は豊かな、ふさふさとした長髪で、片目を覆い隠すようにのばされていた。彼は少女の、色白の細い指で支えられた指輪をその長いまつげに縁どられた目でしげしげと眺めていた。
マリアはしばらく、その二人に気を取られていた。だが、すぐに我にかえって「あ、あの」と声をかけた。ヨセフもその声に反応し、そして彼らが持っている指輪がまさしく自分の探しているものだと気が付いた。
「あ、それ!」と彼は叫んだ。まず最初に反応したのは、少女のほうだった。表情を一切変えず、彼はヨセフをその宝石のような目でじっと見つめる。その次に少年が、長髪をたなびかせ、頭につくた金色の飾りをシャランと鳴らせて彼に向き直った。
「この指輪、君のもの?」彼は小首をかしげた。
「ああ!」ヨセフは言う。マリアは急に、信用してもらえないのではないかと心配になった。ヨセフのような身なりの悪い少年がこんな高価そうな指輪の持ち主だと言っても、まず信じてもらえないだろう。だが、その心配は杞憂だった。
彼は少女に「だってさ、ヘロディア」と言うと、彼女に手を差し出す。少女は相変わらず無言のまま、少年の手に指輪を渡した。少年は、身にまとった紫のショールをゆらゆらとたなびかせながら、優雅な足取りで植え込みの中に立つヨセフのもとに向かった。
「はい、もう無くさないでね」
彼は、自分より背の高いヨセフに、薄ら笑いを浮かべつつそう言った。先ほどまで鬼気迫るものだったヨセフの顔が、指輪が帰ってきたことで一気に明るくなる。
「ありがとうな!」
「いいさ。素敵な指輪だね」
彼はそう言うと、ヘロディアと呼ばれた少女の手を優しくつかんで、また優雅な歩き方で別の方向に歩みだした。
「あの」たまらずマリアが言った。「ちょっとは……疑わないんですか?」
「疑わないよ。だって、さっきの一部始終、見てたから」
彼はこともなげにそう言った。そして今度こそ歩き去って行ってしまった。


「いったい何事だ!?」と、大工たちはやっと来た棟梁に、これ見よがしに叱られていた。マリアとヨセフは、その頃自分たちの仕事をしに行ってしまっていたし、少女たちも引っ込んでいた。他の野次馬もいなくなっていて、その場には彼らだけだった。棟梁のそばには、宮廷に仕える兵士たちもいた。
「ヘロデ大王様と王子殿下たちが視察に参られたいうのに……何をさぼっている、大工ごときが!」
兵隊は切羽詰まったような威圧感を持って、そう言った。後ろにはイスラエルを治める王、ヘロデ大王がいた。険しい顔の持ち主で、その眉間には深すぎるほど深いしわが刻まれていた。
「いつできる」彼は重苦しい声で言った。「ソロモンのものより偉大な神殿は、いつできる」
「予定日には必ず終わらせます、陛下……」棟梁は怯えて言った。
棟梁は分かっている。誰もかも、わかっている、この王は恐怖しているのだ。ダビデの血も、ハスモン家の血も混ざらない自分の身を。いつローマにのまれてしまうかということを。彼は恐れている。だからこそ、自分の権威を求める。あの偉大なソロモン以上の存在になろうと必死になっている。
「父上!」彼の王子、ヘロデ・アルケラオスが言った。父に似て、不安げな、険しい表情の持ち主だった。「アンティパスとヘロディアがいつの間にかおりませんが……」
「いいえ、ここにおります。兄上」
アルケラオスの声をあざ笑うように、豪華絢爛な馬車の下でそんな声が聞こえた。そこには、ヘロデ王の王子の一人、ヘロデ・アンティパスがいた。それは、先ほどヨセフとマリアとたった一瞬だけで出会った美少年だった。隣には、例の少女、ヘロディアもいた。
「何をしていた、王子の身で……」
「まあまあ、アルケラオス。良いじゃないか、子供だぞ。遊びたい盛りだ」アルケラオスの隣に座る青年、彼の弟ヘロデ・フィリッポスが穏やかに言って、ヘロディアの方にまず手を差し伸べた。
「アンティパス。ありがとう。ぼくの将来の妻とよく遊んでくれて、助かるよ」
「いえいえ」ヘロディアが馬車によじ登ると、アンティパスもそうする。アルケラオスはふんと笑って言った。
「お人よしめ。弟に、美しい婚約者を取られても知らんぞ」
「まさか。まだ子供じゃないか。年の離れた僕よりも、近いアンティパスの方が遊んでいて楽しいだけさ」
兄たちのそんな会話を聞きながら、アンティパスは笑いつつ、自分の事が話されているのにまったく無関心のヘロディアに話しかける。
「ヘロディア。……あの指輪、知ってる?あれはね、僕なんかには、決してはめられない指輪だね」
彼女は静かに首を縦に振り、アンティパスは静かに囁いた。
「うん。そうだ。あれは、ダビデ王家の指輪だよ。ダビデ王の直系の子孫が、代々引き継いでいるっていう噂の奴さ。ダビデも、ソロモンも、あの指輪に指を通したんだ。……いつか『救世主』も指を通すんだろうね」

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feat: Mary and Joseph 第三話

マリアとヨセフが仲良くなるまで、そう時間はかからなかった。そのあたりになれば神殿に住むものはだいたい、大工たちと打ち解けていたのだ。だが、マリアとヨセフはこと、話が合った。
二人が同い年だということもあったかもしれない。ヨセフは屈託のない、明るい少年で、あまり男慣れしていない彼女にとっても非常に親しみやすい存在だったのだ。だが、彼には一つ異常なことがあった。読み書きができないことだった。
イスラエルではたとえ一般庶民でも、小さい時から学校での勉強を無償で受けられたため、識字率は非常に高かった。ほかの国ならばさておき、このイスラエルで大工という下々の身分だから字を知らない、という言い訳はありえなかった。事実ヨセフの同僚の大工たちは、ちゃんと字を知っていた。マリアがそのことを言うと、ヨセフは恥ずかしそうに「教えてくれる人がいなかった」とだけ言ったのだ。何か、不用意に深く聞くべきではない事情を察し、マリアはそれ以上の追及はしなかった。
しかし、全く話を聞かなかったことにしたわけでもない。そんな会話を交わした日からマリアはヨセフに文字を教えることにした。彼としても、もうすでに大きくなったのに誰かにいざ教えてくれというのが気が引けていただけのようで、文字を学ぶこと自体に関してはやぶさかではない様子だった。
彼は物覚えが早い方ではなかったが、マリアにとってこの生徒とのやり取りはさほど苦痛にはならなかった。ヨセフは分からないところは素直に何でも聞いてくるので、先生として考える手間は最小限のもので済んだのだ。彼は最近ようやく、自分の名前が書けるようになってきたあたりだった。
心もとない、書きなれていないことがよく分かる字を、彼は地面の上に書く。「大丈夫、あってるよ」とマリアが言うと、彼も嬉しそうに笑って見せた。昼下がりの休憩時間の事だった。彼らは月桂樹の木の下に居て、木漏れ日がちらちらと頭上に舞っていた。そばにはイチジクの木もあり、熟れている実がまばらに生っていた。
他の少女たちに囃し立てられるのもなれた。他の少女たちもヨセフとよく話したが、彼と一番仲良くなったのはマリアだったからだ。
マリアは、彼からぽつぽつとだが、様々なことを聞いた。彼の両親がとっくの昔に亡くなり、天涯孤独の身であることもだ。それ以来、様々なところをわたり歩き、今は大工仕事をしているということだ。彼の一生は過酷だったが、彼はまだ短い人生の中で今までやって来たさまざまな仕事の中で、大工仕事が一番好きだということも聞かされた。

彼は自分で書いた自分の名前をしばらくじっと見ていた。感慨深そうだ。マリアは木漏れ日に照らされた彼の横顔を見て、少し微笑ましいような、照れくさいような気分になった。こうしてみると、彼はなかなか格好良い気がした。鼻も比較的高いし、目と眉毛はきりっとしている。喉仏はすでに出ていて、子供がたくましい大人の男に代わる過渡期に彼があるのだということが読み取れた。すこしくせがあってバサバサしている髪の毛と若干長めの胴体が減点対象ではあるが……。
そんなことを考えていたら、昼休みが終わった。ヨセフは棒でくしゃくしゃと地面に書いた自分の名前を消すと「じゃぁ、待たな。今日もありがと」と言ってさっさと自分の仕事に帰っていてしまった。マリアもマリアで掃除の仕事があったため、「どういたしまして。お互い、お仕事がんばろうね」と言ってヨセフと別れた。掃除道具を、彼女は一人でとりに向かうつもりだった。
だが、その日はそうにはならなかった。ヨセフと別れてすぐ、彼女はヨアザルと出会ったのだ。
マリアはヨアザルに対して、彼の平安を祈った。ヨアザルもそうすると、「何をしていたのかね」とマリアに問いかけた。彼はマリアと並んで歩き、歩きながら会話をした。
「大工の一団の中の男の子に、読み書きを教えていました」
「大工の?そんなに小さい子供がいたのか?」ヨアザルが眉をひそめる。
「いえ、私と同じ十二歳です」
ヨアザルはますます不快感をあらわにした。マリアは、敬愛すべき後見人にとって自分のしている行為が意外とそこまで好ましくないことであるという事実を知り、それがあまり面白くなかった。
「イスラエル人に生まれておきながら、十二歳まで読み書きもできないほど勉学を怠っていたとは……お里が知れる」ヨアザルは憮然として言った。マリアは、ヨセフが十二歳まで誰にも文字を教えてくれとすがれなかった理由が少しわかるような気がした。読み書きを学ぶことが非常に簡単なイスラエルだからこそ、「何か」の理由があって読み書きができない人間へ向けられる偏見の目は予想外に厳しいのだろう。マリアも女性ではあったが、神殿に仕えている手前、そこらの同年代の少年よりは勉学を積んでいる身だからそのあたりの問題に関しては当事者には程遠かったが、なんとなくそう感じた。
若い少年であるという好ましさと、マリアとヨセフが読み書きの先生と生徒の関係となっている微笑ましさから、マリアの同僚の少女たちはまだそれを好意的に見てからかいながらも応援してくれるが、それらの事が判断に関係しないヨアザルは不機嫌になるのかもしれない。彼は社会的強者であるのみならず、祭司という職業上イスラエルに強い誇りを持っている男だ。マリアは彼の事をそう分析した。
だが、高位の祭司、それも自分の後見人にそこまで大きな態度はとれないし、取るつもりもなかった。「十二歳で読み書きができないからこそ」とマリアは言った。
「今、学ぶべきではありませんでしょうか?十三歳、十四歳になっても読み書きができないということにならないよう。それに、先生方はいつも、貧しい人々に施しをするなどして善行を積むものになるべしなどとおっしゃっています。お金のない人にお金を施すのが善行であるのなら、学のない人に学を授けるのもまた、善行なのではないですか?」
マリアは言い終わって、少しムキになったかも、と一瞬背筋が寒くなった。ヨセフへの読み書きの教授は非常に楽しい事だったため、それを否定されたような気がして頭に血が上らなかったとは言い切れない。しかし、少なくとも理屈では間違っていないはずだ。ヨアザルは何を言っても「屁理屈を言うな」の一言で片づける人間ではないため、少なくとも一喝されることはないはずだ、とマリアは思った。
果たして、その読みは当たっていた。ヨアザルは少しばかり考えた後「お前は優しいね、マリア」と、渋い表情を崩し切ったとは言いにくいが、それでも少し柔らかい表情で言った。マリアはほっとした。ヨアザルに限らず、祭司たちが怒った時ほど怖いものはない。厳しい言葉でどなられたり、仕事を増やされるのは序の口。酷い時には杖か鞭で叩かれるのだ。「こう厳しくしつけられてこそ、お前たちは立派な夫人になれるのだぞ」と言われていたが、正直な話をすると、マリアたち少女の間ではそれは半信半疑だった。誰も、叩かれることは嫌いだったからだ。
「モーセはなんで律法の中に、女の子を叩いて育てるなっていう文言を入れてないのかな」
「モーセは叩いて育てられてなんかないからだよ!だって、王室で育ったから」
そんな以前交わした会話を連想して、マリアは少しおかしくなった。
「しかしだね、マリア」というヨアザルの言葉で、彼女は現実に引き戻された。「しかし」が来ると思っていた。祭司に口答えしてしまった以上、無傷では済まされないのはまあ、しょうがないことだ。
「育ちの悪いものと積極的に付き合うのがよいことだともいいきれんぞ。殊に、お前は若い女性で、世間知らずだ。自らの身のためにも付き合う相手は選びなさい。それに、未婚の女性の身で、余り男と仲良くするのもはしたないことだ。その少しの行動が、将来お前を貞淑な夫人ではなく、呆れた売春婦に導くかもしれんのだからな。つつしみなさい」
まあ、普通の説教だ。この程度で済んで本当によかった、とマリアは思った。どうせ説教をされても、ヨセフとの付き合い自体をやめるつもりもない。文字を教えるという大義名分もあるのだから。
掃除用具入れに付き、マリアは「それではヨアザル様。ありがとうございました」とお辞儀した、彼も、自分の仕事に帰っていった。すでに神殿内の人々は、自分たちの仕事に戻っていた。

掃除をしている最中、ヨセフを見つけた。ヨセフは仕事の合間らしかった。彼は神殿商人の鳩の鳥かごが壊れてしまったのを、器用に直している様子だった。読み書きは子供以下でも、やはり大工仕事は出来る。彼はマリアの生徒としての彼と比べてずっと自信に満ちていて、堂々としていた。
「すっかり、お熱かしら?」と、隣で陶器の花瓶を磨いていたツェルヤが、視線をマリアには合わせずに言った。マリアは慌てたが、すぐに気を取り直し、堂々と「お姉さま、からかわないでください。あの子は友達!そして、私の生徒ですから」と言った。ツェルヤは花瓶に赤い薔薇とスミレの花をいけながら「あら、私、貴女に向かって言ったとは言ってなくってよ」と笑い返した。彼女の方が一枚上手だった。


マリアという少女は、どこにでもいる十二歳の少女だった。
丸くて大きな、愛らしい目をしていたがどちらかと言えばぽっちゃりした方で、貴族のドレスより農民の服の方が似合いそうな素朴な顔つきをしていた。取り立てて不細工とは言えないが、わざわざ美人というほどのものでもない。男を狂わず魔性の美貌、だの、人知を超えた神秘の美女、だの、天使のような穢れなき美少女、だのといった、古今東西の美女、美少女に使われそうな褒め言葉の数々は、いずれもそこまで相応しいとは言い難かった。イスラエル中どこを探してもいそうな素朴で、平凡な少女。彼女の外見に関して言えば、それが一番ふさわしかった。
しかし、彼女に魅力がないというわけでは断じてない。彼女の後見人として、彼女を実の親よりもよく見てきたヨアザルはそう感じていた。マリアは、笑顔の似合う少女だった。にっこりと笑った時にできるえくぼが、本当に愛らしいのだ。そして彼女は、話し声が穏やかだだった。マリアには、そばにいる人を和ませるような魅力があった。小さい時から、彼女は明るく、人懐っこく、誰にでも優しい。事実、友達も多い方だ。仲間の祭司たちの評判も、マリアはいい方だった。
それは、立派な彼女の魅力だ、とヨアザルは感じていた。だからこそ、彼は彼女の事が心配だった。
誰にでも人懐っこい彼女の性格が、ろくでもないあらぬ男を惹きつけはしないか。それで、厄介ごとに成ったりはしないか。マリアが十二歳になり、徐々に子供から大人の女性に代わってくる年齢になってきて、ヨアザルは最近、そのことを非常に心配しているのだ。
そのようなことを考えて神殿の廊下を歩いていると、神殿商人の鳩の鳥かごを治している大工の少年が目に入った。十二歳にもなって読み書きもできない少年とはあれの事か、とヨアザルは思った。
あの神殿商人は、生贄の扱いも悪いし値段も暴利だ。神殿としても境内での商売を断ろうかどうかと審議している対象だ。そんな相手の鳥籠を治すなど、やはり里が知れている、と、彼はヨセフを軽蔑した。そして、なおのことマリアを心配に思った。

会議場に入ると、すでに祭司たちが集まっていた。ヨアザルはそれら一人一人に平安を祈る。
「……実際、あのファリサイ派たちは面倒ですよ!」と、入口の方から声が聞こえた。初老の高位の祭司と、十六歳ほどの少年だった。彼は当の祭司の弟子である神学生だ。話し声は若かったので、神学生のほうだろう。
「天使の存在は、あくまで伝説上のものでしょう。聖書の本質はそんなおとぎ話じゃなく、モーセの律法にありますよ。この前の論争でつくづく思いましたが、奴らは現実を見れない連中です」
「全くだ。ああいうものが、多神教に転ぶ。お前は、それを良く分かっていて満足だが……」
「僕は生まれながらのサドカイ派ですよ、先生……おや、ヨアザル様!こんにちは、貴方に平安がありますよう」
色白で細身で、身なりのいい、いかにもエリートという風体のその神学生は、ヨアザルに非常に丁寧なあいさつをしてきた。彼とともに来ていた彼の先生も挨拶する。彼の名前はアンナスといい、古株の祭司だった。
「やあ、アンナス、カイアファ。君たちの上にも、平安があるよう」
そう挨拶をしていたものの、ヨアザルはまだマリアの事を心配していた。アンナスはそのあたりの勘が鋭い男で「何か物思いにふけっている様子だな」と言った。
「ほどほどにしろ。今は主と信仰に思いをはせる時間ではないのか?」
「……お前にそう言われなくてもわかっている」
ヨアザルは、この男が嫌いだった。彼は、人を下に見下しているようなところがあった。勘が鋭いのもあり、一々嫌な思いにさせられるのだ。ここ数年では、彼の一番お気に入りの弟子のカイアファも彼のそのようなところをよく引き継いでいて、師弟同士気が合う様子なのはいいことだが、不機嫌にさせられる要因が一つから二つに増えたようなものだった。
アンナスとカイアファは自分たちの席に着き、また勝手に世間話を始めた。「……ところで、あの業突く張りの商人の鳥かごが」「ふん、あんなものには神の報いが来るわ」ふと、自分が気に病んでいる問題と彼らの話題が微妙に重なったことに反応し、ヨアザルは聞き耳を立てる。
「しかし、あの男の子、よく鳩を騒がせずに治しましたよ。僕はペン以外持ったことがありませんが、職人とは器用なものですね」
「さよう。なかなかの勤労少年だな」
やはり聞かなければよかった、とヨアザルは思いなおす。やはり、この二人とは合いそうにない。
振り返ってみると、大祭司が到着しつつあった。彼は姿勢を正した。

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