クリスマス市のグリューワイン

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feat: Eve 第十一話

その夜、イヴはなかなか寝付けなかった。アダムは返ってこない。リリスが近くにいると聞いて本格的にパニックを起こしてしまい、ラファエルが離れたところで付き添っているということなのだ。
天使たちは何かあったらすぐ読んで、と言い残して、リリスを探すため飛んで行ってしまった。昼間のうちはそれでも大丈夫だと思っていたが、夜が来ると怖くなった。
でも、今日はどれだけリリスの歌声が聞こえてもここを動かないでいよう、とイヴは固く決心していた。そして、早く寝よう、寝れば、朝が来る。朝が来れば怖くない、とも自分に言い聞かせた。
だがそう考えれば考えるほど寝付けなくなる。静かな夜の中風の音を聞きながら、イヴは寝る事だけを考えていた。
だがそんな彼女の耳に、ついに聞き覚えのある歌声がやって来た。でも、今日はここを動かない、と決心するイヴは、その歌声がいつもと違うことに気が付いた。
いつも、遠く離れた一転、いつも決まった声量で響いているだけのその声が、少しずつ、少しずつ大きくなっている。いや違う。これは、近づいているのだ。
イヴはとっさに起きて、逃げようとした、だが、体が動かなかった。すくんでいるというよりも、その声に拘束され、金縛りにあっているようだった。歌声に交じってフクロウの鳴き声のような音が聞こえる。
音はどんどん大きくなっていった。彼女の瞼さえも金縛りにあい、彼女は目を閉じたまま、近づいてくるリリスの歌声を聴き続けているしかなかった。
歌声が止まった。まぶたの金縛りがとかれた。
イヴは目を開けた。そして、自分の上に立っている存在を見つけた。
「こんばんは、イヴ」
月明かりに不気味に照らされた、リリスの姿だった。

リリスは身動きの取れないイヴの側にゆらゆらと寄ってきた。そして彼女のすぐぞ場に膝を突き、四つん這い人って彼女に覆いかぶさるような体制を取る。空の上にはちょうど月が浮かんでいた。リリスの顔は逆光になり、イヴのすぐそばにあるはずなのに、ほとんど見えなくなった。ただただ、リリスの声だけが響いた。
「話しちゃったんでしょ。あたしの事。嫌な子ね……ちゃんと約束したはずなのに」
「イヴはリリスに覆いかぶさられたまま、口を開こうとした。何とか口だけは開く。そのまま、必死で彼女は言葉を出した。
「なんで、帰って、きたの?」
リリスの両手は見えない。オレンジ色の百合の花の香りがきついほど漂っていた。花畑で感じるような香りではない。その自然な香りを凝縮したような不自然なほどの強さだった。
「アダムのためだと思った?」
リリスはイヴの方手首を、自分の片手できつく握りしめた。こんな細い腕のどこに、ここまでの力があるのだろう。
「あたしがアダムに意地悪するためにわざわざこんなばかげたところにのこのこ戻って来たなんて、思ったの?」
「だって」
「酷いじゃない、イヴ。私だって目的があって帰って来たのに。あんたが口を滑らせたせいで、天使たちがあたしの事、今必死に探ってるわ。もうここにはいられないわ。あたし今すぐ逃げ出さなくちゃならないのよ。あんまりじゃない」
リリスは静かに、だが非常に重々しく言葉を浴びせかける。
「でもいいわ。あたし、当初の目的だけは果たして帰るから」
「なに、それ」
「ねえ、イヴ、どうしてあなたは一人だけなの?」
リリスの顔が見えない。だが、イヴんは若田。リリスがあの恐ろしい微笑を浮かべていることが、目で見る以上にはっきりと分かった。
「アダムは守られているわ。でもあなたは一人だけ……相変わらずのおばかさんたち。あたしの目的を何もわかっちゃいない」
リリスの左手のシルエットが月に照らされた。それは瓢箪の実のようなものを握っている。
リリスはその瓢箪に口お付けて、傾けた。そしてその一連の挙動を見ているイヴの顔面を引き寄せ、無理矢理に口づけした。
怯えて震える事すら、リリスの力は許さない。リリスの口伝いに、正体のわからない液体が流し込まされた。飲み込んではいけないと本能で分かった。それでも、イヴの体は含みいれないほどのその液体が肺に行くよりはましだと、それらを飲み込んでしまった。苦しい。唐アガ拒否反応を示しているのがわかった。助けを呼びたいと思ったが口が仕えない。
リリスの口が離された。イヴは天使たちの名前を叫ぼうと思った。だが、口は開放されているはずなのに、思うようにいかなかった。いや、その思いそのものがだんだん崩れていくような感覚を味わった。
目の前にリリスがいるはずだ。なのに、なぜかリリスではないものがぼんやりと目の前に移ってくる。名前もわからない。ただ、変なもの、恐ろしいものであるとイヴにはわかった。
激しい頭痛がする。訳の分からない音が、耳元で鳴り響いた。その音の中に、フクロウの鳴き声が混ざっているような気がした。
吐き気がする。呼吸もうまくできない。
耳がいた無能な中、まるでその雑音たちをすべて従える女王のようなひときわ不快な音として、リリスの声が響いた。
「ダチュラ、って知ってる?」
リリスに体を押さえつけられていなくては発作的に暴れてしまうのが目に見えていた。正気が飛びそうだ。いや、すでに飛んでいるような気すらしてくる。もう目の前に、エデンの光景は見えない。やたらと色と光の濃い、形を持つものなど何もない世界だけがイヴの目の前に広がっていた。それでもリリスだけは、そこにいた。リリスだけが先ほどまでいた世界と、この世界をつなぐ存在だった。
リリスが自分の体に触れたのがわかった。先日感じたあの感触を感じるのに時間はかからなかった。
自我すらも失ってしまいそうな眩惑の中、恐怖と衝撃がいつまでもいつまでも終わることなく襲い掛かってきた。目も耳も感覚を閉ざされて、ただリリスの与える感触と、リリスの語る声だけがはっきりとした形を持ってやって来た。たとえそれが普通なら受け入れたくない恐ろしいものだったのしても、その世界では、それを受け入れるしかなかったのだ。自我を失っても、リリスの声だけははっきりと聞こえていた。
「あたしは楽しく暮らしていたわ。後悔なんて一切なかったわ。でも、聞いたのよ。アダムの新しい伴侶が作られたって。しかもあたしの時の間違いを繰り返さないように、アダムを愛する存在に創った。ねえ、イヴ?教えてあげるわ。あなたがなぜあんな詰まらな人を好きなんだと思う?それはね、あんた自身の創りだされた意義が、アダムを愛すること、だったから。あんたは理由があろうとなかろうとアダムを愛するしかないのよ。どんなつまらない人でも、愛するために生まれてきたの」
アダム。
その言葉が、消えかかていた自我を少しだけ、ほんの少しだけ、戻してくれた様な気がした。
「あまりにおかしかったわ。愚かだと思った。あたしね、あんたのこと大嫌いよ、イヴ。でも、同時にあんたの事、とっても可哀想だって思ってるの。あたしは昔のあたしが嫌い。あんたは昔のあたしみたい。しかも、成長することも、アダムを愛しないっていうことも許されなかった昔のあたしなのよ」
イヴはすがろうとした。手が何かに触れた感触はない。だが、リリスにすがろうとして、それでもいい続けた。
「でも、アダムを傷つけることは、なかったよね……」
「そんな話はしてないでしょ!?馬鹿!!」
リリスが起こったのがわかった。体中に純粋な痛みが走る。転んで傷ができた時と溺れた時の苦しさが両方襲いかかってしまったような途方もない苦痛だ。リリスは語気を荒めて言った。
「とにかくあたしはあんたが大嫌いで、あんたが可哀想なのよ!ねえイヴ、素晴らしい世界を見せてあげるわ、あんたもあたしの仲間になるの。あんたが壊れても神は新しいのを作る、その子も仲間にしてあげる。それがあたしの復讐なの!あたしは誰よりも賢かったんだって、あの馬鹿どもにわからせるための!」
急に、イヴは感じたことのない感触に襲われた。自分の体全体が、鋭い刃に一突きにされるような感触だった。その衝撃は、今まで受けてきたどんなものよりも大きかった。
一番強い衝撃の後、頭が茫然としてくる。色とりどりの色や光すらも、消え去って、ただの位世界になりそうなのがわかった。それでも、フクロウの鳴き声と、リリスの声だけは聞こえ続けていた。
「ねえ……知ってる?あたしがどうやって、知恵の実を食べたか。あたしの頃は、あの実を食べると罰が来るなんて言われてやしなかった。でも、深いところに隠されていて、見つけることなんてできなかったわ。教えてくれたお方がいるの。誰よりもきれいな、あのお方……」
イヴは、頬に何らかの存在を感じた。それはリリスの掌だと、簡単に分かった。
「……ルシファー様。あんたにも会わせてあげる。きっと、その暗い目がパッチリ開ける事でしょうよ」
もう、視界は真っ暗になりかけていた。だが、真っ暗な中、イヴにはうすぼんやりと、満月の影が見えた。
今ならば戻ってこられるような気がして、彼女は手を伸ばした。しかし無駄だった、満月の影も、どんどん、ただのぼんやりしたクリーム色の光になって見えなくなってしまう。
いや、ほどなくして、ずっとその光は見えなくなった。だがそれはイヴの視界が閉ざされたからではない。何者かに遮られたように光が視界から消えた。
イヴの掌にふわりの軟らかい物が舞い降りた。それは、羽毛によく似ていた。
「(天使……?)」
助けに来てくれたの、ありがとう、と言おうとした。しかし皆まで言えないうちに、イヴは意識を失った。


「なんで、貴方がここに?」
リリスが抱き上げかけていたイヴの体を抱える手から力を抜いた。小柄で軽いそれは草地にずるりと倒れる。月光の光を背中に現れた彼を、リリスは嘲笑うように見つめた。
「……サマエル」
リリスに笑われたサマエルは、静かに羽ばたきながら地面に降りると、イヴを抱きかかえた。
「お前がエデンにいると知った。お前はアダムの新しい伴侶の話を聞いてから、ずっとそいつを引きずり込んでやりたいって言っていただろ」
「あー……分かったわ。ウリエルに撃墜された間抜けな悪魔って、貴方の事ね?」
おかしそうに笑うリリスに対して、サマエルは表情を変えない。
「ルシファー様を慕っているあなたが、なんで人間を庇うのかしら」
「お前も元人間だろ」
「イヴを知らないようじゃないみたいね」
「……撃墜されたところ、この子に、助けられてな」
「恩義を返しに、助けに来たってわけ?貴方も天使に見つかったらおしまいなのに。ルシファー様が聞いたら怒るでしょうね」
「……」
「ま、いいわ。ちょうどよかった。貴方が消えたのはルシファー様から聞いてたの。で、ルシファー様から連絡よ」
「なに?」サマエルは興奮気味に顔を上げた。だが、そんな彼を見下すようににやりと笑って、リリスは言い放つ。
「元から特に役にも立たなかったから、もうあなたはいらないって。天使に殺されてろって」
それをきいて、サマエルは二、三度瞬きをして、再度顔を伏せる。だがその動作は、リリスの想定とは違っていたようだ。
「思っていたより驚かないわね」
「そんな気はしてた」サマエルは淡々と呟いた。「ルシファーさんが助けようと思ったなら、エデンになんてすぐ入ってこられるから」
「貴方は本当に惨めね」リリスは言う。
「昔から、悪い意味で不思議だったわ。あなたは。天使たちの中で、貴方だけ浮いていたもの」
「……俺の事はどうでもいい!」サマエルは強く言った。
「だが、イヴに危害を加えるのはやめろよ」
「なんで、貴方にそう言われる筋合いがあるわけ?」
「……俺がルシファーさんに捨てられたんなら、もうあの方に義理をはらって人間を憎む義務もない訳だろ」
彼はリリスを睨みつけて言う。
「俺は……」
「その子を守りたいの?」
リリスは挑発的に微笑んだ。サマエルの睨みなど何も恐ろしいものではないかのようだった。
そして彼女は、火がついたように笑いだす。だがイヴが恐れたそのけたたましい笑い声は、サマエルを恐れさせるものでもなかったようで、彼も怯えた様子は見せなかった。
「できるわけないじゃない!何かを守るなんて、あたしたち、悪魔にできるわけないじゃない!そんなの、あたしたちの領分じゃないわ!」
「お前はとっとと出て行け!」サマエルは叫ぶ。「どうにせよ、もうエデンにはいられないんだろ!」
「あんたの言うこと聞く義務なんてないわ」
「天使たちを呼ぶぞ」
「あんたも死ぬのに?」
サマエルは何も言わなかった。だがそれに不意をつかれたと言った風ではなく、ただじっとリリスを睨みつけていた。
「……わかったわよ。じゃ、さよなら」
リリスはそう言い残すと、体重を感じさせないようにふわりと夜の闇の中に消えて言った、強烈な百合の花の匂いをその場に残して。
サマエルはぐったりしたイヴの体を静かに、元あった場所に横たえた。遠くから得意げなリリスの笑い声が響いてくる。
「イヴ」意識を失った彼女に、彼はぽつりと語りかけた。
「助けてくれてありがとう。お前が敵かもしれないって思うと怖くて言えなかったけど、ずっと、すごく、嬉しかったんだ」
イヴのふわりとした髪を、彼は撫で上げた。
「俺な、好きだった方に捨てられちゃったんだよ。やっぱり、俺はいらねえんだって。……これで、おれの事いらなくないって言ってくれたのは、受け入れてくれたのはさ、イヴ。お前だけになったな」
イヴの額に湧いた冷や汗をぬぐうように彼女の額を撫でて、サマエルは夜風に消え入りそうなほど、小さな声で、意識のない彼女に呟いた。
「俺もお前の事好きだよ。ルシファーさんより、お前が好きなんだ」

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feat: Eve 第十話

一応サマエルに気を使い密林からしばらく離れてから、イヴは空に向かって叫ぶ。
「ねえ、誰かいない!?お話があるんだけど!」
しかしほどなくしてやって来たのは、天使たちではなかった
「イヴ、どうした?」
アダムだった。天使たちとはおらず、一人きりだった。

開けた平原でアダムと二人向き合ってみる。なんだか、彼のこうして二人きりになったのが久しぶりのように思える。そう思えば思うほど、リリスの言ったことが気にかかってしまったが。
「アダム、なにしてたの?」
「新しくものを名付けたのさ。ほら」
アダムは自分の手の中にある、小ぶりな真っ白な鳥を差し出した。黒い、丸い目がじっとイヴを見つめた。
「鳩と名付けたよ」
アダムが彼を空に返そうとするそぶりを見せると、鳩も羽ばたいた。そして、ただの白い鳥から鳩となった嬉しさで胸を躍らせているかのように、真っ白な体を青い空に向けて優雅に飛ばしていく。
「素敵な名前ね」イヴは言った。
「お前は、どうしてここに居たんだ?」
アダムは飛んでいく鳩を見ながらそう言った。「天使の皆に聞かなきゃならないことがあるの。と、イヴ」
「天使の奴らは忙しいんだ。俺でよければ聞くぞ」
「ほんと?」
「答えられる範囲ならな」
イヴは思い出した。アダムが依然、リリスの名を口走ったことに。彼も、リリスを知っているはずだ。
「ねえ、私リリスって人に会ったの。アダムも知ってたでしょ。リリスって誰?」

その時だった。
リリス、の名前を聞いたアダムの瞳孔がぱっくりと開き、彼の息が荒くなった。
「あ……あ……」
彼はガタガタと震える。
「どうしたの?」イヴは慌てて聞いたが、彼はがくりと膝をついた。彼のは地面に手を突き、立ってもいられない様子だった。彼のz年芯に、尋常じゃない汗が噴き出す。間違いない。アダムはあの夜と同じような状態、いや、もっとひどい状態に陥っていた。
「アダム?」イヴもパニックになる。
「アダム、しっかりして、しっかりして!ラファエル!来て、ラファエル!」
そう叫びながら、イヴは彼の背中をさすろうとした。しかし彼女の手が背中に触れた瞬間、アダムは言い表しようのない恐怖に満ちた絶叫をした。
「どうしたんだ!?」
ラファエルはすぐにやって来た。
「アダムが、アダムが……」
「アダム、しっかりしろ!」
ラファエルがアダムの体を抱きしめ、暖かい光で覆う。しかし、アダムは今度は簡単には落ち着かなかった。震える声で、縋るように、彼はラファエルに言った。
「リリスが……」
「大丈夫、大丈夫、リリスはここに居ねえよ」
「ちがう、リリスが、リリスが、ここに帰って来たって……イヴが、リリスに、会ったって……」
「え……?」
震えるアダムを力強く抱きしめながら、ラファエルはイヴの方を見た。その顔も、いつも余裕のある彼らしいとは思えないほど、引きつっていた。
「リリスって誰なの?」
イヴは言う。だが、その瞬間、「イヴ!」とラファエルは強い口調で言った。
「頼むから、今その名前は出さないでくれ、いいな?すぐ別の奴を来させる!」
ラファエルはそう言うと輝く羽を広げて、アダムを抱えたまま何処かに飛び去っていった。言葉通り、ほぼ入れ違いにやってきた姿があった。ガブリエルの姿だった。蛇は、一緒ではない。

「イヴ、リリスに会ったんですって?」
彼女は驚いた様子だったが、ラファエルほどではなかった、その理由はすぐに彼女自身の口から明らかになった。彼女はうなずいたイヴを見て小さく「やっぱり……」と言ったのだ。
「ろくな相手じゃなかったと思ってたわ」
「ねえ、ガブリエル、リリスの事、教えてよ!」イヴは食いついた。ガブリエルはその場にイヴを座らせると、静かに承諾した。
「リリスはね……あなたが生まれる前、エデンの園に住んでいたの。彼女は、貴女の前の……アダムの最初の、伴侶だったのよ」


神はずっと昔、初めて人間と言う存在を作り上げた。それは男と女に創造された。
男の名前はアダム、そして、女の名前はリリスと言った。

リリスは頭がよかった。自分で何もかも考え、行動した。天使たちも、神も、最初のうちはそんな彼女を微笑ましく見守っていた。夫のアダムも、自分以上の行動力のある彼女に素直に感心し、尊敬していた。このころはアダムも、今のような態度ではなく、口数も多いし良く笑う純朴な性格、ちょうど、今のイヴのような性格だったとガブリエルは話した。
だが、リリスの知識欲はだんだん悪い方向に進んでいった。彼女はアダムを、エデンの創造物を、見下すようになった。そして、彼らを軽んじるようになった。
そして、いつの間にか……天使たちもわからないうちに、どうやったのかも不明なまま、彼女はエデンの中心に入り込み、食べてはならないと言われていた知恵の実を食べてしまったのだ。何も知らない天使たちに冷ややかな笑みを向けながら、リリスは自分自身がしたそのことについて話した。
「なんで隠しておくの?あんなすばらしいものを」
アダムはそんな彼女に、そんな知識は自分達には荷が重すぎる、きっと、良くないことが起こるはずだと言った。だが、リリスはそんな彼を笑い飛ばした。
「そんなもの……あなたが、神に従うしか能のない馬鹿だからそう盲信しているだけよ!」
アダムが何を言っても、リリスは聞く耳を持たなかった。

リリスの知識は日々、高まっていった。だがある日、彼女がとうとうあるものを見つけてしまったのが、破滅だった。
彼女は性を見つけてしまった。
イヴの体に廻った、あの感触を。
知識をつけてから余計に何物をも褒めなくなった彼女は、それを素晴らしいものだと称賛した。アダムはその、得体の知れない感触に溺れる彼女を不気味狩り、近づかなくなった。
彼女にとってそれは、自分がした発見に対する侮辱でしかなかった。


「そんなにあたしを避けなくてもいいでしょう」と、ある日彼女は、アダムに詰め寄った。
「君が」アダムは震える声で言った。「君が見つけたものは。悪いものではないんだろう。だって、神様が君の体に、そうやって備えたものなんだから。でも……でも、それに耽り続ける君が、俺は、怖いんだ」
怖がって震えるアダムに、リリスは言った。
「あなたもこの悦びを知ればいいのよ。何も知らないおばかさん」
「どうして君は、俺が楽しいと思うものを否定して、俺が怖いと思うものを押し付けるんだ」
「あなたは優れたあたしに従うべきよ、そうでしょ?」
「なら、君だって、君より優れた神様に従うべきじゃないのか。どうして、知恵の実を食べたりなんかしたんだ。神様は、あれを食べるなと言っていた」
「何言ってるの」リリスはきつく言う。「簡単よ。神様は、あたしより偉くないわ。あたし、いろいろ考えて、そう言う結論に達したんだもの。どんなものだって考えて出ない結論はないわ。だから、いつかきっとあたしは、神様だって越せるのよ」
その言葉を聞き、アダムは無邪気だった瞳を曇らせて、言った。
「君は素敵だったよ。ものを知ろうとする君は素敵だった。俺が君より馬鹿なのも否定しない。でも……そんなことを言う今の君は、素敵じゃないよ」
「あなたみたいなくだらない存在に好かれているかどうかなんて、どうでもいいの」
「だって君は……君は何でも知っているっていうけど、君が食べた知恵の実も、所詮は神様が作ってくださったものだってことにも、気が付いてないじゃないか」
その言葉だった。その言葉が、彼女を激昂させた。
彼女は近くにあった黒い石を握りしめた。黒曜石とアダムが名付けた石を。それを彼女は振り上げた自分の方へ飛んでくるかと思ったアダムは身構えたが、彼女はそれを近くの岩にたたきつけた。黒曜石は割れ、鋭い破片ができた。
彼女はその破片を突きつける。
「ねえ、アダム。あたし思っていたことがあったのよ」
目を怒りに燃やしながら、リリスはアダムに詰め寄った。
「あなたのその体よ。あたしに無くてあなたに有るものがあるわ。あたしの見つけた根本的な原理はね……あたしのこの中を何かで刺激すると気持ちがいいってこと。でも、なかなかいい大きさのものが見当たらないのよ。あなたの体についているそれは……ちょうどいいと思うのよね。ねえ、実験に付き合いなさい。馬鹿なあなたがこんな素晴らしいことに貢献できるんだから、大した幸せじゃない」
そう言いながら彼女は、黒曜石の破片をアダムの体に突き刺した。アダムは痛みに叫んだ。肉が裂け、血の筋が流れ出る。恐怖で力の入らなくなったアダムの上に、リリスは馬乗りになった。


アダムは、相当手ひどい凌辱を受けたらしかった。天使たちが駆けつけた時、彼はただ、泣きながら、血まみれになって震えているだけだった。当然、そこに快楽なんてあるはずもなかっただろう。
「出て行け、リリス」ミカエルはリリスにそう告げた。
「神様からのお達しだ。貴様をもう、エデンにおいていくわけにはいかん」
「押しとどめられたってそうしてたわ」リリスは言う。「こんな狭い世界には飽き飽きしてたの。外にはもっと、あたしの知識欲を満たしてくれるものがあるはずよ」
ミカエルが彼女を連れ、エデンの外に出ようとするとき、ガブリエルは言った。
「一つ聞かせなさい。あなたはどうやって、知恵の実を手に入れたというの?」
「そんなことも分からないの?おばかさん」
彼女は笑うだけで、答えようとはしなかった。

天使たちはリリスのいなくなったエデンで、ただひたすら悲しみと憤りを感じていた。リリス自身は、彼女の行為を素晴らしいもので、自分たちは無知蒙昧だからその素晴らしさがわかっていないだけ、と言い張り、どこかに消え去っていった。しかし、アダムは体中の痛々しい傷は治っても、明るかった目は濁ったまま戻りはせず、口数も少なくなり、余り笑うこともなくなってしまった。そして時々、悪夢にうなされ、本気で恐怖した。本当に、本当に自分たちが思いもよらなかっただけのただ素晴らしいものだったなら、アダムがこうなる必要があっただろうか。彼らはそう感じていた。

ある日神は、アダムに新しい伴侶を作ると言った。
彼はきっと、生まれてくるものを愛せないでしょう、と言ったガブリエルに対して、神の厳かな声は、こう語りかけた。
「最初のうちはそうだろう。だが、アダムには……私の最高の被造物には、それでも、隣に立つものが必要なのだ」
今度は、リリスのようにならないように。
今度こそ、アダムの隣に立てるものを。
アダムを愛し、なんでも愛せる存在を作ろう。
そう思った神は、寝ているアダムから肋骨を一本取出し、それを軸に新たな生命を作り上げた。アダムから分離したその命は、陽だまりの中で目を開けた。そして、彼の姿を、何よりも最初に見た。
「イヴ」
アダムは、生まれてきたその命に声をかけた。リリスとよく似通った存在に、彼は若干の恐怖を抱いていた。それでも彼は自分が神から授かった仕事を、新しく生まれたばかりの彼女に向かって遂行したのだ。
そしてエデンには一つ新しい約束事が生まれた。リリスのようなことが起こらないために。それは、神が禁じた知恵の実を食べれば、重い罰を下す、と言うものだった。

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feat: Eve 第九話

ある夜の事だった。イヴはリリスの住処にあった草の穂のようなものに気が付いた。
リリスの住処の明かりに照らされて金色に輝くような細かい粒をいくつも見桁美しい草だった。しかし、甘いにおいもしなかったし、触ってみるとざらざらしていてお世辞にも食べられる代物には見えなかった。
「どうしたの?」リリスが彼女に気が付いて言う。「食べられないと思ってる?」
「うん」
「食べてみなさいよ」
リリスにそう振られて、イヴは粒の一つを取って口に運んだ。舌を切ってしまいそうな固い皮があることに気が付く。
リリスがそれを見て笑ったように思え、イヴは歯を使ってその皮を外した。だが中から出てきたものは確かになめらかではあったが、粉っぽく、なによりただの粒にすぎないのだから果物よりも圧倒的に量が少なく、彼女にとって美味しいと言えるものではなかった。
「おいしくないわね」イヴは少しむくれてそう言った。リリスはそれを小ばかにしたように笑う。
「あら、こんなに美味しいものを」
「リリスは、そう言うのが好きなの」
「ええ。何かを見る目はあるつもり」

リリスは常に余裕のある笑いを浮かべる。イヴはなぜだかそこに、少し劣等感を感じてしまう。リリスは自分よりものを知っている、と思ってしまう。きっと彼女は、天使たちや蛇たちに聞かずとも、自分が知りたいことをたくさん知っているのだ。きっと、この草の穂の美味しさも。
「私は、リリスと同じもの好きになれないのかしら」
イヴがそう不安げに言うと、リリフは「ばかねえ」と笑った。
「あなたはそもそも、好きっていう感情すらわかっていないくせに」
それを聞いて、イヴ自身も少し面白くない思いに駆られた。「それは知ってるわ」
「知らないわよ」
「私、アダムの事好きよ」
「あら、そう!」リリスは笑って言う。イヴにはその笑いがなぜだか、あまり美しくないもののように見えた。
「なんでアダムの事好きなの」
「え……?」
イヴはそれを聞いて言葉に詰まった。アダムの事を好きな理由なんて、考えたこともない。
ただ、自分が起きたとっ彼は目の前にいた、そして自分は、何を感じるよりも早く、彼の事を好きだと思ったのだ。
「好きだって思ったもの」
「そんなの、ありえないわ」
リリスはまたしても、小ばかにするような笑いの色をたっぷりこめてイヴにそう言った。
「理由もなく好きだなんて」
「理由だって、いっぱいあるわよ」
「どうして?」リリスはそう聞いた割に、イヴに返答する隙を与えず以下の陽に畳み掛けた。
「不愛想で、つまらなくて、何も知らない。知る気もない……そして何降り、彼は、美しくないわ」
「そんなことない!」イヴは声を荒げる。だがリリスは、少しも彼女に圧倒される様子を見せず淡々と続けた。
「アダムがあなたを好きになるってんならわかるわよ。貴方は何も知らない子なりにアダムによく尽くしてるわ。でもアダムは、自分からあなたの方にもよってこない。だからあなたは私なんかとでも遊びたがってるんでしょ」
「それとこれとは関係ないじゃない」
「あるわよ!彼にもう少し甲斐性があれば、あんたは変な友達を何人も作ることなんてないわ」
リリスの口調はなぜだか、いつの間にか若干毒々しいものになっていた。
「リリスは変じゃないわ」
サマエルの事を口に出すのはぐっとこらえてイヴは言うが、リリスはそれに「あらあら」とだけ返した。
「それに、アダムは物知りよ」
イヴは悔しそうにそう言う。だが、それを聞くや否や、リリスは今までの笑すらも引っ込めて、げらげらと笑い始めた。イヴは赤い火の光にぼうっと照らされた彼女の美貌が不規則に歪んでいくような幻覚を見たような思いに駆られた。その笑いは、酷く不気味だった。不気味のみならず、そこには、恐ろしいものが潜んでいるような気がした。
「彼は何も知らないわ、知ろうともしない!彼が知っているのは、知ろうとしているのは、神と天使たちの狭い世界だけよ!」
イヴは抗議しようとした。貴方になんでそんなにアダムの事がわかるの、と。だがリリスの目が鋭く光り、イヴを睨みつけた。リリスは喉の奥から、小さく響く音を鳴らした。フクロウの泣き声に似ていたが、その声を聴いた瞬間、イヴは体が硬直してしまった。その声は確かに、イヴに川でおぼれた時にも感じなかった恐怖を与えた。
「イヴ。でも大丈夫よ。あたし知ってるもの。あなたは違うわ。あなたは今はアダムと同じおばかさんだけど、でもアダムとは違う。あたしと仲良くなれるはずよ。あなたはそんなに、知りたがりなんですもの」
リリスがイヴの体を抱き寄せた。彼女の林檎の実よりも真っ赤に光っているような唇を、イヴは自分の目のすぐ前に見た。
「あの人も言ったの。小麦なんて食べられるはずないって。ああ、小麦ってご存知?この、とってもきれいな金色の草よ。でもあたしはね、これには絶対食べようがあるって思ったのよ。でも、アダムは聞いてくれなかった……。イヴ、あなたはどうなの?あなたは、これを食べられないものだっていうつもり?小麦の味を、わかるようになりたい?」
リリスの素肌が密着し、イヴは寒気を覚えた。そこから伝わってくるのは、体温とは異質なものだった。アダムから感じる体温、天使たちから感じる暖かさ、蛇から感じるひんやり入して冷たさ、どれとも異質だ。そう、例えるならそれは、異質そのものであるような気がした。自分の素肌がそれに触れているのが、異常事態であるような気がした。
だがリリスの力は彼女が思っていたよりも強く、またイヴの体はピクリとも動かなかった。イヴは友達と言った相手に、初めて明確な恐怖心を持った。
「分かるようになるわよ」
動けないイヴの体の上に、リリスが長い爪を伸ばした手を這わせるのがわかった。彼女はイヴの太ももを撫でる。そして、ゆっくりと太ももの間に手を滑り込ませた。
「そこ」の存在を、イヴは自分自身では知らなかった。だから、彼女は自分の何が触られたのかはわからなかった。彼女にわかったのは、体を駆け巡る何かしらの感情だった。それは、あの時、リリスに唇を重ねられた時の感触に非常によく似ているようだった。
「あたしね、昔ある方に出会ったの。アダムより美しくて、何より美しくて……その方は、私に微笑みながら、こう言った。『そうとも、小麦は何よりも美味しい物さ。正しいのはお前だよ』って……」
イヴはまた、頭が真っ白になる。リリスはまた2,3度フクロウのような泣き声で泣いてから、霞みそうになる視界の中で微笑んだ。
その時だった。
シュー、シューという音が聞こえた。そしてその瞬間、イヴの体を縛っている何頭の力が消えたのだ。火が消え、リリスの姿も声も、真っ暗な闇の中に消えた。
イヴは木の上にあったリリスの住処から突き放されるように転倒した。幸い高いところにあったわけでもない上下は柔らかい草地だったので特にけがはなくて済んだ。

真っ暗闇の中にイヴは放り込まれた。いつもするように彼女はまず手がかりを探そうと、手を前に突き出し探り始めた。
すると、その手が何者かを掴んだ。それはリリスの肌とは全く違う、手になじむものだった。
「蛇さん!」
暗闇の中漸く助けを見つけたような思いで、イヴは叫んだ。
「よお、イヴ。こんな夜中にこんな暗いところで、何してるんだ」
「怖いもの見たの……怖いの。蛇さん、一緒に帰って」
蛇はそれ以上詰問しなかった。「いいぜ、月明かりの差し込むところに出るまで、俺のしっぽから手を離すなよ」と、優しく声だけで言ってくれた。
暗闇を彼とともに進みながら、イヴはようやく合点がいった。あのシュー、シューと言う音は、蛇の鳴き声だったのだ。
ようやく森を抜けて開けたところに出て、月の光が蛇の金色に光ウロコを上品に照らした時、蛇は尻尾を離したイヴに言った。
「何を見たんだ?」
イヴはやっと人心地がついた。
「わかんない」
彼女のその言葉に偽りはなかった。リリスのことを言わないように、と言う言葉をかたくなに守ったわけでもなかった。
彼女にとって、あれは好き好んで友達になったリリスではなかった。彼女は恐ろしかった。そして彼女の細い手が自分にもたらした、あの形容しようのない感覚も恐ろしかった。そしてイヴは、それらをどう言い表していいか全くわからなかった。
「分からないの。でも、怖かった。すごく、怖かったの」
蛇はするするとイヴの体をよじのぼってきて、首元に巻きつくと安心させるように彼女の頬をその細長い下でちろちろと舐めた。
「よしよし。何かあったら天使たちに言えよ。ここは安心だ。ここは、楽園だ。……いつだって、天使たちは君らを守るよ。このエデンに居る限り」

いつの間にかイヴは目が覚めた。策やアダムと一緒に寝たはずの所に帰っていたが、アダムの姿はない。もう天使と一緒に出掛けたところなのだろうか。彼女は昨日のリリスの言葉を思い出していた。
「(もっと一緒に居てくれてもいいのに……)」
だがその代わり、蛇がちょこんととぐろを巻いてその場に居るのがわかった。
「おはよう」
「う、うん。蛇さん、おはよう。早起きね」
「アダムにはかなわなかったぜ」
経に場笑うが、イヴはあまり落ち着かなかった。
いつ寝たのかもよく覚えていないので、昨日の延長線上にまだ身を置いているようだ。まだ妙な感覚も体から抜け切っていないようだった。イヴは自分の頭を触った。その時、髪の毛に小麦の粒が一粒絡んでいるのに気付いた。
「蛇さん」体を前かがみにして彼女は言った。
「これって、美味しいもの?」
蛇は自分の目の前に差し出された粒を見たが、余り時間を開けずに言い返した。
「別に毒でもないが、わざわざ好き好んで食べるほどのものでもないさ。俺がもっといいものとってやるよ」
蛇はその言葉通り、するすると近場に昇ると梨の蔓を起用に牙で神千切った。それは真下に落下して、イヴの手の中に入った。
「食べろよ。朝食だ」
イヴはその言葉通り、蛇の渡したわかした梨の実を食べた。それは全く、彼女がいつも感じている通りの「美味しい」と名のつく味だった。

「イヴ、お目覚め?」
振り返ると、ガブリエルもいつの間にか彼女の後ろにいた。その真っ白な手には、真っ赤な林檎の実を持っていた。
「わたしからもどうぞ。食べるでしょ?」
「食べる!」
イヴがその身を取る姿を、ガブリエルは優しい目で見つめる。
「ねえ、ところで蛇。わたしに話があるんですって?イヴも一緒にって」
ガブリエルは唐突にそう言った。イヴも食べる手をやめて蛇の方に向かい合う。どうやら彼女は、蛇が呼んだらしい。
「それよ。イヴ、なんで俺がそもそも、昨夜あそこにいたと思う?」
「知らない……」
「おかしな気配を感じたんだ。すぐに気配は消えて、俺には追いかけるのも無理だった。……けどな、ガブリエル。俺は見たんだ。確かに、あそこには火があった。明らかに管理された火がな」
それを聞いて、ガブリエルの優美な顔が青ざめた。
火。イヴはその言葉を思い出していた。リリスの住処で輝いていたあの不定形の厚い物の事を、リリスは確かにそう形容していた。
火は、あっては悪いものだったのだろうか?でも確かに思い返してみれば、リリスと一緒に居る時以外、イヴは火など見たこともなかった。
「その火も、気配と一緒に消えたよ。俺も驚いてよ、つい威嚇音を出して、それがよくなかったようだ。済まねえ。あんなに逃げ足が速いとは思ってなくてよ」
「それはいいわ。……で、まさか?」
「ああ、そこに、イヴがいた」
蛇はそこまで言うと、戸惑っているイヴの方を振り返った。
「イヴ、はっきり答えてほしい。あの場所に居たのは、君ひとりじゃなかった、そうだろ?君は誰と会っていたんだ?君が見た恐ろしいものは、一体なんだったんだ?」
蛇は真剣な目で、イヴを見つめた。ガブリエルも同様だ。
イヴは戸惑った。自分はなんといえばいいのだろう。おまけにリリスの事を頭に思い浮かべれば、頭の中に出てくるのは彼女の綺麗な笑顔と歌声ではなく、あの恐ろしい笑いと、自らを硬直させるような鳴き声だった。
イヴの体に冷や汗が流れる。さすがに黙っているだけでもいられない状況だということくらいは分かっていたが、口が思うように動かなかった。だが、彼女が言葉を濁らせていると、蛇は彼女の思っていることを半ば当てて見せた。
「そいつに、自分の事は話すな、とでも言われたか?」
「……うん」
蛇は振り返る。
「そう言いつける奴がまともな奴のはずはない」
「もっともだわ。イヴ、怖がらせちゃったらごめんなさいね。ちょっと蛇を借りるわ。まだこれに関して、気うことがあるかもしれないけど、無理はしなくて大丈夫よ」
相とだけ話して、ガブリエルと蛇は飛び去っていった。イヴは一人だけ残された。
彼らは自分の気持ちを気遣ってくれたのだということはイヴには十分わかった。彼女は、彼らに感謝したが、半面一人になるといやが王にもリリスの存在を思い出してしまった。
友達だと思って大切にしていたリリスを、今は好きと言う気持ちだけで測れないような気がした。ありていにエバ、イヴは彼女を批判したいと思い始めた。
少なくとも、彼女がアダムを批判したことは間違っていると思いたかった。それが非常に大きな事であるとイヴには思えていた。

イヴは、サマエルのいる密林に向かう唖ことを決めた。密林の中で彼は、相変わらず一人のままだった。
「ねえ、サマエル!」イヴは彼と顔を合わすなり過ごし語気を強めに問いかけた。彼の顔が少し不思議そうに揺らめく。イヴがいつになく不安そうなのが、彼にも分かったのだろう。
「なんだよ?」
「サマエルはさ、何かを好きになったこと、ある?」
イヴのその問いにますます怪しそうにしながらも、彼は言った。
「あるぜ。それで?」
「好きになるのに理由がないなんておかしい、って言った人がいたの」イヴは言った。「あなたは、どう思う?それ、違うでしょ?」
「……わかんねえよ。何が正しいとか正しくないとか、そんなもの決める権利を、俺はもらってないんだ」
「でも違うでしょ!?」イヴは食らいついた。
「だから、わかんねえって!俺が今まで好きになったものはよ、皆、好きになる理由があったから!」
そう言い切ったサマエルに、イヴは少し暗い顔になる。
「じゃあ」と、イヴ。「どんな理由だったら、いいの?」
「……俺が、俺が一番尊敬するお方は」サマエルは言った。「俺の事を見てくれたんだ。俺は……出来損ないみたいなやつで、それでもあのお方は、俺に、自分の味方になってくれてもいいって言った。俺の事を、いらないやつって言わなかったから、だから、好きになったんだ……」
「それこそ、理由ないよね」イヴは言った。とにかく、どうあってもリリスの言うことを否定したかった。
アダムはぶっきらぼうだし、自分に構ってくれない。蛇や天使たちの方が、なんなら、ああも恐ろしい表情をさらす前のリリスの方が、ずっと優しい。それでも自分は確かに、初めて自分が見たアダムと言う存在を、好きだと思ったのだ。
「誰も、いらないやつなんかじゃないでしょ。当たり前のことを言ってくれただけで、なんで特別なことなの」
「お前に、俺の気持ちがわかるかよ!」サマエルは言った。その声は非常に鋭く、どこか、蛇の牙を思わせた。イヴはそれに怯んでしまった。だがサマエルは、その様子を見て落ち込んだように「悪い」と言い足した。
「ごめんなさい」
サマエルの気分を害してしまったことがわかって、イヴは落ち込んだ。自分が何とも、わがままな存在だと思えてしまった。
「ごめんなさい、サマエル。……なにも、知らなくて」
サマエルは、その言葉に許可を発しなかった。代わりによろよろと彼女のもとに寄ってきて、彼女の肩をそっと抱いた。
「いいよ」
音のない密林の中、その声が幻想的に響いた。
「ごめんな。傷つけるつもりじゃなかったんだ……」サマエルはうなだれながら言う。「俺、駄目だな」
「駄目じゃないよ。大丈夫だから」イヴは言った。「私、サマエルの事大好きよ。理由は……たぶん、ないけど」
「理由なら、初めて会った時言ったじゃねえか」サマエルは乱雑に伸びた前髪の奥底で目を光らせながら、イヴに言った。「俺がエデンに居るから、だろ。エデンのものは皆友達だから、だろ」
「えっと……そう言えば、そうだったけど」
「ありがとう。……俺さ……」
どもるイヴに、サマエルは小さな声で言った。
「ねえ……サマエル」
彼女はぽつりと言う。ふと、彼になら話してもいいのではないかと思ったのだ。密林を出ることのない彼にだけは。
「リリス……って、知ってる?」
その一言を聞いて、サマエルはぎょっとした表情になり、あわててイヴの目を力強く見つめながら言った。
「リリス!?お前、リリスにあったのか!?」
「う、うん……」
「すぐ、天使にそのことを言え!」彼は相当焦ったようにそう言った。
「どうして……」
「大変なことが起こる!リリスがここに現れて、お前が無事でいられるはずがない!」
「リリスって」彼女は震える声で言う。「リリスって、何者……?」
「天使が詳しく話してくれる!早く伝えろ!」

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