クリスマス市のグリューワイン

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feat: Mary and Joseph 第二十四話


ベツレヘムの幼児殺しは、計画通りに行われた。血が飛び、泣き声が飛んだ、恐ろしい夜。赤ん坊は殺され、抵抗するものは殺され、街は一晩にして血の海になった。後に残ったのは罪なき赤ん坊の死体と、わが子を失い、正気を失った母親たちの生ける屍ばかりだった。
だが、一番肝心な、エルサレムに居る若夫婦の赤ん坊とやらが見当たらなかったという報告がヨアザルに入ってきた時、彼は憤った。
「なんということだ!」と叫ぶ彼の剣幕に、伝令は怯えた。
「草の根分けででも探し出すのだ!罪に穢れた奴らを生かしておくな!ヘロデ王のために、神のためにな!」
彼がそう怒鳴った時だった。ふと天幕が開き、良く見知った優雅な姿がヨアザルの前に現れた。
「大祭司殿。少し、お話をしたいことが……」
「なんだ、今、取り込み中だ!あとにしろ、ローマ人ごときが!」
「あなたが後見人についていた少女マリアが、父の知れぬ子を身ごもったということについてです」
それを聞き、ヨアザルはぎょっとしてパンテラの方を向いた。パンテラはその場に跪き、言った。
「マリアにも、その夫ヨセフにも、一切の罪はございません。大祭司様。どうぞ、この私を罰して下さい。マリアを犯し、その胎に子供を宿らせたのは……この、ティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラです」

「なんだと……!?」ヨアザルは興奮気味に言った。戸惑う伝令が「あの、ヘロデ王への使いは……?」と聞くと、彼はヒステリー気味に言う。
「そんなくだらないこと、放っておけ!お前には違う、もっと重要な仕事ができるかもしれんからな……」
そう言って彼はパンテラのもとに歩み寄り、跪く彼を思い切り蹴り上げた。
「なぜ、そのようなことをした!!」
「……何か言うほどの事も起きておりません。私は、あの少女に劣情を抱き、理性をかなぐり捨て、犯してしまいました。その結果、彼女は身ごもってしまいました……起こったことは、それだけです」
ヨアザルはその言葉を聞くなり、その場にあった青銅製の花瓶を取って、力いっぱいパンテラの頭を殴りつけた。彼はよろめき、地面に倒れる。その彼をヨアザルは、高笑いしながら、何度も何度も踏みつけにした。
「やはりか!やはり、貴様だったのか!貴様は昔から、怪しいと思っておったのだ。いつもマリアに色目を使い、卑猥な視線で見ておったことなど、私はよく知っておるぞ!貴様がこのようなことをしでかすなど、私には分かっていた!貴様がどれだけ色欲にまみれた、悪魔のような男かなど、貴様をちやほやするあばずれどもは分からずとも、私の目は見抜いていた!」
「私は、自らが犯した罪を重く受け止めております」頭の痛みに耐えながら、パンテラは厳かに言った。
「言い訳をしようとも思いません。どんな罰でもお受けいたします」
「出ていくがいい、この色きちがいめ!この神の国エルサレムから、イスラエルから、永遠に出て行け!聖なる処女を犯した罪人めが!!」
そして彼は先ほどの伝令に言った。
「おい!ヘロデ王に伝えるのだ、ローマ兵パンテラをイスラエルから追放してくれとな!」
「あ、あのう、抹殺の件については……?」
「知らん!そんなこと、もうどうでもいい!失敗したと言って事が荒れるのも面倒だ。成功したと伝えておけ!」
そして彼はもう一度、パンテラを踏みつける。
「この、ごみくずにも等しいものが!」
「おっしゃるとおりにいたします。大祭司様」パンテラは最後まで、厳かに言った。

幼児虐殺の事件はイスラエル中を駆け巡った。自分を脅かすものが消え、安心できると思ったはずなのに、その事件を経て地に堕ちたヘロデ王の評判は、彼を嫌と言うほど追いつめた。彼は以前にもまして病床に伏せり、何かうわごとを呟いていた。
そして、自分の行動を戒める者には、一層苛烈になった。
「陛下」ある日、ザカリアがそう言ってきた。「陛下、今からでも間に合います。悔い改め、自分の罪を悔いてください。イスラエルの民は、悲しんでおります。貴方のしたことに……」
「悲しむものは、私に逆らうものだ!全員殺せ!」ヘロデは喚き散らした。「こいつも殺せ、処刑しろ!こいつも、私の王位を脅かすものだ!」
処刑。処刑しろ、意外の言葉を、ヘロデは言っていないような気すらした。彼は一日のうちに何度でも、アルケラオスとフィリッポスに「私は偉大か」と問い詰めた。そして、少しでも息子の顔がこわばっていれば、それに怒り狂ったのだ。
民の不満が爆発している。反乱がおこりそうだ。という情報が入った。ヘロデはただただ「そのようなものは殺せ」と「私は偉大か」の二言を、繰り返し、繰り返し言い続けた。

ザカリアが死んだのち、昏睡している間のヘロデを見守りながら、アルケラオスとフィリッポスは話していた。
「大丈夫だよね」フィリッポスは兄に、震える声ですがった。
「邪魔な赤ん坊は消えたみたいなんだから…大丈夫なんだよね、お父上を怒らせるものはもう、いないんだよね」
アルケラオスは真っ青になった弟の顔と、うなされる父の顔を見比べて、ぼそりと呟いた。感情を持つのにもはや疲れてしまったのだろうか、非常に生命感のない声だった。
「さあな。モーセは生き延びたからな」


ザカリアがそのような形であっけなく無残に死んでしまい、神殿の祭司たちは大いに嘆いた。なぜ、あの神に愛されたザカリアが……と彼らが嘆く中、大祭司ヨアザルだけは、けろっとしていた。
「なぜ、あなたは泣かないのです、大祭司様」
「おや、アンナス!お前のような権力の奴隷が、そんなセンチメンタルなことを言えた口か?」
彼は不気味なほど、常に上機嫌だった。だがその笑顔は間違いなく、常人のものではなかった。憎しみと悪意に満ちた、最悪の笑顔だった。
「神の道の前に、あれしきの死などどうでもいいではないか。神は正義を示されたのだ!まっとうな正義をな!」
「何の話だ……」
「お前のような愚か者には、何も分かるまいな!」
そうやってサドカイ派を嘲笑し、彼らが自分の事を恐れ、軽蔑し始めていることにも気づかないヨアザルは、神殿の境内を出た。憎らしいパンテラがいなくなった。彼はそのことに、心の底からスカッとした。パンテラのあの女をたらしこむ美貌を傷つけてやる快感は、何物にも代えがたかった……。
と、彼が思いだしている時だった。「やあ、大祭司様」と、一人の少年が挨拶してきた。それは、アンティパスだった。
「王子殿下、ご機嫌麗しく……」
「挨拶は結構。今日は、あなたに問いたいことがあって来たんだ」彼は淡々と言った。
「パンテラ将軍を追放したそうだね。なぜだい?」
「奴が罪を犯したからです」得意げにヨアザルは言った。「奴は神に仕えていた聖なる娘を犯し、厚かましくもその汚らわしい異邦人の血を持って彼女の中に子を宿らせたのです」
それを聞いた瞬間、アンティパスはぷっと吹き出し、笑った。
「あはは……何言ってるんだよ、大祭司様。彼がそんなこと、できるわけないでしょ?」
目の前で笑う美少年を前にして、彼も不気味に笑いながら言う。
「おお、王子殿下……貴方はまだ若く、ご存じないのです。見た目がどれほど美しかろうとも、そのような男ほど、中身は汚れきっており、悪魔にも似た情欲でいっぱいだということは!人間と言うのは中身なのです。美しさに惹かれるなど浅はかもののすることなのです!娼婦が鼻の穴を膨らませ追いかけまわすような美しい肉体には、汚れた心しか宿らぬのです!」
「僕はそんなこと話してない。僕が言っているのは、もっと違う意味だよ」彼は笑い飛ばしていった。
「パンテラ将軍が女を犯せたわけはないのさ」
「は!どうしてそう言えますか!」
「言えるよ。だって彼には、男性器がなかったんだ」

その言葉を聞き、すっとヨアザルは笑みを引っ込めた。身体中にぶわりと、汗が噴き出した。
「なんですって……?」
「パンテラ将軍はね、昔、貴族の娘と人目を忍ぶ恋をしていたそうなんだ」ケラケラと笑いながら、アンティパスが告げる。
「結婚もできないし、せめて思いを遂げようと、彼らはある日、契ろうとしたんだ……でも、結局召使に見つかって。パンテラ将軍は捕まってしまった。その時彼は、見せしめとして、断種されたそうなんだ。そんな彼が一体なにをどうしたら、女を犯せたなんて言えるの?」
アンティパスの軽い笑いを前に、ヨアザルの顔はみるみる青くなる。それを見て、アンティパスは一層面白がった。
「お、お待ちを」ヨアザルは呻く。「あなたは、何故、それを……」
「え?だって見たもの」彼は何気なくそう言い、ヨアザルは仰天した。
「僕はあの人に抱かれたかったんだよ。でもあの人は何回も拒否した。その理由って言って、彼がその体と、その話を僕に教えてくれたんだ……。さすがの僕も、あれ以上抱いてくれなんてそりゃあ、言えなかったな。まあ、だから代わりに抱かせてもらったけどね」
「なんと……」
すっかり顔面蒼白になった彼に、アンティパスは追い打ちをかけた。
「で、どうするの?大祭司様。これほど無実の証明が簡単なことも珍しいじゃないか。何せ、パンテラ将軍を見つけて服を脱がせれば分かっちゃうんだから。それほどずさんな裁判で、しかも本来あなたはローマ人を罰する権限なんてないのに、パンテラ将軍を追放する命令なんて出してしまった……これ、公になったらどうなると思う?まず、大祭司なんて続けてられないよね」
「お、お願いします、殿下!」彼はすがりついた。「大祭司の職を失いたくはない!何でもあなたの言うことを聞きます!お願いです!」
「うーん……」
アンティパスはわざとらしく考えていたが、言った。
「あはっ、やっぱりいいや。パンテラ将軍は美しかったからモノにしたかったけど……貴方みたいな汚い爺さん、何の興味もないし、どうなろうと知ったこっちゃないもの。それじゃあこの辺で。僕は他の祭司と、後兄上たちにこのことを教えてくるから、じゃあね!」
彼はするりとヨアザルの手から抜け出し、軽やかに走り去っていった。ヨアザルは絶望し、その場に崩れ落ちた。

ヨアザルがマリアに持っている感情を、パンテラはうすうす気が付いていた。
だからこそ、彼は嘘の名乗りを上げたのだ。彼にとって何よりも重要なのは、マリアの処女を奪ったものを罰したいという気持ちだったのだろう。ならばそれさえ満たされれば、マリアとヨセフをこれ以上追いかけることもなかろうと。
救う力などないパンテラは、それでも精一杯、ヨセフとマリアを救いたかったのだ。


ヨアザルは案の定、解任された。神殿の廊下を歩きながら、アンナスとカイアファは話していた。
「奴が結局自滅してくれて助かりましたね」
「まったくだ……あやつ、ファリサイ派だのサドカイ派だの以前の問題だったな」アンナスはため息をつきながら言う。
「だが、これで終わったわけではない。私のライバルはまだ、ごまんといるからな……」
「僕もまだまだお手伝いしますよ、先生」
カイアファはにやりと笑う。
「ユダヤ教を仕切るのが、僕たちになるまで、ね」
「そのいきだ」アンナスも笑った。「全く私は、良い弟子を持ったものだ」

職を失い、家を失い、ヨアザルがたどりついたのは、ヨアキムの家だった。
自分がみじめな気分になっていた時、いつも自分の癒しになってくれた少女、マリアの面影を、せめて彼は彼女の実家に求めに行ったのだ。
だが彼に与えられたのは、ヨアキムの厳しい言葉だった。
「出て行ってくれ!あなたと私たちには、もう何のかかわりもない!そうでなくとも私たちは、ザカリアの葬式で忙しいんだ!」
「しかし、私は、あなたの娘の後見人だ……」ヨアザルは呻く。しかしヨアキムは、マリアに受け継がれた丸い目を心底軽蔑の色に染め、ヨアザルを見下した。
「聞いたのですよ……イエスの事をヘロデ王に告げ口したのはあなただと」
「なに……?」
「なぜ……なぜ、そんなことをしたのだ!私の娘夫婦に!私の孫に!」
「誤解だ!私は、マリアのためを思ってしたのだ!」彼は必死に弁解した。「マリアは清らなる乙女だった、永遠の処女だった、それをあの小僧が汚したから、守ってやろうとしたんだ、それの何が悪いんだ!」
「守ってやろうとした……?」ヨアキムはあらん限りの怒りを込めて、そう言った。
「マリアがいつ、そんなことを頼んだというのだ!マリアが永遠の清らかな処女!?あの子がそんなことを言ったか!あの子はなるほど、普通の子ではなかったかもしれない。だが元気よく生きて、好きな相手を作って、家庭を作る、それをするあの子は紛れもなく、普通の、幸せな少女だった!あなたが守りたかったのはマリアではない、この世に実在すらしていなかった、あなた自身の幻想だ!貴方はマリアなど愛してはいない、ああ、愛してなどいなかったとも!それにマリアの幸せを引き裂こうとした、マリアをを殺そうとしたものに、守ってやろうとしたなどと言われる筋合いは、金輪際ないわ!」
そう畳み掛けられ、ザカリアは何も言えなくなってしまった。「違う、違う、私は……」
だが、何も言えなかった。私は、私は何だったというのだろう。ヨアキムはもう一度声を張り上げ、言った。
「我々ももう長くはない。あの子たちが帰るとき、我々夫婦はこの世にはいないかも知れんのだ。そうした原因は、お前にしかない。誰も悪くない。ヨセフやパンテラ将軍のせいになどするな!この件、お前一人の罪だ!出て行け!可愛い娘をお前のような汚らわしい男に任せたのが、この私の一生の恥だ!」
そう言って彼は、門を閉めてしまった。ヨアザルがいくら叩いても、門は開かなかった。

行くところを亡くし、ヨアザルは惨めな格好になってさまよった。ある日彼は、荒れた畑に倒れている物乞いの死体を見つけた。自分もいずれああなるのだろう、と彼は思い、そして嘆いた。
だが、その死体、シメオンの死体は、腐って肉が落ちる前はまるで天使のような、清らかな笑顔をしていたのだ。だから、ヨアザルは知らない。自分は、こうにすらなれないということが。


ヘロデ王の容体はますます悪くなった。度を越して情緒不安定になり、もはやまるで廃人同然だ。アンティパスはそのことをどこか他人事のように、王宮で聞いていた。
あと何年もしないうちに、彼は死んでしまうに違いない。だが、皇帝アウグストゥスがこのヘロデ王家の事情にあきれ返っているらしいことを、彼は知っていた。おそらく、皇帝に愛想を尽かされたユダヤの国からは、遠からずして王と名のつくものは消えるだろう。ましてや自分が王を名乗れる立場になど、絶対に成れなかろう。彼は、そのようなことを知っていた。
父がああも執着しても、ユダヤの王などと言う言葉は掻き消えてしまう。かのソロモンは昔、「空の空。全ては空だ」と言ったと聞く。ソロモンにあやかれる立場でもないが、全くもってその通りだ、と彼は考え、そしてメルキオールから製造法を教わっていたハオマ酒を傾けた。
ふと、彼の敏感な耳が、木の葉の揺れる音を捕える。
「ヘロディア?こっちに来なよ」かれは明るくそう言った。ヘロディアは足音すら聞こえないような足取りでアンティパスのいる東屋に向かい、静かに彼にもたれかかった。
「ねえ……ヘロディア。メルキオールが言ってたんだよ。救い主が……三十年後に、その活動を開始するって」
ヘロディアは黙って聞いていた。中庭の地下からは今日も、かすれるようなうめき声が聞こえていた。
ヘロデを非難する声だ。自分の堕ちに堕ちてしまった父を非難する、正義の王子の声だ。
「三十年……ダビデが王になったのも、三十歳の時……」
アンティパスはそうつぶやくと、ヘロディアの目を覗き込んでいった。
「知ってるでしょ?僕、婚約者ができたんだ。そして君も、兄上の婚約者だ」
ヘロディアは無表情のままうなずく。アンティパスは不敵に笑って言った。
「でもね、ヘロディア。僕は宣言するよ。三十年以内に、君を僕の妻にしよう」
彼はヘロディアを抱いた。ヘロディアも、彼の胸にもたれかかる。アンティパスはヘロディアの艶やかな髪に覆われた頭を、ヘンナで赤く染めた爪のはまった手で優しくなでた。
「救い主なんて来ない。来ないに決まっているけど……でも、もし来たとしても、そいつに君を救わせはしない。僕たちが一番苦しんでいるときに来なかった、そいつになんて……。ヘロディア。君は父上に苦しんで、そして、僕も父上によって苦しんだ。だから、どうか僕に、君を救わせてくれないか……」
ヘロディアは顔を上げて、アンティパスの両目をしっかりと見つめた。そして、彼の唇にそっと、自分の唇を重ねた。
「ありがとう」
彼女はそう囁いた。光に満ちた、美しい午後だった。


それから一年たった。
灼熱の国、エジプト。しかし、そのような国でも、腕のいい大工の建てた家の中は涼しく過ごせた。
マリアは夫の手作りであるゆりかごの中で眠るイエスを見ながら、糸紡ぎの内職をしていた。風が吹き、外のヤシの葉が揺れるのが聞こえた。日が傾いている。そろそろ、ヨセフの帰る時間だろうか。
ヨセフはその腕前で、着いた時から立派に仕事を得ている。職人は腕があれば語れるらしい。立派なことだ。言葉の方も、ようやく最近は日常会話程度ならできるようになった。
「ねえ、イエス」
マリアはゆりかごの中の我が子に問いかけた。
「貴方がどうなるのか、私達にはわかりようもないけれど……でも今は、私たちの子よ。だから、今は、お父さんとお母さんでいさせてね」
やがてヨセフが帰ってきた。
「イエス!父ちゃんのお帰りだぞ!ただいま!」
「ちょっと!寝てたんだから起こさないでよ!」
「悪い悪い!」
ヨセフはそう言って、妻マリアにただいまのキスをした。そして、彼女のお腹を撫でる。二人目の名前は何にしようか、そろそろ考えなくてはならなかった。

(完)

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feat: Mary and Joseph 第二十三話

ヘロデ王の出した計画は、問答無用で進められた。
冗談ではない。いくら小さな町であるベツレヘムでとはいえ、無実の赤ん坊を一人残らず虐殺するなんてとんだことだ。それでも、彼は言うことを聞かなかった。彼は意地でもその計画を強行する気のようであった。
「ヘロデ大王も、いよいよおしまいですね……」カイアファは、アンナスにそっと囁いた。こんなことが知れれば、ヘロデを慕うものなど、イスラエルに残るはずもない。もうそこすらも分からないほど、ヘロデは狂気に耄碌してしまったのだ。
だが、その耄碌に一人、目を付けたものがいた。彼はヘロデ王の計画を聞き、そしてヘロデが恐れているものを知り、自らの心の中にあった鬱屈と絶望を、みるみるうちに巨大な悪意へと育てていった。
ぞろぞろと蒼い顔をして祭司たちが帰る中、彼、ヨアザルは踵を返し、ヘロデ王のもとに向かった。
「何事だ!」彼は言った。「わが計画を止めるつもりか!大祭司と言えど、容赦はせぬぞ!」
「止める?とんでもない」
その場に居た、ヘロデと計画について打ち合わせしていた将軍や兵士たちは、きっと驚いたことだろう。徳高きはずのヨアザルの顔も、汗をかき、息は上がり、何かを恐れながら、狂気でその恐れを隠さんとしていた。その場に、ヘロデ大王が二人になってしまったかのようだった。こんな男が、大祭司なのか。そんな、馬鹿な。
彼らは顔を青くした。二人の間に入ってはいけないほどの緊迫感が張り詰める。だが当のヘロデとヨアザルは周りの視線などいざ知らず、話を進めた。
「ヘロデ大王。あなたの地位を脅かすものかもしれぬ男児を、知っております」
「なんと!?……詳しく話せ!」
「はい」
ヨアザルの息はますます荒れ、瞳孔は開き気味になっていた。その状態で彼は話した。自分が後見人となっていた少女。それが「神のお告げをもらった」と身ごもった事実。そして彼らは、先日の登録の際にベツレヘムに行き、そこで出産したらしいということ。
「いつの話だ」
「冬至の日の事でしょうか……」
ヘロデ大王は青くなった。
「冬至……あの星が現れたのも、その日だ!」
「そうでしょうとも」彼は言う。
「もしも彼女の言っていることに嘘偽りがないのならば……神の力を携え、星とともにベツレヘムで生まれた子供。あなたの地位を脅かすとすれば、その子でしょうな」
「そやつは、どこにいる!」彼は声を荒げた。「今はベツレヘムにいないのか!?」
「今はエルサレムに帰っております。しかし、お望みであれば貴方様のため、その家を教えましょう」
ヨアザルには、何のためらいもなかった。迷いすらしなかった。
これでマリアが死ぬのならば、死ねばよい。清らなる体でいなければ駄目だったのに。聖なる処女であるべきだったのに、彼女は男と契った。彼女は子を宿した。それならばもういっそ死んでしまった方が、彼女のためと言うものだ。
彼女を自分から奪ったヨセフも哀れに死んでしまえ。ダビデの家を汚す愚かな盗人にはそれが何より似合っている。厚かましくも、一生そこを誰も通ってはならなかったはずのマリアの胎内から生まれてきた赤ん坊も、惨めに殺されてしまうがよい。それが理だ。それが正義だ。
マリアは、処女でなくてはならなかったのだから!
処女であるべきだったのに、彼女は自分を裏切った!彼女を愛していた自分を!死んでしまえ、マリアも、マリアを愛した全ても!
自分は大祭司だ、自分の考えることが神の意志、イスラエルのあるべき未来だ、そうに違いないのだ!!
「ヨアキムと言う男、その家に、奴ら一家は住んでいるはずです」
自分が一番悲しいのだ。汚れた体になってしまったとはとはいえ、それでもまだ大切に思ってやっているマリアを失う自分が。そこまで自分を追いつめた彼らが悪い。悪いのだから、無残に殺されて当たり前だ。
ヘロデ王は狂気に笑い、その言葉を聞いた。だが、その場に居なかった男で、その一部始終を、偶然にも聞いてしまった男がいた。
パンテラだった。
彼はヘロデ王の見舞いに来ていたのだ。だがヘロデが唐突に起きてしまい、どうしようかと迷っていた結果、このようなことを偶然聞いてしまった。
「(そんな、大祭司殿……!?)」
彼はぞっとした。ヘロデ王の王位への尋常ならざる執着に。赤ん坊を殺してもいいと言い切る、その心に。
だが、それ以上に彼はおののいた。マリアとヨセフが、彼らの子供が殺される!
パンテラは焦った。彼らを救ってやらねば!だが、どうしようか。運が悪ければ見つかって、結局殺されてしまう。ヘロデ王はこのイスラエルを治める者、自分も赴任してから長く経つとはいえ、地の利ではかなうはずもない……。
そう思い悩むパンテラの肩をその時、ポンと叩くものがいた。
「力を貸してやろうか」
そう声をかけてきたのは、アンティパスだった。

「王子殿下……」
「その、特別に殺される子たちと、知り合いだったりするのかい?」
「はい、彼らは……私の友人です」パンテラは焦って言った。「見殺しにはできない!」
「まともに逃げても、父上の包囲網に追われる」アンティパスは笑った。「でも僕なら、絶対に父上の包囲網をかいくぐれるルートを知ってるよ。条件次第で、それを教えてやらないこともない」
その言葉を聞くと同時に、パンテラはその場にひざまずき、アンティパスにすがった。
「お願いします!王子殿下、なにとぞお教えください!その条件とはなんでしょう!」
渡りに舟だ。彼は無我夢中ですがり、アンティパスは面白そうに笑いながら彼の顎を持ち上げた。
「いやだなあ、パンテラ将軍。僕があなたに望むことなんて、一つしかないにきまってるじゃないか?何年も誘いをかけているのに、あなたは一向につれないんだから……」
そう言って彼は細い指を這わせ、カリリと軽くパンテラの喉をひっかく。彼の意図がわかったパンテラは慌てて言った。
「王子殿下……できません、で、できません、それだけは……」
「ああ、そう!」
アンティパスは大概、こうだった。パンテラが断れば、すぐに話を切り上げ縋ることはしなかった。「じゃあ、この話もなかったということで」彼はわざとらしく踵を返す。「ま、待ってください!」とパンテラはすがった。
「王子殿下にお教えいただかないと、困ります!私の友人たちが、殺されます!」
「その何とか云う奴らが死のうと死ぬまいと、僕に一切の関係はないんだよね。どんな殺され方をしようと、僕の心は全く痛まないよ」アンティパスは愉快そうな笑顔で、冷ややかに告げた。「僕はあなたの体がほしいだけ。特に今は、諸事情あって寂しいんだよ、無性にね……それさえ手に入れば後はどうでもいいことなんだ。で、その話が流れたなら、僕が去るのは当り前さ。離してくれよ」
「そうするわけにはいかないのです、しかし、どうか……」
「離せって言ってんだろ」
彼は笑顔のまま、低い声で言った。苛立ちの混ざった、怒っている声だった。
「ねえ、パンテラ将軍。貴方にどんなご立派な思想があるかどうかは知らないけど……今だけその思想を捨てて男の子のお尻を犯す。そのくらいの覚悟も持てないような決意に貸してやる胸なんて、あいにく僕にはないんだよ」
アンティパスはそう言って、さてこの男はどう縋りついてくるか?と楽しみにした。しかし、帰ってきたのは意外な返答だった。彼はこれだけは言いたくなかったが、といった風に決意した顔で、アンティパスを下から見上げつつ、言った。
「王子殿下……貴方は誤解しておいでです。私は……自らの信条、貞操、義務感、そのようなもののために、今まであなたを袖にしたのではありません」
「なんだって……?」
アンティパスは立ち止まった。そして、パンテラの話を聞いた。


のどかな昼下がりの事だった。ヨアキムとアンナがイエスの子守りを手伝ってくれていたので、マリアとヨセフは一息ついて、二人とも昼寝していた。
だが、二人の夢に、急にあらわれるものがあった。どちらも、彼女には見覚えがあった。長い金髪、純白の翼。そして手に持つ大輪の白百合。あの時の天使だ、ガブリエルだ!
「神の御子様を連れて、今すぐお逃げなさい!」
彼女は切羽詰まった顔で、そう告げた。
「時間がないわ。ヘロデ王が、この子を殺そうと迫っています!」
「なんですって!?」「なんだって!?」二人は、夢の中で言う。
「はやく!大丈夫、逃げる手立てはあるわ!」
彼女は急ぎみにそうとだけ言って、夢の中から消えた。とたんにマリアとヨセフは目覚め、二人とも顔を見合わせた。
「ヨセフ……夢、見た?」
「マリア……?お前も?」
そして二人は慌てて跳ね起き、ヨアザルとアンナのもとに向かった。「お父さん、お母さん、私たち、今すぐ逃げなきゃ!」
「逃げる?どうしてだね」
「ヘロデ王が、この子を殺そうとしているんだ!夢の中で、天使様が俺たちにそう言った!」
「なに!?」
マリアは慌てて旅の荷物をまとめた。ヨセフはアンナと遊んでいたイエスを自分の腕に抱き、「いいか、絶対死なせねえからな!」と、彼に言った。彼の腕の中で、イエスは笑った。
「しかし、どうやって……」
その瞬間だ。
馬のひづめの音が聞こえた。真直ぐに、こちらに向かってくる!ヨアキム一家は息をのんだ。蹄の音が止まる。
「ヨセフ!」
マリアは恐怖の叫び声をあげて、ヨセフの胸の中に飛び込んだ。彼はマリアとイエスを抱きしめて、扉を睨みつけた。だが、その時、大きな声が扉の向こうから聞こえてきた。
「ヨセフ君!マリアちゃん!私だ、パンテラだ。時間がない、いますぐ君たちの子供を連れて、私たちとともに来てくれ!」

扉を開けると、なんということだろう。パンテラの率いる小隊が、ヨアキムの家の前に来ていた。「な、何事です?」と戸惑うヨアキムに、パンテラは早口で説明する。
「君たちの子について、情報をヘロデ大王に漏らした者がいた!ヘロデ大王はその子が自分の地位を脅かすものではないかと疑い、軍隊を差し向けて君たちを殺す気だ!」
「な、なんと……」
「時間がない!私たちが国境まで護衛する、逃げてくれ!」
そうまくしたてるパンテラを見て、マリアとヨセフは、覚悟を固めた。
「お父さん、お母さん。大丈夫。きっと、助かるよ」
「ああ。心配しないでください。俺たち……神様を信じているんです」
パンテラは馬ではなく、二人乗りの鞍が付けた、ラクダを用意していた。エジプトの方向に行く道らしい。砂漠越えのため、ラクダなのだろう。マリアは可能な限り小さくまとめた旅荷物を持ち、ヨセフはイエスを抱いて、立ち上がった。
長い旅になるだろうとは、誰もが思っていた。ほとぼりが冷めるまで、イスラエルには帰って来れなかろう。
ヨアキムとアンナは黙っていたが、それでも余計な口は挟まなかった。「……分かった。行ってらっしゃい。達者でな」と、娘夫婦に告げた。
「神様。あなたの子の行く末を、あなたが結びつけたわが娘夫婦の行く末を、どうかお守りください……」
「ありがとう……」マリアは涙ぐんだ。
「お父さん、お母さん、元気でね」
「お義父さん、お義母さん、ありがとうございます。……俺、お二人に出会えて、この数ヶ月、とっても幸せでした」
ヨセフも涙ぐみ、ヨアキムとアンナを抱きしめた。彼らも、自分より背の高い婿を、精いっぱい抱きしめた。

マリアとヨセフは、ラクダの上に乗った。大人しいラクダで、パンテラの愛馬のすぐ横についた。
「では……」
「お待ちください、最後に一つだけ!」ヨアキムは、馬上のパンテラに叫んだ。
「その、情報を漏らしたやつとはどなたです!」
「知らないほうがいいと思うが……」
「いいえ!わたしは娘の事は、信頼できるものにしか話さなかったのです。許しておくわけにはいきません!親として!」
パンテラもしばらくためらっていたが、ヨアキムの必死な表情に、やがて口を開いた。
「大祭司ヨアザル殿だ」
彼らは、きっと驚いただろう。マリアも、丸い目を見開いて、思い切り驚いていた。だが、ヨアキムは「感謝します」と一回頭を下げた。
「娘と婿をよろしくお願い致します。パンテラ殿」
「承知いたした」
その言葉を最後に、パンテラは今度こそ「出発する!」と大声で部下たちに告げた。


「パンテラさん」
「なんだい」
「なんで、私たちを助けてくれたんですか?」
エルサレムを離れて人気のない、かつて田園地帯だったのだろう狭い道を抜けながら、マリアたちはパンテラに問いかけた。パンテラは、薄く笑って、彼らに語った。自分の昔話を。


アブデス・パンテラはシドンの出身だった。父が大金を積んでローマ市民権を得て、若いうちからローマに住みついた。
やがて彼は、ある少女と恋に落ちた。美しく、優しい彼女の事を、パンテラは心から愛した。そして彼女も、パンテラを心から愛してくれた。
しかし、彼女は、家の出世の道具でしかなかった。いつかは格の高い男性と結婚し、家を富ませるための道具にすぎなかった。つい数年前まで異邦人でしかなく、家柄も大したことのないパンテラなど、彼女にとってはただ唯一の相手でも、彼女の父親にとっては論外だった。
愛し合っていた。心の底から愛し合っていたというのに、彼らを待ち受けている運命は悲惨なものだった。
パンテラは彼女と引きはがされ、暴行を受け、拷問された。「汚らしい異邦人のくせに貴族女に欲望を抱くなど、この身の程知らずの色きちがいめ」と罵られ、誰一人彼を助けてはくれなかった。自分の父ですら、「せっかくローマ人になれたのに、なんということをしでかした、この親不孝者!」と彼を罵り、そして傷だらけになった息子に自分でも暴行を加え、無一文で家から追い出した。
一命を取り留めはした。しかし二度と彼女に会うこともできぬままとなり、彼は、孤独に生きることを強いられた。
それでも、生きると決めた。その瞬間彼は、絶対に死なないと決めた。

「……誰かが、何かと理由をつけて差別される。それが広がっていき、さらに多くの人が苦しむ……そんな世の中を、私ははっきり知ったよ。だからこそ、生きて行こうと決めたんだ。弱いものが黙って死なねばならぬなら、この苦悩が解消されるものか。誰か一人でも多く声を上げなくては、虐げられたものが顧みられることなど、絶対にないのだから……」
パンテラはさびしそうに語った。
「とはいえ、私は何も……できないままだったが」
「今まさに俺たちを逃がしておいて、何言ってるんですか」ヨセフは言った。
「パンテラさんは今も昔も、俺にとってすごく優しい、とても大切な人ですよ」
「私にとってもです」マリアは言った。「パンテラさんは本当に優しくてかっこよくて、私も、私の友達たちも、みんな大好きでしたよ」
「ありがとう……」彼は美しい顔で、軽やかに笑った。
「マリアちゃん。私はね……君が、私の昔の恋人に見えるんだ」パンテラはぼそりとそう言う。「そして、ヨセフ君。君は、私の若い頃を見ているように見えた」
異常気象は収まって、例年通りの寒い冬に戻ろうとしていた。
「若い恋人を見るたびに、私は昔の自分達を思い出す。でも、君たちを見た時、今までにないほど、そう感じたんだ。……私たちは、救われなかった。だからせめて、今、救いたい。大人になって、力を得た今こそ……あの時救えなかった私を、救いたいと思ったんだ」
冷たい風が吹き付けてきた。砂埃がとんでくる。そろそろ、国境地帯だ。
なぜだろう。
ベツレヘムはもう遠くになってしまったはずなのに、彼らの耳には、泣き叫ぶ赤ん坊の声と、泣き叫ぶ母親たちの声が聞こえるかのようだった。
ベツレヘムで幼児を殺す兵隊たち。彼らはどんな思いで、無垢な体を切り裂いているのだろう。きっと、誰もやりたくはないのだ。いったい誰が好き好んで、そのようなことをできるだろう。
「ヘロデ王は、正気の沙汰ではない。もう……かの王権は長くなかろう。彼も……哀れな王だった。実に哀れな人だった。権力を得なくても虐げられ、得ても心を痛めるばかりだったのだから……」
「……パンテラさん、俺ね」ヨセフはそれに、口をはさんだ。
「そのヘロデの墓を立てに……ヘロディウムにいったんです」
コマドリが荒れ野に生える枯れ木の上で、歌いながら、道行く彼らを眺めていた。
「ヘロデの王宮って、金ぴかなばっかりでどこか不気味だって、前にパンテラさん、言ってましたよね」
「そうだが……」
「その、墓を建てるにあたってヘロディウムを改装したんです。ヘロデ大王の書いた設計図の元で。そして、それが……」
コマドリたちの音もやがて聞こえなくなる。再び、風の音しかしない中、彼らは進み続けた。
「すごく、綺麗だったんです……金なんてほとんど使わなくて、ただ水があって、緑があって、花があって……まるで、天国みたいに綺麗だったんです」
その言葉を聞いて、パンテラのみならず、その場に居たものは心を打たれた。
狂気の王、暴君ヘロデ。彼は死を前にして、心の中に、どのような理想の世界を描いたのだろうか。彼の建築の中で、最も美しい、天国のごときヘロディウムは、彼の心の中の、何を映していたというのだろうか。

「……さあ、国境だ」
パンテラは砂漠を指さし、そう言った。そしてヨセフとマリアのラクダに、ありったけの水と食料を結びつける。
「砂漠を超える分はあるはずだ」
「ありがとうございます、何から何まで」
「いいさ……だがもし礼をくれるなら、今一度、私にもその子を抱かせてくれるかい」
マリアはそっと、パンテラに産着にくるまったイエスを渡した。パンテラはイエスを胸に抱き、そして、語りかけた。
「救い主、神の子……貴方がお生まれになった理由も、わかります。この世は、人間は、救われなくてはならないでしょう。たとえば、あのヘロデの王宮の人々たちなど……」
パンテラは優しく、だが力強く、そのオリーブ色の目で、イエスの瞳を見た。
「ですが……救世主様!ヘロデのような男は……イスラエルだけではありません。世界中に居ます。そう、世界中に……前に私が、あなたに私はローマ人だから、と言った時、あなたは私をとがめるように見つめましたね。……今、その発言を悔います。ローマ人として言いましょう。どうか、イスラエルのみならず、ローマにも、シドンにも、いえ、この世界の全てにも……一人でも多くの民を、救ってください。どうか、どうか……」
彼はイエスを抱いて、砂漠に泣き崩れた。イエスは彼をじっと見つめ、そして、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
パンテラはそっと、彼の小さな手の甲に口づけした。
「どうか、この世をお救い下さい……神の息子よ」
そして彼は「ありがとう」といい、マリア達にイエスを返した。
「砂漠の旅は過酷だ。どうか、体を壊さないようにな……後の事は心配するな。私が全て片を付ける。マリアちゃん、ヨセフ君!どうか、元気でな!」
「ありがとう、パンテラさんもお元気で!」
二人は声をそろえてそう言い、ラクダに鞭を入れ、静かな砂漠をしずしずと歩いていった。
「(見えるかい、私のクラウディア。あそこに私達がいるよ。あの時逃げられなかった私たちが、一緒に逃げているよ……ああ、神よ、神よ、彼らを祝福し給え!)」
パンテラはずっと去りゆく三人家族に手を振り、彼の部下たちも、無言のまま敬礼していた。

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feat: Mary and Joseph 第二十二話

それから十二日が経過したのちの事であった。
イスラエルでは出産した女性は四十日間、外に出てはならないとされていた。宿屋の女主人も、おめでたいことがあったんだから全く構わないと、家畜小屋をそれまで無償で貸し続けてくれた。
そんなある日の夜の事、ようやく人心地のついた狭い家畜小屋の扉を、何者かがトントンとたたいた。「誰ですか?」まだ眠れていなかったマリアは、飼い葉おけに寝かせた赤ん坊の側に横たわったまま言った。ヨセフも怪訝に思い、扉を開ける。
そこには、黒いターバンと星の模様のローブに身を纏った、見るからに立派な身なりの三人の男性が立っていた。老人と、黒人の中年と、金髪の美青年。
「夜分に住みませぬ」カスパールは戸惑うヨセフとマリアに、深々と頭を下げた。「怪しいものではございません。我らは、東方から来た占星術師のものです」
「は、はあ、いえ、そんな」ヨセフは身なりのいい彼らが頭を下げていることに若干混乱し、応答した。「それで、何の御用で?」
「救い主のもとに参りました」
メルキオールが透き通る蒼い目を通じて、飼い葉おけの中に眠る赤ん坊を見つけた。マリアも、少しばかり戸惑う。
「急にこのように言われ、戸惑うのも無理からぬことでありましょう」バルタザールも、真っ黒なよく輝く目を細めて、飼い葉おけの中の赤ん坊、それにマリアとヨセフを、優しく見つめた。
「我々はざっと十二日前……偉大なものがこの世にあらわれたことを告げる星を見つけたのです。今日の日まで、その方を探し回っておりました。その方の前にひざまずき、礼拝するために」
「そうですか……」
マリアもヨセフも、彼らが怪しいものではないとようやく分かった。
神の力によって身ごもった、神様の子ども。この子供が普通の子ではないと、今一度、認識できた。しかし、もうそれに戸惑い驚くようなことも、彼ら夫婦にはなくなっていた。
「ずいぶん探したんですね。お疲れ様です。どうぞ」ヨセフはそう言って、三人を家畜小屋の中に案内した。三人は飼い葉おけの前にひざまずくと、「おお……」と感嘆の声を出し、すやすやと大人しく寝ている彼の前に伏し拝んだ。
「救世主様……」メルキオールは小さな声で、ポロリと涙を流しながら言った。「ようやく、ようやく、相まみえましたな……」

続いて彼らは一人ずつ、ヨセフとマリアに豪華に飾られた箱に入った贈り物を渡した。
「どうぞ。これをおとりにおなり下さい。救い主の家族様」
メルキオールは黄金、バルタザールは乳香、そしてカスパールは、没薬の箱。
「まあ、こんな高価なものを……」
「いいえ、是非ともお受け取りください」彼らはヨセフとマリアに再度、深々と頭を下げる。何度かそんなやり取りを通じて、ヨセフとマリアはずしりと重たいその箱を受け取った。
「あなた方ユダヤの民は、生後八日たてば割礼を施し、名前を付けると伺っております」カスパールは彼らが贈り物を受け取ったのを見て、心から満たされたような目で、呟いた。
「お名前は、なんと付けられたのですか」
「イエスです」二人は静かに答えた。

東方の三賢人は、やがて帰っていった。そして彼らは、二度とヘロデ王の王宮には帰らず、自分たちの本拠地であるインドへと去っていった。

やがて四十日が経過した。ヨセフとマリアは、世話になった宿屋の女主人に別れを告げた。
「本当にお世話になりました!いろいろ、教えても下さって」
「いいのよ。はじめてお母さん、お父さんになるのは大変だろうけど、頑張ってね」
そう言葉を交わして彼女と別れた後、彼らは真直ぐにエルサレムに帰った。イエスはとてもおとなしい子供で、めったには泣かなかった。
彼らを迎えたヨアキムとアンナは、手紙で知ってはいたが、初めて見るイエスの姿に感激し、彼を優しく抱いた。
彼らの心に浮かんだ幸せは、神の子に出会えた信者のものだったのか、初めて孫を抱いた老夫婦のそれだったのか。ヨアキムとアンナにとっては、どちらも、掛け値なく正解だった。彼らは自らの娘の体を通じて生まれたイエスという赤ん坊を抱いて、ただただ、本当に幸福だった。

ユダヤ社会では、初めての男児が生まれて四十日の清めの期間を終えたならば、主なる神のもとに捧げ聖別すべし、と言う規定があった。それに行くべきか否かで、マリアたちは少しの間協議した。行けば、知り合いに赤ん坊といるところを見られて不信に思われるのではないかと。だが結論として、やはりそれには行こう、と言う話になった。危惧していた出産も、巡り巡って周囲には全くばれない形で済んだのだ。何とかなるはずだ。それに、神に改めて神殿で感謝をささげたいという気持ちも十二分にあった。
そんなわけで彼らは、エルサレム神殿に、イエスを連れてお宮参りに向かった。マリアは、せめてもの保険として青いベールで顔を覆い隠した。
よく見てみれば、アダヤ達が掃除をしていた。マリアは懐かしい彼女たちに声をかけたい気持ちをぐっとこらえ、神殿商人から生贄用の鳩を買ってきたヨセフと一緒に、子供を祭司に預け、聖別してくれるように頼んだ。
マリアは、出てきた祭司の顔を見てホッとするとともに、心底神に感謝した。彼は真面目で立派な祭司ではあったが人の顔を覚えるのが多少不得手なことに定評のある男で、マリア達の顔などいつも覚えてはおらず、そのたび申し訳なさそうに名前を確認してきた祭司だった。案の定、彼は目の前の若い母親がマリアだなどと気づいていないようで、滞りなく生贄はささげられ、イエスは聖別され、無事に奉献の儀式は終わった。
よし、では帰ろう、とマリアとヨセフが踵を返そうと知った時だ。よろりと、彼らのもとに駆けてくるものがあった。
ぶつぶつと何かの言葉を呟きつつ、向かってくる、ぼろをまとった老人。彼には、見覚えがあった。マリアが神殿で仕えていた時、何回も見た、あの名前も知れない、気のふれた物乞い!
彼は面喰うマリアのとヨセフのもとに、震えながらやってきた。神殿は込み合っていて、多くの参拝者は彼のそのような様子を目に求めていなかった。だがしかし、彼がそのように自分の方から人間に向かってくる様子を、長い神殿仕えの生活で一度も見なかったマリアは、心の底から驚いていた。
やがて彼はヨセフとマリアの前で立ち止まる。背中が曲がった彼の目線はマリアよりも低く、濁った眼がしっかりと、彼女に抱かれるイエスにとまった。
「主よ……」
そして彼は、はっきりと、ヘブライ語を話した。
彼が話したことに戸惑うマリアとヨセフに、彼は歯の欠けた口で、ゆっくりと話しかけた。
「私の名は、シメオン……私は、死ねませんでした。主がいつの日か救世主をつかわし、その方がイスラエルに現れるで、死ねなかったのです……」
汚らしい物乞いの老人の姿をしていた。だが同時に不思議と、その彼は何処か神聖な雰囲気も纏っているように、その時はじめて思えた。
だからこそ、彼が震える手を伸ばし、「どうぞ、どうぞその方を腕に抱かせてください」と言った時、マリアもヨセフも、それを全く拒まずにいられた。
シメオンは自分の腕に収まった赤ん坊を抱いて、悲痛なほどに嬉しそうな声でいった。もう叫べないのであろう彼の喉が絞り出すのはごく小さな声で、それでも、心の奥底にしみいるよな声だった。
「主よ……今こそわたしは死ねます。あなたの救いをこの目で見たのですから……おお、万人の救いよ、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ……」
たどたどしくそう言い、涙を流すシメオンはもう一度強くイエスを抱きしめ、マリアに再び返した。そして言った。
「ありがとうございます……これで、私も安心して死ねます」
「いえ、そのようなことを……」
「しかし、また……言うことがございます」
シメオンは濁りきった、見えているかもわからない目を何とかイエスを抱きしめるマリアたちのもとに寄せ、言った。
「この子は、イスラエルの多くの人を、倒し、また、立ち上がらせるでしょう。この子は、反対を受ける印として、定められるでしょう……貴方自身も、剣で、心を刺し貫かれることと、なりましょう」
「え……」マリアは目を瞬かせた。後ろのヨセフも、驚いた顔でそれを聞いていた。
老人は、すっと濁った目を伏せる。だが、マリアはそんな彼に答えた。
「ありがとうございます。預言を頂いて……分かりました。それでも私たちは、この子を育てますから」
「ありがとうございます」かすれ消えそうな声でシメオンは言った。「ありがとうございます……」
彼は自分の唯一の持ち物である椀を持って、そのまま、人ごみの中に消えていった。それと同時に、彼らの肩を叩くものがあった。
「あなた、マリア?」
その声を聴いて、マリアは老人の不思議な言葉の余韻に浸っていたのもつかの間、背筋が凍りついた。その声は、講師アンナのものだった!
「あ、い、いえ私は、その……」
「ああ、やっぱりマリアね!その声は」
アンナの優しげな笑顔は、まるきり変わっていなかった。こんな状況でなければ、大好きだった恩師との再会を祝えただろうが……。
「い、いえ、こいつはその違って、えっと……」
「大丈夫よ、マリア。私は貴女たちの事を疑ってなどおりません。心配しないで」
その言葉にぽかんとするマリアたちをよそに、アンナは赤ん坊のイエスをじっと見つめた。
「冬至の日にね、星が輝いたのよ。見たこともないほど、綺麗な星が……」アンナは懐かしげな眼で、語る。
「私は占星術など知らないけれど、それでも、立派なお方がお生まれになったことが分かったの。……先ほどの話、聞いたわよ。そうだったの、貴方達だったのね……貴方達の間に、お生まれになった子の星だったのね」
アンナは、マリアの頭をそっと撫でた。
「マリア。此れから、大変なこともあるかもしれないわ。でも、私の言葉を忘れないで。神様をいついかなる時も、信じていらっしゃい」
アンナの言葉は、全く変わらなかった。包み込まれるほど優しくて、暖かくて、それを聞くたびマリアは、安心できた。
「はい……先生」
「ヨセフ君。どうか、マリアをよろしくね。マリアに貴方みたいな、本当に愛し合える伴侶ができて、先生として何よりもうれしく思っているのよ」
「あ……ありがとうございます!」ヨセフも若干照れながらそう答える。アンナはそれに穏やかに笑って、「では、私は講義があるからこの辺で。みんな、お元気でね」と頭を下げ、神殿の中に戻っていった。

神殿からの帰り道、マリアとヨセフには、もう一人出会う人があった。漸く神殿を抜けてひと段落ついた、と言う頃に、彼らはばったりと、パンテラにあったのだ。
「おや、ヨセフ君!……と、隣にいるのはマリアちゃんかな?」
そう声をかけてきたパンテラは次の瞬間赤ん坊を見つけ、一瞬目をぱちりと瞬かせた。そして、気まずそうに「あ……なるほど」と言った。
「なるほど……ヨセフ君。君が言ってたのはそういうことだったのか……だが、何も気にすることはない。君が付き添いたいのなら、マリアちゃんとずっとつき添えばいいだけの事で……」
「いやちょっとパンテラさん、早合点しないでください!」ヨセフは焦って言いかえした。「あ、そのいや、するのも当然かと思いますけど……」
神殿で不思議な二人にあって、神がかりな言葉を聞かされて、少し現実的な感覚から切り離されていたことを、ヨセフは自覚した。しかしパンテラは真剣な顔で「なにがあったんだね?」と聞いた。
長い話になるからと少し道をそれて、マリアとヨセフはパンテラに一部始終を聞かせた。その間、イエスはずっと穏やかに眠っていた。
「なるほど……」
パンテラは驚くほど、真剣に話を聞いてくれた。「では……その子が、神の子と言うわけなんだね」
「はい、そうです」マリアは言った。
「なるほど。先ほどは早合点して悪かったね」
「パンテラさん、信じてくれるんですね!」
「もちろん。私はいつだって、君たちの味方だよ」
そう言われて、マリアもヨセフも安心した。教師のアンナ同様、パンテラならむやみに周囲に話すこともないだろう。
「それにしても救い主か……」パンテラは言う。「私はローマ市民だから、おそらくユダヤの救いには関係できなかろうが……それでも、めでたいことだ。ヨセフ君、マリアちゃん、おめでとう」
彼がそう言って笑った時だった。今までヨセフにおぶられながら寝ていたイエスが、急にぐずりだした。三人は慌てる。
「ちょ、ちょっと、どうしたの?」
「あんまり泣かないやつなんだけどな……」
「ああ、泣きやんでくれないか、頼むから……」
パンテラがそう言ってイエスの目を見た時だった。彼ははっとした。イエスは彼にそう言われた瞬間、泣きやんだ。そして、パンテラをじっと見つめていた。彼はどきりとした。ただの無垢な赤ん坊の目つきであるはずなのに、パンテラには彼を戒めるかのような目つきであるかのように見えた。

そのような一日を過ごし、マリアとヨセフは自宅に帰った。ヨアキム達が夕飯の支度をして待っていた。
「二人とも、一日中イエスを抱えて疲れちゃったでしょう。後は、私に任せなさい」アンナがそう言って、イエスを引き取った。ヨセフとマリアは安心して、夕食の席に着いた。
平和だった。そこにあったのは本当に、ただのごく普通の、赤ん坊に恵まれた家族の顔だった。


ヘロデ大王は、あの当時の日以来、気がいよいよおかしくなり、寝込むようになっていた。
「ユダヤの王は私だ、ユダヤの王は私だ……」
うわ言のようにつぶやく彼を、アンティパスは冷ややかに見ていた。強迫観念に取りつかれるように父の世話をする兄たちは、彼の眼には滑稽なものに映っていた。
父はもう、死期を悟っているに違いない。ヘロディウムを大改装して、自分の墓まで立てたのだから。それなのにこの期に及んで父はなぜまだ、イスラエルの王権などにしがみつくのだろうか。しがみつかざるを得ない、どうしてもそれを手放せないなど、かえって、彼自身のいやしい育ちを強調するようなものなのに。
ヘロデ王は時々激しい悪夢を見た。
「マリアムネ!マリアムネ!助けてくれ、私が悪かった!」
彼は何の夢を見ているのか、王宮中に察しはついた。ヘロデ大王。なんと哀れな王だろうか。ダビデやソロモンの足もとにも及ばぬ、いやしい生まれの王よ。

ある日ヘロデは久しぶりに目が覚めた。隣にはアルケラオスがいた。
「アルケラオス……」彼は息子にすがった。
「お目覚めですか、父上」
「アルケラオス、私はユダヤの王だな!?私は、偉大な王だな?」
「はい、父上は、ダビデよりも偉大な王であらせられます」
「私は偉大だ、私こそが王だ……」彼はぶつぶつと呟くと、すでに狂気に染まった目をぎらりと輝かせ、アルケラオスに大声で命令した。
「いますぐ、神殿の祭司どもを招集しろ!」

ヘロデ王の急な召集を受けて、大祭司ヨアザルとめぼしい者達が一挙に集まった。
「なんの御用でしょうか、王よ」
「お前達」彼は震える声で聴く。「聖書の教えにある救世主は、どこで生まれる存在であるかわかるか?」
祭司たちはなぜこのようなことを聞くのか、と顔を見合わせた。そして、アンナスが進み出てきて言う。
「ミカ書にこうありますな。『しかしベツレヘム・エフラタよ、お前はユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者がお前のうちから我がために出る』……」
「ベツレヘムか!」彼はぞっとするほどの大声で叫んだ。そしてその場に、将軍たちを招集させた。
「今から、私は勅令を出す!ベツレヘムと、その一帯にいる赤ん坊を全員始末しろ!私の王権を脅かすものが、現れたのだ!この計画は極秘事項だ、祭司ども、お前たちのうちもし一人でもこの情報を外部に漏らしたならば、命はないものと思うがよい!」

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feat: Mary and Joseph 第二十一話

ヨセフはその後、二週間に一回ほど帰ってくるようになった。彼は日に日に大きくなるマリアのお腹を眺めては、幸せそうな顔をした。まるでその胎内に宿っているのが自分の子であるかのように。
彼はヨアキム達と一緒に、ヘロディウムでの自分の仕事の話をいくらでもした。そう語る時の彼は本当に生き生きしていて、マリアはやはり彼を送り出してよかった、とつくづく思えた。
「で……階段を作るスペースがないことに気が付いたんだよ。でも、狭いスペースにもおさまるような螺旋階段の組み立てなら俺の得意分野なんだ。何とか作ってやったら皆本当に褒めてくれるからさ……すげえ、嬉しかったよ」
「すごいんだろうね、私もみたいな……」
「別に普通の螺旋階段だぜ、マリア。材料が足りなかったから支柱はないけどな。ま、子供が生まれたら、必要なものは全部俺が作ってやるよ」
「あてにしてるからね!」
「ついでに家具も新しく作ってくれないかしら、ヨセフ君。この机、もうそろそろガタが来ちゃってるからね……身内に大工さんがいるといいわね。それも飛び切り腕のいい人だと!」
「この仕事が片付いたらやらせてもらいますよ、お義母さん」
マリアは彼の話に耳を傾けながら、お腹の中にいる子供も、その話にじっと耳を傾けているような気がしていた。
これは、奇跡によって生まれる神の子なのかもしれない。でも同時に自分たちの子供でもあると、マリアはその時心の底から思うようになっていた。

やがてヨセフの仕事がすっかり終わり、彼は改めてヨアキムの家に帰ってきた。結婚式は、きっとできない。花嫁の大きなお腹を見せるわけにはいかないだろう。でも、その時彼らは、それを受け入れていた。小さい頃には憧れた豪華な花嫁衣装を着ることにも、今はそれほど未練を感じなくなっていた。
そして不思議なことに、周囲の人々も、そのことを全く何も言ってこなかったのだ。まるで記憶から消し去られているかのように。それがただの偶然だと、マリアとヨセフは思わなかった。おそらくそう取り計らってくれているのであろう存在に、彼らは感謝した。出産の際には、アンナとエリザベトに手伝ってもらってこっそりしよう。きっと何とかなるはずだ。
マリアの産み月は刻一刻と近づいていた。秋が過ぎ、冬が来た。彼女のお腹がすっかり大きくなった、そのあたりの事だった。皇帝アウグストゥスが、人口調査のためイスラエルの全住民に住民登録をせよと勅令を出したのは。

「登録ねえ……」ヨセフは悩んだ。誰もが、自分のルーツのあるところで登録するのがしきたりになっていた。
「俺、いったんナザレに帰るか」
「私も、いっしょに行くでしょ?」と、マリア。「私、あなたの奥さんなんだから」
「ん、まあ、そうなるかな……待てよ、ナザレは結構遠いぞ。マリア、大丈夫か?」
「大丈夫だよ!ヨセフと一緒なら」
そう言って旅支度を始めようとした娘夫婦を見て、ヨアキムは言った。
「いや、待ちなさい。ヨセフ君。君が登録するべきは、ナザレではない。ベツレヘムだ」
「え、なんでですか?」
ベツレヘム。
それはかの、イスラエルの偉大な王、ダビデの故郷である街だった。
「君には、それが相応しいからさ」ヨアキムは笑った。ダビデの血を、おそらく肯定的に見られたことはろくにないであろう婿に対して、それが自分のできる思いやりの一つであると彼は確信していた。
「それに、私の家系もあきれるほど薄まりかえった傍系だが、ダビデ王家に連なっていると聞いたこともあるしね。ベツレヘムは、相応しい場所と言えるだろう。夫婦として、登録してきなさい」
「そう、ですか……?」ヨセフはしばらく戸惑っていたが、それでも素直にベツレヘムに行くことにした。マリアに負担にならないようろばに乗って、若い夫婦はベツレヘムに出発した。


ヘロデの王宮の門を、厳かな一団がくぐり抜けた。今年もまた、東方から占星術師たちがやってきた。
「不思議な星が出ておりましたな、師よ」と、バルタザール。
「さよう。何か、このイスラエルで起こるべきことが起きるはずである」
「異常気象ですね。今年のイスラエルは」メルキオールが、自分に釘付けになる視線を適当にいなしながら言った。美しい者でなければ、彼は興味がない。
「ずいぶん温かい……温かすぎる。まるで、春だ」
「さよう。……もう真冬だというのに、これは何事だ……だが、不吉の星は出ておらぬ。これはもっと、何か別の……」
メルキオールは師の言葉を聞きながら、相変わらずのヘロデ王の王宮を眺めていた。そしてやがて、細い体の片目を覆い隠した美少年を見つけ、彼に向かってキスを投げた。


マリアとヨセフがベツレヘムに到着した時、すでに夕方になっていた。ベツレヘムの街は想像以上にごった返していた。
「マリア、下手にろばから降りるなよ?潰されるかもしれないから」彼はそう言って、急いで宿探しをした。だがやはりと言うかなんというか、宿はすっかりすべて埋まっていた。
「どうしろってんだよ……まいったな。今からじゃエルサレムにも戻れねえし……」
「ヨセフ、私別に野宿でもいいよ?町から外れたところに、洞窟とかみつけてさ……冬なのにこんなにあったかいし、きっと一晩くらい大丈夫だよ」
「ばか、マリアお前、何考えてるんだ!野宿って大変だからな!?猛獣とか、マリアが思っている以上に普通に出るからな!?」ヨセフは慌てて言う。「そんなところにマリアもお腹の中の赤ちゃんもおいておけるかよ!」
実際野宿で渡り歩いたヨセフの言うことなら、マリアも黙るしかなかった。「もう一遍探してみるよ!」とヨセフが踵を返した時だった。彼らの脇にあった扉がバタンと開いた。どこかの裏口だったらしい。
「あ、すみませんでした……」
二人がどういってすごすごとさがろうとすると、ごみを捨てに出てきたらしいその老婆はマリアの方をじろじろ見て言った。
「あら、妊婦さん!?」
「はあ、まあ……」
「貴方達も登録で来た口なの。大変でしょう、そんな体で……」
「う、うんそうだよ。婆さん!どこか、空いてる宿知らないか!?」
「心苦しいけれど、ないと思うわねぇ……うちの部屋もみんな満員だし……」
「わ、悪かった……」
ヨセフはろばの手綱を引く間、老人は言うか言うまいか必死で悩んでいたようだが、意を決して彼らに叫んだ。
「もしもし、そこの若いお二人さん!」
「なんです?」
「そのね、もし、あなたたちが、いや、気を悪くしないでほしいんだけれど……」老婆はためらいながら言った。
「そのう、空いてる部屋はないんけれども、もし、いや無礼は承知だけど……もしよいのなら、家畜小屋なら使ってもいいわよ。ただでいいから……」


「また来てくれたんだね。嬉しいよ。メルキオール」アンティパスはメルキオールに軽くキスして、猫なで声で言う。後ろではじっとヘロディアが二人の様子を見ていた。
中庭の東屋で夕焼け空を眺めながら、彼らはハオマ酒を飲んで夢うつつになりながら語り合った。
「ずいぶん温かい冬だね」
「うん。牧草代をけちっている羊飼いあたりは、これ幸いにって放牧しているって話だよ。普段この季節に出すと羊が凍えちゃうけど、この気温だからさ……」
これで花でも咲いていれば本当に春だが、枯れ木だけの寂しい中庭が、今は冬だと告げていた。
ヘロディアは、じっと黙ったまま何かに耳をすましている。また、アンティパトロスが何かを言っているのだ。アンティパスはそれを無視して、「会いたかった。早く行こう?」と、メルキオールにすり寄った。
「アンティパス。君に会えたことは……私の中で一番の僥倖だ。インドにも、アラビアにも、コーカサスにも、アフリカにも……君ほど私の心を釘付けにする美貌の持ち主はいなかった」
彼はアンティパスをいとおしそうに撫で、片方の手でヘロディアの艶やかな髪も撫で上げた。
「そろそろハオマが回って来たな」
「宴会なんてすっぽかそうよ。どうせ父上はつまらない事しかやらないもの……」
「そうだな」
彼らは中庭を後にする。かすれ消えるようなアンティパトロスの声だけがまだ残っていた。ヘロディアはしばらく地面を見つめていたが、やがて彼らについていった。


「酷いところでごめんなさいね……」
「とんでもないですよ婆さん!屋根があって壁があってくるまるもんがありゃ、十分上出来ですよ!」
「君、一体どんな生活をしていたの?」
「い、いやとにかく、本当に私たち、ありがたく思ってますよ!それにお金もただなんて、良いんですか?」
小さな宿屋つきの小さな家畜小屋だった。ろばと牛が一頭ずつ飼われているだけの。
「かまわないわよ。こっちはお客に安らぎを与えるのが仕事なのに、こんなことをして……と思っているところもあるんだから。せめて……」
「何言ってんですか、貸してくれない宿屋より貸してくれる家畜小屋の方が何倍だってありがたいですよ!」
連れてきたろばも中につないで、マリアを藁の山の上において、ヨセフは宿の女主人とそう話し合っていた。女主人もようやく素直に、彼らの喜びを受け止めてくれたらしい。
「そうなの、それはありがたいわ……せめて、ゆっくりしていってちょうだい。今食事を持ってこさせるから……あらやだ、もう日が暮れたわ。冬至だものね…」
老女がそう言った時だった。ヨセフの耳に、小さなうめきが聞こえた。それは、マリアの声だった。
「マリア!?どうした!?」
「な、なんでもないの……」
「嘘付け、言ってみろ!」
マリアの顔はみるみるうちに青くなり、彼女は言った。
「痛い……おなかの下の方が、痛い!」
「産気づいたんだわ!」
老婆は慌ててマリアに駆け寄った。「横になって!」彼女は叫ぶ。
「君、急いで産婆さんを!宿の表の方から出て、北にまっすぐ行ったら、三番目の交差点があるあたりにいるわ!早くして!私は見ているから!」
「お、おう、わかった!」
ヨセフは急いで全速力で走り出した。

痛いのは嫌よ、って言ったのに。
マリアはせめて気丈にそう思いながら、今、一つの命を形にして生まれさせようとしているわが身の体の痛みに耐え続けていた。腰の骨が砕けそうだ。破水してあふれた羊水の冷たさが気持ち悪い。少しでも油断したら意識が飛びそうなほど苦しい。
ヨセフの呼んできた産婆も、宿屋の女主人も、彼女を励ましてくれる。ヨセフは男なので出産の場所には立てず、そこにはいなかった。それが彼女にとってはたまらないほど心細かった。エリザベトも同じような痛みを味わったのだろうか。本当に彼女はあの老婆の体で、こんな痛みによく耐えたものだ。
「大丈夫!?初産にしてはずいぶん安産よ、この調子でがんばって!」と乳母が言ったとき、マリアはああ、これでも自分の頼みを聞いてくれた方なのか、と思った。主が自分を裏切ったイヴに与えた出産の痛みとはこれほどのものか。実際人間は、酷い罪を重ねたものだ。
そんなことに思考を寄せ、なんとか痛みを紛らわせようとしている彼女の体を、これまでで一番の痛みが貫いた。たまらずに彼女は悲鳴を上げる。骨が砕けるなんてものじゃない、まるで体全体が砕けそうだ、と彼女は思った。
「大丈夫!もうすぐよ、頭が見えてきたわ、頑張って頂戴!」
「まだいきまないで、まだ早いわ……そう、待ってね。よし、今よ!思いっきりいきんで!」産婆がそう言った。だが、いきむともっと痛みが襲って来そうで、そうしなくてはいけないと分かりつつ、力が出きらなかった。
「いきんで、大丈夫よ、いきんで!」
産婆が自分を励ましてくれる声を聴きながらも、彼女は、本当に欲しい心のよりどころは彼女ではない、と思っていた。
「(助けて、助けて、ヨセフ……)」
彼女はそう願った。そして、心の中で彼を呼んだ瞬間だった。自分は彼とつながれている、と言う気持ちに襲われた。
ヨセフはあの扉の外で、自分を応援してくれているのだ。それがはっきりわかった。何も怖くはない。自分は大丈夫だ。
彼が自分を見ている。彼が自分に声をかけてくれている。彼が自分の手を握ってくれている。心から、そう思えた。
「(処女のまま子供を産むことを受け入れた私が、このくらいの痛み、今さら怖がるもんか!)」
彼女は決心し、言われたまま、思い切りいきむ。
「(神様、私、頑張りますから……)」
長い、長い時間のように感じられた。その時間はふと、終わりを告げた。
マリアの体中から力が抜けた。そして、小さな、大人しい産声が聞こえてきた。
「おめでとう!」産婆と宿屋の女主人が、口をそろえてそう言った。「元気な男の子よ!」

マリアは顔を紅潮させ、上体をよろよろと起こした。産婆がはさみでへその緒を斬り、そっと産湯をつかわす様がはっきりと見えた。
「赤ちゃん……」
あの日、エリザベトの家で見たその存在と、彼は確かに似ていた。
神の子。男を知らない自分の体に宿った、不思議な存在。だが彼はそうであると同時に、立派に人間の肉体を持った、ごく普通の赤ん坊だった。
「さ、お母さん」産婆は笑顔でマリアに、生まれたばかりの赤ん坊を差し出した。マリアが彼の顔を覗き込んだ時、彼がふっと、優しく笑ったのを見た。
「生まれたのか!?生まれたのか、マリア!?」
バンと扉が開き、ヨセフも入ってきた。
「生まれたよ……ほら」
「お父さん、まだ首が座ってないから、十分気を付けてね」
ヨセフは、手渡された赤ん坊を言われるままにそっと抱いた。そして彼も、赤ん坊が笑っているのを、確かに見た。
「こんにちは……」ヨセフは感動のあまりポロリと涙を流しながら、生まれたばかりの彼にそう言った。
それは暗い、暗い、冬至の夜の事であった。


その瞬間だった。
メルキオールは急に、何かに取りつかれたかのようにがばりと跳ね起きた。
「どうしたの?」怪訝そうに聞くアンティパスと、首をかしげるヘロディア。だがメルキオールは南向きの窓を見つめ、そして、「おお……」と感嘆の言葉を漏らした。
「あの星は、あの星は……」
「なに、なにがあったの?」
アンティパスは不安に思って、彼をまたベッドに戻そうとする。だが彼はそれどころではないとばかりに、裸の胴体に急いで服を纏った。
「救い主だ……救い主が、私が待ち望んでいた救い主が今、お見えになった!」
「なんだって?」
「私の生は報われたのだ!救い主が誕生したのだから!おお全世界の民よ、喜び、祝うがよい!私はもう、ここには戻らないぞ!火も、赤い月もしるさなかった救い主が、お見えになったのだから!」
彼はアンティパスに構わずに、走って宴会場に向かった。アンティパスもあわてて服を着て、彼の後を追いかける。一歩遅れてヘロディアも同様にした。彼女のドレスは着るのが難しかったので、だいぶ遅れてしまったが、彼女はそんなことは気にしなかった。
宴会場の占星術師たちはやはり、南の窓に釘付けになっていた。
「師よ!兄者よ!」
「おおメルキオール。貴様も見たか、あの星を!」
「はい、ですからここに駆け付けたのです」
「そうか、ならば話は早い」
宴会の上座に座るヘロデ王は不機嫌そうな顔をますます不快感に染めて言った。「占星術師の者共、何を話しておるのだ?」
「ヘロデ王、あなたには見えませぬか。あの燦然と輝いた星が」
カスパールは南の空に指を指した。
「あれが、なんだというのだ」
「あれこそ、王の星です」と、バルタザール。
「なに?」王と言う言葉に、ヘロデは反応する。「どういうことだ……」
「つまりですな、ヘロデ王」メルキオールが一番前に進み出て、険しい表情で怯えを隠すヘロデの内心を見透かすように、その美しい声ではっきりと告げた。
「救い主が、ユダヤの王となる方が、たった今お生まれになったのです」

「なんだと!?」ヘロデは顔を真っ先にし、金のカップをひっくり返して宴席から立ち上がる。
「ユダヤの王だと!?馬鹿な!私たちの家族に連なるもので、子が生まれたものはおらん!」
「誰もあなたの家系のものだとは言っておりませんよ、ヘロデ王」メルキオールは淡々と告げた。会場のものは皆、ぞっとする。だが占星術師たちは少しもひるむ様子はなかった。星を見通す彼らの目に、ヘロデの怒りなど、どうにも映っていなかったのだろう。ヘロデは滅茶苦茶に叫び散らした。
「ユダヤの王はこの私だ!私だけが、ユダヤの王だ!ローマ皇帝も認めていることだ!私以外、誰もユダヤの王になれるものか!なってはならん!この私が、そのようなこと、絶対に認めはせん!」
「それは結構なことですな」カスパールが厳かに言った。「しかし、あなたの思惑もローマ皇帝の思惑も、星空の示す定め、それを作った神の思惑からすれば、所詮は塵芥にもすぎぬものです」
「処刑しろ!」ヘロデ大王は宴会の場であるということも忘れて言った。「こやつらを今すぐ切り捨てろ!王の命令だ!」
「あなたに私達を処刑する権限などないはずです!ヘロデ大王、我々は失礼いたしますぞ。我々には、ゆくところがあります。救い主が現れたのですから」
「師、メルキオール、ゆきましょう。主が知らせてくださったその出来事を、我々は早く見なくては」
ヘロデ大王と、彼を急いでなだめる召使たちを尻目に、三人の占星術師たちはスタスタと出て行った。アンティパスは「お前も父上をおなだめしろ!」というアルケラオスの声を無視し、その後を一目散に追いかけた。
「待ってよ、メルキオール!」
彼は叫んだ。メルキオールは、止まってくれた。それにアンティパスはほっとする。彼は背の高いメルキオールをじっと見上げ、冷や汗をかきつつ微笑みながら言った。
「ねえ、行くのはいいよ。でも、二度と戻ってこないなんてこと、ないよね?」
彼は先ほどメルキオールが口ばしった言葉を、何より心配していた。
「また戻ってきて、僕を抱いてくれるんでしょう?僕は、あなたが出会った中で、一番美しい人なんでしょ?」
「……アンティパス」
メルキオールはそっと屈みこみ、彼の頬を、赤い唇を撫でた。
「そうとも、君は美しい。出会った時から私は、君のとりこだ。君は世界一美しいと、私は思っている」
「なら……」
アンティパスの声が輝いたのも、つかの間だった。
「だから、私は君に嘘など言わない。君ほど美しい人間に、何故汚い嘘など言えよう。私は戻らない。それは絶対に、覆らない。私はもう、救い主を見つけてしまったのだから」
その言葉を聞いて、アンティパスは打ちのめされたようにうなだれた。しかしそれでも、彼の顔に張り付いた笑みは、決して取れないままだった。
メルキオールも、確かに間違いなく彼を愛していたのだろう。彼を突き放しはせず、そこに居続けはしていた。
「いつなの」
アンティパスは震える声で、口をゆがませて笑いながら、猫目石の目と本物の目で美しいメルキオールを睨みつけ、言った。
「そいつが救い主だとしても、赤ん坊のころから人は救えないはずだ。……いつになったら、そいつは、人を救い始めるの」
メルキオールはしばらく南空の星を見ていたが、やがて口をひらいた。
「ざっと、三十年後……」
「三十年……そう」
アンティパスは、じっとメルキオールを見つめた。そして、彼に抱きついて言った。
「ありがとう……貴方が来てくれて、この目をくれて、本当にうれしかったよ。ありがとう……」
「どういたしまして」メルキオールはそっと細い指で、アンティパスの顎を持ち上げる。「私が人間のうちで最も愛した、アンティパス」
そして彼はアンティパスの真紅の唇に、最後の口づけを落とした。アンティパスの涙を去りぎわにそっと拭い、「さようなら」と言い残し、メルキオールは去っていった。
金髪の後姿を、アンティパスは笑い顔が張り付いたまま泣きつつ見送る。そしてその哀れな少年の姿を、じっとヘロディアが、その感情も何もたたえてはいないような目で見つめていた。

ベツレヘムの上空にその日輝いた星を、何人もの人が見た。町人も、農民も、世界中の人々が見た。
だがその星が何の証であったかをその時知った人は、広い世界の中で、ごく少数であった。

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feat: Mary and Joseph 第二十話

「違うの……」マリアは震えながら言う。
「違うの、違うの、信じて、ヨセフ……」
マリアは必死で弁解した。ヨセフに、自分の留守中に他の男の子供を宿したと思われることが、何より恐ろしかった。
「私、何もしてないんだよ……これ、これは……」
声の震える彼女に代わって、ヨアキムは「ヨセフくん、私から先ほど言ったとおりだ。マリアはね、神様から子供を授かった、と言っているよ」と、言い含めるように言った。それでもヨセフは、何も言わなかった。
彼は工具の入った荷物だけようやく下に下ろすと「えっと、俺は……」と口を開きかける。だが、それでも言葉に迷っているのだろう。やはり、すぐに押し黙ってしまった。
「ヨセフ、お願い……」
彼が何も言わないことが、マリアにとっては死ぬほどの苦痛だった。今、彼は何を思っているのだろう。やはり、裏切られたと思っただろうか。
「私、ヨセフしか好きになったこと、ないよ……」
「……お義父さん、すみません。俺、ちょっと外にいってきていいですか?なんというか、混乱して、その……」
ヨアキムも浮かない顔で、「ああ、まあ……」と返す。マリアはたまらなくなった。彼に拒絶されたような気分だった。
「ヨセフ、お願い!」
その時、ヨセフは振り返って、彼女の目をじっと見据えて言った。
「マリア……大丈夫だよ。俺は信じてる。……信じてなきゃ、すぐに、もっと悲しんでるよ。信じてなかったらもっとマリアに、いろいろ聞いてるよ。……マリアが俺を裏切りなんてしないって信じてるから、飲み込めないんだ。ちょっとさすがに……大きな事過ぎて」
彼はそう言って、とぼとぼと外に行ってしまった。追いかける気にはなれなかった。
がっくりうなだれるマリアを見て、ヨアキムは後悔した。小さいころから惹かれあった少女、自分の妻となる少女が、いくら神のお告げを受けたとはいえ自分の知らない間に身ごもるなど、一人の少年にはあまりにも衝撃が大きかったのだろう。彼が何も聞いていないのに驚き、慌ててしまったのは失敗だった。いくつか先例を見ているし、第一マリアの結婚相手である彼自身でもない自分達の感覚を急に押しつけるべきではなかった、と彼は思った。
それでも、彼は娘を慰めた。「マリア、大丈夫だよ」彼は言った。
「彼の言う通りさ。信じない男だったら、何も聞かずに誰の子だ!と怒って怒鳴っているさ。彼は信じているし、お前の事を好きだよ。だから、あんなに悩むんだ」
「ごめんなさい」マリアは泣いた。「私があのこと、隠してたから……」
「もう済んだことだ」ヨアキムは怒らなかった。


街を一人きり歩きながら、ヨセフはめまいがしそうな思いに駆られた。
マリアの事は信じている。彼女が他の男と浮気して挙句の果てに子供を宿したなんて、考えられるはずもない。誰かが彼女に乱暴をして妊娠させたのだろうか、という考えにしても、そうにしてもマリアはそうだとすれば絶対に、自分にそのことを包み隠さず話してくれるはずだと思っていた。
彼の心を今えぐるのは、違うものだった。小さいころ、幾度となく受けた叱責だった。
子供の頃の彼にとって、大人は、世間は怖いものだった。いつも自分たち家族を、小さな指輪を一つ持っているという理由だけで攻め立てて……父を殺し、母を廃人にしたあげく、やはり殺してしまった。
辛かった。苦しかった。今ようやく攻め立てられる謂れのない存在になって初めて、自分はよく気が狂わなかったものだと感心できるほど、つらい思い出だった。
マリアが神から子を授かったとして……その先に何が待っているだろう?めでたい祝福ばかりではない。断じてない。恐らく、昔自分が受けたようなことだと、暴力の被害者であり続けたヨセフにははっきり思えた。
今はまだ隠れられているからいいが、表ざたになってみれば、「神の奇跡によって処女が子を授かった」と言って、誰もが納得するはずはない。世の中、そんな物わかりのいい人間ばかりではない。
姦淫の苦し紛れの言い訳、その程度にしかとられまい。マリアが姦淫をしたと言われて、自分たちが皆責め苦を受け、マリアに至っては実刑を受けるのは確実なことだ。それが何より、彼の心を痛めた。
なぜ、なぜこうなったのだろう?ようやく、幸せになれたのに。なぜまた、責め苦の中に入っていかねばならないのだろう?ヨセフは、それが怖かった。神に従うが美徳、などと言う聖職者の言葉が、宗教家嫌いだった彼の頭によぎるはずもない。自分とマリアを結び付けてくれたのには感謝している。しかし、あの苦悩の中にまた入るのは、どうしても怖かった。まして、そのような苦労を今まで受けたこともないであろうマリアやヨアキム、アンナたちまでどうして道連れにできるだろう……。
今、自分には何ができるだろうか。とりあえず、このことを公にしないことには協力しなくては。マリアをさらしあげる気など毛頭ない。だが彼は……彼女と別れようか、と言う想いすら、わずかながらも湧いていた。恐ろしかった。とにかく。また責められ、また住む場所を亡くし、また人ではないような扱いを受けるのが……。そして、そうなるマリアを身近で見ることが……。
既にすべてを信じ、運命を受け入れていたヨアキム達の事を思えば恥ずかしい思いもあるにはあったが、それでもやはり、彼は恐ろしかった。じわりと涙が出てきた。マリアの事は信じている。しかし、神を信じきるにはあまりに、彼の心の傷は深かった。

どれほど歩いただろう。市場を抜け、街を抜け、郊外に出てきたようだ。
「(ここ、どこだろ……)」
当たりを見渡してみたが、さっぱり分からない。どこかに迷い込んでしまったようだ。日が暮れようとしている。暗くなったら帰り道も分からないかもしれない。
まあいいだろう。それなら野宿するまでだ。どうにせよこんな頭のままでは、ヨアキムの家に帰ることもできない。
今は麦が育てられていない、雑草だらけの畑があった。彼はその中ににょっきり生えている名前の良く分からない大樹の根元に腰かけて、ぼんやりと沈む夕日を見送ろうとした。
すると、バラ色と紫に染まった西空の方から、人がひとり歩いてくるのが見えた。

背の高い、若い、美しい女性だった。良い身なりをしていたが、なぜか伴の一人もつけておらず、そんな状態で一人旅、しかも日も沈むのにこんな人気のないところを通るとは不用心だな、と彼はぼんやり考えた。考えていると、その彼女はまっすぐ、ヨセフの方に寄ってきた。
「申し訳ないけど、道をお聞きできるかしら?」
彼女は上品な声でそう言った。「いや、悪いけど、俺も道に迷ったんです。ごめんなさい」ヨセフはぶっきらぼうに言い返す。不本意ながらも人に親切にする余裕は今の彼にはなかった。
だが、彼女はそれで話を終えるどころか、ヨセフの隣に腰かけてきた。彼が面食らうと、「もうすぐ日が暮れますから」と、彼女は言う。
「殿方と一緒にいたほうが良いわ」
「そんなもんですかね……」
ヨセフはとにかく、彼女とあまり話はしたくないと思っていた。だが、不思議なもので、隣から漂う彼女の香りに、なにかとても懐かしいものを感じた。とてもやわらかくて心安らぐ香り。香の匂いとはどこか、違うように感じた。そしてその香りに包まれていると、先ほどまでの混乱した心がすこし落ち着いてきた。
日が沈む前に、彼女は手持ちのランプに火を入れた。
「なにかあって、ここに来たの?」
彼女の玉を転がすような声が、ヨセフの耳に聞こえた。ヨセフは彼女の方は見なかったが、ただなぜか素直に「はい」と答えてしまった。
「まあ……一体何があって、こんなところまで?」
「あなたに話すことじゃないと思いますよ、お姉さん」
だが、彼女はヨセフの言葉を軽くいなす。
「通りすがりの相手だからこそ、話せることもあるものよ」
その声にも、ヨセフはどことなく、安らぎを覚えた。なんだろう。この感覚は味わったことがある。
マリアと一緒に居て、明るくなる心持ちとは違う。遠い昔、健在だった両親から感じたものに非常によく似ていたが、少し違う。もっと近く、自分はこれを、どこかで……。
彼は首を横に回し、彼女の姿を見た。目の前の彼女は百合の花の模様が描かれたベールで頭を覆い隠し、ランプと夕日の光に照らされながら優しく微笑んででいた。
「ちょっと、複雑になるんですが……」
「かまわないわよ」
ヨセフはいつの間にか彼女に言われるままに、洗いざらいを語った。自分の婚約者、マリアの身に何があったのかも、そしてそれを受けて自分が何を恐れているのかも、全て目の前の女性に語った。
話しながら、彼は泣いていた。恐ろしさがよみがえるようで。そして頭の混乱を冷やしたいかのように自然に涙が出ていた。目の前の彼女はそれを蔑みもせずに、かえって柔らかい、輝くほど純白の布で、まるで子供にするようにヨセフの涙を拭いてくれた。不思議なもので、ヨセフはそれにちっとも恥ずかしさを覚えなかった。
「そう……なるほど、良く分かったわ」
彼の涙をふき終わり、そのまま布きれをヨセフに渡す。彼はまだ止まらない涙をそれで抑えながら、言った。
「お姉さん。俺……どうすればいいんだろ。何もわからない……」
その時、彼女の手がポンとヨセフの肩の上に置かれた。
「何も恐れることはないわ。あなたが彼女を信じているなら、彼女と結婚すればいいのよ」
「そんなこと、言ったって……」
「あなたは本当に、その子の事が好きなのね。偉いわよ。……誰にでもできることと言うわけではないわ。どうしたって、自分を裏切って他の男と通じたに違いない、そんな考えを持ってしまうものよ。男心としては……」
「マリアは、そんなことしないから……」
「だから、そう思えるのが偉いのよ。そこまで信じ合っている相手と別れまで考えるなんて、もったいないじゃない」彼女は笑う。
「そんな貴方達だからこそ、あの方も、貴方達のもとにもう一度着ていいかと問いかけたの」
「え……?」
ヨセフははっきり思い出した。この感覚がだれのものか、思い出した。
昔、自分たちがまだずっと小さかった頃、井戸端であった、あの、名もない旅人!
その瞬間だった。ランプの炎が真っ白に燃え上がり、彼女の背中にまとわりついた。そしてそれは光を放つ白い翼になった。百合の花の模様にベールも舞い上がり、本物の白百合になる。そしてベールから放たれた彼女の輝く金髪が風に舞った。
圧倒されるヨセフに彼女は言い放った。
「私は天使ガブリエル。何も恐れないで、ヨセフ。マリアを貴方の妻に迎え入れなさい。彼女の胎内にいるのは、聖霊の力によって宿った子。このイスラエルの民を、罪から救い上げるお方……大丈夫よ、安心して。貴方が自分を責める人々を恐れているのは分かっているわ。つらいことがあったのね。でも、神様は人間がどうであるかなど、誰よりもご存じよ。まして自分のひとり子を送り出すのに、神様がそんな無計画なはずはない……だから安心して。貴方達は主に選ばれた二人なのだから」
そう言って、彼女は勢いよく飛び去っていった。ヨセフはそのまま気を失った。

「ヨセフ君!?そこにいるのは、ヨセフ君かい!?」
聞き覚えのある声がして、ヨセフは目を覚ました。目の前には、パンテラの顔があった。
「パンテラさん!……何で、ここに?」
「それはこちらの台詞だ。私達は演習の帰りだが……なんでこんなところで寝ているんだ」
「こんなところ?」
見渡してしてみれば、ヨセフが寝てたのは彼も知っているただのエルサレムに抜ける通りだった。麦畑の中に、いつの間にか自分は倒れていたのだと知った。
だんだんと頭が冷めてきて、ヨセフは驚いた。あの彼女と話していた時よりも、日の位置が高くなっている。時間が戻ったのだろうか、それとも丸一日寝ていたのだろうか?パンテラに慌てて日付を聞いた結果、前者だということがわかった。
「なにがあったんだい?」
「あ、えっとですね……」
その時、彼は自分の右手が何かをにぎり閉めているのを知った。見てみると、ヨセフも、パンテラも、パンテラの部下たちも驚いた。麦畑の中に一輪だけ、見事な純白の百合が咲いていた。
「こんな秋の日に、百合とは……」パンテラは驚く。だが、ヨセフは分かった。この白色は、あの夢の中の彼女が渡してくれた布の色そのものだった。
「パンテラさん、俺、大切なことを聞いたんです」ヨセフは至って真剣な顔で言った。「マリアたちも話さなくちゃ……」
それを聞き、パンテラもふっと顔をほころばせた。「送ろうか?」彼は自分の馬を指さした。

パンテラの馬の背に揺られながら、ヨセフは話した。
「パンテラさん、聞きたいんですけど」
「なんだい?」
「俺、どんなことがあっても、マリアと一緒にいたいって思うんです。世間の奴らに責められるようなことが起こっても。それって、正しい事でしょうか」
「もちろんさ」パンテラは即答した。
「非常に難しいことだ。でも断じて……間違っていることではないはずだ!ヨセフ君、何があっても、私は君とマリアちゃんの味方だよ。覚えておいてくれ」

ヨアキムの家についたとき、日はとっぷりと暮れていた。「マリア!」ヨセフはパンテラに別れを告げるなり大声でそう言いながら門をくぐり、家の中に入った。
マリアは生きた心地がしなかった。だが、彼女は彼の、悩みが消えたような顔と、彼の手に握られている百合の花を見て、はっとした。
「ヨセフ、それ……」
「これか?不思議な人がくれたんだ」
「そ、それ、ね……」彼女は震えた。「半年前、私に、私が妊娠したって告げた天使様からも、貰ったの」
「そうか……じゃあ、やっぱりあれは、本物だったんだな」
ヨセフはにかりと笑う。そこには、普段通りの明るい彼が戻っていた。
「マリア。これから何があるか、わからねえ。多分大変なことになると思うし、怪しまれるから結婚式だってあげられないと思う。……でも、俺は、マリアと一緒に行くって決めた。マリアのお腹の中の、神様の子供も守るって決めた。なるようになるさ!神様はきっと、人間がどういう目を持っているかなんて、知らないわけないからな!」
その言葉を聞き、マリアの目が潤んだ。だが、先ほどまで散々流していた涙ではなかった。
「ヨセフ!」彼女は抱きついた。ヨセフも、そっと彼女を抱き返す。
「ありがとう、ありがとう……ずっと、一緒に居ようね」
「うん、こっちも。……それとマリア、さっき、言い返せなくてごめんな。俺も、マリアだけが一番大好きだよ」
彼らはしばし、抱き合っていた。ヨアキムとアンナもそれを見て、微笑ましそうに笑っていた。
ヨセフは、マリアの膨らんだお腹に手をあてた。そこには、確かに何者かがいた。
「(……久しぶり)」
彼は心の中で、そう思った。

「なあマリア、覚えてるか?昔あった、旅人のおっさんのこと」
「うん。もちろん覚えてるよ」


大祭司の機嫌が悪い。最近の神殿で、周知の事実だった。いや、機嫌が悪いなんてものではない、情緒不安定と言ってもよかった。
それに祭司たちはうんざりしていたが、理由などとくには聞かなかった。聞いてもただ怒鳴り散らすだけなので、聞くだけ無駄と誰もが認識したのだ。
ヨアザルの心は荒れていた。まるでこの世が闇に閉ざされてしまったかのように。全ては、ヨアキムからあの言葉を聞かされた時だ。
「マリアが身ごもった」
彼の脳はそれ以来、混乱したままだ。彼は我を忘れてヨアキムに詰め寄った。それ見たことか、あの盗人などと一緒にするから……と。
ヨアキムは声を荒げて「私の話を聞いてください!これは、神のお力によってなされたことなのです!」と言ったが、彼の耳にはそんな言葉をは届かなかった。
あのヨセフが、いや、ヨセフではないかもしれない。他の男がやったのかもしれない。だが、そんなことは知ったことではない。
マリアが、子供を身ごもった。そのことが彼にとって、世界の終りにも等しい事だった。あの自分を癒してくれた穢れなき少女。彼女は一生涯乙女でなくてはならなかったのに、そうあるべきだったのに、処女を失った。母親になった。有象無象の汚れた女と同じように。彼は、そうとしか考えられなかった。彼の目の前にはただただひどく深い絶望があった。

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feat: Mary and Joseph 第十九話

マリアは戸惑ったまま、これは何事かと、ものも言えずに考え込んだ。自分は白昼夢を見ているのだろうか?目の前にいる彼女の美しさ、神々しさ、まるで現実とは思えない。だがそんな彼女を諭すように、目の前にいる女性のような存在は、穏やかに語りかけた。
「マリア、恐れることはありません。貴方は、主なる神から恵みを頂いたのよ」
「何のことでしょう……」
目を白黒させるマリアに、その目の前の存在は彼女の耳にその言葉を焼き付けるかのように、ゆっくり、しかしはっきりと告げた。
「あなたは身ごもって、男の子を産みます」
「え……」と、マリア。「それは、ヨセフが帰ってきて結婚したら、彼の子が……?」
少し嬉しそうに笑うマリアに、彼女はそっと首を横に振って言った。
「いいえ。たった今」

その言葉を聞いて、マリアが混乱したのは当然のことだった。何を言われているのかわからず、その言葉に多少の恐怖を感じて、後ろに身じろいだ。だが目の前の彼女、のように思える存在、はまるきり彼女に危害を与えようという風でもない。何よりも、春の温かい雰囲気と柔らかく美しい彼女の笑顔は、言葉の突飛さにもかかわらずマリアを安心させるようなところも確かにあったのだ。
「あ、あなた、誰ですか!」
「私は、主の天使ガブリエル」
ガブリエルと名乗った彼女はまるで深い海をそのままはめ込んだような目で、跪いたままじっとマリアを見つめた。マリアはそう見つめられると、ますます言葉から感じた恐怖を忘れていった。
「主……神様……?」
「ええ、そうですとも」
「で、でも私、私はまだ男の人とそんなことしたこと、ぜ、絶対ないし……」
そこまで言って、マリアははっと気づいて慌てて口をふさいだ。この状況には聞き覚えがあった。
ザカリアと似ている!ザカリアが、口をきけなくなったあの状況と!それに、ガブリエルという名前!まさに、ザカリアのもとに現れたらしい天使の名前だ!
もしも目の前の彼女が本物なら、自分も怒りを買うのか?言葉が話せなくなるのか?と彼女は恐れた。しかし、目の前のガブリエルは彼女がそれに気づいたらしいことに満足げだった。
「大丈夫よ、マリア。気が付いたのならば。そう。ザカリアのもとに現れたのも、この私。神様は、エリザベトを身ごもらせ、貴方の母の胎内に貴方を宿らせ、不妊の女と言われていたサラに子供を与えたわ。老女を身ごもらせることができるなら、処女を身ごもらせるのもまたたやすい事。神に不可能なことは何一つありません」
「あ、ありがとう……ございます」
びくびくしながらマリアは謝った。良かった。何の不自由もなく、言葉が話せる。ガブリエルはそれに、ふたたび柔和な表情でくすりと笑った。本当に不思議だった。彼女の笑顔を見ると、彼女の携える百合の花のにおいを嗅ぐと、その恐れも和らいだ。
いつの間にかマリアは、この状況を疑わなくなっていた。ガブリエルは彼女に告げる。
「貴方が産むその子は、偉大な人になり、いと高き方の子、と呼ばれます。神である主は、彼に父ダビデの王座を渡します。彼は……その方は、永遠にヤコブの家を治め、その支配は、終わることはありません」
もし、これが本当なら。
何か、大変なことが起こっているのだろう。自分は大変なものを抱え込んでしまったのだろう。
「なんで、ですか?」マリアは恐る恐る聞いた。「なんで、私が……?」
ガブリエルはその質問を責めなかった。ゆっくりと答えて言った。
「あなたと貴女の愛するヨセフのもとがいいと、主がおっしゃったからよ。自分の唯一の息子を、地上で託す相手として……」
「神様の、息子……?」
マリアは目を瞬かせた。しかし、もう疑いの心など、彼女の心に湧いては来なかった。自分はおそらく、大変と言う言葉では収まり切りそうにもないものを抱え込んでしまったと、はっきり理解できた。
だがしかし、彼女の口からはごく自然に、言葉が出た。それは間違いなく、彼女の脳そのものがこう言いたいと望んだ言葉だった。
「分かりました」
彼女は椅子から降り、ガブリエルよりも低く跪いた。間近で見るの天使の顔は、いっそうまぶしいほどに清らかだった。
マリアは、彼女の笑みにも負けないほどにっこり笑って言った。
「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」
ガブリエルはそれを聞いて、そっと笑った。束の間だった。
再びあの風が巻き起こり、マリアが目を開けていられないほどの閃光が起こった。何かが勢いよく羽ばたきながら去っていったのを、マリアは聞いていた。


マリアはしばらくしてから、目を覚ました。気絶していたようだ。慌てて起きると、糸も書物も全くそのまま、机の家にちょこんとおかれていた。あれほどの突風が吹いたのなら風にあおられていてもおかしくなさそうなのに。
マリアは自分のお腹を撫でた。特に違和感を感じるでもない。しかし意識してみると何かがいるようにも思えてしまい、何とも言えない。
あれは、夢だったのか?自分の視た光景は……。と、その時だ。マリアは自分の足もとに転がっているものを見た。
白い百合の花だった。まだ春で、咲くはずのない、満開の百合。
夢じゃない。
彼女は息を飲み込み、意を決してその百合を握りしめ、起こったことを話しに父と母のもとに向かった。

ヨアキムもアンナも、その言葉を聞いてまずは驚いた。だがそれでも、彼らは決して疑わなかった。それどころか、母アンナは目に涙を浮かべて言った。
「マリア……貴女を身ごもった時、私のもとに来られた天使様も、ちょうどこんな……こんな、真っ白な百合の花を私に託されたわ。そして、ガブリエルの名前を名乗られたわ」
「じゃあ、お母さん」
「ええ……貴女ぬ来たのはきっと、本当の神のお告げよ、マリア」
彼女はそう言って、娘をそっと抱きしめた。
「ザカリアとエリザベトの所にも行って、このことをお話しなさい。大丈夫。あの人たちも間違いなく、信じてくれるわよ」

ザカリアとエリザベトの家は、大分山あいの郊外にある。マリアは大急ぎで仕上げた紫の糸を神殿に奉納し、「本当にお世話になりました」と改めて祭司たちに別れの言葉を告げた後に、その足で彼らのもとを訪ねた。そしてその旨を離した時、母アンナの言葉通り、彼らもそれを受け入れてくれた。
エリザベトのお腹は、すっかり大きくなっていた。こう重いものを毎日抱えて歩くと足腰が強くなって、前より健康になったわ、と彼女は言った。確かに、年老いているはずの彼女の顔色は良くなっているように思えた。
マリアが彼女のお腹に手を触れようとすると、手を触れるまでもなく、体内の子が勢いよく動いた。エリザベトは「元気な子なのよ、よくよく、お腹を蹴るんだから……」と言う。そして彼女も、マリアのまだ膨らんではいないお腹を撫で、言った。
「いいえ、でもきっと、貴女が来て……この子も喜んだのかもしれないわね。マリア……貴女は本当に、祝福された子よ。神様が自分の子を貴女の胎に預けたなんて……なんて、素晴らしいのかしら。マリア、これから大変なこともあるでしょうが、胸を張ってお行きなさい。貴女やヨセフ君が間違ったことをしていないなど、私たちはよく知っているわよ」
マリアはその言葉を聞き、力強くうなずいた。

その後、マリアとエリザベトは話をした。ちょうど、これからますます大変な時期になるのにザカリアの家に仕える侍女が一人家の都合で辞めてしまったらしいと聞いたので、マリアは手伝いも兼ねてエリザベトの家に滞在することにした。それにいろいろと、不安を分かち合う相手も欲しかったのだ。あれは神の教えだとはっきり信じる気持ちはあっても、気を抜くとどうしても不安に襲われてしまう。エリザベトもザカリアも勿論喜んでそれを了承したし、手紙を伝えたらヨアキムたちも二つ返事で承知してくれた。

マリアが身ごもっていたのは本当のようだった。次の月から、彼女の月経は確かにぴったりと止んだ。普段なら月経が来る日を二日、三日とすぎ、十日も過ぎた時、マリアも完全に覚悟を決めた。
神に特別に子供を授けられる、と言う状況が同じとはいえ、いかんせん今度ばかりは少し事情が違う。エリザベトやアンナは最初から年寄りだったのだからまだ神の力と言われて受け入れられるものはあったろう。だが、マリアはまだ若い。彼女がもし不妊症でないのならば、神の力などなくても妊娠しようと思えばできる身だ。
だから、表ざたにするわけにもいくまい。残念ながら誰もが誰も、そうか神の力なのかと信じてくれるほど甘い世の中ではないことは、皆よく知っていた。ヨセフを家がないからと迎え入れてしまったことから、それ見たことか、やはり若い二人が破廉恥なことを、と中傷される危険は大いにある。したがって、このことはごく身内の事だけにして、後は隠しておこうという運びになったのだ。神の言葉を隠すのは本意とは言えないが、そのような中傷に耐えきる自信もなかった。お腹の子供にも、決して良い影響はないだろう。
マリアもそれを納得した。本当なら既に母になったり妊娠中の友人たちから聞きたいことは多くあったが、それはかなわないとあって大人しく諦めた。妊娠中の友人としてはエリザベト、妊婦の先輩としてはザカリアの家に訪ねてくる母を、彼女は頼った。

「最近、食欲がないんです。とくに脂っぽいものが全然だめ……吐いちゃいそうなくらいで」
「分かるわねぇ、私も年のくせに肉が好きなんてよく言われたけど、あなたくらいの時期には、全く食べれなくなったわ。周りは年相応になったんじゃないかなんて笑ったけどさ……」
「あら、私はそう言うの無かったわね。むしろいくらでも食べられたわよ。あ、だからマリアはちょっと丸めになっちゃったのかしら……」
「お母さん!」
「冗談よ。でもあなたよく食べる子だったのに、変わったわね」
「香草を入れて臭みと脂を消すと、大丈夫だったの。今夜は、それを作りましょうか。赤ちゃんの分も栄養を取らないといけないしね」
「はい、教えてください、エリザベトさん!」
このような会話を繰り返して、マリアは改めて、この状況をごく普通に受け止めてくれる、自分を完全に信じてくれる家族や親戚に心の底から感謝した。妊娠と言うのが思った以上に楽ではないということも痛感しながら。神の子とは言えど、こればかりは自分の体の方の問題だから変わりはないらしい。
だが、マリアは自分ではもうすでに自分の体にあったこと受け止めつつ、一つだけ、踏み出せないことがあった。嘘をつかない方だったが、その時ばかりは父にも母にも、ザカリアとエリザベトにも嘘をついた。
ヨセフに、離れて働いているヨセフにどうしてもその旨を告げられなかった。
ヨセフが素直なことは知っている。疑い深くないことだって知っている。でも、もし万一、彼を傷つけてしまったらどうしよう。お腹の中の子が自分の子でないということはヨセフが一番知っている。もし、ようやく家族を、家を、幸せをまた得られた彼を、自分が身ごもったという一言で、絶望の淵にたたき落としてしまったらどうしよう。そして、もし、彼に他の男に心変わりしたのだと思われたら、どうしよう。そう思って彼女は、手紙で何も言えなかった。両親たちにはちゃんと伝えた、ヨセフもちゃんと信じてくれたと嘘をつきながら、手紙には全く当たり障りのない事しか書かなかった。

春が過ぎ、夏に変わっていった。百合の季節が近づいていた。エリザベトのお腹はますます膨らみ、もういつ生まれてもおかしくはなくなった。マリアはそんな彼女をかいがいしく世話しつつ、自分の体にも気をつかった。
大きなおなかを抱えて、エリザベトは言った。
「ねえマリア……神様が何を考えておられても、私、こうなったことを、心の底からありがたく思うわ」
それは、とても立派な言葉であるように、マリアには思えた。ユダヤの神の信者として、女性として、母として、そして、神に創られた人間として。

そして太陽のさんさんと輝く夏至の日、彼女は産気づいた。
産婆たちが呼ばれ、家じゅうがドタバタした。マリアも急いで手伝った。赤ん坊が生まれる所を見るなど初めてだった。
エリザベトの体は苦悶に歪んだ。年を取っての出産はただでさえ大変と聞く。エリザベトのような年齢で、ましてや初産なのだから、その痛みも相当なものだろう。彼女がそれに耐えきれるか、赤ん坊は無事か、マリアのみならずそのお産に携わる人は皆、ハラハラしていた。
「頑張って、頑張って、エリザベトさん!」
マリアはそう必死で励ました。エリザベトは顔中汗びっしょりになりながら、懸命に笑って言っていた。不安な周囲を、逆に励ますように。
「大丈夫、大丈夫、心配しないで……無事に生まれるわ。間違いないわ」
永遠のように感じられたエリザベトの初産は、やがて、赤ん坊の、その場に居る人々全員の鼓膜を破りそうなほどの景気のいい産声とともに終わりを告げた。エリザベトは苦しいお産に耐えきったのだ!
産室の外で待機していたザカリアも、それを聞き、さらに妻が生きているのを見てものが言えないまま大喜びした。ヨアキムとアンナも、近所の人々も駆け付けてきた。
「そうですか、これが、主に授かったお子さん……いやはや、本当に元気のいい子だ!」
誰もかれも、そう言って神に慈しまれたエリザベトとその息子、そして幸福なヨアキムを喜んだ。

八日目、彼に割礼が施された。
「名前を付けなくてはなりませんな。やはり、父にあやかって、ザカリアとなりますか……」
ザカリアの親戚がそう言う。だが、エリザベトは子供を抱きながら首をふった。
「この子の名前はヨハネですよ」
「ヨハネ?でも、貴方がたにゆかりのある人に、その名前の人はいないでしょうに」
「神様が主人にそう言われたそうなのです。ねえあなた、この子の名前は?」
エリザベトはそう言って、ザカリアに板を差し出す。ザカリアはさらさらと、それに字を書いた。
『この子の名前はヨハネ』
その時だ。
「あ……」と、その場に声が発せられた。それは非常に久しぶりに聞く、ザカリアの声だった。
「話せる!話せるぞ!」
満場の人々を驚かせながら、ザカリア自身がそれにいちばん驚き、かつ喜んだ。主の罰が、ようやく解かれたのだ。主の命令に従い、主を信じきることができたから!
彼は喜び勇んで、主を賛美した。そして我が子を抱き、言った。
「立派な子に育てよ、ヨハネ。主に先だって行き、その道を整え、救いの道を知らせるものとなれ。お前には神の霊があるのだから」
マリアはその光景に、ただひたすら圧倒されていた。のみならず彼女は、心から感動していた。

新しい使用人も見つかったことだし、マリアもこれからお腹もふくらむ時期だから、と言うことで彼女はようやく家に帰ることになった。白百合の咲き乱れる夏の道を、彼女は意気揚々と帰った。生まれて初めて見た、赤ん坊が生まれるということに想いを馳せながら。
彼女はそっと、白百合の道の中、まだあまり膨らんでいない自分のお腹を撫でた。
「あなたも、無事に生まれてきてね……あんまり痛いのは、嫌だけど」
彼女は胎内の子に語りかけ、無性に幸福に満たされた。

家に帰って一月も過ぎれば、彼女のお腹は少しずつ膨らんでいった。もう誰の目にも、妊娠は明らかだった。
だが日を経るにつれ、マリアの頭の中には唯一の不安事項が浮かんでいた。もうすぐ、ヨセフが帰ってくる。自分がこのことに関して何も言っていないヨセフが……。
早く、早く打ち明けなくては、と思っても、ペンはどうしても、ヨセフに自分の妊娠を告げる内容を綴ってはくれなかった。
何も言わずに帰って彼女が妊娠していた方が、彼は傷つく。そうは思っても、どうしても怖かった。ヨセフを失望させたくない。彼は信じてくれるはずだ。でも、万が一と言うことも……。
そう考えに考え、さらに二か月が経過したある日の事だった。
マリアはすっかり朝に弱くなっていて、その日も遅く起きた。玄関の方から話し声が聞こえる。何事だろう?
玄関先から聞こえる声。とても懐かしい声のようなそれは、大いに戸惑っていた。会話がスムーズにいっていないようだった。
と、彼女は始めるように思い出した。もう、ヨセフが出かけてから六か月たっている!
まさか、そんな、と彼女はそろりと応接間の方に出た。だが、そこにいたヨセフとばっちり目が合ってしまった。のみならず彼は、立派に膨らんだ彼女のお腹までしっかり目撃してしまった。
「マリア」ヨアキムの声。「ヨセフ君に、言ったんじゃなかったかね……?」
急いで帰ってきたのだろう、泥まみれになったヨセフは目を見開いて、マリアを見つめながら、ただ黙っていた。責めることもせず、ヨアキム達のように即座に笑顔で受け入れることもせず、ただ頭を混乱させて、そこにいた。

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feat: Mary and Joseph 第十八話

ヨセフには、まだ帰る家はなかった。彼はもう大工として独立していたが、財産はほとんど持たず、野宿同然の事をして食べている身だと、素直にマリアに明かした。マリアはそれを聞いたとき、「じゃあ、私の家に来ればいいじゃない」と言った。マリアも、もう神殿を去ることになる。今日はヨセフと一緒に、両親の待つ家に帰る気でいた。
「いいのか?」ヨセフは多少慌てて言った。
彼らがしたのは、正式には婚約だ。これから様々な婚約の儀式をし、婚約期間を満了して、そしていよいよ結婚になる。まだ、二人は体を合わせる時期どころか、正確に言えば二人きりで会っていい期間ですらない。何をするにも、この段階ではまだ、付添い人が必要だった。
しかし、マリアは言った。「でも、帰るところ、ないんでしょう?」
「ああ、まあ……」
「なら、来なよ。お父さんもお母さんも、きっと歓迎してくれると思う」
彼女のその笑顔を見ると、ヨセフも安心できた。「じゃあ、もし大丈夫なら」彼も笑って、二人はヨアキムの家に向かって歩みを進めた。
二人で歩く間、彼らはいろいろな話をした。お互いの身にこの数年間何があったか、語っても語っても語りつくせなかった。

ヨセフは大工として、大分腕を上げたらしい。
「もう、俺に文句を言うような奴も誰もいねえよ」彼は得意げに笑った。それがマリアにとっては本当にうれしかった。あの日の、周りに蹂躙され続けても必死で生きる少年の姿が今はもうないことが。そして、ヨセフが好きだと言っていた大工の仕事を諦めずにいられたことが。
「大工になれて幸せ?ヨセフ」
「ああ、勿論」彼は言う。
「私も、貴方に会えたのが幸せだけどね!」
「あっ、ちょっと……それは俺の台詞だぞ!」
彼らがそうふざけ合って帰った時、ヨアキムはマリアの思い通り、笑って花婿を歓迎してくれた。そして家に帰ってきたマリアの事も、心の底から暖かく迎え入れた。
「彼、家がないんだって」マリアは言う。「ねえ、うちにあいてる部屋無い?」
「もちろん、有るよ」ヨアキムは笑って、ヨセフの方に目を向けた。「ヨセフくん、だったかな?マリアから、話は聞いているよ」
「あ、どうも……」初めて会う立派な身なりの老人を前にして、ヨセフは少しだけ戸惑っていた。しかしそれが少しだけで済んだのは、ヨアキムとアンナの笑みが、心から自分を歓迎しているものだと思えるようなものだったからだ。
マリアは笑い顔が素敵な少女だ。それは両親譲りだったのか、と、ヨセフは初めて知った。
「立派だねえ……。こんな立派な子が、私のマリアの夫か」
ヨアキムはすっかり年老いて、背も縮んでいた。彼は自分より高いヨセフの頭に手を添えようと、手を伸ばす。そして、彼の頭をそっと撫でた。自分の娘にするように。
「はじめまして。ヨセフくん。マリアの父、ヨアキムだ。よろしく。……これから、君と私たちは、家族だよ」
アンナも「母のアンナよ。よろしくね」と彼に微笑んだ。その時、ヨセフの目からポロリと涙がこぼれた。
「ナザレのヨセフ……です」彼は涙を隠そうともせず、言った。
「よろしく。お義父さん……お義母さん」
その涙のわけがなんであるのか、マリアは詮索などしなかった。彼女の口からヨセフの事を聞いていたヨアキムとアンナも下手に首は突っ込まず、ただ柔らかく笑って、家族となったその少年を受け入れていた。
ヨセフが家族を失って、何年たつのだろう。今こうして改めて、家族を得ることができた。そのことに涙を流さないような男では、ヨセフは断じてなかった。

ヨセフにはヨアキムの邸宅の空き部屋が与えられた。婚約の儀式が行われた日、ヨアザルはそれを聞き多いに驚いた。
「なんと!正気ですか、ヨアキムさん!若い二人を一つ屋根の下に入れるなど!何が起こるか分かったものでは」
「だって、彼には家がないんですよ。それに、常に付き添いをおいておけると考えれば、利にかなっていなくもないでしょう」
なんとしても異例の事だ。この婚約の儀式だってそうだ。普通は商人として花嫁・花婿両方の友人が呼ばれる。だがヨセフはまるっきり天涯孤独とあって、そのようなものに呼べる人間はいないと言ってきたので、無い袖は触れず、マリア側の人間しか呼ばれていなかった。
ヨアキムは厳格に律法を守る人であったではないか、それがなぜこのようなことを、とヨアザルは年老いた彼に詰め寄った。
「絶対に、ありえませんぞ!」
「そうはいっても……私の大切な花婿を、野に放りだしておけと言うのですか」
「宿でも取らせれば……」
「彼にはそこまで金がないのに?一応先日、それについても話し合いましたが、私から金を借りるのは悪いと彼は言ってくれましたよ。それに力持ちですし良く働いてくれますから、本当に助かっていますが……」
「あなたの財布の心配ではなく、下心あってのことだと何故気づかないのです!」ヨアザルは声を荒げて詰め寄る。ヨセフが後ろから自分を睨んでいることになどヨアザルは気が付かない。
だが、ヨアザルは面喰うことになった。普段は愛想のいいヨアキムの顔が、少しだけ、険しいものになったからだ。
「ヨアザルどの!あんまりといえばあんまりだ。あなたの決めた方法で迎え入れた、我々の花婿に!それも、このようなめでたい祝いの席で」
「いや、しかし……」
「私とて別段、積極的に革新をしたいわけではないのですよ。可愛い娘と婿の事を考えたうえでなるようになったら、結果として通常の枠には収まらなかった。それだけの話なのです。あまりお責め下さいますな。あなたが育てたマリアでもあるのですよ。なぜ、祝福して下さらんのですか」
「律法と伝統は、大事ですからな……」
「しかし、この二人の結婚が、全く伝統にのっとって行われたものでしたか!?」」
ヨアキムがあんまりにヨセフをかばうので、ヨアザルもいささか気まずくなった。ヨアキムは頭を抱えると、「いや……申し訳ありません、大祭司殿。取り乱してしまいました」と言う。
「少々、こちらへ。お話になりたいことが……」
ヨアキムはそう言って、二人だけでいられる部屋にヨアザルを案内した。何を言うつもりなのか、と思ったヨアザルに、ヨアキムは厳かに告げる。
「はっきり申します……ヨアキム様。私はユダヤの神を信ずるものとしてあなたを尊敬しておりますし、私たちの娘がああも立派に育つように面倒を見てくれたことにも、掛け値のない感謝をしております。ただ、一つだけ……貴方を信頼できないことがあるのです」
「なんですと……?」
その言葉を聞いて、すぐにはヨアザルの心に屈辱や怒りはわいてこなかった。それはあとあとになってじわじわと込み上げてくるものだったからだ。彼はただ無機質に言葉を言い返した。
「はっきり申しますが……私は、あのヨセフという子があなたの言うような盗人だとは、どうしても思えないのです」
「盗人はそうして、気のいい顔で善良な人をだますものです!」ヨアザルは焦って怒鳴った。だが、ヨアキムも負けなかった。
「あなたは立派です。しかし、私とてだてに長生きはしておりませぬ!この目は節穴ではない!」
「私が見たのは、確かにダビデ王家の指輪だった!あんな奴が持っているはずはないものだった!」ヨアザルは食い下がる。しかし、ヨアキムはそれに、ゆっくりと返した。
「私はここ数日考えていたのです。単純な話です。では、彼はダビデの子孫なのでしょう」
「な……」ヨアザルは目を白黒させて言った。
「ダビデ王家が滅んで何百年もたつ。ダビデの家に連ならぬ王朝もたちました。ダビデの直系の子孫たちが、まだその身分にふさわしい育ちをしているという保証など、どこにもないではありませんか」
「そんな、そんなはずは……」
「ヨアザル様」ヨアキムは彼の肩を優しくたたいて言った。「あなたは、大祭司の職、マリアの保護者としての役割を果たさねばと、肩ひじを張りすぎているところがおありです。どうぞ、もっと、肩を柔らかくしてください。長生きする秘訣とは、そうあることですよ」

めでたい婚約の儀式の場をヨアザルが早足で去っていってしまったことに、マリアは違和感を覚えた。なぜ彼はあんなに不機嫌なのだろう。いくら嫌いだったヨセフと言っても、彼の言ったとおり、神が自分に示してくれた相手なのに。
「神が決めてくれた相手……それにしても、何度口に出しても素敵な響き!」
彼女が勝手に照れていると、まだ口のきけないザカリアも一緒になってうんうんと喜んでくれた。

宴会場の騒ぎの中、マリアの親戚たちと意気投合して楽しく酒を飲んでいるヨセフのもとに、ヨアキムは近寄った。そして、後ろから優しく彼を抱いた。赤ん坊のマリアを抱いたときの事を思い出しながら。
「な、なんだよ……あいや、なんですか、お義父さん?」
彼がマリアから聞かされたのは、彼が心無い人たちに理不尽に迫害されて生きてきたらしいということ。ヨアザルから聞かされたのは、彼がダビデ王家の直系の子孫が持っているはずの指輪を手にしていたということ。その二つと、ヨアザルの態度を見て、彼は自分の婿がなぜそのような思いをしてきたか、彼には、わかった。彼の眼は確かに、節穴ではなかった。
「いや……つくづく、立派な婿だと思ってね」
ヨアザルは優しく笑った。それを受けて照れるヨセフの表情を見て、自分はこの笑顔も守らねばと、はっきり思った。離れたところで、ツェルヤやアダヤ達と一緒に女同士話し合っているマリアの笑顔、あの笑顔とともに、と。

婚約の式場にはまた、特例的な客も来た。「やあ、お二人さん!」と、ひょこりとパンテラが顔を出したのだ。
「パンテラさん!久しぶり!」
「本当に久しぶりだ。ヨセフ君。……大きくなったなあ!」
「パンテラさんは変わってねえなあ……昔と全然同じように綺麗だ」
そう感心して言うパンテラは祝儀だと言って金貨や高価な着物を彼らに与えた。
「ねえ、パンテラさん……あの、結局パンテラさんの言うとおりになったね」
「そうだねマリアちゃん……いや、めでたい!やっぱり、君たちはよくお似合いだよ。幸せな夫婦になってくれたまえよ、どうか……」
「結婚式にも来てくださいね!」
「もちろん!ローマに送還されていたって、駆け付けるとも」
異国人が加わるなど、やはり特異なことではあったが、もうそんなことに一々口をはさむ空気でもなかった。パンテラの人柄の良さも幸いしたのだろう。
パンテラを加えて、積もる話はさらに増えた。ヨアザルの一件はあったが、婚約の儀式とその宴会は、実に愉快なものとして幕を閉じた。


婚約の儀式も終わり、夕方になった時の事だった。後片付けをしている彼らの耳に、ふと、馬のひづめの音が聞こえた。何事かと思ってヨアキムが外に出ると彼は仰天し、あわてて転ぶようにその場にひれ伏し、深々と頭を下げた。
馬の上から、ヘロデ・アルケラオス王子が、彼に問いかけた。
「お前が家の主人か?お前の娘の婿になったという、ナザレのヨセフを探している。知らないか」
「は」彼は正直に言った。「今、私の家に……」
「家に?……もうか?まあいい。そいつを至急、呼べ。ヘロデ大王からのお達しだ」


アルケラオス王子が来たとあって、さすがにヨセフも何事かと非常に驚いた。「王宮に責められることは一切していませんよ?」彼は使用人に呼ばれてどたばたと門に出るなり、お辞儀も忘れて焦ってそう言った。
「早合点するな。腕のいい流浪の大工の噂を聞いて、巡り巡ってここに来たまでだ」アルケラオスは相変わらず馬上に座ったまま、告げる。
「ナザレのヨセフ。我らが王、ヘロデ大王は、かつてお造りになった計画都市ヘロディウムに新しい建築物を建てることを計画している。おそらく、父上の建築の中で……もっとも、父上にとって大切なもの。腕のいい職人を、父は探しておられる。お前にも白羽の矢が立った。今すぐ、我々とともに来るのだ」

その言葉を聞いて、ヨセフはしばらく固まっていた。
「新しい建築事業?」
「二度も言わせるな。そうだ」
マリアもあわてて母と一緒に門に出てきて、そのことを聞いた。彼女はその言葉を聞いた瞬間、まず最初にそんなことは嫌だ!と思った。せっかく会えたのに、また離れ離れになってしまうなんて……。
「王子殿下。実は彼と私の娘は……」
「婚約者だろう、知っておるわ!婚約期間中離れ離れになることに何の不思議がある!それとも何か、王室に逆らうつもりか?」
ヨアキムが言いたかったのも、実は彼らには複雑な事情があって離れ離れだったのが、と言う言葉だった。だが、アルケラオスの表情は、どこか恐怖に固まっているように見えた。
「ヘロデ大王に逆らうつもりか?」
その言葉はヘロデの威厳を笠に着る王子の言葉でも、ヘロデの声をただ代弁する者の言葉でも、確かになかった。アルケラオスの額には、薄く汗が浮かんでいた。
ヨアキムが言いよどんでいると、ヨセフが割り込んできた。
「あの、建築事業って、ヘロデ大王のか?」
「そうだ!何度言わせたら気が済む!」
「ヨセフ君、話せばわかって……」
ヨアキムが口を挟もうとした時だった。彼は、婿の表情が思っていたものとは全く違うことを知った。彼の顔はむしろ、輝いていた。
マリアもそれを見た。彼は悲しんでくれないの!?と思ったのもつかの間、彼がそんな顔をするのも当然と言えば当然だとも思った。
暴君と名高いヘロデだが、同時に、イスラエル史上ソロモンとも並ぶかと言うほどの偉大な建築家でもある。そんな彼の新しい事業に携われるなら、確かに職人としては誉れに違いない……。
「ヨセフ、いってきなよ!」マリアは、興奮気味の彼がアルケラオスに言う前に口を開いた。「凄いじゃない、そんなに名前が売れてたんだ、本当に凄いよ!」
「い、いいのか?」ヨセフもあせって言う。マリアは満面の笑みで言った。
「もちろん!ヨセフが認められているのが、悲しいわけないじゃない!」
ヨセフもをそれを受けて、勢いよく頭を下げながら言う。「もちろん、お受けします!アルケラオス王子様!」
その時、王子の顔がどこかほっとしたことには誰も気が付かなかった。「物わかりのいい若者たちだな。感心なことだ」と、ごく少しだけ声を柔らかくして彼は言う。
「ひとまず、半年勤めろ。有事の時にも、お前の働き次第で口利きをしてやらんこともない……」
「本当ですか!ありがとうございます、王子様!」
「良い。早く支度をしてまいれ!」
その言葉とともにヨセフは跳ね返るように少ない荷物をまとめに、自分の部屋につっこんでいった。マリアは不思議と、さびしくはなかった。むしろ、彼と嬉しさを共有できているような感覚だった。
早々と荷物をまとめ終ったヨセフは、アルケラオス王子の馬の後ろに乗せられた。
「じゃあな、マリア。しばらく行ってくるよ!」
「行ってらっしゃい、元気でね!」
若い婚約者同志はそうやって、意気揚々と別れた。夕日が沈む前に彼らは動きたかったらしく、アルケラオス王子は彼らの言葉が終わった直後に「それでは、出発する!」と部下たちに号令をかけ、馬に鞭を入れた。去っていくヨセフは、マリアとヨアキム、アンナに手を振り続けていた。


「ところで、王子殿下」
日の暮れかかる道を行きながら、ヨセフは話しかけた。
「建築って、何を建てるんです」
「貴様は言われたものだけ建てていればよい」
「お言葉ですけどね、作る者には知る権利があるでしょうよ」
噂通り、少し礼儀はない男らしい。アルケラオス王子は閉口して、小さく言った。
「墓さ」
「え?」
「墓だよ」
彼はそう言ったきり、口をつぐんでしまった。ヨセフも何とはなしに、それ以上聞けなかった。


それは、暖かい春分の日だった。非常に気持ちのいい日で、マリアはヘロディウムはどれほど遠いんだろう、ヨセフはそろそろついたかな、と考えを巡らせながら、神殿の垂れ幕用の紫の糸をつむいでいた。そればかりは神殿を出ても、仕上げて持っていかなくてはならない。それでもコツコツやったおかげで、大量に必要だったそれもそろそろ仕上がりだ。
紡ぎ続けて指が疲れ、彼女はいったん中断した。なにか暇をつぶせるものはないか、と思った時、彼女の眼には一冊の書物が目に入った。神殿を出るとき、記念に、とアンナ先生からもらった書物だった。イザヤ書だ。
神殿を出たのはつい数日前なのに、ヨセフと、家族と一緒にいる時間が楽しくて、もうすでにこの書を読むことにも懐かしさを覚えてしまう。そう彼女がおもいながら書をめくった。そして、まるで彼女に目には導かれるかのように、有る一節が見えた。
『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その子はインマヌエルと呼ばれる』

その時だ。
風が勢いよく、窓から吹き付けてきた。あまりに強いその風に、マリアはおののいた。だが、強いだけではなく、それは確かに、暖かい春風でもあった。
瞬時に、強い光が眼前に降り注いだ。目を開けていられず、マリアは目をふさぐ。春風はやがて、おさまったかのように思えた。

「おめでとう、恵まれた方」
知らない声が聞こえた。
恐ろしい声であるようにも、優しい声であるようにも聞こえた。透き通るほど、美しい声音だった。まるで彼女の耳ではなく、心に直接響くような声音だった。音楽を聴いているような気分にもなった。
マリアは恐る恐る目を開けた。彼女の前にはいつの間にか、白百合を携えた、この世のものとも思えない清らかな美女が跪いていた。
まぶしく輝く金髪、光輝く滑らかなドレス。そして、彼女の背中には、眩しく、マリアが見たこともないほど純粋な白色をした大きな翼が生えていた。
目の前の美しい、不思議な存在に息をのむマリアに、目の前の彼女は厳かに告げた。
「主が、貴女とともにおられます」

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feat: Mary and Joseph 第十七話


お前もそろそろ結婚する頃だな、話をまとめておいてやろう、とヨアザルに言われた時、マリアは何とも複雑な気持ちになった。なぜかそれを言うヨアザルの声がひどく震えていたことなど、マリアにとっては気にすることでもなかった。
ようやくか、とほっとする気持ちが一つ。同年代の友達がたどる楽しい道を自分もたどれることに対しての期待が一つ。なぜ彼はどこの誰と言うことは告げないのだろう、普通は告げそうなものだが、という疑問が一つ。そして、小さく、ごく小さくだが確かに存在している気持ちがあった。
「(その人のこと、私、ヨセフより好きになれるかな……)」
結婚。その言葉にあこがれを、確かにもっていた。だがその憧れとともに、昔、幼いころに自分が文字を教えたあの少年の事を、マリアはいつでも思い出した。
本当に、今になってはっきりとわかる。ツェルヤはあの日自分が分かっていなかった感情を、分かっていたのだ。
「(私、ヨセフの事、誰よりも大好きだったんだ)」
もう彼はいなくなった、神殿に帰ってこないとパンテラは言った。
結婚は憧れではあったし、自分の夫と呼べる人と会うのは本当に楽しみだ。時に怖くても自分を大切にしてくれるヨアザルの事だ、めったな話は持ってこないはずだ。そこは安心している。
だが、その彼を、果たして自分は愛せるだろうか。もし出来なかったら、とんだ失礼になってしまうだろう。そこが彼女の気がかりだった。
「ヨセフはどうしてるかなあ……そろそろ、奥さんできた?」
ぼんやりとイスラエルの空を眺めながら、彼女は独り言をつぶやいた。もうすぐ春になる、さわやかな日だった。


「ここにいる皆さまはご存じとは思うが、私が保護している、わが親友ザカリアの親戚でもあるマリアは普通の産まれ方をした少女ではないのだ。事に彼の両親、信心深いヨアキムは、彼女がそう言う少女だということを承知の上で、私に彼女を預けたのだ。私はその思いに報いなくてはならぬ」
ヨアザルは高位の祭司たちを集めて物々しくそう言った。とはいえ、彼らはずいぶん白けた表情をしている。何故、自分たちにとっては同じ神殿にいるという関係以外まるきり関係のない少女一人の結婚にまつわる話ごときのために、こんな大した会議を開かなくてはならないのだ、といった具合に。
大祭司の特権を使った自己満足もいいところだ、とその場に座るアンナスは内心で毒づいていた。
「私は神にお伺いを立て、彼女が結婚するか否かを決めようと思う!異論はあるかね」
無いに決まっている。心底どうでもいいのだから、有るか無いかと言われればそりゃ無い。
「で、何をするおつもりですか。大祭司様」アンナスはやる気なくつぶやいた。ヨアザルの咎めるような視線など彼は無視する。「くじでも引きますか」
「くじ?……馬鹿にするな、そのようなもので決まっていい話でもない。……私が神にお伺いを立て、彼女をヨアキムとアンナのもとに授けた主より聞いた方法があるのだ。適当な身分の若者を見繕って神殿に集めさせ、私はその儀式を行うことにした。君たちも、独身の知り合いがいたら紹介してくれ」
「主の御決定に従います」祭司たちはやる気なく口をそろえてそう言った。
神に伺いを立てただって?眉唾物だ、とアンナスはつくづく思っていた。神を見たことは自分にもない。ないが……あの時、ザカリアの震える字を通じての言葉からも確かにわずかながら感じた、圧倒的な威圧感のようなものが、つらつらと語られる彼の説明からは一切感じられなかったのだ。

マリアが結婚すると聞いたとき、パンテラは微笑んで彼女に「おめでとう」と言った。
「ありがとうございます。でも……」
だがマリアは、パンテラの表情が純粋に祝福だけではないのを目ざとく見つけた。そのことを指摘すると、パンテラは開き直ったか、もの憂げな表情をもう少し露わに「そうだね。正直な話……そうただめでたく思っているわけでもない」
「どうして……」
「いや、その……」彼は言い淀んでいたが、やがて再度口を開いた。「あれから四年たつが……やはり、君の側にはヨセフ君がいるのがよく似合ったから、かな……」
それを聞いて、マリアも黙ってしまう。「ヨセフは……」彼女も、悔しそうに言った。
「もう、神殿には戻ってこないから……」
「そうだね」彼は言う。
「パンテラさんは、誰かを好きになったことってあります?」
「あるよ」マリアの目をまっすぐ見て、彼は即答した。「でも、何の参考にもならないとは思うがね。私とその人は……永遠に結ばれない」
「そうなんですか?」マリアは言ってはならないことを言ってしまったかとヒヤリとしたが、パンテラは気にしなくていい、と言った。
「パンテラさんは、結婚とかは……」
「私は一生、結婚などできないよ」彼は短くそう言い切った。
「分からないんだ。結婚なんてそんなことしても、幸せかどうか……」
いつも明るい彼には似つかわしくないほどしずんだ表情の彼は「……いや、すまなかったね」と、気持ちを取り直す。
「幸せになれるなら、それに越したことはない」
「なりますよ、絶対」マリアは笑った。


ヨアザルが神に伺いを立てた、と言う内容は以下のようなものだった。すなわち、妥当だろうと選んだ数人の男性にそれぞれ杖を持ってこさせ、それを集めて、何かしるしが起きれば、主は彼女の夫を示されたということだろう。もしも記されないのなら、時はまだ、と言うことだ。
彼女は主によって特別に命を与えられた存在なのだ。人生の決定権も、親以上に、後見人以上に、神が一任している。そうではないのか。と言うのが、彼の言う一連の事だった。
その話を初めて聞かされた時、正直な話マリアは一回は落胆した。それじゃあ、結婚できるとは限らないじゃないか!と。
だが、彼女がそう浮かない顔で緋色の糸をつむいでいると、彼女の隣で絹糸を紡ぐ年下の少女、アダヤがこう言ってきた。
「素敵ですわ、お姉さま」
「なにが?」
「運命の相手なんて、私達には見えないじゃありませんの。それを直々に示してもらえるかもしれないなんて、すごく素敵ですわ!」
そう無邪気な目で言われた時、マリアは考えを改めた。確かに、素敵かもしれない。確かに、こんなことをしてもらえる身分になんて、めったになれたものじゃない。
「そう……ね」
神を信じなさいといつも教師アンナが自分に言ってくれる言葉を胸に、マリアはそれを受け止めることを決めた。


ヨアザルは、言うまでもなく神からそんな言葉を受け取ったのではない。苦肉の策であった。
自分が異教に傾倒していないと主張する事と、マリアをどうにか結婚させないこと、そして大祭司の威厳を示すことを三つ同時に満たせると踏んでの事だった。何、大したことなど起こらなかろう。神も、こんなことに力を貸すほど暇でもあるまい。
神からの許しが降りなかったとあれば、堂々と、マリアを処女のまま守ってやることができるのだ。そう考えて、ヨアザルは、自分自身が一番無駄と分かりきっているその日を待った。
それに一回このようなことをしておけば、マリアに近づく悪い虫もいなくなるだろう。そう思うヨアザルの脳裏には、パンテラの姿があった。いまだにマリアがしばしば、彼女の後輩である少女たちも時々従えて会っているらしいあの美男子の将軍を。
厚かましい。お前など、呼んでもやらん。そう彼は心の中でパンテラを罵った。


儀式が行われたのは気持ちのいい春めいた日の事だった。マリアはお気に入りの青いベールをかぶって、ヨアザルの前に歩み出て、彼から祝福を受けた。彼女はそれを、喜んで受けた。
アダヤほか、マリアを慕う少女たちは無邪気な目を輝かせて、見守りながらわくわくしている。だが往々にして、その場にはやはり白けた雰囲気が漂っていた。先述の彼女達以外の少女たちも、祭司たちも、婿候補に集められた若者たちも、こんな儀式は茶番だと思っていた。ヨアザルが神から聞いた方法がこれであるなどと、ほとんどの人間が信じていなかった。
「全くややこしいことを」アンナスは小声で、隣に座るカイアファにぼやいた。「そんなにあの娘に執心ならば、自分が妻に取れば簡単に済む話を」
「たぶん、そんな単純な感情ではないんですよ」カイアファが返す。「もっと拗れた何かなんでしょう……ああもう、こんなことになるとは思っていませんでした。全く、僕もどうかしていました。あんな証言で奴を引きずりおろせると考えるなんて」
「気にするな。今回のあやつの自己満足で他の者共も多かれ少なかれうんざりしている。お前のやったことは、決して無意味ではないぞ」
そう彼らが話していると、やがてヨアザルは若者たちから集めた杖を一束にまとめ、香の香りがすでに充満している祭壇の上にまとめて載せた。そして、大声で祈った。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ、全能なる我らが主よ。貴方が信心深きヨアキムとアンナに与えたこの娘の夫となるものを、どうか我々にお示しくださいませ!」

無駄だと思っていた。
何も起きないと思っていた。
その時、その場に居るすべての人は、目を疑った。誰よりも、それを一番近くで、その丸い目を持って見ていたマリアが、雷に打たれたように驚いた。

祈りの声とともに、どこからともなくふわりと、この世のものとも思えないほど真っ白な鳩が一羽、春の日差しを浴びて輝きながら舞い降りてきた。
誰もが息を殺し、目を丸くしている中、彼は悠々と香の煙の中を泳いで、最後に一本の杖に止まった。

「しるし……?」
マリアは、そうつぶやいた。
「(馬鹿な!?)」ヨアザルは思った。彼もまた、その場の誰とも比べものにならないほど驚いていた。だって自分だけは、確実に知っているのだ。この方法が神から告げられた方法などではないということに!
馬鹿な、偶然だ、ただの野生の鳩がやって来ただけだ……。
彼はおずおずと歩み寄り、鳩の止まった杖を掴んだ。鳩は彼を避けるようにひらりと飛び去っていく。だが、鳩の代わりにヨアザルがその杖に皺だらけの手を添えたその瞬間、鳩と同じように、雲のように真っ白な百合の花が、たちまちのうちのその杖につぼみを付けた。かと思うとそれらは一瞬で、彼とマリアの視ている眼前で、満開に咲き乱れた。もう、ただの偶然で片付けなど、できないことだった。

ヨアザルは白百合の咲いた杖を見ながら、震えた。どうせ何もないと高をくくっていた人々も、皆言葉を失った。しばらくの間、誰も口をぽかんと開けたまま、現実に頭が追いつかないという風に。
だが、マリアの心には、違う感情が湧き上がっていた。まさか、本当に来るなんて。神からの啓示が。神が、自分の運命の相手を知らせてくれるなんて……。
「ヨアザルさん!」高潮した顔で彼女は、淑やかにふるまうことも忘れて言った。「どなたなんです?どなたの杖なんです!?」
彼女がそう言うと、もう、その場は静止しているわけにもいかなくなった。
「誰だ、誰なんだ!?」声が湧き上がる。
「大祭司様、やっぱり本物なんですね」「正直疑っていたけれど、やはりすごい人なんだな」という声もいずれ交ざってくる。
「馬鹿な、何がどうなっているんだ……」アンナスとカイアファは愕然として、目の前で起こったことを見つめていた。特にカイアファははやってしまった、と思った。ヨアザルを引きずりおろすつもりが、逆に彼の正当性を示すような結果になってしまったじゃないか……。
とにかくも周りに促され、特にマリアに促され、ヨアザルはおずおずと、杖に書かれている名前を見た。見たくなかった。どうしても見たくなかった。文字を読もうと試みる時間がこんなに長かったことなど彼の人生においてなかった。
だがその字を見た瞬間、彼からいささか力がぬけた。読みにくいほど汚い字だ。呼んでいるのは皆それなりの育ちの青年のはずなのだが、はて……?
マリアも顔を近づけて、その文字を読んだ。それには見覚えがあった。
「ヨアザルさん、この字、こうじゃないですか?」
「ああ、なるほど……」
暫く苦労して読むと、その文字から、一つの名前が浮かんだ。そしてその言葉を聞くや否や、もう一度、ヨアザルとマリアは、心臓が止まりそうなほど驚いた。

「……ヤコブの子、ナザレのヨセフ?」

彼らははじけるように勢いよく、首を青年たちの方に向けた。すると、彼らの中に、一人の少年の姿があった。
先ほどの白いハトが、彼の手の中に止まっていた。ヨアザル達が杖を見ている間、すでに群集の視線は彼の方にいっていた。周りとはくらべものにならないほど粗末な格好をしたその少年は周囲の視線には目もくれず、美しいハトを抱きながら、じっと、驚いたようにマリアを見つめていた。
間違いはなかった。彼は、ヨセフだった。

婚約者候補として呼ばれた一人の青年は、自分の家の家具を治しに来ていた少年大工に杖を預けて、代わりに数合わせに行って来い、と言ってきたのだった。
「僕には好きな人がいるんだ。こんなの、行く気もない。でも人数がそろわなきゃうるさいらしいんだよ。運が良ければ玉の輿に乗れるかもしれないしさ、駄賃も出すし、頼むから、いって来てくれよ」
そう言われて彼がここに来たことなど、語る必要は特にない事だった。
彼の粗末な身なり、身分の低さを露呈するたたずまいを見ても、誰一人、何故お前のような奴がここにいる、などと言葉は発せなかった。それを一番言いたいヨアザルですら、発せなかった。当たり前だ。現れるとも思っていなかった神のしるしが、彼に現れてしまったのだから。
「……ヨセフ?」
祭壇の上で、マリアは彼に言った。ヨセフはマリアをじっと見つめていたが、やがて、周囲の圧倒された空気を全く意に介さないかのように、にかりと明るく笑った。
「マリア、久しぶり!」
その言葉だけで十分だった。
マリアはいつの間にか無我夢中で、ヨアザルの手から百合の咲いた杖をひったくると祭壇を駆け下りて、ヨセフのもとに走り寄った。鳩はそれを機にさっと飛び上がり、どこかに飛んで行ってしまった。
「ヨセフ、ヨセフ、本当にヨセフなの……!?久しぶり、本当に、久しぶり!元気そうでよかった!」
彼のもとにたどりついて、マリアは驚いた。彼はこんなに大きかっただろうか。十二歳の頃でも発育の良かった彼は、今ではすっかり背の高い大人の体になっていた。
マリアは、そっと百合の咲いた杖をヨセフに差し出した。
「間違いなく、貴方の?」
「ああ……」
ヨセフはそれをしっかりと握り返した。首をうんと上に上げて、彼の顔を下から覗き込み、マリアは言った。
「素敵……立派になったね。かっこいい……」
「マリアこそ」彼は照れて言う。「すごく……大人っぽくて、綺麗になってるぜ」
彼らはしばらくの間、見つめ合っていた。しばらくのちヨセフはギュッと、マリアの手を握った。彼女は驚いた。彼の手は記憶の中にあるより何倍も逞しく、力強くなっていた。
「マリア……」彼は言った。
「俺とお前、夫婦になるのか?神様が……そう言われたのか?」
「うん、そう、みたい……」
その場の誰が、それを否定できただろうか。誰もがそう認める中、ヨセフは言った。
「マリア……俺、あれからエルサレムを飛び出して……でも、大工の仕事だけは結局、やめられなかったんだ。やっぱり大工を続けて、ずっと……頑張って生きてきた」
「うん」
「それで、何年間も…ずっと思ってたんだ。俺、お前の事、好きだった」
彼はマリアただ一人を見つめて、そう言った。彼の血色のよい顔は、赤く染まっていた。それでも彼は、言葉を濁すことはなかった。
「今も好きだ。どんな女の人より。マリアは、俺の事好きか?」
彼女はそれを聞いて、嬉しかった。
生まれてから今までのどんな瞬間より、心が温かくなった。天使の翼に抱かれているかのような心持ちのまま、彼女は答えた。
「よかった……私もね、ずっと、昔からヨセフの事好きだったよ」
それを聞いたが最後、ヨセフは彼女を抱きしめた。「よろしくな」と、そう言って。

パチパチと誰かが手を叩いた。アダヤだった。
「お姉さま、おめでとうございます!」甲高い声を張り上げて彼女は言う。やがて他の少女たちも口々に「おめでとうございます!」「お幸せに!」と言った。みんな、マリアの口から数回はヨセフの事を聞いていたのだ。
やがて集まってきた青年たちも口笛交じりに、手を振り上げながら「おめでとう!」「大したことじゃないか!」「神様も、粋なことをなさる!」「幸せになれよ!」とはやすように祝福した。態度こそ厳格とは言えなかったが、それは間違いなく温かい祝福だった。
やがて祭司たちも、祝福しないわけにはいかなくなってきた。いや、それに目の前にいる少年少女の間には、確かに祝福に値するようなものがあると、彼らの目にも映っていた。
「神に選び抜かれた夫婦の誕生だ!」祭司たちは声を張り上げた。ヨセフもマリアも、照れ臭そうだった。

祭壇の上、ヨアザルはぼんやりとしていた。こんなはずではなかった。こんなはずでは……。それに、何故今さらになって、あれが出てきてしまったのだ。あの昔の日、自分が心の底から憎み倒した、あの盗人の小僧が……。
そして、これは神からの祝福だったのだろうか。だとすれば、神がなぜ、あんな盗人を選んだというのだろうか……。
マリアが杖をひったくった時に一枚散って落ちた百合の花弁を見つめ、彼は震えていた。
「大祭司殿」彼の肩を叩くものがあった。難しい顔をしたアンナスとカイアファだった。せめて、鬱憤晴らしにマリアを失ったヨアザルに追い打ちをかけんとしてきたのだが、今の彼にそう勘ぐる余裕はなかった。
「あなたもご祝福をなさったらどうです。貴方が神にお伺いを立てた方法で、貴方のマリアの結婚相手が決まったのだから」
そう言われて、ヨアザルができることなど、ただ一つだった。彼は体中が引き裂かれそうな苦痛に耐えながら、大声で言った。
「神の言葉は、今ここに成った!」
その場が湧いた。もう、あの白けた空気などどこへやらだ。
それを見つつ、ヨアザルは思っていた。違う。あれが神のお告げでなどあるものか。神のお告げなら、あの清らかなマリアの結婚相手に、あのおぞましい盗人が選ばれるなどあり得るはずがない!
彼は打ちのめされたまま、ただ、大祭司としてそこに立たざるを得なかった。心に大きな空洞が開いてしまったようだった。
「(マリアが、マリアが盗人の妻になる……)」

ラッパの音が鳴り祝福の音楽が流れた。マリアとヨセフは幸せそうに見つめ合い、そして、そっと口づけを交わした。

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feat: Mary and Joseph 第十六話

神殿は当然大騒ぎになった。ザカリアの身に何があったのだ。強盗が入って喉をつぶされでもしたか、と。
ザカリアはよっぽど恐ろしいものを見たらしく、しばらくの間は錯乱していて、筆記具を持ってきても何も書けず、何が起こったかは全く不明だった。
おまけに神殿に仕えている少女たちも、神殿の近くにいる物乞いたちも、何も見ていない、神殿に誰かが来る気配などなかったと口をそろえて言った。事実神殿にある貴重なものも全く盗まれても壊されてもいなかった。
彼の妻、エリザベトが駆けつけてきたときなど、ザカリアは昏睡状態になっていた。エリザベトは彼の手を握って「主人が起きるまで、ここにいたいのですが、よろしいでしょうか。祭司の皆様」と言った。
夫を心配する妻をむげにするわけにもいかず、彼らはザカリアを寝かせている小部屋に哀れな老婆を一人置いて去った。去っていくとき、ヨアザルの心にはエリザベトの顔がありありと焼きついた。夫に寄り添う老婦人の姿。
あれが、結婚なのだ。あれがあるべき道だった。自分はそれを、得られもしなかった……。

ザカリアはようやく目が覚めた。やはり口はきけないままだったが少し落ち着いたとエリザベトは言った。
それを聞いて祭司たちが駆けつけてきたとき、彼は身振り手振りでエリザベトに必死で何かを話しかけていた。彼女の腹に、必死で触れながら。
「ザカリアどの。何をおっしゃっているのか、我々にも教えて下さるまいか」アンナスがそういって、ペンと字を書くための板を彼に差し出した。ザカリアはそれを受け取り、しばらくの間何を書くか迷っているようだったが、やがて意を決したようにまず一節書き、ヨアザルに渡した。
「どれどれ……」
ヨアザルがそれを口に出した時、周囲は仰天した、そこにはこう書いてあった。

『私は先夜、神を見た。神は、この私の妻に子供が生まれると、そうおっしゃった』


ザカリアは少しずつ、少しずつ、自分の身にあったことを筆談と身振り手振りで教えた。
彼が聖所で祈りをささげていると、急に光り輝くものが見えたというのだ。白百合を携えた、美しい、若い女性のような姿をした彼女の背中には、その百合よりもさらに白い、輝く翼を生やしていた。彼女は香壇の右にまっすぐに立って、じっとヨアザルを見下ろしていた。彼女の輝きを見ると、ヨアザルは圧倒された。それは恐怖と言ってもいい感情だった。目の前に立つ彼女は明らかに人間ではないことを、その神々しいまでの輝きが物語っていた。彼女は薄い唇を開いて、はっきりと通る声で告げた。
「恐れることはないわ、ザカリア。私は、主の天使ガブリエル」
そう言われようとも恐れが完全には抜けきらないザカリアをよそに、彼女は言葉をつづけた。
「あなたの願いは聞き届けられました」
「は……?」
「あなたがあなたの妻に関して、何十年と言う間、祈り続けていた祈りよ。あなたの妻、エリザベトは身ごもって男の子を産むでしょう。その子をヨハネと名付けなさい」
彼女のその言葉を聞いて、ヨアザルの頭はますます混乱した。何事だ?エリザベトはとっくに月経すら止まっている。大きな声で言うことでもないが、夫婦の営みだってないようなもの……。
それでも、彼女は自分に対して話し続けた。エリザベトに子供が生まれるという内容を。ヨアザルはとうとうたまらなくなり、言ってしまった。
「主の御使い様、何故、そのようなことがあり得ましょう……気休めなどおっしゃらないでください。私の年老いた妻に子供が生まれるなどと、そのようなこと、ありえません。絶対に」
しかし、彼がそう言った瞬間、ガブリエルは美しい顔を瞬時に怒りの表情に染めた。それを受けてヨアザルは一瞬、死すら覚悟した。「身の程を知りなさい!」彼女は言った。
「あなたほども信仰心のあろうお人があなたの親戚、ヨアキムとアンナに十六年前に起こったことを、忘れたというの!偉大なる祖、アブラハムとサラの身に起こったことを忘れたというの!何故、神の力を疑うのです!」
それを聞いて何も言い返せなくなったヨアザルの唇に、彼女は自らの持つ白百合の花を一本押し当てた。
「ザカリア、その祝福された日が来るまで、口のきけない身におなりなさい。あなたは神に仕える身でありながら、時が来れば実現される主の言葉を信じなかった者なのですから」
その言葉と同時に、ヨアザルの舌にはまるで毒を飲んだかのような強い衝撃が走った。ガブリエルは「大丈夫」と言った。
「時が来れば、元通りになるわ。……私の伝えた言葉、主の言葉を、一切忘れさえしなければ」
そう言い残して、彼女の姿はふっと掻き消えていった。
ヨアザルは助けを呼ぼうとした。だが、舌がまるで消え去ってしまったように動かず、何も話せない身になっていたというのだ。


祭司たちはそれを聞いて、黙りこくっていた。
普段聖書に書かれている神秘の物語を信じていても、目の前で起こればやはり戸惑うものだった。だがしかし、こんな嘘を言って、利など全くないだろう。だから彼らは疑うでもなく、すぐさま信じられもせず、ただただ、圧倒されて黙りこくっていた。
「では」
その沈黙を破ったのは、エリザベトだった。彼女は自分のお腹をそっと撫でて、皺に囲まれた穏やかな目を涙で濡らして言った。
「私も、子供が産めるのね……ようやく、ようやく……」
ザカリアは、妻の表情を見てはっとした。彼女は全く、言葉を疑っていなかった。そう戸惑う夫の表情を見て、エリザベトもやさしく言い返す。
「疑うものですか。主の言葉を。そして、貴方が聞いたという言葉を」
それで、全てを解決するのには十分だった。

「とりあえずも、めでたいことには変わりないのではないですか」二番目に、ヨアザルよりも先に口を開いたのはアンナスだった。
「エリザベトどのの懐妊も、時間が立てば嫌でもはっきり真偽は分かりましょう。今の我らにできることは神の奇跡と、この神に啓示を受けた夫婦を祝福することにありましょう。ザカリアどの、エリザベトどの、貴方がたの信心に相応しい、壮健なお子様がお生まれになりますように」
なぜ、ザカリアたちの親戚であり大祭司である自分を差し置いてアンナスがそう仕切るのか、とヨアザルは不満に思ったが、自分も圧倒されてとっさに言葉が出てこなかったのも事実だ。
ザカリアの言葉に乗り、祭司たちも次第に緊張が解け口々に純粋な祝いの言葉を発するようになって、ヨアザルもようやく口を開いた。
「おめでとう、ザカリア、エリザベト」
そう言い、彼は口のきけない友の手を握った。ザカリアもようやく落ち着いたと見えて、あの柔和な笑顔を取り戻した。
しかし、それを受けてヨアザルは何か、心が痛むものがあった。彼ら夫婦が遠ざかっていくような気がした。


小部屋に安静にさせられて、妻も自宅に帰り、ザカリアはじっと天井を見つめながら、先夜の事を思い出した。言えば面倒なことになりそうだから隠し、あとでこっそりとエリザベトにだけ筆談で知らせた、ガブリエルが自分に告げた言葉……。
「その子をヨハネと名付けなさい。彼は主のみ前に偉大な人になります。その子はエリヤの霊と力を持って主に先立っていき、イスラエルの多くの子らを、主のもとに立ち返らせるでしょう」
エリヤ。
いつか再来すると言われた、伝説の預言者の名前だ。イスラエル人なら、誰でも知っている。その霊が、自分たちの子供に宿るとは……。
神は、何か大きな計画を企てているのではないか。ザカリアはそう考え、身震いした。


一週間ほどもすれば、ザカリアは相変わらず話せないままではあったが、体力は戻って来た。このようなことになったのだし、務めを免除して家に帰ってはどうかと言う話も出たが、ザカリア自身はそれを拒否した。一度主に背いてしまってこうなったのだから、申し訳が立たない、と筆談で告げて。エリザベトも信心深い妻だし、家には使用人も大勢いるものだから、夫のその行動を喜んで許した。
エリザベトはと言えば、確かに妊婦特有の症状がいくつか出だしていた。月経が元からないのではっきりした判別は困難だったが、医者も妊娠していても不思議ではない状態だと確かに驚きつつ言った。それを受けて、彼女も世の妊婦がするように家に籠り、身を隠すようになった。
同年代の友人や、自分の娘、下手をすれば孫ほどの年若い母たちを家に呼んで彼女はいろいろと妊娠について聞いた。彼女達は実に親切に、初めての母となるエリザベトに妊娠中の生活について、臨月が近づいたらどうすればいいか……など、助言していた。時折やってくる、その様子を実に楽しそうに話すエリザベトの手紙を読むたび、ザカリアは心の底から幸福をかみしめた。
中でも親しくしたのは、やはりマリアの両親のヨアキムとアンナだった。十六年前、自分達の身に起こったことを思い返しては、彼らはエリザベトと話し合った。
「恐れることはないわ、エリザベト」マリアの母アンナは、優しくそう言った。「神様が、友に居てくださるのですもの……ああ、でも年老いてからのお産は難産らしいし、事実私もだいぶ苦労したわ。そこは気を付けてね」
「ええ、ありがとう」エリザベトは愉快そうに笑った。
そしてマリアも、たまにエリザベトの家に呼ばれてその話の輪に入った。自分がそのような生まれであるなど大して普段は意識しないが、こういうことになって何度も指摘されると感慨深いものがあった。自分の身体についてのコンプレックスなども、どうでもよく思えるようにすらなって、少し自信がついてきた自分がいるのも、彼女にはわかった。事実、周りには「お姉さま、最近ますます綺麗になりましたね!」と言われる。そのことを話すと、エリザベトも、両親も笑ってくれた。
マリアはエリザベトのまだ膨らんでいないお腹を、そっと撫でた。
「元気に生まれてきてね、赤ちゃん」
子供が生まれる。そう言う神秘のすぐそばに寄り添うのは、マリアには初めてだった。それはとても感慨深い事のように、彼女には感じられた。


不思議で感慨深い月日は矢のように過ぎた。エリザベトのお腹はやがてみるみるうちに膨らんでいき、やがて誰がどう見ても、立派な妊婦となった。もう、エリザベトの懐妊を疑う声など誰も出せなくなった。
そのころになるとザカリアの務めの期間もようやく終わった。言葉は話せないままだったが、そろそろそれにも慣れてきていた。

意気揚々と去っていくザカリアの後姿を、ヨアザルは見送った。
「やれやれ、ようやくひと段落つきましたね」と、後ろから聞こえる声。振り向けば、後ろにはカイアファがいた。
「なんだ、貴様は!」ヨアザルは言う。「ザカリア殿の身の苦労を、ただの厄介ごとのように扱いおって!」
「まさか、あの人もサドカイ派の端くれ。僕はちゃんと尊敬していますよ。だから、あの人絡みの事がひと段落つくまで待ったんです。あの人が大変な時にこんなこと持ち出すのは、どうも不謹慎ですから」
「何の話だ?」敵意を込めて、ヨアザルは吐き捨てた。だがカイアファは得意げなままだ。
「ヨアザルさん、貴方は常々、僕たちの事をローマやヘレニズムに迎合していると非難しますね」
「何か、間違っておるか!」
「とんでもない。正しいと思ってるからこそやってますよ。だから否定はしません。ただ、貴方がそんなことを言えた身分か、と思いまして」
「何の話だ!?」
「異教の思想に傾倒するあなたに、大祭司の資格などあるのか、と僕は問うているのです」
そう聞いて、ヨアザルは何のことか?と思う。自分は心の底から、ユダヤの神を信じているはずなのに。
「口を慎め、小僧が!」彼は叫んだ。「私は偉大なる主に誓って、信仰の道を外れたことなどいっぺんもない!お前のような愚か者と違って!」
「『愚かな者の道は、自分の目に正しく見える』と、ソロモン王の箴言にもあるとおりですね!」カイアファは笑った。ヨアザルはますます腹を立てる。
「ソロモンはこうとも言っておるな。『隣人を侮る者は知恵がない、賢きものは口をつぐむ!』」
カイアファはそれに一瞬言葉を詰まらせたが、「僕と貴方がなぜ隣人です?」と小さくつぶやいた。そして、ヨアザルに二の句を継がせまいと、挑発をやめ、やや早口に本題に移った。
「僕はね、五か月前に貴方とザカリアさんが話しているのを聞いてたんですよ。偶然にね。ほら、あの貴方が面倒を見ている少女の結婚がどうとか言ってた」
「……それがどうした?」
あの後も、マリアへの縁談の話はぼつぼつ来ていたが、やはりヨアザルは二つ返事で断り続け、マリアどころかマリアの両親の耳にすら入れないようにしていた。だが、カイアファが言った言葉は、彼を凍りつかせた。
「あなたは、『神に仕える女を人間の男が汚すなどおこがましい』とおっしゃいましたね……なぜそんな、ヴェスタの巫女やアルテミスの信者を素晴らしいとするようなことを言うようになったのです?」
その言葉を聞いたとき、しばらくヨアザルの頭は混乱した。少しずつ、少しずつその意味を飲み込めてきたとき、彼は老いた背中に冷や汗が流れるのがわかった。
悔しいが、ぐうの音も出ないほど正当な攻めだ。なんたることだろうか!神に仕える女性を処女と定めるなど、ユダヤの律法にのっとった行為どころか、まさしく自分が忌み嫌っているローマやヘレニズムの宗教に見られる思想ではないか!処女しか巫女になれぬといわれているヴェスタ、男も女も純潔を是とするアルテミスの信仰。産めよ、栄えよ、のユダヤ教とは対極にあると言ってもいい思想!
そんな思想が自分の中にあることに、ヨアザルは戸惑った。馬鹿な、ギリシャやローマの女神を素晴らしいと思ったことなど神に誓ってない。それでも、それでも、マリアは……。マリアが男と結婚し処女を失うなど、ありえてはならぬという思いだけは、彼の心に燃え盛っていた。
「私は」彼は絞り出すように言う。「そんな宗教に傾倒したことなど……」
「傾倒してないなんて言えば僕たちだってユダヤ教を間違いなく信仰しているんですよ!ばかばかしい。特に僕たちのような精神性が強く問われる職業のものなら、形よりも政治的立場よりも、思想が何より重要、そうではないのですか?あなたは僕たち以上に異教に傾倒していると言えるのでは?」
「しょ、証拠は」ヨアザルは焦って言った。目の前の彼がこれを持って自分に何をしたいのか、ようやく呑み込めた。「証拠はあるのか!」
「ザカリアさんを呼びます。あの人が嘘をつけない人であることくらい、貴方も知っているでしょう。だから待ったのですよ。ただでさえ大変な時にこんなごたごたにまき揉むのも気が引けたから」
彼はぞっとした。大祭司の職を失うのが、怖くなった。
嫌だ、この立場から離れたくない。また見下される生活に戻りたくない。やはりどうせファリサイ派は大祭司の器などではないと、そんなことを言われたくはない。せっかく掴んだ立場なのに……。
「誤解だ!」彼は言った。
「あれは一時の気の迷い!事実、マリアの結婚の事なら、とうに考えておるわ!すぐにでも、それに向けて動こうとしていたところだ!」

そう叫んでしまったことに、ザカリアははっとした。刹那、自分の発してしまった言葉のせいで体中が切り裂かれるような痛みに襲われた。
目の前のカイアファはぽかんとしていた。返答に困っているようだった。
「あ……、そ、そうですか。それは結構……」
ヨアザルがこう言うなど、彼は想定していなかったのだろう。確かにこう言われては、責める謂れをなくしてしまうのだから、さすがの彼が返しに困り気まずくなるのも当然だ。だが、ヨアザルはそれどころではなかった。
「で、では良い縁談を持ってきてあげたらどうです。あ、あなたが異教に傾倒していないようで安心しました大祭司様。僕はこれで……」
気まずそうにさっさと去っていってしまうカイアファに追い打ちの言葉をかける気にもなれなかった。言ってしまった。奴なら、聞き逃すこともなかろう。そんな、まさか自分が、マリアを嫁にやってしまうなんて……。
彼は嫌悪感に満たされた。マリアが、マリアが男に抱かれる。異教的と言われようともそれは彼にとって依然として、ありえてはならないことだった。

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feat: Mary and Joseph 第十五話

神殿に新しく垂れ幕を作ることが決まった。糸をつむぐのは、勿論少女たちの仕事だ。
金色の糸、水晶のような透明感のある糸、何も色を付けない亜麻の糸、絹糸、ヒヤシンス色の糸、紫の糸、そして緋色の糸。
「誰が色を紡ぐのか、それも神の御決定通りに。これは、神にお捧げする垂れ幕だからな」
祭司たちはそう言って、彼女らにくじを引くように言った。くじは、ユダヤにおいては神の決定を示す重要なものであった。
マリアは一番最初にくじを引いた。彼女の割り当ては、紫と緋色の糸に決まった。
「わあ、ぴったり!」
彼女の後ろから、そう無邪気な声が聞こえる。
「やっぱり、そういう色はマリアお姉さまですね」
周りの少女たちも、笑って同意した。マリアはそれに、はにかみながら「ありがとう、アダヤ」と返す。
紫と緋色はこの七色の中でも特に高貴なもの。昔はツェルヤが紡ぐべき糸だったろう。だが、今となってはマリアがそれを紡ぐのがぴったりとみなされた。

マリアは十六歳になった。
自分と同い年ほどの少女たちは最近皆嫁いで、神殿を出て行ってしまった。マリアはいまだに神殿の中にいる。
自分の所には、なぜか結婚の話がやってこないのだ。そろそろ縁談の話が持ち込まれてもいい年齢……マリアのような育ちのいい少女ならばとくに……であるのに、それを楽しみにしていたのもつかの間、なぜか今や大祭司の職に上り詰めた後見人のヨアザルはそんな話を全く持ってこない。ついに、彼女は取り残されてしまった。
今では完全に彼女は、神殿付きの少女たちの中では一番のベテランになった。しかしやはり彼女はどうにも、違和感が抜けきらない。
自分が慕ったツェルヤ、彼女の年齢に追いついても、自分の少し丸めでずんぐりした体は、スマートで美しかった記憶の中のツェルヤよりも子供っぽく見えた。中身もまたしかりだ。ツェルヤのような大人っぽさには、自分はまだほど遠い気がした。
「(お姉さまなんて柄じゃないのにな)」
彼女は自分より年下の彼女たちにそう言われるたび、いつの間にかそう呼ばれるようになった自分を見つめなおしてはそう思う。慕ってくれる彼女たちの事は大好きだが、それでも彼女は違和感を感じて生きてきた。
この前ツェルヤにあった時、彼女は本当に楽しそうだった。もうすっかり、将来の祭司となるエリートの美しい若妻になっていた。マリアはそんな彼女を見て、やはり彼女は憧れだ、と思った。
結婚にはあこがれる。早く、ヨアザルがそう言う話を持ってくればいいのに。自分もいつか、誰かの妻になって幸せな奥さんに……。
と、彼女が思うとき、彼女の心にはいつも、浮かぶ人物があるのだ。もう最後に見た時から四年になる、自分と仲の良かった少年。彼にあの日、自分がどういう思いを抱いていたか、少しなりとも大人になって、今ようやく分かるのだ。


「色の担当が決まりました。神殿の垂れ幕は、良いものが出来上がりそうですよ」
カイアファは厳かに、大祭司ヨアザルにそう言った。
「見てくださいよ、この完成予想図!ヨアザルさんがうるさいから、デザインに苦労したんですよ」
「王や貴様らに任せれば、ローマ風のものばかり持ってきそうだからな」
ヨアザルは重量感のある大祭司の椅子に座り、前に座る青年を憮然とした態度で睨みつける。だがカイアファはそんな視線もなんのその、「は、申し訳ありません、大祭司様」とひょうひょうと言ってのけた。
ヨアザルはそんな彼の事が、やはり今となっても苦手だった。
自分と、彼の師匠であるアンナスが大祭司の椅子を争った。そして、なんとかヨアザルがその座を勝ち取ったのだ。
これで奴らももう二度と自分を馬鹿にはできまい、奴らの屈辱に満ちた顔を見るのが楽しみだ、そんな奴らをこき使ってやるのが楽しみだ、と思ったのもつかの間。アンナスはともかくカイアファのほうは、相変わらずその、どこか舐めてかかったような態度を崩さないままだった。
「紫と緋色は、貴方が面倒を見ているマリアの担当ですよ。良かったですね。貴方も鼻が高いんじゃないですか」
「マリア……」ヨアザルは、その名前を口の中で反芻する。
「業務連絡は以上です。……あ、そうだ。マリアと言えば」
「どうした?」ヨアザルは若干身を乗り出して話を聞く。カイアファはそれに対してからかうような小さな笑い声を出したのち言った。
「あの子、そろそろ結婚しないんですか?もうそんな時期でしょう。僕の妻が結婚したのも、同じくらいの頃ですが……」
マリアの話と聞いて、彼女に何かあったのかと心配したのが失敗だった、とヨアザルは内心で舌打ちした。
「……結婚は、慎重に行わねば」
「そうですかねえ?結婚生活はいいものですよ。貴方もご存じの通り……ああ失礼!大祭司様は若いころ奥さんと死別されて以来そう言ったご縁はとんとないお方だったそうですね」
「カイアファ!」気にされていることを指摘され、激昂して彼は叫んだ。「片田舎の神学校の教師として、一生を終えたいか!?」
「ご冗談を大祭司様。僕は、若いころの妻に今でも寄り添う愛妻家のあなたを賛美しようとしただけなのに、なぜそんな仕打ちをなさいます。それほど心の狭い男ではないと、信頼しての事ですのに」
そう弁明するカイアファの言葉を聞いて、ヨアザルは声を震わせながら「下がれ!お前には関係のない話だろうが!」と言った。
「それもそうですね、失礼いたしました」
カイアファはそう言って、垂れ幕の完成予想図をヨアザルに渡すとすたすた歩いてどこかに行ってしまった。


歩き去っていくカイアファを、神殿の廊下で呼び止めるものがあった。振り向いてみれば、アンナスだった。
「先生!ご機嫌麗しく」
「カイアファ。見ていたぞ、先ほどの事」
ああそうですか、と彼はアンナスに向かって苦笑いする。
「お前は本当に昔から、なかなか言うやつだ。私も形無しだな」
「なんといいますかね……特に僕は、あいつが嫌いなんです」
カイアファはゆっくり言った。
「イライラするんですよ、あれを見ていると!気持ち悪くなるとでも言いますか……とにかく、気に食いません。まったくヘロデ王もなにがどうしてあれを任命したんでしょう?」
「その嫌悪の理由、私は知っているぞ、カイアファ」アンナスは言った。「つまるところ、私が大祭司になれなかったからだな」
「そうですとも、先生。まったく、早くくたばってくれませんかね!」
アンナスはくすくすと声を抑えて笑う。「控えろ。聞かれたらたまったものではない」
「そうですね、申し訳ありません」
「いずれにせよ……私はまだ、大祭司の座をあきらめておらん」
「それでこそ、僕の先生です」
カイアファは細い指を唇に添えて、思案する。
「(なにか引きずりおろせるネタがあればいいんだけれど……)」
アンナスの天下になれば、彼の一番の弟子で娘婿でもある自分にも膨大な利益がやってくる。そのために、アンナスと仲が悪い、事実アンナスに特に若干の礼遇をしているヨアザルの天下が長く続くのは、カイアファにとって不愉快だった。



大祭司の椅子に座りながら、誰もいない大広間で、ぼんやりとヨアザルは思案する。
大祭司になることは、憧れだった。サドカイ派たちに馬鹿にされてきた屈辱を晴らせると思っていた。
だが、結果は先述の通りだ。さすがにカイアファほどの態度を取るものは彼しかいずとも、大祭司としての生活は、彼が思い浮かべていた理想からは違うものがあった。
誰もかれも自分を敬うと思ったのに、あの嫌な奴らが屈辱にあえぐ様を存分に楽しめると思ったのに。
自分が大祭司になっても、世界など、全く何も変わらないままだった。
それはそうと、と彼はマリアの事を考える。実は表には出しておらねど、マリアに対する縁談の話はそこそこ来ている。だが、何かと理由をつけて、自分は断ってしまうのだ。何の意識もなしに。
マリアが結婚するのが、彼は嫌だった。それはなぜだろうか、彼は葛藤する。「産めよ、栄えよ、地に満ちよ」と、主が最初の人間に告げたことなど百も承知の上で、彼はマリアが結婚し誰かの子供を産むなど許せない、と思っていた。
彼にとってマリアは、癒しの存在だった。大祭司になり多忙になって、しかも思っていたような痛快さは得られないと知ってからは、なおさらの話だった。そんな彼女が結婚するというのは真っ白な絹に泥をつけて汚してしまうような、とてつもなく不快な話であるかのように、彼には感じられていた。


その日の午後、ヨアザルは悩みを聞いてもらおうとザカリアを自分の執務室に呼んだ。もとはと言えば、マリアを自分の所に紹介してきた彼だ。普段なら夜まで待って彼の家で話すが、あいにくと彼の属している祭司の組が今は祈りの当番で、彼もその期間が終わるまでは家に帰れず、神殿に居なくてはならない。
ザカリアを選んだのは、彼と元から仲が良かったというのが勿論一番の理由だが、それだけではなかった。彼ならば、少しは自分の独特な考えにも同意してもらえるかもしれない、と思ったからだ。
ザカリアとその妻、エリザベトにも子供がない。しかし、それでも彼らは神に立派に仕え、尊敬されていた。そんな彼らだからこそ、結婚して子供を作るだけが正しい道ではないのではないかと言う自分の考えにもどこか通じるところがあるのではないか、と思ったのだ。
ザカリアは穏和で優しい男だ。彼はヨアザルが、言葉もまとまりきらないまま話しているのを否定せず聞き続けた。
「私は、マリアが結婚するなど、どうしても許せんのだ」
「それは……なぜかね」
理由を聞かれ、ヨアザルは自分の思いを言語化しようと試みる。彼の頭の中に、ふと、これが理由ではないかと思い浮かぶものがあった。
「マリアは、普通の少女ではないではないか。主なる神にその誕生を告げられた、神にささげられた、特別な少女だ」
「うむ……それで?」
「そんな彼女が人間の男に汚されるなど、ありえてはならぬことではないか!?」
それが本心なのだろうか……考えれば考えるほどヨアザルは自分がマリアに感じている複雑な感情をかみしめたが、間違っているとも思えなかった。
男がマリアを汚すなど、おこがましい。あの、自分にとって救いともいえる乙女を。そう言う気持ちがあるのは、確かだった。
「なるほど神はアダムとイブに『産めよ、栄えよ、地に満ちよ』と言ったとも。だが、所詮は蛇に騙された罪深い女にだ。神に祝福され生まれたマリアとは違う」
「それで……どうすればよいのだろう?」
「どうもせんでよい。マリアに夫などいらん。あの子もそれを望んでいる。あの子はあばずれじみたそこらの娘とは違う清らかな子で、男に体を差し出すなどと言う売春婦のようなまねは心底嫌っているのだから」
「そうだろうか……あ、うん、いやなに、そうだろうね」
ザカリアはその時一瞬、言葉を飲み込んだ。と言うのも、以前話した時、マリアの口から結婚には憧れを持っている、と言う旨を聞いていたからだ。
だが、それをわざわざ言いはしなかった。今言ってもこの場を険悪にさせるだけだ。ヨアザルも時間が立てば、無難な道を選ぶだろう。今は可憐な少女であっても、どうしたっていずれゆかず後家と呼ばれる年なる。そうすれば、いくらなんでも放っておくはずはない。それ以前に気が付いてくれればなおいいのだが、とザカリアは思った。


やがて太陽は落ち、新しい日がやってきた。
暗い中祭司たちは自宅に帰る。ザカリアは、やはり帰る直前にヨアザルの愚痴を聞かされていた。
「全く、あの生意気なカイアファの小僧め……」
彼の愚痴に同意しようとしたが、ちょうど後ろにアンナスとカイアファがいるのに気が付き、ただ同意することもできなくなったザカリアは苦笑していった。
「まあ、彼は不敵すぎる所もあるからね……でもあの不敵さは、出世するタイプだよ。いずれ大物になるかも」
「少なくとも私の目の黒いうちは、金輪際そうさせんぞ!」
ヨアザルは遠慮なしにそう言った。ザカリアはもう一度苦笑すると、「それでは、私はそろそろこれで」と手を振った。彼が家に帰れないのは先に述べたとおりだ。のみならず、くじで祈りの割り当てが決まったのはザカリアだった。
「では、良い務めを」
「ありがとう。それでは、後日」
ザカリアがそう言って聖所に入っていくのをヨアザルは見届けて、寒い夜を、一人しかいない家に向かって帰っていった。

その時は、まさかそんな何気ない言葉を機に、しばらくザカリアの声が聞けなくなるなど思ってもみなかった。
夜が明けて神殿に来てみると、神殿は騒ぎになっていた。ヨアザルは何があったのだろうか、一晩のうちに口がきけなくなっていた。

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