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クリスマス市のグリューワイン

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ニコール・オブリー 第十一話

二月八日のことだった。いつもの通り横たわったニコールの体の前に、盛装したデュ・ボーが現れた。彼は腕を組み、助祭の差し出す椅子に腰かけてニコールの左手に潜むベルゼブブに語りかけた。
「呪われた悪魔よ」彼は言った。「何故だ。なぜ貴様は、今回のようなことをした」
「何故って?」ベルゼブブは笑うように言う。「決まってるじゃないか。お前たち人間が悪魔を知り地獄に落ちてこそ、悪魔冥利に尽きるのさ」
「神に背くものめ」デュ・ボーはニコールの左手を睨みつけた。「なぜ、貴様らは神の創った世界に降りてくる。何故、神に従わない」
「神だって!?」ベルゼブブは言った。「何処にこの世の最高裁判官が居る?最高行政官が居る?王の代官が居る?彼の代理人と顧問が居る?法定の書記が居る?みんなみんな、オレ達悪魔さ!ルシファー自身があの呪われた神の子に言っているよ、この世は悪魔のものだと」
デュ・ボーは彼の言葉に一つ嘆息した。ベルゼブブは続ける。
「オレが命令を聞くのは、そいつらくらいな者さ。もしもお前が奴らを召喚し操れれば別だが、できんだろ。ハッ、お前は悪魔に通じてない!ジャン・デュ・ボー。貴様こそ何のつもりだ。こんなバカ娘一人放っておけばいいものを。ユグノーに押されてきたから、カトリックの点数稼ぎか?阿呆だな、そんない上手くいくはずがないだろうに!この世は皆が皆、お前のように生一本の馬鹿じゃないさ。断言するよ。そんなことは無い!お前はかえって哀れな少女をインチキに使ったと、責められるかもしれんぞ。いったい誰がこんな、この場に居る田舎者達の証言を信じるんだ。こんなに雁首揃えても、大きな力にはかき消される。そうだろう?オレがなぜ降りてきたのか、お前のような馬鹿に何をすべきかという事を教えてやるためだとすら思えてきたよ。あんな……神なんてものを信じている馬鹿に!」
デュ・ボーはベルゼブブに向かい合った。そして静かに、彼を嘲笑するように言い放った。「参ったな。貴様の間抜けぶりが、いっそ愉快なほどだ」

「はあ?」
「そうだろう」デュ・ボーは相変わらず腕組みをしたまま続ける。
「何故私がこの娘を助けるか?悪魔が人間を陥れた。それだけの理由があるのに、これ以上の理由など、なぜ必要なのだ」
それを聞いて、ベルゼブブは頭に血が上ったようだった。ニコールの左手を包む、どす黒い気が広がった。それに飲み込まれたニコールの体は、まるで悪魔のように醜く、恐ろしくなった。だがデュ・ボーは彼を挑発するように、淡々と続けた。
「証拠がない?あるさ。お前によって知らされる必要すらない」
「どこまで……オレを侮辱する」ベルゼブブは今までにないほど低い声で言った。
「神に、神に付き従う馬鹿ども……なぜ、オレ達を理解しない……」
「当たり前だろう」デュ・ボーは冷静に告げる。「悪魔は、人間とは違う。悪魔は悪いから悪魔なのだ。悪いものを、なぜ理解せねばならん。第一、貴様がこの女性を弄び彼女に憑りつくなどと言う卑劣な真似をしたその時から、貴様は貴様なりの仁義を語る権利を放棄したようなものだ。違うか?」
「黙れ……」ベルゼブブは言葉に詰まったようで、ただ唸るようにそう言った。
「ふん、左手から出ても来られないくせに」
「オレをなめるなよ……人間風情が……」
ニコールの左手が宙に浮いた。大聖堂に集まっていた群衆は、恐怖の悲鳴を上げた。左手のみならず、ニコールの体そのものが黒い気に包まれ、宙に浮きあがったのだ。
「貴様ほど憎たらしい奴は久しぶりだ……」ベルゼブブの声が聖堂中に響き渡った。
「身の程を知れ、人間風情が……オレが……貴様を」
その時だ。ガバリとニコールの唇が開き、最後の雄叫びが響いた。
「食い殺してやる!」
そして、次の瞬間だった。
鼓膜を引き裂くような、言葉にもならない奇声とともにニコールの口から、勢いよく何者かが出てきた。
それは、異常な姿をした存在だった。人間の赤ん坊と蠅を足したような、醜く、グロテスクな生物。
あれだ、あれが、悪魔ベルゼブブの本性だ!誰もがそう確信した。
「グギギギィィッ……ガッ、ギャアアアアアアアアアアッ!」
ベルゼブブは叫びながら、大口を開き、蠅の羽を羽ばたかせて真直ぐにデュ・ボーの方に突っ込んでいった。デュ・ボー司教は彼から身を庇うように、腕で顔を庇った。

ラン大聖堂に血が噴き上がった。

悲鳴が上がる。デュ・ボー司教が右腕を食いちぎられたのだと誰にでも分かった。
「ジャン!」
誰よりも悲痛な、必死な声を、オブリー氏が上げた。だが、デュ・ボーは片腕を失ってなお、その場にしっかりと立っていた。見せびらかすように自分の腕を、衣服ごと一瞬でバリバリと食い尽くしてしまったベルゼブブを見つめ、彼は、勝ち誇ったように言った。
「とうとう……か」
「ガ?」怪訝そうに彼を見た、もはや言葉を話せないベルゼブブに、デュ・ボー司教は言う。
「今、とうとう貴様は退去することになる。消え失せろ、悪魔め」

そして、次だった。ベルゼブブは司教がその言葉を言い終わるや否や顔色を変えた。急に床に倒れ、のた打ち回って激しく苦しみ始めたのだ。
民衆がどよめく。すると、デュ・ボー司教は静かに残った左腕の袖をふるった。その中には、聖体が大量に詰め込まれていた。彼は、手の中にすら聖体を握っていたのだ。
彼は、自分ごと直接聖体をベルゼブブに投与しようと試みたのだ。

「どうだ、悪魔」
「ガッ……ゲェ……」
右腕があった場所から大量の血を滴らせ、デュ・ボー司教はなんとか立ちすくみ、ベルゼブブ、悪魔にとっては猛毒にも等しいキリストの体を大量に呑み込んでしまった愚かな悪魔に向かって、最後に言った。
「地獄の深淵に帰るがいい、立ち去れ、汚れた魂。二度と、ここに帰ってくるな。ここに在す父と子と聖霊をの御姿を、目に焼き付けろ!」

そう。それが、最後だった。
ベルゼブブはラン中に響き渡るかと言う奇声を上げた後、彼の下にぽっかりと渦巻いた黒い穴の中に悶え苦しみながら逃げ返ってしまった。

静まり返ったラン大聖堂に、ニコールの体が残された。ベルゼブブが去ったせいだろうか。彼女はみるみるうちに元の瑞々しい少女の肉体に戻っていった。
デュ・ボーは激しく出血しながら、よろよろと彼女の方に向かった。そして彼女が、まるで眠っているかのようにすやすやと規則正しい呼吸をしているのを見届け、言った。
「ルイ。……お前の妻は、元に戻ったぞ」

歓声が沸き起こった。
「神様万歳!神様万歳!」と言う声が、大聖堂を揺るがすように響き渡る。まるで、先ほどのベルゼブブの声も耳の中から押し流してしまうほどだった。
「ニコール!」オブリー氏は妻のもとに駆け寄り、彼女を抱き上げた。
「良かった。戻って来てくれて、本当に良かった……ジャン……本当に、本当に……ありがとう」
「よい」
デュ・ボー司教はステンドグラスの虹色の光に照らされながら、背一杯力を振り絞って、祭壇に捧げられた十字架のキリスト像に向かい、言った。
「主なる神よ、キリストよ、あなたの偉大な御名が今、称えられますよう……」
そして、その言葉を言い終えると、デュ・ボーはふらりと、落ち葉が地面に落ちるように大聖堂の床に倒れ伏した。


気絶してしまったデュ・ボーと相変わらず昏睡している妻の看病をする傍らオブリー氏は昔を思い出していた。自分とデュ・ボーが、まだ小さかったころの事を。
デュ・ボーは孤独な子だった。幼馴染の自分にすら心を開きたがらなかった。彼は、人を信用できなくなってしまっていたのだ。あの日、彼の母親が若い恋人と一緒に家を出て行ってしまった日から。
必死に行かないでと泣きすがる彼を、母親は蹴飛ばして、こう言い捨てたらしい。
「何よ。あたしの……あたしたちの愛を邪魔するつもり!?あたしたちはそんなのに屈しないわよ!立ち去りなさい、悪魔!」
彼の家は裕福な家だったが、父はそれ以来打ちのめされて酒びたりになってしまった。デュ・ボーは母親にそう言われたことがよっぽどショックだったのだろう。ずっと、ふさぎ込んでいた。
そんなある日に、彼は悪魔憑きになった。もう悪魔の名前は忘れた。おそらく名前に覚えがなかったからベルゼブブでなかったことだけは確かだ。
誰にも手が付けられなかった。それどころか、この子自身これを望んでいるのだ、と悪魔は艶めかしい女性のような声で言った。
オブリー氏は、どうしても親友を助けたかった。そしてなけなしの小遣いをはたいて十字架のネックレスを買った。せめて、せめてこれで悪魔が退散しないかと。ちょうど、その日だった。一人の聖職者が、彼らの生まれ故郷に来たのは。

聖職者は幼き日のオブリー氏の十字架のネックレスを見て「あの子に?」と問いかけた。なぜ分かるのだろう、と思いつつ、オブリー氏はうなずいた。
彼は細い手を伸ばし「良ければ、貸してもらえないかな。私の十字架よりも、よっぽど効き目がありそうだ」と、優しい顔で笑った。
悪魔祓いは成功した。彼は立派な祭服には不釣り合いのオブリー氏の十字架を身に着け、聖体をもってあっさりとデュ・ボーを正気に戻したのだ。
正気に戻った彼は、あたりを見渡した。「ジャン、もう、悪魔はいないよ」とオブリー氏が言った。すると彼は目を見開いて、ぽつりと言った。
「悪魔……あれ、悪魔だったのか」
「うん」
「あれ……」
日の光を浴びた彼の横顔は、今にも泣きだしてしまいそうなほど悲しそうだった。
「お母さんの姿をしてたんだ。ジャン、捨ててごめんね、本当は愛しているのよって、僕を抱きしめてくれたんだ……」
彼は、綺麗な目に涙を溜めて、ぽろぽろと泣いた。オブリー氏と、その聖職者は彼が泣き止むまで黙っていた。だが、いずれ彼が落ち着くと、聖職者は自分の首にしていたネックレスを外し、言った。
「ジャン君。君は、聖なるキリストの体によって救われた。でも、もう一つ、君を救ったものがあるよ」
彼はデュ・ボーの前に、静かにネックレスを置いた。そしてにっこりと、まるで父親のような慈愛を込めて、彼の頭を撫でながら言った。
「君の友達が、君のために用意してくれたんだよ」
デュ・ボーはしばらく、十字架を見ていた。だが、最後に小さく「ルイ」と言った。
「なんだい?」
「ありがとう……これ、貰ってもいい?」
「うん」
オブリー氏も精いっぱい笑った。
「もちろんだよ、ジャン」

あの日以来、彼は悪魔を激しく憎む人間になったのだ。そして、それと同時に他人を信じることができるようになったのだ。神を、愛を一心に信じる人間になれたのだ。
オブリー氏は、そう思いかえしていた。神学を学ぶ、聖職者になると言ってパリに旅立っていった彼のまぶしい笑顔を、オブリー氏は今でも鮮明に覚えている。その首には、今と変わらず、あの十字架があった。


先に目が覚めたのは、デュ・ボーのほうだった。オブリー氏は片腕をなくしてしまった親友に必死で謝り、そして礼を述べたが、彼は笑って「よい。そんな顔をしないでくれ」と言った。
「私は、神の道を行けただろうか」
「行けたよ。君は、立派だ」オブリー氏は泣きながら、彼の残った左手を掴んだ。


数日後、ニコールも目覚めた。
ニコールが目覚めたと看護婦から聞き、オブリー氏は急いで妻の病室に向かった。デュ・ボーも一緒だった。まだ体力が回復しきってはいなかったが、それでもついていくと言いはった。
あれほど酷い目にあったとは思えないほど、ニコールの体はきれいなままだった。彼女は丸い目をきょろきょろさせて、何かを探していた。
「ニコール?」オブリー氏が笑いながら言った。
「良かった。戻ったんだね」
「……あの人は?」
ニコールは彼の言葉には返答せず、問いかけた。
「あの人?」と、デュ・ボー。
「ベルゼブブは……ベルゼブブはどこ?」

その言葉に、オブリー氏とデュ・ボー司教は愕然とした。だが、司教はあくまで落ち着き払って言った。
「いいか、オブリー夫人。ベルゼブブは、悪魔であり、君に憑りついて君を地獄に引きずり込む存在だったのだ。だから、祓った」
「祓った?」
「ああ」
次の瞬間だった。ニコールは湯呑を思いっきり、デュ・ボー司教に投げつけた。
「余計な真似、しないでよっ!」
体力の戻りきっていない司教は、それを受けてバランスを崩し、病室の床に尻もちをついた。ニコールはベッドの上から叫ぶ。
「あの人と愛し合っていたのに!あの人と一緒なら、どこに行くのだって、怖くなかったのに!」
彼女は金切声をあげてベッドの上から、デュ・ボー司教を指さした。
「さぞ、貴方達カトリックは名声を取り戻したでしょうね。寂しい女の子と、貴方達人間のうち誰にも理解されなかった哀れなベルゼブブの愛を踏みにじって、貴方達はますます栄えるんでしょうね!ああ、よかった、よかったわ!貴方達はそれで満足なのね!人の幸せを踏みにじって、私腹を肥やして喜ぶような腐った奴らなのよね!この、偽善者!」
その時、オブリー氏には見えていた。
小さい頃の、怯えるデュ・ボーの姿。誰にも心を開けなかったころの彼の姿が。

空気を斬る音が聞こえた。
「いい加減にしろ、ニコール!」
オブリー氏が、ニコールを平手で打ったのだ。

ニコールは、夫が初めて自分に手を上げたことに面食らっていた。穏やかなオブリー氏は、ニコール相手でなくとも、誰かに怒ったことなどめったになかったのだ。だが、その時、彼は怒った。デュ・ボーの代わりに、彼は怒った。
「目を覚ませ!何が偽善だ!ジャンが、ジャンが君を救うためどこまでしたと思っている!右腕を失ったのだぞ、ジャンは……」
オブリー氏は怒りながら、吐き出すように言った。あまりにも、これではあまりにも、親友が哀れだ。
だがしかし、ニコールは最後まで、彼の期待通りの言葉は言わなかった。
「はん、これ見よがしね。偽善者らしいことだわ。ねえ、貴方、私が帰ってきてうれしい?嬉しいわよね。良かったわね、憎い間男から、妻を取り戻せて」
「ニコール……!」
「これだけは覚えておきなさい。あんたがいくら私に醜く執着しても、私、あんたなんかに心まで買われやしないんだから。私の心は永遠に、ベルゼブブのものなんだから」

オブリー氏は再び、何か言おうと思った。だがその前に、デュ・ボーがようやく医者たちの助けを借りながら立ち上がり、言った。
「ルイ……私はそろそろ、私の病室に帰るよ」
そう言い残して、彼は後ろも振り返らず、よろよろと病室に帰っていった。そして、死んだように再び気絶してしまった。
彼は数日間、何かにうなされていた。何にうなされていたのか、オブリー氏には何となく分かった。


ニコールは実家に戻った。オブリー氏も、さすがに彼女をこれ以上妻としてはいられなかったのだ。ヴェルヴァンは元通りになった。例のフォスケ牧師はあの後ベルゼブブが祓われたのと同時に正気を取り戻し、その悪魔祓いの話を聞き感動した縁とド・ラ・モット神父に介抱された縁でカトリックに改宗し、今はド・ラ・モット神父の善き片腕になっている。だが、オブリー氏が何度日曜に教会に来ても、ニコールが現れることはなかった。ニコールの両親いわく、彼女はずっと部屋に籠ってブツブツとベルゼブブの名前を楽しそうに呼び続けているというのだ。

そんな中だった。ニコールが妊娠しているという話を、彼はニコールの両親から聞いた。

「妊娠?」デュ・ボーが怪訝そうに問いかけた。
「きっと、あの悪魔の子だよ」
オブリー氏はランに向かった際、大聖堂を訪れて、デュ・ボーにそのことを打ち明けた。彼はやっと、左手一本での生活に慣れてきたようだった。
「……なぜだ?お前の子と言うことも考えられよう……」
「だって、僕は、彼女を抱いたことがないんだ」
オブリー氏の告白に、デュ・ボーは目を丸くした。親友の彼でも初耳の事だったのだ。
「なんだって?」
「あの子が僕を嫌っていたのは知ってたよ。だから、彼女を抱くことなんてできなかった。相手がその気でもないのに無理やり抱くなんて、強姦と何ら変わりがないじゃないか。それに、夜の営みがなくても立派なクリスチャンの夫婦たれることは、歴史上の偉大なキリスト教徒たちが証明しているからね……僕は、彼女と臥所を共にしたことは、神に誓って一度もない」
「それで……」デュ・ボーは震える声で言った。
「ニコールはその子を、どうするって?」
「産むに決まってるじゃないか」オブリー氏は力なく言い返した。


オブリー氏の予想通り、ニコールは子供を産み落とした。当然、テレーズ修道院長にもド・ラ・モット神父にもデュ・ボー司教にも、彼女は自らの息子の名付け親になることを許可しなかった。彼女は自分で、自分の息子をこう呼んだ。
「ニベルコル。貴方は、ニベルコル」
ニベルコル。
ニコールと、ベルゼブブ。
彼女は息子に、幸福を見ていたのだ。オブリー氏たちとは決して相容れない、真っ黒い幸福を。

ニベルコルが生まれて二か月ほどたった時の事だった。オブリー氏は、ニコールの両親から、ニコールがいなくなったと聞かされた。
両親が語ることには、深夜にニコールの部屋から奇声が聞こえたらしい。ニコールの取り乱すような声が聞こえたのだ。
「ああ、ベルゼブブ!ベルゼブブ!待ってたわ、私の愛しい人!さあ来て、私を抱いて!」
しかしその後、恐ろしい声とともにバキバキと言う音が聞こえたというのだ。そして、ニコールの悲鳴が聞こえた。彼女の両親は、恐ろしくてどうしても部屋の扉を開けることができなかった。
やっと静かになったころ、両親がおそるおそる扉を開けると、そこにニコールはいなかった。おびただしい血が舐められたような跡が床に残っており、後はニベルコルが寝ているだけだった。
ニコールはどこに行ったのか。もう、誰にも、それを知るすべはなかった。

ニベルコルはオブリー氏が引き取り、育てた。彼は全く普通の子だった。デュ・ボー司教によって洗礼を受け、カトリックの信徒になった。本当に、彼は全く普通の男の子として成長した。
ただ、一つだけ彼の成長過程で起こったことがある。彼が七歳になったある日、オブリー氏は彼の体に異変を見つけた。小さな、小さな蠅の羽のようなものが、ニベルコルの背中に生えていたのだ。

オブリー氏はニベルコルには言わず、黙ってそれをむしり取った。

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ニコール・オブリー 第十話


ド・ラ・モット神父の教会の扉をデュ・ボー司教が開いたとき、その場にはニコールに取りついたベルゼブブとド・ラ・モット神父、ニコールの両親、それにテレーズ修道院長がいた。彼らは最初、もはやあきらめた様子だったが、やって来たのがデュ・ボー司教とみて一気に顔色を変えた。ベルゼブブも、目の前の人物がどうやら一段上の存在であると感づいたようだった。
「司教殿!」ド・ラ・モット神父が駆け寄った。「教皇庁においでのはずでは……」
「こんな非常事態に帰らずにいられますか」彼は外套を脱ぎ、首元に飾った十字架のネックレスを握りしめてベルゼブブに向かい合った。
「お前か、私の親友の妻に取りついたものとは」
「親友の妻?はは、偉そうな方が来たと思ったら、あの悪魔の親友かい」
「悪人?」デュ・ボーは眉をひそめる。「もう一度行って見ろ、ルイが悪魔だと?」
「本人に聞いてみればいいじゃないか」
デュ・ボーはオブリー氏に振り返る。オブリー氏はびくりと縮こまってしまった。今ではすっかり、ベルゼブブに委縮してしまったのだ。
「彼は……嘘をついてはいないよ、ジャン」オブリー氏は震える声で言った。「僕が……僕が彼女を不幸にさせたから、彼女は今こうなのだから」
デュ・ボ―はその言葉を聞いて、何か考えたようだった。彼はド・ラ・モット神父とテレーズ修道院長にも聞いた。
「もしやこの者、貴方方も、悪人だと……?」
「そうなるでしょう。司教様」神父は言った。「偉大なる貴方様とは違われます。無能な私のせいで……ニコールや、何人ものキリスト教徒が苦しみました」
「なるほど……」デュ・ボーはすうっと息を吸った。ベルゼブブは勝ち誇ったように笑う。だが、彼はニコールの目を通してみたものに驚いた。彼は、今まで話してきた他の聖職者と同じように、その言葉に微塵も怯んでいなかった。
「ド・ラ・モット神父。祭壇をお借りしますよ」彼は全く落ち着き払ってコツコツと音を立てて祭壇に昇った。「なんだ?ふん、無駄なことだ。オレをそんなまやかしの道具で祓えはしない。お前も所詮、困っているこの哀れな娘を助けられやしないさ」
「いかにも。だがお前も、主なるキリストそのもとになら退散せざるを得まい?」
「なに?」
ベルゼブブの声が少し上ずったのを、デュ・ボーは聞き逃さなかった。彼は祭壇の中から、白いものを一つ取り出した。それは、ミサに使う聖体だった。デュ・ボーはそれを静かにも地、ベルゼブブに近づく。
「は……」と、ベルゼブブ。「そんなもので、オレが払われるとでも?無駄さ、それはただのパンだ!聖歌や聖遺物がただの唄、ただのがらくたであるように……」
「ただのパンではない」デュ・ボーは言い切った。「これは聖なるキリストの体だ。お前にもそれは分かろう」
そして彼は、有無を言わさずその聖体をカサカサに乾ききってひび割れたニコールの唇に押し当てた。すると、たった一瞬だった。ニコールの体はばたりと気を失ったように倒れた。ギラギラ光る眼は閉じられた。

オブリー氏も、ド・ラ・モット神父も、ニコールの両親も、テレーズ修道院長もみんな、その様子に面食らっていた。
「皆さん」デュ・ボーはしんと静まりかえった教会内で、言った。「貴方達に罪は何もない。まず、そのことをどうかご理解ください。悪いのはただ、実際に彼女に危害を加えた、オブリー夫人を食い物にしたこの忌まわしい悪魔だけです。その他の誰にも、罪などありません。いかなる理由であろうとあなた方が彼女を実際に痛めつけたのではない限り、貴方がたのせいだなとという言葉は、ただのまやかしでしかありません。むしろ、貴方達は立派だ。貴方達のような敬虔な信徒なら、イエス・キリストご自身が真実、語りたいことは何だったかもお分かりのはずだ。彼は奇跡を行いました。しかし、それが彼の教えの全てでしたか?イエスが伝えたかったことの本質は、力ではなく、無償の愛であったはずです。この惨めな姿になった少女をそれでも憐れみ、そばにいる貴方達の愛が神の道でなくて、一体何が神の道でしょう。悪魔祓いができないからと自らの信仰を疑っては、主なるイエスを悩ませた無理解な者達と同じ。どうぞ、胸をお張りください。貴方達は悪人どころか、立派な信仰者であることを、どうかお忘れのないよう」
彼はニコールを担ぎ上げた。
「ルイ。奴はまだ、お前の妻の体から出きってはいない。聖体で気を失っているだけだ。気絶している間に、ランに、私の司教座に運ぼうと思うのだが、いいかね」
「ああ……」
オブリー氏はあふれる涙をぬぐいながら、言った。
「もちろんだ」
「ありがとう」デュ・ボー司教は笑って言った。「ド・ラ・モット神父。テレーズ修道院長。お疲れ様でした。ご夫妻。さぞ、お辛かったでしょう。後は、私めにお任せください。貴方がたの上に神の祝福があられますよう」
四人も、泣きながらその言葉を真摯に受け止めた。
「は。司教殿。神様が貴方をお守りくださいますように」


ラン大聖堂での悪魔祓いが始まった。ヴェルヴァンの悪魔憑き女がやって来たとあって大勢の野次馬が集まる中、デュ・ボー司教は司教冠を被り、色鮮やかな赤紫の祭服に、司教杖を持って盛装し、ベルゼブブの前に現れた。そんな彼の首元でも、やはり光るのは粗末な古い十字架のネックレスだった。
彼はベルゼブブに言った。
「悪魔よ。主なるイエス・キリストの名において命ずる。すぐさま、この女性の体から出て行け!」
「は、断るね……」
ベルゼブブはそう言った。だが、デュ・ボーは助祭にあるものを持ってこさせた。それは大量の聖体だった。
それを見て、暗闇にぎらつくニコールの瞳、いやベルゼブブの瞳は泳ぐ。
「いくら貴様でも、キリストの体には弱いのだな。さあ……もう一度偉大なるインマヌエルの名においてお前に命ずる」
彼は細長い指で聖体を掴んだ。そして、ニコールの眼前に突き出した。
「ただちに、そこから出て行け」
聖体を目の前に突き付けられて、ニコールについた悪魔たちはそろって悲鳴を上げた。ニコールの肉体は苦しみ悶え、激しく体を丸めた。彼女の頭蓋骨すら歪んだ。愛らしかった丸顔は衝撃と苦しみのあまり縦に、横に長くなり、死体のように青ざめていた今までとは言ってからって血が以上に昇って今でも張り裂けんばかりに真紅に染まった。彼女の目もまた。枯れるのように飛び出しかたと思えばその反動で眼孔の中に陥没した。はっはっと息の上がる口からは長い舌がだらんと垂れていたが、悪魔に取りつかれた証だろうか、それは普通の赤色ではなく、まるで気味の悪いヒキガエルか蛇のように黒の斑点を持っていた。
野次馬たちは流石に見かねたものも多かった。だが、当のデュ・ボーは全く攻めの手を休める様子もないまま、聖体を押し付けて叫んだ。
「呪われた魂どもめ、貴様らに命ずる!この聖体の中に現存された我が主イエス・キリストの名によって、この哀れな女性の肉体から速やかに立ち去れ!」
そのことがは力強くラン大聖堂に響いた。野次馬たちも気味悪がっている場合ではなかった。彼らも司教に押されるように、一心に神に祈った。
と、その時だ。
バキバキバキ、とすさまじい音がした。まるでニコールの全身の骨が砕けてしまったようだった。それと同時に彼女の口が開き、その中からおぞましい黒い影の一群が追い立てられるように去っていった。
民衆は悲鳴を上げる。黒い影たちは急いで地面に去って行ってしまった。
「ああ、くそっ……役立たず共……」
ニコールの体の中に入るベルゼブブが彼女の口を通して、悔しそうに呻いた。ベルゼブブに付き従っていた悪霊のレギオンが、その時ニコールの体を追い出されたのだ。
民衆は歓声を上げた。ニコールの肉体はぐったりして、いったん動かなくなり、ものも言わなくなった。

ニコールは数日間、嗜眠状態にあった。ただ、悪霊が抜けたせいだろうか。老けてさえ見えるほど弱っていた体は若々しさを取り戻してきた。
ただ、肝心のベルゼブブ、それにアスタロトとケルベロスはしばらくの間姿を著そうとしなかった。ニコールの体に潜伏していることは間違いないのだが、とラン大聖堂に集まった民衆は口をそろえて言った。
それは、嗜眠状態のニコールの肉体に起こった数々の事で明らかになった。カトリックとユグノー、両方の医者がデュ・ボー司教に許可を得てニコールを起こそうと試みたが、それらすべては骨折り損になった。そればかりか、ナイフで痛みを与えてみようとした時に限っては、近づけたナイフが燃えて消えさえすらした。
2月1日までその籠城は続いたが、結局最後に値を上げたのは悪魔の法だった。デュ・ボー司教が一つ試してみようと、聖体を昏睡状態にあるニコールの唇にあてたのだ。するとたちまち、ニコールの肉体、すなわち悪魔たちは意識を取り戻黄、うめいて苦しんだ。民衆はどよめいた。
「悪魔ども。だんまりもさすがに、いい加減にしろ」デュ・ボーは怒りを込めた声で言った。何日間も昏睡状態なら、ニコールの体も弱ってくる。ニコールが死ぬまでここにいるつもりか、と司教は言いたてた。
「即刻、この女性から出て行け!」
「うるさい、神の奴隷が!」ベルゼブブはニコールの体の中から怒鳴った。
「はん、神、神とお前はなんてうるさいんだ」ベルゼブブはうんざりしたように言う。
「神は正しいもの。神は信ずべきもの。その神を崇めて何が悪いというのだ。神はこの世界を、我々を作ってくださった」
「お前らにそう言われたいかと言っているのさ、神もな!お前たちは実際、なんて罪深い奴らだ」ベルゼウブは叫んだ。そしてニコールの肉体の上体を起こして、悪魔祓いを見にやって来ていた一人の貴族の青年を指さした。
「例えば、そこの青い外套の金髪の奴なんて先日女乞食を金で犯した」
その衝撃的な発言に、その青年貴族は色耐えた。民衆の目は一気にニコールの体ではなく、彼に注がれたのだ。ベルゼブブははそれを見て、ニコールの唇を満足そうに歪ませて笑うと、今度は逆方向に居た老人を指さし「そうだ、そこの緑の上着を着た禿の爺さんだって、息子の妻と関係を持ったっけな……」
今度はその老人に注目が集まった。老人の隣にいる息子と思しき中年男性が「なんですって!?」と父を問い詰める。老人はしどろもどろになった。
「で、そっちの赤いスカーフの女は物を盗む癖がある。つい先週の市だって……」
「やめて!」
赤いスカーフの若い女が叫んだ。
「まだまだ言ってやろうか?オレはみんな知っているぞ、ここにいる奴の知られたくない罪をな!」
彼は得意げに言った。ラン大聖堂に集まった民衆は皆、背筋が凍りついた、。急いで逃げだそうと思った者もいるだろう。だが、逃げ出せない。逃げだしたら、自分にはとても人には聞かせられない罪があると公言するようなものだ。
ベルゼブブは非常に楽しそうに笑った。「そこのお前、お前は……そうだ、そこの婆さんも……そこの若い助祭も!」
ベルゼブブに自分の罪を暴かれたものは、皆顔を青くした、嘘では、はったりではない。この少女の体に取りついている悪魔は間違いなく目の前にいる人の罪を暴けるのだと、誰もが確信した。
ラン大聖堂はパニック状態になった。「あなた、どういうこと!?」「お前こそ!」「そんなことしていたんですか!」「この人間の屑!」
悪魔祓いどころではなくなった。ベルゼブブは高笑いしていった。
「どうだ!お前たちはオレ達の事を悪魔と呼ぶが、お前たちとて罪人さ!ああ、怖い怖い!人間はなんと怖いのだろう!我々悪魔より、人間の方がよっぽど怖いくらいさ、そうじゃないか?オレ達は悪と言うことを自覚している、だがお前たちは罪を背負ておきながら善良面して生きられるのだから!」
収拾がつかないほど騒ぎになるラン大聖堂。デュ・ボー司教の隣にいた若い助祭も、うなだれて床に突っ伏してしまった。ベルゼブブはいよいよ面白そうに笑った。
「どうだ!お前達は所詮、悪魔さ。神なんぞにすがることはない、神の創った世界は、所詮すべてきれいごとだらけ……」
だが、彼の演説は打ち切られることになった。ただの一瞬、ラン大聖堂を引き裂くような大声が響き渡った。

「しずまれ!」

デュ・ボーだった。彼の鶴の一声に、騒いでいた群衆はそれに圧倒され一気に黙り込んだ。
「クリスチャンたちよ、何を恐れている!悪魔の言うことに耳など貸すな!」
「しかし……」誰かが言う。
「しかしもへったくれもない!私は静まれと言ったのだ!」
デュ・ボーの大声に、彼はまたしても黙り込んだ。一つ咳払いをすると、デュ・ボーは続けた。
「クリスチャンたちよ、惑わされるな。神はこう言われた、『人間が心に思うことは、幼き頃から悪いのだ』。……主なる神は、我々の悪徳など、そのベルゼブブが言う前に、とうの昔にご存じだ。そして、この場に罪深くない人間など一人もいるまい!この私ですら罪人だ!思い出すがいい、この悪魔に指摘されるまでもなくお前たちは昔からこう学んできたはずだ。人間は生まれながらに原罪を背負った存在、原罪なき人間など主なるイエス・キリストと無原罪の御宿り聖母マリアしかおらん!だが、主なる神は人間がそうだと知っていてなお我々を愛して下さり、一人息子を差し出してくださったのだ!」
デュ・ボーの演説が、朗々と響き渡った。パニックになっていた人々も、それをいつの間にかじっくりと聞いていた。
「聞け、クリスチャンたちよ!自らに罪があると知ったのなら、絶望するな!ただの絶望は広き門、地獄へと通じる門でしかない!自らの罪を見つめ、悔い改めよ!我々罪深い人間に必要なのは自分の罪がないと言い張ることではない、自分の罪を自覚し、告解し、悔い改めることだ!そして父なる神はろくでなしの放蕩息子を泣きながら出迎えた父のように、悔い改めた人間を必ず救ってくださる。人間に、神の想像の範囲外の悪事など犯せるものか!救われない人間など、いはしない!告解に参れ、その為に我々は神の使途としてこの座に立っているのだ!」
パニック状態は、いつの間にかおさまっていた。デュ・ボー司教はをそれを見届け、さらにこう続けた。
「そして、身内の悪を知ってしまった者よ。主なるイエスがこう言われた言葉を思い出せ。『人を裁くな』。罪を犯しても、告解し悔い改めれば救われるのだ。最後に人間を罰せられるのは、神でしかない!それを超越した罰など、たかだか人間にする権利はない!もしもお前の大切な人が罪を認めず悔い改めもしないのならばまだしも、心の底から悔い改めたなら、お前は彼を、彼女を許すがいい。それこそが天に積む富、主なるイエス・キリストの道を行くということだ!」

もう、誰が悪事を犯した、犯されたで騒いでいた群衆は、そこにはいなかった。みんな、言にベルゼブブに罪を暴かれたものは、その場に膝を負って祈った。デュ・ボーはそれを見届け、一息ついた。ベルゼブブは憎しみのこもった目でデュ・ボー司教を見つめていた。
「おのれ……」
「嘘ではない範囲でのいびつな真実をさも絶対の真理のように歌い上げ、あたかも彼らが極悪人、神の生きた世界に生きるべき存在ではないと思わせてから、自分のペースに引きずり込む。罪悪感や絶望で、人の目を曇らせる」デュ・ボー司教はすかり落ち着き払って言った。
「悪魔の常套手段だな。私には通じん。卑怯者め」
「卑怯者だと……」
ベルゼブブは自分の手農地を暴かれたことに憤っているのかとデュ・ボーは思った。だが、少しの血にそれは違うと分かった。自分を睨みつけるニコールの瞳の井戸が、大理石のような白に早変わりしたのだ。
「貴様……ベルゼブブ様を、馬鹿にしおって!」
声も変わった。アスタロトが表面化したのだ。群衆たちは再び、違う悪魔の出現に恐れおののいた。だがデュ・ボー司教はまた聖体を掴むと「呪われた魂が!私は、主なる神とイエス・キリストを今貴様に見せることで、祈り、福音、聖遺物、それらすべてに寄らず、貴様に退去を命じる!即刻、その女性から出て行け!」
アスタロトは主人のベルゼブブを侮辱されて相当気が立っていたら叱った。その時、何日も立ち上がっていなかったニコールの体が寝台から立ち上がってゆらりと起き上がったのだ。どよめきが起こった。
「人間風情が……!」
ニコールの腕を、アスタロトは延ばし、司教の首を掴んだ。だがデュ・ボーは少しも怯えることはなかった。険しい目で彼女を睨みつけていた。かと思った、その時だ。彼はさっと手を動かし、聖体をニコールの唇の中に突っ込んだ。アスタロトが表面化した、ニコールの肉体の。
「なっ……アスタロトは慌てた。かえってデュ・ボーに近づいたことが仇となってしまった。彼の悲鳴が響き渡った。ニコールの口から、また再度、黒い煙が出てくる。
「おのれ、おのれ、人間め!」
アスタロトの高い叫び声が満場の人々の耳をつんざいた。しかし、その声もすぐに消え去った。アスタロトが祓われたのだ。
ニコールの肉体は、再び気を失ったかのようだった。彼女は床に倒れ伏した。しかし、ほどなくしてもう一度起き上がった。四つ足で。
今度は、ニコールは犬のうなり声そのものと言う声を上げた。彼女は牙をむき、怒りクスった表情でデュ・ボーに噛みつこうとした。
だが、デュ・ボーはそれをいなす。そしてすかさず、もう一つの生態を口に放り込んだ。立間に、四つ足のニコールは再度地べたに倒れ伏し、ハッハッと病気にかかった犬のように舌を出して苦しみ始めた、やがてもう一つ黒い影が、犬のうなり声と共に去っていった。ベルゼブブの眷属、ケルベロスも払われたのだとデュ・ボーには分かった。
「残りは貴様だけだな。ベルゼブブ?」デュ・ボーは言った。しかしその時、ニコールの左手に異変が起きた。
ニコールは気を完全に失い、うんともすんとも言わなくなった。その代り、彼女の左手に黒い正気が渦巻いた。
「ジャン・デュ・ボー、この野郎……」ニコールの唇が動きすらしなかった。声は、彼女の握られた左手から漂ってきたのだ。
「まあ、いい、ここにいるオレをどうやって払う?偽善者の司教様」
してやられたか、とデュ・ボーは思った。しまった、此れでは聖体を直接投与できない。レギオン風情の下級の悪霊たちにはまだ見せるだけで十分だったが、アスタロトとケルベロスにはそれが聞かなかった。だからこそ、ニコールの口に直接投げ込んだのだ。しかし、きつく握られた握りこぶしの中、どうやってニコールの体が死んでしまわないうちにベルゼブブを締め出せるだろう。

ベルゼブブ一人での籠城は続いた。やはり医者たちが手を開かせようとせめて試みたが、やはり無駄だった。ニコールの左手は、非常に固く閉じられ、針を指そうが刃物で切ろうが、血すらも出なかった。
デュ・ボー司教は考え込んだ。早くこの悪魔を祓わねば。さすがの彼も、この状況にあせった。
その間、ラン大聖堂は本来の役割も戻りつつあった。即ち、ベルゼブブの一件をきっかけに、国会に現れる人々が後を絶たなかったのだ。デュ・ボーは彼らの姿を見て、神の国に思いをはせた。「(なんとしても、なんとしてでも、あの忌まわしい悪魔を祓わねば……)」

ある夜だった、彼の頭に、一つ考えが浮かんだ。彼はそれを実行することに、迷いなどなかった。

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ニコール・オブリー 第九話

オブリー氏の家に入る使用人たちとニコールの家族は、急いでド・ラ・モット神父のもとを訪ねた。深夜に扉を叩いた音に神父は何事かと不審に思ったが、馬車の中で何物かが奇声をあげて叫び散らしているのを聞き、一瞬で異常を察知した。
「これは……」
ド・ラ・モット神父は面喰いながらも、一人、馬車の中に案内されるがままに入った。馬車の奥には、ぐったりとしたニコールの姿があった。しかし、その目だけが、暗闇でもぎらついている。そして、彼女は16の少女の声では断じてない、低く重苦しい声で言った。
「来たか、神の使い……とはいえ、まだ下っ端のようだな」
彼女の軽やかな声をよく知るド・ラ・モット神父はそれに大いに面食らった。「ニ、ニコール?どうしたんだい、その声は……」彼は恐る恐る聞いた。
「はは、オレはお前の良く知るニコール・オブリーではない。いかんせん、オレは誰かと対話するだけの脳みそを持ち合わせてはいないからな。こうでもして脳みそを借りないことには、ろくすっぽ喋れもできんから借りてるだけだ」
「借りてる?」ド・ラ・モット神父は言う。「では、君は、一体……?」
「さあね、当ててみたらどうだ?この女の守護天使とでもいえば満足するか?」
「ふざけるな!」神父は言った。「天使に憑かれているのならば、この少女の顔色がそんなに悪いはずはないだろう!」
「ふん、では言ってやる」ニコールの姿をしたそれは言った。其の低い声が、ド・ラ・モット神父のみならず、その場に居た人々と頭と心臓に直接響き渡った。暗闇の中、その声一つでどうしようもない不快感が立ち込めたのだ。その日、ヴェルヴァンに悪魔が本格的に舞い降りたのだと、誰にも分かった。
「大悪魔ベルゼブブ。それが、オレの名前だ」


悪魔に取りつかれたニコールはド・ラ・モット神父の教会に運ばれた。だが、神父も本物の悪魔に退治したことなどない。
彼は昔の書を頼りに手探りで悪魔祓いを行おうとしたが、ベルゼブブはそんな彼をニコールの体に入ったまま嘲笑するだけだった。ただド・ラ・モット神父が彼に質問を投げかけると、彼はまるで余裕を見せびらかすように、自分たちの事について異状に素直に語った。
「その少女に取りついているのはお前だけなのか?ベルゼブブ」
「いや。オレの仲間も一緒だよ。オレの忠実な僕アスタロトに眷属のケルベロス。それに悪霊のレギオン(軍勢)たちがな」
「なぜ、この少女に取りついた?」
「こいつが一番取りつきやすかったからさ」
ベルゼブブはその場に居たオブリー氏の方に振り返ってまで、げらげらと笑って言った。
「お前がこいつの夫か?つくづく、お前の妻の馬鹿さ加減には笑ってしまったぞ。勝手に何でもかんでも自分を苦しめていると思い込んで、かってに悲劇の女主人公ぶりに酔っている。だから、悪魔なんぞに騙されるのさ、実際、お前も悪い買い物をしたものだ。商人が聞いてあきれるね」
「あなたは……」オブリー氏は妻の姿で自分をあざ笑うベルゼブブに、うめくように言った。
「ニコールが騙されやすい子だから、ニコールを選んだというですか」
「ああ、そうだとも。オレ達悪魔は、誘惑する存在だ。誘惑に打ち負けやすい心を持っている人間ほど、餌にしやすい。甘い行動や嘘泣き、それにちょっと、嘘ではない『現実』でも見せてやれば、心に穴の開いた人間ほど簡単に勘違いをするものさ。飴と鞭と言うやつだ」
「心に、穴……」オブリー氏は言った。
「知っていました。ニコールが、寂しがっていることは、知っていました」
「ほう?」
「僕を、愛していないことも。僕にも、ニコールの気持ちは分かるつもりでした。こんな年上の男と結婚させられて、若い女の子が喜ぶはずはないでしょう。だから、僕はせめて僕なりにできることを精いっぱいしたつもりでした。結局それが、ニコールに届くことはなかったけれども……」
オブリー氏は頭を抱えた。ニコールの体に取りついたベルゼブブはニヤニヤ笑いながら彼のその姿を見ていた。
「でも僕の事はさておき、ニコールが被害妄想の激しい子だったとしても、彼女なりに悲しかったのはそれはそれで間違いなく真実だったでしょう。貴方は、貴方は、そんな彼女の心に付け込んで、罪悪感を感じはしないのですか」
「感じるわけがないだろう。お前、今誰と話していると思っている」ベルゼブブは嘲笑った。
「こいつはな、オレを悪魔だと知って、それでもオレを愛すると言ってきたのさ。その時のコイツの台詞を教えてやろうか?傑作だぞ。『悪魔の何が悪いの?』……だと!あははは、馬鹿にもほどがあると思わないか!?悪魔の何が悪いも何も、悪いから悪魔になるんだというのに!」
オブリー氏はそれを聞いて、うなだれた。ニコールはさらに笑いながら、彼に畳み掛けた。
「ルイ・ピエール・オブリー。お前がいなければ、この女がこうなることもなかったかもしれんなぁ……あの時、お前がお前の恩人の家を助けてやろうなどと言う偽善心さえ起こさなくては、彼女がこう不幸になることはなかったのに。お前が彼女の心の穴を埋めてさえいれば、こうなることもなかったというのに」
「そんな……」
「オレは性悪だが、お前もなかなかどうして悪魔並に悪人じゃないか。ルイ・ピエール・オブリー」
彼の言葉を聞いて、オブリー氏は言葉を失う。「貴様、何を!」と言ったド・ラ・モット神父にも、彼は言った。
「お前もだろう?ド・ラ・モット神父。不幸な人間を救うのは聖職者の務めじゃないか。お前がそれを怠ったから、今のような事態が起こった。何か違うのかい?」
ド・ラ・モット神父も、それには言葉を失ってしまった。ベルゼブブはさらに笑った。
「ははは……何もかもお前たちの責任さ、愚かな人間どもめ!お前たちは所詮、罪にまみれた偽善者さ!」

悪魔祓いは難航した。ド・ラ・モット神父は教会に伝わる聖遺物と言うものすら持ち出したが、それは全く聞かなかったばかりか、ベルゼブブは「そんなもの真っ赤な偽物だぞ。ごみ箱にも捨ててしまえ」と言い切った。
ヴェルヴァンの悪魔付きの女のうわさは瞬く間にフランス中に広まった。何人かの聖職者がド・ラ・モット神父の教会を訪れた。しかし、やはり彼らもベルゼブブに有効なことをできるわけではなかった。
ユグノーの牧師たちは彼らの祈祷書を手にベルゼブブに祈ったが、ベルゼブブは相変わらず余裕な様子で彼らをあしらった。
「は、祈りや賛美歌でオレを追い払えるつもりか?ちゃんちゃらおかしいな。名もなく悪霊程度ならまだしも、貴様らが退治しているのは大悪魔ベルゼブブだぞ」
「私は神の名において汝を祓う」牧師は重々しく口を開いた。
「ふふ、神がお前ごときの頼みを聞いてくれるものか。悪魔に祈った方が早いのではないのか」
「口を慎め!私は悪魔ではなく、神に仕える者だ!」
「はっ、言うな」ベルゼブブは怒り狂う牧師をも悠然と笑い飛ばした。
「ふん、この哀れで愚かな女一人も救えない無力な奴に、神も名を名乗られたいものかね?」「貴様……」
「はっきり自覚するがいいさ。ここにいる役立たずのド・ラ・モット神父も一緒だが、普段はきれいごとを言っておいてこういう時に何もできないお前達こそ、罪深い存在じゃないのか。悪魔を祓いたいのなら、どうぞ存分に払え、お前の心の中で」
ベルゼブブは終始そのような形で、取りつく島もなかった。日が過ぎる連れ、ベルゼブブに取りつかれたニコールの肉体はみるみるうちに衰弱していった。顔色はいよいよ慕いじみてきて、潤っていた少女の肌は次第に乾燥してきた。彼女の全身の生命力は、ただ一点、暗闇でも化け猫のようにぎらぎらと光るようになってしまった彼女の目に飲み注がれているようだった。
ド・ラ・モット神父やオブリー氏、ニコールの両親、それにテレーズ修道院長は彼女をそれでも心配していた。「自分たちが彼女を追いつめたのだ」というベルゼブブの一言を心に病んでいたのかもしれない。
ユグノーの牧師たちはまだ訪れたが、やはりベルゼブブにかなうものなどなかった。彼は自分の従える悪霊たちに命じて、ある牧師に取りつかせその場で発狂させすらした。
「主よ、主よ……」必死で祈る彼、フォスケというカルヴァン派のドイツ人だったが、に、ベルゼブブはこう言い放った。
「主?そんなもんより、ルシファーに祈った方がいいぞ。そちらの方が確実さ」
「ルシファーなぞに、悪の権化に、心を売るか!」悪霊に心を蝕まれながらそう言った彼らに、ベルゼブブは冷たく言い放った。
「お前たちのそこが矛盾してるのさ。お前たち、いつも言っているだろう?神とは正義だ、神とは力がある……なら、罪深く無能なお前たちは神じゃなくて、ルシファーに属するに決まっているじゃないか。いつまで偽善を振りかざしているつもりだ。まあいい。すぐにルシファーを崇めるようになるさ」
そう言って彼が指を鳴らしたと同時に、フォスケ牧師は発狂してしまったのだった。ド・ラ・モット神父やテレーズ修道院長が、どれほどその時辛かったことだろう。カトリックとユグノーの違いはあれど、同じくキリストを信仰するものが悪魔に蝕まれていく様子を見るのは耐え切れなかった。しかし、どうすることもできなかったのだ。自分達では。
ベルゼブブは、そんな彼らを更に責めた。
「どうした?神父に修道女。いや、女衒と売春婦と言った方が、お前達には正しいか?お前たちはいつもこう言っているな、困ったときはお互い助け合うべきと……ほらほら、あいつらを助けてみろ。できんのか。このような時動けないのなら、貴様らは一体、何のために聖職者をやっている?」
ヴェルヴァンの教会には、退魔を試みる人や、面白半分にそれを見に来る人が来こそすれ、純粋に祈りに来る人はいなくなってしまった。モントルイユ・レ・ダム修道院の評判も落ちた。寄付金が目に見えて減ったうえ、出て行く修道女たちも多く出た。テレーズ修道院長はそれに、何も言い返せなかった。
1565年のクリスマス、ド・ラ・モット神父の教会は、唯一、鐘を鳴らすことはなかった。ミサの祈りの代わりに、ベルゼブブの嘲笑うような声が一晩中聞こえていたのだ。
クリスマスが終わり、信念が明けても、事態は全く好転しなかった。ニコールにはもはや、愛らしい16歳の少女の面影は全くなかった。
オブリー氏やニコールの両親たちは、それでも彼女を見捨てられなかった。ベルゼブブにののしられながら、それでもニコールの身体を放っておくことができず、彼女の心配ばかりをしていたのだ。
そんな冬の日の事だった。オブリー氏の家の扉を急いで叩くものがあった。オブリー氏が何事かと驚いて窓の外に目をやると、外に止まっているのは立派な馬車だ。そして彼はそれに見覚えがあった。
「ジャン!?」
彼は急いで玄関に踊りでた。目の前にいたのは、ジャン・デュ・ボー司教だった。
「ルイ……聞いたぞ。お前の妻の話を……。済まない。もっと早くに来てやればよかった」
デュ・ボーはクリスマスの前後、ローマ教皇のところに出かけていたはずだった。彼にも仕事や用事があるのだ。オブリー氏はそれをきちんと受け止めていた。
旅用の外套を着たデュ・ボーは旅の疲れの残る顔をしていた。もしかすると、とオブリー氏は思う。
「ジャン……君、妻の話を聞いて帰ってきてくれたのかい……?」
「当然だ」彼は言い放った。「お前の妻に取りついた悪魔とやらは、今どこに?」
「ド・ラ・モット神父の教会だが……」
「分かった。一緒に行こう」彼はオブリー氏を馬車に乗せた。馬車には、ランからヴェルヴァンまでの旅路にしては多すぎる荷物が集まれていた。彼は、イタリアからランにも帰らずヴェルヴァンに直行したのだろうということがわかった。
オブリー氏は自分の顔に涙が流れるのがわかった。「どうした?」デュ・ボー司教が聞く。
「ずいぶんと疲れた顔をしているな。大変だったのだろう。今まで、お疲れ様」
彼の白い手が外套の中から古びたハンカチを取り出し、オブリー氏の涙をぬぐった。オブリー氏は、デュ・ボーこそ疲れた顔をしているのに、と言いたくも言えず、ただただ、感涙にむせび泣いた。1566年1月3日のことだった。


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ニコール・オブリー 第八話

ニコールは、気が付くと自宅のベッドに戻っていた。ベルゼブブは、ベルゼブブはどこに居るのだろう。
彼と会いたい、会いたい、どうしても会いたい。彼女の心がざわめきたった。あれこそ、あれこそ、私の運命の相手なんだ。私達は離れ離れでは生きてはいけない。
彼女は思っていた。苦しみに、恋い焦がれに、目の前が真っ暗になるような思いだった。庭の林檎の木から、葉っぱがごっそりと落ちていた。

遠くから、悲鳴が聞こえた。ニコールにはわからない。ピエール・ド・ラ・モット神父の悲鳴だった。
ド・ラ・モット神父は、その日もキノコ狩りに出ていたのだ。そして、見つけてしまった。野兎の一家が穴の中で、何者かに無残に生きたまま食い散らかされたのだろう。見るも無残なグシャグシャの血まみれの骨の塊が、穴の中にあった。本当に、恐ろしい光景だった。

その日の夕方、オブリー氏はヴェルヴァンに帰った。ニコールの出迎えがないのを不審に思った彼は、「ニコールは病気かい?」と召使に言った。そうでもないと言うので、彼は自ら妻の矢に出向いた。
ノックすると、妻がものすごい勢いで出てきたのにオブリー氏は面喰った。ニコールがその次に、あからさまな舌打ちをしたことにも、彼は皿に面食らった。
「ニ、ニコール……どうかしたのかい」
「何よ、帰って来なきゃよかったのに。あんたなんて」
彼は不審に思った。ニコールは少し、顔色が悪くなっているようにも思えた。
「調子が悪いのかい?」
「あんたが帰ったから、悪くなったかしら」ニコールは少し熊のできた目で笑いながら言った。
「あんた、汚らわしいのよ。その欲にまみれた体で、私に近づかないで。分不相応なのよ」
「ニコール……」
どうも調子のわからない妻に戸惑いながら、それでもオブリー氏は話そうとする。すると、ニコールは振り返っていった。
「うるさいわねえ!私にはね、あんたみたいな汚れた男よりも何倍も素敵な、運命の騎士様がいるのよ!ほほほ、嫉妬する!?するわよね!あんた、人間の屑だもん!私たちの純粋な愛が憎くて憎くてしょうがないのよね!私たち、あんたごときに引き離されなんかしないわよ!あんたが賄賂渡してうまい汁吸わせてもらってる、生臭司教様でも何でも出てきなさい!私達の愛の絆は何者より強いのよ。神様にだって引き裂かれやしないんだから!」
彼女は異常なほどまくしたてた。何か精神的な疾患を起こしているのじゃないか、とオブリー氏はいよいよ慌てる。
「ニコール。落ち着いてくれ。僕はそんなこと考えてもいないよ……」
「せっかくだからね、憎い男の名前を教えてあげるわよ、この色魔!」ニコールは、その丸い目を以上にぎらつかせて叫んだ。
「ベルゼブブっていうのよ!あんたなんかとは比べものにならないくらい、素晴らしい人!」
そう言い捨てて、ニコールはバンと扉を閉めてしまった。オブリー氏は茫然と扉の前に立ち尽くしていた。使用人たちも、大声を聞いて集まってきた。
「……とにかく、今、彼女を刺激するのは良くない。お前たち、とりあえずは放っておきなさい。誰か、話ができる人を連れてきた方がいいかな……ああ、そうだ。お前、すまないが今すぐモントルイユ・レ・ダム修道院に言って、テレーズ修道院長に連絡を取ってくれ。ニコールも、彼女相手になら少しは話もするかもしれない」
彼が指示を出し、使用人の女性の一人がすぐに馬車を出した。とにかく今は妻を落ち着かせよう、とオブリー氏は判断したのだ。
「一応、彼女の分の食事を別に用意しておきなさい。彼女が好きなものにしておくように」
「はい、ご主人様」
そのようなやり取りをして、オブリー氏はまず自分も落ち着かなくては、と居間で一息ついた。先ほどのニコールの発言、発言自体は荒唐無稽だが、何か引っかかるものがあると彼は思った。
「(ベルゼブブ……ベルゼブブ?その名前、どこかで……)」
彼ははっと思い出した。間違いなく、デュ・ボーの本の中に出てきた悪魔だ。
「(ニ、ニコール……君は、一体!?)」


やがて、テレーズ修道院長がやってきた。オブリー氏は走って彼女を出迎えた。
「オブリーさん、ニコールに一体何が……」
「……とにかく、まず話を聞いてください。修道院長。……もしかしたら、僕の妻は大変なことになっているかもしれないのです」

オブリー氏は事情を離した、ニコールがわめいた、「運命の騎士様」の存在。そして、その名がベルゼブブだということを。
テレーズ修道院長も、聖職者だ。ベルゼブブの名前は分からないはずがなかった。
「もしかして……オブリーさん。ニ、ニコールは……」
「……とにかく、僕が相手ではニコールは話をしないでしょう。修道院長、お願いできますでしょうか」
テレーズはうなずいてそれを受けた。


扉の中から出てきた教え子の様子を見て、テレーズも驚いた。顔色が明らかに悪い。テレーズにもオブリー氏にも分かることではないが、オブリー氏が先ほど除いた時よりも彼女の顔は輪をかけて真っ青になっていた。
ニコールは、テレーズ相手だとさすがに少し話す姿勢を見せた。「ニコール。落ち着いて」彼女は言った。
「オブリーさんの留守中、貴女に何があったのか、話してちょうだい。話さないと、何もわからないわよ」
「は、嫉妬に駆られて行動に出てきたってわけね、あの惨めな寝取られ男め」ニコールはまたいわれのないことを言うと、「いいわ、教えてあげる。先生。あたしが出会った、運命の愛について」と、鬼気迫るような口調で言った。
ニコールはテレーズ修道院長に、一方的に語り続けた。不思議な力を持った物言わぬ美青年と自分が、どれほどまで純粋な美しい愛を築いてきたか。そして彼との愛を通じて、どれほど自分の周りが偽善に満ちた汚らしい世界であると悟れたか。
「先生、どうせあなたも、神だのキリストだのの名前を使ってさ、私を責めるんでしょ!?私には愛をすることも許されないの?あんな地獄みたいな結婚を強いられて、そのままでいることが私の運命だったの?運命はこっちよ!でも、ここの世界のあんたたちがみんな口そろえて言うのよね、旦那に従えって!先生、私ねえ、分かったんだ。私、この世界に生きるべきじゃないの。こんな汚い世界に、私の生きるべき運命はないの。色欲まみれのあの人や、偽善に満ちた貴方方に味方する、悪い、悪い、誰よりも悪い神様が、私を苦しめるためにここに送っちゃっただけなのよ」
「ニコール……」
「なあに?」
「貴女の考えに今どうこう言うつもりはありません。けど……ひとつ言わせてちょうだい。ベルゼブブっていうのはね、フランス語のベルゼビュート、悪魔の名前なのよ」
それを聞いて、一瞬、ニコールも目の色が変わった。
「貴女は」
テレーズ修道院長は思い切って言った。
「貴女は、悪魔に誘惑されたのかも……知れないのよ」

ニコールは目を瞬かせた。彼女の顔が、テレーズ修道院長には恐ろしく思えた。干からびたように生気を失った、青白い顔。まさに、悪魔に憑かれた人間の顔だったからだ。
「いいわよ。それでも私は、この愛に生きる」
ニコールは言った。
「別にいいわよ。大体何?『悪魔』って。そんなもの、貴方達が勝手につけただけじゃん」
彼女はゆらりと立ち上がって、軽く修道院長の胸ぐらをつかんだ。
「愛してるのよ。心の底から。あの人の事。貴方達は悪魔っていう言葉に惑わされて、何がいいか、何が悪いのかもわからなくなっちゃってる。私は分かるわ。あの人の優しさが、暖かさがわかる。貴方達とは違うのよ。真実の愛を何も知らない、貴方達とは」
彼女はテレーズ修道院長の胸元の、十字架のネックレスを力を込めて引っ張った。修道院長は悲鳴を上げた。やがて細い鎖が外れ、十字架が引きちぎられた。ニコールはそれを床に投げして、思いっきり踏みつけたのだ。
テレーズ修道院長は彼女を責めなかった。ただ、悲しそうに、床に落ちた十字架を拾い上げた。
「ニコール」彼女は言った。「また来るわ」
「二度と来なくていいわよ」
ニコールがそう吐き捨てるのを、心を引き裂かれるような思いで聞きながら、テレーズ修道院長は教え子と別れた。

「どうでしたか?」と聞くオブリー氏に向かって、テレーズは力なく首を横に振った。


暫く、ニコールの部屋の扉を叩くものはいなかった、ニコールはそれがいい気味だ、と思った。自分の部屋の扉を叩く人は、一人だけでいい。
彼女は庭を眺めていた。そして、くすっと笑った。
「あはは……なにあれ?林檎の木の枝が、ぽろぽろ落ちてる」
と、その瞬間だ。ノックの音と同時に、彼女が待ち望んだ声がした。
「開けろ。ニコール・オブリー。私だ。アスタロトだ」
その声を、待っていた。
彼かと思ってあの汚らしい夫が出てきたとき、本当に、気が狂うかと思ったのだ。
「アスタロト!」彼女は走って、扉を開けた。向こうには、いつも通りの彼が立っていた。しかし、いつもと違うものが一つ、あった。彼は、ここに来ることはろくになかった。
「ベルゼ……ブブ?」
ベルゼブブが、直接自分の部屋に来たのだ。

ニコールは部屋の扉を閉めて、二人を部屋に案内した。ベルゼブブはソファに腰かけた。アスタロトは立ったままだ。
ベルゼブブはじっと彼女を見つめていた。アスタロトが、口を開いた。
「分かってしまったらしいな。ベルゼブブ様と、私の正体が」
「ええ」
彼女は言い返した。
「お察しの通り、我々は悪魔さ」
悪魔。全てに、納得がいった。あの不思議な力を仕えたのは、悪魔だったからこそなのだ。
ベルゼブブは、切なげな眼でじっとニコールを見ていた。彼女の後ろに飾られた青色の薔薇を指した花瓶も。そしてニコールは、そんな彼を見ていた。
「ベルゼブブ様はこうおっしゃっておられる。……どうする。ニコール。我々は、お前たちキリスト教徒が何より憎む、悪魔さ。お前達と愛を育むことは、許されない存在だ、と。」
そう言われることが、彼女にも何となくわかっていた。しかし、彼女の中で、答えなどとっくに出ていた。先ほど、修道院長に言ったばかりなのだから。
ニコールはベルゼブブの手を握った。そして、自分の方から彼にキスをした。先ほどまで怒りに満たされていた心が、みるみるうちに暖かい充足感に包まれていった。これが、幸福だ。彼女はそう実感した。
「それでも、あなたが好き」
ニコールは、ベルゼブブを抱き寄せて、彼に騙りかけた。
「悪魔だからって愛が許されないなんて、そんなのおかしいわよ。悪魔の何が悪いの?勝手に、神様なんかを信じている人たちが貴方達を、自らの掲げるモラルに都合が悪いから悪魔に貶めちゃった、それだけでしょ?あいつら、偽善者だもん。私、知ってるわ。貴方がどんなに清らかなのか。貴方が、どんなに優しいのか。貴方が、どんなに愛情深いのか」
ニコールは彼の手に頬ずりをした。ベルゼブブはそんな彼女を戸惑うように見つめていた。
「びっくりしてるの?こう言ってくれた人、いなかった?可哀想に……」
ニコールは彼に優しく、母親のような慈愛を込めて発言した。
「大丈夫。私、全部わかるから。貴方の寂しさも、孤独も、全部受け止める。あなたといれば私は幸せ。何も怖くないの。神様も、何も怖くない。私、あなたを愛してるから」
暫くの間、沈黙が流れた、ニコールはその沈黙を、たまらなく心地よく思った。
「それが、お前の答えか」アスタロトが言う。
「ベルゼブブ様は、お前の口からその言葉が聞けて、大変喜んでおられる」
アスタロトの発言に合わせて、ベルゼブブも、ニコールを抱き返した。彼の目から流れるものがあるのが、ニコールには分かった。暖かい滴が、彼女の頬にたれてきたのだ。ニコールは細長い指でそれをぬぐった。
「ニコール・オブリー。私も侍従として礼を言わせてもらおう。……私はしばらく席を外す。私がいては無粋だろうからな」
アスタロトはそう言い残して、ふっと姿をくらましてしまった。後には、ベルゼブブとニコールだけが残された。
ニコールは照れ臭そうに笑って、もう一回彼のキスをする。外では、夕日がいよいよ沈みそうだった。夕霧が強く立ち込めていた。
長い、長いキスだった。彼はゆっくりとニコールを抱きしめ、そしてベッドに連れて行った。ニコールも、抵抗しなかった。それどころか彼女は、彼女が今まで感じたことのないような女の悦びに体が疼くのを感じた。
スカートの中にある彼女の若々しい腿に、手が這わされた。ニコールは小さく声を上げる。それを聞いてベルゼブブはもう一方の手でニコールの唇や耳を愛撫した。
彼は、上着を脱いだ。彼の逞しい体があらわになった。ニコールは彼になされるがまま、服を脱がされ、裸になった。桃色に染まった体で、彼女はベルゼブブに抱きついた。
彼女は、ベルゼブブに抱かれた。五臓六腑が満たされていくのが彼女には実感できた。体中が幸福だ。生まれて初めての経験だった。彼に抱かれている。永遠の愛を誓った相手に。
ベルゼブブの体が一気にうごめいた。彼女自身の体も、悦びに一層強く打ち震えた。猛すぐだ。もうすぐ、自分が何より望んだ瞬間が来るとニコールには理解できた。
ニコールは気が付かなかった。その時、庭で林檎の木が幹から折れて地面に倒れた。ズシンと言う音は、彼女の耳にわずかだが入ってきた。
そして、その直後だったのだ。ニコールの体が悦楽に蝕まれたたと同時に、彼女の視界は真っ暗になった。


真っ暗な視界のなか、ニコールは何かを見た。自分を強姦しようとした三人組だ。彼女は嫌悪感を持ち、彼らから距離を取ろうとした。
すると、彼らは三人寄り集まり、三つの頭を持った黒い犬へとその姿を変えた。彼はうなりながら、ニコールの方を見ていた。
良く見てみると、その犬を何者かがならしていた。「アスタロト?」彼女は問いかけた。その人物は確かにアスタロトそっくりだった。
だが、自分の方に向けられた視線を見て、彼女は驚いた。その人物は、人間にはあり得ない、大理石のような白い肌をして、眼孔の中に輝く瞳まで、抜けるように真っ白だった。
「なに……?ここ、どこ……?」
ニコールはそう問いかけた。
「お前は」アスタロトが言う。
「お前は本当に、我々にとってありがたい女だよ。ニコール。……私たちはお前のようなものが、一番獲物にしやすいのだ。お前のように、与えられた幸せを幸せとも思わず、勝手に不幸になっているような奴らがね」
ニコールはどういう意味かと、問いかけようとした。だがその時、アスタロトの真っ白な手がニコールの顔を掴んだ。彼女の視界は黒ですらない、無になった。そして視界を奪われた彼女は、体中が一気に何者かに浸食されていく感覚を、ただの一瞬味わった。ただの一瞬で十分だったのだ。彼女の理性、彼女の意識はそこで途絶えた。

ヴェルヴァンはすっかり夜になっていたが、そこに帰ってくるものがあった。巡礼に出ていたニコールの両親だ。
彼らは馬車の中で、彼らが旅でしたことについて各々話し合っていた。そしてやはりその中で最も話のタネになるものは、道中行き倒れた少女を助けてやったことだ。
自分達と同じように巡礼の旅に出たが、暴漢に襲われてしまった少女と、彼らは帰り道でであった。そしてすぐさま、彼女を助けようということになったのだ。
女に必要なものがよく分かるニコールの母の方が、彼女に必要なものを急いで買いに走って、彼女がいつ気を失ってしまっても大丈夫なように力のある父のほうが宿屋を見つけて彼女をそこに運び、そしてあるだけ金を渡した。やがて母も合流し、彼らは宿屋の中で歓談した。
「なんで助けてくれたんですか?」と、目を潤ませながら言う少女に、父も母も言った。
「当たり前のことをしただけですよ」
まるで、良きサマリア人の例えだ。彼らは我ながらそう思っていた。困った時はお互い様だ。助け合うべきだ。ニコールの父も母も、そう思っていた。
ニコールの祖父は、確かにろくでもない男だった。だがそれでも、彼も一人の人間だったのだ。煉獄に行き、自らの罪を後悔しているのであれば、自分たちは彼のために祈る。彼を許す。それが神の望んだ道、人の歩むべき道だと、彼らは確信していたのだ。
「ニコールはどうしてるかな?」父が言った。そして、彼らはまず娘の家を訪ねることにした。
そして、愕然とした。オブリー氏の家は、てんやわんやだった。ニコール・オブリーは発狂したのだ。

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ニコール・オブリー 第七話

その日も、オブリー氏はラン大聖堂を訪れた。いつも通り、大量の物資を持って。
「司教殿は?」彼はいつも通り若い助祭に尋ねる。助祭は「もうじき終わると思いますので、待っていてください」と言った。オブリー氏が見ると、デュ・ボー司教はステンドグラスを磨いていた。
薔薇窓の中にぽつりと映る人影が消えてしまうまで、彼は明るい大聖堂の中で待った。そして、自らの周りのすべてに平安があるよう、偉大なる神に祈った。
「やあ、ルイ。待たせたな」
「ジャン。いや、いいんだよ」ようやく終わったのは、一時間ほどしてからだった。「それにしても、ステンドグラス磨きくらい人を雇えばいいのに。君も司教の身分なのだから」
「それもそうだが、そんなことをする金は惜しい」デュ・ボーははっきりと言い切った。
「今日はパンとチーズとワイン。それに妻の実家の売れ残りをもらって、持ってきたんだ」
「肉屋だったか?」
「そうだよ。売れ残りだからあまりなくてすまないが……」
「何を言う。君にはいつも世話になっているのだ」
オブリー氏がわざわざ今日来たのにも理由があった。彼は毎週、この曜日に日課にしていることがある。それは勿論助祭たちも百も承知で、「司教様、スープの用意ができました」とほどなくしてデュ・ボーに話しかけた。
「よし、では、行くぞ」
彼は生き生きと立ち上がる。彼の首元で十字架のネックレスが揺れた。
子供でも持っていそうな、古ぼけた、シンプルな十字架のネックレスだ。他のお偉い司教が持つような、金でできて、ルビーやダイヤモンドををちりばめたものじゃない。でも、彼はそんなものよりも、このネックレスを子供のころから何より大事にしていた。
「お前も来るか?」デュ・ボーはオブリー氏に問いかけた。
「勿論。僕も手伝わせてもらうよ。今日はそのために顔を出したようなものでね」
「すまないな」
険しい顔をほころばせ、照れくさそうに司教は笑った。

馬車に大量の荷物と、スープの入った大なべを入れ、デュ・ボーは町のはずれの貧民街の方に向かった。貧民街の中にぽつりとできた広場に彼と助祭たちが大鍋を下ろしたころには、もう呼び集めるまでもなく、貧民たち、特に子供たちがわらわらと群がって来ていた。
「司教様、いつもありがとう!」
「礼などいらないよ。我らの主、イエス・キリストはこう言われたものだ。『天の国は、君たちのようなものにある』……さあ、みんな、並んで並んで。焦らなくても食べ物はたくさんあるよ」
彼は器にスープを注ぎ、パンを添えて貧民たちに渡す。彼はユグノーの論客たちを相手にする時とはうって変わって、楽しそうだった。オブリー氏も彼のその表情に満足し、パンやハムを小さく切り分けて渡した。

これはデュ・ボーが自らの治める教区内で定期的に行っていることだった。貧しい人々に無料で食べものを配り、その後は聖書や読み書きを学ばせる。なんせ慈善事業だから、行うのにもえらく金がいる。そう言うわけで司教が自ら窓ガラス拭きをするほど、デュ・ボーは切り詰めた生活を送っているのだ。
そこで毎回毎回、オブリー氏も助けるために物資を送っているというわけである。オブリー氏がデュ・ボーに持ってくる食料や衣服、毛布の類は皆貧民街に行く。そして、デュ・ボー本人はもちろん、彼と一緒に質素な生活に付き合わされる助祭たちも、オブリー氏もそれに不満を持ちはしなかった。
確かに、贅沢をできなくはなる。しかし、この瞬間ぱあっと笑顔になる貧民街の人々、中でも子供の無邪気な笑顔は何にも勝る、とオブリー氏は心底思っていた。自分に子供がいないから余計に可愛く見えるのかもな、とも思いつつ。
貧民街の人々はスープやパンを食べながら、デュ・ボーの説教を聞いていた。
「金がないからと言って、自らの信仰心を疑われるのではないか、と恐れる者がいる。しかし、信仰と言うものは本来金で換算されるものではない。たとえば、主なるイエスは貧しいやもめがした銅貨二枚の賽銭を、他の貴族の賽銭よりも称賛したものだ。人の心以外に、主に対する信仰心を計れるものなどない。だから、神を信じることを何も恐れることはない。賽銭が少ないと言って金持ちがお前たちを笑えば、それはお前達ではなく、その金持ちが悔い改めるべき存在なのだ」
子供たちが前に、大人たちが後ろになって、皆デュ・ボーの話を聞いていた。オブリー氏はようやく給食の仕事がひと段落ついたので、ずいぶん後ろの方で幼馴染の姿を見ていた。
彼は、この瞬間が一番輝いているように思える。赤紫のきらびやかな司教服に身を包むより、こうして貧しい子供たちに食料と学を与え、ただ神の道に準ずる姿が、彼にはあっているようにすら思える。
デュ・ボーは昔から、本当に真面目だった。神の道を行き、神の道に準ずること以外、彼が望むことは何もなかった。聞けば、この前のユグノーの論客は彼の事を「司教なんて贅沢三昧をしている偽善者だ」と言ったらしい。憤慨すべきことだ、と彼は思った。酒を飲み女を侍らす、司教とは名ばかりの生臭坊主たちはデュ・ボーがユグノーより、破廉恥な物語より、何よりも嫌うものだった。おそらく、そのユグノーはデュ・ボーの事もランの事もよく知らないよそ者だろう。彼は、非常に屈辱的な思いをしたことだろう。デュ・ボーがもう少し大々的にこの慈善事業を行っていればそう言われることもなかったのだろうが、そう言えば彼はこう言うはずだ。「主なるイエスは言われた。『汝、断食をする際には頭に油をつけ、顔を洗え』」。
それでも、彼はのし上がることを望んだ。望まざるを得なかったのだ。今でこそ幸せそうな幼馴染の顔を見て、オブリー氏は思いをはせた。

「お隣、よろしいですかな?」
一人の男が隣にやって来た。オブリー氏は顔をほころばせる。ルフェブール公爵だった。
「公爵殿。いつも、ご機嫌麗しく……」オブリー氏は頭を下げようとしたが、公爵は鷹揚に笑って断った。
「いいですよ。この場で、そんなことは無用。『神の国では、全てが平等』ですからな」
「すみませんね。つい、癖で」
公爵はオブリー氏の隣に腰かけて、優しい目でデュ・ボーや、彼に説教される子供たちを見つめた。とてもとても、公爵の位を得るために悪事を働いた人間とは思えない、慈愛に満ちた目。
ルフェブール公爵も、この集まりによく顔を出す人物だった。
「いつ来ても、ここでは、心が洗われる」公爵は言った。
オブリー氏は彼の事もよく知っている。公爵に上り詰めたはいいが、自責の念に駆られた彼がラン大聖堂に駆けこんだ日の事を、彼自身から聞かされた。
きっと自分は地獄に落ちる。救われるはずがない。そう言いながら懺悔した数々の悪事に対して、デュ・ボーは「悔い改めなさい」と言った。
「悔い改めれば、救われる」
その言葉が、絶対に救われないと思っていた公爵にとってどれほどの救いであったことか。
その日から、公爵も慈善事業の手伝いに、ちょくちょく金を持ってくるようになった。そして、自らの金でできたスープを喜んで飲む子供たちの顔を見に、よくこの場にやってくる。「本当に」ルフェブール公爵は言った。
「地位、金、名誉、色々なものに執着してきましたが……それにも勝る幸福が、ここにはあります。あの司教殿には、それを思い知らされましたよ。私の恩人です。本当に……神の国に居るようなお方だ。もちろん、それを助けていらっしゃるあなたも」
「貴方もですよ。ルフェブール公爵」オブリー氏は言った。
「悔い改め、金を自らのためではなくあの子たちのために使うと決めた日から、貴方も神の国に入ったのです」
「ええ。……今でも、たまに、自分がこうも幸せでいいのかと思いますが……」
「みんな、幸せになる権利はありますよ」オブリー氏は顔をほころばせて笑った。
「世界は捨てたものじゃありませんな」
「ええ、世界は、こんなに善で満ちている」
その場のだれもが、幸せを感じていた。甘い事ばかりではない。厳しいこともたくさんある世界だ。でも、広場に集まる彼らは人の優しさを、善を、心から信じられた。だからこそ幸せだった。

「ところで」公爵が、他には聞こえないようにこっそりと聞いた。
「以前から聞きたかったことがあるのですが……」
「なんです?」
「貴方は司教様の昔からのお知り合いですよね?……司教様が、悪魔に取りつかれたことがある人間だというのは本当ですか?」
「ええ。過去に……二回」
「なんと……」
「一回は、私どもの故郷で。二回目は、ソルボンヌ大学に居た時です」
オブリー氏は思いだしていた。彼がソルボンヌに居たころ、彼に手紙で語られたことの顛末を。

ソルボンヌの神学生たちは、都会のパリに出たことで気分が浮かれて、夜はこっそり寮を抜け出して遊びまわるものが多い、とデュ・ボーは一々手紙でこぼしていた。彼も先輩たちに、居酒屋や怪しい宿に誘われたことが何度もあるそうだ。もちろん、心底神を信じる真面目一本な彼はそのたび断っていた。そのせいで彼が周りからのけ者にされていることが何となく読み取れるような話が多かったが、当のデュ・ボーは気にしていないようだった。
そんな中の事だった。彼が、淫魔に襲われたと手紙に書いて送ってきたのは。

孤立しがちな彼には、心の底から尊敬する先生がいた。彼はその人をよっぽど心のよりどころにしていたらしい。オブリー氏も、手紙で何度も彼の事を聞かされていた。
デュ・ボーの手紙にはこう書かれていた。
「淫魔は、忌まわしいことをした。あれは僕の心から尊敬する先生に化けて、僕の部屋にやって来た。僕は、先生を勿論迎え入れた。何の警戒もなしに。だが淫魔はその本性を現し、先生の姿のまま、僕をベッドに押し倒した」
彼が受けた数々の仕打ちが、事細かに書かれていた。彼はどうしても、尊敬する先生の姿をした存在に抵抗することはできず、全てなすがままにされた。年若い美少年の体と心は、さんざんに蹂躙されたのだ。
手紙にはこう書いてあった。
「でも、いよいよ僕はつらくなって、淫魔の手に燭台の刺で傷をつけたんだ。奴は気が付かなかったようだった」
それから、さらに彼の受けた仕打ちの事が続いた。少年の日のオブリー氏は何回も手紙を投げ出したくなったが、それでも友がこの苦しみを吐き出す対象として自分を選んだのだと思い、最後まで読み切った。手紙の後ろの方には、こう書かれてあった。
「淫魔は、実に狡猾な奴だった、後日、先生は僕にいつものように優しい笑顔で話しかけてきた。けど、僕が淫魔につけたはずの傷がなぜか先生の手にも同じようについていたんだ。淫魔が僕を惑わすため、先生まで傷つけたのだと分かったよ」

分からなかったはずがない。そのことを、デュ・ボーが解らなかったはずがない。それでも、彼はこう思わなくてはやっていけなかったのだ。
彼は分かっていたはずだ。それ以来、彼はどうしても出世する、と何回も手紙で言うようになったのだから。「あいつらは、自分より立場の高い者の言うことじゃないと絶対に聞かない」と言って。其の頭には、きっと、あの「淫魔」の姿があったのだ。
卒業して、彼は出世するために身を粉にした。彼らの時代、カトリックは腐っていた。手早く出世するために、要領のいいものはこっそり上に賄賂を贈ったり、邪魔になるものを聖職者と言う高い立場を利用して消したりした。だが、デュ・ボーはそれをしなかった。当然だ。彼は、そう言うものが憎くて、出世したかったのだから。
彼は全くの善行を積んで積んで積み続けた。賄賂などなくても、周囲が自分を聖職者に相応しいと評価せざるを得なくなるほどに。そこに、どれほどの苦労があったろう。命に通じる道は、狭き門から入らねばならない。彼の選んだ道は、悪事を行うことよりもずっとつらく、ずっと苦痛が伴う道だったはずだ。
それでも、彼は成し遂げた。彼は、司教になった。そして、今がある。

だから、本当は、彼が悪魔に取りつかれたのは一回だけなのだ。あの、幼いころの一回だけ。

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ニコール・オブリー 第六話

アスタロトは言葉通り、その後何回もニコールのもとにやって来た。彼女を自分の主のもとに案内するために。
案内される場所はいつも知合っていた。広場であることもあったし、秋とは思えない季節はずれの花畑も、うっそうとした深い森の奥の事もあった。
ニコールはベルゼブブにどんどん惹かれていった。彼はいる。夢ではない。彼は自分自身が感じられる不思議な存在ではあるが、それでも実在しているのだ。そう実感するたびに、彼女の中の幸福な気分は膨らんでいった。
オブリー氏が帰ってからも、アスタロトはニコールを連れだした。オブリー氏は全く気が付いていないようだった。(もっとも、気が付けと言うのも無理な話ではある。)彼は、ニコールに「最近、幸せそうだね」と言った。
彼女はそれに対して「ええ、とっても幸せなの」と返す。ニコールはベルゼブブのそれとは似ても似つかないほどさえない彼の笑顔を気持ち悪いと思いながら、そう返した。

ある日、彼女はどことも分からない冷たい湖の畔でベルゼブブ出会った。ニコールが来た時、彼は水晶の板のような水面をじっと凝視していた。
だが彼女が「こんにちは」と返した瞬間、その湖よりも透き通って輝いて見える瞳を、彼はニコールの方に向ける。ニコールはその瞬間がたまらなく好きだった。彼の目に自分が映る、その瞬間が。
湖の畔はひんやりしていた。彼はニコールと肩を寄せ合いながら、彼女の話を聞いていた。
「ねえ、ベルゼブブ。私、本当に幸せだわ。生まれて初めてってくらい、幸せ」
彼女が笑う。ベルゼブブも、彼女と一緒に笑った。彼の笑顔は非常に上品だ。見れば見るほど、ニコールが頭に思い描いていた美しい騎士のようだ。
ニコールは彼に、そのようなことも話した。彼の美しさをほめたたえる目的で。
「物語の中の貴婦人様みたいに、貴方みたいな綺麗な男性に出会うのが、私の夢だったの。貴女はその夢をかなえてくれたのね。ねえ、貴方は誰なの?私をからかう妖精さん?それとも、私を救いに来てくれた天使様?」
その言葉を聞いて、ベルゼブブの肩が一瞬はねたように思った。彼女は怪訝に思ったが、自分の方からこの話題は打ち切ることにした。ベルゼブブは、自分の正体を明かしたがらない。
「ごめんなさい」彼女が言うと、ベルゼブブは許可すると言わんばかりに首をふった。そしてニコールの傍からいったん離れ、立ち上がると湖の方に向かった。
「何してるの?」ニコールも彼のそばに駆け寄った。彼は細長い指を平らな水面におく。丸い波紋が一つ生まれた。ベルゼブブはその波紋を、力を込めて睨みつけた。
と、その時だ。破門の中に、景色が浮かんだ。
本の中の挿絵とはくらべものにならない、リアルな景色だった。まるでニコールがその場に居るような。景色は、彼らの目の前で動いていた。
何処かもわからない、フランスなのかもわからないところだが、宮廷の舞踏会のようだった。まさにニコールが憧れたような貴族のお嬢さん方が、花やリボンに彩られた豪華なドレスに異を包んで、同じように美しい若い男性とダンスを踊っている。彼らは花びらが春風に舞うようにくるくると、軽やかに動いていた。
それは、ニコールが想像していたような華やかさよりもずっと上の華やかさだった。いくら裕福な家とはいえ、一般市民だ。このような舞踏会にニコールが縁があったはずがない。全くただのイメージで思い描いていたものよりも、湖に映し出される本物の貴婦人たちの暮らしは何段も華麗だった。
ニコールは夢中でその映像に目を凝らした。夢見たものが、ここにある。彼女はその光景を少しでも多く、目に焼き付けたかった。美しい。なんと美しい光景だろう。なんと清らかな光景だろう。
倦怠、偽善、矛盾に満ちた、自分にとっての現実世界とは違う現実がここにはある。輝かしく純粋な、夢の世界がここにある。ニコールはよっぽど、その池の中に飛び込みたいほどだった。かすかに自分とその景色の間に揺れ動く波紋が、彼女の心を押しとどめた。

その日ニコールは、帰ってもあの景色が忘れられなかった。あれは、自分の理想の世界だ。夢にまで見るどころか、夢にすら見れなかったほどの理想の世界だ。ベルゼッブは、それと自分をつないでくれる。
彼の存在が非常に輝かしく思えた。ニコールは、自分がなぜ本が好きだったのかをわかるような思いだった。
本は、自分の理想と自分をベルゼブブほどではないにせよ繋いでくれた。聖職者や聖書の説くモラルの世界は、自分の幸せに何の意味もなかったのだ。
「(本だけが、私の味方だったんだわ。恵まれない人生を送っている、私の。でも、今はそれに、ベルゼブブまでもいてくれる)」
ニコールはその日、夢を見た。舞踏会の夢だった。やっとこの夢を見ることができたのだと、彼女は夢の中で歓喜に打ち震えた。

ラン大聖堂で、デュ・ボー司教はユグノーの論客たちと論争していた。何にしろ、ただでさえ頭に血の上りやすい司教だ。論争は異常に白熱した。
「もう一度言ってみろ!」デュ・ボー司教はテーブルを叩いた。
「ああ、何度でも言いますとも!」ユグノーの男性がはっきりと言う。「聖体なんかを主なるキリストの身体と同一視するのは偽善です。偶像崇拝的です。あんなもの、ただのパンでしかありませんよ。聖書に書かれていることを、我々クリスチャンは実践すべきなのです。聖書にないような典礼に縛られているようでは、ファリサイ人と同じ、信仰の本質を見抜けなくなってしまうというのが、そんなにおかしい事ですか!?」
「聖体に価値がないだと!?」デュ・ボーは論客を怒鳴りつけた。「主なるイエス・キリストの御体の奇跡が信じられないものが、キリスト教徒を名乗るな、嘆かわしい異端者が!悔い改めよ!」
「悔い改める必要があるのがどちらですか、欲得に溺れたカトリックが!」論客は言う。「教皇も、枢機卿も、そしてあんたら司教も、その地位に胡坐をかいて、坊主のくせに金を稼いで女を囲って、贅沢三昧してやがる。そんな奴らに異端呼ばわりされたくはですな!貴方がたこそ悔い改めなさい、キリストの道にそむく異端者が!」
その言葉は、デュ・ボーの心をえぐった。
彼は、手をわなわなと震えさせ、怒りで言葉が言えなかった。彼の胸中に渦巻くものがあった。昔の自分自身を、彼は見ていた。若かった頃、ソルボンヌ大学の、穢れも何も知らなかった若き神学生の自分、そして大学に入る前の少年の自分を、彼は心の目で見ていた。
「黙れ」彼はやっと言った。
「何がわかる……貴様に、何がわかる。カトリックの事も、聖体の事も、私の事も……貴様ごときに何がわかる」


それは夕方の事だった。銀色の夕霧がいつも以上に立ち込める幻想的な夕方だった。ニコールの部屋のドアを叩くものがいた。
「ニコール・オブリー。いるか」
アスタロトの声だった。ニコールは大喜びで彼を通した。
彼は扉の前で立ったまま、ニコールに言う。
「今日はベルゼブブ様から、あることを聞いてくれと言われたのだ」
「なあに?」
アスタロトは一つ咳払いをしてから、彼女に言う。
「前日は、あの映像を随分熱心に見つめていたな。お前は、ああ云った世界が好きなのか、とベルゼブブ様は疑問に思っておられた」
「ええ」即答するニコール。
「あの世界こそ、私の憧れなのよ。あの穢れない世界こそ、私の理想なの」
「そうか」
アスタロトはいつもの通り、ニコールの手を握って彼女を部屋の外に連れ出した。ニコールの意識はいつものように混濁していく。庭を通った気がした。庭の林檎の木髪が一つもなくなっていた。いったい誰が全部取ってしまったのだろう。とうとう、ニコールは庭の林檎の木を一つも食べずじまいだった。

ニコールはいつにもまして、自分と言う存在が消えかけるような感覚を味わった。音が聞こえてくる。何の音だろうか。
「(ベルゼブブ、ベルゼブブ、あなたはどこ?)」
自分がどこに居るのかわからない状況で、彼女は心の中でそう問いかけた。すると、その答えが返ってきた。
言葉ではない。だがはっきりと、ここに居る、と言いたげに何者かがぎゅっと手を握って来たのだ。
「ベルゼブブ!」
彼女は目を見開いた。目の前では背の高いベルゼブブが彼女の手を握っている。周囲では、軽やかな音楽が鳴り響いていた。音楽?ニコールは不思議に思った。彼のいる空間は、たいてい静かなものなのに。
そして次の瞬間だ。ニコールはベルゼブブの着ている衣装に気が付いた。金のボタンと金糸飾りをふんだんに使った、とても高貴そうな軍服を彼は来ていた。それは青い記事でできていて、空色の糸で薔薇の刺繍もしてあった。腰にはニコールが現物を見たこともないような、すらりと細長く美麗なサーベルがさしてある。
彼は、黒い手袋をを付けた手でニコールの手を握っていた。そして、深い色の瞳でじっと、微笑みながら彼女を見下ろしていた。
ニコールは驚いて、あたりを見渡した。これは、先日見た舞踏会だ。どこの国なのかもわからない、貴族の舞踏会。
ニコールは慌てた。自分のような平民がここに居たら、恥をかくだけだ。しかし、見下ろすとニコールの目に移るのは、いつものエプロンスカートではなかった。彼女は豪華な絹のドレスをいつの間にか着せられていた。ローブには、うっとりするほど鮮明な青色で、見事な薔薇の刺繍がなされていた。胸や頭には真珠の飾りもある。どこからどう見ても、ニコールは立派な身分の、年若い貴婦人だった。
彼女は落ち着いて、もう一度ベルゼブブを見上げた。彼女の目の前にちかちかと星が飛ぶような思いだった。
彼と初めて出会った時、思ったものだ。これで軍服か鎧を着ていれば、まさに自分が夢見た騎士のイメージそのものだと。
その、そのものが目の前にいた。華麗な軍服を端正な体に纏わせたベルゼブブの姿は、ランスロットにも、トリスタンにも負けはしなさそうなほど壮麗な騎士そのものだった。ニコールの夢そのものが、そこには立っていた。そして、貴婦人となった彼女の手を握っていた。
音楽が高まる。ベルゼブブはニコールの腕を取ったまま、静かに踊り始めた。ニコールもそれにつられて体を動かす。すんなりと体が動いた。均等もしない。足がもつれることもない。まるで生まれた時から何度もこう言うパーティーを経験しているようだ。
ベルゼブブの腕に抱かれ、流れる音楽に聴覚を支配されながら、ニコールはまるで自分自身の感情が水にお墓出て行くような感覚を味わった。。
体を動かし、心臓の鼓動が高まり、気持ちが高潮してくるほど彼女の心は麻痺していく。この場を離れたくない、とも、もう考えなくなっていた。考えを持つだけの時間がもったいない。今この場では、これが間違いなく現実なのだ。こんな色鮮やかな光景が、夢であるものか。自分を見抜く麗しい騎士の視線が、夢であるものか。
自分は、このために生きていたのだ。ニコールは踊りに躍り、もう舞踏会上の光景も目に移らないようになって、そう考えた。これが、自分の人生だ。彼女はひたすら、そう実感した。この一瞬のため、自分は非道徳的と罵られようとも、純粋無垢な美しさを持つ物語の世界に没頭してきたのだ。運命が、自分自身をそう導いてくれるように。
ベルゼブブのエスコートやダンスは完璧だった。周りの貴族たちにも、自分たちは生まれながらの貴族と移っているに違いない。美しく、高貴な恋人たち。まるで物語の主人公たちのような。
ベルゼブブは、彼女を自分の胸に引き寄せた。そして頭をかがめ、じっと彼女を覗き込む。曲が終わったのだ。彼は握っていたニコールの手を持ち上げ、以前と同じように、彼女の手に暖かいキスを落とした。
赤い絨毯。輝かしい舞踏会場。騎士の装いをした彼が、貴婦人然とした自分の手にキスをしている。そのような光景にも、もうニコールは動じなくなっていた。これは、現実だ。現実におびえる必要など何もあるはずがない。だって、そうじゃないか。ヴェルヴァンでつまらない商人の妻であった自分よりも、今の自分が何倍も生き生きとしていることはニコール本人自身がよく分かっていた。

ダンスが終わった後、ベルゼブブはニコールを舞踏場の庭に連れ出した。やはり、外国なのだろうか。秋に咲くはずもない薔薇の花が所狭しと裂いていた。ベルゼブブはその薔薇をしげしげと眺めていると、急に立ち上がって行ってしまった。
ニコールは彼を追いかけようとしたが、そばにいたアルタロトが「お前に薔薇の花束を作ってやりたいとおっしゃっているのだ。待っていてくれ」と解説してくれたので、ニコールも庭の椅子で待つことにした。当のアスタロトはベルゼブブについてやはり行ってしまった。
冷たい夜風の吹きつける庭だった。彼女の火照った頬を、風は優しく冷ましていった。
うっとりとしながら、ニコールはベルゼブブを待っていた。フクロウの声がこだまして聞こえる。あの泣き声すらも、今のニコールの耳には上品な音楽に聞こえる。彼女は夜空を見上げた。黒ビロードに真珠をちりばめたような、良く晴れた輝かしい夜空だ。見れば見るほど、この世界では何もかも美しい。
良く見てみれば、噴水もあった。ベルゼブブと初めて会った広場にあった噴水のように、人魚の像が持つ壺から、何筋もの水晶をとかしたような清潔で透明な水が吹き上がっている。白鳥一匹も泳いではおらず、水面は鏡のようだった。ニコールはそれに見とれた。いつの間にか、自分の顔にはバッチリと化粧もしてあるし、髪も結いあがっている。貴婦人そのものになった自分自身に彼女はうっとりと見とれた。
その時、水鏡に入ってくるものがあった。一匹の蠅だった。彼はふらふらと力なく飛び、まさにニコールが見ている水鏡の上で息絶えた。そしてその体を水面に横たえ、水面には丸い波紋が浮かび上がった。
その瞬間だった。あの日のように、水の上に映像が浮かびあがった。

彼女の見知らぬ裏路地だった。こんな高貴な舞踏場とはくらべものにもならない、汚らしい路地。一人の男が、ニコールと同年代ほどの少女を、その中にある安宿に連れ込んでいた。
ニコールはぎょっとした。男はニコールなどには全く気が付かないように、安宿の老婆に金を払い、少女を一つの部屋に押し込む。そして彼女をベッドに横たえた。彼女はよろよろと力なく上着を脱いだ。汗ばんだ肌の色が、白いシャツを通じてぼんやりと見えた。何を話しているのかは音が聞こえてこないのでわからないが、彼女の汗のむわっとした匂いが感じられるような臨場感だった。
男はベッドの上に横たわる彼女のそばにやって来た。そして自分も帽子を脱ぎ、金貨を取出し、彼女に渡した。その男の顔は、ニコールの父そのものだった。

ニコールは、それ以上は見てられなかった。自分の体全身に鳥肌が立つのがわかった。
「(お父さん……お父さん。そんな……)」
祖父を弔う巡礼の旅に出ている父親、そのものの姿だった。父が、父が、何故。
彼女の頭はこんがらがり、思考が上手く働かなかった。今まで理想のような、夢の世界に居たのだ。それが一気に、乱れた、モラルも何もない世界に引き戻されてしまった。
ニコールは吐き気を覚えた。そんな彼女の耳は、他人の足音を捕えた。ベルゼブブとアスタロトが戻ってきてくれたのだ。彼女は喜んで顔を上げ、彼らにすがろうとした。この苦しみを、誰かにわかってほしかった。
だが、彼女を待ち受けていたのは三人の、全く知らない男だった。

まるで三つ子のようにそっくりな顔をして、豪華な黒いコートを羽織ったその三人は舞踏会の客のようにも見えた。だが、ニコールが彼らに何か言おうとする前に、彼らは無言のまま、ニコールの体を捕えた。
成人男性三人に抑えられて、ニコールに抵抗ができいるはずがない。彼女はあっという間に口をふさがれ、助けを求めることもままならなくなった。彼らが何をしようとしているのか、ニコールには分かった。そして、体中が嫌悪感に湧きたった。
彼らは茂みの中にニコールを押し倒した。そして、一人の男が青い薔薇の刺繍をしたローブに手をかけた。
ニコールの眼に涙が浮かんだ。視界がぼやけた。せめて、せめてこれから起こる光景を愛では認識したくないと体が叫んでいた。
だが、ぼやけた視界に、月の光を逆光にして、何者かが現れた。ニコールが瞬きをすると、涙の膜が剥がれ落ち、それがなんであるのかが分かった。ベルゼブブだ。黒装束の三人は、彼を見て呆気にとられていた。
ベルゼブブは険しい視線でニコールの方を見ていた。そして無言のまま、手に持っていた大きな薔薇の花束を、脱いだ黒手袋と一緒に隣のアスタロトに預けた。そして、空になった手で、サーベルを抜いたのだ。

一瞬だった。たったの一瞬だった。
彼はニコールに乱暴しようとしていた三人組を切り捨てた。彼らは物も言わずに石畳の床に倒れた。
ベルゼブブはサーベルを鞘に収めた。ニコールのその時の感情は、本人ですらなんだったのかがわからない。ただ、彼女の心臓は震えていた。
ベルゼブブは跪いて、彼女の猿轡を外した。ニコールは息を吸い込むと「……ベルゼブブ!」と大声で彼の名前を呼びながら、彼に抱きついた。
「怖かった。とても怖かったわ。ありがとう……ありがとう」
ベルゼブブは優しく、彼女を抱きしめてくれた。ニコールの心臓がこれ以上にないほど早鐘を討つのがわかった。
勇ましく剣を抜き、自分を汚そうとした男たちに制裁を加えてくれたベルゼブブの雄姿が、彼女の脳裏には焼き付いていた。彼女はそれを、何度も何度も頭の中で反芻した。
忘れたかったのだ。あの父親の映像も、自分を襲おうとした者達も。

「(何もかも汚いわ。何もかも、私を不幸にする。でも、唯一違う。清らかなものが、美しいものが、ここにあるわ。この、私のすぐそばに)」
ベルゼブブは彼女をそっと優しく抱き起し、庭の別の場所に連れて行った。彼女もそれに付き従った。

全く静かな薔薇園の東屋で、ベルゼブブは彼女に花束を渡した。その中には、青い薔薇もいくつか混ざっていた。
「ありがとう」ニコールは涙ぐんで、それを受け取った。そして、ベルゼブブにもたれかかった。暖かい、と彼女は感じた。
「ねえ」
彼女が問いかけると、ベルゼブブはゆっくりと彼女の目を覗き込んでくれた、彼の眼はよく光る。暗闇でも光っているかのようだ。
「私、ようやく分かったわ。何もかも汚いの。私って、不幸な女。神様は、私を愛してはくれなかった。この世は全部、偽善だらけよ」
ニコールは全ての感情を吐露した。祖父、夫、司教、周囲の人間を通じて彼女がこの世に持っていた不平不満を、全てぶちまけた。吹っ切れてしまったのだ。父親の姿を見て、あの自分の娘ほどの年齢の少女を飼う父親の姿を見て、そして自分を犯そうとしてきた人々の存在を見て、彼女は全てが吹っ切れた。
彼女は遠慮なく、この世に対するありとあらゆる憎しみを吐露した。偽善者ばかりに囲まれ、望まぬ結婚を強いられた自らの身の不幸を嘆いた。ベルゼブブはただただ、優しい目でそれを聞いていた。パニックになりそうな彼女を、暖かい手で、優しく抱きしめながら。
「でも」彼女は言った。
「でも、ここに、一つ、現実があるわ。……貴方っていう現実が。この世の何よりも清らかで美しい、貴方と私っていう現実が」
ニコールは語り続けた。なんてことはない。これが、現実なのだ、と。
「あんな偽善と汚らわしさに満ちた世界が現実であるはずないわ。モラルをうるさく説く司教のような存在がいながら、何故あの女の子は買われたの。なぜ司教はトリスタンとイゾルデの恋を断罪して、あれを止めないの。偽善よ、偽善よ、全ては偽善だらけ。そんな偽善に満ちた世界が、『現実』であるはずないじゃない。そう思っているのなら、きっと、私たちは皆狂っちゃってるのよ。モラルなんかに犯されすぎて、皆、現実が見えなくなったんだわ」
現実はこちらだ、ベルゼブブの世界だ。
「今私の目の前で私を抱いてくれている、この美しく、勇敢で、真実自分を守ってくれる存在こそ、運命の相手よ。断じてあの、醜くて欲情まみれの夫なんかじゃない」
ニコールは花束の中から一輪の青い薔薇を抜いた。そして、それをベルゼブブの胸に付けた。
「ベルゼブブ。貴方が好き。この世で唯一、貴方を愛しているわ」
ベルゼブブはその言葉を聞いて、そして薔薇の花を受けて、それこそ薔薇の花にも劣らないほどの優美な微笑みを返した。そして、彼女の顔に手を添える。
彼は、キスをした。今度は手にではなく、ニコールの唇に。
長い、長いキスだった。ニコールは全身を、蜂蜜の海に浸されたような思いだった。

自分は、このために生きていたのだ。
自分の手が偽善者の好む聖書ではなく、愛の書物に伸びたきっかけもわかったわ、と、彼はベルゼブブに唇を奪われながら考えた。「(全ては、この瞬間のためだわ。キリストなどと言う欺瞞に目をくらまされ、このベルゼブブとの純なる愛を受け取ることを邪魔しないため、全ては運命が取り計らったのだわ)」
彼女は自らの「甘美」な運命に打ち震えた。
「(グィネヴィアにとってのランスロットのように、イゾルデにとってのトリスタンのように、真実絶対の愛を分かち合える騎士を、見つけた。私は、ついに、見つけたんだ)」
長い、長いキスが終わった。ニコールは体中がとろけてしまったような快楽に襲われた。ふらふらする。真直ぐ座ってもいられなかった。
ベルゼブブはそんな彼女の体をゆっくりと倒し、自らの膝に乗せてくれた。彼女はベルゼブブの膝に抱かれながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。せっかく覚まされた頬が、また赤くなっている。
「(もう、この時が終わるかもと怯えることはないわ。この時こそが、私に本来与えられたものなんだから。私が本来生きる世界なんだから。)」
たとえ、あの汚い世界にまた行くことになっても、必ずこちらに戻ってこられる。ニコールはそう確信し、ベルゼブブの手に撫でられながら、安らかに目をつむった。

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ニコール・オブリー 第五話

不思議なことに、ニコールが帰ってみると、ベルゼブブに貸していたはずのオブリー氏の着替えはちゃんとオブリー氏の箪笥に収まっていた。洗濯したての、パリッとした状態で。とても、誰かが着た後ではなかった。そして逆に、脱がせておいておいたはずのベルゼブブのあの貧しげな服は跡形もなく消えていた。
そしてそれどころか、使用人は誰一人客人が来たことを覚えていなかった。食べ物が減っているのは変わりがないのでそこだけをみんな怪しんでいる。
オブリー氏も帰ってきて、ニコールはまた日常に引き戻された。望まぬ結婚をした夫との、つらい生活。一応、両親がまだ巡礼から帰って来てはいないが、彼らまで帰ってくればもうすっかり元通りだ。

彼女はよくよく、ベルゼブブの事を思い出した。夕焼けの中に溶けていってしまったような、美しい彼との思い出を。
あれは一体なんだったのだろう。自分が見た夢にすぎないのだろうか。彼女は毎日そんなことを考えた。
オブリー氏は帰って来たからと言うもの、ニコールに恋愛物語を読まないように厳しく言い聞かせた。ランの司教に言われたのだろうということはニコールから見てもよく分かった。ニコールも数回、デュ・ボーにあったことはある。
「(でも、がみがみ口うるさくて、本当に嫌な人!)」
貴婦人と騎士の純朴な愛を破廉恥と断罪する男の事が、ニコールは嫌いだった。こんな人間が沢山いればこそ、彼らは悲しまなくてはならなかったのだ。「(もしこの世がいい人間たちばかりだったら、あの美しい恋人たちが悲しまなくて済んだのよ。そうよ、そうだったらどんなに良かったかしら)」彼女は何回も、物語を読むたびそう思っていた。かえって彼女は、モラルを唱える人間が偽善的に見えていた。彼らの唱えるモラルなるもので純朴なものが踏みにじられるなら、それの何が善であろうか。
とにかく、ニコールは夫に縛られ、修道院に本を読みには行けなくなってしまった。召使がとめ、馬車を出してくれないのだ。召使は当たり前だが、ニコールの言うことよりオブリー氏の言うことを聞く。
「(みんなあの人の言いなり。そしてあの人は、司教の言いなり。そして司教は、モラルの言いなり……)」
同じだ。誰も自分に同情しない。この世は冷たい。夢にひたっていられる時間が、自分が一番楽になれる時間なのに、モラルを唱える偽善者たちはそのことを理解せず苦しみを楽とみなせと言う。ニコールは毎日毎日、そう感じていた。そしてそのたび、本以上にベルゼブブを思い出した。
本当にいたのか、ただの夢だったのかもわからない非現実的な彼は、幻想そのもの、夢そのものだった。不思議な力を持った、言葉を話さない、美しい人。どこへともなく消えて行ってしまった人。ニコールは彼の事を、誰も覚えていないのをいいことに誰にも言わなかった。彼との不思議な思い出は自分の中にしまいこんでいきたい気持ちでもあったのだ。
秋はさらに深まっていった。庭の林檎の木は、実がだいぶ落ちていた。ニコールは退屈すぎて、ベッドに寝そべった。
読書するのならせめて聖書を読めと司教は言ったそうだが、あんなものを読んでも面白くもなんともない。おかげで修道院での成績は非常に悪かったのだ。
彼女は寝返りを打って、「ねえ、あの人は、誰だったの?私をからかいに来た、妖精さんだったのかしら」と問いかけた。問いかけた先には、一つの首の長い小瓶があった。その小瓶に、一輪の、可憐な青い薔薇がさしてあった。これだけは、消えることがなかったのだ。ニコールはベルゼブブの思い出を共有できるもの同士、彼女に度々話しかけた。むろん彼女は答えを返しては来ないが。それもまた、ベルゼブブの残したものらしいではないか。


両親はなかなか帰ってこなかった。サンディアゴ・デ・コンポステーラへの旅路はどれくらい長いのだろうか。旅に興味のないニコールにはあまりピンとこない。
ある日教会を訪れた時、ニコールはテレーズ修道院長にあった。彼女は、ニコールが浮かない顔をしているのに気が付いてそのことを問いかけた。なぜ最近あまり訪れないようになったのかも。ニコールは素直に、本を読むことを禁止された旨を言った。
テレーズ修道院長は、ニコールの趣味を良く分かってくれている人物だ。彼女は、趣味を禁じられた教え子に同情の意を示した。ニコールはそれが嬉しかった。むろん、ニコールが心の中でするように、夫や司教に対しての批判はおくびも出さないが、それでも立場上しょうがないのだろうとニコールは納得した。
いつの間にかド・ラ・モット神父まで話に加わった。ド・ラ・モット神父も、「一応、今度オブリーさんにあったら私からも言っておこう」と発言した。彼女はそれに礼を述べた。
「でも、司教様のおっしゃる通り聖書の学びもしたまえよ」
「あ、はい。いずれまた……」
それから彼らは、ニコールの両親が送ってくる手紙について話した。ド・ラ・モット神父はさすがに博識だ。ニコールが知らない地名でも知っていて。彼らは今どこどこに居ると教えてくれる。
「旅は順調なようだ。何よりだよ」
「はい……」
しかしこの話も、余りニコールの望むところではない。弔う価値のない祖父のために、何故両親は過酷な旅をするのだろうか。
誰もかれもうるさくモラルを解く癖にモラルなくして死んでいった祖父は呪われるどころかこんなに大切にされる。「(変な話だわ)」とニコールは思う。
彼女は話に入りたくなくて、テレーズ修道院長とド・ラ・モット神父の言葉を適当に受け流しつつ、目は全くあさっての方向に泳がせていた。
何かが見えた。
教会の隣にある広場、そこに立つ林檎の木の下に一人の男がいた。大きな唾広帽子を目深にかぶった、背の高い男性だった。
「あ……」
ニコールは声を出そうとした。しかし、うまく出なかった。彼女はそばにいる二人にお構いなしに、その場を立ちあがって林檎の木の下までかけた。二人が呼びとめる声は全く聞こえなかった。
心臓がどきどきとなった。自分の頬に赤みがさすのがわかった。胸がざわめき立つ。先ほどの鬱屈とは正反対の、歓喜に満たされた自分がそこに居るのがわかった。

だが、ニコールが林檎の木の下についたとき、誰もそこにはいなかった。ただ、落ち葉がひらりと落ちてくるだけだった。


いつの間にか、またオブリー氏はランに向けて旅立った。彼女はまた、ぼんやりと自分の部屋で暇を持て余していた。せっかくなら、自分もどこかに行って遊びたいのに、と思いながら。
そんな時だった。彼女の部屋に飾られた青い薔薇から、静かに花弁がこぼれた。
ニコールはめんくらった。花弁はひらりと自然に落ちたのではなく、不自然なほどはらりはらりと勢いよく散っていったのだ。彼女が何かするまでもなく、青い薔薇は全て散りきった。
彼女は何とも言えない空虚感に、まず満たされた。また、思いで場ひとつ消えてしまった。そう思って、せめて青い花弁を拾い集めようとした、その時だ。
ニコールの部屋の扉が鳴った。
「誰?」
使用人だろう、と思って答えた彼女の声に、返答してきたのは聞き覚えのある声だった。
「開けろ。ニコール・オブリー。我が主人がお前の事を待っていらっしゃる」

いっそ不自然なほど、男なのか女なのか全く区別のつかない声。ニコールは掌に花弁を乗せたまま、しばらく呆然としていた。だが、扉はまだなる。
彼女は自分の頭に、血が集まるのがわかった。脳が活性化していく。あの日、教会で、広場の人影を見た時のように。いや、それよりも数倍強く。
ニコールは薔薇の花弁をサイドテーブルに丁寧に置くと、急いでとbリアを開けた。とbらの外には案の定、どこから入ったのかアスタロトが立っていた。

「お久しぶり……」
ニコールは震える声で言った。アスタロトは従者らしいお辞儀をすると、ニコールの手を取った。
「さあ、こちらだ」
「あ、ちょっと……」
使用人に見つかるかもしれないじゃない、とニコールは言おうとしたのだ。しかし、そんな心配はなかった。
どうやって移動しているのか、皆目わからない。気が付いたときには、彼女は名前もわからない通りに連れて来られていた。
周りの景色に見覚えがない。知らない町だ。一応、フランスではあるようだが。彼女はうろたえていたが、彼女の手をつかむアスタロトはさも当然であるかのように彼女を案内した。
彼はニコールを連れて通りを闊歩する。そして、一つの広場についた。広場には人魚の像が手に持った壺から水を噴き上げる噴水があり、そこに黄色い落ち葉が浮いていたが、後は水鳥すらも泳いでおらず、ましてや人間は不思議すぎるほどに人っ子一人いなかった。ただ一人を除いては。
ベンチに座っている人物がいた。それは間違いなく、ベルゼブブだった。

「ベルゼブブ……!」
ニコールは彼に会えた感激で体中が沸き立つのがわかった。ベルゼブブが穏やかに笑って彼女を隣に案内した。アスタロトはそばに立ったままだ。
彼女はもちろん喜んで、彼の隣に座った。なんだか、かぐわしい香水の香りがする気がする。彼はゴテゴテした身なりではなかったが、それでも物乞いのようでもなく、非常に小ざっぱりとしたシャツとズボンに身を包み、外套を羽織っていた。帽子は、被っていない。
「お久しぶり……私、ちゃんとあなたにお別れの言葉を言いたかったのよ。なのに、すぐ行っちゃうから……」
彼は相変わらず、何も言わなかった。その代り、もう一度青い薔薇を出した。この前のものよりもいっそう深く、鮮やかな葵をに輝いているそれを、彼はまたニコールに手渡した。
「ありがとう」とニコールも笑顔で笑いかける。「本当に、素敵なお花ね」
ベルゼブブは満足そうににっこりと笑った。ニコールは彼のそんな顔を見るたび、心がなみなみと満たされた。

ニコールは長い時間、彼と一緒にその広場に居た。人は誰も来なかった。ただ吹き上がった噴水の水が水面に落ちる音だけが響いていた。
ニコールは、彼が離さないことにも全く苦労を感じなくなっていた。少し、ほんの少しだけだが、彼の心が、彼の表情や身振り手振りだけで分かる気がするのだ。こんな気持ちになったのは初めてだ、とニコールは思った。まるで、目の前の彼と心が同一になっているかのようだ。
それに、時々はアスタロトがベルゼブブの言いたいことを直接通訳してくれた。彼は無礼なようだが、それでも心底酒を主を慕ってはおり、なればこそ主が慕う相手には礼節を尽くすのだとニコールにもわかった。彼女は最初の法こそ苦手に思っていたアスタロトにも心を許してきた。
その広場では、火の高さはいつまでたっても変わらなかった。だから、ニコールが「もうそろそろ、帰る時だ。ニコール・オブリー」とアスタロトに言われた時、彼女は驚いた。
「なんで!?まだ、ぜんぜん時間たってないじゃない……」
「案ずるな。ベルゼブブ様はこれから何度でも、お前を誘いに来る。ベルゼブブ様は、お前にご好意を持たれたのだ」
その言葉を聞いて、ニコールの脳は一瞬、硬直した。何か、とてもうれしいことウィわれたような気がしたのだ。
彼女がぼんやりとしている仲だった。彼女の手は、何者かが自分に触れたことを必死で脳に送ろうとした。ニコールの脳がそれをやっと認識した時だった。
ベルゼブブは、ニコールの手にキスをしていた。優しく、暖かいキスだった。彼はまるで、高貴な貴婦人にするように恭しく、彼女の手にキスしたのだ。
ニコールは一気に顔が赤くなった。それを見届け、ベルゼブブは唇を離す。あいている方の手を、アスタロトがつかんだ。それから先は、ニコールにはよく分からない。
気が付けば彼女はヴェルヴァンの町に居た。しかも日はとっぷりと暮れていた、

給仕長たちは当然驚いた。「奥様、どこに行っていらっしゃったのです!?」
どこに行っていたのか、彼女自身も分からない。それに彼女はその時、熱に浮かされたような気持ちだった。そして、最高にそれが幸せだった。物語を読んでいる時よりも、今この時間が嬉しいように思えた。
「本を読んでだけはいないから安心して。モントルイユ・レ・ダム修道院に連絡を取ったっていいのよ」
彼女はそう言い残すと自分の部屋に行った。そして、幸せに満たされたままベッドにその身を横たえた。外の林檎の木の実は、ずいぶん少なくなっていた。

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ニコール・オブリー 第四話

ラン大聖堂に、一人の男が訪れた。オブリー氏だ。彼は昨日同様、若い助祭に「司教殿はいらっしゃるかね」と聞いた。
「今日はあいております。おいでください」
若い助祭は速足で彼を案内する。大聖堂の虹色の薔薇窓の光を受けるデュ・ボー司教の姿が、オブリー氏の目にも映った。司教も、助祭の足音を聞きつけたかと思うと、すぐにオブリー氏の存在に気が付いた。
「やあ、ルイ!」
先に口を開いたのはデュ・ボーのほうだった。彼は司教の赤紫の服の裾をたなびかせ、オブリー氏の方にやってくる。
「やあ、ジャン。すまないな、昨日はあまり話せなかったから、改めてきてしまったよ」
オブリー氏も彼に笑顔で答えた。
彼らは、幼馴染同士だった。デュ・ボー司教がソルボンヌで神学を収める以前からの知り合いだった。だからこそ、オブリー氏はランに訪れるたびに大聖堂を訪れる。
「昨日はまた、たくさんありがとう」
「君と僕の間柄じゃないか、水臭いな」
「今日は時間があるんだ、ゆっくり話そうじゃないか」デュ・ボー司教はオブリー氏を自室のソファに案内した。オブリー氏も素直に彼の案内を受けて、友の隣に座る。
ラン大聖堂の司教、ジャン・デュ・ボー。彼は司教としては比較的若い方だった。非常に出世が早かったのだ。オブリー氏から見る彼の顔には、自分の町の神父であるド・ラ・モットのようなおっとりとしたところはなかった。昔からのんびり屋ではなかったが、やはりこうして司教の座について、輪をかけて彼の顔は険しくなったように思える。
ソルボンヌ大学に居る頃から、彼は手紙でオブリー氏にしばしば目標を語っていた。出世するだけする。聖職者として。その目標を何度も語っていた。彼からの手紙は頻繁に届いたが、みんなそう綴られていた。
彼は大学を出て、のし上がるため様々なことを際限なくやったのだ。やはり苦労も、苦痛もあったろう。それでも彼はやりとげ、35歳の若さで司教になった。今は37歳だ。デュ・ボーは元来美男子なほうで、実際オブリー氏よりずっと若く見えたが、それでもその顔の険しさはオブリー氏など比較にもならなかった。
その彼の顔が少しだけ優しくなる時の一つが、幼馴染の時分に会う時なのだとオブリー氏は分かっていた。彼の微妙な表情の変化なら、すぐに読み取れる。デュ・ボーは自分の部屋の簡素なステンドグラスの光を浴びながら、オブリー氏に言った。
「商売の方は?」
「まあまあ、良くいっているよ」
「そうか。それはよかった。これも神様のお恵みだ」
「君の方は?」
「悪くない。最近、あの胡散臭い連中、ユグノー共がうるさくはあるがね」
ユグノー。その名は、オブリー氏も知っていた。キリスト教の新派だ。
デュ・ボーはれっきとした、根っからのカトリックだ。彼にとってユグノーが面白い存在であるはずはない。
「ランでも、最近ユグノーが?」
「ああ、どんどん増えてきている。全く、聖母も聖人たちも崇敬せず、聖体も認めないだと!?考えられん!」
デュ・ボーは机で拳を打った。彼に怒りっぽいところがあるのは昔からだった。オブリー氏はそれを止めはせず、彼に話させるままにしていた。聞けば、ユグノーの論客たちが聖書に書かれていないものを崇めるなんてばかばかしいのではないか、それはイエスを馬鹿にした形式ばかりのファリサイ人と同じで、偽善ではないのか、とランのカトリックの頂点であるデュ・ボーにしつこく議論を迫ってくるので、彼もうんざりしているのだそうだ。
「信じるべきものだから信じる、それがわからんのか!全くしょうもない奴らめ、悔い改めるべきは、貴様らだ!」
彼はかんしゃくを起こしたと見えて机を何度もガンガンと叩く。変わらないな、とオブリー氏は思いながら「まあまあ、僕は絶対に信仰を捨てるつもりはないよ」と慰めた。
「おお、そうだな……」
「僕と妻の間に子供が生まれたら、君に名付け親になってもらう気でもあるんだから」
オブリー氏は笑って言った。そしてデュ・ボーの肩は背中を撫でる。昔からこうすると、彼はある程度は落ち着く。
デュ・ボーはまだ険しい目つきのまま、「そう言えばお前の妻の事だが」と言った。
「ああ、なんだい?」
「ちゃんと、読書を禁じているのだろうな?」
それを聞かれてオブリー氏はウッと言葉に詰まった。「いやあ、僕は、さすがにそこまで縛り付けることもないんじゃないかと……所詮、本じゃないか」と言った。デュ・ボーは案の定、せっかく落ち着いてきたのにまた逆上した。
「所詮本!?あんな、ランスロットとギネヴィアやら、トリスタンとイゾルデやら、人間の愚かさと淫らさと退廃が凝り固まったふしだらな破廉恥本を所詮本だと!?」
やってしまった、とオブリー氏は後悔した。デュ・ボー司教はまさにニコールが好むような恋愛物語を、キリスト教の精神に反する不道徳な本だとして眼の仇にしているのだ。まして親友の妻がそれを大好きなどと、許せる男ではなかった。
「私が以前直接説教した時も、貴様の妻はこう言ったな?『こんな素敵な話を読んで破廉恥だなんて思うあなたの心こそ、何でもかんでもいやらしく見えちゃうほど破廉恥なんだわ』と……屁理屈をこねおったな!?嘆かわしい!お前の妻はただでさえ出来がよくないらしいのにあんなもの読んでたらいよいよ馬鹿になるぞ!配偶者のあるものが、配偶者ではないものと恋をする、これ以上の破廉恥、卑猥な悪徳がどこにある!その上でどんなことをしようとすまいと、悪徳に大差などないわ!と、言ったって全く聞く耳持たずなのだからな!」
「わ、わかったよ。わかったよ」
せっかく落ち着かせたのに、ユグノー以上の地雷を踏みぬいてしまったことをオブリー氏は心底後悔した。
「とっとと辞めさせないと頭が毒されて、お前まで被害をこうむるぞ!」
「ヴェルヴァンに帰ったらすぐ注意するよ……」
「そうしろ。早く自らの卑俗な趣味を悔い改め、読みたいのなら聖書を読めと言っておけ!」
ひとしきり怒鳴り終えて、やっとデュ・ボーは静かになった。とはいえ、まだ機嫌は非常に悪いままだった。彼はこう言ったことにはとにかく、非常にうるさいうえに頑固だ。そう言うところも、昔から変わってはいない。
「だから私は反対したのだ。お前に、あんな女は釣り合わん。元修道女だったらしいのに、何を学んだというのか……」
「ニコールはいい子だよ」オブリー氏は言う。
「私には到底そうは見えんがな」
デュ・ボーの機嫌はまだ治りそうにないと、オブリー氏は嘆息した。

ニコールは散歩から帰りながら、先ほどの事をぼんやりと考えていた。自分は何を見たのか。何を食べたのか。
非常に美味な焼きキノコの味は、まだ口の中に残っている。ニコールはあの後、ろくにものが言えなかった。こうして街中を歩いて、ようやく現実に居るという実感を持ちなおすことができた。ベルゼブブは当然と言った顔をして、後ろの方に居る。
「ねえ、あなた……」ニコールはついに、恐る恐る言った。
「火を、起こせるの?何もなくても?」
ベルゼブブは彼女の問いに、ただ静かにコクリとうなずく。そして、彼女の眼の前に手を広げて見せた。そして次の瞬間、その手の中にはパッと光が沸き起こり、火が燃え盛った。
ニコールは言葉が言えなくなった。。彼が手を握ると、火はすっと消えていった。
「あなた、何者……?」
やはり、その問いに対する答えはない。ただ彼は夕焼けの中、物憂げな眼でじっとニコールを見つめていた。
その目から目をそらしたい思いに、ニコール計られた。そして同時に、いつまでもこの目を見ていたいような気持にもなった。不思議な目だった。まるで炎以上の熱を持っていて、ニコールの心臓をとかしてしまうかのように、彼女は彼の魅惑的な目に見つめられると、何とも言えない気分になってしまうのだ。
不思議な男だ。しかし、彼女は間違いなく、彼に惹かれはじめていた。彼女はいつの間にか彼の視線に釘付けになる。
彼は、そんな彼女の視線の先に、自らの手を置いた。そして、またその手をじっと見つめる。気が付けば、彼の手の中には大輪の、目を疑いたくなるほど透き通った青色の薔薇が一本握られていた。
彼はすっと、その薔薇をニコールに手渡した。
青い薔薇。ニコールはそんなもの、見たことがない。ヴェルヴァンに住む誰だって、見たことがあるはずがない。
しかし、それはベルゼブブの白い手の中で誇り高く輝いていた。自らの青色を、彼女は何も恥じてはいなかった。
ニコールも、もう言葉が出なかった。言葉のない彼の世界に自分が引きずり込まれていくのを感じた。彼女も無言のままその薔薇を受け取り、そして、静かに彼に微笑んだ。

その時。
「ベルゼブブ様!」
高い声がその場を裂いた。

ベルゼブブはゆっくりと声のした方を振り向く。ニコールも振り向き、そして驚いた。先日の、あの性別もわからない貴族の従者だ。彼はベルゼブブの前にひれ伏すと「このようなところに……このアスタロト、大変探しました!お会いできて何よりです、我が主よ!」と彼の手を握ってキスしながら、恭しい口調で言った。
ニコールはあっけにとられていた。
「……あの?」
「む?先日の貴様か。貴様、ベルゼブブ様とお知り合いだったのか!?そうならばそうと何故言わぬ!」
「いや、だって、あなたが探していたのって赤ちゃんだったんじゃないの……?」
「だからどうした!?」
やっぱりこのアスタロトなる人物は少し頭がおかしいのではないか。ニコールは身構えた。それにしても、ベルゼブブがこの男の主人?ただの物乞いじゃなかったのだろうか?なぜ、物乞いの格好をしていたのだろう?ニコールは不思議に思った。
ベルゼブブは言葉が離せない也に、アスタロトに何やら小さな手振りで話していた。そしてさらにニコールにとって驚くべきことに、アスタロトはそれで彼の言いたいことをすっかり判るらしい。ひとしきりベルゼブブが離し甥得た後、アスタロトはニコールの蒙に向き直った。そして、先ほどとは打って変わって友好的に、こう言ってきた。
「……なるほど。お前がベルゼブブ様を解放してくれたのだな。この私からも礼を言おう。ありがとう」
「あ、いいえ……」
アスタロトはベルゼブブとはまた違う美しさを持った人物だった。そのため、ニコールは少し、彼にも見とれた。
ベルゼブブは、彼女にひらひらと手を振った。そして、くるりと踵を返して歩み出した。
「え、ちょっと!?」ニコールは慌てて言う。アスタロトが続けた。
「心配するな。ニコール・オブリー。ベルゼブブ様はもうお前には十分世話になったから、もうこれ以上は結構だと言い、なおかつお前に心の底から感謝の意を述べておられる」
彼はニコールにそう言うと、自分もベルゼブブの後を追いかけて言った。冗談じゃない。ニコールの方からはまだろくに別れの言葉も言えていない。
「ねえ、ちょっと、待ってよ……」
ニコールがそう言った時だった。ベルゼブブとアスタロトの姿は消えて、夕焼けに染まった石畳だけがニコールの目には映っていた。
彼女はしばらくの間そこに立ち尽くしていた。日がずんずん沈んでいくのにも気が付かなかった。

オブリー氏は後日にもラン大聖堂を訪れた。ヴェルヴァンに帰る前日の事だったので、やはり親友と別れを惜しみたくなったのだ。彼が尋ねると、デュ・ボーは自室で、神妙な顔で書物に目を通していた。
「何を読んでいるんだい?」
「悪魔に関する書物だ」
悪魔に取りつかれた人間を祓うことも、聖職者の仕事のうちだ。なんといってもかのイエス・キリストやパウロが悪霊払いを行っていたのだから。彼が読んで得るのは、過去の悪魔の目撃事例だった。
オブリー氏はそう言ったものに明るくなかったが、脇からそれを読んだ。だがしかしいかんせん全く分からない。
「さっきから読んでいるのは?」
「ああ、悪魔の中でも特別強力な悪魔についてだ。『ベルゼビュート』の名前を聞いたことはないか?」
先ほどから熱心に読んでいたページの先頭に、大きな飾り文字で印字された名前を刺し、デュ・ボー司教は言った。「ああ、そう言えば、聞いたことがあるね」と、オブリー氏も返す。親が、恐ろしい化け物の名前としてその名前を教えてくれた。
「聖書にもその名は現れている。外典の中にもだ。まあ、大物中の大物だな。これに取りつかれれば一筋縄ではいかんと書いてある」
「へえ……」
「ベルゼビュートはフランス語読みだ。聖書の時代には奴はこう呼ばれていた……ほら、ここにあるだろう。『ベルゼブブ』」

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ニコール・オブリー 第三話

夜が明けて、ニコールは非現実的な思いにさらされた。昨日自分が招き入れたあの美青年ベルゼブブは、本当に現実の存在だったのだろうか。自分が今の今まで見ていた夢なのではないか。そう思うほど、記憶の中にある彼はきれいな姿をしていた。
だが、そんな懸念はニコールが窓の外を見た瞬間消えた。彼は庭に立っていて、林檎の木をじっと眺めていた。
「おはよう、お客さん!」ニコールは窓の中から叫ぶ。彼は気が付いたようだった。彼も手のひらをニコールの方に向け、ひらひらと振った。

ニコールは慌てて寝間着から着替えると、庭に出た。ベルゼブブはまだその場に居た。一晩ちゃんとしたところで寝て、より小ざっぱりとした彼は、朝日の光を受けて昨日にもまして美しい男性に見えた。ニコールはそれを見て、胸の鼓動が高まるような思いだった。
「朝ご飯を食べる?」
彼はコクリとうなずいた。また給仕たちが嫌な顔をするだろうということは予想できたが、構わない。そもそも自分が招き入れた客なのだから、もてなすだけもてなすのは当然だ。彼女はそう自分に言い聞かせた。

午前中、ニコールは散歩に出ることにした。すると、どうやらベルゼブブもついていきたそうなそぶりを見せた。ニコールは外に出ようとすると、彼もついてきたのだ。
念のためニコールは、彼についてくる意志があるかどうかを口頭で聞いた。すると彼はやはり無言のままうなずいたのだ。
見知らない若い男を連れて歩いて、変な目で見られないかと一瞬思いはした。しかし、ニコールはそんなことを心配する必要はない、と結論付けた。だって誰が下種の勘繰りをしようと、自分は飢えた物乞いを拾って保護して彼と知り合っただけの事で、神の道にそむくどころか従う行為をしているにすぎないのだ。彼と何があったわけでもなし、堂々としていればいい。彼女はそう思って、ベルゼブブと一緒に散歩に出ることにしたのだ。幸いそう人目を引くことはなく、ニコールの心配はほぼ杞憂に終わった。
秋が深まり、紅葉が美しく散っていた。ニコールは紅葉の森の中を歩いた。ベルゼブブは色とりどりの落ち葉をじっと見ていた。
彼はずいぶん情緒を愛する心もある人物なのだとニコールは思った。ニコールも、このような美しい景色の中身をおいてその情緒に浸るのが大好きだ。オブリー氏はあまりそう言ったセンスのない人だった。だからこそ、この目の前の美青年が物乞いと言う身分でありながら、裕福な商人である夫よりも情緒を介する心の持ち主だということをニコールは思い、彼により好感を持った。
ガサリと揺れるものがあった。ニコールはそれに驚き、振り向く。彼女の目には何も映らなかった。
「なんなのかしら……」
彼女は呟く。だがその時、ベルゼブブが彼女の袖を引っ張った。ニコールが再度慌てて振り向くと、彼は腕の中に一羽の可愛らしいの兎を抱いていた。
「あら……!もしかして、これがさっきの?」
ベルゼブブはうなずく。ニコールは野兎のふわふわした体毛に指をうずめた。野兎は人間に捕まったにもかかわらず非常にリラックスした状態で、全く暴れることもなくニコールの愛撫を受け入れてた。
「可愛い……」
ニコールがひとしきり野兎を可愛がって満足したのを見届けると、ベルゼブブはそっと腰を下ろして野兎を解放した。野兎は急いではねて行き、近くにある穴の中に納まった。すぐ近くに、野兎の巣があったわけだ。
「あなた、野兎を捕まえるのが上手いのね」
服の上に落ちてきた落ち葉を手でパンパンとはらう彼に、ニコールはそう言った。ベルゼブブは首をかしげる。
「うまいわよ。私は、ああは行かないわ」
ベルゼブブはその言葉にも特に反応は示さず、代わりにニコールの頭もパンパンとはたいた。秋らしく落ち着いた色合いの黄色、橙色の落ち葉がニコールの頭からもこぼれた。彼女はそれを見て、なんだかおかしくなって笑い出してしまった。ベルゼブブも、薄い唇を少しだけ歪ませ、彼らしく静かな笑いを浮かべた。

二人は紅葉の森を散歩し続けた。深く深く森に入っていくと、ニコールは一人の人影を見つけ、彼に挨拶した。彼は、良く知る人物だった。
「こんにちは、神父様」
ヴェルヴァンの教会の司祭、ピエール・ド・ラ・モット神父だった。見ると、彼は籠を持って、その中にはキノコを何本か入れていた。どうやらキノコ狩りに来たらしかった。
「やあ、ニコール。こんにちは。元気そうで何よりだね」
ド・ラ・モット神父はテレーズ修道院長と似たような清廉で穏やかな雰囲気があり、ニコールはどちらかと言えば彼の事は好きだった。第一、彼はニコールの名付け親でもあるのだ。
神父はすぐに、ニコールの後ろについている見慣れない青年に気が付いた。「やあ、こんにちは。初めまして。わたくし、ヴェルヴァンのs町の司祭のド・ラ・モットと申しますが、貴方は……?」とあいさつした。当然、ベルゼブブは何も答えない。ただ一つお辞儀をしただけだ。
「神父様、彼は口がきけないらしいの」ニコールが横から慌てて付け足す。ド・ラ・モット神父は優しい人だ。無言の非礼を責めるどころか、むしろベルゼブブに申し訳なさそうにした。ベルゼブブは首を振って、そんな態度を取ることはないと彼に示した。
「これはこれは……オブリー氏のお知り合いかね?」
「いいえ、私たちの家の前に居た物乞いなの。気の毒に思ったから、お客として迎え入れることにしたのよ」
「そうか、なるほど!」ド・ラ・モット神父も、ニコールが散歩に出る前に懸念していたような下種の勘繰りは起こさなかった。彼は素直に、弱きものを助けよという神の教えを忠実に守っていると、聖職者らしい視点からニコールの事を称賛した。
「我々共も、貴方達のような方々を救うのが務め。是非、教会にもお越しください」彼は丁寧にベルゼブブに言う。ベルゼブブはそれに対しても、コクリとうなずいた。
「キノコはとれた?」
「まあ、ぼちぼちだよ。……ああ、ニコール。お父様たちが巡礼に旅だったそうだね。オブリー氏も商売で、ランだろう。みんな大変だね。私もお父様やオブリー氏たちの旅の無事を心から祈っているよ」
「え、ええ、ありがとう……」
ド・ラ・モットが優しい人なのは知っている。しかし、彼はあまりに純朴で善良過ぎた。「(この人の目には、所詮あの人も、お父様たちも、普通の善良な人としかうつってないんだわ)」と、ニコールは思っていた。「(そりゃあ、あの人は表向きは普通の裕福な商人だものね。それに、誰だって、男の気持ちは考えても無理矢理嫁がされる女の子の気持ちなんて考えてくれやしない……)」
ニコールはそう思い悩んでいた。自分がいくら、歳の離れた夫に不快感を感じようとも、表向きは自分たちは幸せな商人夫婦としか映っていない。苦しみを、苦しみとして見てもらえない。そりゃあ派手な悲劇ではないかもしれないが、これこれで彼女にとって、じわじわと真綿で首を絞めつけられるような苦しみだった。
誰も、自分とオブリー氏が結婚するときに同情してくれなかった。言ってしまえば、ニコールには近所に気になっていた、淡い恋心を持っていたともいえるハンサムな若い男性が居たのだ。それなのに、そちらの方がいいと発言する事すらニコールは許してもらえなかった。その彼は皆今はとっくに妻をもらい、パリに出て行ってしまった。
なぜ、誰も女の子の気持ちをわかってくれないのだろう。男が若い女と結婚したがるのは当然の事だと思うくせに、女が若い男と結婚したがるのは当然のことだと思ってくれないのだろう。ニコールはかねがねそう思っていた。神父は、そんな彼女の気持ちに気が付かない。
ベルゼブブはそんな二人の会話を黙って後ろで聞いていた。聞いていたというよりも、彼の眼はド・ラ・モット神父の持っている籠に入っていた、何本もの良く肥えたキノコに注がれていた。
やがて神父は帰っていき、森の中には再びニコールとベルゼブブだけが残った。ニコールは神父が帰ったことで、やっと悶悶とした気持ちから解放された。
「いや、でも美味しそうだったわね。あのキノコ」
ニコールはとっとと話題を変えようとした。ベルゼブブはそれに無言でうなずく。不自然な話題かもしれないとは思ったが、ニコールは自分転換したかったのだ。この青年の前で、少しでも不快感を顔に出したくないという気持ちが自分の中にあると、彼女は分かった。その自分自身の心境に、なぜか疼くものがあった。
ニコールはそれに対しての照れ隠しも兼ねて、「私も食べたいんだけど、なかなか見つからないのよ。私、気のがりは下手で……昔、毒キノコを持って帰って修道院長に怒られちゃったこともあるし……」と言った。
ベルゼブブ阿蘇の言葉を聞いてしばらくの間眼をぱちぱちさせていた。ニコールは修道院時代の時分の間抜け話で笑ってお貰おうかと思ったのだが、滑ったかと思い、決まりが悪くなった。

だが、彼の真意は違うらしかった。彼は一本の、ニコールは名前を知らない大木の前に片膝を立てて座った。そして、根元にそのほっそりとした手を添えた。
ニコールは何事かと思って黙ってみていた。すると、目を疑うようなことが起きた。

彼がじっと、睨みつけるようにその手を置いたところを凝視する。すると、彼の手の下からむくむくと起き上ってくるものがあったのだ。それはベルゼブブの手を押しのけ、姿をあらわにした。間違いなく、ド・ラ・モット神父の籠に入っていたキノコだった。しかもあれ以上によく太っていて、いかにも美味そうだった。
ベルゼブブはそれを無言で千切り、ニコールの方に突き出した。ニコールはまだ戸惑い、それを受け取れなかった。
目の前の彼は一体、何をしたのだろう?確かに彼が念じる前、キノコなど生えていなかったはずだ。彼が手をかざした瞬間、生えた。ものすごいスピードで。
ニコールは頭が混乱していた。彼は彼女をじっと見ながら、別の事をしていた。ニコールがとろうとしないのを見ると、数本のキノコを落ちていた枝の比較的きれいなものに刺したのだ。そして、足で蹴って足もとに小枝や落ち葉の山を作る。そうしてから、指をパチンと鳴らした。
ニコールはまたしても、失神しそうなほど驚いた。一瞬で落ち葉の山が燃え上がったのだ。彼は全く落ち着き払って、その落ち葉の山の脇にキノコの櫛を指してあぶり始めた。
「あ……あなた」
ニコールはキノコを焼くベルゼブブに震える声で言った。
「あなた、何者なの?ベルゼブブ……」

ただの人間であるはずがない。ただの物乞いであるはずがない。目の前の彼の異常性を、ニコールは感じた。これは夢だろうか。現実で、このようなことが起こるのだろうか。
ベルゼブブは何も言わないままだった。ただ、ゆらゆらと揺れるの炎にその優雅な顔を赤く照らして、じっと深い色に輝く双眸でニコールの事を見つめていた。その目も、炎の色を照らしていた。その光景は、不気味ながらも非常に幻想的で、美しくもあるとニコールは酔いにも似た不思議な感覚を味わった。
ベルゼブブは串を一本引っこ抜き、再度ニコールの方に突き出した。脂れたキノコがじゅうじゅうと汁を滴らせている。生だと食べてくれないと彼は思ったのだろうか、とニコールは思いを巡らせた。
ニコールはしばらく硬直したままだった。しかし、炎の熱と、彼の瞳の光が、ニコールを吸い寄せた。彼女はまるで、自分がランプに止まる蛾になったような気持ちだった。見れば見るほど、彼は美しかった。
彼女は細腕を伸ばして、串を受け取った。そして、それを食べた。非常に甘美な味がした。

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ニコール・オブリー 第二話

次の日の事だった。昼下がりだった。
ニコールはやりかけの刺繍をいったん中断して(ニコールはあまり刺繍が得意な方ではなかった)、使用人の女が持ってきてくれた焼き菓子を食べていた。美味しい焼き菓子ではあったが、少し味が物足りないようにも思えた。
ラズベリーのジャムがあったらちょうどよくなるのに、と彼女は思った。そこで使用人の女に持ってこさせようとしたのだが、他の仕事だ折るか、彼女はもちろん、その他の使用人もなかなか来なかった。
ニコールはそれに少し腹を立てつつ、それなら自分が持ってこよう、と食糧庫に急いだ。昨日給仕長が言っていたように、若い男が見張りについていた。
「おや、奥様」
「ちょっと探すものがあるのよ。食糧庫に入れて」
そう命令すると、若い男は急いで鍵を開けて、ニコールを中に通した。彼女はランプを持って、暗い食糧庫に降りていく。ジャムの壺の場所は知っていた。
真直ぐそちらに向かおうとするニコールの耳に、ふと、異質な音が聞こえたネズミだろうか、と彼女の背筋は凍る。先ほどの男の使用人に行って早く追い払ってもらおう。そう思いつつ、彼女はお目当てのジャムの棚の所まで来て、ランプをかざした。そして、愕然とした。
ジャムが全て空だ。そうだ、そう言えば荒らされたと言っていたことを彼女はここでようやく思い出した。その時、先ほどの音がさらに大きくなったような気がした、ネズミの音ではない!
彼女は意を決してそちらの方に向かった。明らかに、何者かが食料を食い散らかしている。ニコールは息をひそめる。そしてランプの光を突き付け、「誰!?」と鋭い声で言った。
ランプの光に照らされて浮かび上がったのは、先日、家の前にいった唖者の物乞いだった。天井から引きちぎったと見える太いハムと、巨大なチーズの塊を両手に持ってむさぼっていた。
「あなたは」ニコールは驚いて言った。彼は相変わらず返事ができないようで、つば広帽子の下に見える口で相変わらずがつがつとハムをかじっていた。
「やめなさい、若いものを呼ぶわよ!」彼女は気丈に言う。そしてそこまで言って、ふと、彼女は恐怖感に襲われた。そうこの入口には見張りも致し鍵もかかっていたのに、彼はどうやって入ったのだろうか?
彼女はそのことも問い詰めようとした。だが、それより早く、彼はゆらりと立ち上がった。
ニコールは再び恐怖感を覚えた、まずいことをしてしまった、とも思った。この男が自分に暴力を振るって逃げ出さないとも限らないのに、早くに番をしている青年を呼ばなかったのは失態だった。
今からでも呼ぼう、と彼女は口を開けた。しかし、不思議と声が出なかった。この目の前の男に、自分が想像以上に恐怖を覚えていることを彼女は自覚する。物乞いは、つば広帽子で表情が見えないまま、ゆっくりとニコールの方に歩み寄った。
かすれ消えそうな声でニコールが拒絶の言葉を出す。彼の手が、ニコールの方に伸びた。と、同時にその時。彼は地面に倒れた。
「え?」
彼女が怪訝そうに言うと、彼は冷たい地下室の床に転がったまま再び持ったチーズの塊に必死でかぶりついていた。
ニコールの恐怖感が薄れたような思いだった。その様子は、酷く惨めなように思えた。
「なあに、そんなにお腹がすいてるの?」
彼はまた、うめき声を出してうなずいた。そんな彼を見て、ニコールの心にも慈悲の気持ちがわいてきた。
「そんなにコソコソ食べてなくていいわよ。外にいらっしゃい。お客としてご馳走するから」
彼女はそう言って、彼に手を差し伸べた。彼はよろよろ立ち上がり、それをつかんだ。すがるような強い握り方だった。


帽子の男は、恐ろしいほどに出されるものをがつがつと食べた。其の食べっぷりに、使用人たちも驚きあきれていた。いや、もはや関心すらしていたかもしれない。この男はどれほどにまで飢えていたのだろうか、と。
だが、そんな彼の向かいに座りながら彼を見つめるニコールの関心事は、別の所にあった。帽子を脱いだ彼は、哀れなみすぼらしい物乞いとは思えないほど美男子だった。
高い鼻に引き締まった唇、彫りが非常に深く、その中には切れ長の深い色をした目。広い帽子のつばに隠れて、全く見えなかった。オブリー氏のしまりのないそれらとは大違いだった。ニコールは彼に見とれる自分がいるのにもわかっていた。
もしも、と彼女は考えていた。もしも、彼がこんなオブリー氏の着替えではなく、引き締まった軍服か鎧に身を包んだのならば……それは、ニコールが物語を読みながら思い描いていた騎士のイメージに実にぴったりだった。
そんなことを考えていると、給仕長が客に非礼の無いよう、静かにニコールに、これくらいしてもらわないと、と合図を送った。ちょうど客人も今ある分を食べ終わったところなので、ニコールは「ご満足いただけたかしら?」と、やんわりともうこれきりにしてもらえるように告げた。
意外なことに、彼はその真意をわかってくれたらしい。彼はナプキンで口元をぬぐいながら、黙ってうなずいた。
「貴方、見ない顔だけど、ヴェルヴァンの方?」
ニコールは食事を終えた彼にそう言った。彼は首を横に振る。
「遠くから来たの?」
うなずく彼。
「……ご家族は?」
またしても、首を横に振る彼。ニコールはものの言えない彼に、いくつもの質問を投げかけた。彼はそれにその都度答えた。
色々と質問をして、最後に彼女はこう問いかける。
「貴方の事、なんて呼べばいいかしら?」
彼は少し考えていた。しかし、急に宙ににその細い指を浮かせ、何かを書き始めた。文字を書いているのだ。
ニコールは、物乞いである彼が文字をかけるとは思っていなかった。彼女は慌てて使用人にノートとペンを持ってこさせた。
「字、書ける?」と彼女は念を押しつつ、彼にペンを渡し、インク壺を傍に置く。彼はしばらくじっと無言でペンを見つめていたが、やがてインク壺にその先端を差し込み、震える秘跡でいくつかの文字を書き始めた。
ニコールはそれを見て思った。どうも、フランス語的な文字の並びではない。ラテン語風に発音してみようと彼女は試みた。
「……ベルゼブブ?」
そう彼女が呟くと同時に、彼はうなずいた。変な名前だ、と彼女は思った。こんな名前の聖人はいない。フランス人の名前ですらない。彼はどこか遠くから来た外国人なのだろうか。彼女は考えた。ベルゼブブと名乗る青年はじっとニコールの方を見つめていた。その視線に気が付いた彼女ははっとして「そうそう」。まだ名乗っていなかったわね」と言った。
「マダム・ニコール・オブリーよ」
彼はその名をしっかりと吟味しているようだった。深い色の目は不思議な色だった。赤みのかかった茶色のようにも見えた。ニコールにはそれが、たまらなくいいもののように思えた。ベルゼブブ。彼は、美しい。
彼は立ち上がった。そしてひざを折り、ニコールの手に軽くキスする。そして、帽子をかぶり、玄関に向かって踵を返した。ニコールは、彼が礼を言って出て行こうとしていると理解した。
その時だった。彼女ははっきりと、自分の中にあるこの美青年と離れたくない気持ちがあることを自覚した。
「待って!」
彼女の言葉に、彼も素直に立ち止まった。
「行くところがあるの?」
その言葉には、彼は指を横に振った。それはそうだろう。屋根のないところで寝るしかない物乞いなのだ。
ニコールはそんな彼に言う。
「ねえ、夫がね、今仕事で出ているの。その間、秘密になら、うちに泊まって言ってもいいわよ」
後ろで使用人たちの声が聞こえた。「奥様」と給仕長が静止する、しかし、ニコールはそんな彼女に「お黙り。私の命令よ」と告げた。
「いい?夫には絶対言わないでね。でも、彼は私の客人なんですからね、一切無礼がないように」
主人にそう言われてしまっては、使用人は黙るしかない。彼らの間でも話し合いが行われたが、結局ことはニコールの望むとおりになった。

ニコールはベルゼブブを客間に通し、彼の体を洗って服を着せてやるように言いつけ、自分は散歩に出た。
不思議な気持ちだった。胸がときめくような気持ちだった。
頭の中に思い描いて胸をときめかせてきたような存在が、今日、すぐ前に現れたのだ。そうなっても不思議はないだろう。たとえ、相手の身分が物乞いだったとしても。
夫がいないことを彼女は改めてありがたいと思った。
「(あの人がいたら……どんなことを言われたかわからないもの)」
彼女はそう考えていた。その時、彼女の後ろから声が聞こえた。
「すまない、お嬢さん」
不思議な声だった。男とも女ともつかない声だった。彼女が振り返ると、そこには声の通り、男とも女ともつかない人間が立っていた。

彼(便宜上、こう呼ぶことにする)は身なりのいい服を着ていたが、貴族というよりは貴族の従者というようだった。吸い込まれそうな真っ黒な神と、色白の肌をしていた。男装の美少女にも、少女のような美少年にも見える。
「な、なんでしょうか?」
お嬢さんではなく既に夫人である、と言う気にはならなかった。ニコールは戸惑いながら彼に言葉を返す。
「私の主人が見えなくなったのです。ここいらに、そのような人を見かけませんでしたか」
「えーと……どのような?」
目の雨の彼は、自分の手を足の所ほどに持って行って、言った。そしてニコールは、その言葉に面食らった。
「このくらいの背丈の、赤ん坊のような方なのですが……」
赤ん坊!?赤ん坊が勝手にいなくなるはずがないじゃないか。ニコールは目の前の彼が自分をからかっているのか、あるいは狂人なのだと思った。いずれにせよ、関わり合いを持ちたくないと思った彼女は「いいえ、見かけません」と、無難に返した。すると、彼は急にとげのある口調で言った。
「ちっ……使えん女だ」
彼のあまりの暴言にニコールは抗議しようとした。しかし彼はそんな彼女などいざ知らず、焦ったようにスタスタとどこかに消えていった。変な人、とニコールは思った。


オブリー氏はその日の夕方、ラン大聖堂を訪れた。もう聖堂内はかなり暗くなっている。黒い闇に染まってしまった壁の中に、薔薇窓の光だけがくっきりと浮かび上がっていた。
オブリー氏はそれの光景に見とれながら、若い助祭を呼んだ。彼はやって来た客がオブリー氏であることを見届け、丁寧にあいさつをする。
「いつものものを持ってきたよ」オブリー氏が言った。「司教殿は?」
「あ……少々お待ちください。今、ルフェブール公爵とお話をしておりまして……」
ルフェブール公爵はランでも有力な貴族である。オブリー氏も彼とは良好な中を築いていた。そして彼も、熱心にランの司教のもとを訪れている男であった。
「かまわない。待つよ」オブリー氏はそう告げて、長椅子に腰かけた。暗く染まった聖堂はしんと静まり返っている。オブリー氏は心の中で、神に祈りをささげた。
静かな中、声が聞こえてきた。青銅の前の方に、二人並ぶ人影がある。その方から聞こえてくる。オブリー氏はこの声をよく知っている。ルフェブール公爵と、ラン大聖堂のジャン・デュ・ボー司教だ。
公爵は、自分が過去にしてきたことをつらつらと重ねているようだった。いわば懺悔だ。懺悔は普通聞くものの正体が見えないようにするものだが、この公爵と司教においては別だった。公爵の過去の所業の中には、耳をふさぎたくなるような悪事もいくつか含まれていた。
「司教様。……私は、これほどまでに、悪事をし、私腹を肥やしました。恥ずべきことをしました……このような私が、天国に行けるのでしょうか」
震えた公爵の声。それを、落ち着いた低い声が遮った。
「案ずることはない。主は、貴方の罪を許される」
あのような悪事に対して、この言葉を返す。オブリー氏はよく知る仲のデュ・ボー司教の事を考えた。彼は、ちっとも変わりがない。なんて彼らしい返答だろう。
公爵の「ありがとうございます、司教様」という声。
「貴方がそうおっしゃってくれればこそ、安心して生きることができますよ。いつもの通り、ほんのはした金ですが持ってきています。後で召使に……」と続く。
「ああ、それはありがたい。いつも世話になりますな、公爵殿」
薔薇窓だけが浮かび上がる暗い聖堂の中、司教のそんな声が小さく聞こえていた。オブリー氏はじっと黙って、その場に居た。

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