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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Deborah 第九話

イスラエル軍がシセラ将軍を追ってある天幕にたどりついたのは、しばらく後の事だった。
先頭に立っていたバラクが、天幕の入口から問いかけた。「頼もう、頼もう!」その声を聴き、ヤエルはゆらりと立ち上がって、天幕の入口を開けた。
「……イスラエル軍の方ですか?」
「ええ、そうです。ご婦人。少し尋ねたいことが……」
「おいでください」彼女は言った。「貴方たちが探している人をお目にかけます」

バラクたちが驚いたのは言うまでもなかった。将軍シセラは、こめかみに釘を突き刺されて、眠ったまま死んでいた。
一体何があったというのだ。あの最強の将軍の身に。
「ご婦人……」イスラエル軍は言った。
「あなたが、殺されたのですか……?」
考えられないことではあった。しかし、ヤエルは迷うことなく「はい」と言った。非常に、堂々とした声で。頼りない女性の姿をしていても、その声色だけはまさしく、英雄の風格であった。
「なるほど」と、バラク。「女の手によって……か!まさか、こう来るとはね!無敗のシセラ将軍を打ち取るイスラエルの英雄が、まさかこんなところにいらっしゃったとは!」
彼は愉快そうに笑った。まさかデボラだけではなく、こんなところにもイスラエルの救国の英雄たる女性がいたとは。
「ご婦人。お礼を申し上げたく思います。私はイスラエル軍司令官、アビアノムの子バラクと申します」
バラクは礼儀正しく彼女の前に跪いた。と、その時だ。ヤエルの目が変わった。彼の名前を聞いて、信じられないとでもいうように。
「バラク……?」
彼女は震える声で言った。
「あなた、バラクなの……まさか……」
その声を聞き、バラクも顔色を変える。この声は聞き覚えがある、彼は顔を上げた。まさか、君は……。
「ヤエル……?」
「バラク!?バラクなのね!?」
「ヤエル!」
バラクはそう叫び、目の前彼女をかき抱いた。
「会いたかった……ずっと、会いたかった!」

バラクとヤエルは、婚約者同士だった。ずっと、愛し合っていた、
しかし村が戦に巻き込まれ、ヤエルはヘベルに誘拐され、行方知れずになった。一度ならず二度までも戦で大切な人を失ったバラクは、気が付いたら自分も軍人になっていた。そして、ヤエルの事が忘れられず、結婚もできなかった。
「ねえ、バラク……」彼女は震える声で言う。「私は、あのあと異国人に犯されたわ。何回も……だから、貴方に抱きしめてもらえる権利なんて、愛してもらえる権利なんて、もう……」
「だれが決めた、そんなこと」バラクは泣きながら、しかし笑って言う。「君を二度と手放すものか。……こうしてまた、会えたのだから」
バラクの部下は皆、上官に昔何があったかを聞かされていた。彼らは満面の笑みで「司令官、おめでとうございます!おめでとうございます!」と、バラクとヤエルの再開を祝福した。ヤエルはバラクの腕の中で、照れくさそうに、しかし心から幸せそうに笑った。

ちょうどそのころ、ろばでデボラとネルも合流した。彼らは天幕に入るなり、バラクとヤエルの二人を見てぽかんと面食らった。
「な……何だよ?」
そう言うネルに、バラクの部下たちが一部始終を説明した。「なるほどな……」ネルは納得したようだった。
「じゃあさ、バラクさん!急いでイスラエルに帰ろうぜ!そうだ、ついでにおれたちの結婚式とバラクさんとヤエルさんの結婚式、同じ日にやろうよ、どうだ!?」
「おや……いいな!」バラクも顔いっぱいに笑ってそう返す。
「お前はもう、私の弟も同じなのだから」
ネルの頭をポンポンとはたくバラク。デボラは「まあまあ……若い人たちって、いいわねェ!」と、彼女自身も幸せそうに笑って言った。
「ところで、どこにいるの。そのシセラさんって将軍は……」
「あ……こちらです」
ヤエルは慌てて我に返ったように、天幕の奥を指さす。そこに倒れて、こめかみに釘をうたれている人物。
それを見た瞬間、デボラは目を丸くした。
「……あなた、だったの?」
彼女はぼそりと呟いた。他の面々はまた、バラクとヤエルの話に戻ってしまっているので、彼女のその姿に気が付くものはなかった。
ふと、デボラは天幕の隅にとどまっているものを見つけた。
「驚いた。貴女だったのか。私達の敵、デボラは」
それは、シセラだった。デボラにしか見えない姿で、彼はそこにいた。
「まさか……」
「ふふ……見事な勝利だった。イスラエルよ」
だが、シセラは穏やかに笑っていた。何もかも洗い流されたような、さっぱりした顔で。
「デボラとやら。私はお前たちに何の恨みも抱かない。むしろすがすがしい気分だ。……これが私の運命だったのかもしれん。私は、貴女に会えてよかった。貴女がいなくては、この運命すら辿れなかっただろう。貴女がいなくては、私は……この天幕に向かう度胸なんて、わかなかっただろうから」
「まあ……」その発言で、デボラも察するものがあった。シセラは、鋭い目を細めて、にっこりと笑って言う。バラクと抱き合う、幸せそうなヤエルを見て。
「ヤエルさんが笑えてよかった……本当に、良かった」
「お疲れ様、シセラさん」デボラは、目頭が熱くなった。それにつられて、目の前の彼も、目にじわりと薄く涙を浮かべる。
「また、いつでも遊びにいらっしゃい。貴方の好きなお料理は何?作って待っているからね」
「ありがとう……私は、ミルクのスープが好きなんだ。山羊のミルクで作ったスープ……」
彼は少しずつ、薄れて消えて行った。最後に彼は、デボラに笑って手を振った。

あの豪雨は、雨季の始まりを告げる豪雨だった。イスラエルに帰る道中の荒野は、さっそく雨季に咲く色とりどりの花でいっぱいで、まるでイスラエル軍司令官バラクの花嫁を祝福しているかのようだった。彼らは意気揚々と、イスラエルに向けて帰還した。ヤエルは愛するバラクと出会えて、尊敬するデボラと出会えて、本当に楽しそうにしながら、美しく華やかな荒野の道をバラクと同じろばに乗って進んでいった。

返ってこない息子に関してアクラビムは必死で気をもんでいた。「あの子はどうなったのかしら?」彼女はむやみやたらに侍女に問いかけた。
「あの子が負けるはずがないわ。あの子はもう、勝ったっていう知らせをあたしたちのもとに持ってきているはずよ……」
シセラからの知らせどころか、キション川の前線が全滅したという知らせを受けての事だった、それでも彼女は、シセラが勝ったと思い込みたいのだ。シセラが負けるなど、彼女にとってはあってはならない事だった。少なくともシセラは何処かに居るはずだ、自分似合いにこないのはおかしい、と思っていたのだ。シセラが自分と離れるわけがない、とそう思っていた。
「戦利品を分けていて、時間がかかっているのではないですか、染めた高価な布とか、女奴隷……あ、いえ、シセラ様はそのようなものはお取りにならないはずです、はい……」
侍女たちは実に適当な言葉で女主人を慰める。息子がいない不安のあまり、錯乱しかけの女主人を。
アクラビムの心に、ふと思い浮かぶ人物がいた。自分を捨てたかつての夫の次に、この世で何より憎んだ女。愛おしい、たった一人の息子の心を惑わせた忌まわしい売春婦。
「……まさか、あの女の所に!」
アクラビムは立ち上がった。めらめらと、心を押しつぶしそうな嫉妬が燃えてきた、あの子を汚させはしない、あの淫乱女!
「馬車をお出し!あの性懲りもない淫乱に、今度こそわからせてあげるんだから、全くあんなろくでもない妻を持って、本当にお可哀なヘベルさんだ事……そして、あんな女に心を乱された私のシセラ、なんてかわいそうなのかしら!」
彼女はそうわめいた。彼女は馬に乗るのが不得手なので、移動はいつも馬車だった。だが先夜の豪雨でぬかるんだ道を、馬車はちっとも走らなかった。
まだなの、もどかしい、と怒鳴り散らす時間が、実はせめてもの神の慈悲ともいえる時間だったことを知るまでには、まだ少し時間がかかる。
彼女はこの後、どうするのだろう。息子を失って、どうなるのだろう。そればかりは、何もわからない。

シセラの死を機に、カナンとイスラエルの力関係は逆転した。無敗の英雄を失ったカナン軍は、ヤビン王は次々にイスラエルに負けを喫した。イスラエルはもはや、虐げられる国ではなくなってきていた。戦場を行くのは司令官バラク、そして彼の右腕ネルだった。
デボラはイスラエルを救った女性として、正式にイスラエルの士師となり国を治める存在、イスラエルの母になった。彼女も重大な責任を負うことになったが、心優しい夫のラピドトや、今ではすっかり笑顔を取り戻した将軍バラクの妻、ヤエルの助けもあり、かいがいしく自らの任務を遂行した。自らの愛した、なつめやしの木の下で、彼女は神の言葉を聞き続け、それを人々に届けた。
デボラとバラクは、イスラエルになくてはならない二人となった。


ある、良く晴れた日の事だった。
デボラがナツメヤシの木の下で人民の裁判を行っていると、ろばのひづめの音が聞こえた。
「デボラ殿!皆の者!」
そう返ってきたのは、バラクだった。
「急ぎすぎだぜ、バラクさん!」と困ったように言うネルもいる。「司令官が先を急いじゃ、凱旋が台無しじゃねえかよ」
「あらあら……どうしたんですバラクさん、そんなに慌てて!」
デボラは分かっているような口調で、バラクにそう言った。バラクの顔はいつにもまして嬉しそうだった。彼は自慢の雌ろばから降り、いの一番に彼を迎えに出たヤエルの、少し大きなったお腹を撫で、彼女に「ただいま」とキスをする。そして、急いでデボラのもとに向かった。
「あれをご覧ください!ネル!」
バラクのその声とともに、ネルはさっと陽光のもとに、金色に輝く冠を掲げた。その冠の主は誰だったか、デボラは知っていた。
「お喜びください!ついに、この度の戦でヤビン王を打ち取りました!我々の、イスラエルの完全勝利です!」
その日、イスラエル中が歓喜に沸いたのは言うまでもない。

デボラとバラクはその日、ともに楽器を取って陽気な戦勝の歌を歌った。ラピドトもヤエルもネルも、デボラを慕うイスラエル人はみんな一緒だった。

『イスラエルにおいて民が髪を伸ばし進んで身をささげるとき、主をほめたたえよ。
イスラエルの神、主に向かって、私は賛美の唄を歌う。貴方の敵が悉く滅び、主を愛する者が日の出の勢いを得ますように』

「おめでとう」
男にしては高い声を、デボラはその祭りの日、誰かが発したのを聞いた気がした。デボラはにっこりと笑い、「ありがとう!」と、その声に向かって告げた。


デボラが天寿を全うし、神のもとに召されるまで、イスラエルは平安と幸福のうちにあった。

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feat: Deborah 第八話


ヤエルは、ようやくシセラの屋敷の手伝いから解放されたところだった。いつもの通り苛め抜かれたが、彼女は一つ、別のことを考えていた。アクラビムに仕える侍女たちの噂していた、この度のイスラエルの女性指導者とやら。
彼女は元イスラエル人だ。だが、彼女の気にかかるのはそこではなかった。
「どんな人かって思うでしょう?その人」自分は入れてもらえない話の輪で話されていた内容に、ヤエルは聞き耳を立てていた。
「アナト女神みたいな女戦士か、はたまた神秘的な巫女様か……これがさ、山村の、どこにでもいそうなおでぶなおかみさんなんだって!」
「何よ、じゃあ全く普通の人じゃないの!」
「そうでしょ?全くイスラエル軍も人手に困ってるのね……」
そんな話を聞きながら、ヤエルはずっとそのことが頭から離れなかったのだ。
女戦士でも巫女でもない普通の夫人。それも、戦争に出て戦っている。ヤエルには、戦うすべを持たないヤエルには、なんだかそれが、酷く魅力的なことのように思えたのだ。
「(なんて……その人はきっと、一件普通でも素晴らしい方だから呼ばれたのよね。私みたいな何もできない、ごみみたいな人がそう思っちゃだめね。失礼だもの……)」
彼女は必死でそう言い聞かせた。もはやこうして、自分自身で自分を罵らなければ落ち着かない身になってしまった。だが、自分では及ぶべくもない立場だとしても、そのデボラと言う女性に対するうっすらとした興味を完全に止めることはできなかった。
「(どんな方かしら……私も、あってみたい。……なんて、異邦人と契った売春婦なんか、そんな立派な人に会える身分じゃないのにね……やめないと。旦那様を待たないと……こんなことを考えるから、私はできない人間なんだ……)」
夫から何人も聞いていた、戦場の英雄の中でもここまで興味を持つことなどなかった。なぜ、こうも身の程知らずにも惹かれるのだろう。それはやはり、デボラの「普通の女性」だという一点が、ヤエルの心をくすぐったのだ。たとえ自分が普通以下だとしても、そこに、剣を持ち馬に乗り、自分を馬鹿にして蹂躙する男たち、男らしいと、英雄と賛美される男たちとは、違うものを見ることができたのだ。


不意に、天幕のもとにやってくる人物がいた。彼女はびくりと身構える。「はい、あなた。ただいま……」
あれはしたはずだ。あれもした。しまった、あれをしていない、また殴られる……どうして自分はこんな無能なんだろう、こんなに不出来なのだろう……そう思いながら開けた幕の向こうには、思っていたのとは違う人物が立っていた。
「あなたは……シセラ、様……」
彼女が震える声でそう問いかけたのは、戸惑い故の事だった。まさか、あの立派な将軍シセラが、歩兵のように何にも載らず、ずぶぬれになってたたずんでいたのだ。ただならぬことがあったのは想像に難くない。
「シセラ様、戦場で何が……」
そう問いかけるヤエルに、シセラは無言のままあるものを突き付けた。ヤエルは悲鳴を上げる。それは、泥にまみれたヘベルの生首だった。
「貴様の夫だ……」
ぼそりと、シセラは呟く。そして、やけになったようにそれを母鳥と天幕の外に投げた。
「シセラ様……?」
彼女はもう一度、問いかけようとした。だが、シセラは次の言葉を言う前に、ヤエルの首を抱き寄せると彼女に強引に口づけした。
彼女の心に、恐怖感が湧き上がってくる。男に支配される恐怖が。そしてこのシセラの場合、この後彼の母親に散々に虐待されるという恐怖が。
シセラは長く、長く彼女に口づけしていた。
ヤエルは驚いた。おそらく無我夢中なシセラの耳には届かなかった。そもそも彼に口をふさがれているので、声らしい声にすらならなかった。だが彼女は、自分の喉の奥かすれ消えそうな小さな音でとはいえ、その声が出たことに驚いた。いったい、何年ぶりに言うのだろう。
「やめてください」と。

漸く口を外したシセラは、呟くようにこう言った。
「……我が軍は惨敗だ。貴様の夫も、見ての通り死んだ」
「そんな……?」ヤエルの声が震える。では、先ほどアクラビムの侍女たちが馬鹿にしていた女指導者とやらに率いられたイスラエルが、まさかこの不敗の将軍に勝利してしまったというのだろうか?
「……ヤエル。私は、逃げる」
「なんですって?」彼女は、唐突に出てきた目の前の男の発言に驚いた。だが、彼はギラリと目を輝かせてヤエルを睨みつけると、叫んだ。
「この結果を、ハツォルの陛下に、母上に報告しろと言うのか!?」」
その声は、ヤエルを威圧する声であるとともに、非常に悲痛な声だった。
「冗談じゃない!そんなことになれば私は破滅だ!私は逃げるのだ、カナンから……どこか、遠いところへ!」
そう言い彼は、がしりと握りつぶすような勢いで、ヤエルの手首を握った。
「貴様も一緒だ、ヤエル」
「えっ?」
「貴様も私と一緒に逃げろ!嫌とは言わさん!」

違う。こう言いたいんじゃない。シセラは心の底で悲鳴を上げた。
こんなことが言いたいんじゃない。今までの事を謝りたい。もうしないと言いたい。もう、貴女を傷つけるあの夫はいないのだと言って彼女を安心させたい
力を見せつけたいんじゃない。無理矢理どうこうしたいんじゃない。
言いたい言葉が、言うべきとわかっている言葉が出ない。口をついて、この女性を怯えさせる乱暴な言葉しかどうしても出てこない。自分はそう言う人間なのだ。そう言う風に、育てられたのだ。
ただ、貴女が好きだと、だから一緒に居たいのだと、そう伝えたいだけなのに。

シセラはおどおどする彼女を無理やり引きずろうと立ち上がる。しかし、ずきりと足に激痛が走った。
「シセラ様……」震える声で、ヤエルが言う。「その足では、難しいかと……もしよろしければ、お手当いたします」
「……やれ」シセラは短く命令し、すっとその場に座り込んだ。
ヤエルは冷たい水で汚れきった傷口を良く洗い、薬草をつけて、丁寧に白い布で巻いてくれた。
「……水をよこせ」シセラはぼそりとそう言う。「喉が渇いた……」
「はい、ただいま……」
シセラは、すぐに自分の前に水の椀が差し出されるのを待った。だが、ヤエルは少しの間迷っているようだった。シセラが怪訝に思っていると、差し出されたのは違うものだった。
その器に入っていたものは、透明な水ではなく、柔らかな白さを持った液体だった。
「よろしければ……山羊のミルクをどうぞ」彼女は必死で、目の前の彼の機嫌を損ねないよう丁寧に言った。「将軍様はお疲れのご様子ですので……ミルクは、疲れが取れます。お酒がお好きでしょうが、疲れた体には毒かと……」
シセラは目を瞬かせた。ヤエルはその沈黙に耐えきれないらしく「……申し訳ありませんでした!すぐに、水を……」と言いなおす。
「……いや。よい」
シセラはそう言って、ミルクの器を傾けた。ミルクを飲むのは、数年振りだろうか。自分の胃袋が、久しぶりに味わうその味を心から悦んでいるのが感じられた。じわりと、目頭が熱くなるのを感じることができた。
彼は、飲み干した器をヤエルに預けた。心が軽くなる。眠気が襲ってきた。
「ヤエルよ」シセラは言った。
「お前の言うとおりだ。私はいささか疲れた……眠らせてもらおう。寝て……目が覚めたら、お前とともにカナンの地を逃げ出す。それでよいな」
「はい……」
「ヤエル」彼は眠気に襲われながら言った。
「お前は、どこに行きたい?ペルシアか、コーカサスか、エジプトか……」
「私は、何も存じません故……」
「私は……コーカサスに行ってみたい」シセラは呟いた。「行ったことがなかったから……」
それを言い終わり、シセラは寝息を立て、眠った。


ヤエルは、眠るシセラの姿を見ながら、この現状について考えた。まさか、シセラの軍が負けるなんて……夫が死ぬなんて。
彼女は、自分を縛りつけてきたものが少しずつ、少しずつ崩壊していくような心境を味わった。
夫はいつでも、威張っていた。自分は強いのだ、お前と違って優秀なのだ。あの無敗のシセラとも親しい、だから無能なお前は俺の言うことを聞け、そういうことをいつもいつも言って、ヤエルを押さえつけていた。
だがそんな彼が……先ほど見た。生首になってしまった。
夫の語るヘベルと言う人物は、まさかそんなふうにはならない人物だった。しかし、彼は負けた、彼は死んでしまったのだ。普通の夫人、そう言われるデボラの率いるイスラエル軍に負けて。
「(デボラ……普通の女なのに、イスラエルの英雄になった……)」
ふと、ヤエルは自分心にある感情がわくのがわかってきた。それは、彼女に対するあこがれの心だった。
駄目よ、お前みたいな人間のくずがそんな素敵な人にあこがれるなんて失礼な、といつも通りの手法で彼女は、自らの心を抑えようとする。だが、それはうまくいかなかった。と言うのも、自分にそう考えることを強いてきた夫が、そのデボラの軍に倒されてしまったのを目の当たりにしたから。
昔、自分はどうだったろう。昔はもっと、人並みの誇りがあった。その時の感情が、夫の死、威張り散らしていた夫の無様な死によって、みるみるうちにヤエルの心の中に戻ってくるような思いだった。
だが、自分は何ができるだろう?デボラのような英雄に、自分はなれるわけがない。自分は、戦場に呼ばれたわけでもないのだから……。
と、その時だ。
彼女の眼には、眠っているシセラの姿が入った。鎧もつけず、疲れのせいかぐっすりと熟睡している彼が。
彼女の背中に冷や汗が流れた。……もしも、もしもだ。望めば、こんな状況でなら、自分は彼を殺すことができる。彼の生殺与奪は今このときだけ、無力な自分の手にゆだねられているのだ。
自分はイスラエル人だ。もしも自分がイスラエルの味方をする、となれば、どうだろう?確かに戦場では自分は弱い。無力だ。だが、今この時間、シセラが起きるまでの時間、弱さも何もないのだ。
何を考えているの、第一武器は?とやるが迷う。しかし武器ならあった。天幕を留めるに使う太い釘と金槌。そんなばかな、夫の友人を殺すなんて行けないわ、と思う。だがその夫はすでに死んでしまっているのだった。
自分を縛る一切合財が、消え去っていた。その手を下すか否かは、ただただ、ヤエルの自由意思にのみ依っているのだと、彼女は自覚した。
自由意思、ヘベルに誘拐され、奴隷のような身分になって暮らしてきたこの数年間、絶対に自分には与えられなかったものに。
「(どうすればいいの。どうすれば……)」
ヤエルは考えた、デボラのようになりたいか?なりたい。この男を殺したいか?自分は、この男を殺せるか?
「(私……私……)」
彼女は震える手で、釘を取った。
「(ずっと怖かった……ずっと怖かったの……この人が)」
それは、残酷な、そして当然の事実だった。
彼女は夫が怖かった、だがその夫と同じほど、恐怖している存在があった。戦場の英雄、と言われているような男ほど、自分を手ひどく扱った。カナン一の将軍シセラを、彼女は夫と同じほど、恐怖していた。
彼女の身になってみれば、何故彼を恐怖せずにいられただろうか。いつも冷たい視線で見下ろしてくる彼を。自分を犯す彼を。それで理不尽に怒り出す自分の母を止めもしない彼を。
彼女が、シセラをちらとでも愛する理由などなかった。当然だ。シセラは彼女に愛されることを、何一つやらなかったのだから。どうしても、できなかったのだから。
恐怖はその瞬間、ヤエルの誇りと交わり合い、憎しみに姿を変えた。心の中で謝ることを、彼女はその時、忘れることができた。


シセラは意識を取り戻した。何かしらの気配を感じたのだ。だが目を開けるには及ばなかった。自分の身の置かれている状況、そして頭上から降ってくる恐れと決意の合わさったような吐息と、それに混ざるヤエルの声で、彼は全てを察した。
「(……なるほど)」
彼は不思議と、悲しくはなかった。むしろ、受け入れた。彼女に殺したいほど憎まれた自分の行いを。当然だ。彼女は自分に優しくしてくれたのに、自分は彼女に、何一つしてやれなかった。
むしろ、自分の人生をこの女性が終わらせてくれるのならば、それはそれで本望だと思えた。愛しい人に殺されるなら、この罪深い男がたどる末路としては、随分上等ではないか。
「(イスラエルの神よ……どうやら私は、あなたに負けたようだな)」
彼は心の中で、さげすんでいた異民族の神にそう告げた。
「(よろしい。このシセラ、潔く負けを認めよう。……貴方に、貴方の愛するイスラエルに、とこしえの誉れがあらんことを)」
彼は、そうイスラエルの神を賛美した。穏やかな気持ちで。次の瞬間、こめかみに凄まじい衝撃が響き、彼は意識を手放した。
突風が吹いても取れないように天幕を留める、太くて丈夫な釘と、それを打ち付けるための大きな金槌。か弱い女性の力でもそれによって何倍にも膨れ上がった。人間一人の頭がい骨を貫通するには十分すぎるほどの力になった。
カナン最強の将軍シセラの最期であった。

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feat: Deborah 第七話

イスラエル軍が一気に山を下っていることを、ほどなくしてカナン軍も聞きつける。「敵襲だ!」と言う声が夜の闇に包まれたカナン軍の陣地に行きわたった。
「なんだと?奴らも?」
イスラエルがこんなにすぐ動き出すとは思っていなかった。だが予想外の事に戸惑うヘベルとは対照的に、シセラは落ち着いたものだった。彼は焦るヘベルや部下たちを横目で睨みながらしれっとした顔で鎧を身に纏う。
「うろたえるな。どちらから先に仕掛けようとどうせ戦うのは同じこと。我らが勝つこともまたしかりだ」
「お、おう……」
大将の冷静さは、カナン軍にも良い影響を与えたようだった。だいたい元からこちらの方も、この夜に戦を仕掛ける気でいたのだ。
カナン軍はすぐさま彼らを迎え撃つ準備を固めた。イスラエルに気づかれることの無いようにしかけておいた戦の準備の、最後の仕上げにかかった。九百両の戦車にはすぐにずらりと軍馬が繋がれ、高位の軍人達がそれに飛び乗る。先頭には、シセラとヘベル。カナン軍の準備に、それほど時間はかからなかった。

イスラエル軍がやがて下りキション川に差し掛かったころ、彼らははっとした。カナン軍が起きている!しかも完全に臨戦態勢で、イスラエルを迎え撃つ陣形に入っている!
しまった、まだ先を読まれたか!バラクや、イスラエル軍の面々はそう思った。だが、彼らはもう怯まない。焦らない。この期に及んで怖気づいたりなどしない。デボラは、あの女性は確かに、今この時だと言ったのだ。神の言葉を伝えたのだ。
戦車も持たない、兵力も持たない自分達は、神の言葉を信じてやってきたのだ。
「怯むな、先に進め!我々には主のご加護がある!」
バラクは叫んだ。その言葉を疑う者も、一人たりともイスラエル兵の中にはいなかった。

突撃の手を緩める様子のないイスラエル軍、タボル山を下ってくる光の一群を見て、シセラは自分の戦車に乗りながらにやりと笑う。
「なんだあいつら、俺らが見えていないのか……?」とあきれたようにヘベル。
「さあな。我々に怖気づいていない事だけは確か」
だが、その勇気など恐れるに足らない。勇気があろうと、鉄の武器があろうと、あんな小さな軍隊が自分たちに何ができる。今のイスラエル軍は飛んで火に居る夏の虫も同然。また、無様に返り討ちにしてやる。シセラは負ける気などしていなかった。絶対的な余裕があった。キション川の畔で、二つの軍が今にもまみえんとする時。

不思議なことが起こった。

明るすぎるほどに晴れていた星空が、一瞬で曇り、あたりは真っ暗になった。そして、バラク、シセラ、ヘベル、その場に居る面々の肌に何か当たるものがあった。冷たい粒。それがなんであるのか理解するのには数秒の時間を要した……雨粒だった。
一粒。もう一粒。三粒、十粒。次々と水滴が落ちてくる。そして、その数は膨れ上がった。そう、一瞬にして、タボル山のふもとは厚い雨雲に覆われ、大豪雨が降り注いだのだ。

両軍ともに、この不測の事態には驚いた。
ジュウジュウと音を立てて、カナン軍の持つ松明が消えていった。星明りも黒雲に閉ざされ、彼らは闇に包まれた。
だが、イスラエル軍はほどなくして、冷静さを取り戻した。なんということだろうか!彼らは目を疑った。ラピドトの作った松明は、雨の中でも燃えている!
特殊な薬品を混ぜると、水につけても火が消えない松明ができることをラピドトは知っていた。松明職人というさえない職業ではあったが、それでも彼は自分の仕事に手抜かりはなかったのだ。バラクは大雨の中光る松明を見ながら、あの人のよさそうなラピドトに感謝した。一方的に視界を確保した彼らの勢いは止まらない。ようやく彼らは地上に降りた。
「騎兵は全員馬やろばを降りろ!」
バラクはそう叫び、自ら愛用のろばを降りた。地面はすでに雨水を吸い込み、ぬかるみ始めている。

「馬鹿な……?」シセラは目を白黒させた。そんなはずはない、自分の視た光景は何だったのだ?
「あの明かりを目印に向かえ!」シセラは負けじと声を張り上げた。「突撃、突撃だ!」
だが、その叫びも無駄になることを彼は知った。彼の戦車が、動かない。泥濘の中に車輪も、馬の足もとられてしまったのだ!
自慢の鉄の戦車隊も、ぬかるんだ土地では何の役にも立たない、歩兵隊以下の存在だ。おまけに光もない、手探りの状態で一体何ができるだろう。
音が、光が、すぐそばに迫って来ていた。イスラエル軍はまっすぐに切り込んでくる!
暗闇に響く金属音と悲鳴。だが、先日の夜襲と違うのは、最初に響いたそれが、カナンの兵のものであるということだ。

戦いの行く末は目に見えていた。早々に騎馬や戦車をあきらめ、さらに暗闇と雨の中でも光を持ち視界の定まったイスラエル軍が一方的に有利であるに決まっている。
鉄の戦車の力を過信し、なんとかそれらを走らせようと手探りでもがいていた上級の騎兵たちが真っ先に犠牲になった。彼らはろくな抵抗もできずに身軽なイスラエルの歩兵たちに切り捨てられ、戦車から落ちた。
あっという間に、カナン自慢の戦車隊は総崩れだ。それを高らかに告げるイスラエル軍の声が戦場にこだまする。
カナン軍はそれで、輪をかけて恐怖に襲われた。真っ暗で方向も分からない中、どしゃ降り雨に打たれて右も左も、大混乱だ。
「何をしている、逃げるな、持ち場を守れ!」
シセラは大声で言ったが、効果はなかった。視界が悪くとも、彼には敗走する兵の声がすでに聞こえていた。この状況になってしまっては、さすがに不敗のシセラ将軍の声と言えども、恐怖の方が打ち勝ってしまう。
おまけにイスラエル人の武器の強度は、今やカナン人と全く互角だ。柔らかい青銅の剣を捨てた彼らはカナン人相手に激しく切り結んだ。自分たちに優勢な状況になった、と悟ったイスラエル軍は、彼らは自分たちの何倍もいることを忘れた。その健忘は、ひとたびシセラの事を思えば恐怖に震えあがってしまっていた彼らにとっては間違いなくいいものだった。事実、暗闇と大雨の恐怖で一転、腰抜けになってしまったカナン兵の恐ろしさなど、彼らにとっては今やとるにたらない。
バラクは先陣を切って、雨の中で相変わらず燃え続ける松明で戦場を照らしながら、片手に持った鉄の剣で次々とカナン兵を切り倒していった。
「カナンの司令官は、シセラはどこだ!」彼は大声で怒鳴った。

「腰抜けどもめ!」シセラは舌打ちする。彼はおそらく隣に居るのであろうヘベルに言った。
「戦車を捨てるぞ!」
「歩兵に成れって言うのか、俺達が?」
「やむをえん、緊急事態だ」
シセラはそう言って戦車を降りる。ヘベルも仕方なく追従した。
シセラは暗闇の中、目をギラリと光らせて真直ぐに進んでいった。ふいに、悲鳴が上がる。
「シセラ将軍だ!」イスラエル軍の悲鳴が上がった。彼は、戦車など、騎馬などなくても、そして同じ鉄の剣を握られていようとも、圧倒的な剣術の腕がある。彼は松明の明かりを目印に、この期に及んでもバッタバッタとイスラエル兵をなぎ倒しにかかる。
それを見たヘベルは、あわてて自分の部下にも言う。シセラ一人を戦わせるわけにもいくまい。
「戦車と騎馬を捨てろ!イスラエル人は光の方向に居る、それに向かえ!」
流石に残っているカナン人は度胸のあるものぞろいだ。彼らは上官に言われるまま歩兵となり、イスラエル軍に向かって言った。だが、彼らがキション川のすぐそばに沿ってイスラエル兵を追いかけたのが運のつきだった。

ゴー、低いと言う音が聞こえた。何事かと戦場はどよめく。いち早く気が付いたのは、バラクだった。
「危ない!者ども、高いところに逃げろ!」
バラクの一声に、イスラエル軍は慌てて走り出す。カナン軍がそれに戸惑っている時だった。枯れ川だったキション側が急激に水位を増した。突然の豪雨で鉄砲水が起こったのだ!
気が付いたときにはもう遅かった。彼らが逃げる間もなく川は水嵩を増し、両軍の勢いを合わせてもかなわないのではないかと言うその荒れ狂う水流はヘベルの指揮下にあるカナン兵を一気に押し流した。
鎧も、皆丈夫な鉄製のものをつけているのだ。溺れてしまっては助かるはずがない。圧倒的な装備の差が、かえって仇になるとは。
バラクの言葉のおかげで、イスラエル軍は住んでのところで鉄砲水の被害を逃れた。雨はやむどころかますます激しくなってくる。稲妻の光が戦場を切り裂いた。遠くで雷が鳴った。イスラエル軍の士気は最高潮に達していた。
雨に濡れ、乗るものを失った鉄の戦車が力なく倒される音が響く。こうなってしまってはもはや、カナンの誇る最新兵器も鉄くず同然だ。

「どこまで……なめやがる」
ヘベルは屈辱に震えながら叫んだ。
「イスラエルの司令官、どこに居る!このカイン人ヘベルが相手になるぞ!」と叫んだ。そしてその声に、一人やってくる男がいた。雨の中でも燃える松明をしっかりと持った床の後ろで、雷がもう一度鳴り響く。
「アビアノムの子、バラクならここに居るぞ」バラクはヘベルの前に立ちはだかった。そして、松明を地面に刺すと「来るなら来い!」と剣の切っ先を向ける。
二人の軍人は大混乱を意に介さず、雨の中光る松明の光のもとで激しく切り結んだ。同じ武器を使っている今、実力は互角というところだった。
だが、ついに決着の時は訪れた。雨で手元が濡れ、剣が掴みにくいのは両者にとって同じだったが、ついに片方が、手を滑らせたのだ。それは、ヘベルのほうだった。
「しまった……」
それは、ケニ人ヘベルの最期の言葉、余りに無様な言葉だった。
バラクはその隙を突き、彼の剣を打ち飛ばした。そして、ヘベルが丸腰になった次の一瞬で、剣の切っ先を彼の首に叩き込んだ。彼の冷酷な目が埋め込まれた首は、雨の中宙を舞い、そして、ぬかるみの中にぼとりと落ちた。

バラクはヘベルの首をつかみ「ケニ人ヘベルは打ち取られたぞ!」と大声で言った。戦場に、イスラエル軍の歓喜とカナン軍のどよめきが行きわたった。

その言葉を、シセラも聞いていた。鉄砲水の流れからすんでのところで抜け出せた彼も。ごろり、と足もとに丸いものを見つけた、拾ってみれば、それはまさに、盟友ヘベルの首だった。
「撤退だ、撤退しろ!」
もはやシセラも、そう叫ぶしかなかった。不敗のカナンの英雄ですらも。鉄砲水の中、剣も失った。
カナン軍はもはや、惨憺たるものだった。後は散り散りになってイスラエル軍に追われるのみ。イスラエル人にとっては赤子の手をひねるかのような追撃だった。
逃げながら、その時、シセラは見た。この光景を、自分は知っていた。
豪雨の中、真っ暗な中、ちかちかと光る光の群れ。真直ぐに自分たちを追いかけてくる。
星だと思っていたのは、この光景だったのか。シセラは目を瞬かせ、流木で傷ついた足で精いっぱい走らせながら、目の前の出来事を呆然と見ていた。

カナン軍はハロシェト・ハゴイム近郊まで逃げた。だが、それが限界だった。一晩と立たないうちに、カナン軍は全滅したのだった。実力ではるかに劣る、イスラエル軍相手に。

暗闇の中、シセラは逃げおおせた。イスラエル軍の声も聞こえない。そして、味方の声も。
「誰かいないのか!?誰か!」
答えは何も帰ってこなかった。大豪雨はいつの間にか止んでいて、嫌味なほど輝いている星空が元通りになっていた。
シセラはぼうっとする頭を抱え、考えた。ずぶぬれで、足には怪我をした、見るも惨めな姿で独り立ちすくみながら。
自分が、負けた?
イスラエル人相手に?
彼にとっては、初めてと言ってもいい規模の大敗北だった。軍人になってからずっと、勝ち戦しかしてこなかった彼にとっては……。
彼の体中に、恐怖感が駆け巡った。彼はわなわなとふるえた。「ごめんなさい……」
それを言う対象は目の前にいないというのに、彼は青い顔をして、何度も何度も繰り返した、。頭を庇って、泣きながら。
「ごめんなさい!ごめんなさい、ママ、許して、お願い、僕を許して、捨てないで!ぶたないで!お願い、お願い、痛いんだよ、手当てしてよ、怒らないで、ママ……!」
彼の頭には、自分を怒る母親の姿が激しく駆け巡った。
戦場でいくら勝っても、少しのミスがあると激しく怒った。大怪我をしていても手当てするどころか、何故怪我なんかしたそんなの私の息子じゃないと外に放り出された。完全な勝利じゃないと許してくれなかった母親の姿。
こんな、こんな敗北を期して帰ってしまったら、母は一体自分に何をするだろう。嫌だ、あれだけでもこわかったのに。其の何百倍?何千倍?
「こわい、こわい……怖いよ、助けて……」
彼はパニックになった。頭を白黒させて、ぶるぶると震えた。嫌だ嫌だ、怒られたくない。怒られるのが怖い。怒られるくらいなら、ここから消えてしまいたい。これほどまでに負けてしまった自分に存在価値などない。母はいつもそう言っていた……。
その時だ。彼の目に、明かりの灯った天幕が入ったのは。
それは見知った天幕だった。あの自分の友を自称していた男は、自分の家を持たず、いつもあれで移住生活をしていた。
彼女も、戦闘が始まると足手まといと言う理由で、いったんハロシェト・ハゴイム近郊まで帰っていたのだ。
「ヤエル……さん……」
彼はぼそりと、その名を呼んだ。
彼はじくじくと痛む片足を引きずりながら、その天幕の方に向かって歩き出した。非常に重い足取りで。彼の脚は間違いなく、街中の母が待つ邸宅ではなく、その天幕を目指した。

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feat: Deborah 第六話

カナン軍は動く様子がない。日がそろそろ赤色に染まっていき、西の空に落ちていく様子が山の頂上からは見えた。
デボラが、ネルのいる天幕から出てくる。ネルはようやく寝たらしい。今回の作戦に参加したがっていたようだが、やがりさすがに無理だろう。
「不安ですか?」デボラはバラクに向かって言った。
「いいえ、ちっとも……」
バラクはそう言って、にっこりとほほ笑む。心の底から、それは本心だった。
「思い出しました」バラクはぼそりと言う。「母を、少し思い出せました。デボラ殿。貴女のおかげで」
「そう……それは、良かったわ」
デボラは首を縦に振って、自分も心から喜んでくれた。
「デボラ殿。一つ、お伺いしたい」
「なんですね?」
「あなたを見ていると、どうしてこうも安心できるのでしょうか……」バラクは目を細めて、目の前の婦人を眺めた。「まるで、本物の母を見ているかのように……」
「……」
デボラも目を細め、考え込んだ。しかし、目を閉じることはなかった。神から受け取る言葉ではなく、デボラ自身の言葉で答えを返そうとしてくれているのだ、とバラクには思えた。
「多分ですけど……そうね。夫にはよくこう言われます。君はいつも自信満々だって。君はすぐに、目の前のものを愛せるのだねって」
「なるほど」彼はうなずいた。「納得です……しかし、貴女はどうしてそうであれるのですか?」
「あたしは、何かを信じたり、何かを愛したりするのにいつも理由がいるとは限らないって、そう思っているんです」デボラは、そう言った。
「だから、何も考えずにそうなれます。……恐らく、理由と言ったらそれくらいなんじゃないですかねェ」
バラクはくすりと笑ってうなずいた。そして、デボラの前にひざまずき、彼女の手の甲にキスを落とす。
「ありがとうございます。こたびの戦に、ついて来て下さり……本当にありがとうございます」
「あらあらバラクさん、お礼を言うのはまだ早いんじゃないですかねェ」デボラは照れ笑いした。このようなことをされるのには、さすが彼女も慣れていないのだろうか。目の前の貫録ある夫人が少し可愛らしく見えて、バラクもなんだかおかしくなり、噴き出しながら「すみません」と言った。
「……昔」彼は呟いた。「貴女のような人が二人いました。一人目は母で……二人目の人も……彼女と居ると何故だか、いつも安心できました。母やあなたに感じたものとはいささかばかり違うものでしたが……本当に彼女の事を愛していました」

夕方近くになった。イスラエル軍に気づかれぬよう作戦準備は大々的にはしない。明かりが落ちてからが勝負だ。
ふと、シセラは女の高い声を聴いた。それは、母の声のようだった。
「この、売春婦!汚らわしい!お前なんか地獄にお堕ち!」
母は、侍女数人を連れて女一人に暴力をふるっていた、その女は、ヤエルだった。
母は気が狂ったように、ヤエルを踏みつけた。彼女の女性の部分を、ありったけの憎しみを込めたかのように。
ヤエルはやめて下さいとすら言わなかった。痛みにかすれる「ごめんなさい」という声だけを、何度も、何度も繰り返していた。
「……母上」シセラは、歩み出た。
「いったい、何事です……」
アクラビムは息子の姿を聞くと、跳ね返るように彼のもとにやってきて、彼の頭をかき抱いた。
「おお、怖かったわね!大丈夫よ、大丈夫よ!」
「母上……何があったのですか」
「昨日、この阿婆擦れに誘惑されたのね!お前はいい子だから断れなかったのね!気持ち悪かったでしょう、大丈夫よ、可哀想に!」
シセラは感づいた。昨日帰ったと思った母は、帰ってなかったのか。自分と彼女の行為を見ていたのか。
シセラはすっと目をうつむかせ「ご心配ありがとうございます、母上」と言った。
「怖かったでしょう!」
「はい……」
母も、本気で息子が女に誘惑されたなんて思っていまい。思っているはずがない。信じたいのだ。彼女はただ、信じたいのだ。
何十分もかけてなだめた後、シセラは母に行った。
「母上。お化粧が落ちて、お美しい顔が台無しです。私の天幕に言ってお休みください。私も用をすませたらすぐに向かいますので」
「ええ、ええ……」
「日が落ちてしばらくしたら出陣です。危険になりますので、それまでにはどうぞ安全な場所にお戻りを。吉報を待っていてください」
シセラはそう言い含め、アクラビムは泣き疲れたかのようによろよろと起き上ってシセラの天幕に戻った。後には、泥だらけになったヤエルが残された。
シセラは、無言で彼女を見下ろす。
「申し訳、有りませんでした……」
なぜ彼女はこう言うのだろう。一方的に犯したのは自分の方だ。
「……ヤエル」歩みを進めようとする彼女に、シセラは短く言った。「そこから先にはいくな……もうすぐ、蜂が戦を始める」
「ええ?」
彼がそう言うや否や、荒野に生えた気に救っていた二つの巣から一匹、また一匹と蜂が飛び出してくる。ヤエルは慌てて、地を這って離れた。やがて、蜂たちはシセラの言うとおり戦を始めた。
「あ、ありがとうございます。シセラ様……」
「……どのような気持ちなのだろうな?」
え?と、ヤエルはシセラの独り言に疑問を呈した。
「知っているか、ヤエル。蜂はたった一人の女王が巣をつくる。そして、その女王は、自分の臣下達の、全ての母でもあるのだ」
「はい……」
「子供たちを戦に駆り出す母親蜂とは、どんな思いなのだろう」シセラは少し離れたところで、わんわんと鳴り響く蜂たちの戦をヤエルとともに眺めながら言った。
「信頼しているのだろうか……道具としてしか見ていないのだろうか……」
ヤエルは何も言わなかった。戸惑っているようだった、シセラは少しばつが悪そうに頭を掻き「……蜂が人間並みの頭を持っているわけはないか」と、締めくくった。
シセラはもう一度、ヤエルを見下ろす。その剣の切っ先のような目で。シセラは彼女に、何千、何万と見てきた人間たちと寸分たがわぬ色を見た。その色しか、彼女にはなかった。
「お前に聞きたいことがある」シセラは言った。
「愛したものはいるか」
「あの……」ヤエルはどもったが、シセラは威圧的に「命令だ。正直に答えろ」と言う。
「はい。……昔、婚約者がいました。優しい人で……とても、とても好きでした……」
「そうか」
彼はそうとだけ言って、蜂たちの喧騒を後ろに聞きながら陣地に引き返した。


「最近、よく出会いますね」
「あなたこそな、ご婦人」
日が落ちる前、デボラとシセラが部屋で会話をした。不思議なものだ。お互い知り合ってから数日なのに、何回かここで話すうちに、もうずっと以前からの知り合いのように思える。
「……そうだ、貴女に聞きたいことがあった」
「はいはい、なにかしら?」
「あなたは……自分の息子が自分を裏切ったら、やはり怒るのだろうな」
どういうことです?とデボラは首を傾げた、彼は少し迷いつつ、それでも話す。
「いや……貴女と話していると、貴女が心から息子や娘の事を愛し、慈しんで何人も育ててきたことは分かる。もしその彼が貴女のそんな恩も忘れてあなたを嫌ったら……貴女は、恩知らずの親不孝者と、そいつの事を怒るのだろうか、と感じたのだ。だって、それが道理だろう」
淡々と言う。シセラに、
デボラは眉をひそめて何があったんです?と言った。
「でもまあ質問の方に答えますか。そうですね……とてもとても、たまらなく悲しいと思いますけど……でも、怒りはしませんよ」
「まさか、それはおかしい」
「なぜです?」
「だって、そいつは貴女の恩や愛をみんなないがしろにしたからだ。道理として許されることではあるまい。貴女に愛されたのだから、永遠に貴女の元を離れないのは当たり前だ。そうだろう」
シセラは少し、怒ったようにそう言った。
「そうでしょうか……」
「なに?」
「あたしはね、そりゃ与えられた愛を返されりゃ嬉しいですよ。でも……でも、必ず返さなきゃならないなんて、そりゃ商売の世界の話でしょう。一回世話になったから一生はなれてはいけないなんて、主人と奴隷の世界じゃないですか」
「……親子の情とは、そんなものではないと?」
「少なくとも、あたしはそう思いますよ」デボラは目にうっすらと涙を浮かべて言った。「馬鹿な、親子と言えども他人同士の関係には同じ。与えられたものは返すのが道理だ」
「返すというのなら……元気に育って、一人前に育ってくれて、どこでもいいから笑って生きている。それであたしは、返されたと思うんです」
その言葉に、シセラは切れ長の目を見開いた。
「うそだ……」
「あたしは、子供をお客さんや奴隷にしたくはないですよ。だって……」
「だって、なんだと!?」
「そうなったら……ずっと育ててきた時間が、それこそまるで無駄になっちゃうじゃないですか。お客さんを、奴隷を育てたかったんじゃないのに。ただ、幸せに生きれるひとりの子を育てたかったのに」
その時、シセラの目からポロリと涙が落ちた。
「それが……母の言葉?」
シセラは怒った、泣きながら怒り、めちゃくちゃに怒鳴り飛ばした。
「嘘だ嘘だ!綺麗ごとばっかり!僕は、僕はママのもとに居なきゃならないんだ……ママは、ママは僕がいなきゃダメなんだもの!ママは僕を愛してくれたから、僕を育ててくれたから、僕はママのもとを離れちゃだめなんだ……」
「……何があったの?」
デボラはそっと腰をかがめて、彼に視線を合わせた、下から、彼の目を覗き込む。彼は泣いていた。
「ママを、憎いと思ってしまった」シセラは彼ら以外は誰もいない白い部屋でえずいた。
「あの人が虐められているのを見て……僕を、僕を大切にしてくれているママを……世界一愛さなきゃダメなママを……今日、世界一憎いと、思ってしまった……」
彼はごく幼い子供のように泣きながら、デボラに叫んだ。
「ママのせいで何回も死にかけた、ママのせいであの人に怖がられる。ママのせいで、僕は、僕は大きくなれないんだ……!ママは、ママは僕を世界一愛してくれてるのに、僕はこんなことを考えてしまう。僕は悪い子だ。悪い子なんだぁ……」
デボラはそっと、彼の背中を撫でた。
「そう……そんなことだったんですねェ。つらかったわね……そういう時はね、無理に愛さなくても、いいんですよ」
「嘘だ!」
「子供を愛せない母も、母を愛せない子も、この世にはたくさんいるのよ。あたしは、何人も見てきた」デボラは泣きじゃくる彼に、そう言い含めた。
「でも、彼らだって間違ってない」
「間違ってないなら、なんでお前は子供を愛するんだ!」
「あたしは愛せるし、愛したいからよ」デボラは言った。「それくらいでいいじゃないの……みんな、自由なんですから」
彼は泣いた。デボラに抱かれながら、ただ泣いた。
「捨てられないんだよ」彼は呟いた。
「たとえ愛していなくても、たとえ世界一憎くても……私は、あの母からは離れられないんだよ」
彼はそう言って、デボラから離れた。デボラはそれに、何も返さなかった。
「ご婦人。貴重な意見をありがとう」
「どういたしまして……貴方は、どこへ?」
「もう、行かなくては……大切な仕事があってな」
「それはそれは……」デボラは笑った、奇遇だと思いながら。
「いってらっしゃい」
彼はふっと小さく笑って「ああ、行ってきます。また会えたらいいな」と言った。


やがて日が落ちた。新しい一日が始まる。
デボラは戦場に赴く兵士たちに、最後に言ったた、
「さあ、皆さん、胸をはってお行きなさい。今日こそ、神様がカナン軍を、シセラ将軍を貴方方に渡される日です!」
鉄の剣と盾を手に持ち、先頭に立つバラクはその言葉を聞いて目を輝かせ「はい」と力強く答えた。周囲も同じだ。もうこの期に及んで、デボラや彼女の与える言葉を疑うものなどいない。
「みなさん。神様を、信じて。このあたしが預かった言葉を、どうか信じて下さい。神様はいつでも、ただただ自分を信じて行動する人たちの味方ですよ!」
その夜は、星がいつにもまして輝いていた。非常に明るい夜だった。
索敵に行った兵士たちが帰ってくる。彼らも明るい星明りのおかげで、実にうまく任務を遂行できたらしい。
攻撃するならば、今。
「必ずや吉報を持ち帰りましょう。我らが母、デボラ殿」
そして彼は手を振り上げる。「出陣!」
先日カナンに覚えていたイスラエル軍はそこにはなかった。デボラとネルに見送られ、彼らは意気揚々と、ラピドトの店の松明を手に持ち、ついに走り出した。
明るい星明りに、非常によくともる松明の光。彼らの軍隊は夜道に足を取られることなく、昼間のように一糸乱れずタボル山を猛烈な勢いで駆け降りた。

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feat: Deborah 第五話

シセラは、母の事を知っていた。
昔、カナンの貴族の青年に面白半分に弄ばれ、子供ができたと分かったら手ひどく捨てられた母。
未婚の女が処女を失った、女性が最底辺の地位に落ちるには、それで十分だった。シセラの父と呼べるような男はそのことに責任も取らず、取り合いもしなかったと聞く。娼婦と同じような地位に落ちてしまったアクラビムを妻に取ろうなどという酔狂な男性は現れなかった。だからシセラがまだずっと幼い時から、母にはシセラしかいなかった。彼女にとってはシセラこそがただ唯一の味方であり、男だった。
底辺と呼べるような女の息子に産まれても、人並み外れた戦闘の才能と、不思議な力を持ったシセラがやがてカナン王の目に留まり、少年のころから軍人として出世できたのは妥当なことだった。だがそれを見て以来、母はシセラに息子を求め、夫を求めるようになった。自分のそばにいてくれる唯一の男に。
彼女はシセラを手放そうとしなかった。いついかなる時もそばにいて、戦場にすらついてきた。
誇りを剥奪された彼女にとっては、シセラの誇りがそのまま自分の誇りに直結した。シセラが馬鹿にされることは彼女が殺されるに等しい苦痛だった。母は、シセラ、自分の息子が失敗することを絶対に許さなかった。自分には彼しかいないのだから。彼が崩れてしまっては自分の人生が崩れることになるのだ。一度人生を崩された彼女は、そのことを極端に恐れていた。
あれは、うんと少年の日の事だった。シセラはもう十分に戦場に出て活躍する年だったが、子供なので戦勝祝いの宴でも酒は飲めなかった。母が飲まそうとしなかったのだ。体に毒だと言って、絶対に一滴も飲ませなかった。
シセラはヤギのミルクを飲んでいたのだ。それが好きだから、それだけの理由で。しかし、その席である年配の軍人が酔った勢いでこう言ってきたのだ。
「酒も飲めないお子ちゃまがここにいるなんて。まあ、お子ちゃまにはミルクがお似合いだね」と。
別段シセラは怒りもしなかった。だがアクラビムはその夜、酒の樽を持ってきた。そして目の色を変えて、無理やりシセラにそれを飲ませたのだ。一樽飲むまで絶対に眠らせない、と言って。
「あなたは大人なんだから!責められる謂れなんてないんんだから!酒くらい飲める、これくらい飲める!」
頭がグラグラした。何度も吐き戻した。それでもアクラビムはもっと飲め、飲むんだと殴りながらシセラの口に無理矢理酒を押し込んできた。舌がもつれて、助けすら乞えなかった。意識が何度も飛びそうになった。それでも何とか意識を保っていないと、次から次へ流し込まれる酒で溺死しそうだった。体中がこんなの無理だと言っていたのに、シセラはそれをするしかなかったのだ。
反吐にまみれた床の上、夜が白んで樽が空になった時、母は自分が瀕死にしたシセラを抱きしめて言った。
「ああ、なんて立派……流石はシセラよ、私の自慢の息子よ」
シセラは残っているのが不思議なほどの細い、細い意識の中でその声を聴いた。自分は、母を喜ばせないといけないのだ、母には自分しかいないのだから。彼は心の底から、そう思った。

それ以来彼は、酒が大嫌いになった。いくらでも飲めるようになったが、本心では心底嫌いだった。
シセラの評判が高まるにつれ、ますます母はシセラに愛着を持った。シセラはほかの女性と話すことなど許されなかった、そばにいる女性は母でなくてはいけないのだ。夫が妻に貞節を誓う必要があるように?それと、同じような、少し違うような気が、シセラにはしていた。
ヘベルと、その妻のヤエルと知り合ったのはその日の事だった。

ヘベルは酒に強いことを自慢していて、よく飲み比べをやっていた。だがその日、シセラは大嫌いな酒を何十杯も飲んで見せ、ヘベルに勝って見せた。
歓声が沸く中、彼は夜風に当たりに外に出た。そして、思い切り胃袋の中の酒を吐き出した。
嫌いだ、嫌いだ、こんなもの。腹の中に入れたくない、と、酒で死にかけた体が全身で泣いて居た。しかしこのような姿を母に見られるわけにはいかないのだ。自分は酒の飲める、男らしい存在でなくてはならないのだから。そうして、母を立てなくてはならないのだから……。
その時だった。
「大丈夫ですか……?」という、おどおどした声がかけられた。振り向くと、見知らぬ女性が後ろに立っていた。
「飲みすぎた、のですか……?」
彼女はじっと、シセラの様子を見て言う。シセラは彼女を睨みつけた。だが、彼女はヒッと怯えて、「ごめんなさい……」と言いながら、手の中の瓶を渡してきた。
「あの、よろしければ、お飲みになりますか……?」
それに入っていたのは、白い山羊のミルクだった。
酒のような芳香を放たない、まろやかなそれが、松明の明かりに静かにきらきらと光っていた。
彼は切れ長の目を見開いて、彼女と、その瓶をじっと見つめた。自分の荒れきった胃袋が、あの中身を、それを差し伸べていくれる女性を欲していることが体中で分かった。女性は厳しい視線を引っ込めたシセラを見て、自分も少し、ほんの少しだけ、表情を和らげた。彼女はごく薄く……にこりと、笑って見せた。
シセラは無言のまま、彼女を見つめた。薄い、穏やかな女性の笑顔。それを見るのは、何年振りだったろう。彼には、母親以外の女性はなかった。そしてその母親は、シセラがいつ失敗するかを極度に恐れ、シセラが成功した時すらも、そこか恐れが混ざっているように見えた。女性の笑顔とは、これほど、綺麗な物だったろうか。パチパチと燃える松明の光のもと、シセラは彼女を、不思議な気持ちでじっと見つめていた。
彼は何も言わず、両手を差し伸べた。だが、その時、後ろからアクラビムが来ているのがわかった。彼を心配してやってきたのだろうか……だが、彼は彼女の表情がみるみるうちに不快感に染まっていくのをみて、背筋が凍った。
また怒られる、また叩かれる。
反射的に、彼の手はその瓶を女性にたたきつけていた。彼女はミルクに濡れ、瓶は音を立てて転がり落ちた。
「この私にこのような子供じみたものを……ふざけるな、下女が!」
彼は大きすぎるほど大きな声でそう怒鳴った。それは……母に聞かせるためだったかもしれない。事実母は少しだけ、安堵していたようだった。息子が目の前の女に冷たく当たったこと、ミルクなどを飲もうとしなかったことに。

彼女、まるで奴隷のような彼女が盟友となったヘベルの妻ヤエルだったことを知ったのはすぐ後だった。だがヘベルは妻への仕打ちに怒るどころか、笑った。
「それで当然さ。本当に、何もできないごみみたいな女なんだから!」
ごみ?
彼はなぜ、そう言うのだろう。
シセラには何となく分かった。所詮、この男も寂しいのだ。自信がないのだ。飲み比べなんてしたがるのも、わざと馬鹿に出来る女を連れ歩いているのも、そのせいだ。いつも自分が優位にいると分かりたいのだ。そうしないと気が狂いそうな、そんな男なのだ。
しかしそれはともかく、なんとなくシセラは、ヤエルを忘れがたく思った。彼にとっては初めて会った、母親以外の女性を。自分に酒ではなく。ミルクを渡してくれた女性を。
小間使いの中に混ざって働く彼女を、シセラはその鋭い目で追っていた。アクラビムとヘベルがそれを見つけるのは、たやすいことだった。方は憎しみに染まったような表情、片や面白そうな表情を浮かべてそれを見ていた。

ある日、ヘベルは宴会の席でこう言った。
「ところでシセラ、お前は女を抱いたことはあるのか?」
「ありません」彼より先にアクラビムが、釘をさすように答えた。
「この子には妻もないんですから!娼婦のような汚れたものと共におくわけにもいきませんしね……」
「そうかそうか……つまり、まだお子ちゃまなんだな」ヘベルはわざと、意地悪くそう言った。その言葉を聞いて、アクラビムの顔が固まる。
「女の一人や二人抱くのは、一人前の男には必要だろうよ」
「なんですって……」
ヘベルは知っていたのかもしれない。シセラを他人に子ども扱いされることは、アクラビムが何より憎むことだということを。彼女にとっては、愛する夫を侮辱される行為なのだから。しかし一方で、アクラビムに取ってシセラは永遠に自分の息子だった。手放したくない、絶対に自分の方だけを向いてくれる、自分を絶対的なものと信じてくれる存在。そんな彼が、大人と同じく汚れた身になってしまうのは、シセラが自分の元から離れていくような気分だったのだ。
大人の美徳と、子供の美徳。決して両立しえないものを、アクラビムはどうしてもシセラに両立させたかったのだ。だがしかしヘベルのこの問いは、残酷なほどその矛盾をついていた。
「筆下ろしに俺の妻を貸してやりましょうか」ヘベルはにやりと笑ってそう言った。シセラはただ黙っていた。母親が発言するまで、自分に何を決める権利もない。

アクラビムは、結局ヤエルをシセラのもとによこした。汚れた女、ただの筆下ろしの相手、としつこすぎるほどにシセラに言って。決して夫婦同士の契りと同じものなどではないと壊れそうな心に必死に言い聞かせるように。
彼女を待っている途中、シセラは妙な気持ちだった。母とヘベルの意地の小競り合いの末送られたようなものなのに、何か、どこか楽しみにしているような気持ちが一片だけあったのだ。だが天幕の外からかすかに聞こえてきた母の声、彼女が使用人に話している声を彼の敏感な耳がとらえた時、その名前もわからない楽しみが、砂の城がさらりと崩れるように消え失せた。
「ええ、そうよ。無理に迫られて、犯されて、女が喜ぶものですか……私がそうだったもの。はっきりわかるわよ。男の勝手な感情…好意であれ、支配欲であれ……そんな者を一方的にぶつけられて惚れる女なんて、この世のどこにもいるもんですか……いい機会だわ。あの子はあれしかできないように育てるのよ。どんな女を好ましく思おうと、かなわせやしない。あの子を、他の女にはやらないわ。あの子は私のものだもの。あの子が消えたら、私は死ぬしかないのよ」
やってきたヤエルはこの上なく怖がっていた。嫌です、やめてください、と言う彼女を見て、シセラの心は凍りついた。
自分はなぜ、この女性を苦しめなくてはならないのだろう。自分に優しくしてくれた彼女を。簡単だ、この女性に優しくしてしまっては、自分は男ではなくなるからだ。少なくとも、彼らの望むような男と言う存在に。その座から離れることを、シセラは許されていないのだ。
泣き叫ぶヤエルを、彼は犯した。心が凍りついた。敵兵を殺める気持ちと全く同じだった。
ことが終わって母は、奪い返すように彼の体を抱いた。そして心を痛めるヤエルを娼婦、とこの上なく侮辱した。
恋、と人が呼ぶ感情を自分は持っていたのかもしれない。シセラが初めてそう自覚できた頃には、すでに遅かった。
彼の部屋にはピカピカ光る、よく磨かれた盾があった。そこに、母に抱かれる裸の自分が映っていた。背が小さく、童顔で、グロテスクなほどに、そこに映る自分は子供だった。
自分は、永遠に子供でなくてはならないのだ。酒を飲まされても、女を抱かされても、大人であって子供ではない、完全な大人になることを許されていなるのだ。そう育った人間なのだと、彼はその時悟った。


イスラエルの降伏も時間の問題と浮かれるカナン軍を少しばかりひるませる事件は、数日後に起こった。武器の輸送に来るはずの部隊がいつまでたっても現れない。
そう不審に思っていたところ、輸送兵がまろぶように陣地に乗り込んできたのだ。イスラエル軍に襲撃されて武器を全部奪われたと。
「なに!?」ヘベルは声を上げて驚いた。
「そんな情報、どこから……!」
「……書簡の管理はお前の責任ではなかったか?ヘベル」シセラは冷たく言う。ヘベルはぐっと言葉を詰まらせた。
「……うろたえるな。剣を磨いておけ。鉄の武器が相手に渡ったところで、実力と戦力の差はどうともならんだろう。何より……こちらには戦車隊がある」
「お、おう、そうだな……」
あくまで冷静なシセラを前にして、ヘベルも調子を取り戻した。

「これが鉄の武器!?」
一方イスラエル軍は、初めて見る武器を前に大分はしゃいでいた。先ほどまでの絶望の空気も打って変わって希望に代わっている。ずっしりと重い、切れ味もはるかに勝るそれを、兵士たちはためしに振り回したた。
バラクもためしに一本持て、降ってみる。なるほど、青銅製のものよりはるかにいいと身にしみてわかる。
「ネル!お前のおかげだ、ありがとう」彼は天幕の中のネルに行った。さすがにもう彼は前線に出るのは無理だろう。だが包帯だらけの少年は屈託なく「どういたしまして!」と笑って見せた。
デボラは目を細めて、その様子を見ていた。ようやくイスラエル軍を包む気がもとにもどったのを見て。
彼女はすっと目を閉じる。そして、その時だった。
「……来ましたよ。バラクさん、みんな」
彼女は太い、良く通る声でそう告げた。
「日没よ……!次の日没後だわ!」
イスラエル軍は先ほどまで騒いでいたのが、皆慌てて真面目になる。それを見守り、デボラは厳かに言った。
「神様がこう言われたわ……日が落ちたら、神様はシセラを、カナン人をあたしたちの手に引き渡す……もう、神様の軍勢が先に来ていらっしゃると……」
デボラはそうして、さっと下の方にある枯れ川を指さした。「バラクさん、あれは?」
「キション川ですね」
「あそこだわよ」デボラは希望に満ちた笑顔で、笑いながら言った。「あそこに、天の軍勢がいらっしゃる!」
バラクは目を瞬かせる。今度こそ、大丈夫だろうか……。
だが、武器も得てイスラエル軍の士気もまた申し分なくなっている。戦うのには申し分ない。
デボラは、預言に付け足すようにすっとバラクの方を、イスラエル軍の方を見て言った。
「大丈夫ですよ、皆、だぁいじょうぶですよ」

バラクは、その笑顔に目を奪われた。
その言葉は、神の言葉を民衆に告げる巫女の顔だったろうか?
そうと言うには、その場に立つデボラは、余りにも、人間だった。神の言葉を受け取って言うにもかかわらず、そこにいたのは、デボラと言う母親だった。
不安が消えてゆく。
今度こそ、デボラと神を信じて行く時だ。
「皆の者!」バラクはよく通る声で言った。「日が暮れたら作戦開始だ、準備をしておけ!」

「ところでシセラ、うかうかしてもいられないんじゃないのか」渋い声で言うヘベル。
「いつ攻め込むか、それを決めないと……」
「……まあ待て」
シセラはじっと、目を閉じた。そしてヘベルには分からない世界で、何者かを見る。
彼の鋭い目が開く。
「あれは……星……だろうか」
「なんだって?」
「星のようなものが見えた……暗い中。いくつもちかちか光っていて……」
「じゃあ、攻め込むべきは星の照る日?」
「ああ。だから、早い方がいいはずだ……もうすぐ雨期に入るからな」シセラは言う。「雨期に入ったらしばらく星空も拝めまい。……夜だ。夜になったら攻撃をかけるぞ」

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feat: Deborah 第四話

バラクは一命を取り留めたが、奇襲作戦は完敗と言ってよかった。イスラエル軍の士気も下がっている。
自分の責任だ。星がどうと言われていたのに、星空が隠れても作戦を強行した、自分の……バラクはそう、自分を責めた。
彼はネルのいる天幕の前をうろうろしてた。ネルは何とか帰るまでは生きていたが、今はどうだかわからない。
やがて天幕の中から医者が出てきた。「どうです」バラクは焦って言う。
「……大丈夫ですよ、命に別状はなくなりました」
その言葉に、一気に体中の力が抜けるほどバラクは安心する。「ネル、入るぞ」と声を小さくして、彼は天幕の中に入った。彼は寝ていた。デボラが隣にいて、彼女も心底安堵したような表情を浮かべていた。
「デボラ殿」バラクはそっとその場に腰かけると、頭を下げる。
「申し訳ありません!あなたの預言の事を信じ切っていなかった私の責任です……!」
「……いいえ、もう、起こってしまったことは仕方ないですもの」
あの底抜けに恐れ知らずのように見えたデボラにも、さすがにあっけらかんとした様子はなかった。しかし、あくまで彼女はバラクを責めなかった。
「あたしも声を聴くのをがんばってみますから。足手まといにならないってお約束ですもの」
「はい……お願い致します」
そう話して彼らは、寝ているネルを見た。包帯まみれになっているが、今は穏やかな寝顔で寝ている。生命力の強い子だ、とバラクは思った。
「……一つ、伺いたいことがあります」バラクは言った。
「ネルが死んだら……悲しいですか?」
デボラはその言葉を着て、一回瞬きをすると「……いいえ」と言った。
「悲しいなんて言葉も……たぶん、使えませんね。悲しいなんて感情も、持てなくなると思いますよ。心が空っぽになって……この子が死んだらね、きっとあたしも死ぬんです」
デボラは、そっと寝ている息子の頭を撫でて言った。
「腕白な子でしたからねェ、今まで何度も危ない目にあったことはあるけど……でも、でもこの子が死ぬかも、なんて初めて思いました」
「申し訳、ございません……」バラクは呻くように言う。
「もう、いいんですのよ……!」

ネルを起こしてはいけないと思い、デボラとバラクは外に出た。タボル山のふもとを見下ろすように腰かけて、彼らは話した。
「デボラ殿。……母の情は、どのようなものですか?」
「えぇ……?」
「私は、母をよく覚えていないのです」バラクは短く言った。「小さいころ、死んでしまったのです。顔も思い出せません。……あの母も、私が傷ついたら、そのように感じてくれたでしょうか。悲しいともいえなくなると、思ってくれたでしょうか」
デボラはその言葉を聞いて、優しく微笑んだ。
「バラクさん、お母さんの事、好きでした?」
「え?……おそらくは……」
「では、思ってくれましたよ。絶対に」
デボラは、責めなかった。
神の言葉を無視して勝てない戦に突っ込み甚大な被害を出した司令官の事も、自分の心底愛する息子を死に追いやりかけた弱い男の事も、彼女は責めなかった。逆に、彼女は微笑んでくれた。
バラクはポロリと、涙を流した。
自分の母とて他人だ、他人の思惑がなぜわかろう。それなのに、彼女が言うならきっとそうだと信じられる。
「デボラ殿」彼はかすれるような声で言った。「あなたを信じます……あなたに従います。必ず勝利しましょう、この戦に……」
デボラは泣き崩れるバラクの肩を抱いて、「ええ、勿論」と言った。
「バラクさん、余り落ち込まないで。あなたが落ち込んでいたって、あたしは同じくらい、どうしようもない思いになるんですのよ!」

そうされながら、バラクは思い出した。
顔も覚えていない母が、自分にしてくれたこと、唯一つ覚えている。
戦に巻き込まれた村で、自分は泣いていた。子供心に逃げられないと思った。「お母さん、兵隊が来るよ、怖いよ」そう泣きじゃくる彼を母は抱きしめて、声色も思い出せない声で、こう告げてくれた。
「大丈夫、お母さんが全部倒しちゃうんだから」
不思議なものだ。子供の頃の自分はなぜ、その言葉を心から信じられたのだろう。武器も持たない、戦いの心得もない丸腰の女性がそんな真似できるはずがないのに。なぜ、心から安心できたのだろう。
そういって自分を逃がしてくれた母と、二度と会いはしなかった。しかし逃げる途中、確かに自分は安心していたのだ。だからこそ冷静に逃げられたのかもしれない。
小さいときは、母親と言うのは絶対的に力あるものだった。母の顔を、声を忘れても、その大きな力に身をゆだねられる感触だけは、バラクは覚えていた。
何故デボラを見て安心するのだろう。なぜデボラを信頼できるのだろう。全てわかった。彼女は、母親だった。ネルの母だけではなく、自分たちの母親でもあった。


帰還したカナン兵たちはイスラエル軍の事を「大したことねえな!」とはしゃいでいた。この調子ではこの度の反乱もすぐ終わるに違いないと。
シセラはそんな陣地の中を歩いていた。かさかさと自分の行く手にサソリが現れた。シセラの方に気づき尻尾を振り上げて威嚇するそのサソリを、シセラは何とも思わずに靴の裏で踏みつぶし自分の天幕の中に入った。ヘベルがいるはずだ。これからの身の振り方を話し合うために。
だが、天幕の中には意外な人物もいた。
「母上……」
天幕の中に鎮座するアクラビムを見て、シセラは目を白黒させる。「……さっき来たんだよ、戦のこと聞きつけて」ヘベルが彼女の事を説明した。
「母上。先夜夜襲がありましたが、我々は勝利……」
しかし、シセラはその時、母が自分の事を睨みつけているのを見た。「ヘベルさん、出ていらして?私は息子と話があって来たので」と、アクラビムはあからさまに不機嫌そうな声で言い足す。ヘベルはやれやれ、と言った風に天幕を出た。
シセラには彼を引き留める余裕もなかった。彼の顔は母親の怒った表情を見て青ざめる。母親の平手が、真っ先に飛んできた。
「なんで、一夜で仕留められないの!」
アクラビムは息子にそう怒鳴った。
「馬の脚を斬られたですって!?あなたともあろうものが!なにを無様なことをするの!」
ヒステリックに怒鳴りながら、アクラビムはシセラを殴りつける。シセラは青い顔で、がたがたと震えていた。
「ごめんなさい……」彼は震える声で言った。
「それでも私の息子なの!そんな、そんな無能な子が!」
「ごめんなさい……許して、ママ……」
シセラはただただ、母に助けを乞うた。アクラビムの方も泣いていた。泣きながら、彼女は息子に当たり散らした。
「許して……次、次は全員殺すから……」
「次ですって!今出来なきゃ意味ない!意味ないのよ!」
此処には、誰も来ない。ヘベルはこんな母子の関係を知っていた。無様な将軍の姿を見せない気遣いか、厄介ごとにかかわりたくない保身か、彼は周囲の人間ごと、姿をくらましてしまう。
「負けないでちょうだいよぉ……」アクラビムは泣きながら、息子の首を握っていった。絞殺するように強く、我に返ったかのように力を緩め、そう繰り返しながら。
「あんたが弱かったら、私はどうなるのよ……」
「ごめんなさい……ママ、ごめんなさい……」
シセラは震える声で、ただ許しを請うしかなかった。

アクラビムはようやく落ち着き、陣地から少し離れたところにある人里の宿に帰っていった。彼女は最後に、泣き晴らして、シセラの小さな体を強く抱きしめた。
シセラは頬についた母の口紅をぬぐうと、外に出る。心が深く沈む。なぜだ。なぜ自分は……。
ふと、もたもたと水瓶を運ぶ女性の姿が、シセラの目に留まった。夫に手伝いに駆り出されていた、ヤエルだった。
シセラは口を開き、声をかけようとする。ヤエルはシセラの視線に気が付き、びくりと細い肩をはねさせると、まだ何もしていないというのに「ごめんなさい、申し訳ありません、すぐ終わらせます……」と弁解した。
「なんだ、シセラ、母君は帰ったのか?」振り返ると、ヘベルがいた。
「ああ……」
「ん?ヤエルまで……?ああ、そう言うことか」ヘベルは笑う。
「いいよ、貸すぜ。お前も大変だな、あんなヒステリーの母親持ちで」
ヘベルはそうケラケラ笑うとまたどこかに姿をくらましてしまった。ヤエルは重い水瓶を持ったまま、その言葉を受けて振り返ったシセラに震える。
彼女の青い顔は、恐怖に染まっていた。だが、それでも彼女は決して、拒絶の言葉は発しなかった。拒絶する権利が自分にあるということを、徹底的に否定された彼女は。
「……来い」
そんな彼女を見て、ヘベルは短く言った。「はい……」彼女は消えそうな声でそう言い、シセラの天幕までついて来た。

ヘベルが妻の肉体を盟友に差し出すことなど、今さらの事だった。彼は最初、泣きわめく妻に手を差し伸べるどころか、「これが出来なければ、お前に何の価値がある」と笑ったのだ。
「無能のくせに、命がけで戦う俺達の手助けをできるんだぞ?おまけにお前みたいな美人でもない女だ、男に求められて本当は嬉しいんだろ。ありがたく思え」
ヤエルはもう、拒まない。拒めない。シセラに強引に抱かれながら、彼女は涙一つ流せなかった。
「……もう良い。行け」
一連の事が終わり、シセラはそうとだけ言ってヤエルを解放した。彼女はまた、ふらふらと思い水瓶を抱えて歩いて行った。遅い、何をしていた役立たずと怒鳴られることを、既に予想しながら。


「あなたはそれなりの年に見えるが、お子さんはいるのか?」
白い部屋の中で、シセラはデボラに問いかけた。
「ええ……何人も。皆独立しちゃってね、今いるのは末っ子一人だけだけどね。……でも、その子ももうじき結婚するわ」
「そうか……」シセラは頭を掻く。
「あなたは、おあり?」
「私はまだ独身だ。母と二人暮らしだ……」彼は低い声色でそうぼそりと言う。
「どんなお母様?」
「あなたのような人ではない……もっとやせているし、年寄りだし」シセラは言う。「だが、私が最も愛する母だ……美しくて、気高くて、私を心から愛してくれている……私は、母の事を世界一愛しているのだ」
だが、デボラにはわかった。彼はまるで書かれているものを読み上げるかのように、その言葉を言っていた。
「……良いですわねェ。お母さんにとって、息子にそう言われるほど幸福なこともないですよ」
「……だろうな」シセラはぼそりと呟いた。


次の日だった、ネルの目が覚めた、と聞き、バラクとデボラは急いで天幕に駆け付けた。ネルは確かに目を開けていて、前と同じ元気のいい目で二人を見つめていた。
「バラクさん!母ちゃん!おれ……」
「あまり話すな。痛いだろう」
ネルは大けがをした割に、話すことがは元気がよかった。ネル以外の兵士の負傷の責任も感じているバラクの方が顔色が悪いくらいだ。
「心配した……死んだかと思ったぞ」
「好きな女と結婚もしてないのに死ねるかよ」
ネルは明るく笑う。本当に、本当に元気な子だ、とバラクは思った。
「もう、心配させて……!」
「母ちゃん、ごめんな」
「このようなことを起こさぬためにも、これからは慎重に動く必要があるな。過信をしない必要も」バラクは一人ごとを言う。ネルが生きていたのは間違いなくいいことだったが、負傷者も多く出て純粋に戦力も減ったうえ、先日の夜襲でカナンとの装備差をまざまざと見せつけられた、このままいっても勝てるはずがないと、イスラエル全体が思いつつある。まず、そこをどうにかしなくては……
「そうだ!バラクさん、実はおれ、見てほしいものがあったんだけど」
「なんだ?」
「こんなのを拾ったんだ。あの、うずくまっている時に。星が出ただろ?その明りで見つけたんだ」
そう言って彼が差し出したのは、一枚の板切れだった。書簡だ。
「おれは字が読めないけど、バラクさんなら読めるんじゃない?」
バラクは血と泥で汚れたそれを取り、目を通す。すると、間もなくして彼は目を疑った。こえれはカナン軍の重要機密書類だ……武器の輸送に関する!
何故これが戦場に転がっていたのか?書類の管理はヘベルの役目だった。おそらく彼が戦車に乗せていたものがこぼれて落ちてしまったのだろう。だがバラクにはその事情自体はあまり関係のない事だった。
書簡には、カナンの前線に武器を運ぶルートが日時も含めて事細かに記されていた。青銅の武器で勝てる相手ではないことは確かだ……だが。だがもしこれをもとに鉄製の武器を抑えれば……恐らくは!
「ネル!」彼は歓喜の声を上げてネルの手を握った。「ありがとう……ありがとう!いいものを見つけてくれたぞ、お前は!確かに星が味方をしてくれた!」

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feat: Deborah 第三話

ヤエルと言う女性も、もともとこんな女だったわけではない。彼女は元はと言えばイスラエル人だった。優しい両親がいて、友達もたくさんいて、愛する婚約者もいて、ただただ普通の恵まれた女性だった。元から少々気弱なところはあったが、それでも優しい人間たちに囲まれていて、卑屈でもなかったし、明るく笑っていた。
だがある日、彼女の住んでいた町が戦争に巻き込まれて、ケニ人の軍人ヘベルが彼女を無理やり連れて行ったのが運のつきだった。
ヘベルは彼女を手ひどく凌辱した。結婚と言う名目のもと。ヘベルがなぜ、彼女を選んだかはよく分からない。ただ目の前に現れた気の弱そうな女性が、彼の生来の暴力に対する欲を満たしたのかもしれない。ただ明らかなことは、ヘベルは彼女に惚れたわけではなかった。
ヘベルは彼女のやることなすこと、いつでも叱りつけた。何がなっていないかにがなっていない、だからお前はだめだ、反省しろ、お前はできそこないだ。自分で妻の幸せを奪っておいて、お前のような妻を持ったおれは不幸だ、とまで言った。
最初のうちはそんな夫にヤエルも抗議したくなった。だがそう言えば、ヘベルは遠慮なく彼女を肉体的に折檻した。ヤエルの体には、いくつもの鞭の跡ややけどの跡が残っている。みんな、ヘベルに傷つけられた。
「お前ができない奴だから悪い、できるようになればこんなことはされないんだ、それすらやろうとしない怠け者のお前が悪い」
そう言われていくうちに、ヤエルと言う人間の心から誇りはなくなっていった。ただただ罵られても受け入れるだけの人生。それが自分にはふさわしいのだ。だって自分は他の普通の人間とは違う。何段も劣ったできそこないなのだから、優しくされると思うのが筋違いだ。そう思うようになってきた。


夜が明けてイスラエル軍は歩を進め、ようやくタボル山に到着した。バラクは援軍のリーダーたちとあいさつを交わす。
「紹介しよう、デボラ殿だ!」
彼はデボラを前にやり、彼らに紹介した。戦場に連れてこられても堂々としていて、余裕と自信に満ちた彼女の貫録は、彼らの士気にいい影響を与えたと見えた。
「だが、喜んでばかりもいられないぞ、バラク。カナン軍も我々の事を聞きつけた。例のシセラ将軍も来るらしいぞ」
「あら、すごい」デボラは口をあんぐり開けて素直に感心する。
「デボラ殿。もしもお聞きしていいのならばお聞かせください……シセラ将軍を我々が倒せるのでしょうか?」
「その人を倒さなかったら、戦争に勝てないの?なら、倒せるでしょうよ。神様はあたしたちが勝つとおっしゃったんですから」
「はぁ……」
「でもそうですね……ちょっと、試してみましょ。言っとくけど必ず何でも分かるわけじゃありませんからね、そこのところは分かっといて」
デボラはそう言って、静かに目を閉じた。目を閉じ、ぼうっと気持ちを手放すようにする。こうすると、いつも行けるのだ。ある部屋に。

真っ白な何もない部屋の中に、気づくとデボラはたどり着いている。時たま、自分に声を投げかけてくれる特別の空間。
そこに来て、デボラは狙い通り声を聴いた。
カナンの将軍シセラ……。その言葉が確かに、彼女の鼓膜に響く。どうやら当たりらしい。そのシセラとやらが、どうなるって?デボラは当てが当たったのが嬉しくて、心の中で声に催促した。
……殺される……。シセラは、死ぬ……この戦で……。私は、シセラの命を売り渡す……。
デボラはその、先日知ったばかりのシセラと言う男の死に関する預言にじっと耳を傾けた。
……お……。
その単語が聞こえた時だった。デボラはふと、異質なものを感じた。
目の前に、人が立っている。
この空間には生まれた時から、自分以外のものは来なかったはずなのに。そして目の前にいる彼も、またひどく驚いたような顔をしていた。
少年だろうか、青年だろうか、全く見分けがつかない。自分よりも低い背丈、似ても似つかぬその人物を前にして、まるでデボラは鏡を見ている気分に襲われた。
……なが、殺す……。
「あんた、だぁれ?」
デボラがそう問い詰めた時、彼は逃げ出すように、そこから消えた。

「デボラ殿……おいかがですか?」
彼女が目を開けたのを見計らって、イスラエル軍のリーダーたちがそう問いかける。
「聞きましたよ。お言葉を」
「本当ですか……!」バラクたちの言葉は心配からうって変わって、希望の色を帯び始める。
「殺される、ですって。その人。この戦で……」
何の手によって?そこが、抜けていた。その言葉の時に、自分は彼に出会ったのだから。
目の前の彼らは、シセラが死ぬ、と言う言葉を確かにデボラが受け取ったのに十分喜んでいる様子だった。

その日タボル山の頂上に、イスラエル軍は陣を敷いて野営した。
バラクがデボラの様子を見に行くと、彼女は松明の点検をしている所だった。せっかくだからと言うことで、ラピドトの店から大量に松明を買ったのだ。さすが松明屋の婦人、慣れたものだった。
「デボラ殿、夕飯の支度ができましたよ」
頃合を見計らって、バラクは言う。「ネルが手伝ってくれましたよ」
デボラは振り返って「あら、もうそんな時間なの!?」と言った。
「最初のうちは自分でご飯を作らなくていい状況で調子が狂っちゃったけど、慣れてくるもんですねェ!それにネルが、ねぇ……」
「意外と器用なものでしたよ」バラクは笑って言う。指さす先の焚火では、ネルが手を振っていた。
ぐつぐつとレンズ豆の赤いシチューが煮えている。「あら、いいお味じゃないの」デボラは椀に注いだそれを飲んで、息子を褒めた。ネルも分かりやすく照れて見せる。
デボラはパンに蜂蜜を塗った。その様子を眺めながら、バラクは少々不思議に思う。ふくよかな顔は少し、考え事をしているかのようだった。
「何かおありですか?デボラ殿」バラクは首をかしげて言った。
「ありますよ。昼間、何を神様に言われたか、一か所だけ抜けていまして……」甘くなったパンをかじりながら、彼女は言った。「そのシセラさんが誰に殺されるか、それを言っていたような気がするんですけど……」
「なんですって?」
「あれは……そうね……」
ふと、デボラの頭の中に単語が思い浮かんだ。
「『女』……?」
彼女はぼそりと、そうつぶやいた。

「なに?女に殺されるですって?」
バラクの耳は彼女のつぶやきを聞き逃さず、聞き返す。そして笑った。とても気軽な笑い方で。
「主の預言です。明日、皆の前で発表しましょう」
「あら、いいんですの?」
「ええ。おそらくもっと良い影響を与えますよ」
バラクは思っていた。デボラはこの度の戦で、イスラエル軍の士気の源。そんな彼女の手でシセラ将軍が倒されるという栄光が用意されているという事であれば、むしろよりまとまりも出るだろう。
それに、不思議と自分が栄誉を掴めない、この女性にとられることを受け入れることのできる気分になっていることをバラクは自覚したのだ。自分は確かに彼女を信頼し、慕いつつある。
「見ろよ、おふくろ、バラクさん!」ネルが元気な声を上げた。
「綺麗な星空だ」
「あら、ほんと!」デボラはにっこりと笑う。非常に晴れた夜だった。
戦場にいるのに、何ら怖がる様子のないその母子の表情を見て、バラクはなんだか、たまらない安心感に満たされた。


夕飯も食べ終わり、めいめい見張り以外は寝にかかった。
真っ白な部屋に、デボラは気がついたら来ていた。神の言葉を聞くためと言うよりも、昼間の彼の事が気になって。
昼間の彼は案の定、そこにいた。彼は目を怪訝そうに瞬かせた。
「だれだ、貴様は……」昼間デボラが問いかけた問いを、今度は彼が発した。昼間と違うのは、デボラが戸惑いのあまり逃げなかったことくらいだ。
「ここは、私しか来ない部屋のはずだ……」
「あたしだって、昔っから来てるわよ」デボラは告げる。
「あんたもこの部屋に?じゃあ、意外とお仲間がいるってことね」
「……そう、だな」
彼は戸惑ったように言う。デボラの方は少し落ち着いてきて、にっこりと笑った。彼も少し落ち着いたのだろうか。少しだけ、表情を柔らかくした。
「はじめまして」
「はじめまして……ご婦人」


夜が明けたら、報告が入っていた。カナン軍はすでにタボル山のふもと、キション川の畔まで到着していた。
山の上からシセラの軍を見下ろせる分にはいいが、シセラの抑えたところは守りに適したところで、地の利は五分五分と言ったところだった。そして戦力差となると、段違いの差がある。しかし自分達の十数倍はありそうなその軍を見ていささか戸惑うイスラエル連合軍に、バラクは「恐れるな!」と言う。
「(だが真っ向勝負では勝ち目がなさそうなのも事実……やはり、奇襲になるか?)」
生憎とデボラからそのあたりの事は聞かされていない。あまりなんでもかんでも聞くわけにもいかなかろう。彼女も、聞きたいことをいついかなる時も聞けるわけではないと言っていた。

「あれか!」ヘベルは山の上にたむろする軍隊を見つつ言った。鉄の戦車の中でもひときわ立派なものに座るシセラは憮然として、鋭い目で睨みつけている。
「物の数でもないじゃねえか……信仰心しかないやつらはその分勝てねえ戦に無鉄砲に突っ込んでくるからな、全く面倒だよ。シセラ、聞いてるか?奴ら、今度の戦でついに女の力に頼りだしたらしいぜ」
「女?」シセラはじろりと視線だけヘベルの方によこす。「このシセラも舐められたものだ」
女に戦で何が出来よう?それはどんな女なのだ?彼らの崇める戦女神アナトのような、美しくも逞しい男勝りの女戦士?それとも男を骨抜きにし、戦を終わらせる傾国の美女?
「デボラ」と言う名前だけが入ってきたその情報について、彼らは考え込んだ。だがどんなパターンが考えられるにしても、負けはすまい。
「シセラ。やれよ」ヘベルは言う。シセラは短くああ、とだけ言うと、目をすっと閉じた。
じっと、数分間彼は戦車の上で目を閉じたまま、硬直している。彼には、不思議な力があった。生まれた時から、不思議な力が。
やがて彼は切れ長の目を二つ開くと、にやりと笑った。
「……夜に注意しろ。暗い中だった。暗い中、奴らが来ていた」

シセラと言う男、彼に与えられたものは卓越した戦闘能力だけではなかった。ほんの少しだけだが、未来の事が見えるのだ。「とある部屋」に入って、それを聞くことができるらしいのだ。
戦場で何が起こるかをその都度読み、その情報をもとに戦ってきた。だから彼は、カナン最強の将軍だった。


その日の昼間、デボラはバラクに言った。
「星ですよ」
「なんですって?」
「星が、あたしたちの味方をしてくれるそうなんです。あの部屋で聞いたんですよ」デボラはそう告げた。
「流れ星でも流れてくるんでしょうか?」バラクは冗談めかして笑う。「さぁねぇ」と、デボラも笑った。
「とにかく、皆さんに伝えといてくださいな。星ですよ」デボラはそうあっけらかんと明るく告げた。


「……あなたは、どこに住む、なんて方?」
「それを聞く意味はなかろう、ご婦人。私も問いただしはしない。ここにいるのは私と貴方だけなのだからな」
デボラがその日部屋に来ると、また例の彼がいた。神の声は、その時は聞こえなかった。
「驚いた。私と同じような人間がいるとは」
「あたしだって驚いたわよ……おまけにあんたみたいな若い人がねえ?」
「私がそこまで、驚くほど若く見えるのか?」彼は自嘲気味に言う。「あなただって、生まれた時からここにはこれたのだろう」
「ええ。今では見ての通りのおばちゃんだけどね」
「良いではないか。人間だれしも年を取るもの。……私の母よりはおそらく、貴女の方が年下だ」
彼は低い背に似合わず、非常に威風堂々としていた。デボラはそんな彼の事を好ましく思った。そして彼も、どっしりとしたデボラの風格あるたたずまいを憎からず思っていた。
「……ここにいると、何かが見えるだろう?」
「見える?あたしの場合は聞こえるんだけれど」
「……?そうなのか。まあ、人それぞれなのだろうな……」
彼らはただ、話をしあった。お互いに生まれてから自分だけしかいないと思っていた空間で初めて人に出会ったのが、彼らにとっては何とも言えず楽しかった。何かを感じるその場所が全く同じ場所、と言うあたり、そもそも彼らは本質的に似通っていたのかもしれない。
その場には、女が一人、男が一人。女の名前はデボラ、男の名前はシセラと言った。


日が暮れて、夜になった。星空が昨日と同じように光っている。
夜襲をかけるぞ、とバラクは軍隊全体に合図した。心配してほしくないから、デボラには眠ってもらっている。朝になったら吉報を届けられるはずだ。
斥候が帰ってきた。カナン軍たちは見張り数人を残して眠っている。絶好のチャンスだ。彼らに気づかれないように、静かに山を降りた。
少し、視界が悪くなる。見上げてみると空が曇っていた。星空が雲に隠れている。
「(星が味方をしてくれる……)」
バラクは少し、嫌な予感がした。このまま勝てるのだろうか?なんだかデボラの預言と食い違うような……。
だがその頃にはもうだいぶ山を下ってしまっていて、今さら引き返すと見えなかった。それにカナン軍はゆっくり寝ていると聞いた……。
「大丈夫か?」声を潜めて、隣を並走するネルが心配するように声をかける。「安心しろ」バラクは短く言った。戦争のときはいつも緊張する。いつも……。
その時だ。
バッと周りに明るく火が付いた。何ごとだと思った瞬間、バラクは状況を理解した。
「囲い込め!」
太い声が響いた。ケニ人の将軍、カナンの盟友ヘベルの声。
しまった!気が付かれていた、罠だ!
そう思った時にはもう遅かった。曇って星が隠れてしまった空の元、わあっと声が巻き起こるとともに、カナンの大群がイスラエル兵に向かって突撃してきた。
イスラエル人たちは慌てて、鉄の剣の斬撃を盾で受け止めようと試みる。だが所詮は青銅と鉄の争いだった。
ギンギンと金属音が鳴り……間もなくの事だった。ついに、悲鳴が響いた。そしてその悲鳴はイスラエル人のものだった。
それを機に、バタバタとイスラエル人が倒されていく声が、暗い中によく響いた。夜襲が始まってからまだいくらもしないうちから!
はっはっは、と言う笑い声は、先ほど響いた声と同じ。ヘベルの声だ。彼は縦横無尽に戦場を戦車で走り回り、イスラエル人をなぎ倒している。
バラクは慌てて叫ぶ。
「撤退、撤退!」
だが、その時だ。
「そこか」
ずっと、後ろから小柄な姿が飛び上がってきた。全く気配を感じず、バラクは完全に不意をつかれた。ガラガラガラ、と主を失った戦車が遠ざかっていく音が聞こえる。赤い光のもと浮かび上がったその目のあまりの鋭さに、彼は肝を抜かれた。
そして次の瞬間だった。ドサリ、と声も立てずに隣にいたネルと、その乗っていたろばが倒れた。
「ネル……!?」
そしてその次に、ギンと金属音が一回響いた。それだけで十分だった。気が付いたら彼の青銅の剣は根元から折られていた。
ようやく風が吹いてきて、星空を隠す雲が散った。トン、とその人物も地に足をつける。カナン人の松明の光と、星の光に浮かんだその姿は、血にまみれた鉄の剣を携えたカナンの将軍、シセラだった。

「……無様なものだな。この小僧も、貴様も……」
気が付けば先ほどまで隣にいた少年が切られ、自分の剣が折られていて目を白黒させるバラクに、シセラは冷たく言い放った。何も言わず切り捨てないのは司令官である彼にせめてもの敬意を払っての事だろうか。それとも、楽に死なせない非情さか。
シセラは冷たく笑う。彼の戦車を引く馬も彼に合流した。
「……シセラに、この私に勝てると、本気で思っていたのか。貴様らは……」
「シセラ!何があった?」先ほどの低い声も響いた。ヘベルのものだ。ガラガラと言う車輪の音、戦車に乗って彼は真っ先にバラクの方向に向かってくる。
「アビアノムの子バラクだ、イスラエル軍司令官だ!」
「なに!?」ヘベルが言う。「とっとと殺せよ!」
「無論」
シセラは小柄な上、地面に立っている。それだというのにろばに乗ったバラクは、彼を位置としては見下ろしながらも、完全に彼に威圧されていた。
ゆらりと彼は鉄の戦車の上に昇り、切っ先をバラクに向けた。バラクが死を覚悟した、その時だ。
シセラの戦車につながれている馬が、荒まじい叫び声をあげて暴れ出した。ぐらりと戦車が傾き、それに乗っているシセラもバランスを崩す。
「なにっ!?」シセラは叫んだ。
バラクは目をぱちくりさせた。すると、地面に転がっていたネルが起き上がった。気が付けば手には、先ほど切られて地面に落ちたバラクの剣の刃を握っていた。
彼は刃でこっそりと、シセラの馬の脚を斬りつけたのだ。
「バラクさん……!」彼は必死にバラクのろばに昇ろうとした。バラクもあせって彼を引き上げ、ろばに鞭を入れる。
シセラが馬と戦車を見捨てて走ってくるより前に、なんとかろばは走り出した。「撤退、撤退!」バラクは焦ってそう叫びながら、血まみれのネルを庇ってタボル山の頂上に引き返した。

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feat: Deborah 第二話

バラクはさっそく、ケデシュに軍を動員した。だがその時、ケデシュ近郊に住むある軍人が、そのことを嗅ぎつけた。
「こいつぁ……身の程知らずだな!」
彼、ケニ人ヘベルはそう言って笑った。
「馬鹿な奴らだよ、ヤビン王にかなうわけないだろ?でもまあ、知っちまったからには知らせないわけにもいかん……」
ケニ人とは、モーセのしゅうとに連なる民族。イスラエル人とはそう敵対的な仲でもなかった。だがこのヘベルと言う男に至っては別だ。彼は、カナンの力を重く見ていた。だからこそイスラエル人に背を向け、他のケニ人とも距離を置いて、カナン王ヤビンと将軍シセラと親しい中を築いていたわけだ。
「おい、旅の支度だ!」ヘベルは自分の妻に怒鳴った。「ハツォルへ……いや、ハロシェト・ハゴイムだ!シセラにこのことを一番に伝えるんだ!」
そう言って彼は立ち上がる。すると、先ほどから話を無言のまま聞いていた自分の妻が立ち上がるのが自分より遅いのを彼は見た。
彼はそれに、あからさまに顔をしかめ、妻の頬を殴る。
「何をボサボサしているんだ、怠けるな、役立たず!」
妻は慌てて、よろりと起き上った。「はい……あなた、申し訳ありません」
「はっ!」ヘベルは自分の妻をもう一度叩く。「お前のような無能、嫁にもらってやっただけでもありがたいと思え。もっとまともな女と結婚するためにいつ殺してもいいんだぞ、俺のほうはな!お前の方は、俺ぐらい寛容な男なんざ見つけられるわけはないがな!」
「お慈悲に感謝します、旦那様……」
まるで奴隷が主人にかしずくように、彼女はよろよろと夫の鎧を取り出しにかかった。彼女の名前はヤエルと言った。

「一つ、お伺いしてもいいでしょうか?」
軍を集めてカナン人の地に向かう道中、バラクはデボラに言った。デボラは意外に軍馬の乗りこなしも器用なものだ。太ってはいるが鎧は来ていないので重さの都合もそう変わらなないのだろう。
「なんですね?」
「神の言葉とは、どのようにして聞こえるものですか?」
デボラは少し考え込んだ。すでに彼らの隊は遮るもののない荒野の道を歩んでおり、彼女はベールを押し下げて自分の目を守った。
「なんでしょうねェ……昔からね、たとえば目をつぶると……どこか、部屋みたいなところに居るんです」
「部屋?」
「ええ、部屋に。真っ白のね」彼女は言った。「そこでは、何かが感じられるんですのよ……正直な話、音なのかもはっきりしていません。でも、とにかく何か、感じられるものがあるんです。それが……神様のメッセージなんですよ」
デボラの話はバラクにとって分かるような、分からないような気持ちだった。自分は、それを見たことがないのだから。「そんなものですかね……」彼はいった。
「あたしは占い師じゃありませんからね。儀式や道具は遣わないんです。ただ、感じる時に感じられる。あたしはそれだけ……」
「いつごろから、そんな力が?」
「もうずっと前から。年端もいかない娘っ子だった頃ですよ」と、彼女は言う。「みんなあたしを頼りにしました。山火事も土砂崩れも、あたしは言い当てるものだからって」
「苦痛やプレッシャーは、感じませんでしたか?」
「うーん……思い出せないから、たぶんなかったんでしょう」
彼女はいつも笑顔だ。朗らかな笑顔。その笑顔を見ていると、バラクは不思議な気持ちになる。
これから無謀な戦いに出ていくのに、なんだか不思議と安心感がわく気さえするのだ。


カナン人に都市ハロシェト・ハゴイムのとある屋敷の前で、ヘベルは叫ぶ。
「シセラ将軍に目通りを!あなたの友ケニ人ヘベルが来たと伝えてくれ」
その言葉を聞き、急いで門番たちは豪華な造りの邸宅の中に引っ込んでいく。そしてやがて「お入りください」と彼らは言ってきた。

「どうした?ヘベル。久しぶりだな」
応接間の椅子には、一人の男が座っていた。

彼は、不思議な容貌をしていた。成人男性どころか女よりも低い背丈、髭も全く生えていない子供のような顔。声すらも男にしてはずいぶん高い。それだけ見れば、誰も彼がカナン最強の将軍、シセラだとは思わないだろう。彼の目つきを見るまでは。
何千、何万の人の死を見てきたその目だけは、どんな老人にも劣らないほど世の中を見据えているようで、磨き上げた剣の切っ先のように鋭かった。ヘベルもその目に見つめられる瞬間だけは、今でもついすくんでしまう。
「私に何の用だ?」シセラはその目に似合いの冷淡な口調で言った。
「……反乱の情報を掴んでね、あんたに知らせようと飛んできたんだ」
「ほう……」シセラはあくまで冷静だった。反乱の鎮圧など、それこそ彼はうんざりするほど経験している。今さら何も思う所などなのだろう。
「して、どこが?」
「イスラエルさ」
「……あの、神を唯一だとぬかす者共か」
シセラは全く表情を変えないまま「ハツォルにいる陛下には私から連絡をしておく。陛下の出陣命令が出次第、鎮圧に向かおう」と言った。
「このヘベルも協力させてもらうぜ、いいだろう」
「……もちろんだ、わが友よ」
友。そう言いつつも、彼の口調は反乱軍のイスラエルに向けた口調とすこしたりとも変わらなかった。もっとも、それがシセラと言う男だ。相変わらずだなこいつは、と思いつつ、ヘベルも彼と握手を交わした。
「今日は我が家に泊まるがいい。もてなしもさせよう……母に伝える」
「ああ、ぜひそうしてくれ」ヘベルは軽く言った。


タボル山に向かう途中、イスラエル軍は野営をしていた。デボラが戦場に行ったことはすでに評判になっていて、ナフタリとゼブルン以外からも兵が集まってきている。デボラの伝えた言葉通り、タボル山で集結する予定だ。
バラクは、デボラとネルと一緒にいた。ラピドトは流石に戦場に出るのを断った。
夜の暗闇の中、パチパチと燃える焚火を彼らは囲っていた。デボラは遠慮なく歩兵たちの作ったシチューを食べている。バラクはそれを見て、ぷっと面白そうに噴出す。
「美味しいですか?我々のような男がありあわせの材料で作ったもので……」
「えぇえぇ、とぉんでもない。あたしはいつも自分の作るご飯ばっかり。自分で作らないご飯ほどおいしいものはありませんよ!」
彼女はそう言い切った。
「つまり男はわからない旨さかよ、母ちゃん?」ネルが言った。
「あら、楽に分かるよ。あんたも料理するようになればね」
その言葉に、ネルは苦笑いした。
「考えてみるよ、あいつ料理は下手だしな……」
「あいつ?」バラクは今一つ話題に窮しているところにとっかかりのようなものを見て、そこに食いつく。「妻がいたのか、ネル」
「奥さんじゃねえよ、婚約者さ」
「婚約者なのか?でも、随分詳しそうだな」
「そりゃ、おれ達の住んでるのはド田舎だからな。みんなお互いの事はよく知ってるし、おれたちも、親父とおふくろも、昔から婚約者同士みたいなもんよ」ネルは当たり前のように言う。
「でもおれあいつの事好きだし、おふくろも親父の事好きだよ、なぁ?」
「ま、そう言うわけです、バラクさん!」デボラ親子はそう語った。
「あの人はとっても優しくて素直で、それにあたしにお似合いですもの。あたしあの人の事、大好きですよ」
少しも恥ずかしがることなく夫を褒めるデボラを見て、そしてあの朴訥なラピドトを思い出して、バラクはただ薄く笑って「ええ、そのように見えます……」と呟いた。
「で、バラクさん。あんたは?」
「え?私か?」バラクは自分の方に話が飛んでくるとは思っておらず、戸惑った。戸惑った後、シチューを一口飲みこんで、浮かない顔で言った。
「結婚は……今のところ、余りする気が起きない。結婚したくないし、家族も持ちたくないんだ。もっとも、『産めよ、栄えよ、地に満ちよ』の神の言葉を達成するため、いずれはする必要があるのだろうが……」
「あー……」ネルは少し慌てたようだった。「悪い。聞くべきじゃなかったか」
「そんなことはないぞ……心配するな」
「まあまあバラクさん、そう思うんなら急ぐこともないですよ」デボラは彼の肩を叩いて言った。
「義務感で子供を作るより、いい人と出会って作るほうが、何倍も素晴らしいことに決まってますもの!」
「そうですか……」
「ええ、そうじゃなきゃこんなにくったらしい子を十何年も育てられないったら!」
そう言ってデボラは自分の息子の背中をどんと叩く。「おふくろ!?」と言った彼に向かって、デボラは先ほど同様の笑みを浮かべながら「冗談よ」と言った。
「にくったらしくなんかない。かわいい、かわいいわよ。そうでなきゃ十何年も育てられるもんですか」
そう言って今度は息子の頭を撫でるデボラ。そんな親子を微笑ましく見ながら、バラクには何とはなしに彼女に感じていた安心感のようなものを、その時はまだはっきりとは言語化できなかった。


ハロシェト・ハゴイムのシセラの邸宅ではその夜、ヘベルをもてなすための宴会が行われていた。
「お前は私のいる場では、飲み比べを始めないのだな、ヘベル」
「……お前に飲みで勝とうなんて言う身の程知らずがいるか」ヘベルは苦笑しながら吐き捨てた。隣のシセラは全く素面のまま、風肺目の酒の盃を空にした。
「あらあら、ヘベルさん!お久しゅうございます」
それを見ている間に、ヘベルのもとにやってくる影があった。ジャラジャラと悪趣味なほど宝石を飾った老婆だった。ヘベルは鷹揚にそのアクラビムと言う女、シセラの母親に挨拶した。
「これはこれは奥様、いつ見てもお美しい……」
「あらあら!嫌ですわ、ほほほ……」
そう笑う老婆は息子同様にギラリと光る眼をしていて、老女ならではの美しさより不気味さの方がはるかに勝る女だった。だがこの派手好きな女は、こう言われるのを何より好んでいるのだ。ヘベルはそれを百も承知だ。
「息子をいつもありがとうございます。またお二人でお手柄が立てられますのね……」
「そうなるでしょう。イスラエル人は装備の面では我々にかなうべくもない。赤子の手をひねるほうがまだ大変だ」
得意げにそう語るヘベルとアクラビムをしばらく無言で見た後、シセラはぼそりと告げたした。
「……ところで、お前はそれを知ってすぐに来たのか?」
「ああ……そうだが?」
「では……お前の妻は?」
そう聞いた友人にヘベルははっ、と吹き出し「おあいにく様だが連れて来てるよ。今日、この手伝いをさせてる……もっとも、迷惑をかけたら悪いな!」と言った。
「まっ……!ヘベルさん、あなたあの女とまだいるので?」驚くアクラビム。
「まあ、言うことを素直に聞くことだけはまぁまぁ出来る女ですからね……」
「全く、お優しいこと!本当にあなたの奥様ったら無能でどんくさくて、同じ女として恥ずかしくなりますわ」
「でしょう、でしょう!まあ教育してやってください、バカは叩かないと覚えませんからね……ははは!」
ヘベルの妻、ヤエルはまさにそれを聞いていた。手が震える。落としてしまいそうだ。だが、落としたら折檻される。彼女はそろりと、汚れた皿をシセラ邸の使用人に渡した。彼女は乱暴に取る。
「もたもたしないでよ、うっとうしいわね!」
「……申し訳、ございません……」
ヘベルの妻、ヤエルと言う女性。彼女は、いつも怯えていた。
常に怯え、罵られて、さらに怯えて、その繰り返し。自分はそれに相応しいのだから。自分は褒められる人間ではないのだから。そう自覚して生きてきた。

宴もたけなわになったころ、ヤエルは一人後片付けをしていた。シセラ邸の使用人たちは、あんたのおかげで片づけが遅くなった、と言い、自分に大量の洗い物を残して帰っていってしまったのだ。
早く、早く片付けなくては。遅いとまた怒られる。遅いとまた叩かれる。遅いとまた、夫を不機嫌にしてしまう……。
パシャパシャと冷たい水で皿を洗った。手の感覚が少しずつなくなる。皿をいつ壊してしまうか分からない。ヤエルにはそれが、無性に怖かった。壊さず、早く、仕上げなくては。これが自分の仕事なのだから……。
「まだなのか?」
声が降ってきた。夫の低い声とは違う、高い、しかし十分に威圧的な声。
彼女はすくんだ。そしてシセラと、彼の後ろに控えるアクラビムに向かって土下座した。
「申し訳、ございません……」
「……相変わらずの要領の悪さだな。ヘベルも、何故お前を妻にしたのか……」
「ほほ……お前のような女を持つなんて、本当にお可哀想なヘベルさんだこと」
アクラビムはそう彼女を嘲笑した。彼女は黙って「申し訳ございません……」とそれを受け入れた。
「ことに、手が止まっていてよ。私達のお説教に乗じてさぼろうたって、そうは行きませんよ。貴女のような怠け者の思考など、御見通しなのですからね」
「!申し訳、ございません……」
ヤエルは痺れる手で、もう一枚皿を掴んだ。シセラの鋭い視線が上から降ってくる。怖い。失敗できない。そう思えば思うほど、手が震えた。
「……母上、行きましょう」
「ええ……そうね。こんなものと一緒に居てあなたの貴重な時間を奪うわけにはいかないわね、可愛い息子!」
そう去っていく二人。ようやく、手の震えも収まったようだった。
侮辱しか言われない。虐げられしかしない。だがそれも当然だ。自分はその程度の人間なのだから。ヤエルはそうとしか考えられない女性だった。そのように仕立て上げられた女だった。

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feat: Deborah 第一話

エフライム山地の農村に下っていく途中、蜂同士の戦に出くわして、バラクは慌ててわき道にそれた。金色の兵隊蜂たちはわんわんと争い、バラクのことなどそ知らぬ様子だ。なんだか未来の自分たちを見ている気になって、バラクはどうともいえない切ない気持ちになる。
イスラエル人は、近年カナン人に支配されていた。

カナンが力をつけだしたのは数十年前にさかのぼること。かく言うイスラエルも悔しいことに、カナンに支配を受けて二十年になる。若いバラクは、幼いころのかすれ消える記憶でしか、自由だったころのイスラエルを知らなかった。
だがそれにつけても、近年のカナン王ヤビンの力の付け方は目覚ましい。彼が強い理由、それは二つあった。一つは、カナンの圧倒的な装備。
先方には鍛冶技術もあるし、九百両に及ぶ鉄製の戦車隊もある。鍛冶の技術すらない、武器や戦車はせいぜい外国から奪った青銅製のもの、鉄などお目にかかれないもイスラエルとはくらべものにもならない。
だが、それ以上に彼らの心を悩ますのが、ヤビンに仕える将軍、シセラの事だった。
シセラの武勇は広く知れ渡っていた。とにかく彼が出る戦は負け知らず。彼にかなうものなどいないとカナン人が、ヤビン王が自慢する声を、イスラエルはじめ諸国のだれも否定できないのだ。
自分達を支配する国の将軍がそう称賛されている、それがどれほどイスラエル人にとっては屈辱か、絶望か、計り知れないほどだ。
だがそれで黙っていないのが、イスラエル人と言う民族だった。

偉大なるモーセにエジプトから連れ出され、もうどれほど時間が立つのだろう。イスラエルの神、モーセの視た神は、確かにこの地をイスラエル人の安住の地と定めたという。
自分達は奴隷ではない。自分たちは、偉大なる始祖アブラハムの愛したこの土地に生きる権利があるのだ。それが、イスラエル人を、バラクたちを突き動かす誇りだった。
降伏などしてなるものか。奴隷として生き残ることに、また再び甘んじてなるものか。自分たちは、胸を張ってこの地に住みたいのだ。

バラクはその思いを胸に、乗っている立派な栗毛の雌ろばにもっと早く進むよう鞭を入れた。わんわんとうるさい蜂同士の戦の音が、遠くに遠ざかっていった。


ろばを進めていくと、やがてある程度開けたところに出た。とはいえ山間にやっとつくられた集落、と言った風体だが、それでも家々が集まっている。
やがてその粗末な家々から人が集まってきて、物珍しそうにじろじろとバラクを見だした。バラクもいささか気まずさを覚える。良く晴れた日の光に輝く青銅の鎧に身を包んだ軍人など、彼らは見たことがないのだろう。しかしバラクはその気恥ずかしさをぐっとこらえ、ろばの上から通る声で言った。
「訪ね人があって来たのだが……デボラと言うお方の家は、どこにある?」
その言葉を聞いて、ぴょこりと一つ上がる手があった。よく見てみると、そこには若者が立っていた。曲がりなりにもそれなりの街に住み軍人として活躍するバラクに比べると、ずっとあか抜けない姿だったが、だがなかなかどうして、ぴかぴか光る生命力にあふれた目と、人好きのする顔だちをしている少年だった。そして、バラクはその顔に見覚えがあった。
「おお、来てくれたんだな、バラクさん!」
バラクがこんな山奥の村に来る羽目になったのは、もとはと言えば彼が呼んだからだった。そうだ。バラクの住むケデシュにやってきて、彼をここに来るよう依頼し、帰ってしまったのだ。
「君は……」
「デボラは、おれのおふくろだ。来てくれてうれしいぜ!」
そう言って彼はついと指を指す。
「こっちだよ、来いよ。もっと道を進むとな、大きななつめやしが生えてるんだ。そのすぐそばにある松明屋そこがおれ達の家だ」
「松明屋?」
「おお、おれたちは松明職人だよ」
彼はそう言って、バラクの手から手綱を取ると悠々とろばを引いて歩きだした。ろばの背に揺られながらあたりを見渡すバラクの目に、やがて言葉通り、大きななつめやしの木が見えてきた。がやがやと音がするのは、なつめやしの木の下に何人もの人が集まっているからだ。
その下にあつらえられた椅子があった。松明に使えないような歪んだ木で、なんとかこしらえたような粗末な椅子が。その上にデボラと言う女性、バラクをこの村に呼び出した張本人が座っていた。


デボラの噂は、もともとケデシュにも届いていた。いや、イスラエル人が住む全土で、彼女の事は評判になっていた、ラマとベテルに間にある、名もない山村。そこに不思議な女性がいると。
彼女は、神の言葉を聞くことのできる力を持っているらしい。まるで歴史に語られるヘブライの英雄たちが神の言葉を聞いたように。ラマやベテルの住民は、そんな彼女のことを今やすっかり頼って、彼らの長老以上にその女性を重宝し、彼らの間でもめ事が起これば裁判官を頼んでいるとのことだ。彼女もその力が有ることに加え、聡明で心優しい、頼りがいのある人物で、その役職を喜んで引き受けている。今ではラマやベテル以外からも裁判を頼む人々が来るほどだ、と言う。
そんなもので、名もない山村の、松明職人の妻と言う名を上げるはずもない存在が、ちょっとした噂になっていたのだ。

「悪い!おふくろ、裁判の途中みたいなんだ。待っててくれる?家に入れるからさ。あッ!親父を紹介するよ」
がやがやと話し合いになっているなつめやしの木の下を見て、ろばの手綱を引く彼はろばを止め、自分たちの小さな家畜小屋につないだ。そしてバラクを降りるように手招きする。バラクは素直にろばから降りる。裏口から入ったデボラの家とやらは、作りかけの松明がいくつも立てかけられていた。

バラクはデボラの噂を聞き、感心こそしていたが、自分に関係があるだろうとは思ってもみなかった。ある日、この目の前の少年、ネルと名乗る彼がやってきて、この言葉を受け取るまでは。
「神はこう言われる。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万人を動員し、タボル山に集結させよ。私はヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。私は彼をお前たち、イスラエルの手に渡す』……裁き司のデボラを通じて、神様から、あんたへのメッセージだそうだ」
そしてついでネルは、自分たちの村の場所を教え、「いつでもいい。決心できたら来いよ」と言い残し、茫然とするバラク一人をおいて帰っていってしまったのだ。

言い訳をするわけではないが、神の言葉など信じられるか、と言う理由で茫然としていたわけではない。バラクは人並みにはイスラエルの神を信じていたし、神の言葉を聞ける、と言うのは掛け値無く素晴らしい力だと思っていた。それに国を愛するイスラエル人として、その神の言葉通りイスラエルの軍隊を率いる立場にある司令官としていつかカナンを、ヤビン王を、シセラ将軍を打ち取れればと言う思いも勿論あった。
だがしかし、理想と現実の違いと言うものがある。バラクは慎重派だった。いかに自分たちが望んでいても、実際の戦力の差はいかんともしがたい。物理的な力の差を民族の誇りだけで押し切れれば世話はないのだ。
しかし、一方で彼は一笑に付すこともできなかった。カナンの強さはイスラエル人にも悔しいことだが知れ渡っている。あまりの現実離れした国粋主義者でもなければこんなことまず言ってはこない。しかし噂から聞こえる預言者デボラと言う女性がそのような血の気の多い向こう見ずな人間だとは、どうも思えないのだ。
神の言葉を聞けると評判の彼女が直々にこう言っているのだ、言ったところで損もないだろう……彼は、そう理由づけをしてネルに案内された山村に向かった。だが、本心では理由などないに等しかった。彼はつまるところ、自分でもよく分からず、ただその言葉に惹かれるようにデボラの山村に向かっていたのだ。


家の奥の作業台に、しょぼくれた、少し老けた男が一人いた。ネルが「親父!」と言ったことから、デボラの夫であることは想像できた。くるりと振り向いた彼はさえない顔立ちではあったが、一方で穏やかそうで、見ていて安心するような顔立ちともいえた。
「お初に目にかかります、ラピドトと申します」彼はそう挨拶し、バラクも挨拶を返す。
「このようなところにご足労頂き、誠に感謝します」
「いえいえ……」バラクは返事する。ネルはドタドタとパン菓子や飲み物の準備をした。外ではまだ、がやがやと言う話し声が聞こえてくる。
「お噂通り、奥様は多くの方々に慕われておいでですね」バラクはニコリと笑って言った。重い青銅の鎧も、既に脱いだ。
「ええ。嬉しい限りですよ。あれは本当に、昔から世話好きで」
そうニコリと笑う彼の顔に、バラクは不思議なものを感じる。バラクの生きてきた価値観の中では、華やかな立場とは男性が担うもので、女性は内助の功をし男性を支えるものだった。
本来ならば、ラピドトが評判になりデボラがそんな彼を支えるべきではないのだろうか?だが見ての通り現状は逆、それまではまだいい。当人同士の資質と言うものがあろう。問題は、このラピドトと言う男がまったく自然に妻が目立ち自分は地味に家を支えていることを不満にもなんとも思っていなさそうなところだった。確かに気の弱そうな男ではあるが……。
「しかしラピドト殿、奥方様ばかりがあそこまでもてはやされる状況は、貴方様としても面白くはないのでは……?」
会話に窮したこともあり、バラクはあえて失礼を承知で直接的にそう言った。もしこの男性がそれに人知れず不満を抱えていたのならば、人間関係の手狭そうなこの田舎の仲間ではなく、今日来たばかりのよそ者である自分の方が話しやすいのではないかと。
しかしその気遣いのようなものは、全く杞憂かつ無礼でしかないことを彼は知った。ラピドトはにこやかに「おや、なぜそのようなことを!」と言ってきた。
「愛する妻が慕われれば、夫の私も嬉しいですよ。私も、彼女のああいった、頼りがいのあるところに惚れたのです」
「はあ……」バラクは頭を掻く。
「最近では、デボラ殿が全イスラエルの士師となるのでは、噂されてますが……」
士師とは、イスラエルの実質的なリーダーだった。
イスラエルに王はない。イスラエルを治める主はイスラエルの神ただ一人だけだからだ。そのため人々を裁く士師と呼ばれる存在が、王の代わりにリーダーとなる伝統があった。しかしカナンに力で追い越され二十年、イスラエルに士師は立たなかったのだ。
「もし、そうなれば」しかしその言葉に、ラピドトはにこりと笑った。心底、楽しいことを考えるように。「どんなにいいでしょうねえ……!彼女は、そう言った仕事が向いているんですよ。きっとなれたら幸せでしょう。それに彼女が幸せであることほど、私を幸せにすることもありませんからねぇ……」
その言葉を聞き、バラクはなんだか自分が恥ずかしくなった。この妻を愛する心優しい男性の前で、夫として、男としてのプライドのことなどと問いただそうと思っていた自分が却って小さいもののように見えていた。目の前にいるのはかかあ天下に押しつぶされるさえない亭主ではなく、ただただ妻を愛している夫なのだ。
「ぶしつけな質問を、失礼いたしました」バラクは少々赤くなり、言った。ラピドトはそんな彼の事も、にこにこと笑って受け止めてくれる。その頃になって、ちょうど外が静かになった。人がぞろぞろとはけていく音が聞こえる。その気配を嗅ぎつけて、たったとネルが外に出て行った。
そして間もなく、急いで走ってくる姿があった。バラクの前に現れたのは、先ほどまでなつめやしの木の下に座っていた女性だった。

デボラは恰幅のいい、どっしりとした貫録のある中年女性だった。頼りなさそうな夫よりも太っていて、山村のおかみさん、と言う表現がまさにぴったりだった。血色がよく、はつらつとした顔立ちが実に印象的な婦人だ、とバラクは自分を見つめる彼女を見て感じた。
「あらあら……あんたがバラクさん!まあまあ、こんな田舎までご苦労さんです。あたしですよ、あんたを呼んだデボラは!」
彼女はにこやかに笑いながら、バラクの向かい側に座る。バラクは「初めまして、デボラ殿……」とあいさつを交わした。あまりに普通の田舎の婦人にしか見えない彼女に戸惑いながら。
彼女はそんなバラクの事もなんのその、太い腰をどっかりと椅子におき、遠慮なしに手酌で葡萄酒を注いだ。
「あのう……先日、貴女様にお伺いした件なのですが」
「あらあら。あれは、あの言葉で全部ですのよ!」デボラは面白そうに笑った。
「……しかし、デボラ殿!あなたも分かられていることなら恐縮ですが……カナンと我々の間に、どれほどの戦力差があるか!……それがわからないのに、出陣しろと言われましても!」
「残念ですけど、あたしにそこまではわからないんです」デボラは鷹揚に言い返した。「あたしは戦争の経験なんて微塵もないし、どう戦局をひっくり返すかなんて思いつきやしない……けれど、神様があたしにお与えになったままをお伝えした、それだけなんですよ!」
そう言われてバラクは閉口した。だがこの目の前の婦人をそんな無責任だ、と怒鳴らないようとどめているものは何も彼の理性や良識だけではないことも、自覚できていた。
上手くは言えないのだが彼女の言葉には、説得力があるように思えた。彼女はひたすらに自信満々だった。この夫人の、戦を促すにはあまりに無責任な言葉に、身をゆだねることができるような思いに、バラクは早くも捕らわれた。
「それにねェ、バラクさん?」デボラは太い首を傾ける。「こう考えてみてはどうでしょう。人間の言う戦力差なんて、神様の決めた定めと、神様のお力の前で何とかなるもんでしょうかね?」
「……と、申しますと」
「人間の力であなた、海を割ることができます?」デボラは言った。
「きっと、モーセの時代のユダヤ人もね、バラクさん、あんたと同じことを言っていたとあたし思うんですのよ。『自分たちとエジプト人の間には圧倒的な力の差がある。エジプトから逃れることはできない』ってな感じにね!でも、実際、あたしたちはエジプトを抜けて今日のようにカナンの地に居るじゃありませんか!」
「は、はぁ……」
バラクは乾いた口を潤したくて葡萄酒を喉に押し込む。意外と美味だ。彼は口の周りを袖でぬぐい、気を取り直して言う。
「私は神の前に、慎重すぎると思われますか」
「まぁそうですねェ……時には思いきりも必要なんじゃないかとはね、思いますよ」
デボラはからからと笑いながら告げた。
「もちろん人間死ぬのはいやですからね。バラクさんのようになるのも人情でありますよ。でも、それでもあたしは神様の言葉を伝えないわけにはいかないんです」
「神の言葉……」バラクは一人ごちた。一つ、彼の頭に考えが浮かぶ。
「では……デボラ殿。そこまで言われるのならこのバラクも腹をくくりたいとは思いますが」
「そうですか!?」彼女は少女のように喜んだ。
「ええ……しかし、頼みが。……神の言葉を士気のもとにして戦うのならば、その発信源である貴方がそばにいたほうがいい……我々と一緒に戦場について来ていただけますか?」
なぜ自分がそう言ったのか、バラク自身にも今一つはっきりしなかった。あるいは彼女に頼りたいような弱虫な思いが出たのかもしれない。あるいは、そんな無責任な事を言うのなら自分たちと一緒に命をかけてくれ、と半ば当たり散らすような気持ちも。
しかし、そのような複雑な心情は、間髪をいれずに発せられたデボラの声と、それに伴う満面の笑顔の前にかき消された。
「ええ、勿論よろこんで!足手まといにならないよう頑張りますよ」
彼女には、全く恐れは見えなかった。
それは百戦錬磨の軍人の経験に裏打ちされた恐れの無さとも、あるいはまるきり怖いものを知らない子供の無邪気な恐れの無さとも違うようで……バラクにはただそれを、どことはなしに頼もしいと思うことしかできなかった。
「だったらおれも行く!」ネルが手を挙げた。「いいだろ!?俺も兵隊になるんだ」
「まあ、戦力は多いに越したことはない……」バラクは苦笑いした。デボラはにっこりと笑い。「で、出陣はいつです?」としれっと言う。
バラクはなんだか、彼女に対して少しでも疑いの気持ちを持っていたことが恥ずかしくなった。なんという肝っ玉だろう。この女性をここまで恐れなくさせているものは何か?やはり、神の声なのだろうか。

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