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クリスマス市のグリューワイン

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ブラック・マドンナ 10話


チェンストホヴァの黒い聖母を奪った。
政府と警察たちは、酒を開けて宴会に興じていた。
黒い聖母は極秘にワルシャワ大聖堂に送られた。無論のこと他言無用で。まずは、これから行われる式典で、司祭たちが、修道士たちが、枢機卿がどう対応するか見ものだ。彼らはそうめいめい笑った。
ミュシェコもその中にいた。たまらなく、愉快な気持ちだった。アヘン中毒者たちはどんな顔をするだろう?今から楽しみでならない。アンジェイは、アンジェイはどんな顔をする。
考えただけで、背筋がぞくぞくした。自分はこのために、あの苦痛に耐えたのだ。あの忌々しい教師に金髪を汚される苦痛に耐えたのだ。
お前を、黒い聖母から引きはがしたかった。あの、美しくもない、汚らしい女、それなのに、人の心をとらえてやまない、「只の絵」から、お前を引きはがしたかった。
「これで、彼らは自由になれるでしょうか」リシャルドが言った。
「ああ、なれるとも。私たちの行動は、無駄ではない」
不思議なもので、この言葉はリシャルドを懐柔するために使ったものなのだが、なかなかどうして使っているうちに自分の心にもなじむものになっていった。
「アヘン」とはよく言ったものだ。アヘンが甘い夢を与えるからと言って、誰がそれを良きものだと言うだろうか。アヘンの甘い香りの鎖に捕らわれているだけの不自由な人間を解き放つことを非難する者は、禁断症状に苦しむアヘン中毒者以外、誰にもいるまい。
黒い聖母から、お前たちは解き放たれるのだ。お前たちを自由にしてやる。そのような正義感も、乙なものだとミュシェコは思い始めてきた。
しかしそう思うと引っかかるところがもう一つだけでてくる。では結局自分は、やはりアンジェイを好いていたということなのだろうか?
自分のあの苦悩は、アンジェイを助けるため?今度の事も、彼に自由を与えるため?
自分と言う人間がわからない。収容所に入ってから、そのようなことが増えたのだな、と少々ずれた着地点に行き当たった。その答えを出す気は今のところ、ミュシェコにはなかった。

数日後。
消えた黒い聖母の行方を知っている者は、驚くこととなった。ミュシェコも急いで、個人的に車を飛ばして向かった。

向かった先では、相変わらずキリスト教徒たちが熱狂していた。
威厳溢れる声で説教を行う枢機卿。誇り高そうにその場に侍る聖職者たち。満足げな顔で、説教に聞き入る信者たち。何もかも、黒い聖母がいる時と同じままだった。
ただ一つ違うのは、聖母を収めていた額縁に、子供を抱いた黒い肌の、青いベールを着た女はいなかったということだ。
そこには、キャンドルが燃えていた。一本のキャンドルが。
その場にいない聖母の威光、聖母の慈愛を示すかのように、あかあかと燃えてるキャンドルを眺め、人々は祈りを行っていた。

黒い聖母は、女王であった。
ポーランドの長い、長い悲劇の歴史を、その虚ろにも見える目で、まっすぐに見つめ続けた女王であった。
そのことが、生涯をかけて否定したかった事実が、ミュシェコにははっきりとわかってしまった。
自分達の小手先の邪魔など何にもならなかった。ポーランドの女王はただキャンドルの一本の輝きで、自分の威光を、存在を、その場に示すことができたのだ。

ミュシェコは、アンジェイを見つけた。彼は、苦悩していなかった。彼は自分の知っている彼のままであった。
「先生」
自分を心配する声も聞こえず、ミュシェコは崩れ落ちた。

●●●

ベツレヘムでの悲劇は、瞬く間にイスラエル中を駆け巡った。北のガリラヤまでも、勿論その噂は届いた。
「ベツレヘム……」その地名を聞き、令嬢マリアとヨセフは震えあがった。あの、黒い少女は平気だろうか。彼らはいてもたってもいられなかった。急いでろばを走らせ、彼らはベツレヘムに向かった。

素朴な村だったベツレヘムは、見る影もなくなっていた。いたるところ血が散乱し、赤子がいなかったのであろう難を逃れた村人たちも、皆一様に沈んでいた。
「黒い肌の少女とローマ兵が住んでいる家」を探すのは全く難しい事ではなかった。市場の婦人が、生気の抜けた顔で道順を教えてくれた。
彼らは被害にあったのだろうか。あっていない事を信じ、ローマ兵の家に入ったヨセフと令嬢マリアは、惨憺たる光景を見た。

入口から床にかけて、ずるずると引きずられたような血の跡がついていた。それを恐る恐るたどっていくと、家の一番奥、寝台に座り床に背を預けて、血まみれになったマリアが虚ろな目でぶつぶつと抱え上げた赤ん坊に何かを言っていた。
「大丈夫。大丈夫。もう怖くないのよ、泣かないで……」
彼女の隣には、既に死臭を放ち始めたローマ兵の遺体があった。全身をめったざしにされ、寝台に横たわっていた。
そして彼女の抱きかかえる赤ん坊は、亡き声一つ上げることもなく、その産着には乾ききった大きな血のしみがついていた。よく見れば、刃物が貫通したような穴も。
「マリア……」
令嬢マリアは、その名を呼んだ。マリアは、その時はじめて赤ん坊から目を起こし、二人の方を見た。
「お嬢様……!」
「マリア!」
令嬢は、倒れこむように黒い肌の少女を抱いた。
「どうして、どうして……!」
「お嬢様、来てくださったのですか……?」
マリアの声は、弱弱しかった。令嬢が注視してみると、彼女にも刺し傷があった。そこから、血が流れ出た後のようだった。
「来るわよ」令嬢は震える声で言った。
「嫌いだなんて嘘よ。大好きよ。ずっとずっと、大好きなのよ……」
知っていた。
彼女がそう思ってくれていたことなど、マリアにはよく分かっていた。
今になって、ようやくマリアは、令嬢の愛を受け止めることもできた。彼女は自分の目の前で泣きじゃくる令嬢の頬に優しく、口づけを一つ落とした。
「私もです。お嬢様」
やっと、言うことができた。
やっと、この人を愛することができた。自分を始めて愛してくれたこの人を。何よりも清らかであると思っていたこの人を。自分は、自由になったのだ。
「ありがとうございます。やっと、死ねます」マリアは呟く。
「死ぬって何、死んじゃ駄目!」
令嬢や叫んだ。しかし彼女の目からしても、目の前の少女が限界まで衰弱している様子であるのは明らかだった。
「私、あなたに何もできなかった」令嬢は泣いて、マリアにすがった。「あなたにわがままばっかり言って、なんもしてあげられなかった」
「お嬢様……」マリアは震える手を、ゆっくりと持ち上げた。
「では、もしも、もしもし最後に許されるのならば、聞いてくださいませ」
「なあに」令嬢はしゃくりあげながら、聞いた。マリアはにっこりと笑い、赤ん坊を差し出した。
「あなたの子供です。どうか、腕に抱いてあげてください」
その言葉に、令嬢は瞬きをしていた。マリアは、かすれ消える声で、ゆっくりと、ゆっくりと言った。
「あなたは、私です。私は、あなたなのです。お嬢様。私の子は、貴方の子です。貴方は、胎を痛めることなく、男を知ることなく、子を得るお方であったのです」
令嬢は、自分の愛した黒い少女の最期の言葉を、じっくりと聞いた。そして、体温を失った子供を抱き上げた。子供と言うものは、彼女が思っているよりも、ずっと、ずっしりと重いものだった。
脇腹を刃物で貫かれ、動くことも息をすることもなくなった赤ん坊を大切に腕に抱き、令嬢は言った。
「可愛い子……ありがとう。ありがとう、マリア。本当に……」
「お嬢様……もう、思い残すことはありません」
その時、ふわりとマリアに被せられるものがあった。
まるで天の国に連れて行かれるような、甘い香を焚き染めた布。令嬢マリアが送ってくれた百合の模様のベールだった。
ヨセフがそれを広げ、かけてくれたのだ。
「旦那様……ありがとうございます」マリアはヨセフにも、最後に一度笑いかけた。
「お嬢様、旦那様。どうぞ、いつまでもお幸せに……」
そう言い残して、黒人の少女マリアは死んだ。青い、百合の模様のベールを身に纏った彼女の姿は、惨めな一生を送ってきた奴隷少女とは思えなかった。それはまるで、女王の風格であるようにも思えた。

「……だぁ」
悲しみに沈み、茫然とするヨセフと令嬢マリアの耳に、響く音があった。何の音だ?赤ん坊の泣き声のように聞こえる……。
その瞬間だった。令嬢の腕に抱かれた赤ん坊がむくりと動き出し、火が付いたように泣き叫んだ。
ヨセフと令嬢マリアは当然、驚いた。赤ん坊は脇腹を貫通されて、生きていた。父と母の死骸を前に、彼は生きて、大声を上げ、泣き叫んでいた。

●●●

黒い聖母が取り去られても、聖母の巡業は終わることはなかった。
時には花、時には聖書を額縁の中に入れ、「黒い聖母」は国中を巡った。このようなまねで聖母への崇敬を損なうことなどできないという事実を、当局の人間たちはまざまざと見せつけられた。

アンジェイのもとにその日、一度見たことのある客が訪れた。
「同志がこちらのホテルでお待ちです。どうぞ、お越しください」
その秘書は10年前に比べ、腰が低くなっているようにも見えた。アンジェイはすぐに了解して、旧友の待つホテルに向かった。

「大したものだよ、お前たちは……」
灰皿には相当煙草がたまっていた。
「こんなことになるだなんて、誰も予想していなかった、全く末恐ろしい。宗教ってものは……」
「ミュシェコ」ブツブツと愚痴のようにつぶやく彼に、アンジェイは少し怒り気味に詰め寄った。
「ぼくは君の友だちとして、個人的に呼ばれたのか?」
「まあ、そう思ってくれて構わん」
「なら政府の人間として黙る意味もないだろう。聖母をどこにやったんだ?」
それを聞き、ミュシェコは2回瞬きしてからやれやれと言った風に返した。
「ワルシャワ大聖堂さ。もう少ししたら、政府もチェンストホヴァに返すつもりだ。勿論極秘でな。ヤスナ・グラの付属礼拝堂に当分極秘でおいて、公式的には行方不明という扱いになる」
「……それをやっても、無駄だったろう」
「当初の予定だからな。それにおれ一人の一存でどうなるものでもない」
ミュシェコはもう一本煙草を吸おうとして、煙草の箱が空になったのに気が付いた。
「君は、どうして変わったんだ?」アンジェイは言った。
ミュシェコはふんと鼻を鳴らして「ああいいとも。話すよ。洗いざらいね」と吐き捨てた。

言葉の通り、ミュシェコは全てを話した。自分が収容所の体験を経て殉教と言うものに持った感覚も、自分がアンジェイをどう思っていたかも、包み隠さず話した。アンジェイは最後まで、それに黙って耳を傾けていた。非難し、遮ることは一切なしに。
「以上だ」小一時間かけて語り終えた後、ミュシェコはそう言った。
「お前に先生を恨む権利はないはずだ」ドアの前で控えていたリシャルドが言う。
「先生はお前を自由にさせてやるはずだったのに」
「自由?」
「ああ、そうだな。そう言う気持ちもあったのかもしれん。あの黒人女から、お前を助けてやりたいという思いがね」
アンジェイは、しばらく考えていた。しかし、意を決したように言った。
「ミュシェコ。君には、大変済まない事をしたと思っている。しかし、聞いて欲しい。君がぼくのことをそんなふうに、汚れなど何もないと思っているなら、それはとんだ思い違いだ」
「そうかね……」
「そうだとも。だって僕は、人を殺した」
その言葉に、ミュシェコは硬直した。
血の気が引いていく。がたがたと寒気がした。「なんだって?」恐る恐る、ミュシェコは問いかけた。アンジェイは、懺悔室にいる罪人のような表情で、言った。
「君は、知ってたね。ぼくが戦時中外国に逃げたと。外国と言うのはね、ドイツなんだよ。ぼくは、身分を偽って、ドイツ人に成りすまして、戦場でドイツ軍として人を殺していた。なんでそうしたかって?怖かったんだよ。君と一緒によく行ったパン屋さんがあったっけね。あそこのご夫人がね、ドイツ人に凌辱されて殺されたんだ。僕はそれを見て、怖くなったんだ。ポーランド人である限り、こんな目に合うのかと。それか逃れたかった。だから、ドイツ人に成ろうとしたんだ。ドイツ人になって、迫害から逃げたかったんだ」
ミュシェコはまだ震えている。唇に青みがさしてきたかのようにすら見える。アンジェイはさらに続けた。
「戦場も怖かったさ。何より、自分が人を殺して……その死体を見た時、気を失いそうになった。そのうち、戦場で負傷して、戦場での治療が難しいっていうんで送還されたんだ。そうしたら、悪運とでもいうのかな……ドイツ側の戦局が悪くなってね。ぼくが病院で傷を治すためもたもたしている間に、戦争が終わってしまった。体が元に戻るなり、ぼくはソ連人にドイツ軍にいたことは伏せて、ポーランド人だということを証明して、ポーランドに返してもらった……家族もみんなドイツ人に殺されたって聞いたよ。ぼくは、罪の意識で死にそうだった。何でも臆病にのらりくらりとして来て、結局どうしようもない罪を重ねるだけの人間だった……でも、修道院は、そんな僕を受け入れてくれた。ぼくの罪を認めて、ぼくの罪を受け入れて、ならばここで償えと、ヤスナ・グラは、ぼくが子供の頃見た黒い聖母は、ぼくを受け入れてくれたんだ」
「嘘だ……」ミュシェコは首を振った。
「嘘だ!嘘だ!お前は綺麗なままだった!お前を初めて見た時、白い百合だと思ったんだ!」
アンジェイは、その言葉に何も返さなかった。
代わりに彼は、修道士の服をばさりとその場で脱いで見せた。ミュシェコは絶句した。痛々しい傷の跡が、そこにはあった。とても、清水だけを吸って咲いた白百合の花とは、似ても似つかない物体がそこにはあった。
「正直な話、ぼくはまだ、自分の罪悪感から抜け出せていない。家族にも、ぼくにも、戦争で殺した人にも、ぼくは罪を償いきれていない」
アンジェイは服をまといながら言った。
「それは全て、ぼくの臆病な性格のせいだった。でも、修道院に居るおかげで、少しずつ、ぼくはそれから自由になっていく気がするんだ。臆病な性格から自由になることで、罪を償えている気がするんだよ」
「……おれも、自由にさせたつもりか?」
ミュシェコは虚ろな目で言った。
「おれも、お前に対して持っていた執着から、自由になったのかも……ああ、自由になったのかもしれないな……」
彼がいくらまさぐっても、煙草は一本も箱には残っていなかった。
「昔何度も唱えたな。聖母マリアは原罪無き存在。聖母マリアは穢れ無き存在……そんなものに、価値を見出していたな」ミュシェコは自嘲気味に続ける。
「おれも、お前とは違う方向で、聖母マリアをこの上なく崇敬していたのかもしれん」


ヤスナ・グラの黒い聖母は1972年、ようやく封印が説かれた。
表に出てない間も額縁のみで続けられていたポーランドの女王の巡業は1980年10月12日、チェンストホヴァにて終了した。
ポーランドの歴史は、カトリックと切り離すことはできない。それは共産主義政権下においても同じ事であった。
ソ連においても同じことであったが、共産主義は完全に宗教を封じることなど叶わなかった。ローマ時代、キリスト教徒が地下墓所に籠ってでも祈りをつづけたのと同様に、宗教への自由を完全に犯すことは、不可能だったのである。


●●●

暖かな日差しが降り注ぐ中、聖母マリアは昔の事を思い出していた。
「あの子は、君とともに生きて、君の子供を産むためにつかわされたのかもしれない」そう、ヨセフは言っていた。その時は、それに同意した。だが、最近になって思う。
彼女と会ったのが神の導きであれ、偶然であれ、変わりはないじゃないか。彼女は、自分と共に居た。そして、自分の子供を産んだ。彼女と自分は、最後の最後、愛で結ばれた。それで十分じゃないか。
「聖母様?」ルカが問いかけた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。うっかりしていた。
「あら、ごめんなさい、自分から絵を描いてって言っておいて」
「いえいえ」ルカは陽気に返す。「ところで、本当に肌をまっ黒く塗ってもいいんですかね」
「ええ、いいわ。良いじゃないの。そう言うのがあっても」
この男とは、息子の教えを通じて知りあった。息子が広めていた神の教えを信仰するうちの一人。彼は、自分をモデルに、何枚も絵を描いてくれた。
机をはがしてつくったキャンバスの上には、女性が一人と子供が一人。女性は、百合の模様の青いベールをかぶっている。自分とは少し違う、痩せた顔。虚ろな目。しかし、それでいて彼女は美しかった。それが、彼女の人生だったのだから。
ルカが、茶色い絵の具を取り出した。聖母はまた、日向の温かさに包まれ、眠気に襲われてきた。


(完結)

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ブラック・マドンナ 9話


普段なら自分をいらだたせる記事はリシャルドに捨てさせるミュシェコだが、その記事だけはずっととっておいた。これ以上、自分の怒りと言う名の英気を養うのに格好の題材もない。
5月4日付の新聞。ヴィジンスキ枢機卿の演説の内容を、そっくりそのまま書いていた。
「各地での諍いは後を絶ちません」リシャルドはそう報告した。
「聖母の巡業とやらも、まだ続いているな?」
「はい」リシャルドは答える。
「状況の報告を」
「やつらとしては、成果は上がっているようです。聖母のイコンが回った司教管区では、往々にして大規模な洗礼が行われています」
ミュシェコは煙草に火をつけた。
「そもそも、なぜすぐにこれが終わらないのだと思う?リシャルド」
「信仰心ゆえでしょう」
「信仰心とはなんだ?聖母マリアへの情欲とどう違う?」
ミュシェコは二息目の煙草をゆっくりと吸った。怒りを通り越して、彼は興奮してきた。自分がやりたかったことが、今ならばできるような気がした。
「奴らは、宗教にすがらなくては生きていけない、女王の哀れな奴隷なのだよ」ミュシェコはワルシャワの町を見下ろしながらゆっくりと言う。
「お前は彼らを自由にしてやるのだ。そうでなくてはならんのだ」ミュシェコは、知っていた。この男の正義感の強さを。このような言葉を使っていつも、この秘書をコントロールしてきた。
「聖母は次、どこに向かう?」
「二日後に、オルシュティンに」
「時が来た!」ミュシェコはにやりと笑った。

ポーランドの信徒たちは、どのような顔をするのだろう。
聖母の鎖を切られた彼らは、一体どのように殉教に向かっていくのだろう。
だが数万の信徒にも、ヴィジンスキ枢機卿にも勝るほど、その顔を見たい相手がいた。アンジェイは、どのような顔をするのだろう。
お前が憎かった。綺麗なままのお前が、ずっと、憎かった。

イコンを運ぶ道中の事だった。子供のころからずっと慕ってきたイコン、そしてさらにポーランドのカトリックの中でも一番尊敬に値する人物、ヴィジンスキ総主教がすぐ近くにいる。アンジェイはいささか緊張していた。
そして緊張と同時に、彼には襲い掛かってくる。発作のように、頭をえぐる痛み。
自分の視線のすぐ下で、血が飛び散っていた。むせ返るほどの悪臭がしていた。自分は、何もできなかった。人が死んでいるのに。否を大声で唱える勇気もなかった。自分は、ただただ、臆病だった……。
アンジェイは、そっと頭を押さえた。隣のミヘイが、心配そうに見ている。大丈夫だよ、とミヘイに向かって強がろうとした時だ。
「どうしたね」
この道中で何回も聞いた声、そして、信じられない声が飛んできた。ヴィジンスキ枢機卿が、アンジェイに話しかけてきた。
「頭痛です。申し訳ありません……」
「そうか。お大事に」枢機卿は詮索しなかった。だが、最後にこう付け足してくれた。
「主に、聖母に、君が大事にあることを祈ろう」
その言葉に、アンジェイは涙が出そうになった。もちろん、嬉しかったのだ。心が温まる思いだった。何気ない言葉に、こうも救われる。真の宗教者とはこうあるものかもしれない、と、彼はいい年をして考えた。
「大丈夫だよ」
隣のミヘイも、穏やかに笑っていた。
「父なる神は、放蕩息子を許される……大丈夫だ。アンジェイ。君は、大丈夫だ」
ミヘイは優しく、背中を撫でてくれた。「ありがとう」と、アンジェイは言った。

オルシュティンに黒い聖母が到着すると聞き、オルシュティンの人々は期待に胸を膨らませていた。
ポーランドの女王がやってくる。自分たちを、ポーランド・カトリックを支え続けた女王がやってくる……。
だが、その日、不自然なことが起こった。工場の労働者たちは、規定の時間になっても家に帰宅することを許してもらえなかった。
「どういうことだ!?」と抗議の声が上がる。だが、返しの言葉は「命令だ」意外に存在しなかった。
オルシュティンのとある農業学校でも、似たようなことが起こっていた。学生たちは、これから黒い聖母がやってくるが、その祭典に入ることを禁止する、とはっきりと警告されたのだ。
工場の、学校の信徒たちは、よっぽど抗議の声を上げたかった。実際あげた。だがその言葉で揺らぐような命令ではなかった。
工員たちがとどめ置かれたのは、夜7時まで。彼らは解放されるや否や、急いで飛び出した。だが、その数時間のやきもきした気持ちは、非常に空しい形で終わりを迎えることになった。
イコンは、オルシュティンに届いていなかった。絶対に、届かなかった。

●●●

マリアは、ベツレヘムに戻ってから医者にかかった。ユダヤ人の医者には見てもらえないので、パンテラの基地にあるローマ人の医者だ。間違いなく妊娠している、と言われた。
パンテラは喜びながら、戸惑っていた。彼は、マリアに出会うまではずっと孤独に生きてきた。自分が人の親になるなど、考えもしなかったらしい。
「手伝いの女を雇おうか」パンテラはそう提案した。「お前を今までと同様に働かせるわけにもいくまい……」
「ありがとう。でも……やはり、落ち着かないわ」
パンテラにしても、雇い入れたいはずはないことを確信していた。できれば、自分たちは自分たち二人きりでいたい。
「そうか。では、俺が家の仕事を手伝おう」パンテラはそう言って、楽しそうに笑った。

マリアのお腹は、少しずつ、少しずつ膨らんできた。パンテラはそれを見て、日に日に感慨深さが極まっていく様子であった。硬い表情も、今ではすっかり柔らかくなっている。
「ガキがね……まさか、俺に……」
パンテラはマリアの丸く膨らんだお腹を撫でながら、何度もそうつぶやいた。
「あなた似かしら。私似かしら。あなた似の方が生きるには楽だと思うけど……」
「仮にお前似だとしても、誰にも後ろ指は刺させん」パンテラはそう、マリアと、お腹の中の子に言うように言った。

ヨセフと令嬢マリアから、その後頼りはなかった。もしもう一度か二度ベツレヘムに来ていたとしても、妊娠し家にこもるようになったマリアが彼らと顔を合わせられたはずもない。
彼らには、申し訳ないと思っている。彼らには、何の非もなかった。彼らはただ、優しかった。
しかし今は、マリアは自分のお腹の中に宿った子供の事を考えるので精いっぱいだった。自分の膨らんだお腹、時々ぴくぴくと動くお腹を触り、マリアは女の身体とはこういうものか、と考えた。
妊婦を見たことがないわけではない。妊婦の世話もしたことがある。しかし、自分が妊娠するのは初めてだ。
このような体になれるよう、令嬢が生まれてきさえすれば、何も起こらなかった。しかし、自分の肥大した腹は、やはりあの令嬢にはふさわしからぬように思えた。往来の並木が紫の葉をつけることなどないように、あの令嬢も、股から血を流すことも、腹を大きく膨らませることもないのだ。それが、一番似合っている。それが、一番自然だった。彼女は美しかった。何の汚れもなく、ただただ美しかった。

月が満ち、マリアは出産した。出産には、例のローマから来た医者が立ち会ってくれた。
幸いなことに、安産だった。マリアは産湯をつかわされた赤ん坊を抱き上げた時、肌の色が自分と似ていないことを確認した。
少なくとも、自分の人生のような苦悩は辿るまい。彼女は母親として、最初の安堵を味わった。
「だぁ……」
赤ん坊は小さく、小さく声を上げて、マリアに縋り付いてきた。マリアは医者に言われるままに手さぐりで乳房を含ませ、座っていない首を傷つけないように慎重に撫でながら、笑った。
「ありがとう。……本当に、ありがとう」

子供が生まれて、パンテラは初めて会った時とは見違えるように幸せそうだった。
最初の方こそ、彼は赤ん坊をいざ目の前にして、戸惑っていた。
「俺がね……この俺が、ガキの親になるとは……」
自分など、子を持てない。そのような罪人であると、彼は信じて生きてきたのだ。無理もない。
しかしふたを開けてみれば、パンテラは意外と子煩悩だった。彼はさっさと仕事から帰っては、子供の世話でろくに動けないマリアを手伝ってくれた。
「そんなにしなくてもいいのに。男なんだから」とマリアが言えば、「男だから、お前たちを守りたいんだ。放っておけ」と、微笑を浮かべながら返された。パンテラのその言葉も嬉しかったが、パンテラは微笑みなどできる人であったのか、と、マリアは可笑しく思った。
数日たった日の事だった。ベツレヘムの往来が騒がしかった。パンテラとマリアも往来に出てみてみると、目にも鮮やかな衣装をまとった外国人の一団が、去っていくところだった。
「エルサレムに行って、今帰る所らしい」周囲の人々が、噂話をしていた。外国の、星占いの著名な博士たちであるらしい。
「ヘロデ王は担ぐからな」パンテラは呆れたようにつぶやいた。マリアはくすりと苦笑した。
占星術の博士は、自分達にはわからない言葉で会話をしているようにも見えた。当然、マリアの方など、パンテラの方など見向きもせずに、華やかな一団はただベツレヘムを通り過ぎ、イスラエルを去っていった。

そして、それから三日たった夕方の事だった。マリアは、糸紡ぎの内職をしていた。妊娠中、体を動かすのはパンテラが反対するが、手を動かしていないのも落ち着かないのでと始めた内職だ。
赤ん坊は眠っていて、パンテラはその横で彼を見ていた。夕飯も早めにすませ、穏やかな夕方だった。
とんとん、と扉をたたく音が聞こえた。
「今開けよう。マリア、こっちは頼む」
「わかったわ」
パンテラと入れ違いに、マリアは我が子に寄り添った。彼は相変わらず、のんびりと眠ったままだった。
パンテラが扉を開けると、そこにはローマ兵とは一風違う鎧の集団が立っていた。パンテラは彼らの鎧を知っていた。ヘロデ王の近衛兵だ。
「ユダヤの兵隊か」パンテラは言った。
「何の用だ?ローマ人の家に」
「ローマ人と言えど、ベツレヘムに住んでいることは同じ」兵隊はパンテラにおびえる様子もなく、言った。
「先日の事だ、ヘロデ陛下は、外国の占い師たちにお告げを頂いた。『ユダヤの王となるものがお生まれになった』と」
「それはそれは、めでたい事で」
「だが、陛下の家系に新しく生まれた子など一人もいない」
「要件を早く言え」パンテラはうんざりしている様子だった。
「そこでユダヤ議会は協議した。そして、結論が出たのだ。それは、聖書に預言されたユダヤの王ではないかと……お前たちは知らないだろうが」
「ああ知らんね、俺はユピテルすら崇めるつもりはないからな」
「預言の書にはこうある。『しかしベツレヘム・エフラタよ、お前はユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者がお前のうちから我がために出る』……」
それを聞いたとき、パンテラはぎょっとした。何かを察したのだ。
「お前の家に赤子がいると聞いた」
兵士たちは、刃物を取り出した。
「ヘロデ王家を脅かすものを捨ておくわけにはいかない。ヘロデ陛下からのお達しだ。ベツレヘムに居るの幼児は、王家を脅かす可能性のある者。全て殺してしまえと」

●●●
オルシュテインに向かう途中の事だった。聖母を運ぶ自動車行列が、警官隊に止められた。
「オルシュティンには向かうな!」警官はぶしつけな態度で、聖母を運ぶ人々に命令した。丁寧に、政府からの書状を見えるように掲げて。
「予定を変更し、これよりフロンボルクに、その後ワルシャワに向かうように」
「なぜ、お前たちにそれを命令する権利がある!」一人の修道士が怒った。
「オルシュティンの信徒たちが、聖母が来られるのを待ち望んでいるのだぞ!」
「どこに行ったって同じことだろう」警官隊は態度を変える様子はなかった。警官隊は銃を持っている。逆らうわけにもいくまい。
「わかりました。言うとおりにしましょう」
ヴィジンスキ枢機卿は、命令をのんだ。致し方のない状況ではある。誰も、その判断は責めなかった。それに、オルシュティンでも、フロンボルクでも、聖母の教えを広めることができるのならば同じこと、という考えに確かに嘘偽りはなかった。

予定変更してやってきたフロンボルクでの式典は、つつがなく終わった。フロンボルクの人々は、思いがけずやってきた黒い聖母に、他の司教管区の人々と同じく盛大に喜んだ。オルシュティンの人々には申し訳ない思いでいっぱいだったが、それでも黒い聖母を前ポーランドの信徒の目にという当初の理念は満たせた巡業だった。

フロンボルクでの式典も終わり、黒い聖母と、枢機卿、それに付き添いの司祭や修道士たちは、列になって車に乗り込み、ワルシャワを目指した。
「疲れたかい?」アンジェイの隣に座るミヘイが、そう話しかけてきた。
「オルシュティンの人々に、悪い気がするよ」
「私もだ」ミヘイは同意する。
「でも、また来る。絶対に、オルシュティンだけ聖母の祝福を与えないことなど、枢機卿が許さないし、我々も許さない。そうだろう?」
「ああ、そうだね……」
そのように話している時だった。
ブレーキの音が響いた。ピリピリと耳障りな警笛の音も聞こえる。また警察か!と思い、アンジェイとミヘイが外を見た時だった。
警察は、数日前とは様相が違っていた。
彼らは銃を抜き、銃口をまっすぐに聖職者たちに向けていた。
「車を降りろ!」
彼らはそう命令した。

「全員、動くな!」
警察隊はそう告げた。聖職者たちは、従うしかなかった。先日は意識させるだけだった武器を、今回はあからさまに向けられていた。
見れば、警官に交じって役人も何人か来ている様子であった。役人?アンジェイははっとした。もしや、と思った。
あたってほしくなかった予感は、その時、的中してしまった。背広を着た役人たちの中に、ミュシェコの姿があった。
「ミュシェコ!」と声に出して、名前を呼びたくなった。口を開きかけた所で、ミュシェコはアンジェイに姿に気が付いたようだった。彼は何も言わず、口角をゆがませて笑った。
一番地位の高いらしい役人が、運転手に言った。
「黒い聖母のイコンは?」
警官に銃を突き付けられた状態では、運転手たちも丁寧に案内するしかなかった。役人と警官たちは歩みを進め、車の中にある箱を引きずり出した。
「待て!」居てもたってもいられなかったのだろうか、ミヘイが叫んだ。「それにぶしつけに触れるな!」
「アヘン中毒者共、教えてやる。こんなもの、ただの絵だ」
先ほどの、地位の高いらしい役人がそう言ってのけた。
その声色は背筋がしびれるほどに、冷たかった。飛び出そうものなら、射殺されることには疑いようがなかった。
「どこに」アンジェイは、震える声で言った。「どこに、持って行かれるのですか……」
引き続き、先ほどの役人が口を開こうとした。だが、自分に言わせてくれとでもいうように、ミュシェコが前に出た。
ミュシェコはアンジェイに向かい合った。そして、にやりと笑って言った。
「教える馬鹿がどこにいる。これはポーランドの美術品。ポーランド政府がどう扱おうが、お前たちにとやかく言われる筋合いはない」
聖職者たちが抵抗もできないまま、黒い聖母は警察の車に詰め込ませた。そして、エンジンの音が聞こえ、遠ざかっていった。どこに向かったのか、誰にも分かることなく……。
「ああ!」ミヘイがその場に膝をついた。アンジェイの心も折れそうだった。黒い聖母が、黒い聖母がいなくなった……。
その場に居合わせた人々も、皆一様に絶望におびえていた。
だが、ほどなくして彼らはあることに気が付いた。ヴィジンスキ枢機卿はただ一人、全くうろたえていないことに。

●●●

「殺す?」
パンテラは、ユダヤの兵隊たちを見つめてそう言った。ただ見つめているだけで、睨みつけているように見える、その目で。
だがユダヤの兵隊たちも、やはり怯える様子はなかった。
「赤ん坊を渡してもらいたい。すぐに済む」
遠くで、悲鳴が聞こえた。甲高い悲鳴。きっと、同じときに何人もの家を、巡っているのだろう。
マリアは家の奥で、聞き耳を立てながら怯えていた。腰が抜けて、赤ん坊を連れて立つこともできない。
赤ん坊もマリアのその恐れを感じ取ったのだろうか。急に激しくぐずり始めた。マリアは冷や汗が出た。
「奥に居るのだな」ユダヤ兵達は言う。「引き渡せ」
「ふざけるな!」
次の瞬間、血が飛んだ。パンテラは壁にかけてあった剣を取り、ユダヤ兵達を切り裂いた。

マリアには、何が起こったか理解できた。それでも、なんとか正気を保とうと、彼女は赤ん坊を懸命になだめた。
「ローマ人と黒人の子が」パンテラの声が聞こえた。「なぜ、こんな国で、王になれるというのだ!」
「人間に、運命など分からない。運命はただ神のみが知る」
赤ん坊の泣き声はますます激しくなる。どうして泣くの、泣きやんで!彼女は叫びそうになった。もう一人人が倒れる音が聞こえた。
金属音も聞こえる。今はどうなっているんだろう。パンテラは戦っている?赤ん坊は泣くのをやめない。恐怖を体現したかのような叫びを出すのをやめない。
ふと、マリアの心の中に浮かぶものがあった。マリアは激しく泣く赤ん坊を、耳がつぶれそうな衝撃にもかまわずぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね。怖いものね。泣くのは、当たり前よね」
マリアは、赤ん坊を泣かせるままにしておいた。赤ん坊の泣き声で、入り口の状況も分からない。マリアはもう、逃げられなかった。一秒が一日にも感じられる長い長い時間の中で、悲痛な顔で、泣き叫ぶ赤ん坊を抱きしめる。自分には、ただそれしかできなかった。パンテラがどうにかしてくれると信じて……。


こつり、と振動を感じた。誰かが、ここまで来たのだ。マリアは恐る恐る、顔を上げた。

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ブラック・マドンナ 8話


ローマ兵の愛人。
イスラエル女にとっては最も忌むべき立場で、イスラエルの娼婦にとっては最も喜ばしい立場だろう。
マリアは、気が付けば奴隷というよりも、そのような立場になっている自分に気が付いた。面と向かい、パンテラにお前は何だと言われたことはなかったのだ。まあ、奴隷も娼婦も見下されることに代わりはない。大して問題とも思わなかった。

パンテラといると、マリアは不思議と心が落ち着いた。悪くない気がする、ではなく、嬉しい、喜ばしいと言った感情でもなく、マリアとヨセフに感じていたのとは全く違う落ち着きを、彼女はパンテラの中に見始めていた。

パンテラは人づきあいがほとんどない。演習や巡回と、家の往復の毎日だ。何の楽しみも得ないと言うよりは、楽しむことを拒否している人物のようですらあった。
マリアがパンテラの家に住み始めてから一月以上もしたころだろうか。パンテラは初めて「お前の前の主人はどんな奴だった」と聞いた。
「お金持ちのお嬢さんでした」彼女は言った。「とても、優しい方でした」
「優しい方に追い出されたのか?」
「私が不義を行いましたので」
「本当か」パンテラはめずらしく、少し喰い気味に話してきた。
「パンテラ様、私が嘘を申しますか?」
「お前の事を知りたいのだ」パンテラはぶっきらぼうに言った。「端折るようなことがあるのなら、それも聞きたい」
「私の事を知って何になりますか?」
「俺の事も、お前に話せるようになる」パンテラは淡々と告げ続けた。マリアには、断る理由もなかった。
「お嬢様は不妊の方でしたので、私が代わりにご主人様と子を産むことを強いられました。しかしお嬢様がそのことを知らされておりませんでしたもので、諍いになり、出て行ったのです」
「それ見ろ、不義じゃない」
「不義ですよ」マリアはくすりと笑った。「それに、不義でも不義でなくとも私には正直な話、どうでもいいのです。そうなるということは、そろそろ潮時だったのですよ」
「優しいお嬢様と言っていたな」パンテラはさらに話を続けた。
「はい、旦那様もやさしいお方でした。二人とも、私の黒い肌を罵ることなど、一度もございませんでした」
「そんな奴らの所を、お前は離れたいと望んだのか」
「はい。私はさもしい女ですので」
ぺらぺらと話しながら、マリアは戸惑いに襲われた。この男の前では、口に出すのもはばかられるようなことも、素直に何でも話せた。
「奴隷として扱われなくては、満足できないのです。せっかくお嬢様やご主人様が、醜い私にも奴隷の本分も越えてよくしていただきましたのに、その生来の奴隷根性から逃れることもできませんで、お嬢様たちの行為も無下にしてしまいましたの。……追い出されて等おりませんわね、私。逃げたのですわ」
始めてマリアは、そのことをはっきり告げた。
「可愛がられるのが嫌いだからと逃げた贅沢ものなのですよ。まあ、これも男女の睦みあいの意味では無かれど、お嬢様夫婦に対する不義に違いはありませんでしょう?」
「違うな」
パンテラは短く、低い声でバッサリとその言葉を切った。そして、ぎろりとした目でマリアを見た。
マリアは、その目に射抜かれると、体が動かなくなった。パンテラはマリアに詰め寄るようにしていった。
「そいつらの罪でもない。だが断じて、お前の罪でもない」
パンテラの口調は相変わらず淡白なようだが、そこには激しい、何らかの感情が込められているようだった。
「では」マリアは言った。「だれの罪だとおっしゃいますの?」
「強いて言うなら、生まれた時からお前を奴隷として扱い、お前を虐げ続けたこの世の罪か」
不思議だった。その言葉は、マリアにお菓子の色を引き合いに出され自分を肯定された時よりも、ヨセフに雅歌を引き合いに出され自分を肯定された時よりも、ずんと心に重く響いた。その言葉は、誰も、自分さえも触れなかった心を抱きしめるかのようであった。
「なんですって?」
「生まれた時から醜い奴隷扱いで、今さら優しい主人に会ったとしても、すぐに人間には戻れない。言うほど珍しい事でもない」パンテラはマリアを見つめながら、言った。
「その際のお前に罪があると、何故言えるものか。お前はただもっと長らく、虐げられ続けてきただけだろう」
マリアは、泣いていた。
気が付けば、長い間出したこともない涙が出ていた。
パンテラは何も言わず、泣く彼女を抱きとめた。
「パンテラ様。今度は、貴方の番ですよ」マリアは言った。
「あなたの事も、話せるようになりましたでしょう」
「俺は、人を殺した」当たり前の話をするように、淡々とパンテラは言った。
「俺は……」

パンテラが全てを語り終えるまでのことを、実はマリアはあまりよく覚えていない。ただ意識が戻ってみれば、今度は泣くパンテラを自分が抱き留めていた。夢と現実があいまいになっていたような思いだった。あの無口な、山猫のような男が、ただ自分の膝の上で泣きじゃくっていた。
「海が見たい」パンテラはそう絞り出していた。母にも、父にも、兄弟たちにも会いたいとは望まなかった。ただ、故郷のシドンにあった海を見たいとパンテラは言っていた。
「いいじゃない」マリアは彼を抱きながら言った。「行きましょう。パンテラ。シドンは遠くても、カイザリアなら行けるわ。私、もっとほかのイスラエルの都市を見てみたかったの」
「行っても、いいのだろうか」
「海に、人と奴隷を見分けるような力はないわよ。ないに決まってるわ。私ね、海を渡ってイスラエルに来たの」
そう言って彼女は、パンテラを抱きしめた。
「自由になるって、難しいわね」
「自由など、実現できるとしたら」パンテラは呟いた。「神の力によってしか、そんなものありえやしないだろう」
恋でも、尊敬でもなかった。マリアとパンテラはその時、ただただ愛し合っていた。

●●●

聖母の巡業は、緊張を呼びつつも、大ノヴェナの期間中はなんとか続いていた。月日は矢のように流れ、膨大な9年間の大ノヴェナにも、いつの間にか終わりが来た。1966年4月9日。復活祭の前日、ポーランド受洗千年祭を祝う盛大な前祝は幕を閉じた。
そして、ほどなくして1966年4月14日。ポーランド受洗千年祭の本祭がいよいよ開催された。
4月14日の記念式典はグニェズノで開催れた。本来であればローマ教皇パウロ6世を招く企画があったのだが、政府が強硬にビザの発行を許さなかったのは、惜しまれることであった。
それでも、大ノヴェナの幕開けの式典に劣ることなく、千年祭の祭典は盛大に執り行われた。しかもこれも前祝にすぎない。一番の主たる式典が5月3日、ポーランドにおける成文憲法が完成した記念日に行われる段取りになっていた。
華やかな千年祭の幕開けのミサを前に、ポーランドに住むキリスト教徒は皆、何よりもすばらしい一年となることを夢見ていたことだろう。
翌日、1966年4月15日。大砲の音が、千年祭幕開けを祝う大集会の会場に響き渡った。

国防大臣スピバルスキが、近くの自由広場で演説を行っていたのだ。即ち、当局側も1966年に企画している「ポーランド」の独立記念千年式典のために。
そのそばで、国家に背く団体が集会をした。だから大砲で威嚇を行った。それが、政府側の思惑だった。
この、グニェズノの事件が発端だった。1966年、ポーランドにおいて共産主義とキリスト教の宗教戦争が至る所で、形を持って現れたのは。

5月3日の祭典は、滞りなく行われた。やはりパウロ6世がポーランドに訪れることはかなわなかったが、ローマ教皇の写真が代わりに飾られ、ローマ教皇のために用意された椅子はおいておかれた。
ミサを執り行うのはヴィジンスキ枢機卿だった。この場に来られないとはいえ、教皇もポーランドの輝かしい年の事を気にかけてくれていたのだ。彼は自分の代わりに、ポーランドで誰よりも政府と戦っている宗教者であるヴィジンスキ枢機卿を特使として任命した。
その日のミサには、ポーランドの女王、ヤスナ・グラの黒い聖母も姿を現した。彼女は修道院の周囲を一周し、そのミサに居合わせた人すべての目に触れた。
ヴィジンスキはミサにおいて、「ポーランド、または世界中の教会の自由のため、この国を聖母マリアへの隷属のもとに捧げる」と言った。後に、パウロ六世はこのことについてヴィジンスキ枢機卿宛の教皇書簡の中で、「ポーランド二度目の洗礼」と言っている。
ヴィジンスキ枢機卿は、閉会の説教に至るまで、ポーランドが聖母の隷属のもとにあることを求めた。それが、ポーランド民族が今この時代において、危機にさらされた中において、守られ得る道であると。

一方、国家が「ポーランド」の独立千年記念式典を行ったのは7月21日の事であった。ポーランド国民解放戦線宣言の、22周年前夜である。ポーランド国家の独立に最も深く関わりを持ち得る日として、共産主義ポーランドの記念日を選択したのだ。
7月21日の演説で、ゴムウカ第一書記が言った内容は以下のようなものだった。即ち、ポーランドの運命は永久的に共産主義とともにある。そして今あるこの「ポーランド」は、過去のポーランドからありとあらゆる歴史的遺産を引き継ぐ継承者に他ならないのだ、という旨。だがもちろん、その『歴史的遺産』の中にポーランド・カトリックは含まれてはいなかった。

ポーランド各地で、宗教と共産主義の衝突が起こった。警察が教会の集会に入ることを防ぐため築く非常線を、聖母マリアを慕う人々が強硬に突破していく。
蒙昧な聖の世界から俗の世界に導いてやろうと言う、政府に忠実な警察官たちの思いをあざ笑うかのように、人々は楽なはず、開かれているはずの俗の世界から、聖の世界へとなだれ混んでいった。それは、水が坂を下るようなものだったのだろうか、あるいは坂を上るようなものだったのだろうか。

●●●

マリアは、パンテラを素直に愛し続けた。初めて、人を愛することができた。
彼も寂しい人だった。彼も、自分のように自由になれず、解き放たれた後も体中に残った鎖の傷に苦しみ続けるような人だった。
漸く、会うべき人と出会えたのかもしれない。マリアはそう考えていた。パンテラの無口は相変わらずだが、それでも自分相手には多少表情を柔らかくしてくれている気が最近、マリアにはしていた。

ある日の事だった。マリアが市場に行って、買い物をしていた時の事。市場では、既に黒い顔のローマ軍人の情夫、と顔を覚えられていたからパンテラ同様口もきいてもらえなかったが、もうそれには卑屈な従属ではなく、自信と言ってもいいような感情を持って傷つかないでいられるようになったあたりの事だった。
買い物をあらかた終えて、家に帰ってパンテラの帰りを待つのみ、となっていたマリアを、呼びとめる人物がいた。
「君は……」
マリアは驚いて、体が固まった。その人物は、ヨセフだった。
「やはり、君なんだね」ヨセフは焦ったように言っていた。そういえば、ベツレヘムはヨセフの家にゆかりがあったと聞いたことがある。彼がここに来ても、不思議ではなかった。
「何故行ってしまったんだい。マリアも、君がいなくて悲しんでいる……」
彼は、何も変わらなかった。それは包み隠さず、真実であるはずだった。彼は自分を連れ戻そうと望んでいたのだ。そしてそれは、彼の妻と、そして自分をただ純粋に心配しての事だった。
「さぁ、帰ろう」
添うヨセフがマリアの黒い手を掴んだと気の事だった。踵を返したヨセフはぎょっとした。目の前で、山猫のような目つきのローマ兵が自分を睨んでいたからだ。
パンテラは、激怒していた。
「だれだ、貴様は」彼は凄みをつけて、ヨセフにそう迫った。
「彼女は」ヨセフも、流石にできる限り落ち着き払って紳士的に応対した。さすがにこの状況で、ローマ兵だから口を利かないというわけにもいくまい、
「私の妻の侍女です。多少の勘違いから諍いを起こしてしまい、離れてしまって、妻も私も心配していたのです……」
今度は、マリアの肝まで冷えた。パンテラは腰に刺していた真剣を抜き、ヨセフに切っ先を向けた。
「ローマ軍人の女に触るな!ユダヤ人ごときが!」
無口な彼では考えられないほどの大声だった。ヨセフもさすがに目を白黒させていたが。パンテラはなりふり構ってはいられない様子だった。
剣が振り下ろされた。ヨセフの顔に傷がつき、髭がパラリと散った。何も、心配はないのだ。パンテラはローマ兵。被支配民族であるユダヤの庶民を一人切り捨てた所で、何の罪にも問われない。
パンテラは混乱するヨセフに向かって、再度剣を振り上げた。
「パンテラ、パンテラ!」
なりふり構っていられなくなったのは、マリアも同様だった。彼女はヨセフの手を振り払い、パンテラに縋り付いた。
「帰ろう、帰ろうよ……!私、大丈夫だから、ガリラヤにはいかないから……」
ヨセフの元を振り向く気にはなれなかった。彼女はパンテラをなだめ、家まで歩みを進めた。市場の人々の視線も、構いはしなかった。
「やめてよ……」
マリアは、怯えながら言った。
「あんなこと言うのは、やめて……」
ローマ軍人とは、本当になんと不思議なのだろう。
ユダヤ人よりも汚らわしく、法律上ユダヤ人より上である。ユダヤ人は彼らを敬うのはもってのほかだが、彼らに逆らって殺されても文句は言えない。
この世は、なんと矛盾だらけだ。なんと、都合のいい世の中だ。
「そうだな。すまない」
パンテラは無気力にそう謝った。
「カイザリアに行こう。ね」マリアはパンテラにすがりながら、小声で言った。「早く海を見よう。私も、ずっと楽しみにしてるの」
「……隊長の家に寄る。休みを取ってこなければな」パンテラはそう、マリアの言うことを肯定した。

マリアとパンテラは、その後すぐカイザリアへの旅に出た。
ヘロデ王が築いた港町、カイザリア。マリアが話に聞いて想像していた以上に、にぎわっていた大都市だった。
「きれいね」マリアは海を見て、そうつぶやいた。自分がイスラエルに来る途中、渡ってきた海と同じ色をしていた。同じように、深く美しい、青い色だった。
「ああ。綺麗だ。とても……シドンの海と、同じ色だ」
イスラエル人も、シドン人も、黒人も、ローマ人も、海と空の色は、同じものを見るのだ。パンテラはそんな、詩人じみたことを柄でもなく呟いた。
カイザリアの都は美しかった。まるきりローマ的な都市で、パンテラはローマで暮らしていた時の事を思い出しているようだった。
「俺はたぶん、ローマに足を踏み入れた時点で自由になっていた」パンテラはそう、マリアに語った。「だが。不思議なものだな。このローマのまがい物の都市を見て、今初めてローマの街並みを美しいと思う」
「ローマは素晴らしいところ?」
「ああ。今の俺には、おそらくな」パンテラは少しだけ、笑った。
「お前もつれて行きたい」
「私でいいなら、是非」
そう言いあい、パンテラとマリアは笑った。
「いや、しかし本当にローマ的な都市だ。隊長も、ヘロデ王のこう言った趣味は称賛に値すると言っていた」
「ヘロデ王」イスラエルを治めている王の名前を、マリアは反芻した。「ローマにも評判がいいの?」
「あまりそうともいえんがな。俺も個人的には好きではない。ユダヤ人には珍しく、占いを信じて、かつぐ性分でもあるしな。俺はユダヤ人は好きじゃないが占いも嫌いだ」
そんなことを離して街道を歩いているうちに、パンテラはふと目を輝かせた。
「円形劇場だ!」
カイザリアの都市には、円形劇場がある。話には聞いていたが、マリアも実物は初めて見た。
「ローマにあるやつとよく似ている……」
パンテラはいつになく楽しそうだった。山猫のような目は今や少年のように輝いているようにすら見える。中では何やら勇壮な音が鳴っていた。芝居か、音楽か、あるいは剣闘か?
「マリア、行こう!」
パンテラはマリアの手を掴んで、カイザリアの往来を急いで走り出した。こんなに元気な彼を見るのは、初めてだった。海風が、彼に生命力を吹き込んだのかもしれないとも思った。
「待って」マリアは笑った。「あんまり、走るのもよくない気がするの」
マリアにはわかっていた。月経が止まった。ただし、令嬢と同じ体になったわけではない。
自分の胎内に、子供ができたのだ。

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ブラック・マドンナ 7話

朝が来た時、マリアは初めて男の顔を見た。顔すらも飢えた山猫のようで、栄養状態がいいのか肉付き自体は悪くなくても、顔色はまるで死体のように生気のない男だった。
「お前の名前は何だ」
男も、朝になってマリアの黒い肌を見た。「マリアと申します。親の名前は存じません」彼女は答える。
「そうか」男は静かに言葉を受け取り、そして同じように静かに返した。「俺は、パンテラだ」
「そうでしたか」
パンテラと名乗ったその男は、マリアの刺青の跡が残る腕をじっと見ていた。
「奴隷か」彼は言った。「逃げ出してきたのか、追い出されたのか、どちらだ?」
「追い出されました」マリアはよどみなく答えた。
「そうか。それは都合がいいな。見つかるまいと逃げずに済む」
彼らは、宿屋にいた。ローマ兵とは言えど、駐屯先は別であることをマリアには推し量れた。そのことについては言及せず、マリアは黙っていた。
「何故追い出された?」パンテラは問いかけた。「問題を起こしそうな面には見えん」
「娼婦に成り下がりましたので」マリアは答えた。パンテラは軽く笑った。
「なるほど……」
彼は深く追求しなかった。
「娼婦が嫌いなローマ兵はいない。この国で俺達と話をすることを拒まない女など、娼婦くらいだからな」
確かにそうだ。奴隷女の自分ですら、ローマ兵には口を利かなかった。
「行くあては?」
「ありません」
「俺の駐屯地はベツレヘムだ」パンテラは枯れた声で言った。「一緒に来ないか」
二つ返事で、マリアは了承した。その日は昼過ぎごろまで寝た後、マリアはパンテラの馬の後ろに乗せられて、令嬢の嫁入りの際に下って来た道を南へと引き返した。ガリラヤに、自分のような人間を誰よりも愛してくれた令嬢夫婦を残して。

エルサレムからさらに進み、着いたベツレヘムは、ひなびた雰囲気のある村だった。パンテラの家も、物が少なく殺風景だった。ローマ兵の華やかな鎧には不釣り合いだったが、死体のような生気のない彼の雰囲気には非常に似合っていた。
パンテラは、周囲に人をろくにおいていなかった。台所はほこりをかぶっていた。マリアはそれを素手でぬぐい、「召し上がるものに、お好みなどはございますか?」と聞いた。
「とくには」
パンテラの受け答えは、何においても非常に淡白だった。だが、マリアにとっては優しくされるよりも居心地がいい。暴力は振るわれず、しかしよそよそしいくらいが、自分に一番ありがたいのだとマリアは知った。
台所には食材など干した魚のかけらが一つあるだけだった。
「市場に行ってこようと思うのですが」
「行って来い」
彼はそう言って、銀貨の入った財布を無造作にじゃらりと投げた。警戒心の強そうな山猫のような男が、先日知り合ったばかりの身分も分からない女にそれなりの金を渡すとは、と、マリアは少々彼の事を興味深く思った。しかし一方で、自分が彼の立場になったとしても、自分は彼に無造作に金を渡すのではないかと思うところもあった。
さびれたベツレヘムの市で買い物を済ませ、マリアは煮込み料理を作った。その頃には日も沈みかけ、新しい日が訪れようとしていた。
「買い物は、お前に任せようと思う」鍋をかき混ぜるマリアの後姿に、パンテラは言った。
「俺が行っても、誰も口をきかんからな」
それはそうだろう、と彼女は思った。
支配民族でありながら、見下される異教徒。このイスラエルにおいてローマ人とは、そう言う存在だ。矛盾した存在なのだ。
「分かりました。お任せください」マリアは湯気を顔で受けながら、鍋を見つめたままで言った。
「どこの生まれだ、お前は」パンテラはその日になってようやく、マリアの出身地について問いかけた。
「分かりません。でも、ずっと南の国だったような気がします」
「そうか。そうだろうな。お前の肌は、エジプトよりっもっと奥深い土地の人間のものだ」
パンテラは淡々と言い、暗くなっていく中ランプの光でマリアを見ていた。
「俺はシドンの出身だ」
「ローマ人ではありませんでしたの」
「市民権は買ったのだ」
そう言ったあたりで、煮込み料理が出来上がった。彼女は少し端の欠けた皿にそれをよそい、パンと一緒にパンテラに差し出した。
「うまい」一口飲んで、彼は相変わらずぶっきらぼうにそう言った。
「ありがとうございます」
マリアも、素直に言葉を返した。彼が食べ終わり、マリアが食器を片づけた時、彼はふいに後ろからマリアを抱きしめてきた。甘い言葉は何も言わず、ただ、マリアが受けてきたような乱暴な暴力とも違った縋りかたで。
マリアも、何も言わなかった。何も言わないまま彼の寝台に入った。彼に抱かれながら、マリアは、自分が処女を失ったのは、あの稲妻の晩だったのではないか、と考えた。この目の前の男の山猫の目に、自分の処女は貫かれたのではないかと思っていた。

マリアはその後、パンテラの家にい着いた。自分とパンテラ以外の人間が存在しない彼の家で、彼女は暮らし続けた。

●●●

自分もいずれ、回教徒になるのだろうか。それとも立ったまま死ぬことになるのだろうか。
収容所にいるうち、ミュシェコは、余り生きるという実感を持てないようになっていた。死に抗う気も湧かないし、どちらかと言えば穏やかな気持ちであった。ただミュシェコが少し怖く思っていたことは、死後天の国に迎え入れられるのだ、復活するのだ、という考えが、少しずつ自分の中から消えていくことだった。それは淡雪を口に含めば穏やかに溶けてなくなるように、とても儚く、さりげない消え方だった。その原因は、わからなかった。
自分の神経が穏やかに麻痺していく様子を感じていた。自分はそもそも、何故ここにいたのだろう。自分は反戦運動などをするほど大した人間だっただろうか?自分の過去に対する記憶すら、朦朧となって来ていた。
記憶も曖昧になるような自分が、何故そんなことなどしたのだろう。彼は自問自答を繰り返していた。
そのような中だ。アウシュヴィッツで脱走者が出たのは。

脱走者が出たならば、見せしめのため数人が処刑される。それがしきたりだった。他のものが自分に白羽の矢が立つのではないかと怖がる中、ミュシェコはあまり怖がってもいなかった。確率的に高いとは言えないのだし、あたっても、それはそれと思えるのではないかと感じていた。
ミュシェコは最終的に当たることなく、嘆き悲しむ人々を冷めた目で見ていた。こんなことにほだされる看守なら、早晩この仕事を辞めているのだろうからこんな場に居るはずがないのに。そう思いながら見ていた。
「死にたくない!」一人の男が、自分以外の九人も望んであろう、当たり前の事実を述べた。「私には、妻も子もいるんだ!」
ミュシェコは何も言わなかった。どうせ言う権利など囚人にはないのだし、言う必要もないことだと思っていた。あの男も気の毒だが、わめきながら餓死室に連れて行かれるだけ。そう感じていた。

「お願いがあります。私を、代わりに連れて行って下さい」
その瞬間、名も知らない囚人が、手を挙げてそう答えた。
しょぼくれた初老の男だった。だが彼の声音はとても落ち着いていて、誇り高そうですらあった。それでいて高慢な誇り高さではない。それは誰とも比べず、地上の栄光に結び付くこともない、非常に純粋な誇りであった。
「私はカトリックの司祭です」こんな声が出るとも思っていなかったのであろう、戸惑う看守に向かって、男は続けた。
「したがって妻も子も、有りませんので」
ミュシェコは、じっとその老人を見ていた。その際に、なんだか妙な気持ちが彼の中に湧いてきた。

殺さないでくれと言うならともかく、殺してくれと言う申し出を断る理由も特になかったのだろう。男の申し出は許可された。代わりに生き残った彼の嘆きようと喜びようは筆舌に尽くし方がたかったが、ミュシェコはそれから数日間、何物をも身につかなかった。あの男に関するうわさが聞こえてくるたびに、彼の手は、思考は、停止した。
その男の噂は収容所中で話題になっていたのだ。聞けば、彼は飢えと乾きで発狂して死ぬ餓死室に居てすら、毅然とし、自分の他の九人に神の教えを説いているらしい。
「あの人は聖人だ」と、キリスト教徒の受刑者は看守の目を逃れながらも口々に呟いていた。
「あの人こそ、信仰に生きる人だ」
信仰に生きる人間。そう言えば、自分も一人知っていた。
彼がここに来たらどうなのだろう?身代わりになっていただろうか。
「……そんなはずはない」ミュシェコは呟いた。だって、彼はここに来るはずがないのだ。ここは、汚れの集まる場所。あいつは、汚れない人間だ。そうに違いないのだ。

二週間後、彼は天に召されたと聞いた。地獄の収容所の中に舞い降りた、天使のような男の噂は、囚人たちの中でもやはりひそかに話題になった。
「殉教だ」敬虔なカトリックの囚人たちは、そう嘆いていた。
「あの人は殉教したのだ」
殉教、という言葉を聞き、ミュシェコは不潔な収容所の壁の端でただ一人、思案に暮れていた。
殉教とは、何か。
自分もカトリックだ、散々に学んだ。信仰に生き、殉教した人の話を。殉教は、何よりもすばらしい。そう思っていた。
そして、彼は初めて、聖人が殉教する所を見た。その空間に居合わせた。それを受けて、昔の自分なら止めどもない信仰心が湧いてくると思えただろう。だが今彼の心に沸き立つのは、名状し難い猜疑心だった。
人は、何故殉教するのだろう?
彼は、ポーランド人だった。彼は、カトリックだった。なら、聖母マリアを愛していただろうか。ヤスナ・グラの黒い聖母を、愛していただろうか。
死ぬときには何を思い浮かべたのだろうか。聖母か、キリストか?

その時、不意にミュシェコの脳内には、意地悪い考えが浮かんできたのだ。
神学校の教師たちはさんざんに言っていた。神のしもべとならんことを、と。そうだ。聖職者は神の下僕、神の奴隷。
奴隷と言うものになった事はない。奴隷は人道に反すると言われているが、奴隷は主人のためなら、笑って死ねるのだろうか?
恐らく、そうかもしれない。主人を憎んで死ねる奴隷は、自分が思うよりずっと、少なかったかもしれない。
彼は思った。
もっと、殉教する者が見たい。
主人の鎖なくしては生きる気力も湧かない奴隷から、その鎖を引っぺがしてみたい。自分の首を締め上げていたその鎖に縋り付いて勝手に死んでいく様が、鎖なくしては生きていけないと嘆きながらも無様に生きていくさまが、見たいと感じた。
考えれば考えるほど、彼は一人興奮してきた。彼の頭に浮かんだのは、アウシュヴィッツの聖人以上に頭に浮かんだのは、旧友アンジェイだった。
あの何物にも染まらぬ信仰の人は、信仰と言う鎖を引きはがされた時、自分を下僕とする黒い女王と引き離された時、どんな顔をするのだろう。
自分は、やはりアンジェイを憎み続けていたのかもしれない。自分には及ばぬ信仰を持つ彼を、憎み続けていたのかも。だから、彼と別人でありたいと願ったのかもしれない。
そう思うことは何度かあった。だがそのたび結論が出なかったのは、なぜ自分がアンジェイを庇い続け、あの狒々のような教師に体を差し出す真似までしたのかということだ。やはり自分は、あの綺麗なアンジェイを愛していたのではないかと。
自分がアンジェイを憎んでいるのか好いているのか、曖昧だった答えがようやく出た。自分はアンジェイを好いてなどいなかった。彼のそばに居たかったことに、彼を守りたかったことに、ようやく納得のいく答えが出た。アンジェイを、綺麗なままとっておきたかった。汚れの無い、ポーランドの女王への信仰にのみ生きる彼を守っていきたかった。自分が、それを汚すために。
自分はこのような人間だったのだ。ミュシェコは悟り、騒がしい囚人房の中で小さく笑った。自分が神の道に入るなど言いだしたのも、神学校に入ったのも、このためだったのかもしれない。

ポーランドが共産化したことは、彼にとって願ってもない幸福だった。これで、外国に行かずとも祖国に居ながらにして大手を振って殉教者を見る立場に立てる。ナチス・ドイツに捕らわれていたという悲劇的な過去も、戦後彼が成功するのに一役買った。
気が付くと、髪が黒くなっていた。自分の髪の変化などに十数年間気を配ったことがなかったと、ミュシェコはようやく気が付いた。

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ブラック・マドンナ 6話

マリアが最初に男に抱かれたのは、いつだったろうか。全く覚えていないが、ヨセフが最初の人でなかった事だけは確かだ。
血に染まらなかったベッドを見て、ヨセフは何も言わなかった。彼女の過去を察したのか、あるいは別段処女でも血が出ないこともあることを知ってたのだろうか。何もわからないままだった。
朝起きた時、令嬢マリアは全くいつも通りだった。マリアも平常心のままで、ヨセフだけが物思いに沈んでいた。
好きだった。今でも、変わらない。しかしヨセフに抱かれることは、彼女の中の何も刺激することはなかった。自分が果たしたのは、奴隷の本分なのだ。
マリアは、この自分の中に眠る奴隷根性について考えることが多くなった。
マリアとヨセフは間違いなく、自分があってきた中では一番奴隷に対して優しい人物だった。彼女達から与えられる言葉の数々に心温まったたことは、今でも一つ一つ詳細に思い出すことができる。
それでも、自分はなぜ、いまだにこのような「奴隷の本分」というさもしい考えを持ってしまうのだろう。なぜ、彼女たちの優しさを十分に受け取ることもできないのだろう。
令嬢マリアが、マリアに奴隷らしくヘコヘコすることを望んでいないことは百も承知だ。寧ろ彼女は、自分に友だちを求めている。誰よりも、そばにいられる存在を。それにあたってマリアの奴隷根性は、かえって女主人の望みを阻害するものになり得るのだ。
どうにかなるだろうか。どうにか……マリアはそう考えつつ、そのどうにかを具体的に考える暇はなかった。ヨセフの連れ子は大分多く、ヨセフ邸に来ても彼女は忙しかったのだ。
やっと洗濯物がひと段落した所で、読書をしていた令嬢マリアに呼び掛けられた。
「はい、なんでしょう、お嬢様?」
「一緒に食べましょ!」
彼女は干しブドウ入りのパン菓子を差し出して、行った。マリアの肌にそっくりの干しブドウ。
「いただきます」マリアは笑って相伴にあずかった。ニコニコ笑う令嬢は、昨夜自分の夫と目の前の女奴隷がしていたことそのものも、その意図も知るまい。
ヨアキムはいつか話すと言っていた。それはいつになるのだろう。直接か、使者を通してか、それとも手紙か。あと何年かは来ないだろうということがマリアにはわかっていた。ヨアキムは怖いのだ。娘を絶望させるのが。娘が自ら悟ってくれるのを、待ち望んでいるのだ。
このまま令嬢が知らないままマリアが子供を産んでしまえば、その方が令嬢を傷つけるだろうに。だが、マリアはその事を言わなかった。口を、はさめなかったのだ。ヨアキムがいくら優しくても、いくらそのような気がなくても、マリアにとってヨアキムは主人であり、自分が提案すべきではない相手であった。
卑屈であるということも、それを言ってこそ優れた奴隷と言う言い分も、わかっていた。マリアは全てわかっていて、何も言いだせなかった。
「どうしたの?おいしくないの?」令嬢は物思いにふけっているらしいマリアを心配してくれた。「いいえ。大変おいしくいただいております」と、マリアは答えた。
マリアが令嬢に聞きたいことは、ずっと、ただ一つある。おそらく令嬢にとっては愚問に等しい問い。返ってくる答えも、分かっていた。令嬢はマリアが「私の事を、好いてくださいますか」と言えば「当たり前じゃない」と答えるに決まっている。
けれど、それを口にだせない。自分はこの優しい令嬢と共に居て、なぜか、言いだせない。
「お嬢様も、少し浮かなさそうなお顔に思えますが」
「ばれた?」令嬢は笑った。
「だって、少し田舎なんだもの。ここ。エルサレムが懐かしいわ……」
マリアは笑って言った。「旦那様に、セフォリスにでも連れだしていただいたらどうでしょう」
いいわね、と令嬢は言った。
「あなたも一緒?」
「お嬢様が、望まれるのであれば」マリアは返した。

ヨセフと寝るようになって何晩過ぎただろう。
この人は、本当にいい人だ。何回か寝て、それははっきりわかる。
自分を道具のように扱うまいと、精いっぱいの努力をしてくれる。目の前の黒い少女を一人の人間、一人の女として扱わなくてはならないという義務感を感じている。めったにいる主人ではない。
返って、目の前の男を一人の人間扱いしていないのは自分の方だ、ということを、マリアは自覚していた。ヨセフに対する恋の気持ちは冷めたというほどのものでもない。しかし令嬢の代役として彼と及ぶ情事に、マリアはただ一度も、悦びを見出さなかった。彼女はひたすら、淡々としていた。悦ぶことを、体が拒否していた。

「つらいかい?ごめんね」ある晩、ヨセフは、そう言ってきた。きっと、何も悦びをしない自分の姿が、男の無理矢理抱かれ心を閉ざす女のそれに見えたのだろう。
「いいえ」彼女は言った。
「旦那様は、私によくしてくださいます。本当に」
「君は、魅力的だよ」ヨセフは、精いっぱい自分に優しくしてくれるのだ、とマリアは感じていた。だが、何故だろうか。初めて、この黒い肌を蔑まれていないと知った時感じた嬉しさが、もう来ることはない。返って今となっては、見下してほしい自分すらいることをマリアは知っていた。
悪いのは、自分だ。
自分のような奴隷にも必死で真摯に接してくれる、もう出会えるかどうかも分からない主人たちの心を汲むこともできない自分だ。
「マリアの事は、愛している。けれど、君も、可愛らしい人だと思っているよ」
妻を持つ夫として言ってはいけない言葉でも、この人は今自分の寝台に来た少女のために、言おうと心掛けてくれる。自分の良心よりも、肌の黒い女の悦びの方を優先しようとしてくれる。そのような人だ。彼はただ、優しい。
「ありがとうございます」
マリアはただ、礼だけを言った。そして百合の花のベールにくるまったまま、ヨセフの腕の中に入った。

足音が聞こえた。暗い中、足音が。
ヨセフには聞こえていないようだった。マリアが、特別耳がいいのだ。足音は軽く、小さく、百合の花弁が風に舞っているかのようだったから。
彼女は以上を感じたようだった。寝室に、入ってくる影があった。
令嬢マリアは、その場で行われていることを、わかりかねているようだった。

令嬢は寝ていたはずだ。しかし寝ていた人間が理由もなく起きない保証など、どこにもない。
不測の事態にあせるヨセフに対して、マリアは冷静だった。冷静に、神妙にしていた。このまま首を締められようとも、自分の罪をすべて受け入れ死にゆく罪人のように、冷静になれた。
令嬢マリアは、まだ固まっていた。ヨセフの話など、聞こえてもいないようだった。
彼女の目、汚れを知らぬ彼女の目が見つめるには、目の前の光景も、そしてその裏にある前提も、何もかもが、罪深すぎた。
皮肉だ。本当に皮肉なものだ。最も穢れない少女が、最も罪深い存在であり、最もこの世で見たくないものを見せられなくてはならなかったのだから。
聖書で知るユダヤの慣習など、令嬢マリアには関係ない。彼女にとってはただ清いか、清くないかなのだ。初めて清くない世界を見せつけられた彼女は、怒りよりも、悲しみよりも、目の前のものをどう受け止めていいか混乱していた。
マリアはただ、百合の花のベールをきれいに畳んでいた。

令嬢マリアは泣き叫んだ。
何も知らぬ、純粋な幼児が、理解のできないことが起こった時に起こす感情の爆発にすぎぬ号泣。そのような泣き方だった。
「大っ嫌い!」令嬢マリアは、マリアを責めた。
「大っ嫌い!でてってよ、この、娼婦!」
娼婦と言う言葉一つが浮いて聞こえた。語句だけを又聞きしたかのような不自然さ。きっとこの少女は、娼婦の仕事のなんたるかもわかってはいるまい。
「落ち着きなさい!」ヨセフがなだめた。「これは姦淫ではない……」
マリアがその時、一番自分を嫌ったのは、その事態に安心する自分がいたことだった。
ああ、これでいい。これでいいのだ。これでまた、有るべき姿に戻れる。蔑まれる存在に戻れる。自分は生まれた時から、そうだった。
「お嬢様」
ベールを畳み寝台の上に置き、貧しい奴隷の服一枚を着て、彼女は床に頭をこすりつけ、お辞儀した。
「申し訳ございません。即刻、出てゆきます」
令嬢マリアは泣き叫んでいた。追い打ちをかけることも、取りすがることも、何もできない様子であった。何も知らず、何も穢れず、生まれながらに罪を与えられず、それゆえ生まれながらに呪われていた、この少女は。
イヴは純粋無垢の少女であった。それが蛇に誘惑され、汚れ、今の女と言うものが生まれた。
妊娠とは、生みの苦しみとは、汚れたが故の象徴だった。
ならば、子供を産めない女は、女になれない女は、この世で最も清いはずではないのか。エデンの園に住まっていた、純粋無垢のイヴの現身そのものではないのだろうか。人はなぜ、それなのに、不妊の女を責めるのだろう。
勝手なものだ。人間など、勝手なものだ。
「マリア、落ち着きなさい!」ヨセフは叫んでいた。「いつか言わなくちゃならなかったことだ。君は……」
「ご主人様」マリアは最後に、ようやく口応えすることができた。
「おっしゃらないで下さい。お嬢様ほど清いお方が、この世のどこにおられるでしょうか」
マリアは、そのまま出て行った。暗い夜だった。

暗いガリラヤの道を、ただただ歩きぬけた。これでいい、これでいいのだ。マリアは自分を大切にしてくれる、もう二度と会えないかもしれない程大切にしてくれる主人のもとを離れて、ようやく安心できた。
何とさもしい人間だ、と、また一つ自分に対して感じた。
このさもしさこそ、ハムの子孫の象徴かもしれない。そう思いながら。
はっきりとマリアにはわかった。大切にされているよりも、奴隷でいたほうがまだましだ。自分は、そんな人間なのだ。原罪もなき令嬢マリアと同じ名前を関することも恥ずかしいほど、自分は、罪に穢れている。月経があり、未婚であるのに処女ではない、本当に、ただの汚れた人間だ。
雷が鳴っていた。人里に付いたらしいがはっきりしない。マリアはただ、歩き続けた。空しく、幸せな気持ちで歩き続けた。
ふと、人に一人ぶつかった。顔を上げると、それは背の高いローマ兵だった。
稲妻がもう一本はしった。稲妻の光の中、彼は睨むような目つきでマリアを見下ろしていた。だが、睨んではいないのだ。睨むような目つき、それは彼にとっての平常なのだと、マリアは一瞬映った彼の目つき、血に飢えた山猫のような激しい目つきを見て、そう感じた。
「兵隊様」マリアは言った。「私を買ってください」
「お前は娼婦か」
鋭く、尖った声だった。
「たった今、娼婦になりました」
再び暗くなった道で、ローマ兵はマリアの固い手を握った。「ついてこい」彼はただ、そうとだけ言った。

●●●

「ここでは、ユダヤ教徒でもキリスト教徒でも回教徒になるんだよ」
ミュシェコは収容所に初めてついたとき、そう言われた。死ぬ寸前の弱り切った人々。何教徒かもわからない、ぼろ雑巾のように変わり果てた人々を、彼は見た。
彼らは皆一様に立つこともままならずうずくまり、あたかもメッカに向かって祈りをささげる回教徒のようであった。
アウシュヴィッツには、回教徒がいた。ムハンマドを崇めるか如何に依らず、全ての人間が、回教徒になりえた。


聖母の巡業は、まずはポーランドの中心地、ワルシャワ司教管区から。
黒い聖母を前にして、ワルシャワ郊外の人々は、大ノヴェナの幕開けのミサと同様、そのイコンに見入っていた。
だがアンジェイは司教が説教をしている間にも、少々上の空だった。ここは首都ワルシャワ。彼が当局に勤めているのなら、彼もこの都市に居るのだろうか。自分達を見るだろうか?自分たちを、非難の目で見るだろうか?成金女に屈従する男娼のように、自分たちを聖母に屈従しているとあざけっているのだろうか?
愛する黒い聖母の傍らにありつつも、そのような考えを止めることができなかった。ミュシェコの事を考えないことは、彼にとっては不可能だった。
その時、彼にふと不思議な感覚がまとわりついた。なぜだろうか。彼はあ、聖母に微笑まれた気がしたのだ。悲痛な顔をした黒い聖母に、優しく微笑まれた気がした。聖母への崇敬も、自分は忘れかけていたというのに。
司教が話を続けている。修道士たちはそれを聞きつつも、いつ警察や政府が動くかと内心ハラハラしている。アンジェイはその間、ずっと苦しんでいた。
ミュシェコは自分にとっては、信仰者として誰よりも尊敬の置ける男だった。臆病な自分にはない勇気を、いつも持ち続けてた。
自分は、いつも臆病だ。自分は、罪深く生きてきた。自分はなぜ神を信じるのだろうか?なぜ、黒い聖母にすがるのだろうか?
主なるイエスはこう言われた。「医者を必要とする者は、健康な人ではなく、病人である」。自分は、病人だ。病人として、病人に弱さが故に、信仰がなくては自分は生きてもいけないのだろうか。信仰のない人生など、考えられなかった。浮世の享楽など何もいらない。勝利も恋も成功も、いらない。それらのものに依ることが、自分にとっては、怖かったのだというのだろうか。
浮世に生きているものを、今黒い聖母の目の前で祈りを捧げている人々を、誰でも尊敬できる気分だった。彼らは、自分では生きられぬ道を選んで生きている。

忘れたくて、思い出したくなくて、それでも、時々思い出してしまう。
閉じかけた傷口から無理にかさぶたを剥がすような激痛にも似た衝撃が、心に覆いかぶさってくる。
美味しいパンを焼く、パン屋の夫人がいた。恰幅がよく、明るい笑顔の持ち主で、絵にかいたような、理想的な幸せな中年女性だった。
自分がのこのこやって来た時、店の前にはこんがり焼いたパンがいつもの通り並べられていた。その中で彼女は、あまりに唐突に死んでいた。ポーランド人の誇り、夫人の誇り、女性の誇り、人間の誇りをすべて奪い取られて、死んでいた。そしてそれは罪でも罰でもなく、ただ当たり前の行為が行われた跡であるかのように、その場は一切静かだった。外の往来を行き来する人々はそれに気づいてもいなかった。自分は、何も言いだせなかった。ミュシェコはすでに、学校を離れた後だった。アンジェイはただただ、立ちすくむことしかできなかった。
礼拝堂の中で、必死に彼女の冥福を祈った。そうすることでしか心を鎮められなかった。戦いもできず、怒ることもできず、アンジェイはただただ、臆病なままだった。
思い出した。その時、つぶった両の眼の奥に、黒い聖母を見た気がした。そしてその聖母は、いつものヤスナ・グラの聖母とは違っていた。彼女は嘆きながらも、その口元は確かに微笑んでいたような気がする。

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ブラック・マドンナ 5話

令嬢マリアが、神殿を出る日が来た。
令嬢はそのことを強いられた時、いたく驚いた。無理もない。彼女にとっては自宅よりもなじんだ場所だ。
だが、令嬢マリアももう16歳だ。神殿としても16になるまで少女を預かったことはない。血によって聖所を汚す前に、出て行かねばならないのだから。
もう結婚しても何らおかしくない年齢だから、時が来れば結婚すればいい。神殿に居なくても十分に生きて行ける。そのような話に、令嬢は一応納得したようだった。
祭司たちも追い出したくて追い出すわけではない。皆一様に、令嬢との別れを惜しんだ。令嬢は明るく、礼儀正しく、彼女が誰をも好いていたように誰にも好かれていた。実の所、マリアにはその好意が欲望と混ざっている祭司も何人かいたことを見抜いていた。それでも彼らには理性があったから、どんどん大人の女性の体になっていく美しい令嬢を、彼女がそれに気づいていないのをいいことに欲の目で見るにとどまっていたのだろう。ともかくもそのことを考慮に入れるなら、確かにそろそろ神殿を出てヨアキムの家にこもり、ヨセフと結婚できる体になるのを待つことは良い案のように思えた。

マリアは、ヨアキムの家で働き始めた。令嬢は神殿で命じられていた少しの仕事すら今はほとんどしなくてもいいことになり、日がな一日遊んでいればいい身だ。
マリアにとっては、ヨアキム邸も居心地が悪くはなかった。ヨアキムの妻のアンナもやさしく上品な老婦人だった。
令嬢マリアも寂しそうだったのはごく最初の時だけで、今では生まれてから初めて味わう両親との生活を心から満喫しているかのようだった。
しかし、やはり彼女の顔が一番明るくなるのは、ヨセフが訪れる時だった。
ヨセフが来るたび、彼女は「ヨセフ様!」と嬉しそうに彼の所にやってきた。ヨセフはそんな彼女を穏やかにいなしつつ、婚約者、あくまでまだ夫にはなり得ぬ存在に相応しい節度を持っているように見えた。

その日は、令嬢マリアの十七歳の誕生日だった。
ヨアキムの親戚たち……当然ヨセフの連れ子たちも含む大勢がヨアキム邸に詰めかけ、マリアも大忙しだった。令嬢マリアは終始楽しそうで、大満足で主役をしていた。
少しマリアの手が空いたとき、令嬢はふと手を伸ばして「ねえ」と言ってきた。
「はい、お嬢様。何でしょう?」
「あれを着てきてよ!」
あれ、というのが何を指しているかは明白だった。
マリアは、令嬢からあの百合模様のベールを貰った後、大事にしまっておいた。さすがに普段着にできるようなものではない。
「お祝いの席じゃない、貴方もおめかししてよ!」
マリアは、少しためらった。だが令嬢の無邪気な目を裏切る気は全くなく、「はい」と了承した。令嬢も、アンナも、今日はあの百合のベールにも劣らない晴れ着で着飾っているのだ。主人の顔をつぶすことにはなるまい。

ただの奴隷の少女ごときが、見るも鮮やかな百合の模様のベールをまとって現れた時、やはり宴会をしていたヨアキムの親戚たちはいささか戸惑ったようだった。
令嬢マリア一人が明るい声で「やっぱり、素敵だわ!」と言った。
「あのベールは?」一人の婦人が令嬢に質問した。令嬢はためらわず「私がプレゼントとしたんです!」と答えた。
「まあ、そうだったの」
来客もその答えに納得したようだった。
「この子は優しいからねえ、本当に、昔から優しい……」
ベールをまとったマリアを見て来客たちは無難に、令嬢マリアの、黒人の奴隷ごときにこのような晴着を惜しげもなく差し出す、その純粋さと優しさを手放しでほめた。令嬢マリアも、嬉しそうだった。マリアも、自分の仕えている主人が褒められ、本人も嬉しがっているのなら非常に喜ばしい事であった。
「それだけではないでしょう」
その場に一つ、低いが優しい声が響いた。
「やはり、良く似合っているね。綺麗だよ」
ヨセフだった。ヨセフは、令嬢マリアと同じく、他の親戚たちが無難な称賛をすることに追従せず、マリアを褒めてくれた。
「幸甚に存じます」
あの時と同じだ。マリアは、黒い顔が赤く、熱くなるのがわかった。彼女は高級な晴着を汚さないように慎重に皿を下げた。だが、その場にいるのが気まずいということもあった。
マリアも、子供ではない。はっきりと自覚している。自分は、あの男性に恋している。自分の主人の婚約者に。
だからどうしようという気概など、勿論なかった。むしろ彼女にしては、こんな感情は忘れるに越したことはなかった。だから表にも出さないし、別段令嬢に嫉妬もしていない。
恋など、したこともされたこともない。自分にはそれが似合いだとは心得ている。だから自分がおくびにも出さないことを心がけていれば、一切丸く収まることだった。

令嬢の十七歳の誕生日。完全にめでたいことだとみているのは、令嬢だけだった。十七歳だ。十七歳にもなって初潮が来ないなどと言うことがあるだろうか?令嬢以外のだれも、祝う言葉の奥底にそのような思いを抱えていたのだ。
誕生日の翌日、令嬢マリアはヨアキムに伴われて医者に行った。マリアはその際には家に残り、台所仕事に精を出していた。
ほどなくして、令嬢マリアとヨセフが結婚式を挙げた。通常の婚約期間をとっくに過ぎていたので、そろそろ世間体も悪くなったのだろう。
結婚式の日は、マリアもまた令嬢のたっての頼みであの晴着を纏った。結婚式は豪勢で、マリアは本当に楽しそうな顔をしていた。
しかし来客も帰ったころ、ヨセフと令嬢マリアは、別々に寝た。まだ子供も産めない体の妻と同衾するのは道理に反する、というのが言い分だった。
ガリラヤのヨセフの家で、初めて寝る寝室に向かう令嬢は、何も気にしていないようだった。だが、一人寝室に向かうヨセフを見た時、マリアには何か、嫌な予感がしていた。

令嬢とヨセフが結婚して一週間が立った日の事だった。ヨセフから、「大事な話がある」と、マリアは寝る前に呼び出された。令嬢マリアも、ヨセフの連れ子たちもすでに寝ていた。
静かな夜の闇の中居間に向かうと、ヨアキムもその場にいた。「座っていいよ」ヨセフは、今や自分の奴隷にもなったマリアに相変わらず優しく告げた。
「いつか言わなければと思っていたことだが……」
話を切り出したのは、ヨアキムだった。蝋燭の光の中で語られることの顛末を聞き、マリアはさほど驚きもしなかった。大方、予想できていたことだった。
令嬢は、生まれつき子宮に障害があった。子供の産める体ではなかった。
神殿勤めを辞めさせられる年になっても、結婚する年になっても初潮の来ない娘を医者に連れて行き、医者からこっそりと告げられたことが、それだったというのだ。
ヨアキムは話しながら、震えていた。聞けば、ヨアキムの家系は不妊の女に縁があるらしい。アンナもそうだった。アンナも、不妊の女だったのだ。実は、令嬢マリアはアンナの子供ではない、とヨアキムは震える声で告白した、マリアは終始、冷静な表情だった。
アンナが子供を埋めるはずのない年齢になるまで、ヨアキムとアンナは粘った。しかし、全ては無駄な時間だった。
ユダヤの始祖アブラハムもしたことだが、ユダヤ世界では妻が不妊なら女奴隷が子供を産むのが当たり前だった。ヨアキムも家を絶やさないために、と詰め寄られそうすることを幾度となく強いられたが、愛する妻が不憫でしょうがなく、アンナは不妊ではない、と言い張り彼女も自分も老いるまで粘り、結局全ては無駄だった。とうとうヨアキムは折れ、アンナに仕えていた女奴隷を抱いた。皮肉なほどに、その彼女はヨアキムの子供をすぐ孕んだ。その子供が、令嬢マリアだという話だ。それを聞き、マリアは表面上は痛ましく思ったものの、内心ではアンナが実の子ではないマリアをきちんと素直に可愛がっていることの方に驚いていた。
だから、彼らは令嬢マリアが不妊などとは信じたくなかったのだ。アンナとは違う。アンナとは血も繋がっていないのだから。そう言い聞かせて、彼女を育ててきた。不妊は汚れである、呪いである。ならば神殿に入れ、汚れたものには触れさせないで育てれば、呪われることもなかろうと言う望みを込めて。
だが、令嬢には初潮が来なかった。彼女は、生まれながらの不妊だった。生まれながらにして、血の汚れと切り離されているにもかかわらず、女として最も罪深い存在だった。

マリアは、その言葉を自分に聞かせて、自分が何を望まれているのか、勿論わかっていた。話があると呼び出された時から、わかっていた。
「驚きました」マリアはまず、そう発言した。「お嬢様を見ている限り、そのようなことを聞かされたようには見えませんでしたので……」
「……マリアには、知らせていない」ヨアキムはあいも変わらず震える声で言った。
知らせていない。それは納得のできる事だった。令嬢マリアを大切に、大切に育ててきた彼らに、それを直接告げる勇気など、すぐにはわかないのだろう。
「無論、いつかは伝える。いつかは……」ヨアキムは言った。そして、マリアの肩を叩く。
「そして、お前には……」
マリアは自分の方からは、何も話しかけなかった。分かっていて、わかりきったその言葉を聞いた。
自分は、このために買われたのかもしれない。そんなことを予想しながら。
「ご主人様が、このような女で身を汚すことを了承してくださるのであれば」
「ぼくは、構わない」
道具のように扱われると冷えもしなかった。恋した男に抱かれると熱くなりもしなかった。
マリアは糸をつむぐように、野菜の皮をむくように、奴隷としての仕事をこなす時と同じ心持ちだった。ただただ、彼女は平常心だった。
「よかったら、あのベールを着ておいで」ヨセフはそう言った。この男は、自分の事を処女だと思っているのだろうか。未婚の少女なのだからと。それとも、あの鮮やかなベールに、せめて妻を見る気でいるのだろうか。
百合の花のベールを引っ張り出し、それを身に纏って彼女はヨセフの寝台に上がった。その時彼女は、貰った時はむせ返るほど甘く焚かれていた香の香りが、今はほとんど消えてしまったことを知った。

●●●

初めて見た時は、百合の花を見たのかと思った。清水のみを吸って咲いた白百合の花かと。
それがアンジェイの肌の白さゆえのものではないと、ミュシェコはほどなくして気が付いた。神学校の寮で同室になった彼は、恐ろしいほど、神の事、信仰の事、そしてチェンストホヴァの黒い聖母の事しか頭になかった。
ミュシェコも神を熱心に信じてたし、お前のいく道はあそこにしかないと神学校に送りだされた。それだというのに、彼の信心のあまりの純度に、いささか驚いたものだ。
言葉では言い表しにくいのだが、彼の信心はその量が膨大と言うよりも、ただただ澄み切っていた。非常に純粋な信仰心のみを、ミュシェコは彼に感じてた。
最初のうち、それに嫉妬を感じることもあった。そして、神の信心に嫉妬するなど、まさに神を独占したいという傲慢のようにも感じられ、そんな自分が恥ずかしくなったものだ。

アンジェイは、聞く限りは中流の育ちだった。だから、ミュシェコには理解しがたかった。際立って貧しいわけでもないが、純粋培養とも行くはずのない彼が、全く穢れ無く見えることに、ミュシェコは何回も戸惑っていた。
彼は本当に、人間の親に育てられたのだろうか。それとも、彼を育てたのは、黒い聖母ただ一人なのだろうか。何回も、何回もそう考えていくうちに、ミュシェコの中から、いつの間にかアンジェイへの嫉妬は消えていた。後には、ただ単なる関心と、彼に関して感じる友情のみが残された。
それはアンジェイになじみ、彼をよく知ったからだろうか?恐らくそれもあるが、理由はもう一つあった。

ミュシェコが神学校に入ったのは、まさにそのような純粋さ、神聖さを求めていたからだ。そのような道を、ミュシェコは何よりも素晴らしい、と、少年の頃は考えていた。
神学校の教師たちは、彼のそんな希望を打ち砕いた。ある日、尊敬していた恩師を見つけ、その彼の視線の先にアンジェイを見つけた時、彼はそれを悟ったのだ。
それと同時に、どんどん、今まで綺麗だと思っていたものが汚いのだということを、ミュシェコは悟った。礼拝堂で聖母が微笑んでいようとも、その微笑みを実際に向けられているものがどれほどいるのだろう。そのようなことを考えるようになった。礼拝の間も、その講師は、ミュシェコの隣に座るアンジェイを見ていた。
アンジェイは、何も気が付いていないようだった。アンジェイただ一人、汚れたものから切り離されているかのように、ミュシェコには見えていた。

嫉妬するべき相手だった。しかし、愛するべき友達になった。
そしてその時は、たった一つの、庇うべき存在になった。
その日も、アンジェイを食い入るように見つめている教師のもとに行き、ミュシェコは言った。その行動は、衝動的ですらあった。
「先生は、いつも僕のルームメイトを見つめていますね」
勿論それで素直に欲望を語るわけがない。だが無視された記憶もない。何か適当な、無難な言い訳はされたと思う。ミュシェコの捉える彼の視線と比べてみれば、誰だって嘘だと分かる言い訳を。
だから、ミュシェコはその言葉を無視した。彼は教師に寄りかかり、呟いた。
「僕では、駄目なのですか」
手の感触を覚えている。
自分の頭に触れられた手の感触を。
鼻息荒く、その教師は言った。「君の金髪も、可愛らしいと思っていた」と。
甘えて胸元に寄りかかる振りをしたのは、教師の顔など見たくはなかったからだった。彼の胸に、十の字の形をした金の装身具が揺れていた。その時ミュシェコはそれを、今まで『十字架』という概念でとらえてきたものと同一だとは、感じることができなかったのだ。

解放されたのは夜遅く。アンジェイはすでに寝ていた。
自分がどんな目で見られていたかも知らずに。本来なら、自分がこのような目にあったんだということも知らずに。
ただただ純粋な少年を、ミュシェコは彼の姿に見ていた。
それは、自分とは別人だった。汚れてしまった自分とは、汚れる運命にあった自分とは、全くの別人だった。
本来なら、アンジェイが自分のようになるはずだった。いや、違う。汚れるのはやはり、自分だったのではないか。彼は金髪の頭を掻いた。愛撫された金髪に付着したものが洗いきれていなかったらしく、彼は鳥肌が立った。

何度も、教師に求められた。教師の知り合いたちの元にも連れて行かれた。何も言わないと安心されていたのだろう。あたりだ。ミュシェコは誰にも言わないし、言う気にもなれなかった。
しかしそうして神の道に外れる行為に溺れる一方で、彼はより熱心に勉学に励んだ。アンジェイよりも、学校の成績は良くなった。アンジェイはそんな自分の事を、素直に「すごいね」と言ってくれたものだ。
自分に乱暴をする教師にいくら、お前も同じ男色の罪人なのにと笑われようとも構わなかった。教師が特に気に入り愛撫した金髪を嫌いこそすれ男に散々になぶられ傷が少しずつ増えていく白い体を憎みこそすれ、自分の精神を恥じたことなどなかった。
そう吹っ切れたように神への信心を取り戻せたのは、何のおかげだろうか。アンジェイに負けたくない、と思うようになったのだろうか。

「君は、生まれ故郷の神父になるつもり?」アンジェイはある日、ミュシェコに聞いてきた。「ああ」と、ミュシェコは答えた。「お前も?」
「いや、ぼくは……修道士になりたいかな」
ミュシェコは「お前らしいな」と返した。それが確かに、アンジェイには一番ぴったりなように感じた。浮世をすべて捨てて生きる生活は、彼に似合っている、と思った。
「ヤスナ・グラ修道院にはいりたい。ぼくがこうなることを決めた始まりの地だから」
それを応援した。そのことは、覚えている。

時が満ちナチス・ドイツがやってきた。
それを受けての各人の反応は様々だった。怒るもの、嘆くもの、多く居た。ミュシェコは、怒る道を選んだ。
ナチスは非人道的である。と神の名のもとに叫ぶ集団に参加することを決めた。アンジェイが、そう決め神学校を去っていく自分によこした言葉はこうだった。
「凄いな。ミュシェコは……」
アンジェイは、自分と一緒に反ナチス活動をする道を選ばなかったのだ。ある種、穏やかな彼らしいとも思えた。
「そうだろ」ミュシェコは自信満々に、そう答えて見せた。
自分は、アンジェイの選ばない道を選んだ。
どことなく、こうなる気はしてた。片や神父になる、片や修道士になるというよりも前から。金髪の頭に精液をこびりつかせて、何も知らずに眠るアンジェイのもとに帰った日から、自分たちは別人なのだと感じていた。
それでも、せめて、その時までは、神を信じることにおいては同じだった。アンジェイは僕に行動を起こす勇気はないのに、とミュシェコの事を見上げていた。あの信心深きアンジェイが、一時期は嫉妬までした彼が、自分を尊敬の目で見ていることに、ミュシェコはなんだかおかしな感覚、しかし決して不快ではない感覚を覚えた。
ミュシェコ・ヤンコフスキが逮捕され、アウシュヴィッツ強制収容所に送られたのは、1941年の事だった。


チェンストホヴァが湧きかえっていた。機動隊が来たって、手出しはかなわないだろうという熱狂ぶりだ。
1957年8月、黒い聖母のイコンがヤスナ・グラ聖堂から持ち出された。宗教を否定する国家の中で、聖母の巡業が始まったのだ。

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ブラック・マドンナ 4話

「今日、何の日か覚えてる?」
糸紡ぎをしていたマリアの耳に、令嬢の元気な声が飛び込んできた。「何の日でしょう……」マリアは首をかしげる。令嬢は少し不服そうにむくれて「わかんないの?」と言ってきた。
「申し訳ありません、お嬢様……」
「あなたが来てから今日で一年!」令嬢は戸惑うマリアにそう言ってのけた。
マリアはその言葉を聞いて、正真正銘その時に思い出した。まだ拗ねている様子の令嬢に「申し訳ありません」とマリアは言う。どうせ覚える必要もないことだと思っていたのだ。そのようなことをいちいち言ってくる主人にあたったこともなかったから。
「あなたってば自分の誕生日も知らないんだもの。お祝いできると言ったら今日しかないでしょ!」
「お祝いなんて……」マリアは困ったように笑う。
「お嬢様がそれほど私を大切に思ってくだされば、それで結構ですわ」
「私は結構じゃないもの。ねえ、ちょっと目をつぶって」
マリアは言われるまま目をつぶった。何事かと考えていたが、不意にふわりとした感触が自分の頭の上に、スカーフ越しに襲ってきた。柔らかくて甘い香の匂いにも包まれるかのようだった。令嬢マリアと同じ匂いだ。令嬢に抱擁されたのかとも一瞬思えたが、いくら小鳥のように軽やかな令嬢だとしても、余りに自分の上にかぶさって来たものは軽すぎた。
「もういいわよ。開けて!」
令嬢が元気に言う。声の聞こえてきた距離を察するにやはり抱擁されたわけではないのだ。言われるままにマリアは目を開ける。だが、令嬢に抱擁される方がまだ理解ができた、というほど、マリアは酷く驚いた。
自分の体に、長いベールがかぶせられていた。それも非常に高価なのが見て取れるベールだ。青い、手触りのいい布で作られたそれは、金糸でふんだんに百合の花の模様が描かれていた。香はしっかり焚き染められている。よく見ると少しくたびれたところもあったが、それにしてもマリアのような身分の女性が持つには、ありえないほど上等のベールだった。
「お嬢様、あの、これは……」
「私からのプレゼント!」令嬢はマリアの震えを嬉しさから来ているもの程度にしか思ってないように、あっけらかんと言って見せた。
「私のおさがりだけどね、それが用意できる、精いっぱいのものだったから……それに、私が一番大好きなものだし!」
そう言われても、マリアは上等な絹の感触、甘い香の香りに体の震えが止まらなかった。
「私は……」マリアは必死で言った。
「お嬢様と同じお召し物を着られる立場ではございません」
マリアは洗濯の時以外で自分の肌に触れることは消してない布地に、服越しからでも包まれるのが非常に落ち着かない気持ちだった。だが、その答えが令嬢をがっかりさせてしまうことにも、すぐに気が付いた。
「どうして?」
令嬢はむくれて言った。
「このようなお召し物は……」マリアは精一杯、言葉を選んで発言した。「お嬢様にこそ、お似合いになりますから」
「あなたにも似合ってるわよ」
間髪をいれず、令嬢マリアはそう返してきた。マリアは、それに対してまた言葉を失った。
事実全くのいいわけでもなく、本音も兼ねていた。この見事なベールはマリアの美しさにこそふさわしい物であり、肌も黒いし顔のつくりも美人ではない自分を飾るには、余りにも役不足なベールだと思えていた。
だが、令嬢は彼女のそんな意識も軽々と飛び越えてくる。マリアは、本当にものが言えなくなった、令嬢はにっこり笑って言った。
「私、あなた大好きだもの。私が大好きなベールなんだから、似合って当たり前じゃない」
マリアは百合の模様のベールに包まれながら、「ありがとうございます」と発した。
「大切に、致します……」
それ以外の言葉が出なかった、彼女は金糸で飾られたベールの淵に恐る恐る手をかけた。それはマリアをはねのけず、優しく彼女のたこだらけの固い指になじんだ。マリアは拒絶されなかった安心感から、バサリとそのベールで自分を包み込んだ。居ても立っても居られない気持ちだった。
令嬢はそれを見て心底満足そうに笑った。そして、マリアを目をつぶらせることもなく、抱擁した。
「来てくれてありがとう。大好きよ」
自分といつも一緒にいる、いや、自分以外にこれほど近しい人間を持ったことの無い令嬢は、何のためらいもなく、身分の違う少女にそう言ってのけた。
彼女の清らかさは、外見だけではない。この真っ白な肌や美貌のみのものではない。何度も考えてきたことが、今一番、マリアには実感できた。
「私も」マリアはためらいなく言った。それが、マリアの考えうる一番の礼節であったから。「大好きですよ、お嬢様」
彼女は、なんでも愛せるのだ。何でも。この世の全てを、彼女は包み込めるのだ。マリアは自分の仕える令嬢の愛を、そのように理解していた。
黒いものは汚いと言う概念すら、彼女は知らないのだ。そんな主人に巡り合えた。

トントンと扉が叩かれた。マリアと令嬢は離れた。「お客だよ」という声とともに戸が開き、ヨアキムとヨセフが現れた。そう言えば、もともと来る予定だったのだ。
「おや」ヨアキムが不思議そうな声を上げた。「おめかししているじゃないか」
「そうでしょ!?だって私があげたんだもの!」令嬢マリアは得意げに言う。「今日で、お父様がこの子を連れてきてくれて一年目じゃない」
「一年……もう、そんなにたったのか?」ヨアキムは驚いたように言った。「そうか、一年か……」
「素敵なプレゼントだね」ヨセフは言う。
「とても似合っているよ。黒い肌に鮮やかな色は、映えるね。素敵だよ」
ヨセフにそう言われて、マリアはどうとも言えず、照れくさい気持ちになった。「ありがとうございます」と丁寧に反しても、心なしが動悸が激しくなり、体中が熱くなるかのようだった。
「もう、一年か……」
「そうよ!」
ブツブツと同じことを繰り返すヨアキムの心のうちにある思いを、令嬢マリアは理解できていないようだった。ヨセフも穏やかに微笑みつつ、その1年という数字に、喜んでばかりもいられないものがあるのは理解できていた。マリアは横から聞いていて、理解ができた。
一年だ。マリアが来た時、既に令嬢マリアとヨセフは婚約者だった。一年たった。それなのに、気が付いてみればマリアはまだ神殿に居られる体のままだ。
もう通常ならとっくに来ているはずなのに、一年たっても、いまだに令嬢マリアに初潮が来ないのだ。それに気が付いていないのは、令嬢だけだった。汚れなどと言う概念を知りもしない、令嬢ただ一人だった。

●●●

ホテルの扉を叩くと、先日の青年が現れた。
「お待ちしておりました」
リシャルドは宗教者に敬意を払っていないのは明らかだったが、それでも最低限慇懃無礼にはならない態度でアンジェイを出迎えた。
広いホテルの部屋の真ん中に、男が一人立っていた。アンジェイは目を瞬かせた。あの日、修道院に現れた彼と、そっくり同じ男性が目の前に立っていた。
あの見るも鮮やかだった金髪が完全に黒くなっていたこと以外、ミュシェコ・ヤンコフスキはアンジェイの思い出がそのまま年を取っただけの姿で、彼の前に立っていたのだ。
「リシャルド。お前はもう良い。下がれ」
ミュシェコはまず、自分の秘書にそう告げた。リシャルドは丁寧にお辞儀し、扉を閉めて去っていく。後にはアンジェイとミュシェコのみが残された。
「お前にはよく似合うな」ミュシェコは久しぶり、という言葉すら言わず、数十年ぶりの旧友にそのような言葉を投げかけた。
「その修道士の服は……世界中のどんな服でも、それよりお前に似合う服もあるまい」
「ミュシェコ……久しぶりだね」
ミュシェコの言わなかった言葉を、アンジェイがひとまず言った。だがミュシェコはやはり、それには言葉を返さなかった。
「あまり警戒はしないでもいい。今回の事を止めさせるぐらいなら、俺だってもっと各上の奴らを呼び出す。お前にそこまでの権限はないんだろう」
「ま、まあね……」
言葉に詰まるアンジェイを前に、ミュシェコは煙草を灰皿に押し付け、言った。
「その後、無事に過ごしたようだな」
「え、ま、まあ……」
「おれが今回お前を呼んだのも、その言葉を聞きたかったからなんだ」と、彼は言い放つ。「知っていたぞ。あの後国外に逃げ出したんだってな。それで共産化された国にのこのこ帰ってきて神の道を選んだその信仰心もまあ、尋常ではないが」その言葉にどう返しているか迷ってる様子のアンジェイの事を、彼はじっと見ていた。
「ごめん……」
「なにがだ?」
「すまなかったと思っているんだ。君があんなことになったのに、ぼくだけ……」
「お前ごときに道連れになってもらおうなどと思ったことはない、見くびるな!」
ミュシェコは激しく机をたたいて怒った。アンジェイはそれに驚く。たしかに感情的ではあったが、若いころのミュシェコは優しかった。こんな怒り方を自分に対してしたことはなかった。
「おれが反ドイツ運動をして収容所に行ったことを、薄汚いユダヤと同じように捕まったことを、お前だけは助かりやがってと恨んでいるとでも思ったのか?とんだ思い上がりだな、ええ?畜生め!」
「そんな……」
アンジェイは言葉に困った。そんな彼を見て、ミュシェコは満足そうに笑う。
「この道を選んで正解だったな。神学校時代の旧友と言うことを遠慮なく差し置いて、お前を責めることができる」
「ミュシェコ、君……」アンジェイは震える声で言った。「どうして?あんなに神様を信じていたじゃないか、君は……」
「思い上がるなよ!」ミュシェコはもう一度、その言葉を言った。「おれが収容所で悲惨な体験をして、神などいないと悟ったのだと思うか?そんなありふれた厭世論をおれが持つとでも思ったのか!?お前がちょっと説教すれば、おれが若い時と同じようにああ神様聖母様と馬鹿を繰り返すようになると!?」
「そこまで言ってないじゃないか!」さすがにアンジェイも怒った。
「積もる話もままならないようならぼくだって単刀直入に聞くぞ。いったい、君は何を言いに僕を呼び出したんだ!」
「だから」ミュシェコは少し落ち着いたらしく、静かなトーンで言った。「さっき言ったじゃないか。お前が無事に生きていたかどうかを聞きたいと言ったろう?」
「……それだけ?」
「それだけさ」ミュシェコは言う。
「お前は生き残っていると思ったからな。生き残って、どうせまだ痩せっぽちの醜い黒人女を、女王と崇めていると思ってたからな、それを確認したかったんだ」
「ヤスナ・グラの聖母を悪く言うな!」アンジェイは責めた。
「ふん、昔のおれだってそうだがそもそもあんな女に惚れたお前も、お前の同僚たちもどうにかしている。惚れるべき対象かね、あんなもの!幼いころのお前の女の趣味を疑うよ、全く」
「さっきから惚れただの女の趣味だの」アンジェイも、これに関して妥協をする気はなかった。
「修道士が聖母に捧げる献身を、そんな低俗な解釈くらいしかできないような君ではないだろう、今は神を信じていないにしても、学校で何を学んだんだ」
「学ぶ必要のないことを」
「……ミュシェコ」
アンジェイは冷たい声で言った。
「話すことがそれだけになったなら、もうぼくは帰ってもいいのかな」
「いいんじゃないか?」アンジェイが反論をする気すら失ったのを見届けて、ミュシェコは言った。「手間をかけさせたな。リシャルドはフロントの近くで待っているはずだ」

たった、数分の会話だった。
こんな数分のためにクラクフまで来たあいつにとってはさぞ損な時間だったろう。
「お気楽なもんだよ、お前の人生は」窓からクラクフの町を見下ろして、ミュシェコはマッチを擦りながらつぶやいた。
「あの汚らしいポーランド女王のこの世に比例するものなき美しさとやらに鼻息荒くして縛り付けられる変態共であれば、綺麗な人生を送れるんだから、大したもんだよ、まったく」
リシャルドはまだ帰らない。駅まで彼を贈るよう命じられているからだ。
「おれに言わせればチェンストホヴァの修道士など、梅毒持ちの黒人売春婦にしっぽをふる、ジゴロの男娼どもだ」
アンジェイがいなくなってからも、いなくなった彼に向かって汚らしい悪態を吐き続ける。ミュシェコは一息だけ煙草を吸って、すぐ灰皿に押し付けた。
彼の言う所の「低俗な解釈」の極みだ。彼は、それしか言わない。それしか言えないに決まっている。
だって、彼はそれしか知らない。
自分がここまで尖ったのは、ナチスに捕まったからだと思っている。だって、彼はそれしか知らない。今や世界中の人が知って当然のことくらいしか、彼は知らない。
彼は、昔からそうだった。そうに決まっているのだ。

アンジェイという男は、少年の頃からそうだった。少年の頃聖母の聖性に心打たれた少年は、この余の全ての穢れから隔離されたかのように、本当に、あらゆる汚れがそこにはなかった。そんな彼を、ミュシェコは見てきたのだ。ミュシェコはそのことを思い出し、もう一本、煙草を取り出した。

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ブラック・マドンナ 3話

黒い聖母が、ポーランド中を巡る。司教会議の決定に、ヤスナ・グラの修道士たちもいささか浮き足立っていた。
アンジェイも同様だった。「君も、聖母と共に行きなさい」と、司教に声を掛けられたことは、何よりも彼を感動させた。聖母の巡業に付き添うことができるとは。聖母の神聖さに心打たれ神の道、修道院の門をたたいたアンジェイにとっては、これ以上にない幸せだった。

アンジェイはその夜、眠れずに一人礼拝堂で祈りをささげていた。ポーランドの女王が鎮座する格子戸はさらにカーテンで仕切られている。それをめくり上げたいとも、アンジェイは感じなかった。
黒い聖母の巡業は一年、二年では到底済むものではない。大ノヴェナの期間中にすら終わらない大規模なものとなることは明らかだった。だがアンジェイはこの大きな計画、国家からは宗教戦争だと非難される計画に、誇りよりも何よりも、楽しさを感じていた。
大ノヴェナの開幕ミサの際にも感じたこと。黒い聖母の聖性があったからこそ自分の人生が始まったように、これから先、黒い聖母を見ることでどれほどの子供が神の国への門、狭き門をくぐらんとするのだろうか。あのカーテンの向こう、その格子戸の向こうに眠る女王は自分の人生と常にともにあったのだ。ポーランドのカトリック信仰そのものが、彼女とともにあったように。
自分の人生。彼は目をつぶり、それについて物思いにふけった。こうして静かな場所でしんとしていると、さすがに彼も、自分の小さい頃の事、故郷にいた父や母の事が思い出された。自分が神の道に行くことを肯定し、熱心に何もかも教えてくれた近所の神父の事も、神学校に入ってから恩師と仰いだ面々の事も、学校の仲間たちと一緒にひいきにしたパン屋の婦人の事も、母の作る料理の味も、彼は自分と黒い聖母以外は誰もいない礼拝堂で思い出した。何一つ、嫌な思い出ではない。自分にとっては、掛け替えのない記憶だった。
そして、アンジェイは思った。彼は一体、どうしているだろう。彼は、眩しいほど明るい金髪をしていた。それが子供っぽくていやだと眉をひそめる彼に、大人になれば黒くなるよ、と自分は語りかけていた。彼はそう言われて、安心したように笑っていた。
彼は、生きているだろうか。大ノヴェナのミサには現れなかった。彼は、生きているだろうか。生きることが、できただろうか。
できたと信じたい。彼が誇り高く殉教したとしても、それでも生きている方がいい、とアンジェイは彼に対する懐かしさが募る余りに考えた。
彼は、生きているだろうか。臆病な自分と違った彼は。少し黒くなり始めた金髪を振り乱し、必死に平和を訴えていた彼は。軍服を着た兵士に列車に詰め込まれ、姿を消してしまった彼は、生きられたのだろうか。生きているなら、会ってみたい。せめて、会ってみたい。無事だったかどうか、それを知りたい……。
ぶるり、とアンジェイは身震いがした。思い出したくない。修道院に来て以来、穏やかな心で包み隠してきた傷が、急に開いたようだった。
彼は衝動的に、礼拝堂を飛び出した。ポーランドの聖なる女王の前に立つことは、今の自分の身では非常な不遜であると思えた。夜の空気は冷たかったが、彼は別段寒いとは思わなかった。

少し雲の出た夜だった。彼はポケットからロザリオを取り出し、聖母マリアへの祈りをとぎれとぎれに唱えた。それが終わってしまえば詩編22章も、主の祈りも唱えた。そうしていることで、救われる思いだった。
外は礼拝堂の中と変わらず相変わらず静かで、自分の祈りの声の他に五感に訴えかけるものはない。そう、アンジェイは思っていた。だが少し精神が安定してきた矢先、ふとつんと鼻を突くような苦い匂いがした。
煙草の匂いだ。修道士たるものが隠れて煙草を吸っているのか?彼はたちどころに修道士アンジェイとしての自分を取り戻し、もしそうなら捨てはおけないと歩みを進めた。

彼は、廊下の端に立っていた。立派な背広を着て、煙草を静かに吹かす彼は、明らかに修道士ではなかった。いつの間に部外者が入ったのだ?とアンジェイはぎょっとした。
注意しようと、アンジェイは歩みを進める。だがその時、彼は顔を上げた。煙草の光に、不自然なほど彼の顔が照らされた。
アンジェイは瞬きした。その顔には見覚えがある。自分にも劣らぬ真っ白な肌。自分と同じように年をとっても、その顔は忘れられなかった。
「ミュシェコ……!」
アンジェイは、昔の友の名を呼んだ。柱にもたれかかり、相変わらず煙草を吹かす彼に。
ミュシェコは何も答えず、じっとアンジェイを見た。彼は煙草をくわえたまま、その場でコートを脱いだ。背広をも脱ぎ、バサリと音を立て床に投げ捨てる。ネクタイを緩める。そしてシャツのボタンをはずし始めた。その様子が、ミュシェコの男にしても色白の肌が、煙草の光に不自然なほど照らされていた。そして手をそう動かしつつも、ミュシェコはじっとアンジェイを見つめたままだったのだ。
「ミュシェコ、何を……?」
アンジェイは怪訝に思った。その様子は一種美しくもあり、悪魔が自分に見せる誘惑のようにすらアンジェイには感じられた。そのミュシェコが何か言葉を言ったなら、あるいは自分に触れてきたなら、かつての友との再会もつかの間、「立ち去れ、サタン」と言ってしまう自分がいるであろうことが、ミュシェコには分かった。
だが、彼は誘惑の言葉など吐かなかった。煙草を手放しもしなかった。彼はただ、片腕を見せた。何者にも覆われていない片腕を。そこには、年を経て経て色褪せてはいるが、はっきりと「番号」が刺青されていた。そして、その上半身は、その白い肌は、無数の傷に、あざに覆われていた。
アンジェイの脳が一瞬にして冷えた。「君は……」何か言いかけたアンジェイは、その場で気を失った。自分を見下ろすミュシェコは、どんな目をしていたのだろうか。煙草が自分の上に落とされたような、そうでないような気がした。

●●●

「あれ、これ何?」
それは、マリアが水仕事のために腕まくりをしている時の事だった。令嬢に、急に腕をつつかれた。
「あざ?」令嬢は首をかしげる。マリアもぼやけたそれに一瞬本気で何だろうと考え込んだが、すぐに思い出した。前のさらに前の主人は奴隷に印を入れるのが好きな人だったのだ。肌が黒くて刺青が入りにくいと文句を言われた。さらにそれが年を経てぼけたせいで、あざのようになっている。
「はい、あざです」マリアは嘘をついた。この令嬢が、奴隷の腕にある不自然な模様を見ても刺青と思わないようであれば、何故それを否定できるであろうか。寧ろあざと言う概念を知っていることすら、少し驚いた。この令嬢の体には、傷もあざも何一つない。
一緒に居ればいるほど、マリアは自分とこの令嬢の違いを痛感する。今までそんなことがなかったのになぜ今わざわざ感じてしまうかと言えば、それはたぶん彼女が今までにない程常に自分のそばにいるから……マリアは誰かのお付きになった事は初めてだった……からと、この令嬢マリア自身が非常に特異な人物であったからだ。
彼女は本当に、浮世の汚さなど何も知らない。彼女の周囲に居るのは、律法を固く守る祭司、神の道を選んだ預言者たち、同じような生まれの少女たちに、上品で人のいい家族や婚約者。何も、この世の穢れを知ることなく、彼女は生きてきた。まるで、そうあることが運命づけられているかのように。
自分とは対極にもほどがある。外見だけで汚らわしいと烙印を押されるこの肌も、この身分も、そしてあらゆる欲を実際に見てきた、見ざるを得なかった人生も。全てにおいて、これが同じ人間なのかというほどに違う。
そしてマリアは、その自分とは全く違う、汚れの一つもない令嬢の事を、非常に美しいものだとみていた。憧れるだの、憧れるのもおこがましいだの、そのような感情は無視して、ただただ美しく思うに値するものであるとマリアは令嬢の事を感じていた。
一方で令嬢マリアは、まくられた黒い腕をじっと見ていた。マリアはそれが少し気恥ずかしかったが、普段露出しない部分を露出しているが故の気恥ずかしさでしかなかった。
汚れを知らぬ令嬢は、汚い感情も知らない。自分のこの肌も、偉大なるノアをあざ笑った親不孝者の末裔ではなく、甘くておいしいナツメヤシのお菓子の色でしかないのだ。それを見つめるマリアは、本当にお菓子を見るときのように目をキラキラさせていた。令嬢は、自分の黒い肌が好きなのだと、その頃にはマリアにも素直に思えていた。

ある日の事だった。令嬢マリアと話をしに、ヨアキムとヨセフが訪れた。だがちょうど令嬢はほかの神殿勤めの少女たちと一緒に祭司たちに呼ばれており、さすがに奴隷に過ぎないマリアだけが同席することを許されず取り残されていた。
「お嬢様はもうじきお戻りになると思います」彼女は礼儀正しくそう言った。
「元気にやれているようだね。何よりだよ」
令嬢に言ったのか、自分に言ったのか、分からない言葉をヨアキムから受け取った。マリアには、それをいちいち問いただすことはですぎた行為だった。
ヨセフも、優しい目でその言葉に同意した。その男性を見た途端、急にマリアは自分の黒い肌が恥ずかしくなった。令嬢マリアに対しては感じなかった恥ずかしさを、なぜかこの男性の前では激しく感じる。彼女はスカーフを意図的に口元まで押し上げた。ヨセフとヨアキムは怪訝な顔になった。
ちょうどその時、ヨアキムが祭司に呼ばれた。ヨアキムは顔の広い男だ、おかしくはない。彼は用があるのはヨアキムだけのようで、後にはヨセフとマリアだけが残された。
「どうしたの」ヨセフは相変わらず、柔和に話しかけた。マリアは、黒い顔が恥ずかしいということすら憚られた。かつて自分には、恥じる権利もなかったのだ。
だが、ヨセフは先日に引き続き、さらにマリアの舌を巻かせてみせた。
「黒い肌が恥ずかしいのかな?」彼はあくまでマリアを刺激することが無いように気遣う様子で、そう言ってきた。マリアもつい反射的に「はい」と返してしまった。彼はため息をつき、言った。
「ぼくもよく見てきたよ。肌の色で酷い目に合う人を。悲しいことだ。もとはと言えば、全て同じ神さまに創られた人間なのにね」
ヨセフは物悲しそうに言った、だが、その調子は続けず、低く落ち着いた声で口ずさんだ。
「『エルサレムの娘たちよ、私は黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンの帳のように……』」
雅歌の一編であることは、マリアにも分かった。ヨセフはにこりと笑顔で、マリアに問いかける。
「かの偉大なソロモン王も、黒く美しい女性を自分の詞に登場させているんだよ。誰よりも美しい人として。ソロモンが道理のわからない愚か者なわけはないだろう。そうであったら、この世で知恵を持ち得るものなど、まったく、神様おひとりになってしまうからね」
「はい……」マリアは上手く言葉が返せなかった。だが自然と、スカーフを抑える手を離すことができた。
空気にさらされて、唇が少し涼しくなる。ヨセフは笑って「それでいいんだよ」と言った。
何とも言えず、マリアの体が温かくなった。令嬢に対して感じるのとは別の好意を、この男性、愛する主人の婚約者に感じている自分が理解できた。

●●●

その日、ミュシェコは仕事でチェンストホヴァを訪れていた。ヤスナ・グラ修道院の塔が目に入り、忌々しさに舌打ちする。隣のリシャルドは黙ってマッチの火を差し出した。
「先生の見立てでは、どうなりますか?」リシャルドは煙草を吸い始めたミュシェコに聞いた。
「1966年はどちらにせよ節目の時だ。国だってポーランド独立千年を祝いたい」ミュシェコは話す。
「『ポーランド』の独立をな。断じて『ポーランド・カトリック』ではない。それではない『ポーランド』の祝祭を祝いたい」
「では、それまでに決着がつくと?」
「そうあるのが理想だ」ミュシェコは車の中で煙草をふかした。運転手は何も言わない。チェンストホヴァの街並みが車窓の外に通り過ぎていく。この中の何人が、マルクス以上に黒い肌の聖母マリアを崇めているのだろう。あの痩せこけた、悲痛な面をした黒人女を。と、ミュシェコはポーランドの女王を心の中で侮辱した。
おや、と彼は声を上げてみる。特異な服の集団がいる。何者であるかはもちろんすぐわかる。
「修道士たちの買い出しですね」リシャルドはミュシェコの視線の先に自分も気が付き、行った。おそらくはあの忌々しいヤスナ・グラの修道士だろう。ミュシェコはにらみを利かせるように、煙草をふかしながら車窓の外を見つめた。
と、その時だ。彼は、一人の男を見つけた。すでに遠ざかっていく男を。
「車を止めろ!」彼は急に運転手に叫んだ。運転手は慌てる。止めろと言ってすぐに止まれるものなら世話はない。やっと車が止まり、面喰うリシャルドをおいてミュシェコが先ほど見た「彼」のいた店の前につくころには、既に修道士の一帯は姿が見えなくなっていた。
「おい」
その尊大な態度から、役人であると感づかれたのだろうか。店の主人は多少怯えたように「なんでございましょう」と言った。ミュシェコはそんな彼に気を使うこともなく、今来ていた修道士たちはヤスナ・グラの修道士かと尋ねた。
「はい……」
「名前を言えるか?」
はい、との言葉の後述べられる名前の列。その中に、あの名前を聞いた瞬間、ミュシェコはきりりと妙な感情に襲われた。
漸く見つかったという喜び。だがそれそのものは喜びと言っていいほど明るい感情ではない。どす黒い恨みや呪いの念だった。

「兄弟アンジェイ、お客だよ」
ミヘイが、そう震える声で話しかけてくるのに、アンジェイは首を傾げた。客に、震える必要もなさそうなものだが。
「分かった。行ってくるよ、取次ありがとう」
そう言った彼を見送るにあたっても、ミヘイは終始心配そうな顔だった。アンジェイはそれがわからなかったが、やがて通された部屋で、背広を着た青年が「はじめまして。リシャルド・ジェリンスキと申します」と言った後、自分の仕事名を告げるのを聞いて、ようやく兄弟の不安も分かった。と、同時に自分の身にも不安が襲いかかってきた。最近の教会の行動は確かに政府にとっては面白くないだろうが、やはりそれでも当局の人間に直接来られると震えあがってしまうのは私の心が弱いからだ、とアンジェイは自分を責めることで自己を律しようと試みた。なぜ自分のような一介の修道士に直接当局から人がやって来たのかまでは本当に分からなかった。
「戸惑われていることかと思います」目の前のリシャルドと言う青年は非常に冷静なようで、椅子に座ったアンジェイを見届けて淡々とそう告げた。
「あなたに一つ、問いたいことがあってやってきました」
「なんでしょう?」
「ミュシェコ・ヤンコフスキを知っていますか?」
その名を聞き、ぎょっとしたアンジェイの目を、リシャルドはしっかりとらえたようだった。
「ご存じのようですね」
「ミュ、ミュシェコは、私の……!」
「失敬。関係までは聞くなときつく言われております」アンジェイの説明を、彼は真っ向から遮った。
「同志ヤンコフスキは私が秘書として使える上司です。今回あなたのもとに参りましたのも、もしも同志ヤンコフスキが探している人物が貴方と同一人物であれば、是非ここに招待したいと言われたからです」
リシャルドは鞄からメモを取り出した。クラクフにあるホテルの住所らしかった。
「お手数ですが、チェンストホヴァには先日までいたのですがもう離れなくてはならず。三日以内に、そこにお越しください」
「……ご案内、感謝いたします」
少なくとも、その時のアンジェイにはその程度の言葉しか言えなかった。ミュシェコが、ミュシェコが生きている。そのことに、彼の頭の中は激しく混乱した。それはただ単に歓喜と言えるようなものでもなかった。

「大丈夫だったかい、兄弟?」リシャルドが黒い聖母になどわき目もふらず帰った後、ミヘイは真っ先に来て、アンジェイを心配してくれた。同じ修道院の中でもとくに仲のいい兄弟に、アンジェイは心底感謝した。
「大丈夫さ、ありがとう」アンジェイは短く返した。しかし彼の頭にはクラクフまで行く許可を貰わねば、という義務感が何よりも大きく残っていた。

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ブラック・マドンナ 2話

1655年、ポーランドは休戦協定を破って急襲を仕掛けてきたスウェーデンにあえなく敗れた。誰の目にも、ポーランドがスウェーデンに服従せざるを得ないことは明白。そのような中、ヤスナ・グラ修道院は敵に抵抗を試みた。とはいえ奇跡でも起こらないと何も起こるまい。彼らの頭には殉教の栄冠は被せられるだろうが、勝利の月桂冠が置かれることはないだろう。誰もがそう思っていた。
しかし、奇跡は起きた。40日の包囲の後、彼らは黒い聖母のイコンを掲げて、スウェーデン軍との戦闘に打って出た。なんということだろうか、ポーランドには勝利が与えられたのだ。
時のポーランド王ヤン・カジミェシュはこの奇跡を非常に重く見て、この神々しき黒い聖母のイコンを、永遠にポーランド人がその前に跪くべき女王と定めた。ポーランドの苦悩に苦悩を重ねる歴史において、哀れなポーランド人を愛し、結び付けていたものこそ、この黒い女王であったのだ。


1956年8月26日、チェンストホヴァ、ヤスナ・グラ修道院にて、大ノヴェナの幕開けのミサが行われた。
アンジェイは修道士たちに混ざって、司教の読み上げる誓いの条文に耳を傾けていた。尊敬する枢機卿が、まだ政府の軟禁のためこの場に立てないことが心残りであった。後で聞いたところによると、枢機卿はこの場には立てないまでも、抑留先のコマンツァにて、黒い聖母の写真を前にヤスナ・グラで行われたのと同時間に誓いの条文を読み上げていたらしい。それを聞いてアンジェイは、自分の心残りなど杞憂であったと感じた。
金の王冠を被らずとも、金の王杓を持たずとも、ヤスナ・グラの聖母はポーランド女王に相応しい威厳を持ち、ミサに集まった100万人の巡礼者を見下ろしていた。誰も恐れることはない、とでも言わんばかりに、彼女の眼は敬虔なポーランドのカトリックを静かに見つめていた。誰もがその視線から、聖母の清水のように純粋な愛を感じ、その愛に包まれたのだ。その愛を一度受けたならば、どのような恐怖をも乗り越えられるかのような思いだった。
アンジェイはその日、100万の巡礼者の中から、こっそりと、とある一人を探そうとしていた。もしかすれば、彼が来ているかもしれない。もしかすれば、彼も、黒い聖母に会いに来たかもしれない。自分に会いに来たかもしれない……。
彼の影さえも見つけることができなかったのは、一人の男を見つけるにはその場に来ていた人数があまりに膨大過ぎたからだろうか。それとも、初めから、彼は来ていなかったからだろうか。アンジェイには分からなかった。ただ、彼はヤスナ・グラの修道士として、これから始まる神の大計画に希望を求めんとした。

「畜生めが!」
非公式の新聞をテーブルにたたきつけ、ミュシェコ・ヤンコフスキは歯噛みした。彼は当局の役人であった。忌々しきヴィジンスキをはじめとした宗教信者たちの祭典がこんなに大規模に行われ、あまつさえ100万人もの人が動員された。彼にとって面白い話であるはずがない。
彼は秘書のリシャルドにそのまま新聞を回収させる。「宗教戦争を始める気か、あ奴らめ!」ミュシェコは悔しそうに言う。若いながらも優秀な秘書、リシャルドは黙って自分の上司に追従の意を示した。
ミュシェコはポーランド統一労働者党からすれば、非常に立派なマルクス主義者の鑑のような男である。だから比較的早い出世も成し遂げた。
「これは明らかに我が党への挑発だ、そう思うだろう、リシャルド?」
「はい。まともなポーランド人であれば、誰しも不埒な行為と感じるはずです」淡々とリシャルドは告げる。ミュシェコはふんと鼻を鳴らし、リシャルドがかさばらないように折りたたんでゴミ箱に新聞を捨てる様子を目で追った。
千年祭を前に控え、9年間もの政府にあてつけるような祈りの期間。それだけでも共産党を挑発するには十分なように思えた。だがミュシェコが不機嫌なのは何もそれだけではないことも、リシャルドは感づいていた。彼は不安になると一息タバコを吸っただけですぐ灰皿に押し付けるくせがある。今まさにその癖が出ている。
リシャルドの予感は当たっていた。ミュシェコはこれでは済まないような予感を、その新聞の、荒い印刷の写真から読み取っていたのだ。いや、読み取ったと言っては語弊がある。それはもっと感覚的なものだった。すなわち彼はまるで、荒い写真の中にぽつりと見える小さな四角、顔もつぶれて見えないはずの黒い聖母に、睨まれた。少なくとも、そうかのように思える不快感を、写真を通じて感じ取ったのだ。

彼らの予感は的中した。
1956年10月26日、ヴィジンスキ枢機卿はヴワディスワフ・ゴムウカ第一書記就任とともに釈放された。それは、まだよかった。ゴムウカの民衆への心証を良くしたいという思いがあったのだ。
だが同志ゴムウカのその態度に味を占めたか(と、ミュシェコには感じられた)1957年4月11日、教会はあるプロジェクトを発表した。それは黒い聖母の、ポーランド教区全体への巡業だった。
ポーランド・カトリックのシンボルとなっている黒い聖母のイコンが、彼女を慕う全ポーランドのカトリックの眼前にあらわれる。その重要性がわからぬほど、当局の人間もボケてはいない。宗教戦争だ、共産主義への挑戦だ、と、ミュシェコ以外の統一労働者党員もこぞって教会を非難した。しかし、そのような言葉の数々は、受洗千年を間近に控え信仰心に燃え盛るカトリック教徒たちの前には、まさに焼け石に水と言うのがふさわしい、無力なものだった。

●●●

血は、汚れである。
ユダヤ人の持つ多くの律法の中の、一つがそれだ。ユダヤ人は血の料理を食べることもないし、屠殺にすら気を遣う。当然、女の体から流れ出る血とて同様である。
だから神殿に仕える少女たちは、一生そこで暮らすわけにもいかない。神と共に過ごすに値するのは、血の汚れとは無縁な幼いうちだけだ。忌々しい経血で神殿を汚す前に、夫を作り立ち去らねばならない。それが、掟であった。
令嬢マリアにはまだ初潮が来ていない。しかしもういつ来てもおかしくない年齢ではある。そのためそろそろ神殿を出てもいいだろうとのことで、婚約したのだという。
ヨセフと名乗る男は、ガリラヤの名士だった。職業は大工の棟梁であるらしい。聞けばザカリアとは親戚の間柄だった。なるほど、結婚するのには適切な間柄であると思えた。
一つ強いて引っかかる点を挙げるならば、少し離れた年齢だろうか。ヨセフは男やもめだった。妻は 一昨年に死んで、子供も何人もいるらしい。妻を失って悲しむ彼を見かねてザカリアの方から縁談話を持ちかけたのだという。
親戚だからという縁もあったが、何より令嬢マリアが彼の事をひそかに気に入っていたのが、そもそもの発端であった。それには説得力があるような気がした。令嬢に会いに来た彼を令嬢の隣で見て感じた感想としては、ヨセフは物腰も丁寧で、上品な紳士だ。若い時も、いや、きっと今ももてるタイプだ。やくざ男などに惹かれるな、そのようなものは娼婦のすることだ、と教え込まれている令嬢が彼にあこがれるのも、マリアにはわからないでもなかった。女性に純潔を求めるような堅い男性たち……もっともそのうちには少なからず、ただ自分より若くてもてる美男子たちに若い女が群がるのが妬ましいだけの男も多いのをマリアはしっかり知っていたが……が推奨する男のうちでは、ヨセフは上玉の部類だっただろう。
自分が勤めてきた家の主人は皆一様に、おせじにも美しいとは言えなかった。自分たちはてらてらと脂ぎった肌をしておいて、女の顔にあばたの一つでもできていれば、女としての義務も忘れている、夫が可哀想だと思わんのかと「正当な」叱責をする男を何人も見てきた。自分の黒い肌がどういわれたかなど、言うに及ばずだ。そのことを考えれば、自分も身ぎれいにしている分ヨセフはましな部類だろう、と、マリアは感じていたのだ。

マリアはその日、令嬢の買い物のため市場に出ていた。市場で商人にハムの子孫か、と見られて若干高い値段を告げられようとも、生憎だが値切ることには慣れている。そうでもしないことには、奴隷は務まらない。
令嬢の望むものを大方買い終え、後はなつめやしのパン一つを残すのみになった。彼女はパン菓子を売る店に向かう。一つだけ、残っていた。だが、彼女は次の瞬間、令嬢に謝ろうということを決意した。ローマ兵が無言でそれを一つ、買っていくところだったからだ。
主人の命令とは言えど、ユダヤ人はローマ兵には逆らえない。それに異邦人とは口を利くことすらみっともない事であると教えられている。それが抗議の声であったとしても、ローマ人と話したという事実だけでも不埒な女扱いされることは目に見えていた。ましてや自分は黒い肌の持ち主だ。
店主にろくな言葉も吐かれず踵を返したローマ人は、振り返り様マリアにぶつかった。
彼は背が高かった。思わず上を向き、マリアはぎょっとした。獲物の血に飢えた山猫の目とも見まごう不気味な目つきが、マリアを見抜き、彼女の視線を逃がそうとはしなかった。美しさとは対極にある目つきに、彼女は縛られた。
「すまなかったな」
一つ声が上から降ってきたのと同時に、彼の眼はマリアを解放した。彼女は慌ててうつむく。言葉を返すべきか迷う間もなく、彼は早足で去っていってしまった。あとには、令嬢に謝罪するのを待つのみのマリアが残された。

彼女はぶらぶら神殿への道を行く途中、後ろから声を掛けられた。一瞬ぎょっとしたが、後ろから飛んできた声には聞き覚えがあった。
「ぼくの婚約者の、お付きの奴隷の子だね」
後ろに立っていたのは、ヨセフだった。マリアの事も覚えていてくれたのだ。意外と思うには及ばなかった。自分の肌を見て、覚えられないほうが少ない。だがその時マリアがいささか戸惑ったのは、ヨアキム、そして令嬢マリアに会った時と同じ感覚だった。ヨセフは彼女が今まで見てきた中年の紳士がするように、マリアの黒い肌を見ていないということが読み取れた。
マリアは控えめにお辞儀をする。「買い物かな?今から、帰る所かな?」ヨセフは優しく話しかけ、マリアは「はい」と返した。
「ぼくも今から神殿に行くところだからね、送っていこう」
彼は非常に穏やかに、そう話しかけてきた。マリアは伏せた目を上げた。丁寧に整えられた髭の生えた顔の真ん中には、二つの、非常に優しい目がマリアを見ていた。彼女はそれを見て、ああ、と自覚した。
自分は今、嬉しいのだ。仕事がうまくいき、珍しく(令嬢マリアのもとで働くようになってからは、それなりによくあることとなっていたが)褒められた時と同じ気持ち、それを更に大きく、さらに純粋にしたような気持ちだ。
マリアの目から、涙がこぼれた。「どうしたの」ヨセフは、マリアが奴隷であるということすら忘れているかのように、紳士的に話しかけてきた。令嬢が彼に好意を持つのも、彼が多くの女性から好かれるのも、何も美しい容姿や名士の立場だけではないのだろうと、今さらながら実感できた。
「何でもございません、ありがとうございます」
マリアはその日、生まれて初めてかもしれないと思うほど、素直にそう言えた。奴隷としての卑屈な礼儀ではなく、心の底から、彼女はヨセフに礼を言うことができた。

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ブラック・マドンナ 1話

ポーランドのチェンストホヴァには黒い聖母像がある。
百合の模様の青いベールに身をくるんだ黒い肌の女性は、ポーランドの女王であり、ポーランド・カトリックを長らく守ってきた存在であった。彼女はまさに、ポーランドの自由の守護者であった。

●●●

マリアは、エルサレムの城壁を見てため息をついた。エルサレムなど話にしか聞いたことがない。
「どうしたね」自分を導く老紳士が声をかけた。マリアは「エルサレムは、本当に美しい都だと思いまして」と素直に返す。前の主人とは違い、この老紳士は穏やかな主人だった。彼は奴隷が無駄口を叩いたことに怒ることなく、むしろ穏やかに微笑み「そうだろう」と返してくれた。
マリアが前の主人の元を追い出され、奴隷市に出されたことが、もう遠い昔のように思える。「生粋のユダヤ教徒ですから安心ですよ。奴隷仕事の経験もあるし、黒い肌だからお値段も控えめにしておきますしね」と語る奴隷商人の言葉を聞いて、一人のヨアキムと名乗った老紳士が手を引いてくれた。
「名前は何というね」と、優しげに語りかけてきた老紳士に、彼女が「マリアです」と、偉大なモーセの姉にあやかったユダヤ人には珍しくない名前を告げると、老紳士は楽しそうに笑った。
「なんて奇遇な!私の娘と同じ名前だ」
マリアはそのまま、老紳士に買い取られた。なんでもエルサレム神殿に仕えている娘の身の回りの世話をさせると。それを聞き、マリアはこの男性が本当に身分のいい紳士なのであると理解できた。
黄金門をくぐり、神殿につくまでの時間が、酷く短いように思えた。マリアはその間、ずっとエルサレムの市街を眺めていた。人がぞろぞろいる。ローマ人もいる。自分の故郷では考えられない光景だった。だが彼女を一つ不安にさせたのが、黒い肌の人間を見かけなかったことだった。
ヨアキムは神殿につくなり馬車を降りて、祭司たちに何やら話していた。神殿の中でもめまぐるしく人が動く。神殿にかかった七色の垂れ幕、生贄用に売られている真っ白いハトや子羊が、マリアの目には非常に美しいもののように映っていた。
だが、やがてとたとたと足音が聞こえてくる。マリアは慌てて振り返り、恭しくお辞儀をした。
「お父様!その子?」
彼女は高くて済んだ声をしていた。精一杯大切にされた育ちのいい令嬢の声、そのものであった。
マリアは、まだ神妙に令嬢の顔を見ないままでいた。それが奴隷が貴族の女性に払う礼儀と言うものだ。
「そうだよ」ヨアキムの声。「顔を上げてよ!」はつらつと、その令嬢は言った。マリアはそこで初めて、自分の仕える令嬢の顔を見た。
彼女は、老人であるヨアキムの孫と言ってもいいような年齢の少女だった。年寄り子なのだろうか。年はマリアと同じだと聞いていたが、良い栄養状態からもたらされるのであろう高い背と良い肉付きから、並ぶととてもじゃないがマリアの方が子供のように見えた。令嬢マリアは驚くほど、澄んだ白い肌をしていた。畑仕事などとは縁のない、正真正銘の育ちのいいものの肌だった。鳩よりも、子羊よりも、その白は尊いものとマリアの目には映った。
だが令嬢マリアは、そう考えつつ丁寧に挨拶をするマリアの顔を見つめて言った。
「素敵!綺麗な色の肌だわ」
マリアはまず、その言葉に面食らった。売り飛ばされて故郷を離れて以来、親不孝者のハムの血筋をあらわすにも等しいこの肌は、何をおいてもまず蔑まれ、汚いと言われる対象であったのだが。マリアも、それを許容するように心がけていた。第一口答えが許される身分でもない。
「私はね、いなご豆のお菓子となつめやしが何より好きなのよ。貴方のお肌は、甘いお菓子そっくり!お父様、ありがとう、こんな素敵な子をくれて!」
マリアは最初、どうとも思えなかった。初めて聞くその言葉に自分が思う感情を、見失った。それは初めて感じる感触だった。
だが、彼女はしばらく沈黙したのち、ともかくも神殿の最奥部に居るのであろう神に感謝した。今度の主人として、どうやら優しい令嬢をあてがってくれた神に。
「幸甚に存じます、お嬢様」マリアは控えめに喜んで見せた。だが、その言葉を持ってしても、自分の心に沸いた感情は到底表せないようだった。

●●●

「宗教はアヘンである」と言われようとも、人は宗教をやめられない。もはやそれは、火を見るより明らかな事実であった。
近代化していけば宗教はより合理性の高く「正当」な近代的価値観にとってかわられるのだ、というのは所詮理想論にすぎず、宗教はそこまで弱いものではないし人間もそこまでドライな存在ではない。修道士アンジェイも、そう確信しているポーランド人の一人であった。

彼は小さい頃視た黒い聖母を見た時の記憶が忘れられない。ヤスナ・グラ修道院へ、初めて来た日のこと。親に連れられて行った巡礼。幼い自分の目の前で、黒い女が黒い子供を抱いていた。ポーランド人らしく真っ白な肌を持つアンジェイは、「画家の守護聖人聖ルカが、聖家族の使っていたテーブルの鉄板に描いた由緒ある品」というリアリストなら眉唾物だと言い飛ばしそうな解説も、「昔火災に会い、すすで汚れて黒い肌になったのだ」というこれならリアリストも信じそうな解説もほぼ聞き飛ばし、ひたすらに黒い肌の親子に見入っていた。アンジェイの目には、彼らは今まで見たいかなるものよりも清らかで聖なるものだと感じられた。

聖母は、ルネサンスの西洋絵画に書かれるようなたおやかで鷹揚な美女としての聖母マリアとは、いささか趣が違っていた。視界は焦点が定まっておらず、虚ろなようにも見える。面長な顔はやせて、多少老けても見えた。表情は、決して微笑みではない。まるで抱く我が子の悲惨な、短い一生を予見していることをも思わせるようだ。数百年の年月を経て傷んだ画面の傷は、そのまま聖母の黒い肌についた傷のようにも見えた。しかし、少年アンジェイの目にそれは返って素晴らしいものとして映った。
もとより、滑らかな肌、ふくよかな体、澄んだ瞳に赤い唇、傷一つない美少女の肉体。それらに代表されるような美に掛け替えのない意味を見出すような気質のものならば、こんな道を選んではいない。少なくともアンジェイは自己分析能力のある男だったのだから。
かの偉大な聖パウロも、そのような即物的な美などには塵芥と同じ程度の価値しか見出さなかった気質だったと言うことだ。なるほど、清らかさと言うものを擬人化するのであれば、確かにパッと最初にはそのような傷一つない美少女が思いつくだろう。しかし自分達、修道士のような暮らしが清貧と言うのなら、その肌は日に焼けているのではないか。その手には傷があるのではないか。その顔は毎日の労働で疲れていてもなんの不思議もないのではないか。しかしその中から湧き出る精神の美しさこそが、我らが求める美しさなのである、と、彼は黒い聖母を醜いと批判した来客に、一度そのような言葉を浴びせたことがある。無論のこと、聖母の絵そのものもどれほど魅力的か、いかなる美術的価値を持っているか、ビザンティン美術とイタリア美術の折衷のようなその画風を掘り下げつつ解説もした。(勿論、当作品としてもヤスナ・グラの聖母マリアが美術的観点から見て非常に美しい作品であることは、この場を借りて全面的に肯定させていただく)。

アンジェイがやがて神学校に進んだのも、そして愛しい故郷で神父になることも切り捨ててこのヤスナ・グラで修道士として生きる決意を固めたことも、思えばその時に既に決まった運命であるのかもしれない。
ポーランドが共産主義国になってしまった後も、教会が迫害されていく様子を見ながらも、アンジェイは神の使徒らへの迫害を嘆きこそすれ、あの時に普通の学校に行っていればと感じることなど一度もなかった。修道士として生きる彼は奇跡を起こしたこともなく、幻視を見たこともない、どこにでもいる一介のカトリックの聖職者にすぎなかったが、彼は間違いなく神と共に生きる神の人であった。
そう言えば、彼は今元気だろうか?15年前神学校で、一番の友だちだった彼は。共に青春を分かち合ったあの彼は……。とアンジェイはぼんやり考えたが、やがて後ろから飛んできた声にその思いもかき消された。

「兄弟アンジェイ。枢機卿が言われたことをご存じか?」
彼はアンジェイの同僚の修道士で、ミヘイという男だった。もちろん知っている。「大ノヴェナ」の件だろう。「ああ」とアンジェイは鷹揚に返答する。
ポーランド枢機卿ヴィジンスキは現在、政府によって拘留されている身だ。枢機卿と言う偉大な立場を差し置いても、共産主義当局に睨まれ、それでもなお信仰の道を貫き通す彼の事を、アンジェイは地上の人間のうちで最も尊敬している。そんな彼が企画したのが、「大ノヴェナ」である。
「ノヴェナ」とは、本来9日間にわたる祈りの事を言う。では大ノヴェナとはなにか。それは9日間ならぬ、9年間に及ぶ大祈祷の計画であった。
現在、1956年。8月から始まる予定の9年間のノヴェナの先にあるものは、1966年。ポーランド、受洗千年にあたる年だった。9年にわたる前祝の後、記録すべき千年祭をどう盛大に祝おうか、と今から考えを巡らせるのは、ポーランド・カトリック教会から当局に対する、真っ向からの反抗だった。
アンジェイはミヘイとともに、期待に胸を膨らませていた。彼の心を奮い立たせるものは数えきれなかったが、その中に一つ、黒真珠のようなひときわ大きな輝きがあった。
大ノヴェナの幕開けの開かれるミサの会場は、とっくにきまりきっている。このチェンストホヴァの、ヤスナ・グラ修道院。ポーランドの聖なる日に、黒い聖母、ポーランドの女王無くして、何が始まるというのだろうか。
ここに、一体どれほどの人々が集まるだろう。キリストへの思いに心焦がすポーランド中の敬虔な信徒が、ここに集う。そして、黒い聖母を目にするのだ。
アンジェイは格子戸の中に眠る黒い聖母に思いをはせた。いったい何人の人間が、あの時の自分と同じ心持になってくれるのだろう。あの幸福な気持ちに。アンジェイはそれが楽しみでならない。

●●●

神殿での暮らしは、マリアにとって幸い楽しいものだった。
何と言っても、ここは治安がいい。黒い肌を遠慮する必要こそあれ、前いたときのように男たちに乱暴されることもない。司祭たちもそりゃあ権力のある男性たちなのだから全員が全員清貧に、というわけにもいかないだろうが、よその家、特に良家から預かっている未婚のお嬢さんたち……まさにマリアの主人である令嬢マリアのような……に手を付けて下手ないざこざになるよりは、金もあるのだし娼婦を買うに決まっている。娼婦と言ったって質のいいのはいいのだし、彼女たちもその道のプロなのだからめったに言いふらしなどしない。令嬢たちに手を出す方がどう考えたってリスクが高いのだ。したがって、令嬢マリアにいつも付いている必要のあるマリアの身の安全も半ば守られているようなものだった。

マリアは神殿の門をくぐり、裏方に回る。袋をぶらぶらと揺らしながら屋内に入り、階段をのぼった。
「買ってきてくれた?」
部屋の中では、令嬢マリアが待っていた。手に持った糸紡ぎの道具はすでにその用途を終えており、彼女の膝の上には純白の絹糸の束があった。
「はい、お嬢様」
袋の中から出てきた、市場で買ってきた飴と干し無花果入りのパン菓子に、令嬢マリアはパッと無邪気に顔を明るくする。この令嬢のこういう表情が好きだ、とマリアは感じていた。
彼女は3歳の時に神殿に預けられたらしい。それ以来、神殿から外には一歩も出ずに暮らしていると聞く。この、全イスラエルで最も清らなる空間で。だからだろうか。彼女はあらゆるこの世の穢れから守られているようにすら見えた。彼女は美しかった。マリアが出会った誰よりも美しく、清水のみを吸って咲いた白百合のように穢れなかった。イヴの犯した原罪が、この少女には宿っていないかのように、マリアには感じられた。
きっとこの少女は、その子供を腕に抱くときにも、一切の痛みなどないのだろう。いや、そもそも彼女には血の穢れなど一生訪れないのではないか。令嬢マリアは初潮がまだ来ていないらしいが、彼女はそう思わせる何かがあった。この世の悪など何も知らず、汚れなどという概念も知らず、ただ神への祈りとつつましやかな労働をし、たまの楽しみは甘い菓子程度のものという彼女の姿は、マリアにとって永遠の穢れ無き乙女と言うにふさわしい存在だった。
彼女はその爪の長く伸びた指で、飴を摘み上げる。「もうお仕事は終わったんだもの、誰にも文句は言わせないんだから」
彼女はマリアの手を掴んだ。マリアはどきりとする。「お嬢様!」と思わず口について出てしまった。
「なに?」
「私のようなものの手を握っては」
「そんなの私の勝手でしょ」
屈託なく、令嬢マリアは笑う。マリアは手から伝わる令嬢の手の柔らかさが、暖かさが、たまらなく素晴らしいものに思えた。それと同時に、おそらくあちらに伝わっているのであろう自分の手の冷たさ、ごつごつとした固さがどう受け取られるのだろうと思えば恥ずかしかった。
令嬢マリアはそんな彼女の思いなどいざ知らず、スタスタと階段を上り日の照りつける屋上に出た。彼女は自前の青いベールでしっかりと肌を覆い隠し、「はい」と、飴玉をマリアにも渡した。マリアは面喰った。
「お嬢様、このようなものを頂くわけには」
「いいじゃない。一緒に食べてよ。一緒に食べると、どんなものもおいしくなるでしょ!」
彼女はこう言う少女なのだ。
3歳の頃からずっと神殿住まいで、人寂しい所もあったのかもしれない。マリアが来てからはずっと彼女の方もマリアにべったりだ。無論マリアとしてもそれが本分であるし、何より自分を罵り乱暴する男主人よりも、この優しい女主人の方がずっといい。
二人は屋上から神殿を見下ろした。女性たちは神殿の最奥部には入れず、夫たちが祈りを終えて帰ってくるのを待たされている様子がカラフルなベールが花畑のように群がっている様子から推し量れた。
「あーあ。中に入れてあげればいいのに」飴をなめながら令嬢マリアは言う。
「私だってこんなところにいるんだし、ね?」
「おっしゃる通りです。お嬢様」マリアは口に手を当てて笑った。令嬢の考えに、賛同しているわけではない。奴隷に自由が無いように、女性にも自由がないのは当然の事だ、とマリアは捕えていた。しかし一方でそのような世間の常識に捕らわれず無邪気に子供じみた理屈を言う令嬢をなんだか微笑ましく思ったのもまた確かだ。彼女はそう笑った拍子に、自分の手を見た。やはり、変わり映えしない、傷とタコだらけの手だった。
「どうしたの?」令嬢マリアはちょこんと首をかしげる。マリアは慌てて首を振った。「いえ、なんでも」
「ふうん……」令嬢はそれはそれとして受け止めてくれたようだが、その後こう付け足した。
「私ね。あなたの手、好きよ。昔、大好きだった女預言者様がいたの。もうお年を召して亡くなってしまわれたけど……その人、いつも神さまの教えを説いたり、仕事をしたりするのに忙しくてね。孤児を引き取って育てたりもしてたのよ。……その人と握手したことがあるの。その人の手、すごく冷たくて、固かったの。多分、そうなるまで沢山働いたからよね。だから私、その手の感触がとても好きになったんだ。あなたの手、あの人の手を思い出すわ」
「お嬢様」マリアははにかんだ。「幸甚に存じます……」
マリアはようやく飴に手を付けた。自分で買ったそれは、とても甘い味がした。美しい令嬢と二人、多くに人が所狭しと行きかう神殿を見おろしながら、マリアは幸せを感じていた。

と、そのような中、令嬢の目が一人の人物にとまった。ヨアキムと並んで仲良く談笑しながら、神殿にやってきた男。
「ヨセフ様!」彼女は呟いた。マリアも、吸い寄せられるようにそちらを見た。そして、彼女の目、非常にいいことが取り柄の双眸はその時、その視線の先にいた男性に釘付けになった。
30代は下りそうにない、40に届いていてもおかしくはない男だったが、それを差し置いても彼は美男子だった。美しく年を取ったタイプとでもいうべきだろうか。がっしりとした体つきとは裏はらに、その表情は穏やかで上品だった。素敵な人、という感想を、マリアはその時彼に感じた。
令嬢も、彼の事を見ていた。だがほどなくして、マリアも彼の存在に気付いたことを悟り、自慢げに言った。
「素敵な人でしょ?私の婚約者よ!」

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