クリスマス市のグリューワイン

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feat: Samson 第十五話



サムソンは、アビメレクの治める地、ガザに連行された。彼はただで処刑にはされなかった。彼がペリシテ人にさんざん味わわせてきた屈辱を返すためと、彼は両目をくりぬかれ、足かせをはめられて、朝から晩まで、家畜のように粉ひきの仕事をさせられた。彼は不思議とそれに対して何も言わなかった。ペリシテ人たちは、完全にサムソンの心を折ってやったと有頂天になった。
サムソンを失い、マノアも失ったイスラエルはまた混乱状態になったが、サムソンの耳にそれは届かなかった。彼はずっと、粉を引かされ続けた。一日中、誰とも話さないまま。

「(イスラエルの神か、ダゴンかは知らんが、神と言うものは数奇な運命を与えるものだ)」アビメレクはある日、おそらく自分にも気づかず牛のように粉を引かされているサムソンを黙って見つめながら、そう思った。
「(お前とこんな形で出会いたくはなかった。デリラの婿として、お前と出会えればどんなにかよかったろうに……神とは、なぜ我々に厳しい運命を与えるのだろう。そしてお前はなぜ十四の幼い身で、その神に従い続けたというのだ)」
だが、同時にアビメレクは思う。しかし彼が捕らわれたのは神の思し召しだったとしても、彼の目をくり貫いたのは、今や無力になった彼を縛り付け屈辱的な労働を課したのは、所詮自分たち、人間だ。
神が厳しい、などただの泣き言かもしれない。アビメレクはそう思った。残酷なことは少なからず、人間がしているものだ。そして自分はまさに、その執行者だったではないか。

ペリシテの領主たちは、あの厄介なサムソンが打ち取れたことへの祝いの儀式と宴会を執り行おうという話をした。ガザの巨大なダゴン神殿で、その祝いは開かれることになった。

ダゴンの祭壇が燃え上がる。ダゴンの祭司たちは、生贄をそこで大量にささげ、喜び祝った。アシュケロンの領主が彼らの先頭に立ち、ダゴンに礼を言った。
「我々の神、偉大なるダゴンは敵サムソンを、我々の手に渡してくださった!」
そして、その巨大神殿を埋め尽くすほど大勢、もう何千人かもわからないほど集まったペリシテ人たちもまた、喜び歌って言った。
「我が国を荒らした張本人、数多くの同胞の仇を、偉大なるダゴンは、我々の手に渡してくださった!」

そんな祝いのさなかだった。ふと、誰かが言い出したのだ。
「そのサムソンを、ここに呼ぼう。惨めな家畜になったそいつを、見世物にして楽しむんだ」
最初は誰が言ったのかもわからない。しかしそれはあっという間に宴会場に伝染し、彼らは口々にここにサムソンを呼べ、と言った。それに、誰もがそれに楽しさを覚えていた。
「アビメレク!」領主たちは言った。「いいだろう?連れてくるように言ってくれ!」
「……分かった、それもよかろうな」アビメレクは言い、部下に合図をした。

「そう言えば……」サムソンの到着を待っている間、アビメレクは秘書に聞いた。
「デリラ……あの少女は、あの後どうした?」
「あの不気味な小娘ですか?」彼女がアビメレクの娘だとも知らない秘書は、アビメレクが以前からそれを気にしているのを、万が一にも危険なことをしないようにと危惧して、程度にしか想定してはいなかった。
「大したことをした様子はありません。小屋を一つと、機織り台を買って、後は仕立て屋と宝石屋に行ったと」
「そうか」アビメレクは返した。
そんなやり取りが終わった中、宴会場がわいた。サムソンが到着したのだ。

彼らは、物乞いのようなぼろを身にまとい、抉り出された目に覆いを付けたサムソンの姿を見た。彼はこの上なく、愉快に嘲笑した。
笑うしかない。何千人ものペリシテ人をたった一人で葬ってきた英雄サムソンのなれの果てがこれだ。鎖につながれ引きずられもはや目も見えず、足には何も履かずに、その背の高い体には汚れたぼろきれ一枚しか纏わせてもらえない。あの長かった髪はすっかり切られ、別人のように貧相にすら見えた。
サムソンはガザの軍人に引きずられながら、彼らの後を歩くように、宴会場中を引きずり回された。巨大なダゴン像の前すら、彼は歩かされた。
最後に宴会場の中心に見世物のように置かれ、領主たちはそんな彼を指して言った。
「ペリシテ人よ。これがサムソンだ!我々の仇だ!だが今や、奴隷以下の存在、惨めなわれわれの家畜にすぎない!」


サムソンはそれらを聞いていた。自分を嘲笑する、数々の声。
何千人いるのだろうか?いや、一万人といそうな気すらしてくる。誰もかれもが、惨めになった自分をあざ笑っていた。
サムソンはそれに関して、特別に心が痛むところはなかった。ただ、彼らの嘲笑を聞きながら、彼は思っていた。

力が入らない。しかし、これがひょっとして普通の人間の力なのだろうか、とサムソンは思っていた。彼にはいまや粉ひきの臼を引くことすら重労働だった。
彼は真っ暗な視界の中で、そのことを別段不幸とも思ってなかった。彼は不思議に、気が軽かったのだ。鎖につながれていながら、彼は、鎖よりも彼を束縛していた大きなものから解き放たれた、そのような気がしていたのだ。彼は満足していた。

「(だがなあ)」サムソンは思っていた。
ここ数日、ずっと一人だけでただ粉を引くところに居させられたのに、今、急に数千人の嘲笑の渦巻く空間に来させられて、サムソンは酷い不快感を覚えていた。彼らが見て笑っているのは、道化師の踊りではないのだ。目をえぐられ、動物のように扱われた一人の人間を、彼らはここまで面白がっているのだ。そしてそれには非常に正当な理由がある。彼が、彼らの同胞を何千人と殺したから。
それについて、彼は笑いの渦巻く中静かに思いをはせた。自分は何のために殺してきたのだろうか。親のため?イスラエルのため?
殆ど、そうであったのだろう。だが、親は、イスラエルは、断じて彼にそうは言わなかった。
彼らは、こう言った。これは「神」のためだと。神のため、彼らはサムソンを生んだのだ。神のため彼らはサムソンを働かせたのだ。神のため、彼らはサムソンを、ペリシテ人と戦わせたのだ。

「(神様、か……)」
サムソンはそう思った。そして、ふっと面白いこと考えついた。彼は、心の中で、神に向かって言葉を発した。神ならば、このような言葉も聞こえようと思って。


「(神様、神様、聞こえるか?俺のこと、覚えてるか?忘れてたら思い出してくれ、十四年間あんたに仕えて、あんたのため何人も人殺ししてきたサムソンだ)」
返事はなかった。だが、サムソンは別にかまいもしなかった。彼は心の中で、神に語りかけ続けた。
「(あんたは俺に確かに力を与えてくれた。こうして力を失って、はっきりと分かるぜ。……けどよ、その力は、俺じゃねえ。俺の親が望んだもんだ。俺がもらったのは、他人が望んだ力。俺が望んだ力じゃねえ。だからこうして、手放させてもらったぜ。それくらい、いいだろ。俺は、俺なんだから)」
サムソンに、巨大な青銅のダゴン像は見えない。自分を嘲笑する人々も一切見えない。だが、彼は暗闇の中、何かを見ようとしていた。
「(……俺には分かる。俺の人生は、もうじき終わる。……最後の最後によ、神様、俺は、俺が望んで俺の力を得たいもんだ。……望んでやったことじゃないとはいえ、やっぱり俺は、このペリシテ人共が、俺を馬鹿にする大人が、大嫌いだからな)」
その時だ。サムソンの真っ暗な視界に、何かが見えた。サムソンは、それを感じたのだ。それは、光のようだった。光と言うこと以外は分からない。だが、サムソンはその光に向けて、言った。
「(神様!俺と取引をしようぜ。一瞬で良い、俺に、元の力を戻してくれ。その代りに俺はあんたに代わって、このイスラエルの敵どもを、一網打尽にしてやるぜ!)」
その時だ。サムソンの真っ暗な視界が、一瞬、真っ白に変わった。


「……この神殿の、大黒柱はどこだ?」
サムソンが神殿に来て、初めて口を開いて出した言葉はそれだった。ペリシテ人への悪態でも、なんでもない言葉。それを、彼は自らの鎖を握るペリシテの軍人達に言った。彼らは一瞬びくりと驚くが、サムソンはそれに続いて「それに寄りかからせてくれ。疲れたんだ」と言う。
無視することもできたが、彼らはサムソンの言うとおりにした。あの豪傑が、これしきの事で疲れて泣き言を言う様もまた面白いと思ったのだ。
その神殿の大黒柱は二本、並んで立っていた。サムソンはその間に連れてこられた。
「さあ、ゆっくり休みな」
軍人たちは言った。だが、サムソンは彼が思った通りにはしなかった。
彼は両手を広げ、ぴたりと、両の手をその二本の大黒柱につける。秘書は怪訝に思った。次の瞬間、サムソンは口を開いた。
「てめえら、よく聞けよ」
その声は宴会場に響いた。渦巻く嘲笑も消え去るような、重々しい響きだった。それと同時に、ペリシテ人は目を疑った。
サムソンの刈り込まれた頭から、一斉に髪の毛が生えたのだ。あっという間に彼の身長ほども長く伸びたそれは、一気にぶわりとなびいた。
「俺は生まれた時から、てめえらを殺して生きてきた。俺が死ぬ時も、てめえらと一緒だ!」
そう言うなり、サムソンは両手に力を込めた。懐かしい。生まれたころから、持っていた怪力の感触が、両の腕を稲妻のように走るのがわかった。
ペリシテ人たちが気付いたときにはもう遅かった。サムソンの怪力を一身に浴びた石の柱は、一瞬でビキビキとひびが入り、石の屑になって崩れ落ちた。そして、建物を支えていたその二本を失ったことで、数千人のペリシテ人を内包していた巨大なダゴン神殿も音を立てて一斉に崩れたのだ。
「(……どうも、神様)」
悲鳴が上がる。神殿内は、パニックになった。
崩れ落ちる神殿は、彼らをすぐに殺してしまった。天井から落ちる石に打たれ、柱につぶされ、大勢いるのが仇となって彼らは逃げることもままならなかった。

悲鳴がこだまする。アビメレクは自分以外の領主たちが椅子から立ち上がって逃げ出したのを認めた。その時彼は、あの血の海になったレヒでも、自分だけは逃げ出さなかった、サムソンから目を離せなかったことを思い返していた。
そうだ。思えばあの時、自分はサムソンの中に自分を見たのかもしれない。残酷な罪人、しかし孤独だった、愛してやりたかった、昔の自分を。
「デリラ」彼は崩れる天井を仰ぎみて、言った。
「ようやく、君に会えるのだな。驚くよ。私達の娘に、夫ができたんだ。生意気で乱暴な奴だが、きっと君とも仲良くできる。みんなで話すのが、楽しみだ」
そして、彼は神に感謝した。漸く、自分とデリラを引き合わせてくれる神に。その神の名前がなんであるかなど、彼にとってはどうでもよかった。その感謝を唱え終った次の瞬間、一瞬だけ彼の頭上に激痛が走り、アビメレクの意識は全て無くなった。巨大なダゴン神の像が折れ、自分を慕ったペリシテ人たちを巻き添えにして無残に崩れ果てていった。


巨大な石の神殿が崩れ落ちるのに、そう時間はかかるまい。だから、そのパニックはそう長いものであるはずがなかったのだ。数千人のペリシテ人は、ほぼ即死してしまったはずなのだから。
だが、サムソンは一人、現実から切り離された空間にいるようだった。なぜか、自分の上に石が落ちてこない。彼は崩壊するダゴン神殿の中、一人たたずみ、そして、つぶされた目で何者かを見たのだ。
それは、燃えるような恐ろしい目をした、眩しく輝く天使だった。ハツレルポニが彼を身ごもった際、彼女のもとに現れた天使だ。だが、彼はそれを知らない。彼は両手を広げ、長い髪をその天使の巻き起こす突風にたなびかせて、言った。
「さあ、連れてけよ。天国でも地獄でも、俺の行くべきところにな」
サムソンの意識は、そこで途絶えた。


三日後、マハネ・ダンの人々がガザに来て、崩壊した神殿の中からサムソンの死体を見つけ出した。自慢の金髪を刈られ、目もなく、惨めな姿ではあったが、彼らはそれをマハネ・ダンに運んだ。そして偉大な英雄の死を嘆いたのち、彼をマノア達と同じ墓に埋葬した。サムソンが死の間際殺した数は、彼が生前殺した数よりも多かったと言う。


ところで、その墓に後日、不思議な女が訪れた。彼女はまるで貴族か王女のような豪奢なドレスに身を包み、目の覚めるような黄金のベールをまとっていた。どこからどう見ても花嫁の装いだったが、彼女の近くに花婿はおらず、彼女は一人きりだった。話しかけても彼女はベールで顔を隠したまま無視し、ただ、その墓の前に七日間居続けた後、ある朝に首をつって死んでいた。

その時、人々には二つの事が分かった。一つはその娘が、顔中焼けただれた世にも醜い顔をしていたということ。しかし、その顔をもってしても、不思議と、豪華すぎる花嫁衣装は彼女によく似合っていた。そしてもう一つは、彼女の被っていた途方もなく美しい金のベールが、この世のものとは思えないほど見事な、人の髪の毛で織りこまれていたということだ。

その娘が英雄サムソンの花嫁であると、誰が分かっただろうか。誰も分からない。サムソンは記録上、独身で死んだとなっている。
 
 

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feat: Samson 第十四話



「決心がついたのかい?」
「……はい」
アビメレクはデリラを奥に通した。彼は薄く微笑んでいた。嬉しそうだった。他のペリシテの領主たちもそれを聞いて部屋に一堂に会し、全員でデリラと向かい合った。
「……本当にできるのか?」
エクロンの領主が疑わしげにデリラに言う。デリラは「はい」と言った。
「……サムソンは」
どうやって?普通に縛り上げてもあれは抜け出してしまう、と、彼らが口々に言いかけようとしたところ、デリラは彼らの機先を制して口を開いた。
「サムソンは、人間離れした怪力の持ち主です。……おそらく、それは、イスラエルの神が彼に力を与えているからなのでしょう」
「証明のしようもないが、確かにそれが一番説明がつくことも事実だ」アシュケロンの領主が相槌を打った。「説明をするには、あまりに常識から離れすぎているからね」
「サムソンは、ナジル人です。生まれた時から彼は、神にその身を捧げられた存在なのです」
「それと引き換えに、神が力を与えているということか?」と、アビメレク。
「はい。……おそらくは」
「それで、どうなるんだ?」と、ガトの領主が聞く。デリラはそれに答えた。
「……ナジル人は、三つの誓いを立てます。一つは、葡萄を食べないこと。一つは、死体に触れないこと。そしてもう一つは、髪の毛を切らないことです。……サムソンは、このうち、二つの誓いを破りました。私の目の前で、です。……もしも、最後の誓いを破れば」
「……サムソンは神の加護を失い、全くの無力になる、と?」
「無論断定はできません。しかし、可能性があります」
「可能性、ねぇ……」と、アシュケロンの領主。「だが、可能性であっても縋らねばならんのが我々の現状と言うことも、また確かだ」
「デリラとやら、それを、君が?」と、アシュドトの領主が言う。
「はい。私以外に、それができる方など、おられますでしょうか」
「……無理だろうな」アビメレクが言った。
「結構!デリラ、君にこのランプを渡しておこう」
アビメレクはデリラの手に、一つの銀無垢のランプを手渡した。
「金曜の夜、君がサムソンの髪を切ったら、このランプに明かりをともして合図したまえ。我々はサムソンの家に乗り込み、無力になった奴を連行する。それでいいね?」
「かまいません」
「よし」アビメレクは本当に、嬉しそうだった。「それではデリラ。君は……」
「ですから、領主の皆様」デリラはあくまで控えめに、しかし奴隷の卑屈さは、今までの彼女からすれば不思議なほど感じさせない堂々とした声音で告げた。
「厚かましいとは存じますが、礼金を頂きたく思います。それで……どうか、これきりとなさってください。このような私にペリシテ人に戻るがよい、と言ってくださったお気持ちは大変光栄に思いますが、私はもう、ペリシテに帰れる身ではございません。ダゴンの信徒を名乗るにはイスラエルに汚されすぎてしまいました。イスラエル人をペリシテに迎え入れたとあっては、皆様の恥にもなりましょう。ですから、礼はお金でいただきたいのです。イスラエルの娘をお金で雇ったと、今回の事は、そう言った形にしてほしく思います」

デリラの言葉に、アビメレクは目を瞬かせていた。信じられないと言った風に。だが他の領主たちは、彼のそんな様子などには気が付かないようだった。
「それでいいのか?」エクロンの領主が言った。「分からんものだな。イスラエル人は君を丁重に扱っていたわけではないのだろう?」
「ええ、でも、もう決めたことです」
「まあ、それならそれで我々は別にかまわんのだがね……金を惜しむ気もない。間違いなく、礼に値する事ではあるし」アシュケロンの領主が、少し驚きながら言う。
「とりあえず、我々一人銀貨で千……いや、もう一声色を付けて千百枚位ならすぐにでも都合できる。五人分で五千五百だ。そんなものでいいかね」
「ありがとうございます。結構です。では、そのお金を決行日の前まで……町はずれの荒野に、石を積み立てて作った小さなお墓があるのです。そのお墓に埋めてほしく思います」
「了解した」
「ありがとうございます。では、私はこれで」
デリラはぺこりとお辞儀をして、踵を返した。その後ろから、追いかけてくる影があった。
「デリラ!」
アビメレクだった。彼は、悲痛な顔でデリラに取りすがった。
「私のもとに、帰って来てくれるのではなかったのか?」
彼は震える声で言った。デリラには、彼の気持ちも分かる。自分だってずっと、父親か母親、そのどちらかに会いたかった。
しかし、デリラはもう決めた。サムソンの泣く顔を見たとき、親と一緒に暮らしたいという自分の気持ちは、掻き消えてしまったのだ。
「お前はサムソンを捕える手伝いをしてくれるのだろう?」
「はい」
「なら、何故ペリシテに帰ることを拒む」アビメレクは膝をつき、娘の肩を抱いた。「イスラエルに汚されているだと。誰にもそんなことは言わせない。この私が、誰にもお前に文句など言わせない。本当だ、信じてくれ。だから……」
「ありがとうございます。でも……」
デリラは包帯の奥で、口元を笑わせながら言った。父親の目を、しっかり見つめて。
「サムソンを、愛してしまいましたから」
それを聞いて、アビメレクは目を丸く見開いた。冷徹な君主に似合わない、幼い表情だった。デリラはくすりと笑って、続ける。
「サムソンは、ペリシテ人を何人も殺してきました。ペリシテの領主の皆さんが彼を殺そうと思うのは、当然の事だと思います。サムソンに一番愛している人を殺された人も、命にも代えがたい程大切なものを壊された人も、何人も、何人もいらっしゃるでしょう。だから、サムソンを憎む気持ちを、私は否定できません。ここで死ぬなら、彼のその罪が償われるということなのでしょう。……でも、それでも、あの人はずっと一人だったんです、親にも、誰にも愛されなくて、あの人もずっと、可愛そうな人だったんです」
ふと気が付いた。アビメレクの自分を見つめる目は、どこか、サムソンのそれに似ていた。ああ、きっと母も、このような気持ちだったのかもしれない。このような気持ちで、この男の人を愛して自分は生まれたのかもしれない。
自分は汚れていると思っていた。しかし、今思える。このような気持ちのもと作られた自分は、大変な幸せ者だ。なぜそんな自分が、汚れているものか。
「だから、私はイスラエルを離れません。彼だって、最後まで誰かがそばにいて……愛されたって、いいはずですから」
ではなぜお前はサムソンを裏切る。そう言う問いかけがされるかも、とデリラは考えていた。だがアビメレクは一切そのような野暮なことは聞かなかった。
彼にも、何かが分かったのだろう。
「……どんな人間にだって、一生に一度くらいは、無償の愛なるものを受け取る権利がある」アビメレクはポツリと呟いた。
「お前のお母さんが言っていたんだ。私を抱きしめながら……何度も勇気づけてくれた言葉だ……デリラ。お前はお母さんと同じだね、本当に、同じだ」
アビメレクは立ち上がり、そっと娘の頭を撫でた。
「行くがいい。私に邪魔する権利などない。私もあの時、お母さんと一緒にいた時にその愛を与えられるのを邪魔されようものなら、絶対に許せなかっただろうから」
「ありがとう……ございます」
デリラは自分の頭から手が離されたのを見届けると、銀無垢のランプを揺らしながら、宿屋を後にしていった。

木曜日が終わろうとするとき、デリラはメレクの墓に、彼と一緒に五つの袋が隠されているのを見つけた。彼女はそれを、秘密の場所に持っていった。


金曜の晩の事だった。
デリラはサムソンと一緒に、彼の部屋にいた。彼は、夕食に出たパンを一つ部屋に持ってきていた。
「デリラ。今日もお疲れさん」彼は言った。そして、パンを裂いて、彼女に大きく裂けた方を手渡した。
「あれっぽっちの飯じゃ足りねえだろ、食えよ」
デリラは彼の手ずから渡されたそのパンを受け取り、自分の唇に押し込む。彼もいっしょに、小さいほうのパンを食べた。
彼は三つ編みも解かないまま、寝台に座るデリラの膝を枕にして、寝そべった。デリラはそんな彼の額を静かに撫でた。
「なあ、デリラ」彼は言う。
「なあに?」
「俺、大人になりたくねえな」
彼はもう一度、そのことを言った。デリラは包帯の下で笑って「ええ」と言う。
「俺が大人になったら、俺、お前と結婚したくなるから」
彼は彼女の顔を見上げながらそう言った。
「結婚したら、あんなことしなきゃならないんだろ。そんなのはいやだ。したくないし、お前がされるのも嫌だ」
「大丈夫、大丈夫よ。サムソン」
その会話は、非常に穏やかで温かかった。非現実的と言ってもいい心地だった。彼らはまるで、そこが外界から隔離された夢の空間のように、話し合った。
「デリラ、俺、お前が好きだ」
「ええ、私も」
驚くほど、二人ともその言葉をするりと発した。
「デリラ。俺を、憐れんでくれてありがとう。俺のそばに居てくれて、ありがとう。……大丈夫だ、って言ってくれて、本当にありがとう」
サムソンは何を分かっていたのだろうか。彼の感がなせる技かもしれない。しかし、ひょっとしたら、彼はデリラの心をすっかり分かっていたのかもしれない。そう、デリラは思った。デリラにも、サムソンがこれから何を言うか分かっているような気分だった。サムソンが言う言葉の一つ一つに、全く意外性がなかった。まるで自分の心とサムソンの心が同一になった気分だった。
デリラは彼を自分の膝に乗せ、ずっと彼の頭を撫で続けていた。彼はデリラを下から覗き込み、言った。
「お前、髪が伸びてきたんだな」
「ええ」
「いいな、お前の赤毛。素敵だ」
「ありがとう。顔は酷いものだけど」
「顔がどうしたよ。お前は赤毛が綺麗で、そして、あったかいんだ。それで十分じゃねぇか」
サムソンはそう言って、デリラの細く痩せた膝に深く顔をうずめた。
「あったかい。お前、本当にあったかいよ」
痩せこけて骨ばんだ体、働き疲れて冷え切った体を、サムソンはそう言った。そして、その上で涙を流した。デリラも彼と一緒に泣いた。彼らの涙は寝台に転がり落ち、そして、一緒になって混ざった。
「サムソン」
泣きながら、彼女は彼に告げた。
「大人になんか、ならなくていいのよ。サムソンは、今までずっと頑張ってきたんだもの。何十年も生きている大人よりずっと、頑張って、頑張りぬいて、生きてきたんだもの」
彼女の涙が、彼の顔に転がり落ちた。デリラは、サムソンの頬を優しく撫でる。サムソンは、彼女の言葉に「ありがとう、ありがとう、本当に、ありがとう」と、何度も、何度も繰り返した。


夜は更けて、遅い時間になっていた。彼は、デリラに「頼むから、寝ないでくれ。そこに、いてくれよ」と言った。彼もデリラも、泣きに泣いて、非常に疲れていた。
「ええ。大丈夫よ。サムソン。私はずっと起きているから」
彼女もう一度、彼の頭を撫でた。そして、自然に歌を歌った。ペリシテ人の子守歌だ。
自分は、この歌をどこで初めて習ったのだろうか。屋敷に仕える乳母が、屋敷の子供に歌っていたものだろうか。それとも、覚えてもいないほど遠い遠い昔に、彼女の母が、彼女に歌ってくれたのだろうか。
サムソンは、それを聞いて心地よさそうだった。やがて彼はデリラの膝の上で、穏やかな寝息を立てて、眠りについた。


デリラは、衣服の懐から鋏を取りだした。そして、サムソンの七房の三つ編みのうち、一つの根元をつまみ出し、刃を当てた。
デリラが鋏に力を込めると、それは動いた。絹糸のようにしなやかで美しい彼の金髪に、二枚の刃が食い込む。デリラは毎日のように自分が手入れし、磨き上げてきたその金髪に、一層強く刃を付きたてた。プチリ、とした感触があった。一本、彼の髪が切れたのだ。
彼女は切り続けた。プチリ、プチリと根元から、彼の金髪はまるで素直に、奴隷にすぎないデリラに追従するように彼の頭から離れた。一度に大量の髪が切れていくその様子は、音楽的ですらあった。
しかし、デリラは決して、乱暴にしはしなかった。彼女は彼の髪の毛と、そして彼自身をいたわるように、丁寧に髪を切った。やがて、三つ編みの一本が彼の頭を離れ、だらりと寝台にその身を横たえた。
これでいい。これでいいのだ。奴隷が鎖で縛られるように、サムソンはこの髪の毛に縛りつけられてきたのだ。親に、イスラエル人に。そして、イスラエルの神に。この長い、美しい金髪は、彼を生まれた時から拘束し続けていたのだ。
そんなものはいらない。誰も切らないというのならば、自分が切ってやろう。例え神が許さなくても、自分がそれを許そう。サムソンはずっと、そうしてくれる人を探していたのだから。惨めな奴隷の自分を憐れんでくれる人を。
デリラは切り続けた。いたわるように、優しく、彼女は鋏を動かして、彼の金髪を切っていった。二房、三房、彼の三つ編みはどんどん彼の頭から離れた。丁寧に、美しい切り口を持って、彼らは熟れた果実が木から離れるように、サムソンの体を離れていった。
そして、最後の七房目に、デリラは刃を突き立てた。掌に感じる滑らかな髪の感触。デリラはそれを、たまらなく、いとおしく思った。鋏が数百、数千の髪を切り刻む。彼女は最後まで気を抜くことはなかった。自分がずっとこの髪にしてきたように、細心の注意を払い、丁寧に、彼の髪を切ったのだ。やがて、七房目の最後の一本が切られ、寝台に落ちた。短髪になったサムソンは、まるで、別人のように思えた。
デリラは部屋に点してあった蝋燭から火を移し、サムソンの部屋に隠した銀無垢のランプを点した。そして、それをそっと彼の部屋の外に吊るした。


ほどなくして物音が聞こえた。どかどかと、サムソンの邸宅に殴り込む音。悲鳴が聞こえる。
ふと気が付くと、サムソンが目を覚ましていた。しかし、彼は自分の髪の毛が切られていることに何の疑問も示さなかった。
「なんだ?デリラ」
「ペリシテ人が来たの」
「そうか」
サムソンはそう言った。
マノアと、ハツレルポニの声が聞こえる。彼らは叫んだ。叫んだあと、全く彼らの声は聞こえなくなった。切り捨てられたのだろう。
「サムソン」
デリラは、寝ている彼に顔を近づけた。そして、彼の唇に、自分の唇を重ねた。彼も腕を伸ばし、彼女の両頬を抱いた。
何秒、そうしていただろうか。足音が近づいたのを聞いて、サムソンは彼女から顔を離した。
「ありがとう」
最後に、彼は言った。
「ありがとう、デリラ。行ってくるよ。いつもみたいに」
「ええ」
彼女も、笑って言った。
「行ってらっしゃい、サムソン」

彼が部屋から出ていく。「サムソンはここだ!」彼の声が聞こえた。そして、いくつかの物音。激しい音は一切しなかった。やがて、足音は去っていき、彼らが家を出たのがわかった。
デリラはしばらく、サムソンの部屋の中にいた。サムソンが残した七房の金髪を手でまとめ、それをいじっていた。サムソンに歌っていた歌を、口ずさみ続けながら。すると、再び部屋に向かってくる足音があった。それがサムソンのものでないことは簡単に分かった。
「……作戦は成功だ」
そう言って入ってきたのは、アビメレクであった。

「サムソンは、別人のように非力になってしまった。まるで……ただの十四歳の少年にしか過ぎないように」アビメレクは、デリラにそう告げた。
「今までの苦戦が嘘のように簡単に彼を捕えることができた。ガザに……私の町に連行されているよ」
「そうですか……」
デリラはうつむいたまま、金髪を丁寧に撫でていた。
「デリラ。お前は……お母さんの事を、少し覚えていたんだね」
「え?」
「今さっき歌っていた歌……私はよく覚えてる。私をなだめようとして、お前のお母さんがよく、その歌を歌ってくれたのだ」
それを聞いて、デリラは非常に、温かな気持ちになった。
愛があったのだ。父と母、母と自分、サムソンと自分、全ての間に、同じほど温かく純粋な愛があったのだ。
「私の事は気にするな。好きなようにするといい。父は、娘をいつまでも手放さない権利など持っていないもの。お前はサムソンの花嫁だ。お前の母が……永遠に私の妻であるように」
「ええ」デリラは言った。
「ありがとう。お父さん」
その言葉を聞いて、アビメレクは目を細め、満たされたように微笑んだ。そして、自分を待つ部下たちのもとに帰っていった。

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feat: Samson 第十三話



デリラは、一連の事をアビメレクから聞かされ、しばらくのあいだ黙っていた。自分に父親がいるなんて、面前に現れてくれるなんて、思ってもみなかった。まして、それが大都市国家ガザの領主であるなど。
だが嘘であるはずはなかった。初めて見る人間が自分に向けるはずはない程に、切なく、自分を求めるようなアビメレクの目が、そのことを真実だと物語っていた。
「お父さん……なんですか?あなたが?」
「そうだ。顔がつぶれようとその髪の毛を、私が見まごうはずはない」アビメレクははっきり言い切った。
「デリラ。サムソンが大切か。お前を私よりも早く守ってくれたのは知っている。でもあれは、最初は、最初の時はお前を焼き殺そうとしていた奴ではないか。彼はペリシテの敵なのだ、ペリシテ人なら必ず殺せる男なのだ。そんな奴の所に居て、そんな奴がこの世界に存在したままで、お前が幸せになれるものか」
アビメレクは必死さすら感じる声で、デリラにそう言った。
「ペリシテに帰って来てくれ。私のもとに帰って来てくれ。私には……お前のお母さんしかいなかったんだ。十四年間もの間両親怖さにお前を迎えに行けなかったことを、償いたいのだ。私はお前に何だってしてやれる。服も、食べ物も、結婚相手もみんなやる……ガザの中にあるもので、私の自由にならぬものなどないのだから!お前にもう誰も後ろ指など刺させん、お前を馬鹿にする奴は絶対に私が許さないと誓う!……だから、お願いだ。サムソンのもとを去って、来てくれ。私の元へ。私はお前と暮らしたい……一度はあきらめた、この世で唯一の希望が、また目の前に現れたのだから……」
気が付けば、アビメレクはデリラの前に泣き崩れていた。デリラはあまりの事に、なんと返していいかもわからなかった。
デリラが戸惑っている中、アビメレクもやがて起き上がり「困らせてしまったらすまん。今すぐにとは言わない」と、膝についた砂を払い、デリラに荷物を返した。
「金曜の晩……それが期限だ。覚悟が決まれば、いつでも来るといい。我々の宿を教えておこう」
そうして彼は居場所を教えた。去り際までずっと、彼はデリラを縋るように見つめていた。

デリラはアビメレクと別れて、再び帰路に立った。どうも、顔の火傷がじくじく痛むような気がした。
サムソンは、仇か。仇と思ったことなんて、一度もない。サムソンを憎まなくてはならないほど、ソレクの町は、自分に優しくなかった。自分をさげすみ、罵り、犯し、まるで道具のように扱った街。それが、ソレクだった。今更そんな街のために働く、サムソンを裏切る、などは考えられなかった。
もし、彼らがその一点だけでデリラを誘惑しようとしたなら、デリラは無視することもできただろう。だが、デリラはもう一人、アビメレクの事を考えていた。
自分に父親がいたなんて。父親と、会える日が自分に来たなんて。
アビメレクはきっと、彼女を不幸にはしないだろう。彼女を言いくるめるための演技や嘘ではない。それははっきりわかった。自分は、アビメレクの元に行った方が幸せなのだろうか。自分を愛してくれる親と暮らすことは、自分には許されない過ぎた望みだと思っていた。しかし、それは長い間の夢でもあった。親に囲まれる子供を見るたび、渇望した夢だった。
それでも。デリラは思う。サムソンを裏切れるだろうか。サムソンは自分を泣かせてくれた。可哀想だと言ってくれた。自分のために、怒ってくれたのだ。ソレクの町に、ペリシテ人に、誰もそんなものはいなかった。

デリラは、ぼんやりとした気持ちのまま邸宅についた。そして、台所に買い物を下ろし、自分も手を洗って台所仕事の手伝いをしようとした。だが、そこに、サムソンが現れた。サムソンは彼女を呼んだ。
サムソンの命令とあって、周囲の人々も邪魔立てはできず、彼女は彼の部屋に向かった。

「どこに行ってたんだ?」彼は言った。
「買い物に。命じられましたので」
「行くな、そんなもん」サムソンはずばりと言った。
「お前はいつも働いてばっかり」
「奴隷ですから」
サムソンはそんな彼女を自分のもとに引き寄せた。
「いいよ。仕事なんかしなくて。俺が許す。そのかわり、ずっと、俺のそばに居ろ」
彼はポツリポツリとそう言った。彼はデリラと一緒に自分の寝台に腰かけた。
「可哀想って言ってくれ。俺も、言うから。お前にいくらでも言うから」
彼は寝台の上に三つ編みの先を泳がせながら、彼女にそう言った。
「はい。いくらでも」
デリラはサムソンの頭をそっと抱きしめた。
「お可哀想に。お可哀想に。サムソン様」
サムソンは彼女に撫でられ、泣いた。エタムの岩の裂け目のように響き渡る泣き方ではなかった。まるで人の目をはばかるように、泣いた。

「デリラ。俺な」
彼は、言葉を吐き出した。苦しそうに、つらそうに。
「大人になりたかったんだ。ずっと」
彼の手は震えていた。デリラは思わず片手で彼の頭を抱いたまま、もう片手で彼の手を握った。彼の手は彼女の手よりもずっと暖かかったが、それでも彼はガタガタ震えていた。
「お前は子供だ、子供だ、って言われて。ずっとそれで威張られて、だから、早く大人になれば、大人になれば解放される、って思ってたんだ。大人になるのが、楽しみだった」
デリラは彼の言葉をうなずきながら聞いた。自分の痩せた胴体にうずめられた彼の表情は見えず、彼からも自分がうなずいていることは見えないはずだ。それでも、彼女は「はい、はい」と言い、うなずきながら、彼の言葉を聞いた。
「でも……でもよ。大人になったら、この傷、消えちまうんだよな。医者が言ってた。この傷、すっかり良くなってきてるって。いずれ、傷跡もなくなってさっぱり消えるって。俺、この傷、消したくないよ。メレクが、メレクが俺につけた傷だぞ。メレクがこの世にいた証なんだ。それを、俺が、俺自身が消すなんて、そんなのは嫌だ」
サムソンの片手が、デリラの手をぎゅっと握った。その手は汗ばんでいた。
「それだけじゃねえ。……聞いたぞ。お前が、何されてたのか、俺、分かったんだからな。……なあ、デリラ。結婚ってよ、俺、しようとしてたよな」
「はい」
「結婚したら、あれ、しなくちゃならないんだって?」
「はい」
「そんなのはいやだ……あんなこと、誰がするかよ。あんなきたねえ事。嫌なこと、誰がするかよ」
彼の震えは止まらなかった。彼は息も切れ切れに、必死で、小さく言葉を紡いだ。
「大人になったら結婚しなくちゃならないのか。大人になったらあれしなくちゃならないのか。そんなの嫌だよ。デリラ。俺、嫌だ。あんなこと、したくない」
プルプルと恐怖に打ち震えている彼を、デリラは小柄で痩せた体で、抱きしめ続けた。彼女は気付く。抱きしめなくてはならないと、否、抱きしめたいと、デリラの体が言っていた。
「大人になろうとして、色々やった。でも……分かったのは、大人が、どいつもこいつも汚くて、嫌な奴で、俺にはかないもしない癖に威張り腐って、俺が戦えば戦うほど、馬鹿にしてくるってだけだ。あと何年?何年したら、俺は大人になるんだ!?」
彼は、一層デリラの胴体に深く自分自身をうずめた。いっそこのまま彼女の子宮に入り込み、もう一度赤ん坊として生まれることはできないかと、無意識に彼の心が悲鳴を上げている。そう、デリラには感じられた。
腹を圧迫される苦しさよりも、デリラの心につらいものがこみ上げた。ああ、分かった。今、はっきりと分かった。自分の心の中に渦巻いていた疑問のわけが。
何故、自分はサムソンを憐れんだのか。可哀想だと思ったのか。そんな、自分以下のものに抱く感情を、なぜ誰よりも劣っているのだと信じ込んでいた自分がサムソンに抱いたのか。それがはっきりとわかった。
父のもとに行けば、幸せに暮らせるのかもしれない。そんな先ほど感じた思いは、サムソンの涙一つで簡単に荒い流されてしまった。自分のかねてよりの夢など、もうどうでもいい。それほどにこの少年が大切だ。この少年を裏切ることなどできない。その理由が、はっきり悟れたのだ。
「デリラ、俺、大人になりたくなんかない。あんな奴らに、なりたくない」
サムソンは最後に、そう吐きだした。そして、泣くのにどっと疲れたのか、デリラに抱きとめられたまま、彼女の膝の上に身を横たえた。
「お可哀想に。大丈夫、大丈夫ですよ、サムソン様」
「様って呼ぶな」
彼は言った。
「サムソンって呼べよ」
「はい」
驚くほどに、彼女は、自然にそれを受け止めた。身分の高いサムソンを呼び捨てにすることが、酷く彼女の中では自然なこととなった。
サムソンは瞼が重そうであった。たくさん泣いて、疲れたのだろう。
「おやすみなさい、サムソン」
彼女はそう言った。サムソンはその言葉に笑って「おやすみ」と、静かに瞼を閉じた。


寝込んだサムソンの頭をなでながら、デリラは思った。わかったのだ。なぜ自分がサムソンを憐れむのか。簡単なことだ。自分とサムソンは、同じなのだ。
自分もサムソンも、主に抗うことを許してもらえなかった。いくら言葉に出しても、自分の辛さも苦しさも聞き届けてもらえず、生きても死んでも、同じこと。生きるか死ぬかより、自分が仕える相手のために自分の職務を果たすことの方が大切と言われ、生きてきた。
奴隷か、士師か。仕えているのが人間か、親か民族、あるいは神か。その程度の違いしかないのだ。
デリラは初めて出会ったのだ。自分と同じ、自分のように惨めな存在と。英雄とあがめられはしても、その実、本当の尊敬は向けられない。道具としてしか見てもらえない。見下され、利用され、憎まれ、自分の心の楽しさ、自分の心の苦しさ、それを受け止めてくれる相手は、人間の世界に全く関係のない一匹のジャッカルを除いては、この少年には他に居なかったのだ。嘆くことを許してくれ「可哀想に」と人の言葉で告げてくれる相手は、いなかったのだ。この少年に許されたのは、自分の不平不満を、親の目、人の目を盗んで、一人ぼっちの岩山で、あるいは自分の部屋で誰にも聞こえないように声を殺し、こっそりと、誰にも責め立てられないようにこぼすことだけだったのだ。
親の悪口を言えるようになった、と、彼は嬉しそうに言った。親の目を盗んで。それは、彼にとって、昔は親の目を盗んですら悪口を言うことは絶対に許されないことであったという事実を指しているのだろう。デリラはそれを、自分自身に重ねた。嘆くことが責められるから、誰にも責められないよう、人目に付かないように嘆いていた、小さいころの自分に。
デリラは、サムソンをいとおしく思った。生まれて初めて会った、自分と同じ存在。同じく奴隷の鎖に縛られ、打ち震え、それでも結局どうしようもない。自分と違ってこんなに大きな力を持っていても、彼は、逆らうことができない。
大人になりたくない。彼の嘆きが、彼女の心にこだました。それはそうだろう。彼は、大人に踏みにじられすぎたのだ。必死に背伸びし、戦場に出向き、結婚したがった。その結果自らの誇りも、感情も、恋した人も、親友も、何もかも、大人が勝手に奪い、そして、彼らはそれに、少しの罪悪感も感じなかったのだ。彼らは反省すら、しなかったのだ。
自分は、サムソンに何ができる?憐れむことができる。慰めることができる。だが、それ以上に、彼のためにできることがないだろうか?彼を分かってあげられる存在として。アビメレクは先ほど言った。お前には何でもしてやれると。自分もそうだ。金こそないが、地位こそないが、このサムソンのためならば、自分は何だってしてやれる。
そう考える彼女の頭に、一つの考えが急にひらめいた。
彼女はもう一度、サムソンの手を取った。メレクがつけた傷は、確かにもう治りかけ、ただの痣のようになっていた。これが消えるまで、あと何日だろう。金曜の晩までには、持つだろうか。

デリラは、彼の寝顔を見ながら、一つの決心を固めた。サムソンのため、自分が今何ができるか。この哀れな少年のある一つの幸せの鍵を、自分は握っているはずだ。
デリラはそっと、人目をはばかるように屋敷を抜け出した。そして、マハネ・ダンの町の隅にある宿にたどりついた。


「……来てくれたのか」
彼女を、アビメレクが直々に出迎えた。

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feat: Samson 第十二話



アビメレクと言う男は、冷酷な、どうしようもない少年であった。
ペリシテの貴族の家に生まれた彼は、幼いころから他人の痛みも、自分の痛みすらよく理解していなかった。頭は良かったはずなのに、なぜかその痛みと言う一点だけ、彼の理解が及ぶところではなかった。痛みを理解しない彼にとって、痛みを知りあうことで成り立つ思いやりと言う概念など、まるで遠い異国の存在のようで、まるきり自分には関係しえないものだった。
両親は、そんな彼を愛することはなかった。彼が冷酷だったから両親は罰として彼を愛さなかったのか、両親が彼を愛さなかったから彼は冷酷に育ったのか、アビメレク自身にもよくは分からない。だが、少なくとも両親は彼を我が子としては見捨てなかった。心の出来はともかく頭の出来は良かったのだし、彼の家柄はやりようによってはペリシテの領主の座も狙える立場ではあったのだから。
「出世しなさい」と、彼は両親に子供の頃幾度となく言われた。
「お前のような人でなしが世のため人のために貢献できるとすれば、それしかないだろう」
アビメレクは、その言葉を拒むことはなかった。むしろ自分は出世するのが当たり前だ、と感じていた。
彼は両親の言葉通りに、出世の道を歩んだ。邪魔なものは躊躇なく叩きのめし、彼の両親はそのたび、一層そんな息子から心を離していった。彼がどんな役職を得ても、「お前の人格をその程度で償えるものか」と突き放し、認めることなど一切なかった。
「領主にでもならなけりゃ、お前みたいな人でなし、我が家の恥だ」
それでも、両親はアビメレクを勘当することはなかった。結局は彼らも、有能な息子の出世にあやかりたかったのだ。
そんな彼は、ある日ソレクの谷の貴族に呼ばれた際に、ある一人の女奴隷に出会った。

彼女はデリラ、という名前で呼ばれていた。ちりちりした赤い髪の毛に覆われた顔が化け物のように醜い女奴隷だった。
痛みに疎いアビメレクすらも、彼女の容貌を美しいとは思わなかった。だが同時に彼は彼女の事を、今まで自分が使い古しにしてきた美しい、と称される何人もの女性にも勝る、絶対に掛け替えのない、女神のような存在と感じた。
彼女はこの世で唯一、アビメレクに何でも話させることのできる人物だった。自分の冷酷さから出た、自業自得ともいえる孤独感を、彼はデリラの前でだけはいくらでも吐き出せた。デリラの前でだけ彼は、自分の一生で人々、特に実の両親から言われた言葉を、悪く言うことができた。今まで、彼にそれは許されていなかったのだ。それはお前が人でなしだからだ、人でなしが一丁前にほざくな、と、その人でなしの出世にあやかって増えた財産で肥え太った両親が何回も言ったのだ。
だがデリラは彼の事を人でなし、とは言わなかった。彼の残酷さを知らないはずはなかったはずなのに、彼自身の口からそのことを何回も聞いているはずなのに、デリラは痩せこけた腕で彼を抱いて、そっとこのように告げてくれた。何度も、何度も。
「お可哀想に、アビメレク様」
それはアビメレクにとって、言われたことの無い、言われることの許されない言葉だった。しかし、世にも醜い女奴隷が、ペリシテの中で一番虐げられる存在が、唯一彼にその言葉を受けることを許してくれたのだ。
デリラの腕に抱かれながら泣きじゃくった日の事を、アビメレクは覚えている。その時の感覚の全てが、彼の体中に焼き付いていた。身を引き裂かれるかのような不快感が、生まれて初めて、心を満たしていたのだ、
「私は、愛されなくて当然だ」何回も言われた言葉を、まるで親に告げ口する子供のようにデリラに告げた。誰かにひどい事を言われて告げ口するなど、アビメレクの人生ではあり得なかった。それを受ける親は、いつでもアビメレクではない方の子供の味方をするのだから。
「私は、愛されるようなことを何一つしていないのだから。何一つ……!」
そう嗚咽するアビメレクを、デリラはやせぎすな腕で優しく抱きしめた。「大丈夫です」彼女はアビメレクを責めることなく、ただそう告げた。
「大丈夫。大丈夫です。……アビメレク様は、酷いお方かもしれません。聖人君子になれる心を、ダゴン神から与えられなかったお方かもしれません。でも、この世に生まれてくることは、許されてきたお方です。どんなお方でも、この世に生を受けたのならば一生に一度くらいは……無償の愛と言うものを、受け取る権利があるはずです」
そしてその言葉は、生まれて初めて感じるアビメレクの苦痛を、傷口にオリーブ油を塗るように優しく覆った。
「君は」震える声でアビメレクは言った。
「私を愛してくれるのか、デリラ」
「ええ」こともなげに、彼女はそう返した。
痛みがわからないのがアビメレクであるのなら、デリラはおそらく、誰よりも痛みを感じてきた人間だ。誰にも痛めつけられ続けて、痛めつけられるのが当たり前で、もはや痛めつけられることに心など動きようもない存在、それが彼女だった。そんな彼女だけが、アビメレクに彼の知らなかった全てを教えてくれたのだ。

彼はアドニバアルに何回も金を渡し、彼女といる時間を作ってもらった。あんな顔の女相手に物好きな、という嘲笑など、全く耳に入ることはなかった。彼はただただ、デリラを心の底から愛した。人を愛するなど、初めての事だった。彼女と離れたくはない。一生を共に過ごしたい、彼は心の底からそう願った。

だが、彼の両親はそれを許さなかった。いつもの通りの目、デリラの慈愛のこもった目とは似ても似つかない、劣ったものを見下ろす目で息子を見つめながら、とんでもないことだ、と言った。
貴族のくせに女奴隷を、それも貴族に負けることの無いほど清らかで美しい女ならまだしも、あんなおぞましい容貌の女を家に迎え入れるなんて、と。ただでさえ人でなし、家の恥であるのに、この上まだ恥を重ねるのか、と両親は躊躇も何もなく、アビメレクの心に初めて芽生えたその感情を叩き潰した。
アビメレクは、それには逆らえなかった。領主になるという野望は、まだその段階では実家の家柄なしに達成することは不可能な夢であった。
領主にならねば、という言葉、幼いころから呪文のように繰り返し繰り返し聞かされてきた言葉、それらを毅然として否定するには、彼は若すぎた。彼はずっと、領主にならなくては生きている価値などない、と信じこまされてきたのだから。昔ならまだしも、痛みの感覚を味わってしまった身には、領主になれない人生を歩むことは、ただならない恐怖にしかならなかったのだ。
両親の言葉を無視して、だが突っぱねることもできずソレクに通い続けていたある日、ソレクにいたアビメレクのもとに、とうとう両親からの最後通牒が来た。すぐ帰り、もうソレクには行かないと誓わねば、親子の縁を切る、と。何回も何回も聞かされてきた言葉も、添えられていた。お前のような人でなしは領主になってこそなのだ。家を富ませて初めて、普通の人間並みになれるのだ。普通の人間は親孝行をするのだから、と。
彼は、デリラにその旨を話した。親に逆らって彼女と歩む道を選べない自分の胸中も、全て。
すまない、と彼は何回も繰り返し続けた。女神のように慕った彼女を、このペリシテのだれよりも、自分が侮辱している気分だった。だが、彼女は怒ることもなく失望する様子も見せずただただ穏やかに笑って「いいんですよ」と言ってくれた。アビメレクの不安を、罪悪感を、全て包み込むように、最後まで彼女は優しかった。
「幸せな時間を賜りました。私などには、過ぎたほどの幸せを」
「過ぎただって!?」アビメレクは叫んだ。「何が過ぎた幸せなものか。私は君に、まだ何もできていない……これしきで、何が過ぎているものか!この世のすべての人間には……いくらでも、幸せになる権利があるじゃないか!君にだって、私にだって!」
デリラは悲しい顔を見せることはなかった。言い含めるように、彼に言った。
「領主におなり下さい。それがきっと貴方の幸せです。きっとアビメレク様は、領主になれるお方です。神は貴方に心は与えなかったとしても、そのような運命を与えられたのです。神に与えられた運命を歩むことを人に許されないお方も、この世にはたくさんございます。そんな中で、神の采配なさった運命を歩けるお方は、きっと幸せです。だって、この世のどこに、自分の作りだした存在が不幸になることを望まれるお方がおられましょうか」
彼女は、誰も憎んでいなかった。アビメレクの事も、彼の両親の事も、自分を虐げた人間の事も、自分をこんな姿、一生蔑まれ呪われる姿に生まれさせた神の事も、誰一人。それは、痛めつけられたが故に憎む心が死んだからなのだろうか。いや、違う。彼女はきっと、ただただ優しかったのだ。それが、神が彼女に与えた、たぐいまれなる贈り物だったのだ。
「どうぞ、ガザにお帰り下さい。ガザで出世する貴方様を、遠い地より見て居たく思います」
「私は、幸せになれるのか」アビメレクは呟いた。「領主になれたとして、それまで私は、幸せでないまま、過ごさなくてはならないのか」
デリラはアビメレクを優しく撫で、包み込むように言った。
「では、幸せになる方法をお教え致します。アビメレク様。……私がこの世にいると、私とあなたの愛がこの世にはずっと存在すると、忘れないでいてください」
彼女は最後まで、アビメレクを受け入れてくれた。両親ですら愛さなかった彼を。愛されなくて当然だ、そう言われ続けた男に、ただただ彼女は最後まで愛を向け、そんな男の差し出す愛を、全て受け止めてくれた。
「忘れるものか」アビメレクは彼女を抱きしめた。「死んで地獄に落ち、地獄の悪魔に頭をえぐられようとも、君の事だけは忘れるものか」

ガザに帰った彼を出迎えたのは、彼の帰りも祝わない両親の罵倒だった。お前のようなものを今の今まで家族としてやっただけありがたいと思え。お前がいなくなった方が我々は幸福なのだ、そこを情けで生かしてやっているのだ、思い上がるな、と。
アビメレクは、再び痛みを知らぬ人でなしとなった。自分の利益のためなら他人が、時には自分がどうなろうとも構わない存在に。どうせ彼が一度は痛みを知ったのだと言っても、誰も信じてくれるはずはないのだから。彼はただただ、両親に憎まれ、恐れられながら働き続けた。
そんな彼のもとに、ある日人目を憚るようにひっそりとアドニバアルからの使いが来た。彼はデリラが、アビメレクの子供を産んだと告げた。
使いはそれだけ告げて、さっさと帰ろうとした。「待て!」アビメレクは呼び止めた。
「その子の名前は何だ、私の娘の名前は何だ!」
使いはアビメレクの事を蔑むような目で見ながら……彼にとってアビメレクはガザのエリートではなく醜い女に入れ込む下手物食いだったのだろう……吐き捨てるように言った。
「奴隷の二代目に名前なんていりませんよ。みんな、娘の事もデリラって呼んでます。母親似の赤毛をして、母親似の化け物面した、似ても焼いても食えない赤ん坊ですよ」
やがて、一年と少しもした頃にもう一人従者が来た。デリラが流行病で死んだ。従者はただ、それだけを告げてさっさと帰っていった。
アビメレクはその時、久しぶりに味わった。デリラの腕に抱かれて自分が感じたあの感触を。心臓が、体中を傷つける小さなナイフを絶え間なく送り出しているかのようだった。
アドニバアルの家の者は、誰も彼女の死を悲しむまい。彼女の娘ですら、死という概念を知るには幼すぎるのだ。アビメレクはきっとその時、世界中の人間の分デリラの死を悲しんだ。だが一人で背負いこむには、泣いたりわめいたりする暇を持つには、その悲しみはあまりにも膨大過ぎた。

両親の望み通り、彼はやがて若くして領主となった。それでも彼の両親は、結局彼に求めることを止めはしなかった。お前の人でなしの償いが、こんなこと程度でできるとは思うな、と言い続けた。
彼は結局、両親に逆らうことはなかった。ただ一点だけ、彼が両親に逆らえることが存在した。彼はどんなに言われても、結婚はしなかった。両親がいくら言っても。もう領主となったのだから、親子の縁を切るという脅しは通用しなかった。「私のような人でなしの子ができたからとて、この世に不合理なだけでしょう。いつか養子でもとりますよ」そう言って、彼はただずっと、デリラと自分の間の娘の事だけを考えていた。
さっさと、両親が死ねばいい。自分を縛り付ける両親が。自分より無能な癖に、自分の積み上げた富でのうのうと暮らしているくせに自分に逆らうことも許さないこの老いぼれ共が死ねば、自分は自由なのだ。そうすれば自分はソレクに行ける。母親のように容姿を罵られながら奴隷仕事をさせられているのであろう娘を抱きしめてやれるのだ。ガザの領主の姫として、いくらでも愛情を注いでやれるのだ。
アビメレクは両親に逆らえない自分を呪った。彼は知った。いくら痛みを知っても、いくら地位を得ても、アビメレクにとって両親とは逆らうことの許されない存在だったのだ。自分を幼いころから否定し続けていた二人の人間は。自分はなんと臆病者だ、と彼は呪い続けた。そしてそこからくる痛みを、ソレクに残された一人娘を唯一の希望とし、心のよすがとすることで、耐えてきたのだ。

母親が死に、父親もついに死んだ。彼らは結局最後まで、アビメレクに満足することはなかった。彼らの納得する親孝行など、アビメレクは絶対にできなかったのだ。忘れもしない、愛したデリラの死んだ日から、十四年も過ぎていた。
これで、ソレクへ行ける。アビメレクは歓喜に打ち震えた。これで娘に会える。私の愛を、私の希望を、もう一度取り戻せる。
そうしてソレクに馬を走らせたアビメレクを、ちょうど逆方向から来た一団が慌てて遮った。行商人のようだった。
「おやめください、領主さま。ソレクの谷に行くのは危険です」
「何故だ、行かねばならん用がある!」苛立ったように言うアビメレクに、彼らは青い顔で言った。
「ソレクは今火の海です。士師サムソン率いるイスラエル人が反乱を仕掛けたのです」
その言葉を聞き、アビメレクは時が停止したような感覚に陥った。彼らは、ソレクを通りすがり、命からがらイスラエル人たちに見つかる前に逃げてきたらしい。
「アドニバアルの」彼は恐る恐る聞いた。「アドニバアルの家を知っているか、あれは、あれはどうなった?」
「ソレクで一番大きいお屋敷でしたね……」彼は見てきた光景を思い出しただけで身がすくむのだろう、震える声で言った。
「どちらにせよ、ソレクの町で逃げ出したものは即座に切り捨てられましたよ。アドニバアル様のお屋敷は全壊していたので……逃げ遅れた方は、下敷きではないでしょうか」
アビメレクは、全てを呪った。
ダゴン神も、イスラエル人の神も呪った。
アドニバアルも、彼の家の使用人たちも、死んだ自分の両親も、ペリシテ人も、イスラエル人も呪った。幸せそうに生きたものを、今この世に生きているものを、全て呪った。彼の恋人が、彼の娘が得られなかったものを享受していた、享受している者達を。
そして何よりも、彼はサムソンを呪った。自分の唯一この世に残った希望を、灰にしてしまったイスラエルの少年を。

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feat: Samson 第十一話



十数年前の事、サムソンがまだ生まれる前、ソレクの谷が遠からぬ破滅など知りもせずに栄えていたころの事。
その町一の有力者ともいえるアドニバアルの屋敷に、ある女奴隷がいた。
彼女はアドニバアルを始め、屋敷の誰からも大切にされていなかった。非常に顔かたちの醜い女性だったからだ。アドニバアルはじめ、誰もが彼女を「化け物」と呼んでいた。
彼女はそれを拒絶することもなく、穏やかに受け入れて暮らしていた。彼女にとって、それが当たり前の事だったからだろう。
ちりちりに縮れた赤毛を持つ、世にも醜い女奴隷。彼女にも恐らく生まれた際に親につけられる、ごく普通の名前はあっただろう。だが、彼女はその名ではなく、デリラ、と言う名でよばれていた。お前の醜さを見たら心が弱り果てるようだ、とそう言われて。
デリラと呼ばれた女奴隷は、不吉な名を名乗り、それでも文句の一つも言わずに生きていた。
 
 

サムソンはマハネ・ダンに帰ろうとしなかった。そのまま走りに走って向かった先があった。それは、エタムの岩の裂け目、彼の秘密基地だった。
そこにつくやいなや、サムソンはデリラと一緒にボロボロの毛布にくるまって、彼女を抱きしめながらひどく泣いた。彼が大きな精神的ショックを受けてしまったのだということがデリラには何となく分かった。
「汚い!汚い!あいつら、汚い!」
サムソン自身もおそらく自分の激情を言葉では言い表せなかったのだろう。そう繰り返し続けた。ひたすらに。
自分にとっては当たり前の事だった。しかし、女を抱くとはなんたるかすら知らなかったサムソンにとって、それは非常におぞましく、恐ろしいものだったのだろう。自分を噛み殺そうとしてくるライオンよりも、殺意を持った千人の敵よりも、ずっとずっと、彼は、女が強姦されている光景の方が恐ろしかったのだ。
彼は震えていた。デリラは彼を落ち着かせようと、「サムソン様、お可哀想に」と言った。
「何が可哀想だ!?違うだろ、可哀想なのはお前だろ!」
サムソンは彼女の言葉を聞いて、そう激昂する。
「違うだろ、お前がつらいんじゃないか!お前があいつらに虐められてたんだろ、お前があいつらに傷つけられたんじゃないか!なんで俺が可哀想なんだよ!可哀想なのはお前だよ!悲しかったって言えよ、言ってくれよ!」
泣きじゃくりながら、サムソンはそう言った。
「私は、大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないだろ!」
彼は自分の長い三つ編みで自分の涙をぬぐう。
「お前、いつもそうだよな!ババアにどんなこと言われたって黙ってる。なんだ!?また『奴隷は』なんたらかんたらって言うのか!?奴隷はどんなことされても、黙ってなきゃいけないのか!?自分で自分の事可哀想って思っちゃいけない、って決まりがあるのか!?」
彼がそうまくしたてることは、当たっていた。デリラの中では、全てそうだった。嘆くことは時間の無駄だ。その時間を、少しでも主のために捧げなくてはならない。
だが、サムソンはそのことに対して泣いた。メレクが死んだときには流した涙を、彼女が今は一滴も流さないことに対して、彼は泣きじゃくった。大声を上げて。人気のない岩山に、彼の泣き叫ぶ声がこだまするかのようだった。
「そんなことない、そんなことない」
「ありがとうございます」
「ありがとうなんて言うなよ!そんなことないもんはないんだ!ちっとも有難いことなんかじゃねえんだよ!当たり前の事なんだぞ、当たり前の!」
デリラには、ぼんやりと、サムソンの涙のわけがわかるような気がしていた。
サムソンは今、自分自身を見せつけられたような気分なのだ。だって、彼も同じなのだから。悲しむこと、自分を憐れむこと、彼は一切許してもらえなかった。
デリラがそう思っているときだった。不意にサムソンは、デリラの頭を抱いて、自分の胸元にうずめた。
「可哀想なんだぞ。お前、可哀想なんだぞ。お前が可哀想なんだ」
デリラが口を開いて礼を言おうとした時だった。サムソンは彼女の口をふさぐように、一層強く彼女を抱きしめた。
「何も言うな。言ったら殴るぞ」
デリラからは、サムソンの顔は見えなかった。だが彼の声は、ほぼ泣き声のようなもので、言葉では凄んで見せても、不思議と全く怖さを感じなかった。それは一度に千人の敵を殺した勇士の言葉などではなく、酷く力のない虐められっ子が、泥だらけになり、泣きながら、誰にも手を差し伸べてもらえず、それでもなお言い続けている負け惜しみのようであった。
デリラは言葉をつかわず、代わりに首を振って同意を示した。その時、彼女は、自分の眼に涙がにじむのがわかった。
サムソンの服を濡らしてしまう、とも思ったが、サムソンはいざ服が濡れても、全くデリラを離そうとしなかった。デリラはそのまま泣いた。彼女にははっきり分かっていた。これは自分の涙だ。自分が流したくて流す涙だ。義務感ではなく、命令されたからではなく。誇り高い他人の不幸のためでもなく。ただ、この惨めな自分が可哀想で流す涙だ。
そんな涙を出すのは、何年振りだろうか。そうか、小さいときは泣いていたっけ、と彼女は思い返した。やがて泣いていると叩かれるから、隠れてひっそり泣くことを覚えたのだった。そしてさらに、ひっそり泣いていようとも、勝手に時間を無駄にすれば怒られると知って、泣かなくなったのだっけ。それは、初めて男に犯されるよりも前だったような記憶がある。
デリラは久しぶりに泣いた。サムソンが手を離そうとするまで、彼女は泣きつくした。声を殺すように、彼女はサムソンに抱きしめられたまま泣いていた。
彼女が泣き疲れてへとへとになった時だった。彼らは、空腹を覚えた。空はとっくに暗くなっていて、今にも消え入りそうな細い月と、小さな星が光っているだけだった。
何か食べ物をとってこないと、と思った矢先、デリラは、岩の裂け目の入口に実を付けた草の蔓が生えているのに気が付いた。ここに来た時、こんなものはあっただろうか。覚えていない。サムソンもデリラも、全く必死だったのだから。草などに構ってなどいられないほどに。
デリラはそれを手繰り寄せた。そして、それが何か分かった。それはたわわに黒い身を付けた野生の葡萄だった。何故気づかなかったのか不思議なほど、それはサムソンの秘密基地、岩の裂け目の前に密生して生えていた。
デリラは、彼にそれを見せた。彼は何も言わず、デリラの手からひったくるようにそれを奪い取り、自分の口の中に詰め込んだ。
彼は葡萄の身を噛む。慌てて食べたせいか、彼は咳き込んだ。それでも彼は、黒い果実をその中の種ごと、自分の胃袋の中に飲み込んだのだ。
「食えよ」
サムソンは咳を何とかおさめてからデリラに言った。
「お前も腹いっぱい食えよ」

デリラとサムソンは、その一晩中、葡萄を食べていたように思える。葡萄は信じられないほど、甘く、かぐわしかった。しかもそれでありながら非常にすっきりとしていて、高貴な味だった。デリラは生きていた中で、ここまで美味しいものは食べたことがなかった。そして、サムソンにとっても、そうだった。彼が生まれて初めて食べる葡萄は、彼が想像していたよりもずっと、神聖なほどに美味な食べ物だった。

夜が明けた時、二人は葡萄の汁でべたべたになったお互いの顔を見た。そして、昨日さんざん泣いたのを取り戻すように、二人してその様子に笑った。そして、岩の裂け目の中で明るい日差しを避けるように静かに二人並んで眠った。起きた時には、とうに昼が過ぎていて、彼らの足はマハネ・ダンに向かった。


ようやくマハネ・ダンが見えてきたとき、デリラはふと言った。
「サムソン様、この近くに、メレクのお墓があります」
サムソンはその言葉を聞くと、迷うこともなくデリラにそちらの方を案内させた。デリラが案内した先には、積み上げた石を目印にした、小さな墓があった。
サムソンは手で、土を掘り返した。やがて出てきたのは、まだ土になっていない腐肉がいくらかこびりついたジャッカルの骨だった。グロテスクなものではあったが、サムソンはそれを抱き上げ、いとおしいものを相手にするかのように頬ずりした。デリラにも、その光景が不気味なものだとは全く思えなかった。
「大丈夫だからな、メレク」サムソンは囁く。
「お前にもどうしようもなかったんだろ。俺は、何も恨んでないよ。大丈夫だからな。大丈夫だ」
彼は優しくそう言った。そして、また静かにメレクを埋葬し、彼の墓を元通りにした。


家に戻ってきたサムソンを待っていたのは、やはりいつも通りのマノアの説教だった。もっとも、勝手に彼がどこかに数日行方をくらましていたとはいえ、彼がなんだかんだと戦争で勝利を治めたのは事実なので、説教はそこまで長いものではなかった。サムソンはもはや何も言わず、神妙に座ってマノアのまくしたてることを聞いていた。
デリラはサムソンの側に居てやりたかった。だが、彼女にもハツレルポニの小言が待っていた。そしてそれが終われば、彼女は市場に買い物に行かされ、屋敷から叩き出された。ハツレルポニの言う通り彼女はいつも通り市場に行き、言われたものを買って帰ろうとした。
だが、彼女が人気のない道に入り込んだ時だった。
彼女の前に、見知らぬ男たちが立ちはだかった。みんな一様に高貴な身なりをしている。その中の一人の男、が驚く彼女の前に歩み出て、言った。アシュケロンの領主だった。
「イスラエルの士師サムソンの女奴隷の……デリラだね?怖がることはない。私たちはペリシテの領主だ」

気が付けば、彼らより若い男性たちが何人か出てきて、彼らに手招きされるまま、勝手にデリラの持っている買い物包みを持った。デリラを、その場から逃げないように拘束するかのようでもあった。
「何も君に手荒なことをするわけではないよ。安心しなさい」と、アシュケロンの領主はあくまで比較的優しい声で、デリラに言う。
「我々は君に、ちょっとした話を持ちかけに来たのだ。……デリラ。君のことは調べさせてもらったよ。サムソンに仕えてはいても……君は元は、ソレクの町にいた人間。ソレクの唯一の生き残り。ペリシテ人……我々の同胞だそうだね」
デリラはそのことを聞いてびくりと震えた。穏やかなアシュケロンの領主の口ぶりは、サムソンと言う言葉が出た途端、一瞬だけ憎しみで震えたかのようだった。
「デリラ、あのサムソンがいるままでは、我々ペリシテ人はイスラエルに勝てはしない。ペリシテの誇り全てをかけても、サムソンを捕えなくてはならないのだ。だかしかし、サムソンの近くにいる君は話さずとも分かるだろう。奴の滅茶苦茶な力が。それでも、我々はやらなくてはならない。君もペリシテ人ならば、ペリシテ人である我々に協力してくれないか?」
「そんな」デリラは目の前の彼らにおびえ、震える声で言った。
「協力なんて、何が出来ましょう。私はお付きと言えどもただの奴隷……」
「いいや」
その言葉を、低く落ち着いた声が遮った。デリラは奥の方に立っている男性を認めた。彼は不思議なほど、じっとデリラを真正面から見つめていた。彼は、ガザの領主アビメレクであった。
「むしろ、この人間の生きる土地でサムソンを打ちとれるものがいるとすれば、君しかいない。そうだろう、デリラ」
デリラはその言葉にも、否定の声を発そうとした。だがアビメレクは、迷うことなく続けた。「サムソンは君の事を、あのジャッカルに勝るとも劣らないほど非常に大事に思っているのだから。ただの奴隷の範疇をとっくに飛び越えて」
「そんなことは……」
「そうでなければ、どうして君が乱暴されていることにショックを受け、激昂して、その日に戦を終わらせる、などをする?」
デリラはまたしても怯えた。彼らは一体、どこまでを知っているのだろうと身震いした。アビメレクが自分の事を、本当に真直ぐ見つめているのにも恐怖にも似た感覚を覚えた。話を滑らかに進める目的のためだろう、穏やかにふるまっているアシュケロンの領主すら、自分の痛々しい包帯まみれの顔をそう長々と直視はしないのに。しかも、彼の目は、自分をここまで見つめながらも自分のこの醜さを見据えてはいないようだった。それが一層、デリラに違和感と恐怖を感じさせた。
そうして彼女をじっくりと見据えながら、アビメレクは続ける。
「デリラ。ペリシテ人として、我々に協力したまえ。次の金曜の夜、我々は兵をマハネ・ダンに連れてくる。君はサムソンの力を奪えるはずだ。サムソンを縛り上げられるはずだ。私の目に狂いはない。サムソンは実の親に縛られるのを拒んでも、君になら縛られるはずだ」
「……私に、サムソン様を裏切れと?」
「ああ、勿論」
「君だって奴が憎かろう?奴は、君の故郷を灰にした張本人なのだから」横合いから、アシュケロンの領主がまた話に入ってきた。
「サムソンは君にとっての仇でもあるのだぞ。かいがいしく世話をしてやる義理などないだろう」
「そうはいってやるな」アビメレクが、その発言を遮った。
「デリラ……無論、イスラエル人の方が君よりはるかに力はあるのだから君が一人で逆らえないのも無理はない。だが、我々がいるぞ。我々は、君をペリシテ人に戻してやる」
「……」デリラは、何も答えなかった。
「礼金なら払うよ、無論の事」アシュケロンの領主が言う。だがアビメレクは若干苛立ったように、彼の言葉を手振りで静止した。彼は、デリラの返答を待っているかのようだった。
「そんな、できません、無理です……」彼女がやっと絞り出したのは、そんな言葉だった。震えながら、彼女はそう言った。「私に、そんな力などありません。申し訳……ございません。返してください、旦那さま方……」
「君!」
アシュケロンの領主は喰い気味に言った。だがそれ以上に、アビメレクは一層デリラを見つめた。
「君たち、先に宿に帰っていてくれないか」アビメレクはほかの領主たちにそう言う。「彼女の説得ならば、私に任せてくれ。……大勢いると、どうも彼女を委縮させてしまうようだ」
「だが、アビメレク……」
「彼女を怯えさせてしまっては、何もならないだろう」
その一言で、領主たちは納得したかのようにぞろぞろと帰っていった。アビメレクがこの集団の中で一番発言権のある人間なのだと、初めて彼と会うデリラにも分かった。彼はデリラの買い物包みを持っていた若い男たちまで、その荷物を自分で受け取ったうえで帰らせた。
デリラは、アビメレクと二人きりになった。自分を拘束する若い男たちもいなくなったのに、デリラは相変わらず、そこを動けなかった。アビメレクの視線は、彼女を拘束しているかのようだった。
「君。ペリシテに、戻りたくはないのか」
アビメレクはまず、そう問いかけてきた。デリラは答えあぐねていたが、デリラが黙る分、アビメレクもずっと黙っていた。しかも、その場に生まれたのはただ単なる沈黙ではなかった。その沈黙の中、デリラは二重三重に覆い隠せねばと思っている本音が、一枚一枚、はがれていくかのような感覚を覚えた。
「……ペリシテは」デリラはとうとう、うつむきながら、震える声で裸になった本音を口に出した。
「怖いのです。戻りたくは、ないのです……ごめんなさい、ごめんなさい、旦那様」
今になって分かる。ペリシテで暮らしていたころの思い出は、彼女にとって恐怖だった。
マノアやハツレルポニだって、自分には理不尽なほど厳しい。でも、サムソンは。サムソンは、自分を大切にしてくれた。戦場にいる男たち、アドニバアルの家の者なら何も言うはずのなかった相手から、自分を守ってくれたのだ。
ペリシテの領主。ペリシテ人を代表するこの目の前の人物は、自分に怒るだろう。デリラはそれに対して、何も反論できる気はしなかった。彼女は彼の激昂の声を、飛んでくる暴力を、身をこわばらせて待ち構えていた。
だが、いつまでたってもデリラが警戒していたような声音が飛んでくることはなかった。デリラはやがて、恐る恐る、伏せていた眼を上げた。アビメレクは、依然として彼女を見つめ続けていた。彼の目と自分の目が、はっきりとあった。
「……ペリシテには、戻りたくないと言うのかね」
アビメレクの言葉に、デリラは不思議と素直に「はい」と答えられた。その男の声色は、デリラにとっては珍しいほど、彼女に対する加害心を感じさせないものだったのだ。
「私が……」
アビメレクの声も震えていた。まるで、デリラの声のように。
次の瞬間、デリラは言葉を失った。
「私が……このガザの領主アビメレクが、君の父親だとしても?」

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feat: Samson 第十話



「メレク!?」
彼はただならぬ気配を感じた。目の見間違いかと思った。だが、違う。メレクは確かに猛獣のような目つきで、サムソンの方を睨んでいた。なわばりを荒らした敵を排除するかのように。
「メレク、俺だよ……」
サムソンはメレクにそっと近づく。だが、メレクは吠えたてるのをやめなかった。そして、あろうことか、彼に向かって真っすぐに、矢のように突っ込み、その鋭い牙を突き立てたのだ。彼に差しのべられた両手に向かって。彼の牙がサムソンの掌をえぐり、血が噴き出した。
サムソンはその激痛のあまり、声を発した。
「サムソン、どうした!?」
マノアがその声を聴きつけ、家の外に出てくる。近所に住んでいるイスラエル人たちもだ。そして、絶句した。サムソンが、あのいつも仲良くしているジャッカルのメレクに襲われている。

「メレク、メレク!」サムソンは必死で彼に言った。掌を牙に貫かれた激痛に耐えながら、彼はなんとか両手でメレクを押さえつけようとする。
「どうしたんだよ、おい!」
サムソンは抵抗しなかった。力を入れれば、いくら最強のジャッカルであるメレクと言えども、一匹捻りつぶすのは容易なことだったろう。だが、ただの野生の凶暴なジャッカルならともかく相手はメレクだ。彼を殺す。そんな選択肢は、サムソンの頭にはなかった。
サムソンは痛みのため本調子が出ない掌でメレクを何とか押さえつけながら、彼を正気に戻そうと試みる。
「おい、何があったんだよ。俺だよ、サムソンだよ!」
だが、力が出ない。それどころか、メレクの力にやられてしまいそうだ。メレクは鋭い爪を持って、なおもサムソンの掌にできた傷をえぐった。傷つけられたところにさらに追い打ちをかけられ、彼の掌は痛みに悲鳴を上げんばかりだ。
とうとう、手のひらが痛みに耐えかね、メレクの力を許してしまったのを、サムソンは理解した。メレクはそれを期に、大口を上げて高らかに吠え、彼を噛み殺そうとした。

と、その時だ。
サムソンの視界から、メレクが消えた。メレクは地べたに倒れこんだのだ。


アビメレクは、正気を失うほどに錯乱してしまう毒薬を持っていた。人間にも効くが、獣の類にはさらに良く効く。
これをメレクに投与するよう、彼は仕向けたのだ。いくらサムソンでも、可愛がっているメレクは攻撃できまいと。赤の他人を千人殺せても、自らの愛する者を殺せはしまい。アビメレクはそう踏んでいたのだ。
そしてあわよくば、殺されてしまえ。そこまでが、彼の算段だった。


ずるりと地面に落ちたメレクの誇り高い体は、ピクリとも動かなかった。
「メレク……?」
サムソンは目を白黒させながら、血まみれの掌を彼に向けて差し伸べようとした。その時だ。
「いかん、サムソン!お前はナジル人、死体に触れることは断じて許されん!」
死体?
その言葉がサムソンの脳内に浮かんだ。そして、彼の思考はなかなかその言葉を受け付けようとしなかった。
メレクが、死体。どういうことだ?気が付けば、メレクの体には矢が一本刺さっていた。
サムソンは慌てて、その矢が飛んできたと思しき方向に目をやった。イスラエル人の男性が一人、弓を持っていた。
「サムソン様」
その男性は自分がサムソンの目に留まったのに気が付くと、歩み出てきて一礼し、言った。
「私が、その獣に毒矢を打ち込みました。貴方を助けるために」
「サムソン、何故貴様、抵抗しなかった」
マノアは責めるような口調でサムソンに言った。だが、サムソンはやはり、目の前で起こったことを信じられないと言うように、そこに突っ立っていた。
地面に落ちたメレクの体は、本当にピクリとも動かない。「おい、メレク」彼は呼んだ。しかし、反応はなかった。
そこにいるのは、荒野の最強の王、誇り高いジャッカルでもなく、可愛らしく陽気なサムソンの友のメレクでもなかった。そこにいたのは、ただの死体、毒矢を打ち込まれたジャッカルの肉体だけだった。
「礼を言わんか!」というマノアの声も聞こえない。掌の激痛すら、忘れてしまいそうだ。
「そんな、そんな、メレク……?メレクが、死んだ……?」
サムソンは、メレクを抱き上げようとした。だが、それよりも早く、彼の傷だらけの両手はマノアに持ち上げられてしまった。
「酷い傷だ……すぐ医者を!」
マノアのその叫びとともに、イスラエル人が動き出す。数人が、メレクの死体を運ぼうとした。
「待て!」それを見て、サムソンは叫ぶ。
「持ってくな、メレクの死体、持ってくな!」
「サムソン!」
マノアはもう一度、叱責するように怒鳴った。
「ジャッカルの一匹より、お前のことを心配しろ!こんなに手を怪我してしまって!お前の武力がなくなったら、イスラエルはまたペリシテに付け上がられるかも知れんのだぞ!」
そしてマノアは、そのままサムソンを引きずっていった。サムソンは力が入らなかった。抵抗するための力が。


報告を聞き、ガザで待機していたアビメレクの部下たちは狂喜乱舞した。アビメレク自身も、喜んだ様子だった。
「そうかそうか……サムソンは、そんなに?」
「はい、相当なショックを受けているようでした。それに、手のひらに大怪我を負ってしまったようで」
「奴を殺すには至りませんでしたが……」
「よい。獅子を殺せるものを殺すなど、ジャッカル一匹にそこまでの期待はかけていないさ。それよりも、サムソンの心と手のひらの傷が治らない今が重要だ」
アビメレクは迷いなく言った。
「すぐに兵を用意しなさい。イスラエル人に奇襲を仕掛けるのだ。サムソンを、戦場に引きずり出せ」


サムソンの掌には薬が塗られ、包帯が何重にも巻かれた。傷は深かった。
「何故抵抗しなかった!」と、マノアはサムソンを叱った。サムソンがイスラエルの自治を勝ち得て以来、以前よりはマノアは彼に甘くなっていたので、こうして強く叱るのは本当に久々の事だった。
「お前がこんなに怪我をして……ペリシテ人が攻め込んできたら、どうするつもりだ!?いくらお前に力があろうと、その手で武器を握れるか!?その手で、敵を殴り殺せるのか!?」
マノアはショックを受けているサムソンに、ずっとそんなことを繰り返した。
「だって……だって……相手はメレクだったんだぞ」
サムソンは震え声で言った。だが、マノアそれも怒号をもって一蹴した。
「だからどうした!ジャッカル一匹を、イスラエルと天秤にかける気か!?」
「メレクは……俺の、友達だったんだ」
「サムソン!」マノアは叫んだ。
「いい加減にしろ!ようやく自覚が出てきたと思えば、少し気を許せば甘えおって!何が友達だ!?サムソン、お前は士師だ!イスラエルを支える存在なのだ!お前がこの世に生を受け、我々がお前をナジル人として偉大なる神にささげたその日から、お前の命はイスラエルのためにあるのだぞ!士師としての自覚と責任を持たんか!自分の事より、イスラエルの事を優先しろ!それが士師たる者の責任だ!」
「……うるせぇっ!」
急に、マノアの怒号にも負けないほど、サムソンは叫んだ。
「誰がしてくれなんて頼んだよ、士師なんかに!誰がナジル人なんかにしてくれって頼んだよ!責任持てだ?俺が望んでしたことならそうしてやるよ!いくらでも責任持ってやるよ!でも、違うじゃねえか!全部全部、あんたが勝手にやらせたことだ!何でそれなのに、やりたくもない事やらされて、本当に大切だったメレクの事は、見捨てなきゃならないんだよ!」
サムソンはタガが外れたようにそう言った。そして、マノアの胸ぐらをつかんだ。

親に文句を言うことが許されていなかったサムソンにとって、それは精一杯の反抗だったのだろう。自分の親友であるメレクの命を侮辱したマノアに、少しでも、彼の命の誇りを示すための行動だったのだ。親に歯向かうという行為を持って、お前のしたことは自分にとってそれほど重苦しい事だったんだ、とサムソンは彼に示そうとしたのだ。

だが、マノアの反応は、ただサムソンの頬を激しく打って「口答えするな!屁理屈をこねるんじゃない!子供のくせに!もういい年なんだ、少しは士師らしく振舞わんか!」と言うことだけだった。

サムソンは、激しくマノアを睨みつけた。マノアはそれに、威圧的な視線を持って返した。
「……ああ、そうかよ」
サムソンは吐き捨てた。そして、走るように自分の部屋に行った。
「おい、説教は終わっておらんぞ!なんでお前はいつも……」
そう言うマノアの声を無視して、サムソンは内側から鍵をかけた。

サムソンは一日中、部屋から出なかった。ひっきりなしに外から声が聞こえる。とっとと開けろ親不孝者、と脅迫するような声。そして、イスラエルの英雄サムソンがあんな大怪我をしては、このことをペリシテ人に知られては一大事、と、イスラエルの行く先を不安がる声。
当然のように、メレクを心配する声は、そのうちのどこにもなかった。
サムソンは、泣いた。一人ぼっちで寝台に横たわりながら、ただ泣いた。掌の、包帯から染み出る血を眺めながら彼は泣きつくした。


夜になった時、サムソンの部屋をトントンと静かに叩くものがあった。「入ってもよろしいですか?」と言う大人しい声。怒った声ではないそれは、デリラのものだった。
サムソンは黙って扉を開けた。デリラは一礼し、サムソンの部屋の中に入る。
「……メレクの死体は、荒野に埋めました。お墓を作ったんです」
「……ありがとう」
サムソンはそう言って、また自分の部屋に鍵をかける。
「……メレクが」
「はい……」
「デリラ……悲しいか?メレクが死んで」
「はい」
「だよな。お前だって、メレクと仲良くしてくれたもんな」
サムソンは、デリラに向かい合って言った。
「お前、泣いてないな」
「はい」
「なんでだ?奴隷が、余計に泣くのは生意気だからか?」
「……はい」
「じゃ、主人の俺が許可してやる。……思いっきり、泣け。泣きたいだけ、泣いていいんだ。今日は、メレクが死んだんだから」
「……はい」
その言葉とともに、デリラの小さな眼からぽろぽろと涙があふれた。それは彼女の包帯にしみこみ、包帯の下のやけど跡が残った肌にしみこんだ。乾燥したそれが、ピリピリと傷んだ。
「メレク……メレク……」
デリラは、メレクとのことを思い出して泣いた。彼にもらった肉の味を思い出した。彼の美しい毛並みを思い出した。そして、彼の勇敢な、無邪気な、様々な声色の鳴き声を思い出した。彼のありとあらゆるものを思い出して、彼女は泣いた。
「なんでだよ」
サムソンも、彼女の前で泣いていた。
「なんでメレク、殺したんだよ!大人しくなったのに!俺にまかせときゃ!あのバカ野郎ども!」
サムソンとデリラはその晩、メレクのために泣き明かした。昨日まで、晩が明けたらメレクがやって来たのに、明日からはそのようなことはないのだ。幾つの晩が過ぎようとも、もう永遠に、彼らのもとに、メレクは訪れないのだ。


「ああ、どうすればいい。なんとかこのまま、サムソンの傷が癒えるまで何事も無ければいいが……」
マノアはサムソンの傷のことを気に病んで、眠れない様子だった。その時。深夜のマノアの家の扉を激しく叩くものがいた。
「何事だ!?」
マノアは飛び起きて、その来客にあいまみえる。それは、先日のユダの軍隊に所属していた一人だった。
「マノア様、すぐに応援をお願い致します。それと、士師サムソンを!……ペリシテ人の奇襲です!」
「なんと……おお、なぜこんな時に……ペリシテ人め!」
マノアは頭を抱えた。だが、ともかくもやらないわけにはいかない。
「いそいでマハネ・ダンの若者を叩き起こせ!戦の準備だ!」
その声がいの一番に届いたのは、無論、サムソンの部屋だった。


戦はあっさりと始まり、サムソンも両手の大怪我をまだ生々しく残したまま、駆り出された。サムソンの到着とあって、イスラエル軍は歓喜に沸いた。この戦も、すぐに終わるだろうと。
だが、そうはいかなかった。サムソンの傷が思った以上に酷く、彼はやはり戦うことはできない、と父に言った。付添いの医者が言うことにも、傷がどんどん酷くなっているらしい。ジャッカルは不潔だし悪い菌が入ったのだろう、と医者はマノアに説明した。
マノアはそれを聞いて「そこをどうにか頑張らんか!お前は神に授かった子ではないか!」と言ったが、医者はサムソンの味方をした。
「無理なものは無理ですよ、マノア様!かえって無理に戦わせたら、サムソン様の手が一生元に戻らなくなるかもしれませんよ」

そう言ったわけなので、戦況は思った以上に長引き、泥仕合になった。ペリシテ側が優勢で、せっかくの英雄の登場もぬか喜びに終わったイスラエル兵は、疲れ切っていた。


そんな戦況が続きに続いた日の事だった。戦場にサムソンの世話のため連れてこられていたデリラは、水を汲みに近くの川まで来ていた。
彼女は壺に水をいっぱいまで満たし、天幕まで運ぼうとした。と、その時だ。五人ばかりの見知らぬイスラエル兵が、彼女の前に立ちふさがった。彼らは何も言わなかったが、じっと彼女を見ていた。
ああ、と彼女は納得した。彼女は、この目を知っていた。彼女が納得したと同時に、彼女の顔に荒布の袋がかぶせられ、口が閉められた。彼女の視界は薄汚れたベージュ色だけになった。
男が五人がかりで自分の体を抑えたのがわかった。抑えなくていいのに、と彼女は思う。抑えなくても自分は、何ら抵抗しない。
自分のそまつな衣装が脱がされるのがわかった。デリラは全く何も抵抗しなかった。彼女には全て、分かっていた。

マノアは言ってたっけ、と彼女は思い返した。自分を見た日、「これ程醜い女なら、間違いも起こらなかろう」と。彼女はその時自分が思ったことを思い返していた。この男は本当に育ちがよく、清廉な世界に生きてきたのだろう。男の性欲はせいぜい美しい女にしか向けられることはない。男と言うのはそれほどまでに理性的で見境のある生物だ。そんなことを信じてその年まで生きてこれたのだから。
十四年間の間、デリラはペリシテの貴族の家で奴隷として働かされていた。そんな彼女が初めて性暴力を受けたのは、七、八歳の頃だっただろうか。屋敷の使用人たちに、彼女は面白半分に犯された。
まだ、わずかながらも自分に誇りの残っているときだった。自分はそのことを、周囲の人間に訴えた。その時の彼らの反応を、デリラはよく覚えている。その時、確かに、自分の自尊心はまた一歩削り取られたのだ。
「馬鹿を言うな、思い上がりも甚だしい。お前のような醜い娘が犯されるわけがないじゃないか」
誰一人、デリラが受けたことを本当であったと信じてくれなかったのだ。
「陥れようとしているのか、その顔で?付くならもっとましな嘘をつけ」
「醜い娘は心まで歪んでいるな」
数少ない、事実を受け入れてくれる意見はこのようなものだった。
「もしそうだったとして、お前が色目を使ったんじゃないか?ああ、こんな年でその顔で、怖い怖い」
「どうせ一生男になんて相手にされないんだ、抱いてもらっただけありがたいと思ったらどうだ?」
もうすでにソレクの町とともに燃えて灰になってしまった人々の言葉の数々を、デリラは鮮明に覚えていた。
学んだのだ、自分は、その時に。男は自分にも性欲を向ける。愛せずとも、性欲をぶつけてくる。そして、そのことは周りに言っても一切信じてもらえない。自分は醜いのだから。だから、自分は我慢するしかないのだ。第一、抱いて貰えるだけでも、自分にとってはありがたい事なのだから。自分のような価値のない者にとって、男という自分よりは価値のあるものに、少なくとも性欲の処理という役目を与えられるだけ、喜ぶべき僥倖なのだから。たとえ、自分を犯したその後で、醜いと罵られても。
使用人たちは味を占めて、ストレス発散に彼女を犯した。何年も。あの、ソレクが焼打ちにあう前の晩ですら、そうだった。彼女は台所に野菜を運ぶ途中彼らに乱暴され、そのせいで遅れてこっぴどく叱られたのだった。
ここは戦場だ。この五人も、度重なる戦争のストレスを発散したいのだろう。その発散のタネに、折よく自分を見つけた。それだけの事だ。自分にはこれを拒む権利もない。訴える権利もない。何もない。自分にできることは、これが終わるまで、ただ動かずに声も立てずにじっとしているだけだ。
自分の体が蹂躙されていくのが分かった。下半身に痛みを感じる。自分の上で揺れ動く肉体を感じる。デリラは薄汚れたベージュ色を見ながら、じっとそれに耐えていた。自分は、これをされて当たり前なのだ。しょうがない。
そう思っていた時だった。彼女の視界にふと、赤黒いまだらが浮かんだ。

彼女の上に、何かが倒れこむ。それは冷たかった。考えるまでもなく、鎧を着た男に違いない。
デリラの片手が解放された。自分を押さえつけていた男たちが手を離したのだろう。だが、いくつかの打撃音が聞こえ、そして、数人が地面に崩れる音が聞こえた。
デリラは自由になった手で、自分の顔に被せられていた袋を取った。そこに立っているのは、サムソンだった。
彼は、まるでこの世で一番醜い、恐ろしいものを目撃したような表情で、デリラの方を見ていた。デリラの体の上で、いましがた彼女を犯していた男が兜ごと頭を割られて死んでいた。そして、他の四人も死んでいた。

「サムソン様……」
彼女がそう言いかけた時だった。サムソンは無言のまま、片手で彼女の上に覆いかぶさるその兵士をつまみ上げた。彼のむき出しの性器がずるりと出てくる。
彼は、やはり無言だった。彼はデリラにも何も言わせないまま、彼女を抱きしめ、そして、先ほど彼女が水を汲んだ川の中に彼女と一緒に飛び込んだ。
「サムソン、様?」
サムソンは自らの長い髪で、水の中に浸されたデリラの体をごしごしとこすった。彼は無言のままだった。先ほどの、怯えるような目つきのままだった。この世で最も醜いものを見てしまった、そんな目つきのまま、彼は自らの艶やかな金髪で、デリラの体を磨いた。まるで、これで穢れを落としてやるとでもいうように、冷たい、肌を指すような川の水の中で、彼はデリラの体の隅々までを、自らの髪の毛で磨いた。
「汚い」
サムソンはそう呻いた。彼女の体をいっそ擦り取ってしまいそうなほどに、激しく、激しく自らの髪の毛をこすりつけながら。
「汚い、汚い、汚い」
彼はそう繰り返した。デリラは、何も言うことが出来なかった。彼の髪の毛の感触が痛く、激しく、同時に心地いいとも思えた。
「どいつもこいつも汚い!」
サムソンはそう言うと、ざばりと川の中から上がった。そして川の中に取り残されたままのデリラに叫んだ。
「デリラ、待ってろ!今すぐ終わらせてくるから!」
そう言って彼は、戦場の中に飛び込んでいった。掌の包帯には、まだ血膿が滲んでいるというのに。
必死で駆けるサムソンと、それを呆然と見送るデリラは、二人とも、その一連の事を物陰から見ていた男の存在に気が付かなかった。

「領主様!サムソンの奴、逃げましたよ!」
ガザの領主アビメレクと、彼の護衛についていた一人のペリシテ兵だった。彼らは偶然に、本当に偶然に、戦地から少し離れたこの場所で、サムソンとデリラを見つけたのだ。酷く気の動転している様子のサムソンを見て、これは好機とばかりに護衛兵は弓を引こうとした。だが、アビメレクはそれを止めたのだ。サムソンの方をじっと、信じられないものを見るような目で見つめながら。普段なら寄越す納得のいく説明すら、彼は護衛兵に与えてくれなかった。
「いったいなぜ……」
その時、護衛兵ははっと異常に気が着いた。主の視線は、去っていったサムソンにはない。川にぽつりと取り残されたままの、小さな、みすぼらしい少女に注がれているのだ。
「……どうにか、なさいましたか」
護衛兵はなおも言う。だがやはりアビメレクからの返答はない。
「……サムソンは、あの小娘に執心なのでしょうか?」
「……かもしれんな」
「では、殺しますか。あのジャッカルと同様に……」
その時、護衛兵は驚いた。アビメレクはその瞬間憎しみのこもった目で、自分の方を見てきた。
「よいか!あの娘に手出しすることは、この私が断じて許さん!」
護衛兵はヒッと悲鳴を上げ、縮こまってしまった。アビメレクはなおも、デリラの方を見つめた。小さく、がりがりに痩せていて、顔には包帯が巻かれている、惨めな少女。男が魅了される美しさとは対極にある、醜く貧相な姿。
「間違いない」だがアビメレクはそんな彼女を見つめて懐かしそうに呟いた。
「デリラ……あの子は、君だ。君の娘だ」


その日、戦いは終わった。
戦場に突如現れたサムソンが、ペリシテ兵を片っ端から殺したので、生き残った者もほうほうの体で逃げ帰り、戦いはあっさりと終結したのだ。イスラエルの勝利で。


「奇跡です」その夜、サムソンの手の包帯をほどいて医者は言った。
「治りかけている」
サムソンの戦いぶりは、とてもとても手に大怪我を負っているとは思えないものだった。それをいぶかしんだ医者が包帯を解いてみると、一歩間違えれば腐ってしまうと言うほどの生々しく崩れていた掌に、新しい皮が張り、もうほとんど傷が治りかけていたのだ。
「いや、めでたい!」マノアは言った。「これも神様のご加護だ!」
だが、サムソンは違った。彼は、傷の治りかけた手のひらを愕然とした表情で見ながら、全く喜ぶ雰囲気ではなかった。
「どうしました?」
医者が声をかけた、その時だった。

「うるさい!」
サムソンははじけたように彼らに言った。
「どいつもこいつも出て行け!戦が終わったんならとっとと自分らの町に帰れ!帰れ、帰れ、お前ら全員帰りやがれ!」
がむしゃらにそう叫び散らしながら、サムソンは天幕の外に自分から飛び出した。そして、外で作業をしていたデリラの手首をつかんだ。
「デリラ、逃げるぞ」
「え?」
彼女の疑問の声も聞かず、サムソンはデリラを引っ張って、駆け出した。
「逃げるんだよ……こんな所、もういられるか!」


「くそう……サムソンの奴め!」ペリシテ人たちは悔しそうに呻いた。
「結局、あいつに対抗する手段はないのか……」
彼らがそう言うのも無理はない。結局、サムソンが怪我をしたというのも、精神的ショックを負ったというのも、大したアドバンテージにはならなかった。やはり、サムソンにはやられてしまうのだ。
「アビメレク様!」
彼らはこの計画を立てた張本人に詰め寄るように言った。大敗した責任をはらえとでもいうように。だがアビメレクは引け目など感じない。彼らは結局自分の計略を当てにしているのだと分かっているからだ。
「デリラ……」
彼はなおも呟いていた。
「デリラ?あのサムソンの奴隷少女とか?」
その場に居合わせたアシュケロンの領主が言う。
「確か調べたところによると、元ペリシテ人とか……」
「ええ」と、アビメレクの秘書。「サムソンが滅ぼした、ソレクの谷の住人です。貴族アドニバアルの奴隷だったそうですが、生き残ってサムソンに仕えていると」
「ふうん……その彼女の力、借りられはせんのかね?」
アシュケロンの領主が、そうつぶやいた。
「奴隷ったってペリシテ人だろう?私たちが頼めば何とかなるかもしれんじゃないか。彼女だって、イスラエル人にこき使われているよりはペリシテ人と一緒に居られた方がいいと思うがね……」
「……悪く、ないな」
 ぼそりと、アビメレクがそう言った、
「彼女は、殺してはならん。彼女は……」
「おお、そうかい?」アシュケロンの領主は嬉しそうだ。
「君が言うならそうだろうな。それじゃ善は急げだ、他の領主どもにもこのことは告げよう!なあに、奴隷だ。万一頼むだけでは何とかならなくても、礼をあげばどうとでもなるよ」

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feat: Samson 第九話



マハネ・ダンに帰る道中、サムソンはデリラに、メレクの事について話した。彼がメレクと出会ったのは、やはりこんな荒野での事だった。
理由も分からなかったが、どうしても家に居たくなくなって飛び出した日に、彼はメレクに会った。メレクにはまだ名前などなく、ただ荒野に居るジャッカルでしかなかった。サムソンは彼に初めて会って、まるで磁石のように彼に引き付けられた、と言うのだ。
「なんでかね。なんか、うまくは言えねえんだが……」
サムソンはその時の事を思い出そうと、デリラに結われた三つ編みの一本を手で持ってぶらぶら揺らしながら言っていた。
「俺、その時、ジジイとババアが嫌で……嫌だ、ってこいつに、初めて会ったこいつに愚痴ったんだよ。そうしたら、こいつ、そのまま聞いてくれて、それが、すっごく嬉しかった。こいつ優しいんだな、って、そう思えたんだ」
風邪の吹きすさぶ荒野で、サムソンはその日、何回も何回も、マノアとハツレルポニの悪口を言ったらしい。そして、彼がそう言ったのは、生まれて初めての事だったのだ。
「ジジイもババアも、俺が悪口言うことなんて許してくれなかったから。俺がちょっとでも口答えすりゃ、誰が産んだと思ってる、誰が育てたと思っている、この親不孝者、何で神様から直々に命を与えられておいてお前はそんなろくでなしなんだ、って、いつもそればっかりで……だから、悪口なんて、言えやしなかった」
メレクはクウンと鳴く。サムソンはそんな彼を撫でた。
「今は違うぜ。俺、言えるもんな。メレクにも、そしてお前にも」
「そうですね」
デリラはそれに了承した。なんとなく、彼女は彼のエピソードを自分と重ね合わせて考えていた。自分とは比べものにもならない身分の彼の過去を、あろうことか自分の過去に。しかし、彼女にとって不思議とそれは非常に自然なことだった。
自分にとっても、メレクが初めてだった。自分を奴隷扱いしない存在。自分に、自身を差し置いて食事することを許してくれた存在。そして、自分にそう丁寧にしなくていいのだ、と言ってくれた存在。全て、メレクが初めてだった。
奴隷としての十四年間の生命を暮していて、確かにメレクと出会って、何かが変わった。デリラはそう思えることを自覚した。サムソンが親の悪口を言えるようになったことと、デリラがメレクを相手にだけとはいえ敬意を払わずとも話せるようになったこと。その二つは、非常に似ているような気がした。
彼らはガザから大分遠ざかり、マハネ・ダンはもうすぐ近くになっていた。


ガザの町ではアビメレクと部下たちがやはり思案にくれていた。サムソンを力尽くで突破するなど、ほぼ不可能に等しい。それどころか、智謀で何とかしようとしても生半可な策では全くの無意味なのだ。サムソンの圧倒的な力の前では。
どうすればいいだろうか?彼らは延々と考えた。しかも、なぜかあの日以来、アビメレクがどこか気を抜けば上の空になってしまうことも、部下たちを難航させた。
「アビメレク様!」ついにその日、しびれを切らした部下が一人怒鳴った。
「しっかりなさってください、サムソンをなんとかしませんと、ペリシテが逆にイスラエルに支配される日も、そう遠くは……」
「……お前たち若造どもに言われずとも、わかっておるわ!」
アビメレクは苛立ったように言った。
「お前達こそ私がいなくては何もできんのか!」
「も、申し訳ございません……」と萎縮する部下たち。
「ですがサムソンは本当にどうしようもありませんよ。最近じゃあいつ憎さにジャッカルを見ても僕はあたりたくなってくるくらいで……」
「ジャッカル……」
意外なことに、その言葉がぼんやりとしていたアビメレクの思考を、ひとまずサムソン討伐に結び付けたようだった。
「サムソンは……随分ジャッカルと仲がいいな。異常と言ってもいい」
「異常」部下たちが言う。「たしかにアシュケロンに強盗に入った時も一緒にいたようですが……」
「この前、レヒにいた時もあいつはジャッカルを連れていた」
「えっ?」部下たちは不思議そうに言う。「あのときはあいつ一人だったでしょう」
「いや、私は見たのだ。ジャッカルが宿の屋上から、確かにあいつにろばの顎骨を渡していた」
そう、あの時、、領主の椅子に座りながら、彼はメレクがサムソンに武器を渡すところをはっきり見ていたのだ。アビメレクは注意深い事には自信のある男だった。
「それに、ティムナの田園地帯が燃えた時も、確かジャッカルが火を付けた、とかなんとか、ティムナ人共は言っていたな……間違いない。あのご婦人は犬みたい、と言っていたが、うなずけもできよう。そのジャッカルとやら、ずいぶんサムソンと懇意にしている関係のようだ。ふむ……」
アビメレクの頭の中に、とある策謀が浮かんだ。
「……自らの民でもぞんざいに扱うような奴、と言ってしまえばそれまでだが、あのくらいの年の子供ならば自らの職務よりも、自分が好きな者の方を優先してもおかしくはない……」
部下たちは、ようやくガザの領主の目に自分たちの知っている光がともって来たのを見て、安心した様子だった。
「どうせ正攻法では無理。……一か八かだ。やってみよう。お前たち、私の策に乗るかね」
「もちろん、領主様の仰せの通りに」
彼らは口をそろえて言った。


マハネ・ダンではサムソンの旅の帰りをハツレルポニ達が温かく迎えた。
「神様にお前の旅が無事終わったことへのお礼をお言いなさい!」とハツレルポニが言ったので、家に帰ってすぐにサムソンはマハネ・ダンにある祈祷所に行った。異邦人であるデリラはそこに近づくことすら許されていなかったので、彼女は留守番で、洗濯の仕事をしていた。
ほどなくしてサムソンが帰ってくると、サムソンはデリラを自分の部屋に呼び、髪の毛の手入れをさせた。
「デリラ」彼は言った。
「なんでしょうか?」
「神様、ってなんだろうな?」
彼はぽつりと、そう呟いた。
「ジジイやババアは俺の事を神様に授かった、なんていうよな。お前の怪力も、お前が神様にその身をささげてこそ得られたものだって」
「はい」
デリラは深くうなずく。
サムソンの怪力は、常軌を逸している。これが人間ではないもの、神からのご加護だというのも、デリラには何となく信じられるような気がした。
「……じゃあ、なんでジジイやババアの方にその力よこさなかったんだろうな」
サムソンは、少しもの寂しそうに言った。
「俺は、こんな力くれなんて頼んだ覚え、一回もねえのに」
彼は、デリラが磨き終わり、元通りの滑らかな美しさを取り戻した金髪を触っていった。
「俺なんかより、ずっと、神様だけを愛している奴がいるってこと……神様なら、分かんだろ?どうして?どうして俺なんだよ」


マハネ・ダンに向かって出発した斥候をアビメレクは見送った。
「うまくいくことを祈りましょう」彼の秘書が、彼に言う。
「私も様々智謀を凝らしてここまで上り詰めはしたが」アビメレクは夜の寒さから身を守るためのマントに身をくるみ、秘書に語る。
「こういう時のみは、結局いつも神頼みだな。……我らがペリシテの神、ダゴンに祈るほかはありはせぬのだ」
「はは、アビメレク様、貴方が?」秘書は笑う。「いつも常日頃、神など頼りにならない、と言っている貴方が」
「そして、結局神からの加護もたびたび受けてきた。……神など、案外簡単に欺けるか、あるいは意外と性悪な人間が好きということさ、君」
アビメレクはふっと口をほころばせて、話半分に聞いている様子の秘書に、言い含めるように続けた。
「本当さ。覚えておいて損はないよ、君」


ある夜の事だった。その日もサムソンは、メレクと一緒に遊んで帰ってきて、そして、眠りについたと思っていた。
「デリラ?」
女奴隷たちの眠る部屋の中で、デリラは声を聞いたのだ。彼女は起き上がった。見ると、長い真直ぐな髪を垂らしたままのサムソンが、部屋に入って来ていた。
「サムソン様?どうなさいました?」
「……来てくれ」
彼は息が荒かった。少し、震えているようにも思えた。デリラが起き上がって彼の側によると、彼は彼女をわしづかみにするように掴み、自分の部屋に走っていった。物凄い勢いだった。
何事か、と聞く余裕もなかった。あっという間にサムソンは自分の部屋に走りこみ、鍵をかけた。
「どうかなさいましたか、サムソン様……」
「デリラ。……俺を、抱きしめてくれ」
サムソンは青い顔で、そう言った。
デリラが唐突な彼の申し出に戸惑ったのは言うまでもない。ましてやそんな恐れ多い、と言う言葉すらも出そうになった。だがサムソンは震えながら、理由も説明しないうちに「こうやれって言ってんだよ!」と、デリラを抱きしめた。小柄な彼女の体は、背の高いサムソンにすっぽり覆われるような形になった。
「は、はい……」
彼女はそう言って、自分の腕を伸ばし、サムソンの背中に回した。自分の背中が守られたことが分かったサムソンは「背中じゃなくて、頭を抱いてくれ」と、細々と言った。デリラはそれも忠実に守り、彼の頭をしっかりと抱く。彼は体勢を下げて、大きな体を丸めるようにうずくまって、デリラの膝の上に頭を乗せるような形になった。
彼の息が荒い。デリラは片手で彼の頭を抱いたまま、彼の背中を撫でた。サムソンはずっと、それに甘んじていた。やがて呼吸も落ち着き、彼も少し平常心に戻ってきたかと言うあたりで、デリラは彼に問いかけた。
「どうかなさいましたか、サムソン様」
「怖い、夢を、見たんだ」
彼は言った。
「怖いもんは何も出なかったんだ。化け物も、猛獣も出なかった。でも……俺が、殺される夢、だったんだ。敵にじゃなくて。イスラエル人とか、ジジイとババアとかが、みんな俺の方見て、俺に石投げて、鞭打って、……俺を晒し者にして笑ってたんだ。それで、俺、不思議と全然力が入んなくて……ただ、されるがままになってたんだ。もうお前はいらないって、のたれ死ねって、そう言われたんだ」
彼は泣くような口調で、そう言った。
「怖い、怖いよ」
彼はデリラの膝の上で、急にポロポロと泣きだした。それは年相応、いや、年よりもずっと幼いような態度でもあった。彼はデリラの奴隷の服の膝をいくらでも自分の涙で濡らした。
「お可哀想に……大丈夫、大丈夫です、サムソン様。誰もサムソン様に、そんなことはしません」
「違う、違う。するんだ。たとえば、俺よりもっと強い、俺よりもっとすごい奴とかが出たら、あいつらそれをするんだ」
サムソンは泣きじゃくりながら、虐められたのを母に言いつける子供のように、デリラにそう言った。
「俺には分かるんだ。あいつらにとって、神様にとって、俺なんてただの道具だもんよ。イスラエルを良くするために居るだけの、道具だもんよ。俺が必要な間は生かしてるだけだ。必要じゃなくなったらあっさり捨てるんだ。あいつら、そう言うやつなんだ」
小さな小さな、消え入りそうな声で、しかし確かに泣きじゃくりながら、サムソンはそう言った。彼の頭の中には、まだその悪夢の内容が渦巻いているように、デリラには見えた。
彼を抱きしめながら、デリラは、サムソンの気持ちがわかるような気がした。実の父であるマノアすら、イスラエルの誇りのためなら、彼をペリシテに手渡すことを全く拒まなかったどころか、それを彼に殆ど強制したのだ。手柄を上げて帰ってこれたからよかったものの、あそこで彼が死んでいたらどうするつもりだったのだろうか。嘆くだけ嘆いただろうか。彼の息子の死を?いや、神様から授かった英雄の死を。
「あったかいな」
彼はふと、そう言った。デリラの痩せた腹に静かに頭を擦り付けるようにして、彼は言った。
「お前はあったかいよな、デリラ」
「……お褒めに預かり、光栄です」
包帯の下で笑いながら、デリラは彼に言った。
「デリラ、俺な。嬉しかったんだ」
「何がでしょうか?」
「可哀想、って言ってくれて」
彼はまだ泣いたまま、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「泣き言言ったら、そんなこと言ってる暇があるか、神から授かった子が、それでどうする、って、言われてばかりで。文句言ったら、お前は十分恵まれているじゃないか、わがまま、親不孝者、って言われて。ちょっと何ができない、って言ったらそんなもの頑張ってなんとかしろ、って言われて。そんなやつなんだよ、俺の親父。酷いだろ。酷いだろ」
「はい。酷いです。とても、酷いです」
自分は本心からこの言葉を言っている。デリラはそう思った。仕えるべき相手であるマノアの中傷をしているのに、彼女は不思議と、罪悪感も何も感じていなかった。
「だから、お前が可哀想、って言ってくれて、俺、すごく、嬉しいんだ」
いよいよ本格的に泣いて、彼は彼女に縋り付く。
「俺はやっぱり可哀想なんだって。そう思えて、すごく、すごく嬉しいんだ。もっと言って。もっと、俺の事、可哀想だって、言ってくれよ。デリラ。ずっと俺の側に居ろよ。俺の事、可哀想だって言ってくれ」
これが、ペリシテ人を千人殺した男だろうか。イスラエルのトップに立つ士師だろうか。
醜く焼けただれた顔をした、惨めな、何の力もない女奴隷に泣きすがり、そのような彼女から憐みの言葉を乞う少年が、本当に彼と同一人物なのか。
しかし、窓から差し込む月光に輝き、美しく流れる彼の黄金の髪が、目の前にいるのは確かにサムソンであると、彼女に教えていた。
彼女は、はっきりと理解した。自分は、サムソンを可哀想だと思っている。産まれてから持たなかった、持つことも許されなかった感情を、確かに自分はこの彼に感じているのだ。なぜだろう?理由は分からない。強いて言うなら、このように、汚らしい奴隷に泣きじゃくりながらすがるこの姿が、可哀想でなくてなんだというのだろう?
デリラは彼をしっかりと抱きしめた。
「お可哀想に。お可哀想に。大丈夫、大丈夫ですよ、サムソン様、お側に居ますから。私は、離れませんから」
「なんでだよ、なんでだよ。……俺は、お前の故郷、滅ぼしたんだぞ」
「はい。でも、離れません。サムソン様が、お可哀想ですから」
サムソンは際限なくぼろぼろと泣いた。彼女の痩せこけた太ももの間を、彼女の薄い衣服が吸いきれなかった彼の涙が流れていくようであった。
「ありがとう……ありがとう。もっと……もっと言って」
彼はそう呟き続けた。


「こいつか?」
ガザから下ってきたペリシテ人の斥候は、一匹のジャッカルを捕え、吠えないように口をふさぎ、全身を押さえつけた。ジャッカル一匹にここまでするのにも、ざっと二十人がかりだった。うち六人は相当抵抗され、かなり深い傷を負ってしまった。
「間違いねえだろ。サムソンと一緒に居て、後をつけてきたんだから」
「じゃあ、アビメレク様に言われたことをさっさと済ませて帰ろうぜ」
彼らは瓶を取り出した。そして、抵抗できないようしっかりと押さえつけたそのジャッカル、メレクの口の、ふさがれていない狭い隙間に、その瓶の細い口をあてがった。
メレクは必死で抵抗した。しかし、瓶の中の液体はさらさらと流れ、彼の喉の中に落ちていった。


朝になってみると、あの後泣き疲れて寝てしまったサムソンは、全くいつも通りになっていた。あの惨めな少年の面影はなく、いつも通りの、生意気そうな彼がそこにはいた。だが、デリラはそれでもいいと思った。
非現実的な幻想であったのなら、それでもよかろう。気分の悪いものではなかったのだから。
彼女はサムソンの髪をいつも通り梳かして、七本の三つ編みに結い上げた。今となってはこの作業も、ずいぶん手早く出来るようになった。
サムソンはさっさと朝食を済ませ、いつもの通りにメレクを迎えに外に出た。
だが、荒野からやってきたそのジャッカルは、様子がおかしかった。

彼は凶暴な目つきでサムソンを見据え、警戒するような唸り声を発した。

「メレク……?」
サムソンは言った。
「おい、メレク、どうした……」
サムソンがそう言って手を差し伸べた瞬間、メレクはその異常な目つきのまま、サムソンに向かって走ってきた。

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feat: Samson 第八話



サムソンのおかげで、イスラエルには平和が訪れた。ペリシテ人はもはや彼らを下等民族と呼べなくなった。イスラエルは彼らの支配下ではなくなり、彼らと対等になったのだから。
長く続いた屈辱の時代を切り開いたサムソンは、士師として非常に褒め称えられた。彼の治世はたった二年であるにもかかわらず、もはや彼は二十年分の働きをした、と言いうものもあった。
マノアやハツレルポニは、息子を強く誇りに思い、そしてそのような息子を与えてくれた敬うべき彼らの神に深い感謝を毎日のように捧げ、生贄の獣を何頭も焼き尽くした。
「一時はどうなることかと心配していたが、やはりお前は神様が我々に与えて下さった、たぐいまれなる贈り物だったな!」と、マノアはサムソンの事をほめたたえた。
「お前は偉大なるヨシュアや歴代の士師のように、立派にイスラエルを背負っていく器となろう。お前の将来が楽しみだ」
彼は若い時からずっと、一途に神を信じ、イスラエルを愛する心を持つ身でペリシテに支配される屈辱にあえいできたのだから、自分の息子がその時代を終わらせてくれたとあって、喜びもひとしおだったのだろう。
「ここはモーセによって約束された嗣業の地。イスラエルが生きるべき土地なのだ。サムソン、お前は偉大なるモーセの意志を受け継いだのだ」
サムソンはその言葉に適当に礼を言いながら、否定せず耳を傾けていた。


サムソンが少しの間家を出て気ままに旅したいと言い出したのは、その少し後の事だった。
マノア達はもちろんあまり面白そうなようではなかったが、まだサムソンがイスラエルを独立させたことに対する余韻も残っていたし、機嫌もよかったので、一応その褒美に少しくらいサムソンの好きにさせてやってもいいという気持ちはあったのかもしれない。マノアはそれを了承し、供に何人付けるか、と言った。
サムソンはそんなに大勢いらない、と言った。しかし、やはり一人くらいは身の回りの世話をする者がいなくてはマノアもハツレルポニも心配なので、結局デリラが彼に同行することになった。
大した旅支度もすることなく身軽な姿で、サムソンはある朝に挨拶もせずにさっさとマハネ・ダンを出発した。すぐにメレクもやって来て、彼も旅に加わった。

「なんで旅に出ることにしたとか、聞かねえのか?」
荒野の真ん中で、サムソンはデリラにそう言った。
「はい」
「奴隷にとっちゃ、聞くことが失礼だから?」
「はい」
「お前はもっと俺に聞いていいんだぞ。もっと話したっていい」
サムソンは袋に入れて持ってきていたパンを食べながらそう言った。彼らは荒野を歩いていた。メレクはもちろん、サムソンも慣れたもので、まるで平らな草原を歩くかのようにひょいひょいと荒れた荒野の道を進んで、デリラは一歩間違えれば取り残されそうだった。
「では……なぜですか?」
「あいつらと一緒に居たくねえんだ」
サムソンは吐き捨てるように言った。
「デリラ。……お前だって、おかしいと思うだろ?あいつら。特に、俺のジジイ」
サムソンは平らな荒野にポツリとあった一つの岩の上に腰かけて、隣にデリラも座らせた。そうしてから、こう述べた。
「……ペリシテ人を、殺せとか殺すんじゃないとか。三十人殺すのは悪くて千人殺すのはいいとか。さんざん俺のこと馬鹿にしといて手柄立てりゃ神様から授かった自慢の息子とか……何なんだよ?ほんと、何なんだよ?」
彼は吐き出すようにそう言った。荒野の風は砂が混ざっていて、デリラは片手でひさしを作って砂から目を守った。サムソンもうつむいて膝にひじをつき、両手で目を覆って、それで目に砂が入らないようにしていた。
サムソンは、あの彼が帰った一晩に言ったようなことを、今度は非常に大きな声で吐きだした。
「何なんだよ!?本当に虫がいいよな、あいつら!俺に戦ってもらってる癖によ!都合悪くなったらすぐ大人の特権振りかざして威張り散らすし!俺が困ったときは助けないくせに俺が手柄立てりゃ自分の息子って吹聴するし!ほんとなんなんだよ!?俺は都合のいい道具か!?普通の親子ってこうじゃねえだろ!?なあ、こうじゃねえよな!?こうじゃねえんだよな!?」
「は……はい」
「ジジイとババア、変だよな!?」
「はい……」
「なんでお前、はいはい言うんだ!?俺の言うこと聞いてなきゃ、奴隷として失礼だからとかそんなんかよ!?」
「いいえ、そんなことは」
サムソンは叫ぶうちにどんどん冷静さを失い、取り乱していると言ってもいいほどの状態になった。
「違うよな!?違うんだよな!?お前が貴族でも、お前は俺の事、可哀想って言ってくれたよな?!俺が可哀想だから、そうだよな!?」
「はい……はい。安心してください。サムソン様」

貴族だったらなんて、そんなこと、分かるはずがない。自分は貴族じゃないのだ。もしもそうだったら、と仮定して空想することができるほどの自尊心も、もうとうの昔にすっかり削り取られてしまった。貴族は美しく、力があるのだ。自分ごときが空想でそうなることすら、死にも値するほどおこがましいほどに。
もっと言うなら、普通の家族がどうだ、なんて分かるはずもない。父も母も、いたかどうかすら、自分は覚えていないのだから。おそらく、どちらかが、あるいは両方があの屋敷の奴隷だったのだろう。だが、デリラは親子の思い出など、得る事すらもない人生だった。
しかし、ただ彼女はサムソンの言葉に同意し続けた。不思議な感覚だった。義務感以上に、何か感じるものがある。そう、デリラは自覚し始めていた。それは今ここで生まれたものではなく、少し前からそうであったような。
メレクが足もとで寝そべりながらあくびをした。

「昔からそうだ。昔から、お前は神様に捧げられた身だからって、正しく清く育つべきだからって好きなことは何もさせてくれねえし、友達なんて一人も作らせてもらえなかったし……メレクと、メレクと荒野で初めて会った時だって、ジジイもババアも散々メレクのこと馬鹿にしやがった、腐肉を食う汚いジャッカルなど汚れているからとっとと離れろ、お前はこんなものと一緒にいちゃいかん、って。メレクが一緒に頑張ってくれて、一緒に抵抗してくれたから一緒にいること許してもらって……そん時が、すごく嬉しかった」
「ええ、メレクはとても優しいですものね」
「そうだよ。メレクは優しいんだよ。俺の友達だもんよ」
メレクは彼らの足もとで、それらを聞いて嬉しそうに吠えた。
「昔から、メレクは優しくて……メレクがいっつも、俺のそばについてくれていた」


彼らは進みに進んで、やがてガザに到着した。ペリシテ人の一大都市だ。
すっかり日は暮れていて、いかがわしい通りだけがにぎやかだった。サムソンはそれに目を止めた。
「デリラ」
「なんでしょうか?」
「ああいうところにさあ……いるんだっけ?娼婦とか言うやつらが」
デリラは「はい」と言い返した。
それを聞くなり、サムソンは「面白そうだな、行こうぜ」と言い出した。

デリラは止めようかと思った。ハツレルポニは何よりも、サムソンが乱れたことをするのを嫌うし、その目付け役に自分を置いているのだ。娼婦のもとに行くなど、彼を潔癖に育てようとするハツレルポニが許すはずがない。
だが、不思議と彼女は、サムソンを止められなかった。それのどこが不思議かと言えば、主人の言うことには絶対に従わねばならない、と言う彼女の信条ともまた少し違ったもののように、彼女は確かに感じていたからだ。
何故か、サムソンを邪魔したくない。サムソンは、楽しそうだった。
いいか。このままでも。彼女の心の中に、そんな見覚えのない感情が湧き上がってきた。どうせマノアやハツレルポニの眼のないところなんだ。彼はそんなところを求めて、彼らと一緒のところになどいたくないから旅をしたんだ。彼らが禁じることの一つくらいをしても、いいじゃないか。ましてやサムソンは、結婚相手を失った身なのだ。女が恋しくなったところで、構わないじゃないか。
そんなことを感じる自分に、デリラはたまらない違和感を覚えていた。だがこれもまた不思議なことに、その違和感は不快感と言うわけでもなかった。

サムソンは路地の隅にひっそりとあった少しばかり年増の売春婦の家の前に立った。窓から男を呼び込もうとしていた彼女は、彼の異常に長い髪の毛や、顔中包帯まみれの女とジャッカルを一頭連れているという異様な風体に面食らっていたようだったが、それでも気を取り直し「坊や、あたしを買うつもり?お金は先払いよ」と言った。
「金はこんだけある」
サムソンは財布から金を取り出して言った。
「これなら一晩とは言わず、四日はあたしのところに泊まっていけるわよ。あたしは安さが売りだしね」
「じゃ、頼む」
「そっちの子たちは?あんたの召使いとペットかしら?その子たちも一緒に?寝室は足りてないけど、地下室ならただで貸せるわよ」
「かまいません」デリラは言った。まともな寝床など普段から与えられない。どんなところでも寝られる自信はあった。
「じゃ、決まりね」と、その売春婦は、サムソンたちを自らの家に連れ込んだ。そして、デリラと一緒にまずは夕食を作り始めた。


ガザの領主、アビメレクは仕事を片付けながら、いらだつ心を隠せないでいた。イスラエル人がペリシテの支配から逃れ、税を治めなくなったせいでペリシテ全土が大損だ。無論のこと彼の実入りも少なくなっている。勝手に協定を結んでしまったと、他の領主からの顰蹙も買った。彼は真実、イスラエル人を腹立たしく思った。そして、その原因を。
「(サムソン!サムソン、あの小僧め!)」
ここ数日の間、彼の心にあるのはサムソンの事ばかりだ。自分よりもうんと年端のいかない少年を、彼は智謀で捕えたつもりだった。彼には馬鹿力はあっても所詮は下等民族の、しかも子供。自分の頭が切れることに自信のあったアビメレクは、力は負けても智謀では彼に勝つだろうという絶対的な自信があった。
そのこと自体は間違っていなかったのだ。彼は智謀でサムソンに勝った。だがしかし、彼の計算違いは、サムソンの馬鹿力は智謀で得た勝利をそれこそ力づくで無理矢理覆すことができるほど膨大なものだった、と言うことだ。あの血の泉がわいたレヒの光景を思い出すたび、彼はそう確信した。
「(イスラエルの神の加護を受けた英雄……か。ふん、異教徒の神を肯定するのはしゃくだが、それをもってしてもありえる話だ!あれが人間業なものか!)」

そんな彼の前に、とある昼間一人の青年が言うことがあると言ってやってきた。彼はアビメレクの部下の一人だった。アビメレクはその青年に「何があったのだ?」と率直に聞いた。
「領主様。実は、私の姉……個人で売春宿を営んでいる女なのですが、その私の姉の家に、気になる者が入っていくのを見た、と我が知人に告げられまして。私は……それが、領主様が探しているものなのではないかと思うのです」
「何?」
「異常に長い金髪の背の高い少年で、ジャッカルを一匹連れていたというのです。それと、顔中包帯を巻いた娘も一人」
青年の報告を受けて、アビメレクは顔を青くした。もちろん、そんなものなど世界広しと言えども、サムソンぐらいしかいないだろう。
「お前の姉は何をしている!?」
「姉は気が付いていないようです。若い時からふしだらで家から半ば勘当されて、そのおかげで学もないような女ですから、サムソンの名前は知っていても彼の髪の毛のことなどはあまり知らないのではないでしょうか?ですから一応言ってはいませんが……いかがいたしましょうか?」
「……無論、捉えるしかあるまい」
アビメレクは真剣な顔でそう言った。自分が恨みを尽くしてきた相手が自分の領内にいる。これほどまでにうまいことはあるまい。
「だが……焦りは禁物だな。あれは一度に千人を殺せるような化け物だ」
「おっしゃる通りです」
「よいか、サムソンを見張っておれ。我々がまずガザを封鎖する。そして陣を整え、完全に準備をしてから奴を迎え撃つのだ。千人以上の軍隊を集めればならない。万が一にも奴の目に付くことがないように、ひっそりとな。……奴はガザから出しはせん。飛んで火に居る夏の虫、今度こそ息の根を止めてやる」


やがて三日が立った日の事だった。サムソンはその間、ずっと売春宿に入ったまま、外に出ようともしなかった。彼はハツレルポニに家の中には入れてもらえないメレクと室内で一緒にいられるのが嬉しいようで、メレクと一緒に遊んでいた。
その三日目の朝だった。デリラは売春婦の家の仕事を手伝って掃除をしていた。
頭にふと、違和感を感じる、触ってみると、焼けてほとんどなくなっていた自分の髪の毛が、また生えてきたのだということがわかった。
ちりちりに縮れた、赤い毛。自分の顔面と同様にこれも醜いと馬鹿にされる対象だったが、包帯越しに抜き出して久々に見たそれにデリラは感慨を覚えないわけでもなかった。
「あれ?あんたにも髪の毛、生えてたんだ」
気が付くと売春婦が後ろに立っていた。デリラはびくりとすくみ「も、申し訳ありません、ただいま……」と掃除を再開した。
「あー、いいよ。気遣いありがとね。ねえ、それよりさ。ちょっと聞きたいんだけど。あんたのご主人、何なんだい?」
「は……何がでございましょう?」
「あの子、何しにここに来たってのさ?」
デリラは売春婦の質問の意味が分からなかった。だが、彼女は渋ったようにこう言った。
「あの子を来させてからずっとあたしはあの子と一緒に寝ちゃいるけど、あの子、あたしを抱きゃしないのよ。あたしと一緒の布団で、文字通り寝るだけだよ。ぐうぐういびきかいて。……そりゃ仕事の手間が省けたと思いや楽だけど、一体全体売春宿に来といてどういうつもり?変な気分よ、こちとら」
それを聞いて、デリラ自身も変な気分になった。衝撃を受けた、と言ってもおかしくはなかった。
売春宿に来て、売春婦を抱かない?文字通り、ただ一緒に「寝る」だけ?そんなことがあるのだろうか。だって、サムソンはここがどういうところなのか知っているのではなかったのか?女を買うとはどのようなことか知っていて、だから面白がっていたのではないのだろうか?
目の前の売春婦は、おそらく泊まるだけ泊まって先払いでもらった金を値切られはしないかと言うことを心配しているようだった。だが、デリラはそれ以上にサムソンに思いをはせた。
「あの方は」
ふと、ある言葉がデリラの口を突いて出た。それはまるで、デリラ自身の疑問に答えるような答えでもあった。
「知らないんだと思います。女を抱く、と言うことを」
「は?」
売春婦は怪訝そうだった。それはそうだろう。しかし、デリラはその答えに納得した。
彼は、ひょっとすると、知らないのだ。ハツレルポニ達に「神に与えられた者」として清く正しくあることを強要され続けた彼は、女との交合というものを存在自体知らないのだ。彼にとって女と寝るというのは文字通り添い寝するだけの事、売春宿と言うのはただ金を払って女と一緒に添い寝するだけの場所なのだ。
サムソンの何を見てきたわけでもない。なぜ分かるのだろう。彼女自身にも不思議だった。だが、その答えは天啓のように彼女に振ってきた。
「……変な子ね」
売春婦はそれだけ言って、後はもう十分と言うことか、下がっていった。地下室の上の階からサムソンとメレクの遊ぶ無邪気な声が聞こえてくるのを見て、デリラは妙な気持ちになった。急に、涙がこぼれた。
自分はなぜ、泣いているのだろうか?その疑問に対する答えを、口は出してくれなかった。だが、デリラはなぜか、それがひどく悲しい事のように思えたのだ。


「あんた、何してんのよ?」
例の売春婦は自分の家を出て、そして彼女を見張っていた彼女の弟に行った。弟は隠れていたが、彼女はいともたやすく見つけた。
「な……」
「言い訳したって駄目よ。ここ数日ずっとあたしの家を監視しやがって。お客さんもいるのよ、失礼なことをしないで貰いたいね」
「うるさい、家の恥さらしめ!俺は領主様のご命令にしたがってこれをしているんだ、邪魔をしないでもらおうか!」
彼は姉に深く追求されないように、アビメレクの名を出した。しかし、それは結局裏目に出た。
「……領主様のご命令?それ、どういうこと。あたしが何かしたっての?何か理由がありそうだね」
売春婦は弟のした発言、なぜか自分の家を見張ることが非常な重大事項であるということに目を付けた。そして、弟にそれを問い詰めた。弟は最初の方こそ断っていたもののとうとう根負けして、姉に話した。
「お前の宿に来ている小僧は、イスラエル人サムソンだぞ」
「え!?あの、ペリシテを苦しめてるっていう……」
「ああ。だから、俺たちはあいつの動向を見張りながら、警戒態勢を敷いているんだ。あいつが帰ろうとした時待ち伏せして殺せるようにな。お前もしっかり、あいつを見張っていろ。ペリシテのために」


その夜の事だった。次の朝になれば、サムソンは帰るという夜の事だった。サムソンは夢の中で、変な感覚を覚えた。自分の長い髪の毛が自分の体に巻きついて、自分を拘束している夢だった。彼の髪の毛が鋭く彼の体に食い込み、ぎりぎりと締め上げた。彼の体中が痛みに悲鳴を上げた。とても寝てなどいられない激痛だった。
彼はそこで目が覚めた。と、同時に、自分が縄で縛られているのに気が付いた。
「な……」
彼は声を出しかけたが、例の売春婦はそばに居なかった。だが彼はすぐに理解した。おそらくあの売春婦も、セマダールと同じだ。自分を寝ているところ縛り上げれば何とかなるとでも思ったのだろう。
だが、自分にそんなものが通用するものか。サムソンがぐいと力を込めると、夢の中の自分の髪の毛とは違い、それは糸のように簡単にほどけた。
かえって売春婦がいないのがチャンスだ。編んでいる暇はないので、サムソンは切れた縄で自分の長髪を一気にきつく縛り上げ、邪魔な分を首回りに巻きつけ長さを調節した。そして、地下室のデリラとメレクの所に下って行った。
「おい、俺らの正体がばれたぞ」
デリラはそれを聞いて驚いたようだった。サムソンは彼女の手を引き、「すぐに逃げよう」と言った。


「サムソンを縛り上げたから、今すぐ来て捕まえてほしい」と例の売春婦から連絡が入った。サムソンを狙い撃ちしようと閉ざされたガザの門の前に居た兵隊たちはそれを聞き、彼女の手引きで彼女の売春宿に向かった。
それを聞いたとき、アビメレクはなんだか嫌な予感がしたのだ。自分の予定と外れてしまうが故に、この計画も失敗してしまうような。
そして、その予感は当たった。兵たちが売春宿に着いたとき、サムソンはすでに拘束を逃れ宿から逃げていた。そして、守りが手薄になったガザの市門に入れ違いに向かってしまったのだ。

「追え、サムソンを逃がすな!」アビメレクはその報告を聞き、血眼でそう命令した。ガザの門はがっちりと閉められているのだ。逃げられるはずがない。せめて、兵が引き返すまでの時間稼ぎにはなるだろう。
だが、そうはならなかった。兵たちがたどりついたとき、ガザの立派な門は、扉、いや、門柱ごと、かんぬきもろとも引き抜かれてただの四角い穴と化していた。
寝ずの番が恐る恐る言った。
「はい……申し上げます。サムソンです。サムソンが、素手でこの扉を引き抜いて逃げて行ってしまったのです。……お許しください、領主様。我々にはどうすることもできませんでした」
「……イスラエルの生んだ化け物め!」
アビメレクは唇を噛んだ。一度ならず二度までも、自らの作戦を力押しで乗り切ってしまい、自分に煮え湯を飲ませたサムソンに対する怒りが一層激しく燃え上がった。
必ず、必ず彼を捕えて死刑にしてやる。そのような思いが、彼の怒りに火照った体中を満たした。


高い、名前もよく知らない山の上に着いて、サムソンは先ほどから担いだままのガザの市門の扉をそこに置いた。すでに夜が開けていて、うっすらとした朝日の光で山の上から雄大な景色が見渡せた。彼らの視界にうつる町はヘブロンだったが、サムソンにとってはそれは大したことではなかった。彼はぼんやりと、景色を眺めていた。ほんの数時間前に脱出劇を演じたとは思えないほど、彼に興奮した様子はなかった。
彼はずっと黙っていて、デリラも傍でそれを見ていた。彼女は、ガザの町で自らが感じた思いについても、少し思いをはせた。
何故、自分は悲しくなったのだろうか。自分は、サムソンを可哀想、と感じているのか?そのような感情、何物にも劣る自分が持つのにはおこがましいものなのに。可哀想、と言うのは対等以下の相手の人間に言うもので、イスラエルを統べるサムソンがそんな相手なはずないのだから。この世の何に至っても、デリラに可愛そうなどと呼ばれる筋合いのあるものなどない。彼女はそう言われたし、そう信じて生きてきたのに。そして、禁を犯すことは絶対に駄目だと自分に言い聞かせ、誰に言われるよりも早く、強烈に、自分自身を責めてきたのに。そうでなければならなかったはずなのに。
朝露にぬれた雑草の葉を食べるメレクの背中を撫でながら、彼女は自覚した。自分は、サムソンを憐れんでいる。全くの穏やかな心で。それは彼女にとって、人間が素手で門柱を引きちぎることよりも、非現実的なことだった。

「何故、余計な真似をした!」
流石に例の売春婦は、ガザの役人たちに責められた。だが彼女も気が強いもので、通り一遍の謝罪以上は、全くしなかった。
「貴様ごときで何とかなる相手だと思ったか、ばかもん!」
「姉に向かって何さ、その口のきき方は。じゃああんた達だけで何とかなったって言いたいの」
「……もうよい」
最終的に、ため息をつきながらアビメレクがそう言った。
「なってしまったことはなってしまったことだ。ご婦人。貴方には情報をありったけ提供してもらおうか。サムソンと四日も一緒にいたというのは大きい」
「情報ったって話すことはだいたい話したよ」
「サムソンと一緒にいたものの事は?」
「ジャッカルね。あれ、ほんとにジャッカルだったのかしら。なんかサムソンには偉く懐いてて、犬みたいだったわよ」
「それと」アビメレクは言った。「ほかに、少女もいたと。以前奴を見かけたティムナの若者も、顔に包帯を巻いた少女を目にしているが」
「たぶんその子でしょうよ。顔中包帯だらけで、やたら必要以上にビクビクした子でさ……あ、それと、顔と性格も変だけど髪の毛も変だったわね」
「髪の毛?」
「ああ。包帯から少しこぼれ出てたんだけど、ちりちりの、珍しいくらい赤い色の髪でさ……」
その瞬間だった。アビメレクの目の色が変わった。
「……今、なんと?」
「え?ちりちりの赤毛って……」
その瞬間だった。アビメレクはそっと額に手を添える。「いかがいたしましたか?」と彼の部下が問いかけたが、それに対する返答は返ってこなかった。
代わりにアビメレクは、誰に聞かせるでもない声でつぶやいた。
「……デリラ……」
「なんですって?」と、部下の声。
「デリラ?人の名前ですか?……変な、名前ですね」
部下がそう言うのも当然だった。デリラ。言葉の意味は「弱らせるもの」。自分の子供にそんな縁起の悪い名前を付ける親が、どこにいるのだろう。
だが、耳聡く弟の発言を聞いた姉は言った。
「デリラ?あ、そう言えば多分その包帯の子の名前、それだわ。サムソンが言ってたもの」
次の瞬間だった。売春婦は面喰った。アビメレクが、激しい勢いで彼女の肩を掴んできたのだ。冷静な領主には似つかわしくない程の、鬼気迫る表情で。
「詳しく話せ!」

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feat: Samson 第七話



サムソンはマハネ・ダンに帰らなかった。それも、何日もの間。
彼はデリラを引っ張って、メレクと一緒にエタムにある岩山の、岩の裂け目に入った。そこは、彼が時々メレクと一緒に訪れる、彼の隠れ家だったそうだ。その証拠に、ボロボロになって汚れてはいるが、毛布が一枚、その中に置かれていた。
「嫌いだ。……あいつら全員、嫌いだ」
昼間のうちはサムソンは時々そんなことを言うだけで、後は全く自由気ままにエタムの山岳地帯を駆けずり回った。そしてメレクと一緒に野生の鹿や山羊を狩り取って、デリラに料理させた。デリラはそれに何も抵抗しなかった。サムソンがやりたいことならやらせてやる他ないのだし、逆らおうとしてもどうなるものでもないではないか。
今頃は勿論マハネ・ダンではサムソンを探して騒ぎになっているだろう。だが、サムソンは当然そのようなことは全く関係ないようだった。
夜になれば、焼いた鹿を食べつくして、寝転がりながら、サムソンはデリラに言った。
「デリラ」
「何でしょうか」
「……俺、悲しいよ」
デリラはそれを聞いて、「お可哀想に」と言う。
「なんで、こうならなくちゃ、ならなかったんだよ」
彼はえずくように、体の中の異物を吐き出すように、そう言った。あの夜一晩、いや、あの結婚式の日からずっと彼の身に起こったことを、彼はうまく言葉に言い表せなかった。ただ彼は自らの苦しみを表明した。
「お可哀想に、サムソン様」
デリラはそう繰り返し続けた。サムソンは彼女にそう言われ、メレクにもいたわるように指を舐められながら、ぽろぽろ泣いた。
「なんでだよ?なんでだよ!?どうしてこんなことが起こったんだよ!?俺が悪いから?全部、俺のせいだから?」
「お可哀想に……」
いつの間にか、デリラも貰い泣きしていた。あまり感情を貰うことなどなかったが、彼と自分とメレクしかいないような空間で、彼の感情は驚くほどデリラに伝播した。うまい理由は見つからなかったが、彼女も悲しくて仕方がなかった。
「もっと言って」サムソンは呟いた。「もっと、可哀想って言ってくれよ。デリラ」
「はい、言います。何回でも申します。お可哀想に、サムソン様」
彼らしかいない岩山に、そんな声が何回も、何回も響いた。


マハネ・ダンではもちろん、サムソンがいないことが問題になっていた。しかも、それはただの問題ではなかった。
マノアのもとに、一人のペリシテ人の、高貴な身なりをした男性が現れたのだ。彼はガザの領主、アビメレクと名乗った。
「無論のことあなた方もお聞きしていることではあるでしょうが、先日のティムナの町で、サムソンが大量に人を殺しました」
普段のマノアであるのなら、ひょっとすると啖呵を切って追い出したかもしれない。しかし、今は勝手が違った。
マノアは先のペリシテ人への反乱で、反乱の戦果としてイスラエル民族の自由をいかに認めるか否かの交渉をずっとしていたのだ。そして、それが最近ようやく功を奏しそうになっていた。そんな時に、サムソンが事件を起こしたのだ。しかも大義のある反乱ではなく、全く狂乱的な大量殺人にすぎなかった、と、しつこすぎるほどにアビメレクは彼に言ってのけた。
マノアも、無論のこと初めて聞くそのことに頭を痛めた。仮にもイスラエル人のリーダーとして、サムソンが起こしたのはあまりに破天荒すぎる事件だった。言い訳の余地はなかった。
「サムソンはティムナ、いや、ペリシテを支える前途ある若者を皆殺しにしたのです。ペリシテ人として、ただで許すわけにもいきませんな。私はあなた方の事を、異教徒ではあれど民族に強い誇りを持った気高い人々と思っておりましたものを」
アビメレクはマノアにさらに言った。
「すでに、このことに対する報復のため、ユダの地に我がガザの軍隊を向かわせましたよ」
「なに!?」マノアは驚く。
「無論のこと、あなたと結んでいたイスラエル十二部族のうち五部族に対する減税と自治の件も、我らは無しにすると決定いたしました。まあ、当然でしょう。我々は敵ながらあなた方の大義と誇りに敬意を表してそれらの事を取り決めたのです。ところが当のサムソンは誇り高い戦士ではなく、ただの気の狂った大量殺人犯にすぎぬのですから」
「ま、待ってくれ!」マノアは慌てて彼に食いついた。
「それだけは困る!イスラエル人達に自由を与える事こそ我らの使命だ!」
「あなた達の使命など、なぜ我々が考慮せねばならんのですか?」アビメレクはねちっこく言った。そして、答えに困り黙りながらも、それでもなお言わなくてはと困っているマノアをしばらくの間放置し、頃合かと思った頃に唇を開いた。
「そうですねえ……あなた方が本当に大義ある存在ならば、けじめを見せてください。それで、例の件も引き続き執り行ってもよろしいでしょう」
マノアはパッと顔を明るくして「それならば、無論のこと、どんなことでもしよう!」と言った。アビメレクはそれを受けて、にやりと笑った。


もう何日経ったのかも分からない。三日も経っていないような、ひと月は軽くたったような、そんな感覚の早朝だった。ザワザワと騒がしい遠くから聞こえる音を聞きつけて、デリラは目を覚ました。案の定、サムソンもメレクも起きていた。
何だろうと彼女がうろたえていると、サムソンは「デリラ。ここに居て待ってろ。俺が見てくる」とはっきり言い、彼女の返事を待つまでに彼はメレクさえ置いて行ってしまった。
彼女はそれを承知するつもりだったが、やはり心配なのもあってそっと彼の後をつけた。すると、彼女はすぐに驚いて足がすくんでしまった。影から伺った先には、ざっと三千人はいそうな軍勢が、まだ日も登り切っていない岩山に、松明をともしてやって来ていたのだ。そして彼らは、サムソンに向かい合っていた。
ペリシテの軍勢か、と彼女は思った。だが、違った。彼らはイスラエルのうち、ユダ族の軍隊だったのだ。
「イスラエルの士師、サムソンは貴方か?」彼らはサムソンに言った。
「そうだ、なんか用か?」
「よくもそんな口が聞けたものだな!貴様がしでかしたことのおかげで、我々ユダ族はペリシテの軍隊に攻め込まれたのだぞ!」
彼らは怒った口調で、何が起こったのかを把握していないサムソンに説明した。要は、サムソンの起こしたことのおかげでユダは攻め込まれるしようやく決まろうとしていたイスラエル人に対する減税がふいになってしまった旨などをだ。
「何が士師だ!我々がペリシテ人の支配下にあることも分からないなんて」
「うるせえな。俺はただ奴らが俺にしたことをやり返しただけだよ。何が悪いんだ」
悪びれることなくそう言うサムソンの前に、一人すっと歩み出る者がいた。軍隊の中にありながら鎧を纏っていないその男は、マノアであった。
「親父……」
サムソンが言い終わる前に、マノアはサムソンを平手で思い切りぴしゃりと打った。そして「この、馬鹿息子が!」と言った。
「お前のおかげでイスラエルがめちゃめちゃだ!」
「んだよ……俺は、ペリシテ人を殺しただけだぜ?なんで責められなきゃならねえんだ?」
サムソンの言葉には、繰り返すが全く悪びれた様子がなかった。マノアはその言葉を聞くなりいよいよ激怒し「良いか、我々はお前を探しておったのだ。このことに対するけじめをつけるため!」と言った。
ユダの軍の長が、さらにマノアの隣に歩み出た。「サムソン。我々は君を縛ってペリシテ人のもとに連れて行く。ペリシテの法律で君を裁かせるためだ。ペリシテ人を殺した、と言うが、今回君がしたのはそれ以上の事だ。ペリシテの領主たちは、そうしさえすればひとまず結んだ条約は破棄せずにいてくれると言っている」
彼らはサムソンに高圧的に言った。デリラは物陰で、ただ震えながらそれを見ているだけしかできなかった。
サムソンは彼らの前に仁王立ちになったまま、返した。「じゃあなんだ、つまりお前ら、俺を捕えるために来たってことか?……こんな軍隊引き連れて?」
「そうだ」
マノアはもう一度、サムソンに威圧的に言った。
「息子よ。まさか怖気づくではあるまいな。お前はイスラエルを救うのが本分なのだぞ。潔く向かうがいい。お前が行きさえすれば、イスラエルは助かるのだ。喜んで向かわんか!」
サムソンはその言葉を聞いて、ぎっと歯を食いしばった。そして、「分かったよ……やればいいんだろ、やれば。イスラエルのためにペリシテのもとに向かえばいいんだろ」と言った。
「そうだ!それこそがお前の仕事だぞ、何故分からぬ、昔からお前をそう育ててきたというのに……」
「分かったって言ってんじゃねえか!しつけぇな!」
彼はマノアの説教をそれ以上は聞かず、代わりにユダの軍の隊長に言った。
「あんたらは、俺に害は加えないと誓えるか?」
「ああ、誓うとも。我々はペリシテ人のもとまで君を護送するだけだ。殺しはしないよ」
「……俺の女奴隷を一緒に連れてきている。そいつを一足先にマハネ・ダンに戻してくれ。あいつは俺と一緒にいただけで、虫一匹も殺しちゃねえ」
「承知した」
彼らがそうやり取りした後、サムソンは踵を返して彼の秘密基地に向かった。だが、それよりも早く彼はデリラを見つけた。
「なんだ、聞いてたのか」
「はい、あの……」
「そう言うことだから、お前は一足先に帰ってろ。またババアがうるさいと思うけど、ごめんな」
サムソンは淡々とそう言った。顔は明らかに不快そうではあったが。
「あ、あの、サムソン様は……」
「心配すんな。大丈夫だから。それと、メレクは一緒に戻らなくていいぞ。あいつは、俺の後をついてきてくれる」
「は……はい」
デリラはそうとだけしか返せなかった。サムソンはあと余計な言葉は言わずにすぐにまた踵を返してしまい、彼らのもとにすたすたと向かった。そしてデリラを引き渡すと自分も護送されてユダの軍隊と一緒に行ってしまった。デリラは数人の兵士と一緒に、それを見ているだけだった。


サムソンが向かったのは、エタムからは近いペリシテ人の町、レヒだった。レヒの町では、ペリシテ人を苦しめるサムソンが縛られて連れてこられた、と聞いて大歓声がおこった。彼らは広場に出ていって、縛られたサムソンの姿を見た。しかも、それを縛っているのは彼の同胞であるはずのイスラエル人なのだ。愉快でないはずがない。憎らしい相手が同胞にも見捨てられるほどおちぶれる。これほどめでたいことがあるだろうか。彼らはサムソンとイスラエル人を嘲笑し、侮辱する歌を大喜びで歌った。サムソンはじっとそれを聞いていて、ユダの軍隊は屈辱に明らかに耐えかねていた。

「見事だな、アビメレクどの」
アビメレクはまさに、レヒの広場、高々と備え付けられたペリシテ五大都市の領主たちの座る椅子、その真ん中に腰かけて、その歓声がだんだん近づいてくるのを聞いていた。彼の取り巻きや、こちらもサムソンの被害をこうむったアシュケロンの領主は彼を手放しでほめた。
「まさかサムソンが実際に捕らわれるとは」
「いくら豪傑と言えども、同胞のため、とあらばメンツのため出て行かざるを得まい」
これは、アビメレクの策略だった。
まず、サムソンを激昂させ、言い訳のしようのない罪を彼に負わせる。そのタネ自体は何でもよかったが、彼はセマダールの家を焼打ちにさせ、彼が放火犯を殺すことを選んだ。どうせセマダールの家も裏切り者として白眼視されていたのだし、ティムナの町はサムソンのみならず裏切り者一家も処刑できて一石二鳥となるだろうという判断だった。事実それは当たりだったし、作戦に乗ってくれるものも多くいて実に事は進めやすかった。もっとも、その同胞たちは殆どサムソンに殺されてしまったが。
とにかく、そうしてサムソンに罪を負わせた後は、ようやく決まりかけていた減税と自治の件の取り消しをちらつかせ、倫理的圧力も加えてイスラエル人を追いつめる。彼らが豪傑サムソンを縄で縛ってペリシテ人の前に差し出さねばならないように。そして、サムソン自身もめったな反抗ができないように。
まともに向かっていってもあの怪力相手では打ち取れまい。アビメレクはサムソンに関して、そのような考えを持っていた。その上で、今回の作戦だ。
「まあ、少し考えれば分かることだ」
「いやあ、その少しがなかなか出来ないものだよ。これで君の名声も、さらに高まるだろうね」
「ははは、そいつはめでたい」
彼らがそう話している間、サムソンは縛られたまま引き回され、ついにはレヒの広場に立たされた。
まず、ユダの軍の長とマノアが、アビメレクの前に跪く。
「この通り、サムソンを連れてきたぞ。約束を果たせ」
全く、命令口調で言えた立場か、とマノアの場違いなまでの誇り高さにあきれながら、アビメレクは証文を手渡した。サムソンと引き換えに例の詔を改めて認めるという旨のものだ。マノアたちは彼らの前に一瞬跪いたことすら屈辱だ、と言わんばかりに踵を返し、そのまま急いで帰っていった。アビメレクは別段腹も立てない。返って滑稽だ、とまで思っていた。ユダの軍隊と入れ替わりにペリシテの兵隊がサムソンを押さえつけ、広場に居るイスラエル人はサムソンだけとなった。

サムソンは憮然とした顔で広場を見渡していた。
「そこの者」領主たちのそばに侍る、ペリシテの長老が言った。
「礼をせんか。ペリシテを治める領主様たちの御前だぞ」
「俺はイスラエルの士師。てめえらなんぞに下げる頭はねえな」
「無礼者!」声が湧き上がった。「お前はティムナの若者を何人も殺した大量殺人犯としてここに来ているのだぞ!」
「サムソンとやら」声を荒げる周囲達とは裏腹な静かな声で、アビメレクは高い椅子の上から彼に告げた。「イスラエルの士師とは聞こえたものだな。お前はイスラエル人に、ここに引き渡されたのではないかね?」
「ああ、ああいう奴らだから」
「ははは!自分の民を信頼せぬとは、下等民族は全く知れたものだ」
アビメレクはそう言った。そして彼は「石打ちにせよ!」と合図する。その合図とともに、ペリシテ人は待ってましたとばかりに嬉しそうに沸き立ち、手に持った石を一斉にサムソンに向かって投げつけた。
はずだった。
石打ちの前に、サムソンを押さえつける護衛兵たちが離れた。無論のこと、自分たちまで巻き添えを食わないためだ。だが、それが命取りだった。サムソンは、その隙をついた一瞬で、自分を縛っていた縄から抜け出したのだ。

どうやって抜け出した?と、次の瞬間、ペリシテ人たちは目を疑った。何のことはない。彼は、引きちぎっただけだ。自らを縛った強靭な縄を。まるで、焦げた亜麻紐のように。
そして、そのペリシテ人たちが戸惑っている瞬間の事だった。ひゅうと空から、何かが降ってきて、サムソンはそれに合わせて手を伸ばした。彼の手に落下してきたそれは、ろばの顎骨だった。
「ありがとな、メレク」
彼は言った。彼を追って武器になりそうなものを持ってきて、それを彼に投げ落としたメレクは、レヒの民家の屋上からワンと鳴いた。
そして、さらに次の瞬間の事だった。ペリシテ人たちは慌てて彼に石を投げようとし、兵士たちは彼を取り押さえようとした。だが、彼はそこにはいなかった。いつの間にか一人の兵士の裏側に居て、ろばの顎骨で彼の頭を殴りつけたのだ。それは兜を貫通し、彼の頭を直接えぐった。その兵士の頭から血が吹き出、彼は絶命した。
「まだるっこしいな。要するによ、『大義』がありゃ、お前ら俺を許すんだろ?じゃ、俺は今からてめえらに反乱するぜ」

広場に悲鳴が沸き起こる。パニックになった。サムソンは、そのできた隙をぬって、二人目を打ち殺しにかかった。次に三人目、四人目。まるで蟻をつぶすかのように、彼は、一秒一秒ごとにやすやす人を殺した。

アビメレクは、目を疑っていた。大暴れするサムソンの、すぐ目の前で。
パニックになる広場。有頂天だったペリシテの人々は逃げる事すらままならない。逃げる前に、サムソンが彼らをしとめる。たった一人しかいないのに。剣どころか、そこいらに転がっているようなろばの顎骨しか武器に持たぬと言うのに。彼は大勢でとらえようとすれば飛び上がって上に逃れ、剣を振り回される前にろばの顎骨を体に叩きこんで相手を殺してしまう。
「なんだ……なんだ、これは?」
アビメレクはそうとしか言葉が出なかった。彼の護衛が慌てて彼に「お逃げください、領主様!危険です!」と言った。
だが、アビメレクの耳にその言葉は届かなかった。彼はその様子から目が離せなかった。余りの惨状のすぐそばにいて、目が離せず、体が凍りついたかのように動かなかった。これは現実か?現実であるはずがない。そうに決まっている。あそこにいるのはたった一人の少年。百人でも、千人でもないのだ。それなのに、それなのに、やはり、目の前にあるのは現実だった。彼の頭はその異常を処理するのに精いっぱいで、目や耳、体を動かすどころではなかった。自分の護衛兵や他の領主が勝手に逃げてしまったことにすら、彼は気が付かなかった。人間業とは思えぬ俊敏な身のこなしで身長ほどもある輝く金の髪をたなびかせながら、その少年はいっそ見事、妙義ともいえるほど、ペリシテ人をあっさりと絶命させていく。次々と。アビメレクはそれを、たった一人玉座に座りながら見つめ続けていた。

広場がようやく静かになるころ、広場には、ざっと千人の死体が積み重なった。その頃になれば、広場に生きている人間は二人しかいなかった。サムソンと、アビメレクだ。
「ろばの顎骨で、一山、ふた山、ろばの顎骨で、千人を殺した……俺は、千人殺した」
サムソンはそうぶつぶつ呟いていた。
アビメレクはただ、微動だにせず玉座の上に座っていた。サムソンはゆらりと、血で真っ赤に染まったろばの顎骨を持ったまま、彼の前に立つ。そして血にまみれた顔で、彼に言った。
「おい、おっさん。俺はまがりなりにもイスラエルの士師、あんたは今回俺を捕まえたペリシテの領主だ。民族を統べる者同士、俺はあんたとサシで対話する権利はある。そうだよな?」
「……ああ」
冷静に考えれば、まだほかに言うことのある状況だった。だが、アビメレクはまるで催眠状態にかかったように、サムソンの言葉を聞いた、真っ赤に輝く血の色に心を惑わせられたかのような思いだった。それは恐怖の一言で片づけるには、あまりにも複雑な感情だった。いや、むしろ、恐怖ではない事だけが唯一、確かだった。
「見ての通りだ。俺はあんた達に向かって反乱した。それであんた達を打ち取った。……じゃ、俺の要求を飲んでもらえるだろうな?」
サムソンはアビメレクを睨みつけてそう言った。要求と言うよりも脅迫であったが、アビメレクはなぜか、そうと思わなかった。感性が麻痺したような気もしていた。
「……うむ」
彼は、なめきっていた少年に接する態度ではないのはもちろんのこと、恐ろしい殺人犯に向かい合う態度でもなかった。この惨憺たる状況とはまるで裏腹にそこには対等な民族指導者同士の談話があり、しかもアビメレクは敬うべき相手の要求を素直に聞くときの心情と似たような気持ちを、その時なぜか持ったのだ。
「減税と自治の件だ。五部族じゃなく、十二部族全部に認めろ。……それと、減税もこれっぽっちじゃ減ったことにもなんねえよ。あー……そうだ。いっそてめえら、俺らから税なんてとるんじゃねえ。俺らはイスラエル人だ、ペリシテ人じゃねえ。今日を持って、お前の口自ら、イスラエルは自分たちに服従する存在じゃない、って言え。もちろん十二部族全部だぜ。他の領主の野郎どもにも伝えろよ。これが俺の要求だ。どうだ?おっさん」
アビメレクは、「ああ、承知した……」と、ぼんやりとした声で言いながら、不思議と、流れるように勅命を書いた。


マハネ・ダンに戻ってきたサムソンを出迎えたのは、あの日ユダの軍勢と会った時とはうって変わっての歓迎の声だった。それはそうだろう。彼のおかげで、イスラエルはペリシテの支配を逃れたのだ。
「サムソン、サムソン!」彼らはペリシテ人とは全く違う大歓声を持って、彼を出迎えた。
「イスラエルの救い主よ!」
サムソンを迎えるための色とりどりの上着が敷かれた道の上をマノアがやって来て、彼を抱擁した。
「お前がこのたびやったことを、私は誇りに思うぞ、サムソン!」
サムソンの方が彼よりもずっと背が高いので、マノアは息子の胸板に顔をうずめる形になった。
「ダン族だけではない。ルベン、シメオン、ユダ、イサカル、ゼブルン……偉大なるヤコブから出た十二の部族のものは皆、お前に本当に感謝し、お前を祝福しているぞ!さあ、お前を祝う宴会の前に神様の前に礼を言おうではないか。お前にこれほどの栄光を与えて下さった偉大なるアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神に祝福あれ!」
「まあまあ、こんなに汚れて……」
ハツレルポニも出てきて、一人で長旅の末帰ってきた息子を祝った。
「宴会の前に、体だけでも洗ったほうがよさそうですね」
マハネ・ダン中が盛り上がり、彼の帰りを祝福した。デリラは彼が帰ったのを屋敷で掃除をしながら、その歓声を聞いて知った。そして、それを喜ばしく思った。


「……何たることだ!」アビメレクはすっかり人のいなくなったレヒでそう呟いた。あの後も数時間放心状態にあった彼は、日没にも近づくころ、広場に広がる赤い水面に映る夕日を見て、ようやく我に返った。レヒの広場に広がった大量の血はまだ乾かず、まるでそこに血の泉が湧いたかのようであった。
何故、言われるままに彼の言い分を聞いた?恐れた?自分が、イスラエル人の、あんな道理も分からない少年如きを?このままでは自分も殺されると思い尻込みしたというのだろうか?冷徹で知られた自分……事実同胞たちの血の色を見てもどうとも思わないこの自分が……。我に返ってみれば、アビメレクの心の中には耐えがたい屈辱がむらむらと湧いてきた。
「(サムソン……まさかここまで滅茶苦茶な存在だったとは……)」
彼は自分の誇りを傷つけたサムソンに、今一度、尋常ならざる恨みを覚えた。
「(覚えていろ、あのイスラエル人の小僧が!この私がお前を必ずや、死刑にしてやるわ!)」


宴会が終わり、ようやくサムソンは開放された。彼は自分の部屋にフラフラと入ってきた。デリラはすでに仕事を終えて、彼を待っていた。
「おかえりなさいませ。おめでとうございます」
デリラは彼にそう告げる。そして、どっかり座った彼の三つ編みをほどいて、水桶の水で静かに洗い始めた。さすがの彼の艶やかな髪も、いささかばかりもつれているようだった。彼女は丁寧に、彼の髪を洗った。
デリラはふと、不思議に思った。サムソンからの返事がない。サムソンは、ずっと嬉しくなさそうにふさぎこんでいた。
理由を聞くべきか、とデリラは思ったが、サムソンは沈み込んでいるようで、その気にもなれなかった。
「デリラ」彼がやっと口を開く。
「はい」
「可哀想に、って言ってくれ」
彼は全く唐突に、そう言った。
「可哀想にって言ってくれよ。誰も、言ってくれなかったんだ。俺、今度は悪いことしなかったのに、誰も言ってくれないんだ」
デリラはその言葉を受け、サムソンの金髪の汚れを洗い流しながら、赤ん坊を落ち着かせるように「お可哀想に、サムソン様」と言った。
「俺は道具か?」
彼は、デリラに言った。小さな、小さな、間違っても部屋の外には聞こえないだろうという音量で、彼女に言った。
「イスラエルの誇りを汚したら、自分の息子でもあっさりペリシテ人に引き渡す。そんなことしても、イスラエル人の誇りのため戦ってきたら、大喜びで迎える……なんだよ、それ?それ、親のすることか?俺、子供じゃないのか?道具なのか?イスラエルのために働く道具なのか?」
彼の声は本当に小さかった。万が一にも、マノアやハツレルポニに聞こえることがないように、と言った風であった。
「いいえ、サムソン様は、道具ではありません」
「じゃ、なんで俺のジジイは、俺をそう言うふうに扱うんだよ」
「……お可哀想に、サムソン様」
デリラの持った手拭いは、彼の金髪に付着した血のかすと荒野の埃で、どんどん黒く染まっていった。

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feat: Samson 第六話



マハネ・ダンに戻って、サムソンはずっとふさぎ込んでいた。毎日毎日朝早くから夜まで外に出て、メレクと一緒に、荒野や岩山を駆けずり回っていた。ハツレルポニがうるさいので、デリラもそれに同行した。彼はデリラの事は拒まなかった。
「バカ野郎」
誰もいないところで、彼は何度も何度も、あの結婚式の事を引き合いに出して怒った。
「どいつもこいつもバカ野郎だ」
セマダールは結局マハネ・ダンに来ず、音沙汰がなかった。と言うよりも、サムソンが連絡を取ろうとしなかったのだ。
デリラはサムソンの愚痴を聞いた。聞き続けた。彼女は決して否定しないし、打ち切りもしない。馬鹿にもしない。否定するのも話を打ち切ることも、馬鹿にすることも、全てデリラには禁じられていたからだ。しかし、サムソンにそんなことは関係なかった。
「どいつもこいつも子供だからって馬鹿にしやがって。自分が困ったら、急に責任取れなんて言うくせに」
「はい」
「どいつもこいつもクズばっかりだ。どうせ俺にかなわないくせに。俺が本気で殴ったら、簡単に死んじまう奴らのくせに」
サムソンは親から離れた場所で、毎日そう嘆き続けた。士師としてすべき仕事は元から殆どマノアが代わりにやっているものだったので、彼は余計に一日中外に居続けた。マノア達の説教など右から左に聞き流した。デリラも同様にひどく怒られたが、彼女も怒られるだけ怒られて、後は耐えた。自分がサムソンに仕える奴隷である以上、サムソンの言うことを聞くべきなのだ。


「まったく酷いことだ!何がイスラエルの士師……ただの不良少年じゃないか」
例の葡萄園の主は、娘をおいて帰ってしまったサムソンに対して愚痴を言っていた。
「これだからイスラエル人は信用できなかったのに!どうすればいいんだ。ティムナでの信用も失ったも同然だぞ。……あの疫病神め!」
ジャッカルを連れていたことからも、異常に長い髪の毛を持っていたことからも、アシュケロンの強盗がサムソンではないと疑うものなどどこにもいなかった。事実サムソンなのだからしょうがない。だが、そこまでの事を一人と一匹でやらかすほどの相手に堂々と向かっていくのも、彼らは気が引けた。プライドと恐怖の板挟みが、依然として彼を傷つけ続けた。


時が過ぎて、小麦の収穫の頃だった。サムソンは急にデリラに「おい、俺の小遣いはどれだけある?」と聞いた。
「子羊を買えるくらいはあるかな」
「はい。その程度は……買われるのですか?」
「ああ」
サムソンはぼそりとそう言った。
「セマダールの家に戻って、仲直りしなくちゃ……」
彼は子羊を、手土産に持っていくつもりらしかった。マノアが所有している家畜などいくらでもいたが、彼の小遣いで買いたいというのは、さんざん子供扱いされたことに対する彼の意地だったのだろう。
デリラはそれを分かって、彼の代理で子羊を買うと、それを引いて彼とメレクと一緒にティムナに向かっていった。

久しぶりに葡萄園に現れた彼を見て、葡萄畑の使用人たちがうろたえたのは言うまでもない。彼は静かに子羊を渡して、主人と話をさせてくれるように頼んだ。葡萄畑の主人はすぐ出てきたが、サムソンの顔を見るなり、こう言った。
「何の御用で?セマダールなら、もう別の男の嫁に出しましたよ」
その言葉を、サムソンが一瞬現実のものとして受け止められなかったのは無理もない。

「なんだって?」
「貴方は、娘を放って故郷に帰って行ってしまいましたからね。てっきり、あの娘を嫌ったものだと思って。もうとっくにセマダールは、ティムナの貴族の息子に嫁がせました」
彼は迷いに迷った挙句、プライドの方を取ったのだ。サムソンが長い間連絡一つよこさなかったので、彼がもう娘を見捨ててしまい、ならプライドの方を取っても彼からの報復はないだろうと思い、ようやくこの行動に乗り出せたのだ。
だが、違ってしまった。サムソンは来てしまったのだ。
葡萄園の主は、やはりサムソンに対する恐怖を捨てきれないでいた。彼は彼を目の前にして、毅然とふるまおうとしていてもどこか顔色は青かったからだ。そして、サムソンの顔色も、それ以上に青くなっていた。
しかし、同じ青い顔でも、葡萄園の主は確かに彼に恐怖を感じた。
「そのう……あの子には妹もいて、妹の方もあの子より美人ですよ。そちらの方を貴方にさし上げても……」
彼はサムソンに会ったらズバリと皮肉を言って追い返してやろうと思っていた。「貴方が娘の結婚相手にするには早すぎると、実によく分かりましたからな」「大体、最初からやりたくなどなかったんだ。貴方のような野蛮な下等民族の小僧に、大切な娘を」などとサムソンに言う自分をこの数か月何度も想像していた。だがいざサムソンを目の前にするとそんなことも言えず、こんな曖昧な言葉しか出なかった。サムソンは長い間黙ったままそこに立っていた。

サムソンは結局、葡萄園の主に何も言わず、無言のままそこを後にした。彼は、酷く打ちのめされているようだった。
デリラはそんな彼をじっと見つめた。無理もない。彼はやはり、セマダールに惚れていたのだから。
惚れていれば何でも許せるなんて、綺麗ごとだ。彼は、裏切られたから怒った。それだけだ。それで恋が冷めるか否かなど、決まったものじゃないのだ。デリラの仕えていた家の主人たちがそうだった。主人はしょっちゅう浮気を繰り返し、主人の妻はそれに怒り悲しんでいた。主人もそれに怒り、夫婦喧嘩など何回も起こった。それでも主人は、焼けて死ぬまでずっと妻を愛していたのだし、妻も主人を愛していたのだ。
サムソンはマハネ・ダンにその日帰らず、メレクとデリラと一緒に、荒野で野宿した。ハツレルポニは怒るだろうが、サムソンが絶対に家には帰りたくない様子だったので、デリラは彼の思うままにさせた。
ぱちぱち燃える薪の火を見ながら、サムソンは言った。
「俺とセマダールは、結婚の約束を交わしてたんだよな?」
デリラはそれに「はい」と言った。
「じゃあ、あいつら、約束を破ったわけだ」
「はい」
「だったらよ」
焚火に浮かび上がるサムソンは、泣いていた。目をかっと開いたまま、彼は泣いていた。
「今度ばかりは、俺がペリシテ人に何しても、俺に罪なんて全くねえよな?」
デリラはそれにも「はい」と答えた。「はい」以外の選択肢など存在しない。サムソンはメレクの背中をポンとたたいた。
「メレク。頼む」

サムソンとメレクが何をするつもりか、デリラには分からなかった。メレクはそんな彼女をよそに鋭い声で、荒野中に響き渡るかと言うほど吠えた。
すると、途端にジャッカルが何百匹と現れたのだ。まるで、メレクの命令を忠実に聞く部下であるかのように。
「メレクはな」サムソンは言った。「この荒野じゃ、最強のジャッカルなんだよ。メレクの命令聞かねえ奴なんていねえ」
取り残されているようであるデリラに、サムソンはそう言った。メレクが何か言うと、彼らはすぐさま松明を集めてきた。
「デリラ、手伝え」
サムソンは彼らは松明を集めてきたのを見届けるや、今度は三百匹いる彼らの尾を二匹一組ずつ結び始めた。彼らは大人しく、されるがままにしていた。デリラも手伝い、彼らはデリラの手つきにも抵抗しなかった。
百五十組が結び終わると、今度はサムソンは彼らの尾の間に松明を一本ずつ立たせた。そして、百五十本の松明に、焚火から移した火を一つ一つ、点したのだ。
彼らは火を怖がらなかった。一気に松明が燃え上がり、荒野はまるで昼間のように明るく輝いた。
メレクは唯一、一本だけ松明を体に縛り付けて立たせ、彼らの先頭に立った。そして彼の一声で、火を纏ったジャッカルの一軍はすぐそばに見える田園地帯めがけて突進していった。
「高みの見物、するか?来いよ」
サムソンはデリラにそう言って、彼女を高い場所に連れ出した。やがて彼女の眼に、ティムナの田園地帯がぱあっと明るくなっていく様子が見えた。
次から次に炎が伝染する。叫び声が聞こえるようだ。ああ。同じだ。ソレクの町と同じだ。

「心が痛まないのか、って思うか?」サムソンはデリラに言った。そして、彼女の答えなど待たずに一人で言った。その声音も、どこか、悲しそうだった。
「痛むわけねえだろ。初めてペリシテ人を殺したの、三歳の時だぞ。お前はペリシテ人を殺せ、って言われ続けてきたんだぞ」
デリラは「いいえ」という言葉以外何も言わなかった。実際に、あんまりに残酷なことが目の前で行われているはずなのに、不思議と少しも心が動かなかった。返ってここまで残酷を極めると、物事は美しくも見えるものか、と赤い光に包まれるティムナの田園地帯を眺めていた。あの主人たちも、ソレクの住民たちも、美しさの中死んでいったのかもしれない。


その夜、ティムナ一帯は大被害に見舞われた。せっかく収穫した小麦はあらかた焼かれ、葡萄も、オリーブも、全て炭になってしまった。


当然、ペリシテ人の間でそれは大問題となった。「誰がこんなことをやらかしたんだ」彼らは嘆いた。
「サムソンだ。あのイスラエルの士師……俺らの敵だ!」
だが感情的にそうわめく彼らをいさめる、非常に冷静な声が一つだけあった。
「だが、なぜこのようなことが?物事には、理由があるはずだ」
そう発言したのは、ペリシテ人の中心都市のひとつであるガザから訪れた領主、アビメレクだった。
ペリシテ人の国家は、都市連合だ。ガザ、ガト、アシュケロン、アシュドト、エクロン、五つの大都市が連合を組んで、ペリシテと言うアイデンティティを形成している。その中のガザを治めるのがアビメレクだった。ガザの統治領域に入っているティムナで起こった未曽有の大被害を聞き、はるばる訪れたというわけだ。
「復讐ですよ」ティムナ人のうち一人が言った。
「あのサムソンはあるティムナの男の婿だったんです。にもかかわらず、そいつは自分の娘を婿から取り上げて、他の男にやってしまったのです。それを憎んでの事でしょう」
「そう言ったことならば」アビメレクは言った。
「根幹を叩く方が、今回は安上がりだろうな。お前たちの溜飲も下がろうし、我らペリシテのかねてよりの仇敵、サムソンをとらえる算段も付く」

例の葡萄畑の主人は、自分の畑も焼き尽くされてしまい、途方に暮れた。
「どうすればよい。ジャッカルが火をつけた。明らかに、サムソンのやったことじゃないか。……私を恨んでいるんだ。みんな、私を憎むに違いない」彼は慌てていた。
そんな彼を、物陰からセマダールが見ていた。彼女も、これはサムソンが彼らを恨んでやったことだという噂が広がり、夫に追い出されたのだ。娘の出戻りと言う更にショッキングな事件を父にたたきつけるに忍びず、セマダールは父のもとに出れずにただうろうろしていた。
「(どうすればいいの……)」セマダールは追い詰められ、考えた。そして、小さな拳をぎゅっと握りしめた。


後日、マハネ・ダンにすでに戻って来ていたサムソンのもとに一通の手紙が届けられた。手紙は、セマダールからだった。
「あなたにもう一度会って謝りたい」手紙には、そう書かれていた。
サムソンは彼女が頼む通りティムナに向かうことにした。サムソンは、まだ彼女を諦めきれてはいなかったのだ。ろくな準備もしないままいつもの通りデリラとメレクを連れて、彼は出かけて行った。ティムナに着いた頃には、すでに夜になっていた。

まっ黒こげになった田園地帯を抜けると見知った家に彼はたどり着いた。「サムソンさん」と、彼女はいつも通りの穏やかな顔で出迎えた。
「父は、今寝ていますの。寝込んでしまいまして」
彼女はデリラとメレクをいつも通り遠ざけるよう彼に頼んで、彼だけを家の中、それも自分の部屋の中に案内した。

「サムソンさん」
部屋に若い男女が二人きりになるなど、性に厳しいこの地方ではめったにあることではなかった。しかし、セマダールはそうせねばならなかったのだ。
「許してください。私には、どうしようもなかったんですもの。父親が結婚しろと言って、逆らえる娘なんておりますか?……決して、貴方を嫌ったわけではないんです。信じてください。謎かけのことだって、私は、脅されていただけなんです……」
こんな泣き落としでサムソンが納得するだろうかとはセマダールも思っていた。だが、彼は意外とあっさりと「もういいよ。俺は恨んでない」と言った。
「俺はまだあんたが好きだしな」
「そう言って貰えて……嬉しいですわ」
彼女はサムソンを、部屋に一つしかない寝台に案内した。そして、決意を固めて言った。
「さあ……どうぞ、お床にお入りください。……寝ましょう。ご一緒に」
サムソンはその言葉に「ああ……夜も遅いしな。それじゃ」と言って、寝台に入りこんだ。

セマダールは体中に力を込め、意を決して彼と同じ寝床に入ろうとする。しかし、彼女は違和感を覚えた。
男がするように、彼は腕を伸ばして彼女を抱きしめはしない。彼はそこにいるだけだった。七房の三つ編みを解かないまま寝床に広げて、彼はそこにじっとしていた。二つの鋭い目は、閉じられていた。そして、彼は、規則正しい呼吸をしていた。
「サムソン……さん?」
彼女は呼んだ。返事はなかった。代わりに、いびきのような声が聞こえてきた。
セマダールは目を疑った。彼は、まさか。
彼女はもう一度、サムソンの名を呼んでみた。帰ってくるのは、やはりただのいびきだった。
「(寝た……の?本当に?)」
そんなことがにわかに信じられるはずはなかった。彼に抱かれる、その覚悟で行ったことだ。その絶対に起こると思っていた過程が、彼自身によって弾き飛ばされてしまい、彼女はただ戸惑った。だが、事実として、彼は寝ているとしか思えないのだ。
やがて、彼女も目の前の状況を冷静に受け止めると、次第に心を固めた。
「(いいえ……何を。むしろ好都合じゃないの。余計な手間が省けて)」
彼女は、七本の弓弦を取り出した。


外で待たされていたデリラは、メレクと一緒に今日はこのままこの屋敷の軒下で極力見つからないように寝ようかと思っていた。メレクも彼女の事を思っていてくれたらしく、うるさくすることはなく彼女と一緒に気配を消して彼女と一緒にいた。
だが、ある時だった。メレクは急に、吠えだした。ワンワンと、非常に大きな声で。
「メレク!」デリラは言った。「聞こえる、見つかるわ!」
だが、メレクは必死に吠え続けた。警鐘を鳴らすように、彼は吠えた。


遠いところでメレクが鳴いている。サムソンはそれを感じた。そして、目を開けた。
「メレク……?」
彼はそう呟いた。だが、目を開けて、目の前にいるのはメレクではなかった。刃物を自分に突き立てようと向け、しかしメレクの吠え声とサムソンが起きたことに慌てているセマダールだった。
「セマダール!?」
彼はその時気が付いた。七本の弓弦で自分の体ががんじがらめに縛られている。
「ど、どういう……」
「……うるさいっ!」
彼女はやけになったように言った。
「うるさい!なんで起きるのよ!なんでこんなに早く起きるのよ!貴方、私を好きなんでしょ!?愛してるんでしょ!?じゃあ、死になさいよ!私のために死んでよ!」
彼女は戸惑うサムソンに向かってまくしたてた。
これが彼女の作戦だったのだ。サムソンはきっとまだ自分が好きだろう。自分が誘惑すれば、一緒に床につかせられる。そしてそこで眠ってしまうはずだ。そこを縛って刺してしまえば、サムソンが打ち取れる。サムソンを打ち取れさえすれば、自分たちの名誉も回復できる。
床についてからの一工程が抜けたものの、後は順調に進んでいるはずだった。それなのに、急にジャッカルが吠えだしたのだ。まるで彼に悪いことが起きるのを察知したように。
彼女はパニックになっていた。セマダールは青い顔で叫んだ。
「貴方のせいで!私もお父様ものけ者にされてるのよ!裏切り者呼ばわりされてるのよ!貴方を殺せばまだ間に合うの!貴方をこの手で殺せば、まだティムナの同胞だって認めてもらえるの!だからとっとと死になさいよ!このませガキ!」
そう怒鳴り散らして、セマダールはサムソンの喉元に刃を突き立てようとした。
だが、それはかなわなかった。丈夫なはずの弓弦は、まるで麻の紐が火にあぶられて切れるように、ぶちりと切れた。まるで非現実的なほどに、がんじがらめに縛ったはずの拘束から、あっさりとサムソンは逃れたのだ。たった一瞬の出来事だった。セマダールが刃を彼に突き立てた次の瞬間、彼はその刃を両手でとり、力づくで彼女の手から外したのだ。

セマダールは床に崩れ落ちた。
「死ね、死ね……」
それでも彼女はぶつぶつ呟いていた。サムソンはしばらくの間、現実が信じられない様子のままだったが、やがて「じゃあ」とだけ言うと、二階にある部屋の窓を塞いでいた扉を殴って破り、そこから七房の三つ編みをふわりと宙になびかせて飛び降りた。真下にはメレクとデリラがいて、メレクは彼の帰還に嬉しそうに吠えていた。
彼はやすやすと着地すると「デリラ。……もう、本気で、ここに用はなくなった」と言った。そして、踵を返してマハネ・ダンに帰ろうとした。


セマダールは放心状態でその場にいた。刃を握りなおす気力も、サムソンを追う気力もなかった。最後のチャンスが、ふいになってしまったのだ。
だから彼女は、自分の家に何者かが入って来たのに気が付かなかった。父親や使用人が襲われ、縛られたのにも気が付かなかった。彼女が気が付いたのは、彼らが彼女の部屋を訪れた時だった。彼らはティムナの若者たちで、あの宴会に呼ばれていた金持ちの息子たちも混ざっていた。彼女のかつての夫すら、そこにはいたのだ。
「ああ!皆さん、サムソンが」彼女は彼らに行った。「サムソンが逃げて……すぐ、追いかけなければ……」
「ああ、勿論彼は彼で対処するが」
セマダールはぎょっとした。やってきたティムナの若者たちは、縄を持っている。彼女は逃げようとしたが、まさかサムソンのように窓から飛び降りることが出来るはずもない。彼女はあっさり数人に捕まり、縛られてしまった。
「なんですの!?」
彼女の問いに、彼女の元夫が進み出た。
「悪く思わないでくれ。ガザの領主、アビメレク様が、こうしろとお達しでね」
彼らはセマダールを見下ろして言い放った。
「まあ、裏切者の家にはお似合いの最期だよ」


ティムナを離れようとしているサムソンは、ふと何かに気が付いて振り返った。
「……燃えてる?」
その言葉にデリラは反応する。メレクも、その鼻で嗅ぎつけたようだった。炎が燃えているのは、セマダールの父の家の方角だった。
「……セマダール!?」
彼は急いで、その方角に走っていった。メレクも同じだ。矢のような速度で、彼に続く。彼らのようには走れないデリラが、取り残された。それでもデリラも、彼らと同じ方向を目指した。
 
セマダール達の家はすっかり炎に包まれていた。もはや助かる見込みなどなかった。
家の周囲には足跡が沢山あった。まだ新しい。何人もが、ここに訪れたのだ。そしてセマダールは、確か、自分たちが裏切り者扱いされていると言っていた。
導き出される答えなど、一つしかなかった。
「……ペリシテ人共」
サムソンは自分の拳をゴキリと鳴らすと、うめくように言った。
「てめぇらは……いつもこうだ。いつも……」
サムソンには聞こえた。深夜にはありえないほど、ティムナの町の方は騒がしい。人がいるのだ。起きている人間が、何人も。なぜか、こんな時間に。彼は、そちらの方に駆けていった。


次の朝だった。
「アビメレク様」
アビメレクは自分のもとにやってきた秘書からの報告を受けた。
「例の家は灰になりました。父も娘も使用人も、全て死にました。それと、放火犯に使ったあのティムナの若者共も、市中で一人残らず打ちのめされて死んでいました。おそらく、サムソンがやったのかと」
秘書は非常に淡々と報告した。アビメレクは笑って「ほう、それではサムソンが昨夜いたんだな?それは意外だったが、いずれにせよ、早いのはいいことだ」と言った。
「あれだけ余分に殺して、大丈夫でしょうか?」
「何を言う。被害は大きければそれだけいいのだ。それに、馬鹿な若者が数十人死んで、どうしたというんだね?いま大切なのは、サムソンを捕えることだ」
秘書は「……おっしゃる通りです。申し訳ありませんでした」と彼に言った。

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