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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第七十四話

「いやあ、ソロモン様、しかし驚きましたぞ」
そろそろ、ナアマがアンモンにつくころであろう。そう思っていたソロモンに、ヒラムが言った。
「あなたは何の才能でもおありになるが……」
「ふ。私は一流の劇作家にも慣れましょう」
ソロモンは笑った。
「しかし『コヘレト』とはどういう意味で?」
「別に何も。名前など適当につくものです。偽名も適当に思い付いたもの、それが一番現実味がありますでしょう」
「あはは!偽名を使って生きてきた方が言うと説得力がありますな」
ヒラムも呼応するように笑って見せる。
「しかし私も、読んでみてぞっとしましたぞ。もしもあのような苦しみを受けている奴がいたとしたら、きっとあんなように書き綴るのでしょうな、自分の境遇を……まさか、本当にはいませんよね?」
「いるはずがないでしょう。何でしたら、宮殿中探してくださっても構いませんよ」ソロモンはごく軽く、言って見せた。
「はは、そうですな。まさかダビデもそんなことをするとは……」
ふと、ヒラムは静かになった。ぱちりと何かを考えたように。「どうなさいました?」ソロモンの言葉に、彼はぼそぼそと問いかける。
「ぶしつけな質問となってしまうかもしれませんが……ソロモン様。私は、あなたの父とは非常に懇意にして……王子様たちにも何人もお会いしたことはあります。けれどもあなたの事は、貴方が実際に王になるまで、存在すらも知らなかった……」
その瞬間、沈黙が流れた。真偽を伝えるには、もはや沈黙だけで充分であった。
「……貴方の望まれるとおりに、思えばよろしい」ソロモンはそう言いかえす。ヒラムも少しのあいだ黙っていましたが「……そうですな」と言った。
「あなたの過去なぞどうでもよろしい話でした。今、イスラエルとティルスを共に富ませあう盟友であるのですから、それで十分だ」
それで、話は終わった。

反乱は絶え間なく繰り返された。
ベナヤの部下たちからも、不満の声が上がっている。無理もない。ティルスとシバの兵隊たちも協力してくれているとはいえ、みんなここの所働きづめだ。
ベナヤ自身も、何のために働いているのかよく分からなくなってくる。ソロモンを尊敬する気持ちなど、当に消え失せたというのに。
鎮圧から帰ってくるたびに「ご苦労だった」と言うソロモンにすら、いら立ちが募る。自分は兼も持たないくせに。ダビデも大概な王だったが、少なくとも鎮圧や戦争には、往々にして自分たちで剣を持って出向いていた。彼は口だけだ。
その日も玉座の上から自分にねぎらいの言葉をかけるソロモンを見つめ、ベナヤは内心でつぶやいた。
何故、貴方は私に母を、ヨアブを殺させた。
貴方が彼らを憎んだのならば、貴方が殺せばよかっただろう。
誰よりも残酷なくせに、誰よりも多くの命が消えることを望んでいたくせに、なぜあなたの手よりも、私の手が血で汚れなくてはならないのだ。
何故私がナアマを、レハブアムを、血まみれの手で抱きしめなくてはならない。
無論のこと、このような事を思う自分に対しての自己嫌悪も多大に湧いてきた。と言うよりも、ただ単純に憎むだけならどれほどいいか。そうやって心の底から憎みつつ、自分が彼を憎む道理など一切ないのだという理性が、彼を葛藤させた。だからこそ、ソロモンの命令を裏切れない。ここの所思うのだ。自分は、ソロモンにはかなわない。きっと自分がソロモンを殺そうと企んだところで、ソロモンの方が自分を殺してしまう。それも、彼の特異な術策ではなく……彼に剣で切り裂かれそうな気すらするのだ。彼を前にしては、自分は、剣など振り下ろせない。そんな気がするのだ。
自分達の力関係など、昔からずっと、そのようなもの。あのアンモンの王宮出会った時から、自分たちはずっとそうだ。あの瞬間から自分は、ソロモンのしもべ以外の何でもなくなった。
自分は憶病だ、自分は凡人だ。王宮で父親よりも自分に懐き、自分に恐怖の感情を慰めてもらおうと縋ってくるレハブアムだけが、彼の心の癒しだった。

反乱の中に、レゾンらしき人物の情報は何度か見た。だが、ハダドと思しき人物の存在は、現れないままであった。
ベナヤはその日も、部下たちの園情報を報告しにソロモンの元に向かった。執務室には彼の他に、ヒラムとビルキスもいて、何やら作戦会議でもしている様子だった。
そのことを聞き、ヒラムは「ううむ……レゾンも、なかなかに面の皮の熱い奴だ」と歯噛みした。
「申し訳ありません……」
「なーに。戦いは始まったばかりだ」
ヒラムはそう言って、ベナヤを安心させようとした様子だった。「報告は分かった。下がるがよい」ソロモンはそうそっけなく言い返し、ベナヤをさがらせる。「ご苦労だったわ。イスラエルの将軍閣下」と、シバの女王もねぎらいの言葉を発した。
骨を折っているのはこちらだと言うのに……ベナヤがそう不満に感じた時だった。彼はふと、ある二点に気が付いた。シバの女王とソロモンの胸元に輝く、青緑の宝石。首飾りと、マントを止めるブローチとして、同じ宝石が輝いていることに、ベナヤはその時漸く気が付いた。
ベナヤの目には、それはただの宝石としては映らなかった。その宝石から細い鎖が出て、二人を結びつけているかのように見えたのだ。
「ありがとうございます」と言って下がり執務室の扉を閉めた後も、ベナヤはあの鎖のような幻覚がなんなのか、と考えた。そして、衝動的にそっと執務室の扉を少しだけ開けて、中を見た。何やら、王たちが会議をしていた。そして、ソロモンとビルキスが向かい合っていた。
その時の二人の表情を見て、ベナヤは扉を閉じた。そして、さらに考えた。考えれば考えるほど、純然たる憎しみの心が湧いてきた。
ソロモンは、ナアマを愛さない。しかし他の女も、同様に愛さない。
彼はもともと、人を愛することができない人間なのだ。そう言い聞かせて、今まで生きてきた。
ああ、違った!ベナヤは思う。奴も、ここだけは人間だった。人間らしい容貌も、人間らしい情愛も、何一つ持たぬろくでなしのくせに、人間の醜い所だけは、一丁前に持っていやがる。彼は、ナアマを、妻にできているというのに!
何が違う。情欲に負けてバテシバを犯したダビデと、父の妻たちをなぶりものにしたアブサロムと、父の若妻を寝取り弟の母にすら手を出したアドニヤと、何が違う!
いや、ちがわなくて当然だ。みんな、当然だ。奴らは家族だったのだから。そうだ。俺は何を忘れていたんだろう、とベナヤは思った。ソロモンは、俺が憎んだダビデと、アドニヤと、家族の間柄だったのだ。
なぜこう考えるのだ。自分は何がしたい。ハダド達のように反乱できる気概などはないのに。ソロモンの行動を論破できるほどの論理的な怒りでもないのに、ただただ心を痛ませて、自分は何がしたいのだ。
「お可哀想なナアマ様、お可哀想なレハブアム様……」
もしも、イスラエルの神が見ているとしたら。おそらく彼は自分のこの感情に、怒りに、寄り添うことはないだろう。正当性のない怒りであるということなど承知の上だった。だが、神が許さずとも、自分は怒るつもりでいた。ナアマのために。少なくともソロモンから次の目入り江が下されるまでは、自分は自由の身だ。

その夜、ソロモンの元にベリアルが現れた。
「久しぶりだな」彼は言って、ベリアルに手を差し伸べた。彼はふわりとしなだれかかってきた。
「疲れてない?大丈夫?」
「私は平気さ、指示を出しているだけだしな」
「そう……うん、君にはそれがいいよ」
そう言うなり、ベリアルは唐突に腕を広げ、ソロモンを抱きしめた、ソロモンも、急な行動に戸惑う。彼の体が、相変わらず篝火の王に温かかった。
「どうした、ベリアル?」
「可哀想……君が、可愛そう」
ベリアルの声は震えていた。彼はグシャリと、ソロモンの白い神を握った。
「どうして。ダビデが君に何をしたの。ダビデからは何も貰わなかったのに……酷いことをされただけなのに……ダビデのした行為の責任は取らせられて、憎まれるなんて……なんてかわいそうなんだろ……」
彼はベリアルの抱擁を受けながら、じっとその言葉に耳を傾けていた、そして、静かに抱擁から逃れた。
「ベリアル。俺は自分の人生に満足しているさ。何もかも」ソロモンは笑う。「これが、俺の人生だ」
「本当……?」ベリアルは言う。「本当だ」ソロモンは返す。
「ソロモン……精霊って何者だか知ってる?」
脈絡なく、ベリアルは呟いた。精霊。彼の頭に、タムリン隊長の話がこだました。「いや、知らん。何者なのだ?」ソロモンは素直に返した。
「あの隊長が言ってるみたいな、幻想的な存在じゃない……シバ人はね、夢見がちなんだよ。略奪隊の末裔のくせにさ……」ベリアルは、なんだかタムリンとソロモンの話を知っているかのような口ぶりであった。
「何もないんだよ。彼らには。ただ、永遠の命だけがある……」ベリアルはぼそりと呟く。
「人間にも、天使にも、悪魔にも慣れなくて、ただただ永遠の命を、ろくにない知性とともにむさぼるだけの……本当に、どうしようもない奴らさ……。君とは……知恵を求めた君とは、全く違う奴らだよ」
「それは……ビルキスの事を言っているのか?」ソロモンは聞いた。ベリアルはじろりとソロモンの方に向き直る。
「俄かには信じられん。彼女のどこに、無知性があるのだ」
「精霊はね、所詮精霊だよ」ベリアルはぶっきらぼうに言い返す。明らかに不機嫌になっているようだった。「やっぱり君はこだわるんだね、あの人に……」
「……ああ、こだわる」
言葉を濁す気に、その時、ソロモンはなれなかった。
「生まれて初めてと言うほど、俺は彼女に恋をした」
ベリアルは、強い批判の言葉を返しはしなかった。
「……かわいそう。君は、本当に……」
彼はもう一度そう言って、一瞬強く瞬くと、どこかに消えてしまった。

ソロモンは夜風にあたることにした、夜の王宮の庭は、ひんやりと冷え切っていた。そう言えば、昔もこのように、夜に散歩した。夜の闇の中でも、誇り高そうにシクラメンは咲き誇っていた。
ベリアルはなぜ、自分を憐れむのだろう。彼には見えているのか、天使たる彼には。自分はビルキスのために破滅するのだろうか。
破滅の道と知りながら、恋をあきらめられぬ愚かな人間の話など、いくつも見ていた。自分も、そうなるのか?彼女と、結婚など望まない自分が……。
「……ソロモン様?」
気が付くと、ビルキスもそこにいた。
「ビルキス様、何故ここに……」
「寝付けなくて、つい……」
「そうですか。……私もです」
彼はビルキスの隣に座った。反乱に関する話題などは、出したい気分ではなかった。
「……なぜ」ソロモンが切り出した話題は、それだった。
「何故、貴女はイスラエルに来たのです?」
ビルキスはその問いに、目を細めた。
「貴方のお噂を、お聞きしたからです」
夜の風は冷たかった。自分にとってはなれたものだったが、目の前のこの人にとっては寒くないのだろうか、ソロモンはそう思う。だが彼女は全く平気そうな笑みを浮かべていた。
「とても賢いお方……そして。まるで人間ではないようなお姿のお方と……そのような方なら、きっと私に、教えて下さると思ったのです。人は、何をもってして人であり得るのか……」
彼女の目は、どこか遠くを見つめエチルようであった。
彼女は、何を感じて生きてきた人なのであろう。タムリン隊長が見ることの無かった空白の時間、彼女は何をし、何を思い、女王に上り詰めたのだろうか。……完璧な「人間」ともよばれないような体で。
自分は、人間だった、体が白いだけの、ただの人間。彼女が求める人間としての承認など、自分の者よりもさらに深いはずだ。
「それに……」ビルキスが言った。
「イスラエルの神に、お会いしたかったのです」
その言葉を聞いて、ソロモンは振り返った。「また、なぜ?」
「何故でしょう……でもともかくも、イスラエルの宗教のお話を聞いて以来、お会いして観たかったのです。ずっと……」
彼女の姿勢、それはイスラエル人にも見たことがないものだと、ソロモンは字感じた。自分とて神の信者。とはいえ、その時の彼女には、全くかないもしないような気がした。
「……神殿へ、また連れて行く約束でしたな」ソロモンは言う。
「ええ」
「今度は、夜に……夜に行きましょう。祭司たちも参拝客もいない真夜中に……」彼は静かに言った。
「至聖所を見せます。神の座を、貴方に見せます。我々がエジプトより持ち帰った、契約の箱がそこにはあるのです……」
「はい。是非、お願いしますわ」ビルキスは微笑みながら言った。ソロモンは、そっとマントを広げ、彼女の肩を覆う。
「お寒くはありませんか」
「……ええ、少し」
彼女も、そのマントの中に入ってきた。ふわりと乳香の香りが漂う。彼らは肩を寄せ合いながら、しばらくその場にじっとしていた。
「自分の視たものを、信じたくありませんわ」ビルキスはポツリポツリと言った。
「あなたの王国が、何故滅ぼされるのでしょう。それも、磔になって死ぬ罪人の手で……貴方の、子孫の手で……」
「運命は全て、神のみが知る者です」ソロモンは語った。「私の王国にはふさわしい末路かもしれません。私も……父を殺し、兄を殺し、この場についたのですから」
「父を殺すことは、罪ですか?ソロモン王」ビルキスはポツリと言う。
「ハダドは……父の仇のためにすべてをなげうてますのね。私にはできません。ロトの娘は父との間に子をなしたというのに……私は、できません。無理です。そのようなこと……」
ビルキスの声は震えていた。
「私も、父を殺したのです」
「そうですか」
その告白は、非常にあっさりと終った。ソロモンは別段、この目の前の人が父に何をしていようと、自分の心がなにかかわる気がサラサラしてはいなかった。
「許してくださるのですね……」
「私に、許しの権威などありません。権威があるのは、ただ神のみ」ソロモンは言う。
「私はただ、その事を知っても、貴方に対する絆の情を一切損なわないだけです」
「そうですね……それで十分ですわ」ビルキスは黒いマントに包まれながら、心底安心したようにそうつぶやいた。

アンモンの王宮で、ハダドは見るからに落ち着かなさそうだった。近くで見ているハヌンも気が気でない様子であった。
「いつになったら、エルサレムに行ける!」ハダドは怒鳴る。ツェルアはただでさえ落ち着かない環境におかれているのに、ハダドの情緒不安定を感じ取って予型に落ち着かない様子で、ネバト達に与えられたベッドの中で震えている。
ネバトは呆れた顔で言った。
「早まるな。今お前が冷静にならなくては、何もいいことはない……ソロモンにしてやられるだけの事」
「ソロモンを、早く殺さなくてはならんのだ!」ハダドはわめき散らした。
「あの人が……あの人がソロモンのそばにいるなんて……」
「あの人……?」ハヌンは首を曲げた。「だれの事だね?ナアマのことか?」
「ナアマ様……あ、そうですね、ナアマ様も重要でしたね……」毒づくようなとげのある声で、ハダドは呻いた。
「ハダド。お前が何を見たのかは知らん。お前に届いた手紙も興味はない」彼をなだめようとする周囲の中で、ネバト一人がとにかく冷静だった。
「だが、早まっていいことは何もない」
「だから、何かすぐできる作戦はないのか、ネバト!?」
ネバトはふうとため息をつく。「おれは少し自室で考えている」と、ツェルアとその子供を待たせている部屋に引っ込んでいってしまった。
「あいつめ、ハダド様に何ということを!」レゾンは腹を立てた。
レゾンは、ハダドの義憤に同調する。
「ハダド様、私は貴方が何をしようと、貴方についていきますぞ!」
「イスラエルめ、ソロモンめ……」彼は怨霊のようにつぶやいた。
「生かしてはおけん、おくものか……」
その時、扉の向こうからネバトも現れた。
「分かった。イスラエルに行こう。何はなくともソロモンを打ち取れば全て終わるのもまた事実だしな」

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feat: Solomon 第七十三話


ソロモンは、盟友たる二人の王にベナヤの伝えてきた目撃情報を話した。ヒラム王は当然「その男は……?」と考え込んだ。ソロモンにとっても、それは疑問だった。危険を冒して逃がそうとするにはある程度は重要な人物であろうが。
だが、ビルキスが口を開いた。
「ソロモン王、口を挟んでもよろしくて?」
勿論、とソロモンが言うと、ビルキスは静かに言った。
「実は私も独断で、先夜、エルサレムに護衛兵を放っておりましたの。彼らが、わずかながら会話を聞いたことを、私に報告してまいりましたわ」
驚くソロモンとヒラムに、ビルキスは真剣な顔で続けた。
「その男……恐らく、エドム王家のハダド本人ですわ」
「なんですって!」ソロモンもさすがに驚く。
「む……つじつまが合わないでもないかもしれん」と、ヒラム。「詳しいことは知りようもないが、ダビデ殿の治世の前後であればたしかエドム王家とアンモン王家は家族のように懇意にしていたはずだ。貴方の妻と旧知の中と言うのも、有り得る話かもしれませんぞ」
「なるほどな……」ソロモンは呟く。「ではおそらく、レゾンとタムリン殿が切り結んだ日、奴も刺客の一人としてエルサレム宮殿にいたのか。そこから何かしらあって、ナアマのもとに滞在していた……と」
「とにかく、一刻も早く奥方様はアンモンに返すことですな」ヒラム入った。ソロモンも「もちろん、準備は進めております。明日にでも送り返しますよ」と言う。
「それにしても執念深い……」ヒラムは呟いた。「その例の日、王宮は占拠されていただけでもなかったらしいではないですか。反乱のかなめとなろうと言う自分が、敵の本拠地の中に乗り込みますかね……」
「たしかに……ハダドは、そんな男なのかもしれませんな」ソロモンは、ふと、そのヒラムの発言から思った。
「奴が望むのは、ただの失地回復ではないかもしれません」彼は唇に細い指を添えつつ、そう言う。
「二人とも、私はエジプトのファラオなに問いかけて、わずかな情報を漁って、ハダドについて考えていたのです。あそこにハダドもいたと仮定すると……ハダドはおそらく、直情的で、自分の信じる正義に忠実な男。理屈以上に自分なりの倫理を取るような、そんな男のように思えるのです」
うむ、とヒラムはうなずく、ビルキスも細い首をコクリと盾に揺らした。
「彼が執着するのは……名誉回復以前に、おそらく仇討。要は奴自身の手で、ダビデの血を引く私、この私をその手で打ち取ることが目的であるのかもしれません。我が父がその手でエドム王家を殺めたのと同じく……レゾンはあの際、私の急所を狙ったようには見えませんでしたから」
「なんと?しかし、そのような事……」と、ヒラム。
「無論ただの推測ですよ。私も戦の経験はないですから、確信が持てる事ともいえない。ただ……以前、急所を狙われた時とは、勝手が違うようにおもえまして」
アドニヤに狙われたあの日の事を思い返すのであれば、レゾンはむしろアドニヤよりも、彼が確実に仕留められるために最初に攻撃を加えたヨアブ、彼に近しい憎しみを自分に向けているように感じた。
「ひょっとすると……」
「あの日、貴方様を狙った矢はハダドが打ったものかもしれませんね」ソロモンの言葉にビルキスが付けたした、ソロモンも自分が言おうとしていることを的確に言われ、うなずく。
「もしもそうであるとすれば大変な奴だ。なんて執念深い……」
「いいえ、こう考えられますよ、ヒラム王」ソロモンは薄く笑って言った。「もしもこの仮説が正しければ……奴は私の前にいつかは姿を現さなくては気が済まぬはず。私としても、そんな執念深い奴なら活かしておけば生きている分だけ何かしらの行動をするでしょう、なんとしてでも奴本人を捕え、処刑したいものです」
「貴方がいる限り、その瞬間がやってくる算段が強い、とそうおっしゃいますのね」
「ええ、ビルキス様」
「けれど、いくらなんでも、奴にとってはそのおかげで危険な目にあった直後だ」ヒラム王は疑問視の声で言った。「すぐに動くとは思えないが……」
「そこですよ。動かないでしょうから、すぐに動かせましょう」ソロモンはにやりと笑って言う。
「ナアマは明日帰らせます。ヒラム王。彼女の出発までにまだエルサレムについていない、誰にも顔を覚えていないであろう隠密兵を一人用意してくださいませんか?ハダドが、イスラエルに来ざるを得ないように仕向けます。幸いベナヤが大きなお世話をしてくれたおかげで、むしろより不自然ではなくなった」
ソロモンはそう言って、淡々と計画を語った。ビルキスはくすりと口元を多い隠して笑う。
「なるほど……」
「おかしい作戦でしょうか?」
「いいえ、むしろ驚いておりますの。私が思っていた策と……同じなのですもの」
その言葉に、ソロモンも安堵を覚えた。何かしらの嬉しさも感じた。彼女と自分が、同じ方向を向いていたということに。
「それで、レゾンが乗る可能性は?」ヒラム王はにやにやしながら言った。彼にとってはむしろ、レゾンの方がメインだ。
「あのような無謀にも寧ろ乗るほど、彼はハダドを尊敬しているのですよ」ソロモンは言う。「ハダドが来れば、レゾンも来るでしょう」
「ようし、それなら私も乗りましょうかな」ヒラム王は満面の笑みで笑った。

ナアマは大分帰りたくないと言い張っていたが、結局帰らない確たる理由は無いようだった。普段ソロモンの事も、イスラエルの事も嫌っていたのが、むしろ仇になった。夫を足いていれば、まだ帰りたくないと言い張ることに説得力が湧いたのかしら、とも思えた。レハブアムと離れたくない、と言っても、「ではレハブアムも一緒にアンモンへ行けばよい」と言うだけ。
ベナヤが昨日の事をソロモンに話したがどうかは分からない。だが夫なら何でも知っていそうだった。これが心配ではなく、むしろ情報を遮断するための強制送還なのだということくらいナアマにも察しはついている。彼に睨まれているアンモンに、まさかレハブアムを連れていくわけにもいかない。
レハブアムは母と離れるにあたって泣いていたが「すぐに戻ってくるわ。大丈夫よ。ベナヤの言うことを聞いて、しっかりなさいね」と、ナアマは必死でなだめた。父親の名を出さないことが、せめてもの抵抗だった。
「時間です。王妃様、馬車へ……」
ソロモンが憎い。結婚して何度も思ったことを、今ほど感じたことはない。
そうだ、彼やダビデは神に愛されていただろう。自分たちはそんな身にはなれない、そんな中でも誇り高く生きて行こうとしているのに、ダビデやソロモンはそんな盆人たちのあがきをあっさり踏みにじる。神に愛された彼にこれ以上何が必要だ。能力も、生まれも、ナアマにないものを彼は持って生まれたというのに。ナアマがほしくて欲しくてしょうがなかったものを……。そして、何よりも、ハダドがほしかったであろうものを……。
アンモンまで護衛についてくれるのは、ベナヤだった。とはいえ馬車の中に乗り込む彼女と、外を馬で行く彼の間に会話などなかった。医者は非常に気まずそうであった。

途中のオアシスで、彼らは休憩した。「ベナヤ」と、ナアマは声をかけた。
「あなたは……私の事を可哀想だと思ってくれる?」
「はい」意外にもベナヤは即答した。
「難儀な物ね、軍人って」ナアマは、そうため息をついた。
「ベナヤ、私ね。昔、なりたいものがなかったの」
「はい」ベナヤは、清水で足を洗う彼女の隣に腰かけて話を聞いた。
「だから、漠然とだけどね、お姉さまたちみたいに素敵な結婚をするのが夢、って思っていたの、今だって思ってるわよ。でもそれって本質じゃないって思ったわ」ナアマは呟いた。
「シバの女王が来てから思ったの、私も、女王様になりたかった」
オアシスの木の木洩れ日に体を照らしながら、彼女はそうつぶやいた。ベナヤにはそんな彼女が、とても美しく見えた。
「あなたや……好きに思う人が皆、自由に生きられるようにしてあげたかった」
何とも子供じみた望みだった。本当に、小さな女の子が無謀に言う夢そのものだった。
だが、それはベナヤの心に染み入った。実際の王など、あんなもの。子供の夢想する理想の王、その幻想によりそうことがどんなに幸せか。
「ナアマ様」ベナヤは言った。「私は貴女を愛しております。貴女だけを……ソロモンよりも、貴女を愛しております」
そう言ってしまうのが怖かった。だが、ようやくいえる気がした。
オアシスは木漏れ日に満たされている。ソロモンは、小漏れ部すら嫌う。この空間は、間違いなく、ソロモンから切り離されていた。
軍人として言ってはならんことだ。ソロモンは自分に、何も残酷なことはしていない。彼は良き王だ。神の国イスラエルを、その名にふさわしく富ませた、賢い王だ。愚かな王の陥る欲望に身を任せることの無い、神に従う王そのものだ。
それでも、構わない。それでも、嫌いだと思った。仕方がないではないか。自分は、凡人なのだから。神の意志など、賢王の考えなど、何一つわからないのだ。わからないものを嫌いになって、何がおかしいのだ。
夫でありながらナアマの事を信頼もしないあの男に、本当に、嫌悪感が湧いたのだ。彼は護衛兵達に「暫く二人にしろ」と言った。
護衛兵達はすごすごとさがる。ナアマが目をぱちくりさせていてると、ベナヤは彼女を抱き、そしてキスをした。
思えば、ベナヤの方からこう積極的に来ることは、初めての事だった。彼らはそのままオアシスの草地に横たわった。ナアマは、嬉しそうに微笑む。
木漏れ日に包まれながら、彼らは結ばれた。ソロモンを嫌えど、自分に反乱する気概などはない。別にハダドに同情的な気持ちなど湧かない。自分はただただ、ソロモンに仕え続けるだろう。
だが、愛するのは彼ではない。ナアマだ。何年たっても、彼女が死ぬまで、自分が彼女のそばにいる。夫に愛されてもいない彼女の、真の夫として人生を生きる。
「私は、幸せですよ、ナアマ様」ベナヤは、顔を赤らめたナアマに、微笑みながら言った。
「私にとっては、貴方こそ、誰よりも偉大な女主人です。シバの女王にも、ソロモンにも勝るお方が、私の目の前におります」
理不尽など、非合理的など、わかっている。ソロモンが国を、自分を守ることの何がおかしいのだ。ましてやアンモンは実際に黒なのだ。時刻に降りかかる火の粉をふり亜hら宇野は、王としては当然だ。
だが、そんなことは関係ない。最後の最期まで、何故妻を信じ添い遂げないのだ。そんな考えを突き通す気でいた。王の道理など分かるわけはないだろう。自分は王ではないのだから。それもできぬ人でなしを、愛してやる理由などないのだ。

オアシスのはずれで休んでいた医者は、一方非常にやきもきしていた。ソロモンもあの将軍の報告を聞いていないはずはあるまい。何の意図があるかはわからないが居心地の悪いことこの上ない。
その時だ、ツン、と自分の袖を引っ張る男がいた。「何奴!」彼は護衛用の剣にとっさに手をかけるが、見知らぬ男はじっと暗い目で医者を見つめながら言う。
「アンモンに向かう所とお見受けしました」
「だからどうした。下がれ、下郎!」
「お願い致します、これを、アンモン王。ハヌン様の元へ……」彼はよろよろと、手紙を差し出す。周りに誰も見られていないか、気にしている様子であった。
「お願い致します、お願い致します。どうか……」
目の前の青年は、気丈に淡々とした声を出そうとはしているようだったが、そこには隠し切れない日通関が見て取れるようでもあった。医者もどうにも決まりが悪く「う、うむ」といい、その見知らぬ手紙を送り届けることを承諾してしまった。

アンモンの国境を超える前、ベナヤはやんわりと一足早くエルサレムに返された、その医者の言葉に彼は逆らえず、ナアマと別れの言葉を交わし、帰国の途についた。
ラバの王宮に入るなり、ハヌンが駆け寄ってきた。「ナアマ!」彼は久々に見る娘を抱きしめた。
「お父様……まさか、こんなことになるなんて」
「ナアマ、すまない。お前の結婚生活を台無に強いてしまった……」
「いいのよ……お父様、胸を張って。お父様、私があの人と結婚するのを嫌がっていたのを、叱ったわよね。私、それぐらい抵抗したでしょ」ナアマは疲れたように笑った。
「あの人の事、今でも嫌いよ。大嫌い……」
「おつらい結婚生活を送られていたようですな」
ナアマは聞き覚えのない声に振りかえった。見知らぬ男が非ざまづいていた、一応良い着物を着せられてはいるが、隠しきれない育ちの貧困さがにじみ出ているような男だった、それでも彼は、ナアマやハヌンにも物おじせぬほど、堂々としていた。
「お初にお目にかかります。ハダドの同志、ネバトと申します」
「そう……よろしく」彼女は言う。
「ハダドは王宮に居ます。まずは疲れをお癒し下さい」
そう言われて素直に王宮に帰る娘とともに、ハヌンも帰ろうとした。だが、彼女のもとに繰り込んだ礼の医者に止められる。
「どうしたのだね?」
「陛下……実は、見知らぬ男が陛下にこれをと」
そう渡されたのは、ぼろぼろのパピルスだった。不審に思ってハヌンが開いてみると、すぐにそれが本来自分あてのものではないことに気が付いた。その送り主たる彼はなぜこのことを知ったのか……。と思ったが、いや、ハダドからイスラエルの将軍に目撃されたということは聞いている。もうすでに、イスラエル王宮では噂になってしまっているのかもしれない。
手紙には、貴方のもとに居るハダドにこの手紙を渡してくれ、と書いてあった。彼は急いで、ハダドのいる部屋に行った。

ハダドは、相も変わらず考え事をしている様子であった。
しかしただ漠然とした気持ちだけでは、だんだんなくなってきつつあった。あの美しい人は、何故、エルサレム宮殿に居たのだろう?簡単に考えればわかることであった、つまり、王宮に何かしらの関係のある人なのだろう。
あの良い衣服を見るに、侍女の類ではあるまい。だが、高官の妻や娘とも思えない。あの時まだエルサレム宮殿は事件があったところなのだし、第一それならば夫か父が寄り添っているだろう。彼らだって自分の妻や娘を、危険なところに野放しにしてはいけないはずだ。
となると……と彼は考えた。彼女はソロモンに何かしらの関係のある人物ではないのか……。
あれほど美しい人が、ソロモンと何かしらの関係を持っている。そしてソロモンは、あのダビデの息子だ。自分もエジプトで聞いてあきれ返った噂がある。ダビデは美しい人妻に欲情し、その夫を誅殺してまで彼女と結婚し、神に愛想を尽かされてしまった、と……。
そのような色好みから生まれた息子の宮殿に、あんな美しい人が来ている……その事実が、ハダドの心にたまらない不快感を呼び寄せた。彼の心の中にはむらむらと憎しみが湧き上がってくる。
許せない、許し難い。彼は何度か影から見たソロモンの姿を思い出していた。異形と呼ぶにふさわしい、屍じみた肌の色に老人のような白髪。そして真っ赤な目。醜いと思った。なぜこのような化け物に、自分の国がなおも支配され続けなくてはならないのかと思った。あの人も、そんな彼の者なのだろうか。あんな美しい人が、あんな醜い人間の言うなりにされているのだろうか……。
耐えきれない。願わくば今すぐにでもエルサレムに戻ってお助けしたい。だが、さすがに今もドルと言っても誰もいい顔は住まい。戯作であるともわかっている。それでもこうやって自堕落にアンモンで過ごしている時間が惜しい。こんな時間を過ごすためにエジプトから帰って来たのではない……。
そんな中だ。ハヌンがやってきた。
「どうしました?ハヌン様」と問いかけたハダドに、ハヌンは焦りながら言った。「実は。ある男がこれを私にと……」
ハダドも不審に思いつつ、手紙を開く。ミミズが張ったような字で書かれた手紙だった。ハダドもヘブライ語はできる。手紙は難なく読めた。
だが一方で、そこに書かれている内容は想像を絶するものだった。
アンモン王とハダドがつながっている、と聞きこの度手紙を出すことに踏み切った。手紙の主はそう語っていた。彼は、せめてハダドに自分の事を伝えたかったらしい。そして、ダビデ王家を告発したい、と、そう語っていた。
部下を、家族を目の前で殺されたハダドが息をのむほどに、手紙に書かれている内容や凄惨なものだった。
彼はずっと、王宮に幽閉されている、と、自分の事を話した。ダビデ王に連なる身でありながら、家族として認めてもらえなかった。今のソロモンの時代になっても同じ。誰にも存在すら知ってもらえず、愛されもせず、日も差し込まない暗い部屋で、一人ぼっちで暮らしている、と。
ダビデにとって、不都合な存在として生まれてきてしまったがために、殺されもせず、ただただこの世から消える事のみを願われて生きる毎日。お前などいないほうがよかった、とだれからも見られる日々。そのような内容の長い、長い手記が、胸を打つようなありありとした描写で描かれていた。
ハダドはその手紙を、何回も、何回も読み返した。「コヘレト」その手紙の送り主たる彼は、そう名乗った。彼に返事の出しようもない。だが出せる者なら、今すぐ、したためたい気持ちですらあった。この知りもしない男に、ハダドはたまらない同情を覚えた。彼は自分と同じだ。ダビデに、誇りも何もかも奪われつくしたもの……。
ソロモン、あの男に、この人も苦しめられている。お前がこのように悲しむコヘレトにひどい仕打ちをできた身か!屍のような身をした化け物のくせに、生きる価値もない、人間としても認められない異形はお前の方のくせに!!
ハダドの中に義憤が燃え盛った。と、同時に途方もない焦りが生じてくる。
いつになればまたエルサレムに行けるのだ。一刻もソロモンを活かしてはおけない。活かしておいていいものか、あの鬼畜を!賤しい羊飼いの子供、異形のかたわものでありながら、素晴らしい人々を苦しめる身の程知らずを!

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feat: Solomon 第七十二話

ヒラム王が来た日の晩餐の事だった。晩餐の席に、ビルキスが現れた。
「ビルキス様……!」ソロモンも若干心配そうに問いかける。「お身体は、もうよろしいので?」
「ええ。貴方の薬のおかげで、すっかり……本当に、よく効きますわ」
彼女はそう言うと、あわててアヒシャルが持ってきた椅子に、ふわりと優雅に腰かけた。
「お話は聞いております。ソロモン様……ソロモン王。わがシバも無論のこと、協力させてもらいますわ。あなたのお国に」
「それはそれは……なにより」
ソロモンもそれを聞いて、不敵に笑った。タムリンの話は気にならないではないが、少なくとも今は、ハダド達についてだ。
アヒシャルがビルキスの分の盃も持ってくる。
「我らの計画の成就のために……!」そう声をかけソロモンとビルキス、ヒラムの三人の王は盃を掲げて乾杯した。


後日、エルサレムの城門を大慌てでかいくぐり、ようやくイスラエル軍が帰還してきた。
「陛下!ご無事で何よりです」
「ベナヤ。よく戻ってきてくれたな」ソロモンは彼を出迎え、言う。
「王妃殿下は……王子殿下にも、お怪我はありませんか!?」
「安心しろ。今の所、どちらも無傷だ」
ソロモンは冷静に言い返した。「もっともレハブアムは怖がって怯えている。お前になだめてやってほしいところだが、お前にはやってもらいたい仕事が沢山あるからな……」
「はっ、なんなりと」
「まず、新たに二地域で、反乱がおこった」
それを聞き、ベナヤもぎょっとする。
「サマリヤとエリコだ。反乱の規模は小さい。サマリヤへは、ヒラム王の軍が主だって言ってくださるそうだ」
「では、私はエリコへ?」
エリコとなれば幸い今度は近場だ。疲れ切ったイスラエルの軍馬たちの代わりに、シバ王国の行商隊が動物を融通してくれるとのことだった。
「そう頼みたいところではあるが……お前が行くまでもなかろう。お前の軍隊の中から、鎮圧軍を編成し、エリコに送り出してもらいたい。まずは、それが第一の仕事だ」
「心得ました。して、第一と仰るからには、第二の仕事は?」
「レハブアムの事もそうなのだが、それ以上にナアマの所に言ってやってくれ」彼は真面目な顔で言う。
「真面目な話だ。奴もこんな状況で不安だろうが、私が行っても帰って不愉快にさせるだけ。お前に頼むしかあるまい」
軍隊の長としてはそんな仕事か、と思わないでもないが、一人の男としてのベナヤはむしろ、ソロモンがそう言ってくれたことが嬉しかった。ナアマは夫に愛されていない自分が不幸だ、と言うが、ソロモンも人並みに妻の事は気にしているのだ、と言うソロモンとナアマ、両者に対しての安堵感が出てきた。
「仰せの通りに」とベナヤは言う。彼が出て言った後、ソロモンは思案した。
「(これで、あのアンモンの医者が妙な動きをして尻尾を出せばよいのだが……)」

ベナヤが帰ってきて、ナアマは非常に喜んだようだった。彼女はベナヤの名前を呼び、彼に必死で縋り付いた。彼は、エリコ行きの支持をすでに出した後だった。
「良かった……良かったわ。戻ってきて!」
「大した鎮圧戦ではありませんから。其れよりも、王妃殿下がご無事で何より」
ベナヤも、穏やかに笑ってナアマの頭を撫でる。自分たちの事を、居心地の悪そうな目つきで見ている知らない男がいた。あれが王の言っていた医者か、とベナヤは踏む。
「お前、彼がベナヤよ。私が何回も言っていた」
「そうでございますか……」医者はやはり居心地悪そうに、それでも居住まいを正してベナヤに礼儀正しく挨拶した。話しているということは、おそらく彼も自分とナアマの関係性を察しているのだろうとベナヤは見た。王妃と護衛隊長の関係、たしかに赤の他人にとっては見るに堪える者でもないだろう、とその医者の心境を慮ったベナヤは、「申し訳ありませんが、あなたは席を……」と依頼した。医者もそれを快諾した。
「ベナヤ……貴方は必死で戦うのね。あんな、あの人のために……」
「王妃殿下……私は貴女を心の底より愛しております。ですが、それと同じほど、陛下、イスラエルににお仕えすることも大事な役目の一つです。私はイスラエル軍の隊長ですから。それに、ソロモン王を悪い王だと思ったこともありません」
そこだけは、ナアマの前でもはっきり言うつもりでいた。
「ねえ、ベナヤ、あの……」
負と、ナアマが何かを言いかけたようであった、どうなさいましたか、とベナヤは心配したが、次の瞬間彼女は一瞬言葉を引っ込めた。
「いえ……今からレハブアムの所に行かない?あの子もすごく怖がっているのよ」
ベナヤは、快諾した。王子の事も心配であった。

アンモン人の医者は部屋の奥に行き、ハダドの名を呼んだ。
「時間がありませんぞ!とうとう将軍ベナヤが帰ってきてしまったではありませんか」
ハダドは、すぐにアンモンに帰らせる気でいた。だがなぜか、ハダドは傷が治ったというのにイスラエるから離れようとしない。
それどころか、カーテンの小さな隙間から、ずっと窓の外を見て、聞き取れない事を言いながら何かをぶつぶつと呟いている。
イスラエルへの恨み言だろうか、と医者は思っていたが、何にせよ放っておける自体ではない。
「今夜イスラエル軍は反乱の鎮圧に向かいます」
「ああ……ネバトが起こしてくれた奴だな」
「これらも全て、ハダド様をお助けするため、軍の注意をそらさせるのが目的。ベナヤ将軍も今日は疲れているでしょうし早く帰宅するでしょう。ハダド様、一刻も早くラバにお息を。皆さまも、待ち望んでおります」
「うむ……」
返ってきたのはやはり生返事だった。だが、医者が真剣にせかし、ハダドも長い沈黙を破っていった。
「わかった……今夜にでも出発しよう」
「二言はありませんな!」
医者の念押しに、ハダドも首を縦に振る。
ハダド本人も、早くここを抜けるべき、ラバに行くべきだということは分かり切っていた。ナアマ経由で連絡を入れ続けるにも限界がある。
だが、今彼の心には、祖国を奪い返さんとする闘志よりも、異質なものが湧き上がっていた。
あの女性は誰だ。あの宵闇の中に消え行ってしまった、美しい人は。名前も、声も知らない彼女が忘れられない。
また、彼女に会いたい。彼女を見たい。そのような思いに、最近ずっと捕らわれている。彼女の姿を認めた窓から、離れることができなかった。幸福などなかった、憎しみにずっと満たされ生きてきた人生。其れだと言うのに、彼女を見た瞬間、幼いころ、エドム王家が生き残っていた時代においてきた幸福と名のつく代物が、自分の心によみがえったかのように思えたのだ。

夜、医者はハダドを王宮から連れ出した、数日居たおかげで、警備の目をかいくぐるのは簡単であった。
エルサレムの城壁から連れ出し、後は単独でラバに帰ってもらう予定であった。ハダドはまだ上の空だったが、それでも何とか連れ出すことはできた。
ナアマも一緒についてきた。いざと言うときも、ナアマが散歩をしたがったのだと言えば衛兵たちは黙らざるをえまい。
ナアマはずっと、心配そうにハダドに付き添っていた。「ハダドさん、大丈夫?」と彼女が幾度となく声をかけても、ハダドは「ええ、まあ……」と生返事しつつ、時々エルサレム宮殿を振り返っていた。
自分達は彼の気持ちをわかっていなかったかもしれない、と医者は考えた、この復讐者にとっては、ソロモンを直接手にかけることこそが望みだったのだろう。命の危機を冒してでも、エルサレム宮殿にとどまり、ソロモンを直接打てる機会をうかがいたかったのかもしれない、と。
逃亡は順調に進んでいた。だがエルサレムの市門に近づいたときの事だった。一人の男が、警備隊と話し込んでいた。
ナアマは彼の事を見て、つい、声を上げてしまった。ベナヤが、そこにいた。

ベナヤも、緊急事態が心配で、独断で市門の衛兵たちのもとを回っていたのだ。だが、彼は王妃の声を聞きつけた。
医者はうろたえる。衛兵ならいくらでもごまかしようもあると思っていたが、ベナヤ相手ではそうはいかない。「おや、王妃様……!」と、ベナヤがこちらに向かった。
「何を?」
「夜の散歩よ……」
「それはそれは。ですが、何が起こるか危険です、王妃様」ベナヤは焦った様子であった。医者やハダドにそこまでは分かろうはずもないが、彼の心の中にはまた3年前の悪い癖が出たのではと言う焦りもあったのだ。もう、ナアマにあのようなことはしてほしくはない。
「早く王宮にお戻りを……私もお供いたします」
「ええと、その……」
ナアマは焦った、その時だ。ベナヤが、見覚えのない気配を嗅ぎつけた。医者の後ろに座る、顔を覆った不審な男。王妃の散歩の護衛につくなら、自分の部下たちのはず、このような男に覚えはない。
「だれだ、お前は?」
ベナヤは言った、その時、たった一瞬のうちに彼は剣を抜いた。そして馬に鞭を入れ、一目散に走らせる。
「貴様!」
ベナヤもあわてて剣を抜こうとしたが、それより早く彼はベナヤの剣を叩き落とした。衛兵たちも間に合わず、彼は指紋を抜け、一目散に市外に去っていってしまった。
「お前たち、王妃殿下を介抱し、王宮へ送り届けるのだ!」護衛兵達に総命令し、ベナヤは自分の馬にも鞭を入れようとした。だがその時「まって!」と高い声が飛ぶ。ナアマの声であった。
「ベナヤ。おねがい。あの人を……あの人を追いかけないで」
「ナアマ様、奴が行ってしまいます!」と、ベナヤ。「あ奴に脅されていたのですか!?」
「違うの。あの人は……あの人は……」震える声で、いや、実際に体も震わせながら、ナアマは言う。
「私にとって、大切な人……とても……お願い。エルサレムを抜け出さなくてはならなかったの。許して。私の顔に免じて、許してあげて……」
エルサレムを、コソコソと夜中に抜け出す。しかも、このような時期に。たいそうな相手であることなど、その行為全てが物語っていた。
「王妃殿下、失礼いたします」とベナヤは馬を走らせようとしたが、後ろからそれを縛り付けてしまいそうな金切り声が飛んだ。
「私とソロモンと、貴方はどっちが大事なのよ!」
ベナヤを引き留めたのは、その声の内容よりも、その声の悲痛さであった。
彼は、ナアマを初めて抱いた番がフラッシュバックした。あの時も、ナアマはつらそうだった。愛してもいない夫の国でずっと独りぼっちになって、やけになっていた問の王妃の姿が彼の脳裏に躍る。
ベナヤがぐずぐずしている間に、曲者はすでに見えなくなっていた、どこに行ったのかもわからない。ベナヤはナアマの方に振りかえる。
何か言いたいが、声が出なかった。医者はおどおどして、ナアマは目に涙を浮かべながらじっとベナヤを見つめていた。
「だれなのです?」ベナヤは言った。
「子供の頃に、私のもとに来てくれたの。大切な……大切な人」
「お言葉を返させていただくのなら……」我ながら意地悪いと思いながらベナヤは問うた。
「私と、どちらが大切なのです?」
「今愛してるのは貴方よ!でも、あの人は大切な人なの!」
迷わずにそう言うナアマを見て、この人は自分とは育ちが違うのだ、とベナヤは思わざるを得なかった。嫉妬の気持ちすらわいてくるようだった。だがそれ以上に、王妃を見ているのがただただ切なかった。
「……奴を、逃がしはしました」彼はナアマに呟く。「あなたの望みは聞き届けましたよ、ナアマ様」


翌朝になった。
ベナヤは、昨晩の事を、ともかくもソロモンに報告した。ナアマはそんな自分の事を恨むだろう、とも思いながら。
「申し訳ありません。曲者を見ながらも、逃してしまいました。いかなる処罰も……」
「失敗など人の常。気にするな。お前に今いなくなられる方が困る」
ベナヤはその言葉を聞き、素直にほっとした。ソロモンは念を押すように聞き返す。
「例のアンモンの医者と、ナアマも一緒だったのだな?」
「はい……」
「聞け、ベナヤ」彼は返す。
「実はな、私もアンモンが怪しいと踏んでいて、ヒラム殿に探りを入れてほしいと頼んでいたのだ」
ベナヤはそれを聞いて、ぎょっとした。
「ほとんど黒と見なして良いだろう、とのことだ。あの医者がせめてもの善意か悪意かまではせめて探りたいと思っていたが……これで何もかもすっきりしたな、ご苦労だったぞ」
ベナヤに体中に悪寒が走る。馬鹿な、ナアマの実家がソロモンに反抗?いや、そしてそれ以上に、ソロモンは自分の妻の実家も当たり前のように疑っていたのか?いや、こんなことに「それ以上」をつけるのは可笑しい。王として国の心配をするのは当然のこと。だが……。
「陛下」ベナヤはかろうじて言葉にした。イスラエルの将軍と言うよりも、自分の愛する女の夫にきく、一人の男のつもりでいた。
「先日、私をナアマ様のもとにやったのは……彼らを焦らせ、行動をさせるためですか?」
「……なぜ、そう思う?」
「衛兵たちが言っておりましたので……陛下から直々に、今日は特別、不審者に目を光らせておけと。だが極力みなかったふりをしても構わない、相手に気づかれず情報を多く持ち帰ることが先決だと……」
「……察しがいいではないか」と、ソロモン。
「もっともお前が出てきてしまった以上、先方も私たちに感づかれていることは前提で動くだろうな……」
「アドバンテージを握りたかったのですね」ベナヤは震える声で言った。「私は、陛下のご計画の邪魔を……」
「気にするな。先ほども言ったが失敗など人の常だ。私ですらしたことはある」
知れっというソロモン。ベナヤは繰り返す。
「そして……彼らは皆、例のアンモン人の医者を見次第跡をつけろと言われていたと……私は、何も聞かされておりませんでした。私は……」
「ああ」
「私の心に……迷いが生ずるとおふみになったのですね」
「ベナヤ」彼は呟く。「どちらにせよ我々がアンモンを疑っていることを相手が予測できる事態になってしまった以上、ナアマやあの医者をエルサレムにおき続けることには何のうまみもなくなった。ナアマはいったん国に返すつもりだ。国の危機に瀕させることには何の不自然もなかろう。お前はどうだ?ナアマについてゆくか?」
ベナヤは、心が震えた。
ソロモン一人の恐ろしさではない。彼はそう感じた。
王家の起きるとは、王族として暮らすとは、何たることなのだ。自分とは生きている世界が違う。妻を愛し、夫を愛し。信頼し、生涯添い遂げる。ベナヤが幸せだと、倫理だとみてきたのはそう言う世界のはずなのに。
倫理など何も通用しない。吐き気すら覚えてくる。高貴と呼ばれる人々は、何故香にも醜くなれる。絹の衣をまとい、香油を塗り、黄金の装身具で飾り立てられる人々が、なぜこうも醜くなれるのだ。彼は権力争いと言うものに、ほとほと怒りを覚えた。
可愛そうなナアマ……そのように心の底でつぶやいて。
「いえ、私は……エルサレムに留まります。反乱が終わったわけではありません……任務を全うしなくては」
「そうか。ありがたく思うぞ」
淡々としたソロモンの態度に、ベナヤは何より心が痛んだ。彼こそ、この汚れた世界の最たる象徴のように思えた。愛する祖国イスラエルの君主でさえなければ、愛するナアマの夫でなければ、愛するレハブアムの父でなければ、なぜ、こんな奴に仕えなどするものか。
兄を殺し、父を殺し、母を殺し……妻さえも疑って、何ら悪びれることなく玉座に座る、この、化け物じみた白い男に、ベナヤはほとほと嫌悪感を持った。

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feat: Solomon 第七十一話



タムリンの話を聞き終わり、しばらくソロモンも何も言えなかった。
「野暮なことを、一つ伺ってもよろしいか」ソロモンは言う。
「あなたから、ときどき私をとがめるような視線を感じた」
「……!それは」
タムリン隊長自体は、どうやら気が付いていないようだった。ソロモンはふっと顔をほころばせ「いや、いい。責めるつもりはないのだ。そう言うことだったのか、と、納得したまでの事」と言った。
「なるほど。タムリン殿。貴方の心配は正しい。私は間違いなく、貴方の国の女王に慕情を抱いている」
ソロモンはあえて、堂々と言った。あたり前だが、タムリン隊長も言葉に詰まる。その言葉を言うことを遠慮させようという意図もあって、先ほどのような話をしたのだろうから。だが、ソロモンにしてもこの隊長への宣戦布告のような気持ちはなかった。ただ、自分が初めて得たこの情に、嘘をつきたくなかっただけだ。だからこそ、彼はこう続ける。
「安心してくれ。昔のあなたと私の間には、明確に一つ違いがある。私は、あの方を妻になどと望もうとは思わない。あの方の輝きとは、自分自身の脚ですっくと立っている、その瞬間そのものだ」
広い空を飛ぶ鳥の羽を、花の間を舞う蝶の羽を、何故無残にもぎとれるものか。ソロモンはその自分の感情も、非常に素直にタムリンに語った。穏やかな気分でさえあった。
タムリンは言葉を震わせ、絞り出すように言った。
「……ソロモン王。やはりあなたは賢者と言われるだけあって理性的ですな。昔の私ではかないもしなかった極地だ。……ビルキスを独占したいと考えていた、私では……」
確かに、もう自分の愛が、他のものがビルキスに感じる愛と違うのであろうということは承知の上だった。だがタムリンがさらに声をふるさせていたのは、何もソロモンの理性故だけではなかった。
「だが……あなたは賢者、それゆえ、愚者が気づくものには帰って気づかぬものですな」
「何の……ことだ?」ソロモンは言葉を詰まらせて、聞く。
「別に、貴方が彼女に焦がれようとも今さら私が嫉妬するものか!彼女が王となった十年前ならそうだったかもしれん、諸国に行くたびあの子の事をみだらな目で見る諸王たちに私がいくら嫉妬や、時に殺意を抱いたことか!だがそんなことはもはや問題ではない!ソロモン王、貴方の考察は正しい、実に正しいとも。ビルキスは男など介さずに自分で生きるから美しい、彼女の輝きの本質とはまさにそれなのだ、私もそのことをいつしか悟りましたよ。昔の私自身すらあざ笑ったほどに。男性を失ったことを、私は何ら後悔していません。そうあるべきでした。男にいくら焦がれられようとも、男に見向きもしない。美しき精霊の娘に相応しく……そんな彼女が、私の中で、心の底から愛でるものとなっていったのです……なのに……それだと、言うのに……」
ソロモンもそこに来て、ようやくタムリンが言うだろうことが大方理解できた。
信じられないことだ。もしも予想が外れても、自分はおそらく何もがっかりしはしない。
だが、一方でああ、そう言うことだったのか、と納得するものがあった。しんと静まり返った「レバノンの森の家」で、意識も、理性も、何もなしに、ただ感覚のみで行われたような、荒唐無稽な会話。あれが成り立ったのは、自分たちが、感覚だけで想いを交わせるほど、あの場で、心が近しくなれたから。

「ビルキスも、貴方を愛しているのです」

辛そうに、タムリンはそう吐き捨てた。いや、この隊長にとっては心底辛い事だろう。
狂わんばかりに惚れぬいた少女に拒絶され、その拒絶を受け入れられる形で見出した彼女への愛も、ついに否定されてしまったのだから。
「見てわかります。日増しにあの方は変わってきました。あなたの……あなたのせいで……」
「……なるほど。タムリン隊長。先ほど私から、女王の脚の話を聞いて激怒したのも、その思いがあってこそか」ソロモンの方は、冷静にではあるが、それでも隊長を刺激せぬよう、なるべく穏やかに敬意を込めて話した。
「繰り返すが、その件は全く、安心して下さってよろしい。神に……いいや、貴方達琉に太陽に誓ってもいいだろう。先夜も、今も変わらずに、私は妻一人しか女を知らん」
「……どうも、ありがとうございます」
彼女と言葉を交わすたび、魂が歓喜に躍った。あれは今にして思えば、ひなびた荒野で一人しかいないだろうと孤独に打ち震えていたところに、もう一人誰かに出会えたような喜びだったのだろう。そしておそらく、その相手も、手を取り合い、言葉を交わし、歓喜に打ち震えるはずだ。
タムリン隊長は、しばらく言葉が言えない様子であった。
「……イスラエルが非常事態であることは分かっております。私も、いくらなんでもこのような折、私的な感情を持ち込もうとは思いません。私にも、責任ある者としてのプライドがございます」
彼はようやく、そう言った。
「女王様と、これからの成り行きについて話し合ってゆきます。ソロモン王、お忘れなく。シバはあなたの国の盟邦です」
「うむ、恩に着る、タムリン隊長」
そうして、話は終わった。


「貴様、ハダド様の心配をせんのか!?」
レゾンはネバトにそう怒鳴りつけた。ツェルアはまた驚いて、部屋の端に隠れてしまう。彼女の息子は特に何も驚くことなく、かといってネバトに味方する様子でもなく、埃の積もった床に絵を描いて遊んでいた。
ネバトはネバトで、冷静なものだ。彼らは、ラバに向かう道中のネバトの使いから、既に連絡と指示は貰っていた。お前たちもラバに先に行っていてくれ、と。
「焦るな。だからアンモン王女のもとに匿われているのはお前も知っているだろう?大丈夫だ、奴も自分を簡単に売るやつに命を預けるほどの馬鹿じゃない。ソロモンが打ち取れなかった、私たちも危険だ。だからひとまず、私たちはラバに向かってハヌン様に住まわせてもらうのだ。今は革命の駒が減るだけでも惨事」
「それよりも王宮に行き、ハダド様を助けるのが先決であろうが!ベナヤが帰らぬうちに!」
「だから焦るな。ベナヤがいないとは言っても兵隊が皆いなくなったわけではない。当然警戒は強化されているに決まっているだろうが。下手に私達が来たのがばれるだけでも、ハダドが内部に居るのが悟られるぞ。そしたら、私達よりはやくハダドを手にかけられるのはあいつらの方だ。奴も隙をうかがうと言っているし、ハダドを信じよう」
ハダドもそう言っていた。ソロモン達は警戒を強めるはずだし、下手に事を荒立てるよりは体が治り次第ひっそりと脱出したい、と。だがレゾンは納得がいかないようだった。
「黙れ、此れだから貧民は!高貴なお方を心配すると言う常識すら持ち合わせんのか!」
「おい、旅支度はできたか?」
ネバトは取りつく島がないレゾンを無視して、ツェルアと息子に語りかける。ツェルアは一人で歩くのも困難だろう。荷車に乗せて運ぶことになる。ネバトは震える彼女を半ば無理やり引っ張って寝せ、筵をかぶせた。何かに隠れると、この女はひとまず落ち着くのだ。息子も、ぴょんと荷車に乗る。
「お前のような軍人と、私たちが一緒に居ても不自然なだけだしな。お前は後から来い。お前と手下たちで王宮に行きたきゃ行け。最も愚策だと思うが……」
そう言い残し、ネバトはがらがらと荷車を曳いて歩み出した。「おい!」と言うレゾンの声を、完全に無視して。

二日経ったとき、アンモンの、ソロモンの義父から使いが届いた。大変なことになったね、と義理の息子を心配する内容とともに、有るアンモン人が送られてきた。ハヌンの敬語を行っている人物で、医術の心得もある人物らしい。
「ナアマのために、護衛をつけさせてほしい。彼の事は昔から知っているし、このようになってまた精神が不安定になるかもしれないから、彼がいるとあの子も安心できると思うのだ」
入用なものがあったら何でも言ってくれ、と言う言葉で手紙は締めくくられていた。ソロモンはその手紙をじっくり読んだ後「よろしい。それでは後宮の妻の元へ行ってくれ。謝礼は私からも出そう」と言った。
「ありがたき光栄です」
彼はぺこりと頭を下げ、さっさと後宮に行った。

ベナヤも、帰る道中エルサレムの事は聞いていたらしかった。伝書鳩から、現在地を知らせる手紙がひっきりなしに届いていた。
だがベナヤが帰るより先に、エルサレム王宮の門を、まさか、と言う人物が叩いた。
「頼もう、ソロモン王にお目通りを!」
そう言って急いで現れたのは、ティルスの王ヒラムだった。
ソロモンも、当然驚いた。「なぜ、いらしったので?」彼は謁見室も通さずに直接王宮の入口までヒラムを迎えに行って問いかけた。
「なぜですと?あなたと私の中で水臭い」ヒラムは眉をしかめる。「貴国に入った不届きものの話は聞きました。それがおそらく例のハダドであろうことも」
「しかし……なにも、ティルスからここまで、それに、こんなに早く……」
「フェニキア人の移動技術を舐めないでもらいたいものですな!ソロモン王、それに、例のレゾンも来ているとのことではないですか。我らの交易の邪魔をする不届きものに、そろそろ灸を据えてやりたいと常日頃思っていたところなのですよ」
ヒラム王はふん、と鼻を鳴らした。
「すでに兵も待機させてあります。ソロモン王、しばらく御厄介になりますぞ。貴方の鎮圧に、乗っからせていただきましょう」
「なるほど……たしかに、あなたはレゾンに随分損をさせられている身でしたな。いや、心強い」
ソロモンも、納得して片手を差し出した。
「あなたならば信用できる。ともにハダド達を捕えましょう」
「うむ、望むところ」
「迎賓館に、まだ部屋は余っておりますので……」早速、ソロモンはアヒシャルを呼んで部屋の準備をさせにかかる。その間、ソロモンとヒラムはひとまず謁見室で話し合った。

「ところで相談が。ハダドが反乱を起こしたとすると……どうもこの件、計算が合わないところがあるのです」
ソロモンはエイラットの反乱の事も含め、つぶさにそのことを語った。ふんふうむ、とヒラムも真面目に聞いた。
「なるほど……たしかに、レゾンも大悪党とは言えど所詮は賊。そこまで安定した値の供給などでき無かろう。どこかの国の王がひっそりとパトロンになっているかもしれない……何か、心当たりは?」
「実はあると言えば……あります」
ソロモンは、少し以前に心に引っかかった事を話した。即ち、アンモンからの朝貢品の車が、その日だけ不自然に大きかった事。
「なんと!?」ヒラムも驚いた。それはそうだ。アンモン王家はソロモンにとっても身内だ。しかし「もっとも、私としてもそのようなことで堂々と疑えないが……」とソロモンが言ったあたりで、ヒラムははっと顔色を変えた。
「まった。アンモン王は確か……?代替わりしていませんでしたな?まだ、ハヌンですよね?」
「ええ。そのはずですが……」
「……ソロモン王、よしんば白とも言えませんぞ」ヒラムは真面目な顔で言った。
「あなたはまだお若いから知らないかもしれませんが……少なくとも若い頃のあ奴は、気性は荒くプライドも相当高い奴でした。私も奴が王子だった頃に数度会ったきりですが……」
「なに!?」
ソロモンも驚く。彼はハヌンの元手数年働いていたものの、ハヌンのそんな面は知らなかった。
「結局奴もダビデ王に征服されましたが、ただの国家間の勝敗のみならず、ひょっとして何かダビデとトラブルを起こしたという可能性も……もしそうであるなら、奴のプライドの高い本性が、まだダビデへの敗北を完全に忘れさせていないとは言い切れない」
「……イスラエルの記録に、残っていないだろうか」ソロモンはふと思いついた。もっとも公的な記録は戦争してどっちが勝った、負けたというごく味気ないもので、そんな裏事情などはわからないが……。
「待てよ。確か、ザドクが……」
ザドクに以前聞いたことがある。かつてソロモンの教育係りだったナタンが、イスラエル王国の歴史書を個人的に作成していたと。なんでもナタンの師である預言者サムエルが書いていたものを、書き足していたらしい。
ナタンの作ったものなど見たくないと宮殿の書庫に置いておいたままだったが……ダビデと近しかったナタンなら、なにか知っているかもしれない。
ソロモンは急いでヒラム王を待たせて、書庫に行き、ナタンの歴史書を引っ張り出してきた。それを謁見室に広げて、読み込む。ほどなくして、有る一節にソロモンはたどり着いた。
そこには目を疑う内容が書かれていた。自分の知っているハヌンとは別人のような、気性の荒い嫌味な王の姿。一緒に呼んでいたヒラムも、愕然としつつ呆れていた。
弔問に来ただけのダビデの部下たちを勝手に疑って、恥ずかしい思いをさせ、その報復として征服されてしまった……と言う、何とも救いようのない愚か者がそこにいた。
かねてより、ソロモンは少しだけ疑問に思っていた。昔の自分はなぜ、自分にまがりなりにも優しくしてくれたハヌンに心開かなかったのだろう。今まで、それはアドニヤに裏切られた直後の心が人を信じることを封じさせたからだろう、と解釈していたが、どうもそれだけではないかもしれない。彼のこのような本性を、昔の自分は何処か、本能的にうっすら嗅ぎ取っていたのかもしれない。
「……恨んでいるかもしれませんな。イスラエルの事を……」
「ヒラム王。……頼みごとがあります。良いですかな?」
疑わしく思ったとて、ソロモンもハヌンとは身内の身だ。まだ疑惑の段階で下手に動いても、リスクの方が高い。できれば全くの他人であるヒラムの方から、調査にあたってほしい。
ヒラムも「お安い御用」と快諾した。
「……ちなみに、ソロモン王。アンモンから兵などは?」
「アンモンからはもともと軍隊をなくして、イスラエル軍を駐屯させておりますから。……ああ、でもまあ、妻のもとに一人男が来ましたね、護衛兼医者だとか……」
「……このタイミングで。怪しい」
「やはり、そう思われますね」
「理由をつけてやんわりと追い返した方がいいのでは?」
「それもいいが」ソロモンは言った。「今は、泳がせておきましょう。アンモンがもし黒であれば、余計に」
ソロモンはそう語りながら、まだナタンの歴史書を読んでいた。他にも見当たるものはないか、と。その時、ふと気が付いた。アンモンとの戦の項目の間に、挿入された話しに。

ラバの攻略線に、自らは出向かなかったダビデ王の話だった。
彼はある日、水浴びしていた美しい人妻、バテシバを見染め、彼女と契った。
彼女の妊娠を隠さんと、軍人であった彼女の夫ウリヤを、最前線に送って殺した。
ナタンは神の言葉をもってしてそれを叱責した。ダビデとバテシバの間に生まれた子は、彼らの罪の罰を受けたかのように、病気になった。ダビデの必死の懇願もかなわず、その子はすぐに死んだ。
やがてダビデとバテシバは、二人目の子を作った。その名は、ソロモンと名付けられた……。

勇ましい戦争の合間に放り込まれた、異彩を放つ生々しい話。自分の産まれる直前の話。
ソロモンの誕生に関するその章の最期、書くのを迷っていたかのように、ペンを置いた跡があった。しかしナタンは、それを断念したようだった。ナタンは、何を書こうと迷ったのだろう。おそらく……その子も呪われていた。そんな内容だろうか。
改めてみれば、何とも救いのない話だった。愚かな話。ハヌンにも負けぬ愚かさだ。
自分は、この時代に、このようにして生まれてきたのか。まさに、このハヌンの時代に。
何とも妙な巡り合わせだ。ソロモンはそう感じた。

ハヌンの連れてきた医者は、勿論ハダドの治療のためにハヌンが送って来たものであった、
だが、その医者も舌を巻いた。
「木の上から落ちて全身を追っておいて、これほど早く治るものですかね…?」
ハダドも全く同じ疑問を抱いていた。
あのベリアルと名乗る謎の人物は、そもそも自分を落としたのですらないのかもしれない。自分は落ちた時、落下音すらしなかったのだから。
奴は何者だ?
ただの存在ではない。ただ、自分かソロモンかのどちらかと言えば、おそらくやつはソロモンの味方だ。
「痛みます?ハダドさん」
心配そうに自分に声をかけてくるナアマ。そんな彼女の手を取って、ハダドは低い声で言った。
「いいえ。何も問題はありません」
「ハダドさん、もうじき、ベナヤが帰ってきますわ。ベナヤは……本当に強い軍人なのですよ」
ベナヤ、と言う男の名前も、何回か聞いた。一応大切なことは伏せている様子だったが、どうもナアマは彼と並々ならぬ仲らしい。
嘆かわしい!誇り高きアンモン王女が、イスラエル人の中でも平民と不倫の恋をする程度の存在に落ちぶれてしまうとは。ハダドはそう感じていた。だからこそ、彼の存在はそう言った意味でも邪魔であった。
ナアマは、もっと自分の味方になってもらわねば。
「ナアマ様。その男をずいぶん信頼なさっている様子」
「えっ?ええ……」ナアマはぎょっとしながら言った。
「なぜ、イスラエルの男などに?やつも、あなたの王国を滅ぼしたダビデに仕えていた身でありましょう」
静かな声色で、ハダドはそう言った。ナアマは返しに困っている様子で、どもっていた。だが、どもるということは少なくとも、自分にこう言われればすぐには言い返せない証拠である、とハダドは見た。
事実そうだった。ソロモンに言われでもすれば大声で啖呵を切って言い返していただろうが、ハダドに言われると、ナアマは何か迷うところがあった。
「彼は」それでも、彼女は言った。「私を、わかってくれたんです……私の苦しみを……」
「イスラエル人に、侵略者に、何がわかる者か!」ハダドはそう言いかえした。
「奴は甘い言葉は吐いても、結局はあなたやあなたと同じ境遇の異邦人たちを蹂躙した存在にすぎないと言うのに……その甘い言葉が何のためか、考えたこともないのですか?」
そう言ってハダドは、ナアマの腕を取った。そして、その手の甲に口づけする。
「あっ」と、ナアマの声
「ナアマ様……」
滑らかに、ハダドは腕のをさかのぼるように、キスを滑らせていった。ナアマはじっとしながら、それを受けつつ、戸惑っている様子だった。
だが、ハダドの唇が二の腕あたり前に来た時に、ナアマもようやく我を取り返したかのように、彼を跳ね返した。
「ごめんなさい、ハダドさん、でも私……ベナヤの事は、信じているのです……」
そうはいっても、明確な拒絶の意志というほどのものでないことは、ハダドが一番見抜いていた。
「私よりも?」
「いえ、それは、その……」
ナアマは言葉に詰まったが、「失礼いたします!」と、部屋を後にしてしまった。
肝心なところまではいけなかったが、でもまあ、幻滅されてしまった様子にも見えない。あと一押しだろう。
ナアマには、良き協力者になってもらわねば困る。自分の言うことを何でも聞いてもらわなければ……。

「……にゃあ」
急に、猫の鳴き声が聞こえた。振り向くと、先日の猫がまた部屋の中をじっと見ていあと。
ハダドも少しイラッとした。手で追い払おうとすると、猫はさっと気に飛び移り、見えなくなってしまう。
「二度と来るなよ……!」
ハダドが吐き捨てようとした、その時だった。

後宮の下にある庭。黄昏時の夕日を受けて、一人の女性が立っていた。
イスラエル人ではない。流れるような長い黒髪を、ターバンやスカーフで覆わず、風になびかせていた。
ハダドの国でも、そういった格好は下品なものだった。しかし彼女のたたずまいに、一切下品なものは見られず、その艶めく黒髪は、ただただ気品と美に輝いていた。
ハダドは、彼女の事を見たことがなかった、いや、厳密に言えば一度あるのだ。だがその時、彼女はスカーフで頭を覆っていた。だから気が付かなかった。自分があの日ソロモンの代わりに弓で射抜いたに弓でいた女性が、これほどきれいな黒髪をしていたことなど。
ハダドは夕暮れの光の中、窓の外から見えるその美しい黒髪の後姿にいつしか見とれていた。と、ちょうど次の瞬間だ。ポッポ、と鳴いて、ヤツガシラが飛んだ。
彼女はくるり、と振り返り、そのヤツガシラを指先へ止めたのだ。
その瞬間、彼女の姿を目にした時、ハダドは時が止まるかと思った。

自分にとって、女性とは、いつでも将来の復讐を果たすための物。
エジプトで娶った妻も、ナアマの事も。
だから女性を美しいと思ったことなどなかった。そのような余計な感情を持つことは、恥であるとすら思っていた。誇り高きエドムの復讐を色気ごときで忘れるほど、情けない人間ではないと思っていた。
だが、それもこの時までだった。
美しい。彼は、心の底から、彼女の事をそう思った。彼女の風貌も、長い黒髪も……彼女が首に飾っている見たこともない青緑の宝玉の輝きですら、全てがハダドの目を奪った。
ヤツガシラを掌に抱き、彼女がふわり、と優しく微笑んだ。そう、その時……そのただ一瞬だけ、復讐だけに心血を注いできたハダドの頭から、イスラエルの事も、エドムの事も消えた。
窓の外に見える、黄昏時の夕闇に包まれて、少しずつ消えていく、美しい女性。彼の意識には、ただ眼を通じて送られてくる彼女の映像以外はいる余地はなかった。
やがて日は落ち、彼女はすっかり見えなくなった。

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feat: Solomon 第七十話


後日になってからも、シャラフ王からとくに何かを言われることはなかった。タムリンはほっとしていた。だがある日、タムリンは王宮に召し出された。
また、大きな交易に行って来い、と言う命令であった。シバ王国国営隊商の誇りを持って。
概算してみると、前ほどではないものの、七年にはなろうかと言う旅路だった。タムリンは焦った。この貿易でもたらされる利益に、王だけではない、国民が皆期待しているだろう。引き下がるわけにはいかないし、隊長である自分が行かないわけにもいかない。だが、七年だ。七年も合わないうちに、彼女が……もしも、別の誰かの者になっていたら、と思うと、ぞっとした。七年もすれば結婚できる年齢にだって簡単になる。自分の視界の及ばないところで……。
「ヤツガシラ」の部下たちがせっせと交易の準備を整える期間中、タムリンはそのようなことをずっとぐるぐる考えながら、足しげくヒムヤリ邸に通った。
ヒムヤリは自分の態度に疑問を持っていたようだったが、今度の行商に不安を持っている、と彼が語ると、それに納得してくれたようだった。
「確かに、全く陛下も酷いものだ。帰って来てそうそう、また別の外国にやってしまうなんて。でも、不安なら君は一切感じる必要はなかろう。君がその大役にあずかるに相応しい器であることなど、誰の目から見ても明らかだ」
そのような友人の言葉を聞きつつ、彼はずっと、目の前の友人の娘の事を考えていた。彼女が自分の手土産に喜び、自分に話を乞いてくるたび、行商になどでたくない、この時間が終わるくらいなら、と感じた。
「おじさまと、もうすぐ会えなくなるのね」ビルキスはある日、残念そうに言った。
「つまらないわ……」
その言葉を聞いた時だった。タムリンはもう、我慢ができなくなった。
この少女と一緒に居たい、誰のものにもなる前に、自分のものにしたい。彼女だって、それを望んでいるのだ!
心が燃えたつのがわかった。もしもその場にヒムヤリがいなければ、衝動のまま抱きしめて口づけしていただろう。「ビルキス、わがままを言うものではない。彼は誇り高い仕事に行くのだ、応援しておやり」と横合いから口を挟んできた親友一人が、なんとか彼を踏みとどまらせた。
だが、彼の心はもう決まった。言おう。言わなければ始まらない。それを打ち明ける日は、もう決めていた。

タムリンが行商に旅立つ前に、ビルキスは十一歳の誕生日を迎えた。正確には、ヒムヤリが彼女を見つけてから十一年目の日だった。
タムリンはその日、早々に部下たちに仕事を任せると、ヒムヤリ邸に向かった。言わなくてはならないことがあった。
「やあ、わが兄弟よ!」ヒムヤリは普段と変わらず、タムリンを出迎えた。ビルキスも同様だった。
「ビルキス……十一歳、おめでとう」タムリンはかのjに笑いかけ、贈り物を渡した。外国の文書だった。入手に骨が折れる代物ではあったが、ビルキスのためなら安いものだった。
ビルキスは、何を貰うよりもそれに大喜びした。
身内の身で控えめに開かれた宴会もほどほどになってくると、タムリンは「……ヒムヤリ。話があるんだが、いいか」と、切り出した。
「何の話だ?」
「お前と二人だけで話したい」
ヒムヤリは眉をひそめたが、ビルキスに「お前はもう寝ておいで。夜も遅いから」と言った。ビルキスは不満そうだったが、それでも父の言葉に従った。
「なんだ?お前と私の中で、改まって」
タムリンは一呼吸おいて、切り出した。
「ビルキスを、私の妻に欲しい」
タムリンにとっては、その日は、その言葉を切り出すために来たようなものだった。
ぴくりとすくむ、ヒムヤリの顔。タムリンは必死になって畳み掛けた。
「もうじき私は旅立っていってしまう。だが、あの子は私と一緒に行くことを望んでいるのだ。あの子は商人になりたいのだ、私とともに、世界を見たいのだ。私は……私は、彼女の夢をかなえさせてやりたい。周りに何と反対されようとも、自分の妻を連れていく、と押し通すつもりだ、ヒムヤリ、私にビルキスをくれ!私はあの子に夢中になって惚れているのだ!そして彼女のことを父である君と同じほど愛している男も、彼女の望みをかなえてやれる男も、私しかおるまい!全霊をかけて君の娘を幸せにしよう、君も、私が信頼できる友であることは知っているはずだ。私になら安心して、娘を預けられるはずだ……」
だが、彼のその声を引き冊音が、その場に会わられた。それは、タムリンが全く予想していない音だった。ヒムヤリが、机をバンと叩いたのだ。グラスが倒れ、中の酒がこぼれた。だがそれが絨毯に垂れようと、ヒムヤリの目には入らないようだった。
ヒムヤリの麗しい金色の目は、タムリンしか見据えていなかった。それも、何十年来もの友である自分が見たこともない程、激しい、憎悪に燃えていた。
その場に立っている男は、ヒムヤリではないのではないか、とタムリンが錯覚したほどだった。
「ふざけるな……ふざけるなよ!」
自分の知るヒムヤリと言う男は、死んでしまったのではないか。タムリンはそう感じた。彼はタムリンの事がに激怒し、そして。豹変した。
「なにが結婚だ……頭がおかしいのではないか!何が惚れているだ!いい年をして、三十以上も年下の子供に向かって、変態野郎!」
「ち、違う!」穏やかなヒムヤリらしくもない程汚い言葉を使って自分を罵ってくるその人物に向かって、タムリンは叫んだ。
「本気だ、本当にビルキスに焦がれているのだ!彼女が大人になろうとも、老婆に成ろうとも、この気持ちは変わらぬだろうと言うほどに!」
「煩いわ、貴様の言い分など誰が信じるか!」
ヒムヤリはタムリンに掴みかかった。化け物のような形相で。彼の優美な美しさは、怒りのあまりすべて枯れてしまったようだった。
彼は壁際にタムリンを押し付けた。そして首を握りしめた。彼が呼吸を失いそうになって四苦八苦するのを楽しそうに眺めながら、ヒムヤリは言った。
「タムリン、知っているか?ビルキスの脚はな、人間じゃないんだ」
「えっ?」
その唐突な言葉に目を白黒させるタムリンを見下しながら、ヒムヤリは一方的に言葉をつづけた。
「ビルキスの脚はな。私が彼女と初めて会った時の、あの山羊のような、ろばのような生き物。あれの脚をしているんだよ。彼女が私に、愛のあかしに残してくれたんだろう。人ならざる自分の面影を」
そんなことは、知らなかった。
だが、確かに言われてみればビルキスはいつも、足先を隠していた。部屋にいるときは床に引きずるような丈の着物を着て、外に出た時ですらそうだった。自分が邪魔だろうと言っても、本当に地面すれすれの丈にしか、短くしようとしなかった。
「分かるかい?彼女も実態はあるが、人間ではない、精霊の血を引いているのさ。精霊は、めったな奴など愛さないよ。私のように、精霊に愛されるだけの男でなくては、ビルキスとは釣りあわん。君でも駄目さ、陛下でも……このシバ王国の民は皆、駄目さ!あの静けき満月の夜、彼女が認めたのは誰でもなく、私だったのだから!」
彼は意識がもうろうとしたタムリンを掴み、そして窓の外に叩きだした。タムリンは、色紙でしたたか頭を打った。幸い大怪我ではなかった。
自分を見下ろす友だった男の顔を見て、タムリンは悟った。ああ。あのアル・ヒムヤリは、もう消えたのだ。この世には、いないのだ。
「お前との友情も、これっきりだ、二度とうちの敷居はまたがせん、ビルキスにかかわりでもしたら、命があると思うなよ!」
大きな音を立てて、扉が閉まった。タムリンの意識も、とんだ世に思えた。

それからどうやって帰ったのかの記憶がない。ただ夢でなかったのは確かだった。ヒムヤリ邸に行こうとするなり、召使や部下たちが必死で止めた。ヒムヤリが自分たちの絶交を話したらしい。此れでは実際に家に行っても無駄だろうと思えた。手紙も送ったが、全くなしのつぶてであった。
無二の友情を失ってしまったことも、ビルキスともう会えなくなってしまったことも、彼の心を酷く打ちのめした。だが彼がどうなろうとなるまいと、交易の予定は覆せない。出発までの数日間嘆き苦しんだ後、出発の朝に、タムリンも開き直った。
忘れるしかあるまい。大丈夫だ。新しい土地での商売が、自分の心を満たしてくれる。自分は妻など得なくていいと決意した、根っからの行商人なのだから……。

旅先で、何通貨手紙を受け取った。
だが、ヒムヤリの事も、ビルキスのことも、彼は全く知れないままだった。
彼の憂鬱によらず、貿易はまたしても成功をおさめた。あっという間の七年だった。その際には、彼もようやく、心の痛みから立ち直らんとしていた。
彼らが帰路についているなか、シバ王国から一通の知らせが舞い込んだ。国王が変わった、と。シャラフ王ももう年だ。そんな時分だろうと思っていた。速達はただそれだけ、後、新しい王に挨拶するようにと。

タムリンは無事、七年ぶりのシバ王国に帰った。そして、七年前と変わらぬ王宮に入り、王に謁見を願った。王が参り、彼は頭を深く伏せた。
その瞬間、タムリンはその場が七年前とは全く違う場所であると気が付いた。ふわりと香る香の匂いは、シャラフ王のものなどとは似根も似つかなかった。明かりが多く点されたわけでもないのに、その場が暁の光に照らされたかのようだった。
そして、彼を迎えたのは、信じられない声だった。玉を転がすような、美しい女性の声。そして……その声が、自分の事を、このように呼んだ。
「長旅、ご苦労だったわ……タムリンおじさま」
タムリンは顔を上げた。そこにいたのは、ビルキスだった。それも、自分が知っている少女と同じであって違う存在。暁の娘、彼女に何よりもふさわしいその称号を手にし、王の身が被ることを許される太陽神をあしらった宝冠を頭にいだたいた、シバの女王、ビルキスだった。

タムリンは、女王の謁見室に通された。扉が閉まり、部屋には彼女と自分の二人だけになった。
彼女は18になっているはずだった。七年前自分が危惧した想像など遥かに超えて、彼女はその神秘的な美しさを増していた。
「なぜ」タムリンが震える声で言った。「何故、君が女王に……」
「なるようになったのよ。私は女王になるべき存在だった、それだけよ」ビルキスはそう言って、この七年に自分に何があったのかをはぐらかした」
「お父様は死んだわ。とっくの昔にね」
「そうか……」
タムリンも、さすがに親友の死には心が痛んだ。だがその気持ちに浸ってもいられなかったのは、ビルキスがこのように告げたからであった。
「おじさま。私はおじさまの事も、殺さないまでも、今の座から降りてもらうつもりでいるわよ」
「な」さすがにタムリンの声も震えた。「殺す……君は、父を?い、いや、それよりも、何故私にそんな仕打ちを!?君は私に、良く懐いてくれていたじゃないか!今回の行商でも、大きな失敗をしたつもりもない!」
「おじさまの後をつげる人も、『ヤツガシラ』には揃ってきているでしょう?それに……おじさまが国営隊商の隊長である以上、今までと同じように王宮の役人待遇じゃないの。私はそれが嫌なの」
「だから、なんで……」
「おじさまが気持ち悪いから」
まるで鳥が歌うように繊細で透き通った声音で、その残酷な言葉は吐かれた。タムリンの心の中に、この7年間も火種としてくすぶり続けていた、あの人生で初めての燃えるような恋を、タムリンはその少女相手に全否定された。
「なんで、なんで、そんなことを……」
「おじさまは、私が頭がいいのを褒めてくれているんだと思っていたわ。お父様が見て下さらないところをほめてくれているんだと。私が男の子でも、同じように褒めてくれるんだと思っていたの。だから大好きだったのに……でもおじさまは私の事を、自分の花嫁になる女として見てたのね。私が嬉しいと思った言葉もみんな、ただご機嫌を取りたくて、言っていただけなのよね……」
その言葉をを聞いて、タムリンはウッと言葉に詰まった。反論のできない事であった。タムリンが何も言わない様子を見届けて、ビルキスは続けた。
「はっきり言うわ。怖いの。気持ち悪いの。私の事をそう思っていた人が、そばにいるなんて。安心して。そこまで酷くはしないわ。おじさまがシバ王国に利益をもたらしてくれたことも、下心はあったけれど一応私に色々な事を教えてくれたのも、全部本当ではあるもの。収入も地位も、今より下げる気はないわ。おじさまのために新しくポストを作るわよ。でも、もう二度と私に会えるとは思わない事ね……」
その言葉を聞いたとき、いや、聞く直前だったかもしれない。タムリンの体は、反射的に動き、腰に刺していた護身用の剣を抜いた。
嫌だ。嫌だ、ビルキスと離れたくない。もう会えないと思っていたのに、また現れた。前よりもずっと美しくなって、自分の前に現れた。ビルキスと、ビルキスといられるのなら、何もいらない、と、そう感じた。
たった一瞬の事だった。タムリンは銀の刃で自分の衣服、腰下部分を切り裂き、そしてその中にあるものに刃を突き立てた。
ぼとり、と音がして、肉の塊が床に落ちた。タムリンの性器であったもの、彼が衝動的に断ち切ったものが。
タムリンの下半身からは血が大量に噴出した。其れにもかまわず、彼は荒い息で言った。
「これでいいか、ビルキス」
目の前で起こった光景に、さしものビルキスも金の目を丸く見開いて戸惑っているところに、息も絶え絶えにタムリンは続ける。
「これで、安心だろう。もう、いくら君に手を出したくとも、私は出せない。……これで足りないのなら、他に何を失ってもいい。ただ、そばに居させてくれ。君の側に……」
タムリンは血みどろになりつつ、18歳の少女の前にかしずいた。ビルキスはそれをじっと見ているうちに。くすりと笑った。そしてタムリンに歩み寄り、彼の目をじっとのぞきこんだ。
「いいわ、おじさま。許してあげる……」
彼女はパンパンと手を鳴らした。タムリンの知らない、隙のない顔立ちの女性が現れた。
「サラヒルさん。お客人が大けがをしてしまったの。至急、お医者をお呼びして?」
「かしこまりました」
サラヒルと呼ばれたその女性は、異常な光景にも眉一つ動かすことなく、あどけない女王の命令に従った。血を失い、頭がもうろうとするタムリンに、ビルキスは薄く笑いながら言った。
「シバはこれから、貿易大国としてもっと発展させるつもり。おじさまみたいなベテランの商人が側にいてくれたら、とても心強いわ……シバ王国のために、どうぞこれからも私と一緒に働いてね。タムリンおじさま」

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feat: Solomon 第六十九話

ヒムヤリの奇談に関しては、正直な話タムリンも半信半疑だった。だが、ビルキスと言うその娘が生まれているのは覆しようにない事実だった。

帰国して以来、タムリンはしばらく足しげくヒムヤリ邸に通った。親友との交流の時間を持ちたかったのもそうだが、実の所ビルキスが少し気になったのだ。とはいえ、その時は親友の娘として自分も娘のようにかわいがりたい、という気持ち程度でしかなかった。
ヒムヤリも歓迎してくれたし、なによりビルキスは明るくて、人見知りをしない性格の少女だった。その割に、ヒムヤリは彼女をろくに外に出さずに箱入り暮らしをさせているようだった。
「君ならわかるだろう、私の心配が」ヒムヤリはため息をつきながら語った。「今はまだ子供だが、それでもあの陛下に目を付けられないとは限らん。私は娘がそんなことになることだけは避けたい」
彼の父親としての気持ちも分からなくはなかったが、ビルキス本人はそれにあまり満足していないようでタムリンが来るたび嬉しそうな顔推したのだ。よっぽど、他人が珍しかったのだろう。
ある日、タムリンはそうだ、と思い立った。彼女に手土産を持っていてあげよう。
女の子なら宝石を喜ぶだろう。東方の国から持ち帰ったルビーの首飾りを上げよう。彼はそのように考え、それをもってヒムヤリ邸に行った。
「こんにちは、タムリンおじさま!」彼を出迎えたのは、まさにそのビルキスだった。彼女はヒムヤリとタムリンが兄弟同然の中と知ってから、彼の事をそう呼んだ。
「こんいちは」タムリンは優しく微笑みかけ、彼女にそれを手渡した。彼女はルビーを見るのは初めてのようで、父親そっくりの金色の目を丸く見開いていた。
「気に入ってもらえたかな?」タムリンは笑う。
「うん……ねえ、おじさま、これ、なに?」
「ルビーだよ。私の行った東方で、良い取引の品になった」
「そう……」
しげしげとそのルビーの赤い色を眺めている彼女を、タムリンが微笑ましく思った時だった。
「ねえ、おじさま。これ、どこでとれるの?」
「どこで?」タムリンは言う。「私たちが主に仕入れていたのはインドだが……ああ、でも、インドを知らないか?」
「そうね、そこに関しても後で聞かせて……ねえ、これがそこで取れるってことは、どんなところでこれはよく売れたの?どのくらいで売れるの?どういったものと交換できたの?」
「な、なんでそんなことを聞くんだ?」タムリンは思ってもみなかった矢継ぎ早の質問に面食らって、質問を返した。彼女が魅入られているのは、てっきりルビーの赤い輝きだけだと思っていたのに。
「だって、そう考えちゃうんだもの……」
「小さな女の子は、宝石のキラキラしているところが好きだと思っていたんだがね……」タムリンが素直にそう言うと、ビルキスは少し考え込んでから言った。
「おじさまの言う通りよ。私、この宝石、すっごく綺麗で、大好きになったわ。だから何でも知りたいの。キラキラしてるって事の他にも、この宝石の事、何でも……」
当時は、シバの性別観念もオリエントの保守的ない男尊女卑の風潮と何ら変わりはなかった。当時は、女性もあまり堂々とせず、賢くもならず、家の事をやっているのが素晴らしいことだとされていた。イスラエルと同じように。口数が多い女はみっともない、とみなされるのが常だった。
だから、その質問責めが余り可愛げのあるものとしてタムリンの耳に届いたはずはないのだ。事実彼の心の中にそんな気持ちが完全になかったとは言いきれない。容姿に似合わず、可愛くない事を言う娘だ、という気持ちは確かに少々は会った。だが、そんな反感など押さえつけてしまうものがあった。自分を期待したまなざしで見つめてくる、幼いビルキスの美貌の中には。
タムリンは、自分の娘ほどのこの少女の瞳に、釘付けになった。そのようなことを根掘り葉掘り聞くのは、余り娘のマナーとしてよろしくないのではないか、と説教することは簡単だし、そうするべきだという当時のシバなりの倫理観もあった。
だが、きっとそれを言ったら、がっかりしてこの娘の瞳は曇ってしまう。太陽が雲にかげるように。そんなのは嫌だ、どうしても嫌だ。それよりも自分が質問に全部答えてあげたら、彼女はきっと笑ってくれる。今より輝かしく、美しい表情を自分に見せてくれるだろう……その一瞬のためなら、彼女をはしたない女性にしてしまう一助を担うことなど、なんでもないかのように思えた。
タムリンは一つ一つ、彼女の質問に答えた。そして、ああ、自分の判断は正しかった、と思えた。彼女は本当に、嬉しそうにしていた。そしてその表情が、本当に……王宮で女たちとごろごろしているだけの愚昧な王より、何千、何万倍も暁のこと言われるにふさわしく輝いていると感じた。これほど美しい女性を、タムリンは、見たことがなかった。

「また、何か持ってこようか」帰り際、タムリンは聞いた。
「文字を読んでみたいわ。何かそう言うの、ないの?」
「あるとも。楽しみに待っていてくれよ」
彼女は宝石より、着物より、そんな小難しいものを選んだ。だがそれがなんだというのだ。彼女に喜んでもらえるなら何でもあげたい。タムリンはその時、はっきり、そう思っていたのだ。

タムリンの貿易がシバにもたらした利益は大変大きく、タムリンはその功績をたたえられて、彼の率いる行商隊「ヤツガシラ」が丸ごと国営となった。彼も、役人並みの待遇を受ける身となり、羽振りがぐんとよくなった。だがそんな彼の心を嬉しさで満たすのは、王に表象されたことよりも、やはりビルキスとの出会いだった。
彼が何かを持っていくたびに、ビルキスは喜んだ。そして、彼の持ってくる知識をなんでもかんでも吸収した。彼女は驚くほど呑み込みが早かったのだ。彼女は尋常ではなく頭がいいのだろう。そのことははっきりとわかった。
彼女は自分の話す国々の経済事情にも、貿易の話にも、交易品に関することにも、外国語にも、計算にも、なんにでも興味を示し、注意深く学んだ。タムリンもベテランの行商人だ。いくらでも彼女の望みに答えることはできた。
下手に頭がいい女はあまり歓迎されない(下手に、というのは、例えば男を立て、子を育て。家を守るのに必要な賢母の賢さは、無論当時のシバでも女性に求められていた。だが、ビルキスの興味の向いている賢さがそのたぐいでないことなどは簡単に分かることだった。彼女は一回も、そのような類の事は質問してこなかった)ことは明白であったが、そんなことよりもタムリンは、ビルキスの笑顔が見たかった。ヒムヤリも煩くはいってこず、かえって娘が楽しげにしていることを喜んでいたものだから、彼は思う存分、ビルキスの欲求をかなえてあげた。
「こんな本が読めるのか、すごいじゃないか」
「外国語をこんなに早く覚えるなんて」
「こんなに計算が早いなんて。我々顔負けだよ」
彼はビルキスが何かをするたび、手放しでそう称賛した。まぎれもなく真実であった。若い頃の自分よりも、彼女は何倍も速くあらゆることを理解してしまうかのようであった。しかしそれにも勝って、やはり、そう褒められて心底嬉しそうに輝く彼女の表情が、眩しかったのだ。
「嬉しい!ありがとう、おじさま」
そう言われるたびに、この時間が永遠に続けばいい、とすら、タムリンは思ったものだ。

ヒムヤリが所要で数日間マーリブを開けている日の事だった。あの子が寂しがるといけないから、お前がたまに行って相手をしてやってくれ、とヒムヤリはタムリンに頼み込み、タムリンも喜んで了承した。
その時、ビルキスは言ったのだ。
「ねえ、おじさま。私、外に出てみたいわ」
タムリンもそれを聞いて、少し躊躇した。ヒムヤリが彼女を外に出させたがっていないのは、重々承知の上だったからだ。だが、ビルキスはビルキスで、本気らしかった。
「見たいんだもの……色々なものを。おじさまから聞いたり、本で読んだりするだけじゃなくて……」
彼女の表情が曇った。それは、タムリンが何より恐れていることだった。
「いいとも、行こう」次の瞬間。タムリンは無意識的にそう言っていた。「本当!?」ビルキスの顔がパッと明るくなた。ああ、やはりこの瞬間のためなら、自分は何でもできる。タムリンはそう思った。

初めて見るマーリブの都は、彼女にとって本当に珍しいモノずくめらしかった。彼女はまず市場に行きたい、と言いだし、並んでいる商品一つ一つを面白がってみていた。市場は「ヤツガシラ」始め交易隊の成功が重なって、華やかににぎわっていた。台所に置かれている様子しか見たことの無い食材が、市場では大量にくくられつるされていることすら、彼女の好奇心をくすぐったらしく、彼女はいつにも勝ってタムリンを質問攻めにした。
「ねえおじさま、なんであの壺は他より数段高いのかしら?もしかすると、似ているようだけど舶来品?」
「そうだとも、良く分かったね。中国の品だよ、あれは……」
「ねえ、おじさま!あの織物の図柄、さっきの店と全然違うわ。ひょっとしておじさまから聞いたアフリカの文様って、あれ?でもちょっと色遣いが違うようだけど……」
「いや、アフリカの文様であっている。アフリカと言っても相当に広いからね。私の教えたのはスーダンの文様だが、あれはおそらく……」
ベテランの商人であるタムリンにとって、勿論市場で何も知らないことはなかった。タムリンがどんな複雑な質問にも答え、ビルキスは「おじさま、なんでも知ってるのね」とにっこりと笑った。

マーリブの市場も、畑も、食堂も、何もかも彼女の気に入ったようだった。
「こんな面白いものを見せてくれないなんて、お父様は意地悪だわ」ビルキスは日が暮れるまでに、最後に行こうとタムリンが言ったアルマカ神殿に向かう道中、そうぼやいた。
お父上は君の事を心配しているのだよ、そんな声が喉まで出かけた。だが、代わりに出てきた言葉は、それとは違った。
「では、私は意地悪じゃないのかい、ビルキス?」
ビルキスは目をぱちりと瞬かせて「ええ」と言った。タムリンは流石に、自分の発言を反省した。友だって考えなしの事ではないのに、自分はまた、彼女に気に入られたいという気持ちの方が先に出てしまった。
タムリンとて頭の悪い男ではなかった。自分の心に湧くこの感情が、友の娘を自分の娘のようにかわいがる感情としては度を越しすぎていることくらいは理解していた。それに歯止めをかけねばなるまい……と考えているうちに、彼らは荘厳なアルマカ神殿にたどりついた。
王の趣味を反映して、神殿は華やかではあったが、天井にゴテゴテした華美な装飾が、悪趣味とも言えた。貧しいものは内陣まではいることを許可されてはいなかったが、タムリンは役人待遇で、さっさとアルマカの本尊たる偶像が配置されている中まで行く。
「ビルキス、お祈り」タムリンは言った。「私たちを見守ってくださる太陽神。お隣にいらっしゃるのが、彼の妻たる月の女神様だ」
ビルキスは、その偶像の事もじっと見つめていた。しかし、タムリンはその目にハッとした。それは神に対する畏敬ではなかった。目の前の彫像の美術的な技巧、彼女が心を惹かれているのはそれだと分かった。彼女にとって、自分の目の前にいるのは、あくまで立派な彫像である、神の現身ではないのだと。
「ビルキス」タムリンはもう一度、言い聞かせるように言った。夕方時で、祈りに来ている貴族たちで内陣もそこそこにごった返していた。「あれが、神様だよ」
ビルキスは、なおも考え込んでいる様子だった。その表情は、タムリンを不安にさせた、曇りとも、輝きとも違う顔。喜んでくれないのだろうか?ビルキスは……。
そう思っていた時だった。神殿の護衛兵が、大慌てで広間中に響き渡るように言った
「シャラフ陛下のおなり!」
それは、シバ王国の王の名前であった。貴族たちは慌てて忠臣を開ける。たちまちのうちに扉が開き、室内だという荷に、偉そうに籠に載ったシャラフが現れた。もっとも、偉そうにしているというよりは、年な上にぶくぶく太っているので体力が衰え、歩くことも億劫なのが理由であることは、ヒムヤリもタムリンも知っていた。
シャラフは太陽神と月神の前に腰を下ろし、お付きの神官が唱える祈りの文句を聞きながら、手持無沙汰にしいていた。王たるもの神に祈りをささげぬわけにはいくまいが、彼自身そんなことをするのならば遊んでいたいのが本音なのだろう。貴族たちも、何人かそそくさと帰っていってしまった。
そしてある瞬間、タムリンはどきり、とした。いや、どきり、という言葉を使うには、その感覚は軽すぎるかもしれない。心臓が破裂するかと言うほど、一瞬大きく鼓動したのだ。
シャラフの目が、こちらを向いた。いや、自分ではない。正確にはビルキスの方を……。
反射的に、タムリンは自分の外套の裾で、不自然にならない程度にビルキスを覆った。「帰るよ。ビルキス」彼は小さく、そう囁いた。ビルキスは釈然としていない様子だったが、タムリンは一刻も早くここから立ち去らねば、と言う思いに満たされていた。シャラフも祈りの最中何かを言い出すわけにはいかなかったのだろう。特に呼び止められることはなかった。

「楽しかったわ。ありがとう、おじさま」
帰路につきながら、ビルキスはそう話した。
「商人って、本当に何でも知っているのね……」
「まあ……知識が多くなくては、到底出きん商売だからね」
「ねえ、おじさま。私も、おじさまみたいな商人になりたい」
その発言は、非常に非現実的な望みであった。
女は隊商は入れない。それが、ルールだ。タムリンの母やおばたちが孤独に苦しんでいたのも、夫の商売についていくわけにはいかなかったからだ。
だが、タムリンは、こう言わざるを得なかった。
「ああ、きっとなれるんだろうね。私顔負けの商人になるだろうな」
ビルキスはようやく、神殿では見せてくれなかった笑顔を見せた。しかも、それはタムリンの偽らざる本音だった。この子が商人になれば。隊商で、自分と共に世界各地をとび回る存在になれば。そのような望みが、彼の心をその時、満たしていた。
ヒムヤリ邸につき、タムリンはビルキスと別れた。しかし別れてしばらくしてからも、彼女の笑顔が心に焼きついたままだ。
友がビルキスを王の目から隠したがるのが、わかった。あの死んでしまいそうな不快感、あれを彼も感じているなら、当然だ。
ビルキスが彼に見初められたのではないか、と、そう思うだけで、鳥肌が立った。
しかし、何も気にするべきはシャラフだけではない。はっきりとタムリンはそう思った。
今はまだ未熟な子供なのに、それなのに、ビルキスは美しいのだ。世界を飛び回った自分が、見たこともないと思うほど。その可憐な笑顔を、ずっと見ていたいと望むほど。
彼女は、これからどんどん大人になって、さらに美しさを増していくのだ。今でも美しいのに、それ以上に……その時、どれほどの男が彼女に魅入られるのだろう。彼女を……女として求めるのだろう。
嫌だ。タムリンは心の底から思った。彼女を渡したくない、誰にも、渡したくない。彼女の美しさが、他の誰かのものになるなど耐えられない。
自分より30以上も年下の少女に、もはやどうしようもないほどタムリンは恋い焦がれ、欲情を覚えていた。
彼女を妻にしたい、彼女をずっとそばに置きたい。シバ王国でも、外国に行くときも、ずっと彼女と共にありたい、まだ、彼女がだれの者にもなり得ないうちに……。タムリンの心の中に、言いようのない焦りと不安が湧いてきた。

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feat: Solomon 第六十八話


十時ごろ、王宮の方から迎えが来た、扉の向こうから聞こえたのは、ザドクの声であった。
ソロモンは内側から状を開ける。イスラエルの重臣たち、シバの人々、どうやらみんな怪我はないようであった。
「エルサレムで大きな混乱が起きている様子はございません。ひとまず、王宮にお戻りいただけるかと」
「うむ、苦労を掛けたな」
サラヒル女史が歩み出てきてソロモンに一礼する。
「女王陛下は……」
「血は止まったが、傷口はふさがりきっていない。今はお休みされているところだ」
「御手当てしてくださったのですか……医術もご存じなのですね、さすが英知の王ですわ」サラヒルはシバ語でそう話し、言う。
「我々どもでお引き取りしましょう。寝台の用意ができております故……」
「頼む。それと、この塗り薬を塗って差し上げてもらえるか。不足した時のため、のちほど調合法も伝えさせていただく」
「かしこまりました。ありがとうございます」
サラヒルはスタスタ遠くの方に進み、どこにいるとも聞かされていないのにビルキスのいる部屋にたどりついて、彼女を起こしてしまった。「お迎えに上がりました」と言われたビルキスもうとうとしながら目覚める。そして、ソロモンに礼を述べると、サラヒルの用意した馬車に乗って迎賓館の方に帰っていった。
「陛下、陛下もお戻りになり、何はともあれご休息を……ベナヤもあと三日もあれば帰るでしょう」
「うむ……」
ソロモンはその際、シバ人の中でタムリン隊長だけが帰っていないことに気が付いた。
隊長は難しい顔で、ソロモンの方を見ていた。
「タムリン隊長、先夜はご苦労だった。我々イスラエルの内紛に巻き込んでしまい、大変に申し訳ない」ソロモンはシバ語で、彼に向かって言う。
「いいえ、あれしきのこと……何でもございません。行商人は命の危険と紙一重。若いときは、鳴らしたものです」
彼の押さえきれない不快感は、先夜イスラエル人の代わりに命の危機にさらされたことではないらしかった。
「タムリン隊長」ソロモンは変わらずにシバ語で問いかける。シバ語で会話すれば、周囲の高官たちには何を言っているか分からないからだ。
「伺いたいことがある。貴方達の午後の祈りが終わり次第、私の部屋に来てもらえないか」
隊長は、先ほどまでシバ語で語りかけられてもヘブライ語で返していたのだが、その時ばかりはソロモンの意図を察したのだろう。「承知しました」と、シバ語で返答してきた。

シバ人の崇める神、太陽が傾き始めたころ、タムリンは約束通りソロモンの私室に来た。謁見室ではなく、私室の方だ。ソロモンも、先ほどまで仮眠をとっていた。昨日は結局、一晩中床で寝てしまって気が付いてみると体が痛かった。
恭しくタムリンは挨拶する。ソロモンは一応、護衛兵に「内密の話でな。だれも近づけんように」と言った。最も会話は全てシバ語で行う気だったから、聞かれても相手がシバ人でない限り大丈夫だ。
タムリンはソロモンの私室にある椅子に、静かに座った。
「女王陛下の容体は?」
「もう落ち着いていらしっています。痛みもほとんどないようで……ソロモン王。貴方の薬の効き目は凄まじいですな」
「それは何より……」ソロモンは部屋においてあったレモン水を、タムリンにも勧めたが彼は拒否した。
「なんのご用でしょう?」
「うむ。シバの言い伝えについて一つ伺いたいことがな……本当は女王陛下に聞きたいところだったが、あれでは聞くに聞けまい」
それは、ただの言い訳であった。此れから言うことを彼女本人に聞いてしまえば、怪しまれるだろう。
「お宅の国には、精霊の伝説があるとか」
「はい」
「シバの伝承では、精霊とは……どのような姿をしているのだ?」
「どのような、とは?」
タムリンがピクリと眉をひそめて言いかえす。ソロモンは言葉を濁らせつつ、ぼそぼそと言った。
「ああ……そのだな、つまり、不定形なのかとか、動物の形をしているのかとか……」
タムリンの太い眉が、さらに動いたような気がした。
「動物、と仰いますと?」
「うーむ、例えば……」ソロモンも、無意識的にそれが出てしまった。「ロバ、あるいは山羊……」
その言葉を言ってしまった瞬間だった、タムリンはカッと形相を替え、椅子から立ち上がった。ソロモンもぎょっとした。このような反応が来ることは、予想だにしていなかった。
「あれを見たのか、ソロモン王!」
タムリンの口から、他国の王を敬う恭しい言葉はすでに消えていた。タムリンの目は、明らかに焦りに燃えていた。彫の深い瞼の中にはいったその老人の目は、色は濃かれど、確かにビルキスの目と似たような色合いをしており、典型的なシバ人の瞳がそれであることを物語っていた。
「あ、あれとは……」
「ビルキス様の脚についてだ!ソロモン、お前は、それを見たのか!」
しまった、とソロモンが思った時にはもう遅かった。タムリン大著はシバ王国の中でも女王に信頼荒れた重臣と聞く、彼女の秘密を知っていようとおかしくはないだろう。
昨晩見事な剣術戦を披露した腕に相応しく、老人とは思えないほどその腕の力は強固だった。ソロモンはなるべく声を落ち着かせて「……ああ、見たとも、見たから聞いているのだ」と言った。
「あらぬ誤解はしないでいただきたい。あくまで偶然の話だ。彼女が寝ている間、裾から蹄が見えていて、知ってしまったことだ」
「……そうでしたか」
タムリンはそれを聞き、ひとまずは落ち着いたようで、「取り乱して申し訳ありませんでした……」と聞いた。
「精霊がどんな姿をしているか、というお話しでしたな。精霊は基本的には、形はなく、知恵もなく、寿命もないもの、と言われております。ただ気に入った人間を心にとめた際、美しい動物の姿や、あるいは人間の姿に化け、人間に会いに行くと言われているのです。ですから、不定形と言う言い方が正しいでしょう」
「なるほど」ソロモンは言う。
「ビルキス女王は……精霊なのか?」
「これはこれは……イスラエル人は自らの宗教に誇りを持つと聞きます。他国の宗教概念にご関心を持たれるなど……」
「私はこの世の真理を、可能な限り知りたいまでのこと」ソロモンは言う。「あなたのおっしゃるイスラエル人的な宗教者として言うのなら、神がこの世の全てをおつくりになったのだ。シバ王国も、精霊すらも」
「……分かりました。お話しいたしましょう。水を拝借」
タムリンは、ようやくレモン水の御相伴にあずかった。髭をぬらしながらぐいとそれを飲み干すと、タムリンは言う。
「その前に一つ。ビルキス女王は……いいえ、ビルキスは、女王になる前から、私が知っていた娘です」
「なに」と、ソロモン。「あなた方はそれほどかかわりが深かったので?」
「ええ。ビルキスは……私の無二の親友、そいつの一人娘でした。そして母は……母は、わかりません。けれども、あいつがそう言ったのですから、精霊であったのでしょう。あいつは私に、嘘をつくことだけはありませんでした」


タムリンと、その親友ことアル・ヒムヤリの若いころ、シバ王国は、本当に砂漠の果てのつまらぬ小国でしかなかった、と言う。元はといえば、砂漠の略奪隊が作った拠点がシバ王国の原型だと言う。それだけに国民も、そんなに国に誇りを持っていなかった。略奪者であったころの血の名残だろうか、長旅する技術だけはあり、当時から細々とした行商が国の生業であった。
王がまた、代々よろしくなかった。身分にかまけて国の金を私欲のために使う、その私欲と言うのも酒に女にぜいたく品、と言った。駄目な君主の典型であった。
そのようなどうしようもなく腐敗していたシバ王国において、アル・ヒムヤリは心底国を憂い多いる優秀な若者であった。彼はその優秀さを活かしてとんとん拍子に大臣になり、政治に興味のない国王を献身的にサポートしていた。
アル・ヒムヤリについて語るべきところはそれだけでは無い。彼は、本当に美しかった。男のタムリンが見ても納得するほど、ほれぼれする美貌の持ち主。ひときわ輝くその金の瞳で見つめられれば、どんな娘もヒムヤリのとりこになるだろう、と当時持て囃されていた。
正直に言えば、王がそんな彼の事を内心快く思っていなかったことは知っている。好色な王には、自分ではなく自分の大臣の方が娘たちに色目を使われることは断じて面白くなかろう。そうでなくても、美男子は男に嫉妬されやすいものだ。空威張りした力でしか女を自由にさせられないような、本来は魅力のない男にほど。まあ、その程度の理由で左遷させるには惜しいほどのヒムヤリの手腕が、彼を大臣の座に居続けさせてもいたのだろう。
だが、そんなヒムヤリだが、当の彼は結婚などしようともしなかった。「私のような未熟者にはまだ早い」と言って、その美貌を使って浮名を流すこともなかった。その節制に満ちた態度がまた女たち、とくに節制も何もあったものではない王をしっている女たちの心を夢中にさせたものだが、その実タムリンには分かっていた。ヒムヤリは自分が女に相応しくないと思っているのではなく、女が自分に相応しくないと思っていたのだ。控えめな態度をとっていても、彼の心には確かにそのような傲慢があることを、旧来の親友であるタムリンは見抜いていた。それでも誰かに迷惑を欠けているわけでもなし、そう傲慢になるにふさわしい美貌と力があるのだから、問題はなかろうと、それを持って彼を嫌うこともなかった。
タムリンも結婚する気はなかった。彼はシバ王国中では裕福な口である行商隊の子供として生まれ育ち、小さなころから行商をやっていた。だが何年間も旅をし、そのあいだずっと夫を待っている母親やおばたちを見るたび、彼女らの顔にあまり幸せなものを見いだせず、自分が一人前になったら妻は作らないのが行商人たるものの美徳だ、と思っていた。
タムリンとヒムヤリが30を過ぎたころのある年、タムリンははるか東の国にまで行商に行くことになった。十年もの長旅になる予定であり、当時のシバ王国の国の規模からすれば、大変に責任重大な仕事だった。
「親友がこのような仕事を任されるとは、私も鼻が高いよ。気を付けてくれ。君の旅の無事を、アルマカ神に祈っているからね」親友アル・ヒムヤリはそう言って、その美しい顔をにこりとほころばせて青年だったタムリンを送り出してくれた。彼はタムリンが港を出る瞬間までいてくれた。

十年の行商は、長いようで短かった。タムリンの行商隊は空前の大成功をおさめ、国に帰還する手はずも整った。すでにタムリンは、旅先で行商隊のリーダーになっていた。
十年たって帰って来たシバ王国は、良くも悪くも変わりがなかった。不健康にでっぷり太ったまま老け込んだ国王に帰還をねぎらわれ、親戚連中に挨拶したのち、タムリンは親友アル・ヒムヤリの家に向かった。
「タムリン!」ヒムヤリは十年たっているというのに、もはや中年の年齢になっているというのに、全く思い出の通りのままの美しさを保っていた。
「聞いたよ、大成功だそうじゃないか……素晴らしい」
「お前に会いたかった。積もる話もある。家に上がってもいいか」
「もちろんだ!私も話さねばならぬことが……」
そう彼が言ってタムリンが家に上がろうとした途端、タムリンはある存在に気が付いた。彼女はじっと、物珍しそうな見る目でタムリンを見ていた。ヒムヤリにそっくりの、澄み切った金色の目。そして、彼のように、いや、彼よりもその身にまとう雰囲気は、水晶のように透き通っていて美しかった。
タムリンはどきり、とした、ヒムヤリはくすりと笑って「そんなところにいないで、挨拶をしなさい。お父様の大親友なのだから」と言った。
「お父様?」タムリンは素っ頓狂な声を上げて聞いた。ヒムヤリはにやりと笑って言う。
「紹介しよう。私の娘、ビルキスだ」
ビルキスと言われたその少女は、てくてくとタムリンの前に歩み出て、そしてぺこりと礼をした。
十かそこらの、年端のいかない少女だった。其れなのにタムリンは、この世でここまで美しい女性にあったことはない、という気持ちに襲われた。

「私に娘ができて、驚いているようだな」ヒムヤリはぶどう酒を傾けながら語った。
タムリンと別れた後の話であった。ヒムヤリは、王と共に夜の狩りに連れ出されたという。
狩りが禁じられているはずの、静かな満月の晩であった。
「精霊が誘惑すると言うなら、是非ともしてほしいもんだ」と王は息まいて、狩りに出かけたらしい。ヒムヤリも不承不承付き合った。彼はあまり、迷信を信じる方ではなかった。
王の安全を期して松明が点され、大勢の護衛も集まり此れでは静かな晩もあったもんではない、とヒムヤリが呆れている時だった。彼は、不思議な生き物を見つけた。
忌々しい山羊のようでも、穏やかなロバのようでもあるそれを、ヒムヤリは知らず、ただ言えることは、その生き物は非常に美しかった。ガサリと音を立てて、生き物は逃げた。彼はいつの間にか、ふらふらとその生き物を追いかけた。
どれほど歩いたのだろう。それも分からなくなって、しまいには王たちの喧騒も聞こえなくなり本当に静かな夜になった。その生き物は崖に追い詰められた。
ヒムヤリは矢をつがえ、それを射抜こうとした。そして、次の瞬間だった。その生き物は、美しい女性の姿になったのだ。
ヒムヤリは、弓矢を地面に落とした。今まで自分が馬鹿にしてきた、自分に釣り合う存在でも何でもないと思ってきた「女性」なるものが、初めて彼の心を焼き焦がした。彼女の美しさの前で、自分のちゃちな美貌など何に成ろうか。そんな想いすら、わいてきた。
彼の頭は真っ白になった。何も考えられない。感情の全てが消えたように、動かなかった。これを、人は恋と呼ぶのだ。彼には、強くそう思えた。
彼女が、何か口を動かした。何を言っているか分からなかった。人間の言語を彼女は話すことができないようだった。しかし、それでもヒムヤリの頭脳は、その言葉が自分を求めている言葉だと、自分に愛の言葉をささやいているのだとはっきり理解した。
ヒムヤリは、その眩惑の美女を腕に掻き抱き、口づけした。それから先は、よく覚えていないという。ただ、体中を幸福な快楽が包んだことをよく覚えている、とヒムヤリは話した。
意識が戻ったころ、夜は開けていた。ヒムヤリは、がけっぷちで独り、裸で寝転んでいた。ああ、あれは精霊だったのか、彼はその時はじめて思った。

王宮に帰ると、ヒムヤリが遭難したのではないかと心配していた、と同僚たちがねぎらいの言葉をかけてくれた。王は美しい精霊に会えなかったうえに猟自体も不猟でご機嫌が悪いが、まさかお前は精霊にたぶらかされたのではないだろうな、と言って。
ヒムヤリは笑っていいや、といった。たぶらかす?馬鹿な、あの伝説は間違っている。ヒムヤリははっきり思う。精霊が一方的に男を狂わす淫魔のような存在とするならとんだお門違いだ。自分たちは愛し合った。ただ、それだけだ。漸く、自分に相応しい花嫁を見つけた。
ヒムヤリはその日から、何度も満月の番が来るたびその場に通った。彼女は現れなかった。結局彼女は一度ヒムヤリにその姿を見せたきり、永遠に表れなかったのだ。伝説に語られる精霊が、男を故意に焦がすだけ焦がして、後を立ち去ってしまうかのように。
ただ、十か月後の満月の日だった。ヒムヤリが向かった崖っぷちに、一人の女の赤ん坊がいた。満月の光にてらされたその顔立ちの中に、ヒムヤリは、愛したあの精霊の面影を見た。
彼女は、自分の子を産み落としたのだ。
ヒムヤリはその子を連れ帰り、ビルキスと名付けた。

彼がタムリンに語って聞かせた奇談は、以上であった。

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feat: Solomon 第六十七話

ソロモンは気が付き、自分がいつの間にか眠っていたことに気が付いた。体がひんやりと冷たくなっている。マントにくるまって床の上で眠っていたらしい。
街が騒ぎになっている様子は、少なくともここからは聞こえない。炎の明かりも届かない。「レバノンの森の家」は全く静かなままだ。
明かりはともされたままで、パチパチと燃える炎の音だけが響く。ソロモンは無垢理と起き上った。
「おや」
寝台のビルキスも起きていて、上体を起こし、じっと部屋の中の一角を見ていた。
「傷が痛みますか」
ソロモンが声をかけると。彼女もソロモンが起きていたことに気が付く。
「いいえ……」静かな中、彼女と自分の声だけが反響した。薄く、孤独で、どこまでも、彼ら以外が存在しない空間だった。
「あの木……」ビルキスは、部屋の端に立てかけられていた木材を見つめて言った。
「あの木は、何の木からとれたのです?」
ソロモンは目を瞬かせて、明かりの名観見える木材を凝視した。あれは見覚えがある。まだ神殿を作っていたころ、ヒラムが困ったことがあったと自分のもとに持ってきたものだった。
枝ぶりのよい木から切り出し、軽く木目も美しい割に非常に丈夫で、是非とも材料に使いたいと言うのに、妙なことに間尺がどうしても合わない、というのだ。どうも、物差しを当てるたびに寸法が狂う、と。寸法が狂っては使いようがない。それでも木材としては上質だから、ソロモンも何かには使えるだろうと思い、何とはなしにここに保存しておいたのだ。
ソロモンはその話を包み隠さず聞かせた。話していて、荒唐無稽な話だと思ったが、そのような遠慮は思い浮かびもしなかった。遠慮と言う概念が、この閉鎖された武器庫からは消え去ってしまっているようだった。
「あなたのご判断は、きっと正しいでしょう」ビルキスはぼそりと呟く。「あの木に、いつかお人がつるされます。偉大なお人が」
「偉大なお人……」
「ええ。その人は、貴方の子孫なのです。貴方の王子、レハブアム様のご子孫です……」
ビルキスの言葉も言葉で、これまた荒唐無稽な返事だった。もし、ここに記録係りがいたのなら、こんな会話は歴史の発端に残すことでもないと判断しただろう。傷の痛みと精神的疲労を感じた二人が、ぼんやりとした頭で少しばかりの狂気に似た感情にほろ酔いながら交わす会話のようであった。
だが、ソロモンはその言葉の全てが、信じられる思いだった。
「その方は自らの死を持って、ユダヤの王国を滅ぼすこととなりましょう……」
「では、私の子孫がユダヤを滅ぼすものと言うわけですか」ソロモンはただ、教師に言われたことを復唱する子供のようにそう言った。ビルキスも「はい」とだけ返した。
「私、先ほどまで眠っておりました」ビルキスは独白した。
「聞こえました。見えました。夢のように朧で、詳しいことは何も思い出せないのです。しかしこれを夢と片付けてはならぬ、と私に語りかける声がありました。お人が架けられていたのです。罪人のように辱められたお人が。ですがその場の人は皆彼の死をあざ笑っているのに、その世界は身も世もなく、彼の死を泣き叫んでおりました……」
「神の声を聴いたのでしょう」
ソロモンは静かに、そう言いかえした。
「神とは」
「あなたの望む神の名をお言い下されば」
「それは、貴方のお言葉に相応しからぬご発言。理性と礼儀は英知を美しく着飾らせても、決して英知に勝るものへはなり得ません」ビルキスは言う。「私は『どなたの』神の声を聞いたと思われるのですか?」
「……ユダヤの歴史など、わがイスラエルの神が最もよくご存じです」
ビルキスはそれを聞き、小さく息を吐いた。
「……貴方は、神のお言葉を聞いたことがあると……」
「ございます」ソロモンは即答した。
「歴史に語られる英雄たちのように頻繁にでは有りません。しかし片手で数えられるほどですが……私は確かに、イスラエルの神の愛に包まれた瞬間を知っております」
「そうですの……」ビルキスは目を細めて、ソロモンの赤い目をじっと見た。
「貴方のお知恵をお聞かせくださいな。私のように太陽を崇める国の女王に、主は御心をお伝えになりますの?」
「なります」ソロモンはそれに対しても、すぐに答えた。
「ビルキス様。他国は我らイスラエル人の事を、誇りに満ちた迎合せぬ民族だと言います。しかしこの私の身には、二重に異国の女の血が流れております。我が父の曽祖父、さらにその父は、どちらも異国の女性に惚れこみ、彼女を心底愛しました……」
ビルキスはそれを聞き、目を瞬かせた。初耳であったのだろう。
「父の曽祖父は、モアブ人の寡婦を。その父は、エリコの娼婦を。しかし彼らの間に生まれた愛を、神は祝福したもうたのです。異国の女が神に愛されるのであれば、預言を聞くこともできる事でしょう」
「彼女らは」ビルキスは言った。「生まれながらには、イスラエルの神と相容れぬ存在だったというのに?」
「彼女らは改宗しました。そしてそれ以上に、ユダヤの男を強く愛しました」ソロモンは、彼女の純金の瞳の視線を捕えたまま、囁いた。
「どう生まれたかなど、どう生き、どう死んだかに比べれば、豆粒一つの価値もございません。主なる神は、それをご存じであるまでの事」
ビルキスはそれを聞き、しばらく黙っていた。
「……けして、忘れられぬ記憶となりそうです」彼女はそう言う。
「イスラエルの神……」
彼女は自らに言い聞かせるように、時折その材木を眺めながら、とぎれとぎれにその名を呟いていた。蚊の鳴くような声が、孤独な武器庫の中に響く。
「また、神殿へ連れて行って下さい」彼女は言葉を切り、言った。
「貴女のお望みとあらば」
そう言ったソロモンに、ビルキスは再び向かい合って、言う。
「ソロモン王。貴方も、異国の女性を愛されましたか」
言葉の通りにとらえれば、それは王妃ナアマの事である、と考えるのは無難なはずであった。もしも彼が律儀な男に治るとするのであれば、「はい」と、世にはびこる色男のまねを遷都するのであれば「いいえ」と、その異国の女性がナアマであることを前置き素つつ言えたはずだった。
だが、ソロモンはそのような考えにも及ばなかった。彼はただ、じっと彼女の瞳を見つめたまま「ええ。愛しております。歴史の偉大なる先人たちが、神を、民族を愛するにも並び立つほど、愛したように」と返した。
彼女も、その異国の女性がナアマであるか、などは聞かなかった。自分であるか、とも。その代わりに彼女は、その発言の後少しばかり沈黙の名が出た空間の中「今日は本当に静かな夜ですこと。外は満月が照っておりますのに」と口を開いた。
「わがシバの風習では、男はこのような夜に狩りに出るな、と言われております」
「ほう、何故ですかな?」
「シバには精霊がいるのです」ビルキスは物語の語り部よろしく、眩惑的にソロモンにその言い伝えを語った。
「普段は聞く耳持たず見る目も持たぬ精霊も、このような静かな晩には、男の来たことを聞き分けます。このような明るい晩には、男の顔を見分けます。精霊は、男に恋してしまうのです。そうして美しい幻を見せ、男を虜にしてしまうのです」
「それで、男が外に出てはならぬと」ソロモンはふ、と軽く笑った。
「だとするのなら、残忍な風習だ。静かな満月の夜など、一年に数えるほどしかない瞬間。それなのに、その晩にしか愛を感じられぬ哀れな者達の愛を、奪い去ってしまうなど」
「……精霊に愛された男は、愛に身を焦がし破滅する、と、シバの物語は伝えておりますわ」
「男の罪を女の罪に、貴族の罪を奴隷の罪に、人の罪を人ならざる者の罪に置き換えることで、物語とは作られるもの。ビルキス様。あなたもきっと、ご存じのはずでありましょう」ソロモンは薄く微笑みながら言う。
「人間の女に焦がれても、彼らは滅んでいましたでしょう。滅ぶ程度の愛でしかなかった、そのような愛しかできはしなかった。ただそれだけのことですよ」
ソロモンは、ここまで穏やかに微笑んだことなど、ないような気がした。本当に、心が安らかだった。その空間の中で、自分の全てを肯定で来た。
この場は、自分がいるべき場。他の誰のものでもなく。今、この「レバノンの森の家」でビルキスと向かい合うこの位置には、神の手によって世界が生まれて以来、自分しかたつことを許されぬ場であったのだ、と、彼は思うことができた。
「ありがとうございます」
なにがしかに、ビルキスは礼を告げた。会話は、そこで終わった。ともし火の明かりが消え、「レバノンの森の家」の中は暗闇になった。高い窓から差し込む満月の光が、ただ存在している程度の、暗い夜。

医者を呼ぶわけにはいかなかった。
ナアマはソロモンの側室たち(とはいえ、全員ダビデの側室たちをただ引き継いだ形で、皆一様に年を取っており、子供が今さら産める体ではなく、本当に形だけだった)とは離れた、広い個室が後宮内にいくつも与えられている。気が付けば、無我夢中でハダドをそこに連れ込んでいた。側室たちは皆怖がって自分の部屋の奥に引っ込んでいってしまっており、気づかれないのはたやすい事であった。
蚊の鳴くような声でハダドが指示する通り包帯を巻き、ようやくハダドは落ち着いたようだった。
「ハダドさん……」震える声でナアマは言った。
「先ほど、神殿で暴動があったと」
「ええ」
「あなた……なんですか?」
「そうですとも。ナアマ様」
ナアマは気が動転した。自分をアンモン王女たらしめる誇りを作ってくれた、ごく幼いころにあった少年。その彼と、まさかこんな形で、唐突に再開するなど思ってもみなかった。
「ハダドさんは……夫を、殺すために帰って来たんですか?」
「ええ。貴方は小さかったから、私の事情もご存じではなかったでしょう」と、ハダド。
「あなたが我が仇、その息子たるものの正妻になっているなど、思ってもみなかったが……」
ナアマはなぜだか、罪悪感に胸が張り裂けそうであった。しかもそう言う言葉とはかみ合わぬほど、ハダドは穏やかに自分を見つめていた。イスラエル王妃になった自分を蔑むこともなく、はるか昔に自分の頭を撫でてくれた少年と寸分たがわぬ目でナアマを見つめていた。
「ハダドさんがそんなに苦しんでいらっしゃる方とも理解しておらずに、あの時は、私……」
「立派な王妃になられましたな」ハダドは呟いた。
「御小さかったあなたの事、今もよく覚えております。あなたは本当に立派になられた。王族の名に恥じぬ女性に」
「そんな……違います。ハダドさん」ナアマは弱弱しく言う。
「いくらでも……誇り高く、美しく。王族を名乗るにふさわしい方がこの世にいくらでもいると言うのに……私は、王族であると言うだけ」
「王族である。その望んで得られるものではない血統を誇らずして、なにを誇れと言うのですか」
ハダドは彼女の卑屈にかぶせるように、そう言った。そしてよろよろと手を伸ばし、ナアマの頭にポンと手のひらを置く。ナアマがごく小さい子供だった時と同じように。
「少しも変わってはおられない。貴方は誇り高きアンモンの王女ですよ。ナアマ様」
その彼の言葉を聞いて、ナアマの胸は懐かしさにときめいた。彼も、何も変わっていなかった。
「私を手当てしてくれたのは光栄に思いましょう」目を伏せ、ハダドは言う。「惨めな芋虫の姿で、憎む男の前に引き出されずに済む」
「引き出す……」ナアマははっとした。「何故、そのような!」
「おや、ナアマ様。貴方はイスラエル王妃として、夫に従う義務があるでしょう」ハダドは小さな子に言い含めるような優しい声で、そう言った。富も安穏も何もかも捨ててイスラエルに帰ってくるような復讐の鬼にはとても似合わない、優しい声。しかしナアマはそれに違和感を覚えなかった。優しかったのだから。彼女の記憶に残るハダドは、優しい少年でしかないのだから。
「私は、貴方の誇りを傷つける真似などしたくはありません。愛する夫を殺そうとした男を、どうぞお引き渡し下さい。貴方に助けてもらえた、立派な夫人となられた貴女を目にとめることができた、それだけで私は満足なのですから」
愛する夫?その言葉が、ぐさりとナアマの心をえぐった。
この人がいたから、自分はなけなしの誇りでも持つことができた。ソロモンは、自分の園誇りをすべて奪い去ってしまった人物であるというのに。
「愛してなど……おりません」
夫人としての矜持があるのならばありえないほどにすぐ、その言葉はナアマの口から出た。
「愛などありません……私にも、あの人にも。あの人はアンモン王の娘婿の座が必要だっただけの事……ただそれだけ、結婚しただけの夫婦ですから……」
「そのような……」
「……ハダドさんも、あの人に恨みを持たれているんですね……」
胸が締め付けられる思いだった。ソロモンの事を愛したことなどない。一度もない。ずっと、酷い人だと思っている。そのような相手のために、自分に昔誇りを与えてくれた人が、苦しめられている。彼への復讐のために、ここまでの大けがを負っている……。
ナアマは一息おいて、そして言った。
「ハダドさん。私は夫より、貴方を取ります」
「ナアマ様!」ハダドは小さくはあるが声を上げる。
「貴方を見殺しになんてできません。ここにいらして、お怪我を治してくださいな。私が何とかいたしますから……!」
ハダドは、しばらく黙っていた。沈黙が流れた。
「……ハヌン様は、私の反乱をご存じです」ハヌンはぼそりと言う。
「それどころか、協力してくださいました。今回の騒ぎも、ハヌン様のご助力あっての事」
「お父様まで!?」
「ええ、あのお方も、イスラエルに膝を折らざるをえなかったお方……あの忌々しきダビデの時代に」ハダドは呟いた。「アンモンが独立を失った時、まだあなたはほんの幼い頃でしたから、直絶後存知ではないでしょう」
「……お可哀想なお父様」ナアマは呟く。「娘をイスラエルの王妃にするなんて……本当は、やりたくもなかったでしょうに」
「ハヌン様に連絡は取れますか?」ハダドは聞いた。
「エルサレムからラバまでの往復なら、イスラエルの軍隊がエイラットから帰ってくるまでに間に合うはず。至急、私が大けがをしてここにいるとお伝えください」
「ええ、分かりました。もちろんですわ」
ナアマはばたばたと、書くものを取りに行く。

一人になって、ハダドは薄笑いを浮かべた。
遣った。どうにか、首の皮一枚繋がった。
「まったく……レゾンも頼りにならん。あんな老人一人に手間取りおって……」
敵の場内に居るのは危険極まりないが、少なくともナアマが自分を捨てることはないだろう。しおらしい振りをして同情させたかいがあった。
この際だ、親子そろって協力してもらおうじゃないか。これぞ獅子心中の虫。ソロモンも、まさか自分の妻と反逆者が直接つながっているとは思うまい。
彼が顔をほころばせた時だった。その時、窓の外に視線を感じた。
馬鹿な?ここは3階だ。驚いてみると、なんということはなかった。暗闇に、目が光っていた。猫が窓辺に座って自分の事を見ていただけだった。
人間ではなく安心したものの、じろじろ見られるのが不愉快になったハダドは、猫を睨みつけた。自分の悪意を感じ取ったように、猫の方もくるりと身をひるがえして夜の闇の中に消えていく。
不気味なものだ……とハダドは思った。その時、一つ違和感を覚えた。猫が何か、加えていたような……。厨房から魚でも盗み出した後なのだろうか?

夜が明けた。
「お加減はいかがですか」と、ソロモンはビルキスに党、彼女の血は止まっていたようだったが、傷口のふさがり具合がどうも芳しくなかった。
「ご心配なく。すぐ治りますわ、貴方のお薬が本当に効くんですもの……」彼女はそう言う。
「安静になさってください。治療は私にお任せを。事態が拡大してさえいなければ、ほどなくして迎えが来るでしょう」
そんな会話をしたのち、武器庫に会った食料で簡単な朝食を澄ますと、ビルキスはもう一度寝るといった。安静に、とソロモンが言ったとおりに。
ソロモンは薬草の棚を探し回りながら、思案していた。やはり確かにおかしい。
ファラオはハダドに味方していない。それは確かなはずだ。例のエイラットから来た伝達役は、間違いなくエイラットに駐屯しているイスラエル兵だった。言葉にも嘘らしい物は見受けられなかった。第一嘘の反乱なら昨日までには綻びが出ている。
もしも嘘ではなく本当にエイラットで反乱がおこっていたとするのなら、おかしい、昨日の暴動と合わせて、ハダドにそこまでの人数を一気に動かせるだけの兵力や資金があるのだろうか?
誰かがハダドに味方をしているはずだ。自分やヒラムが掴んでいない人物が。ソロモンは考え込みつつ、調合に必要なものをかき集めた。
帰ってみると、ビルキスは言葉通り寝ていた。彼の方も薬の調合にかかった。そう言えば、昨日から今日にかけて、こんな静かな環境に身を置くのも王になってから初めてではないか、と思う。このようなさびしい空間で薬をかき混ぜていると、昔に帰ったようだ。
もっとも、昔は自分の隣に人などいなかった。昨夜の自分達の会話を、ソロモンは覚えている。覚えているということは、きっとあれは夢でなく現実だ。
何とも荒唐無稽な話をしたものだった。自分までも、傷の熱に浮かされていたのではなかろうか、と思う。
部屋の端に目をやると、例の木材が黙って壁に背を寄りかからせていた。この木に、誰かがつるされるのか。ユダヤの王国を滅ぼす、罪人が。自分の血統から出るものが……。ダビデ王家の紋章たる指輪をはめた指が、きゅっと痛むような気がした。
「薬が出来ましたが」
だが、今の自分にはどうしようもない。彼はそのぼんやりとした恐怖を和らげんと、寝ていると分かっているビルキスに話しかけた。彼女はまだよく寝ていて、帰ってきたのは静かな寝息だけだった。
ソロモンは手持無沙汰になり、身をひるがえそうとした。と、その時、彼の目には異常なものが移った。
ビルキスはいつも、床に引きずるほどの長いドレスとローブで身を覆っている。だが、寝台に躍った彼女のドレスの裾から、彼女の脚先が見えていた。いや、そこから覗くものなら足先であろう、が、にわかには信じられないものだった。
黒檀のように輝く、獣のひづめのようなものが覗いていた。靴のようにも見えない。それはまさに、動物のひづめであった。すやすやと寝起きを立てる、美しい人間の女性。そんな彼女から、生えているはずがないもの。
ソロモンは目を疑った。しかし意識は確実に現実いあった。彼は半ば衝動的に、恐る恐る彼女のドレスの裾をまくり上げた。
そこには、その蹄に相応しい、動物の体毛が映え、関節の位置が人間のそれではない……まるで、山羊か、ロバのような二本の脚があった。
「(ビルキス様……?)」ソロモンの脳が混乱する。
ちょうどその時、ビルキスが小さく声を上げて寝返りを打った。と、同時にだ。その獣の脚が、すっと変化した。
蹄が消え、手と同じように桃色をした爪のはまった小さな足になる。ふさふさの体毛も消え、人間の肌になった。そこに現れたのは、全く上半身と一つながりとなるに相応しい、細く均整のとれた、美しい人間の女性の脚だった。
「(シバの女王、あなたは……?)」
シバには精霊がいるのです。昨夜彼女が言っていた言葉が、はっと意味深に彼の頭の中で反響した。訳の分からぬ思いを抱えながら、ソロモンはそっと、彼女のドレスの裾を元通りにした。

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feat: Solomon 第六十六話

彼女は自分の胸に突き刺さった矢を、その金色の目で見つめた。
「ビルキス、様……」ソロモンの声が震える。
「何奴!」シバの衛兵たちが叫び、矢の飛んできた方向を探さんと目を光らせる。だが彼らなどほとんど無視して、ビルキスは「ソロモン様、安全な場所をお教えください」と言った。凛とした声色を保とうとしているのは分かったが、当たり前ながら苦しげな声色であった。
この矢が本来だれに向けていられたものかなど、ソロモンがわからないはずはない。彼はよっぽど、目の前の女王がとった行動に絶句したい思いだった。
ソロモンは「こちらです!」と、より馬を走らせた。ビルキスも何とかそれについてくる。とにかくも一刻も早く安全な場所に移動しないことには、この女王の俄かには信じられない好意をも無駄にしてしまう。それだけは避けねばなるまい。ソロモンはビルキスを連れて城壁を出、旋回した。

「くっ」
樹の上から舌打ちしたのはハダドだった。間違いなくソロモンを射抜くことができいたはずなのに。
誰だ?あの女は。余計な真似をしてくれる。ソロモン、いやしくもカナンの地に行けいけしゃあしゃあと転がり込んできただけのユダヤ人の王ごときに、守ってやる価値があると勘違いしているのか、愚かな女め。
下の方ではレゾンとタムリン隊長がまだ切り結んでいる。レゾンもあんな男程度に手間取るとは……とさらにハダドは心の中で毒づき、ひとまず加勢しようと、彼は弓をタムリン隊長の方に向けた。

だが彼が矢を射る寸前、急に、ハダドの目の前にキラキラした光が飛んだ。目の前に、人がいる。
馬鹿な?自分は今気の上にいると言うのに……ハダドはぎょっとして自分の目の前の人物を見た。そしてさらに気が動転した。
その人物は、背中に真珠色の翼を輝かせ、宙に浮かんでいた。長い金髪をたなびかせた、優雅な姿かたち。ベリアル、の名前をハダドは知らなかった。

王宮の少し後方、人気のないところにそびえる、これまた巨大な建物。「レバノンの森の家」と呼ばれている施設だった。ソロモンが立てたものらしく華麗で緻密なデザインながらも、神殿とはガラッと違った趣に、その建物がヒラム・アビフの死後立てられたものである当うことも、神の住まう言えとは全く別の役割を与えられていることも推し量ることのできる建物だった。
「ここへ」
ソロモンは急いでビルキスを馬上から下ろした。いつのまにやら護衛も一人残らずいなくなっていた。矢の飛んできた咆哮を探りに言ったり、パニック状態になった民衆から王たちの道を開けたりしてくれるうちに、一人ずついなくなっていったのだ。幸いにして、レバノンの森の家の周辺には全く人影はなかった。
馬上からどうにか下りられたビルキスは、フラリ、と足がもつれた。無理もない。傷の手当てを早くせねば。
「女王、もうしばらくの辛抱です」ソロモンは彼女に肩を貸した。彼女も、四の五の言ってはいられぬ状況、ソロモンに寄りかかり歩を進める。
「ここは……」
「武器庫です」ソロモンは、その雅な名前を言う間を惜しんで、彼の与えられている役職のみを告げた。
「不逞の輩が入り込まぬよう、エルサレムの中では一番頑丈な作りとなっております。鍵も非常に厳重に」
「鍵は……お持ちなのですか?」
「いいえ、王宮に。だが関係ありません」
ソロモンは、ビルキスの頭を覆うスカーフの中に「少々失礼」と、手を突っ込む。そして彼女の髪に止めてあった長いかんざしを一本ぬきだした。
「お借りします」
ソロモンは頑丈そうな錠前の穴に簪を突っ込む。そして彼がカチャカチャと穴を引っ掻き回すだけで、たちどころに錠前が開いた。
重い扉を、ソロモンはどうにか押して開ける。非力な彼には楽なことではなかったがそんな文句を言っていられる状況でもない。
何とか、ソロモンは「レバノンの森の家」の中に入った。凄まじい音を立てて、重い扉が閉まる。
ソロモンは高いところに取りつけられたごく小さな明り取り用の窓の光を頼りに、錠前を内側から閉めた。個々の管理をする役人たちも、皆仮庵の祭りの儀式に出るために出てしまったのだ。今、ここは完全な無人。
ソロモンはようやく手佐分利で燭台と火打石を見つけ、明かりをともした。明かりの中に現れたビルキスは、顔色が真っ青になっていた。
「ビルキス様、こちらへ……私が処置をいたします」
彼は武器庫の管理人たちの遣っている寝台の彼女を案内し、そして慎重に彼女の体に刺さった矢を引き抜いた。幸い、大出血は防げた。急所は外していたのがよかったらしい。
彼はビルキスの頭に巻いていたスカーフを裂いて、止血する。そして寝台に、彼女の体を横たえてから、薬の壺をあてがった。
「これを」
彼は棚に置いてあった壺を取り出した。
「気付け薬です。いま使い物になるのはそれだけのよう……少々ご辛抱を。此処には薬草もあります。今から私が薬を調合しますので」
そう言ってソロモンは早足で、小さなろうそくに火を映すと別の部屋に消えていく。しかしほどなくして、数種類の箱と調合器具を抱えて戻ってきた。
「ビルキス様、ひとまずこれで傷口をお洗い下さい」彼は度数の強い葡萄酒を彼女に渡した。
「ええ、ありがとうございます。その……」
「ご心配なく。私はしばらく別室におります故。薬が出来次第、また来ます」
そう言ってソロモンは、また別の部屋に行こうとする。だが、そんな彼をビルキスの方がとめた。
「……共に、いてください。ソロモン王」
弱弱しい声で、彼女はそう言った。
先ほどの叫びと、同じような声。いつも、美が人の姿で現れたように誇り高く微笑む彼女の姿とは全く違う、人間じみた感情をあらわにした彼女の声。
しかしそれは一方で、ソロモンが惹かれたシバの女王ビルキスという女性の像からは少しでも離れるものではなかった。彼はそんな彼女を見て理想を壊された気になるばかりか、一層心が引き付けられるような思いに駆られる。そしてそう思えばこそ、余計にこの、イスラエルとは何の関係もない彼女をこのような状況に追い込んでしまった事への後ろめたさが湧いてきた。
「……分かりました。ビルキス女王よ。あなたの頼みとあらば、なんでも……」
ソロモンはその場に胡坐をかいて座り、ゴリゴリと薬を調合しだした。ビルキスは自分の胸をよろよろとはだけ、葡萄酒を塗って、まだ血の流れ出る傷を洗いつつ、彼の園手つきを儚い明りを頼りにじっと見ていたようだった。
ほどなくして、ソロモンが「できました」という。
「血止め薬です。ひとまずすぐ作れるものですが……」
「ありがとうございます」ビルキスはよろよろとそれを受け取るが、危うく落としてしまいそうになった、血がまだ止まりきっていない。体力の消耗も激しいのだろう。
「ビルキス様……!」ソロモンは心配のあまり小さく叫んだ。ビルキスは荒い息で「大丈夫です、大丈夫……」と呟いていた。
「……塗れますか?」
その言葉に、ビルキスはしばらく無言でいたが、やがて小さく首を横に振った。ソロモンは「……塗りましょうか」と、小さな声で返した。彼女は「お願いします」と、小さくはあるがはっきりした声で言った。
ソロモンは、自分のほどい指に、先ほど自分の手で調合したばかりのひんやりした薬外った。そしてそれを、ビルキス女王の胸元にあいた赤い傷に、丁寧に塗りこんでいった。
恋しく思う相手の素肌に触れているこの状況を把握できないではなかった、しかし性的な感情は微塵も湧いて来ず、彼はただただ、目の前のこの女性に今自分のできる限りで少しでも多くの事をせねばと言う気持ちに満たされていた。
血止めの薬はてきめんで、塗りこんだだけでも出血量が経ていくかのように思えるほどだった。あらかた塗り終えると、ソロモンは今度はオリーブ油の小さな便を開け、その中身を横たわったビルキスの傷口に注ぐ。そして、その上から包帯を巻いた。
「明朝には血は止まるでしょう」と、ソロモンはもう一つ調合していた薬を、匙に乗せて差し出す。
「こちらは、お飲みください。痛みどめです」
「かたじけのうございます……」
ビルキスは匙を加え、その上に載っていた薬を飲み下した。そして、今一度寝台に沈み込んだ。
「本当に、申し訳ない……」ソロモンは吐き出すように言う。
「貴女を、このようなことに巻き込んでしまって……イスラエルの国難ごときに……」
「いいえ」ビルキスは、息苦しそうな中、それでもはっきりと言った。その声色は、普段の良く知る彼女が戻って来たかのようでもあった。
「あなたは何も悪くありません。イスラエルに来たことを……後悔など、しておりません」
つぶれそうなソロモンの胸中を、彼女は察してくれているかのようだった。不思議な感触だった。つるしいのに、彼女が生きて自分の隣にいて、そして自分を許す言葉を言ってくれたのが、何とも言えず安らぎを与えた。蝋燭の光だけがともる、彼ら以外は誰もいない重く冷たい武器庫の中で。
彼女はエイラットストーンの首飾りを撫で、そしてソロモンの方に向かい合って言った。
「儀式が終わったら、言おうと思っておりましたの……」
「何をです?」
「やはり、私が思った通り……良く、お似合いですわ。貴方に青緑の宝石は……」
彼女はそう言って、ソロモンのマントを止めるブローチを指さした。エイラットストーンの宝玉を使ったブローチを。先日完成し、今日の式典で、初めて見につけたものだった。

「……誰だ、貴様は?」
「ボク?ボクはベリアル……ベリアルって名前なの」
ふわふわと宙に浮かぶ謎の人物に、ハダドは目を白黒とさせる。
「そこをどけ」彼は言った。
「やだよ」
ベリアルは笑って言う。「どかんか!」ハダドは目の前の不条理にも毅然とした態度でいった。
「貴様が何者かなどしらんが、たとえ神だろうと悪魔だろうと、私の復讐の邪魔はさせん、ダビデに祖国を滅ぼされた私の復讐の邪魔は!」
「ダビデ……」
その時だった。優美なベリアルの顔が、一瞬にしてみるも恐ろしい憤怒の形相に変わった。
「じゃあ、とっとと死ね」
ベリアルはつい、と空中を移動し、ハダドに手をかけた。ハダドはひっ、と驚いた。彼の手は鎧越しにも分かるほど、氷のように冷たかった。
「ダビデはもうとっくに死者の国だよ。とっとと死ね、死んでダビデ本人に復讐してろ……」
「なっ……」
「それもできないような腰抜けが、復讐なんて語るんじゃないよ。ばかばかしい」
華奢な外見からは関上げられないような、恐ろしい力がハダドの体に降りかかった。
ハダドは樹の上をあっという間に押し出され、地面に落下した。全身が叩きつけられる衝撃が、彼のみに襲い掛かった。
しかし、その落下は以上とい他はなかった。誰でも、人が一人樹の上から落ちれば、数々の音で分かるだろう。だが、その数々の音が、一切しなかったのだ。
全く無音のまま、ハダドは樹から振り落とされ、そして地面にたたきつけられた。
イスラエル兵が彼に築くことはなかった。だが同時に……味方であるレゾンも、彼の事を築くことはなかった。
「(レゾン……)」
助けを求めようとしたが、余りの激痛にまともな声が出ない。ハダドは何とか動く眼球を植えにやった。
先ほどまで自分がいた気の上で、ベリアルと名乗るその人物が、自分を見下しながら、その麗しい顔にも似合わない下種な微笑みを浮かべていた。
何故、彼は気付かれないのだろう?あれほど光り輝いているのに。誰にも築かれず、芋虫のように転がったハダドは、木の上から降ってくる声を聴いた。
「なんだよ、その目。お前、生きたいんじゃないか。助かりたいんじゃないか……かっこ悪いね。何が復讐だよ、もうこの世にいもしない人への復讐掲げて……そうでもしなきゃ生きられない死人一歩手前みたいな君が、一丁前に痛みで死ぬ事怖がってるんじゃないよ。無様だなあ」
「貴様……」ハダドはしぼりだすように、囁くような音量で言った。さらに不可思議なことで、ハダドの声すらも、彼に向かって話しかけると気のみ、その音を失い、誰にも聞こえなくなるかのようであった。ハダドと彼の間に、特殊な空間ができるような。ベリアルは、そのかが鳴くような声も、しっかり聞こえている様子だった。
「何者だ。ソロモン王にくみするものか」
「ボクが何かって」ベリアルは言う。「だから言っただろ……ボクは、ベリアルだって」
答えになっていない、そうハダドは言おうとしたが、胸を刺す余りの痛みに囁き声すら出せなくなった。ベリアルはくすくす、と笑った。
「不思議だなあ。どうして……どうして君みたいなやつでも、神様は愛されるのかな……この世に生きていいよ、っておっしゃったのかな……」
その言葉の意味を聞く間も与えず、ベリアルは光の流離のようになった、そして、夜の闇に消えていった。
キンキンという音が、ようやく終わった。茂みの中に埋もれて起き上がれないハダドには、状況がわからない。だが、声を聞いて、絶望的な状況に陥ったと分かった。
恐らく、負けたのはレゾンだ。そして、レゾンはイスラエル兵につ余るよりは、と逃げ帰った。
いざという問いは一人で帰還する、お前の命が危うくなった時はお前一人で逃げろ、と事前に行ったことを、ハダドは後悔はしないまでも、そう言った昔の自分に多少恨めしい気持ちを抱いたのは確かだ。
「ガサガサ、と音が聞こえる。足音が遠ざかっていくようだ。ハダドは茂みに埋もれ、身動きもできないまま呆然とした。
自分はいずれ見つかるのだろうか。
嫌だ、こんな形で死ぬわけにはいかない!無様、先ほどのベリアルとやらのその言葉には同意しよう。
誰に何と言われようと、自分はエドムの復讐のために生きてきた。このようなところで、あんなわけのわからないことが起こったために、無様に死ぬわけにはいかない。自分の誇りが、それを許さない。
立つのだ。動くのだ、イスラエルに復讐するために。そうだ、ダビデはもういない。だが墓を暴き骨を辱めようと、エドムの受けた苦しみはそのようなものではない。ならば、その息子に復讐するしかないではないか。あの狡猾な白狐、ソロモンに……。
その時だった、茂みが、ガサリ、と揺れた。ハダドの誇り高い心もその時一瞬は、無様に死ぬ覚悟を決める準備を下かも知れない。
だが、ハダドはその顔に見覚えがあった。あったのは彼女がごく、ごく小さい時。しかし面影は全く変わってはいない。
目の前の女性は驚いたようにぱちりと目を瞬かせていた。自分の事は覚えているのか、覚えていないのかもよく分からないが……。
そうだ。確かに彼女はこの王宮に居ても何の不思議もない。イスラエル王妃になったとは聞いていた。
「このような姿で失礼」ハダドは言う。「アンモン王女、ナアマ様……私の事を覚えていらっしゃいますか?」
「ハダド……さん?」ナアマはしぼりだすように言った。茂みに屈みこみ、ハダドの顔を見て。
「覚えています……」
その言葉を効いたとき、ハダドは内心でにやりと笑った。あの得体のしれぬベリアルが何を言おうと、エドムの神は自分の事をまだ見放していないらしい。まだ、この復讐を完遂せよと自分に告げているのだ。

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feat: Solomon 第六十五話


命からがら逃げだしてきた、と、その兵隊はエイラットの反乱について語った。
「異国人の仕業のようでした……」震える声で、彼は語る。彼の舞台は、壊滅してしまったそうだ。
エイラット、およびエツヨン・ゲベルの乗っ取りが、彼らの目的であるかもしれない。そこまで志向が至った時、ソロモンとベナヤは顔を見合わせ、うなずいた。
「……ハダドの仕業かもしれん」と、ソロモン。
「ベナヤ!お前を隊長に任命する。今すぐに出発し、鎮圧せよ」
「はっ、陛下!」
ベナヤも、こんな事態で帰宅の事を考えられるほど呑気ではない。エイラットまでは遠いのだ。急いでも4,5日は覚悟しなければならない。一刻の猶予もありはしない。彼は急いで王宮の部下を招集せよ、帰宅したものも王宮に呼び戻せ、と指令をかけに部屋を出て行った。
「陛下、では、私も……」
「うむ。ご苦労だった」
傷ついた様子のエイラットの兵士も、ソロモンはひとまず引き下がらせた。
日が落ちて日も改まるころ、エルサレム王宮に仕えるイスラエル軍は、たいまつをともして急いでエイラットへ旅立った。

松明の群れがエルサレムの市門を抜けて、南へ、南へ進んでいった。どかどかと激しい馬の走る音は、静かな夜の空気により一層響き渡るようだった。
「うー、うー」
それはハダド達が根城にしている廃墟の娼館にも、わずかながら届いてくるようだった。ツェルアは音には敏感なのだ。そのような音に反応し、部屋の隅で怯えながら唸り声をあげている。ネバトはそれをなだめていた。
「落ち着け……作戦が上手くいっている証拠だ」
そのとき、アジトの扉が叩かれる。愛言葉のやり取りが交わされて、扉が開く。ハダドと、レゾンが現れた。
「どうだった?」
「文句なしだ。エルサレムの鎮圧隊が、大かた南へ行ったようだな……」と、レゾンは言う。彼の口調は、部屋の隅で獣のように唸るツェルアに怯えつつ、見下している様子であった。彼女の事も、そんな彼女を庇う自分の事も。
「よし。それでは作戦は、明日、日が落ちた時に……」
「貴様、なぜ私たちに指図などする?貧民ごときが。これはハダド様の復讐だぞ」
この男は元王族のハダドには敬意を払うのに、自分たちの事は見下す。まあ、貧しい生まれの身だ、仕方がない、ともネバトは思う。そう言った扱いをされることには慣れている。
「すまなかったな……」とネバトが言いかけるや否や、ハダドが言った。
「レゾン……お前が今回従ったこの作戦、私ではなくネバトが考えたものだぞ」
なっ、とレゾンは言葉を失う。「私は彼のその発想に敬意を持っている。頼れる味方だ。その身分一つを持って、私たちと対等になれぬ存在と呼ぶのは、余りにも浅はかな事」
歯噛みするレゾンの隣で、ハダドは続けた。「ネバト。お前もお前だ。なぜこの男に何か言ってやらない」
「これ以上喧嘩になったら、あの子も起きるし、ツェルアももっと怯える」
「お前が絶えていれば済む、ということか……」ハダドは言う。
「レゾン。ともかくもお前の非を認めろ。和を失っては作戦に支障が出る」
レゾンは震える声で、「……すまなかった」と言った。だが頭は下げなかった、その程度が、彼にできる最大限だった。
ハダドはため息をつく。
「レゾン。私とネバトは少し寝る。お前は見張りをしていろ。ハダド。ツェルアをそろそろ寝かしつけてくれ。こいつが起きていたらレゾンもさらに気に障ろう」

そう。その三人は、今だエルサレム近郊の貧民街にいた。
ベナヤの目指すはるか南、エイラットなどではなく。

夜が明けた時、ソロモンの元にビルキス女王とタムリン隊長がやってきた、二人とも、心配そうな顔をしていた。
「ソロモン王」口を開いたのはタムリンの方だった。「昨晩、お宅の兵士たちが大勢出て行きましたが、何かありましたかな……?」
「申し訳ない。国の端の方で、反乱がおきましてな」
ソロモンは包み隠すのは返って無礼かと、あえてあるがままのできごとを語った。ビルキスは柳眉をひそめて「なんてこと……」と言う。
「せっかくいらしっている中、きな臭い状況で誠に申し訳ない。一刻も早い殲滅をしてまいります」
「反乱は、どこに?」と、ビルキス
「エイラット、およびエツヨン・ゲベルです」
「私たちが行ったあそこに……」彼女は何処か悔しそうに言った。
「いずれにしても、シバ王国に帰るにあたっての道のりでもある。安全のため帰ろうにも帰れませんな……」タムリンも頭を抱えつつ言った。
申し訳ない、とソロモンが謝ろうとした矢先、ビルキスは少々とげのある口調で自分の部下をしかる。
「タムリン。イスラエルが大変な時に一足早く帰ろうなどと、シバの女王の名に泥を塗るつもりなのかしら?」
「女王陛下……」
「ソロモン王。いつでも力がお入り用な際はお申し付けくださいませ」彼女はきりりとした表情で、ソロモンにそう告げる。「お忘れなさいますな。シバの女王はあなたの盟友ですわ」
「は、ありがとうございます」ソロモンは謹んでその言葉を受けた。ただ、正直な話、反乱がおこったのは不意打ちではあるが、別に状況は絶望的とも感じていなかった。
先日の男に聞いた限りの情報からは、必ずしも敵は多くないようだった。エイラットに駐屯している兵だけでは魔兼ねなかっただけの話。エルサレムからの本体を送ればすぐにどうとでもなるであろう反乱の規模であることは分かっていた。
ハダドという男が、エジプトに亡命しファラオと関係を結んでいたことは分かっている。だが、ファラオはハダドの反乱の後ろ盾にはならないだろう、とソロモンは読んでいた。ファラオにとっては最近経済成長を続けるイスラエルは面白くなかろうが、正面切って戦争を仕掛けるほどのものでもないだろう。それよりは、お互い油断有らないと憎みあいながらも、表向き平和な関係を続けていた方がお互いにとって損はない。と、先方も理解しているはずだ。
だが、ファラオの軍に大きな動きがあったという話も聞かなかった。ファラオがこの反乱の代替的な後ろ盾になっているならさておき、それがないならあまり怖い話でもなかった。ダマスコの賊レゾンがついているとはいえ、ヒラム王の言うとおり、彼の力もそこまで恐れるものではないと、彼の情報を呼んだ結果ソロモンは判断していた。

事実、エルサレムはしばらく何もないままだった、残った兵士で王宮、および王都の警備に警戒態勢を敷かせはした。
ナアマはベナヤが急に戦場に行ってしまったことに非常に気をもんでいたが、他の王宮の人間たちはおおむねこの鎮圧を楽観的に見ていた。
第一、そんな忘れ去られてしまったような王族の復讐などより、彼らが意識せねばならない出来事がある。
つまり、その時はすでに、仮庵の祭りの期間中であったのだ。仮庵の祭りと言うのは、ユダヤ人がエジプトから逃げ出した際、荒野で仮庵に住まったことを記憶にとどめ、記念するための式典である。
エルサレムは巡礼客でにぎわっていた。祭りの期間中でも鎮圧戦に当たらくてはならない兵士たちには気の毒だが、まあそこは背に腹は代えられないことだ。ともかく誇り高いユダヤ人たちは、勝てるはずの戦よりも、民族の誇りにかかわる祭りのほうが心事だった。

ほどなくして、仮庵の祭りの八日目、最も祝うべき日がやってきた。ベナヤの舞台からの報告によれば、そろそろエイラットについているころだ。ソロモンはベナヤの安全と鎮圧の史回向も神に祈らねば、と思いつつ、エルサレム神殿で開かれる聖なる集会に行った。
輝く神殿は、既に人でいっぱいだ。その中、一番前の席にソロモン王の席は誂えられていた。内陣から離れた所にも、特別な咳が用意されている。イスラエルの伝統の祭りをどうしても見学してみたいというビルキス女王の頼みを、ザドクが快く効きいれたおかげで用意された席だ。女王も、無理を聞いてもらった相手に対する礼節と言うことで、今日はイスラエルの風習に従い、神殿中の女がそうしているように、黒く長い髪にスカーフをかぶせていた。
ナアマはイスラエルの宗教を何年たってもあまり好かないらしく、出席はしない。ソロモンの隣には王妃の代わりに、大勢の高官たちが座った。一番隣となったのはヨシャファトであった。
祭司ザドクがやがて歩みでる。彼は厳かな髪への祈りの文句を唱えて、果物や穀物が山のように、華やかに積まれた祭壇の中にひときわ立派に坐している屠られた仔牛に、火をつけた。
仔牛を乗せた炉から、肉の焼ける臭いをかき消すように甘いにおいが立ち込める。入稿の香りだ。先日、シバ王国から送られた最高品質のものだ。
ユダヤ人たちはパチパチと音を立てて天に昇っていく甘い煙を見、香りをかぎつつ、神に感謝の祈りをささげた。ソロモンも、先ほど感じたことを心の中で神に祈った。
神よ。今の私を、貴方は誤ったものと定めるだろうか。
もしもそうであるなら、どうぞ示したまえ。ただ、このあなたの愛するイスラエルには、どうぞあなたの祝福がありますように。永遠に……。
そうして儀式が終わりを告げようとした時だった。ふと、動いた影があった。

今日は、仮庵の祭りの本祭であるはずの日だった。
それに出席できなかった自分の部下たちは本当に気の毒だ。それにあの腕白レハブアムが、大人しく儀式に参加しているかどうか。
そんなことを気にもめるほど、予想通りエイラットの鎮圧はあっさり終了した。いっそ拍子抜けなほどだった。
「ありがとうございます、将軍閣下!」
エイラットに駐屯していた兵の隊長が頭を下げる。
「頭と思しきものは、いないようだが……」
「ハダドですね。残念ながら取り逃がしてしまいましたか」
「部下を数人おいてゆきます。明朝、エルサレムに帰ります。ハダドを取り逃がしたとなればまだ油断のならぬ状態だ」
「御意にございます、将軍閣下」
エイラットの兵隊の長はぺこりと頭を下げた、ハダドはすぐに部下の中から一足早く早馬を飛ばした。
「神に祝福された期間に、とんでもないことになってしまった」と、ベナヤ。
「ひとまず、今日のところは仮庵の祭りを祝いましょう。イスラエルの無事を神に祈願して……」
「ええ」
遥か遠く、南と北にはなれたエイラットの地。ベナヤは、まさかエルサレムがそんな呑気な事を言っていられる状態で亡くなったことなど知る由もなかった。


今にも祭儀が終わろうかという頃、神殿の中で立ち上がるものがいた。それも一人二人ではなく。何だ、無礼な、とイスラエル人が思ったのもつかの間であった。
「イスラエルに、滅びを!」
彼らはそう叫び、一斉に剣を抜いた。

神殿の中はたちまちパニックになった、民衆が我先にと外に逃げ出そうとする中、武装集団は裏腹に、神殿の奥底、祭司や王のいる所に魔数具と駆けていく。
ソロモンも、先方の思惑のあらましに気が付いた。しまった、エツヨン・ゲベルの件は囮だったのか!
図られた。これが、目的か。将軍であるベナヤと、本隊をエルサレムから引き離すことが!
エルサレムに残るなけなしの護衛兵達が剣を抜き、彼らと切り結ぶ。「ザドク、ヨシャファト、逃げろ!」ソロモンは叫んだ。しかし逃げろと言ってもおいそれと逃げられるまでもない……。
そんな時だ。「皆様、こちらへ!」と、高い女性の声が聞こえた。振り向くとシバの女王がいた。自分についてきた護衛兵を大量に引き連れて。
「王宮まで私共がお送りいたします、おいでください!」
「ビルキス様、恩に切ります」
ソロモンは早口で礼を言った。武装集団はなおも襲い掛かって来たが、肌の黒いシバ追う億の護衛兵達はイスラエル兵とともにそれに切りかかっていった。
「お前たち!落ち着き次第、誰でも良い、至急エイラットのベナヤに連絡を!」
ソロモンは早口で指示する。複数の声が重なり合って了承した。
何とか外に出て、彼らは馬車に乗り込み、馬に鞭を入れた、馬はものすごいスピードで走りだす。と、同時に、狼藉者たちは一斉に神殿から蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「待て!」イスラエル兵とシバ兵が追いかけるも、仮庵の祭りでただでさえごった返している上にパニック状態になった人ごみは、狼藉者とは言えどただの人間にすぎない彼らをあっという間に隠してしまった。
彼らは言葉は通じ根を顔を見合わせて、ひとまずひとまとまりになって、自分たちの君主の後を追った。

命からがら、彼らはエルサレム宮殿についた、門番にすでに話は伝わっているらしい。門があき、彼らは一息つく。
「油断した」ソロモンは歯噛みした。「何が知恵に満ちた王……こうも簡単な術策にはまるとは」
「しかし、おかしくありませんか?」と、ビルキス。彼女は歯噛みするソロモンを、半ばなだめるような口調で言った。「あなたが予想できていない規模の事だから、起こり得たことではないのでしょうか」
「私が?」
「ええ。きっとあなたの想像の外で、まだ、何かの要素が……」
その時だ。
「賤しい羊飼いの子め」
怨嗟に満ちた声が聞こえた。しまった、王宮すらも!ベナヤがおらず警備が手薄になった王宮など、彼らにとっては砂上の楼閣にすぎないというのか。
銀色の剣がひらめき、一人の男が現れた。疲れを感じる老いた目をしていても、歴戦の軍人であることを物語るその逞しい体はいささかの衰えも見せてはいないような男……。
「わが主君ハダドエゼル様の仇を、誇り高き、エドムの王子ハダド様の仇を!」
亡国ツォバの将軍、レゾンだった。
ソロモンの顔にも流石に冷や汗が流れた。自分は武器など持たない、丸腰だ。
レゾンがひらりと切りかかって来る。その時だ。ひらりと飛び出し、鈍色の剣をレゾンの剣に叩き込む存在がいた。タムリン隊長だった。
「タムリン!」
「女王陛下、どうぞ安全なところにご避難を!」
タムリンはレゾンの斬撃を遮りながら必死で叫ぶ。レゾンがちっ、と舌打ちする。銅も自分と切り結んでいるこの老人、只者ではないということに感づいたらしい。
「わ……我々からもお頼み申します、陛下。お逃げ下さい!」ザドクも言った。
「今は陛下の見にお危害が及ばぬことが何よりの先決!」
「貴様らはどうするつもりだ」
「王宮は占拠されている様子ではございますまい。増援が来ればどうとでもなります、我々は王宮を守っております!ともかくも陛下はご避難を!」
「……かたじけない!」
ザドクの言うことには確かに無駄はなかった。ソロモンはビルキス女王の手を取り「女王陛下よ、こちらへ。安全な場所にお連れします!」と言った。
「え、ええ……」
「ご心配なく、王宮からごく近くです」
ビルキスがシバ語であいさつすると、シバの衛兵たちはシバの女王とイスラエルの国王を守護せんと、数人集合した。ソロモンの手引きで、彼らは馬に飛び乗り、王宮をまず出ようとした。
だが、その時だ。
ひゅん、と夜空を咲く音がした。弓の音。
パニック状態の城下町の喧騒は王宮にも届いていて、そんな小さな音は、とても聞き取れるものではなかった。
ソロモンすら、それを聞き取れなかったのだ。聞き取れたのは、女性の声。
「ソロモン様、危ない!」
それが、自分の傍らにいる女王の声だと、一瞬理解ができなかった。
穏やかで、理知的で、知性に満ちた彼女。いつも笑っている、余裕に満ちたシバの女王ビルキス。
そんな、自分が今まで見てきた彼女には似つかわしくない声だった。焦燥、恐れ、必死さ、それに彩られた、感情的な声。女神のように美しく取り澄ましている彼女がこんな声を出せる人間であることを、ソロモンはその時まで認識していなかった。
トン、と軽く突き飛ばされたような感触を感じ、そして次の瞬間、ソロモンは気が付いた。ビルキスの体に、矢が突き刺さっていた。
それは先ほどまで、自分がいた位置だった。

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