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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第七十八話

タムリンが、もうじき仕事の都合で国を離れるとは知っていた。
タムリンに感じたあの恐怖感のかけらをまだ持ってはいたものの、それでもビルキスにとってタムリンは自分の知らない世界を見せてくれた人だ。思いもよらなかった楽しさを、生きがいを教えてくれた人だ。もっと彼は裸教わりたいことはある。彼と離れるのは残念だった。
だから、その日タムリンが来ると言うのも、まだ彼女にとって苦痛ではなかった、彼女はタムリンの訪問を笑顔で受けた。
だが少し夜が更けてくると、タムリンはヒムヤリと一対一で話し合いたいと申し出た。
ビルキスは不思議に思ったが、父に促されるまま、顔所は引き下がった。だが扉を閉めた後、やはり、どうしても気になった。タムリンの話とは、なんだろう。
彼女はそっと、聞き耳を立てた。扉越しに、余りにも必死なタムリンの声が聞こえてきた。
「ビルキスを、私の妻に欲しい」
彼女はその瞬間、好奇心を持ったことを激しく後悔した。

表現しようもない程の不快感が襲いかかってきた。あの日、タムリンに感じた恐ろしさ、まさにそのものが、何十倍にも膨れ上がってビルキスに降りかかった。
理屈など頭に浮かばず、ただただ恐ろしかった。扉越しに、彼がどれほどビルキスを愛しているのか、どれほど妻にと切望しているのか、語れば語るほど、ビルキスは体が震えてきた。例えようもなく気持ち悪く、怖かった。
今まで自分の信じてきたものが、グラグラと崩れ去る気分だった。花嫁となる女は喜ぶものだ、と言う社会的通念など知っていたはずなのに、とてもとても、喜ぶ気になろなれなかった。足場が崩れ、奈落の底に叩き込まれるような恐怖がそこに会った。
タムリンは、自分を評価してくれていたと思っていた。自分のこの才能を、自分以外に見つめてくれる唯一の人。
信頼できる人。大好きな人。それらが全部、音を立てて崩れて言った。
彼にとって自分が、30以上も年下の幼い自分が、花嫁になり得る一人の女であったという事実に、理屈など抜きに身の毛がよだった。
彼の言葉はどこまで信じればよかったのか。どこからどこまでが本音。どこからどこまでが世辞。自分のご機嫌を取るための、下心の言葉だろう。今まですべて信じ切っていた言葉の数々が、まるで実態を消していくかのようだった。
楽しかった世界が、すばらしかった世界が、木っ端みじんに崩れていく。扉越しに聞こえるタムリンの思慕の言葉で、一つ、また一つと崩されていく。この世界を自分と一緒に作ってくれた、そうであると信じていた人物の者と同じ口から生まれる言葉で。彼は自分をほめつつ、口づけしたいと考えていたのだろうか、抱きしめたいと考えていたのだろうか、もしそれをされたら、自分に逃れるすべなどなかった。あんなにしっかりした体格の、大人の男相手に、自分が何ができる。一歩、もしあと一歩タムリンに理性がなければ、間違いなく自分はそれ素されていた。タムリン自身は熱を込めて、そうだと言わんばかりのビルキスへの慕情を語っていたのだ。足もとが震えた。立っていることすら、つらかった。
嫌だ、嫌だ、花嫁になどなりたくない。喜べない。ただ怖い。彼のその下心に答えねばならない身になどなりたくない。恐ろしい、気色悪い。何もかもが消えていく。目の前が、真っ暗になりそうだった。
ふとその時、頭の中に、何か思い出すものがあった。これは何?ずっと、幼い時の記憶のような……。
「ふざけるな……ふざけるなよ!」
祖の至高も吹き飛ばすような、力強い声が聞こえた。聞いたこともないような声が。ヒムヤリの声だった。

ヒムヤリは扉の向こうで、タムリンをはっきりと拒絶した様子だった。その瞬間、ビルキスは崩れ去る足場の中、自分の小さな足が乗っているまさにその一点だけが無事生き残ったような安堵を覚えた。
父が、自分をタムリンの妻にやってしまってもまるきりおかしくはなかった。けれど、父はそれを拒んでくれた。自分の子の恐怖を、わかってくれたのだ。
よかった。本当に、良かった……ビルキスは本当に、一命を取り留めた、そのような気分にすらなった。
もうタムリンの言葉を聞きたくない。彼女はそっと寝室に向かった。

それでも、やはり震えは止まらなかった。今は父が追い返してくれた。
だが、タムリンが自分をそう見ていたのだと言うショックは依然としておさまらなかった。どうして。どうして。大好きな人だったのに。
貴方はどうして、私をそんな目で見たの。どうしてただ、何かを教えてくれる先生のままでいてはくれなかったの。
彼女は布団をかぶって、震えた。それにすら恐怖を感じた。まるでタムリンが窓から入って、勝手に自分の体を書き抱くかのような不快感すら、想像できてしまった。
それを振り払いたい、そう願って、彼女はただ震えていた。
また、頭の中に何かに記憶がよみがえる。これは、ヒムヤリ邸の記憶じゃない。女性の声が聞こえる。いや、これは声?もっと概念的なメッセージのようにすら思えた。
母親の声……?
長い事思い出さずにいたその記憶が、今ポロリと殻をはがされるかのようだった。
その時、扉があいて、寝台を包むカーテンが揺れる気配がした。ビルキスはどきりとして悲鳴を上げた。本当に、タムリンが入り込んできたのかと思ったのだ。
「ビルキス……起きているのか?」
だからその声を聴いたとき、本当に、心の底から安心した。それは、父の物。
「お父様……!」ろくに言葉も言えないまま、ビルキスは父にすがった。怖かった、自分以外の誰かに、そばにいてほしかった。
「どうした?震えているのか?」父は問いかけた。
「聞いていたのか?」
ビルキスはそれに、コクリとうなずいて見せた。
「大丈夫だ、安心しろ」
淡々とした声で、父は彼女に告げる。そして、彼女を抱きしめた。力強く、胸元に、娘の体を抱きすくめた。
そして、彼女の安心は終わりを告げた。
暗い中、父の顔も見えなかった。だが、その抱擁は、自分を守るものではない、と彼女の体中が彼女に警告を与えていた。
その上で、動くこともできなかった。成人男性にしっかりと抱きしめられた11歳の少女、まして恐怖に身もすくみ、力の抜けてしまった少女に、一体何ができると言うのだろう。
彼女は再び恐怖し、震えた。意味も、何も分からずに、父親の声だけが降ってくる。
「安心しろ。お前は私が守る。ビルキス……お前は、私とお母さんの娘だもの。私を見染めた、あの麗しい精霊の……。あの、私が心の底から愛した、愛し合った唯一の女性の……」
父親の手が、服の中に入ってきた。ぎょっとする、体がこわばる。彼女はとにかくも、何か言おうとした。だが、言えなかった。父に、無理やり唇をふさがれた、父に口づけされた。それが親子の愛情からくる口づけでないことなど、日を見るよりも明らかであった。
袖口から突っ込んだ手で娘の体をまさぐりながら、ヒムヤリはゆっくりと唇を話し、言った。
「渡すものか。誰にも……許さない、私の娘を……私の精霊を……」

足場の全てが、崩れ去った。
ビルキスは父に凌辱されながら、奈落の底に落ちる気分を味わった。父の愛撫の手すら、冷たく吹き抜ける風の様な感触にしか思えなかった、拒絶の言葉も出てこない。心はただ、絶望の一色にそまった。
その時、彼女はようやく思い出した。漸く全て、思い出した。母が自分に残してくれた、唯一のメッセージを。
母は、自分に許しを乞うていた。おそらく、泣きながら。それでも、母に見つめられた記憶はなかった。母は、自分を見つめるのは怖かったのだろう。
「許してちょうだい、私の娘……」綺麗な声のようでもあり、もっと概念的なもののようでもあるそれが、おそらく赤ん坊の時ぶり、11年ぶりの脳の中に反響した。
「あなたが嫌いなわけじゃない。でも、貴方をこれ以上みるのが、耐えきれない。あの人と同じような体で、生まれてきたあなたを見るたび、怖くて怖くて、しょうがないの……」
引き裂かれるように体が痛む中、脳だけが隔離されたようだった。脳だけは、その時ヒムヤリのものではなかった。
「お母様はね、満月の晩に、人間たちを見に行ったの。獣の姿に変身してね……人間たちを見るのなんて、初めてだったから。素敵だったわ。わくわくしたわ。でもね。一人の人間がお母様を見つけて、武器を構えて迫って来たの。お母様は必死で逃げたわ。でも人間は追いかけてきたの。私たちは死ぬことはないけれど、武器で傷つけられれば痛いんですもの。寧ろ死ぬことがない分、余計に長く傷み苦しむんですもの。私は怖くて、とにかく逃げたわ。でも逃げ場のない崖っぷちに……ええ、そうよ、ここに追い詰められた……。あの人間は矢をつがえて、お母様はもうだめだと思って……その時、はっと思ったの。獣の姿なら追われても、同じ人間の姿になれば、傷つけられることはないんじゃないかって……そして……お母様は人間の女の姿になったわ。あの人は武器を地面に落としてくれた。良かった、傷つけられずに済んだって、安心したわ。でも……次の瞬間、あの人はとても怖い顔で、お母様の方にやって来たの。武器を向けるよりも、ずっと、怖い顔で……。お母様は怖くなって、何か言おうとしたの。でも、無理だったわ。人間の姿は真似られても、人間の言葉は話せなかった。あの人は私の所に寄ってきて、私を腕に抱いて、口づけしたわ。お母様はとにかく怖くて、足がすくんで、体を替えることもできないほど、全身が凍ったみたいになって……。体が切り裂かれるほど、痛いことをされたの。あの人はずっと、幸せそうな顔をしていた。私が苦しんでいるのも見えていないみたいに、ものすごく怖くて、物凄く幸せそうな顔をしていた……」
体は父親の暴力をただ受け、頭は母親の嘆きをただ聞いていた。父と母に支配されつくし、そこに、ビルキスと言う個人は存在しなかった。いや、ある種では、彼女は自分の原点に立ち返ったともいえるかもしれない。彼女はまさにこのように、父の身勝手な暴力と、母のやるせない悲しみが交わって、できた存在であったのだから。

ビルキスは気が付くと、寝室にいなかった。寝台ごと、屋敷の地下室に運ばれたようだった。目の前にはヒムヤリがいた。
「お父様……」
「安心しろ、ビルキス」
父の笑顔は、愛変わらず綺麗なままだった、昨日自分の娘が恐怖したなど、想像もついていないだろう程に。
「お前に色目を使うやつ等に、絶対お前を合わせない。ずっとお父様が守ってやる。だから、安心しなさい。お前はここに居ればいいのだ」
彼の糸を、ビルキスはその優秀な頭脳で、何もかも理解した。
彼女は寝台から起き上がろうとした。ずきりと下半身が痛む。しかし起き上がってとbリアから出ようとした。
だが、それもかなわな型。ヒムヤリに、あっさりと制止されてしまった。
「出して」彼女は言った。
「駄目だ。分かっているだろう?外は怖いんだよ。タムリンみたいなやつがいる……」
「いや、お父様、出してよ……」
彼女は金色の目を潤ませ、泣きだした。その瞬間だ、ぱちんと音がはじけ、頬にするどい痛みみが走った。ヒムヤリが彼女を殴ったのだ。
「何故泣くんだ!?お前を守ってやったのに!!お父様がお前を愛してやっているのに!」
彼は床に倒れたビルキスの衣服の裾を無理やり破いた。「見ろ!」彼は怒鳴った、
「お前の脚は化け物じゃないか!お前は人間じゃないんだぞ!人間じゃないお前を愛してやれるのは私だけだ!お前の価値を、精霊の美しさを理解しているのは、精霊と契るにふさわしい人間だった、この私だけだ!あのタムリンだって、お前のこの脚を見れば恐ろしがるに決まっている!誰だってお前を愛さないんだ、この私を除いて!!それなのに、なぜ外になど出たがるのだ!」
そう言ってヒムヤリはまた再び、ビルキスを寝台に押し付けた。自分の服もからげながら。
全てが、理解できた。
ヒムヤリが一番、自分のこの脚をあざ笑っていたのだ。
だから、外の世界は皆、お前を虐げると言っていたのだ。ヒムヤリは自分が見るように、人もビルキスを見るだろうとしか、思えなかったのだ。
しかし、そうわかったところですべてが無駄だった。逆らえない。自分は、逆らいようもない。母親が、そうだったように。

商人に、なりたかった。
知識を蓄えるのが、楽しかった。
誰も理解などしてくれない、小娘の妄想の世界を、もっと生きていたかった。

彼女は逆らわず、地下室につながれていた。其のまま、三年が経過した。

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feat: Solomon 第七十七話

月の光が輝き、「海」と黄金の神殿をキラキラと照らしていた。数日前大騒ぎがあったとは思えないほど、モリヤ山かあ見下ろす夜のエルサレムは静かで、いつも通りの平安の都であった。
ソロモンが松明の明かりをともすと、ビルキスはいつの間にか、美しい人間の姿に戻って、ソロモンの隣にいた。「さあ」彼女はせかすように言う。ソロモンも静かに、神殿の扉を開けた。
懐かしい。ヒラムが死んだ日にも、ここに来たっけ。いや、それより前から、この神殿がこの世に実態を持つずっと前から、自分は何回も訪れていたのだ。この人が一人もいなくなったエルサレム宮殿に。
彼ら二人の足音が広い、広い宮殿にこだまする。二本の青銅の柱、ボアズとヤキンがしっかり立ち、その荘厳な空間を守っていた。彼らの脚だけが明かりに照らされ、上の穂は見えない。
ビルキスは昼間とは全く違うエルサレム宮殿をしげしげと眺めている様子であった。ソロモンは無言で、至聖所の扉を開く。
「内緒ですよ」彼は言った。だが、罰当たりなことをしている気分でもなかった。
彼女は、きっと大丈夫だ。
自分は、滅びの預言など見なかった。父も、ナタンも、ナタンの師サムエルも恐らく、見なかったであろう。
イスラエルの神に愛され他自分たちすらあずかり知らなかった未来を、イスラエルの神は、何故だかこの女性には見せたのだから。
至聖所には真っ白な天幕がかかっていた。ソロモンとビルキスは、その前に立つ。
「イスラエルの神に、御引き合わせしましょう」
厳かな声で、ソロモンは言った。ビルキスも「ええ」と言い返す。
ソロモンの真っ白な手が天幕の布にかけられ、ひらりと翻った白い天幕の中から、黄金に輝く箱が現れた。イスラエル人の秘宝、契約の箱が。
エジプトから先祖たちを連れだしたかの偉大なるモーセが神から受け取った石版、それを治めている、聖なる櫃。それが、ソロモンの掲げる松明の光に輝いていた。
だが、その輝きは先日のハダドの剣のように、目の前の人物たちを拒絶するものではなかった。返ってそれは暖かく、彼らを歓迎するかのように煌めいていた。
そしてその時のビルキスは、まさにその歓待を受けるにふさわしい人物であった。彼女はつつましやかに微笑み、いつも真にかそれにひれ伏していた。
「神を信じたことが、今までありませんでした」彼女は言った。「太陽も、月も、私にとっては天に輝くもの。神殿の黄金の偶像も、ただの彫像品でしかありえませんでした」彼女はソロモンに言うように、そして契約の箱を通じてイスラエルの神に言うように、ゆっくりと告白した。
「今初めて、私は、神と言う概念がこの世に存在した理由を知りましたわ。……ただ、あったからなのですね。貴方はここに坐していたのですね。世界をおつくりになられた、神様」
彼女の目は、契約の箱を映しつつも、さらにその奥にあるものをしっかりと見据えている様であった。イスラエル人ですら、一体何人がそこを見つめることができるのだろう。だが、彼女はそれを行っていたのだ。
彼女はしばし、じっと祈っていた、ソロモンも目を閉じ、感謝をささげた。ありがとうございます。イスラエルを、自分の命を、お守りくださり。そして、彼女を、自分と引き合わせて下さり。そして……彼女に、この世の真実を見せて下さり、本当に、ありがとうございます、と。
たとえ自分のこの国が、磔刑になって死ぬ男の手で滅ぶとも、それが貴方のおぼしめしであるのならば、喜んでその未来を受け入れましょう。ただ一つ願いが許されるならば、一人でも多くのイスラエル人を救ってくださいますように。神の道へと、天国に続く道へと、導いてくださいますように。
長い沈黙のうち、ビルキスは立ち上がった。そして最後に、礼を一つした。至聖所に冷たい夜の風が入ってきて、ふわり、とカーテンを動かした。契約の箱は金の光を発しつつ、カーテンの奥に包まれていった。

彼らは神殿の外に出た。明るい夜だった。神殿裏に色とりどりに咲くシクラメン畑に、彼らは向かった。
シクラメンの花に包まれるように、彼らは静かに腰を下ろした。あくまでソロモンの愛するその花をつぶさぬよう、細心の注意を払って。
ビルキスは静かに、ソロモンに寄り添った。エルサレムの都を見つめながら。
「コヘレトの一件ですが」彼女は言った。「そうである気が、していました貴方があのお手紙をしたためられるよりも、もっと……ずっと前から」
「そうでしたか」
「ええ。貴方も、自分が人間であるか否か、迷ったお方だと感じておりましたから……」
「本当に、貴方は私の事を良くご存じだ」ソロモンは薄く微笑みながら、そう告げる。「私の親兄弟よりも、貴方の方が、ずっと私をご存じでいてくれる……」
「もちろんですわ」そして彼女は、そんな彼を包み込むような優しい声で、返答した。
「ビルキス様、貴方は……」ソロモンは彼女の目をじっと見つめながら、はっきりと言った。その彼女の言葉での抱擁に、自分も報いるとばかりに。
「つねに、貴方自身が望むものです。貴方が人間と信じれば、貴方は人間だ。そうでないなら、そうでないでよろしい。麗しく、素晴らしいあなたと言う存在は何も歪むことがないのですから。その治世が、そのまなざしが見つめた自分を信じてください。私も、人生で一番孤独になった時、そうしました。……私と同じ道を歩んでください。漸く私たちは、孤独な旅路で、お互いに巡り合えたのですから」
ビルキスはそれを聞き、自分でもソロモンの目を見つめた。自分の目を、生きた人間にここまで穏やかに見つめられたことなどなかった、と、ソロモンはその時確信した。
「タムリンが話しましたでしょう?私の事を……」
「ええ」
タムリン隊長はそのことを秘密にしておけなかったのか。あるいはビルキスが聞きだしたのか。今となってはどうでもいいことだった。
「彼の記録は完全ではありませんわ、彼は、彼の目に映った事しかわかりませんもの。私のこの瞳が映したものは、あんなものじゃない……」彼女は続ける。「お聞きくださいますか、ソロモン王。私のことを……私と言う人間を」
「ええ」ソロモンは答えた。「私は、貴方の全てを知りたい……」
ビルキスは、そっと小さな唇を動かした。その唇の華やかさは、シクラメンの花弁にも似ていた。


ビルキスは、母のことは知らない。「お前のお母さんは、精霊なのだ。私を見染めてくれた、麗しい精霊だ」と父に幾度となく語られた母は、父のもとにも、自分の元にも姿を現すことはなかった。
ただ、母に関するおぼろげな記憶はあった。母に抱かれているような感触があり、そして母は自分に何か語りかけていた。
その内容が、どうしても幼いビルキスには思い出せなかった。覚えているのは、母が実在したこと、そして自分に何かの言葉をくれたと言う事実だけ。

父ヒムヤリは、ビルキスには優しかった。小さいころ、怒られたり、殴られたりした記憶は一つもない。彼はいつも彼女を前にすると優雅に微笑んでいた。ただ一つ、彼女が家の外に出る事だけは断固として許しはしていなかった。
しかし幼いビルキスは、別段それに違和感を覚えることもなかった。自分の脚が、父親や屋敷の召使の者と決定的に違う、と言うことを知っていたからだ。
父は、彼女に度々、外に出てはいけないと言った。
「外は怖いからね。お前の脚を見て、自分たちと違うから、と虐げる人が大勢いるんだよ。私は、お前にそんな思いをしてほしくない」
特別、それにショックを覚えることもなかった。ショックを覚えるにはあまりに彼女が与えられる情報は少なく、彼女にとっては自分の脚が他人と違うということも、だから外に出てはならないということも、太陽は東から上る、植物は水を吸って生きる、などと言う世界の真理と同様に、特にどうと言った感情もなく当たり前のように受け止めるべきことだった。
そんな生活が、彼女が十歳になるまで続いた。彼女の人生を大きく変えたのが、父の親友と名乗る男が家に来たことだった。

タムリン、と言うその男が屋敷に現れた時、ビルキスは最初、遠目から見るだけだった。父はたまに人が家に来る際も、自分は極力合わないように、自分達の人間は怖いから、と言い張っていたのだ。
しかしこの時ばかりは、父は彼をビルキスに紹介した。ヒムヤリにとって、タムリンは確かに間違いなく、無二の親友であったのだろう。ビルキスにしても、嬉しかった。新しく、コミュニケーションをとっていい相手ができたことが。だが、それ以上に、ある日彼女は経験したこともない嬉しさを知った。それは、タムリンが渡してきたものだった。

「ビルキス。これを、君に……」
ある日屋敷に訪れたタムリンは、そう言ってビルキスに赤いルビーの首飾りを渡した。真鍮の鎖につながれて、大粒の赤い宝石が煌めいていた。
ビルキスは、ルビーを見ること自体が初めてだった。父親は自分に色々と切り絵なものを買ってきてくれたが、ルビーはまだだった。
まるで、初めて見る美しさだった。その輝きに、ビルキスの脳と思考は躍った。
「気に入ってもらえたかな?」と言うタムリンの声に、「ええ」とにっこり笑って返すだけの余裕などなかった。代わりに彼女はこう答えた。
「うん……ねえ、おじさま。これ、なに?」
「ルビーだよ。私の言った当方で、良い取引の品になった」
「そう……」
彼女は心底、その宝石に惚れこんだ気がした。それは確かに美しいきらめきを持つ。だが断じて、それだけの存在ではないはずだ。それ以上の存在であるはずなのだ。
良い取引の品?なぜだろう。当方と一口に言われたが、具体的にはこれはどこでとれるのだろう。シバ王国でもとれるのだろうか。いったいどこでどれほどの価値が付いたのだろう。何とならば釣りあう品なのだろう。そんな好奇心が、爆発するように湧いてきた。
生まれて初めてとでもいうほど、その瞬間は楽しかった。気が付けば彼女は、思い浮かんだ質問を次々と奴具早にタムリンに浴びせていた。
少し落ち着いてきたころ、しまった、と彼女は思った。箱入り育ちとはいえ、シバの娘として取るべき態度は常識的な範疇ではわかっていた。自分は、はしたないことをしてしまったかもしれない、と思った。
だが、彼女の金色の目に飛び込んできたのは、みっともないものをとがめる大人ではなかった。タムリンは優しく、彼女の質問に非常にわかりやすく答えてくれたのだ。
ビルキスは、知識欲が満たされるその瞬間にも並ぶほど、それを嬉しく思った。
この自分の人生で初めて得る快感が、決して間違っているものではないと、担保されたような気分であった。

その日を境に、彼女はいろいろなものに興味を持った。ルビーと同じだ。この世の色々な物の側面を知りたくなる。文字を読んでみたい、星の知識を知りたい、いろいろな国の事を知りたい、計算をしてみたい、出てくる欲に際限などなかった。自分はこんな才能があったのか、と彼女は初めて知った。
才能の赴くままに、タムリンに知識を仰ぐのは本当に楽しかった。まるで自分が生きる道を生きているかのような充足感。十年生きた人生の中で、間違いなく非常に楽しい時間だった。
「こんな本が読めるのか、すごいじゃないか」
「外国語をこんなに早く覚えるなんて」
「こんなに計算が早いなんて。我々顔負けだよ」
驚いた顔で、タムリンは何回も彼女を褒めた。ビルキスは褒められるたび、本当にうれしかった。自分の楽しみが、自分の努力が、認められているようで。
宝石焼き物を貰うより、知識を貰うのが楽しかった。自分はこのために生まれてきたのではないか、と確信すらできるほど、ただひたすら自然に楽しい時間だった。

そんな日々を過ごす中、ビルキスはどうしても外に出てみたくなった。ヒムヤリが所要で家を空けている数日間の間に、タムリンが来た際、彼女は思い切ってそれを口にした。
タムリンは迷っていたようだが、それでも了承してくれた。その日、ビルキスは初めて外に出た。
何もかもが面白かった。学んだことがそのまま実在し、同時に知らないものがあふれている。市場の色とりどりの商品も、港から来た荷車に乗せられた銀の魚も、ヒムヤリ邸には植えられていない植物たちも、神殿にそびえる見事な彫像も、皆、ビルキスにとってはただただ面白かった。
タムリンは商人だ。世界中を旅している。きっとマーリブにないものもたくさん見ているだろう。自分も、そうあれればいいのに……ビルキスの中で、そんな思いが募っていった。
と、そんな時だ。ビルキスは気が付いた。外に出てからずいぶん経っている。けれど、まだ誰も、ビルキスにひどい言葉を投げかけたりなどしなかった。
当然と言えば当然だ、彼女は足を隠していたのだから。だが、父はいつも言っていた。外に出るな、出るとお前は虐げられる、お前は人間の脚をしていないのだから。
そんなことはないじゃないか。仮に、足をさらせば虐げられるにしても、隠していれば自分は全く普通の人間と同じだ。誰だって、ビルキスを変な目で見すらしなかった。みんな、目の前の事に一生懸命だった。ビルキスの衣服をまくって異形の脚をさらしあげ、嘲ろうなどとする人は、存在すらしていなかった。
自分は、外に出たって大丈夫なんじゃないか。彼女はそう、強く感じた。父はなぜ、自分をかたくなに家から出さなかったのだろう。世の中は、こんなにもビルキスのことをただの人間として処理してくれるのに。
外に出たっていいのに。家に帰る旅路の中、彼女のそのような思いはどんどん募っていった。外に出て、タムリンのように、世界中を飛び回れたら、どんなに楽しいだろう。
「ねえ、おじさま」気が付けば、そんな望みが口を突いて出ていた。
「私も、おじさまみたいな商人になりたい」
非現実的な望みだということくらい、知っていた。それでもタムリンは、きっと自分の望みを肯定してくれるだろう、そう思っていた。
「ああ、きっとなれるんだろうね。私顔負けの商人になるだろうな」
タムリン亜層返してくれた、嬉しくて。顔がほころんだ。
だが、その時だ。
ビルキスは一瞬、タムリンの顔に異常を見た。それは、身の程知らずの事を言う小娘を咎める視線ではない。もっと恐ろしい何かを、彼女はその時感じた。
恩義のあるタムリンに、それしきで嫌な顔もできない。彼女は笑顔のままだった。だが、彼女はその時、確かに異常を感じたのだ。大好きだったタムリンから。
曽於以上の正体を知ったのは、11歳の誕生日の時だった。その日もタムリンは、彼女に土産を携えて、誕生日を祝いにやってきた。

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feat: Solomon 第七十六話

ハダドはしばらく、静止していた。彼女を目の前にして。彼の手から力が抜け、ずるりとソロモンは解放される。
当の彼女はハダドに一瞥だけをくれると、静かにソロモンの元に向かった。長い裾を、血に汚れた敷石に泳がせて屈みこみ、白絹が血に塗れるのにも構わず、彼女はソロモンに手を差し伸べた。
「まあ。酷い傷」
不思議な人だ、とソロモンは思った。なぜ、彼女は落ち着いているのだろう。このような状況で。
その時だ。ソロモンの心に一つの答えが舞い降りた。それは彼自身の考察ではなく、確固たる答え、彼女自身と神以外はあずかり知るはずのない真実が、ソロモンにも与えられたような感覚だった。
そうだ。まだ、神殿に行っていないから。まだ、この私が、死ぬはずがないからだ。

ペタリ、と感触がした。マント越しに、傷口に何かが触れられる感触。彼女の手だ。彼女の褐色の柔らかい手も、黒髪も、白いドレスも、宝石をちりばめたローブも、ソロモンの血で汚れた。
そして、彼は自分が子供の時教えられていたことが、全てうそだったのだと悟った。お前は気色悪い、お前の赤い目は醜い、みんなお前のことなど嫌う、お前のその姿は美しさと対極にあるから。
全部、違っていた。
彼女は血、ソロモンの血で赤く汚れながら、何の違和感もなかった。あれほど美しく、今なお美しい彼女が。自分は、醜くなどなかった。劣ってなどいなかった。食べず嫌いの子供のように、誰もかれも、自分のこの血に触ったことがないくせに、汚れていたと言っていたのだ。
「おいたわしい……」
「いいえ……ビルキス様」
まだエルサレム市街は戦乱のはずなのに、そこだけ静かだった。ハダドはそんな二人を見て、逃げた兵隊たちにも気絶したベナヤにも構うことなく硬直していた。
「私は今、幸せです。この人生の中で、一番。玉座についた時すらも、ここまで幸福な瞬間ではあり得ませんでした」
自分は王だ、自分は優秀だ、と言う自覚の下でも、その時言われ続けた心の傷が冷たく眠っていたのだ、とようやくソロモンは思った。そして、その冬眠ももはや終りだった。彼らは安らかに、眠ったまま、溶かされていった。
ビルキスは全くハダドに構う様子は見せなかった。彼の事を脅威とすら認識していない様子であった。
「吉報ですわ」彼女は静かな声色で言った。
「レゾンの軍隊には、ただいまヒラム王が向かっております。しかし敵方は予想よりもずっと人数が少なく、鎮圧は目前です」
ハダドがはっと目を剥いた。ソロモンは激痛を抑えながらも微笑み「そうですか、それは何より……」と告げた。
「あなたは……」不安定な、低い声が響いた。ソロモンとビルキスの世界に入るノイズのような声。事実、その声は震えていた。ハダドが発したものだった。「あなたは、誰だ?」
ビルキスはそっと細い首を動かし、ようやくハダドの方を見た。ハダドの瞳は、既に復讐者のそれではなく、ただ闇夜の中に明るく輝く金色の光にすがる死にかけの虫のようであった。
「はやく……離れてくれ。そいつは、貴方が触れるべきものじゃない。貴方は、そんなものの側にあってはいけないのだ……」
ビルキスは少しだけ、目を細めて彼に言った。ハダドが無意識に差し出したその手を、言葉を持って叩き落とすかのように。その言葉は透き通るほど美しく穏やかな声音であったのに、その時エルサレムで多々あっていたどの戦士よりも強く、残忍な兵になり、女王に手を差し伸べる不届きものから主を守った。
「あなた、誰?私の、何をご存じなの?」

ハダドの手から力が抜けたようであった。それでもタルシシュの鋼の剣を手放さなかったのは、彼の執念のなせるわざであった。
誰、だと。
当たり前の問いであるはずであった。自分と手彼女の名を知りはしない。だがあの時、彼女は一瞬で自分の心を刺し貫いたのだ。どのような女にも、復讐の心をかき乱されることなどなかった自分の心を。
そんなあなたが、何故私を知らない。私の事を知りもしない人間が、何故私の心を、こうも射止めたというのだ。そのようなことが、この世に、あって成る者か。
「知る者か。貴方が、どなたかなど」ハダドはそれでも、なんとか言い返した。
「だが、そ奴の事ならば知っている。エジプトの奴隷の末裔だ。その中でも、賤しい羊飼いよりでたものだ。……人の姿を持たず生まれてきた、できそこないだ!」
「そして」ビルキスはすっと立ち上がった。ソロモンを庇うように。血にぬれたドレスの裾が重そうに動き、再び地面に泳いだ。
「偉大なるイスラエル王。神より知性を預かり、イスラエルに繁栄を導いた王……その名を、ソロモンと言うお方」
彼女の白いドレスは、ソロモンの血でもはや真っ赤だった。だが、それでも、彼女は何も変わらず、美しかった。背筋はぴんと伸ばされ、自分より身長の高いハダドの事ですら、その目つきは上から見下すかのような圧倒的な威厳を持っていた。
彼は、誇り高き亡国の王子であったかもしれない。だが、彼女は、今この世に君臨する誇り高く麗しい国、シバ王国の、たった一人の女王であったのだ。
「そして」彼女は桃色の唇で弧を描いた。いったいどれほどの男が、そこに口づけしたいと願ったのであろう、その唇で、はっきりとこのように告げた。
「この私、シバの女王ビルキスが……誰よりも大切に思うお方です」
ありがとうございます、と、そのような言葉すらも、必要がないかのように、ソロモンには思われた。
彼女はただただ、この世の絶対の真理を言うかのように、その言葉を言った。人の目は赤ではない、などという言説よりも、ずっと、彼女のその一言の方が、ゆるぎないこの世の真実であるかのようだった。
「シバの女王……なるほど、道理で、高貴なお方だと思った……」
ハダドはそれでも、言った。彼は本当に、ダビデとソロモンを憎んでいたのだろう。
いや、それだけではない。ソロモンは激痛の中でも、思った。この男はきっと、真直ぐな男であったのだ。理不尽を見過ごすことのできない、正義感の強い、真直ぐな男。おそらくその点は自分よりも数段人間として格上だ。
ただ、理不尽に誰かを虐げる悪として一度誰かを認定してしまったら、もうその考えを消し去ることが断固としてできない人間であった、それだけなのだ。
「ならば、なおのこと……離れるがよい。そのような言葉を口にはせぬことだ……」
彼は鋼の剣を再び構えた。
「大切になど、思わぬことだ!誇り高き雌獅子が、賤しい家畜の犬と結ばれることなどは有り得んのだ!そいつが貴女に何をした、イスラエルの邪神に与えられた知恵とやらで、美しい貴女に、何をした!」
剣の切っ先がぎらつく。彼は決して、ビルキスを殺しはしないのだろう。だが、その煌めきの中の殺意を、ソロモンは感じたことがなかった。なるほど、我欲ではなく正義感から来る殺意とは、これほどにも純粋で恐ろしいものか、と、彼は感じた。アドニヤの微笑みすら、あそこまでの恐ろしさはなかったのだから。
ひゅん、と刃物が振り下ろされた。彼の剣の腕は確かによかった。彼の剣はビルキスを傷つけることなく、彼女の胸元に飾られた首から字の鎖を引き裂いた。ビルキスがそれに気が付き拾おうとした刹那、鋼の剣はエイラットストーンに突き付けられた。
「こんなもの……こんな、石ころ!」
彼はいつから気が付いていたのだろう?二人を結びつける二つの青緑の宝玉、世界に二つしかないその青緑に。ビルキスが何か告げる間もなかった。鉄よりも固いタルシシュの鋼は、オアシスのごとき青緑を、一瞬で粉々に砕いた。ハダドの嫉妬を受け切るには、その可憐な宝石は、余りにも脆かったのであろう。
ビルキスは黒大理石に散らばる青緑の粒を見て、瞳を瞬かせた。だがハダドはそんなことには気が付かない様子だった。
「あなただけではない……」ハダドはその切っ先の殺意を、そのまま音に変換したような声色で告げた。
「こいつのせいで、ダビデの血筋のおかげで、苦しむものがいる。賤しい羊飼いのくせに……奴隷にすぎぬ者達のくせに……」
「ソロモン様」
ビルキスは少しだけ振り返り、言った。
「お願いしてもよろしゅうございますか」
「何をです?」ソロモンはかすれるような声で言った。
「あなたは、信じられないものを目にするかもしれません」彼女は静かに言う。ハダドの持つ剣を、金色の目でじっと見つめながら。
「それでも……あなたが今までその目にとめられた私は……シバの女王ビルキスは、ただただ……変わらずに私であるのだと、どうか信じてください」
「そのようなことですか」
聞く間でもない事だった。だがその聞くまでもない質問をする彼女が、ソロモンには無性に、愛おしく思えた。
「このソロモン、貴方の頼みとあらば何でも聞きましょう。麗しのビルキス様」
ビルキスはくすりとほほ笑むと、すっとハダドに向かって歩みを勧めた。ハダドも、じっと彼女を睨みつける。
「お退きになることだ。貴女を傷つけたくはない……!」
「彼の事を、家畜の犬と言ったわね」
彼女は今度こそ、ハダドの言葉を何も聞く意志などないとでも言わんばかりに、鋭く言いすてた。そしてハダドが二の句を注ぐ余裕もないままに、告げる。
「何をされたですって……?何よりも、大切なことを教えてくれたわ。誰も、教えてくれなかったことよ。貴方みたいな……そう、貴方みたいな人たちが、誰一人教えてくれなかったことを。彼は教えてくれたの」
ペタペタと音を立てて、ぬれた重いドレスの裾が大理石の床を這う。
「彼が犬なら、貴方は何。雌獅子にたかる、ノミかしら」
彼女はハダドの目の前に立つと、こう告げた。王宮のバルコニーから勅令を告げる女王の声、そのままに。
「ならば、雌獅子に噛み殺されて、死んでおしまい」

視界が揺らいだ。
見えるはずのないものが、そこに起こった。
それは、燃え盛るエルサレムの熱風が見せた幻覚であろうか。 いや、違う。見えるはずのない物でありながら、それは確かに、現実であった。
刹那、ビルキスの体が発行したかと思うと、その人型の光は瞬く間に姿を変えた。まるで彼女の瞳のような、眩しい黄金の毛並みを持つ……雌獅子の姿に。
そして、ソロモンにも、ハダドにも、驚く間も与えられなかった。雌獅子はしなやかな体を跳躍させ、ハダドに襲い掛かった。
血が飛び散る。真っ赤なそれは、ソロモンの者と特に違いはなかった。彼が奴隷と呼んだ血にも、国が亡くなっても誇り続けた血にも、違いなどなかったのだ。
ソロモンの体力も、そろそろつきかけていた。視界がかすむようだった。カランと聞こえる音。ハダドの手から、賢が離れたのだ。
そして、ハダドの体も、ずるりと床に倒れ伏したようだった。
ハダドはそれでもなお、呻き続けている様であった。かすむ視界の中、ソロモンは告げた。
「ハダド。コヘレトの居場所を知りたがっていたな」
彼の返事も聞こえない。自分の耳もかすんできたのか、彼はもう声すら出せないのか、それとも自分の声が非常に小さくなってきたのか、判別はつかない。だが、これだけは言っておきたいと思っていた。
「奴はお前の目の前にいる。……このような体だからと、誰からも忌み嫌われて。人目を避けるように黒いマントを羽織って、子供時代を過ごしたのだよ。私は……」
うめき声がどよめいた。先ほどの剣の切っ先よりも、それは恐ろしい殺意を宿したかのように感じた。それはおそらく、屈辱のせいか。よかった、聞こえてはいたのだな、とソロモンは感じた。
「感謝しているぞ。来てくれて……本当に、この人間の生きる世界で、誰も私に同情し、助けに来てくれるものなどは、いなかった……」
それを言い終わり、ソロモンはいよいよ力が抜けた。外の音も収まりつつある。
「ソロモン様」
そう声が欠けられた気がした。しかしそれは音声ではないようにも思えた。だが、はっきり彼は分かった。ビルキスが、ここにいる。
ソロモンはそのまま、眠るように意識を失った。

丸腰になったレゾンの首元に、刃物が複数突き付けられた。
「観念するのだな。賊の王」ヒラムはレゾンに、部下たちに代わってシリア語で告げた。部下たちがとうとう、レゾンを縛り上げた。狂犬のような目で自分を見つめる彼に少しも怯えることも是図、ヒラム王は言う。
「よくも私の貿易を散々邪魔してくれたものだ。落とし前はたっぷりつけさせてもらうぞ……!」
「は、そう言っていられるのも今のうちだ、銭ゲバのフェニキア人ごときが!」しかしこのような状況になっても、レゾンは語気を鎮める様子を見せない。
「今に見ていろ、援軍が……」
「援軍?援軍どころか、見た手よりもずっと少なかったぞ、貴様らの軍隊は」
「なんだって……?」
その返答を見て、ヒラムも異常に思った。この目の前の男も、どうやら軍の少なさを知らない様子であった。
強気な姿勢を崩さずに居つつも、その目つきの中に確かにおどおどしたものを感じ取ったヒラムは、ふっと彼をあざ笑って言った。
「ひょっとして、お前達……」
エルサレムの火もそろそろ消えるだろう。あらかじめ兵隊たちの支持のもと避難もさせた。大した損失にはなるまい。
「仲間から、切り捨てられたのではないか?」
レゾンはその言葉に、目を白黒させた。
「なんだと……ふざけるな!奴隷の末裔に尻尾を振る誇りもくそもない守銭奴どもが!我らの誇り高き革命に何を言う!」
「ふん、私は国を富ませることができないなら、お前の言う所の誇りなど、別段欲しくもないのだがね」
彼は護衛兵達に拘束されたレゾンを馬車に乗せ「帰還する!この者の処罰は牢に拘束してから考えるとしよう」と言った。
「見ていろ!ソロモン王は今時死んでいるはずだ!奴の汚らわしい血筋に相応しい罰を受けているはずだ!」
「ある種では、お前の人生がうらやましいねぇ」ヒラムはあっさり言い返す。「目に見える数字ではなく、実体のない概念的な理想で心が満たされるなら、どんな状況でも幸せでいられるだろうよ。そんなもの若者だけの特権だと思っていたが、お前みたいなのもいるもんだね」


どれほど時がたったのだろう。
ポッポッポ、と音がした。聞き覚えのある音。ソロモンは瞼を持ち上げてみた。
見知った、自分の部屋だった。窓から何羽もヤツガシラが集まってきている。「お前達……」ソロモンは言って、体を起こそう落とした。幸いなことに、痛みは大分消えていた。傷もあらかたふさがっているらしい。蝋燭の光がまだともっていた。
外は夜だった。どうやら相当長い間寝込んでいたらしい、すこし体に巻かれている包帯を乱してみると、はっきりいと袈裟懸けにされた傷跡が残っていた。左胸に小さく残り続ける傷痕と一緒に。
だが、生きている。ソロモンはその事実に、ふっと安心した。
こんな時間に誰かを起こすのも野暮だ。だから別に、誰と話そうという気も起きなかったが、夜が明け次第状況を聞かねば、聞くべきことを整理しようと思い当たった。だが、その時、ソロモンの目に飛び込む二つの光があった。
倉上の中に、二つの目が光っている。猫の目だ。まるでオフィルの黄金にも勝るのではないかと言うきらめきを持つ……金色の目の猫が、そこにいた。
猫がいると言うのに、ヤツガシラ達は少しも怯える様子を見せない。猫はすっと部屋の中に入り込むと、刹那光輝き……ビルキスの姿になった。
「ビルキス様……」
「お目覚めになられたのですね。よかった……」彼女はすっと彼の寝台まで寄ってきて、傍らにあった椅子に腰かける。
「なんてお早い傷の治りでしょう。やはり、貴方の作られた傷薬は違いますわ」
「え、私の……ああ」
そういえばビルキスがけがをした時、サラヒル女史に調合法も一緒に教えておいたのを思い出した。サラヒル女史は何とも、頼れる女性だ。
ソロモンは寝台から起き上がってみようと試みる。大した違和感もなく、体は動いた。あれほどの大けがからすれば、本当に早い傷の治りだろう。
「私を、心配して下さっていたのですね」彼は寝台に腰かけながら言った。
「もちろんですわ。心配しない理由など、ありますでしょうか……」
しばし、彼らは微笑みあった。何羽ものヤツガシラが、彼らを見守ってくれていた。
「ねえ、ソロモン様」ろうそくが燃えつきそうな頃、ビルキスは微笑んで言った。
「神殿に連れていって頂けるお約束をしていましたわね?」
「ええ」
「行きませんか。今すぐに」
今に消え入りそうな炎の光に照らされる彼女の顔は、まるで無邪気で悪戯好きな少女のそれだった。ソロモンも笑った。今では自分も、レハブアムに負けもおとりもせぬ腕白小僧になれる気すらしていた。
「いいですな。行きましょう」
ソロモンは寝間着のまま起き上がる。引き続き少し笑って、ビルキスはソロモンの胸元に寄りかかった。そして、次の瞬間、彼女はまた、光輝き、姿を変えた。
蝋燭の明かりが燃え尽きる。バルコニーから差し込む薄い月明かりと星明りにのみ照らされて、そこには言いようもない美しい生き物がいた。
まるで心優しいロバのようでもあり、荒々しく不気味な山羊のようでもあり、しかしただただそれは美しく、穏やかな目でソロモンを見つめていた。お乗りください、と言っているように、その生き物……いいや、ビルキスは、首を動かした。
「ええ」
ソロモンは返答し、ひらりと彼女の背に飛び乗った。彼女はかっかっと蹄を鳴らし、ふわりとバルコニーから飛び立った。屋根から屋根へ、神殿を目指して。
まるで飛んでいるかのように軽やかな感触で、少しも傷痕に響くことはなかった。気が付くと彼らは、明かりの消された、真夜中のエルサレム神殿へたどり着いていた。


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The Princess of Sheba 第十四話


シェバの反乱についての新しい情報が届いた。彼らはベト・マアカのアベルという要塞都市を乗っ取り、籠城戦をしているらしい。
ダビデ軍はそこを包囲したらしいが、アベルの城壁を崩すのは至難の業だ。あちらも精力的に応戦しているし、アベルの住民たちの手前、城壁を無理に壊して攻撃に入るわけにもいかない。膠着状態になっているという話だった。

ソロモンはその晩、ただ書庫にいた。自分の部屋に戻るのすら、怖かった。ここでは静かでいられる。不安を感じずにいられる。
シェバの乱の件も、特に心配していなかった。ダビデやアドニヤがいるなら、なんとかなるだろう。自分が気にしたって何もならない……。
その時、彼はふわりと、風を感じた。小さな窓一つしかない書庫で。
気配がする。自分しかいないはずの、真っ暗な部屋に。彼はランプを持ち、そっと、気配のする方向に進んだ。
そこに、ニカウレが立っていた。
彼は、彼女の名前を呼ぶ。どうして彼女がこんなところに。自分は一日中此処にいた。誰かが入ってきたらすぐ気が付くはずなのに。反乱したものの娘が、こんなところに来られるはずはないのに。
彼女は、まるで彼女自身が発光しているかのように、暗い部屋ではかない月明かりを浴びながら、美しく輝いて、そこにたたずんでいた。そして、自分を呼んだソロモンに、そっと手を振って返す。
「どうして、来たの?」
彼は問いかけた。
「それは……どういう意味?」
彼女は穏やかに言う。
「なんで裏切り者がここに、ってこと?それとも……どうして私が、イスラエルに来たのか、っていうこと?」
彼女の微笑みを見て、ソロモンは非現実的な気持ちになった。「君は……」ソロモンは、彼女のエメラルドの瞳をじっと見つめて言う。
「君は、何者……?」
彼女は優しく、息を一つ吐いて言う。
「ある方に、ここに行くように言われたの」
風が吹かないはずのこの部屋で、ふわりと彼女の真直ぐな赤毛が揺れた。まるで室外に居るかのようだった。彼女の目も、またソロモンの目をじっと見つめていた。
「人間が生きていると、どこかに必ず罪はたまるわ……とくに、あなたの家は。ダビデの家はそうだった。アブサロム様の妹様も、あなたのご両親の事もそう……」
彼女はゆっくりと、小さな子に倫理を言い含めるかのような口調で話す。だが不思議と、下に見られているような感触はなかった。むしろ手ひどいことを言われているはずなのに、包み込まれるような安心感がそこにはあった。
「だから、いつか何かしらの形で、罪の清算は行われなくてはならないわ。今回は、私がその役目を仰せつかった……。だから来たのよ、この国に」
「じゃあ、君は……?」
ソロモンは目を大きく開き、彼女を見つめる。彼女はくすり、とほほ笑んだ。そして。ドレスの裾を翻してソロモンの側に寄る。
じっと、彼らはお互いを見つめた。
「ソロモン。私、あなたの事好きよ」
彼女はそう囁いた。
「あなたといられて楽しかった。ありがとう」
「……僕も」
ソロモンも、小さく言う。
「僕も、君の事、好き……」
彼女は真っ白な頬を少しだけ赤らめて、微笑みを絶やさずに言う。
「ソロモン。貴方が大人になった時、またあなたの所に来てもいい?」
王宮は騒がしいはずなのに、静かすぎるほど、書庫は静かだった。彼女の声だけが響き、それだけがソロモンの聴覚を支配していた。
「言ったわよね、大人になったらもっと自由だって……大人になったら私たち、もっといろいろなところに行きましょう。約束よ」
「うん」ソロモンはうなずく。自分の頬も、赤く染まっているのが何となくわかった。「分かった。楽しみに待ってる」
彼女はもう一度、目を細めて微笑んだ。とても純粋な、綺麗な笑顔だとソロモンは感じた。
彼女はそっとソロモンの頬を抱く。そして、静かに、とても自然に、彼の唇にキスを落とした。
それを最後に、ソロモンはふわりと意識が遠のいた。夢見心地のような気分だった。

キルアブはその夜も、ニカウレの事を考えていた。もう何日も眠れていない。発作に苦しみ、楽なときは彼女の事を考えながら自慰行為にふけるだけの生活。どこにいるんだ、早く来てくれ。お前がいないと眠れない。お前がいないと生きる意味がない……そう考えながら夜空を眺めていると、ふと、流星が一つ流れていくのが見えた。
その時だ。
彼の胸がキリリと激しく傷んだ。咳の類ではない、それよりももっと自分の体を痛めつけた。全身からみるみるうちに、生命が消えていく。血の気が、自分の体から引いていく。
彼は呼吸もままならないまま、かすむ目で人を呼ぶ鈴を探した。だが、それはいつも置いているサイドテーブルにはなかった。先日アビシャグに放り投げてしまったのだから。
絶望に染まり、誰も来ない部屋で、キルアブは一人、少しずつ、少しずつ目の前が暗くなっていった。
「……ニカウレ……」
彼は最期まで、その名を呼び続けていた。


要塞都市アベル。
ダビデ軍とシェバ軍の争いは、夜中になっても膠着状態だった。
アブサロムは長髪を掻きあげ、隣のシェバに言う。
「どうします?シェバ殿」
「焦らない事ですね」彼は鷹揚に言った。「心配せずとも、下手に動かなければこちらが負けることは……」
その時、シェバは言葉を引っ込めた。彼の眼は、夜空に吸い寄せられた。アブサロムはきょとんとして彼の方向を見る。だが彼は、一瞬のうちに消えていった流星の去った空を眺め「あ、ああ……」と、顔を真っ青にして激しく震えだした。
「どうしました……」
「いやだ、行かないでくれ!」
彼はがたりと椅子から立ち上がり、夢中で駆けだした。アブサロムが驚いて止めようとしても遅かった。彼は城壁の物見台に昇った。
「何をしているんです、シェバ殿!」アブサロムは叫ぶ。司令官の彼が弓兵に襲われるかもしれないのに。だが彼は自分のそんな言葉など意に介していないかのように、地平線に消えて行ってしまった流星を追うように、叫んだ。
「待って、待ってくれ!おいていかないで!貴女に……貴女に捨てられるくらいなら、私は!」
そして次の瞬間、シェバ軍は目を疑った。
シェバは城壁の上で剣を抜き、自分の首を切り裂いた。勢いよく血が吹きだし、首を失った彼の体は城壁の外、ダビデ軍が陣を張っているところに転がり落ちた。
その場はしんと静まり返った。たった一瞬起こった、余りの出来事に、誰もが言葉を失ったのだ。


シェバは、急に気をおかしくして自殺した。
頭を失ったシェバ軍は散り散りになり、王国軍に敗退した。
アブサロムも、逃亡中に殺された。
イスラエルには、そんな情報が入ってきた。かくして反乱は終わったと。にぎやかなダビデ王の凱旋のパレードがまたエルサレムにやってくる。しかし、その場にはもう、髪の長い、憂鬱そうな王子の姿はなかった。
そして王宮の、病弱な王子もすでに亡くなっていた。ある朝、頑として看病に行こうとしないアビシャグの代わりに看病に来た侍女が、苦悶の表情で死んでいるキルアブの死体を見つけたのだ。

すっかり終わったころに、ソロモンは意識が戻った。気が付いたころには、彼は自分の部屋のベッドで寝かされていた。
「よう、目が覚めたか」
そう言ってきたのは、アドニヤだった。
「兄上……?」
「おかえりの一言くらい言えよ。お前、まる四日意識がなかったんだぞ」
何だって?ソロモンにはそんな時間の感触はなかった。喉も乾いていないし、腹も減っていない。
アドニヤは、戸惑う彼に、何があったか話してくれた。アブサロムも、キルアブも死んでしまったことを。そして自分も、死んだのではないかと心配されていたということを。
「兄上たちが死んで……お前まで死んだら、皆悲しむだろう」
「そうでしょうか……」
「幸せに生きたいんならな、そうだと思い込むことだ」
彼はソロモンにため息をつきながら言う。
「狩りに行く約束をしていたな。喪が開けたらいっしょに行こう。綺麗な鹿がいる森を知っているんだ。動物も、植物もうんとあって……獲物が取れなくても、見ているだけで楽しいぞ。ものをよく知ってるお前ならきっともっと楽しい」
ソロモンはなんだか、おかしな気分になった。アドニヤはこんないい兄だったろうか?そのことを問いただすと、アドニヤは呆れて言った。
「キルアブの兄上にしか構わずにあとはずっと書庫に居て、俺とはろくに話したこともなかったくせに、何知ったような口ききやがる」
それもそうだ、と感じた。ソロモンは素直に彼に謝った。

二人の王子の葬儀が行われ……アブサロムの遺体は戻っては来なかったが……ダビデ王宮は誰もが喪に服した。しかし、喪服を着たアドニヤは、ある日父にこう言った。
「少々、お耳に入れたいことが……」
「なんだ?」
彼はいつもの通り、悠々と笑いながら言う。
「あのシェバ氏の持ち物から、身元が割れました。ベニヤミン族の、ビクリと言う金持ちの男の家の息子が、数年前から行方不明だったそうです。もっともひどいごくつぶしで、ならず者で通っていたようですが。そいつでした。遺品を送って人相も知らせて確かめさせたら、間違いはないと」
「なんだって……?では、奴はイスラエル人だったのか?」
「はい、そうです。それどころか……行商人に何人も聞いてみたんですが、誰もシェバ王国なんて国は知りませんでした。そんな名前の国は、存在しないそうです」
ダビデは首をかしげた。アドニヤはふっと不敵に笑って言った。
「ニカウレ姫もどこかに雲隠れ。シェバ王国とはなんだったんでしょう。いったい私たちは……何を見ていたんでしょうかね」


それから数か月がたったある日の事だった。
ソロモンは、城下の市場をぶらぶらと歩いていた。その中でふと、なんだか懐かしいような香りがした。見てみれば、おそらく外国の行商人の店だった。
だが、彼の目が引き付けられたのはその珍しい品物の数々ではなかった。その店にいた男は、抜けるほど白い肌をしていて、髪の毛は夕日のように真っ赤、そして目は、透き通るほど美しいエメラルド色をしていた。
「ニカウレみたいだ……」
彼はそう、ぼそりと独り言をつぶやいた。しかしその瞬間、店の男はその緑の目をギラリと輝かせた。
「坊ちゃん……?」
「な、なんだ?」ソロモンは怯える。
「ニカウレを……ニカウレを知っているんですか!?」男は震える声で問いかけた。その言葉を聞いて、彼も驚く。
「え、え……?あなたは?」
「ニカウレは、私の娘です!」
そう叫んだ、シェバとは似ても似つかぬ男を見て、ソロモンは驚く。だがどう見ても、シェバよりも彼の方が、ニカウレの父親であるはずだった。
「ニカウレは!?」ソロモンは必死になって縋りついた。「ニカウレは、今どこにいるんだ!?」
「娘は……」呻くように、男は言った。
「とっくに死にました。十年以上も昔に」
「なんだって……?」ソロモンは絶句した。
「じ、じゃあ……彼女は、どういう子だったんだ?」
彼は、ポツリポツリと、泣きながら話した。
「あの子は……不幸な子でした。とてつもなく、不幸な子でした。あの子は……美しすぎたのです。どんな男も、あの子を欲しがって、あの子のために争って。あの子が言うことを聞かないとあれば激昂して……私たちが、私たちがとめていればよかったんです。でも、私たちはあの子に恋する男たちがいくらでも落とす金に目がくらんで……娘に男たちの愛に答えろと、そればかり言っていました……」
彼は祭司の前で懺悔するように、絞り出して言った。
「だからあの子は……生きるために、あるすべを身に着けました。あの子は自分を愛する男が。自分自身じゃない、自分の美貌に皆惚れているのだと分かっていたのです。自分の美貌に理想の女性をみんな投影しているのだと分かっていたのです。だから……彼女は、新しい男に貰われていくたび、彼がどんな女性を望んでいるのか、いいえ、それにかかわらず、自分を見る相手がどんな自分を望んでいるのか、少し見るだけで分かるようになってしまったのです。生きるために、傷つけられないために、自分を殺して、必死で目の前の人物が求めるニカウレと言う虚像を、演じ続けていました……それで、何十、何百と言う男たちの間を渡り続けていたのです……死んだとき、まだ、たったの十四歳でした」
それを聞き、ソロモンはあまりの話のむごさに愕然とする一方ではっとした。全てに合点がいった。
誰もかれも、ニカウレを見る目がかみ合ってなかった。当然だ。彼らはみんな違うものを見ていたのだから。
妹に固執していたアブサロムは、妹の姿をみていた。自分のような奔放な女性が好きなアドニヤの前では、売春婦のような女としてふるまえたのだ。今となっては、キルアブが彼女に執着していたというのも、ちゃんと理解している。きっとキルアブも、彼が、内心では望んでいた、自分を受け入れてくれる女性を、彼女に見ていたのだろう。……ひょっとすると……アビシャグが見た彼女も、そうだ。アビシャグはキルアブの事が好きだった。きっと彼の心を引く彼女が、せめて、自分に劣る存在であってほしいと……途方もない悪女であってほしいと望んでいて、彼女は、それを嗅ぎ取ったのかもしれない。
そして……自分も。自分も、学問の話ができる相手がほしかった。彼女は自分の求める人物も、忠実に再現して見せたのだ。
あの自分の恋は、幻だった。それがわかってもソロモンは不思議と、さびしい思いはしなかった。「もう一つ、聞いていいか」彼は静かに言った。
「じゃあ……その彼女自身に殺された、本当の彼女って、どんな女の子だったんだ?」
「あの子は……ニカウレは」彼は震える声で呟いた。
「いくら男に愛されても……本当は男なんか、色恋なんか、嫌いな子だったんです。あの子はただ……書が好きで、学問が好きで、放っておけば一日中でも書物を読んでいて……将来は学者になりたいと、そう言っていました」
え?
その言葉を聞いて、ソロモンは頭の中が真っ白になった。
「私たちは……私たちは、女が学問なんかしても、好かれないからやめろ、女が学者になんかなれるか、女はかわいくふるまっていればいい、賢い生意気な女は見苦しいだけだと、そんなことばかり言っていました……あの子の夫になった方々も、誰一人そんな彼女は望んでいなかったからと、つい……けれど、けれど、こんなことになるんなら、こんなに早く死ぬのなら、許してやればよかった。ずっとずっと、好きなようにさせてやればよかった……」
彼のその懺悔を聞きながら、ソロモンは目を瞬かせた。
「じゃあ……僕が会ったニカウレは……」

その時、彼は思い出した。この香りがなぜ懐かしいのか。これは、ニカウレの香りだ。彼女がいつもつけていた香料の香りだ。
「これは?」ソロモンは男に指さす。
「乳香です。我が国の特産品ですよ」
「……買おう。いくらだ?」
ソロモンはそう笑った。
いつか大人になった時、彼女は自分に会いに来ると言った。香炉の中でたかれている乳香の香りを吸い込んで、彼はぼそりと、小さく呟く。
「約束だよ。僕は、ずっと待ってるからね」
乳香の香炉の煙が、青く晴れた空の上に、細く、高くたなびいていた。

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The Princess of Sheba 第十三話

「これはこれは王子殿下、ごきげんよう」
「……何の用で来られました?」
アブサロムは憮然として目の前の男に言った。今まで話したこともないが、こうしてみると親子と言うのが不思議なほど、ニカウレには全く似ていない男だった。
「そうですな……では早いところ本題に入りましょう」彼は使用人たちが気を使って周囲からいなくなったのを確かめると、切り出す。
「単刀直入に申せば、我々はイスラエルを滅ぼそうと思っています」
あまりに突然なことを言われて、アブサロムは葡萄酒を飲んでいたカップを床に落としてしまった。金のカップが落ちる甲高い音が聞こえて、葡萄酒が床に飛び散る。
アブサロムは目を白黒させた。この男は何者だ?なぜ、こんな話をイスラエル王子である自分にしてくる?
だがシェバは何もかもお見通しだと言わんばかりに、彼を見つめ、言う。
「イスラエルに近づいたのもそのためです。イスラエルの事を調べねば。だが色々なものを見てきた結果、我々にはイスラエルの内情に詳しい協力者が必要だという結論に至りました」
「それが……私だと?」
震えるアブサロムに、シェバはコクリとうなずく。
「ふざけないでいただきたい、私はイスラエルの王子……」
「あなたは、イスラエル王宮を憎んでおいでのはずです。妹を奪った王宮を」
その言葉を聞き、アブサロムははっと口をつぐんだ。シェバはそれを見つめ、にやりと笑う。
「お聞きしたい。貴方にとって、ダビデの家は守りたいものですか?憎らしいものではないのですか?」
アブサロムはただ、がたがたと震える。
妹が犯された時、死んだとき、誰もタマルの事を公にしなかった。ただ第一王子の威信に響くから、それだけ言って、妹の誇りも、自分の気持ちも、王宮の名のもとにすべて無視された。
自分は王宮が嫌いだった。ニカウレが来るまで、ずっと、王宮が嫌いだった。その彼女すら、王宮に居る兄弟たちが好き勝手に弄んでいる……。
シェバは一息つき「それに加え」と付け足した。
「わが娘も、あなたの事が気に入りの様子ですので」
「……ニカウレが……」
「ええ、そうですとも」彼はゆっくりと言った。
「ニカウレは」アブサロムは震える声で、無意識のうちに言う。「私の兄や、弟たちと……」
シェバはそれを聞き、ふうとため息をついた。
「みなまでは聞かないでいただきたいが」彼は切なそうに言う。
「ただ言えることがあります。あの子は、不幸な子なのです。本当に、不幸な子でした」
「なんだって……?」
「娘の事を売女のように思われますか?」シェバは言う。「あなたの妹様も、そうだとおっしゃるのですか?」
その言葉を聞いて、アブサロムは思った。妹はアムノンと契った。婚姻もしていないのに処女を失って死んだ。厳格なイスラエル人は、理由がどうあれ未婚で処女を失うなどはしたない、結局は売女と一緒だ、とそのような女のことを言う。だが、彼女は売春婦であったものか。彼女が、逆らえたものか。彼女があんな男に犯されるのを、悦んだものか。
「……いえ」アブサロムは言った。ニカウレが、ニカウレが売春婦のわけがない……。
「娘はほかの王子たちと違い、あなたを特別大切に思っている様子」シェバは葡萄酒を傾けて言う。「あなたは本物の兄のようだと……。アブサロム様。私には、王子がいません」
彼は身を乗り出して、囁いた。
「しかしニカウレの婿を玉座につけるよりは、私だとて私の名を継ぐ息子を次の王の位にしたい……いかがです、アブサロム様。シェバに参られませんか?この私の王子に……ニカウレの、本当の兄になりたくはありませんか?」
その言葉は、先ほどまでパニック状態になっていたアブサロムの頭の中に甘く響いた。
イスラエルを離れ、シェバの王子になる。ニカウレの本当の兄に……。
そうすれば……そうすれば。あの子をずっと守ってやれる。兄弟たちのことなど気にすることもなく、もうあんなふうに男に体を差し出させることもなく、ずっとそばにいて、ずっと守ってやれる。今度こそ、妹を守ってやれる……。
アブサロムはにやりと笑った。
「分かりました……シェバ殿」
彼はシェバの手を取り、口づけする。
「ただ今を持ちまして、私はあなたに味方しましょう……本当に、シェバ王国の王子の座につけてくださるのであれば」
「私に二言はありません」
シェバは自分の首飾りを外し、アブサロムにかけた。アブサロムは笑った。数年ぶりに生きがいを見つけたような気分だった。


キルアブの容体が急に悪化し、イスラエル王宮はてんてこ舞いになっていた。当のキルアブは一日中、ニカウレの名前を呼び続けていた。だが不思議なことに、彼女が来ることはなかった。連れて来ようとしても、どこにもいなかったのだ。
それでなおのこと一層、キルアブは情緒不安定になり、体にまでそれが響いてきた。彼は眠れもせず、一日中血を吐き続けた。
そんな中の事だ。シェバが、王子アブサロムと手を組み裏切ったという情報が、ようやく王宮に入ってきたのは。


王国軍はすぐ鎮圧に向かった。アブサロムがいないので、アドニヤがダビデに次ぐ責任者として戦場に向かうことになった。
だが、シェバは実に巧みにイスラエルを見て回っていたと見える。おまけにイスラエル王子であるアブサロムの手もまわり、シェバのもとにはいつの間にやら膨大な量の人が付き従っていた。
鎮圧は思ったよりも長引いた。ソロモンは王宮に残りながら、ずっと父や兄のことを心配していた。
彼に戦争は分からない。けれども、百戦錬磨の父がかつてないほど苦戦している、と言う情報は入ってきた。王宮は王宮で、キルアブ王子の看病で忙しい。このすきを縫って反乱を起こしたのじゃないか、と考察する者もいる。
ソロモンは、どちらにも行けなかった。
キルアブのもとにも行けない。自分は彼に嫌われているから。戦場にも行けない。自分は剣など握れないから。
ただ彼は怖くて、一人だけ書庫に居座り続けた。一日中、彼は誰もいない書庫に居た。みんな忙しくて、誰もそんな彼をとがめなかった。誰も、彼の事を見ている暇すらなかったのだ。
昔から、ここにはずっと一人で来ていた。ここなら、武術ができないと馬鹿にするものも、売女の息子と罵る者もこないから。
いつからいつまでの間だったろう、この場に居るのが、一人ではなく二人であったのは。もうそれが、はるか昔の事に感じられた。細い光が差し込み、空気中に舞う埃を静かに照らしていた。ソロモンはそれをぼんやりと眺めながら時間を過ごした。

アビシャグは、キルアブの看病をしにある夜、病室に入った。彼女はぎょっとする。キルアブは今まさに、着物の裾をからげて自慰行為をしている最中であった。
「ニカウレ、ニカウレ……」
彼は同じ女の名前を呼び続けていた。アビシャグはそんな彼の事を、心底気色悪いと思った。
彼の男性器が震え、白い液体が吐き出される。はぁはぁ吐息を吐く彼に、彼女は冷たく言った。
「今日はお元気なようで何よりですわ。キルアブ様」
「なんだ、お前か……」キルアブは隈に包まれた目で言う。「ニカウレは……どこだ?」
この期に及んでそんなことを言う彼に、アビシャグはこれ以上ないほど腹が立った。そして、彼をここまで変えてくれたニカウレの事は、あの美しい顔をめちゃくちゃに潰して殺してやりたいと思えた。やっぱり、彼女はあのさもしい根性に似合いの家系の娘だった!そう思えた時、アビシャグは実に胸がすっとしたものだ。なのにこの彼はいまだに、彼女と違う美しい心の持ち主である自分に振り向くことはなく、ニカウレの、裏切り者の女の名前を呼び続けている……!
「覚えていませんの?あの女は我々、イスラエルを裏切りました!」
「そうか……で、いつ来るんだ?」
まるきり話を聞く様子のないキルアブに、彼女は業を煮やす。
「全く何をおっしゃっているんですか。あの、アドニヤ様なんかと寝るようなふしだらな異教徒の売春婦を……」
「彼女を侮辱するな!」キルアブは弱弱しい声を張り上げて叫ぶ。「あの子は、私の……」
「最初からわかってました!あの子があんな子だなんて。体は美しくても、心は悪魔のような子だなんて!あんな女はいずれ罰を受けます、ええ、あんな女は惨めに死にますとも!」
アビシャグは憎しみをたっぷりこめて怒鳴った。彼女の愛らしい顔も憎しみに染まり、キルアブに負けず劣らず、これが元々あの優しい美少女だったなどと信じられない形相になっていた。
「お前は何もわかっていない!それはお前がそう思いたいだけだろ!お前はあの子に嫉妬してるんだ!お前より美しいあの子が嫌いだからあの子を貶めたいだけだ!」
「嫉妬……?馬鹿にしないで。嫉妬なんてしてませんよ!嫉妬するほどの価値があるほど、大した女性じゃないって私知っているんですから!私は真実を言ってるんです、正義を言っているだけですよ!」
「うるさい!ブスの小間使いのくせに余計なことを言うな!」キルアブは精液で汚れた自分の着物を脱いで、強引に投げ渡した。「お前は洗濯でもしていろ!」
投げられた着物はアビシャグの顔に当たる。しかもちょうど精液の付着していた部分が当たり、彼女の顔が汚れた。彼女はそれを嫌悪の目で見て、必死で拭い取る。
「お前こそ醜い心の持ち主だ!お前のようなもの、下がれ!もう二度と来なくていい!」彼は続いて、アビシャグを呼ぶのに使っていた鈴も彼女に放り投げる。それは床に落ちてチリンチリンと乾いた音を立てた。
「私の病室に来るのは、一人だけで十分だ!」
アビシャグは何も言わなかった。鈴を拾い上げ「それでは失礼します」と乾いた声で言い捨てて、扉をバンと閉めて出て行った。
全裸の体を横たえ、キルアブは放心状態で外を眺めた。ニカウレ、ニカウレ、どこにいるんだ。お前がほしい、お前を抱きたい……。
裏切られたという悲しみなどなかった。シェバがイスラエルを裏切ったからなんだというのだ。彼にとっては、ニカウレが自分のもとからいなくなってしまったこと、それだけが重要な事であり、世界の破滅を告げるような事実だった。
キルアブはまたしても激しく咳き込む。また血が出た。自分は死ぬのだろうか、と言う恐怖が、最近日々湧いてくる。嫌だ、その前に一回でも会いに来てほしい。お前に私の子を妊娠させてから死にたい。いつ死んでもいいと思っていた。しかし生まれて初めて、生きたいと思える。自分のもとに来てくれ、ニカウレ、私はお前がいないと嫌なんだ、お前に会いたくて生きてきたんだ、そうに違いないんだ……と、彼は咳き込みながら、心の中でその場にいもしない少女にすがり続けた。

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The Princess of Sheba 第十二話


キルアブは部屋に入り、そして寝台に腰かけるとニカウレに「そばに来てくれ」と短く言った。
「……はい。なんでしょう?」
「どうしてあんなところにいたんだ。今日も来てくれるって言ったのに……」
「お待たせしてすみません……」
彼女がそう言った瞬間、キルアブは精一杯、彼女の肩を掴んだ。
「ニカウレ……」
息を荒く吐き、彼は彼女を抱き寄せる。ふわりと香る女性特有の甘い匂いに、気持ちが苦痛を感じるほど高揚する。
「もう無理だ……もう限界だ。君を見るたび……私は欲望で死にそうになる」
彼はすがるようにそう呟く。きめ細かい、温かい彼女の肌の感触を精いっぱい感じながら、彼は今にも泣きだしてしまいそうな声で呻いた。
「抱かせてくれ……君と寝たい……」
震える声でそう縋るキルアブの頭に、ニカウレはそっと手をまわした。か細い声で、しかし、しっかりとキルアブに告げた。
「わかりました……大丈夫です、キルアブ様。泣かないで」
キルアブの頭を撫でながら、彼女は言う。
「キルアブ様がお望みなら、私なんだってできますわ」
「本当かい……」
わなわなと震えながら、キルアブは笑う。心の底から嬉しそうに。体中が熱く染まる。彼はニカウレの柔らかい、桃色の唇にむしゃぶりついた。甘い。柔らかい。気持ちがいい。この子は私のものだ、私だけのものだ!彼はそう心の中で確信した。
「服を脱いで見せてくれ」彼は興奮を必死で抑えながら言う。
「君の体を見たい……いいだろ」
分かりました、とニカウレは静かに言ってひらりと衣服の帯を解きにかかった。キルアブの下半身に血がみなぎる。あの時はアブサロムに邪魔されてしまった。でも、今日は、今日こそは……。
パラリとドレスの上衣が落ちる。あの時と同じだ。彼女は少し自分の視線を恥ずかしく思うようにしながら、それでも服を脱いでいく。それがさらにキルアブを興奮させた。彼女は肌着を脱ぐ。ふわりと軽く、薄い生地で作られた肌着が落ちた。彼女は自分の上半身を恥ずかしそうに庇いながら、「キルアブ様……これで、よろしいですか?」と言う。キルアブは息をするのも苦しいくらいに激しく息を吐き、「いいよ、いいよ、ニカウレ……」と言う。男性器はすでに痛いほど固くなって立ち上がり、裾の長い衣服の布を持ち上げていた。彼女はそれを直視はしなかったが、あからさまに怖がりもしなかった。彼女はそっと、下ばきに手をかける。するりとあっけなく、二本の細い足に従って小さな布が落ち、彼女の秘所があらわになった。
キルアブはろくに息を吸い込めなくなるほどに息を荒げて、心臓を張り裂けそうなほど動かし、そこを凝視した。自分が初めて見るもの、自分の体しか見るもののないこの世界、この自分の私室において、到底見れないもの。それも、ニカウレの、あの自分が初めて見たほど美しい少女の……。
あっ、と彼は小さく声を上げた。「どうしましたの?」と心配そうに言うニカウレ。いると、先ほどから張りつめていた股間部の布が、じわりと濡れていた。
「キルアブ様……大丈夫ですか?」
「大丈夫だ……」
彼は自分も、病人用の薄い着物を乱暴に脱いだ。
「ニカウレ……おいで」
彼は寝台の上から、そう言う。「はい」とだけ彼女は言って、素直にしずしずとやってきた。身を守るものが何もなくなってしまった彼女の体から、香料の香りだけがふわりと香る。
どさりと寝台に身をうずめて、彼は必死で彼女の体を抱きしめた。素肌越しに伝わる彼女の体温は、本当に温かかった。自分の、病んで乾き切ったような体とは違う、潤った、きめ細やかな少女の体と、今自分はふれあっている。
彼はもう一度キスをした。今度は彼女の唇ではなく、首筋に。余すところなくキスをしたい。この体を全部味わいたい。彼は彼女の脚をまさぐり、はち切れそうな太ももに指をうずめてその感触を楽しみながら、心からそう思った。鏡越しにでもいい、ここに触れたいと思った。ただそんなものがなくても今自分は触れている。自分のやせて肋骨の浮いた胸を、彼女の柔らかく丸く膨らんだ胸が埋めてくれるようだ。自分の冷たい体温を癒してくれるような、暖かく、優しい温度を感じる。
体中の血が生まれて初めてと言うほど勢いよく駆け巡る。五感全てが、目の前の少女に支配される。彼は必死で自分になされるがままの少女の真っ白な体をまさぐった。この子は私のものだ。この女の操は私のものだ。
太ももから、さらに奥の方へ……彼の指が、ある場所に到達した。自分の男の体にはないところ。柔らかく、湿っていて……それに触れた時、ニカウレは小さく声を上げた。キルアブの心臓がはねた。彼は激しく興奮する。先ほど出てしまったばかりの男性器が、またすぐ熱を持って固く張りつめていく。彼は指を取り出し、先端の湿ったそれにしゃぶりついた。ニカウレの見ている前で。
「ニカウレ」
彼は荒れる声で言った。
「君に、婚約者はいるのかい……」
「いません」
彼女は静かに呟く。
「そうか、そうか……じゃあ、私のものになってくれるな?私の子供を産んでくれるだろうな?」
彼は男性器から透明な液をほとばしらせ、ニカウレの太ももを汚しながら、そう迫った。この少女を孕ませたい、彼女と子供を作りたい、と、彼の体全体が言っていた。
彼女はまるでキルアブをじらすように少し黙っていたが、やがて彼の顔を抱き寄せ、言った。
「お好きなように、キルアブ様……私は、貴方のものです」
キルアブはその言葉に、意識が飛びそうなほど興奮した。彼は一層彼女にはげしくむしゃぶりつく。この子の、この子の中に私の子種を撒きたい。一刻も早く……。
既に彼の男性器は早くしろと言わんばかりに、苦しそうに張りつめていた。キルアブはうめき声をあげ、彼女を抱こうとした。

耳をつんざくような、大きな音がした。

彼とニカウレはぎょっとして振りかえる。何事だと思ったら、静止の声を振り切りこちらに昇ってくる者がいるのだ。
「離せ!私を止めると容赦せんぞ!あいつの所に居るのは分かっているんだ!」
そう言ってくる声には聞き覚えがあった、アブサロムだ!
アブサロムはものすごい勢いで、ドスドスと階段をのぼり、廊下をかけてくる。そして……扉が勢いよく開いた。長い黒髪を化け物のようにふり乱したアブサロムの姿が現れた。
彼は鋭い目をきっと見張り、そして……寝台の上で裸で抱き合っているキルアブとニカウレを見て、一瞬、心が壊れそうなほどのショックを受けたように固まった。
だが、それすらもつかの間だった。彼は腰に刺した真剣をすらりと抜く。「貴様……よくも、よくも……!」
ようやく使用人たちが追いついてきた。しかし、アブサロムの剣を見て誰もかれもすくんでしまう。
「……殺す!殺してやる!……よくも私の妹を!」
だが、キルアブの方も、今度は怯えなかった。代わりにアブサロムに対する怒りが爆発する。手持無沙汰になり、ただなさけなく、空しく勃起したままの性器を抱え、彼は呻いた。
「……やかましい!そっちこそ、そっちこそ、なんでいつも私を邪魔するんだ!」
あの時だって。そうだあの時だって自分を邪魔した。そしてまた今回も……せっかく、せっかく今頃、ニカウレと一つになれたはずだったのに!
彼はアブサロムに怒鳴った。
「私は王位継承者だぞ!邪魔するな、弟のくせに!」
だがそれで引き下がるアブサロムでもない。彼は銀色の剣を振り上げた。
「黙れ!私の妹を汚す奴は……父であろうと殺してやるんだ!」
使用人たちが恐怖に目をつぶった。だが、ギインと金属同士のぶつかり合う音が聞こえた。
目を開けてみると、アドニヤが盾を持ってキルアブ達を庇っていた。
「アドニヤ……」
驚いて目を見開く兄の隙をついて、彼は兄の腕をひねる。彼がしまったと思ったころにはもう遅く、剣はアブサロムの手を離れ、激しい音を立てて床に落ちた。
アドニヤはそれをすかさず拾い上げ、使用人たちに「これを持って行け」と渡す。アブサロムが対応する暇もなく、彼は一目散に引っ込んでいった。
「やれやれ。また兄弟同士で刃傷沙汰を起こす気ですか」
「どういうつもりだ、このろくでなし……!」アブサロムは怒鳴った。
「そこをどけ!そいつは……そいつは私の妹を辱めたんだ!生かしてはおけない……生かしておくものか!」
「まず、あそこにいるのは兄上の妹ではありませんよ。シェバ王国の姫君、我々とは赤の他人です。兄上、自分が愛した妹の髪の色も忘れてしまわれましたか?」
彼は淡々とそう言ってのけた。
「なっ……」言葉を詰まらせるアブサロムを堂々と下がらせながら、彼は「アブサロムの兄上、俺はちょっとお話ししたいことが」と言う。
「お前たち。何を見ている。見世物じゃないぞ」そう言い放って使用人をさがらせた後、アドニヤは最後に後ろを振り向き、「それでは兄上たち。失礼いたしました。ごゆっくり続きをなさってください」と言って激しく抵抗するアブサロムを何とか引きずっていった。
「どういうつもりだ!離せ!私はあそこに……!」
そう怒鳴り散らすアブサロムに、アドニヤは肩をすくめながら言った。
「あのねえ、そもそも兄上、あなたは大変な勘違いをしておられます。あの姫は、貴女が思い浮かんでいられるような純朴な姫、まるでタマルのような純粋無垢の世間知らずの小娘などではありませんよ」
「なんだと……」震える声でアブサロムは言う。「私の妹を侮辱するな!」
「あなたの妹の事はしませんよ!しかしあの女はあなたの妹じゃありません」
「なぜ、そう言い切れる!」
「なぜって、俺もあの子と寝ているからですよ。それも、あの子がイスラエルに来たその日から」
それを聞いて、アブサロムはぎょっとして瞳孔を開く。
「う、嘘をつくな……」
「こんな嘘をついてなんになるんです!」アドニヤは呆れたように言った。「本当ですよ。あの子は俺が誘ったらすぐについてきた。今でも良く寝ます。俺のなじみの店にも何回も遊びに行きましたよ」
「そんな、そんな、バカな!あの子が……あの純粋な子が……!」
「兄上も一度あの子と寝てみればお分かりになる」アドニヤは面白そうに笑って言った。
「いくら年齢相応な穢れない少女のようにふるまえても……体まではごまかせません。初めてあの子と寝た時、驚きました。あの子の股は……十や二十の男を受け入れた程度じゃあ、到底、ああはなりません」
その言葉に、アブサロムは目をちかちかさせた。
「嘘だ、嘘に決まっている……」
「野暮なことはするもんじゃありませんよ。だいたいあなたは女性に変なものを望みすぎるんだ」
アドニヤは床に崩れ落ちた兄に、そう吐き捨てた。

「大丈夫ですか?キルアブ様……」
騒動が収まった後、残されたキルアブに、ニカウレはそっと話しかける。キルアブは「大丈夫だ……!」と言い張った。
早く彼女を抱きたい、彼女と交わりたい、続きをやりたい、体がそう言っている。彼は再びニカウレを抱きしめた。しかし、その時だ。
肺と喉に激しい違和感を感じる。彼は激しくせき込んだ。そして次の瞬間。ニカウレの純白の体に血しぶきが付着した。
彼はそれに目を見張ったが、耐えきれずもう数度咳をする。すると、今度は咳を抑えた自分の手に血がわいた。
ニカウレは悲鳴を上げた。
「お医者様を呼んできます!」
彼女は急いで立ち上がり、服をさっさと着てしまった。キルアブはそれを見て、ぎょっとする。
待って、行かないでくれ、大丈夫だ、ここにいてくれ。そう言いたいのに声が出ない。出てくるものは血だまりばかり。体すら、咳き込むこと以外の行為を許してくれなかった。
走って部屋を出ていくニカウレを見て、彼は待って、と手を伸ばすことが精一杯だった。当然彼女の輝く目は、そんなものを捕えなかった。
違うんだ、ここにいてくれ。このまま死んだって良い。君を抱いて死ねるならそれでもいいんだ、と、彼は心の中で呻きながら、ただ一人残された。みっともなく、だらりと露出したままの男性器が、彼をこの上なく惨めな気持ちにさせた。


一人きり屋敷に戻り、アブサロムは慟哭した。信じられない。ニカウレが、そんな……。
だが幻滅と言う感情はわかなかった。彼は相変わらずニカウレの事を愛おしく思う。だからこそ現実に打ちのめされたような気がして、心が狂いそうだった。
今頃キルアブ達は何をしているだろう。だが自分がそんな心配をすることなど恐らく意味がない。何より体が動かない。もう彼らのもとに殴り込んでいく気力すらわかない。
涙が出てきた。
自分はなぜこうでなくてはならないのだろう。何故いつも、失って、一人で勝手に嘆かなくてはならないのだろう。
せめてあの子だけでも守りたいのに、ずっとそばに置いておきたいのに……。
寝台の上に長い髪を泳がせて、ひたすらアブサロムは泣いていた。だがそんな彼の屋敷に来客があった。
「下がらせろ」その連絡を聞いたとき、彼はそうきつい口調で言った。「今は誰とも会いたくない……」
だが、取次ぎに来た使用人は「どうしても今お会いしたいと……」と渋るように言う。
「……どこの誰だ」
「それが……」彼は震える声で言った。「シェバ十三世様なのです」
シェバ!?
ニカウレの父がなぜ自分に。彼は驚き寝台から跳ね起きた。ぼさぼさの髪のまま、「よろしい、会うだけあおう」と発言した。

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The Princess of Sheba 第十一話

「キルアブ様?」
その声を聴いて、キルアブの顔がパッと明るくなった。アビシャグはその様子を見て、たまらなく悲しく、惨めな気持ちになる。彼女が入ってくると、キルアブはもう自分などいないかのように、彼女に縋り付いた。
「ニカウレ!会いたかったよ、君に……」
彼女は優しくそれを受け止め「ええ、私もですわ」と言い返す。嘘ばっかり!とアビシャグは心の中で毒づいた。しかしその思いは誰にも届きはしない。
「何か、お悪いところでも……」
「いや……違う。君の顔が見たかったんだ」
キルアブは力なく呟き、自分を心配するようにのばされたニカウレの手を握った。そして、両手でその滑らかな、小さな手を撫でまわす。
「綺麗な手だな……」
「お褒めにあずかり、光栄です」ニカウレは大人しく、されるがままになっている。
「もう少し、このままでいいかい……君に触れていると、とても幸せだ」
彼はニカウレの滑らかな肌を撫でながら、たまらない幸せと興奮に襲われた。自分は触っている。この綺麗な物体に。柔らかく、繊細な、あこがれ続けたそれに触っている。
はぁはぁと彼は息を荒くして、夢中で彼女の手を撫で回し続けた。それを遠くから見ていたアビシャグは、怖くなって震えだした。その様子からは狂気すら感じられる気がした。ニカウレの方は何も言わず、ただ彼の望むままにさせ、むしろ彼の事を、あんな暴言を吐いた女性と同一人物とは思えないほどに慈愛に満ちた、優しいエメラルドの瞳で見つめ続けていた。彼女は心の中でニカウレを罵った。お前のような、顔は美しくても心は醜い女のもとに、真の愛なんか来るものか!今に見ていなさい、今はちやほやされていたって、お前には因果応報が下るに決まっているわ!お前は不幸になるに決まっている!
アビシャグはもうここにはいられないと思った。せめてあちらの注意を引きたくて、わざと、普段ならはしたなくてとてもやらないほどにバンと乱暴に床を蹴って立ち上がる。だがそんなキルアブは彼女の方など全く無視していた。ただ目の前にある真っ白な、細長い指と桜色の爪を持った手にすべての感覚を奪われているかのように、彼女の無礼をとがめすらしなかった。アビシャグはそのままドタドタと足音を立てて、荒々しく扉を閉めたが、結局最後までキルアブは彼女に注意などはらわなかった。
彼はニカウレの手に頬ずりする。「きれいだ……本当にきれいだ」彼はそう呻きながら、彼女の手の甲に我を忘れてキスをした。唇を通じて、気を狂わすほどの快感がせりあがってくる気がする。ずっとこうしていたいと思った。
もっと触れたい。もっと、もっと触っていたい。この子を、自分だけのものにしたい……。

彼女が帰っていったとき、キルアブは自分の手を見つめた。先ほどまでこの手が、彼女の肌に触れていた。彼女がつけていた甘い香料の匂いすら、残っているような気がした。
彼は自分の男性器に手を添え、夢中でそれを扱く。先ほどまで、この手にニカウレの手が触れていたんだ、ニカウレの……。
まるで彼女に触られているようで、彼はたまらなく興奮した。彼女を抱きたい、彼女を汚したい!そんな思いが強くなった。以前見た、彼女の身体を脳裏に思い浮かべながら。
「(彼女の……彼女の、あの華奢な、柔らかそうな腹の中に、私の子供を宿らせたい!)」
自分の子供なんて持てなくていいと思っていた。最初からあきらめていた。けれどもキルアブは、生まれて初めて、そのような願望を持った。
見るだけじゃ、触るだけじゃもう我慢できない。彼女を抱きたい、自分の子種を彼女に注ぎ込みたい、彼女に自分の子供を産ませたい……!あの細い腹に自分の子供が宿り、丸く膨らんでいく様子を想像し、彼は絶頂に達した。


ニカウレは、変わらない。何も変わらなかった。ソロモンは彼女をじっと見て、そう思う。
彼女は初めてここに来た時から、全く変わることはない。自分の周囲の人間たちは、どんどん変わっているのに。
彼女は自分を騙しているのだろうか。自分がそう信じたくないのは、ただ自分と言う世間知らずのお坊ちゃんが、彼女に良いように騙されているだけの話なのだろうか……。最近ではよくよく、そう考えた。だがこの書庫にやってきて彼女に会うと、そんな考えは飛んで行ってしまう。自分の目の前にいる彼女は、本当に、ただ楽しそうだった。書物に囲まれて、楽しそうだった。
彼女は毎日ここにやってくる。自分はほぼ一日中ここにいるから、彼女とはどこかの時間で出会う。それが間違いなく彼にとって、楽しかった。
最近では、外に出るのが怖い。楽しくない、ではなく怖い。キルアブのもとにもいかなくなった。あの兄はアビシャグも、自分も、他の人間も遠ざけるようになってしまった。
ニカウレのせいだ、あの人をたぶらかす女悪魔のせいだとアビシャグは嘆いている。でも、自分の目の前でじっと、楽しそうに文字に目を通す少女がそんなことをすると、彼は信じられなかった。
「ねえ」ニカウレは本から目を離さずに、呟いた。
どうしたの、とソロモンが聞けば、彼女は楽しそうに言う。
「お願いがあるんだけど」
「なに?」
「手を握ってくれない?」
握手しろってこと?と彼は言う。ニカウレは「そう」と返してきた。
彼はそっと手を伸ばす。ニカウレも手を伸ばしてきた。そっと手が重なり合う。そう言えば、このように誰かと手を握り合うのは初めてだな、とソロモンは思った。人と触れあっているよりも、書庫に閉じこもっている方が楽しかったから。
ニカウレはフフ、と楽しそうに笑う。
「楽しいの?」
「もちろんよ、ありがとう」
その彼女の笑い方は、本の話をしている時の彼女の笑い方と全く同じものだった。とても素直で、綺麗な笑顔だとソロモンは思った。
窓に鳥の影が落ちる。でも鳴き声は聞こえない。騒がしいはずの王宮なのに、この部屋だけは本当に、いつでも静かだ。
「楽しいなら……良かった」ソロモンは言う。
「僕も楽しいよ。君と一緒に、ここにいると」
「ありがとう」ニカウレは笑って返した。
「私の事、信じてる?」
「うん」彼はうなずく。
「君も、僕のこと信じてるよね?」
「当然じゃない」彼女はギュッと、握る手に力を込めた。
静かな書庫に、音が入ってきた。何だろう、とソロモンは考える。それは足音だった。弱弱しい足音。
「出歩かれて大丈夫なのですか?」と言う声がうっすらと聞こえる。
だがそんな言葉には立ち止まらず、弱弱しい足音は必死でこちらを目指していた。
扉が開く。
「ニカウレ。ここにいたのかい……」
入ってきたのは、キルアブだった。「兄上」とソロモンは声をかけようとした。だが彼は恐怖する。自分を見た兄の顔が、みるみるうちに恐ろしいほど怒りに染まったからだ。
兄に何かしてしまっただろうか、そう恐れるソロモンの元にキルアブはやってきて、そして彼を思い切り突き飛ばした。
「あ、兄上?」
「お前……お前、よくも!」
兄が何に起こっているのか、彼にはわからなかった。キルアブに悪さをした覚えなどないのに!何かを誤解されているのだろうか?でもそれにしたって、こんなに急に怒るような人間じゃなかった。もっと自分の話を、まずは聞いてくれていたのに……。
「私のこの子に近づくな!」
彼は怒鳴り、そして必死にニカウレを自分の方にさらった。
「なんですって……」
ソロモンはパチパチと目を瞬かせる。恐怖と不安がわいてきた。しかしキルアブはそんな彼を睨みつけ、彼がもっとも言われたくなかった一言を言い捨てる。
「売女の息子のくせに!お前みたいな汚らわしいのを可愛がってやった私に、恩をあだで返すのか!」
その言葉を聞いて、ソロモンはこれが現実だと信じたくなかった。
それを、その言葉を自分に向かって言わないから、自分に向かってその言葉を言う人物をたしなめてくれるような人物だったから、だから、彼の事が好きだったのに。
「ごめんなさい……」
彼は謝るしかなかった。震える声で謝罪するしかなかった。ニカウレの顔は見えない。あるのはただ、こちらを向いて憎しみに燃えている兄の表情だけ。
どうして、どうして……彼は混乱した。ただただ、謝るしかできない。キルアブはガリガリに痩せた腕を振り上げて、彼を殴ろうとしてきた。
だが、幸いその時助け舟が入った。
「おやめなさい。お身体に悪いですよ、兄上」
そう飛んできた皮肉っぽい声は、アドニヤのものだった。
キルアブは息を切らしながら、そちらの方を振り返る。アドニヤは口を押えてくすくす笑うと、「ソロモンはまだ子供でしょう、子供に嫉妬なんて見苦しいですよ、兄上」と言い放つ。
「貴様……」
キルアブも彼を睨みつけた。最近眠れていないのだろうか、隈がひどくなっている。「貴様も邪魔するのか!」
「冗談じゃない」彼は肩をすくめ、へらりと笑って言う。「どうして俺が、王位継承者様の邪魔を?ただ、若輩者を虐めるよりも、早くお部屋に帰ってお楽しみなさった方がいいかと。ねえ?」
彼の言葉を聞き、キルアブは少しのあいだ黙っていた。そしてソロモンには謝りもせずに、ニカウレを連れて、来た時と同じようにふらふらと自分の部屋に帰っていった。
ショックのあまりぼんやりしているソロモンのもとに、アドニヤはつかつかと歩み寄って、猫を摘み上げるように彼の首根っこを掴んだ。
「何をして怒らせたんだよ」
「僕は、ただ……ここにいただけで……」
「あの姫君と一緒に?」
はいとソロモンが答えた時、アドニヤはこめかみを抑える。「それで……なんで兄上が怒ったのかわかっているのか?」
「分かりません……」
「ソロモン」
彼はいつものヘラヘラした様子からはうって変わって、まじめな口調で弟に言い聞かせた。
「もっと周りの人間を見ろ。外の世界も見ろ。人の心をよく見ろ。もし得手不得手のおかげでそれができないというのなら……せめて、それができる他人に助けを求めろ。それができなきゃ、お前がいくら頭がよくても宝の持ち腐れだ」
ソロモンは力なく、はいとうなずくだけだった。そんな彼に、アドニヤは言う。
「お前、自分の両親のこと知ってるか?」そして返答を待たずに答えを言った。「父は好きあったお前の母がほしくて……王の権威で彼女の夫を殺して、奪ったんだよ。つくづく王としてしか生きられん人だ。なのに……王の罪なだんて公然と口に出せやしない。だからお前の母が売春婦だった、お前の母が悪い、なんてみんな言うんだ。まったくお前には同情するよ。そもそも…売女って随分いい奴らだぞ」
そう言って彼は、ソロモンの頭をポンと撫でる。
「今度、俺の狩りについて来い。良いな?」
「はい……」
ソロモンは泣きじゃくりながらうなずいた。アドニヤはフウとため息をつく。
「ちょっと注意が必要だな」

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The Princess of Sheba 第十話

夜が明けた時、兄の部屋に向かおうとするソロモンをちょうど部屋から出たばかりのアビシャグが呼びとめた。彼は彼女の顔を見てぎょっとした。にこやかで美しい彼女は、かつて見たことがないほど鬼気迫る表情になっていたからだ。
「ど、どうしたんだ、アビシャグ?」
彼は初めて見る彼女の顔に少し恐怖しながら、それでも問いただした。彼女は泣いているようにも見えた。
「ソロモン様!あのニカウレと言う子に近寄らないで!」
戸惑うソロモンに、彼女は畳み掛ける。「騙されているのよ、誰もかれも!キルアブ様も、ソロモン様も!」
彼女はそのまま、昨夜の事を話した。清純な乙女ぶっておいて、アドニヤとふしだらにも関係していることを。昨夜、ニカウレが自分に言ってのけた言葉を。自分の事を、まるで乞食女を相手にするかのような憐れみと侮蔑の視線で見てきたことを。何もかも全て、赤裸々に話した。
ソロモンはそれを聞いて、頭が混乱した。
自分の知っているニカウレは、そんなことを言うような子じゃない。だが、そう言う前にアビシャグは言った。
「きっとあの子は、貴方の前でも猫をかぶっているんでしょう?……騙されないでください!売女は自分を偽るのが上手いもの、そんなものは全部演技です、これが、この虫けらにも劣る根性が彼女の本性です!」
「アビシャグ、頼むから落ち着いて……」ソロモンは感情を高ぶらせる彼女を必死でなだめながら言った。
「貴方の為に言っているんです!これじゃあ貴方まで、キルアブ様のようにあの売春婦に弄ばれて破滅してしまう!」
「わ、わかった。わかったよ……あなたの言うことを信じるから」
「本当に!?」彼女は念を押す。
「勿論……」
彼女はそれを聞くと、だっと走っていった。いったい彼女に昨夜何があったのだ。もしも……もしも本当にそんな言葉を言われれば、ああもなるのかもしれないけれども……。
開いた扉の向こうに、寝台に横たわるキルアブの姿が見えた、彼はじっと、咎めるような視線でこちらを見ていた。
「信じるなよ、ソロモン」
彼は遠くから、低い声で言ってきた。
「あんな雌犬の言うことなんか、信じるな」
「雌犬……」彼は呟く。「誰の事を言っているのですか?」
「誰の事?……アビシャグに決まっているだろう!」彼は叫ぶ。
「ニカウレを!あの純朴な愛らしい子を!私が初めて素晴らしいと認めた女性だぞ、それをあの女は侮辱したんだ!売春婦などと!」
「兄上、兄上、落ち着いてください!」ソロモンは慌ててキルアブをなだめにかかった。
「あの子は」据わった目で、彼はソロモンに語る。何故だか目つきが悪くなって、前よりも痩せて、彼はここ数日で妙に老けてしまったかのように見えた。
「穢れないんだ、美しいんだ、私の天使なんだ……」
ブツブツとうわごとのようにつぶやく兄の姿に、ソロモンは確かに異常なものを感じた。

キルアブやアビシャグがああなってしまったのは、やはりニカウレのせいなのだろうか?彼は疑問に思った。本を読むのにも集中できない。とにかくも、今度会ったらそのことを問いただしてみなくては……。
でも、やっぱり彼女がそう言うことを言うようには思えない。純朴とか猫かぶり以前に……彼女は全く、そう言った次元から離れた存在のように感じるのだ。この冷たい書庫の中を出たら、彼女は人が変わってしまうのだろうか……。
かさりと書をめくる音が聞こえた。ソロモンは不審に思い、そちらの方に行く。扉が開いた気配もないのに、そこにニカウレがいた。自分より先に来ていたのだろうか、自分の背より高いところに積み上げてある羊皮紙の束を下ろそうと、台に乗って背伸びをしていた。
「……降りなよ」
彼はそちらの方に歩み寄った。
「僕が取るから」
ありがとう、と彼女は素直に台から降りた。台の高さと合わせれば、ソロモンの背丈ならぎりぎり届く。
はい、と渡された文書を彼女は大事そうに受け取った。そこにいるのは全く自分の知っている彼女だった。これが、演技なのだろうか?売女だから、そんな表情を作るのもわけはないと?
売女。ソロモンが、小さい時から嫌いな言葉の一つだった。
お前は売女の子だ、と、彼は何回も、何回も言われてきたのだから。
「君、先夜、アビシャグに酷いことを言ったの?」彼は書物の束を抱えるニカウレに、そう言った。
「アビシャグが僕に、だから君を信用するなって言ってきた……」
彼女は傷つくかな、と思った。だが彼女はしれっとしたまま、書物を机に置くと一息ついて「別に、あなたの自由にしたら?」と言ってきた。
「私を信用する義務なんて別にないわよ」
ずいぶんひねくれたことを言う。ソロモンは少し、自分が信頼されてないようで嫌に思った。
「じゃあ、君は僕を信用してないの?」
その言葉に、彼女は面喰ったように目を開く。だが彼女は少し、黙り込んでしまった。
ソロモンも何の言葉も続けられなくて、長い沈黙が続く。だが、彼女はぼそりと、恐る恐る絞り出すかのようなか細い声で言った。
「……してないわよ、悪かったわね」
「なんで!?」
ソロモンは抗議した。こんなことを言われる筋合いはない、と感じたことを言った。彼女とは今まで対等に話せていたつもりだ。そのような目で見られているなど間違いなく、実に心外だった。
「だって、貴方私に嘘をつくじゃない!」
彼女の方は開き直ったかのように言う。
「嘘!?僕がいつ、君に嘘ついたんだよ!」
「言ったわよ!」彼女の声は、どこか悲しそうだった。
「私が立派に学者になって、女王様になればいいだなんて言ったわ!そうなったら素敵って言ったわ!」
ソロモンはその言葉に戸惑い目を瞬かす。「え……?」と言う一言しか出てこない、だが目の前の彼女は相変わらず、悲痛な声で言ってた。
「そんなこと、言うはずないもの……女が学者になるなんて、君主になるなんて、素敵なはずないもの!嘘ばっかり!そう言うことを言ってくるのは……皆嘘つきばっかりよ!」
彼女はそう言ったきり、ポロポロと泣き出してしまった。自分の涙でぬれないように、書物を丁寧に遠ざけて。
その姿を見て、ソロモンはアビシャグに言われた件を問いただしたい気持ちが消え失せてしまた。そこにはただ、自分と今まで話していた少女がいるだけだった。騙されているなんて思えない。たとえそれが、子供が故にあっさり騙されているのだと言われても、別にそれはそれでいい。誰に何と言われようと、この瞬間を信じたいと、彼はその時そう思えた。
「……僕は……」彼は、静かに切り出す。「君に嘘ついたことなんて、一度もないよ……」
ニカウレは否定しなかった。ただ、まだ泣き続けている。ソロモンは言葉を続けた。
「嬉しかっただけなんだ。一緒に書を読んでくれる友達ができたことが、こうして話せる人ができたのが嬉しくて……僕は、学問が好きだから、そのことで大成する人間がいたらきっと素敵だろうなって、そう思っただけなんだ……」
彼女を刺激したくないと、彼は慎重に、慎重に言葉を選びながら話を続けた。
「君を傷つけてしまったなら、ごめん。でも僕は……僕は少なくとも、嘘なんてついてない。君には全部、本当の事しか言ってないよ……」
彼女はふと顔を上げた。エメラルドの目をぬぐい、彼女は言う。
「いいの。わかってる……わがまま言っただけだもの」
顔を涙で濡らし、まだ泣き顔のまま彼女は言った。「ごめんなさい……」
彼女はそう言って、ソロモンの方を見つめた。
「……ニカウレ。僕も……君を信じたい」ソロモンは言った。「アビシャグは、きっと……何かを勘違いしているんだろうと思ってる。君とこうして暮らす時間が、本当に楽しいんだ。だから僕は、君を信じたい……そんな権利くらい、僕にだってあるだろ?」
「あるわよ」と、彼女。
「信じてくれるなら嬉しいわ。ありがとう……」
彼女はまだ悲しげな表情を引っ込めないまま、それでもにこりと笑おうとして、ソロモンに微笑みかけた。
ただの書庫に溢れる埃が太陽の光を浴びて、まるで彼女を煌めかせる星の砂に変わってしまったかのような、不思議な光が立ち込めていた。いつも通りの窓から差し込む細い光だが、その時ソロモンにはそう見えたのだ。。
「ソロモン、私ね……」
彼女は口を開いた。ソロモンは黙って耳を傾けようとした。だが彼女はもう一度長い時間黙ると、最終的に「ううん、なんでもないの」とだけ言い残し、ソロモンが下ろした文書に目を通しもせずに自分の部屋に帰っていった。


「お薬を替えにきました」
アビシャグが入ってくると、キルアブは彼女の事を睨みつける。
「お前一人か」
「そうですよ。今日はニカウレ様がいなくてあいにくでしたね……」
目の前に出された薬を飲むこともなく、彼は「ニカウレはどこにいる」と言った。
「アブサロム様のお屋敷に」
「アブサロムの屋敷!?」彼は反射的に言う。「この城にはいないのか!」
「いません」
「そんな、そんな……」
アビシャグはそんな彼を見て、心が押しつぶされそうだった。「今すぐここに呼べ」キルアブは呻く。
「無茶を言わないでください、キルアブ様……」
「ええい、黙っていろ、ブスのくせに!」
キルアブは激しい罵声で、アビシャグの言葉を封じる。
「私が来いと言っているんだぞ!頼みじゃない、第三王子アブサロムに、王位継承権第一位からの命令だ!来させろ!私はあの子がいいんだ、あの子にそばにいてほしい!」
暴言を浴びせられたアビシャグは、じっと黙って彼の言葉を聞いていた。「早くしろ!」もう一回彼は怒鳴りたてる。
「……はい、わかりました。それでは」
アビシャグは力なく言って、彼に追い出されるように部屋を後にした。そして、廊下の柱にもたれかかって、泣きはらした。なぜ、なぜ彼女をここに呼ばなくてはならないのか。あの何もかもを壊してしまった元凶、浅ましい悪女を……。

アブサロムは、全てタマルのものは屋敷に保管していた。
タマルが身に着けていたものも、日常で使っていたものも、全て。
「お兄様!どうでしょう」
さらりと細い赤毛を揺らして、ニカウレがやってきた。アブサロムはそれを見て大喜びで「似合っている、素晴らしい!」と言った。
「これはね、十四の誕生日の時に作ってやった晴れ着なんだ。あの子はこれが大好きだったんだよ。でもそれっきり、もう一度袖を通すこともなく……」
「私が着ましたわ。それじゃあいけなくって?」
「うん、うん、満足だよ……なんて、素晴らしいんだ……」
タマルの服を、靴を、宝飾品を、彼女が使っていたものをみんな君にあげよう、とアブサロムが言ってきたのは、つい昨日の事だった。
「その代わり、それを身につけたところを私に見せてくれ。私の屋敷に来て……私の家で二人きりで暫く過ごそう。タマルが生きて、元気に歩いている所を私に見せてくれ」
使用人たちが皆、異様なものを見ている目で自分たちを見ていることなどアブサロムは気付いていない。彼にとっては妹が全てだった。その全てが生き帰ったのだ。構い倒して何故悪い。
「次はこっちを着てみてくれ、な?」
「もちろん……お兄様が言うのなら」
そう言ってまた着替え部屋に帰っていこうとする彼女は、本当にタマルそのものに見えた。いや、違う!アブサロムは思う。あれはタマルだ。あれは私の妹なんだ……。
「お兄様?」
気が付いたときには、彼女を後ろから抱きしめていた。
「どこにも行くなよ。お願いだから……」アブサロムは彼女を抱きしめたまま、震えた。嫌だ、彼女をまた失いたくない。お前は美しすぎる。数年前に居なくなったタマルのように。またいつどこで、この美貌に狂った男が自分からこの子を奪ってしまうのか、そう考えると怖かった。彼女を手放したくないと思った。一度、一度手放してしまったせいで彼女は自分のもとを去っていった。あの時、アムノンのもとになど行かせなければよかったんだ。自分がずっと彼女を繋ぎとめていればよかったのに……。
ニカウレは逃れようとしなかった。くるりと体の向きを変え、アブサロムの胸にもたれかかってくる。彼は一層激しく抱きしめた。
「ああ……タマル、タマル!」
彼はそこだけは自分の妹と似ても似つかない、彼女の艶やかな赤毛を掻きあげ、彼女の額にキスをした。
「おまえを愛してるよ。ずっと私のものだ」
彼女はその言葉を、否定も拒絶もすることはなかった。「嬉しいわ、お兄様」とだけ言って、アブサロムの事を抱きしめ返してきた。
愛している。この子を愛している。絶対に手放すものか。自分が守ってやる。絶対に……。
だがその時、扉をたたく音が聞こえた。
「うるさい!なんだ!」と、アブサロムは扉の向こうの人物を怒鳴りつける。彼は使用人だった。
「あのう、王宮の方から……ニカウレ様をそちらに戻すようにと……」
「無視しろ!」彼は再び怒鳴った。
「それがその……キルアブ様からでして」
「キルアブが?だからどうした!」
相手にする様子のない主人に使用人はなおさら困っている様子だったが、それでも立場上言わないわけにもいくまい。震える声で言った。
「キルアブ様から伝言がありまして……。頼んでいるのではない、王位継承者からの命令だ、とのことです」
その言葉を聞いて、アブサロムは目の色が変わった。数年前のトラウマが、よみがえってくる。
自分は逆らえなかった。第一王子だから許せ、と言う言葉に逆らえなかった。
彼の体が激しく震える。彼はすがるようにニカウレを抱きしめた。「お兄様」彼女が口を開く。
「私、行ってきますわ」
「行かなくていい!」彼は必死で叫ぶ。
「でも……困るのはお兄様じゃないですの。お兄様は第三王子なんだから」
その言葉を聞いて、アブサロムは目の前が真っ暗になった。
自分は逆らえなかった。世界一愛している妹を汚されても、死に追いやられても、相手は第一王子だから黙っていろと言われた……。
アブサロムの全身から力が抜ける。はらりと木の葉が落ちるように垂れたそれから彼女は抜け出て、「今行くわ」と駆けて行った。

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The Princess of Sheba 第九話

事実、その日からキルアブは変わった。あの柔らかい雰囲気が消え失せてしまったようだった。
アビシャグは何をおいても、彼がそう変わり果ててしまったことに心を痛めた。おまけにもっと心を痛めることに、彼はニカウレが看病に来ると、その時だけ以前のように柔らかい、優しい王子に戻るのだ。
どうして、どうして……彼女は悶悶とする。かなうと思ってもいなかった恋だ。それでも悔しい。静かにキルアブに寄り添う彼女を見ているのが。たった数日前まで、あそこにいるのは自分だったはずなのに……。
おまけにキルアブはいつも彼女を見ていた、彼女が自分の方を見ていようといまいと。自分はああも注目されたことなどない。おまけに彼の視線は、嫌にギラギラしていて恐ろしかった。彼はいつもこの少女を気味が悪いほど、舐めるように見つめていた。そんな目をする人ではなかったのに……。
「じゃあ、私はこれで……」
ニカウレが去ろうとする。だがキルアブは「待って、後一分でいいからいてくれ!」と彼女にすがった。
「困りますわ、キルアブ様……」
「私がこんなに頼んでいるのに!」
あんな子供に必死にすがる彼は姿など見たくなかった。どう考えても、彼はニカウレの事が好きなのだとしか見えない。そりゃあ彼女は高貴な身分だし、何より文句なしに美しい。でも、何年もキルアブと一緒に居て築いてきた立場を、イスラエルに来て一か月もたっていないこの少女があっさりと得ているのが、掛け値なしに悔しかった。
「(キルアブ様……その方と結婚するおつもり?)」
もしそうなら自分は黙って祝福しなくてはならないのだ。自分はただの小間使いにすぎないのだから。それでも……それでも、それで割り切るには、自分はキルアブの事を想いすぎてしまった。
ニカウレはなんとか彼をなだめて、つかつかと外に出て行く。そもそも彼女は何をやっているのかしら?とアビシャグは疑問に思った。こんなにキルアブが一緒にいてくれと頼んでいるんだから、一日中そうしてあげればいいのに……。
第三王子のアブサロムも、彼女の事を執心と言ってもいいほど可愛がっているというのはすでに有名な話だ。アブサロムの方もそれを隠そうともしない。なぜかシェバ国王も何も言ってこない。だが、アビシャグは不安だった。あの少女がイスラエル王家にとって、非常に危険な人物であるかのように彼女には思えていた。

ある日彼女は、書庫の前を通りかかった際にそこから出てくるニカウレを見つけた。
「ごきげんよう」と彼女は声をかけてくる。
「え、ええ、ごきげんようございます……」
アビシャグのあいさつの後、彼女はすたすたと歩いていく。女である彼女がこんなところに、何の用があったのだろう。書庫と言えば、いつもソロモンが陣取っている場所だが。
「もしもし?」
彼女は少し心配になって扉を開けた。中には案の定、ソロモンがいた。
「あれ、アビシャグ?あなたがここに来るなんて珍しいな」
自分の部屋のようにそこに陣取る彼は、全くいつも通りだった。しかし先ほどまで、ここにニカウレがいたのか?と思うと、急にアビシャグは何かしらが怖くなる。
「あ、あの、ソロモン様……」
「なんだ?」
「ずっとここでお一人でしたか……?」
恐る恐る聞いた彼女の問いは、実にむなしく「いいや」と言う返答で終わった。
「ニカウレがいたよ。それで……?」
「そうでしたか……」
アビシャグは震える声で言う。
「彼女とは、仲がおよろしいのですか?」
「……?うん、とても話が合うよ。よく会ってる。この部屋でだけだけど」
「そう、でしたの……」
アビシャグがなぜ少々悲しそうなのか、ソロモンには呑み込めなかった。
「本当に、本当に素敵なお方なのでしょうね……キルアブ様も、アブサロム様も……」
「アビシャグ……?何の話なんだ」
目をパチパチ瞬かせるソロモンを見てアビシャは慌てて我に返る。「何でもありません!申し訳ありませんでした……ソロモン様、どうぞ、ごゆっくり」と急いで立ち去っていく。ソロモンはそれを見送って、再び首をかしげた。

その夜の事だった。
最近、キルアブは毎晩のように洗濯ものを押し付けてくる。彼が毎日何をしているのだろうか、アビシャグは考えるだけでも身の毛がよだった。
冷たい水は手を引き裂きそうだ。でもそれ以前に、服にこびりつく液体が気持ち悪くてならない。キルアブはこんなものを吐き出すような人間だったのかと思えば、気色が悪くてしょうがない。服についたその汚れを必死で落とそうと、ランプの光のもと石鹸を動かす。汚れが落ちていくたびに、自分の不安も何とか拭い去れるような気がした。
ようやく洗濯を終えて、物干し場に持っていく。だがその帰る途中、彼女はニカウレを見つけた。
なんでこんな夜遅くに出歩いているのかしら?と彼女は疑問に思った。もうとっくに寝ているかと思ったのに。おまけにここは貴賓室から大分離れている。
彼女はそっとあとをつけた。ニカウレはまるでこちらのことなど気にしていないかのように、しずしずと歩いていく。悔しいほど、その後ろ姿は可憐だった。まるでひらひらと飛び去っていく蝶のように身軽に階段を上っていく、
そっと、そっと息をひそめて後をつけるアビシャグは、廊下を進むにつれてどんどん背筋が凍りついていく。
「やあ、来たのかい?」
彼女が向かったのは、アドニヤの部屋だった。
アビシャグは目の前がくらくらした。あの姫君が、あんな男の所に……!?何をしに行ったのだろう、こんな時間に。
しかし何をしに行ったのかなど、すぐわかることだった。扉が閉まる。そして扉の向こうから、いずれ甘い声が聞こえてきた。
何が行われているのか、火を見るよりも明らかなことだった。あの女好きの王子が新しく来た美しい客人に手を出す、それはまあまあ理解のできることだ、だがあの少女がアドニヤに体をさし出すなどと!
その事実が彼女の頭を揺さぶった。キルアブが女にあまり縁のない、禁欲的な生活を送ってきたことは百も承知だ。そんな彼が、初めて女性に心動かされた。きっと、あの汚れた衣装も、彼女の事を考えて……。
それなのに。彼女はキルアブの気持ちを知りもせずに、こんな男と交わっているというのか?
せめてアドニヤに無理強いされたのだと思いたい。自分のように強引に言い寄られて、自分より幼い彼女はアドニヤに逆らうのが怖くて言いなりになってしまったのだろう、そうに決まっている。
扉の中から聞こえる快楽に満ちたような声のなかに、男の低い声に混ざって、高い少女の声が混ざっているのも信じたくなかった。あれはきっと演技だ!キルアブがそんな、娼婦じみた女なんぞに惚れることはない……。
地獄のような時間だった。けれどもそこを離れるわけにはいかなかった。事が終わって、彼女が泣きそうな顔で出てくれば、自分は救われるのだ。キルアブの恋は無駄ではなかったと思うことができるのだ、今離れてしまったらそれさえ思えない、疑惑の心を持ち続けてしまう……。
身を裂かれるような思いで彼女はそこに立ち続けた。厚い扉を通して聞こえてくるのは、全ての音ではない。衣擦れの音も吐息も聞こえず、ただ男と女の声が聞こえてくるだけ……。しかし、それもいずれ終わりを告げた、冷や汗でぐっしょりとなり、もうその頃には半ば放心状態になっていたアビシャグは、「もう帰るのかい?」というアドニヤの声ではっと我に返る。
「まあ、しょうがないね……では、おやすみ」
彼の声が聞こえる。コツコツとこちらに歩いてくる声。彼女はどんな顔をしている、きっと悲しい顔だ、好きでもない男に犯された、惨めな女の顔……。
だが金細工に飾られた扉が開いたとき、アビシャグの望みははかなく消えた。彼女は全く満足げな美しい顔をして、「アドニヤ様、ありがとうございました。またね」とひらひらと彼に手を振りさえしていたのだ。
アビシャグはもうたまらなくなった。悲しみと怒りが一気に湧きあげてくる。
性格のいい子ならばよかった。それならばまたキルアブの恋を認めることができた。でも、でも……自分から、あの初めて恋した男を奪っておいて、そのくせこんな売女のまねをするなんて!
「ちょっと、あなた……」
気が付いたときには、彼女の前に出ていた。怒りの感情を止められなかった。純朴な姫君ぶっておいて、なんて汚らわしい!彼女を非難しなくては、気が済まなかったのだ。
ニカウレはふっと、挑戦的な笑みを投げかけてきた。「なに?」とだけ言う彼女の顔を見て、アビシャグはなおのこと憎らしくなった。色気たっぷりに自分を挑発する、まるであくどい娼婦のような顔。ああ、これがこの子の本性か!キルアブの前では純朴な乙女の仮面を被っていただけか。
「アドニヤ様と、猥雑なことをしていたみたいね」
「それで?あなたに何の関係があるの」ニカウレは言う。ランプに照らされる彼女の顔の美しさが、悪意に満ちた美しさが恨めしい。このランプの火をその顔に落としてやりたい、とすら思えた。
「キルアブ様があなたにどんな思いを持っているのか、知っているの」
彼女はわなわなと震えた声で言う。
「キルアブ様を裏切っておいて、悪いと思わないの!」
彼女は必死でそう言った。だが目の前の少女は彼女を冷たく見たまま、ランプの赤い光にその白い顔を照らして言った。
「なんであなたにそんなことを言われなきゃならないの?私に嫉妬してるのね」
いよいよアビシャグは、怒りに気が狂いそうだった。なんで、なんで自分よりいくらも年下の彼女に、こんなにも醜い心を持った彼女に、ただ少しばかり少しだけ美しいと言うだけで、こんなに屈辱を浴びせられなくてはならない。
「嫉妬!?関係ないでしょう!」
「あるわ。だってあなた、キルアブの事好きだもの。キルアブに気に入られている私が気に食わなくて、せめて何かけちの一つでもつけたいんでしょう?」
彼女はふふふと不敵に笑う。
「ほんと……私よりブスな女の嫉妬って、いつも見ていて気の毒になっちゃう。もっとも、安心していいわよ。どんな女の人だって私よりはブスだから」
彼女はなおのことかっとなった。この女にもう言葉など使ってやるものか!と思い、片手で思い切り、彼女の顔面を殴りつけようとした。
だが、その手は何者かに掴まれ、宙ぶらりんになってしまう。
「アドニヤ様……」
アビシャグは必死に言う。「ご自分の愛人を庇われるおつもりですか」
「おいおい。暴力を止めただけでそう言われるとは、全く俺は信用されてないな」
「暴力?」アビシャグはきつい口調で言う。「暴力なんかじゃありません。そんな売春婦は……罰を受けて当然です!」
「罰?」彼はそう言った。
「ははは……キルアブの兄上がこの子を好きだから、俺と契っているのが悪いって?そんなの兄上の責任だ、この子に言い寄る度胸のない兄上が悪い。ただの負け犬の遠吠えだよ、アビシャグ。この子がどんな男に抱かれたいと思おうがそんなの全く彼女の自由だと、そう思わないか?」
「……では!」彼女は皮肉たっぷりに言う。「アドニヤ様も、ほかの男に彼女が奪われても文句を言わないと……神に誓えますよね!」
「当たり前じゃないか、俺達の関係はそういうものだ」
だが、そんなものは皮肉にもならなかった。アドニヤの恋愛観に、改めて彼女は目の前が真っ暗になる。止めとばかりに彼は言った。
「やめろよ、的外れな批判をしたがるのは……嫉妬ってものは実に見苦しいぜ、なあニカウレ?」
屈辱に震えるアビシャグを見て、ニカウレは言う。
「あら、私は構わないと思いますわ」
「どうして?」意外そうに言うアドニヤ。
「だって……私の美しさにかなわない、好きな男の心も動かせない、それほど魅力のない哀れな女性ですもの、負け犬の遠吠えを言うくらいの慰めは許してあげなくちゃ!」
これが、ニカウレの本性か。
アビシャグは震え、清らかな目に涙をためて、それでもニカウレの姿を睨みつけながらそう思った。
愚かだ。何もかも愚かだ。イスラエル王宮中が、彼女を穢れない純粋な少女と信じ、こんな売春婦にも劣る傲慢な雌豚をチヤホヤしている。自分しか知らない、この事実を……。
ああ、違う!そうだ、自分はいっそ、こんな状況を望んでいたのだ。心の底でこんなことを思うのは醜いと思っていたから抑制していただけ。ニカウレはキルアブの心をたぶらかす悪女にすぎないと思いたかったのだ。自分より心も体も美しい相手にキルアブを取られたと思いたくなかった。だがはたして自分の、この女の感は正解だった、大正解だった!
アビシャグは駆け出した。居てもたってもいられず。アドニヤ達はその後ろ姿を見送った。
「……で、どうする、ニカウレ?本当にもう帰るのかい?」
彼らはアビシャグがいたことなど忘れたかのように、会話を再開する。
「ええ、眠いから……」
「惜しいね、おやすみなさい」


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The Princess of Sheba 第八話

彼は漸く気が付いた。ここはおそらく、貴賓室の部屋の壁だ。それも、ニカウレの……。
ドキリと彼の心臓がはねた。
彼女はこちらに見られている事に全く気付いていないようだ。何をしているんだ自分は、早く蝶を籠に移しに行くんだ、それだけだ……。そう彼が思った時、ニカウレは立ち上がり、そしておもむろに手を後ろに回して、帯を解き始めた。
「(!)」
彼は理解した。彼女は自分に見られていると気がついてもないのに、よりによって男の前でなど絶対にやってはならないことを始めようとしている……。
いけない、駄目だ、早くここから立ち去らないと、あの子に失礼だ、つい先ほど反省したばかりなのに……。
彼の頭と理性は必死でそう言い聞かせていた。だが一方で彼の体は、体全体の全てがいくら離れなくてはと頭で思っていてもそれを一切聞いていないかのようにぴったりと壁に張り付いたまま動けなかった。
ニカウレは帯を緩めるとドレスの裾をまくり上げて、椅子に腰かけてサンダルの紐を解き始める。それを見て彼の体内にあの日感じた欲望が再び戻って来た。スカートの中から出てきた、彼女の純白の脛。鏡越しではなく、本物がまさに目の前にある……。
彼はごくりと生唾を飲み込む。
彼の頭の中に激しく感情が渦巻いた。見たい、見たい、ここから離れたくない……。あの子の真っ白な素肌に覆われた体が見たい、どうしても見たい……。先ほど反省したばかりじゃないか、何をまた考えているんだ、あの子に恥をかかせるわけにはいかない、あんな綺麗な優しい子に、自分は何をしようとしているんだ……。
だが彼女はそんな彼の葛藤など全く知らないかのように、帯で留めていた長いドレスの上着をパサリと脱いだ。肌着姿になった彼女を見て、薄い絹の肌着がまとわりついて、うっすらと彼女の体の滑らかな線を見せている姿を見て、キルアブは目がちかちかするほど興奮した。体中からむらむらと欲望がわいてくる。理性が溶かされてしまうのが実感できた。しかしそれを恐ろしいと思うほどの理性は、気が付いたら既に存在していない。
「……(いいさ)」
彼はそう感じた。
「(私は……体が弱くて男らしくないからって、私は昔からアブサロムやアドニヤみたいに、あの健康的で美しい奴らみたいに女に好かれなくて……力もないからアムノンみたいに強引に女に言い寄ることもできなくて……だから、ずっと、ずっと女なんかと縁のない一生を送って来たんだぞ!ずっと諦めて生きてきたんだ!このくらい……このくらい、別に許されたっていいじゃないか!)」
彼は夢中で壁にかじりついた。その間に蝶はとっくに逃げてしまっていたが、もうそんなことは全く気にしなくなっていた。
生まれて初めて、彼は女に対する情欲に取りつかれた。恐ろしくもなかった。恐ろしいと感じている暇すらも惜しかった。
彼女が肌着に手をかける。それはパサリと女主人に追従するように素直に落ちて、まるで生贄の子羊のように傷一つない彼女の上半身をあらわにした。年の割には膨らんだ彼女の胸も。キルアブはそれを目の当たりにしてさらに息が荒くなった。あの清らかな少女が、自分が見ているとも知らずに……その背徳観がさらに刺激的だった。自分の下半身が膨らんでいる。彼は迷わずそれに手を添え、ぎゅっと握った。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
頭が痺れる。ずっと自分が避け続けていた快楽は、皮肉なことに自分がずっと打ち込んできた学問が自分に与えてくれた十数年分の楽しさに、たった一瞬で勝ってしまうかのようだった。
ニカウレの体を覆う肌着はさらに下に落ちて、彼女のすらりと長くて、細い脚もすべて明らかになった。あの時一瞬で消えてしまったそれが、目の前にある。鏡越しに見たものなんて及びもしないほど、はるかに眩しいほどに白くて、きれいな脚だった。
キルアブは夢中で、彼女の裸体を舐めまわすように見つめながら服の上から自分の下半身を刺激し続けた。このまま死んでも構わない……彼は彼女の……もう身に纏うものは下ばき一枚だけになってしまった彼女の、握れば折れてしまいそうなほど華奢で、滑らかで、例える言葉が出ないほどの美しい肉体を見てそう感じた。早くその下ばきも脱いでしまえ!彼は思わず声を出してそう言いそうになった。早く見たい。彼女の肉体を、余すところなく全部見たい……。早く、彼女の、女性として最も晒してはならない場をこの目で見たい……。
彼のそんな思いを知ってか知らずか、彼女は最後に残ったその衣類に手をかける。キルアブの興奮は最高潮に達しそうだった。

「兄上、何をしていらっしゃるのですか?」
その時、声が聞こえた。低い、不信感に満ちた声が。
キルアブはぞっと背筋に寒気が走った。跳ね返るように彼は後ろを見る。そこに立っているのはアブサロムだった。
「ア、ブサロム……」キルアブは口をパクパクさせた。冷や汗が吹き出し、全身が震える。彼の顔色も、真っ青に染まっていた。
「そんな壁際で何を?」
震える声で「わ、私は、その……」と言う、どうにも要領を得ない彼の後ろに、小さな穴があるのをアブサロムはすぐ見つける。
「何かあるのですか?」
「あっ、ちがっ、違うんだ、その……」
アブサロムはひょいとキルアブを簡単にのけて、その穴を覗き込む。だが一瞬目の前に入ってきたものに愕然としたかと思うと、くるりとキルアブの方を向いた。鬼のように怒りに染まった形相で。
「ち、違う、誤解しないでくれ、私は……」
キルアブはガタガタ震えた。腰が抜け、地面にへたり込む。だがアブサロムは怒りの表情を引っ込めないまま、彼を睨みつけた。
キルアブには分かるまい。
彼を見た時自分は一瞬、とてつもなく恐ろしかったのだ、何かに似ている気がして。今思い出した。あれはタマルを見つめる、アムノンの目だった……。
「貴様……」
震える声でアブサロムは必死で弁解しようとするキルアブに掴みかかった。
「殺してやる……!この、クズが!」
彼はすでに立てない状態のキルアブの顔面を思い切り殴りつけ、地面に沈めた。キルアブは悲鳴を上げる。だがただでさえ体力差が歴然としているうえキルアブの方は完全に腰も力も抜けてしまっているので、かなうはずがなかった。
「殺す……殺す!殺してやる!」
アブサロムは彼に馬乗りになると、容赦なく何発も彼を殴った。本気で殺す気だと、キルアブには感じられた。
だが幸いなことに、その騒ぎを聞きつけて人が集まってくるのにそう時間はかからなかった。
既に兄を一人殺している第三王子が、次期王位継承者の第二王子を一方的に殴っている。騒ぎにならないはずのない事態だった。貴賓室の近くにいた使用人たちは皆団結して「アブサロム様、お気持ちをおなだめ下さい!」と彼を抑えにかかった。だが彼の方は、五人ほどの使用人たちに押さえつけられても、必死で握り拳を振り下ろさんとしながら「離せ、こいつを殺すんだ!」とほぼパニックと言ってもいいような状態で怒鳴っていた。
「キルアブ様!」アビシャグも飛んできた。「酷いお怪我ですわ……」
「そいつの手当てなぞするな、アビシャグ!」アブサロムは威圧的に怒鳴る。「したら貴様も容赦せんぞ!」
「そんな、ひどい……」アビシャグは怒って抗議する。「キルアブ様が何をしたとおっしゃるんですか!」
「なにをしただと!?この壁の向こうが何だか知っているか?」
シェバ王国の王女様のお部屋です、と使用人の女の一人が言う。アブサロムはああそうさ、と声を荒げて言った。
「こいつはその部屋を覗いてやがった!女に興味などない聖人面をして!未婚の女が着替えているところを覗いてたんだぞ!」
彼は大声でそうまくしたてた。使用人たちは全員ぎょっとする。そりゃそうだ。誰だってキルアブがそんなことするとは思っていない。
「違、違うんだ、私は……」
キルアブは必死で弁解しようとしたが、アブサロムの恐ろしさに言葉も出なかった。すると、つかつかとこちらに歩み寄ってくる軽い足音が聞こえた。
「どうしましたの?」
ニカウレが、当の彼女が姿を現した。
キルアブは彼女の顔を見て、さらに顔を青くした。アブサロムはそんな彼を軽蔑するように睨みつける。
「お兄様、一体何が……」
「ニカウレ!こいつは……こいつはお前に辱めを与えたんだ!」アブサロムは全く変わらない調子でどなった。「お前の部屋を、お前の裸を、こいつは卑怯にも覗き見していた!」
彼女の前ではっきり言われて、キルアブは死にたいような思いに駆られた。先ほどはこのまま死んでもいいと思っていた。いっそその時に死にたかったとすら思えた。顔を上げられない。彼女の顔を見るのが怖い。彼女の、あの慈愛に満ちて自分を眺めてくれたエメラルドの瞳が、恐怖か、軽蔑か、いずれにしても自分を否定する感情に染まっているのを見るのが怖い……。
少しの間沈黙が流れる。しかしその場に響き渡ったニカウレの声は、キルアブに対する罵声でもなければ恐れの声でも、恥じらいの声でもなかった。
「あはは……そんなことってあります?」
「ニカウレ!」アブサロムは大声を上げる。「こいつは、お前の部屋にあいていた穴から……」
だが、ニカウレは全く怯むこともなく穏やかな声で続ける。
「キルアブ様は、お散歩の途中で調子がお悪くなられたのたのでしょう……それで壁にもたれかかって息苦しそうにしているか、休んでいらっしゃるかしている所を、勘違いされたのではないですか?」
ばかな!アブサロムは大声を上げてそれを否定したかった。息が荒れているのはまだ分かる。だが体調を悪くして、下半身を膨らませるわけがあるか!何より……何より、あの視線はアムノンのそれだった。妹を汚してこの世から奪い去っていった、あの憎むべき卑しい兄のものと、キルアブの目は、そっくり同じものだった……。
「キルアブ様は、清廉なお方ですわ」ニカウレは堂々と言う。「私、信じていますの」
だがアブサロムはそう口にするニカウレを見て、何も言えなかった。たまらなく切ないような思いに駆られた。
そうだ。生前タマルも、こんなことを言っていた。お前はタマルを見すぎじゃないかと言われているアムノンの事を庇って……。
「それよりお兄様!どうです、これ?」
何も言えないまま使用人に押さえつけられているアブサロムの前で、ニカウレはふわりと花弁のような鮮やかな色のドレスの裾を揺らして見せる。
「似合ってます?タマルさんの衣装!」
「あ、ああ……」
アブサロムは、タマルの使っていたものは一切捨てずに屋敷にとってある。彼女が持っていたお気に入りの服を、肌着も、靴も、宝石も全部身に着けてみてほしい、きっと君に似合うからと頼み込んだのはつい先日の事だった。
「とてもきれいだ……」
「うれしい!じゃあお兄様、馬車で散歩に連れて行ってくれるって約束だったじゃありませんか、行きましょう!」
そう言って彼女はアブサロムの腕をつかむ。アブサロムはもうこれ以上、何も言えないような気がした。
「離せ、もう暴れない。こちらの姫君と約束があるからな」彼は使用人に短くそう言う。使用人たちは渋っていたが、ようやく解放された。
「大丈夫ですか、キルアブ様!」アビシャグは改めて彼に肩を貸した。
「私も信じています。キルアブ様はそんなことをなさるお方じゃないって。だから大丈夫ですわ……」
しかし、キルアブは彼女の言葉を聞いていなかった。
助かった。ニカウレに嫌われずに済んだ。だがそこに安心した途端、彼の中にはじわじわと、アブサロムに対する恨みがわいてきた。ニカウレを連れて去っていく彼の後姿をじっと見ながら……。

キルアブを部屋に戻し、「すぐお医者様を呼んできます!」とアビシャグは言った。だがそれに対する返答は、彼女が予想していないものだった。キルアブはあからさまに怒ったような声で「よせ」と言ったのだ。
「それよりも、私の部屋から離れろ……私が呼ぶまで帰ってくるな」
「そんなこと!大分殴られていますし、お身体に悪いですわ……」
「うるさいっ!」
キルアブは怒鳴った。彼女はびくりとすくむ。キルアブに怒鳴られたことなんて初めてだ。いや、キルアブ自身人を怒鳴った事なんて初めてだった。そもそもこれほどまでに怒りの感情を持つこと自体、彼にとってはありえなかったことだ。だがその時の彼は、そんなことを意に介してはいられなかった。
「良いから出て行け!」
「わ、わかりました……傷が痛んだら呼んでください」
震える声でアビシャグは言い、部屋から出ていく。キルアブは一息つくと、寝台を思い切り殴りつけた。弟とは似ても似つかない、貧弱な細い腕で。
「くそっ!アブサロムの野郎……アブサロムの野郎っ……!」
あいつの邪魔さえ入らなければ……!彼はそう考えた。よりにもよってあんな肝心な瞬間に邪魔が入るなんて!
何故だ、何故あいつに邪魔されなくてはならない!自分と違って健康体で美しい彼が!女なんて放っておいても寄ってくるような体の彼に、なんで自分の、あの初めて出会ったかのような快楽、生まれてきて初めて見つけた楽しみを邪魔されなくてはならなかったんだ!
ニカウレと一緒に去っていく彼の後姿が、さらにキルアブの怒りを増幅させた。
あいつのせいだ。あいつのせいで、ニカウレの一糸まとわぬ姿が見られなかったんだ、あいつのせいで……。
だがその時、彼の脳裏にはっきりと焼きついた光景が躍った。あの白くて細い、柔らかそうな体。間違いなく、自分はあれを見た……。
誰もいない自室で、キルアブは着物の裾をからげ自分の男性器を取り出す。そしてそれを直接つかみ、思い切り扱いた。
「はぁ、はぁ、ニカウレ……」
自慰行為をすることすら、彼にとっては初めてだった。だがもう、彼はそれをしなくてはどうしようもなかった。
あの子の柔肌に触れたい。あの日思った感情が、今はもう抑えきれなくなっていた。あの繊細な肢体を抱きしめたい、口づけしたい、我を忘れて、この欲望の赴くままに、思い切りむしゃぶりつきたい……。
「(あの子を)」
彼は極度の怒りと興奮を覚え、心の底からそう思った。
「(あの子を、抱きたい……)」
理性を戻そうという気すら、彼の中からは消えうせた。

自分を呼ぶ鈴が鳴らされ、ようやく落ち着いたかとアビシャグは安心した。医者を連れて、キルアブの部屋に行く。
「キルアブ様!お医者様を連れてきましたわ」
だが彼女はまたしてもぎょっとする。彼は相変わらず不機嫌そうで、目が据わっていた。「おい」彼は短く言う。
「は、はい、なんでしょう……」
「洗濯しろ」
彼はばさりと、自分が先ほどまで着ていた着物をアビシャグに押し付けた。「は、はい……」と彼女は普段通りの自分の仕事をこなそうとしたが、そのうち自分に投げられた着物にべったりと付着している冷たいものがあることに気が付いた。
ひっと声を上げて、彼女は自分の指についた、異臭を放つそれを見る。
「キ、キルアブ様、これ……?」
彼女も未婚の女性だ。本物を見たことはない、ないが……それがなんなのか全くわからないような年齢でもなかった。
「なんだって良い、お前には関係ない」
しかしキルアブは短くそう言うだけだった。アビシャグは恐怖を覚えた。昨日まで看病していた人間とは全くの別人が、そこにはいた。

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