FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第九十一話

家に帰って、ヤロブアムはファラオからの手紙を改めた。ソロモンに対する反逆の剣は、なかなかの好印象なようだった。
しかし自分が子供の頃のハヌンと言いこのファラオと言い、王たるもの、自分の国のものではなくなった娘のことなどどうでもよくなるものであろうか。悲しいことだ、と他人事のように思う。
「どうだ、首尾は?」と聞くネバトに「上々さ」とヤロブアムは答えた。部屋の隅で、アヒヤも薄く笑っている。
「ダマスコのヘズヨンも協力してくれるらしいぞ」ネバトは、十四年前ティルスに処刑されてしまったレゾンの息子の名前を出した。彼は今は父の命と引き換えに逆にティルス王ヒラムに取り入り、ダマスコの支配権を名実ともに手に入れた。だがやはりネバト達との交流は続けていたのだ。
「本当?それは嬉しいね」
ヘズヨンは父のかたき討ちなんてものに燃えるほど義理堅くはなく、ヒラム王以上の実利主義な性格だ。だが、だからこそ自分に対して注意深く余り関わろうとしないソロモンよりも、懇ろのヤロブアムにイスラエル王になってもらい、利益を上げたいのだ。もちろんヤロブアムとしても、今や一国の王になった彼に協力してもらえるのであれば、しみったれるつもりもない。
「ところで、お前……」ネバトは話題を変えた。
「何?」
「いや、最近妙に色気づいてきたなと思ってな。気のせいか?」
なんだって?と一瞬ヤロブアムは顔をしかめた。
「まさか」
「そうか……いや、ずっと王になることだけ考えさせて育ててしまったからな、お前は……」
「その言葉は違うよ、ネバトさん」ヤロブアムは冷静に言った。「オレがそれだけ考えて育ってきただけだよ、貴方はオレを育ててくれた親切な人、それだけだよ」
「そうか。それはありがたい……」ネバトは頭を掻く。「もっとも、お前に惚れた女ができたら、是非とも顔くらいは拝んでみたいものだがな」
「なぜ?」
「普通の父なら、息子の嫁の顔くらいは見るだろう」
ネバトは悪戯っぽく、フフン、と笑って見せた。ヤロブアムも、向きになって否定する気にはなれず、どこか楽しい思いでもあった。

レハブアム王子。いろいろと言われようとも、ソロモンの長男であり現時点で唯一の男児であることは変わらない存在。
恐らく、彼はないのだろう。自分が王位を継げないのではないか、と思った時など。そこが、自分とレハブアムをつなぎとめるたった一つの共通点であるかのように、ヤロブアムには感じられていた。知事たちの報告を整理しつつ、傍らでそんな思案に暮れる。
地位も、頭の出来も、全てにおいて違う。地以外でレハブアムに劣るところ露があるなど、思ったこともない。ただ一つ、自分とレハブアムは共通しているのだ。自分はいつかイスラエルの王位につく、と自信を持って育ちつづけていたという点のみが。

ヤロブアムがそのようには働いているころ、ちょうどソロモンとマケダは間食をつまみながら、講義半分雑談半分と言った話をしていた。
「そうか、狩りにね……道理で先日は疲れた様子であったわけだ。息子がいつもすまないな」
「いえ、いいんですの。イスラエルにはエチオピアでは見ない動物が沢山いて、面白いですわね」
「イスラエルにも特別豊富なわけではない。ただ、盟友であるヒラム王や、タルシシュの船団が、世界中からいろいろな動物を持ってきてくれてね。……ああ、そうだ。明日、それらを集めた園が別にあるから、行こうか」
「まあ、是非!それで……陛下」マケダは話しながら、器用に片手で赤い葡萄の粒を次々ともぎ取っては口には運んでた。「中でも陛下が驚かれた動物は何ですの?」
「猿だな。猿は、船団が持ってきて初めて本物を見たから、想像していた以上に人間そっくりな獣で驚いたものだ」
「まあ、意外!」マケダは驚いた。「エチオピアには猿もひひもおりますから……でも確かに、初めて見たら驚かれるのでしょうね」
「うむ。昔、人間な何をもってして人間と言うか?と私に問いかけた人がいてな……」ソロモンは少し昔の事を思い出しながら言った。
「私は当時、人は神の現身を与えられたのであるから、容貌ではないか、と答えたのだ。ところがその人が言うには、しかし人間も一人ひとり顔が違うのであるから、神の姿のどこからどこまでを映した形かを明確にしないことには、その理屈ははっきりしない、と返して来てな、実にもっともだと思って、兜を脱いだ。だが猿を始めてみた時、あの時の私の理屈を意識するなら、猿も何割かは神の現身なのではないか、と思ったほどだ。確かにあの理屈は道理に合わないことを、改めて実感した」
「くすくす……本当にご感動なされたのですね!」
「勿論。君がこのイスラエルで、様々なものに感動するように、私とて知らない物には感動するさ」
「ああ、いいえ、申し訳ありません。お猿の話ではなく……その方のご意見に」
そう言ってマケダは、ソロモンお目をじっと見つめてきた。ビルキスとまるきり、同じ目つきで、ソロモンも、さすがにどきりとする。若いころのように胸が高まった。
「陛下のようなお方であれば、様々な人の目を開かせることはあれど、人に目を開かれることなどないと思っていました」
「それは買い被りと言うものだよ、王女」ソロモンはすぐに、そう否定した。
「私も及ばないものも、知らないものも多くあるさ。その中でも……そう、その人は本当に、私に様々なものを教えてくれたね……」
ビルキスそっくりの少女の前で、彼女が知らないであろう、ビルキスの話をする。当たり前でありながら、シュールさを感じた。
だがそれでもいい。
先日のショックは、まだ冷めやらない。だがこのようなことを、どうして他人に言えよう。悪夢のようにすぐ忘れてしまえばまだしも、もはやどのような感情のもと絞り出されるのかもわからない声のひびきは、ずっとソロモンの脳裏に焼き付いて離れなかった。
国は、滅びるのだろうか、自分のせいで。このイスラエルの最盛期を築いた、自分のせいで。

「マケダ」
ソロモンはふと思いついて、話を切り出した。
「なんでしょう?」
「自分の国が亡びるかもしれない……と、考えたことはあるかね」
マケダは少し考えて言った。「ありません」
「ほう?」
「国を滅ぼすのは、君主にとって最大の愚行。戦にすれば、敗北も同じです」彼女は、すっと真剣な表情になった。
「君主に成ろうという立場なのに、今からそのような敗北の事を心配する気はありません、絶対にそうはさせないのが、君主の務め。そうではありませんか」
「そうだね……たしかに」
まさに、若い未来の君主の理想ともいうべき返答であった。昔の自分ですら、ここまで返答で来ただろうか、と思う。マケダが、眩しく見えた。
自分は、その愚をお顔してしまった。そう言えばこの十四年間、神を返し見たことがあっただろうか。国の事は。どちらも、ない。ただただ、心を押しつぶしそうな苦痛を少しでも和らげることしか、考えられなかった。
しかし、そこまでの苦痛を与えたのも、また神ではないか。無茶なことは望まなかったはずだ。自分はただ、彼女の生きる世界に自分も生きたかっただけの事なのに。

「マケダ。君には王女と言う言葉すら、惜しいね」ソロモンはそう、目の前の女性を承安した。一つ思うところがある。若い時の自分では返せなかっただろう。だが、どことはなく……ビルキスなら、こう答えるだろう、と、マケダのはっきり言い切った言葉を聞いて夢想していた、あの程よく膨らんだ桜色の唇の柔らかさとは裏腹のきりりとした言葉でありながら、異常なほどに二つは似合いで、しっくりなじんでいた。
「立派な君主に相応しい器だよ、君は……」
「そう言ってくださいます?」マケダは金の目を見開いて、もう一度確認した。
「もちろんだ」ソロモンは、それも肯定し。、百回でも、千回でも肯定できる気分だった。ビルキスに似ている。容姿だけではない、自分が何よりも引かれた、ビルキスの要素までも彼女は持っている。彼女は、誇り高き君主であった、そこまで、このマケダはそっくり同じではないか。
彼女が、自分を慰めるために神が送ったものではないのなら、いや、むしろ神が好ましく思わぬものであるならば、では彼女は何なのだろう。運命も何もなく、偶然に引き合わされた存在であるというのだろうか。自分とマケダは……。いや、ソロモンの中で、その言葉は、自分とビルキスは、と言った方が正しくなっていた、どんどん、なだれ込むようにマケダの中にビルキスの面影を見るようになる自分を、ソロモンははっきり自覚していた。

夜の宴会の時間になり、宴会場に向かうヤロブアムを、呼びとめる声が一つあった。
「ヤロブアム、これを」
仰々しい前置きすら言わずに、バセマトはすっと封をした手紙を渡してきた。
「お母様、お前が来るのが待ちきれなかったみたい。私宛に届けてきたわ」
「そうですか……ご足労ありがとうございます。王女殿下」
「大丈夫。お母様に構ってくれて、ありがとう」
そう言ってバセマトは、いつも通りの鉄面皮のまま、宴会場へ向かって言ってしまった。妙な王女だ。あれほど切れたところがあるのだ。この手紙が自分と母の間の恋文でないことくらい、百も承知のはずだ。
其れなのに、彼女はなぜ、ああ何もしないのだろう。無能であると言うならわかるがそうにも見えない。少なくともレハブアムより頭はよさそうな物。王女と言う立場がブレーキをかけている、と言うようにも見えない。女性ならではの野心すら、彼女には見受けられない。
彼女は父がどこぞの知事の花嫁にでもやろうかと言っているのを聞くやなや、自分で嫁ぎたい先を指名した。それだけならまだいい。指名したのはナフタリ族の土地、エルサレムとは遠く離れた、北方のひなびた田舎だ。ナフタリの知事ともとくに面識や思い入れがあるわけではなく、なぜわざわざそのようなところに嫁ごうと言うのか、全く理解できなかった。
ただの変わり者と見るのが一番いいのかもしれない。嫌いではないが、自分とは決定的に違う人間だと感じる。マケダに感じる感情と、途中まで似ていて、途中からは正反対だ。

人通りもなかったことだし、中庭を望む渡り廊下で。そっと封を切り月明かりで手紙を見た。良し、話し合いが順調なところまでできている。もうそろそろ、武器は兵力などの具体的は話にも映れよう。ヤロブアムはにやりとほくそ笑んだ。
ちょうどその時である。
「あら、何を読んでいるのかしら、閣下」と声が聞こえた、振り向くと、後ろにマケダがいた。
「これはこれは……マケダ様」
恭しく挨拶したが、ヤロブアムは内心ではひやひやしていた。マケダはただでさえ外国語は堪能だが、エジプトと隣国のエチオピアの出身だ、エジプトの言語くらい、自分より堪能であるはずだ。
ちらりと見えただけでも、まずいものを見られてしまったかもしれない。だが、平常心を保たない事には。
「物資に関連する資料です。イスラエルの話でしてね。ご心配は無用」
「ふうん……」
だが、マケダは薄い笑みを引っ込めなかった、しまった、やはり何かを感づかれていたか、と、ヤロブアムは思う。明らかに、何かを察した視線であった。だが、不思議なことに、彼女にそのような視線で見つめられることに、悦楽を覚える自分も、そこにはいた。
そう、先ほど去っていてしまったタベヌトの一部だけ欠けた惜しい所を、まさにこの少女には感じるのだ。自分自身も持ち合わせる、ぞっとするほどの強気さ、不敵さ、野心。そのようなものが、確かにその目には合った。
しかしそれが凶と出るか吉と出るかで言えば、凶であろう。その考えがあったからこそ、悦楽に浸ろうという気分にはなれなかった。ヤロブアムはしっかり理性のある男だった。彼は必死で、どうしたものかを考えていた。
だが、マケダは、そんな彼の予想すら、裏切って見せた。
「ヤロブアム様、イスメニー様がなぜ私を送り出したか、考えたことはあるかしら?」
彼女は唐突に、そう言ってきた。さりげなく書状を懐にしまいながら目を瞬かせるヤロブアムに、マケダは続ける。
「表向きは、将来の女王になるものの留学のため……けれど、千人も若い女を片っ端からとっかえひっかえする王のもとに、若い美人の娘をのこの子と送り出す母親なんて、いささか変ではなくって?」
「ああ……そうですね」ヤロブアムも、もはや乗りかかった船、その話に付き合うことにした。「宮廷の中では、イスメニー女王は体よく娘をイスラエルに嫁がせようと考えているのだ、と噂する者もいます。王にせよ、王子にせよ。イスラエルとエチオピアは友好国ではありますが、婚籍関係にはありませんでしたから」
「ええ……でも、それは嘘よ。お母様は、私をソロモンの妻にも、レハブアムの妻にもするおつもりはないわ」
ヤロブアムは、はっと感づいた。では、若く美しい王女が、ソロモン王の懐に飛び込むそれ以外の理由、と言えば、まさか。
体中が、ざわついた。初めて彼女に魅せられた時、鏡を見たようだと思った。まさか、その予感は、見事に的中したと言うのか、
「見てらっしゃった?レハブアム王子とともに狩りに行った時……私は山鳥一つもうまく打てなかったのよ」
「ええ、そこのところは……」
くす、とマケダは微笑んだ。「刃物ぐらいあるでしょう、貸して」と手を差し伸べたマケダの小さな手に、ヤロブアムはふらふらと言われるがまま、護身用の短剣を握らせた。マケダは、月明かりと星明りにわずか照らされた木の間をじっと見つめ、急に短剣を投げた。言葉にしがたい、短い鳴き声が一つ置き、ずるりと何かが落ちる音。
マケダは松明も持たずに暗闇の中に入り、やがてすぐ戻ってきた。その手には、ヤロブアムの短剣で貫かれた小鳥が一羽握られていた。
「返すわ」マケダはずるりと短剣を引き抜くと、ヤロブアムに渡す。彼ももはや、驚く余裕もなく、にやりと笑っていた、体中が、ひどく興奮していた。
「私に何をお望みで?エチオピア王女」
ここまで他人のために体が湧いたのは、初めてかもしれない。ヤロブアムははっきりそう思っていた。間違いない。この目の前の少女は、ソロモンを殺すため、イスラエルにやってきた。
マケダは身長の高いヤロブアムを下から、しかししっかりと見据えつつ、言いかえす。
「野良猫のいる所にでも、これを捨ててきてくれないかしら」彼女は小鳥の死体のほうもヤロブアムに手渡した。
「承知しました……」
そう言い彼の両手がふさがったその時、彼女の細い手が伸ばされ、ヤロブアムの後頭部をがしりと掴んだ。声が、すっと低くなる。十四の少女のそれとは思えない、風格溢れる声で、彼女はこう告げた。
「それと……お前自身も、言えば良い。私に何を望んでいるか。そうでなくては、対等な関係は築けないからな。同じく、ソロモンを狙うものとして……」
そして次の瞬間、彼女はヤロブアムの唇を奪った。
アヒヤから預言を受けてから、王となること、ただ一筋を見据えて生きてきた、ヤロブアムの心。女嫌いで通してきたヤロブアムの心は、その瞬間、十も年下の少女に鷲掴みにされた。

スポンサーサイト

PageTop

feat: Solomon 第九十話

「レハブアムはどうにもならん……だが、ヤロブアムは、面白い奴かもしれないな」その夜、マケダは侍女に言った。
「あいつは、確かに王子の器など望んでいない。私と同じだ。ソロモンを殺した後に残る器だけが、欲しいのだ」
「まあ、ソロモンはなんと獅子心中の虫が多い事でしょう」
ため息をつく侍女。面白そうに笑って、マケダはいい足す。
「油断のならん奴だろう。邪魔されるわけにはいかないな」

ソロモン王が最近後宮に足を踏み入れないことは、既に彼の妻たちの中では不安の種になっていた。ソロモンも無論それを知っていたが、それで不安になるような女はばかばかしい、と言うのが本音であった。
最近では、寝る目は一人で思案にふけりたい日が続く。心が落ち着いてきた証拠だ、と彼は思う。
オリエント中が、自分を栄光の王だとほめたたえる。だけれども、自分が思うところは、ビルキスを失った夜からそう変わってはいなかった。つつましく策シクラメンの花の方が、まだ自分より持っている存在だ、そう思って、この十四年間生きてきた。
何事も、それを埋めはしなかった。繁栄も贅沢も、全て無意味。無意味と知りながら、やってないともっと心が痛むので、やり続けたまでの事。
それに終わりをもたらしたのが、ビルキスそっくりの少女であったのだから、本当にこの十四年位意味などなかった。エチオピア王女、マケダ。彼女が来たのは、運命であったか。神が自分にあたえもうた、救いか。そうとしか考えられない。
意識がフワフワして、眠気が襲ってきた。ふと、何か眩しい光を感じる。ベリアルだろうか。だが、ソロモンはその想いすらも飛んで行って、すぐに眠りについてしまった。

眠りの中で、ソロモンは声を聴いた。忘れもしない、一度聞いたことのある声だった。雲の中に突っ込んだようで、一寸先も見えない、もやのかかった景色の中にいた。
「ソロモン」と問いかけてきた声に、迷いなく彼は、以下のように返事した。
「お呼びですか、イスラエルの主よ」
自分が即位して以来だろうか、直接この声を聞くのは。彼は、感謝の意を述べようとした。マケダをこのイスラエルに導いたことに対する感謝を。しかし、家の声は、昔の記憶と寸分たがわず。威厳がありながらもやさしく包み込んでくれるような声であったのに、その中には途方もない悲哀が隠されているかのようだった。その予想を裏切ることなく、彼はソロモンに二の句もつがせずに、こう言った。
「何故、私との契約を破った。私は、お前が秩序に従い、私がイスラエル人に与えた方に忠実である限り、お前を守り抜くと言ったのだ」
その声を聞いて、さすがにソロモンも戸惑った。
「私は、貴方の国を富ませたではありませんか」
「お前はなぜ、異邦人の妻たちのため、神殿を築く。なぜ、放蕩に溺れる」
「彼女らは外交のための妻です。彼女らの機嫌を損ねては、どうしようもありません」
「それはお前の本音なのか」
ソロモンの言い訳に納得するでも、反論するでもなく、声はもっと根本的なところを問いかけてきた。ソロモンは、ぐっと言葉に詰まる。声は追い打ちをかけるでもなく、ただじっと黙って、ソロモンの返答を待っている様であった。まるで、咎めるように。
「私が、あんな女たちごときに心を乱されるようなものだとお思いですか」
「それは私のためにやった行為なのか、と私は聞いているのだ」声は言い返す。
「……なぜ、貴方がそうまでおっしゃる」
ソロモンは正常に言い返すこともできず、また、その気にもなれず、震えた声で呻いた。
「あなたが私が少年の頃の私のままでいることをお望みになったのならば、なぜビルキスを私の前から奪った!?貴方ともあろうお方ならば分かったはずだ、彼女がどれほどまでに、私の心の支えになり得ていたかを!あなたとて、彼女を認められたのではないのか!?貴女は私ではなく、彼女に来るべきイスラエルの未来を授け、自分への信仰心を芽生えさせたというのに、なぜ、私の元から取り去ってしまったのだ!」
十四年間の悲しみ、ここの所癒されつつあった悲しみを、ソロモンは見えぬ声にぶちまけた。声はその問いに直接答えることはなかった。
「聞け、イスラエル王、ソロモンよ」
その声も、震えている様だった、愛情と悲しみ、そして、憎しみとも呼べるような感情が全てないまぜになり、ぐしゃぐしゃになって何の原型もとどめていないような声だった。

「お前は我が契約を破った。私はお前の国を奪い去り、二つに引き裂く。私の愛したイスラエるは、一度すべて滅び去るまで、もう一つに戻ることはあるまい」

ソロモンは、しばらく何の反応もできなかった、すぐに信じるのは、余りにも無理があった。今まで自分が仕えてきた神、自分をここまでの位に引き上げてくれた相手から、言われている言葉なのであろうか、と思った。
夢の中で、ソロモンは泣いたような気がした。胸が、針で刺された様に痛む。悲しく、悔しく、そしてただ純粋に苦しかった。

目を覚ました時、暫く彼は夢の中から目覚めたという実感がわかなかった。胸に残る、途方もない苦しみは、そのままであった。
自分は、神に何を言われた。国が、二つに裂ける?神がそう望まれたのか、自分の王国を滅ぼすことを。
「(神よ!)」問いかけたが、自分の頭にもう声が聞こえない。貴方がわからないではあるまい、自分の空虚も、人間と言う生き物の弱さも、わからないではあるまい。其れだと言うのに、なぜ、今日このようなことを告げた。
「ソロモン、大丈夫?」
後ろから、温かな手が回ってきた、ベリアルの声が聞こえた。ソロモンはそのままふらりと後ろに倒れこみ、ベリアルの胸に体を預けた。
彼は後ろからソロモンを抱いたまま、頭を撫でる「どんな夢を見ていたの?」彼は聞いたが、ソロモンは直接的には答えず、ぼそりと呟いた。
「ベリアルよ……お前は神の使いだな。神が私を嫌えば、お前は私のもとを去るのだろうか」
「えっ?」彼は怪訝そうに言い返した。
「知らないのか?お前の神が、私に何を望んだか……」
「……天使でも、全てを知っているわけじゃないさ」
「そうか」
「でも、さっきの疑問なら……」ベリアルはもう一度、ソロモンを抱きしめた。「胸を張って、いいや、と言えるよ。ボクは、ソロモンの友だちだものね」
「ベリアル。私は……」
吹き付けてくる夜風は、全くいつも通りのイスラエルの風だ。二つに分かたれる未来が待ち受けているなど、知りもしていない、全くいつも通りの風だ。
神は、いつから怒っていたのだろう。いつから悲しんでいたのだろう。怒れど、悲しめど、いつも通りに穏やかな風を吹かせ続ける神のような存在に、人間はなれないのだ。
私は?私は、なんだろう。言い訳か、弁解か、それとも、ただ同情してほしいのか、自分の心情すらも、良く分かりはしない。何故だ、何故これほど、苦しまなければならない?
自分は生まれた時から苦しんだ。
赤い目の化け物と罵られ、差別され、親から愛してももらえずに。
愛だと言って差しのべられた手は、悪意たっぷりの欺瞞でしかなく、最後には自分を傷つけた。
結婚に愛などなく、初めて得た親友は自分より先に死んでいってしまった。
大人になっても、ダビデの息子と言う理由で、敵視の目で自分を見る者がいた。ダビデなど、親として愛してくれたこともなかったのに。
そして、その中でも見つけた最愛の人が、信じられない程あっけなく、自分の手のひらからすり抜けて言った。
なぜ神はその上、自分に悲しみを重ねようとするのだろう。私が、何をした。私が罪人ならば、なぜあなたは私を王にした。なぜ、私に知恵をくれた。
何故、私に、友を与えてくれたのだ。

ベリアルは、言葉の先を問い詰めはしなかった。、声を殺して無くソロモンを、ただただ、薄く微笑みながら見ていた。
ソロモンは一つだけ、思い出した。
とても昔の記憶だ。忘れかけていた、深い、深い苦しみが、ぴょこりと頭を出した。

十歳の最後の日だった。誰も自分を祝ってはくれないだろう。誰も、父を見ても、兄を見ても、自分の事は見てくれない。自分は、消えることを望まれているのだから。そう自暴自棄になっていた。
そうだ、図面を書きながら、心にこう決めていた。
この図面を書き終えたら、死のう。それが、一番いい道だ。自分のようなものにとっては、と。

何故、忘れていたのだろう。そうだ、ベリアルが来たからだ。ベリアルが来て以来、自分は、あのようなことを考えることもなくなった。
嬉しかった。自分の側にいる存在が来てくれたことも、神が、自分を見捨てていなかったことも。生まれて初めてと言うほど、途方もなく……嬉しかったのに。



レハブアムは、次の日になってからも、先日の噂に悶悶としていた。
ベナヤが騒動を起こしたことも知っている。今日から廊下を歩くだけで、妙にみんなの態度が丁寧すぎてよそよそしい。みんな、自分にかみつけばベナヤが怒ると思っているのだ。
ベナヤの事は、好きだ。自分の父親以上に、父親のように思って懐いてきた。でも今回のようなことまでは、頼んでいない。
自分が父親の才気など受け継いでいないことは、百も承知だ、けれど、自分が王子なのだ。それに代わりはないのに、父親含めだれも、自分の事を冷ややかな目でしか見ない。ずっと、それが面白くない日なんてなかった。ヤロブアムが王宮に努めるようになってからは、なおさらだ。
王に成れないかも、なんて考えたこともない。自分は王になる、それが当たり前なのに。何で、誰もそのあたり前を信じてくれないんだろう。
親に似ずに生まれてきたことが、そんなに悪いか。

しゃくに触る気持ちを抑え、今日もマケダに会いに行こう、と思い立った。とにかく、あの子に会うと心が軽くなる。
彼女は、自分に与えられた部屋でちょうど休憩している所だった。自分が来て、少し驚いた顔をしている様子だったが、レハブアムは侍女に通されるままマケダの部屋に入った。
「なんでまた、いらっしゃったんですか?」首を傾けて問うマケダに、少々照れながらレハブアムは言う。
「用はないけれど……ただ、顔を見たくなって」
「あら、そうですか」
彼女は口もとを隠して、くすくすと笑った、年上の女の子のはずなのに、どうも彼女と会うと、レハブアムはこちらが年下扱いされているような気持ちになる。自分はこの子にも頼りなく見えているのだろうか、とも思ってしまう。
「ねえ君、今は暇だろ。僕と出かけようよ。僕の持っている、いい狩場があるんだ」
「暇なのは午後までですけど」
「じゃあ、午後まででいいからさ」
食い下がるレハブアムに、またマケダは一つ笑いをよこす。「なら、いいですよ」と言われて、レハブアムも心が軽くなった。彼女にまで、否定されたくはなかったのだ、と感じる。

狩場まで馬を走らせながら、レハブアムは悩んだ、もし、彼女に否定されたら、どれほど辛いのだろう。父に否定されるよりもつらいのではないか、とすら思えてきた。思えば、あまり好きな相手を作ったことがない、嫌いな人間から否定されても、悔しくはあってもそこまで苦しくはない。けれど、もしも自分がはっきり好意を感じているこの少女に自分の価値をきっぱりと否定されれば、苦しさに押しつぶされてしまいそうで、ぞっとした。
ぴょんと小鹿が飛び出てくる。レハブアムは「見てて」と言いながら、矢をつがえ、放った。矢は見事に小鹿に命中した。レハブアムはほっとする。
「どうだい?」
「お上手ですのね、王子殿下!」
「はは、ありがとう……」
レハブアムは照れ笑いした。良い所を見てもらえただろうか、と言う気持ちが湧いてくる。ふと、そんな気持ちを持ったこと自体も初めてであることに気が付いた。
自分は何もしなくても王子なのだからと、認められたい気など湧かなかった。だが、彼女にもっと褒めてもらえるのなら、初めて精進と言うものを目指してみたくもなる。
彼女といると、非常に心地よかった。これを、人は恋というのだろうか。
「君も」
そう渡した弓を、マケダはぎこちなく引いた。狙いの先にいた山鳥は驚いて、そのまま飛び去っていってしまった。
「ああ、残念……」
「大丈夫だよ、何だったら僕が教えてあげる……」
そう言っている彼らのもとに、パカパカと近づいてくる馬のひづめの音がした、振り返ると、レハブアムがあまり好かない人物が立っていた。
「エチオピアの王女殿下、お迎えに上がりました。そろそろ陛下とのお約束のお時間ですから」
「ヤロブアム、なんで来るのがお前なんだ?」レハブアムは顔をしかめた。「お前の仕事の管轄ないじゃないだろう」
「これは失敬。私含め、王宮の者は王子殿下ほど暇ではないもので」少しだけ刺のある口調で言われ、レハブアムもカチンときたが、彼が何か言う前にヤロブアムは続けた。「近くに用事があった私が、ついでに引き受けたまでです」
「……もういい。彼女が変えるなら僕も帰るぞ」
「ご自由に。さあ、どうぞ、お姫様」
ヤロブアムはレハブアムを無視する形で、さっとマケダを案内した。マケダは面白そうに「女性の扱いが上手いのかしら?閣下」と言う。
「敬うべき賓客樽方に、相応の礼儀をはらっているつもりでしたが」彼も答える。
「なにせ、育ちが悪いもので。無礼になっておりましたら、どうぞいかなる御所罰でも」
「無礼なんて何もないわ」彼女はヤロブアムの言葉をそのような言葉で打ち消した。彼女は本当に、絵に描いたように整った笑い方をする。余裕のある人間、貴族特有の笑顔だ、とヤロブアムは感じていた。自分の母もヘラヘラ笑いはしたが、こんな笑顔は見せもしなかった。
身分の差を著すようなその笑い方が、基本的にヤロブアムは嫌いだった、だが、何故だろうか、彼女のそれは、憎む気が湧かない。
先日の余韻を、まだ引きずっているかのようだ。なぜだか、彼女には、貴族に感じるルサンチマンを感じない。鏡を見ているように、気楽になれる。十も年下の小娘にばかばかしい、と言う気分が湧かないでもないが、その冷笑で捨て切れるほど小さな気もちでは、その時すでになくなっていた。

気に入らない。自分の前を行くヤロブアムとマケダが話し込んでいる様子なのを見て、レハブアムははっきりと焼き餅を覚えた。
なんだか彼女はヤロブアムに、そしてこれから彼女が向かう先の父親にとられてしまうような、たまらなく嫌な気持ちだった。二人とも、自分にとっては大嫌いな相手だというのに。

そのようにめいめい思案していたヤロブアムもレハブアムも、どちらも気が付かなかった。二人がまさに何か関上げこんでいる様子なのを見て、マケダが一瞬、にやりと微笑んだことに。

PageTop

feat: Solomon 第八十九話


「ありがとう」と、マアトシャレ……ソロモンの現正妻にしてエジプト王の娘である彼女は、目の前の若い役人に行った。彼女に穏やかにそう言われ、彼事ヤロブアムも、「どういたしまして」と穏やかに微笑みながら、裸の体に着物を纏う。
「王妃様もお可哀想に。このような離宮に追いやられて」
このように適当に慰める事にも、もう慣れた。ハダドもしていたことだが、やはり、寂しがっている女を頼るのは得策だ。ソロモンがもう少し妻思いな性格をしていればこうも行かないだろうことを考えれば、これは全くソロモンの落ち度だ。ヤロブアムは最近、そのように思考するようになっている。
マアトシャレは、ヤロブアムの目から見ても、確かにソロモンに釣り合うだけの女にも見えなかった。貴族女にありがちな、嫁に行って家を富ませ、後は妻の地位をできるだけ手放さないことに執着するだけの女、と映った。女は、好かない。女はどうしても、母親の事を思い出してしまう。
「お前だけよ、妾を気にかけてくれるのは」肉付きの良い腕を伸ばして、彼女はヤロブアムの腕を抱いた。
「バセマトが王宮に行ったと聞いて、妾を訪ねてきてくれたのでしょう?」
「そうですとも」ヤロブアムは反射的に返答する。目の前の王妃は、満足そうだ。
「良かった。ソロモンと、あの子にだけは知られたくないのですもの。本当、何を考えているのかわかりゃしない不気味な子で……」
そんなことを言う彼女は、酷く滑稽に思える。知られたくないも何も、自分に。王宮に行くからすれ違うに母のもとに行くと言い、と助言したのは、バセマト自身だ。彼女はおそらく、知っている。自分と母の関係も、自分が何を望んでいるのかも。
女は嫌いだが、ヤロブアムにとって数少ない例外がかの王女であった。自分と似たようなものを感じる。静かで、虎視眈々としたところがある。唯一物足りなさを感じているとすれば、野心には欠ける、と言う点であった。
「そうだ、これを……」
ヤロブアムは、封をした書状をマアトシャレに渡した。マアトシャレの父宛の手紙だ。彼女は寂しがり屋だし、思い込みが強く、プライドも高い。下手に、直接協力を申し出たら、それこそ私を愛していただけではなかったのか、とヒステリーを起こして、ソロモンのもとにすべてをばらされかけない。だから、彼女に求めているのは、彼女自身も知らぬ橋渡しの訳、それで十分だった、適応な口実をつけて、エジプトのファラオに連絡を取る窓口を作る、それだけでいい。王妃が実家に送る手紙など、どんな状況でも検閲されっこない。
「ありがとう。お父様も、貴方の事を気に入っていらしてますよ」
マアトシャレはにこにこと笑い、内容も知らぬその書状を受け取った。そうだ、エジプトのファラオ、彼には気に入られる必要がある。
それこそ昔から、彼はソロモンとの生ぬるい関係をつづけつつ、ずっと彼を目障りに思っているのだから。

昼下がりの事で、ソロモンはマケダとともに王宮の庭の中にある薬草園に出て生物学の講義をしていた。
分かったかな」と念押しすると、その都度マケダはコクリとうなずく。それで実際きちんと聞いているのだから、楽なものだ。ビルキスの一件があってから薬を作ることすら嫌になっていたが、また久しぶりに、自分も薬学に対する興味がわいてきたような気もする。失われた熱意までもが戻ってくる感覚は、ソロモンにとって非常に心地よかった。
ひと段落すると、彼らは東屋の中で休憩した。宮廷長のヨシャファトが飲み物を持ってくる間、しばらく沈黙が続いていたが、マケダがそれを破った。
「陛下は、私をよくご覧になりますのね」
クスリ、と悪戯っぽく笑ってそう言うのだ。ソロモンも軽く笑いかえして「そうだろうか」と言う。
「ええ、そうですとも。……私は、美しゅうございますか?」
「ああ、美しいとも、申し分もなくね」素直に、ソロモンはそう返答した。「もっとお育ちになれば、さらに美しくなろう」
「驚きましたわ、陛下でもそのようなことをおっしゃいますのね!」マケダは頬杖をついて、そう言いかえす。「変かね」彼は言った。
「諸国の王の中でも、私は特別妻の数が多いことで有名なはずだが」
「妻の数が多い事と、遊び人であるかどうかは、必ずしも一致しませんもの」と、マケダ。「欲望と理性は対立するものですわ。知恵に満ちた陛下であれば、理性が勝るものと思いますもの」
「そうか、そうか……では、君を欲望で不快にさせてしまったかな」ソロモンは薄く笑ってそう言う。「不愉快な思いをさせてしまったのなら、謝るよ。王女殿下」
「いいえ、何が不愉快な物でしょう!むしろ私は、今さらに驚いておりますわ。、並の男が言えばただの欲望の文句でも、陛下のお口を通されれば理性が織りなす賛美の言葉になるのですもの」
「ははは、君もよくよく、人を褒めるのが上手いね、王女殿下」
ソロモンはマケダの賛辞に感謝した。確かに、世の男が欲望と言うほどのギラギラした感情は感じないが、自分がマケダに多して思う思いがただの異国の王女に対する適切な礼儀とは、また違うという自覚も、しっかり持っている。
十四年前に死んだビルキスが、まさか赤ん坊になって生きかえったでもあるまい。しかし、そうとしか思えないほど、マケダは彼女に生き写しなのだ。無自覚に目で追っていたとしても、うなずける。そんなことはありえないと思っても、ビルキスが再び、自分のもとに帰ってきてくれたのではないか、と言うやすらぎを、彼女を見ていると感じられる。
笑った顔の華やかさも、流れる漆黒の長い髪も、エチオピア人よりあら煤塵のそれに近い褐色の肌も、オフィルの黄金にも勝る金の瞳も……全てが、思い出の中のビルキスがそのまま幼くなったかのようだった。彼女と一緒に、この薬草園にも来たことがある。この東屋はあれから1,2度作り変えていたが。この東屋で話し込んだこともある。全て、昨日の事のように思い出せる。ただただ空虚な十四年間も勝る充足が、確かにこの空間に存在した。
勿論、そんな感情をおくびに出す気もない。これが健康的な感情と言え難いのは百も承知であるし、何を知るでもないエチオピア王女にビルキスの代わりを願う気は毛頭ない。ソロモンは話題を変えた。
「私の息子とも、良くしてくれているようだが」
「あら、そうでしたかしら」彼女はとぼけて見せた。
「息子の動向位は分かっているつもりさ、不肖の息子に付き合ってくれて、父として礼を言わねばならないからね」
「お礼を言われるほどの事でもありません」さらりと、マケダは言った。「小さな子のお守りでもしている気分ですわ。可愛い王子様です事」
その言いぶりを聞いて、ソロモンもさすがに苦笑する。
「息子が聞いたら、なんというだろう」
「陛下は気に入った方にはとてもお優しいと聞きましたわ、王子様の事も甘やかして育てましたの?」
「そうしたつもりもないのだがね……」彼はぼそりと呟く。甘やかしたと言うよりも、彼には、何をかまう気にもなれなかった。彼が育つにつれ、自分の英知どころか母親譲りの愚かさを引き継いだような子供であると知ってからは、なおさらの事であった。可愛がる気にもなれないし、その価値もない、と思っていた、だいたい自分がかまわずとも、ベナヤが彼にやたらと過保護なのだから。
「まあ、跡取りとして、不安にならないではない」ソロモンは本音を言うことにした。レハブアムが、イスラエルを治める器である気はしない。其れこそ、このマケダ王女のように、利発で積極的な子供がいさえすればいいのだが……。


夕方前に、ヤロブアムは宮殿に戻り、残っていた仕事を片付けていた。それもひと段落し帰ろうとした矢先、王に出会った。
ヤロブアムはもちろん、丁重に挨拶する。ソロモンも、遅くまで仕事をしていた彼をねぎらった。彼の隣には、マケダ王女もいた。
ソロモンは軽く、マケダにヤロブアムの事を紹介した。ヤロブアムは彼女に挨拶もしつつ、なるほど、と思う。近くに寄り言葉を交わすのは初めてだが、こうしてみれば改めて、美人然とした美少女だ、と感じる。女嫌いでも、審美眼はごく普通であるつもりだ。レハブアムがここの所落ち着かない様子なのも、わかりそうなもの。もっとも、あの頼りない王子に釣り合いそうな程度にも見えない。一人なら、その滑稽さに笑みがこぼれている所だった。
「そうだ、ちょうど良い」ソロモンは、ヤロブアムを引き留めた。ここから先は関係のない話であるからと、マケダを侍従に任せて迎賓館に送り届けさせて。
「軽くだが、話があるのだ。もしよければ、少々付き合え」
「は、お言葉に甘えまして」ヤロブアムはもちろん、素直に受け止めた。内心では、自分の企みがばれているのではとひやひやしながらであったが、幸いそのような話ではなく、彼は心から安堵した。安堵したどころか、非常に彼にとっては喜ばしい話だった。

その次の日の昼だった。王宮で、軽い暴力沙汰が起こった。
とはいえ、それが咎められなかったのは、ひとえに加害者がベナヤ将軍であったからだ。騒ぎを聞きつけてやってきた野次馬も、ベナヤのあまりに気着せます表情に、彼を止めることができなかった。
「よいか!」と、ベナヤは叫ぶ。「王子殿下に対する侮辱は、この私が容赦せん!」
事の起こりと言うのが、こうだった。午前中に、ヤロブアムを昇進させることを、王が発表した。十二部族のうち二部族、「ヨセフの家」と呼ばれるマナセ族とエフライム族の管理を全面的に任せることにしたのだ。彼の働きぶりに応じて、いずれ十二部族全ての知事の上に立たせることも考えているという。
確かにヤロブアムの有能ぶりは抜きんでている。異論を唱える者はいなかった。だが、王はそれを差し置いても、重臣の中でヤロブアムに特別目をかけている。素性も分からない、貧民街育ちの若者を。
ひょっとすると王は将来的に、ヤロブアムを養子にし、無能な王子の代わりに自分の跡継ぎにしようと計画しているのではないか、と言ううわさが湧いて出てきたのだ。血統ではなく、実力主義での跡取り選びをしないと言い切れない彼の気質と、王自身も、ダビデの長男ではなかった。加え、体に障害があった。だが、その優秀さゆえに健康な兄たちを差し置いて王位についたのだ、と言う事実が、その噂に真実味を持たせた。
それを先に耳にしたのは、レハブアムの方だった。だが昼食の時、落ち込んだ様子のレハブアムから、ベナヤの耳にも入った。そんなまさか、と思って歩いていたところを、一人の若い宮殿の祭司が、まさにそう言っている所を見つけてしまったのだ。「私は確かに、ヤロブアムは王になる器に見えるね。レハブアム様は、王族に生まれただけの存在だ」と言った祭司を、ベナヤは気が付いたら、罵声とともに殴り飛ばしていた。

目の前で、殴り飛ばされた祭司が頭をこすりながら床に突っ伏している。ワイワイと飛ぶ声。だが、謝罪をする気にも、ベナヤ離れ仲他。
「貴様は、自分がいかなる不敬を働いたか分かっているのか?」ベナヤは周囲の目も気にせずに、すごんだ声でそう言った。祭司はもごもごと何か言っていたが「なんだと!?」とベナヤに大きく言われた時点で、黙り込んでしまった。
レハブアムを可愛がってもいない王が来れば、この場はベナヤの非で終わるに決まっている。だからこそ、今、言っておかなくてはならないのだ。レハブアムを不当に貶める者は、許せない。だが、意外にもその場を収めたのはソロモンではなかった。
「まあまあ将軍、そのあたりで」と悠々とした声とともに、ベナヤからは距離を取っていた野次馬を掻き分けて一人現れたのは、ヤロブアムであった。

「ヤロブアム……」
元はと言えば、この謂れも知らぬ成り上がり者のおかげでレハブアムが傷ついたのだ。どの面を下げて止めに入れたものだ、と睨みつけるベナヤなど眼中にもないと言わんばかりに、ヤロブアムは若い祭司を助け起こし、そしてベナヤに向かい合って言った。
「そう怖いお顔を成されずとも、私も事の発端位は聞きました。将軍。全くの濡れ衣で暴れられましては、誰も得をしませんでしょう。将軍にとっても王子殿下にとっても格を下げるだけの事ですし、この私も、私を昇進された王にとっても迷惑な話です」少し顔をずらし、若い祭司にも言う。
「君も君だ。根も葉もないうわさに加担するのはやめてくれたまえ、王は私の能力を正当に買ってくれただけの話であるし、私にしても、敬愛すべき王子を蹴落とそうなどという思いは微塵も持ってはいない。先ほど将軍にも言ったが、言われるだけ、こちらとしても迷惑だ」
「はっ……申し訳ございません、ヤロブアム様」
自分やレハブアムには謝罪の言葉を述べなかったというのに、ヤロブアムにははっきり返事をするその姿に、再度ベナヤが怒りを感じた時、すかさずヤロブアムが「将軍閣下にも謝罪したまえ」という。若い祭司は素直に従った。
「これで怒りをお納めください、閣下」ヤロブアムはにこやかにほほ笑みながら、言う。
「根も葉もないうわさです。陛下にそのような意図はございませんし、私もなぜ王子様のお立場を奪うような真似が出来ましょう。あなたの遣える陛下を、どうか御信頼ください」
ソロモンに対する信頼など、当の昔に消え失せた、だが少なくとも、当のヤロブアムがここまで丁寧に謝罪をする以上、もはや自分が食い下がれる状況でもない。「……わかった。すまなかったな、手荒な真似をした」と、こちら側も謝るしかなくなった。出来る限り不機嫌を悟られぬように、やじ馬が慌てて作る溝を通り抜け、ベナヤもレハブアムのもとに帰っていった。
「大丈夫かい」と、ヤロブアムは祭司に再度声をかけた。「ええ……ありがとうございます」と、ぞろぞろはけるやじ馬たちの発する雑音の紛れてしまいそうな声で、言った。
「気を付けたまえ」と帰ろうとして、クスクスとヤロブアムからも笑いがこぼれる。特に名前も覚えていないような男だった。しかし、そんな下っ端の目から見ても、レハブアムより自分の方が、王の器に見えるらしい。
ベナヤに言った事とて、嘘ではない。レハブアムの器如き、興味があるものか、自分が狙うのは、ソロモンの器だ。
そう笑っていると、ふと、ぞろぞろはける雑踏の中にあって、動かずに自分の方を見ている影を見つけた、自分と同じようにくすくす笑うその姿に、ヤロブアムはまるで、鏡を見たかのような感覚を覚えた。
「やあ、先日の……」ヤロブアムは跪いて挨拶する。その相手が、マケダであったからだ。
「堅苦しい挨拶は結構よ」マケダは優しく言う。「立派なお役人さんなのね。ソロモン王もあなたの事を褒めていたけれど、良く分かるわ、腰の低い方ですこと」
「王宮に仕える者として、当然のことをしたまでですよ」
そう言いながら、ヤロブアムはじっと彼女の事を観察していた。先ほどの、鏡を見るような感触の余韻が、まだ残っていた。
女子絵が美しくても美しくなくても、それはただの事実であり、自分の感情を左右するものではないと感じていた。その思いは、今でも変わらない。彼女の華やかな美貌、その綺麗な笑顔も、貧民街育ちとはくらべもの身もならない発育した体つきも、イスラエルの女性とは違いあらわにしている流れる長い黒髪も、自分がレハブアム王子のように彼女に入れ込む理由にはなり得ないだろうという気がしていた。
それでも、その余韻が、ヤロブアムの心を不思議とマケダに引き付けた。しばらくその場で、彼らは話し合っていた。ヤロブアムにとっても、さっさと行く気になれなかった。

よろよろと歩きだした若い司祭……イエドは、誰も何もわかっていない、と言う言葉を飲み込みかけた。
ヤロブアムの方が有能だからとかなんだとか、そんなことは、どうでもいい。
自分はただ、見たまでだ。ヤロブアムが王となる姿を。
「災難だったね」と、少女が一人、声をかけた。バセマトだ。本来ならお辞儀する相手だが、彼は幸い彼女の教師役を務めても折り、友人のように気心知れた仲だった。
「イエドは、口が軽いから」
「ええ、そのおかげで、災難な目にあいます」
「預言者も、つらい物なのね」バセマトは笑った。
「あたしのように、貴方の預言を信じているものはいるから、安心して」
「は。ありがたき幸せにございます……王女殿下」
若い自分に、ごくたまに預言が下るということを、誰も信じてはくれない。信じてくれないから、わざわざ言う気もない。
だが、王女バセマトだけは、そのつんけんした性格にも似合わず素直に信じてくれる。それが、このひたむきで不器用な若い祭司の支えであった。

PageTop

feat: Solomon 第八十八話

薄よごれた娼館で、皮膚病の母に抱きしめられながら、呪詛のように何度も何度も耳に刻まれた。お前はイスラエルの王子なのだぞ、と、王子とは最も遠い境遇で暮らしているような自分に、その言葉がかけられた。イスラエル王ソロモンではない男の名前と一緒に。
母の事を嫌い、軽蔑した。だがそれにも負けず劣らず、自分の身の上が恥ずかしくなった。気の狂った母だけが見ている世界に生きる自分と、現実の自分との剥離に。それが、ヤロブアムの過ごした幼少期だった。

だからこそ、子供の頃のある日、彼は驚いた。母のもとに居たくなくて一人でエルサレムのはずれの野に出てきた自分の前に、一人の男がしっかりとした足取りでやってきた。それなりにいい身なりから、自分たちと同類でないということだけは分かった。パリッとした、卸縦であろう該当は久しぶりに見た。もうその頃には、ツェルアの取る客は、新品の外套の袖に手を通せるわけもないような身分の男たちばかりだった。
「坊ちゃん」彼は、穏やかでありながらしっかりした厳かな声で、そう問いかけてきた。怖い気は全くしなかった。「なに?」と、流れるように返事した。
「君は、イスラエルの神様を信じているかね」
「信じているよ。別に疑ってはいないから」
「そうか、それは何より」
貴方誰?と問いかけようとする前に、男は「私はアヒヤ。シロの預言者だ」と言った。
「預言者。じゃあ神さまの声が聞けるんだ」
「たまにな」
「王宮で預言をしたりもするの?」
「王宮や神殿は、性に合わなくてね」
彼はそう言いながら、パリッとした上着をゆっくりと脱いだ。
「じゃあ、どんなとこなら性に合うの?」
「神が迎えと仰ったところだ」
そう言うと彼は、驚くべき行為に出た。ヤロブアムの目の前で、自分の新品の上着をびりびりと引き裂いた。
流石にヤロブアムにも動揺が隠せなかった。自分などでは目にも書かれないような上等なうわが、軽々引き裂かれていく様子は、酷く非現実的なものであった。
「もったいない」彼は、そう口に出していった。
「上等の上着でしょ。それもおろしたての」
「こんなものでも、まだ足りないものだよ。此れから君がとるものは」彼は不思議にそうつぶやくと、布きれをばらまいた。
「十、取るんだ」
ヤロブアムはいぶかしむ。「とって、逃げるかもよ」
「君に上げるさ。だが、逃げずに話だけは聞いてほしいものだ」
ヤロブアムは、それに素直に従うことにした。いずれにしても、貰える者なら貰っておいて損はない。手触りが、非常にきれいな布だった。亜麻だろうか。いや、もしかすると、絹と言うものかもしれない。そう考えながら拾い集めるヤロブアムを、アヒヤはじっと見ていた。
「怪しまないのだね。素直な子だ」
「怪しむほど、おじさんは怪しくないよ」ヤロブアムは答えた。「母が、狂人なんだ。それに比べたら、たいていの人は怪しくないよ」
「そうか。……それは、可愛そうに」
「これでいいの?」ヤロブアムは彼の言葉に返答することなく、十の切れを持ち上げて見せた。彼は、残った二つと、その切れの束を見て、ぼそぼそと呟く。
「マナセ、エフライム、ダン、ナフタリ、シメオン、ガド、ルベン、イサカル、ゼブルン、アシェル……」
「え?」バラバラに呟かれた、イスラエル十二部族の名前のうち、中の名前。それに顔をしかめたヤロブアムに、アヒヤは当たり前のように告げた。
「君が、将来とるものだ」
「……どういう、こと?」
「私は預言者だ。神から授かった言葉を伝えるのが、私の役目。神は……神のみ使いの天使様は、私にこうおっしゃられた」
誰もいない野原に、アヒヤの声はよく響いた。まるでそこら毛は、エルサレムの、偉大なるソロモン王の支配から隔絶されているかのようであった。
「ソロモンは、いずれ堕落する。いつまでも神の教えを守る清き王として生きるべし、と言う神と交わした契約を破り、堕落する運命が、彼には生まれた。そのため神は、彼の持つダビデの国を引き裂き、十の部族を、ある男に与えよう……と」
不敬。その言葉が、何よりも似合った。だがそれを淡々と言う彼はあくまで穏やかで、その目は確実に、ソロモン異常にその言葉自信を信じ切っていた。
そしてヤロブアムも、そんなことを、と言う気分にはなれなかった。何より、もっと聞くべきことがあった。
「……それが、オレなの?」
「そうとも」
貧民育ちの少年。自分に何の未来があるかなんて、想像したこともない。母は自分の事を、イスラエル王子だなどと妄言をほざく。
だが、その時はじめて、ヤロブアムには希望のようなものが感じられる気がした。目の前が開ける、と言う感覚とでも言うのだろうか。母の言葉と皮肉にもだいぶ似通っているというのに、不思議なことにそれは圧倒的な説得力を持って、ヤロブアムの理解にストン、と一瞬ではまり込んだ。少年ヤロブアムにとっては初めて得る体験だった。
人の言葉とは違う力、それが、その言葉にあるような感覚。これが……これが、預言者が受け取る、神の言葉だと言うのだろうか?」
「本当に……」ヤロブアムは声を震わせ、聞いた。「本当に、神のみ使いから聞いたの?それを?オレがソロモン王から王国を奪い去って、十部族を統べる。王になるって……!?」
「ああ」
アヒヤの心情が、面白いほど分かった。アヒヤの口を通して聴くだけでも、此れなのだ。おそらく直接聞いたのであろうアヒヤが、信じていないはずがない。
「私は確かに聞いたのだ。金色の髪をたなびかせ、輝く白い翼を持った。世にも美しい天使様から……」


マケダ王女を残して、イスメニーがエチオピアに帰って早二週間。エチオピア王女マケダは、すっかりイスラエルになじみ、今では勝手知ったる自分の家、と言うようにエルサレム王宮を当たり前のように闊歩している。
ベナヤにとっては、それがここの所面白くない。こつ、こつ、と廊下を歩く、小さな少女の足音を聞いたとき、一瞬知らない振りで通そうか、とまで思ったほどだ。だがほどなくして、その足音が自分を不快にさせる少女の者でないどころか、一にも二にも頭を下げねばならぬ相手の物であったと気が付く。
「これは、王女殿下、ご機嫌麗しく」
「ベナヤ、久しぶりね」
彼女はバセマト、ソロモンの今の正妻である、エジプト王族の女性が産んだ娘だった。今年で十二になる。
「今日、こちらへお戻りに?」
「そうよ。離宮にいたって、退屈なんだもの……」バセマトは、母とともに離宮に住んでいる。ソロモンが新しく妻が来た時に建てた離宮だ。「お兄様は?どこにいらっしゃるの?」
「殿下であれば、ただいま少々遠乗りに」
「あらそう。お兄様がベナヤを連れないなんて、珍しいわね……」
バセマトはそう言って、少し眉をひそめた。十二歳の未熟な肌を刺激しない程度に塗られた化粧が、少々歪む。ベナヤにしても、言われたくないところを突かれた。彼が口ごもっている間に、廊下を召使たちがお辞儀しながら早足で駆けていく。その手には小さな椅子を抱えて、大広間の方に消えていった。王の裁きの時間が始めるので、その準備である。
「ま、いいわ」バセマトはそう言う。「エチオピアの王女さまが来たんですって?」
「え、ええ……」
「迎賓館に居るの?イスラエルの第一王女として、挨拶位はしておかなくちゃ」
バセマトの、この無愛想ながらもきびきびしたところは、レハブアムには似ていない。兄妹とは言えど、やはり腹違いなだけある、とベナヤは常々思っていた。
「その……」
「何?はっきりお言い」
「遠乗りに出られているのは、エチオピア王女……マケダ様もごいっしょですから」
ついに、ベナヤは言いたくないことを言った。だが目の前の十二歳の少女の反応は、意外にも「あら、そう」とあっさりしたものだった。
「じゃ、いいわ。待つから。しばらくあたし、王宮に居るわよ」
「も、申し訳ありません」
「何を謝るの?」と、バセマトはきりりと結んだ顔を動かしもしないまま、ベナヤを冷ややかな視線で眺めつつ言う。
「お前が謝る必要もないことに、ただ謝ればいいと言うものでもないでしょう。返って不愉快だわ」
彼女はこう言う王女だ。きびきびしてはいるものの、妙に何でも怒っているようなところがある。それも、今は亡きナアマに比べまた随分冷ややかで、気位が高い。こう言った途方もなく上から目線な態度は父親にだ、と思い、ベナヤは彼女の事もレハブアムほどかわいく思っているとは言い難かった。ただ、バセマトはこう悪態は言いつつベナヤの事をとそこまで悪く思っているわけでもないと見える。その証拠に、そうは言いつつ王宮に自分の部屋を用意させるわけでもなく、ベナヤのそばを離れなかった。
「王女殿下は、落ち着いておられますな」
「うわさは前もって聞いてたわ」と、バセマト。「エチオピアの王女様に、お父上も兄上もご執心だって」
「それは、少々下種な尾ひれがついておられます」ベナヤは可能な限りの冷静な声でそう言いかえす。バセマトは軽く鼻を鳴らした。
「だとしても、お母様に代わって彼女の顔を見たいとくらい、あたしも思うわ」
バセマトの言葉通り、バセマトの母はエルサレムに許可なく来ることは愚か、豪華な離宮から勝手に出ることすら許可されてはいなかった。彼女はエジプト人ではあるし、改宗もしていない。「神聖なるダビデの町には、改宗をしていない異邦人の妻はいてはならない」というのがソロモンの言い分であり、神学的には一部の隙もない正論であったため、誰にもそれに反論することはできなかった。
娘を数人産んだだけの彼女は、今はエルサレムから離れた離宮に放っておかれている。バセマトの事がそこまで好きではないベナヤも、彼女や彼女の母のそのような点には心から同情していた。ソロモンは、妻を誰一人大切にはしない。外交の潤滑油としての丁重な扱い程度は欠かさずとも、一人の人間として見ている、とはまるきり思えなかった。先述のバセマトの母に対する扱いにしても、口調自体は正論だが、その実他の異邦人の妻たちが自国の信仰を守りたいと言うにあたり、イスラエル各地に異国の神殿を立てることを許可している。神学的に許されることではないのは明白である。要は、ソロモンは自分の正妻すや長女ら傍に起きたくないだけなのだ。
みんな、ソロモンに首を絞めて殺されたナアマと同じ存在のように思える。ベナヤはほとほと、最近ではエルサレム宮殿にうんざりしていた。レハブアムさえいなければ、こんなところ、何故勤め続ける者だろうか。
「それにね、ベナヤ。お母様は本気で気に揉んでいらしっているけど、あたし、お父様に関しては別に心配していないの。若い女が近づくたびに正妻の座を奪われるのでは、って気にするのは、お母様の悪い病気だわ」自分の母に対しても、バセマトの辛辣な言葉はそのままである。
「でも、お兄様に関しては当たりなんじゃない?お兄様がベナヤをうっとうしがるなんて、よっぽどの事よ」
「王女殿下……」
何と返した物だろうか、と思いつつ、その時後ろからスタスタと当たり前のように歩いてくる足音が聞こえる。ベナヤははっとして振り返った、噂をすれば何とやら、そこには急ぎ足で大広間に向かう、マケダがいた。ベナヤが何か言う前に、バセマトは彼女のその異国風の服装、見慣れない顔立ちから、彼女が例の王女だと感づいたようであった。
「あら、ベナヤ将軍、ご機嫌麗しゅう」と言おうとした彼女の言葉に被せるように、バセマトはお辞儀をしながら、十二の少女にしては低い声で言う。
「お初にお目にかかります。ソロモンの第一王女、バセマトです」
「あら、初めまして。マケダですわ」彼女はにこりと花をほころばせたように笑う。こう言うのもなんだが、バセマトは容姿のほうは母親にであまり美人と言えた口ではない。それが常に無愛想なのだからなおさらである。どちらも好かないことには変わりないが、天と地の差とはこのことか、とベナヤは失礼を承知で腹の中で思った。
「失敬。私、用事がありますの。こちらにはまだいらっしゃるの?また、ゆっくりお話ししましょうね」
「ええ、是非。噂通りの美しいお方とごあいさつできて、光栄でした。それでは」
最もバセマトの方は、ベナヤのそんな心情すら離れ笑うかのように、全く悔しがりもしなければ、そもそもどう思っている様子すら見せない。自分と彼女に容姿の差があることなど、バセマトにとっては気にするべきことでもない事であるかのようだ。
マケダはすたすたと大広間にほうに早歩きで消えていった。少しすると、早足でこちらにやってくる姿。
「あ、ベナヤ!と、バセマトか……久しぶりだね、来たのか?」
「あら、お兄様」「王子殿下、お帰りなさいませ」
「ねえ、マケダがここに来なかった?」彼は息を弾ませていた。
「大広間の方にいったわ」
「やっぱり!?」と悔しそうな声。ベナヤは何があったのかと問いかける。レハブアムは憤慨して答えた。
「もうすぐお父上の裁判が始まるから、それを見学したいから先に帰るって、僕をおいてさっさと帰っちゃったんだよ、あの子」
そうだ、イスラエルに来てから彼女はよくよくソロモンの裁判に同席して彼の裁きを見ている。最近では彼女に注文されずとも裁判が始まるたびに、彼女が座るための小さな椅子が用意されるのが習慣になっていた。
「当たり前でしょ。彼女、イスラエルに学びに来ているんだから。馬術くらい、エチオピア人の方が得意なんじゃない」
そんな兄に冷や水を浴びせるように、バセマトが言った、レハブアムはむっとして五歳下の妹を睨みつけるが、彼女は涼しい顔だ。
「ベナヤ、やっぱりお兄様に関することは、嘘じゃないみたいね」
ベナヤは頭を掻かく。
「お兄様、遠乗りなら自分の婚約者をお誘いになって差し上げたら?彼女、きっとさびしがっているわよ」
そう言い捨てたきり、バセマトは言うことは全部言ったとばかりに後宮の方に向かっていてしまった。「待てよ!」と言うレハブアムの言葉も聞かずに。
「ほんと、なんてかわいくない妹なんだろ、なあ、ベナヤ!」
「おっしゃる通りで」バセマトの姿が見えなくなったのを確認してから、ベナヤも追従した。「大体、あんなばあさん、誘う気にもならないよ!父上ったら、本当になんでまた勝手に、僕の婚約者まで」
レハブアムは惜しそうな顔で、大広間に続く道をぼんやり眺めていた。
レハブアムの婚約者としてソロモンが選んだのは、マアカと言う女性である。親族婚を良しとするユダヤの風習に従って、ダビデ王家から選ばれたのだが、彼女はかのアブサロムの娘であった。裏切り者の王子の烙印を押されてしまったアブサロムの家をまたダビデ王家に引き戻すため、と言えば聞こえは悪くないのだが、だがアブサロムが死んだのはソロモンが子供の時だ。必然的にその娘も大した年になっている。と、言うよりも、アブサロムの娘と言うことが災いして嫁の貰い手もないままゆかず後家になってしまった王家の女性マアカに対する救済と言う意味もある婚姻であることは間違いないだろうが、血気盛んな若い王子にとっては十以上も年上の女性との婚約など、面白くもなんともなかろう。
だから、彼がマケダに関心を持つことも、ベナヤにはわからないではない。若くて明るくて、それに彼が初めて見るほどの美少女。心が傾くのも、人情と言うものだ。
だからこそ、ベナヤは危機を感じる。レハブアムはたった三歳の頃だ、覚えていないのだろうか。自分の父を誘惑した女の顔など。その美貌が、またエルサレム王宮を侵食せんとしている様ではないか。

裁判の時間も終わり、人がぞろぞろとはけていく。ソロモンは、自分に駆け寄ってくる小さな影を認めた。
「やあ、今日もご覧になっていたのだね、マケダ」彼は、あどけないエチオピア少女に穏やかに笑いかけた。
「面白いかい?」
「ええ、非常に興味深いですわ。王たるもの、民に秩序を与えることはいろはのい、ですもの」
マケダは、ごく自然にソロモンの隣について歩く。
「今度は、陛下のお隣で聞いてみたいものですわ」
「ああ、いいとも。宮廷長にそのように伝えておこう」
「本当ですか!?嬉しいです!」
「なに。大したことじゃない」さらりとソロモンは答えた。本来ならレハブアムあたりが座る席だが、レハブアムを無理に引っ張って来てもどうしようもない中、この王女が座りたがっているというのなら実にちょうどいいことだ。
ソロモンも、無論利発な王と言われるだけのことはある、自分がこの王女を気に入っている様子であることが、既に下種なうわさを読んでいることくらいは知っていた。だが、特に向きになって否定するのもばかばかしい。
マケダにだけは、非常に素直に好意を向けられることは全くの事実だった。彼女は知識欲旺盛で、なんでも聞いてくる。それだけにこちらも、答えたくなる。ビルキスが幼いころ、タムリン隊長が感じていた行為も、これに似たようなものであったのではないか、と最近考えるほどだ。
何人も妻を貰ってきたし、彼女位の幼い少女を迎え入れたことすらもあった。だが、そのつまらない異国の女たちへ感じた情を合わせても、彼女に今感じている好意には到底届かないようにすら思えた。
まるで、それこそ、ビルキスを失った悲しみが、少しずつ、少しずつ埋められていくかのような感覚。十四年間、自分を痛め続けていた苦しみが、ビルキスそっくりのこの少女によって、やわらげられていくかのようだ。
「陛下は、お優しいのですね」
「誰にでも優しいわけじゃない。だが、一度気に入った人間にはどうも入れ込んでしまう性質なのだよ」
言っていてソロモンは、自分が自然に笑えていることにようやく気が付いた、本当に、こんな表情ができるのはいつぶりだろう。正妻の座に執着するだけの新しい妻や、箸にも棒にもかからない女たち、遊ぶしか能のない王子、自分の気をいらだたせる面々に囲まれている中、これほど打ち解けられる相手も、珍しい。

ソロモンは、そちらの方を見ていなかった。だから、ソロモンにしか見えない彼を、誰も見ていたはずがない。
だが、ベリアルは確かに、そこにいた。王宮の中庭を囲む渡り廊下をマケダとともに歩くソロモンを、片側の綿思想家の庇の上に腰かけて、じっと見ていた。正確には、彼の隣を歩く少女も一緒に。
彼はカリ、と音を立てて親指の爪を噛むと、その澄んだ青の瞳にしっかりとマケダを映した。
「……何の、つもり?」と、ベリアルは呟いた。
そしてもう一度、視線をソロモンに移す。久々に見る、彼の柔らかい笑顔が、そこにはあった。
やがて、彼らは建物の中に消えていく。それでもベリアルはしばらく、そこに座り続けていた。
「……幸せそうだね、ソロモン……」
誰にも、聞こえない声。聞こえているにしてもささやくような音量。だが、もしその声を聴いた人がいたら、驚くに違いない。
天使の声と言われて人が想像するには低すぎるほど低い声で、ベリアルはそうつぶやいたのだ。

その夜、迎賓館でのことだ。
迎賓館の中でも一番位の高い部屋で、マケダは侍女に髪を梳かされていた。「いかがですか」と言う時事の短い問いに、彼女は日中ぺらぺらと使いこなしていたヘブライ語を引っ込め、母国の言葉で返答する。
「意外と固い男だな、ソロモンは……妻や妾がわんさといると聞いていたから、女好きだと踏んでいたが……意外だ」
「あら、そうですの?」と、侍女は言う。
「ああ。お前の耳に入るような噂通りでないことは確かだ。いくら美しいから……昔愛した女に生き写しだからとはいえ、十四の小娘にあっさり鼻の下を伸ばす男ではない。とはいえ……私の事を気に入っていることは、真実だろうがな」
「では、脈がなくもないと」
「無論だ」
「そう言えば、ソロモンの王子も殿下の事をお気に入りでいらしたと……」
「あれは捨ておけ。馬鹿王子など相手にする時間も惜しい」マケダはそう軽く言い放ち、枕元に飾ってあったエチオピアの偶像の手から、するると探検を抜く。銀色の刃が、ゆらゆらと姿を変えるランプの光に妖しく煌めいた。
マケダは絹で丁寧にその刃をぬぐいながら、その美貌もそのままに、妖しく微笑む。
「私の獲物は、ソロモンだけだ。私がこの剣にかける相手はな……」

PageTop

feat: Solomon 第八十七話

見れば見るほど、エチオピア王女マケダは、ビルキスにそっくりだった、まるでビルキスgそっくりそのまま、十四歳の少女に戻ったかのように。
ソロモンを始め、シバの女王の来訪を覚えているイスラエルの高官たちは、エチオピア王家をもてなす晩餐の席で、ずっと彼女を見つめながらそのようなことを考えざるを得なかった。ソロモン程に彼女と心から愛し合った仲でなくとも、あの人ならざる者のごとき美貌を、一瞬でも目にとめたものが忘れられるはずもない。
イスメニー女王も、むしろそれに上機嫌そうだった。「きれいでしょう、私の娘は!」と、自慢げにソロモンに話しかけてきた。
「え、ええ……」ソロモンは言う。「不思議なお方ですな、黒いには黒いが、エチオピア人よりは白い」
マケダは、その肌の色もそっくりビルキスと同じ具合だった。イスメニーはふふんと鼻を鳴らして続ける。
「あら、貴方が言えた口でしょうかね?」
「そ、それもそうですが」
「お察しの通り、あの子の父は外国人ですよ」彼女は笑った。「アラビア人の美しい男妾との間にできたのです」
アラビア。懐かしい、ビルキスの思い出がその地名からでも想起できるようだった。今、彼女はわくわくした顔で、イスラエルの高官たちに愛想良く話しかけていた。
「まあ、あの子ったらはしゃいで……」イスメニーはそんな娘に、今度は少々呆れ顔をした。
「良いではありませんか、私の娘たちなど、気概のないのばかりでね、ああ言った明るい姫君が王宮にいらっしゃれば、少しはこのエルサレムにも活気がわきますよ」
「ま、それは嬉しい事……」なんだかんだ言っても、イスメニーも機嫌がいいし娘を強く咎めようとはしない。ああは言っていた者の娘の事が嫌いではないのだ、とは推し量ることができた。ソロモンにしても、不思議と失礼だと思う気持ちはわかなかった。レハブアムの跡何人か娘は生まれたが、結局みんな家柄のいい男に嫁げばいいとだけ考えている母親に似たもので、好奇心もなければ気概もない、とソロモンは不満に思っていた。そんな中、ビルキスに生き写しと言うことを差し引いたとしても、マケダ王女のはつらつとした好奇心は見ていて気持ちがよかった。

マケダは、イスラエルの召使に、食卓に運ばれてきた鳥について興味深げに訪ねていた、エチオピアにはいない鳥であるらしい。
ベナヤはそれを睨むつけるように観察しながら、複雑な思いを抱いていた、と、言うのも自分が立っているすぐそばに座るレハブアムが、先ほどからずっと、ポーッとした目で彼女を見ているのが妙に引っかかる。
「殿下、どうなされましたか?」業を煮やし、ベナヤは聞いた、レハブアムの方がびくっと跳ねる。
「い、いや、その……」彼は慌てて、どもった。
「エチオピアの姫君がどうか?」
「う、うん、そうだな……」だが彼は、ベナヤに嘘をつきはしなかった。
「あんなに可愛い子、初めて見る……」
その声を聴いて、ベナヤはぎくりとした。嫌な予感が、少なくとも何割かはあたってしまった。「で、殿下」と声をかけんとした時、レハブアムは席から立ち上がって「とっと話してくるよ、お前はついてこなくていいから」と歩いて行ってしまった。その後姿を眺めながら、ベナヤは内心で歯噛みする。
忘れもしない、シバの女王。ソロモンの心を奪い、ナアマを辱めた女。記憶に残る、彼女の憎たらしいまでの美貌と、あの少女の顔がそっくり同じで、彼女を見た瞬間ベナヤはぞっとしたものだ。
ナアマを殺した際、ソロモンはこうつぶやいてた。こいつが、ビルキスを殺した、と。
そんな馬鹿な。ナアマに人殺しなどできたわけがない。第一彼女はぴんぴんしてイスラエルを発ったというのに。ソロモンは詳細を語らず、結局なぜああなったのかはソロモン以外誰の知るところでもなくなってしまった、
ベナヤにわかるのは、理不尽に死んだナアマの死にはビルキス女王が絡んでいた当ことだけだ。ビルキスさえ……ビルキスさえ来なければ、ナアマは非業の死を遂げることもなかった。あの王の心をたぶらかした、異国の女さえ来なければ……。
その異国の女そのもののような少女が、今、再度イスラエルに現れた。ベナヤに背中には先ほどから、言い表しようもない悪寒が走っていた。何とはなしに、彼女に嫌なものを感じてならない。

「あの……」
自分のその声に反応し、自分の方を見たその目を見て、レハブアムはどきりと心臓が跳ね上がる思いだった。透き通るほどきれいな、金色の目が、こちらを向いた。「誰?」と、彼女が聞いてくる。動揺していたレハブアムはそれに気が付く余裕もなかったが、非常に流暢なヘブライ語だった。
「こ、こんばんは。僕は、王子レハブアムだ」
「あら、じゃああなたが次期イスラエル王の……」マケダはぽんと手を打って答えた。
「初めまして、マケダよ。これから、よろしく頼むわね」
「うん……隣、いいかい?」
彼がそう言うと、急いで使用人が椅子を一つ運んでくる。レハブアムは、国立なずいたマケダの言葉に甘えるように、そこに座った。
「そうそう!王子様なら聞きたいことがあったの。この獲物、貴方がとったんですってね、イスラエル王子は、狩りが上手いのね」
「そ、そうかい!?」レハブアムは非常に嬉しそうに答えた。「そこまででもないけれど……」
「そんなことないわ。エチオピアにはいない鳥ね。ねえ、なんていう鳥なの?」
「え、なんていう……?」
そう言われて、レハブアムは少しどもった。実は彼自身も、余り名前を知らないのだ。鳩や鴉のようなものならいざ知らず、野鳥の名前などさほど興味はなかった。彼がうなりながら困っていると、マケダはくすり、と吹き出す。
「ふふふ……王子様、可愛い」
「そうかい……?」
レハブアムも、随分決まりが悪かった。しかしマケダの笑顔は、非常に端正で可愛らしい。見れば見るほど、魅力的な子、とレハブアムには感じられた。言い表しようのない、ときめきにも似た気分を覚える。
「鳥なんかの話よりさ」彼は話題を変えた。「君の話を聞きたいな、エチオピアの事とか……」
「エチオピアの……そうね」マケダは細い首を傾ける。「エチオピアの、例えば何について?」
「え、えっと……」
考えていなかった。レハブアムが必死に考えている、そんな中レハブアム達の後ろから、彼の知らない言語が飛んできた。エチオピア人の召使のようだった。
マケダは彼女にエチオピア語で何か返事をするなり「ごめんなさい、王子様。母上が呼んでいるの」と、席から立ち上がった。
「エチオピアの話は、また今度」
「あ……うん」
なんだか楽しい気持ちに水を刺されたようで、レハブアムは少々不愉快になった。マケダは侍女に連れられて、宴会場の一番上座に座るソロモンとイスメニーのもとに向かって言った。

「ほれ、マケダ。貴方もソロモン陛下とお話ししなくてはならないでしょう」
「構いませんよ、イスメニー殿。私の不肖の王子とお話しいただいていたようですしね……」
「こんなにもお近くに寄らせていただけるなんて、光栄ですわ、ソロモン王!」
マケダは嬉々として、ソロモンの隣に座った。
「イスラエルに来る日を、楽しみにしていたのです」金色の目をキラキラ光らせながら、マケダは遠慮なくソロモン王にそう言ってくる。
「そのようだね」ソロモンも答えた。「言葉も、実に流暢だ」
「はい、必死で勉強しましたもので」
「良いことだ。お母上を始め、エチオピアの人々ののご教育がいいのだろうね、マケダ王女」
マケダのこの明るさにいざ接してみて、ソロモンはさらに彼女に好感を覚えた。今やエジプトにもひけは取らない大国の主となり、気が付いてみれば初対面の相手にこのようにあっけらかんと話しかけられることなど、ほとんどない気がする。外交のためイスラエルに嫁いでくる若い王族の助成など、ソロモンとろくに会話ができないものも少なくはない。
その上繰り返しのようになるが、マケダの態度はそれでいて失礼とは感じないし、ただただ屈託がない、無邪気、などと礼節に捕らわれない子ども扱いをするには、それ以上のものを、不思議な利発と魅力を感じた。まるで、自分と初めて会った相手ではないように、マケダは堂々と、大胆不敵に話しかけてくる。
そこに、不思議な懐かしさや安心感を覚えるような心持でもあった。ビルキスに生き写しの彼女の要望が、さらにその気持ちも加速させる。
「その教育に勝るものを、このイスラエルで与えられるかどうか、と言う心配が出てしまうね」
「ご謙遜なさらないでくださいませ!陛下のお噂は、母からかねがね聞いております。エズラ人のエタンや、マホルの子ヘマンにも、お知恵を試されて勝ったことがおありとか」
「それはそれは……そんなことまで、存じてくれていたとは、光栄だね」
「もちろんです!二人ともオリエントには名を知られた学者じゃありませんの、尊敬しておりました!」
気が付いたら、ソロモンも久しぶりに、楽しく会話していた。初めて会う異国の王女と。イスメニー女王も、その様子を喜ばしい事のように傍で見ていた。

宴もたけなわに案り、宴の客もちらほらと帰りだす。衛兵や、一人の去っていく好感を見て挨拶した。
「ヤロブアム様、ごきげんよう」
「ああ、君たちもお疲れさん」
彼はそう吐き捨て、自分の家に帰っていく。子供の頃にすんD根いた家とは違う、ちゃんとした、まともな住居だ。戸をあけ、ヤロブアムは父親代わりに育ててくれた男の名前を呼んだ。
「ネバトさん?帰って来たよ」
「おお、お帰り、ヤロブアム」
ネバトは二階から降りてきた。
「母さんは」
「寝かしつけようと思ったが、まだ起きているぞ。気にするな、今は機嫌がいいから」
その言葉通り、二回からはツェルアの声が聞こえてくる。「それより、今日は宮殿にお客が来たって?」と問いかけるネバトに、ヤロブアムは「ああ」と答えた。
「呆れたもんだよ。帳簿係に聞いたんだ。今回の宴会、どのくらい使ったと思う?」
「さあ?」
「今日、帳簿係りにようやく見せてもらうことができてね。しめて、上小麦30コル、小麦粉60コル、肥えた牛10頭、牧場の牛20頭、羊100匹」
淡々と述べられたその数に、ナボトも目を見開きながら眉をひそめる。
「……豪勢なことだ」
「しかも、此れでも特別張り切った方じゃない。そんな宴会を毎日みたいにやってるんだからね。ソロモンがここまで贅沢好きだなんて思いもしなかった」
ヤロブアムは薄く笑う。「確かにな」ネバトも同意した。
「お前の口から聞くソロモンの暮らしぶりときたら、いくら景気がいいからと、私のような素人目から見てもやりすぎだ。税率もうなぎ上りだ……確実に、ソロモン王の享楽が国の財政を少しずつ圧迫しているのだろうな」
「だろうね。今はソロモンの政治能力と景気の良さに納得して、税率の上がり具合に疑問を抱く奴はほとんどいない……でも、遠からぬうちにぼろが出る」ヤロブアムはにやりと笑う。「ナボトさん、そろそろ動いてもいい頃じゃないかと思うんだ。確信したよ。今のソロモンに、昔みたいな切れはない」
「と、いうと」
「うん、仲間を呼び集めて」ヤロブアムは笑った。「そろそろまた始めようじゃないか……十四年前の続きをさ」
「その言葉を、この十四年間待っていたぞ。ヤロブアム」
くく、とヤロブアムは笑った。

自分が子供のころ、街の近くに出るたびに、話されていたソロモン王の話。
栄光の王、賢者の王と呼ばれるにふさわしい王の噂を、一言一句漏らさずに、ヤロブアムは覚えていた、そこには、彼が付け入る隙もないような、完璧な王がいるようであった。
だが、今の彼はもはや、自分が子供だった頃とは変わってしったのだろう。何があったかは知らない、時の流れがそうさせたのかもしれないが、そんなことは関係ない。今でも十分に優秀な王、それには間違いないだろう。だが、彼は昔、完璧であったのだ。優秀などと言う言葉では、覆い隠せない存在であったのだ。
それがほころんでいる。好機と見るしか、あるまい。
神は、自分に、イスラエルの半分を与えられると言われたのだ。

ふと、耳をついて母の声が聞こえてきた。ツェルアは、歌っていた。
「ネバトさん」彼は眉をひそめる。「母さんを寝かしつけてきて。あの歌が合っちゃ、眠れない」
「ああ、分かった」ネバトは引っ込んでいこうとする。そんな彼を、少し呼び止めてヤロブアムは言った。
「ネバトさん、よく母さんと付き合えるよね。あの人……死んだ父しか見えてないよ」
「気にするな。男女の情と言うよりも、慈善のようなものだ」ネバトは、軽く笑って相違なした。「もっとも、お前のようなできた息子の父だ。どんな奴か、興味はあるがね。……お前はないのか?」
「別に。ないよ」
そうか、とネバトは階段を上がっていく。興味なんてあるはずがない。物心ついたとき、母はすでに気が狂い、父なんて存在も知らなかった。
母親に世話をされた記憶なんてない。娼館をたらいまわしにされ、どんどん落ちぶれていく母についていき、そのたびそのたび、娼館の他の女や番頭に、お情けで育てられてきたようなものだ。
父も、母も、自分には何も関係ない。
母の声がうるさい。あの歌を聞くと、眠れない、自分の耳を幼いころ何回も呪いのように蝕んだ、母が唯一歌える、荒唐無稽な子守歌。

「おい、ツェルア」ネバトは優しく話しかけた。
「もうそろそろ寝ないか。明日に差し支えるぞ」
だが、ツェルアは彼等はがにもかけないと言った様子、彼女は昔からこうだ。怯えているときは動物のように縮こまるくせに、機嫌がいいときは、まるで王妃様のように高飛車だ。下賤なお前など近寄る資格もないと言わんばかりに。
やれやれとため息をつきつつ、ネバトはそれでもひとまず、ツェルアを寝かしつけようとしていた。ツェルアは延々と歌っている。
「私はイスラエルの王妃様、貴方はイスラエルの王子様……貴方のお父上はとっても素敵な、イスラエルの国王様……」
彼女はカリカリと毛布を噛みながら、くぐもった声で、一人の名前を呼んだ。
「イスラエル国王アドニヤ様、私は彼の王妃様……」

PageTop

feat: Solomon 第八十六話

オリエントに名だたる大国、イスラエル。
その繁栄は、イスラエル王ソロモンの治世二十四年目を迎えても、なおのこと続いていた。煌びやかな神殿に参りに、なんでもある市場へ買い物しに、おびただしい数のイスラエル人が、毎日毎日、賑やかに、首都にエルサレムに行きかった。もはやイスラエルが貧しい小国であったことを知る世代も消えていった。今の若い世代にとって、イスラエルがとても惨めな国であったと言うのは、ただの歴史の一幕にすぎない、自分には関係のない事。
誰もが、この繁栄が長らく続くものだと確信して、イスラエル人は平和と繁栄の日々を享受していた。

大概の人々は、その繁栄を築いたソロモン王がいつの間にか変わってしまったことも知らずに。そして、変化を知る数少ない人も、その理由までもは誰も知らずに、イスラエルは繁栄の身を極め続けていた。



軽快な馬のひづめの音が聞こえて、巨大なエルサレム王宮の門があく。「王子殿下!」と、宮廷長のアヒシャルが慌てた声で寄って来た。
「ようやくお戻りになられましたか、もうじき客人もおいでになりますと言うのに……」
「ぼくの客じゃないだろ?父の客だろ」
ソロモン王の跡継ぎ、王子レハブアムは憮然とした表情で馬から飛び降り、使用人を顎で指して、馬を厩に連れて帰るよう指示した。そしてもう片手で、別の使用人に狩りの獲物を投げてよこす。
「そうは言えども王子殿下のご列席も必要です。大概になさいませ、毎日毎日好き勝手に遊んでばかりでは……」
「そのセリフ、父上にも言ってやったらどうだ?」
レハブアムは聞く耳を持つ様子もなく、アヒシャルを睨みつける。アヒシャルは憮然とした態度を取り続ける十七歳の王子に、困り顔だ。
「いえ、しかし……」
「アヒシャルどの」と、別に声がアヒシャルの頭上から降ってくる。レハブアムについて狩りに行っていた、ベナヤ将軍だ。
「王子殿下のやることに、あまり口出しはするな」
そう言ってベナヤは、彼を睨みつけた。アヒシャルも渋々と言った具合に頭を掻き「はい……」と力なく言い返す。
そして心の中で、大きくため息をついた。どうして、こうも変わってしまったのだろう。レハブアムも昔は明るくてかわいい子供だった。ベナヤ将軍も真直ぐな青年だった。こんな人物ではなかったのに。

十四年前、ソロモン王の妻であるナアマが急死した。あまりにも突然の死で不可解なことも多かったが、結局自体はうやむやに流された。そもそも彼女の死が意図的に仕組まれたことであったとしても、当時ナアマの実家であるアンモンが、属国でありながらイスラエルを裏切ったということはすでに周知の事実となっていた。だからむしろ、ソロモンに粛清されたならされたで、まっとうな話であったわけだ。ナアマ自身、無愛想であまり評判のよくない王妃であったことも、その風潮を手伝わなかったとは言えない。
ただ王宮では、今は亡き王妃ナアマへの話題はタブーになっている。ソロモンはナアマの死後、エジプトとの同盟のためエジプトの王女を妻に迎え入れた。それを機に婚姻外交を進め、今では何人もの妻が後宮に唸っている。
其れだと言うのに、彼の男児はナアマの産んだ子供であるレハブアム以外生まれない。唯一の跡取り息子の母を悪く言うのは、さすがに誰でも気が引ける。将軍であるベナヤがレハブアムに非常に忠実なのも、彼の母への話題をタブー視することに拍車をかけた。

アヒシャルが困っているうちに、レハブアムはベナヤに上着を取らせ、さっさと自分の部屋に帰ろうとしていた。それに気が付いたアヒシャルは慌てた口調で「お待ちください!」と言う。
「ですが、ご出席はしていただかねば困ります!冷え家の跡取り息子としても……」
「行くぞ、ベナヤ」
全く取りつく島もない。だが、宮廷長としては引き下がるわけにはいかなかった。しかし、そこにうまいこと、助け舟が現れた。
「王子殿下、おかえりなさいませ!おお、大猟ですな。さすがでございます」
そう恭しくお辞儀しながらその場に来た若い男は、労役の最高責任者で、名前をヤロブアムと言った。彼は本当に、ごく若い。レハブアムよりも七歳上の二十四歳だ。アヒシャルは、彼の姿を見てほっとした。彼は、こういう時大概頼りになる。
会えて、アヒシャルはこれ以上レハブアムを刺激しすぎ兄ようにと口をつぐんだ、ヤロブアムも察してくれたのか、目配せしてひとつうなずく。
「ヤロブアム……」レハブアムは若い役人ヤロブアムを見て、あまり面白くなさそうな顔をしていた。王子は、彼が苦手なのだ。ヤロブアムは薄く微笑みながら、鷹揚な口調で言う。
「早速、厨房に運んで料理させます。給仕たちには、貴方の取った獲物であると言うように、既に伝えておきました。今宵のお客人も、ソロモン王の偉大な息子はなんと狩りの名手なのかと、お慶びになりますぞ」
「そ、そうかい……」
「ええ、そうですとも!」彼は笑顔を崩さずに続ける。「私としましても、自らの遣える王子殿下が異国のお客人に賛美される様子を見るのは、非常な幸せでございます。今宵のお客、エチオピアの廷臣の皆様方が、貴方の座るテーブルに歩いてやってこられ、賛美の言葉を言うのですよ。偉大なる王ソロモンの息子レハブアム殿下に相応しい事でございます」
そこまで言われると、レハブアムも言葉に詰まる。ヤロブアムはニコリとほほ笑み、止めとばかりに行った。
「宴が待ちきれませんな、殿下?」
「……もういい。行け」
レハブアムは最終的に、そうぶっきらぼうに言い返した。彼のおかげで、宴会を欠席するわけにもいかなくなってしまった。迎えの場をすっぽかしておいて宴会だけは出席する、と言うのもさすがに決まりが悪くてできたものではない。必然的に、エチオピア人の来訪にも、自分が付き合わなくてはならない。
ヤロブアムは会言う変わらずにやにやした笑いをしたまま、「は。それでは」と歩いていった。アヒシャルも、彼に続いて去っていく。後ろから「いやあ、助かったよ、ヤロブアムくん」と言う声が聞こえたような気がして、レハブアムは歯噛みした。
「何様のつもりだ、あいつ!」
彼は隣のベナヤにそう話しかける。ベナヤも、追従するようにコクリとうなずいた。
ヤロブアムが王宮にやってきたのは、つい数年前の事だ。素性もろくにわからない若者だった。だが、ソロモンの部下たちが城下に非常に優秀な若者がいると言う噂を彼のもとに持ってきて、ソロモンが一も二もなく取り立てた、そしてその噂が事実だと分かるや、ソロモンは彼をあっさりと重役につけてしまったのだ。それで実際、ヤロブアムもその仕事を回せているのだ。ソロモンも、今や彼の園理髪ぶりをすっかり気に入り、重臣たちの中ではひときわ可愛がっている。
そんな彼の存在は、レハブアムにとっては癪だ。どこの誰かも分からない馬の骨の事はあんなに徴用するくせに、自分は王子なんて名ばかりだ。父親に、ろくに構われた記憶もない。
何よりも、頭の中にこびりついて、取れない記憶がある。ずっと小さなころの記憶だ。だけど忘れるはずもない。
自分の母は、自分の目の前で、ソロモンに殺された。
恐ろしいほどよく覚えている。母の首を掴み、鬼気迫った表情で締め上げる父の姿、幼い自分には、何もできなかった。
父はあれから一度も、そのことを悪びれる様子に見えない。それどころか死んだ母にあてつけるかのように、異国から何人も若い妻を貰い続けている。レハブアムにとって、偉大なルイスラエル王、平和の王と言われた父が、尊敬どころか憎しみに対象になるのも、全く無理からぬことであろう。
「あいつ、父上にちょっと気に入られているからってぼくの事を馬鹿にしているんだ、な、ベナヤ?」
小さい時からずっと一緒にいてくれて、自分のことを……それこそ、実の父よりも父親らしく可愛がってくれた将軍ベナヤだけが、レハブアム王子のよりどころだった。彼は、全くレハブアムの事を否定しなかった。
「全くです。私からも灸を増えておきましょう」
「うん、頼むよ」
レハブアムが成長するにつれ、明らかになってきたことがある。つまり、彼はイスラエルをのし上がらせた、神から知恵を授かった賢者と呼ばれる父親の才覚などは、全く引き継いでいないということだ。彼は良くて凡才。ソロモンの唯一の跡取りなのにあの様では、と陰で自分の悪口を言う輩が一人や二人でないことも、悲しきかな、レハブアムはよく知っている。
その為余計に面白くないのだ。自分と天と地ほども身分の差があるくせに、同じ王宮を我がもので歩く、優秀なヤロブアムの存在が。
少し会話の間が開いた、その後、ベナヤはぼそりと言う。
「王子殿下。ご安心を。あなたをこけにするものは、このベナヤが許しません」
レハブアムはその言葉に、目を瞬かせる。そして、少し照れくさそうに笑うと「ありがとな、ベナヤ」と言った。


ポッポッと泣くヤツガシラの声。イスラエル王、ソロモンは彼らに餌をやりながら、物思いに沈んでいた。
この十四年間、一人になるたびに思い出さないときは一瞬もありはしない。昔、このイスラエルに訪れた、砂漠の果ての女王。そしてソロモンがこの世で誰よりも愛した恋人、暁の娘ビルキスの事を。
今まで人生の中で、辛いことなどいくつもあった。だが自分はそのたび、乗り越えるだけの治世と能力を持っていた。
それなのに、彼女が自分をおいて、遠い砂漠の果てで死んだことは、ソロモンの全てを奪い去ったかのように、彼を空虚そのものにさせた。十四年にも及ぶ年月も、彼女を失った苦しみを癒すことも忘れさせることもできずに、むしろ傷口を広げるかのようにすら思えた。
気が付けば、自分の父がそうしていたように、手あたりしだい女を後宮にかき集めていた。それで少しでも、苦痛が和らぐような気がして。この年になって、初めて父親を違う視点で思い出せる、とソロモンは感じていた。人は妻を何十人も娶り、バテシバを無理やり手に入れた父の事を好色と呼んだ。自分も、そんな父の事を子供の頃は色狂いと軽蔑していた。だが、父は別段、特に好きでやっていたわけではないのかもしれない。ただただ、何かしないまま受け止めるには、余りにも苦痛が大きすぎてどうしようもなかった、と言う解釈はありえないだろうか。
自分にしたってそうなのだ。ビルキスを忘れられるかもしれない、と言う思いあって、若い女を抱く。けれどもそこに、忘れられる、と言う確信などない。それどころか女を相手にすればするほど、あの自分の幻の恋人と、世間一般の女と言う生き物がかけ離れているように思えてくる。自分の優秀な頭が、そのことを記憶しないはずがない。それでも、快楽に溺れざるを得ないのだ。
結婚など、望まなかった。自分が彼女の生きる世界に行き、彼女が自分の生きる世界に生きている。それだけで、何よりも幸せだと思っていた。其れなのに、その幸せはあっけなく崩れ去ってしまったのだ。
自分にとってのビルキスのように、父の心にあいた空虚の原因がなんであったのかなど、今さら知る由もない。ただ記憶の中の、いつももの悲しそうな父の目と、最近鏡に映る自分の目が、妙に似ている気がしてきたのだ。もしも父がこんな気分なら、なるほど、不気味な赤い目の息子など、視界にも入れたくはあるまい。美しい物だけを見ていたって、気を抜けば心がつぶれそうなときに、何故好き好んで醜いものを目に入れられるというのだろう。

ビルキス、と、幾とどなく心の中で、彼女の名を呼んだ。けれども、それに返答してくれる声はない。当たり前の事であるのに、いくら妻を迎えても、毎日宴会を開いても満たされないほど、空虚だ。

とはいえ、ソロモンにはイスラエルがある。これがどこかの貴族の恋に生きる道楽息子なら、一生自分の悲恋を嘆いてごろごろしていることもできるだろうが、あいにく彼は責任を持って守らねばならぬものがいくらでもある、王なのだ。
「陛下!」王の部屋に、ようやく彼を呼ぶ声が聞こえた。アヒシャルのものだ。
「エチオピア女王、イスメニー様のご一行がお付きです」
「準備はできている。今向かうぞ」ソロモンは物思いから目をさまし、そう言いかえした。扉を開け、豊かな黒いマントを床に泳がせ、廊下を歩いて大広間へ向かう。

黄金で飾られた玉座に彼が座ると、先にひざまずいていた長老たちも一斉に居住まいを正した。ソロモンは、じろりと広間を見渡す。息子のレハブアムが、こう言った席をよくよくすっぽかすのを知っているからだ。彼の母親も、自分にあてつけるかのように公的な責任をたびたび放棄していた。全く母親似だ、今日は……どうやら、レハブアムも出席しているようだ。渋々と言った体ではあるが。

エチオピア女王、イスメニーとは婚姻外交で縁を結んだ中ではないが、そこそこ友好的な関係を築いていた。そんな彼女が、娘をイスラエルに留学させたい、と持ちかけてきたのは約1年前の事だった。
イスメニーには子供が何人もいるが、これぞ自分の跡を継いで国を注がせるにふさわしい、と彼女が特別に気に入っている利発な王女がいる。それで、良く女王となるため見聞を広める当意味でも、賢者と名高いソロモン王が治め、学問も盛んな国であるイスラエルで教育を受けさせたい、と言うのだ。友好国の女王からの申し出、断る理由もなく、ソロモンは二つ返事で承諾した。それが、今日ようやく来るというわけだ。

「エチオピア女王、イスメニー陛下のおなり!」
やがて鋭い声が響き、大広間の徒が開いた。扉の向こうからは、アフリカ流の派手木に身を包んだ、見知ったイスメニー女王が現れた。黒壇のような黒い肌を持つ、ふくよかで健康的そうな老女である。
「ご無沙汰しております、ソロモン王。この度は、私どものわがままを聞いていただき、お礼の申しようもございませんわ」彼女は玉座に座るソロモンに礼をする。ソロモンの方も、彼女にそんな態度を取らぬようにと促しつつ「いいえ、貴方の頼みを何故断れましょう、イスメニー殿」と続けた。
事実、ソロモンは彼女の事は大分好意的に思っていた。何だったら、自分の後宮に数えきれないほど唸っている女たちよりも、彼女の方が人間として好きなくらいだ。
自分が即位するよりもずっと前から、エチオピアを責任もって治める女王。鷹揚さの中にも、しっかりとした気迫と威厳がある。女性的な美しさと言う点では実に失礼ながら比べものにもならないが、それを差し置いてもビルキスがあんな最期を迎えることなく、まだこの先生き続けているのならばこのような女王になるのだろう、と言う面影を、わずかなりとも感じることができるのだ。
イスメニーはくっきりと化粧した顔をh転ばせて、「娘も楽しみにしておりましたの、今日と言う日を……」と告げる。
「それはそれは。……して、王女殿下は?」
「あら……?これ、マケダ!何してるの!」
その一言で、大広間の人々は、初めて気が付いた。ソロモン王とイスメニーに注目し気が付いていなかったが、網状のベールをかぶった少女が、大広間の、池の衣装を施したクリスタルの床をじっと眺めていた。ドレスの裾を、少しだけ持ち上げて、不思議そうに。
「まあ、マケダ、はしたない」イスメニーは少し上ずった声で言った「ご挨拶なさい!」
「驚きましたわ、ソロモン王」
ベールの少女が一番最初に発した言葉は、それだった。偉大なる王ソロモンに対する、礼をはらった畏敬の言葉でもない言葉。だが、それはしつけのなっていないお転婆姫の言葉とするには、余りに品よく、綺麗な響きを持って大広間にこだました。不躾というよりも、その奔放さに、抗いがたい魅力を感じるかのようだった。
「宝石の鱗を持った魚を、水に泳がせているのかと思いました」
彼女はそう言って、すとんとドレスの裾を外す。彼女の踝が裾に隠れた。ソロモンも、その言葉に小さな笑いを持って返す。
「裾が濡れると思ったのかね、王女殿下」
「ええ、それほど精密なんですもの。イスラエルの建築って、なんて素敵なんでしょう」
彼女はカツカツと、クリスタルの床の上を歩く。そしてソロモンの前で跪くと、ふわりとレースのベールを取った。
「初めまして。エチオピア王女、マケダと申します。よろしくお願い致します」
その瞬間、大広間は凍りついた。エチオピア王女、マケダ。確かイスメニーの末語で十四歳だと聞いていた。
だが、そんな年齢にも似つかわしくないほどに、目の前の少女は美しかった。大広間の人々の目を、引き付けてしまうほど。先ほどのソロモンに対する無礼など、すべて忘れさせてしまうほど。
つまらなさそうにしていたレハブアムすらも、目を見開いて、茫然としていた。まるで、心を打たれたように。
だが、マケダと言う少女の不思議なところは、ただ美しいところではなかった。その場にいた、イスラエル王宮に昔から仕えていた何人かは、その彼女の容貌に、驚嘆するべきものを感じたのだ。そしてそれを一番感じたのは、何を隠そう、玉座に座るソロモン王だった。
彼は、自分に向けられたエチオピア王女の目を見て、呟いた。この十四年間、何回も心の中で呼べど、口には決して出さなかった名前が、彼の唇から無意識にこぼれた。ぼそりと、誰にも聞こえないような音で。
「……ビルキス?」

かつてイスラエルを訪れたシバ王国の女王、ソロモンが唯一愛した女、ビルキスに生き写しの少女が、そこに立っていた。彼女がこの大広間に訪れたように、堂々と自分に向かい合って、彼女と同じ顔をした十四歳の少女が、ソロモンの前にたたずんでいた。

PageTop

feat: Solomon 第八十五話

ソロモンがいくら動揺しようとも、手紙はただ淡々と、文章を伝えるのみだった。
ビルキスは、死んだ。彼はろくに状況の説明もすることなく、そう書いてあった。

現実が、ソロモンにとっては受け止められなかった。そんな、だって自分はまだ、シバに行ってもいない。
もっとあって、もっと語り合って、自分たち菜甥は、これからもずっと続くものだと思っていた。
ビルキスが死んだ?もうこの世にはいない?そんな、バカな。

ふと、ソロモンは気が付いた。短い手紙の端に、迷ったような走り書きで書いてあった。淡々とした事務的なほどの無いように比べて、そこん刃物上ぬ恨みが込められているように感じられた。
「あなたからもらった痛み止めを飲んで、その直後、女王は死んだ」

馬鹿な?
そこまで言いきってはいないものの、タムリン隊長が暗に、あの薬のせいでビルキスが死んだのだと言わんとしているであろうことは明らかだった。
馬鹿な、あの薬は無毒だ。大体ビルキスに使っているのに、その時彼女には何もなかったじゃないか。あの薬のおかげで、彼女が死ぬはずがない。あの薬が彼女の旅立ちのために、自分が前もって作って、保存しておいたもの……。薬倉には、誰も不審なものは入れないように言っておいたのに……。
いや、待て。ソロモンは思った。本当に、誰も入らなかったのだろうか?本当に……。

ソロモンは、薬庫の番をしていた守衛をすぐさま呼び出し、、シバの女王が旅立つ前後d、絵薬庫に入った不審なものはいないか、と問い詰めた。不審なもの、と言われて、彼らはそのようなものはいない、と言った。
「ああ、でも……」
「でも、なんだ?」
守衛はもごもごと口ごぼったが、王の赤い目が自分を睨みt毛てくるその様子が、余りに鬼気迫っていて恐ろしかったのであろう、やがて、口を割った。
「王妃様が、一度入りました……」
「ナアマが……!」ソロモンは顔を青くした。嫌な予感をひしひしと感じる。「いつのことだ!?」
「シバ人が旅立つ、前夜の話です」
「……分かった、もう良い!貴様らは返れ!」
そしてソロモンは守衛たちが自分の部屋ら出ていくのも見送らず、一目散にナアマのいる後宮に向かった、時刻はすでに、夜になっていた。

後宮で、ナアマはレハブアムを寝かしつけていた。その湯女中、急にカーテンを翻し現れたソロモンの姿を見て、ナアマも、うとうとしていたレハブアムも驚いたようだった。
「あ、お父上!こんばんは!」と言うレハブアムの声など聞こえないとばかりに、ソロモンはナアマに詰め寄った。「どうなさったの、あなた?」ナアマは聞く。彼女の目の前にいる夫は、今までに見たことがない程の表情をしているように見えた。
「一つ、聞きたいことがある」彼は問いかけた。「私の薬倉に入ったか?私の薬に……何か、細工をしたか?」
彼女は、それを聞いて、じっとソロモンの目を睨み返した。
「何かあったの?」
「シバの女王が、ビルキスが、死んだ」
「あら、そう……」
彼女は、諦めたようにふっと目を伏せると「したわ」と、それだけ言った。もう後、状況説明など、何も必要はいらなかった。
ソロモンはナアマの胸ぐらをつかむ。「お父上?」とレハブアムの不安げな声が飛んできたが、ソロモンは彼を無視した。
「何故だ、何故、そのようなことをした……」
「あなたともあろう方が、言わなきゃわからないの?」
「言え!」
ソロモンの声音をしっかし聞き届け、ナアマは言う。
「レハブアムが、可愛そうだったんですもの。あの人を生かしておくわけには、行かなかったのよ」
妻のその言葉を聞き、ソロモンは全身が震えた。
ナアマは、悪びれもせず、恐れもせず、ソロモンの前に立ちはだかっていた。ソロモンの赤い目を、じっと、夫が自分にそうするようにに見続けていた。
「よくも……」彼は呻く。「よくも、ビルキスを……私が、誰より愛した人を!」
「ええ、そうね。あの人は、貴方に愛されるだけの人だった。私が恐れるのは、当然じゃないの。もしもあの人との間に子供が出来れば、そしてもし、その子がイスラエルに来たら、貴方はきっと、レハブアムよりそちらの方を大事にするわ」
「当たり前だ!貴様如きと彼女など、比べものにもならんわ!」
「ええ、私もあなたがそう思ているって、分かっていたわ。わかっていたから、やったんじゃない。私達、本当に、結婚しただけの中だったわ。けれどね、ソロモン。結婚はしたのよ。貴方が何を言おうと、私たち、結婚だけはしたのよ。そうして、あの子が生まれたのよ」
「黙れ……貴様など、王位のためでなければだれが結婚なんてしたものか!レハブアムのためだと……レハブアムが哀れだと!?そんな理由で……あの人を殺したのか!誰より素晴らしかった、あの人を……!」
ソロモンの目は、怒りに燃えていた。怒りにも、絶望にも。
「女は……女は、いつもこうだった!私の母も、私の姉も、!自分では何もしないくせに、する気一つもないくせに、男の権力にしがみつこうとする!自分では何もしないくせに、それをいざ失うとなれば、どれほど人でなしにもなれるのだ!あの人は……ビルキスは、そんなことはしなかった。彼女は自分の店、自分の力で、自分の地位を高めてきたというのに……貴様ごときの、息子を王になどと言う欲望で、ビルキスが消えたというのだな!」
「欲望……」ナアマは呟く。
「ああ、貴方は、わかっていないのね。私がなぜ、レハブアムを守りたいのか」
「貴様のような女の思惑など、分かろうものか!」
「ソロモン、私は初めて、貴方に勝ったわ。結婚する前のように、いや、それ以上に、私は胸を張ってあなたと話し合えるわ。私の気持ちは、貴方には、永遠にわからないと知ったから。でも、当然ね。そんな母を見て育った貴方に、私の子の心情は、永遠に分かりはしないのよ。どんなに知識があっても、シバの女王と愛を知っても、やはりあなたには、絶対にわからない世界があるのだわ」
「……ビルキスを殺しておいて、その上、開き直って屁理屈までこねようと言うのか」
「屁理屈?貴方にとっては、そうかもしれない。でも、私にとっては、これが精いっぱいの主張なの。あなたやシバの女王のようになれない私が、それでも私なりに、言葉を持っていう主張なの」
「黙れ」
ソロモンは、震える手をナアマの首に伸ばした。ナアマの手が、がしりと掴まれる。
「それ以上、愚にもつかん言葉を重ねるな。口をふさげ、口をふさげっ!」
ソロモンの目には、耳には、もう何も届いてはいなかった。
目の前に、ビルキスを殺した者がいる。自分が誰より愛したあの女性を、自分の生きているこの世から、奪い去ってしまった存在がいる。もう、そのようなことしか考えられなかった。
ナアマの首を握る手にギリギリと力が込められる。レハブアムは泣き叫んでいた。泣き叫ぶながら、父に静止の言葉を言っている。しかし、ソロモンの耳には息子の鳴き声など、届かない。
「昔の私にした侮辱など、アンモンの謀反など、全て許そう。何もかも、許してやる」
ナアマは、命乞いなどする様子もなかった。青くなりながらも、じっと、ソロモンの事を見つめていた。
「だが、お前はビルキスを奪ったのだ。私がだれよりも愛した、唯一無二の、あの人を。漸く、ようやく出会えた、あの人を」
ナアマの瞼が、徐々にふさがっていく。
「許すものか。たとえ両親を許しても、お前の事だけは、絶対に許すものか」
すっと、ナアマの体が重くなった。パタリ、と、彼女の手が床に落ちる。
はあはあとソロモンも息を吐いた。手から力を緩めると、一切の抵抗なしに、彼の妻だったものの体は。ばたりと寝台に沈んだ。
夫婦と言う関係でありながら、ただの一時も、お互いに愛を感じたことなどなかった。結婚しただけの関係、それ以上に的確に彼らを指す言葉などなかった。
そんな女が、今、物言わぬ存在となり、寝台に横たわっていた。

レハブアムは、目の前の光景をただ見つめていた。「おははうえ……」かれはしゃくりあげながら名前を呼んだ。だが、ナアマはその声にも、もう反応することはなかった。
ソロモンは、ようやく、永遠に大人しくなったナアマを見下ろした。レハブアムの鳴き声を聞きつけたのだろう、召使の声がドタドタと聞こえる。
「どうかなさいましたか!」
声は、ベナヤのものだった。ベナヤは、しばらく声を飲み込んでいた。いつもなら巣飛んでくるレハブアムも、もう腰を抜かし、しゃくりあげているだけ。そして、ぐったりしたナアマを、見下ろしているだけのソロモン。ナアマの首には、赤い閉め跡が残っていた。
「へい、か……?」
ベナヤは、茫然として目を白黒させ、呟いた。そして、彼はぎょっとした、振り返ったソロモンの顔は、その端正ともいえる作りは彼がいつも合わせている王の者と寸分違わないはずなのに、その顔はまさに、人ならざる化け物だった。
「ベナヤ」彼は、短く言った。
「死体を片付けろ」
「へ、陛下。あなたは、ナアマ様に何を……?」
「聞こえんのか?死体を片付けろと言ったのだ」
「できません!王妃殿下が、なぜ、このようなお姿に!」
「当然の報いを受けたまでだ、その女は。私の愛する人を……ビルキスを、殺したのだから」
その言葉に愕然とし、ベナヤは、よろりとレハブアムの側にしゃがむ。レハブアムは必死に、ベナヤにしがみついてきた。よっぽど、心細かったのだろう。当たり前だ。こんな、こんなことが……三歳の子供の目の前で起こってよいと言うのか。
「ベナヤ?私の命令に従え」
「陛下、間違いであったと、言って下さい」
ベナヤは震える声で、レハブアムを庇いながら言った。
「間違いであったと……行って下さい。レハブアム様に、謝ってください」
「謝る?なぜ、私が」
「レハブアム様が、余りにも不憫です!」
ベナヤは悲痛な声を上げて言った。自分にしがみつくレハブアムの地あらが、一層強くなっていくのを感じる。「お願いです、ただ、一言……」レハブアムを抱きしめ装懇願する彼と、レハブアムの眼前に、ソロモンは立ちはだかった。
彼は、赤い目で二人を見下ろしながら、告げた。
「間違いなものか、これが、現実だ」
「陛下……!」
「不憫だと?肝に銘じておけ、レハブアム。お前の母は、このような仕打ちをされるに足りることをした」
「陛下、お願いです、それ以上、おっしゃらないでください」
あんなに、なんでもよく手に取るような人なのに。其れなのに、今この時のレハブアムの気持ちが、わからないと言うのか。ベナヤはそう感じながらも、言葉が出なかった。ソロモンは、止めとばかりに言い捨てた。
「レハブアム。私がこの世で一番憎んだものがいるなら、それはお前の母親だ」
ヒッ、と声が聞こえ、レハブアムは火がついたように泣き叫んだ。そして次の瞬間だった。ベナヤは、ソロモンを殴り飛ばしていた。
「それ以上……言うなと言ったろうが!」
ベナヤは、思わずそう叫んだ。

むくりと置き上がったソロモンが、じろりとベナヤを睨みつけた。だがそれにも、もう物怖じする気分はなくなっていた。
「わかっているのか……あんたが人の父親として、一番してはならないことをしたことを、わかっているのか!」
ソロモンは殴られたところを、床に座ったままパンパンとはたく。憮然とした表情で。その表情を見たベナヤは、さらに怒りに火が付いた。
「ダビデが貴様にした仕打ちも、貴様の行為に比べればまだ優しい!貴様は人でなしだ!今はっきりわかった、貴様が化け物呼ばわりされたわけが!その容貌のためだと思うな、誰もかれも、貴様の内心に気が付いていたんだ!親兄弟の情も忘れて、過去を水に流してやることもできずに血を分けた肉親を剣にかけて、今、異国の美女一人のために妻を殺し、息子を悲しませる貴様のような人でなし、閉じ込められて、迫害されて、当然だ!貴様など、独房で一人、死んでいたならよかったのだ!」
ソロモンに感じていた、倫理観の剥離。違和感、そして、劣等感。それらすべてを、ベナヤは言葉にしてソロモンに吐きかけた。
それが正当性のない言葉であると、彼はすでに知っていたはずなのだ。ソロモンに十年仕え、彼が肉親を憎んだのも、彼への虐待が理不尽なものであったことも、分かっていた。彼は、迫害されるいわれなどない、偉大なイスラエル王と呼ばれるにふさわしい能力の持ち主なのだと、分かっていた。
だが、それはもはや、ベナヤの中で崩れ去った。ソロモンは、許し難い罪人へとなり下がった。
レハブアムが泣いている。ベナヤはレハブアムの頭にそっと手を置くと、起き上がろうとしているソロモンに向かって、絞り出すように言った。
「ビルキスなんて、知る者か。俺にとっては、レハブアム様にとっては、ナアマ様こそ唯一無二の、この世で何よりも素晴らしい女だったのだ。貴様にはわからんだろうがな……一生、わからんだろうがな」
ソロモンはじっとベナヤを見つめて、言った。
「アンモンは、此度、属国でありながら私を裏切った。裏切り者は償わねばならぬ。ナアマを殺したことが明るみに出ても、私を責める者は、イスラエルにお前以外誰もいなかろうよ」
彼あそう言いすてて、つかつかと後宮を後にした。追いすがって剣にかけることも、できたはずだった。だが。ベナヤの心にそんなことは浮かばなかった。
「おははうえ、おははうえ……」
泣きじゃくるレハブアムを、彼は必死で抱きしめた。
「王子殿下、私が付いております」
レハブアムは、ベナヤに激しく鳴き縋る。ベナヤも、彼を離すまいと、力強く抱きしめた。
自分しかいない。この王子を守れるのは、自分しかいない。
「私が、ベナヤがここにおります。この私が、一生をかけてでも、貴方を御守りいたします!

宮殿でそんなどさくさが起こっている中、ひそかに起こっていたことを、まだ誰も知らなかった。牢から一人、脱獄者が出たのだ。守衛たちから武器を奪い、彼らを殺し、逃げ出した。

だんだん、と叩かれた扉を開き、ネバトは驚いた。
「ハダド……?」
全身ずたずたに引き裂かれた、まさに瀕死のような男、歩いているのもやっとダロウに、これでよく脱獄できたものだ。だが彼の目だけは爛々とした生命力を称え、いまだ完成されていない、イスラエルへの復讐に燃えていた。
「見ての通りだ。脱獄してきた。復讐はまだ、完遂していない……」
ネバトはそんな彼を見て、風とため息をつく。「まあ、あがれ」彼は手を引いて、ハダドを家の中に入れた。バタン、と扉が閉まる。
「イスラエルめ、必ずや、わが祖国の復讐を……」
と、その時。ハダドはグサリ、と、自分の背中から刃物が刺さるのを感じた。振りま得ると、ネバトが冷たい目で自分を見下ろしていた。
「悪いな、私達はもう、お前を見限ることにした。わざわざ来てくれて礼を言おう。王宮から少しは報酬金も出るだろうからな」
ずるり、とハダドは崩れ去る。満身の力を込めて脱獄してきたのに、その最後に残った満身の力が、抜け落ちていくように。
「馬鹿な……」ハダドは呻いた。
「俺無しで何ができる……。ただの貧民街育ちのお前が……」
「お前よりももっと、選ばれた奴がいるのだ。ソロモンを駆逐する奴としてな」
ネバトは、床に倒れたハダドに、屈みこみながらそう話した。「なんだって……?」ハダドは目を白黒させる。
「おい、ハダド。貧民街育ちの私がお前にいろいろ助言をできていたこと、変だと思わなかったのか?」
「えっ?」彼は聞く。確かに、利発な奴だとは思っていたが……。
「私の裏にある奴がいたのさ。まあ、彼も貧民街育ちは同じだが。だが、育ちが同じでも生まれは違う。なんというべきか……彼のような人物を、天才と言うんだろう。彼さえいれば、十分なのだ。イスラエルそのものを乗っ取る器は、彼一人だけだ」
その時。ぎしぎしと、腐りかけた階段を誰かが下って来た。
ツェルアの、一人息子。
「お前……」ハダドは、気が付いた。彼が自分を見ている、その目つき。まさか……。
「ネバトさん」ツェルアの息子は、よどみない声で言った。
「そろそろ、やれよ」
「ああ」
ぐさり、と、ネバトは急所を突き刺した。ドロドロの不潔な元娼館に、血だまりの汚れを増やし、誇り高きエドム王子、ハダドは絶命した。

「これでいいのか?」ネバトは、ツェルアの息子の名前を呼んで、そう言う。
「ああ。思ったよりも生一本すぎたから。五体満足で帰って来てたって、殺すつもりだったよ。こんなの、いても足を引っ張るだけだ」
「レゾンはどうする?捕まったが」
「あれもヒラム王に任せとけばいいよ。むしろ、彼の息子……ヘズヨンだよね。あいつは、父が死んで悦んでると思う。ヘズヨンは父と違って、現実的だから。あとはヘズヨンは落とし前つけてうまくやると思うよ。レゾン一味のアラム支配はもう実験の域まで言ってるし、むしろこれを機に、ダマスコ支配を盤石にするんじゃないかな。父を差し出した、っていうんなら、落とし前には十分そうだしね」
「なるほど」ネバトは口に指を当てて言う。
「ふふふ、さすが、未来のイスラエル王」気が付くと、部屋の隅にいた老人が笑っていた。
「この私が聞いたのだから。神の使いの天使様に……長い金髪をした、世にも美しい天使様に、聞いたのだから。この子こそ、イスラエル王になると。ダビデ王朝の支配に風穴を開けて王国を真っ二つにし、十二部族のうちの十をダビデの家から奪い去ると」
「私は神に愛されなかったが、だが信心は持っている」と、ネバト。「アヒヤ。あんたの預言に期待して、こいつにすべてをかけてるんだ。責任とってもらわなくちゃ困るぜ」
「安心せい。神の預言に、間違いがある者か……」
「……で、これから、どうする?」ネバトは、ツェルアの息子に聞いた。
「ダビデに被害者なんて、頼るからこうなったんだ。次はオレ自身が行くよ。まだ年齢は全然足りないけれど……オレが成長するまで……時が来るまで、ネバトさん、俺を育ててくれる?」
「勿論だ、ヤロブアム」ネバトは彼の頭をガシガシ撫でながら、彼の名前を呼んだ。
「しかし驚いたな、お前が王になると、実際にこの預言者に言われた時は……お前の母も、実は預言者なんじゃないのか」
「よせよ。偶然だ。あの人はただの狂人さ」

娼館の二回では、ツェルアが一人、ぶつぶつ歌っていた。
殆ど言葉を忘れてしまった彼女も、数少ない言葉だけは覚えている。それを歌うように口ずさんでいた。ヤロブアムが聞いて育った子守歌は、その一種類だけだった。
「ふ、ふ、ふ……私はイスラエルの王妃様、貴方はイスラエルの王子様……貴方のお父上は、とっても素敵な、イスラエルの国王様……」


宮殿から出たソロモンは、ラバを無我夢中で走らせ、神殿にたどりついた。そして、神殿裏の、シクラメン畑へと、彼の足は赴いた。
ここで、ビルキスと二人、愛を打ち明けた。つい昨日の事のように思える。彼らは、その日のように咲いていた。自分たちを祝福してくれた火のように、色とりどりに咲き誇っていた。
バ足り、とソロモンはシクラメン畑の中に倒れこむ。うつむき加減の園花々は、ソロモンをいたわってくれるかのように、ゆらゆらと揺れた。
「麗しいな、お前たちは」ソロモンは、シクラメンに語りかけた。そっと、目の前にある純白のシクラメンを、そっと撫でる。何もかも抜け落ちてしまったような自分とは違い、瑞々しく、誇り高く咲いている彼らを見て。
「羨ましいものだ。俺よりもお前たちの方が、まだ、持っている」
王国も、神殿も、自分の心の開いてしまった空洞を埋めるにはかなわない、ソロモンは深く、そのような喪失感に襲われた。ビルキス一人がいなくなったことが、こんなにも悲しいだなんて。
何も考えられない。考える気すらも、わかない。
この世はなんと、空虚なのだろう。これほど、この世が心を満たすには何も足りないところであるなど、思いもしなかった。
神すらも、今は自分を見放しているように思える。空しい、さびしい、何もかも、がらんどうだ。
「空の空」ソロモンは、静かに泣きながら呟いた。「すべては空だ」
彼の心を象徴するように、冷たい夜風が吹いてきた。ソロモンは神殿の陰に隠れるように、一人ですすり泣いた。ビルキスとの思い出の場所で。もうこの世からいなくなってしまったビルキス、一人の事を考えて。

気が付くと、地面に伏せっていたはずの自分の頭はいつの間にか何かの上におかれていた。ベリアルの膝だった。ベリアルはソロモンを膝に抱き「よしよし」と言って、泣き続ける彼の頭をそっと撫でた。

(第四章・完)

PageTop

feat: Solomon 第八十四話

やがて、夜が明けた。
北の独房に、朝日が差し込むことはない。しかし、外が明るくなった事だけは、さすがにわかる。
ソロモンとビルキスは、一晩中、そこにいた。ビルキスの方が先に目覚めており、彼女は「おはよう」と、ソロモンに告げた。
彼は、その顔を見つめ、感慨深そうな顔で言う。
「なあ、ビルキス」
「なに?」
「俺はずっと幼いころ、ベリアルも来ないほど前の頃、この部屋に籠って、この寝台に横たわりながら……外で、兄弟たちが楽しげに遊んでる声を遠くに聞きながら、思っていたんだ。自分も彼らのように、太陽の光を目いっぱい浴びれたら、あの美しく輝く光に包まれることができたら、どれほど幸せだろうと」
そして彼は、ビルキスの頬をいとおしそうに撫でる。彼女自身を、じっと見つめて。
「俺は本当に幸せ者だな。その子供の時の夢が、今こうして叶ったのだから」
くす、とビルキスも照れて笑うソロモンはその手を、彼女の頬から右手に移した。
「ビルキス。君に頼みがあるんだ、受け取ってほしいものがある」
「あら、なあに?」
「君に渡したエイラットストーンだが、ハダドに砕かれてしまったろ?」彼は、彼女の細い指を撫でながらそう言った。
「その代わりになるものを、君に渡していきたくて……」
そう言うと、彼はその手を自分の手に移す。そして、三つはまった指輪のうちの、一つを引き抜いた。蓮の花のような薄紅色に輝く指輪。ヒラム・アビフが自分のために作ってくれた、スリランカ製のルビーの指輪を。
彼は、黙って指輪をビルキスの指にはめた。ソロモンの指に長らくなじんでいたそれは、ビルキスの指にも、すっとなじんだ。彼女の事を、新しい主と認めると言わんばかりに。
「これって、貴方の親友の……」
「ああ、掛け替えのない友、ヒラム・アビフが俺に送ってくれたものだ。俺の、忘れがたい記憶の一部だ……だからこそ、君に預ける。君に、持っていてほしい」
彼女はその言葉を、一言一句、真摯に聞いていた。ソロモンはどんな大金を積まれようと、ダビデ王家の指輪を手放すことになろうと、この指輪だけは、手放すことはなかっただろう。それを、自分に預けてくれたという事実を、真っ向から受け止めていた。
白い肌にも、褐色の肌にも、その鮮やかな薄紅色は良く輝いた。「ありがとう」ビルキスは言う。
「何物にも代えがたい、贈り物だわ」
「喜んでくれて、嬉しいよ」
彼らは素肌のまま、抱き合った。此れから別れると言うのに、不思議なことに、そのような悲壮感は一切なかった。
言葉無くとも、彼らはお互いが、お互いの思っていることを考えているのが、何とはなしにわかった。
よかった。
この人が生まれた時代に、この人が生きた世界に、自分も生まれて生きることができて、そして巡り合いお互いを知ることができて、本当に良かった。
それ以上に、何がいるだろう。この世にお互いがいる、と言うこと異常に幸せが、どこにあるだろう。
それに比べれば、イスラエルとシバの距離など、微々たるものだ。自分たちは愛し合っている。ずっと、繋がっている。それで、何もかも十分だ。
朝食会が終わると、シバの民たちはいよいよ帰国の準備に入った。サラヒル女史も、あわただしくビルキスの身の回りの世話をする。
やがてビルキスは旅衣装で出てきた。馬車の準備が整うまで輿の近くに座りながら、彼女はソロモンと最後の歓談をしていた。周囲では、シバ王国行きが決まった祭司たちが仲間や家族たちと別れを惜しんだり、なんとか拙い会話ができるようになり漸く打ち解けたイスラエルとシバの兵士たちが、お互いの無事を祈りあったりしていた。
「アヒシャル、あれを」ソロモンは宮廷長のアヒシャルに、身振りで指示する。「はっ」と彼は言い、宮廷の中に戻っていく。やがてすぐ帰って来た彼の手には、真鍮の壺が握られていた。
「まあ、それは」サラヒルが反応する。
「例の痛みどめですよ。長旅の最中では、調合もままならないかと……作って置きました」
「まあ、ありがたいですわ。あれは本当によく効きましたもの……」
サラヒルはにこにこと笑って、布で壺を包み、旅荷物の中に押し込んだ。
いよいよ、タムリン隊長の声が聞こえる。「女王陛下!支度が、すっかり整いました!」
「分かったわ」ビルキスは、凛とした声でそう告げた。
彼女は最期に、がっしりとソロモンの手を握る。彼にもらった指輪が、しっかり輝く手で。そして、彼に短く、キスをした。
「今度は、俺が行く番だな」
「ええ、楽しみに待ってるわ」
彼女はそう微笑み、そしてふわりとローブを翻して、ラクダに支えられた輿に乗り込んだ。「出発する!」タムリン隊長の、低く鋭い声が響く。ざっざっと音が聞こえ、シバの衛兵たちが行進を始める。
その行進は徐々に進み、やがて……ビルキスを乗せた腰を支えるラクダに、鞭が入れられた。ラクダたちが、歩き始める。ビルキスは手を振っていた。ソロモンも、手を振りかえした。
女王を乗せた金のラクダは、やがて、壮大なエルサレム宮殿の門を潜り抜け、見えなくなっていった。
「ねえ、タムリンおじさま」ビルキスは旅の道中、タムリンに向かって話を切り出した。
「私の事が嫌になった?」
「……嫉妬せずにいられるほど、私は尊い存在ではないのです。女王。……貴方や、ソロモンのように、私はなれない」
「相変わらずのおじさまね」彼女はそう笑った。
「嫌いになれるほど、そうはいかないまでも、思いを捨て切れるほどに、貴方に美しさがなければ、どれほどよかったことだろうか……と、日々考えます。しかし、女王陛下、貴方はただただ、美しいのです。私は一生、貴方にお仕え致します」
「おじさまがそう言ってくれてうれしいわ」彼女は言った。その瞬間、ふらりとめまいを覚える。
「大丈夫ですか!?」タムリンが慌てて駆け寄った。「暫く、逗留をなさった方が……」
「ええ、大丈夫……。サラヒルを呼んでちょうだい。少し気分が悪くなっただけよ」
サラヒル女史が呼ばれ、女王はしばらく天幕の中で休んでいた。返ってきたサラヒル女史は、真剣な顔でタムリンに向かい合った。
「タムリン隊長。私から、一つよろしいですか。貴方は女王陛下がどのようになっても、シバにお仕え致しますか?」
「貴方に聞かれる間でもない、サラヒルどの」
その言葉を聞き、サラヒルは厳粛な声で告げた。
「女王陛下は身ごもっておいでですわ」
それは、タムリン隊長の心を打ちの雌似た、確かに十分すぎるほどの言葉だった。「そ、それで……」隊長は言った。
「幸い、この調子なら臨月までにはシバにつきましょう。シバの王子、あるいは王女様に成ろうお方がシバで生まれないのは不当だ、と女王陛下もおっしゃいました。タムリン隊長。旅路を急いでくださいまし」
「と、なると……」タムリンは目を白黒させながら聞いた。「お産みになるのか、女王陛下は……」
「当然ですわ」サラヒル女史は言った。「あの方が初めて、殿方を心から愛されたのですよ。その方と結んだ結晶を、産み育てたくないようなお方であるはずがありませんでしょう、我らの女王陛下が。……あの方はずっと、愛とは何か、求めていたのですから」
「あ、ああ……」タムリンは、力なく言った。
「そうだったな……」
ビルキスを、愛するだけの気概が、この体調にはなかった。得ることができたのは、ただ欲望だけ。そんな自分を、タムリンは改めて、思い知らされた。
シバの正体は順調に旅路を進み、やがて王都マーリブに帰還した。民衆たちが、王宮へ続く一本道に出て、大歓声で出迎えていた。
その頃にはビルキスのお腹は相当大きくなっていた。
久々に女王の部屋に帰ったビルキスを、サラヒル女史は優しくいたわった。
「湯あみの準備を、ただいまさせております。妊婦の身で、長旅はおつらかったでしょう。帰国の宴会はしばらく、無しにしましょうか……」
「いえ、楽しみにしているものもたくさんいるはずよ。私の出席だけ、無しと言うことにして、後は予定通りに……」
その時だ。ずきり、とビルキスの体に激痛が走った。
彼女はうめき声をあげて、寝台に倒れ伏す。「陛下!」とサラヒルが金切声をあげた。
はあはあとうめく女主人の顔に、サラヒルは察した。急いで鐘を鳴らし、侍女を呼ぶ。
「お前たち、お産の準備をなさい、大至急!」
マーリブについたその日、ビルキスは産気づいたのだ。
出産は、難産を極めた。
ビルキスの体の秘密を知るサラヒル女史だけが、彼女のベッドを包む天蓋の中に入ることを許されていた。幸いにして、彼女は産婆の知識もある。
侍女たちはサラヒルに言われるものを、天蓋の中から延びる彼女の手に差し出すだけだ。
サラヒルの目に映るビルキスは、苦しそうだった。「お前たち!」サラヒルは告げる。
「女王の荷物の中にあった、真鍮の壺を持ってきなさい、大至急!」
「は、はい、ただいま」と言う声とともに、ドタドタと駆けていく声。入れ違いに、「女王陛下!」と言う野太い声も聞こえる。タムリンの声だ。
「お気を強くお持ちを!」おそらくお産と言うことを聞いて、飛んできたのだろう。しかも天蓋の中から聞こえる声に、難産だということを察したのかもしれない。
ビルキスは彼の言葉に返答する余裕もないようだった、うめき声だけが帰ってくる。タムリンはより一層、悲痛な声を上げた。女王の臣下と言う立場を、忘れてしまったかのように。
「ビルキス、ビルキス!大丈夫だ!君なら、大丈夫だ!」
ソロモンがうらやましい。彼女を愛せるだけの存在だったソロモンが。
しかし、ソロモンはこの場にはいないのだ。その気持ちが、彼を強く突き動かした。たとえそれが愛に足るものでなくとも、ビルキスに何かを言ってやりたかった。苦しんでいるビルキスに。
やがて侍女が帰ってきた、真鍮の壺が握られている。「よこせ!」とタムリンはひったくり、そして天蓋の中に手を突っ込んでそれをサラヒル女史に渡した。
「さあ、女王様、ソロモン王の痛みどめですわ」サラヒルはそう言い、口をビルキスの唇にあてがった。
「ソロモン……」
彼女はすがるように、その名前を呼ぶ。薬がとくとくと、彼女の喉に飲み込まれていった。すると、産道を通る胎児が大きく動いた。ビルキスは悲鳴とうめき声が混ざった声を上げた。頭がもう見えてきている。
「もうじきですわ、女王様!薬もすぐに効きますでしょう、もうじき、ご信望を!」
薄くではあるが、髪の毛が生えていた。ビルキスそっくりの、黒い髪。彼は少しずつ、少しずつ、外に出てきていた。
ビルキスのうめき声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。「ねえ、サラヒル……」と、彼女の声が聞こえる。
「なんでしょう?」
「生まれるの?私と、ソロモンの子が?」
「ええ」サラヒルは、娘のように愛した女王の声に、優しげに答えた。少しずつこの世に姿を現す。シバの王子か王女となる赤子を見つめながら。
「そう。良かった……本当に」
話せるだけ余裕ができてきたのだろう。良いことだ、とサラヒルは思う。
「ねえ。私、名前を考えたの。この子はきっと、男の子なのよ。なんとなく、そんな気がするの。……貴女にだけ、先に聞かせてもいい?」
「ええ、勿論」
「メネリク、よ。雅称はエブナ・ラ・ハキム」ビルキスは、シバの王族に代々つけられていたある雅称、自分は名乗ることの無かったそれを、息子にはつけた。雅称は基本的には、太陽に関連するものであったが、その時ビルキスが付けた言葉の意味は違っていた。
『知恵の息子』それが、エブナ・ラ・ハキムの意味だった。まさに、誰が父親なのかを、深く物語る名前であった。
「素敵な名前ですわ」サラヒルは返した。「あなたとソロモン王の息子の名前として、これ以上に相応しいものがあるでしょうか」
「そう……?そう思うのね。貴方がそう言ってくれるなら間違いないわ。良かった……」
彼女は、口をつぐんだ。その次の瞬間だった。大きな産声とともに、赤ん坊が生まれた。ビルキスの言うとおり、男の子だった。
天蓋の外が一気にどよめく。「お生まれになりました!男の子ですわ!」サラヒルは叫んだ。天蓋の外は歓喜の声に満たされた。
鋏でへその緒を着るなり、サラヒルは急いでビルキスの下半身を毛布で覆い隠した。天涯が開け、侍女やタムリン達も入ってくる。
「女王陛下、貴方の息子、メネリク様です」と、サラヒルは嬉々として告げた。
そして、その瞬間、彼らは気が付いた。
女王は何も言わず、身動きもせず、寝台に横たわっていた。
生まれた自分の息子を見ることもなく、腕に抱くこともなく。
痛みで失神してしまったんだろうか?サラヒルは思った。
「女王陛下?」
彼女はそう呼んで見た。返事はない。
そんな、まさか……?サラヒルは、ビルキスの手を握った。スリランカ産のルビーの指輪がはまった、その手を。
その手の感触を、温度を、彼女は信じることができなかった。彼女はふら、とよろける。泣き叫ぶ王子を抱いたまま。侍女が慌てて駆け寄った時には、彼女は失神していた。
「ビルキス……?」
タムリン隊長は、ゆらりとそばに寄った。そして、彼女の手を握る。サラヒルの落胆のわけが、彼にも分かった。
ポロリ、と彼は涙を流した。言葉では言い尽くせないほどに、様々な感情がこもった涙を。
ビルキスはどうしているだろうか、そろそろ国について返事が来てもおかしくない頃だ、と思っていたソロモンの元に、ある日、街に舞った一通の手紙が届いた。
ソロモンは嬉々としてそれをうけとった。ビルキスはどうしているだろう。自分のシバ訪問についても話を勧めねば。彼女への愛の言葉も、いくらでも送りたい。
だが書簡を開いてみて、ソロモンはまず不思議に思った。彼女の字ではない。
そして、次の瞬間、ソロモンは、書かれている内容を信じることができなかった。
手紙の差出人は、タムリン隊長。それが伝えているのは、非常に短い連絡であった。
シバの女王ビルキスが、死んだ、とあった。

PageTop

feat: Solomon 第八十三話

ヒラム王も長い滞在を追え、レゾンを連れてティルスに帰ってから、ソロモンとビルキスの親密さは一層宮殿の人々の目を引いた。
勿論、負う人いるときには店もしない穏やかな表情の王と、その隣に立つ美しすぎるほどに美しい異国の王妃の姿は、様々なうわさを呼んだ。彼女の改宗は、ソロモンが彼女と結婚するために仕向けたものではないのか、あるいはビルキス自身はソロモンの妻の座に収まるためにやろうとしたものではないのか。
今回の反乱に、アンモン王家が絡んでいたことなど羞恥の事実だ。そうでなくともナアマとは不仲だったソロモンが、これを機に妻を替えようとしているのではないか、と言ううわさも出た。レハブアムはまだその意味を理解しきれない年齢であったのが、幸いと言えば幸いだった。もっと大きければ、彼の心は尋常では無く傷ついたことであろう。
ただ、そのような邪推をあざ笑うかのごとき、ある事実があった。シバ王国の一行も、そろそろ帰国に向けての事を勧めつつあった。ソロモンも、ビルキスも、それを止めようともしてはいなかった。
雲一つない日の昼間に、シバの女王は祭司ザドクの手によって、イスラエルの神に帰依した。シバ王国風に言えば、父なる太陽の祝福する中、となるところだが、その日を持って太陽は、ビルキスにとっては唯一の神が作り出したものにすぎぬ存在となった。
シバの臣下たちも、女王の決断に根負けしたようだった。サラヒル女史をはじめとする何人鴨イスラエルの神に帰依することを決めた。だが、帰国までに間に合うかはわからない。そのため、ソロモンは祭司団の中から、シバ王国に行き、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の教えを遠いアラビアの果てに広める役を担ってくれるものを選びにかかった。彼らも、神の教えを受け入れるものが増えるなら、と、喜んで承諾してくれた。
神の存在を悟り、そして自分の国にもその神の教えを広めよう、と言う希望に満ちたシバの女王の瞳は、ヒラム・アビフの技巧によって輝きを増した黄金の宮殿にも劣らぬほどに、きらきらと輝いていた。そして彼女はその輝きを、イスラエルの神、いや、この世に君臨するただ一人の神に向けていたのだろう。自分をシバの女王とし、そして、ソロモン王に結び合わせてくれた、天の上の存在に。
その表情を見たものは天の神と祭司ザドク、そして傍で見ていたソロモン位の者だろうが、少なくとも、ザドクは心の底から、宮殿に飛び交っている数々の噂など、彼らにとっては菊にも足らない物なのだと確信した。シバ人ビルキスは、かつてイスラエルの男を愛し、イスラエルを愛した異国の女性がいたように、イスラエルの王とイスラエルの神の愛のため、行く道を行っただけなのである、と悟った。
やがて、シバの一行の帰国の計画もたった。シバ人たちはてきぱきと、帰り支度を始めた。長居したイスラエルに名残を惜しむものも、祖国の家族にもうじき帰れると手紙を書くものも、それぞれに。
最後の日々は矢のように過ぎて行き、やがて、いよいよシバの女王の一行が帰国する前日となった。
その夜、エルサレムでは、シバ人たちを迎えての最期の宴会が行われた。ソロモンとビルキスは、それぞれぴったりと、隣に寄り添っていた。
「ソロモン」彼女は、非常に柔らかな声で語った。目の前の華やかな宴会、イスラエルの富と発展を象徴するような華麗さを、そして愛するソロモン王の姿を、その金色の目に映して。
「女王の暮らしを続けて、事業は成功して、国を富ませることもできて……でも、三つの疑問が晴れる日が来なくて。そんな中、私は貴方の噂を聞いたのよ。神から知恵を授かったっていう、イスラエルの王の話を」
彼女とソロモンは、じっと見つめ合った。彼女は、イスラエルに来る前、もう遠い昔のようになってしまった思い出を紐解くように、ソロモンに告白する。
「正直な話、俄かには信じられなかったわ。自分より賢い人なんていないだろうという気持ちもあったし……それでも実際に行って、友好関係を結ぶ価値はあるでしょう、と踏んでタムリンをよこした後も、彼の報告を聞いて旅に踏み切った後も……そう、この宴会場で、私が初めてついた日、貴方と言葉を交わすまで……その時まで、私は、貴方の知恵も事績も、信じきってはいなかったのよ。今にして思えば、驚くくらいに……」
そうだ。確かに彼らの心が結び合ったのも、宴会場であった。王と女王、その感情を飛び越え、めぐり合うべき相手に巡り合ったのだ、とお互いがわかったのは、この王に、二人並んで、言葉を交わしたあの瞬間だった。
「でも、今ではそんな自分をおこがましくすら感じるわ。旅人たちが、タムリンたちが私に知らせてきた情報なんて、貴方の持っていたものに比べれば、半分にも及ばなかった。だって、私は三つの疑問のうち、一つを貴方によって知ることができるなら、と思っていたのに……」
「他の二つも、知ってしまったのだからな。……うち一つは、俺も知らないものだったが」
「ええ」ビルキスは頬に手を添える。
「なんて幸せなのかしら。イスラエルの民は、貴方の臣民は……いつもあなたの前に立って、貴方の知恵に接することのできるあなたの家臣たちが、私は羨ましいわ。神さまが、貴方を自分の国、イスラエルを治める王として、他の兄弟たちを差し置いても認められたのも、わかるような気がするの。すばらしい采配よ」
そう言うと、ビルキスはソロモン一人にだけ言う様子でもなく、ごく自然に、歌を口ずさむように祈り始めた。ソロモンのために。
「あなたをイスラエルの王に付けることをお望みになった。貴方の神、主は称えられますように。……主は、永遠にイスラエルを愛し、貴方を王とし、公正と正義を行わせられるから……」
「君にそう賛美されるごとに、俺の心は安らかになる。しかもいくら安らかになっても、際限と言うものが見当たらないほどにね」ソロモンは言った。
「君にも俺の言葉を持って、返したい。しかし、イスラエルを見てくれた君と、シバを見てもいない俺では、どうして君の、その心よりの賛美に十分にこたえることができよう……なあ、ビルキス。今度は、俺の方がシバに行っても良いだろうか?」
それは、ここ数日、ずっとソロモンが考えていたことだった。
彼女が自分の国を見たように、今度は自分も彼女のはないだけではなく、彼女の国を実際に見たい。彼女がその知恵を、手腕を持って発達させた美しきアラビアの国を、是非とも自分自身も目に留めたい。
ビルキスはにっこりとほほ笑んで、ソロモンの手を握った。三つの指輪のはまった、真っ白な手を、慈しむように握ってくれた。
「ええ、勿論。是非来て頂戴。国を挙げて、歓迎するわ」
宴もたけなわになり、やがて一人二人と客が帰っていき、宮殿が静かになったころだった。サラヒル女史も、気を利かせたのか、来た当初であれば宴会が終わるたび「寝室のご用意ができました」とビルキスを連れて行っていたのだが、彼女はぺこりとお辞儀を一つして、二人の王を宴会場に残していった。
いそいそと、召使が片づけを始めている。「ソロモン、私たちも、行きましょうか」とビルキスが声をかけた。「ああ、そうだな……」ソロモンは彼女の手を握ったまま立ち上がり、召使たちに傅かれながら宴会場を後にする。だが、宴会場を出てしんとした廊下を歩きながら、彼は切り出した。
「ビルキス。最後に、君に見てもらいたいものがあるんだ。良いか?」
「もちろんよ」
そう返した彼女を連れて、ソロモンは自分の寝室へと繋がる階段を上ることなく素通りし、カツカツと廊下を進んだ。北の方向、宮殿の中でも、人気がない方に。
明かりも少なくなりどんどん暗くなっていく。やがて彼らの目の前には、大きな錠前で固く閉ざされた、一つの部屋が現れた。
「ここだ。少し、待っていてくれ」
ソロモンは懐から鍵を取り出し、錠前を開けた。ギイ、と音が響き、扉があく。
そこは、小さな独房のような部屋だった。家具は寝台が一つ、机といすがあるだけ。しかしその机には、古びたパピルス紙が山と積まれていた。さびれた部屋なのに、埃一つ落ちてもいなかった。
彼は、ビルキスを中に入れる。彼女も、素直についてきた。
「ここで、俺が育った」
手に持っていたランプを机の上に置き、ソロモンは寝台に腰かけて言った。記憶の中にあったこれは、もう少し大きかったような気もする。
「まあ……そうだったの。ここが、貴方の話に出ていた……」ビルキスも、ランプの儚い光に照らされた北の独房をじっと、細い首を回して見つめていた。
「ああ、そうだとも。ここが、ダビデがこの体で生まれてきた俺を、ずっと汚いものにふたをするように、仕舞い込んでおいた場所だ……兄に命を狙われる、十四歳のあの日まで」
ソロモンはそれでも、懐かしそうに壁を撫でる。
「だが不思議なものでな。思い出したくもない、永遠に仕舞い込んでしまいたい惨めな思い出の場所となってもいいはずなのに、俺は今なお、妙にこの部屋に愛着を覚えるんだ……」
王になってから、この部屋を使うことはなくなった。臣下たちも、彼ともあろうものがこんな惨めな独房に居る様子を決して良い目では見るまい。だが、彼はそれでもこの部屋を見捨てるに忍びず、自分以外の誰も入れないように鍵をかけたうえで、定期的にこっそり訪れては、汚れや埃を払っていた。自分が居たときの状態を、そのまま保っておきたくて。
「分かる気がするわ」ビルキスは、彼のその気持ちを、優しく肯定してくれた。
「貴方にとって、ここは、自分を包み込んでくれていたところだもの。両親も、兄弟も、後見人も自分をあざける中で、守護天使が来る前も、この部屋が貴方を守ってくれていたんだものね」
「そうだ……君は、本当によく分かってくれるな、俺の事を」
「当たり前じゃない」彼女は、そう返した。
「めったな奴には、見せられない」ソロモンはぼんやりと浮かび上がる天井を見つめ、言う。
「俺の妻にも息子にも、見せられるものか。ここが、俺の城だった。めったな奴は、立ち入らせたくなかった。……でも、君になら、見せたい。君にだけは、見せておきたかった」
「ええ、ありがとう、ソロモン……」
暗い中、ソロモンはそっと、ビルキスの手を取った。そして、彼女の顔を引き寄せる。ふわりと香る乳香の香りと、唇の感触。
11歳になる日まで、自分はずっと、一人ぼっちでこの部屋にいた。パピルス以外に変化もない、薄暗く殺風景なこの部屋で。しかし、この部屋だけがずっと、ソロモンの成長を見守ってくれていた。
ソロモンとビルキスは、そのまま寝台に倒れこむ。毛皮のような感触を感じる。彼女の足は、すでに人間のものではなくなっているのだろう。だが、それでも良い。この部屋は自分を守ってくれたように、彼女のこの秘密も、守り通してくれるだろう。
孤独な少年一人の身だけしか預けたことの無いその寝台は、初めて、二人の体を受け止めた。心から愛し合う、男と女の体を。
夜が明けたら、シバの女王が帰る。
あの天使のような存在は、ナアマの前に現れることはなかった。せかしもしないと言うのか、まるで、自分を試しているように。
レハブアムは早めに宴会を抜けた。彼は久しぶりに帰ってきた母が恋しいらしく、母上と一緒に寝る、と甘えてきた。そのおかげでナアマも、早くに宴会を抜けたのだ。
レハブアムは今、安心しきった表情で、ナアマの寝台で寝ている。サイドテーブルには、物言うこともなく、真鍮の壺がある。
あの日、去り際に天使の声が聞こえた。
「強力な毒、と言えば一番わかりよいかな。人間じゃない物の肉体だろうが、すぐに滅ぼしてしまうほどにね」
そのようなものをすり替えて、何になるかはわからないが、明らかに、大ごとになることだけは確かだった。自分はわがままな姫ではあったが、人殺しはしたことがない。自分に犯せるだろうか、この罪を……。
だが、もう、猶予はない。彼女は最後に、ちらりとレハブアムの方を見た。勇気をもらいたくて。
そして、効果はてきめんだった。彼の安らかな寝顔、何も苦労を知らない、無邪気な寝顔。愛おしい息子は、自分がイスラエル王ソロモンの跡を継ぐものだと誇りを持ち、何の屈託もなしに成長している。
それを、邪魔できるものか。もしもこの息子の笑顔を守れるのならば、自分は、地獄に落ちても構わない。
レハブアムを、息子を、心の底から愛している。
ナアマは、レハブアムの柔らかい頬を一回撫で、それに軽くキスをした。そして、真鍮の壺を掴む。
数日間サイドテーブルから離れることの無かった壺は、ようやく、ナアマに持ち上げられてその腰を上げた。
ソロモンの薬庫の場所は知っている。階段を降り、地下室に行くと、守衛が彼女の姿を認めた。
「王妃様」
「薬庫に用があるの。入れて頂戴」
「はっ、あの……」二人いる守衛はどもる。
「陛下からは、自分や宮廷長様、学者様がた以外は入れないようにと」
「王妃の命令よ」彼女は守衛を睨み、押し切る。守衛も渋々、扉を開けた。カツカツと、静かな薬庫の中に入る。後ろから、守衛たちの「ふん、どうせもうすぐお払い箱になるくせに」と言う陰口が聞こえた。
自分は、なんといわれようとかまわない。
だが、レハブアムの権利だけは、守らなくてはならないのだ。
ろうそくの明かりを頼りに、ナアマは慎重に一つ一つ、おびただしい数の壺を見比べた。やがて彼女の目の前に、持っているもの寸分違わない、小さな真鍮の壺が現れた。
手に持ち、蝋燭を棚に置き、見比べてみる。確かに、全く同じものだ。彼女は、今まで倉に置かれていたものを、さっと帯の中に押し込んだ。そして燭台をもちかえし、天使に渡された壺を、その空いたスペースにおいた。
それは何事もなかったかのように、まるで以前からそこにいたかのように、薬庫の光景になじんだ。
胸の動悸を必死で抑え、ナアマは倉を後にする。守衛たちのおざなりな挨拶に振りかえることもなく、レハブアムが眠っている後宮に急いだ。

PageTop

feat: Solomon 第八十二話

ソロモンとビルキスが親密になっていることは、とっとと知れ渡った。何をおいても、彼ら自身にそれを隠す気がさらさら無いようであった。
彼らはこそこそとしているどころか、堂々と二人でイスラエル王宮を歩いた。王と王妃、いや、それ以上の結びつきであるかのように。
おまけに、もう一つ大きなニュースがあった。ビルキスは、イスラエルの宗教に感銘を受け、自分もイスラエルの宗教に改宗する、と言うのだ。
当然シバの高官は反対したが、シバの女王は「信じる神を見つけたからには、太陽を崇め続けるわけにはいかない」の一点張りだった。臣民たちに強制はしない、とだけは言い残し、今はソロモンやザドクから、一生懸命にモーセの律法を教わっている。
ソロモン王との親密な中から発展したのでは……と勘繰るものが当然いないではないが、少なくとも祭司長ザドクの目からは、彼女はイスラエルの神学生にも珍しい程に、イスラエルの神に興味と敬意を持っていた。
そこまでならザドクとしても、止めるわけにもいかない。もとより異邦人が改宗する分には、大歓迎だ。シバ人たちも、結局女王の決断に強くは言えない様子であった。

アンモンに対する措置は、不思議なほどなにも行われなかった。ハヌン王はどれほどにまで、ソロモンからの報復を恐れていたことだろうか。ソロモンからようやく来て、恐る恐る開けた手紙には、「そろそろイスラエルの情勢も落ち着いた、もうナアマをかえらせても安全だろう」と言う内容のもの、それに、「こちらの内紛に巻き込み、迷惑をかけた」と、どうともとれるメッセージが付け足されていた。
ナアマは無事、エルサレムに帰還した。

帰還したナアマの事を、ベナヤはさっそく出迎えた。彼女の方は、どこか疲れたような表情で、久しぶりにベナヤに会ってもあまり大々的にに喜びはしなかった。
祖国に強制的に戻らされて、帰ってきたら夫の側に別の女がいた、普通の女性であれば気に病むだろうことだが、ナアマに至っては心配はないのではないか、そう踏んでいたベナヤは、期待にあたっているともいえないその状況にいささか狼狽し、ナアマの事を心配した。あえて包み隠すことなく、シバの女王の事について思うところがあるのか、と聞いた。
「そうね……否定は、しきれないわ」ナアマは呟いた。
「もちろん、貴方がわかっている通りあの人を取られた、とか、そう言う気分ではないと思わ。でも……なにか、悔しいのよね。あの女王様じゃなくて、あの人の事が……」
ナアマはベナヤを拳ひとつほど離れた隣において、一とうつむきながら言葉を探している様子であった。
「そうね……あの人が、誰かに愛されてるのがこんなに悔しいって、思わなかった」長考の末、彼女が導き出した言葉がそれだった。
「何もかもあの人に負けて、でもあなたと愛し合うことができた時、私、あの人に最後に勝っている所を見出したのかもしれないわ。私を愛さない、他に愛人も作らない、アンモンに居た時からずっと一人で生きてきたあの人を見てきて。私は、愛が得られる人間。でも、あの人はあの才覚と引き換えに、愛を得られない人間なのだと思っていたの。それはたぶん……今までよりもずっと、ずっと私を誇り高くさせたのかもしれない。貴方との愛を知って、これを知らない相手なら、いくら賢王であろうとも引けを感じることはないって思いが、どこかにあったのかもしれない」
それを聞いて、ベナヤはああ、と初めて感づいた。そうだ、それこそ、今初めて気が付いた。
自分も、ソロモンを心の中では下に見ていたのかもしれない。
昔一瞬だけ見た、厳重にマントにくるまった、小さな影。あれを、ずっと引きずっていたのかもしれない。
いくら力をつけようとも、誰からも愛されず、黒いマントで全てに遮断された、孤独な王。彼の事を、ずっとそう思っていたのだ。他の何を得ることはできても、愛だけは得られない人間だろうと。
そうだ。自分はソロモンと初めて話をした時、彼を支配する気でいたのであったっけ。
「違うのね。私にとってのあなたみたいに、あの人に見合う人が今までいなかっただけのこと。あの人と愛し合う運命を与えられている存在が、私達じゃなかった。ただそれだけの事で、あの人も当たり前に生きて、人を愛する存在だったのよね。その上であの人は、何もかも、私より上だったのよね」
「ナアマ様。私は、今ナアマ様の気持ちがお分かりになります。非常に良く、お分かりになります。ソロモン王は、なぜあんなに、何もかも与えられているのでしょう。あの人はいくら我々のような凡才が妬み嫉みを向けようと、あの赤い目をこちらへ向けることもなしに、蟻をつぶすかのように踏みにじってしまうお方なのです。誰が蟻をつぶす際、罪悪感を感じましょう。あの人にとっては、ただただ、御歩きになられているだけの話なのです。神に罰せられる極悪人の行為でもなく、ただ、我々より大きな存在だから、あたり前の事なのです」
ナアマはベナヤのその発言に面食らった様子であった。ベナヤに慰められこそすれ、この夫に対する嫉妬心への同情を貰ったことはなかった。
「悔しいですよ。とても……ただただ、羨ましい。私は、あの方ほどには、持ってはいませんから」
「ベナヤ……」
ナアマは一息はさんで、薄く笑って言った。
「ありがとう。ようやく、私の気持ちがわかってくれたのね」
「ええ」
ただ、とベナヤは思う。自分は持っている。ナアマは、自分が持っている。例えそれがソロモンにとっては、取りに足らない雌蟻、欲しいとも思わない興味もわかない物であっても、ただ、自分は、ナアマを持っている。それが、確かに幸せだ。

「……お見事!」
律法をすっかりそらんじてしまったビルキスに、ザドクは舌を巻いた。そばで見ていたソロモンもフフ、と笑う。
「私の時よりも早いかもしれないな?」
「いや、陛下も似たようなものだったといつも愚痴をこぼしていましたよ、アビアタルは……」
「それ、どなた?」と、ビルキスが聞く。
「私に律法を教えてくれた男だ。最も今は宮殿にはいないがな。私の即位に逆らい、兄についたから」
「あら……残念。でも、確かにそんな方よりは、この祭司様に教育を受けたいわね」
サドクは苦笑いしながらも、続ける。
「我々の神への改宗は、もういつでも行えますよ。神殿にて、お待ちしております」
「ええ、私もこちら側の整理をつけたら、すぐ生かせて貰うわ。シバに帰る日まではね」
ザドクは立ち上がり、一礼をして去っていく。「ビルキス」ソロモンは声をかけた。
「今日はどこに行こう。行きたいところはあるか?」
「そうね……イスラエルの葡萄畑に行ってみたいわ。ヒラム王がとても質がいいって言っていたもの!」
「承知した!それじゃあ、さっそく」
ソロモンもビルキスも、ただ、楽しい。毎日が充実していた。
婚約したての少年少女のように、お互いの前では、彼らはいくらでも無邪気に愛し合えた。清水の湧き出る谷、エルサレムの城下の市場、黒い実が所狭しとなるブドウ園、知っているはずのイスラエルの景色の数々も、彼女といればここまで美しく見えるものだろう、とソロモンは感動すら覚えた。

広々とした葡萄畑の中、誂えられた開放的な天幕の下に敷かれた敷布とクッションの上に腰を下ろして、彼らは一休みした。農場の持ち主が、もぎたての黒真珠の塊のような葡萄を二人に持ってくる。ビルキスは房ごと取って、丁寧にかじりついた。
「夢のようね、何もかも……」
「ああ」
ソロモンは、房から粒を外して食べる。今年の葡萄の出来は、非常に良いようだ。
神の祝福を、心から感じる。イスラエルにも、自分にも、そして自分の隣にいる彼女にも、神の慈愛が降り注いでいるのだ。
「何を考えているの?」と彼女が聞いてきたので、ソロモンは素直にそのことを告げた。ビルキスも目を細め「そうね」と笑う。
「子供の頃は、神など信じなかった、いや、信じる信じない以前に、存在を意識する余裕すらも、俺にはなかった……」
「無理もないことだと思うわ」彼女は素直に、そう言う。「逆境の中で神さまを見出す人は、ほんの一握りでしょう。……神様を感じるようになったのは、やっぱり、運命がよく傾いて来てから?」
「うん、そうだな……。11歳の誕生日に、あいつが来てから、そこからかもしれん」
「あいつ……」ビルキスは反応した。「前に話していた、貴方の守護天使の事?」
「ああ」
彼女にとってサラヒル女史が助けになってくれたように、自分にとってもベリアルと言う存在が側に居てくれたのが、なんだかんだ言っても思い返せば大きかった。一緒にいるのが当たり前なような、そばにいてくれる存在。自分の守護天使。
だが、ビルキスは何か考え込んでいる様子だった。「どうした?」とソロモンが聞くと、彼女は小さく返した。
「いえ、その……私は、見たことがないから……」
「はは、そんなことか、ベリアルは俺以外の奴の前には姿を現さないんだ。普通の奴には、見えないんだと」
ビルキスはその言葉を聞いて、ぼそりと言った。言ったというよりも口をついた、と言った方が、彼女にとっては正しいのかもしれないと言うほど、ぼそりと。
「……その方、本当に、貴方の守護天使なの?」
え?と、ソロモンは面くらった。彼女の言った言葉の意味が解らなかった。
「どういうことだ?」
場の徐も、はっと顔を上げる。しばらく、考えてい寮素だった。しかし、彼女が最終的に出したのは「何でもないの。忘れて頂戴……変なこと言っちゃったわ」と言う一言だった。

宮殿に帰ってからも、彼女の言葉がソロモンにとっては引っ掛かっていた。少し思うところがあって、彼の名前を読んでみる。
「ベリアル?」
だが、返事はなかった。
彼女を避けているのだろうか。それとも、自分を?自分の言い分を無視して、彼女と思いあってしまった自分が、気に食わないのだろうか。
今まで深く考えることもなしに、気が付いたら隣に居てくれる存在であったベリアルと、今初めて溝ができているような気分になった。

夕方になり、ナアマは昼寝から覚めた、随分、眠ってしまったような気がする。その時だ。「やあ、お目覚め?王妃様」と、知らない声が聞こえた。
ナアマはぎょっとして目を見張る。自分の寝台に、見知らぬ人物が座っていた。男のようでも、女のようでもある、不思議な麗人。寝台に泳ぐほどの長い金髪をしていて、頭には鼻冠を被っていた。まるで踊り子のような薄い服を着ていた。
「何者です!」ナアマは小さく叫んだ。いずれにせよ、王妃の部屋に狼藉者が入ってくるなど飛んだこと。目の前の人物はあまりにも可憐な容貌で、男か女かもわかりにくいが、男ならばなおさらのことだ。
其れなのに目の前の彼は落ち着き払って、「そんなにあわてなくてもいいじゃないか」と言った。
「お黙り、無礼者!名前は何と言いますか!」
「ボク?ボクはベリアル……でも、そんなこと、今はどうでもいいよね」
彼はゆらりと寝台から立ち上がる。ナアマは目を白黒させ、毛布をかぶって身を守ろうとした。だが彼は勝手に寝室に置いてあった椅子に長い脚を組んで座ると、言った。
「君の夫の事だけど」
「ソロモンのことなど、私は何も話すことはないわ」
「あ、ごめん……君の夫と言うより、君の夫がご執心の、あの女王様の事かな」
彼はそう言いかえしたが、ナアマはそれでも言葉を緩めはしなかった。
「あの方に関しても同じ、私には何も関係ないわ」
「本当?ソロモンは君よりも、あの女の人が好きなのは、見てて分かるよね」
「ええ……でも、私には、何も関係ないもの」
ナアマはともかくも、そう続けた。
自分には、何を言う気も、何を言う権利もない。
「あの人と私は、ただ結婚しただけの中。私が、あの人より愛した人を作ったように……あの人が私より愛する人を作るのは、当然の事だわ。当然の……」
全ての牙城を崩されて、ナアマはそう言うしかなくなっていた。
いや、と言うよりも、そう言えるようになった、と言うのが正しかったかもしれない。ソロモンは、手の届かない存在だ。ビルキス女王が、自分とはくらべものにもならないほど、美しく力ある人なのと同じように。
あの人は、愛を知らない自分よりもあなたの方が素晴らしい、と褒めてくれた。だけれども、ならばソロモンを愛することを知った彼女は、今度こそ自分等及びもつかない存在になったのだろう。そんな二人に、どうして自分が何か言えよう。何を言う義理もないのだ。自分とベナヤ、ソロモンとビルキスは、違う世界の存在だ。
帰りなさい、とナアマは言おうとしただが、彼はナアマの心を見透かしたように、彼女の虚を突いてきた。
「君自身はいいよ。でも……息子の事が、可愛くないの?」
「えっ?」
「もし、あの女王とソロモンの間に子供ができたら、ソロモンは、どっちを王位につけたがると思う?真に愛した、とても利発な人との子供と……結婚しただけの馬鹿女との間に生まれた子供と」
その言葉を聞いた瞬間、ナアマの背筋にぞっと悪寒が走った。非常に現実味溢れる寒気が。
確かにそうだ。彼の言葉は、じわじわと彼女の脳を侵食した。レハブアムは長男だ。正妻の子だ。でも……ソロモンは、そんな理由で、杓子定規に跡継ぎを決める男だろうか?
いや、大丈夫、レハブアムは、長男、正妻の子……。ソロモンは、随分年少の王子だったはず、彼の母は、妾であったはず……。
「わ」ナアマは必死であらが王と呟いた。「私の、子供は……」
その言葉に被せるように襲い掛かってきた言葉は、短く、そして、残酷すぎる一言であった。
この目の前の可憐な存在が口にしたなど、信じられないように。
「もしベナヤとの間に子供ができたら、君はそれでも、レハブアムを可愛がり続ける自信があるの?」
大地震のように、頭が揺さぶられた。目がかってに潤む。違う、違う、私は母だ、レハブアムを愛している。でもソロモンは?ソロモンはレハブアムよりも、あの人の子供を愛する?そうなったらレハブアムはどうなる?自分はただの結婚しただけの女、ソロモンにはかないもしない女。家柄を鼻にかける事しか能がなく、怒りっぽくて、わがままで、淫乱で、知性もない女。レハブアムがいくらいい子でも、ソロモンの目からは、レハブアムは自分の子、しかし、そんなナアマと言う女の産んだ子……。
「やめてっ!!」
彼女は頭を抱え、金切り声をあげた。はあはあと息を荒く吐く。ベリアルは、にやにやと笑いながら、そんな彼女を見ていた。
「これ、あげる」
すっと、彼の細い手がナアマの前に差し出される。彼は、小ぶりの壺を持っていた。独特な装飾が施された、真鍮の壺。
「ソロモンの薬倉に、これとおんなじ壺が一個だけあるんだ。それとこれとを、入れ替えると良い。……シバの女王が、国に帰る前に」
ナアマは腕がすくみ、それを受け取れなかった。しばらくそんな状態が続くとmベリアルはふっと、ナアマに呆れたように短い溜息を一つ吐き、寝台の横のサイドテーブルにおいた。小鳥、と小さな音が、その壺に実態があることを物語っていた。
「期限はもう、そんなに長くないよ。子供想いの王妃様」
そう言って、彼は背を向けた。「待って」ナアマは言った。
「あなたは誰、あなたは何者……イスラエル人が言う、天使なの?」
「ボクが何かって?」
長いまつげに縁どられた彼の青い目が、ナアマを見つめる。
「ボクの名前は、ベリアルだ」
瞬時に、彼の背中に真珠色の翼が映えた。それをはためかせ、彼はみるみるうちに窓から外へ、そして赤く輝く夕焼雲に紛れ雨量に、消えてなくなってしま他t。
ナアマは、はっと横を見る。だが彼は消えても、真鍮の壺はそのままだった。
それに触れる勇気も出ないまま、ナアマはじっとそれを見つめていた。彼の言葉が、心の中でこだまする。自分はいい、でも、レハブアムは……?
そうだ、確かに、彼女がソロモンと子供を作れば、レハブアムの立場はどうなるのだろう。彼の言葉は、一部分ならはっきり否定できる。ベナヤとの間に子供ができたところで、自分にとってレハブアムは変わらず大事な息子だ。掛け替えのない息子。だからこそ……ナアマは思った。
だからこそ、レハブアムが苦しむなんて、許せない。

PageTop