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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon エピローグ


夜が明けてイスラエル人がもはや何に驚けばいいやら、とばかりに大騒ぎになったのは、言うまでもない。
王の部屋が荒らされ、王が死に、エチオピア人たちは根こそぎいなくなり、その上神殿から聖櫃が盗み出されていた。
だが、その時を持って最高責任者となったレハブアムは、父もエチオピア人たちも聖櫃も消えた、と聞き、少しの間悲痛な顔をしたのちに、こう言った。
「下手に騒ぐな。僕のものになり得ないものが、皆ぼくの目の前から消えた……僕にとってはただ、それだけの事だ」
レハブアムはもはやエチオピア人たちなどは最初からいなかったかのように扱い、粛々と父の葬儀の関する話を勧めた。そして、聖櫃が盗み出された件については、祭司たちや職人を集め、極秘にレプリカを作れ、と命じた。
石版を目にしたことのある祭司が記憶を頼りに図面を書き、職人たちがこしらえる。三日もかからなかった。はなから内陣に入れない民衆達には何ら知られることなく、「聖櫃」はイスラエル神殿に戻ることとなった。
数少ない人々しか知らなかった騒動は、その一片も、イスラエル人に知られることはなかった。

ソロモンの亡きあとは、レハブアムが無事、王となった。
だがやはり案の定、彼に父ほどの政治能力はなかった。ソロモン王の積み上げた偉業や財産はまだしも、彼が晩年課した重税から民を解放する方法を、若い王は知らなかった。
民が自分たちの税が重すぎる、と訴えた際、彼はさすがに迷った。だが彼の耳に強く響いたのは、ザドク達の告げる「民の事を思い、税を軽くして差し上げて下さい」と言う言葉ではなくベナヤや彼の息子たちが告げる「あなたは王。民に遠慮なさる必要などありません」と言う言葉であった。
叡智の王、栄光の王、イスラエルの最盛期を築いた王。そのような父に関するコンプレックスは結局、レハブアムのままでは永遠に消えないままであったのだろう。のちの時代の記録書には、レハブアムが「私の小指は父の腰よりも太い」と言ったという逸話も残された。レハブアムは確かに、そのような言葉を残しても不思議はなかった。本当にそう思っているものが、わざわざそんな言葉を口に出すはずもない。彼はずっと、悩んでいたのだ、小指のような存在の自分に。そして今や、どう頑張っても、父はこの世にいない、永遠に追いつくことのかなわない存在へとなってしまったのだから。
関係でも何でもなく、純粋な好意、いや、崇拝と言ってもいいようなベナヤとその家族の言葉がレハブアムの心の一番甘く響いたとしても、何も不思議はない。

ただ、そのような王の悩みに民衆が付き合う義理もないのは、また事実だった。そしてそのようなイスラエルの国内情勢を聞きつけて、エジプトから戻ってくる男がいた。ヤロブアムであった。
もはやソロモンはいなくなり、レハブアムという敵にもならない存在以外の邪魔者がいなくなったヤロブアムは、そんな傲慢な王に不満を持つ者が爆発的に増えたイスラエルで、たちまち民衆の期待の星となった。
彼はみるみるうちに数千、数万単位の民衆のリーダーとなり、よくよくレハブアムと直接話し合って交渉の席にも立った。だが懐かしく見る彼が相手だと、レハブアムは一層を劣等感を刺激された。
「お前には、そこがお似合いだ」と、レハブアムは民衆のリーダーとなったヤロブアムに吐き捨てた。

そして、来るべき時が訪れた。民衆はとうとう、レハブアム王に対する不満を爆発させた。
労役の監督アドニラムが、あわてて彼らをいさめに、レハブアムとベナヤと一緒に向かった。だが、頭に血の上った群衆は、口々に罵りながら、アドニラムに石を投げた。一つ、二つと石を投げられたアドニラムがやがて崩れ落ち、動かなくなったのを見て、レハブアム王は震えあがった。
「貴様ら……!」
自らの主が怯える様子を見て、ベナヤは激昂した。民衆たちが、王も打ち殺せ、と叫んでいるのを聞いて、さらに彼は激怒した。
「このお方をどなたと心得る……全イスラエル唯一の王、レハブアム陛下なるぞ!」
彼はソロモンが死んでから、絶対にソロモンの子レハブアム、という呼称は使わなかった。ただ、イスラエルの王、レハブアムと。
我々は税を安くしてほしいだけだ、そんな望みを聞かないものなど王ではない、という群衆の叫びに、彼はこう怒鳴り返した。
「だまれ!貴様らは臣民、この方は王!臣民ならば……王の言うこと、全てに従え!」
ベナヤは数千単位の群衆に、一人剣を抜き、切りかかっていった。血が飛び、周囲に悲鳴が飛んだ。「陛下!」と、響く声とともに、レハブアムは急いで戦車に乗せられ、その場を去らされた。
それが、ベナヤの、この世で何よりも愛した王子レハブアムとの今生の別れとなった。
喧騒が終わったころ、ベナヤは群衆に集団で殴られ憤怒の表情を浮かべたままで、こと切れていたのだ。
彼の最期の言葉に民衆がどんな顔をしたか、彼に果して見えていただろうか。
自分の主人がどのような状態になっていても、彼の言うことこそすべてと盲目的に従い、どんな残酷なことにも心の痛まない王の臣下。昔の正義感あふれる青年のベナヤであったなら、絶対に許さない存在であっただろう。それこそまさに、アドニヤのために命をささげたヨアブ将軍の姿であった。
皮肉にもベナヤは、かつて軽蔑したヨアブと似たような人生を送り、そしてその人生を全うして、イスラエルの将軍として歴史に刻まれたのであった。

それを皮切りに、ヤロブアムは本格的に王に祭り上げられた。もはやレハブアムを王とは認められない、と言う、イスラエルの過半数の民衆に。そしていつしか、イスラエルは二つに分かれていた。
ダビデ王家の属する氏族であるユダ族と、ベニヤミン族の生きる、南ユダ王国。
ヤロブアムを王に、と騒いだ、その他の十士族の作り上げた、北イスラエル王国。
かくして、預言は全て成就した。神の愛したイスラエルはレハブアムの治世になってからいくらもしないうちに南北二つに分かたれ、以後、別々の歴史を歩むこととなった。

そしてレハブアム治める南ユダ王国は、それに引き続き追い打ちをかけられた。ソロモンがいなくなり、後を継いだ息子も無能の極みでついに王国の半分に逃げられた、と目を付けたファラオによって攻め込まれ、属国となってしまったのである。まだ年若かったベナヤの息子たちも、その戦争であっさりと命を落とした。レハブアムの治世の、まだ、たったの五年目の事であった。

それからさらに数年後。戦い、逃げられ、搾取されたイスラエル、いや、今や南ユダ王国もようやくそれなりに落ち着いたころに、レハブアム王にめずらしい客が来た。
彼はエチオピアの若い皇帝、名前をメネリクと言った。
「エチオピア……懐かしい」メネリクを丁重に迎えたレハブアムは、食事の席でそう語った。
「私がまだ若いころ、エチオピアの女王と姫がここに来ました」
「はい。存じております」メネリクはそう言った。
「妹がイスラエルに行ったきり不思議に消えてから、私が皇帝となりました……けれども、私はずっと、イスラエルに来てみたかったのです。妹はこの国を、本当に気に入っていたようですから」
「そうですか」レハブアムは、かつての初恋の少女の面影を思い出して。懐かしそうに微笑んだ。「それは、よかった……」

宴会が終わってからも、二人は一対一で静かに酒を飲み交わした。床に引きずるほどの足を完全に覆い隠すローブ、まるで女性が着るようなそれを王の部屋の床に泳がせて、メネリクは話した。
「ことに貴方は、大変奥さんを愛していらしっているとか」
「ええ、そうなんです」レハブアムは静かに答える。
「父の妻も引き継ぎましたし、何人か迎えはしましたが……マアカに勝る女は、いません」
「噂通りですね」メネリクは久々に飲むエルサレムの葡萄酒は何処か味が変わった、と思いながら、杯を傾けた。
「いえ、でも意外でしょうが……若いころ彼女と婚約者だった頃は、私は本当に彼女のことが嫌いだったのですよ。今思えば、失礼なほどに……けれど、王国も割れて、一番愛していた忠臣も死んで、エジプトも攻め込んできて……私には、何もなかったのです。偉大な父からは本当に、目に見えるモノ以外の者は何も受け継ぎませんでした。そのモノすらもどんどんとられて、私と言う人間の申しわけ程度の価値もなくなっていく中、彼女は本当に、私の隣に居続け、私を励ましてくれたのです。それでいつしか……私にとっても、彼女が掛け替えのない存在となりました」
「良い話ですな……本当に幸せそうな御夫婦仲で、何より」
メネリクは目を細めて笑う。その真意を、勿論レハブアムは理解などできはしないだろうが。
「ところであなたは……ソロモンの子であるということに、大変劣等感を抱いておられる……いえ、無理からぬ話だとは思います。おつらかったでしょう。天才の父と比べられるのは。そしてその父がもうこの世にはおず……もはやどれほど努力しても届かない存在になってしまったことは」
メネリクは、レハブアムの目をじっと見つめて問いかけた。金色の目に見つめられるのは、彼も久々であっただろう。
「ですが……この私、貴方の友メネリクが、僭越ながら申すことです。貴方はどれほど拒もうと、ソロモンの息子です。そしてそれは、貴方を苦しめる者であるかもしれませんが、同時に……父が貴方に与えもうた、モノではない遺産の一つで、あるはずです。ですから……どうかお大事になさってください」
何故、彼はそのようなことを語るのか、レハブアムには、分かっていただろうか、メネリクは、言葉を言い終わってから、レハブアムの指に綺麗にはまった指輪を見つめた。ダビデ王家の、真紅のルビーの指輪を。
「……ありがとうございます。メネリク殿」レハブアムは静かにその言葉を受け止めた。
「そうですね……どれ程まで落ちぶれようと、私は、ソロモンのこの世でたった一人の息子ですから……」
そう微笑んだ彼を見て、メネリクも、微笑んだ。やはりレハブアムにも、うすうすと分かっていたのかもしれない。あの幼かった王子も、もう流石に、大人になっていた。
イスラエルの情勢を聞き、メネリクは決断したのだ。自分の血筋も、聖櫃の存在も、門外不出の王家の秘密にすると。これから混迷の時代を迎えるイスラエル、そこに異国にソロモンの息子がいると知られれば、また事態はややこしくなる。契約の箱を与えられたというのであれば、なおさらだ。
父の築いた国がさらなる混乱に見舞われる事を、メネリクは望まなかった。だから、黙っていようと決めた。時が来るまで。例えその時が、自分の生きている間には来無かろうとも。
そして目の前のレハブアムを見て、自分の判断は間違ってていなかった、と悟った。父の偉業をはぎ取られた彼はようやく、ソロモンの子レハブアム、と言う称号に、少しだけ誇りを感じられるようになったかのようだった。

南ユダと北イスラエルはその後、一つになることはなかった。アヒヤの見抜いた通り、結局神に従う王とはなれなかったヤロブアムが死んでも。父以上の事は最後までできないままに悪い王として歴史に名を刻まれたレハブアムが死んでも。
数百年後、二つの王国が滅ぼされ、ヘブライ人が離散の民となるまで、二つの王国は分かたれ続けたままであった。一代で終わりを告げたソロモン王の栄光の時代は、その後また苦難の道を歩み続けたイスラエル人にとって、夢のような伝説の時代として、語り継がれていった。

波風が打ち付ける、湖のほとりの宮殿。バルコニーでその様子を眺めながら、バセマトは言った。
「イエドさん。今日も、湖が綺麗ね」
「ええ、そうですね……」
「あなたもそう思うでしょ?」
「うむ」バセマトの夫アヒマアツも、穏やかに言い返す。
ヤロブアムは悪政を敷いたが、バセマトの嫁いだナフタリの土地は、ほぼ彼らに任されることとなった。
全ては、ヤロブアムが王へ、となった時彼に巧みに取り入り好条件を引き出したバセマトの手腕。アヒマアツもすっかり頭があがらず、なおかつこの、さすがソロモンの娘と言うほど切れ者の妻に、好意と感心を抱いたものだった。
何もかもをわかっていた彼らが守ろうとしたのは、望んだものは、北イスラエルでも南ユダでもなかった。このさびれた北の土地、湖のほとりの土地だった。だが、これでいい。
イスラエルの王権と神が、分かたれる。神を選ぶと決めた彼らは、この土地を守り、この土地に生きると決めたのだ。
その土地は後に、ガリラヤ、と呼ばれる土地。
シバの女王が預言した男が、救い主がその地に現れるまでには、まだ、長い長い時間を要した。


(完結)

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feat: Solomon 第百五話

余りの痛みに耐えかね、ソロモンも床に膝をつく。それを見下し、ベリアルは笑った。
「ふふ……あはははは」
「何がおかしい……」
「おかしいよ……君に、ヒラム・アビフのまねなんてできるわけがない!」彼はソロモンに向かって指を指す。
イスラエルの全てが、その出来事を目撃すまいとするため、眠りこけているかのようだった。明かりのすっかり消えた暗い道を抜け、エチオピア兵達は、エルサレム神殿にたどりついた。
神殿には、番人も何もいない。鍵すらも、かかっていなかった。不審に思いつつも彼らは、メネリク王子の指示するままに、異邦人では入ることを許されない内陣へと向かう。それを止める祭司はおらず、イスラエルの神すらも、それをこばまなかった。
そしてついに、内陣に乗り込んだメネリクは、そこにある幕屋の白いカーテンをまくり上げた。
「……これか」
松明の光に照らされたそれを見たメネリクは、息をのんだ。黄金の天使像を頂いた、見るも華麗なアカシア細工の箱。自分たちの時代よりもよっぽど前に作られたものだろうに、その美しさは全く損なわれてはいなかった。それはまさに、イスラエルの誇りを象徴するかのようだった。
「どうしますか……」兵士たちは怖気づいているようだった。だがメネリクは自ら歩みより、手をかけた。何も起こらない。大丈夫だ・彼はそう確信し、契約の箱の一つの隅を持った。
「問題ない。運び出せる。お前たち、手を貸せ!」
その言葉で、兵士たちも一斉に動く。契約の箱は彼らにその見事な身体をゆだね、持ちあがった。
その時、兵士の一人がやってきた。
「メネリク様、人が来ます」
「なに!」
しまった、この様子をイスラエル人に見られていれば、大ごとだ。
「誰かは分かるか?」
「はい、王子、レハブアムでした」
レハブアムが、よりにも寄ってなぜこの時間にここに。メネリクは口惜しく思ったが、部下の一人に自分の持つ角を任せ、自分は幕屋の外に出た。
「メネリク様……!」
「私が何とかする。お前たちは準備を進めておれ」
「なんで、ヒラム・アビフがオレたちを使役できたんだと思う?思い出してみろよ……完全に、その指輪のせいだったか?」強がりつつも、ベリアルは確かに苦しそうであった。そしてそれでもなお、彼の執念の炎は赤々と燃えていたのがはっきりわかった。
「あいつは、悪魔の子孫だった……それも、そんじょそこらの下っ端じゃない。悪魔を使役できるほどの、高位の悪魔の子孫。その血があったからこそ、使えたものなんだよ、それは……しかも、その実の子孫であるヒラムすら、寿命の制限をつけなきゃ使えないくらいのものだった」
ベリアルはケラケラと笑う。ソロモンは、自らの体の中が崩壊するよな感触を味わった。先ほどは、心。だが今は、物理的な身体が。
「お前は、ただの人間なんだよ……いくら化け物みたいな容貌をしていたって、ただの人間とただの人間の間にうまれた、正真正銘、純粋な人間なんだ!」
化け物と呼ばれて、ソロモンは育ってきた。
お前のようなものが、人間であるはずはないと。
そして彼にそのような人生を与えた張本人が、それを否定した。ソロモンは全くただの、人間であったのだ。
「そんなもん、使い続けたら」ベリアルは脅迫するように、笑いかけながらも恐ろしい口調で言う。「すぐに死ぬに、決まっている」
何もかも持っていて、何もない。
自分は何もなせない凡人で、一生、ソロモンの息子としてしか扱われない。レハブアムは、知っていた。そんな自分の人生も、そう嘆いて居ても何も始まらないから少しでも何かに向けて動かなくてはならないということも、自分にはそんなことをする気概も気力も才能もないと、全部、知っていた。父のような叡智など何一つ持たないのに、それだけは、知っていた。
何日も寝込み、思った。神は、こんな自分に答えを与えてくれるだろうか。
答えを与えないでもいい。自分の心を少しでも、楽にしてくれるだろうか。
そう思って彼は、夜中にこっそり神殿に向かった。
夜の神殿に足をふみいれるなど、レハブアムにとっては初めての事だった。普段の雑踏が何もなく、祭司たちの声も音楽も、生贄が燃やされる臭いも、何もない。
不思議な世界だ。彼は神殿も、あまり好きではなかった、どうせここも父の栄光の場、父が作り出したものにすぎないから、と。
けれども、その時限りは、彼は神殿を素直に愛せるような気がした。
階段を上る。門に鍵がかかっているかも、などと考えていなかった。
そして、考える必要もなかった。レハブアムが階段を上ると同時に、門が開かれ、そしてその中から、一人の人物が出てきた。
「……父上?」
レハブアムは目を疑った。そこには自分の父が、ソロモン王が立っていた。
「レハブアム、このような夜更けに何をしている」
ソロモンは、レハブアムにそう問いかけてきた。
「ぼくは……」父を見ると、うまく話ができない。何も、言いたくなかった。だからこそ彼は、言葉など飾らずに、素直に言った。
「祈りに来たのです。何か、悪い事でもありますか」
「悪いことはない。ただ……」
そしてレハブアムは、次に帰ってきた言葉に、耳を疑った。
「今日はもう遅い。返って寝なさい。ここの所、体調を崩していたろう。こんな夜更けに出歩いては、心配だ」
「なんですって」と、レハブアムは反射的に言う。目の前のソロモンは、厳かな表情を崩さないまま、それでも、言った。
「心配なのだ。お前も、私の大事な息子なのだから」
「大事な息子……」レハブアムは、ふっと、笑った。
「何故笑う?」
「お父上は、僕にそんなことを言ってくれたこと、ありませんでしたから……」
しかし、気持ち悪くはなかった。神殿に来て、良かった。レハブアムは空虚になった心が少しだけ、ほんの少しだけ確かに満たされたと、実感した。
「ありがとう、お父上。もう帰ります。……お父上も、早くお帰り下さい」
「ああ、お休み。レハブアム」
レハブアムは「お休みなさいませ、お父上」と言い残し、そのまま踵を返して、ラバに乗って一目散にモリヤ山を駆け下りて言った。
「……いかがでしたか、メネリク様」
「問題ない。うまくだませたようだ」
メネリクは変化を解いた。彼は光輝くと同時に、ソロモンの姿から、メネリクの姿へと変わる。
「急げ。明るくなるまでには、エルサレムを離れねば」
「しかし、僭越ながらあの王子が不審に思わないとも……」部下の一人が言う。「やはり、殺してしまった方がよかったのでは?」
「その必要はない。……哀れな奴だが、あそこまで哀れだと、いっそ皮肉でも何でもなく同情の心も湧いてくる」メネリクはそう、レハブアムの事を評した。自分に矢も楯もなく夢中になっていたあの王子、あの異母兄を。
「せめて、厄介ごとに巻き込んでやりたくもない」
「メネリク様、積み込み、終わりました」部下の一人がすかさず、そう言ってきた。メネリクはそれに「よし」と返答する。
「皆の者!これより、エチオピアは王都アクスムへ、帰還する!」
その鶴の一声で、エチオピアの軍勢は動く。だが、その時だった。エチオピア軍は、目を疑った。
夜空が、金色に輝く。彼らの前に、眩しく輝く天使が、翼を広げて浮かんでいた。将軍のようないでたちの、壮観な男性の姿をした天使が。
内臓が、ねじれるかのようだ。
肺が、つぶれるかのよう。
骨が麦わらのように簡単に折れるかのような感覚。
それらを味わってもなお、ソロモンはベリアルに対抗せんと、指輪に念を込めることをやめなかった。
ベリアルは先ほどと比べて、あからさまに弱ってきている。彼はとうとう、ソロモン同様、膝をついた。もう立ってもいられないように。
「何故……」ベリアルは言った。
「何故、そうまでして抵抗するの……無駄なのに。オレを止めたって、オレは死なないんだよ。お前は、死ぬけどね。このままなら、死ぬけど……」
「俺は、魔術などかじったこともない」ソロモンは言い切った。「だがな……若いころ、俺は何でもできる気がしていたんだ。お前は見てないから、知らないだろう?アドニヤに殺された俺が、アンモンでどのように過ごしていたか。自分は天才だ、自分は何でもできる……その自身一つが、俺をこの地位に上らせた」
「ばかばかしい!」ベリアルは断言する。
「お前ごときをイスラエル王につかせたのは、神だけだよ、神の気まぐれな采配だけ!お前は寝ててもイスラエル王になったさ!だからオレは嫉妬したんだ、それだけ恵まれたお前に!」
「違う、運命は変わり得る!俺の所業に神が愛想を尽かしたように!」ソロモンは答えた。「俺が何もせねば、神も俺に愛想を着かせたはずだ。確かに運命も、才能も、神に与えられたかもしれん。だがそれを、まさにその神に認めてもらえるほどに磨き、使ってきたのは、この俺自身だ。そして、神は言われた。俺にはもう、全てを与えてあると……間違いない、此れこそが、最後の俺の砦だ。俺の友が与えてくれた、砦だ……」
ソロモンは体中が悲鳴を上げているというのに、話すことだけは問題なくできた。まるで神に、そこだけは守られているかのように。
「貴様を、イスラエルにのさばらせるわけにはいかん。俺が守った国に、俺の子孫に、お前にはもう、何一つさせん。……お前を殺すことが、もはやかなわないと言うのなら」
ソロモンはベリアルから授かった赤い目で、ベリアルを、自分を呪い続けた兄を、しっかと睨みつけた。
「お前を、封印するまでだ。……私には、それができる。そのような確信に、満たされているのだ」
「あれは……」
「イスラエルの天使か!?」
エチオピア兵達は騒いだ。無理もない。イスラエルの聖櫃を盗み出した自分たちに神の罰が当たるのだ、とてんてこまいになるのも。
だが、彼の言葉と思しきものが降ってきた。それは、エチオピアの言語で与えられた。
「恐れることはない、ソロモンの子、メネリク!」
彼は自分を見つめるメネリクに向かって、はっきりとそう言いきる。
「私は神の使い、名はミカエル。お前たちと聖櫃を、行くべき場所に案内しよう!」
その言葉を聞いて、エチオピア兵達が一旦、悲鳴も、命乞いの言葉も発しなくなった、その瞬間だった。彼らは、凄まじい光に包まれ、同時に、体が浮かび上がるかのような感覚に襲われた。時間の感覚が彼らの中で、酷く曖昧になった。
そして、目が覚めた時の事。彼らは、目を疑った。
イスラエル以上に見知った光景が、目の前にあった。
そこは、エチオピアだった。しかも、王都をすぐそばに臨む平原に、彼らは立っていた。
「我々の、故国……」
振り向けば、契約の箱も確かに一緒に送り届けられていた。目を瞬かせるメネリクに、ミカエルと名乗った天使は「さあ、帰るがよい」と告げた。
「ま、待て!」メネリクは慌てて縋る。
「お前は、何者だ……?」
「……私は、お前の父の守護天使として、お前の父が彼の母の対に宿った時に、定められたものだった」彼は語った。
「だが……もう、お前も知っていよう。彼の生きている間中、私や……ときには神の意志すらも阻むほどの強力な悪意が彼を取り巻いていて、結局……私が、介入できたのは、一度だけだった。お前の父が……そう、ちょうどお前と同じ十四歳の時に一度敵の関係、ベリアルのたくらみによって殺された時……正と死の淵で、我らは、ただ一瞬であった。それだけだった」
「父の……本物の守護天使だったか」メネリクは、さらに聞いた。「何故、異邦人の私に、契約の箱を?」
「神は、お前を選ばれたからだ。そして、お前の母を選ばれた」ミカエルはそっと、言い聞かせた。将軍のような猛々しい容姿であるにも関わらず、そこには途方もない慈愛があふれているように思えた。まさに、天使のそれと言うにふさわしき慈愛。
「さらばだ。ソロモンの子、メネリク」
彼はそう言い残し、引き留めようとしたメネリクの手もむなしく、閃光を発して消えていった。後に残ったのは、メネリクの見覚えのあるエチオピアの夜空……。
彼はその場に、静かに座りこんだ。
「封印だって!?」
ベリアルは叫ぶ。
「馬鹿な、そんなことしたら、いよいよお前の身が持つわけない!」
「そうか……ならば、やってみよう!」
ソロモンは、精いっぱい指輪に念じる。この者を封印せよ、と。たちまちのうちに、先ほどの数倍もの痛みが襲いかかってきた。内臓が、筋肉が、全て千切れていく。皮膚が裂け、血が出た。それでも、ソロモンはしっかり前を見据えることで、意識を保っていることができたた。ベリアルは明らかに、苦しんでいた。
床に突っ伏し、身動きが取れない様子であった。
「やはり」ソロモンは言った。
「やはり、これが神の望みであったか……ありがとう、神よ。ありがとう。我が友……ヒラムよ」
ずい、と床が動く。それは液体のように変形し、真鍮のような輝きを持ってベリアルの周りに渦巻き始めた。
「お前は、それでいいの……」ベリアルは言う。
「お前も、オレと同じじゃないか!神の望みのままに、死ぬだけだ!神のおもちゃみたいに、命を好きにさせられるだけ!」
「お前がそう思おうと、俺は心の底からこれを望んでいる」ソロモンははっきりと言い切った。
「俺はイスラエルを愛している。我が子孫を、呪わせたくはない。そして……一度は忘れた。もはや許してもらおうとも考えん。だが、それでも神を……俺を見捨てずにいてくれた神を、愛しながらここまで生きてきた」
真鍮はぐるぐると、ベリアルを包み込む。ベリアルの足を、体を。なおもにらみ続ける彼に、ソロモンは、最後に告げた。
「そして……ありがとう、ベリアル」
ピクリと瞼を動かしベリアルに、ソロモンは告げる。体中を蝕む痛みにもかからわず、つきものが落ちたような微笑みを浮かべて。
「お前は知らなかったようだな……お前が来るまで、俺はずっと、死のうと思っていたんだよ。神殿の図面を書き終えたら、死のうと。けれど……それも限界だった」
「何、言いだすの……」
「お前が来る前の日かな?……俺は、決めていたんだ。そろそろ、計画を進めようかと……・自殺の、計画を。そろそろ頃あいか、死んでもいい、夜が明けたら始めよう、と考えていたんだ……それを止めたのは、お前だったよ。ベリアル」
ベリアルははっと、何かを察したようだった。みるみるうちの彼の顔が、屈辱に歪んでいく。
「お前が、俺すら忘れていた誕生日を祝ってくれた。お前が、優しくしてくれた……だから俺は、もうしばらくは死なないでいいか、と考え直すことができたんだ、俺がそう思っているなんて、お前、思いもよらなかっただろう。だけど、俺はそう考えていたんだ」
「やめて……」
「そのおかげで、イスラエルの王に成れた。人々に認められた。神殿を築くことができた。ヒラム・アビフに出会えた。ビルキスに出会えて、子供すらも生まれた……全ての幸せを、手に入れることができたんだ」
「やめろ……やめろよ!」
それはおそらく、ベリアルが最も言われたくない言葉であったろう。
だから、ソロモンは言った。万感の思いを込めて。
「お前が来てくれたから、俺の一生は幸せだった。ありがとう。兄さん」
鋭い声で、ベリアルは怒鳴ったのかもしれない。泣き叫んだのかもしれない。自分の思いを、誰よりも憎み嫉妬した相手に、すべて否定されて。
けれど、その声はもはや、彼以外の誰にも聞こえなかった。
真鍮は完全にベリアルを包んだ。そしてそれはみるみるうちに縮み、一本の、口が鋳潰された真鍮の小さな壺の形になった。
悪魔ベリアルは、封印されたのであった。
「メネリク」
「メネリク様!」
やがて、王宮に帰ったメネリクは、大騒ぎとともに迎えられた、まだエチオピアにつくはずのない彼らがなぜか、帰還していた。しかも、イスラエルの聖櫃まで携えて。
イスメニー女王も、タムリンも飛び起きて彼を出迎えた。
「メネリク様……暗殺は、なったのですか?」
「メネリク……?」
心配そうに自分に問い開ける二人に、メネリクは自分の身に起こったことを全て話した。自分とソロモンの築いた関係、ソロモンに取りついていた悪魔ベリアルの事、彼の企み、母の死の真相、ソロモンが自分に託した願い、そして、ソロモンの本当の守護天使ミカエルが、自分をここまで送り届けてくれたことも。
それを聞いたすべての人々は、絶句した。タムリンは口を開き、「私は、なんということを……」と言った。
「申し訳ありません、メネリク様……十四年間も、私は貴方を、私の勝手な思い込みで、お門違いの復讐へ……」
「気にするな……タムリン。私にとって、お前が誰よりも大切な人間の一人であることには、変わりない」メネリクは鷹揚に笑って見せる。
「ただ、願わくば……」
彼は、自分の荷物をするりとほどいて、エイラットストーンの天球儀を取り出した。そこに描かれているのはイスラエルの空にも、エチオピアの空にも見えた。
「ソロモンと、親子として、話がしてみたかった……」
彼は、ポロリと涙を流す。十四歳の少年相当の、幼さをのぞかせて。
「今、わかる。ソロモンは母上そっくりに化けた私を、女としではなく、娘のように思って接していたのだ。そして私は、それが……心地よかった……私は、ソロモンと親子になってみたかった。あの方を、あの方を、何故、父親と呼ばなかったのだろう……」
泣きながら、メネリクは実感した。
ああ、十四年感信じてきたものを捨てても、何も変わりはなかったじゃないか。
自分は、素直になればよかったのだ。彼に、貴方の息子であると、平和のうちに打ち明ければよかったのだ。
だが、もう遅い。自分が愚かで、幼稚だった。そう思った彼を、イスメニーがすっと抱きしめた。
「メネリク。貴方の親は、ここにもいますよ」
そう言って彼女は、メネリクの頭を撫でてくれた。父譲りの顔立ち、母譲りの異形の足を持つメネリクを、彼女は本物の母親のように抱いてくれた。
「ありがとう……ございます」
メネリクはイスメニーの胸の中、ひとしきり泣いた。そしてその後、言う。
「イスメニー様……貴方の跡を継ぐのは、私ですね?」
「ええ、それは、変わりません」
「私は、偉大なるエチオピア皇帝へとなります」
彼は義母の目をしっかり見据え、そう誓った。
「それが、両親への……偉大なるイスラエル王ソロモンと、偉大なるシバ王国女王ビルキスへ対する、何よりの親孝行になりますから」
イスメニーは、彼を話した。そして、今度は慈母の目ではなく、女王の目に戻り、目の前の少年を見つめた。
「立派な心構えね、メネリク」
メネリクはもう一度、天球儀を見つめ、うなずいた。エチオピアの空にはいつの間にか、見事な朝日が輝いて、その青緑の宝石、イスラエルの至宝ともいえる宝石を、きらきらと輝かせていた。
ソロモンは、ヒラム・アビフにもらった黒い指輪を引き抜いて、細く突き出た壺の口にひっかけた。よろよろと体をおこし、バルコニーに出る。体の中がぐしゃぐしゃにつぶれているのが、よくわかる。もう、長くは生きられまい。
東の空が白んでいる。生まれてこの方浴びられなかった太陽が、今日もイスラエルを照らそうとしている。ソロモンは今一度、自分の治めたこの国を、イスラエルを一望した。
手すりに手をおいて身体を支えながら、この十四年間傷つけた人々に、心の中で懺悔し、謝罪した。彼らも一人一人、心持つ人間であったのだ、と、今になってはっきりわかることができた。
レハブアムには、気の毒な育て方をしてしまった。今思えば、彼には本当に悪いことをした。謝ってどうにかなるものでもない。だが、せめて私の持つすべて、ユダ王国の王位は、誰が何と言おうとお前以外のものではありえない。ソロモンは心の中、そう誓った。
やがて、東の空から朝日が出てきた。東、ビルキスが、イスラエルにやってきた方角から。
その時、ソロモンは、目を疑った。
朝日の光と一緒に、ビルキスの姿がありありと浮かびあがった。十四年前と何も変わらない、美しく、凛々しい姿が自分の前に立って、両手を広げていた。
「ビルキス」ソロモンは微笑んで、その名を呼んだ。目の前の彼女は、優しく、微笑んでくれた。
「来てくれたのだね。嬉しいよ」
ソロモンは手を伸ばし、彼女と抱きしめあおうとした。
「これからは、ずっと一緒だ。ずっと……」
そして、その言葉が、栄華を極めしソロモン王の、最後の言葉となった。
そのに王宮に上ってきたベナヤは、レハブアムの部屋に行く前に、ソロモンの部屋に行った。
何を考えていたのか、あまりよく覚えていない。マケダが不気味だと言おうとしたのかも、レハブアムに関する抗議をしに行ったのかもしれない。ベナヤ自身も思い出せないことだ。あるいは、神に導かれたのかもしれない。
「陛下」重々しい声で言ったその言葉は、帰らなかった。鍵が開いているのを見て、ベナヤはその中に入った。
そしてベナヤは、見た。
太陽の光を浴びることなく生きてきたソロモン王が、初めてその白亜の体を朝日に輝かせ、立って自分の国イスラエルを見守りながら、こと切れていた。
それはベナヤが見た中で、最も美しい、ソロモン王の姿であった。
いや、ベナヤが見てきた中で、最も美しい光景であった。

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feat: Solomon 第百四話

数か所を貫通させられたベリアルは、そのまま倒れこむ。彼の体が、ソロモンの体を離れた。ソロモンは、目の前の光景にひどく驚いた。そこにいたのは、メネリクであった。自分が刺し貫いたはずの。
「メネリク……」
「な、なんで、なんでお前が……」
ソロモンとベリアルは、同時にその状況に驚いた。メネリクは自らを貫いたはずの短剣を携え、彼自身も驚愕の表情で、二人の方向を見つめていた。
「先ほどの話は本当か、貴様」
彼の声も、震えていた。だが、ソロモンと違うのは、震え声の中にありつつも、そこには確かな気力があった。あるいは生命力と呼ばれるものかもしれない。
「母を殺したのは……貴様か?そのような……そのような逆恨みで……?」
「なんで、お前、生きてるんだよ……?」ベリアルは問いただした。「いや、そもそもなんでお前に、ボクが見えるんだ……?なんで、ボクを攻撃できるんだ……?」
そのように呻くベリアルを見下ろしながら、メネリクはすっと自分の腹の手をかざした。すると、突然そこに風穴があく、課と思えば彼がもう一度手をかざした途端、その穴は消えた。
「言ったはずだ。私は人間の姿なら、どんな姿にも変化できる……」彼は語る。「大けがをした死体に成りすますことも、容易だと言うことだ」
「けど、ソロモンは、お前を……」
「その男は……」繰り返すが、メネリク自身の声も震えていた。まさに、彼の壊されたくなかったものを壊されてしまったかのように。だが、それでも彼は立っていた。立って、話をしていた。揺れ動くアイデンティティ、自らの人生を終わらせるかのようなショックに必死に抗い、立って、話をしようと努める力が、彼には溢れていた。
「私を、貫きはしなかった。」
ソロモンも、それを聞いてひどく驚く。あの時本当に、意識がなかったのだ。ベリアルがひどく驚いている所を見ると、やはり、あれはベリアルが自分の体を動かしたのだろう。其れだと言うのに自分は、自分の体は、メネリクを突き刺すことを躊躇したとでもいうのだろうか。
意識がなかった以上、もはや何とも言えない。だが、メネリクが無傷であるという事実一つが、そこに立っていた。
「奴の刃物に気が付いて、次の瞬間、刺されていないことに気が付いた……だがソロモンに追い打ちをかける気配がないのを見て、わたしはとっさに、死んだふりをしたのだ。不意打ちを喰らわせるためにな……ところがどうした。貴様が現れて……とんでもないことをペラペラ話し出すではないか……母の、母の死にまつわることまでも」
「何故だ?」ソロモンも一緒になって、しどろもどろに問いかけた。「ベリアルは、私以外には見えないはずであったのに……」
「私の侍女……サラヒルが教えてくれたことだ」メネリクはどうにか少しでも声を震わせまいとするかのように凛然として答える。
「母が、言っていたことだ。タムリンも、お前も知らない……母とサラヒルしか知らない事実だが、母はイスラエルに居たころ、一度お前を……ベリアルを偶然に見かけたらしい」
それはあまりに、ソロモンにとっては突然の事だった。だが、ベリアルははっと目を見張った。心当たりがあったのか。
「そして、あれは天使ではないかもしれないと感づいていたと……母に見えたものが私に見えても、おかしくはない。怨霊と精霊、人間ではない半端な存在同士……案外お前も母も、近しい次元に存在していたのかもしれないな。ともかくも、だ……ソロモンがお前を信じきっている様子だったから母も詳しい言及はやめ、シバに帰るころにはほとんど気にも留めなくなっていたらしい。だが!サラヒルは覚えていたのだ……そして私に、もしや、とそのことを教えてくれたのが、昨晩だ」
「やっぱり……やっぱり気が付いていたのか、あいつ……」ベリアルは呟く。そう言えばビルキスがいたころ、ベリアルはめっきり姿を現さなくなっていた。ひょとすると、ビルキスの視界に入ることを避けていたのか!
「お前の、お前のせいだったのか。母上が死んだのは……」
メネリクは呻く。一瞬、彼はソロモンの方を見たが、すぐにそらしてしまった。もはや、どういう感情を持てばいいのか、彼自身も分からず、それの模索から逃れようとでもするように。
代わりに彼は、光の刃をかざし、またベリアルに向かって突き刺さんとした。
「母の仇……!」
それを聞いて。ベリアルも非常に威圧的な声を出した。

「なめるんじゃないよ……人間にも、悪魔にも慣れない精霊ごときが。悪魔に逆らいやがって……」
そして、その瞬間、光の剣が、火柱となって燃え盛った。メネリクは反射的に、手を離す。ベリアルはその火柱を掴み、片手でもみ消した。そして、立ち上がる。全身をめったざしにされた彼は、それこそ、翼の生えた肉塊以上の物には見えなかった。
「……オレは、オレは、こんなことじゃ死なないんだよ。オレを誰だと思ってるの?悪魔だよ、悪魔ベリアルだ。まだ……オレは生きるんだよ。神さまが、イスラエル王家を存続させるって余計なこと決めたんだから……だから、まだ、死ねないんだよ……」
メネリクも、完全に絶句していた。目の前の者の執念に、もはや当たり前ながら、ソロモンの復讐、など言っている様子ではなかった。
「イスラエル王家がまだ続くなら、まだまだ、呪ってやるんだ……呪い続けてやる。誰もかれも、不幸にしてやる。オレの命をぞんざいに扱ったダビデの子孫なんて、オレは、未来永劫許さないんだよ……!ダビデ王家だけじゃない。ソロモンの血を引いてるやつだって、絶対に、絶対に、許さない……」
そう言ってベリアルは、絶句するメネリクに掴みかかろうとした。
だが、次の瞬間。ベリアルは急に、動きを止めた。
しかも、彼が能動的に止めているわけではないことは明らかだった。彼はぐしゃぐしゃに崩れた顔面を更に苦悶の表情にゆがめ、苦しんだ。
「……畜生。何で、なんで、今……?」
ソロモンとメネリクは、不審に思う。しかし、彼ら二人は気が付いた。ソロモンの指にはめられた指輪のうち一つ……先ほどベリアルの体液に汚されなかった、黒曜石の指輪。ヒラム・アビフが友情のあかしにくれた指輪が、光輝いていた。

はっと、ソロモンの頭に考えがよぎる。
先ほどまで、もはや何も考えられなかった脳の中に、少しずつ、思考がなだれ込んで来た。生命力が帰ってきた、とでもいうように。まるで黒曜石の光が、生命力を呼び起こしてくれたかのようにも思えた。
ヒラム・アビフは、悪魔の子で、自分の先祖が授けた指輪で、悪魔を使役していた。そう、この指輪を、媒介として。
そして、ソロモンの頭はさらに二つの事実をつなげる。このベリアルも、悪魔。と、言うことは。
「ベリアル……まさかお前もこの指輪の、干渉を受けるのか?」
ベリアルは呻くだけで答えない。しかし、ソロモンはさらに事実に気が付く。そもそもヒラムが生きていたころ、ベリアルはなぜだか、いつも疲れた様子だった。
「いや……ひょっとしてお前、当時、ヒラムに使われていたんじゃないか?この指輪で!」
「……」
無言がもはや、答であった。この誇り高い彼が、ソロモンを不幸に落とすことしか考えていなかった彼がそんなことを言われ、間違いなら、そうではないと一言言えば、済むことだ。
ソロモンの心の中に、次々と力が湧いてくる。はっと、ソロモンは、最後に新しい気付きを得た。
神殿で、主は自分にこう言った。
「お前にはもう、すべてを与えている。私の願いを成就させる、全てを」
そうか。
何年も、何十年にもわたって、少しずつ少しずつ、自分は、全てを与えられてきたのか。この自分を、自分の治めたイスラエルを蝕もうとする悪意に対抗するための、全てを。
「メネリク」
静かな声で、ソロモンは言った。もう、その声は震えていなかった。
「頼みがある、聞いてくれ」
しかしその誇り高い声色とは裏腹に、その願い方は決して、傲慢なものではなかった、父が無う子に話しかけるような態度とも、少し違った。例えるならばソロモンは、他国の王に話しかけるように話した。対等な、お互いに尊敬すべき相手と話すように。
「このベリアルは、私がどうにかしよう。だから……お前は、エチオピアに帰るがよい。そして、頼みと言うのが……エルサレム神殿に行き、内陣の中にある聖櫃を盗み、エチオピアに持って帰ってくれ」

「何を……言っている?」
メネリクは狼狽しながら、そう聞いた。だがソロモンは、厳かに続ける。
「聞いてくれ。メネリク。全ては……全ては、この私の罪だ。この私の罪故に、主はイスラエルに混迷の時代を与えられた。もはやエルサレム神殿は主の唯一の居場所ではなくなると……もはやモーセに与えられたその石板は、その聖櫃は、エルサレムに存在すべきものではないとおっしゃられた。そして。同時に仰られたのだ。お前にはもはや、わが望みをかなえる全てを与えている、と……」
ベリアルの断末魔の獣のようなうめき声。何故だか自分の心臓までが、締め付けられ雨量な思いだ。其れでもソロモンは、話を続けた。もはや、そこに絶望などは存在していなかった。
「今、はっきりと悟った!聖櫃は、この地を離れ……エチオピアへ!お前の地へ行く、主は、そのように望まれたのだ!」
「何を、突然なわけのわからんことを次から次へと……」メネリクは言う。彼はその瞬間、やっと、ソロモンの顔を見た。
「貴様らの誇りなのだろう!我らが異邦人の地へと渡すと言うのか!?正気の沙汰ではない。それでもイスラエルの王か!」
「正確には、主に仕えた王だ」ソロモンはその言葉に、はっきりと返した。「主は、この世のどこにでもおられる。全てをお作りになられた主だ」
メネリクは、まだ戸惑っているようだった。当然だ。このようなことを自分も他人から割れれば、何を訳の分からないことを、と思うだろう。ただ、やはりメネリクは、聡明な子だと分かった。彼は確かに、その突如まくしたてられたことを、理解しつつあったのだ。それは顔を見れば、わかった。彼の気持ちは、本当に、理解できた。鏡に映った自分自身を見ているようで、愛しいビルキスを見ているようで。
「そして、私個人の思いを付け加えさせてもらうならば、だ……」ソロモンは、言う。
「私からの贈り物だ。王として一番に守って来たものの一つを、お前に預ける。私は、お前に、何もしてやれなかったから……父親として、何も……」
熱気を感じる。熱気と、瘴気。ベリアルが抵抗する余りだ、と、本物の悪魔と対峙したことなどないのに、ソロモンにはそう感じられた。
メネリクはその言葉を聞き、じっとソロモンを見ていた。つい数分前まで必死に奮い立たせていた溢れんばかりの殺気は、既に消え去っていた。ああ、本当にこの子は、偉い子だ。そして、強い子だ。自分の変化にこうやって、耐える心を持っているのじゃないか。
「だから、お前に預ける。どうか私の願いを聞いてくれないか、エチオピアとシバの王子……我が息子、メネリク!」
メネリクは、多くの言葉を言わなかった。
「わかりました」などとは決して口にせず、しおらしい言葉の一つも言わず、なんなら、うなずきすらせず。
さっと身を翻し走り出して、その場を後にしていった。だが、それは逃亡ではないということ、メネリクは自分の父の頼みを聞いてくれたのだということは、ソロモンを殺すべき相手でなく、話を聞くべき相手だと認めてくれたということは、彼が去り際に掴み、大切に抱えていったエイラットストーンの天球儀が、何よりも物語っていた。
ソロモンは、ほっと一息つく。だが、メネリクの足音も完全に聞負えなくなった頃。
指輪に念じベリアルを封じ込めていたソロモンの体が、急に、きしむような痛みを上げた。骨が折れるかのような、強烈な感覚。

エチオピア兵達は、急いで走ってきた王子……そう、王子の姿に戻った彼を見て、顔を見合わせた。
「マケダ様……いえ、メネリク様!」彼らは駆け寄った。
「計画がご成功なされたようですな。すぐにでも、帰国の準備はできております……」
だが、メネリクは息を弾ませ、兵士たちにこう言い放った。
「計画を、一部変更する……!お前達!エチオピアに帰還する前に、此れより、モリヤ山に……エルサレム神殿へ立ち寄る!その中にあるイスラエル人の誇り、モーセの律法の収められた契約の箱を……我らが略奪し、エチオピアへと持ち帰るのだ!」


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feat: Solomon 第百三話

血だまりの匂い。倒れ伏すメネリク。そして目の前で、見たこともないような表情を浮かべ、こちらを見下ろすベリアル。
その場にあるすべてのものが、ソロモンの心を打ち砕く。夢の中の光景と同じだ。自分が長年愛してきた建物が打ち砕かれるのを、黙って見ているしかできない。そして、ソロモンが損な感情に浸れば浸るほど、ベリアルは満足な様子だった。
何故だ?現実を受け止められるはずがない。ベリアルが、何を言っている?彼が、悪魔だって?自分の守護天使であったはずの彼が?
震える細い方には、ベリアルの両手がしっかりと置かれていた。ベリアルは混乱するソロモンの顔を、相も変わらずじっと眺めている。
「長かった……本当に、長かったよ。やっと……君が、そんな顔をしてくれたね」
「ベリアル、お前が……」かろうじて言葉と言う体裁を保っているかのような声で、ソロモンは彼に問いただした。
「悪魔、だって……?なら、なんで……どうして、俺についていたんだ?どうして……」
「どうして、って?決まってるじゃない。ああ、お前には、わからないよね。神さまに愛された、お前には……」
昼間のように部屋の中だけが輝いていたからこそ、ソロモンの目に名はっきり映った。信じられないことを言っているのに、そこ煮るのは、確かにベリアルであった、夢でも幻覚でもない、自分と三十年以上付き添ってきた相手以外のものではあり得なかった。
「ボクの気持ちなんて……わかるはずがない。ボクは、憎いんだよ、許せないんだよ。ダビデ王家が……そして、お前が。お前一人が幸せになるのが、許せないんだ」
「ベリアル……お前は、何者だ?」
「さっきも言っただろ?ボクはベリアル……ボクは無価値なもの。この世で最も必要とされなかった魂だって」
ベリアルの頭に飾られた花冠が、じわりじわりと枯れていく。真珠色の翼が、金糸の髪が、みるみるうちに、炭を流したように真っ黒に染まっていく。細かく編みこまれた紙が、自然にほどけて、荒々しく散らばっていく。
「そうさ。ボクは、人間……人間としてこの世に生まれるはずだった魂だ。其れなのに、生きる事すら許してもらえなかった魂……ソロモン、君は覚えているのかな。ボクと初めて会った時、君がボクに何を言ったか……」
彼の傷一つない滑らかな肌が、赤く染まっていく。生まれたばかりの赤子のような、ブヨブヨとした生臭い肌に代わっていく。輝かんばかりの彼の美貌が、見るに堪えない暗闇に覆い隠されていく。
これが、俺が、ベリアルの姿か?悪魔ベリアルの姿?ソロモンはその一部始終を、絶句しながら見守っていた。
「君はいったね。自分はあの男の『罪』だって……ダビデとバテシバが不倫の恋をしたことに対する罪の証として、自分は醜く生まれなくてはならなかったのだって……覚えてる?もう、そんなこと、覚えてないの?オレは今でもはっきり覚えてるよ。その言葉を聞いたとき、よっぽど……この場で殺してやりたいって思ってたもん。だって、キミくらい恵まれた奴が、よりによってどうして、オレの前でそんなことを、って……」
「恵まれた?」ソロモンはオウム返しに繰り返す。ベリアルは歪んだ笑いを浮かべ、「分かってもいなかったの」と言った。
「ダビデが生まれ、そしてバテシバがこの世に生まれた時……主は、このように定められたのさ。すでにその時、運命は決まっていた。ダビデとバテシバの間に生まれる子は、主に愛される子、イスラエルの栄光の時代を築く王になる、ってね……けれど、彼らは恋人にはならなかった。まっとうな恋人になるほどの存在に、彼らはお互い、育たなかった……分かるでしょ。あんな父と、あんな母だもんね」
急な話を次々と聞かされつつも、ソロモンはその言葉一つ一つは、腑に落ちるような思いだった。ああ、そうか、やはり父は、母を愛してなどいなかった。父は誰の事も、愛してはいなかったのだ。
「結果として彼は……神様も予測できなかったほどの、最低最悪の形で結ばれた。そこから先は、お前の考えと同じ。どんなに神が定められた相手でも……そんなみっともない、愛もない不倫の関係に鉄槌が下されないはずがないだろ?ましてや神に愛されたダビデが犯した罪なんだ、神が黙っているはずがない。その罪は、子供の形で生まれたんだよ。……けれど、ソロモン!お前が間違っているのは……その子供は、お前じゃなかった。そうさ、お前は罪でも何でもない!むしろ……罪の要素全てをもう一人の兄弟に押し付けて、綺麗なまま、イスラエるの栄光の王になると言う運命の身を背負わされて生まれる存在であったのさ!」
その言葉を聞き、ソロモンは、はっとした。

ハダド達の殲滅計画にあたり引っ張り出した、ナタンの歴史書。ちょうどかつての妻、ナアマの故国アンモンの戦争について書かれていた箇所の近くに、ダビデとバテシバの記録が乗っていたのだ。
そして、そこにあった、ごく短い記述。ダビデとバテシバが不倫の関係を結び、預言者ナタンはそれを厳しく非難した。そしてバテシバが身ごもり生まれた子供は……そう、ソロモンの実の兄は、生後すぐに病気になり……七日目に死んでしまった。そして、それにうなだれるバテシバにダビデが産ませた子供が……ソロモンであったと。
「理解したようだね」
天使のごとき美しさを今やすっかり失ったベリアルは、笑顔を崩さないまま、自分を目を白黒させて見つめるソロモンに言う。恐ろしいことに彼の笑顔は、同じもののままだった。全く変わらないままなのに、全く別物のように醜く、恐ろしかった。美しい器と、醜い器。その二つが、同じ表情に持たせる意味をがらりと変えていた。
「では……お、お前は……」
「そうさ……名前すら与えられなかった、ダビデとバテシバの第一子」真っ黒な翼を生やした赤い肉塊、そのような存在へとなり果てたベリアルは、ソロモンの頭を掴んで引き寄せた。そこに、彼が縋った温かい体温はなかった、屠られた後の獣の肉に触れるような、生臭く、ぐちゃりとした不快な感触があった。
「お前の兄だよ……!未来も、人生も、何も用意されてなかった。ただ生まれるだけ、生まれて死んで、ダビデにお前のやったことが罪だと知らしめるだけにこの世に作られた……この世で最も無価値、もっとも、誰にも必要とされていなかった魂さ!」

無いに等しい体温。
肉塊のような感触。
憎しみに満ちた、目の前の彼の表情。今まで自分に受けていた清らかな笑顔とは対極にあるもの。
それに包まれ、ソロモンはただただ絶句した。メネリクをこの手で殺してしまった、と言うショックにそれらがくわえられ、もはや、言葉が言えなかった。
「なんで生まれた、なんで魂を、自我を、与えられたのか、この程度の役割しかなかったのに、って……?お前が言わなくとも、オレはずっと思ってたよ。今でも覚えてる。体中暑くて、死にそうで、でも誰もかれも、オレの事をいぶかしがる目で見ていた……こんな赤ん坊、助ける価値はないんだって……そしてオレが何が一番悲しかったかって……神様が、神様自身がそう思っていたって、わかってしまった事さ。そうして、オレは死んだ。でも……死んでも、死にきれなかった。オレの魂はいつの間にか人間の世界に留まってたよ。そしてそのオレを見つけて……悪魔にしてくれた存在がいたんだ。悪魔の長……ルシファー、と彼は名乗った。けど、彼の名前はオレにとってすらどうでもいい。大切なのは、彼はただの赤ん坊の怨霊でしかなかったオレを悪魔に変えて、体と、悪魔としての力を授けてくれた……憎いダビデ王家にお前が何をするも自由だ、って言ってくれてね!」
彼はソロモンの指にはまった、赤いダビデ王家の紋章の指輪を握りしめた。ハリも生気もないその肉体に、ずぶずぶと赤い指輪が食い込む。
「オレはもちろん、復讐する道を選んだよ。ダビデが憎かった。バテシバが憎かった。ダビデの血を引く王家が……血を分けたオレにこんな運命を授けておきながら、のうのうと生きている奴が憎かった。けれど俺が一番憎かったことは……すでにバテシバの中に、新しい子供が宿っていたことさ。そして絶句するオレに、ルシファーが教えてくれた。あの腹の中の子供を、神は、イスラエルの王とする気だ、って。本来お前がなるはずだったのに、罪も汚れも罰もすべてお前一人に押し付けて、そのお前が死んだから、満を持して『イスラエルの最盛期を築く栄光の王』が生まれることができるんだ、って……」
指輪を握るその手から、血とも膿とも、体液ともつかない液体が流れ出す。
「そんなの、許せなかった……なにより理不尽だって思ってた。だからね……オレは、決めたんだ。そいつ……そうだよ、お前だよ!お前だけが幸せになるなんて許せないって、そう決めたんだ。だから、オレは……バテシバの胎内のお前に、呪いをかけた。それがオレが悪魔になってから、初めてやったことだよ」
「まさか」ソロモンは、家の鳴く声で聞く。ベリアルも「やっぱりお前は、察しがいいね」と言った。
「そうだよ。お前が化け物みたいな容姿に生まれてきたのは……オレのせいだよ!」

ベリアルは、ソロモンの白い髪を一房とる。生まれつきの、白い髪。
「別に、なんでもよかった。オレは特に、決めてなかったよ。五体満足なことが尊ばれるこのイスラエルで……十分な器と、知性と、神に与えられた運命を背負っているのに、誰にも理解されずに、差別されて、惨めに生きるような姿で生まれるなら……こんなんじゃなくてもよかったさ。手がなくっても、足がなくっても……でもお前は、こんな姿で生まれてきた。お前、知らないでしょ?お前が生まれた時に母親がどんな反応をしたか。まあ、知らないまでも想像はつくだろうけど……お前の母親、絶望して気絶したんだよ。そして目が覚めた時、侍女からお前をひったくろうとした。きっと床にたたきつけて、殺すつもりだったんだろうね。気持ちよかったよ!お前の成長を影から見ているのが、最高に気持ちよかった。父も、兄弟も、お前の教育が狩りすらお前を化け物扱いして、皆してお前を差別して、虐めて……すっごく、快感だった!オレの不幸をお前も味わってるんだって心の底から思うことができたよ!けども……オレにとって誤算が一つ起こった。それは……神様は、お前を次期イスラエル王にする、っていう運命は、全く揺るがさなかったこと。お前が嫌われているのも、化け物扱いされているのも承知のうえで、容赦も何もなく神様は、お前の教育係りだった予言者ナタンに再三再四、お前が王になる未来を告げていたんだ。……ぞっとしたよ。結局いくら痛めつけられても、お前が王になったんじゃ、オレの苦しみは晴れやしない。そこには、オレが付くはずだった。その席に、俺に何もかも押し付けて生まれてきたお前が愛も変わらずついたんじゃ、どうしようもないよ……だからオレは、十一歳の誕生日から、お前に近づくことにした。表に出さないお前の気持ちも、必要次第で近くで観察できるように……何もかも、お前をオレと同じくらいに絶望させるための事だった」

「それでも、お前はオレの企み通りの人生の方を歩んでくれたよ……本当に、神様は人間を信じ過ぎているよね。いくら自分が言ったって、ダビデ王家の奴らは、自分とは違うお前を差別して、見下して、そればっかり……アドニヤなんか、お前ごときに王位をも笑われてたまるか、って思ってたものね。オレはお前が一番憎かったけど、ダビデ王家だって憎かったよ。だからお前のアブサロムへの復讐にだって協力したわけだし……。でけれどやっぱり、オレのお前に対する憎しみなんて他人のそれと比べれば物の数でもないな、って、アドニヤがお前を殺してゴミ捨て場に捨てた時、はっきり思った。本当に……本当に、嬉しかった。俺と全く同じ両親の間に生まれたお前が、俺みたいな人生話お湯んでくれて。何も成し遂げられず、誰にも愛されず、ゴミみたいな無価値な人生を歩んで死んでくれて……本当に、嬉しかった。本当に満たされた。あの時熱病に浮かされながら感じていた孤独感が、一気に満たされる気がした。それから、オレはダビデ王家の方に取り掛かったよ。もうこっちの方は、本当に楽だった。ダビデ王家に呪いをかけて狂わせて、ダビデを奇病に伏せらせて、アドニヤやバテシバや、周囲の奴らまでもおかしくして。ダビデ王がどんどん、どんどん狂っていくのが、本当にオレにとっての救いだった。オレを使い潰した奴らが、惨めに死んでいくなんて、本当に最高だった。だから……ぞっとしたよ。お前がイスラエルに帰ってきたときは、本当に肝がつぶれるほど驚いてた。あとでルシファーさんから聞いたんだ。神さまは一度死んだお前を、甦らせたって。そんな掟破りをしてまでも、次の王がお前だって決めてたんだ。お前の部屋も、お前の花畑も、不可侵と言わんばかりにずっときれいなままだった……あれを守っていたのは、勿論オレじゃない。あれは、神様が、お前についていた本当の守護天使が守ってたんだよ。……オレの悔しさがわかるか?お前が、オレの与えたその容姿は全く変わっていないお前が、玉座についたときのオレの気持ちが。悔しくて、悔しくて……それこそまさに、絶望そのものだったよ。オレは無価値なだけだったのに、死ぬことだけが仕事だったのに……お前は、栄光を手に入れるんだ、お前は幸せになるんだって、その運命は変えられないのかって、苦しみぬいたよ……。でも、オレはあきらめなかった。諦められなかったんだ。そして誓ったさ。お前が王になってしまったのなら、引きずりおろせばいいだけの話だ、って」

「オレは、アビシャグの奴がヤロブアムの子供をはらんでいたのを後から知った。だから、ある預言者のもとに、天使の振りをしていったんだ。あの少年が将来ダビデ王家に代わって王となる、ってね……信心深く、義務感に忠実な男だった。どこからどう見ても天使のオレの言うことは、本当に簡単に信じて、その子を育ててくれた。本当にややこしかったよ、レジスタンス組織を育てるのは。……そう、わかるだろ?その子がヤロブアムだよ!でも、やっぱり父親似だね。ものすごく優秀な子で……幸い奴を育ててくれた男も、貧民街育ちとは思えないくらい優秀だった。オレが陰ながら誘導していたものあるけど……数年のうちに彼らは、ダビデに恨みを持つ亡国関係者たちと関係を持って、反乱を企てたんだ。でも、そんな時に、邪魔が入った……そうだよ、シバの女王、ビルキスさ」
つらつらと、恐ろしい話を続けていたベリアルの声色が、彼女の名前が出た瞬間に、より一層曇った。ベリアルはおそらく、彼女の事をソロモンと同じほどに憎んだのだろう、と言うほどに。ソロモンも、彼女の名前を出されて、防戦と聞いていたものが今一度、はっとする。
「はっきり言おう。ソロモン……お前が神を憎んだのは、全くの無駄骨だよ。神は、お前とビルキスを引き合わせたんだ。ビルキスは正真正銘、お前の運命の相手だった。お前と愛し合う存在だった。だからお前とビルキスが惹かれあった時……オレは激しく嫉妬に燃えたよ。お前を不幸にさせたくてオレがこんなにもあがいているのに、お前はどんどん幸せを手に入れていく。神に用意された幸せに、どんどんたどり着いていく。オレには何一つ、用意されていなかったのに……お前とあの女が結ばれるのが、オレにはお前が玉座に上がることの次ぐらいに耐えられなかった。ヒラム・アビフが来た時すら、ここまでの者じゃなかったよ。今からすれば当然だな……お前とビルキスは、本当に純粋に愛し合っていた。栄光を手に入れたお前が愛も手に入れるなんて、オレは許せなかったんだよ!だから、必死でお前たちの仲に反対した。それなのに……彼女は、お前を守るために奴らを駆逐した。まあ、オレも反乱軍の奴らは大嫌いだったけどね……オレみたいな覚悟もないくせに復讐だなんだって威張っている奴らは、本当に見ていて寧ろむかっ腹が立ってたよ。思った以上には小物だったしさ……。オレの本命は、ヤロブアム以外に居なかったしね。けど、そんなクズどもが皆いなくなって……お前たちは、晴れて結ばれた。お前を不幸にするためにオレはこの世界にしがみついていたのに、お前はどんどん幸福になっていくんだよ……お前が初めてってぐらいに、幸福そうにしていたんだ。こらえられなかったよ……このまま幸福が続くなんて許せなかった。絶対に……!」
「ひょっとして」ソロモンは恐る恐る口を開いた。「ビルキスは、まさか……」
「そうだよ。オレが殺したようなもんだ」目を細めて、ベリアルは告白した。「オレがナアマをけしかけて、精霊でも死ぬ呪いの薬と、お前が持たせようとした薬を入れ替えさせた。そうすればばれたところで、お前も、ナアマ一人のやったこととして片付けたろうからね……そして、オレ一人が呪い殺すのとは違くて、お前は形だけ手に入れた家庭すらも、台無しにしてしまうという結果までついてくるからね」
ソロモンの心に、ビルキスとともにいた時の記憶が躍った。本当に、幸せな、絶対に壊されたくないほどの幸福の日々、それを壊したのは、自分が守護天使だと信じつづけてきた相手。そして……アドニヤよりも、ハダドよりも、ヤロブアムよりも、誰より自分を憎み、数十年にわたって呪い続けていた……自分の、実の兄。
心臓が、脳が、キリキリと痛む。それを見るベリアルは心底、満たされているようだった。可憐な身体を失っても、その幸福だけは、あらわになるものだ。
「ビルキスを失ったお前を見て、オレは……楽しかった。けれど、まだまだ、って思ったよ。本当に、心の底からの絶望には、まだあと一歩届いてないって。俺が味わった絶望には届いてない、ってそう思った。だからオレは、ヤロブアムが王になるまで待つことに決めた。お前の堕落しきった十四年間は、本当に見てて結構楽しかった。でも驚いたのが……そうだよ、心の底から驚いたのが、そんなお前を見てやっとお前の王としての人生を終わらせることを決意してくれた神さまが、お前のバカ息子と君を二分する王としての運命に定めたのが……ヤロブアムだったって事さ!信じられる?アドニヤの息子とはいえ、後は何の根拠もなしにこのオレが、もとはと言えば赤ん坊の怨霊でしかないこのオレが選んだだけの相手が、そうなったんだよ!?あとはもう、ヤロブアムが国に帰るのを待って、お前から正真正銘、何もかも奪い去るまでを待つだけでよかった。……でも、そこに」
「マケダが、来た……?」
「何者だって思ったよ。オレですら、正体が解らなかった。ヤロブアムを邪魔しようとすらしていたし……何より、マケダが来ても前が十四年ぶりに幸せそうなのが、俺には我慢ならなかった、本当に目の上のたんこぶみたいな小娘だと思ったよ。けど……お前より一足早く、結局オレは知ったんだよ。マケダは仮の名、本当はビルキスのお前の息子で……しかも、オレが殺したなんて露ほども思わずに、お前がビルキスを捨てたんだって勘違いして、お前を殺しにやってきた奴だって!それを聞いて……オレの頭には、もっといいシナリオが浮かんだってわけ」ベリアルは、血だまりの中に転がるメネリクを激しく指さした。
「ヤロブアムにはもう、次期王となると決めらえた運命があるんだ。それが簡単に変わらない事を、オレ以上に痛感した奴なんていない……裏を返せば、どんなに生半可な妨害をしたって、どうせヤロブアムは生き残る。生き残って、イスラエルに帰る。なら……この鉢合わせたお前の敵二人、マケダにいったん勝たせれば、マケダの復讐とヤロブアムの復讐、お前は二回受けることになる。そっちの方がどう考えたって、面白いじゃないか!だってそうだろ?心の底から愛した人の子供に殺意を向けられるなんて、すごく……辛い事じゃないか?」
ソロモンの絶望。ベリアルの歓喜、正反対の二つの感情が、深夜に唯一明るく輝く空間で、静かに二つ、そこに立っていた。血を分けた兄弟の、二つの感情が。
「だからオレは、ヤロブアムを見捨てることにした。マケダ……というよりメネリクは良くやってくれたよ。びっくりしたのは、ヤロブアムを助けるのに神さまが実力行使をしてかかったところ。オレの出る幕はほとんどなくなっちゃったね。でも後は……ゆるゆると、メネリクがお前に復讐するのを待てばいいってだけの話だった。でも、オレはもう……今日のシナリオを考えてたよ。だって、この計画。お前が今日生き残らなくちゃ続かないもの。そして……今に至る、ってわけ、オレはメネリクがお前を殺すタイミングで、お前に刃物を握らせた。お前は……勝手に動いてしまったんだよ」
「お前が……」ソロモンは言う。その中にはわずかながら、怒りも混ざっていたように思える。だがやはり、悲しみの感情の方が、途方もなく大きかった。
「お前が、そうけしかけたのでは、ないのか?」
「そう思う……?ふふふ、どうだろうね……どうにせよ、それを聞いたところで、お前の心は一切満たされないよ。だって、そうだろう?」彼はべちゃりと、ソロモンの頬に手を当てた。
「何も、変わらないもの。ビルキスとの子供に殺されようとしたことも、ビルキスとの子供を、自分自身が殺してしまったことも……お前自身が一生、許さないもの。お前の目がそう言ってる。すごく。いい目だ。この瞬間だけが、オレの望みだった。鏡なんて見ることもなく死んだオレが、まるで鏡を見てるみたい。分かるかい、ソロモン?お前に踏み台にされたオレは……そんな気持ちで、死んでいったんだよ」
その言葉は全く、本当のように思えた。
きっとベリアルが殺させたからと言って、自分の気持ちは晴れまい。空の空、全ては空。そのような言葉すらも、この感情を言い表すには値しなかった。
自分が、ビルキスの息子を殺した。
唯一の救いを、唯一の忘れ形見を。
もう、自分は立ち直れない。
この先何があっても、立ち直れないだろう。
思考するだけ、息をするだけの肉の塊以上のものに、もはや自分がなれる気はしなかった。
「ソロモン……ありがとう。漸く、オレの願いをかなえてくれたね」ベリアルはグロテスクな肉塊と化したその体で、何回もやったように、ソロモンの体を抱きしめた。
「殺させはしないよ。君はずっと、ずっと生きていくんだ。ずっと、その表情のままで生きていくんだ。……ヤロブアムが帰って、お前を玉座から引きずりおろして死刑にするまで、ずっと、生きていくんだ。……これでオレたち、対等だね。やっぱり、兄弟は、こうでなくっちゃいけないものね。うれしいよ、ソロモン……やっと、オレのところまで堕ちてくれて」
怒りも、何も、湧いてこなかった。
このまま生臭い血肉の感触抱かれ、それこそ、どこへでも堕ちていけそうな気がした。頭がぼうっとして、かすんでいく。

その時だ。
ベリアルが、うめき声をあげた。
ベリアルの頭に、光の剣が刺さっていた。
「え……?」当のベリアル自身が、目を白黒させていた。
「なに、これ……」
光の剣は貫かれ、彼の同数か所を、恐ろしいスピードで刺し貫く。ベリアルはずるりと床に倒れた。

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feat: Solomon 第百二話

ビルキスの息子、メネリク。
そのあまりに唐突にやってきた情報、そしてそんな彼に今自分が刃物を向けられているという状況に、さすがのソロモンの頭も理解が追い付かなかったのは、当然の事である。
だが、目の前の彼は明らかにビルキスの血を引いていた。アラビア人らしい褐色の肌も、その真っ黒な髪の毛も、金色の輝く瞳も、山羊のようなロバのような異形の脚も、全てが見覚えがあった。唯一見覚えがないのは、彼の顔立ちだ。まるで鏡を見るように、彼の顔は、ソロモンに似ていた。
「お、お前は……」
「無駄に騒ぐなよ、ソロモン王。お前も、イスラエルの最盛期を築いた王。無様な死に様は、晒したくなかろう?」メネリクはギラリと輝く銀の刃を向け、ソロモンを見つめた。
「それに私も……お前が罪を、我らの恨みを知らずに死ぬことは望まん。お前一人でイスラエルの天に召されるなど、許されてなるものか」
「メネリク……と言ったな?お前は、ビルキスの息子……となると、私とビルキスの間に生まれた息子なのか?」
そんな存在がいること自体、初耳だった。タムリンの手紙はそのようなこと、一切知らせてはいなかった。
「なぜ、今まで名乗り出なかった」ソロモンは震える声で、反射的に問い詰めた。「お前がいると知ったなら……地の果てまでも探して、イスラエルに引き取ったろうに……」
その瞬間。メネリクはカーテンに刃物を突き立て、ざくりと切り裂いた。縦に一刀両断されたカーテンが、ひらりと夜風に舞う。
「ふざけたことを言うものだ……それともそうして、私も、母と同じように、気がすんだら殺したわけなのか?」
メネリクはぎろりとソロモンを睨みつけて言った。「母は、お前の寄越した毒薬で死んだのであろう!?」
その話を聞いて、ソロモンもはっと腑に落ちた。彼は、誤解をしている。
「誰から聞いた?それを……」
「私を育ててくれた人物……お前はその名を知っているだろう。タムリンだ」
タムリン。もちろん、ソロモンもその名はずっと覚えていた。
「タムリン隊長か……なるほど。メネリク、お前は誤解をしている……!あれを起こしたのは、私ではない。私の……」
「黙れ!言い訳は聞きたくない!お前から薬であると預かった物のせいで母は死んだのだ、お前が関わっていないはずが無かろう!!」
メネリクはそう言って、ソロモンに掴みかかった。ばたり、と背中に衝撃が走る。ソロモンはメネリクに、完全に床に抑え込まれた。
相当鍛えているのだろう、ソロモンがひ弱なことを差し引いても、十四歳とは思えない力だった。
「ソロモンよ……なぜ、シバの女王の息子として生まれたこの私が、シバの王子として育たなかったと思う?」メネリクは言った。「全て、タムリンのおかげさ」
「なに……?」
「母がお前のおかげで死んだと知り、タムリンは……復讐に燃えたのだ。何度も、私に話してくれた。タムリンにとって、母は……この世に存在する意味そのものだった。それを奪い去ったお前に、イスラエルに復讐せよと、周囲の反対を押し切って、幼い私を連れてシバ王国を逃げ出したのだ」
メネリクは、凄まじい話を語りだした。片手で父を抑えつけ、片手で短剣を突き付けながら。
「たどり着いた先が、エチオピアだった。イスメニー様は当時より母と懇意にしてくれていたからな……イスメニー様は、事情を、タムリンと母の無念をよく理解してくださった。そして……こんな異形の私も、分け隔てなく優しく迎えて下さった。そして私はイスメニー様の養子となり、エチオピア王族に迎えられながらも、タムリンの指導の下暗殺術を叩きこまれていたわけさ……いつかお前に復讐するために。幸いなことにだ!私は、母の血をついでいたからな……この異形の足が示す通り」彼は、床を蹄でかつんと叩いて見せた。
「私の体に流れる精霊の血はたったの4分の1、母のように人間以外の姿になることはかなわん。だが、人間になら……どんな容貌にも、私は変化できるし、性別も、体格も、思いのままなのさ」
「それで……」ソロモンは言う。「ビルキスそっくりに化けて、私に近づいた、と?」
「その通り。幸いタムリンは何年たっても、幼かった頃の母上の姿を隅から隅まで克明に覚えていたからな」メネリクは不敵に笑う。ソロモンはあまりの事に、めまいがしてきた。
自分も、ビルキスを奪われた苦しみのあまり、妻をこの手で殺した。だがタムリン隊長は、なんという規模の事をやってのけたのだ。今ならわかる。あの男にとっても、ビルキスは言葉にもできほどに掛け替えのない存在であったのだ。それが心も、生命も奪われた悲しみとなれば、相当の者であろう。
それでも……それでも、と、ソロモンは思う。自分がビルキスを殺せたものか、自分以上に、ビルキスが何年も、何年生きることを願ったものが、どこにいる。あれはナアマのやったことだ、あの思い出したくもない、愚か極まる妻がやらかした、許しても許しきれない大罪だ。やるせない気持ちが、噴水のごとく湧きだしてくる。
「メネリク……!お前は、私の母への愛が、偽りであったと言うのか?」
「お前の心情など、私にわかるものか。天才と呼ばれたお前の考えることなど、所詮我々にはわからん。私にわかるのは……一度は母に愛を語ったお前が、母を心の底から夢中にさせたお前が、手のひらを反して、母を殺めたということだ!」
「だからそれは、誤解だと言っている!」ソロモンの心臓が縮む思いだった。間違いなく彼は、この状況を悲しんでいた。
ビルキスと、自分の子供、もしそんな相手がいるのなら、と、この十四年間何度心に願った事だろうか。会って、育ててやりたい。自分の跡を継がせてやりたい。そんなどうしようもない夢想をし続けてきたのだ。
今になってソロモンは、ふっと腑に落ちた。自分が「マケダ」に望んでいた感情が、なんであったのか。自分はマケダに、実の娘を見ていたのだ。ビルキスと自分の間に娘が生まれたら、きっと、このような美しい聡明な女の子であったろうと。
その本人が、本当に自分たちの子供だった。そしてその相手が、自分とビルキスの愛を誤解し、話すどころか、自分に殺意を向けている。
何故だ。なぜ、このような運命が与えられた。ソロモンは、絶望に心が満たされた。ずっと、望んでいた相手に、なぜ自分が憎まれている。なぜ、自分とビルキスの愛が、この少年の中では、無に帰されているのだ。
「口答えするな!」メネリクは怒鳴ってきた。だが「お前は……」と、ソロモンは呻いた。
「お前は、それでよいのか。母が何を思ってきたか、父が母に何を思って生きてきたか、知らぬままでよいのか……」
「……言い訳も、嘘も、いくらでも言える。だがそんな言葉で、母は生きかえらん」メネリクは呻いた。
「これ以上、私に信じさせることをよせ。真実を言え。母を愛していなかったと。少なくとも殺すことができたほどには……母は、愛する対象ではなかったと」彼は呟く。その言葉を聞いて、ソロモンの目には、薄く涙が浮かんできた。なぜ、こう言われなくてはならない。
「言え!これ以上私に、お前たちの間に愛があったのではないかと……お前は冷血の王ではないのだと信じさせることをするな!」だがメネリクも、必死でそのように叫んだ。
「お前はずいぶん演技達者な奴だ。十四年間お前への殺意を募らせ続けてきたこの私が……知らず知らずのうちに、お前を殺したくなくなったよ……だからもう、そのような演技はよすがいい。お前を憎めなくなったら……私の人生は、なんだったというのだ」
メネリクは半ば独り言のように語った。それが尚更、ソロモンの胸を打った。ああ、この少年は確かに、自分とビルキスの息子だ。彼は、聡明だ。自分の育ちが本当ないびつなものであると悟ることができるほどに。自分の本心に、向き合えるほどに。
「貴様は母を殺した人でなしだ、そうなのだろう!?」
だから、ソロモンは、彼の望みどおりにはできなかった。
何故、潰せるものか。必死にあがく彼の本心を。自分の息子が苦しんでいるのに、なぜ、手を差し伸べるにいられるものか。
「メネ、リク……」ソロモンも、とめどなく湧き出る涙に顔をぬらしながら言った。
「悪いが……死んでも言えん!私とお前の母の間には、ただ愛のみが存在した。古来より人が尊び、これから先の未来でも費えることのない、美しい感情が……愛のみが、存在した!なぜ私が、彼女の死など、望んだものか!」
「死んでも、だと……」
ソロモンの顔面に、自分のものではない涙が落ちた。メネリクも、泣いていたのだ。
「母は、死んだのだ!それ以上に、何が必要だ!……よろしい、わかったとも!お前が自分なりの仁義すらもない、ただ綺麗なままでいたいだけの……大嘘つきだと言うことがな!」
その言葉を重ねに重ねた罵倒は、ソロモンに言っているものとも聞こえなかった。
メネリクは、自分自身に言っていたのだ。自分自身にそう言い聞かせ、必死で体を動かしたのだ。
ソロモンは、まだ何か言おうとした。初めて会った自分とビルキスの息子、彼があまりに、哀れだと思えた。タムリン隊長には同情する。責められた義理でもない。しかしこの彼は、自分の両親の愛を無理やりにでも疑って、それを自分を律する方法として、生きていくのか。
余りに、哀れだ。彼も、ビルキスも。
死んだ人間の心など分からない。だが自分の気持ちになれば、はっきりとわかる。ビルキスがこんな状況を、望んだものか。
何か言おうとした。だが、メネリクは腕を大きく振り上げた。きっと彼に手が数本付いていれば、両耳ふさいでいたことだろう。メネリクは、何も聞きたがってはたあなかった。これ以上自分が信じていた道を汚すものを、受け入れたくなかったのだ。父は本当に母を愛していたのかもしれない、と、信じることが、怖くて怖くてしょうがなかった。いくら聡明とは言えど、まだ十四の子供であったのだから。

殺される。
その感覚が、ソロモンの体を駆け巡った。
今までに二回、あったこと。一回目はアドニヤに、二回目はハダドに。
だが二人とも、憎むべき相手であった。今となっては顔も見たくないほどの相手。それなのに。自分は今、憎しみとは対極にある感情を注ぐ相手に、殺される。
こんな出会いを、望んでいなかった。
もっと話したかった。父親として、何でもしてやりたかった。それなのに自分ができることは、彼に殺されることか?
メネリクの持つ刃が、真直ぐに振り下ろされた。躊躇う無く心臓を狙うように。

「ソロモン」
その時、声が聞こえた。ベリアルの声。
「何をぼうっとしてるの。このままじゃ死んじゃうよ、ほら……」
声だけが、耳をつんざく。自分の右手に、熱が走った。何かを、握らされたような感覚。
こちらに迫りくる、メネリクの姿。ソロモンの視界には、彼の胸元に揺れる、スリランカ産のルビーの指輪が目に入った。あいも変わらずそこには、金色の星が輝いていた。ゆらり、と、自分のものではないかのように、不随意的に熱を握らされた右腕が動いた。

そして次の瞬間ソロモンの目に映ったのは、その指輪、自分とビルキスの愛を誓った証の指輪が、血にまみれる瞬間だった。自分には、一切の痛みがないのに。
何かが落ちる音がした。ソロモンはようやく、状況を把握した。メネリクが、倒れた。そして自分はいつの間にか、光でできた短剣を握らされていた。
そして倒れこんだメネリクの背中に、赤い穴が開いていた。ソロモンはすぐ状況を理解した。自分のこの短剣が、メネリクの胴を貫いたのだ。

完全に、無意識下での一瞬だった。だが、ぴくぴくと動くメネリクが、彼の心を現実に戻した。あまりに大きなことをやってしまったという現実に。
「ぬかった……なぜ、今日に限って、武器を……」メネリクは呻いていた。金色の目が、ビルキスと同じ、オフィルの黄金よりも透き通った美しさを持つ目が、友愛や慈愛や情熱に満ちて自分を見つめてくれていた眼が、無念と憎悪の色に染まっていた。
「メネリク……」ソロモンは恐る恐る、彼の名を呼んだ。彼は必死そうににやり、と笑った。
「やはり、私の思った通りの男だったな、お前は……母も、私も、お前は殺してしまった。何が、愛していただ……なにが、叡智のイスラエル王だ」
そう言って、メネリクの全身から力が抜けた。自分の向かって悪意に満ちた笑顔を浮かべたまま、彼の首は床に沈んだ。
ソロモンは、起こったことを受け止めきれず、しばらくの間その場にしゃがみ込んでいた。だが時間が立ち彼の心を満たすものは、絶望以外に、何もなかった。
何故だ?
何故、自分が、彼を殺した?
ソロモンは右手に持った、光る短剣を手放した。不思議と質量はあるのだろうか、それは床に転げる。そしてそれには確かに、血が付いていた。
殺したのか、自分は、メネリクを。
この世で誰よりも愛した人との子供を。
その裏にあった企みが何であれ、十四年ぶりに自分の心の支えと名てくれた人物を。
自分は、殺した。

言葉にならない叫び声を上げて、ソロモンは慟哭した。
失ってしまった。この世から消えてしまった!あったはずの、ビルキスの忘れ形見が、この世から消えた……自分の、自分のせいで、消え去ってしまった!
言葉など紡ぎだせなかった。獣のように泣くことしか、できなかった。
体中を包む悪寒。ああ、此れには覚えがある。ソロモンははっきりわかった、。北の独房だ。自分が子供のころ、ずっと閉じ込められていた場所。
あそこを這い出て、栄光の道を進んだ打が自分は結局、あの場に戻ってしまうのだ。あの純粋な絶望以外有り得ない空間に。もうビルキスもメネリクも、この世にはいない。そのような空間に。
「ソロモン……」
透き通るような声が聞こえた。柔らかい光が巻き起こる。ベリアルだ。
「ベリアル……ベリアル?」
ソロモンが振り向くと、ベリアルがそこに多、ソロモンは物も言わず、彼にすがった。心が壊れてしまい層などと言う生易しい物ではない。今まさに、壊れている気がする。音を立てて崩れ去るのを、自分は感じていることしかできない。その崩壊を少しでも止めてほしい。その一心で、ベリアルの温かい体温にすがった。

「泣いてるの?」
だが、ソロモンの体をそれ以上の悪寒が蝕んだ。べリアルの声が、普段と違う。笑っているのに、その笑い声はまさに天使然とした彼の普段の者とは違う。途方もなく邪悪で、悪意に満ちた笑い方。
ソロモンは顔を上げた。そして、息が止まるような思いをした。ベリアルは笑っていた。その笑い声に相応しい顔で。冷たく、邪悪な顔で。
「泣いてるね……ソロモン、泣いてるね。フフ……」
「ベ、ベリアル……?」
「生半可な悲しみじゃない。本当に、絶望してる顔だ。アハハハハ……」
誰だ、これは?
自分とずっと一緒に居てくれたベリアル、本人だと言うのか?
いや、本人だ。それは分かる。では……自分のこの目に見えているものは、自分が、今まで見てきたものは?
「いいよ、いいよ。すごい素敵な顔だよ、ソロモン……」彼は言った。
「その顔が見たかったんだ。君のその顔が、ボクは、ずっと……」
「ベリアル……お前は、ベリアルなのか?」ソロモンは、息も切れ切れに問いかけた。
「何を当たり前のことを。ボクは、ベリアルさ……。そう。かいて字のごとく。『ベリアル』」

ベリアル。
それは、ヘブライ語で「無価値な物」を刺した。

「ボクはベリアル、この世で最も必要とされなかった、無価値な魂……」歌うようにそう言いながら、彼はソロモンを見て、にたりと笑った。
「天使のなりをした、悪魔だよ。ソロモン」

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feat: Solomon 第百一話

夜が明け、昼が過ぎ、何事もなくイスラエルの時間は過ぎて言った。夕方になったころ、そっとエチオピアの兵士とマケダの侍女が門を出て言ったものの、彼らのごく小さな荷物から、門番たちもまさか彼女らがエチオピアの帰るのだとはつゆとも思わなかった。

そして日は暮れ、晩餐の時間となった。
ソロモン王の隣にはマケダが座り、今日も二人な仲好さげに話をしていた。最近では、王宮中のあらぬうわさも少しずつ、鳴りを潜めつつあった。宮殿の有象無象の人々にも、どことなく分かって来たのかもしれない。ソロモンのマケダに向けている愛が、男女のそれではないことに。
そして、王はその色気のない愛と共にありながらこの十四年間のどんな瞬間よりも、幸福そうであったのだ。
「マケダ、約束したね」ソロモンは言う。「今夜も、来なさい。今夜も晴れた夜だ。夜空が綺麗に見えるはずだよ」
「はい、陛下」ソロモンはその時、マケダに少しばかりの異常を見た。マケダはいつもの通り笑顔を作ろうとしていても、その顔がどこか少々、こわばっているように見えた。まるで緊張しているかのような。
今まで何度も部屋に呼んでいるのに、なぜ今緊張するのだろう、と思わないでもなかった。「どうした?体調が悪いのか」と、ソロモンは問う。
「いいえ……大丈夫です」それでもマケダは、しゃんとして返事をした。「楽しみにしております。陛下」と言って。
その様子を、会場の端で、ベナヤがじっと見ていた。怒りと、義憤に燃えながら。レハブアムはまだ、起き上がってこない。
ソロモンは、幸福そうだ。シバの女王がこの国にいた時と同じように。
だが、もうソロモンの幸福など、字bんには何の関係もなくなった。自分が守るのはレハブアムの幸福、ただそれのみだ。レハブアムが幸せになるのなら、もう、何も望まない。ベナヤはそのような心持になっていた。

「どうかしたのかね」そんなベナヤに、ザドクが声をかけた。
「ザドクさん……何でもありませんよ。お気になさらず」
「そうかい……お前がここの所、陛下を怖い顔で見ているから、心配に名てきていた」痛いところを突かれ、ベナヤは一瞬言葉を飲み込んだ。弁解はせず、特に何も言う様子ではないベナヤを見届けて、ザドクはぼそりと言った。
「お前は最近、ヨアブ将軍に似てきたね」
その前代イスラエルの将軍の名を聞いて、ベナヤも固まる。忘れるはずがない。悪辣な王子アドニヤにもう目的に仕えていた彼の事が、ベナヤは大嫌いだった。心底、軽蔑していた。
「ザドクさんと言えど、そのようことを言われたくはありませんな……私がどれほどまでにあの男を嫌ったか、わからないわけではないでしょう!」
何十年たっても、彼に対する嫌悪感は消えていない。一緒にされるのは屈辱だった。ザドクはそれを聞くと、悲しそうな声で「ああ……すまない。嫌なことを言ってしまったね」と自分の非を認め、後は、その話題を続けなかった。

やがて晩餐が終わった。ベナヤは、マケダの部屋の前で待ち構えていた。やがて彼女が出てくる。青い天球儀を持って、足取りも真直ぐに、王の部屋に向かってくる。
彼女が角を曲がった。そしてその時だ。ベナヤは、あらかじめ抜いてあった剣を、マケダの首元に突き付けた。

一瞬驚いたのは、彼女が何も慌てなかったことだった。廊下に並べられた燭台の光が映し出す顔はゆっくりと情報へ動かされ、金色の目で自分に刃物を向ける狼藉者を見抜いた。そして落ちつきはらった声で「あら、こんばんは、将軍様」と言った。
ただの姫ならこんな真似をされれれば怯えるだろうに。さすが……ヤロブアムの胸にすら飛び込んだ肝の持ち主と言ったところか、とベナヤは踏んだ。
「何のおつもりです?」と彼女が聞くだが、ベナヤは、引く気はなかった。「どこへ行く」と、可能な限りの重々しい声で聞いた。
「陛下の部屋へ」
「貴様が行くべきは、そこではない。エチオピアの売春婦が」彼女のその余裕すらも、恨めしかった。彼女はこのように平然として、レハブアムの恋を踏みにじったのだ。たった一つの、掛け替えのないレハブアムの心を。
「私についてこい。貴様を待つ者は、他に居る」
レハブアムにやれと言われたわけではない。人の道に外れる行為だとも知っている。
だが、レハブアムは一瞬でも幸せに成れるなら、レハブアムの思いを遂げさせることができるなら、極悪人にも、悪魔にもなる。そう誓い、今まで生きてきた。
「……レハブアム王子が、こんなことをしろと?驚いた。彼にそんな気概はないと思っていたのに……」
「殿下ではない。私の判断だ。勘違いをするな、売女めが」ベナヤは憎々しげに吐き捨てる。お前と一緒にするな、お前ごときの発想と。レハブアムがなぜ、このようなことを思える者か。あの王子に、汚れなど必要ない。汚れは全て、自分が被る。お前には、理解できなかろう。その涼やかで可憐な笑顔を持って、残酷なまでに人の心を踏みにじる、お前では。
ベナヤはゆっくりと剣を横に動かし、その銀の刃をる遅くの光に照らして見せながら、言った。
「来い。私の言葉に従わねば、命の保証はないぞ」
そうして、彼女を睨みつける。
イスラエルの将軍、筋金入りの軍人として、それはまさにふさわしい態度であった。ベナヤ自身もそう確信していたし、そこにはマケダとベナヤ以外存在しなかったものの、他者が見てもそう思っただろう。
だからこそ、ベナヤは次の瞬間、ぞくりとした。一瞬うつむき、すっとこちらを睨んできたマケダの表情に。
「下手な脅しだな」彼女は先ほどとは打って変わった低い声で、ベナヤにそう告げた。ベナヤの背筋に悪寒が走る。それはまさに、王者の威厳であった。ベナヤが、王宮に仕える者として生きてきた彼が、生涯逆らえないもの。
「命の保証はない、だと?それしきで、この私が怯むと思ったか。私が死ねば、レハブアムが悲しむ。お前が、彼を悲しませることなどできるわけがなかろう」
そしてマケダは、ベナヤの本心を恐ろしいほどに的確についてきた。ベナヤの全身が震えあがる。彼女の金色の瞳が、暗闇の中で輝いているようにすら思えた。剣を握る手にすらも、わずかながら、その震えが伝わって来たかのようだった。なぜだ?なぜ数十年イスラエルの将軍を勤め上げたこの自分が、こんな小娘ごときにおびえなくてはならない。
「おや、震えているのか……」マケダは嘲るように笑って、そしてこの用に告げた。
「駆け引きをするなら、もう少しはったりでもいいから堂々としていろ。付け込まれるぞ」
その時ベナヤは、記憶の奥底を呼び起こされた。このようなことを昔、言われた覚えがある。
ソロモンと初めて会った時の事。
そう。目の前の少女は、ソロモンにそっくりだった。君が悪い程に、昔のソロモン、そのものだったのだ。ベナヤの人生において、ずっと、彼の上に居続けた男に。
ベナヤは、剣を支えていられなくなった。自然と彼女の首元から剣をのけ、後は茫然と、圧倒されながら立ち尽くすしかできなかった。
マケダはそんな彼を見て、微笑みながら、とうとうと語る。
マケダは薄く笑い「では、失礼」と言って、迷いも何もなくすたすたと歩き去っていった。
彼女が言ってからも、ベナヤは震えていた。いったい、あの少女は何者なのだ……。

「陛下。マケダです、入ってもよろしいですか?」
「ああ、いいとも」と、ソロモンはいつもの通り、マケダを迎え入れた。バルコニーにつながるカーテンは開かれており、夜風が吹き付け、イスラエルの神が作りたもうた星空が輝いているのがはっきりと見えた。
ソロモンはマケダを奥の方に通す。バルコニーの椅子に二人は座って、しばし話kンだ。いつもの通り、たわいもない話であった。いつもの通り、恋大情欲とも違う、何とも言えず柔らかな愛がそこに張った。と、その世にソロモンには感じられていた。
だがやはりソロモンは、以上を一つ見つけた。マケダは何やら、落ち着かなさそうにしている。平生を保とうともしているようだが、微妙に声が上ずることもあった。
「やはり、体調が悪いのでは?」と、ソロモンは聞いた。マケダはそれに反応したが、返してきたのは「大丈夫です」と言う一言であった。
それでも、多少冷え込む夜であったので、ソロモンは部屋の中に入ろうか、と提案した。マケダはそれを飲む。カーテンが閉められ、ソロモン王の部屋は蝋燭の光のみに照らされた。
「辛かったら、帰っても大丈夫だ」ソロモンは優しく言った。
「いいえ……体の事ではないのです。体は、いたって平常なのです」
「それでは……何が、君の心を悩ませているのかね、マケダ」
その質問を受け、マケダはしばしの間黙り込んだ。そして。話を切り出した。
「陛下にお伺いしたいことが一つございます……よろしゅうございますか」
「君の問いになら、なんでもこたえよう」ソロモンは部屋においてあった葡萄酒をマケダと酌み交わしつつ、鷹揚に答えた。マケダは手渡された盃の水面を揺らしながら、思いつめつつ、それでも最終的に目標とする質問を紡ぎだした。
「陛下は……私の中に、他のお方を見ておられます。それは……誰ですか?」
その質問を行き、ソロモンも一瞬。びくりと体中の動きが止まった。

それだけは、悟られたくなかったことだった。
すでに消えてしまった恋人の面影を見ているなどと明かすことは、大変に失礼であるとソロモンも思っていた。マケダの事を、女性としては愛さぬ存在と悟った今ならば、なおさらだ。
暫く、ソロモンも黙り込んでいた。だが、自分の言葉に、このマケダに向かって誓った言葉に嘘は無い、と決めていた。
「よく分かったね。その通りだとも」ソロモンは観念して、言った。
「シバの女王、ビルキス……君の年齢では、知っているだろうか?十数年前まで、アラビアの果てのシバ王国に、そのような名前の女王がいたのだ。その人は……私の、唯一無二の恋人であった」
「その口ぶりだと」マケダは言う。「もう、この世には……」
「ああ、そうだ……もう、いない。死んでしまった」
「では、陛下は私を、その方の身代わりにも等しく思われていたのですか?」
「否定できるほど、私は立派な人間ではない。そんな面も……確かにあった」
一切の言い訳は、しないつもりであった。それがむしろ、この目の前の王女に対する礼節である気もしていた。
蝋燭がゆらゆらと揺れる中、マケダはじっとソロモンを見つめていた。咎めるような視線でも、さげすむような視線でもなかった。
「妻を千人持った貴方様が、今なお執着するお方だと?」
「私にとって……ビルキス以上の女性など、ついに存在しえなかった」
マケダはその言葉を飲み込むように、しばらくじっと考えていた。手の中の天球儀を眺めながら。「よろしければ」彼女はまた新しい質問を投げかけた。
「お話しいただけませんか?もっと……その、シバの女王ビルキスの事を」

ソロモンは、勿論のこと了解した。
彼女がどの世にイスラエルに来たか、彼女といた時どのようなことがあったか。自分と彼女が、どのようにそれに立ち向かっていったか。そして彼女と思いあえる中になった際……自分たちが、どれほどまでに愛し合ったか。エイラットストーンを初めて見つけたのもその時だ、と言うことも明かした。マケダが大切に抱く天球儀と同じ宝石は、一時期自分とビルキスをつなぎ合わせていたのだ、と。その話をした際には、ソロモンはしばし立ち上がり、宝石箱の中から、あの時のブローチを取り出した。ビルキスが死んで以来は一回も身につけることのなかったそれは、十四年前と変わらずに、たおやかに輝いていた。
いくらでも、話すことができた。ビルキスとの思い出を、目の前のビルキスと同じ顔の少女は、異常なまでに熱心に、真摯に聞いていた。
話しの終わりは、彼女の死だった。唐突にビルキスが死んだと聞かされ、以来自分は抜け殻のようになってしまった。
「そうだったのですか……陛下にも、そのようなことが……」マケダは含むように言った。
「ああ、そうとも」ソロモンは言う。
「誤解をするなと言うのも無理な話。君に失礼だと言うことも分かっている。だが私は、今でも……ビルキスに対する気持ちに、嘘はつけない。彼女は私の唯一の恋人だった。そして、その彼女を思い出させる気味が来て……始めて私は、救われたようになった」
「そうですか……では、陛下。お聞かせください」マケダは小鳥、と、天球儀を机の上において言った。
「陛下はその方を、愛していらしったのですね?」
「ああ、愛していたとも、心の底から、誰よりも、愛していた……」
「それが聞けて、嬉しく思います」
そう言い残し、マケダはガタリ、と椅子から立ち上がった。ソロモンが不審に思って彼女の方を見ると、その目の前には驚くべき光景があった。
彼女の穏やかな金色の目が、憎しみに燃えていた。ソロモンへの、憎しみに。
「嬉しく思いますよ……本当に」彼女のなよやかな声が、いつの間にか威圧するような低い声に代わっている。
「迷いが生じていたんだ。私の中に」彼女は立ったまま、自分の衣服を片手でバリバリ、と引き裂いた。少女の体を包むに相応しい装飾が引きはがされ、二本の脚があらわになる。
そして、その帯の中には、ギラリと輝く短剣が隠されていた。
「けれど……その言葉を聞いて、ようやく迷いが吹っ切れた。全く……ありがとうと言うほかはない。私の決意を……お前が固めてくれた」
その時、ソロモンは気が付いた。彼女のドレスの襟元に常に隠されていた、首飾りの存在に。そしてソロモンは確かに、それに見覚えがあったのだ。
蝋燭の暗い光の中でも分かるほど、鮮やかに輝く、蓮の花のような薄紅色。スリランカ産のルビーだ。そしてそれに輝く五芒星までもが……見える気がした。
「お、お前は……?」
自分がビルキスに渡したはずの指輪を、この少女がなぜ、そう思った時だった。マケダの体が、すさまじい閃光が覆った。
「嘘、ばかり……!」
そして彼女は光の塊になる。すると、彼女の体は変化をはじめた。背が伸び、体格が変わっていく。まるで……彼女の発していた低い声に相応しい。鍛え抜かれた体の少年の姿になって行く。そして、彼女の足が、変形し出した。関節の位置がずんずんと上にずれ……まるで、山羊のような、鹿のような動物のそれに代わってく。
「ソロモン……お前は、ビルキス女王にもそのようなことを囁きながら、あの方を殺したのか……!?」
そしてソロモンの部屋は、まるで昼間のように明るくなった。気が付けが彼の目の前には、ビルキスと同じ獣の足を持つ、一人の見知らぬ少年が短剣を構えつつ立っていた。だがその目……ビルキスそっくりの金色の目は全く変わらずに、ソロモンをじっと見つめていた。そして彼の、全く男の物となった胸板には相変わらず……スリランカ産のルビー、自分がビルキスに愛のあかしとして与えたはずの指輪が光っていた。
「お、お前は……?」ソロモンは目を白黒させつつ、問いかける。
「誰だ?王女では、ないな……?」
少年はにやりと笑った。
「エチオピア王女マケダとは、仮の名前、仮の姿……私の名はメネリク。雅称はエブナ・ラ・ハキム……その意味は『知恵の息子』」
その名前の意味を聞き、そしてその金色の瞳と足を見つめ、ソロモンもはっとする。
「察しがついたようだな」メネリクと名乗った少年は、獲物を見つけた猛獣のように、残酷に笑っていた。
「そうさ。私の母が……お前の事を思ってつけた名前だ。私の母……偉大なるシバ王国女王、暁の娘、ビルキスがな!」

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feat: Solomon 第百話

神殿に向かう道には、不思議誰もいなかった。万人や夜番の祭司すらいず、静まり返っていた。其れだと言うのに、たった一人、見知らぬ男が神殿の門の前に立っていた。
「お待ちしておりました」彼はごく当たり前のように、そう言った。
「お前は?」
「お初にお目にかかります。シロの預言者、アヒヤと申します」
「預言者……アヒヤ」ソロモンはその名を反芻した。「ではお前は、神に示され、私をここで待っていたのか?」
「さようでございます」
アヒヤは重い戸を開ける。ソロモンは蝋燭も持たずに、入っていった。アヒヤがまた扉を閉めようとしているらしい。後ろから差し込んでくる光すらも、徐々に細くなっていく。
だが、ソロモンにはそんなこと男の虚位にもならなかった。たとえ目をくり貫かれようとも、この神殿あら隅々を、好きに闊歩できる気でいた。
真っ暗な中でも、全てが分かった。シクラメンの彫刻、そびえたつボアズとヤキンの二本の柱、螺旋階段に、レバノン杉の扉……。
ソロモンはやがて、内陣手と通じる扉を開けた。鍵すらもかかっていなかった。そしてその中は。眩しい程に輝いていた。其れなのに、ソロモンの光に敏感な目を、その光は一切刺激することはなかった。
「ソロモン。漸く、ここへ来たか」光の中から、声がした。

「あなたと会話をするのは、もう、あれきりなのかと思っていた」ソロモンは光に向かって問いかける。
「何故もう一度、私をここへ引き寄せてくれたんだ?」
「……今は亡きバテシバの胎内にお前が宿った際、私はお前を愛したのだ」声は、厳かに、内陣の中に響いた。
「私はお前こそ、次のイスラエル王と定めた」
「ああ……そうらしいな。ナタンは度々、その未来を予言していた」ソロモンもうなずく
「お前のその道を邪魔するものは、全て失せよ、と、私が決めた。お前はどれほどの苦痛を受けようとも……最終的に、王となったのだ」
「そうと、信じていたからな」
「だが、運命が変わった」声は言う。以前夢の中で聞いたものと、全く変わっていないようだった。怒りなのか、悲しみなのか、わからない。全ての激し感情が混ざり合って、何物でもなくなってしまったかのような声が、ひたすらに響いていた。
「もはや、お前をイスラエル王にすることはかなわぬ。お前は、私を忘れた。このイスラエルの神を、忘れた」
「それほど、俺に離れてほしくなかったのならば……」ソロモンは呟いた。何故、ビルキスを殺した。ビルキスと自分が共に居られない運命を定められていたのなら……なぜ、自分達を引き合わせた、と、とおうかと思った。だが、彼はもはや、それを言う気力も失せた。
「いや……なんでもない」
ソロモンは自嘲気味に笑った。
「そうだな……すべてを認めよう。俺があなたを忘れたことも。そして、今あなたとこうして向かい合って話しているのに、俺の心はもはや、貴方を救いとして見れなくなってしまったということも」
ソロモンはふう、とため息をつき、目元を抑えた。
「では、今のお前の救いとはなんだ」
「あなたともあろう方が、わからないはずがないのに」ソロモンは呟く。
「マケダだ。マケダだけが……今の俺の、唯一の救いだ」
ソロモンは、目を触れつつも、はっきりとした声でそう言った。光の中の声は、それを否定することはなかった。
「そうか……それも、よかろう」
意外なことにその声色の中には、皮肉や諦めのようなものは、一切見受けられなかった。
「ソロモン。私は、お前を愛した。お前を愛し、イスラエルを愛した。しかし、お前も知っているだろう。私は、お前の国を二つに裂く。お前の罪のゆえに」
ええ、わかっています、とソロモンが返答しかけた、その時だった。
「そして、もう二つ……。お前が生きている間には、それは行わん。そして、もしもその日が来たとしても……たとえ二つに分かたれようと、私はお前たちのもっとも偉大な財産を、取り上げはせぬ。ダビデ王家は続き、別れた国の片割れを治め続ける。いつか訪れる滅びの日までは。私が愛したダビデのため、私の愛した都エルサレムのため……そして、お前のために。私は、お前を愛し、お前も、私を愛したのだから」
ソロモンははっと、頭を上げた。
「あなたは」彼は呻く。「まだ、俺などを愛して下さると?」
「お前だけではない。全ての人間に対して、私は常々、かような思いを抱いている。……不思議なものだ。私は人間を憎み、そして同じほど、人間を愛する。私とお前たちのかかわりは、そのようなもの。そしてこれからも、同じように続くであろう」
「そうですか……俺の国は、まだ続く、と……」ソロモンはふっと笑う。
「あなたがビルキスに与えられた未来が、成就するまでですか……?磔になって死ぬ男が、イスラエルを滅ぼすまで?」
「滅ぼし、しかし、同時に救うまでだ」彼は言い切った。「イスラエルがどうしようもなく腐敗し濁りきった時、彼はその身を犠牲にし、罪をあがなうであろう。その時に、長い時代が終わるのだ。お前たちの時代が。そしてその先どうなるか……私もまだ、その運命を、定めてはおらぬ」
ソロモンは目を瞬かせた。「滅ぼし、そして、救う……」彼はぼんやりしながらも、必死に問いかけた。
「その男とは、一体……?」
「その男は、私自身だ。そして、私の一人息子だ」
よくよく考えれば、不思議な言葉であった、しかしソロモンには、不思議だとも感じられなかった。
「そうか……」彼は静かに、その言葉を受け入れた。ようやく分かった、神殿が崩れる中、自分と話したあの男の正体が。
「あなたは神殿が崩れる未来を、俺に見せられた。一つ。思うところがある……もうこの神殿は、貴方の唯一の住まいではあり得なくなるのだな?」
「うむ」声は少し、トーンが下がった。
「私も、先代の王たちもそれだけの事をした。謝りこそすれ、文句は言えない」ソロモンはその変化に、自嘲気味に言い返す。
「俺が問いたいのは、こうだ。……俺は子供の時からずっと、神殿を見ていた。だが一つ、内陣の中には……何もなかった。ずっと何故意味深に姿を隠していたのだと思うが……今になって、ようやく悟った。俺は、さらに未来を見せられていたのではないのか?この神殿からはもしや……聖櫃が、消えるのでは?」
「良く分かったな、ソロモン。その通りだ」声は厳かに、言いかえした。
「今でも克明に覚えている。エジプトからこの地に昇ってくるモーセに、あの石版を渡した瞬間の事を。だが、もはや石版はお前たちの手には必要ない。イスラエルはこれより、混沌の時を迎える。私の与えた十戒が、形あるものとして存在などできぬ時代がやってくる。それゆえ私は、あの聖櫃を写すのだ。その地は……既に、定めてある」
「あなたは聖櫃と共に、イスラエルから、そこに移ってしまわれるのか?」ソロモンは問いかけた。
「いや……そうではない。むしろ。私はどこにでもあるのだ。この世ある限り、私はいる。私は、そこにあるのだ」
「それが運命なら、従わざるを得まい。俺は所詮、貴方に打ち勝てるほどの器ではない」ソロモンは軽く微笑んだ。
「あなたがまだイスラエルを見捨てられないようで。安心した。あなたが……今の俺の幸せを、認めて下さったことも」
怒りも、屈辱も覚えていた。しかし彼と話した瞬間、やはり穏やかな気持ちになれたのだ。マケダといっそに居る時間のおかげで、元から心穏やかになれていたから、と言うのもあったのかもしれない。だがやはり、それだけではなかった。神は厳しく、人間に時に冷たく当たる。しかしそれを差し置いても、やはり自分を長い間包み込んでくれた存在には違いなかったのだ、と、ソロモンは理解した。
「あなたの運命に従おう。願わくばイスラエルに……俺の治めたこの国に、一つでも多い救いがあるように」
「ソロモン。お前にはもう、全てを与えている」声は言った。「私の望みを成就させる、全てを」
それを最後に、声は途絶えた。光も徐々に消え、内陣の中は、暗闇になった。
光が消え去るまでの光景が、ソロモンの目に強く焼きついた。黄金に包まれた、聖櫃。二体の天使に守られた契約の箱が、光を反射して輝き、徐々にその光を失い、輪郭だけの存在になり、そして最後に闇に溶けて消えてしまうまでを、彼ははっきりと見た。

神殿に出たソロモンを、先ほどの預言者アヒヤが出迎えた。
「主と、お話しができたようですな」アヒヤは言った。ソロモンも「うむ」と返事した。
「主もお喜びになっておられることでしょう。あのお方は心底、イスラエルを愛しておられました」
「分かっている」
「ソロモン王。一つ、申します。ヤロブアムに、お前が王になると告げたのは私です」
ヤロブアム。その、少し懐かしい名前を聞いてソロモンも反応を見せた。それを見届け、アヒヤはゆっくりと続ける。あてつけや、当てこすりのようなものは、一切見受けられなかった。
「しかし、彼とて完璧ではありませんでした。……彼は、やはり、理想の王には、信仰の王にはなれませんでしょう」
「私の息子もあの様だ、お互い様だ」ソロモンも軽く笑い飛ばす。「それでも、主は望まれたのだろう。彼を……二つに分かたれるイスラエルの片割れの王とすることを」
「ええ」
「ならば、それが運命。どうか……奴が帰ってきた暁には、神の声を聞かせてやるがよい。それが奴にとって良い物であろうと、悪いものであろうと……いや、預言者なるものに、こんなことをわざわざ言うのも野暮な話か。……ありがとう。私はもはや、神と離れてしまった。だが、まだ神とつながるイスラエル人がいる。それを知ることができ、嬉しかった」
「こちらこそ……陛下が神を救いと思えずとも、神を憎むご様子がないようで。そしてこのイスラエルを愛していたのだと知ることができ……満足です」
ソロモンは、先ほどあったばかりのアヒヤと、まるで旧知の中のように話すことができた。たった一瞬ながら、忘れられない、奇跡のような出会いであった。
「陛下。主は定められました。……貴方のお命にも、終わりか近づいてきております。もう、お会いすることはありますまい」
「うむ。ありがとう……さらばだ。神の預言者」
ソロモンは最期にアヒヤにそう言い残し、ラバに乗って、モリヤ山を後にしていった。神から、神殿から、自分の治世の栄光の象徴から、彼は遠ざかっていった。

「マケダ様、差し出がましくはございますが……」
ソロモンが神殿へ向かう数時間前の事。マケダの侍女は、主人に向かってそう言った。相変わらず、天球儀をじっと眺めながら物思いにふける主人に。
「なんだ?」
「暗殺をなさる気が、お消えになったのではありませんか?」
マケダはそのこと番カッと目を見開き、あわてて「口を慎め!お前と言えども聞き捨て難い!」と言い返す。しかし侍女は一言「申し訳ございませんでした」と言いつつも、発言自体は決して撤回しなかった。
「しかし……言わせてくださいませ。あなた様には迷いが見えます。あなた様が足腰もたたない頃より長年お仕えしてきたこの婆やが言うのです、どうか信じてくださいませ。ここの所のあなた様は……ソロモン王と、もっと共に居たいと思われていらっしゃるような……」
「私がなぜ、そのようなことを」
「だって、貴方様は……!」
「うるさい!そんなはずがなかろう!確かに、私は……しかし、そのようなものは何の意味も持たん!私は奴を殺せと、そう言われて育ってきたのだ!私とて、それを望んで生きてきた!」
「分かりました。わたくしめは止めません。しかし……どうか、此れだけはご存じになってくださいませ、マケダ様。何が望みとなるかなど、常に、変わり得る者です。そしてこの婆やも、イスメニー陛下も……ソロモン王をその手にかける、かけざるにかかわらず……あなた様がご自身の望みのままに生きる事を、何よりも望んでおります、と」
マケダはそれを聞き、しばらく黙っていた。「分かった……いや、分かっている」と、ぼそりと言った。
「分かっているんだ……お前も、母上も、そう思ってくれていると。それは幸せなことなのであることも、分かっているんだ。ただ……私は、認めるのが怖い。考えを変えるのが怖い。もしもだ、もしも私がソロモンに何かしらの情がわいてきたというのなら……私の十四年の人生は、一体なんだったのだ。それを認めるのが、怖くてならない。それも、私の本心だ!」
マケダはここ数日、ずっと感じてきた。ソロモン王に憎しみ以外の情がわいてきたことを。
あの日、初めて部屋に呼ばれた日以来の、ソロモンから自分に向けられる態度に、ずっと温かいものを感じてきた。女として彼に近づき、暗殺を遂行せよ、と言われ育てられてきた自分にとって、女として自分を見なくなったソロモンの視線は焦るべきものであるはずだ。だというのにその視線を受け取りながら、イスラエルの栄光の王の経験と神に与えられたと歌われる治世によって築かれる非常に充実した教育を与えられることが、マケダの心を温かく染める幸福になり得てきたのである。
だから、怖い。十四年間築いてきた価値観が終わりを向かえるのが怖い。ソロモンを殺せなくなったら、自分はどうなってしまうのだろう。自分は、自分でなくなるのではないか、周りの人間が許せど、十四年間付き合ってきた自分自身は許してくれるのだろうか。それが、どうしても見えなかった。
ソロモンは憎む相手ではない、とひしひしと感じる自分自身が、恐怖の対象以外のものになり得なかった。

そして、それから数時間後、ちょうどソロモンが神殿を立った当たりの時間である。
侍女は寝ているところを、マケダに起こされた。
「どうかなさいましたか」彼女は寝起きとは言えども、可能な限りシャンとした声で答えた。
「……夜が明けたら。準備をしておけ。兵達に知らせた。万一の事態に備え、お前は一足先にエチオピアに返す。お前の出発は夕刻だ、よいな」
「マケダ様、と、言うことは……」
「ソロモン王は、明晩、私の手にかかって死ぬ」マケダは言い切った。「私とて悩みぬいた結果だ。だが……今までの努力を、そしてあの人を……裏切れはしない」
「分かりました。それが貴女様のお望みとあらば……」侍女も、まだ何か言いたい気持ちを抑えつつうなずいた。分かっていたからだ。マケダが、まだ悩んでいることも、そしてそれを推しての、苦渋の決断であったことも、これ以上覚悟が鈍らないうちに決行せねば、と思ったということも。

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feat: Solomon 第九十九話

マケダの侍女は、長い間気をもんでいた。
ここの所マケダは、ずっとソロモンが自分に手を出さないことを気にしている。彼から貰った、見事なエイラットストーンの天球儀を、暇さえあれば眺めながら、物思いにふけることが多くなった。
侍女は、幼いころからずっと自らの主人を見てきた。イスラエル王ソロモンをいつか殺せと、その念と暗殺術を叩き込まれて成長してきた様子を、ずっと。
本人も、それを望んでいるという。だが、侍女は思う。それは果たして、本心なのだろうか。
人が常に自分の本心をわかるようならば、世話はないのだ。
ソロモンがマケダを抱かないにしても、数日おきにソロモンと二人きりになるチャンスは存在している。其れなのに、マケダは踏み切らない。なぜなのであろうか。
勘ぐるのも失礼な気がする一方、侍女は確かに、心配していた。十四年目にして、このイスラエルの血で初めて変化を見せた、自分の主君を。

今日も今日とて息子たちに言葉を残し、ベナヤは王喰うにはせ参じる。だが今は、彼が真っ先に向かうもとは部下の所では無くなった。
彼は真っ先に、王子の間に向かう。王子とだれよりも親しい将軍には、取次すらも必要ない。扉を開き、カーテンを翻せば、レハブアムは寝台に寝転がっていた。
ここ数日、ずっとこうだ。病気ではないがレハブアムはすっかり落ち込み、寝込んでいる。人の顔もめったに見ようとしないし、食事も一日一回程度しか取ろうとしない。こうなったタイミングからして、その原因が何であったかなどベナヤにも見当がついた。だが、レハブアムに涙ながらに打ち明けられた内容は、ベナヤの想像以上のものであった。あれほど焦がれて憧れたエチオピア王女に、真っ向から拒絶されたということ。
最初の方こそベナヤは、誘惑されたよりはましだ、と思い込んでいた。しかし、レハブアムにとってはそれはあまりにショックであったようだ。何日も何日もこうしている彼を見るうちに、ベナヤの心の中にも、マケダをいぶかしがり憎むより先に、レハブアムを心配する気持ちの方が湧いてきた。
レハブアムにとってはそれこそ、初恋であったのだ。その相手にはっきりと、包み隠すこともなく否定され、しかも相手は自分の父のもとに向かった。大好きだった母親を殺した相手に、今度は愛した少女まで取られたのだ。ふさぎ込むのも、無理はない。
彼の気持ちは、痛い程にわかる。ソロモンには理解できぬ痛みだ、凡な人間の感情がわからないあの王には。ならば、自分が理解するほかはない。今さらになってベナヤは、レハブアムの恋を頭ごなしに否定したことを後悔していた。もっとわかってやれれば、と思っていた。
「お加減は、いかがですか。殿下」と、ベナヤはごく穏やかに声をかけた。返ってきたのは「今日も来てくれたのか……ありがとう」という一言だった。
「参ります。殿下がいて、元気に暮らしているのを見守ることが、私が王宮に仕える意味でありますから」
ベナヤは穏やかに微笑んで、はっきりとそう言った。とっくの昔に自分は、王に仕える意味を失った。レハブアムだけが、王家にこだわる意味であった。自分が心の底から愛した女性が産み落としたこの王子を、命に代えても守り通すと決めたのだ。
「ありがとう。……ベナヤは、ベナアは本当に、こんな僕に対していつも優しいよね。いつも……」
「こんな、などと申さないで下さい。殿下。私にとって……あなた以上のお方など、おりません」
ベナヤは力の抜けたレハブアムの手を取り、優しく握った。レハブアムの目が、ベナヤの目を見つめた。
「父上は、どうして、僕の大好きなものを取っていくんだろう……お母上も、あの子も」彼は呻く。「どうして僕は、あんな人の息子に生まれてきたんだろう……ベナヤの子なら、良かったのに。ベナヤが父親だったら……良かったのに」
その言葉を聞いて、ベナヤは胸がつぶれそうになった。
十七年前、この王子が生まれようとするときに、自分がどれほどまでに心を痛めていたか。王子として自分後時の血を引いた子供が生まれるのだ、と、精神をすり減らしていたか。
だがその時は、こう思う日が来るなどと夢にも思わなかった。目の前の、ソロモンの息子であるのが確実と言えるほど父親に顔はしっかりと似たレハブアムを見据え、彼はなんとかうなだれまいと心を奮い立たせた。
どれほど、良かっただろう。はい、私が貴方の父親です、と、打ち明けられる事実があったのならば、どれほどまでに、この王子の心を救えただろう。
だが、それはありえないのだ。レハブアムは明らかに、ソロモンの子供であったのだから。
「……ある方が、言われました」
会えて彼は、その男の名前を口に出さなかった。いや、自分でも、思い出したくなかったのだ。十七年前、ナアマとの関係を知られ他自分に向かって淡々とその言葉を告げた彼の名前を。レハブアムを今もこう苦しめる彼とその言葉の主が同じであると告げるなど、余りに残酷なように思えた。
「誰かの子として育てられたなら、生物学的な父親がだれであろうと、父親とされた方の子供に他ならないと……見ても分からぬ血などには、何の意味もないと」
「そう……素敵な言葉だね」
レハブアムは、それを誰が言ったかも知らずに、そう素直に笑った。
「レハブアム様。いくらでも、私に甘えてよいのです。私が、貴方の父親代わりと思って、この日まで育ててまいりました。何も……遠慮はなさらないでください。ここの所は、私までレハブアム様の心を痛めてしまったことを……私は、後悔しております」
「うん……そんなこと言わないで。僕、ベナヤにきっと内心では馬鹿にされてるなあって思っていたから、そう言われて嬉しいんだ」彼はぼそぼそと打ち明けた。
「ベナヤの言ったとおりになったからね……あの子の事を、好きになるなって」
「殿下……」
「ぼく、ベナヤの事は恨んでいないよ。大丈夫。でも……それならもう少し、甘えさせて。辛いんだ、とても……」
「はい」
ベナヤはそう言い、レハブアムの寝台に座った。レハブアムは彼にすがる。彼の胸元に、ベナヤは黙って、王子を抱きしめた。
胸に顔がうずめられ、彼の表情が見えない。レハブアムはすすり泣いていた。
「馬鹿だよね、僕は、本当に……父上になんて、何も似てないくらい、バカなんだ」
「殿下……」
「あんなことがあったのに……僕、まだあの子が好きなんだよ。忘れられないんだよ……」
震えながら必死でベナヤに取りすがり、レハブアムは泣いていた。いったい誰だ、この王子の心を踏みにじるものは。ベナヤの中に、そのような怒りがわいてきた。
レハブアムはただ、笑って生きてほしい。
その為にならば、悪魔にでも何でも、なれるような気がした。

その日はマケダの来ない夜だった。だが、明日来ることにはないっていた。
ソロモンは一人、寝台に寝転がった。嵐の前の静けさ、とはこのような状況を言うのだろうか、本当に何もかもが穏やかで、満ち足りているとは言えないまでも、満ち足りていないことに不安と焦燥を駆られることはなかった。がむしゃらに満ち足りようとするよりも、心地が良かった。
「ソロモン」と、透き通るような声で名前が呼ばれた、ベリアルが、長い脚を組みながら寝台に座って、彼の事を見下ろしていた。
「ベリアル。もう、来ないのかと思っていたぞ」
「何言ってるの?神さまの事があったから?」
「ああ」とソロモンは返したが、ベリアルはもうそれ以上は言わなかった。
「君が心配だったんだよ。幸せそうだね……良かった」
「ベリアル。お前なら、幸せの原因位掴んでいるのではないか?」
ベリアルはそれには言葉を返さず、頭を一度コクリと縦に動かすだけの返答をした。
「お前は、覚えているか?ビルキスがこのイスラエルに来ていた時……お前が、やめてくれって言ったことを」
「うん」
「今回もお前は、不愉快なんじゃないかと思っていたよ」
「もう、そんなこと、ないよ」彼は静かに言った。そして。ソロモンの額に手を乗せた。ベリアルの暖かな体温が、伝わってくるのを感じた。
「もう。良いよ……あのころはともかく、今こうなったなら……君があの子といて幸せなら、それでいいんだ。……それが、いいんだ」
「ありがとう」
ソロモンはふわふわとした温かさに抱かれながら、頭がぼうっとして眠気を感じてきた。ベリアルの柔らかい光に抱かれながら、彼は眠りに落ちた。

懐かしい夢を見た。
孤独だったころに、何回も見た夢。自分は、神殿の中にいた。心なしか自分の体までも、子供の頃に戻ってしまったかのようだった。
何故、今さらこんな夢を見るのだ折る。神の愛を断ち切られた自分が。だがそうは思いつつ、ソロモンは神殿の中を闊歩した。
懐かしい。所狭しと刻まれたシクラメンの彫刻、花瓶に刺された金細工の薔薇、規則正しくひし形の並ぶ格子窓、そびえたつ二本の大黒柱。何年も何年も、自分は、この光景に包まれて、生きながらえてきたのだった。
奥へ、奥へ。金の扉を開けると、そこには内陣がある。モーセの十戒を治めた石版を治めた聖櫃が、その奥に収められている治める儀式を見たことすらも、つい最近の昔のようだ。
ソロモンはそこに走った。そして。内陣のカーテンをめくり上げた。
ところが、だ。彼の目に入ってきた光景は、予想と違っていた。そこは、からであった。
ソロモンは気が付いた。自分が見ているのは、今現在実態を持ちモリヤ山にそびえたっている神殿の中ではないと。小さい頃の自分に何度も望んだ、神殿の光景。全てが揃っていながら……そうだ。内陣だけは、自分にそこにあるものを見せることがなかった。正確に言えば……そこには、何もなかったのだ。今、ありありと覆いだされた。あの時は、内陣は自分にその姿を見せないのだ、と思っていた。だが、違う。内陣は、空であったのだ。
その時。轟音がとどろき、神殿全体が揺れた。
炎が燃え上がる。破壊音が聞こえる。自分が設計しヒラム・アビフが作った神殿が、ガラガラと崩れた。
どこからともなく声がする。異国の言語。理解の及ばぬ声の兵隊に、神殿が略奪されていく。「やめろ!」反射的に彼は叫んだ。だが、彼らはソロモンの存在など意にも介さぬと言うばかりに、神殿を荒らしていった。
燃えさかる炎の中、ソロモンは崩れゆく神殿を見ていた。
ガタリ、と後ろで物音がした、振り返ってみると、そこに一人の男が立っていた。長い髪をした、不思議な男が。内陣の中心、聖櫃があったはずの場にたたずんでいた。
「今見ているものが、何であるか、お分かりですか」彼はそう問いかけた。
「お前か?」ソロモンは言う。「お前がやったのか?これを……」
「いいえ」彼は、即答した。
「これは、未来の話ですよ。けれどもう、決まってしまった運命です」
「なるほど……私の心が、神から離れたから、か」ソロモンは少しだけ、目線をうつむかせた。「ならば、これをやったのも、私であるということだな」
「そう言えるかもしれません」彼は静かに言う。
「安心してください。神殿など壊れようとも、三日もすれば立て直せます。このわたくしならば」
「ほう、できるのか、そんなことが……」ソロモンは自嘲気味につぶやく。「ヒラム・アビフも消えた、この世で……」
「できますとも。職人が云々と言うなら、さらに楽です。ただの物質的な問題になってまいりますから」彼は淡々と、言い含めるように言った。彼は一体だれなのだろう、そう考える気持ちは不思議と、ソロモンの中に露ほども湧いては来なかった。
「肝心なのは、信仰です。どれほど見事な神殿でも、神を信じて参る人がいなくては、ただの建物に成り下がってしまいます」
「それはなんとも、現代的と言うか……冷笑的な宗教観ではないのか?」ソロモンは問う。「人が信じようと信じまいと、神は存在するものではないのか。人が信じるから神が生まれる。と訳知り顔の異邦人がたまにのたまうが……私は、納得したことなどない」
「ええ、それで結構ですよ。神は、存在します。けれども……自分を信じもしない人間を待ちわびて神殿に居座るほどには、神は人間に全幅の親愛を寄せられないということです」
「なるほど」ソロモンは人間として、失笑してしまった。まさに、自分の犯した罪だ。
「ですから、安心してくださいと言っています。貴方によって、あなた以外の何人もの人間によって、この神殿が壊れます。だから、わたくしが立て直すのです」
「どうやって?」
「罪を、不信心を、無に帰すのですよ。この身をもって」炎の中、彼は呟いた。「それから先は、君たち次第です」
「お前が何者か知れんが……しかし、わからぬものだな。そのようなチャンスを、神が与えられているということなのか」
「ええ」彼はうなずいた。「だってあなたは……ダビデは、サウルは、不信心だけの人間では、ありませんでしたから……どんな信仰者も、罪人になる。しかし、どんな罪人も、信仰者で有り得るのですから……ですから神は、人間を見捨てられません。何度、愛想を尽かそうと……」
その時。
神殿が大きく揺れ、天井が崩れ去った。そこに視線を取られた一瞬、彼の姿は、無に消えた。
そして、ソロモンは見た。炎の中、迫りくる破壊者。彼の瞳を。自分とそっくり同じ、真紅の瞳をしていた。

そこで、ソロモンは目が覚めた。全身に冷や汗が湧いていて、寒い程だった。彼は跳ね返るように、神殿の方を見た。
燃えてはいない。当たり前の事だ。だが、ソロモンは体が止まらなかった。もはやほとんど本能的に、急いでマントに身を包み、神殿へと向かった。

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feat: Solomon 第九十八話


扉がコツコツと控えめに叩かれ、少女の声が聞こえる。ソロモンは黙って、扉を開けた。
「やあ、来てくれたのか」
「勿論です。楽しみにしておりましたとも」
「こちらへ」ソロモンはマケダを奥の方へ案内した。マケダが扉を離すと扉はバタンと音を立てて閉まり、彼らを王宮の全てから切り離した。数本の蝋燭がゆらゆらと揺れる部屋にいるのは、ソロモンとマケダ、二人のみ。
「大きな宝石と言うのは?」
「うむ……これだ」
そう言ってソロモンは、自分の机に置いてある、両手を使って持てるほどの球体に手をかける。そして、それを持ち上げた。マケダが目をまたたかせていると、ソロモンはその青緑の球体をゴロリと彼女に渡す。
「見てみなさい」
蝋燭の光でをそれを見て、マケダは驚いた。それは、見たこともないほど複雑な色合いをした青緑の意志でできた球体。それに純金で星図の模様が彫ってあり、小型の天球儀になっていた。
「これは……」その宝石のあまりの見事さに、マケダも我を忘れて息をのんだ。全く純粋に、見事と言うほかはなかった、トルコ石、孔雀石、ラピスラズリ、どんな青や緑の宝石も、それにはかなわないと言うほどに、彼女の小さな両手に支えられる天球儀は複雑微妙な色合いを持って滑らかに輝き、そしてその上に、金で貴様れた星が光っていた。
「その宝石は、エイラットストーン、と言うんだ。イスラエルの名産さ」ソロモンは、青緑に見とれるマケダを見て満足げに笑いながら、言った。「星が好きだと言っていたからね……送りたくなった」
「すばらしい……ですわ。私がこの先何年生きようと、どのような殿方が私の心を引こうとやっきになろうと……これ以上の贈り物を、これ以上の宝石を頂くことなんて、絶対に、ありませんでしょう……」
マケダも、全てを忘れて、素直にそう言った。ソロモンをおだてなければならない、と言う算段など雲散霧消してしまったかのような。全くの本心だった。
ソロモンは「ありがとう」と呟き、そしてバルコニーのカーテンを開けた。しんと静まり返ったその日は、ちょうど新月で、月の光に覆い隠されるか弱い星々も、その日だけは思う存分イスラエルの空に光り輝いていた。
「こちらに来なさい。私の部屋のバルコニーからは、星がよく見えるから」
ソロモンは燭台を一つ持ち、マケダを手招きする。彼女もついて言った。天は星に照らされていても、新月のバルコニーは真っ暗だ。バルコニーの手すりにソロモンは燭台を置き、それをマケダのいる方向に滑らせる。彼女の手元の天球儀だけが、照らされる形になった。
真っ暗闇のもとで、見つめ合うこともない。お互いの目は自然と、星空へ向かった。マケダは燭台の明かりを頼りに、ぐるぐると貰ったばかりの天球儀を動かしていた。
「私も、君と同じことを思うよ。星を見るのは、楽しい。余り星読みに興味のないイスラエルに生まれたことを、惜しく思うほどにはね。バビロニア人などは、星を読むことに非常に情熱を傾けると言うのに」
「けれど、陛下もその知識をご存じなのでしょう?」
「聞きかじり程度だ。自慢するほどには、持っていない。……謙遜ではないぞ。イスラエルの神はその昔、我々に占いを禁じたからな。もとより盛んな方ではないのだ。其れなりに知ってはいるが……それでも私も、長年イスラエル人として生きた身。星は何かを知らせるものと言うよりも……天に光輝く美しいものと、とらえてしまう」
「なるほど……でも、それもよろしいかと思いますわ」
マケダも、天球儀をしっかりと持ちつつ、ソロモンと同じように満天の星空を眺めていた。エチオピアのものとは、少し違うらしい星空を。
「美しい物の美しさがわかるのは、何よりも尊い事ですもの。それに……陛下には、この空間が、本当にお似合いになられます。陛下はまるで……夜の神の中、生まれてきて、生きてきたようなお方に思えます」
「そうか……そうかも、しれんな」
ソロモンは、手すりにおいた自分の右手を静かに握りしめた。ダビデ王家の紋章の指輪がはまった手を。
「それは、私だけの話ではない。私の父も……神によって、星に象徴された。六芒星こそが、ダビデ王家のあかしとなった」
自分がヤロブアムを消そうと、レハブアムを嫌おうと、この指輪はずっと受け継がれていくのだろう。ダビデの血が続く限り。……磔になって死ぬ男が、イスラエルに終わりを告げるまでは。
「父の事を、ずっと嫌ってきた。心の底から、軽蔑する相手だった。尊敬したことなど、一度もない。……だが、気が付けば私の……私を象徴する文様も、星の模様だった。親友が、それを考えたのだ。そしてそれを見た時……私は、不愉快に等ならなかった。実にしっくりとなじんだのだ。自分には、これがふさわしいと。……マケダ。君は、私をわかってくれるのだな。本当に……ああ、そうだよ。私は小さい時、太陽のもとに出られず、昼間外に出れば馬鹿にされてあざ笑われるから……ずっと、出歩くのは、夜だった。あのころのにとって空とは、夜空の事だった。でも、それは……父も、同じだったのかもしれない。私の及びもつかないところで、私たちは……正真正銘親子であったのかもしれないと、今、初めて思うことができた」
ソロモンも、切ない気持ちがとめどなく湧き出てきた。何とも言い難く……自分は本当に老いてきたのだ、父に近づいたのだ、と、心の底から実感できた。
神は自分たちを、星に定められた。もっとも、今ではその神の寵愛すらも、失ってしまった。何故、それなのに星空はなんら変わらずに、自分の前でも美しく輝くのだろう。彼らも神に作られたものであるというのに。
「それにしても、不思議なものだ」彼は言った。
「何故、この私が、四十二年生きてきて思いもよらなかったことが……今君には分かるのだろう」
「理由をおっしゃるのが、必要でしょうか?」
ソロモンは小さく笑った。
「いや……そんなことはない」
ビルキス、と、掛け替えのない恋人の名前を、ソロモンは心の中で呼んだ。そしてマケダの細い肩にそっと手を置き、静かに彼女を抱き寄せた。

やがて、夜が終わった。
早朝マケダの侍女は、扉を開けて現れた主人を見て、はっと息をのんだ。「マケダ様……」と、彼女は駆け寄る。あまり寝ていない様子であった。
何と声をかければいいのか、いたわりか、同情か、それとも計画の進行を祝う文句か……だが、彼女が考えあぐねている間に、マケダはぼそりと言った。
「あまり眠れていない……今から眠る。朝食はいらない」
はい、と侍女は言い返し、マケダの望むままにした。支度の済んだ寝台にマケダはそのまま寝転がり、寝息を立てて眠ってしまった。

マケダが目を覚ましたのは、昼頃だった。
「マケダ様、おはようございます」侍女はずっと、なんと言葉をかけるべきか考えていた。そして出た結論が、此れであった。
「お疲れになりましたでしょう……今は、良くお休みくださいませ……」
だが、マケダの口からその言葉に対する返答は出てこなかった。代わりに呟かれたのは「……何の、つもりだ」と言う一言だった。
それが自分に向けられた言葉だと思い、侍女はぎょっとした。だが、マケダは「勘違いするな。お前の事ではない」と目ざとくそれを見て、訂正した。
「と、おっしゃいますと……?」
「ソロモンは……私を、抱かなかった」
その言葉に、侍女も驚きのあまり、反応もできなかった。誰もが、思っていたのだ。ソロモンはマケダと肉体関係を持つために、部屋に招き入れたと。
「宝石は、しっかり渡された。本当に、私が見たこともないような代物をな……」
マケダはそう言って、ごろりと一緒も寝台に転がした天球儀を取り上げ、侍女に魅せた。昼間になっても相変わらず、この天球儀の見事さだけは損なわれない。
「ま、まあ……」
「だが、それだけだ。後は一晩中。延々と星の話をしていてな……話し込んでいるうちに、気が付いたら空が白んできていたので、返された。……まったく妙な話だろう?」
「それは、勿論……」
「何を考えている……」マケダは天球儀を膝の上で転がしながら、呟いた。
「私の考えに気がついているのか?しかしそれならば問答無用で送り返してもよいものを、何故一晩中傍においておいた。奴がわからん……抱かないのならば何のために、私を呼んだというのだ」


ソロモンも、昼過ぎに目が冷めた。
昨日の事は、ありありと思いだされる。夜だけではない、昼にレハブアムと親子喧嘩をしてから、夜に至るまでの気持ちのひとつながり全てを。
おもえば、精神的に忙しい一日だった。
昨日の昼、確かに自分の頭には相当血が昇っていた。そしてその地は、マケダを自分のものにせよ、と、問いかけていたのだ。
だが、その激情は夜の風に冷やされたのだろうか。マケダの細い肩を抱いた瞬間、目が覚めるように、その欲情が姿を消した。
この少女は、そう思う対象ではない、と。
ビルキスに生き写しで、ビルキスがそのまま小さくなったような少女。唯一無二の存在、今自分が世界で唯一愛すべき存在に、変わりはない。
だが、彼女はビルキスとは違った。ビルキス本人では、なかった。彼女は対等な女として愛する存在ではないのだ、と、彼女の肩を抱いた瞬間はっきりわかった。そこにあったのは大人の自分とは全く違う、幼い体だった。
そう言えばビルキスも、幼いころに父に愛と称した暴力を振るわれていたと聞く。彼女が立派な大人になっても、女王になっても、絶対に許さなかった害悪の一つだ。
それをなぜ、自分ができるだろう。あの愛すべき少女に。この世で何よりも大切に思った女に、生き写しの少女に。そう心の底から感じ、ソロモンはマケダの方から手を離したのだった。手のひらから彼女の体温が薄れ、穏やかな夜風に寄ってそれが奪い去られていったのをよく覚えている。そして、それでいてその瞬間は全く空し者ではあり得なかったのだ。

その日からソロモンとマケダの関係が大幅に変わったということはなかった。親密にも、疎遠にもならない。王宮はいろいろと噂をしているが、当人たちだけは、その噂など下種の勘繰りにすぎないことを知っていた。
だがソロモンは一層、マケダの教育に力を入れた。レハブアムに言い放った通りイスメニーが自分に王女を託した望み、それを全うするのが自分の使命だ、と心の底から実感することができた。たとえ神が自分を見放そうとも、神が近々自分をイスラエルの玉座から下ろそうと考えていようとも、マケダに帝王学を完璧に仕込まないことには、死んでも死にきれない。その一念が、ソロモンの心の中に大黒柱のように厳然と存在するようになった。
それが、神にも見放された自分を救ってくれたマケダへの恩返しであると、そして自分がこの少女に対してそそぐ愛の形であると、ソロモンは確信していた。肉欲一つが、愛であろうか。否。自分とビルキスは抱き合う前からも、愛し合っていたのだから。
数日お気に彼は、マケダを夜中に自室に呼んで一緒に星を見た。マケダはその度その度、いつもエイラットストーンの天球儀を携えてやってきた。星を見ながらする話は、どんな話題でも、講義でも雑談でも、昼間以上に弾んだものだった。

そのうち彼は、マアトシャレに手紙を書いた。彼が離宮の妻に、事務的な意味合いではなく手紙を書くことは、ほとんどない事であった。マアトシャレが荒れていることも、マケダに王妃の座を取られるのではないかと騒いでいることも、全部ソロモンの耳には届いていた。
マアトシャレを愛していないのは確かだ。嘘をつく気はなかった。だがそれでも、家柄のために嫁に取らされ離宮に押し込められ、いつ正妻の座を失いのかとハラハラするだけの生活を強いられるのは、確かに気の毒だと思った。
あらぬうわさは飛んでいるようだが、自分とマケダは男女の中ではない。マケダは信頼すべき盟友の娘であり将来の君主として自分の愛弟子である、との旨、そして、マケダに限らずどんな女が現れようとも、イスラエルの栄光の王ソロモンの正妻としてエジプト王女の名前以外が歴史の書に刻まれることは、この自分自身が絶対に許さない。そしてこの手紙をお前がどう扱おうとも自由である。これは王としての揺るがぬ宣言であり誓いである、と、イスラエルの神に誓って宣言した。……先方が、もう誓いの引き合いに出すことを許してくれるのかはわからないが。
今まで顔も見たくなかったマアトシャレに、何故だか、初めて悪意のない気持ちで向かい合うことができた。
そのうち、バセマトが時間を縫ってソロモンに話しかけてきた。「お母上の手紙を送ったの?」と、彼女はずいぶん率直に問うてきた。
「ああ」
「珍しいわね」
「たまには、その程度の事もせねばな」
ソロモンは娘を前にして、軽く笑った。娘はじっと、父の顔を見ていた。
「なんだかお父上様、幸せそうね」
「ああ、幸せだよ」多くを語る気はしなかった。彼は本当に率直に、即答した。
「やっぱり。あたしが見たことないくらい、さっぱりした顔をしてるわ」
ソロモンはその時はじめて、バセマトは鋭い娘だ、と思った。あまり興味を持っていなかった自分の娘に、初めて、自分譲りの聡明さを見た。
「驚いた。お前にも、お見通しだったのか」
「当たっていたようで嬉しいわ。お父上様」
そうしてソロモンとバセマトは互いに笑いあった。思えば父娘二人きりで笑いあうのも、ない事であった。
不思議なものだ。神に見放され、絶望がひたひたと歩み寄る未来が分かっているのに、ビルキスを失ってから今に至るまで、今この時が一番、穏やかで幸福な時間であるかのように思えた。

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feat: Solomon 第九十七話

「昨日、イスラエルの星空を眺めていたんです」
マケダは次ん日、ソロモンの向かってそう切り出した。
ソロモンはここの所、気分がすぐれないので人前に出る必要のある公務はザドクなどの代理に任せて、休んでいた。その際は、たいていマケダが側にいた。その時も、そうだった。
「ほう……」と、ソロモンは反応する。
「どうだね、面白いものは見れたかい?」
「私、空だけは変わらないものだと思っていたので……エチオピアを思い出したかったんです」マケダは言う。
「でも、少し違うのですね……エチオピアの空と、イスラエルの空は」
「どちらの方が、美しいと思った?」
「あら、美しさはどちらも同じですわ」マケダはさらりと返した。
「これは失敬……星が好きなのかね、マケダ」
「ええ……私は、昼より、夜の方が好きなのです」マケダはボソリと語った。
「夜って、何かに守られているような思いがして……」
「奇遇だね、私も同じだ」
星一つない夜空のような真っ黒なマントをふわりと揺らして、ソロモンはうなずいた。
この王女といて、こうしてたわいもないことを話す。今の自分にはこの程度しか、癒しがない。

昼を回り、マケダがエチオピア側の用事で一回部屋に戻ったころ、ソロモンのもとに「お父上!」とやってくる声があった。レハブアムのものだった。
レハブアムは、今朝起きてこなかったと聞く。今も、酷い熊ができていた。
「どうした?昨夜ろくに眠れなかったのか?」ソロモンはそれについて言及した。「自己管理くらい、しっかりとしろ」
「お父上、僕はそんな話をしに来たんじゃないですよ!」レハブアムは焦り気味に怒鳴る。よく見てみれば汗もかいて、息も上がっていた。ずいぶん急いでここに来たらしい。
「では、なんだ」
「その……ぼ、僕の、結婚の話なのですが」
「お前の婚約者はマアカだ、変えるつもりはない」ソロモンは間髪をいれずにそう言いかえす。レハブアムは怒ったように「ぼくの話を聞きもしないうちに、それはないでしょう!と言い返してきた。
「お父上!はっきり言います、僕は、マケダと結婚したいのです!」
その時、ソロモンは自分自身に驚いた。レハブアムが思いつめた様子で来た時点でこのようなことを言うとは分かっていたのだし、だからこそ間髪を入れずに先ほどのような返答ができた。
だから、まさにこの言葉を言われても、冷静にいられる気でいたのだ。それだと言うのに、ソロモンは損言葉を聞いた瞬間、反射的に息子をぎろりと睨みつけていた。
レハブアムが一瞬、びくりとなって、ソロモンは初めてその事実に気が付いた。
「……できると思うか、そのような事」
その事実に気が付いたところで、ソロモンはひとまず平常心に戻った。
「お前は私の跡取りだ、イスラエルに留まる必要がある。当然、妻もイスラエルに留まる者でなくてはならない。マケダは、エチオピア女王になるため、帝王学を積みにここにきているのだぞ。そんな彼女が、イスラエルに嫁入りなどできるものか」
「で、でもイスメニー様には何人もお子さんがいらっしゃるじゃありませんか!そこを何とか……」
「くどい。イスメニー殿が我々を信じて娘を任せたのだぞ。こちらの勝手な都合で裏切ろうものなら、イスラエルの信用にかかわる」
ソロモンは極力、取りつく島もないようにふるまおうとした。
「それにアブサロムの家の始末もつけねばならん、私の王子はお前一人、替えがおらんのだぞ。もう少し責任感という物を……」
「……うそ、ばっかり……」
ソロモンの声を遮るように、レハブアムは呻いた。
「なんだと?」
ソロモンも父として、威圧し返す。だが、レハブアムはもうそれでひるむ様子ではなくなっていた。
「全部うそでしょ、そんなの!父上だって、ぼくと同じだけだ!
「なに……?」と、ソロモンも言い返す。だが、彼がどうこう言う前に、とばかりに、レハブアムも必死で食いついてきた。
「父上だって、あの子を独り占めしたいだけなんじゃないですか!あの子を、僕や、他の奴に取られたくないんでしょう!後宮に妻が千人もいるくせに、まだ更に欲しいんですか!よりによって……よりによって、なんで、あの子なんですか!僕よりも年下の子ですよ!」
レハブアムは怒鳴りながら、ぽろぽろと泣いていた。劇場のあまりに。片一方のソロモンは、無論、涙など出なかった。そのようなものを流している時間も惜しいほど、息子の言葉に対してふつふつと怒りが込み上げて来ていた。
「なんで……なんで!父上は何だって持ってるでしょ!もうこれ以上はいらないじゃないですか!僕は……僕は、初めて女の子を好きになったんです!それなのに……」
「煩い!ごちゃごちゃ泣き言を垂れるな!」とうとう、ソロモンの方もレハブアムの言葉を打ち消した。彼よりもさらに大きな声を出して。
「そこまでめそめそ言うのならはっきり言ってやる、彼女はお前ごときに釣り合う程度の女性ではないわ、身の程をわきまえろ!」
ソロモンにとっては、その言葉もまぎれもなく本音であった。
あの憎いナアマが産んだということを差し置いても、自分の才覚などろくすっぽ受け継いでいない、わがままで世間知らずで、ただ子供っぽいだけのバカ息子。それと、自分を救ってくれたあの勇敢で聡明な王女が釣り合う二人だなどと、思えるはずがない。
この息子には、本当に長い間がっかりさせられてきた。あまりに出来が悪くて。それもこれもベナヤが甘やかしすぎたからだ、とずっと思ってきた。
それでも、一応自分の息子だ。唯一の王子だ。おまけに、性根を叩きなおしてやりたいと思うほどの愛着もわかない。だから、それなりに好きにはさせてきた。けれどこれだけは、此ればかりは、どうしても譲れない。マケダは、こんな箸にも棒にもかからない子供の妻などに収まる身ではない。
「お前は、彼女の何を見ている。見ているのならばそんな恥さらしなこと、思えるはずもなかろう。お前程度の男が……!」
ソロモンは赤い目で、このレハブアムよりも年下だったころは皆が嘲って来たから他人に向けられるはずもなかった赤い目で、ぎろりと息子を睨んだ。けれども、ヤロブアムは、その父の目に、恐れも嘲りもしなかった。彼にとってはただ、生まれてからずっと見てきた目でしかなかったのだから。
彼は悔しそうに、歯を食いしばっていた。
「なんですか。父上も……そんなに偉そうに言えた立場ですか?」
その言葉に、ソロモンも引き続き堪忍袋の緒が切れる。
「なんだと!?貴様、それが父親に向かって聞く口か!」
「父親らしいことなんて、僕は何もされてない!そんなことより、父上こそ恥ってものを知った方がいいんじゃないですか!?もう、若くないくせに!」
レハブアムの日とことん、ソロモンも一瞬、言葉が止まった。言われるとも思っていなかった人事だった。
「今、なんと……?」
「だってそうじゃないですか?僕より年下なんですよ、あの子……!父上とはあんまりに年が違いすぎるでしょう!そんな相手の事、好きになります!?若いぼくの方が魅力的に見えるのは、当然じゃないですか!まったく……いい年して、冗談じゃないですよ!」
ソロモンは、それにも何とか言葉を返そうとした。だがレハブアムは、もう聞きたくないとばかりに、グスグスとした涙声を残しながら、その場を急いで去っていってしまった。
今から、ベナヤのもとに行くのだ折るか。昔から、レハブアムはずっとそうだ。いつまでたっても、ベナヤに甘えている。

ソロモン自身、いざ、このような状況になって自分が動揺したことに、心の底から驚いていた。レハブアムの言ったことを、自分は否定できるだろうか。あのような罵り合いの中、どうしても認めるわけにはいかなかった。しかし、はっきりしている。彼が生まれて初めて、彼の方が理解が及んでいた。自分は、嫉妬していた。レハブアムなんぞにマケダを取られたくないと、心の底から闘争心に燃えていた。
ビルキスと共に居た時ですら、ここまでの執念に取りつかれたことはない。だが、本当に彼は、仮にも自分の実の息子の心を追ってでも、マケダが他の男の物になることを許せなかった。
マケダは、自分のものだ。
誰が、なんと言おうとも。
そのような考えが、ソロモンの脳内にこだました。
だって、そうじゃないか。例えレハブアムが、自分と全く同じような優秀な息子であったとしても、許せない。
彼は、自分ではないのだから。
十四年前、あの誰よりも美しかった、誰よりも輝いていたシバの女王ビルキスと愛し合った男では、ないのだから。
マケダとビルキスが別人だ、と言う当たり前のことが、彼の頭の中から消え失せていた。あれは、ビルキスだ。そうに違いない。ビルキスがまた、自分に会いにいてくれたのだ。
神は、自分たちを祝福しなかった。祝福されていたと思っていたのは、自分だけ。
それでも、ビルキスは自分の所に来てくれたのだ。神が望まなくとも、彼女が望んで、来てくれた。自分とビルキスが、神によって引き合わされた関係でなど、あるものか!自分たちは、ただ偶然に出会ったのだ。そしてただ偶然に出会い、狂おしいほどに惹かれあったのだ。

誰にも、渡せない。
魂の結びついた恋人、ビルキスの生まれ変わりのごときあの少女を、何故、他人に渡せる。
ビルキスは、このソロモンの妻だ。誰か望まずとも、永遠に、自分たちはともにある存在なのだ。

その日の晩餐の事だった。
自分と隣り合って夕食を食べるマケダに、ソロモンは穏やかな声で話しかけた。
「マケダ」
「はい」彼女は素直に返答する。
「今夜、私の部屋においで。君にあげたい宝石がある。きっと、君が見てきたどんな宝石より、立派なはずだ」
「まあ……!」マケダは目を輝かせた。
言葉の意味だけを捕えて無邪気に喜ぶほど、物知らずでもなかろうに。彼女は、断ることもできたはずだ。伴をつけるなり、折衷案を出すこともできたはずだ。
だが、彼女は素直に「楽しみですわ、陛下」と答えた。彼女の笑顔は、本当に美しい。十四年前も、自分の隣に、このような笑顔があったのだ。

その会話を、献酌官の一人が聞いていた。ソロモンにとっても、別に隠したいことでもなかった。
だがじわじわと、献酌官から別の献酌官へ、給仕たちへ、うわさは広がっていく。ソロモンはマケダを妻にする気だ、と言う噂と絡んで、その言葉は衝撃となるには十分な器すぎた。
どんな妻でも、どんな女でも、ソロモンは自分の寝室にだけは呼ぶことがなかったのに。
そして、決して彼の耳には聞こえなかったはずのそのひそひそとした話し声がレハブアムの耳に届くのも、時間の問題だった。
レハブアムは給仕たちの驚いたようなひそひそ声を聞く形で、父の言葉を知った。そして、同様のあまり、金の盃を倒してしまった。
白絹のクロスに、赤いぶどう酒がじわりじわりと広がり、やがて床にたれていく。自分が王宮にも治められるほどの最上質の葡萄酒であることも、自分が汚しているのが外国からも継がれた白絹であるということも、何も知ることなしに、自分自身もその絹も、ただの汚物に変えていく。
もし、血が出る形で人が死んだらこう言う風になるのかな。レハブアムは、その光景を眺めながら、そう考えた。

晩餐が終わってからマケダは、早めに侍女に湯あみの準備を指せた。侍女が「できました、どうぞ」と言うと、彼女も向って、侍女にその身を預ける。帯を解かれると、現れるのは細く柔らかい、十四歳の美少女の肉体そのもの。
昔からずっとマケダを世話してくれた、老いたエチオピア人の侍女は、マケダの体を注意深く洗い、ほぐしながら言った。
「特別な香料を用意いたしました。殿方がお好きな香りを」
「うん……その方がいい」マケダは笑う。
「ようやく、ここまでこぎつけたのだ。思った以上に、用心深い王だったが……もうそれも今夜限り。一晩過ごせば、もう、こちらの物」
「マケダ様……」
「どうした?私の事を心配しているのか」マケダは、少し曇った侍女の顔を見て、柳眉をひそめた。
「お前も、母君と同じようなことを言うのか?」
「……私も、貴方様とご事情は全く違えど……貴女様ほどの年頃に、家のために体を売ったのです。その時の事を、どうしても……」
「知っている。辛い事であったな……だが、安心しろ。私と、お前は違う。私は望んでいるのだから。この復讐を……私自身、心から……」
マケダは香料の香湯から立ち上がる。膨らんだ胸、細い腰。全て、この日のためのものと知り、磨き上げてきたもの。それは間違いなく、自分の意志であったはずだ。嫌だ、と思ったことは、一回だってないのだから。
「見ていて。もうすぐ……計画が成就するから」マケダはポツリと、その場にはいない相手に向かって呟いた。

髪をふき、着物を着せる。侍女は丹念に、ソロモン王の部屋に赴くマケダの身だしなみを整えた。
式場に向かう花嫁のように、宝石時や派手な衣装などつけない。化粧も、ごく薄くしかしない。だが、その手間暇は、花嫁を飾りたてるときのそれと、遜色ない。
新婚初夜を迎える乙女の準備を、手伝っている気分だった。
「すみました、マケダ様」
「ありがとう」彼女はそう言い、ゆらりと立ち上がった。
「おい」彼女は振り返る。「どうだ。今の私は……美しいか?」
「ええ。殿方の気持ちなど知るよりもございませんが……美しゅう、ございます」侍女は純銀を磨き上げた姿見を動かし、マケダの前においた。
「いかがですか?」
「ああ……美しいな」マケダは笑う。「本当に……これほどの娘に心惹かれぬ男など、いるまいよ。若い女が好きでさえあればな……」

夜の王宮は、しんと静まり帰っていた。マケダは、侍女もつけずに明かりを持ちながら、一段一段、王の部屋に向かう階段を上がっていく。
だが、その道中、一人の男と会った。彼の持つ光が、そのあどけない、苦労など何も知らずに育ったのであろう顔を、ぼうっとオレンジ色に照らしていた。昨夜もあったというのに、昨夜以上に、悲痛な顔。軽く震えている。寒そうな様子だ。きっと、ここでずっと待ち構えていたに違いない。
「あら、今晩は、王子様」
彼はマケダを見るなり、挨拶もせずん、取りすがるように言った。
「マケダ……ねえ、お願いだよ。父上の所に行くのは、やめた方がいいよ」
こいつはこう言うやつか、と改めてマケダは思った。気の利いたことの一つも言えない。ヤロブアムに負けず劣らず、自分に心底惚れぬいているのは本当なのだろう。だが、ヤロブアムは少なくともこんな状況で、捻った言葉の一つや二つでも言ったし、こんな死にそうな顔などせず、もっと強気に構えていたはずだ。こいつは、それすらできない。
「なぜです?」マケダは、とぼけて見せた。
「なぜって……分からないの!父上は……父上はどんな時でも!自分以外の人を自分の寝室に入れる事なんて、なかったんだ。其れなのに、君には、許すなんて……」
「私、陛下に気に入られているのね、光栄ですわ」
「そんな話じゃないよ!だから、ええっと……」
彼自身、言葉を選びかねているのだろう。ばかばかしい、なんでわかっていることをはっきりと言わないのか、マケダはそう思った。
「ねえ、お願いだから……きっと、父上は、これから君にひどいことをするよ。僕……君がそんな風になってほしくない」
「酷い事?」マケダは媚態を含みつつ笑って、黒髪をかき上げて見せた。レハブアムの心がざわめいたのが、見て取れる。本当に、単純な王子だ。自分などとは、全く違う育ち方をしてきたのだろう。
「そんなこと、されません。陛下は私に、宝石を下さるんです。若い娘は、宝石が好きなものですわ。私も、多分に漏れません」
「宝石くらい、僕がいくらでもあげるよ!」レハムアムは顔をしかめて、叫んだ。だがその必死さをあざ笑うように、マケダはどこまでも、冷静だった。
自分の計画が狂わされる、とすら思えなかった。話せば話すほど、この王子の薄っぺらさが見て取れる。
むしろこれはこれで、生きづらかったろう。
イスラエルの王、と崇められる父の唯一の後を継ぐ存在として、余りに力不足すぎる。ヤロブアムもそうだが、きっといつでも、お前がもう少し優秀なら、と言葉に時に出され、時には出されずに、言われて育ってきたことだろう。ある種では、皮肉でも何でもなく、哀れな存在だ。なぜ、ヤロブアムとレハブアム、イスラエルの神はこの二人を、それぞれあべこべの境遇に置かなかったのだろう。そうすれば、お互いもっと、生きやすかったに違いないのに。
「……王子様が持っております?王子様が、陛下以上のものをお持ちになっているわけないでしょう」
ただ、そんなことは、自分には関係ない。自分が動かすのは、計画に必要な分だけでいいのだ。レハブアムにはレハブアムの幸せがあるだろう。だが、自分には自分の計画がある。目標があり、幸せがある。こんな王子よりも、十四年間とも共に生きた自分自身、そして、自分を育ててくれた「彼」の事を重視する。ただ。それだけのこと。ごくごく、当たり前のことだ。
「なんで、そんなこと……」レハブアムは涙を必死にこらえている様子であった。
「ねえ……僕、君が好きなんだよ。君がイスラエルに来た時から、ずっと、君の事しか考えられない……」
とうとう、涙がこらえきれなくなったのだろうか、レハブアムは必死に目を開きながらも、その相貌からぽろぽろと涙をこぼした。レハブアムの眼もとは、ソロモン似だ。其れなのにその目つきは、全くと言っていいほど似ていなかった。育ち、才能、性格、それらすべてが、形だけの類似など覆い隠してしまうのだろう。
「父上のもとになんて、行かせられない。君を……」
「私の事が好きだとおっしゃいましたか、王子様?」マケダは首をか傾けて、おうむ返しに聞いた。
「うん……」
「私は、貴方の事を、好きでも何でもありません」
いずれにせよ、彼の相手をするのも疲れた。自分にはソロモンと言うターゲットがいるのだ。こんな王子など、ものの数でもない。
あちらが言葉を飾る余裕もないのなら、こちらも包み隠さず、必要なことを述べるまでだ。

レハブアムはその言葉に、目に見えてショックを受けている様であった。何も言えない様子であった。
「なんで……」彼は、呻く。「僕は、こんなに好きなのに……」
「だって、貴方といても何も面白くないんですもの」マケダははっきりと、彼に追い打ちをかけた。
「ソロモン王と話していると、違います。あの方は何でもご存じですし、いつもお話しが興味深いですわ。でもあなたは、本当に教養のなさが話せば話すほどにじみ出ます。言葉を飾る術も、話を面白くする知識も、貴方には何もございません。一緒に居ても、退屈なだけ、そう言う方と共にいるなんて、願い下げですわ」
まあ、ここまで言えば追ってはこなかろう。この王子とて、悪い所ばかりではない。それは、話していてわかった。
彼はすれていない。善良、と言っていい部類には十分入るだろう。だからこう言った自分をなおも追いかけまわしたり、逆恨みするほどの歪んだ気概も、持ち合わせている人物ではない。
レハブアムは、もう返答ができない様子であった、すすり泣く声しか聞こえない。「失礼」と言い残し、マケダは階段を上った。
「どうして」後ろから聞こえる声に、マケダは振り向かなかった。最も振り向く必要もなかったかもしれない。それは、マケダに向けられた言葉ではなかったのだから。
「どうして、父上は、いつも……」

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