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クリスマス市のグリューワイン

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美女ヘレネ 七話

ヘレネはルカの指先を眺めていた。彼は完全にヘレネの事を頭に入れないよう努めていると見えるので、ヘレネも負けじとお構いなしに彼の作業を見守り続けた。最近、彼は例の壁画の空いたスペースの作業に取り掛かった。今は下絵を描いているところだ。死んだはずのイエスが中心に立ち、何人もの人々がそれを取り囲んでいる。主の復活の絵だとペトロは語っていた。
ペトロは地下墓所を訪れたパウロと神学の解釈について議論しているところだった。ルカも絵を描く傍ら自分の解釈を挟む。ヘレネは全く話についていけなかったが、かといって地下墓所を離れる気もなかった。どうせ待っていればパウロはすぐに帰るのだ。彼は自分がローマの憲兵に監視されている身であり、自由に動ける時間は少ないと語っていた。ペトロもそうだが、彼らがなぜこうもこそこそしているのか、ヘレネには分からなかった。ペトロ達の教えが特別に悪いものだとは思えない。神の存在と、人が幸福になる道を説く、ごく普通の宗教だとヘレネは感じていた。
あの一件以来、ペトロは前より自分に深く関わろうとするところが少ないように思えた。ヘレネにはそれがショックだった。前同様自分に講義をしてくれるものの、どことなく彼の態度は控えめになっていた。自分が彼にとって非道徳的なことをしているからだとヘレネは感じていた。また、ペトロを慰めることができなかったのも彼女にとってはショックだった。ヘレネは今でも、羊の断末魔を忘れることができない。シモンは白いドレスに身を包み、青い薔薇の冠をかぶった自分を人類をいつくしみ救う万能の母神と言うが、実際の自分は何も救えない。情けなく思えた。
ふと、一通り話し終えたか、時間が来たかといった理由でそそくさと帰りかけたパウロと誰かの足音がすれ違ったのが分かった。現れたのは四人のキリスト者の美しい女性だった。四人は優雅な身のこなしでペトロのもとに向かうと、彼に跪いた。彼は「そんな事をしないことだ。おれも人間だ。神の前では同じ存在だ」と、彼自身も膝をついて目線を四人に合わせつつ彼女達を諭す。ヘレネはせっかくパウロが帰ったのに、またしても彼をとられてしまったような面白くない気分だった。
「ペトロ様」と四人のうちの一人が口を開いた。「お言葉通り、私達、四人でローマから逃げることにしましたの。今日は、お別れを申しに来ました」
ペトロはその言葉に耳を傾けると。「そうか、それは大きな決断だ。よくぞ勇気を出したね」と穏やかに語りかけた。
「ええ。もうそれしか道はないんですもの。……逃げない限り、あの方の欲望に私達が抗うすべ等ありません。あの方は私達を無理に棄教させようとなさるんですわ。どうしても連れ戻そうとしますの。ただ、自分が私達を抱きたいだけなのに」
「人間は罪深く、欲望に抗い難い生き物だ」ペトロは呟く。「しかし、だからこそそのことを自覚し、清貧な暮らしをしなければいけない。そのような中で君達が若く、美しい女の身で生きるのは非常に大変なことだろう。しかし君達、おれ達の教えを守り清貧を是としてくれ。神様が君達をお守りくださる。君達こそは祝福された天の花嫁なのだ」
彼女達はキリスト者として、しばしばここに来ていた。彼女達も他と同様ヘレネを避けはしていたが、非常に目立つ四人なのでヘレネのほうはよく覚えていた。彼女達はもと娼婦で、ネロに仕える一人の高官に囲われている愛人達ということだった。ヘレネがペトロにたしなめられたあの行為を、彼女達は改宗して以来キッチリとつつしんでいるとのことで、キリスト者の間では一つの模範のように見られていた。ヘレネもまた、彼女達のその度胸に一種の関心を抱いていた。自分はシモンに求められれば応じてしまう。拒否したのは結局あの日一回だけだった。シモンに抱かれるのはただひたすら痛くてつらいものの、彼女は彼を拒否することができなかった。
ただ、彼女達も彼女達をかこっているその高官の不興を多大に買っているらしかった。彼女達は高官に抱かれることを避けるために彼から与えられた家を離れ共同生活を営んでいたということだが、最近その隠れ家もばれてしまったらしい。そして、しょっちゅうキリスト教の教えを棄てるように迫られているとペトロに相談していた。その彼女達が今日、いよいよ大きな決断に出たということだった。
ヘレネはペトロに一礼して去っていく彼女達の後姿をじっと見つめた。非常に大きな姿に思えた。


シモンがヘレネを久しぶりに連れ出したのはその二日後の事だった。久しぶりに来る王宮は、ヘレネにとって気の重い空間だった。シモンは彼女の心が沈んでいるのを察しはしたらしいが、それで何をしてくれるわけでもなく、彼女がめまいを感じると軽く小突いたりするのみだった。ヘレネは黙って、そのたびその勢いでずれてしまった青い薔薇の冠を正すことを繰り返した。
会食の席で、ネロはシモンに話を持ちかけた。
「ところで、シモン」
「なんです」
「キリスト者どもの件でお前に頼みたいことがある」
「はい、なんなりと」
ネロはパンを食べながら、彼のそばにいる一人の長官を指さし、「お前から話すがよい」と言った。
「どのような御用ですか、アグリッパ殿」
「私の妾どもの話は聞いているでしょう。ええ、異教徒の男にまんまと誑かされて私のもとを離れた者どもの事です……」
シモンとネロが会話をしている間、ヘレネはずっと押し黙っていた。宮殿の雰囲気が怖い。壁も床も、全てあの子羊の血で真っ赤に染まっているように思えた。食事の匂いがひどく鼻につく。吐き気がする。何も口に入れられない。ネロのそばに座るアグリッパが時たまこちらを舐めるように見ていた。視線に耐えられない。彼が自分に欲情しているのだと分かった。何もアグリッパだけではない。この場にいる護衛兵達もだ。吐き気が強くなる。今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい。ヘレネは目を伏せ、しきりに荒い息を隠した。地下墓所に行きたいと思った。地下墓所のひんやりとした空気を、穏やかなペトロの声を、壁一面に描かれたルカの壁画を彼女は思い出して何とか平生を保っていた。
シモンがふと、ヘレネを隠すように彼女に手を添えた。目線は相変わらずネロへ向けたままではあるが。彼はネロとアグリッパにに「承知しました。私にお任せください」と得意げに言った。ヘレネはシモンにしがみつく。誰かのそばにいないと、死んでしまいそうだった。会食が終わるまで、彼女は地獄の底にいるような気分だった。

「どうした。具合でも悪いのか」とシモンが言ってくれたのは、会食が終わってからだった。ヘレネは無言で首を縦に振った。
「すぐに帰りたいか?」
「はい」ヘレネは息を切らしながらそう言った。
シモンは少し困ったような顔をすると、「まあ、よかろう」と言って、不意に口笛を吹いた。すると、どこからかやってきた野良犬が四匹、シモンのもとに集まる。シモンは呪文の言葉を唱えてその四匹を座らせると、「おれの代わりに奴らを探し出せ。良いな」と吐き捨て、ヘレネを連れてさっさと住居に向けて踵を返した。シモンのことを優しいと感じたのは久しぶりだ、とヘレネは感じた。
シモンは最近、本当にネロの宮殿に行ってばかりで、夜以外ろくに顔を合わせてはいない。彼は最近は毎日忙しいので少々疲れているようだったが、それでもローマに来た時ほど荒れているようには見えなかった。ヘレネは少し熱に浮かされたような気分で、夕日に照らされたシモンを眺めていた。
「シモンさま」と彼女は呼び掛け、彼に寄りかかった。寄りかからないと倒れてしまいそうな気分だった。
ひどく眠気を感じた。シモンが「どうした」と振り返ったが、答えられなかった。

気が付くと、ヘレネは寝台の上にいた。どうやら眠ってしまっていたらしい。とっくに夜になっていて、シモンが隣で寝ていた。どうやって住居にたどりついたのか全く覚えていない。ひょっとしたら、あの宮殿を出た時にすでに眠りについてしまっていたのかもしれない。
最近、体調が悪い、と彼女は実感していた。そういえばしばらく月のものが来ていない。何か自分の体が変わっていくような恐怖を彼女は感じていた。自分は女神に戻りつつあるのだろうか、とふと彼女は思いついた。
至高神たるシモンは女神たる自分を助けに来たのだといつも演説の中で語っていた。ならば、彼の自分に対する救済が始まっているということだろうか。しかし、救済にこれ程の苦痛を伴うのならばそれも一長一短だと思った。
女神に戻ったら、自分は何をすればいいのだろうか。世界はすでに出来上がっているのだし、第一自分はもうすっかり女神としてやるべきことを忘れてしまっている。それもすべて、シモンが教えてくれるのだろうか。だが、今のシモンは忙しく、あまり自分には構わない。それなのにいつ教える時間があるのだろうか。ヘレネは夜空を見上げた。空は澄んでいて、星がたくさん出ていた。
彼女は窓から庭に降りた。夜風が吹き付け、ヘレネのつやつやした髪をふわりと揺らした。彼女は一本立った木の下に腰かけると、まだ残る気持ちの悪さを解消しようと深呼吸をした。
ふと、植込みが揺れた。
「だれ?」
ヘレネの頭にはふと、羊の姿が浮かんだ。植え込みをかき分けて、小さな姿が現れる。ヘレネはぴょこんとそこから例の子羊が出てくると確信し、彼を抱きしめようと手を伸ばして駆け寄った。
しかし、鳴き声を上げて現れたのは羊ではなかった。一匹の犬だった。だがヘレネが手をひっこめる前に彼は喜んでその中に飛び込み、無邪気にじゃれついてきた。ヘレネも羊でなかったのには落胆したが、それでも犬がはしゃいでくれることを少し嬉しく思って、彼の頭を撫でた。
彼に続いて、三匹、他の犬が入ってきた。彼らは窓辺に向かって鳴き声を上げた。シモンを呼んでいるようだった。ヘレネと遊んでいた犬も急に真面目な表情になり、彼女の腕を離れてその中に加わった。
やがて、シモンが起きてきた。彼は犬より早く庭にいるヘレネを見つけて「なんだ、起きてたのか。もう調子はいいのか」と尋ねた。
「はい」
「それはよかった。大事にしろよ」
彼は犬に目線を移し、「見つかったのか。それで、アグリッパのところに連れて行ったんだろうな」と念を押すようなきつい口調で言った。彼らは得意げにワンワンと吠えた。
「それはご苦労だった。もう帰ってもいいぞ」とシモンが言うと、さっそく四匹とも大急ぎで植え込みを抜けて消え去っていく。あとには、ヘレネが一人残された。
「ヘレネ」
シモンの声がいつもとは違う、優しい声に聞こえた。
「冷えるぞ。こっちに来て寝ろ」
彼は窓から手を差し伸べた。ヘレネはその手を取って、窓辺に這い上がる。
犬の遠吠えの声が聞こえる。満足そうに吠えていた。
「久しぶりに出て、疲れたのか?」シモンは言った。
「安心しろ。お前が王宮が嫌なら、もう二度とついてくるようには言わん。お前はずっとここにいろ。誰にも会わなくていい」
シモンはヘレネの頭を撫でた。
「シモンさま」
ヘレネが口を開く。「あたし、うつくしい?」
「お前はだれよりも美しいよ。出会った時から、変わりはしない」
シモンがヘレネにキスをする。ヘレネも、彼に抱きついた。


後日、ヘレネはシモンのいない間に散歩に出かけた。気分の悪いのは大分おさまっていたので、地下墓所を訪れるつもりだった。
ルカの壁画に沿う形で行われていたペトロの講義も最近いよいよ大詰めになってきて、もうすぐ終わるというところだった。ヘレネはふと、終わってしまったら自分はペトロと何を話せばいいのかと考えたが、その時はその時でどうにかなるだろう、とも考えた。
ふと、往来に例のシモンが操っていた野良犬を見つけた。ヘレネが彼に口笛を吹くと、彼も喜んで彼女にじゃれついてきた。
「くすぐったいわ」彼女は笑った。犬は嬉しそうに吠えた。ヘレネがひとしきり彼と遊んだあと、立ち上がって地下墓所に行こうとしても、彼はヘレネの服の裾を噛んで離さなかった。どこかに連れて行こうとしている様だった。
「あたしに、ついてきてほしいの?」彼女がかがんでで話しかけると、犬はその通りだ、とでもいいたい様に大きく声を張り上げた。ヘレネもつい楽しくなって、喜ばしげに走る彼を追いかけて路地裏に入っていった。
ふと、宮殿で感じるような不快感が襲ってきた。これはなんだろうか?犬は全く意に介さない様子で先を走る。ヘレネはためらったが、犬が残念そうな顔をするのでそれでも彼を追いかけ続けた。悪臭の原因がやがて分かってきた。何かがこの先で腐っている匂いだ。
犬が立ち止って、得意げにワンと泣いた。ほめてくれとでもいいたげに、彼はヘレネの足元に縋り付いた。ヘレネは目を疑った。路地裏に転がっていたのは、全裸の女性の死体だった。
全部で四人いた。四人とも、股から血を流して死んでいた。凌辱されて殺されたのだろうとヘレネは理解できた。それ以外は違っていた。思い思いに、違った方法で彼女達は殺されていた。
いや、共通していることがもう一つあった、彼女達の表情はみんな、穏やかそうに微笑んでいた。この世の何も見つめてはいないような目で、彼女達は死んでいた。彼女達の顔は、あのキリスト者の四人組だった。自分をかこった長官から逃げようとしていた、あの四人だった。
ヘレネは今までにない吐き気を感じた。我慢しきれずに、その場で嘔吐する。最近はめっきり食欲がなく、何も食べてはいないのでほとんど胃液しか出てこなかった。強い酸を通した喉が焼けるように痛い。それでも彼女は嘔吐することをやめられなかった。動悸が激しくなり、息が上がる。目の前で起こっていることを理解できない。犬が不安そうにクンクン泣いていても、彼に構うことができなかった。


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