クリスマス市のグリューワイン

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美女ヘレネ 九話

自分がつながれているのを知った時、ヘレネはさほど驚かなかった。シモンはそれくらいの事はする男だ。ヘレネにはきちんと分かっていた。
ベッドは彼女が寝ている間に青い薔薇で埋め尽くされていた。もはや、寝る部分がほとんどない。青い薔薇の茂みで眠るのとなんら変わらなかった。青い薔薇の茂みの間に彼女がいるようなものだ。
こうなってしまっては、ヘレネには何もすることがない。彼女はもう一度寝た。目が覚めても、眠るつもりだった。夢の中のほうがまだ何かをやれるような気がした。しかし、思いとは裏腹に彼女は寝つけなかった。以前よりもひどい体調不良を感じる。眠るどころではない。眠たいのに眠れない。ふと、彼女は体の中の声と会話してみることを試みた。
「もしもし、いきてる?」彼女は言った。「うん、いきてるよ」と声が答えた。
「あたしねえ、そとにでられなくなっちゃった」
「そうなんだ。ぼくもずっとここからでられないかもしれないんだ」
「あら。でも、いつかでられるわよ」
「そうかな」
「そうよ」
「じゃあ、だいじょうぶだね」
そこまで非常にスムーズに話が進んだのでヘレネは喜んだが、よくよく考えれば彼とあと他に話すこともなかった。結局、彼女は黙り込んだ。そんなヘレネを察してか、彼も黙り込んだ。

午後が回ったころに、来客が来た音をヘレネは聞きつけた。メナンドロスが必死に彼と話し合っていた。ヘレネ自身の名前が出たのを聞いたのをきっかけに、ヘレネは非常に注意深く聞き耳を立てた。自分に面会したがっている人物がいるようだった。
数十分は話し込んでいただろうか。メナンドロスはついに根負けしたと見えて「では、こちらです。どうぞ。シモン様がお帰りになる前に、手短にお願い致します」と彼に言ったのが聞こえた。ヘレネはあわててそ知らぬふりをした。
「ヘレネ様」メナンドロスの声が聞こえた。「ネロ帝にお仕えしている家庭教師のセネカ様が貴女にお会いしたいと」
ネロの名前を聞いてヘレネは一瞬すくんだが、すぐに平生は取り戻した。聞いた限りの声では、そのセネカとやらはそう用心するべき人物にも思えなかった。いいと言うと扉があいて出てきたのは、まさに声を聴いて思い描いていた通りの、白い髪とひげを蓄えた上品で優しげな老人だった。後ろに、マントをかぶった従者を一人連れていた。

「あなたがヘレネさんですね」セネカはにっこり笑ってそう言った。「お初にお目にかかります。皇帝ネロの師、セネカと申します」
「ヘレネです、よろしく」ヘレネはごく素朴な挨拶をした。
「きれいなお嬢さんだ。その名前をもらったのも分かりますよ」
セネカは友好的に微笑んだ。ネロのような美しさもなかったが、同時に恐ろしさもなかった。
「シモンさまは、いま、いません」ヘレネは言った。
「はい、大丈夫ですよ。彼ではなく、貴方に用事があってきたのです」
「そうですか。どんなですか?」
ヘレネのその声を聴くや、彼の後ろに控えていたマントの従者がマントをゆっくりと取った。
「つまり、セネカ殿は私を君のところまで連れてきてくれたというわけだよ」と言いながら現れたのは、パウロだった。

唐突に表れたパウロに戸惑うヘレネを見て「すまない、驚かせてしまったかな」とパウロは申し訳なさそうに言った。「このセネカ殿と私は友人なんだ。信ずる神こそ違うが、私の書に光栄にも感銘を受けてくださったことがあって以来、付き合いがあってね。……ああ、それはさておき。ペトロの奴から、どうしても君のところに行ってやってくれと言われたんだ」
「ペトロ!?」ヘレネはその言葉に反応した。「ペトロ、どうしたの!?」
「まず始めに言っておかなければならないことがある。私達はペトロをローマから逃したんだ。あの一件があった日の、夕方に」
パウロはヘレネに畳み掛けるように、早口でそう言い切った。
ヘレネはパウロの言葉がじんわりと自分の耳に浸透していくのを感じた。ペトロがいない。このローマに。もうすでに。
「なんで?」ヘレネは反射的にそう呟いた。
「彼は我々にとってなくてはならない人物だ」パウロはヘレネに言い聞かすように語った。
「我が主イエス・キリストの一番の直弟子、生きている彼の姿を覚え知る数少ない人物、それだけでも十分に私達には彼を守る義務がある。彼は殺されるのだ。このままだと殺される。たとえ、そのばかばかしい勝負の行方がどうなろうとも、彼はこれ以上生きては行けるまい」
パウロは遠い目つきでそう言い聞かせた。
ヘレネは今度こそ気が動転した。「なんで!?」と彼女は叫ぶような声で言った。「ペトロはかならずころされるって、なんで!?」
それに続く形で、セネカがゆっくりとした口調で彼女に話した。
「ヘレネさん。キリスト者がなぜ、地下墓所にいるか、ご存知ですか」
「いいえ」彼女は素直に返答した。
「キリスト者はないものであることが求められているのです」セネカはさびしそうな顔で言った。「ローマは多神教の国です。皇帝を神としています。それこそがローマの政治体制です。だから、ローマ以外の神を信じないばかりか、唯一の神の前に人類はみんな平等と説くキリスト教は嫌われます。それは、ご存知ですね」
「はい、知っています」ヘレネは地下墓所で聞いたネロの言葉がセネカの言葉に重なると思った。
「もともと、我々は宗教には寛容なほうです。しかし、キリスト者だけは別なのですよ。この国においてすべての事は、多神教の概念によって成り立っています。公式行事も、軍隊も、娯楽も、全て。他の宗教の者はそこまでそれらに反対はしません。彼らも多神教であることに変わりはありませんから。しかし、キリスト者の皆さんだけは頑として参加しません。いいえ。できないのですよ。彼らだけは多神教ではないのですからね。そういった集団の行く先は、孤立です。そして孤立した集団に与えられるのは、強烈な糾弾です。だから彼らには地下に掘った墓所にしか居場所がないんですよ。明かりの当たる場所では、祈れないのです」
セネカの優しい語り方は、実にするするとヘレネの頭の中に入っていくものだった。なるほど、セネカは優れた教師であると彼女にも分かった。
「迫害には理由が付けられます。皇帝の侮辱だとか、女達を誑かして夫のもとから離れさせただとか、いろいろな理由がね。……しかしね。ヘレネさん。私は分かっているのですよ。私もローマ人ですからね。私達がキリスト者を迫害している理由など一つしかありません。恐怖です」
セネカは目を伏せて自嘲気味に語った。
「唯一の神、という概念は非常に奇異なものです。私達にとっては万物には神があるものですから。全てが所詮同じ神に作られたにすぎない存在、など全く荒唐無稽と私達は笑い飛ばすことができます。しかし、笑い飛ばしても意に介さず信仰を変えない者がいる。こちらが村八分にすれば、されたもの同士で集まって励ましあうものがいる。日の当たるところから追い出せば、地下で祈りをする者がいる。分からせてやろうと暴力をふるえば、改宗して許しを請うよりも、神に殉ずる形での死を選び、それを幸せと考えるものがいる。……そこまでするほどに彼らを縋り付かせているものも、圧倒的な恐怖でも、物質的な見返りでもなく、ただ素朴な愛と救済の教えです。超人的な英雄ではなく、悲惨な十字架刑にかかってあっさりと死んだ男が語った。……恐怖せずにいられますか。人はたかだか愛の教えとあるかどうかも分からない天国への道のために全てを棄てられるのかと。そのために迫害されようとも、反撃はおろか喜んで死にさえするものかと。そしてその不条理を解明できるただ一つの合理的な理由があるとすれば、もうあと一つしか残っていません。……他とは格の違う、正真正銘の神の言葉であるからこそだ、と考えるしか。だから私達は怖いのですよ。神の前に我らの無力さを思い知らされるその瞬間、神の教えの前に自分達が築いてきた全てを打ち砕かれる瞬間を今にも突きつけられそうな気がして、怖いのです」
セネカの口調は相変わらずゆっくりと落ち着いていたが、それでも話しながらセネカ自身もその恐怖を少なからず感じていることがよく分かった。
ペトロがどうしてあんな地下にずっと寝泊まりしていたのか、パウロがなぜ「監視」され続けているのか、ヘレネの中でようやくすべてが繋がった。なんてことはないのだ。彼らは迫害されていたのだ。自分が思うように、ごく当たり前の宗教としての扱いは受けていなかったのだ。
ヘレネの心がちくりと痛んだ。自分はペトロの事を何も知らなかった。自分が思うよりずっと、彼は苦しかったのだろう。自分がいないところでも何回も、泣いていたのだろう。と考えた。

「その恐怖は当然、リーダーであるペトロに向く」パウロは話を元に戻した。
「ペトロは死ぬことを望まれているのだ。そのために逮捕のとっかかりが必要だった。ただ、信者を扇動して暴動でも起こせばまだ楽なものを、一向にそのようなものは起こさない。我々の教義からすれば当然の話だがね。そこで結局ネロが思いついたことが、シモンを利用することだったんだ」
シモンの名前が出て、ヘレネはピクリと反応した。心なしか、お腹の声も「シモンだって。なんでだろうね」と呟いた。
「シモンがペトロを殺してくれればむろんそれが一番いい。彼を憎み、恐れるローマ人達はそれを見て一気に溜飲を下げるだろう。だが、もしも彼がシモンに勝ってしまえば……それもまた、いい。シモンにもまた強烈な信者達が付いている。自らの神たるシモンを失った彼らのたっての願いということにして、ペトロを処刑してしまえばいいのだから。どちらにせよ、ペトロを殺す適当な理由になる。その気で、ネロはペトロにあのようなことを言ったのだ」
全てに納得がいった。
ペトロにとって、もはやローマは死に場所以外のどこでもなくなってしまったのだ。パウロはそのことを瞬時に理解して、すぐにペトロを旅立たせたに違いなかった。
「ペトロ、たすかるのね?」ヘレネは震える声で言った。
「助かるとも。彼には主の加護があるさ。彼が死ぬときは、主がそう定められた時だけだ」パウロは冷静に返した後、少し表情を崩して言った。
「奴は普段は抑えてるが、少し感情的なところがあるからな、放っておいたら意地を張りかねない。だから、これでよかったんだ。私達はやっていけるさ。何の問題もない。離れていても、私達は彼の無事を祈り続ける。詐欺師と呼ばれても構うものか。神の本質は奇術ではない。私達は本当の神を確信している。これからも変わらず、それを信じ続けるのみだ。それよりも、そんな下らんことで大切な兄弟が無駄に命を失うことの方が、よっぽど大ごとだ」
「ペトロのこと、たいせつにしてるのね」ヘレネは少し微笑んでそう言った、
「ああ」
パウロはもっと表情を崩した。はっきりといえば、笑った。彼の笑顔を見るのはヘレネは初めてだった。
「彼の過去を知っているかい?」パウロがゆっくりと切り出した。「彼はね、主、イエス・キリストが捕縛された晩、自分の身に火の粉が降りかかるのを恐れて、自分と主の関係を自ら否定したんだそうだ。三回もだ。自分可愛さに、主を裏切ったんだ。彼はその話を何回もした。私に向かってもした。そのことに一番苦しんでいるのは、彼自身だった。だが、主は彼を許された。彼の罪を許された。彼は、今自分が生きているのはそのおかげだといつも言っている。だから、ずっと頑張ってきたんだ。もう二度と裏切らないように。私はそんな彼に敬意を持っている」
ヘレネは静かに耳を傾けていた。ペトロが自分の師を裏切ったという話は、彼自身の口からは聞かなかった。おそらく、話せば彼は泣き出してしまっただろう。しかし、さほどショックでもなかった。彼の涙や彼の孤独、彼の師への感情、そして彼の信心の、その理由が明らかになった喜びの方が大きかった。ペトロもまた、神の放蕩息子達の一人だったのだとヘレネは理解した。
「私は彼を愛しているよ。息子のようにすら思っている。彼はよくやってくれた。重すぎる責任感を、ひとりで担っていたんだ。時にはやりきれなくなったことも何度かあったろうね。それでも彼はがんばった、神の愛のために。私達は、彼が運命のままに生きることを望むよ。きっと遠い土地でも、彼は神の使徒として、主に身を捧げ続けるだろう」
ヘレネは自分の心の中が温かくなるのを感じた。ペトロは死なない。ペトロはこの先も生き続けるのだ。そう思うだけで、幸せだった。

「ペトロは君に、絶対に自分がいなくなったことを話してほしいと言っていた。彼は君の事を、本当に気にかけていたよ」パウロが薄くだが、笑った表情を崩さずに言い、ヘレネと柱をつなぐ縄をそっと持った。
「これが解けたら、いつでも私達のところに来てくれて構わない。君が洗礼を受けていない以上、私達もすっかり慣れるのには時間がいるだろうが、それでも、君もペトロの残した意志の一つなのだから」
「うん、そうします」ヘレネは答えた。


ほどなくして、セネカとパウロは帰ろうとした。パウロがマントを羽織りなおす。
あの、とヘレネはセネカに声をかけた、一つ、唐突に彼に聞きたいことが頭に浮かんだ。
「なんでしょうか?」
「セネカさん、はキリストきょうをしんじては、ないんですよね」
「ええ、私はローマの宗教を信じていますから」
「じゃ、パウロさんのいうことも、うそだっておもってるんですか?」
「いいえ、思っていませんよ」セネカははっきりと言い切った。「彼の書は驚くほど、真理をついていると思いました。彼の教えに私は敬意を払いますし、またおそらくこの世で一番真実に近いと信じています。だからこそ、友人づきあいができるわけですしね」
釈然としなさそうなヘレネを前に、セネカは優しく微笑みながら、パウロには聞こえない程度の小さい声でこっそりと続けた。
「でもね、体に染みついた文化がそう簡単に取れない人もいるのですよ。私のように。改宗をする気にはならない人がね。でも、私はそれでもいいと思っています。わたしはパウロの神を否定しませんが、死ぬときにはマルスの信徒として死ぬでしょう。でも、それでかまわないと思っています。我ながらあきれるほどの矛盾ですが、しかしそれが世界というものでしょう。そして、それこそが神の作ったものでしょう」


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