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クリスマス市のグリューワイン

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美女ヘレネ 十話

明日で、ネロの指定してきた例の日になる。ネロの館に出かける前に、シモンは相変わらずつながれたままのヘレネにこう言った。
「ヘレネ、明日は一緒に連れて行ってやろう」
彼は勝ち誇ったように笑っていた。ヘレネは何も言い返さなかった。明日になっても、ペトロは来ない。彼はどこか遠いところにいるのだ。その事実をシモンは知らないし、ネロも知らない。シモンは彼が来ると確信しているようだった。彼の頭の中にはペトロを殺してやることしかないのだろうとヘレネには分かっていた。ヘレネはただ「いってらっしゃい」とだけ言って彼を見送った。
「いっちゃったね」体の中の声が呟いた。
「これで、ゆうがたまでゆっくりできるね」
「ええ」
ヘレネは、今までで一番穏やかな気分だった。全てが、うまく進んでいるように思えた。
「ペトロはげんきかしら?」
「げんきだとおもうよ。でも、もしもしんぱいだったら、かれのためにおいのりしてあげると、いいんじゃないかな」
「おいのりかあ」ヘレネはその言葉を聞いて、地下墓所での祈りの言葉に注意深く耳を傾けていなかった自分に後悔した。「あたし、しらないのよね。ペトロたちのつかうおいのり」
「じゃ、じぶんなりでいいんじゃない」ヘレネの悩みを一蹴するかのように彼が言った。「ちゃんとしたのは、あとからおぼえればいいんだから」
「そうね」
ヘレネは考えた。ふと、以前の事が思い出された。
彼に何より必要なのは、亡くなってしまった師そのものなのだ。裏切った自分を許してくれた神の子と再び会うことなのだ。もしももう一度会えさえすれば、ペトロはこれ以上なく喜ぶだろう。
「かみのこどもさん」
ヘレネは小声で祈った。
「ペトロのところに、きてあげてください。きっと、いままでにないくらい、さびしがっています。きてあげてください。そして、なにをするべきか、おしえてあげてください。おねがいします」
祈りながら、ヘレネは心が温かくなるのを感じた。柔らかい毛布に包まれているような心地よさがあった。ふと、眠気が襲ってきて、ヘレネはそのまま寝台に倒れこんですやすやと眠り始めた。心地よいものだった。まだ午後にもなっていないのに、たっぷり動いた日の夜よりも、素晴らしい眠りだった。

夢の中で、ヘレネは白い世界にいた。前に例の羊とともにいた世界だ。彼女は羊の名前を呼んだ。
メエと聞き覚えのある声がして、懐かしい子羊が彼女の前に現れた。彼女は驚きと喜びで、泣きながら羊を抱きしめた。彼は嬉しそうにヘレネにじゃれついた。
彼女達は歩き始めた。この前と同じように、ただ白いだけで何もない世界を歩き始めた。何もないのに、全てがそこにあるかのようにヘレネは思えた。
ヘレネはふと、いつの間にか自分が抱きかかえているものに気が付いた。彼女は赤ん坊を抱いていた。白い衣に包まれた赤ん坊だ。彼は真ん丸な目でヘレネのほうを見ると、「きれいなせかいだね」と言った。ヘレネも「そうね」と返した。羊もうれしそうに甲高く泣いた。
なおも三人歩き続けていると、もういくら歩いたかも分からないとなったころ、視界にもう一人の人物が見えた。彼には見覚えがあった。
青と黄色ではなく、真っ白なチュニックとマントに身を包んだペトロがそこにいた。彼はヘレネ達を見るとにっこりと笑った。
「ずいぶん歩いただろう」ペトロが優しく言った。「どこを目指しているんだ?」
「それが、わからないの」ヘレネも笑って答えた。
「いっしょに、あるいてくれない?」
「ああ、もちろん」
ヘレネは、赤ん坊を片手で抱きなおし、もう片方の手をペトロのほうに差し出した。彼はそれを、貴婦人を相手にするように丁重に、しかししっかりと握り返してくれた。


目が覚めると、すでに日も傾きかけていた。何時間寝ていたのか分からない。昼食も食べていないが、空腹感はなかった。
日差しが非常に明るい。熱さを感じるほどだ。窓から見える庭が光に満ちていた。夢の続きを見ているような気分をヘレネは味わった。
自分が着ているのは白くはない部屋着のままだし、羊もいない。赤ん坊も抱いてはいない。そしてペトロもいないのに、と彼女はなんとなくおかしく思って笑い、庭に近づいた。その次の瞬間、自分のその考えが間違っていたことが分かった。
「やあ、ヘレネ」と言う声が聞こえた。優しい声だ。目の前には、ペトロが立っていた。彼は強い日差しを受けて、体中、真っ白に輝いているように思えた。

「ペトロなの?」
ヘレネは面喰って、恐る恐るそう言った。
「ああ、おれだよ」
彼は戸惑うヘレネに、穏やかに微笑みかけて見せた。
「どうして!?ローマからにげたはずじゃない」
「そうなんだ。逃げたんだが、戻ってきてしまってな」
彼は例の日に犬にかまれた方の腕に包帯をしていた。包帯の上からも血と膿がにじんでいてヘレネがそこを心配そうに見つめると、ペトロは「大丈夫さ、安心してくれ」と小さく返した。
「聞いてくれないか。ヘレネ。不思議なことが起こったんだよ。おれの身に」ペトロは窓辺に肘をついて話し始めた。
「おれはローマから逃げていたんだ。ローマから反対方向へ向かう道に。まる一日以上、ただ逃げようとして、歩き続けていたんだ。そうしたらな、向かいから人が歩いてきたんだ。ローマの方向に向かっていた。まっすぐ、よどみなくローマに向かって歩いていたんだ。おれは……目を疑ったよ。信じられないかもしれないがね、ヘレネ。その人は、主だったんだ。天の国に帰られたはずの……おれの先生だったんだ。イエス・キリストだったんだ」
彼の表情は、ヘレネが今まで見てきたどんな人のどんな表情よりも、幸福そうだった。究極の幸福を受けた人はこのような顔をするのだろうとヘレネには思えた。笑顔なのかどうかすらも、もはやよく分からなかった。ただ一つ確実なのが、ペトロは、幸福そうだった。
「おれはあわてて問いかけたんだ。『主よ、どこに行かれるのですか』とね。そうしたら、あの人は……あの人は、少しも変わらない、おれの記憶通りの懐かしい声で、あの声で……おれに優しく言ったんだ。『私はローマに行って、もう一度十字架に上がるのです』と。あの人の両手には、釘の跡があった。おれが『主よ、あなたがもう一度、十字架にかけられるとおっしゃるのですか』と聞き返したら、あの人は笑って……まったく、昔通りの微笑み方で、『そうですとも。私がかけられるのです』と言って、そのまま、またローマに歩いて行った。その後姿を見て……おれの中で何もかもがはじけたような気分だったよ。おれは泣いた。泣きながらあの人の後を追いかけた。おれは……もう二度と、あの人を一人で死なせたくはなかったんだ。今度こそ、何があっても、あの人と運命を共にしたかったんだ。なぜか走っても走っても、全く距離が縮まらなかった。あの人はゆっくり歩いているだけなのに。走りすぎて息が荒くなったし、泣くのは全くやめられなかった。それで、息を切らしながらおれはこう言ったんだ。『おれも死にます!おれも帰ります、貴方と一緒に十字架にかけられます!』と……何回も途切れながら、必死でこう言ったんだ。言いおわった時、おれはいつの間にか、先生に追いついていた。先生は泣きじゃくるおれを優しく撫でてくれて……一緒に、ローマに向かって歩いてくれたんだ。気が付いたときには、ローマの市門に着いていた。先生はそこで、おれに向かってにっこり笑って、静かに天に昇って行かれたんだ」
長く、長くペトロは語った。語り終えると彼は満足そうに、空を見上げた。
「おれの運命は、こうだったんだ。ローマで殉教することが、あの人がおれに下された運命なんだ。ヘレネ、パウロが君に話しただろうから、知っているだろう。おれは死ぬよ。でも、何も怖くはない。覚悟はできている。おれはあの人を裏切った。でも、今度こそ、おれはあの人のために命を投げ出す。あの人のために、神の御業を示す。ここに来る前、地下墓所でみんなにも話したんだ。みんな、分かってくれたよ。パウロも、分かってくれた。それが神の定める運命なら、と……。おれは、ろくでもない弟子だったよ。あの人の行う奇跡にばかり目をとられていた。ただ目に見えるものしか見てはいなかった。あの人が本当に言いたかったこと、行いたかったこと、何もかも分かってはいなかったんだ。でも、あの人はおれを許された。誰もかれも、許された。だから、今度こそおれは、あの人の決めた運命に従うよ」
ヘレネも彼と一緒に空を見上げた。地上同様に、空も光に満ちていた。雲も、空も、輝いて見えた。
「ねえ、あなたのせんせいがいいたかったこと、おしえてよ」ヘレネは笑った。
「うん、いいよ」ペトロは、初めて会った時と同じ、生気に満ちた目で彼女に向かい合った。
「あの人は、人類の罪を贖いたかったんだ。人間が積み重ねた罪を、あの人はすべて一人で贖うために、神の子でありながら人間になって、十字架上で刑罰をうけられたんだ。……あの日、十字架にかかるべきだったのは、人類全員だったんだ。あの人は、それを、たった一人で受けられた。愛想を尽かすこともできたはずだ。人間はそんなに可愛げのある存在でもなかったはずだ。……それでも、あの人は、そして天の父は、その計画を実行された」
「やさしいのね」ヘレネは呟いた。「そうだよ」とペトロは彼女の声にしみこむような声で言った。
「おれ達の言うことを荒唐無稽と言うやつもいる。……でも、おれは、嬉しいんだ。そうして、救われたことが嬉しい。そして、そこまでの愛を、自分に、自分達に、この世の何もかもに持ってくれていた神が、存在することが嬉しい」
ペトロは鍵のネックレスをいとおしげに撫でた。
「ヘレネ……おれは今、幸せだ」
「うん、わかるわ」

風が吹き付けて、ペトロのマントを揺らした。心なしか、風さえも輝いているように思えた。二人とも、また空を見つめていた。
「ペトロ、あたしね」
「なんだい?」
「おいのりしてたの。じつは」
二人とも空を見上げたまま、目すら合わせない会話だった。
「あなたがさびしいだろうから、あなたのせんせいに、あなたにあいにきてください、って……」
その言葉を聞いて、ペトロが小さく声をあげて笑った。そして、透き通るような穏やかな声で「ありがとう」と言った。

しばらくの間、彼らはそこにいた。ようやく日の光が白から赤に変わってきたころ、一つ、君に謝っておかなくてはならないことがある、と、ペトロのほうが先に口を開いた。
「シモンの事だが」
「シモンさま、どうかしたの?」
「あいつは、おそらく死ぬ」
ペトロがヘレネの方を振り返って、ぴしゃりと言った。真剣な顔立ちだった。
「あいつの魔術は、悪霊の力だ。あいつ自身は気付いていないのかもしれんが、あいつは悪霊に取り込まれている。もうおそらく、救ってやることもできない」悔しそうに、ぺトロは呟いた。「シモンは明日、おれに敗れて死ぬだろう」
ヘレネは驚かなかった。驚かず、悲しそうな顔で「そう」と返した。
「万が一、おれが敗れたとしても」ペトロは言葉をつづけた。「あいつは死ぬよ。ただ、数日寿命が延びるだけの事だ」
日は少しずつ落ちてきている。オレンジ色が、どんどん真紅に変わっていく。庭の青い薔薇も、夕日の色を受けて、少しだけ赤い色を取り戻しているかのようだった。
「おれが消えれば、次にネロの標的になるのは……おそらく、シモンだ。このローマで、おれ達の教えの次に皇帝の邪魔になりやすいと言えば、シモンの教えだ。あいつの教えもまた、皇帝の主張にはなじまない。あいつがなぜネロに取り入ることができたか分かるか?セネカさんがパウロに話してくれていたよ。……おれ達を排除させるのに使うにはちょうど良かったから、だと。ネロにとってシモンは体のいいコマにすぎないんだ。今は放っておかれても、いずれこのまま大きくなれば、あいつはそれこそ自らの教えを持って皇帝の座を脅かす。ネロはその前に、シモンを殺す気だよ。……本当のところ、ネロが一番望む明日の結末は、おれがシモンに勝利して、おれも奴も、両方死んでしまうことかも知れない」
ヘレネはその言葉を聞いて、うつむいた。ペトロはそんな彼女に、言った。
「ヘレネ。君があの日、ネロに語った言葉を覚えているかい。ローマは変わらない、世界もこのままだ、と……あの君を見て、あの時の君の微笑みを見て、おれは、君の中に聖霊の光を感じたよ」
彼は窓辺に置かれたヘレネの手に、そっと自分の手を重ねた。
「ルカがあの絵を完成させたんだ。おれが出発した次の日に、出来たらしい。主の復活の場面だ。……ぜひとも、君に見に来てほしい」
「うん、みるね。ぜったい」
ペトロの手は冷たかった。硬くて、傷だらけだった。ヘレネは自分のもう一つの手も、彼の手に重ねた。彼の手を、温めるかのようだった。

ふと、足音を聞きつけたヘレネは「ペトロ、シモンさま、かえってきた」と小声で言った。
「すぐに、かえって」
「わ、分かった」
ペトロは手をひっこめると、マントを正した。
「ヘレネ」
そして、もう一度、ヘレネを見つめた。
「さようなら」
「さようなら、ペトロ」
彼はその言葉を聞いて、静かにその場から立ち去って行った。すぐに姿は掻き消えてしまった。



シモンは帰ってくるなり、何も言わずにヘレネをつないでいる縄を切り、食事の席に連れて行った。食事の席にはいつも通り、シモンとヘレネの二人しかいなかった。
シモンは彼女に葡萄酒を勧めた。彼女はそれを飲み干した。
「お前は、ずいぶんいやそうな顔をするな」
彼は帰ってきてから初めて口を開いた。
「ぶどうしゅは、きらい。とくにさいきんは」
「じゃ、なんで飲んだ」
「のめっていったのは、シモンさまですよ」
それで終わったまま、会話が続かなかった。
ヘレネは、数日間食べてない分を取り戻そうとするように、よく食べた。シモンのほうがそんな彼女を見つめているばかりで、ろくに食べようとはしなかった。

食事が終わり部屋に帰った後、ヘレネはポツリと「シモンさま」と言った。
「なんだ?」
「みて、すごく、ほしが、きれいです」
そんな言葉はあっさり一蹴されるかと思ったが、シモンは意外にも素直に自分も窓辺までやってきて、夜空を眺めた。しかし帰ってきたのは「そうでもないじゃないか」という一言だった。
「大体、雲がかなり出ているじゃないか。もっと晴れていないと、きれいな星空とは言えない」
「それでも、きれいなんです」
ヘレネは目を合わせないまま「あしたですね」と言った。
「ああ」
シモンはヘレネを睨みつけて、言った。「ヘレネ、明日が奴の命日になるのが、悲しいか?」
「ペトロの?」
「そうだ」
シモンは得意げに続けた。
「お前が守ったあいつは明日死ぬ。おれの手で、お前の目の前でな。おれの、真実絶対の神の力によって。ネロの馬鹿皇帝もますますおれの力を畏れるだろうさ。ローマの愚民共もそうだ。おれの教えはますます広がる、お前を女神と崇める者ももっと増えるぞ。そうとも、おれこそが大能だ。おれにできんことはない。おれこそが絶対の神だ」
ヘレネは、星から目を離して彼の表情を見た。彼は、信じ切っていた。何もかも、信じ切っていた。明日、彼はペトロを殺すということも、ネロは本当に自分を畏れ、重用しているのだということも、自分こそは真の神の力を使うものだとも、信じ切っていた。
知恵の足りない自分ですら知っていることを、この目の前の男は知らない。知らないまま、無邪気に信じている。ヘレネは彼が哀れに思えた。ペトロが死ぬなら、彼もまた死ぬのに、この男は自分だけは百年でも千年でも生きられると確信している。自分がネロに、悪霊に振り回されていることも知らずに、自分が彼らを振り回している気でいる。ヘレネは泣いた。シモンはその涙を見て、何も言わずに短く笑った。
「ヘレネ。ただの娼婦から、誰にも崇められる女神となれることが、うれしくはないのか」
彼はヘレネに問いかけた。ヘレネは口を開いた。口は錘でもつけているように重々しかったが、ヘレネはそれを持ち上げた。
「わたし、きょうのひる、ゆめをみたんです」
「夢?」
「そう。ゆめ」
シモンは全く脈絡のない彼女の発言に、戸惑ったような顔をした。ヘレネは続けた。
「まっしろなせかいを、あたしがあるいてた。ひつじさんがいっしょだったの。あのひつじさん。ペトロもいっしょだった。あと、もうひとり、おとこのこもいっしょだったの。でも、あなたはいなかった。あなたは、そこにはいなかった。わたしたちはずっと、ずっとあるいていたけど、でもそこにあなたは、いつまでたっても、あらわれなかった」
「それはどういう意味だ」
言い終わったヘレネに向かって、シモンは震える声で問いかけた。
「しらない。でも、あなたはいなかった」
ヘレネは細い指で涙をぬぐうと、シモンの目を見つめて見った。
「シモンさま、あした、ネロのところには、いかないで」
彼女はシモンに縋り付いた。縋り付いて、か細い声で言った。
「いかないで、いくとあなた、しんじゃうのよ」
「おれが死ぬだって?」
「そう、しんじゃうの」

次の瞬間、ヘレネは目の前が真っ白になるほどの激痛に襲われた。シモンが彼女の腹を力いっぱいなぐりつけたのだ。
「おれが死ぬ?おれが負けるって言うのか?」
彼の声も、拳も、怒りにわなわなとふるえていた。ヘレネは痛みに意識が飛びそうだった。
「よくもそんなことが言えたものだな。まさか本当に自分が女神だと信じ込んでいるんでもあるまいし……この娼婦風情が!おれが助けてやらなけりゃ、野垂れ死にしていたくせに!」
それが、彼の言葉か、とヘレネは思った。
彼に青い薔薇をもらった時、彼に娼館から連れ出してもらった時、自分は、本当に嬉しかった。その時の気持ちを思い出していた。
ヘレネは床に倒れたたまま、泣き出した。ペトロが言ったとおりだ。シモンは救えない。彼は死ぬのだ。死ぬようになっているのだ。自分の体以上に、自尊心が痛んだ。そしてそれ以上に、自分がシモンに対して保とうとしてきた敬意が全て崩れ去っていくのが、痛くて痛くてたまらなかった。彼女は泣いた。泣き疲れて眠るまで泣いた。シモンは立ったまま、じっとそれを見届けていた。

夜中に、ヘレネは声を聴いた。自分が起きているのか寝ているのか、夢の中なのかそうですらないのか、よく分からなかった。声は、体の中の声だった。
「こんばんは」彼は言った。「ひどいことするね。あのひと」
ヘレネは、彼に体さえあれば今にも彼に縋り付いて泣きたい気分だった。だが、彼は声だけの存在で、そんなものはないのだ。
「あのひとのこと、きらい?」
「そうだね、きらいかな」彼ははっきり言った。「だって、いたいことばっかりするんだもんね。……ちょっと、かなしくなっちゃうよ。あんなひとが、ぼくのとうさんだなんて」
ヘレネは「やっぱり、あなたって」と返した。
「うん。きみと、あのひとのこども。きみのなかにいるんだ」
彼は感慨深そうに言った。
「ねえ、そとのせかいって、みんなあんなひとばっかりなの?」
「ううん。やさしいひとは、いっぱいいるわ。それに、きれいなものも、いっぱいあるわ」
「そうなんだ、いいなあ」彼は夢見がちに呟いた。「ぼくもあいたい。みたいな」
「うまれてきて。うまれてくれば、あえるわよ」
ヘレネは胸の締め付けられるような思いで、そう言った。ふと、彼が涙を流したのが分かった。どうして泣いているのかとヘレネが問いかけようとした矢先、彼のほうが先に口を開いた。
「……ごめん。できないんだ」
どうして!?と彼女は金切声をあげた。叫びすぎて、もう言葉にもなっていなかったかのように思えた。涙の音がまた聞こえた。彼の声も、泣きじゃくったような声になってきていた。
「だって。ぼく、しぬんだもの。もうなんにちも、いきられないよ」
ヘレネは、自分の体が打ち震えているのが分かった。心臓が早鐘を打つ。息が荒くなった。体の隅々が痛めつけられた。そして何より、どことも分からないところが、握りつぶされるかのような凄まじい圧迫感と痛みに襲われた。ほどなくして、それが勢いよくはじけ、体中の節々に至るまで、それの破片がべちゃりと飛び散った。
「なんで、しぬの?」
やっと出した声で、彼女は言った。
「あのひとが、なぐるから」彼の声も震えていた。「ずっと、いきようとしてたんだ。でも、もうだめみたい。あのひと、きみのおなかごしに、ぼくをちょくせつなぐったから。ぼく、いたいんだ。くるしいんだ。ぼく、わかるの。もうしんじゃうよ。たぶん、まるいちにちもいきられないよ。ごめんね。うまれてこれなくて、ごめんね。ごめんね。ごめんね……」
彼は泣きながらそう言っていた。ヘレネは自分のお腹を抱いた。「あなたのせいじゃないわ。あなたは、なにもわるくないわ」
「ごめんね。ごめんね……」
「あなたのせいじゃない……」
ヘレネの涙が、彼女の胴を伝って、お腹を流れていった。それが、皮膚に吸い込まれるように彼女には感じられた。
「ぼく、いきてるから。きっと、きみがこのよる、いちばんさびしいよね」
彼は泣きながら、必死でそう続けた。
「だから、いきてるから、つぎのよるになるまでは、いきてるから。きみのそばに、いるから……」
そのまま、何時間も、ヘレネは声と一緒に泣きあっていた。ずっとずっと、二人で泣きあっていた。


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