FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

feat: Judith 第六 話


「何よ」とミルツァは呻いた。
「何よ、何よ、信じられない……」
彼女も奴隷として、切り捨てられた二人の兵士の死体の片付けにあたらされていたのだ。そばには、メロダクも一緒だった。
メロダクは、何も言わずに、地に転がった泥だらけの生首を取り上げた。しかし、その顔色が真っ青で、手はガタガタと震えていたのをミルツァは見逃さなかった。彼女は、彼に同情した。


天幕の中に閉じこもりながら、ホロフェルネスは昔の事を考えていた。一生分の涙を、自分は流しきってしまったのではないか、と思うほど、ベトリアを追い出された自分は泣いた。母親はそんな彼を責めなかった。「ごめんね、ごめんね、私のせいで。貴方は何も悪くないのに」彼の母は、どんなに彼が泣いても取り乱すことなく、彼を抱きしめてそう言った。彼にとって、唯一の救いは、母の声と体温であった。一袋分だけ水とパンを渡されて、日の照りつける砂漠を、彼らは当てもなくさまよった。何日も、何日も。
砂漠を行く遊牧民を見つけた時、自分たちはどれだけ嬉しかったことか。数日ぶりに口に入れる水が、どれだけ美味しかったことか。そして、その幸せゆえに、その「代償」を要求された時、どれほど、絶望したことか。
たった一袋の水で、自分たち親子は、一生彼らの奴隷にならなくてはならなかったのだ。かわるがわる母は犯された。何日も、何日も。昼間のうちは重労働をさせられ、夜も眠る時間すら与えられなかった。危険な旅路に妻を連れていくことができず、体だけは屈強な遊牧民たちは皆性欲を持て余していたのだ。母が月経の時も全くお構いなしに彼らは血まみれになった母を蹂躙した。ホロフェルネスも、その端麗な容姿のため、全く母と同じような目になったのだ。そして、そんな日々の間も、母は常にホロフェルネスの事を心配していた。なく涙もなくなった彼は、つらさを伝える手段などもはや持てなくなり、遊牧民の男たちはそんな彼を「素直になった」と褒めた。しかし、そうなっても、唯一母だけは、ホロフェルネスの心が悲鳴を上げる瞬間がわかったのだ。その度彼女は彼を抱きしめ「つらいわね。ごめんなさい。ごめんなさい」と言った。
「あなたを生んでしまって、本当に、ごめんなさい。アッシリア人の子などに生まれなければ、こんな目にもあわなかったのに」
ある夜、いつもと同じようにそう言われた次の瞬間、母はいつも通り遊牧民に手を引かれていった。そして、二度と、もうその言葉はかけてもらえなかった。母は、とうとう体の限界が来て、自分を人とも思わなかった遊牧民の男の腕の中でこと切れたのだ。彼が今思い出しても腹が立つのは、彼らはそれでも、何日間か母の死体を犯していたことだ。
ある夜、彼は数人の遊牧民の寝首をかいた。そして、ラクダの一匹に乗って、砂漠の中を逃げた。足も残りやすい砂漠だ。彼らの仲間たちに追いつかれ、殺されるか、今までにもまして侮辱を受ける可能性は十分にあった。しかし、彼はそれでも構わなかったのだ。母の命を侮辱した者たちに一矢でも報いなければと、彼の心にあったのはそれだけだった。
奇跡的に、逃亡は成功した。
一人きりで、町が見えるまで逃げた。惨めな生活を、何年も味わった。もう、自分の心の悲鳴を聞き続けてくれる母親も失った彼は、ただひたすら抜け殻のように、その後十年以上、ただ生きる事だけはやめなかった。

あれがいつの事だったかも覚えていない。ただ、彼は空腹で倒れていた。その時に、一人の男が手を差し伸べたのだ。そうだ、その時から自分の人生は、また変わった。


ベトリアの包囲網は今日も動かない。が、バビロニア軍の士気は落ちていると言えた。将軍が、兵士二人の公開処刑が行ったこととそれは、無論のこと直結していた。


「奥様に乱暴しようとした罪、っていうのならわかるわ。私だって、そこは憎いもの。こうして死体になっても、許せやしない」ミルツァは言った。
「でも……でも、そうじゃないのね。あの将軍は、乱暴の罪以前い奥様の事も、自分の仲間の事も、みんな一様にネブカドネザルの道具としてしか見ていないんだわ」
「……そうですね」彼女のそばに居たメロダクも言う。
「いくらなんでも……こんなの、耐えられない!」
メロダクが彼女の言葉に怪訝そうに反応した時、彼女はもう立ち上がって、端って言った。「あっ、ミルツァさん!」とメロダクもあわてて彼女を追いかけたが、すばしっこいミルツァにはなかなか追いつけなかった。


「ホロフェルネス!」
甲高い、幼い声が外からした。一人になりたくて護衛すらも遠ざけたから、おそらくここまで楽に彼女は来れたのだろう。
彼に声の主は分かった。追い返しても、無視してもいい。だが、彼は何とはなしに彼女と話す気分になった。ユダヤ人に言ってやりたいことなんて、履いて捨てるほどある。それに、奴隷のくせにのこのこと将軍のところまでやってくるその身の程知らずな正義感がいっそ滑稽でもあった。
「入れ」彼は紫布のベッドに寝転んだまま、天幕の外に向かって言った。声の主が自分が自分の方から出てこないことに不満なのが見て取れた、ホロフェルネスは、つくづく女奴隷のくせに姫様気取りで高慢ちきな輩だと思った。
「(ユダヤ人は選民意識が高いからな。自分の国では奴隷であっても、他の民族の王女にも当たると思っている良い証拠だ)」彼はそう思って、自分は一歩も動かなかった。
やがて、中に入ってきたミルツァに、ホロフェルネスは「さっそく報告事項を言うが良い」と言った。
「報告じゃないわ」
「言葉遣いが悪いな。お前たちは奴隷だということを忘れたのか?」
「私は奥様以外の誰にも仕えない。貴方の奴隷になんてなった覚えはないわ」
ミルツァは彼を睨みつけて言う。彼は「馬鹿につける薬はここにはない。今一度、お前のその態度を許そう。何を言いにいた」と言ってのけた。
「単刀直入に言うわ。貴方が供した仕打ち、人間としておかしい……どうにかしてるわよ」
「ほう?お前のように『奥様』に忠誠を誓う娘なら、主君たるネブカドネザル様に忠誠を誓う俺の気持ちも理解できると思っていたが」
「できるわけないでしょ!?」ミルツァは言った。
「あなたの部下よ!」
「お前はお前の郷里の人間がお前の奥様を犯したら、そいつらを無罪放免するのか?」
「馬鹿言わないで、私たちがそんなことするはずないでしょ!」
「ああ、悪い悪い!そうだったな、仮にそんなことが起こっても、お前の奥様は許すか。天使のような慈悲の心で」
ホロフェルネスが嘲笑吸うように笑ったことが、一層ミルツァの癪に障った。
「私たちは、同胞をあんな無残に切り捨てたりはしないわよ!」
「モーセは?モーセは味方のユダヤ人を虐殺したのではないのか?」
「あれとこれとは違うでしょ!?モーセが殺したのは偶像崇拝に走った人たちよ!今回の話とは関係ないわ!勘違いしないで!私はね、奥様が犯された男たちが憎くない訳じゃないの!貴方が、その男たちも、奥様の事も、人間として見てないことに腹を立てているのよ!」
ミルツァがそうまくしたてる。
「ネブカドネザル様、ネブカドネザル様……ネブカドネザル様のためなら、バビロニア人でも、ユダヤ人でも、人間らしくあることをやめろってあなたは言っている」
「ああそうだ。だって、そうあるべきじゃないか」さらりと、こともなげにホロフェルネスは言ってのけた。「あの方こそ、生ける神に相応しい」
「神様はただおひとりよ!」
「ああ、それがネブカドネザル様だ」
全く自分の話を聞く様子のない自分にミルツァが業を煮やしている様子が、彼にはわかった。わかって、彼はいっそうそれを面白がった。
「貴方、ネブカドネザル様が死ねって言ったら死ぬのね!」
「当たり前の話じゃないか?あのお方に人生を否定され、なぜ生きる価値がある」
淡々と語る彼の表情は、ミルツァの眼に異質なものであると映った。
先ほど、彼はユディトに対する自分の忠誠心と、王に対する自分の忠誠心を重ねて言った。だが、違う、と彼女は思った。重ねられるようなものではない。無論のこと、自分もユディトに仕えて以来、誰よりも美しく優しい女主人に命を差し出してもよいという思いで仕えてきた。だが、それでも違う。何が違うのか、彼女自身にもよく分からなかった。だが、ホロフェルネスの忠誠は間違いなくただの忠誠を超えた狂信的なものであると、全く素面のまま、当たり前のように話す彼の口調から見て取れたのだ。
きっと彼は、反省などしない。自らの口からユディトを奴隷呼ばわりしたことはもちろん、自らの兵士を命乞いを無視して切り捨て、そのせいで軍の士気を下げたことも。
「……哀れな人」
ミルツァの心に生まれた言葉が、ポロリと彼女の口からこぼれ出た。
「その王様の事ばっかりで、自分ってものがありはしないなんて、本当……哀れな人」
彼は彼女のその言葉を聞いて、薄く笑った。
「自分ねぇ。それを殺したのは、お前たちベトリアの民だからな」
「知らないわよ。そんなの。私が生まれる前の事じゃない」ミルツァは彼をきっと睨んで言い返す。
「ベトリアを解放しなさいよ。いつまでも恨んでいないで」
「駄目だね」
「何よ、貴女を不幸にした都市を、そんなに許せない……?」
「当たり前だ」
ミルツァは、だんだん自分を抑えられなくなってきた。それはおそらく、決して傲慢ではなく、彼女が持つユダヤへの誇りと神への信仰神、愛国心のためであったのだ。
「私だって……私だって、親の顔、見たことがないわよ。でも奥様に拾われて、侍女として、今、私は幸せだってはっきり言い切れるわ。奥様の事は尊敬している。あの方のためなら何をしてもいいわよ。でも、自分だけは、自分だけは見失ったことはないわ」
彼女は一息数と、とびきり刺のある声で言った。彼女は、交渉をしよう、という気ではなかった。ただひたすら、言わないと彼女の義憤が許さなかったのだ。
「恨みがましく、そんなこと引きずって、馬鹿みたい。貴方は今こうして将軍として、宝石で飾った天幕の中で紫布のベッドに寝転べるような立派な身分になれているのに、それに幸せも見出さないで、自分を見失って、そのくせ私たちの前ではこれ見よがしに不幸を見せびらかして見せて、ほんと呆れちゃうわ。馬鹿みたい。前を向きなさいよ。子供みたいね。全く、いい年して、甘えてばっかりだわ」
ミルツァはホロフェルネスを嘲笑するように、そう言った。彼が自分を嘲笑したように、自分も彼を嘲笑して見せたのだ。
だが、少しして、それがあまりにもいきすぎだったということを彼女は知った。ホロフェルネスは彼女の言葉を聞くや、みるみるうちに険しい表情になったのだ。
「……幸せ?前を向けだと?俺が、不幸を、見せびらかしている……だと?」
ミルツァは慌てて嘲笑の表情を引っ込めた。だが、時すでに遅かった。ホロフェルネスは憤怒の形相で彼女の頭をつかみ、「ふざけるなよ!」と地面に思いっきり叩きつけた。そして、何度も何度も同じように叩きつけながら、彼は怒鳴り散らした。
「母さんと俺が、何をした!普通に生きていただけだ!普通に畑を耕し、家畜の世話をしていただけだ!お前らはそんな俺たちを働き者だと言っていたはずだ!なのになぜ、何故、生まれが違うと言うだけで、その正義も悪になり得たのだ!見せびらかしたくなどあるものか!あんな過去、ないにこしたことがあるものか!いえ、ユダヤ人!俺たちの罪はなんだ!アッシリア人に生まれたことか!そうだろうな、それ以外、俺たちは何もしていない!アッシリアが罪か、ユダヤが正義か!?ユダヤの何が正義だ!生きれもしない女と子供を裁くに放り出すことの何が正義だ!いもしない神に選ばれたと鼻高々になりやがって、お前らこそ自分を甘やかしているじゃないか、この偽善者ども!幸せになれだと!?俺から幸せを奪ったのはお前達だ!お前たちが天使の崇めるユディトは、命惜しさに俺を見捨てた悪魔だ!アッシリアにとってはな!お前たちはただの偽善者だ!偽善者、偽善者!」
その時、人が入ってきた。メロダクだった。
「ミルツァさん!」
メロダクの叫びを聞いて、ホロフェルネスはようやく彼女の顔面を地面にたたきつけるのをやめて、彼の方を向いた。彼女は顔中だらけではれ上がり、鼻から血が出ていた。
「酷いけがだ……」と言いかけたメロダクから、ミルツァは目をそむけた。ホロフェルネスは何か言おうとする彼に言った。
「この娘をつまみ出せ」
メロダクのもとに彼女を蹴ると、彼は後、何も言わずにまたベッドに寝そべってしまった。メロダクは承諾するしかなかった。


「良かった。出血はしているけど、鼻は折れていないようですね」メロダクは彼女を介抱しながら言った。ミルツァは何も言わなかった。
「……実は、聞いていました、天幕の外から」沈黙ののち、メロダクはぼそりとそう言った。
「え?」
「ミルツァさん……将軍とベトリアの間に、何があったんですか?」
彼は神妙な表情だった。ミルツァも、聞かれていたからには話さないわけにもいかなかった。彼女は、ユディトから聞いた全てを彼に話し、終わるころには日が暮れようとしていた。
全てを聞き終えて、メロダクは頭を抱えた。
「なるほど……将軍がここまでベトリア討伐に燃えるのも、わけがあったのか」
「あの……私達」
「ミルツァさん。何も言う必要はないですよ」彼は言った。「こんなことで、貴方達を見下したりしません。将軍や将軍のお母様は本当にお気の毒でしたけれど、それでも、あの人も少し、やりすぎなところはありますよ」
彼は非常に穏やかにそう言って、包帯を巻いたみるつぁの頬を慰めるように優しくなでた。
「平和的に解決できれば、それが、どれほどいい事か……」
彼はそう、しみじみと言った。ミルツァは彼のその優しい言葉に、涙を流した。涙の塩気が、顔の傷にしみこんでひりひりした。

「ミルツァ!?」
そこに、ユディトがやって来た。話を聞いて来たらしい。
「まあ、メロダクくん……手当をしてくれたの?ありがとう」
「いえ……」
ミルツァが何を言う暇もなく、ユディトは彼女を抱きしめた。
「よしよし、つらかったでしょう?ごめんなさいね、何もしてあげられなくて……」
「良いんです……いいんです、奥様……」
ユディトに抱かれながら、ミルツァはますます泣いた。三日目の夕日が暮れようとしていた。

スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する