クリスマス市のグリューワイン

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feat: Judith 第八話


宦官になってから何年だろうか。その間、自分はずっと穏やかな気分で過ごしてきた。妻や息子夫婦が死んだときは悲しみに満たされもした。しかし、憤怒だけは感じることがなかった穏やかに悲しみ、穏やかに楽しみ、それこそがバゴアスの人生であった。
彼は、数十年ぶりに、心の底から熱い感情を感じた。彼は、ホロフェルネスに途方もない怒りを感じたのだ。
殺してやりたい。孫のように。
平和を愛する老人の心に、今まで思ったこともないような感情が、その時、確かに湧き上がったのだ。


ユディトはショックのあまり泣くしかできなかった。つい、数時間前の事だ。数時間前、泣きじゃくる自分を抱きしめ、そして自分に対する愛の言葉をつぶやいてくれた少年が、確かにこの世には存在していた。なのに、それはもうこの世にいない。彼は痛々しい、真っ赤な人型の物質にしかならなかった。立った、数時間の間に。
むごたらしい。この光景を直視できない。ユディトの体から、何か、全てが抜け落ちてしまったような感覚だった。
彼女は、全てをあきらめてしまおう、とその時初めて思った。ベトリアの天使と言う彼女の立場も、あの鞭に引き裂かれ、崩れ落ちてしまったのだ。彼女には、それがはっきりわかった。
彼は言っていた。ネブカドネザルと、そして自分の母を侮辱したのだと。メロダクが彼に何を言ったのかはわからない。ただ、彼にとって、自分の母とネブカドネザルはそこまでに重要な存在だったのだ。乱暴をされた自分の侍女と、そして殺された少年の二人を見て、彼女は、彼の心は自分ごときでは絶対に変えられない、と絶望した。もっと早いうちにわかったじゃないか。と彼女は自分のあまりに楽観的な性格を責めた。そして、ホロフェルネスの恨みのほどに思いをはせた。最初から、許されなかったのだ。許してもらうことなど。自分たちは、彼にそれほどの事をしたのだ。今あらためて、それが心にしみた。どうすればいいのだおる。どうすることもできない。ベトリアは負けるしかないのだ。ベトリアの民は一人残らず死ぬか、奴隷になるしか道はないのだ。


青い顔でバゴアスが洗濯物を持ってくるため天幕の中に入ってきたとき、ホロフェルネsは言った。
「俺を恨んでいるだろうな」
バゴアスは「私に何を言えとおっしゃるのですか」と、涙ぐんだ声で続けた。
「今日は仕事はせんでもよい。自分の事は数日位自分でやれる」
彼はそう言って、バゴアスを天幕から追い出した。肩を落としながら外に出るバゴアスを見送って、ホロフェルネスは寝台に横たわりながら、母親の事を考えていた。
罵られて死んでいった母親。だが、自分にとっては、彼女こそまさに天使だった。ユディトよりも、彼女の方が彼にとってはずっと慈悲深く、天使のごとき存在だったのだ。誰も、そうは言わなかったけれども。
そして彼は、王の事も考えた。飢えて倒れていた自分、なぜ生きているのか、別に死んでも何の損もないんじゃないか、と思っていたところにやって来て、確かに自分が生きる意味を与えてくれたネブカドネザル王。彼は、純粋な気持ちで王に感謝した。
もしも自分がこの世の王になれるなら、ネブカドネザルを神に、そして自分の母を女神にして永遠に崇め立てたい。彼はそう思っていた。彼は喉が渇いたので水差しの水を飲み、そして一息ついて眠った。

夢の中で、彼は母親の夢を見た。彼の姿は子供のようだった。
彼はたまらなく懐かしい気持ちになり、母に抱きついた。母は優しい笑顔で「どうしたの?」と答えてくれた。そして、自分を抱きしめ、頭をなでながら、優しい声であやしてくれた。
「ホロフェルネス。貴女の望みはなあに」母は彼にそう言った。「お母さんがかなえてあげる」
「母さんと同じ望みでいいよ」彼は言った。「母さんの望みはなんなの」
「それはね」彼女は言った。
「私が死ぬとき、一人だけでも、私の死を泣いて悲しんでほしいなって思うの」

その時、彼は急に体の内部が痛む思いに襲われた。体が奥からと化されていくようだ。その不快感に耐えかね、彼はうめき声を上げた、と同時に、彼は目が覚めた。


「(夢だったのか)」彼は思った。母親の夢はよく見る。別段驚くことでもない。それに、彼はもう一つ、思うところがあった。
「死ぬとき、一人だけでも、私の死を嘆いてほしい」それは、忘れもしない、母が最期に言った言葉だった。食べ物がほしいとも、金が欲しいとも、奴隷の身分から解放されたいとも、遊牧民たちのもとを抜け出して、また普通の生活に戻りたいとも母は言わなかったのだ。死ぬことにしか希望を見いだせなかった母の気持ちは、いかほどのものだっただろうか。そうだ。母は、それを言って、それから遊牧民に連れ去られていって、その体の下で惨めな一生を終わったのだ。
そこまで考えた途端、ホロフェルネスはもう一つの異常に気が付いた。体の中に違和感を感じる。体を内部から少しずつ蝕んでいくような不気味な感触と痛み。夢の中で感じたものと同じだ。しかし、これは確かに現実だった。
彼は慌てて、指を口の中に入れてたらいに吐き出した。遺産が喉を刺激し、遺産交じりの唾液がドクドク出てくる。ただ、体の痛みは抜けることがなかった。
彼は、この症状を良く知っている。
彼はバゴアスを自分のもとから遠ざけた。さすがに、孫を殺されたばかりの男を自分のそばに置いておくことに危機感を感じなくはなかったからだ。だが、やはりホロフェルネスはバゴアスの事を、所詮何もできない老人と甘く見ていた。彼が隙をついて水差しの中に毒矢に塗る毒を入れたことを、ホロフェルネスは気付かなかったのだ。この先そのようなことをされないようにとバゴアスを遠ざけたはいいものの、時はすでに遅かったのだ。
彼は分かった。自分は、毒薬を盛られたのだ。自分を孫の仇と憎むバゴアスに。この毒を、彼はよく知っている。口から服用しては、丸一日生きられることはない。

「……ぬかったな」
何に証拠もない。バゴアスを訴えることはできないだろう。自分はここで死ぬのか。
彼は考えた。死ぬことは怖くない。問題は、ネブカドネザルの命令を達成せずにこの世から命を落とすのは無責任だと彼が考えていたことだ。
夜になったところを狙おう。ユダヤ人が寝静まった頃に。彼はそう思った。夜までは何とか持つはずだ。たとえ持たずとも、気力一つで持たせてみせる。
兵隊たちに準備をするよう命令をせねば。そう彼が立ち上がった時だった。
「将軍閣下!」
一人の伝令兵がやって来た。何事だ、と迎えてみると、彼は一つの手紙を渡した。
「ネブカドネザル陛下から、でございます」
ホロフェルネスは血相を変えた。
「ネブカドネザル様!?」
彼は急いで伝令を閉めだした。そして、久しぶりの主君からの手紙に、体内をむしばむ痛みを忘れて胸を躍らせた。そうだ、自分には主君がいる。仕えるべき主君がいる。このような方のためなら、命一つなどおしくもない。希望に満ちた笑いさえこみあげてくるようであった。
彼は手紙を広げた。だが、次の瞬間、彼の笑顔は凍りつき、足はガタガタと触れだした。やがて彼は、天幕の床に膝をついた。
手紙に記されていた内容は、こうだった。いつまでたっても成果を上げず、ベトリアのような小都市一つもうち取れず、もたもたしているどころか、度を越した見せしめで兵士の士気まで下げていると報告を受けた、お前に失望した、とある。もうお前はこの任務に当たらなくてもいい、お前が無能だということがはっきりとわかった。こちらからもう一人、もっと優秀なものをよこす。お前のような馬の骨に期待した私が馬鹿だった、という旨のものだった。

ホロフェルネスは地面に床を突き、絶句した。敬愛する王が、自分の事を見捨てたのだ。将軍としての時分に愛想を尽かしたのだしたのだ。
「そんな……ネブカドネザル、様……」
死ねと言われれば死ぬつもりだった。彼の期待になら、なんでも応えるつもりだった。だが、これは正しいのだ。そうだ。正しいのだ。
自分はただの獣だ。他の有象無象のものと同じだ。偉大なネブカドネザルには、自分の代わりなどいくらでもいる。自分一人いなくなったからとて、柵s年位支障が出ることなど、まさかあろうはずもないのだ。
ホロフェルネスはその時になって、自分の中に一縷の望みが残っていたことが分かった。彼は自分の事を獣だと思いながらも、それでも神たるネブカドネザルに、愛してもらいたかったのだ。駒の一つにすぎないと分かっていながら、それでも特別な駒でありたかったのだ。許されないと分かっていながら心のどこかでそれを望み、そして現実を突きつけられれば失望する。なんと浅はかだ、なんと不忠義だ、と彼は思った、自分こそ、ネブカドネザルを侮辱している。こんな自分をわざわざ愛する程度の存在に、ネブカドネザルを貶めたのだ。彼はそれも、非常につらかった。
どんな目を向けられようとも、何も感じなかった。ただ一人、ネブカドネザルに批判されて、彼は母親が死んだときにも味合わなかったような真の絶望を味わったのだ。
彼のネブカドネザルに対する忠誠や愛がもう少し常識的なものであれば、彼はもうすこし冷静になれただろう。そうすれば、あるいはわかったかもしれない。この手紙に王の印章がない事や、早馬や鳩を使ってもおととい起こったはずの公開処刑で士気が下がったことをネブカドネザルが知っているはずがないこと、そして、一生懸命王の筆跡に似せて書いてあっても、その筆跡にはどこか、バゴアスの筆跡の様な色も含まれていることなどがだ。
だが、彼はそれに気が付かなかった。ネブカドネザルの名で自らを否定された彼は、それどころではなかったのだ。

兵士たちに命令をする気すら、彼は一気に抜け落ちた。ネブカドネザルは、もはや自分を見てくれない。彼のために働いても、彼にとっては見捨てた男が勝手にやったことにすぎない。それどころか、彼の選んだもっと適任の将軍の仕事を奪ってしまうことにすらなるのだ。

何をすればいいだろう。彼は思った。
ネブカドネザルへのあいを失い、自分は一体、何をすればいいのだ。自分を愛する事すらも、もう忘れてしまった。
ああ、復讐がしたい。ベトリアへの復讐がしたい。だが、それもかなわない。気力がない。自分に軍隊の指揮権はもうない。でも、最後に何かやりたい。
彼は総逡巡していた。そんな中、母の言葉が頭に浮かんだ
そうだ。そう言えば、母が死んだとき、母の望み通り、自分彼女の死を嘆いた。思いっきり嘆いた。自分が死んだら、誰が自分を嘆くだろう。兵士は自分を慕わない。ネブカドネザルは自分を見捨てた。そしてユダヤは、自分の敵だ。
誰も嘆きはしないのか。この人間の屑が死んでよかった、と、バビロニア軍も、ユダヤの民も、そしてベトリアも、自分の死を喜ぶのか。
そんなものは嫌だ、と彼は思えた。死に瀕し、絶望を感じ、まるで砂漠をさまよい続けたあの時と同じような気分だと思えた。しかし、何かが違う。昔はここまま死んでもいい、と思っていた。だが、自分は今、死ぬ前に何かをしようと思っていたのだ。
自分の死を誰かに嘆かせる。その方法が、彼には見えていた。彼はネブカドネザルの偽手紙を丁寧に畳ん出からの壺の中にしまい、そして天幕の外に出た。

「宴会を開くぞ」
彼は自分の側近としている兵士たちに唐突にそう言った。バゴアスが自分を睨みつけているようだ。彼はそれに薄く笑い返した。バゴアスは一体どう思っているのだろうか。最後の宴を開こうとしているかのようにも見えているのだろうか。
「ここのところ、戦も始まらぬうちから不心得者のおかげで血なまぐさいものを見せ、諸君らも少々辟易しているだろう。ちょうど食料の補給は明日だが、節約したおかげで余った食料は大分あるはずだ。それらをすべて、開けてしまえ。好きなだけ飲んで騒げ。ついでに貴様ら以外の下々の兵士たちや、包囲中の兵士たちにも、そこまで料理を運んでやってふるまってやればよい」
彼は兵士の群れの中でそう告げた。側近の兵士たちは当然ながら、怪訝そうだった。ひょっとしてこれは自分達へのご機嫌取りか、と思うものもいただろう。だが、もはやどうでもいい。自分の最後の時だ。
「日が沈んだら、陣地に松明を何本もともせ。それを持って、宴を始める」
体内の激痛は余計にひどくなっていた。しかし、ホロフェルネスは端麗な顔を苦悶のゆがめることは決してなく、その美しさに相応しい威厳を持った言葉で、彼の部下たちに告げたのだ。
「バゴアスよ。お前に言っておくことがある」
彼は次に、バゴアスに告げた。老宦官は険しい顔で、震える声で彼に言葉に返事をしたが、その引き締まった唇から滑り出たのは、意外なものだった。
「あのユダヤ女を、俺のもとに連れてこい。……あのような女を抱かずにいるのは男として情けない、お前たちはそう思っているのだろう。よい。俺が男であると見せてやる。あの女も所詮、それを望んでいるはずだ」

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