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クリスマス市のグリューワイン

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美女ヘレネ 十一話

シモンは、塔の上にヘレネを連れてきた。当の上にはすでにネロが控えていて、シモンとヘレネのための椅子も拵えてあった。二人は、そこに腰かけた。
ヘレネは例の、白い絹のドレスを着せられていた。ただ、シモンにつけられた傷痕や痣を隠すため、おしろいを何重にも塗り付けていた。
「もうすぐ昼だ」ネロは言った。「あの男は来るかな?」
「きていますよ」
ヘレネの唐突な言葉は、嘘ではなかった。ヘレネには高いところからでもペトロの足音が聞こえた。ほどなくしてシモンとネロも、見覚えのある青と黄色に気が付いた。ペトロは噂を聞きつけて集まってきた群衆の隙間をくぐり、まっすぐに広場にやってきていた。後ろには、パウロもついていた。
「来たな。無法者!」広場中によく響く声で、ネロはそう言った。「逃げずにいたのは感心だ。さてシモンにペトロ、貴様らの言う神の力とやら、見せてみよ。貴様らの主張が真実だと、あかしを立てるために」
シモンはゆっくりと椅子から立ち上がり、「皇帝様、わが女神に祝福を与える許可をくださいませ」と言った。ネロは「よかろう」と即答した。
彼は今までの中で一番の大輪の青い薔薇で編んだ冠を、静かにヘレネの頭に乗せた。
「ヘレネ」彼は彼女にだけ聞こえる声で言った。
「お前はおれのものだ。おれは神そのものだ。見ていろ。分からせてやる。全てはおれの自由になるのだ」
彼は笑っていた。昨日と同じような顔で笑っていた。
彼はこれから死ぬのだ。悪霊の力は、神の力などではない。彼はそれを知らない。絶対に、知ろうとすることさえもないだろう。
彼にかけるべき言葉が、ヘレネの頭の中を駆け巡った。彼に拾われてから、どれほどの時間がたっただろうか。覚えていない。その間に彼にされたことは何だろうか。彼は自分にとって、どのような存在だっただろうか。
ペトロが最も必要としていたのは、彼の師に再び会うことだった。では、シモンが必要としていることは一体何なのか。自分が今できることで、シモンに必要とされていることは何なのか。この無邪気で残酷で無知で、哀れな男に、自分が言ってやれることとは何なのか。
「シモン」
一つ、頭の中に、言葉が浮かんだ。急に、姿を現したのだ。闇の中から光が生まれるように、無から有が生まれるように、その言葉が姿を現した。人はそれを、天啓と言うのかも知れない。
彼女は、静かに彼に囁いた。
「あたしのおなかのなかにね、あなたのこどもがいるの」
「おれの子供だって!?」彼はひそひそ声で驚いた。
「うん。でもね、きいて……もうすぐ、そのこ、しぬの。あなたが、なんかいも、あたしをなぐったから。きのう、おなかをなぐったから。……だから、しぬの。うまれてないのに、しぬの」
ヘレネの言葉に、シモンは言葉を失った。そんな彼にヘレネはなおも囁いた。
「あなたはあたしをなんかいも、なぐった。まいにち、おかした。あたしのひつじさんを、ころした。あたしのだいすきなペトロにも、ひどいことした。そして……あたしのこどもを、あなたは、ころした。あなた、あたしをやしなってやったっていうけど、あなたはあたしにひどいことをした。たくさんした。あなたはひどいひと。たとえほんとうにかみさまでも、それでも、あなたはひどいひと」
シモンは、黙ってそれを聞いていた。言葉がつむげないようだった。
「あたしね、あなたのこと」
ヘレネは口を開けた。地下墓所の時のように勝手に動いたのではなかった。自らの意志だった。にっこりと微笑みを浮かべて、彼女は自分の前に立ち尽くすシモンに言い放った。


「あなたのこと、ゆるすわ。シモン」


その言葉に、目を瞬かせるシモンは、年齢よりもずっと幼く見えた。ヘレネはそれを見て、くすりと笑った。
ヘレネは、自分の中に燃える、例の炎の存在を感じていた。体の中に語りかけても、もう声は聞こえない。おそらく、自分に心配をかけまいと、静かに息を引き取ったのだろう。自分の体の中には、ただ炎だけが燃えていた。これがペトロの言った、聖霊の光というものだろうか。
これでいいのだ、とヘレネは感じていた。シモンだけではない。ヘレネは、この世の全てを同じ瞬間に許した。ネロも、アグリッパも、全てを許した。自分を蹂躙してきたイスラエルの男達も、許した。自分を棄てた父母も許した。
「(このよは、なにも、うらむところなんてないわ。このよは、こんなにきれいなままだもの)」
正午の日差しに影をほとんど失い、眩しく照らされたローマを一望して、彼女はそう思った。
彼女はもう一度、シモンに微笑んだ。彼は、本物の女神に相対したかのように、彼女を見つめていた。

彼は、何も言わなかった。彼女を振り切るように踵を返し、彼は呪文を唱え始めた。
突如、例の暗い、重苦しい空気が広場中に立ち込めた。酒に酔ったように、平衡感覚を失う。空が割れて代わりに赤黒い泥のようなものが上空に渦巻いた。
シモンが再度念じると、彼の背中に、光でできた猛禽類の翼が生えた。暗い世界で、それだけが唯一輝いていた。彼は翼を羽ばたかせると、塔の上から飛び立った。
彼は鳥のように光の翼で大空を滑空し、ちょうど広場の真ん中に浮揚した。そして指を鳴らすと、赤黒い泥からいくつもの、同じような光の翼を生やした黒い天使達が現れて、攻撃態勢をとった。
シモンは、何も言わなかった。言おうとしているのに言葉が出ないようにも、ヘレネには見えた。彼はただぱちりと指を鳴らした。その合図で、一斉に黒い天使達がペトロに襲いかかる。
ペトロは広場に立っていた。広場に居る誰もがうろたえる中、彼とパウロだけは微動だにしなかった。
天使達の槍が、一斉にペトロに向かって襲い掛かる。今にも刺さるかというとき、彼はようやく口を開き、言った。
「イエス・キリストの御名によって。悪霊よ、立ち去れ」

その短い言葉で、全てが消えた。
その言葉に呼応するように、まず最初にシモンの真鍮の指輪が上空で砕けた。それを初めとして、何もかも無くなっていった。天使達の槍が消え、天使達が消えた。赤黒い泥も消え、青い空が戻った。黒い空気も消えた。そして、再び光が広場に戻った瞬間、シモンの光の翼も周りの光に溶けるように、消えて無くなった。
空の上で翼を失ったシモンは、まっさかさまに広場に落下した。そして物の数秒もせず、大きな音とともに地面に叩きつけられ、大量の血しぶきを飛び散らせて、グシャグシャの血と肉と内蔵の塊になった。



広場がざわめく。シモンは人間の原形すらとどめてはいなかった。彼の召喚した赤い泥のように、ただの赤い物質になって地面に広がっていた。
ふと、ペトロと目が合ったような気がした。彼の目は、悲しげに見えた。本当は、彼も許したかったのかもしれない、とヘレネは思った。それでも、彼は、悲しげでも幸せそうだった。
正午の日はすでに傾いて、影は息を吹き返しつつある。ローマは影があっても美しいとヘレネは思った。
何もかもが美しい。許せないものなど何もない。当然だ、ここは神の作った世界なのだから。良いものも、悪いと呼ばれるものも、全て、神が愛する世界なのだから。

「とんだ食わせ物だったな」ネロの冷酷な声が聞こえた。「と、なれば、貴様も嘘の女神でしかないわけだ」
ヘレネはとん、と、背中を押された。次の瞬間、ふわりと自分の体が宙に舞った。
自分の頭を青薔薇の冠が離れ、地に向かって落ち始めた。一息遅れて、彼女自身も落ち始めた。
落ちる間、彼女の頭にはいろいろなことが浮かんでいた。シモンと出会った日の事、シモンに初めて連れ出された日の事、羊と楽しく遊んだ日の事、ペトロと会った日の事、ペトロと過ごした数日間の事、様々な事が思い出された。その中に、見覚えのない光景が混ざっていた。
よく知っている地下墓所の壁画だ。しかし、知っている絵ではなかった。初めて見る絵だった。蘇ったイエス・キリストを取り巻く人々の絵。ああ、ルカが完成させた絵だ、とヘレネは理解した。
最後に、脳裏に浮かんだのは白い世界だった。白い世界を歩き続ける彼女の前に、人間にも、神のようにも見える何かが、彼女を待っているように立っていた。彼は優しく微笑んでいた。彼女もにこりと微笑みをかえし、彼の目の前で、静かに立ち止まった。


青い薔薇が、赤色に戻った。


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