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クリスマス市のグリューワイン

feat: Mary and Joseph 第四話

ところで、ヨセフは仲間の大工たちとはあまりなじまない様子であった。ヨセフは少し、十二歳の見習いとしては生意気すぎる節があったのだ。それを、マリアは仕事中の彼もよく見かけるようになって察した。
ヨセフは、腕がよかった。腕力ではさすがに体格の都合上劣っているものの、単純な手先の器用さなら、度々先輩たちを凌駕しているようなところがあった。なるほど、大工は彼にとって天職だったのだろう。しかし、必ずしもそれは好意的にのみ取られることはなかったようだ。彼は、多くの先輩たちから不愉快に思われていた。
ヨセフが控えめな態度を取ればもっと違ったのだろうが、あいにくとヨセフはそのような視線を向ける先輩たちに、無遠慮に言い返す方だった。それでますます関係がこじれるのだ。喧嘩になったことも何度かあった。まだ少年の体格のヨセフは、そうなると結局叩きのめされてしまうのだが、それが彼に植え付けるのは、より一層の無能な先輩大工たちへの軽蔑の心だけだったようだ。

ある日、ヨセフがいつも通りマリアに読み書きを教わりに来た時も、彼の腕や顔には生傷があり、顔には大きな青痣までできていた。
「どうしたの!?」とマリアが言う。彼は「なんでもねぇ。いつも通り、喧嘩しただけだよ」と言った。
「こんな、酷い」
「別にいい。慣れてるから」
彼はそう言って、いつも椅子代わりにしている平たい岩にどっかりと腰かけた。
「薬も塗ったし、本当に心配しなくていいよ。しょっちゅうだから。こういうの」
彼は引き続き、淡々と言う。大丈夫と言いつつ、先輩たちにいら立っている様子であるのも読み取れた。マリアは彼の隣に腰かけると、「本当にひどくなったら、誰かに言った方がいいよ」と言った。ヨセフはあいまいな返事をした。
ヨセフとはよく気が合うが、彼のこういうところは、彼女は不思議に思っていた。自分たちが祭司たちに反抗的な態度を取るときは、たいていこっそり隠れての事だ。祭司たちの前では、優秀な生徒たちでいなくてはならないと分かっている。ところが、ヨセフはそのようなことをしないのだ。不満があれば遠慮なく目上の者にも言うし、いくら折檻されても、生意気と言われてもその態度を改めようとはしない。彼が女ではなく男だからそのようなことができるのか、事実優秀な技術をすでに身に着けていればこそとれる態度なのか、ただ単に彼の性格上の問題か、それはずいぶん複雑そうだが、そんな彼の姿を眺めるのにはいろいろな感情が付きまとった。痛快さがなかったとは言い難い。自分たちも、厳しい嫌な祭司たちにガツンと言ってやりたいものだ、と思わないではない。だが同時に、それで容赦なく痛めつけられるヨセフを見ると、目上の者に歯向かう恐ろしさも同時に実感してしまうのだ。そして、そんな傷を負ってもなお生意気な態度を崩さないヨセフに、どこか、自分とは違うものを感じる。彼は少なくとも、普通に生きている人間ではないのではないかとマリアは思うところがあった。十二歳にもなって読み書きができないという時点で、既に「普通」のユダヤ人を基準にすれば、相当に異常な生い立ちが見え隠れしている気はするのだが……。
「あの先輩たちは嫌いだ」ヨセフは語った。「でも、大工の仕事は好きだ」
ヨセフがそう思えていることが彼にとっての幸せであると、マリアは思う。自分も、機織りや糸紡ぎ、聖書の勉強が好きであるからこそ、長年神殿に仕えていられるのだ。自分の仕事が楽しいのは最高の事だ。そのことを伝えると、ヨセフも嬉しそうにうなずいた。

マリアは神殿から持ち出した書物の一つを開く。「自分の名前が書けるようになったのは、大きな進歩だよ」彼女は言った。「今日から、実際に聖書を読んでみよう。私が好きなのを持ってきたから」
彼女は書物を膝の上に広げる。ヨセフはきょとんとしていた。
「なんだ、これ?」
「雅歌って呼ばれてるの。ソロモン王が書いた歌だよ」
「ソロモン王?」
彼はまず、ソロモン王を知らないらしかった。その事実に、マリアはまたしても驚いた。
「ちょっと待って、ソロモン王を知らないの?本当に?」
「親方がちょっと言ってるのを聞いたことがある」
恐らく、神殿の改築工事に向けて、依頼主であるヘロデ大王が言った「ソロモンの神殿よりも豪勢に」の言葉だろうとマリアは予測した。
「じゃあ……ダビデ王は?」
「誰だそれ?」
マリアは書物をいったん閉じると。「あー……じゃあ、今日は、やっぱり歴史のお勉強にしよっか」と彼に告げた。とにかく、イスラエル人でダビデとソロモンを知らないというのは流石に基礎知識が欠如している。そこの基礎からまず教えるべきではないか、と彼女は思ったのだ。
「今の王様の先祖なのか?」
「いや、違って……」
マリアはどこからで説明しようかと思ったが、シンプルに「昔の、とても偉い王様たちだよ」と言った。
「ダビデは最強の名軍人で、戦争でいくつもの勝利を収めてイスラエルを栄えさせたの。ソロモンは彼の息子。様々な才能に恵まれた大天才で、彼の治世にイスラエルは最盛期を迎えたの。もう千年くらい前の話だよ」
「ふーん……」ヨセフはうなずく。
「特に、ソロモンはイスラエルに目を見張るような大神殿を立てたの。貴方達、ヘロデ王に『ソロモンの神殿より豪勢に』って言われているんでしょ?そう言うことなの。ソロモンの神殿がすごかったからこそ、ヘロデ大王はもっとすごいものを立てろ、って言ってるんだよ」
「なるほどな」彼はうなずく。「でも、そんな偉い王様なら、なんで今の王様の先祖じゃねえんだ?」
「えっとね……イスラエルは、いったん滅んでるんだ。その時に、ダビデ王家も途絶えたの。で、その後またユダヤ人が国を作って…ハスモン王家って言う王家が生まれたの。でもそのハスモン王家も滅んで、今イスラエルはローマの支配下だけど……今のヘロデ大王が、王として君臨することを認められてるの。……どう?分かった?」
「分かった……」
そうは言いつつ、彼は一度に与えられた情報を苦労して噛み砕いているようだった。マリアにとっては当たり前なことが、やはり彼には当たり前でないことを彼女は知った。幸いなことに、彼は彼女の言ったことはすっかり理解してくれたようだった。
「そっか……そんなに偉い王様たちがいたんだな」と、彼は言ってくれた。
「そう!しかもね、ダビデ王の家系がとても重要なのは、それだけが理由じゃないの。実はね……」
マリアがその言葉を言いかけた途端、休み時間の終わりを告げる鐘の音が鳴った。マリアとヨセフはあわてて「じゃあ、続きはまた明日ね」「あ、うん」と言いお互いに別れの言葉を言おうとしたが、それよりも先に彼らのもとに来るものがあった。
「マリア。またその子と会っていたのか」と咎めるような声で言ってきたのは、ヨアザルだった。
マリアは多少、しくじったと思った。ヨアザルがヨセフを快く思っていないことを知ってから、少しは気を付けてきたのだが。
「今日は何を教えていた?読み書きか?」と、彼は聞いてきた。マリアよりも先に「ソロモン王とダビデ王について、教えてもらってた」とヨセフが自慢げに言った。ヨアザルは驚いて、年老いて落ち窪んだ目を見開いた。「何!?ダビデとソロモンを知らんと!?」
「今知った」
「信じられん……」ヨアザルが受けた衝撃は、マリアが受けたそれよりもやはり大きかった。
「なんという、浅ましいまでの不教養……お前がいかにろくでもない、怠惰な人生を送って来たかわかるというものだ」
マリアはヨアザルの言葉をとがめたかった。ヨセフが怠惰な人間ではないということは、ここ数日の学習への態度や、日々見かける労働への姿勢から読み取れた。しかしマリアが何か言う前に、ヨセフはヨアザルに聞こえるように、わざと大きな舌打ちをした。それ以上何の言い訳もしなかったが、ヨアザルにさらなる不快感を植え付けることに、彼は成功した。
「なんだ、その舌打ちは?」
「うるせぇ、クソジジイ」
彼は乱暴にヨアザルにそう言った。そして自分の荷物をまとめて、さっさと仕事場に行ってしまった。
マリアは恐る恐るヨアザルを見上げる。彼はあからさまに不愉快そうだった。「マリア。あんな不良少年と付き合ってはいけないよ」と、彼は言い含めた。
「真面目で働きものな子ですよ」マリアも、さすがに黙ってはいられなかった。ヨアザルに叱られるかと思ったが、彼は「お前は優しいね。だから心配なんだ」と、不快感の消えきらない表情で言ってきた。

そして、その日の午後の事だった。大工たちの作業現場で、酷い音が聞こえたのだ。マリアたちは暇にしていたので、数人の少女たちは連れだって野次馬としてその騒ぎを見に行った。
大工たちが仕事中に喧嘩していた。見ると、数人の大人の大工たちに少年が一人袋叩きにされていた。言うまでもなく、その被害者はヨセフだった。
マリアはぎょっとした。周囲の少女たちも勿論心配だから、あわてて止めに入る。屈強な大工たちは「女は邪魔だ、どいてろ!」と言った。暴力まで振るいそうになるので、彼女たちは慌てて物陰に引っ込んだ。
「てめえ、どこまでも生意気で……」
「先に突っかかってきたのはそっちだろ」
自分を殴りつける男を、ヨセフは睨みつけて言った。
「口答えするんじゃねぇよ!」
「ああ!?どっちの台詞だ!俺よりぶきっちょなくせに!」
その言葉は彼らを逆上させるものらしかった。彼らはまた拳を振り上げた。しかし、その場に少女たちの声よりも重々しい静止の声が入った。祭司たちも止めに来たのだ。
「やめんか!」と言ってやって来たのは、ヨアザルだった。
「神の住まいである神殿で、なんと浅ましい!」
身分の高い彼らの静止は、さすがの大工たちも聞くしかなかった。ヨセフは先輩たちの手から逃れるとよろよろと立ちあがった。マリアは物陰から彼のその様子を見て、彼が非常に心配になった。負けず嫌いも、ほどほどにしてほしい。このまま殴り続けられていたらどうするのか。
「事の起こりはなんだ?」
「こいつらが」
ヨセフが言おうとしたのを遮り、年長の大工が言った。
「この子供が、仕事中だというのに身の程をわきまえないことを言って俺たちをからかったんですよ。あまりにしつこいから、躾をしていたまでです。祭司様」
嘘だ。マリアにはそれがわかった。ツェルヤ達も分かっていたはずだ。あまりにあからさまな嘘だった。ヨセフの苦々しい表情がそれを物語っていた。
ヨセフは言う。
「嘘っぱちだぜ。もとはと言えば……」
「黙れ!」だが、ヨアザルはヨセフの方にきつく当たった。
「お前は実際、呆れた奴だ。いい年をして読み書きも知らん、歴史も知らん……その上、礼儀も知らんときたか。お前のようなものが神聖な神の住まいたる神殿にかかわること自体、恥さらしだ!」
ヨアザルは、もうすっかりヨセフが嫌いになっているらしかった。先ほど舌打ちをされた屈辱もあるのだろう。事実、間違っていないとはいえヨセフのしていることが礼儀正しいと言えないのもマリアは承知していて、ハラハラしながら事の顛末を見守っていた。
ヨセフは相変わらず憮然としていた。もういいから少しでも謝って、と、その頃になるとマリアは心の中で祈っていた。
「祭司様もこう言ってるんだぞ!謝れ!」
先輩の大工の一人が、ヨセフの胸ぐらをつかむ。と、その時だ。その先輩は、何かをつかんだようだった。怪訝な顔をした。
よく見れば、ヨセフは何か首飾りをしていた。その紐を服の中に隠しこんで、見えないようにしているのだ。
「なんだ?」
ヨセフは顔色を変えた。
「よせ、触るんじゃねぇ!」
彼の制止も聞かず、先輩たちは彼の薄い着物の中からあっさりとそれをつかみだした。それは、指輪だった。それも、ただの指輪ではない。読み書きもできない少年が持っているはずがないほど、高価そうな指輪だった。金色の土台に、燦然と輝く大きなルビーがはまっていた。そしてそのルビーにはには、金色の六芒星の紋章が刻まれていた。

大工たちはしばらく、固まっていた。彼らはこんな見事な宝石など見たことがなかったのだろう。それをなぜかこの少年が持っていることに対して、頭が追いつかなかったのだ。
「おい……」
彼らはヨセフに問いかけようとした。なぜ、お前ごときがこんな高価なものを持っているのか、盗みでもしたのか、と。だが、彼らがそう言うより早く、さっと別の男の手が彼らから指輪をかすめ取った。ヨセフではない。しわくちゃなそれは、ヨアザルの両手だった。
彼はしげしげとそれを見ていた。青い顔だった。
「何見てんだ、クソジジイ」ヨセフはヨアザルを睨みつけた。そして、ものすごい剣幕で怒鳴った。
「返せ、それは俺のだ!」
「お前……」震える声で、ヨアザルは言った。「これを、どこで……誰から盗んだ?」
「盗んでねえ。譲り受けたんだ。俺の親から!」彼は怒鳴った。「俺の家に代々伝わっている宝もんだって言ってた!」
「代々?これが、お前の家の……?」ヨアザルは震えた。
「先祖が盗んだのか……?」
「ちげぇ!俺のひい爺さんのひい爺さんのそのまたひい爺さんあたりからずっと受け継がれてんだよ!」
ヨアザルの震えを、そばにいる大多数は理解できなかったが、ヨアザルは「そんなはずは、そんなはずはない……」と繰り返した。
「返せって言ってんだろ!」彼は必死でヨアザルに掴みかかった。彼は、指輪を見つめたまま、ヨセフに返そうとしなかった。先輩の大工たちはそれに慌てて、止めにかかる。彼らはもみ合った。と、そのような中だ。
手が滑ったのだろう。指輪は飛んで、転がって、あっという間に彼らの視界から外れて行ってしまった。

ヨセフはそれを受けて絶叫した。
「何しやがる!」彼は叫んだ。そして、なりふり構わずをその場を駆け出した。
「あ、ヨセフ!」先輩たちが言う。「仕事はどうした!」
「やかましい!さっき言った見てぇにあんたらが俺よりずっと優秀なら、俺一人いなくてもどうってことねえだろ!」彼は怒鳴り返した。そして、植え込みの中に消えていた。
ヨアザルは「大丈夫ですか、祭司様!?」「帰ったらもっときつい仕置きをします、ご容赦を……」と言っている大工たちの声をよそに、茫然としていた。
「あの指輪を?あいつが?先祖代々……?そんなわけがない、そんなわけがない、あんな教養のない不良少年ごときが、まさか、そんな……」彼は小さな声でつぶやいていた。ヨセフは必死で探していた。

「凄いことになっちゃってるわね」ツェルヤが呟く。その時だ。
「お姉さま、すみません。私も探しに行ってまいります!」
マリアが言った。とにかく、彼女はヨセフが心配だった。ツェルヤは微笑んで「ええ、行ってらっしゃい。何かあったら祭司様たちには私から上手く言っておいてあげるから」といた。マリアは彼女にあわただしく礼をすると、ヨセフの行った方向に駆けだした。ヨアザルは放心状態なので、彼に気づかれずに彼のいる所を横切るのは簡単だった。

ヨセフは植え込みの中を必死に探していた。腫れた跡や青あざ、擦り傷に枝がこすれて痛そうだったが、彼は構わない様子だった。
「ヨセフ、手伝いに来たよ」マリアは言う。彼は目線だけちらりと彼女の方にやると「ありがとな!」と勢いよく言った。余裕はない様子だったが、彼が感謝しているということは分かった。
マリアも複雑な植え込みの中、小さな指輪を苦労して探した。「ヨセフ、あれは何なの?」と彼女は言った。
「俺の家の宝もんだ」先ほどと同じことを言った後、彼はもう一言、先ほどは使わなかった言葉を付け足した。
「俺の家族だ」
彼が当たり前のように言ったその言葉が、マリアの印象に残った。と、その時だ。彼らの探している植込みの向こうで、一人の、彼らよりも年下の少女が身をかがめた。そして、身を起こした時、彼女は赤く光るものを持っていた。それにいち早く気が付いたのは、マリアのほうだった。

彼女は、貴族風の品のいい服を着ていた。十歳になるかならないかの少女だったが、非常に細身で、そして、隙がなく整った、めったにないほど美しい顔立ちをしていた。だが、その少女に関して特筆すべきところはそこではなかった。彼女のその美しい顔は、不自然なほど、表情が硬かった。まるで大理石の仮面をはめ込んだように無機質で、その美しさも相まっていっそ不気味なほどだ、とマリアは感じた。
彼女は拾ったそれをまじまじと眺めると、後ろを向いた。気が付くと、彼女の後ろには、彼女と同じくらいの年齢の小柄な少年がいたのだ。彼女は、呼びかけもせず、無言で彼にそれを見せていた。
その少年も、少女以上に高貴な、豪華な装いをしていて、そして感嘆すべき容姿の持ち主だった。まだ子供だが、おそらくもう二、三歳ほど年上だったら、まず自分たち、神殿の少女たちの格好の品評の対象になるだろう。そして、ほとんどが彼に満点を出すはずだ。彼は、非常な美少年だった。年齢に似合わず艶めかしい目つきをして、その程よくぽってりした唇は薄い笑いを浮かべていた。髪の毛は豊かな、ふさふさとした長髪で、片目を覆い隠すようにのばされていた。彼は少女の、色白の細い指で支えられた指輪をその長いまつげに縁どられた目でしげしげと眺めていた。
マリアはしばらく、その二人に気を取られていた。だが、すぐに我にかえって「あ、あの」と声をかけた。ヨセフもその声に反応し、そして彼らが持っている指輪がまさしく自分の探しているものだと気が付いた。
「あ、それ!」と彼は叫んだ。まず最初に反応したのは、少女のほうだった。表情を一切変えず、彼はヨセフをその宝石のような目でじっと見つめる。その次に少年が、長髪をたなびかせ、頭につくた金色の飾りをシャランと鳴らせて彼に向き直った。
「この指輪、君のもの?」彼は小首をかしげた。
「ああ!」ヨセフは言う。マリアは急に、信用してもらえないのではないかと心配になった。ヨセフのような身なりの悪い少年がこんな高価そうな指輪の持ち主だと言っても、まず信じてもらえないだろう。だが、その心配は杞憂だった。
彼は少女に「だってさ、ヘロディア」と言うと、彼女に手を差し出す。少女は相変わらず無言のまま、少年の手に指輪を渡した。少年は、身にまとった紫のショールをゆらゆらとたなびかせながら、優雅な足取りで植え込みの中に立つヨセフのもとに向かった。
「はい、もう無くさないでね」
彼は、自分より背の高いヨセフに、薄ら笑いを浮かべつつそう言った。先ほどまで鬼気迫るものだったヨセフの顔が、指輪が帰ってきたことで一気に明るくなる。
「ありがとうな!」
「いいさ。素敵な指輪だね」
彼はそう言うと、ヘロディアと呼ばれた少女の手を優しくつかんで、また優雅な歩き方で別の方向に歩みだした。
「あの」たまらずマリアが言った。「ちょっとは……疑わないんですか?」
「疑わないよ。だって、さっきの一部始終、見てたから」
彼はこともなげにそう言った。そして今度こそ歩き去って行ってしまった。


「いったい何事だ!?」と、大工たちはやっと来た棟梁に、これ見よがしに叱られていた。マリアとヨセフは、その頃自分たちの仕事をしに行ってしまっていたし、少女たちも引っ込んでいた。他の野次馬もいなくなっていて、その場には彼らだけだった。棟梁のそばには、宮廷に仕える兵士たちもいた。
「ヘロデ大王様と王子殿下たちが視察に参られたいうのに……何をさぼっている、大工ごときが!」
兵隊は切羽詰まったような威圧感を持って、そう言った。後ろにはイスラエルを治める王、ヘロデ大王がいた。険しい顔の持ち主で、その眉間には深すぎるほど深いしわが刻まれていた。
「いつできる」彼は重苦しい声で言った。「ソロモンのものより偉大な神殿は、いつできる」
「予定日には必ず終わらせます、陛下……」棟梁は怯えて言った。
棟梁は分かっている。誰もかも、わかっている、この王は恐怖しているのだ。ダビデの血も、ハスモン家の血も混ざらない自分の身を。いつローマにのまれてしまうかということを。彼は恐れている。だからこそ、自分の権威を求める。あの偉大なソロモン以上の存在になろうと必死になっている。
「父上!」彼の王子、ヘロデ・アルケラオスが言った。父に似て、不安げな、険しい表情の持ち主だった。「アンティパスとヘロディアがいつの間にかおりませんが……」
「いいえ、ここにおります。兄上」
アルケラオスの声をあざ笑うように、豪華絢爛な馬車の下でそんな声が聞こえた。そこには、ヘロデ王の王子の一人、ヘロデ・アンティパスがいた。それは、先ほどヨセフとマリアとたった一瞬だけで出会った美少年だった。隣には、例の少女、ヘロディアもいた。
「何をしていた、王子の身で……」
「まあまあ、アルケラオス。良いじゃないか、子供だぞ。遊びたい盛りだ」アルケラオスの隣に座る青年、彼の弟ヘロデ・フィリッポスが穏やかに言って、ヘロディアの方にまず手を差し伸べた。
「アンティパス。ありがとう。ぼくの将来の妻とよく遊んでくれて、助かるよ」
「いえいえ」ヘロディアが馬車によじ登ると、アンティパスもそうする。アルケラオスはふんと笑って言った。
「お人よしめ。弟に、美しい婚約者を取られても知らんぞ」
「まさか。まだ子供じゃないか。年の離れた僕よりも、近いアンティパスの方が遊んでいて楽しいだけさ」
兄たちのそんな会話を聞きながら、アンティパスは笑いつつ、自分の事が話されているのにまったく無関心のヘロディアに話しかける。
「ヘロディア。……あの指輪、知ってる?あれはね、僕なんかには、決してはめられない指輪だね」
彼女は静かに首を縦に振り、アンティパスは静かに囁いた。
「うん。そうだ。あれは、ダビデ王家の指輪だよ。ダビデ王の直系の子孫が、代々引き継いでいるっていう噂の奴さ。ダビデも、ソロモンも、あの指輪に指を通したんだ。……いつか『救世主』も指を通すんだろうね」
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