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クリスマス市のグリューワイン

feat: Mary and Joseph 第六話


例の男性が来てから、井戸の周りの裏庭に集う人物は三人になった。
彼は、マリアとヨセフが井戸に行くと、いつもそこにいた。まるで、彼ら以上に、昔からその場に居付いているかのようだった。
彼は、穏やかな好人物だった。のみならず、彼は非常に多くの知識を持っていたのだ。なぜ、これで行くところもないのかが不思議なほどだった。マリアは彼を、学者かなにかではないかと思ったほどだ。それにヨセフも、彼の知識を重宝した。彼は、ヨセフの無知をあざ笑うことなく、穏やかに何でも教えてくれた。
彼は、夏の日差しを避けながら、大きな樫の木の下でマリアとヨセフにいろいろなことを聞かせた。中でも面白かったのは、彼が見てきた国々の話だった。彼らが見たことも行ったこともない外国の話を、彼はいくらでも知っていた。
シリア、エジプト、ペルシア、ギリシア、ローマ……東の果てから西の果てまで、彼は見てきたかのようだった。彼の言葉を聞くうちに、まるでマリアたちも、その国を旅しているかのように思えた。
彼自身がどこから来たのか、それは分からない。彼は、自分の国を、非常に遠いところにあると言った。マリアやヨセフはおろか、この神殿に居る偉い祭司たちでも、出入りの大商人たちでも、誰も行きついたことのない国だという。
「自分の国はお好きなんですか?」と、マリアは彼に問いかけた。彼は深々とうなずき、「ああ」という。
「じゃあ」今度はヨセフが言った。「なんで旅なんかするんだ?」
「そうだな……」
彼はどこかしらに思いをはせて、やがて唇を開いた。
「時々だね、どうしようもなく、人間が嫌いになってしまうときがあるんだ。そんな時に、旅に出て、いろいろな人間を見ると、楽な気持ちになれてね」
「人間が嫌いになるのに、人間を見に行くのか?」
「ああ」彼は言った。
「人間がどうしようもなく嫌いになっているときに優しい人間を見つけると、ああ、まだこの世も捨てたものじゃない、と思えるからね。私は、その瞬間がたまらなく好きなんだ」
マリアは分かるような気分だった。自分も、気がくさくさしているときに人の優しさに触れると、それが数倍も嬉しく感じる。きっとこの人もそうなのだろう、と思っていたところ、ヨセフは違うようだった。ヨセフはその言葉に反論するわけではなく、どちらかというと、神妙に聞いていると言った感じで、黙り込んでしまった。
「どうかしたのかね?」
「どうしたの?ヨセフ」
彼らの問いに、ヨセフは「いや、おっさんもいい人なんだな、って思って」と返した。


ヨセフに関しての疑問は、最近マリアの中で少しずつ大きくなっていった。
周囲の大人と話すときの彼は、自分と話すときの彼に比べて、ずっと攻撃的に感じる。
ヨセフに関する評価は、大人と、マリアと同年代の少女たちの間では割れていた。ヨアザルは相変わらず彼が気に入らない様子だし、相変わらず先輩からのいびりも受けているようだ。しかし、マリアと同年代の少女たちは、やはりマリアが持つように、気さくでいい少年、という印象を持っているらしい。
お菓子を差し入れに言ったけど素直に食べてくれた、とか、箒が壊れた時にそばにいたから直してくれた、とか、全くマリアが接しているヨセフの姿そのものが、彼女たちの言葉の中にはあった。
何故、彼はこう態度を変えるのだろう。マリアはそれが疑問だった。なぜ、性根が悪いわけでもないのに、わざわざ大人に嫌われるような態度をとるのか。


ヨアザルは疲れていた。先ほどまで、大工たちと神殿改築の打ち合わせをしてきたばかりだ。
ヘロデ王は神殿に黄金の鷲の像を取り付けると言い張っていて、大工もそのように動いているのだが、祭司の立場としては、神聖なイスラエルの神の神殿にそのような偶像崇拝的なものを置くことは到底許容できることではない。しかし、大工たちも顧客はヘロデ王である手前、簡単には引き下がれない。結局のところヘロデ王の意見を聞くまで保留に、という結論に至るまで、何時間も不毛な言い争いが続いていた。そして、その場に居た大半は、それが不毛とは信じていなかったのだ。
ヨアザルもそうだった。彼はいら立っていた。偶像崇拝はしてはいけない、としっかりモーセの十戒に書いてある。律法の基本中の基本もいいところだ。それを知っているのならば、即刻辞めるべきではないか。こんな簡単なことが、何故わからない。そんな気分だった。ましてや、黄金でできた壮麗な鷲の像、ときたものだまるで、アロンやヤロブアム王が躓いた金の子牛の崇拝すらも思い出せる、あさましいものではないか。
ヨアザルは真面目な祭司だった。だからこそ、そのようなことが許せない気持ちがあったのだろう。彼は大工たちが、神を恐れもしない無礼者のように思えてきた。
そして大工たちの中でも一番憎らしいと思っているのが、やはりあの生意気なヨセフだ。しかも、先日のことを思えば彼は背筋に悪寒が走る。彼が持っていたのは、確かに話しに聞くユダヤ王家の指輪だ。偉大なるダビデとソロモンから連なったダビデ王家に代々受け継がれていた指輪。五百年前にダビデ王家の支配自体が途絶え、王家の血も散り散りになってはいたが、それでも直系のものにだけその指輪は与えられているのだろう、と、そのような憶測が飛び交っていた。
ヨアザルの悪寒は、腹立たしさからくるものだった。彼の先祖のうち、一体だれが、偉大なるダビデの血筋から指輪を盗んだのだろう。彼が信心深く、ユダヤの宗教と歴史に非常に誇りを持っていたからこそ、そのことは彼をこれ以上なく震撼させた。ユダヤ人に生まれておきながら聖書も知らず、律法も知らず、字すら読めないあさましい家系のもとに、偉大なダビデの象徴が奪われたのだ。歴史に残されることはなく。
ダビデの血筋は、ただの王家の血筋ではない。遠い昔から、預言者が伝えてきた一つの事がある。それは、いずれイスラエルには救世主が現れるということだ。
救世主が現れる。そして、罪に染まった人間たちを救い上げる。そして、彼は、ダビデ王家の家系の中から出るのだ。
その預言を知らないユダヤ人はめったにいない。(ヨセフは分からないが、と、ヨアザルはそのことを考えている途中、嫌味っぽく心の中で付け足した。)ダビデの家系というのは、ユダヤ人にとって、それほど価値のあるものなのだ。立派なものなのだ。汚されてはならないものなのだ。
だが、その意識も、所詮は信心深い人々のものでしかない。下劣なものは、ただの宝石の価値ゆえに、ダビデの血筋を汚すのだ。ヨアザルをいらだたせているのは、その事実だった。
そして、彼が手塩にかけて育ててきたマリアが、今そのような家系の少年にたぶらかされている。その事実も気に入らなかった。
「(マリアはいい子だ。だから、奴の汚さがわからないのだ)」
ここの所、何度も同じことを思っていた。廊下を歩いていると、自然と苛立ちからか、ドスドスと足音が荒くなってしまったようだ。
彼はそれに気づいて、あわてて静かに歩き出す。だがしかし、その足跡はその場に居た全てに聞き逃してもらえるわけではなかった。
「何かおありでしたか?ヨアザルさん」と、一人の少年が声をかけてきた。神学生カイアファだ。今日は、アンナスはそばにいないらしい。何にしても、このような気分の時に、気分の悪い奴に捕まった、とヨアザルは内心で頭を抱えた。
「いや……うむ、まあな。例の、神殿の金の鷲について」
「ああ、あれですか……」カイアファは勝手にヨアザルの隣につくと、話し始めた。
「まあ、偶像崇拝の観点からあれを非難する気持ちもわかりますが」彼はもったいをつけて話した。「ヘロデ王はあれを神の姿とはしていないようですし、偶像ではなく、あくまで装飾と考えてもいいのではないですか?それに少しヘレニズム調で、今風の趣向でもありますよ」
ヨアザルは眉根をひそめた。カイアファはサドカイ派だ。サドカイ派はヘレニズム文化にもいささか寛容である。そんな立場の意見らしいと言えば、らしかった。
だがとにかく、彼の言葉にはとげがあった。ヨアザルを馬鹿にしているようだった。
「いかがいたしましたか?ヨアザルさん」彼はねちっこく笑って言ってくる。「……いや、なんでもない」と彼は震える声で返した。
「僕があなたを馬鹿にしているなんて、思わないでくださいね」彼は笑った。ヨアザルは、彼に気持ちを見透かされているのを知った。
「いえいえ。貴方がたとえ『庶民に多い』ファリサイ派だとしても、僕も先生もあなたの事を差別なんてしていませんから……ね?貴方は先生や僕と距離を取りたいみたいですけど、少しは僕たちとも仲良くしてくださいよ。先生もあなたも、次期大祭司候補じゃないですか」
この言葉が言いたくて、わざわざ自分に声をかけたのか。ヨアザルはそれを悟った。差別していないなんて嘘っぱちに決まっている。わざわざ「庶民に多い」を強調する意味はなんだ。
彼はよっぽど、そう言いたかった。だが、さすがに大勢の前でどなるのは大人げないし、みっともない。彼はあいまいな返答しかできなかった。
彼の言うとおりだ。自分はアンナスやカイアファのように、代々のエリートの出ではない。言ってしまえば成り上がり者だ。それでも、神を信じ、神に仕えて生きてきた。だからこそ認められ、神殿に仕えている。それなのに、なぜ家が違う、育ちが違うと言うだけで、自分よりいくらも年下のこんな少年にまであざ笑われなくてはならないのだろうか。
それも、ヨアザルの頭を数年間悩ましていることだった。

ヨアザルは立ち上がった。「おや、ヨアザルさん、どちらへ?」カイアファが聞く。
「すこし、マリアの様子を見ようと思ってな。真面目に仕事をしているか、心配だ」
ヨアザルはあえて、自分がこれからしようと思っていることを正直に述べた。
マリアは、自分をファリサイ派だから、庶民の出だから、などという理由で差別しない。彼女も金持ちの家の出で、それなりにいい身分なのであるにもかかわらず、だ。彼女のそう言った優しさに、自分も救われているとヨアザルはしっかり自覚していた。
「おや、そうでしたか!それでは、お名残惜しいですが」
わざとらしいカイアファの言葉を振り切るように、ヨアザルはその場を離れた。


夕方だが、まだ暑さを残していた。大工たちの仕事が終わる頃だった。井戸端に、ヨセフは一人でやって来た。
屋根から落ちた。午後の休み時間に、先輩たちと喧嘩をしたのが効いたのだろう。確かに、誰かに突き飛ばされた。それが誰かは見ることもできなかったうえに、先輩たちは皆、自分が勝手に足を踏み外したのだと主張するだけだったが。
幸い、一瞬だけだが木に捕まることができ、減速できたので大した怪我にはならなかった。だがしかし、彼は悔しかった。
彼は井戸水をくみ上げ、全身に浴びた。痛みが冷たさによって少し抑えられる。彼は何回も、井戸水を頭から浴びた。
「どうしたのかね」声が聞こえた。例の男性の声だった。昼休みにマリアと一緒に会った時と同じように、そこにいた。
「大丈夫だよ」彼はそう言った。西の空に雲が多く、見事な夕焼けだった。 光そのものが、赤く染まっていた。
「マリアも心配していたぞ、ヨセフ」彼は優しく言う。「君はなぜ、彼らに向かっていくのかな」
「向かっていくんじゃねえよ」彼は言う。「奴らに心許す気がねえんだ」
ヨセフは、傷口に掌があてられる感触がわかった。
「おいで」彼の声がすぐ後ろから聞こえた。「水ばかり浴びては、風邪をひくぞ。薬を塗ってやろう」
ヨセフは大人しく、樫の木の下の、彼は座っていたところにいっしょに座った。傷口に、ひやりとした軟膏の感触が感じられた。
「君は、つらいのだね」彼はもう一度言った。ヨセフは彼に、打ち身になったところに軟膏を塗られながら言った。
「……うん」
日が沈んでいく。井戸のそばは、妙に静まり返っていた。全てのものが、この場に入ることを躊躇しているかのような静けさだった。
「おっさん」
「なんだね」
「……聞いて、くれる?」
男性は「もちろんだ」と言った。
「……大人のすべてが嫌いなんじゃねえんだ。おっさんみたいな人は好きだし……神殿の商人も好きだ。良く……困ったらものとか治してやるし。でも……俺、大っ嫌いな奴らがいるんだ。そいつらにだけは、絶対ペコペコしたくねえんだ。だって……ペコペコしてたら、殺されるかもしれねえんだ。その……俺……」
彼の声が震える。呼吸が荒くなる。膏薬を塗り終えた彼は、ヨセフを撫でながら「ゆっくりでいい。嫌になったら、いつでもやめていい。大丈夫だよ」とだけ言った。
ヨセフは必死で、消え入りそうな言葉を紡いだ。
「……言わせて。……言いたいんだ」
「ゆっくりでいいよ。急かしはしない」
「俺……祭司、大っ嫌いなんだ。あと……神殿に仕えてないやつでも、宗教家は、みんな……それと、仕事の先輩ってのも、駄目なんだ。どこにいっても……」
彼の声は震えた。男は優しく、ヨセフを後ろから抱きしめた。ヨセフは彼に身を任せるままに、ぽつぽつと話した。
「俺……父ちゃん、どっかの教団に、殺されたんだ。なんか言ってたけど……俺、すごい小っちゃかったから、覚えてなくて……でも、教団ってのは覚えてんだ。覚えてたってより、母ちゃんが言ってたから……なんか、すごく怖い顔で……父ちゃんの事、馬鹿にして、威張って、最後に、殺しちまって……父ちゃんが、俺に、この指輪渡して……俺、怖くて……」
彼は青ざめた顔で、服の下にしまった指輪のペンダントを取り出した。
「でも、逃げても、何回か、同じことあって……神殿の祭司、どっかの坊主、よく分からねえけどっ、俺の事ずっと馬鹿にして……こっちが下手に出たら、遠慮なく暴力……俺、だから、学校にも行けなくて……学校には絶対いるから、宗教家……イスラエルを離れなきゃならなかったことも、何度もあって……母ちゃん、それで、いつの間にか、気がおかしく、なって……」
日がどんどん沈む。夜の闇が押し寄せてくる。それは、普段明るく、強気にふるまっている少年のおびえた表情を、彼を庇う男と一緒に、優しく覆い隠した。
「俺が、仕事して、かせがなきゃって……でも、何回か、仕事の先輩たち、祭司とか、坊主とかに、俺の事告げ口して……い、今はまだ、でも、いつ、またって……怖くて……せめて、弱く見られたくねえんだよ!礼儀正しくして敬ってなんかもらえるかよ!ペコペコするってのは、弱みを見せるってことなんだよ!弱みを見せたら、遠慮なく、殺そうとしてくるんだよ!」
彼は悲痛な怒鳴り声をあげた。

彼は知らない。自分の持つ指輪の意味を。
ダビデ王家の血筋をあらわす、その指輪。ローマ帝国の属国になり、イスラエルが相変わらず不安定な中、「自分はイスラエルを救う救世主」と、どれほど多くの人物が名乗りたいことだろう?そう信じ込ませれば、どんな人間の先導も簡単だ。ヘロデ王よりも、大祭司よりも、ローマ皇帝よりも、多くのユダヤ人を動かすことができる。
そして、救世主はダビデ王家の血筋から出ると伝説の中にはある。なら、自分が救世主だと人民に示す格好の証拠は何だろうか?ダビデ王家の指輪だ。
彼は知らない。自分の父を殺して、自分たちをそんなものを持つのにふさわしくない、ふさわしい自分たちによこせと迫ってきた彼らが、その指輪を通じて、何を望んでいたのかを。いや、そもそも、「指輪」を望んでいたということすら、彼は認識できなかった。彼らの名誉欲や権威欲は、小さな子供には、ただ絶対的な恐怖としか映らなかった。ヨセフは、何も知らない。自分の体に流れる血の意味を、当の彼だけが知らなかった。
彼はただ、正体の見えない恐怖に怯えながら、必死で強がるだけだった。
ヨセフは全て話し終えて、ただ泣いた。
「君は悪くないよ」
男性の手が、自分の頭に乗せられるのがわかった。ヨセフは、彼に縋り付いて泣いた。
「君は何も悪くない。信じていいよ。本当だ」
彼はヨセフの頭を撫でた。泣きじゃくるヨセフに、彼は「良く、頑張ってきた。つらかったね」と、語りかけ続けていた。
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