クリスマス市のグリューワイン

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feat: Elijah  第一話

これは果たして現実なのだろうか。エリシャは目の前で起こった光景をただ、そのような心境で見ていた。北イスラエル王国の、海を臨む土地ハイファにそびえたつ大きな禿山、カルメル山のちょうど頂上に彼は立っていた。

イスラエルには三年雨が降っていない。エリシャの家はなんということはない、ただの農家だ。ただ、雨が降らないので畑はすっかり干からびていた。最初の市年は運河から水を引いて何とかやっていけたが、それすらも二年目になると枯れ始め、今ではすっかり運河は泥臭くなっていた。当然畑にろくな水が来るはずもない。エリシャの家の畑、いや、イスラエル中の畑は今やすっかり干からびていて、誰もかれも王家の倉庫から支給される穀物でなんとか食いつないでいたようなものだ。エリシャは飢饉で死んだ人間も、三年間で何人も見た。死体を畑にまいて少しでも畑を肥やそうとした男もエリシャは知っているが、全て無駄だった。死体もすぐに干からびてしまうからだ。その三か月ほど後に、その彼も死んでいた。エリシャは黙って彼の死体の前を通り過ぎた。
まるで終わらない地獄ではないか、と人々は嘆いていたものだ。むろん、雨乞いの儀式がなかったわけではない。いや、王家に仕えるバアルの神官団は幾度となくバアルに雨を乞うていた。バアルは嵐と雨と豊穣の神である。三年前まで、人々はバアルにすがっていた。イスラエル人でバアルを知らないものはいなかった。そして一部の老人を除き、ほとんどの人々はバアルを崇拝していたと言っても過言ではない。エリシャも父とともにバアルの礼拝に出かけ、雨が降ればバアルに感謝をささげた。バアルこそが神だった。
だが、それも昔の話だ。バアルが雨を降らすから、バアルが力を貸すから、バアルはきっと雨を降らしてくださる、という神官団の声に人々が湧きかえっていたのは二年前までだった。最近ではすっかり、人々は誰の言うことも信じなくなっている。
「昔の話に依りゃあ、バアルは死と常に戦いを繰り広げているそうじゃないか」と一度、エリシャの父が毒づいた口調で言った。「どうもその決戦に終止符が付いたってところかね」。
エリシャは父の話に答えなかったが、相槌を打ったことは覚えている。その時、もはや畑には雑草も生えなくなっていて、家畜はとっくに売り払っていた。王家の倉庫の配給を取りに行くほかは本当に何もやることがなく、死を待つだけのような時間だった。そのため、父の話にもなんとなく現実味があった。
きっとバアルは死んだんだ、とエリシャはぼんやり考えていた。彼が生まれた時からバアル崇拝は決して小さくはなかった。まして、国王にバアル崇拝の王妃が嫁ぎ、彼女による宗教改革が行われてからと言うもの半ばバアル崇拝は国教と化していた。伝統的なイスラエルの神を信ずる者は王宮公認の迫害を受け、無残に殺されすらした。そのような活動の結果彼の世代にとっては、神といえばバアルであり、世界を保っているのはバアルだった。
昔の神話によれば、神の世界にも人間と同じく王権争いはあるらしい。バアルは兄弟である死と常に王冠を巡って争っているとエリシャは子供のころバアルの神官に聞かされた。近所の子供たちも一緒だった。死は強くバアルは殺されてしまうが、それでもなお彼は復活し死を打ち負かし、神の王として君臨し続けるのだと彼は神官から幾度となく聞いていた。決まって神官は、だからこそ乾季というものが存在し、バアルの力が及ばなくなる時も存在するのだと解説した。そのような話を聞いて育ったエリシャには、父のひとりごとは決してただの皮肉ではなかった。バアルは死に、死が永遠の勝利を収めたのだ。だからこそイスラエルは死の世界になったのだ。死が王であり、世界を支配するのならば誰もが今や死を待つだけになったのも合点がいくというものだ、という現実味のある言葉だった。
ただ、エリシャがそう考えていると、彼の祖父が「馬鹿を言うんじゃない」と口をはさんだことも、エリシャは覚えている。この祖父はもう死んでいる。やはり、数年に及ぶ乾きと暑さと飢えは老体が生きるには過酷なものだ。たった二か月前に死んだのだが、エリシャは祖父が死んだ悲しみよりもよく持ったものだ、という思いのほうが大きかった。
「神様はお怒りになられているのだ」と、その時すでに寝たきりになっていた祖父はエリシャに言った。
「神様というのは、バアルですか。アブラハムの神ですか」と、口を開かないエリシャに代わって彼の父が祖父に語りかけた。祖父は「神は一人しかおらん」と厳しい口調で言った。
エリシャは、祖父がバアルへの崇拝に出かけたのを見たことがない。バアル以前の、従来のイスラエルの神を熱心に信仰し続けていたのが彼の祖父だった。同じような老人たちと数人連れだって、今やだれも信じなくなったアブラハムの神に祈りをささげているのが、彼の祖父だった。
「嘆かわしいことだ。我々をエジプトから逃がした神を忘れ、異教の神が死んだと嘆きおって。馬鹿馬鹿しい。バアルなどという神、もとよりおらんのだ」
祖父は窓から空を見上げていた、悲しそうな目つきだった。空には雲ひとつなく、底抜けの青さが非常に不気味だった。エリシャ自身は見たことがないのだが、彼は以前本当に強い炎は赤ではなく青色をしているものだと聞いたことがある。きっとこのような青なのだろうかとエリシャは感じていた。
「神はただ一人だ、唯一の主だ。嘆かわしい。……ええい、今のイスラエル人も、あの不心得の王も、阿婆擦れの王妃も、どいつもこいつも嘆かわしいわ。神は我々を見捨てられたのだ、貴様らのような不心得者のおかげでだ。ソドムとゴモラを滅ぼしたようにイスラエルを滅ぼそうとなさっているのだ。イスラエルはもはや背徳の国だ」
「自分の守った人間を自分で滅ぼす神ですか!そんなもんをなんで信じてたんです?」と父が嫌味たっぷりな口調で祖父に言うと、祖父は「戯け者が!」と彼を一括した。
「何様のつもりだ、貴様は!この干ばつは神が命じたものなのだ!」
エリシャはそれから先、聞かないように耳をふさいだ。バアルだろうとアブラハムの神だろうと、同じことだ、と彼は思った、どうにせよ、神はいないのだ。そして死と絶望がこの世を支配したのだ。彼はただ、そう信じて疑わなかった。死ぬまで待とう、どうせ自分もいつか干からびて死ぬんだ、と彼はそう確信していた。


だというのに、今、彼は世界を飲み込んでしまいそうなほどの大雨を目の当たりにしている。


たったの数分前に、エリシャは今自分の目の前に立つ男に呼び止められた。自分がなぜ大勢の人々から離れてわざわざ山の頂上まで来たのか、わずかの前の事なのにまったくはっきりしない。言うならば、自分は導かれてきたような思いだった。山頂に、彼がうずくまっているのを見た時は驚いた。先ほどまであれほどまで荒まじいことをしでかしたこの男が、こんなところで何をしているのか。国王、アハブに取り入るなり人民に演説するなりなぜしないのか。エリシャは混乱した。彼はふとエリシャに気が付くと、頭をゆっくりと起こし、ティシュベのなまりで「坊ちゃん」と呼びかけた。「ちょうどいいところに来てくれたな。海のほうを見てくれ」と彼は唐突に言った。
「海ですか?」
「ああ。頼んだ」
彼は一歩も動かないままエリシャにそういった。エリシャはなぜかどうという気が起こらず、素直に海の方に目を向けたが、何もない。相変わらず、青い炎のような青空が広がっているだけである。
「何もないか?だとしてもまだ見ててくれ。ちょっとじゃ駄目なんだ。俺がいいというまで」
エリシャは結局そのまま海に視線を釘付けにした。男は海のほうを向いてうずくまっているわけではないので、全く視線がかみ合わない。変な空気にエリシャは少々辟易し、「何が起こるんですか」といった。
「貴方はそもそもこんなことしている場合なんですか、することがあるでしょう」
「だから今それをしてるんじゃねえか。ったくよ、ちょっと刺激の強いことすりゃてめえらすぐにもともとの理由を忘れやがる」
そんな恰好でそんなこと言われてもなあ、とエリシャは心の中でため息をつきつつ、「ひょっとして、雨を降らせるんですか」
「降らせるんじゃねえ。降らしてもらえるように祈ってんだ」
「こんな晴れてるのに」
「馬鹿かよ、三年前より前だって晴れた日はあったろ」
「そうですね……確かに」
エリシャは全く動く気配のない、相変わらずの死の匂いがする青空とその色を反射してギラギラと輝く水平線を眺めながら、自分も腰を下ろした。
「でも降ればすごいですね。今度は貴方が神とあがめられるかも」
「おいおい、これだから最近の子供ってのはよ……預言者ってえのを知らねえのか?イスラエルに神は一人さ。神の言葉を聞く人間がいるだけだ」
「なんかあなた、年寄りみたいですね。僕の父より若いのに」
エリシャがそういった瞬間、ふと水平線の彼方から近づいてくるものがあった。雲だ。三年ぶりに見る、雲だ。手のひらほどの小ささではあるものの、まぎれもなく雲だった。
「あ……」とエリシャが声を上げたのを耳聡く聞きつけた彼は「どうした!?雲が出たか!?」と楽しそうに言った。
「ええ……まあ」
「よし。済まねえな坊ちゃん、もう一つ頼まれてくれ。アハブに言ってきてほしいんだ、もうじき大雨だから本降りになるまでに帰った方がいいってよ」
彼は顔だけエリシャのほうに向けるとそういった。
そしてエリシャが出発し、アハブにその旨を伝え、彼のもとに帰ってきた瞬間、突然黒雲が一瞬で空を埋め尽くし、豪雨と風が巻き起こった。たった一瞬の出来事だった。


エリシャは今全身に雨を受けている。三年ぶりどころか生まれてから出会ったことの無いような強い雨だ。大粒の雫が吹き飛ばされそうな暴風に交じってあまりに激しく打ち付けるので、顔や手など素肌の部分は痛さすら感じる。衣服が完全に水を降って、体は冷え切っている。つい数時間前まで煮えてしまいそうに火照っていた体がだ。歯がガチガチ鳴った。鼓膜がまだ激しく痙攣しているように思える。あの大きな雷の音が、数時間たつというのに耳から離れない。目の前ではじけ飛んだ光と轟音と衝撃の余韻を、強く降る雨の振動が一層揺さぶっていた。直接心臓に雨が打ちつけているようだ、とも思った。彼が立っているのは何も遮るものがないカルメル山の山頂で、いっそ自分は吹き飛ばされてしまうんじゃないか、と彼は恐怖した。
エリシャの目の前の男性は地にうずくまった姿勢から体を起こすと、「バアルの力だと思うか?」と不意に話しかけた。彼の鴉の羽のような色をした瞳がエリシャに向けられた。
目の前の彼も自分同様、雨に打たれてすっかりびしょ濡れになっていた。毛皮のケープと同じ毛皮の着物、皮の帯という修行者のような衣装もすっかり水を吸い、彼の長い頭巾と束ねた長髪は暴風にあおられてはためくものの、バタバタと非常に重そうな音を立てていた。
「アハブは?」
しかし、そう問いかける彼は非常に堂々としていて、全くみっともらしさは感じられなかった。
「あなたの言うとおり、すぐに帰るように言いましたが」と、答えるエリシャ。
「どれどれ。……くくっ、見てみろよ坊ちゃん。どうやらアハブのやつ、お前の言葉を聞くには聞いたみてぇだが、信用しなかったようだな。ははは、無様なこった。イスラエルの国王がねえ」
彼が含み笑いして指差す先には、人々に交ざって走りだそうとしているイスラエル王家の馬車があった。しかし、立派で壮麗な馬車であるにもかかわらず豪雨と強風のおかげで馬はすっかりおびえて動かず、御者が必死に鞭を入れている。やっと動き出したかと思えば、馬のうち一頭があわてて足をもつれさせ、転んでしまった。その拍子にバランスを崩した馬車から、豪奢な服を着た男性が転がり落ちて、荒れた岩山の道に顔と体をしたたかうち付ける様子がよく見えた。その様子を見て、あまりの雨と風に委縮していたエリシャもさすがに噴き出した。
「山頂って言うのはいい席だね、なんでも見えるぜ」
「……そうですね」
馬車から転がり出た男性、すなわちイスラエル王アハブが従者に手を引かれながら車に戻り、馬車がよたよたとイズレエルの方向に向かって進んでいくのを見送りながら、エリシャはその男性と笑いあっていた。
そうして少しリラックスすると、エリシャは、その雨がただ強いだけでなくどこか不思議さを秘めていることに気が付いた。これほどまで強ければほんの少し前すらも見えなくていいくらいなのだが、なぜだかはっきりと見渡せるのだ。激しさこそ比類ないものだが、ただその荒っぽさに似合わず美しく、透き通った雨だとエリシャは思った。
彼の言うとおり、彼ら二人だけが立つカルメル山の頂上から何もかもが見渡せた。突然の豪雨のせいで散り散りに逃げだす人々の姿も、全身を歓喜に打ち震えさせながら三年ぶりの雨を全身で吸い取るイスラエルの大地も。そして、大雨にさらされた、つい先ほどこの隣の男に殺されたばかりの四百五十人の死体と、その中心に散乱している黒焦げの石の破片も。ほとんど粉々の破片だが、唯一角の先のような部分だけが見て取れた。角のついた冠はバアルの象徴である。バアルが死とともに、終わりのない決闘で奪い合っていたはずの王冠である。バアルの神像は、常にその冠をかぶっていた。その角の先が暴風のおかげでふと転がり始め、息を吹き返したかのように流れ出した小川に落ち、沈んで見えなくなってしまう様子すらも何故だかエリシャにははっきりと分かった。


「帰らねえのか、坊ちゃん、風邪ひくぜ」
「帰っても混みますから」とエリシャは言った。「それに、考えなきゃいけないこともありますし」
「考えなきゃいけないこと?」
「はい。雨が降ったのはうれしいですがすっかり畑は痩せてしまったから耕し治すのも大変ですしね。その前に家畜を売っちゃったから新しく買わないとって。運河も新しく掘る必要がありますね、やることが盛りだくさんで、しばらくじっと考える時間がほしいんですよ」
「農民っつうのは大変だな、俺は畑を耕したことなんて生まれてから一度もねえからなあ」
男はケラケラ笑い、「坊ちゃん、名前は?」といった。
「エリシャ」
「そうか。エリシャ。お前のこと覚とくぜ。じゃあな、俺はもう行かなきゃならねえんだ」
そういって彼はポンとエリシャの頭に手を置くと、着物の裾が短くなるように帯を締めなおす。そして、「それじゃ、元気でな」と言って一目散に豪雨の中を駆け抜けていった。彼がまるで荒野に生きて荒野に死ぬ動物のように、軽やかかつ俊敏にごつごつした山道をものともせず裸足の足で駆け抜けていく一部始終を、エリシャははっきり見ていた。彼がもたもた進むアハブの馬車を風のように追い抜いていくのも、エリシャには見えていた。エリシャはカルメル山の山頂から彼を見続けていた。
その後姿を眺めながら、そして雨に打たれながら、エリシャはふと、祖父の事を思い出した。こんな記憶はなかった、と思うが、ひょっとして自分が忘れようとして思い出さなかったのかもしれない、と思った。
記憶の中で祖父は、父ではなく自分だけに語りかけていた。なぜこの干ばつは神の罰だとわかるのか、ということだった。
「お前も知っているだろう、王の前に現れた修行者のような男の噂だ」祖父はその時かなり衰弱していて、息絶え絶えにエリシャにそういった。「この干ばつは神の罰だといった男だよ。わしは彼に会ったんだ、お前と父さんが配給に言ってる間に、この窓の外に立っていたんだ。わしにはわかったよ。彼は本物の預言者だ。神に仕えるものだ。この干ばつは神があと一年もせず必ず終わらせると彼は言っていたよ。な、だから安心しなさい。エリシャ。若いのにそんな死にそうな顔するんじゃない。神様は助けてくださる。干ばつは終わるよ」
すでに神という概念そのものを信じなくなっていた自分はそのことを心から消していたのかもしれない。とエリシャはぽつりと考えた。祖父の事はがみがみ怒ってばかりいる記憶しかなかったが、なぜか雨が一粒一粒打ち付けるたびに祖父の優しい言葉をこれ以外にも次々思い出してきた。祖父が死んだことをエリシャは、初めて悲しいと思い始めていた。雨は相変わらず冷たかったが自分の頬に、冷たくないものが一筋だけ伝っていくのがわかった。
と何千粒めかの雨粒がエリシャを打った時、彼はふともう一つ、思い出した。
「そう、彼はな。エリヤ。エリヤと名乗っていたよ」

なるほど、できた話だ、まるで神様が用意した芝居の脚本じゃないか。とエリシャは笑ってカルメル山を駆け下りるエリヤの後姿を眺めた。ちょうどその時、彼の姿が雨粒に溶け込むようにかき消えた。


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