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クリスマス市のグリューワイン

feat: Mary and Joseph 第十一話

パンテラはヨセフが心配だった。ある日諸用で神殿に来た時も、やはりそのことを心配していた。
彼らの働く作業場にそっと足を運びもした。幸いその時は虐められてはいないようだった。彼はパンテラに気づくことなく、黙々と煉瓦を積み上げていた。
大人の中に混ざって働く少年の姿は、違和感のないものだった。ヨセフは全く周囲と同じ存在としてそこにいたのだ。それが、何故だかパンテラには悲しい事実のように感じられた。
声をかける気にもなれず引き返したパンテラを、カイアファが呼びとめた。「どうかなさいましたか?」と言ってきた彼に、パンテラは大体のことを語って聞かせた。
「なるほど」と驚きもしないカイアファにパンテラは、なんでそんなに薄い反応なんだい、と聞く。
「まあ、ありそうなことじゃないですか?男の世界ってのはね、時としてそう言うものでしょう。貴方も軍隊にいるならわかりそうなものだけれど」
「……否定出来る事ではないが……」
「貴方が注意すれば、かえって彼がもっと虐められることになる。それは本当でしょうね。虐めるっていうのは相手を対等な存在として見ていないってことです。その価値観は赤の他人に何か言われたくらいじゃ変わりませんよ。『対等な相手を虐げているなどけしからん』と『謂れのないこと』を言われてストレスを受けたから、それならばと『虐めて当たり前の相手』を虐めて発散する。その程度のサイクルが起きるだけです」
「なら、私はどうすればいい」
「どうもしなくていいんじゃないですか?」彼は笑った。
「他人が解決できることじゃないですよ」
「何を言うんだ!」パンテラは声を荒げた。「そんな理由で人が不当に傷つけられて、良い物か!」
「では、人に何ができます?」カイアファは涼しい顔で言った。
「そういうものなんですよ。少なくとも今は、そういう時代なんです。今がそういう時代なら、それに迎合するしかないじゃないですか。時代に迎合できなきゃ、死ぬ。当たり前じゃないですか。あの物わかりの悪い、貧乏なファリサイ人たちと同じことを考えないで下さいよ。貴方はローマ市民なんだから」
その言葉を聞き、パンテラはぞくりとした。目の前の、まさにあのヨセフの先輩たちと同じような思考をし、それに悪びれてもいない少年の存在に。
カイアファは自分がどのようなことを言ったのか、分かっているんだろうか?彼はおそらく、分かっているようにすら見えた。ただ、それが悪いことだと思っていないだけの事だ。
「ほらね、あそこにいるように」
カイアファが笑いながら指さすその仕草が、パンテラには恐ろしく感じた。指さした先にはヨアザルがいて、先ほどからの話が聞こえていたのだろうか、恐ろしい形相で二人のもとに近寄って来たが、パンテラの発言は彼を意識したものではなかった。
「私も……シドンの出身だ!ローマ人じゃない!」
「市民権は持っているんでしょう?ローマ皇帝にも認められて、軍人になっているんでしょう?なら結構じゃないですか」
そう言ったカイアファの発言を遮るように、しわがれた声。
「ファリサイ派で悪かったな!成り上がり者で悪かったな!」
当然ながら、ヨアザルのものだった。憎しみに燃えたその声に、カイアファは少しも怯えていないようだった。
「僕は事実を言ったまでです。ついでに言えば、貴方が成り上がり者だなんて言ってはいませんよ。貴方が自意識過剰になっただけです」
「カイアファくん、いい加減にしたまえ!」
その光景に耐えきれず、パンテラは声を張り上げてカイアファを叱責した。
流石のカイアファも、彼に叱られるのは答えるのだろうか。びくりとすくみ上った彼に、パンテラは畳み掛ける。
「それが同じ神を信仰して、同じ場で働いている相手にかける言葉か!?彼に失礼ではないか、謝りたまえ!」
パンテラは、先日のヨセフの痣を見た時と同じような感情を、ヨアザルに対して覚えた。彼はカイアファの胸ぐらに掴みかかりそうであった。自分が怒りに燃えているのがわかった。
軍人であるパンテラに凄まれて、さすがにペンしか持たない学生であるカイアファは軽く怯えていた。だが目を白黒させる彼を見ても、パンテラは一切、自分の発言を撤回することはなかった。
だが、その空気を壊したのは、パンテラが全く予想だにしていなかった人物だった。
「余計な世話だ!」
パンテラににも負けないほどの声で、ヨアザルが叫んだからだ。
「ヨアザルどの……?」
「お前ごときに同情される覚えなどはない!薄汚いローマ人め!」
ヨアザルは心底屈辱に満ちた、と言った風に言葉を張り上げ、その場を去っていった。
庇った相手にそう言われるとは思わず呆然として立ちすくむパンテラに、カイアファが鼓動する心臓を抑えながらゆっくりという。
「ほらね?あんなものですよ」
パンテラは、何も言えなかった。何も言い返せなかったのだ。

ヨアザルは悔しかった。彼はカイアファが嫌いだった。
師匠のアンナスとともに、自分を馬鹿にしてくる彼が嫌いだ。何ごとも後ろ指さされることのない立派な身分に生まれた、まだ若い彼が嫌いだった。それに加え、神学生の中でも飛びぬけて優秀で将来有望な彼が嫌いだった。そして、自分はあんな下らない結婚しかできなかったのに、自分の師匠の愛娘、幼い時から知り合って好きあって来た相手と今度結婚する彼が、嫌いだ。
だがそれ以上に彼は、パンテラを嫌っている自分を知った。あの、神殿の少女たちにやたらと構いたがる、色男のローマ兵が、とんでもなく嫌いだと……。
彼のヒューマニズムのだしにされるくらいなら、カイアファにいびられていた方がまだましだ。パンテラに庇われるなど自分にとってはそれほどの屈辱なのだと、彼は感じていた。
彼は、神殿の少女たちの中でも、特にマリアに構っていた。そしてマリアも、彼のことを憎からず思っているようだ。
彼は乱暴に、マリアの所に向かった。仕事の予定があったが、構わなかった。今の態度で仕事に向かっても、どうせアンナスあたりにねちねちと苦言を呈される。このささくれ立った心を癒してくれるのは、彼女しかいなかった。
ファリサイ派だ、サドカイ派だ、ユダヤ人だ、ローマ人だ、そんなことを全て無視して笑いかけてくれるあの乙女しかいないのだ。

樫の木の派が、青々と茂っていた。圧倒的なほど、美しい青さだった。
その下に、マリアはいた。そして、その隣にヨセフもいた。
普段のヨアザルなら、怒鳴り込んでいただろう。また性懲りもなくそいつと会っているのか、と怒っていたはずだ。だが、何故だろうか。その時、じっと見つめ合って楽しげに会話をしている二人を見た時、ヨアザルはその場を動けなかった。
ただ、二人には見えない位置に立ちすくみ、ヨアザルはたまらない悲しみと屈辱、そして怒りを覚えた。自分の中に湧いたきわめて単純な感情を、彼ははっきり自覚できた。
彼は、悔しかった。あの無学文盲の泥棒の少年ごときに、マリアを取られたと、そんな気がして、悔しかった。

その日は別のところで仕事があったが、やはりパンテラはヨセフの事が頭から離れなかった。今日も彼の所に行ってやらねば、と言う義務感にかられ、後の事を部下に任せて彼は一足早く仕事を切り上げ、神殿に向かった。
諦めなくてはならないとは惨めなことだと思った。彼がせめて嬉しがってくれるなら、と彼は思い、急いで馬を走らせた。

神殿の入り口近くで、彼はヨセフにあった。「パンテラさん!」明るい顔で挨拶する彼の目をそっと覗きこみながら、パンテラは言った。
「今日は、大丈夫かい?」
「なんとかね」
「そうか……良かった」
パンテラは心底ほっとした。ヨセフはそれを見て「ありがとうございます」と言ってくる。
「礼を言われることなんて、何もしていないよ、私は……」
「そんなことないっすよ」
ヨセフはニコリと笑いながら、彼に言ってきた。
「昨日も言ったじゃないですか、パンテラさんがそう思ってくれるのが、おれは凄く嬉しいんです」
「当たり前の事なんだよ」パンテラは言う。「ありがたがるものでもない。当たり前の事なんだ。当たり前の……」
「そうっすか?」
ヨセフは、パンテラが絞り出すように言った言葉をすぐさえぎった。
「当たり前でも、俺を大切にしてくれる言葉なら俺は何回でも聞きたいし、そのたび嬉しいって思いますよ」
ヨセフは当たり前のように、そう言ってきた。パンテラは、それ以上二の句が継げなかった。
「考えたこともなかったよ」
パンテラはただしみじみと、そう言った。そして、ヨセフの手を優しくなでた。ごつごつとした、軍人であり、大人である自分にも負けないくらい固い手だった。
「毎日頑張ってるんだね、ヨセフ君。偉いよ。きっと将来、すごい大工になるぞ」
「ありがとうございます!」

二人をじっと、ものが言えない物乞いの老人が眺めていた。やがてその老人は、もう一人がやってくるのを見た。それをきっかけに、彼は再び目を虚空に泳がせた。誰も見ないものを見ているかのように。


ヨセフとパンテラが話し合っている。
それしきの光景を見て、もうヨアザルは自分を抑えることができなかった。理由などろくに頭に浮かばないまま、二人の所にかけていった。自分をこの上なくいらだたせる二人が一堂に会していたのだから。
「何をしている!」ヨアザルにそう叫ばれて、ヨセフとパンテラは面喰う。だって、何も特に責められるようなことはしていないのだから。
「何って……」パンテラは戸惑って言った。「話していただけですが……」
「何の用だよ、クソジジイ」
相変わらず生意気な態度を取るヨセフが、余計にヨアザルにとっては癪に障った。
「ご挨拶だな!」彼も、大人げないほど怒りに任せて声を張り上げた。
「異教徒と泥棒が神殿に居る、このことだけでも、神に対する侮辱ではないか!」
「なんですって……」パンテラは困惑した。
「仕事の都合上、神殿に入る許可は大祭司殿から受け取っておりますが……」
「だからどうした!偉大なる神の国イスラエルを異教徒のくせに支配する、ローマの汚らわしい犬がよく言うわ!おまけにその顔で神に仕える純朴な娘たちまでたぶらかしおって、この色きちがいが!」
「色きちがいとは……」パンテラはなんとか穏やかに収めようと言い返す。「誤解です。私と彼女達は決してそのような関係では」
「言い訳無用!巫女を犯すような色情狂の神の子に創られたなどと言っている汚らわしい国の民の言うことなど信じるか!」
「そんなことを持ち出されましても……」
「ここは神の家、神を信じぬものに、入る資格などない!サドカイ派は認めても、私は認めん!」
パンテラの話を聞くこともなくまくしたてるヨアザルに、ヨセフはあからさまに嫌な顔をした。
「おいジジイ、パンテラさんを馬鹿にしてるんじゃねえよ」彼はヨアザルに遠慮して強くは言い返さないパンテラの分も、と言わんばかりに敵意をたっぷりこめた視線でヨアザルを睨みつける。「お前よりはずっとやさしくて、いい人なんだよ!」
「ふん、泥棒は泥棒で、良く言うわ……!」
ヨアザルも、全く引く様子はない。
「迷惑なんだ、お前がいると!お前のような学もない、ダビデの家を汚した泥棒が神の神殿にかかわるなど、神が許されるわけはない!神は、お前のようなものを何より憎まれるのだ!お前がいると迷惑だ!誰もがお前を嫌っているんだぞ、わからんのか!マリアだとて、お前のような下品な少年に付きまとわれていると、迷惑なんだぞ!」
「んだと……?」
「出て行け!神がお怒りにならぬ前にな!」
ヨアざるは喉を千切らんばかりに言う。ヨセフに関して持っていた鬱憤を、一気に吐き出そうとしたのだ。彼の頭からはすでに理性と名のつくものは消えていた。あるのはただ、ヨセフに対する苛立ちだけだった。
「マリアに付きまとうな!あれは神に仕える清らかな娘、お前のような汚れた存在がそばにいて、心底困っているのだ!」
「冗談云うんじゃねえよ……」
パンテラは驚いた。ヨセフは信じられないほど低い声で、言った。
「マリアがそんなこと思ってる訳ねえだろ」
「ふん、字もわからなものに何が分かる!」
「分かる!それに、今はもう字だって読めも書けもできるようになった!お前たちは全く手を貸してくれなかったけどな!」
「当たり前だ、お前のような盗人に、誰が手など貸すか!偉大なダビデの家を汚したものなど、のたれ死ぬべきだ!お前も、ナザレに居るお前の両親も!」
その言葉を聞いたとき、ヨセフの目の色が変わった。彼の目に、じわりと涙がにじんだ。ヨアザルの顔が得意げになる。いくらなんでもあんまりだ、とパンテラが声を上げようとした時、涙声でヨセフが言った。
「いねえよ……もうとっくにいねえよ。二人とも……お前らに殺されたんだよ!」
彼の言葉が、日の暮れかかっている涼しい空気に響いた。ヨアザルはそれを聞いて、一瞬だけ、言葉を失った。しかし、やはり彼の怒りは、その一瞬だけ出て来た理性に勝ってしまった。
「当たり前だろうが、それが私たちの仕事だ。ダビデの名を汚す盗人たちを成敗するのは、神に仕える私たちの仕事だ」
「祭司殿!」
パンテラは怒って言った。だが彼が何か言う前に「異教徒に何がわかる!」と返された。
「とっとと神殿を去れ!汚れた者ども!」
ヨアザルは自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。いや、分かっていない。分かっているのなら、自分にパンテラを去らせる権限などないことが当然頭に浮かぶはずなのだ。彼はただ、感情に任せ、そう言ったのだ。
周囲に、人はいたはずだった。しかし誰も、介入してこようとはしてこなかった。空気はしんと静まり返っていた。
「……いいぜ」
ヨセフが静寂を破った。
「……いいよ。出てってやる!出てってやるよ!俺はもともと嫌だったんだ、人殺しの、坊主どものために働くなんてよ!」
ヨセフは自分の物入れの中から金槌を取り出し、ヨアザルの方に放り投げた。ヨアザルはそれにしたたかに打たれた。それが余計、この老人の怒りをあおった。
「何が人殺しか!我々は神のため、ダビデのために泥棒を成敗しただけだ!」
「泥棒なんて」
ヨセフは息を切らしながら言う。
「俺も、父ちゃんも、母ちゃんも、ご先祖様たちも、一回もしてねえよ!あれは……あれは、俺の家のもんだ!あの指輪は、俺のご先祖様のもんだ!」
ヨセフはそう言い捨てて、いちもくさんに駆けだした。神殿の門を、彼は泣きながら、走り去っていった。

パンテラはしばらく、なにも言えなかった。ただ、自分の心が打ちのめされたようになっているのを自覚した。
「……ヨアザルどの」彼はぼそりと、無気力に言う。「お分かりですか。貴方が何をしたか……お分かりなのですか?」
だが、次のヨアザルの言葉は、彼を心底失望させた。
「神に仕える祭司として、当然のことをしたまでだ」
あの、自分の吐いた暴言のせいで泣きながら走り去る少年の姿を見て、彼は何ら悪びれていなかったのだ。
「分からないのですか!?」
パンテラは声を張り上げた。しかしヨアザルの目を見た時、何もかも無駄だ、と悟った。


騒ぎが収まったころ、地面に転がったヨセフの金槌を、何者かが拾い上げた。


ヨセフは、泣きながら走った。もう神殿に戻る気はなかった。どことも知らないところに走った。やがて走りつかれて、彼はうずくまった。
「……父ちゃん。母ちゃん……」
言葉にならずに、彼は泣いた。誰もいない場所で。寒いうえに、空腹感を覚えた。でも、もう神殿に戻る気はなかった。
ことり、と、うずくまった彼の前に、何かが置かれた気がした。
彼は頭を上げる。目の前には、ヨアザルに先ほど放り投げた金槌が置かれていた。
彼は驚いて、目を白黒させながら周りを見渡した。ボロを纏った物乞いの老人が一人、すでに遠く離れたところを歩いているだけだった。それは、神殿の入口に居た彼だった。


あれはきっと、言葉の勢いだ。
ヨセフも、ヨアザルも、頭に血が上りすぎただけだ。パンテラはそう思おうとした。次の日になれば、ヨセフもまた元気に神殿の工事に携わっていると、信じたかった。
しかし、大工たちに聞くと、ヨセフは昨日から帰っていない、とのことだった。あの生意気な野郎がようやく消えてせいせいした、と言う言葉をパンテラは必死で聞き逃した。
自分の責任だ。
自分が、あの時止めていられれば。

「パンテラさん」
自分を呼び止める、少女の声が聞こえた。
「ヨセフ、知りませんか?今日はまだ会ってないんですけど」
それは、マリアだった。

マリアに、なんと話せばよかっただろう。
自分の後見人がヨセフを追い出してしまったと、どうして彼女に告げられるだろう。彼女はそれで、どれだけ悲しむだろう。
パンテラは、全てを言えなかった。いずれ、どうせヨアザルが時が来れば話してしまうだろうと思いつつ、それでも彼自身の口からは言えなかった。
ただ、ヨセフはおそらくもう帰ってこない、とだけ、パンテラはマリアに告げた。

マリアは丸い目に涙をいっぱい溜めた。言葉など、出てこなかった。十二年間の人生で初めてと言うほど、マリアの心はただただ、悲しみのみに満たされた。
パンテラは何も言わず、寄る瀬を探すマリアの小さな体を抱きとめた。そして、少女が声を殺して泣くのを、ただただ、見守り続けた。
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