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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon プロローグ

バテシバは十人並みな女だった。それが、彼女のかつての夫が彼女に下した評価だった。
彼女はユダ族として、ガドの地の祭司の家に生まれた。祖父は有名な軍師だった。彼女は一切申し分のない裕福な家で育った。
しかし、家柄を抜きにして彼女自身の魅力というと、何を置いても通常かそれ以下だった。
まず、彼女はあまり優しくなかった。彼女は子供も動物も嫌いだった。加えて、なんの手作業をさせても彼女は不器用な部類だった。何とかできないことはない、というほどだ。歌も踊りもぱっとしなかった。頭もよい方ではなかった。それに加え、彼女は働くのが嫌いだった。また、彼女はひどく無愛想で、人を楽しませる話し方というのも心得てはいなかった。ゆえに、年の近い少女たちが楽しげに談笑しているときも、バテシバはただ一人その輪に入れずにいた。
ただ一つを除いて、彼女にはおよそ特別の美点といえるようなものはなかった。ただ一つというのはバテシバの容姿についてだ。バテシバは美しかった。彼女の周囲に、彼女ほど美しい人物はいなかった。たとえそれ以外は全くの無能でも、これを失ってしまうのは惜しい、そう思わせるほどの魅力が、ただ容姿にのみ注がれていた。
小さいころから、彼女は容姿をほめそやされた。容姿以外、ほめそやすところが全くない女だったからだ。また、容姿の面に関してはほめそやさざるを得ないほど、他の追随を許さない出来栄えであったからだ。
彼女はまさに、ガドに咲いた1輪の花であった。彼女は花でしかない。美しいだけで何の役にも立ちはしないのだ。

彼女のかつての夫、というのはウリヤという名前のヒッタイト人である。ヒッタイトの地に生まれはしたものの、祖国を捨てイスラエルに逃亡してきた。そしてユダヤ人を装い、イスラエルの軍隊に入ったのである。体つきもたくましく、性格もよかった。品行方正な軍人として、なかなか早くの出世をし、王宮の近くに家を持って暮らしていた。
バテシバがウリヤと結婚した理由は、先述の通り彼女の容姿によってだ。ウリヤは彼女に一目ぼれをした。そして、彼女と結婚をした。
やがてウリヤも、彼女がひどくつまらない女性であることに気が付いた。そして先述の言葉を発したのだ。バテシバは決して神に選ばれたような突出したような女性ではない。偏り方が極端とはいえ、彼女も欠点もあれば美点もある、ただただ十人並みな女であった。そして、ウリヤはそんなバテシバを十人並みの自分にふさわしい妻だととらえ、十人並みな夫婦と同じように、彼が戦場で死に、彼女が国王ダビデの側室になるまで彼女と共に暮らしていた。



「大丈夫ですか、奥様」
老婆がバテシバに声をかけた。
彼女は数時間前、産気づいた。
産屋は狭くて汚い。いるのは、彼女と、先代の王の代から王宮に仕え続けている侍女、今はよぼよぼのみすぼらしい老婆だけだ。
側室とはいえ、一国の君主の妻のお産、つまり王の子の出産にしては、あまりにも粗末な対応だった。しかし、彼女にはこれで十分、という判断が下されたのだ。
「大丈夫ですか」
老婆の震え声が、彼女にとっては鬱陶しい。後宮に仕える侍女は、みんな上品で美しい。しかし、彼女をはじめごく一握り、長く仕えているうちに年老いてしまったものはいた。今バテシバについている老婆はその中でも一番醜い。香水でごまかしてはいるものの、確かな老人特有のにおいが彼女からは感じられた。産屋も不潔で悪臭がする。何かが足元で動いたような気もした。幸い、床は暗くてそれが何だったのかまではわからなかった。
こんなはずではなかった、とバテシバは陣痛の痛みの中考える。

王の後宮に入ってからというものの、バテシバの心は休まらなかった。もともと、他の女と交われない彼女が、入ってすぐに周囲の側室たちから孤立していったのは当然だが、理由はそれだけではなかった。
ダビデと正妻のミカルの間には、子供がいなかった。後宮ではもっぱら、ダビデは彼女を嫌っているといううわさが流れていた。それが特に、後宮内で側室たちの間に対抗心を燃やさせていたのだ。
ダビデがミカルを愛していて、彼女の間に生まれた王子がいて、それを誰よりも可愛がっている、という状況なら、彼女たちもある程度の諦めはついたのかもしれない。しかし、ダビデがミカルを愛さず子供もいないとなれば、自分の子が王位につくかもしれない。王の母親は、女が付ける限りの最高の立場だった。少なくとも、女に権力の与えられないイスラエルにおいてはそうだった。
王の後宮ほど美しい空間はイスラエルにはなかった。豪奢に飾られた宮殿で、きらびやかな着物に身を包んだ、花と見まごうばかりの美しい女性のみが暮らす城。仕えている侍女も、往々にして美しく、品がよかった。立ち入ることのできる男性は、ダビデ王ただ一人だけ。そのダビデすらも、息をのむほど美しい男だった。イスラエルにおいて楽園にいちばん近いところがあるとすれば、それはダビデ王の後宮だ、と、誰もが語っていた。しかし、欲望はその後宮を嫉妬と怨念の渦巻く醜い戦地にかえた。王の気を引くために優しい微笑みを浮かべてはいても、内心では誰もが自分以外の女がみんな消えてしまえばいい、と思っていた。

その中において、このバテシバと言う女が他の女性から嫌われたことは至極当然なことであった。また、彼女の生んだ最初の子供がすぐに死んでしまったことを理由に公然と冷遇されたのも、至極当然なことであった。


自分に美しさ以外の何もないことが、バテシバにはよくわかっていた。美しさのみが長所というのは恐ろしい。若さを失えば、美しさも失うのがこの世の理であるからだ。ちょうどこの老婆のように。この老婆も、ダビデ王の先代、サウル王に仕えていた時は大層な美人で、サウルと関係を持ったこともあると聞く。そのなれの果てがこれだ。しかし、それでも彼女は婢として働くことができるから、今もこうして場所が与えられている。自分には何もなくなるのだ。その前に、居場所を得なくてはならない。バテシバは少女のころからその強迫観念にとらわれ続けていた。美しくなくては、娼婦にすらなれない。乞食になることしかできない。そんな生活をわざわざ望む人間が存在するだろうか?何の技能をつけようにも、何もできなかった。努力をするということが、彼女には不可能だった。どんなに努力をしようと努力してみても、努力自体ができない彼女には一切無駄だった。
彼女に残された道は、なるべく地位の高い男性と結婚することだった。そして彼の跡取りを生み、一生を過ごす場所を与えられることだった。ウリヤが誠実でいい男だったのは、彼女もよくわかっていた。ただ、ウリヤには地位が足りない、とバテシバは思っていた。


イスラエルでは、女性は月経が終わると水浴びをして身を清めた。バテシバも、無論それを実行していた。ある日、ウリヤがちょうど戦争で出て行った時も、バトシェバは清めの水浴びをしていた。その時、ちょうど家からさほど遠くはない王宮のバルコニーから流れてくる音楽に気が付いた。竪琴の音だった。
バテシバがその音に気をとられて振り返ると同時に、彼女ははっとした。美しい。これ以上美しい男性がこの世にいるのだろうか。竪琴を演奏していたのは、それほどの人物だった。
遠目からでも、艶やかな長髪から見え隠れする彼の彫りの深い、作り物かと思うほどに整った顔立ちも、豪華な衣装に包まれていてもわかるしなやかながらも男らしくたくましい体つきも、竪琴の弦を走る驚くほど細長い指もはっきりと見てとれた。長いまつげに縁どられた深い色の瞳すらも、目の前にあるようにありありと分かるようだった。同時に、バテシバはそれがダビデ王であることに気が付いた。
ふいにバテシバの心にわきあがったのは、自分がもしも彼の妻になれたら、ということだった。そして彼女は、それができる美貌が自分にはあると確信していた。彼女は、わざとダビデに見せつけるかのように体を洗って見せた。
やがて一枚の書状が家に届いた。ダビデからのものだった。

ダビデに抱かれたときのことを、彼女はよく覚えている。近くにみる彼、王の衣装を脱いで現れた彼の裸体は、一層美しかった。軍人の夫よりも背が高く、完璧に均整のとれた隙のない鍛え抜かれた肉体でありながら、どこかしなやかで優美で、女性的な美しさをたたえているようにすら感じた。神々しいまでの美しさだった。女ほど色白ではないが、驚くほど滑らかな肌にまとわりつく彼の張りのある長髪やバテシバの唇に重ねられる春の花を思わせる優しげな色の唇が、なおそのような思いを強くさせた。もしも彼が女性であったら、と思えばぞっとするほどでもあった。きっとバテシバの美しさなど、問題にもならない。彼はすべての男性の目を引き付け、彼のためにすべての男が殺し合いを始めてしまうのだろうとすら思えた。そんな彼の肉体に押しつぶされるように抱かれながら、彼女はダビデの目を見ていた。彼の目は、どこか、悲しげだった。満たされていない人間の目だった。そこがまた、魂が抜けるほど美しいと思った。
ダビデはバテシバを抱いている間、一言も声を発さなかった。国民に声高らかに演説する彼の姿を知らなければ、この王は生まれつきの唖なのだろうかと疑ってしまいそうだった。彼が言葉を発したのはただ一言、一通りのことを終えてからの「帰るがいい」という言葉だけだった。低く、もの悲しげな声だった。
バテシバはその日、ダビデの子供を身ごもった。

不貞の子を身ごもるほど慌て、恥じるべきこともない。バテシバは知っていた。知っていて、バテシバは喜んだ。もしかすると、ダビデが自分を妻にしてくれるかもしれない。バテシバの心の中にあったのは、その欲求一つだけだった。彼女は子供がいる旨を、ダビデに書状で伝えた。しかし、返事はなかなか帰らなかった。
ようやく届いた返事には、お前の夫を殺してもよいかとそっけなく書かれていた。バテシバはよいという旨と、ダビデに対するあまりよくない頭で考えた愛を求める言葉を書き連ねて送った。
直後、ウリヤが戦場で戦死したという知らせが彼女のもとに入ってきた。詳しく聞いた話によれば、ウリヤはいったんイスラエルに帰還していたらしい。なんとか、お腹の中の子を彼の子だと勘違いさせるために、ダビデが家に帰らせようと取り計らったということだ。しかし愚直なまでに誠実なウリヤは聞き入れず、ダビデから戦場の指揮官への書状をもって戦地に帰っていったとのことだ。書状の内容は、ウリヤを最前線に置き去りにしろとのことだった。
一連の流れを聞いて、バテシバはウリヤの誠実さに感謝した。これで彼の子になってしまっては、元も子もなかった。
その後日、彼女は大分大きくなったお腹を抱えてダビデの後宮に入っていった。

そうして産み落とした子供は、生まれて数日で疫病にかかり、あっけなく死んでしまったのだ。


周囲は、忠実なウリヤを殺して妻を寝取ったダビデに対する罰だと言っていた。ダビデはそれを聞き入れたかのように、静かに喪に服した。しかし、バテシバはこれは自分に対する罰だと思っていた。
男は女を卑下し邪推する割に、女の実際に持っている邪悪な心には意外と疎いものだ、とバテシバは一連のことが全てダビデの肉欲によっておこったとでも言わんばかりの周囲を見て思った。美しい自分をを王宮に連れ込み裸になって抱き合いはしても、ダビデの悲しげな眼には、肉欲の他の何かの感情があったように思えた。かえって醜い欲望に燃えていたのは自分のほうであることを、バテシバはちゃんと知っていた。肉欲ということにのみ関して言うにしても、雌の孔雀がより羽の美しい雄を選ぶのと全く同じ気持ちで、夫よりも数段美しくたくましいダビデに純粋に抱かれたい気持ちが自分の中に強くあったこともまた、バテシバは否定できなかった。
逆に男がそうなら、女は敏感でなおかつ残虐、それでいて正当なものである。バテシバは冷遇を受けた。後宮のだれからも軽蔑された。彼女らの眼には王子を生むという職務を果たせたかった女に対しての嘲笑だけではなく、自分の欲望のために誠実な夫を見殺しにし偉大な王をふしだらにも誘惑した、身勝手で残虐で好色な女への至極まっとうな軽蔑の念も多大に含まれていた。


「奥様」
「苦しい、苦しい!お前の下品な声を聴いているともっと苦しくなるのよ!」

だから、今度また子供を産むことには、バテシバは自分のすべてがかかっている、と思っていた。
王と一回寝れば飽きられる側室も少なくない中、再度ダビデの子供を孕むことができたのは、彼女にとって不幸中の幸いだった。しかし、今度また失敗作を生んでしまえば、またしても自分に軽蔑の視線が矢のように降り注がれることは容易に想像できることだった。それは夫を殺してまで自分の欲を選んだ女の罪は永遠に許されないのだと、神自ら達せられるにも等しいことなのだから。
一旦そう考えると、もう止まらなかった。いくら五体満足であっても、絶世の美しさを持っていても、生まれてくる子が女の子であれば自分は死んでしまう、とバテシバはそこまで思い詰めていた。王子を生みたい、誰よりも優れた王子を、ダビデの跡を継ぐ人物を…。
バテシバはひたすら神に祈った。許しを乞うた。素晴らしい王子を与えてくれと、過去のことを悔いつつ、身が引き裂かれるような思いで祈った。


赤ん坊が自分の体から生まれようとしているのがわかった。
バテシバは無我夢中で赤ん坊をこの世に生まれさせようと、力を入れた。凄まじいほどの痛みが体を蝕む。老婆があわてて赤ん坊を取り出そうとした。バテシバはひたすら、明り取りの窓からのぞく月が雲に隠されたり、また現れたりするのを澄んだ美しい瞳で睨むように見据えてどうか、立派な王子を、私の名誉を回復する子供を……と神に祈り続けていた。



「(おかしい)」激痛の中で彼女は考える。

「(どうしてお前は何も言わないの)」

陣痛の時はうるさいほどに声をかけていた老婆の声が、聞こえない。彼女もまた必死になっているからだろうか?少なくとも、ダビデとの間にできた一人目の子供を産んだときには、付き従っていた産婆や侍女たちは励ましの言葉を一身にかけてくれた。どうしてお前はそんなに静かなの?集中しているから?それともただ単に気が回らないからかしら?とバテシバはわずかに考える。

やがて、子が産み落とされた感触があった。しかし、バテシバは目の前が真っ暗になるような思いだった。


産声が、一切しなかった。


死産、という言葉が彼女の頭に浮かんだ。またしても、自分は失態を犯してしまったのだ。夫殺しの罰として。

「奥様」

老婆の震え声。

「聞きたくない!聞きたくないわ!!何も言わないで!!」
「奥様、このようなことが…このような…」
「聞きたくないと言っているでしょう!お前は耳も遠いのね!!」
「このような…産声も上げずに、息をしている赤子なんて……」

その言葉にバテシバは耳を疑う。生きている?この子は、生きているの?と目を見開いた。
産声を上げずに息をする赤ん坊なんて、聞いたことがない。バテシバは疑惑にとらわれながら、老婆に詰め寄った。

「お見せ」
「お、奥様」
「お見せ!!」

ひったくるように老婆の腕から赤ん坊を奪った。信じられない。確かに息をしている。おまけに、男の子だった。
バテシバの心は一気にうれしさに満たされた。双眸から、涙がこぼれる。

「ああ、主よ、感謝いたします……」
「お、奥様、そのお子様は」

老婆がなおも震え声で何かを言わんとしている。

「なによ、うるさいわね。おめでとうの一言も言えないの……」

バテシバはその言葉を遮ったのは、ぽつんと月明かりに照らされたその赤ん坊の肌を見たからだった。
肌の色が違う。
死体のように白い。まるで、血が通っていないかのようだ。
でも、息をしている。赤ん坊は死体ではない。確かに生きている。

どういうこと、とバテシバは混乱したまま月明かりの差し込む場所に赤ん坊を抱きあげた。
ぎょっとした。彼に髪の毛は生えていないように思ったが、それは違った。透き通るような薄い、真っ白な髪が彼の頭には生えていたのだ。金髪とも違う、老人のような水気を失った髪の毛が。
バテシバが震えている中、静かに息をする赤ん坊はゆっくりと目を開けた。バテシバは悲鳴を上げた。彼の瞳が、鮮血を思わせる、毒々しいほど鮮やかな赤色をしていたからだ。体中の血の気を、一身に集めたような瞳だった。


「奥様、そのお子様は…まるで…悪魔の子、です」

老婆の声は、聞こえなかった。
バテシバは不気味なわが子を抱える力もなくなった。彼女の腕からずるりと力が抜け、危うく地面に堕ちそうになった赤ん坊を老婆が抱き留めたことにも気づかず、老婆に礼も言わず赤ん坊の心配もせず、ただただ彼女は力なくうなだれていた。

この売女が、神は決して、貴様の罪を許しはしないのだ、とその子の赤い瞳は彼女に語りかけていた。少なくとも、彼女にはそう思えた。


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