クリスマス市のグリューワイン

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feat: Mary and Joseph 第十三話

自分が生まれてくる前ヘロデがどうだったかなど、アンティパスにわかるはずがない。アンティパスが生まれたその時に、すでにヘロデは今のような人物だった。
父の穏やかな顔など、見たことはない。父の笑顔はめったに見ない。見たとしても、非常にいびつなそれでしかない。
そして、兄たちもどこかお互い憎しみ合っているようだった。小さなアンティパス、母がユダヤ人の中でも差別されている立場にあるサマリア出身の出でしかないアンティパスはその憎しみの中にはかろうじて巻き込まれずに済んでいたものの、彼の両の眼はずっと、ぎすぎすした兄たちを見据えていた。
兄の一人、アリストブロスはアンティパスにいささか優しくしてくれた。自分の母とそう歳も変わらない年齢の離れた彼に、アンティパスも懐いた。彼は自分の家に疑問をもつアンティパスに、何のためらいもなく王家の事情を全て話してくれた。

アンティパスが生まれるずっと昔にすでにヘロデ王に処刑されてしまった、ハスモン家の血を引く貴人マリアムネ。美しく、気高くも優しい彼女を誰もが愛した。そして、ヘロデこそ、この世で一番、彼女を愛していた。彼女のために、この世で一番最初に愛したはずの女、先妻を離縁してしまったほどだ。
しかし、ヘロデは彼女の弟を殺してしまった。自分の王位をあいつはいつか奪うと、そのような強迫観念に駆られすぎた結果なのだと、今になってアンティパスにははっきりわかった。
ヘロデも変わり、マリアムネも変わった。穏やかな貴婦人然とした姿はどこへやら、口汚く夫を罵るようになった。ヘロデはそんな彼女の変貌に痛く心を痛めていたようだった。二人の子供であるアリストブロスは兄弟であるアレクサンドロスとともに、ずっとそれを見ていた。見ているだけで、何も言えなかった。どうしても。親の争いに、子供が口を挟めるはずはなかった。
マリアムネがローマの将軍と密通しているだのと言ううわさが飛ぶたびに、ヘロデは激しく慟哭し、子供たちを怯えさせた。
やがてある日、マリアムネの祖父が処刑された。理由は、彼の孫と同じだった。彼は王家の出ですらないヘロデを嫌い、彼を引きずりおろそうと反乱を企てたのだ。しかし情報が筒抜けになり、ヘロデは王として、当然のごとく彼を処刑した。そしてそれはそれはマリアムネとヘロデの、ぼろぼろになった関係に止めを刺すには十分すぎる事件だった。
アリストブロス自身も、あの時何があったのか、よく覚えていなかったらしい。ただただ、恐ろしかった。父と母の間に飛び交う憎しみが恐ろしかったと、彼は幼いアンティパスに語った。
ただ何よりも鮮明に焼き付いている出来事があった。アリストブロスが最後に覚えている、母の言葉。夫に向けられた言葉が、彼の耳に焼き付いて、離れなかったらしい。
「王家でもない、ただの下賤な血のくせに!」
母の言葉を、彼はそれ以上聞けなかった。次に母と会った時、それは彼女が死んだ時だった。美しいマリアムネは、かつて彼女を心底愛した男であったヘロデの手で、弟と、祖父と同様に処刑された。

何故、アリストブロスはそのことを語ったのだろうか。彼はおそらく、伝えたかったのだ。父がいかにひどい存在であるかを。
彼は、父を殺そうなどとは思っていなかった。それだけは確かだ。しかし、同時に父をこの上なく恐れ、憎んでいるのもまた同じだった。せめて、せめて彼は父にまつわる真実を、何も知らないヘロデに教えようとしたのかもしれない。

マリアムネが死んで、ヘロデの被害妄想がマリアムネの子供のもとに行くのは、無理のない話だった。アリストブロスはそのことにひどく怯えていたのを、アンティパスはよく覚えている。
マリアムネのために打ち捨てられたヘロデの長男が、やがて帰ってきた。それがアンティパトロスだった。彼もそして同様に、アレクサンドロスとアリストブロスを憎んでいた。彼にとって彼らは、なにも悪いことなどしなかった自分の母と自分を打ち捨てさせた張本人であり、また、自分の立場を脅かし得る存在なのだから。
アリストブロスは声をひそめて、アンティパスにこう語った。
「アンティパトロスは、私たちをいずれ陥れて、処刑しようとするだろう。でも……でも、私たちが一体、彼に、何をした!?」
何もしなかったはずだ。
でも同時に、取り返しのつかないことを、ただマリアムネの子として生まれた時点で、してしまったのだ。
アンティパスはその時、ぼんやりとそう考えていた。だから信頼する兄の必死の慟哭であっても、彼と一緒にアンティパトロスを憎むこともできなかった。彼はただ、言いようもなく苦しくなって、アリストブロスの胸に抱かれた。

アレクサンロドスとアリストブロスは、いつの間にか死んだ。ヘロデを裏切り反乱を企てていたという、嘘か誠かもわからない沢山の証拠とともに、彼らは処刑された。


彼は父についていって、アリストブロスの宮廷に行った。使用人たちの静止など何の役にも立たず、ヘロデとその親衛隊はアリストブロスの家を好き放題略奪した。その中、ぼんやりとその場に居たアンティパスは、ある少女を見た。
それがアリストブロスの娘であった、ヘロディアだった。
彼女を初めて見たわけではなかった。アリストブロスの館に行くたびに彼女とは顔を合わせた。穏やかな笑顔が美しい、とてもよくしゃべる、きれいな少女。アリストブロスは彼女の事を、こう言っていた。
「ヘロディアは、美しい……本当に美しくて……死んだ母上に、まるで生き写しだよ」
そう聞かされていたから、アンティパスには目の前で起きた一連の事の意味が、ぼんやりと解った。今までにないほど恐ろしい祖父におびえるヘロディアと、その前に立ってただただ、じっとヘロディアを見下ろすヘロデ王。彼は、何を見ていたのだろうか。きっと彼は、ヘロディアに、マリアムネに生き写しのヘロディアに、マリアムネを見ていたのだ。誰よりも愛し、その何倍もの憎しみを注いだ彼女を見ていたのだ。
彼は物陰でそれを見るアンティパスには気づかないまま……最も気づいていたとして、何の関係もなかっただろう……ヘロディアの小さい、細い体を殴りつけた。泣き声と叫び声が混ざり合ったような声を上げて、ヘロディアは大理石の床に倒れた。
アンティパスは恐ろしさに、体が硬直した。ヘロデは殺意よりも、もっと恐ろしいものをヘロディアにぶつけているかのようだった。彼は小さな孫娘の体に覆いかぶさった。そして鈍い音を立てて彼女のドレスを引き裂き、彼女の柔らかい二本の足を無理やり開いた。
普通の人間を愛するよりも何千倍も強かった愛。そして、それを凌駕する何万倍もの憎しみ。ヘロデがマリアムネに持っていた感情は、そのようなものだったのだろう。だが、十にも満たない少女の体が受け止めるには、それはあまりに膨大過ぎた。
その時、はっきりとアンティパスは見た。ある瞬間、苦痛にわめくヘロディアの顔が、すっと無表情になった。涙は止まり、叫び声を上げる小さな口はふさがり、祖父に許しを求めて嘆願していた目は何の感情もたたえずに虚空を見つめた。
感情を生かしたまま受け止めるには、彼女に与えられた苦痛はあまりに膨大過ぎたのだ。アンティパスには、それが何より、恐ろしかった。
「何をしているんだい」後ろから何者かが声をかけてきた。
それはアンティパトロスだった。彼は笑って、あくまで幼い子供を諭す口調でこう告げた。
「子供が見る物じゃない。お父様を邪魔しても、いけないよ。さあ、あちらに行こう」
彼はそっとアンティパスの手を握って、引きずっていった。アンティパスは、彼に異常を見た。政敵を殺した男の顔ではなかった。彼はただ、怯えていた。彼の手は汗に濡れて、声は震えきっていた。
「お父様の機嫌を損ねては、いけないよ」
彼は小さく、小さくそう言い足した。

その感覚は正解だった。アンティパトロスは、まるでアリストブロスと同じ人物のように、アンティパスの目に映った。彼もただ、ひたすら怯えているだけだった。
「兄上様」ある日、アンティパスは彼に言った。「なぜ、アリストブロスの兄上達が死んでしまわれたのに、そんなにお苦しそうなのですか?」
「私は、馬鹿だったよ」彼は絞り出すように言った。「彼らを殺したのは、この私だ。私が、彼らを誹謗中傷したから、父上は彼らを処刑されたのだ。彼らが、憎かったから……」
アンティパスには、もうそのあたりの事は分かり切っていた。驚きもしなかった。そのことには特にアンティパトロスも驚かず、代わりに続けた。
「だが。違った。違ったのだ。私は、罪を犯してしまった。その罪がいつ自分の身に降りかかるのか、耐えているのが恐ろしい。早く、王になりたい。父上はいつまで生きているのだ。私は恐ろしい。あの父上が、いつまでも、いつまでもイスラエルに君臨していることが……」
彼は震えながら、そう言った。
「私が殺そうと憎むべきは、アレクサンドロスとアリストブロスではなかった」彼はぼそりと、彼ら以外は誰もいない空間で、そう言った。

やがて王宮に、アンティパトロスが父を毒殺しようとしていたという話が流れた。証拠や証言が次々と流れる中、アンティパトロスは牢に投獄された。
彼は必死で喚いていた。だがそれは無実を訴える声ではなかった。かわりに、父がいては、イスラエルの終わりだ、と、ずっとずっと喚き続けていた。

その一連の事が終わって、アンティパスは疑惑に駆られた。どうしてあの兄は、そんなことをしたのだろう。黙っていれば王位につけるのに、なぜ毒殺などたくらんだのか。
彼はそれが疑問だった。だから、それを父のもとに話に行った。
「証拠はそろっている!」険しい顔をした父は、ただそう言うだけだった。それでも彼は、疑惑が晴れなかった。彼はそっと、アンティパトロスの閉じ込められた地下牢に向かった。

「兄上がアリストブロスの兄上を殺そうとしたのは、わかるのです。兄上の母は、離縁されたのですから。僕の母もほとんど見向きもされておりません。お気持ちは分かります。」彼は淡々と言った。
「父上も、貴方も、王位のために動いていました。そこまでは分かるのです。でも、どうして、王位継承が確実になった兄上が、わざわざ父上を殺そうとなされたのですか?」
アンティパトロスはそう質問してくる弟を見据えながら、ため息をついた。
「なぜ、君のような子供がそんな疑問を持たなくてはならないのか……」
そう悲しげに言った後、彼ははっきりと言った。
「アレクサンドロスとアリストブロスに、申し訳が立たない。私は、殺すべき相手を見誤ったのだよ。アンティパス、君にも、分かる。悲しいことだがどうしても、いずれ分かってしまうよ。君も、あんな人の息子として生まれてきてしまったのだから」
アンティパスは言い返した。
「父上は死ぬべきと、そうおっしゃるのですか?」
「そうとも」彼ははっきり言いかえした。
「人間として引き返せないところに、父ははまってしまったのだ。父の一番傍らに立つものになって初めて分かったよ。あまりにも遅い気付きだったが……ダビデを疑うことを止められなかったサウル王のような……誰もかれも自分を裏切るのだと信じて、殺せば殺すほどその考えが染み付くような人間に、父はなってしまった」

アンティパスはその言葉を聞いたのを最後に、地下牢を去った。自分にもいつか分かる。彼の言葉が真実であると。その言葉を反芻しながら……。
だが、その言葉がすぐに真実になるとは彼もアンティパトロスも思っていなかっただろう。地下牢から出てきた彼を、父が見ていた。彼は父に挨拶したが、その時、ぎょっとした。父は恐ろしい目つきで彼を見ていた。
「アンティパトロスの所だな?何を聞きに行った?」彼は言った。
「大した話では……」
「嘘を突け!」
大声を出して、父はアンティパスの肩を抑え込んだ。
「さあ、はけ、計画を吐け!」
「計画?」アンティパスは怯えながら言う。「おっしゃることが、良く分かりません……」
「白を切るな!」彼は言った。
「アンティパトロスを無罪にしようと私に話しかけてきたくせに!」
「な、なんですって……?」
誤解だ。
自分はただ、聞きたかっただけだ。それなのに、父の中では、自分とアンティパトロスがつながって、ひいては暗殺計画に自分まで噛んでいるということになってしまっているようだった。
「違います、父上。僕は……」
「その言葉が証拠だ!裏切り者はみんなそう言う、罪人はみんなそう言う!」
自分をぎらぎらと見下ろす父の目を見て、アンティパスは体を動かせないまま、思った。そうか、これだ。これが、アンティパトロスの視た世界なのだ。そして、アリズトブロスの視た世界。ヘロディアの視た世界。ヘロデに殺された人々が見た世界なのだ。この世界を見たからこそ、殺すべき相手を間違えた兄は、今度こそ、正義を行おうとしたのだ。
「吐け!」ヘロデは詰め寄った。
「前々から、貴様は不気味な子供だと思っていたのだ。次に王位を脅かすのは、貴様だろう!」
半狂乱に叫びながら、ヘロデはずいと手を伸ばした。そしてそれは、アンティパスの左目に伸ばされた。
アンティパスは激痛に悲鳴を上げた。「吐け!吐け!」父はそう叫んで、アンティパスの眼球を無理やりに掴んだ。
ぶちリぶちりと何かが切れる感触があった。気が狂ってしまいそうな痛みとともに、アンティパス左の視界が、忽然と消え去った。アンティパスがよく見ると、自分の左目は無残に破裂して、父の皺くちゃになった手をどろりと汚しながら、その中に納まっていた。
「……本当に、関わっておらんのか」
片目を失い、痛みに崩れ落ちた幼い息子を目の当たりにして、ヘロデは震える声でそう言った。アンティパスははいともいいえとも言えなかった。痛みのためにうめき声をあげるだけだった。
「だとしても……」父は震え声で言った。「貴様が不気味な奴なのは本当だ!」
彼は振り向きもせずに走って、去っていってしまった。
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