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クリスマス市のグリューワイン

feat: Mary and Joseph 第十四話

アンティパスはよろよろと、血の流れる眼孔を抑えて外に出た。助けを求めようと思ったのだ。
だが彼が必死に痛みを訴えても、不思議なことに使用人は皆無視した。走って彼のもとから逃げさえした。
彼はそれでも必死で助けを求めて、王宮中をさまよった。使用人も奴隷も、みんな彼を無視する。じくじくと耐え難いほどの痛みがさらに増してくる。やがて彼の残った右目が、アルケラオスとフィリッポスを見つけた。
「兄上様」彼は力なく言った。「助けて、助けてください……」
彼は小さな手を伸ばした。アルケラオスとフィリッポスはその場から逃げなかった。しかしかわりに、彼のその手を、ぱちりと弾き返したのだ。
「お父上に何をした?」アルケラオスが冷たい声で言った。
「お父上が言ったのだ。アンティパスに一切手を貸すなと」
「え……」
力なく言ったアンティパスに、フィリッポスが必死で叫んだ。
「アンティパス、悪いのはお前だぞ。お前が悪いことをしたから、お父上が怒ったのだ。それだけなんだぞ!……それだけだ!お前は悪い子だから、誰も手を貸さない、当たり前だ!」
その叫びを聞いて、アンティパスはのばした手をそろりと下げた。
「お父上に逆らったお前が悪い。それだけだ」
アルケラオスは去っていく弟に、一言だけそういった。

よろよろと歩き続ける彼に、やはり誰も手を貸すことはなかった。みんな、アンティパスを避けた。ヘロデ王の怒りを買わないために。
傷が痛み続ける。このまま死んでしまうんじゃないか、とか彼が思っている時だった。
彼の残った片目は、一人だけ、彼を避けることなくただとどまっている人物を見つけた。黒いターバンと星の模様のローブに身を包んだ、金髪碧眼の、痛みを忘れさせるほど美しい青年だった。その青い目で彼は、アンティパスをじっと見つめていた。
「たすけて……」アンティパスは力を振り絞って、手を彼に向かって伸ばした。
「助けて……痛い、痛いよ……」
彼はきらきらと金の髪を輝かせながら、真直ぐアンティパスのもとに歩み寄った。
「いいとも」
彼はそうとだけ言って、ふわりと彼を抱きしめた。

彼はアンティパスを抱きかかえ、どこかの部屋に連れていった。迎賓館の一室だったが、それを判断する力はなかった。
彼は瑠璃色のガラスの壺に入った液体をガラスの盃に注いだ。
「ハオマ酒だ。飲みたまえ。痛みを忘れられる」彼は寝台に横たえたアンティパスの唇にガラスの盃を押し付けた。力なく、彼の喉はそれを通した。言葉通り、少しずつ、痛みが引いていった。
アンティパスは彼の胸元を見つめた。胸元を飾る、豪華な猫目石の飾りを。ちょうど、自分の眼球と同じくらいの大きさだった。
「ありがとう……」
痛みを感じなくなって、彼の意識も朦朧とした。ふわふわと夢心地になりながら、それでも目の前に居る美しい青年の顔は見えていた。
「酷いね。なんと、酷いのだろう……」
彼は黄金の指輪をはめた白い手を、アンティパスの顔に当てた。彼はじっと、アンティパスを見つめていた。そしてその傍ら、そばにおいてあった見事な装飾を施した細い鉄の棒を、香炉の火種でチリチリと炙り始めた。
アンティパスは、酩酊感に襲われた。痛みを忘れ、眠くなった。
目の前の青年の手が、自分の失われた左目に添えられるのを、彼は感じた。
「哀れなものだ……君のような美しい子が、ここが欠けているのは似合わない」
その言葉を聞いた直後、アンティパスは意識を失った。

目覚めたとき、月が高く空に昇っているのが窓から見えた。少なくともあのまま放置されたのではなさそうだ。触ってみると、包帯が巻かれていた。ごろりとした感触を、左目に感じる。だが右目をつぶっても、やはり見えるのは暗闇だけだった。
助かった。アンティパスは心底安堵した。体には、力が全く入らない。まだあのハオマ酒とやらの酩酊感が強く残り続けていて、なかば夢心地だった。まだ痛みが引くはずのない傷口からも、まったく痛みを感じなかった。
「やあ、お目覚めかね?」隣から声がした。あの金髪の彼が隣で笑っていた。
「助けて、くれたんだね……」
アンティパスは呟く。
「一応、薬と火で消毒しておいた。それと、勝手ながら義眼もはめさせてもらったよ。君のような少年には、もっと美しい目が似合おう」
見てみれば、彼の首飾りからは、あの見事な猫目石が外されていた。
「名前は……」
「メルキオール」彼は言った。
「こんな美しい君に、危害を加えたのはどこの誰だい」
「僕の父……」アンティパスは言った。「ヘロデ王……僕を助けるなって、父が言ったんだって」
「気にするな。私は賓客さ。しらを切ればどうと言うこともない」
メルキオールはハオマ酒を吸って半ば赤くなったアンティパスの唇に指を這わせた。
「美しい……何と、美しいんだ」
「あなたも……」
ハオマ酒に浮かされて、彼も、唇に指を這わされながらぼそりと言う。彼の指から通じて与えられるものは、確かに快感だった。
「あなたは、人間……?」
「人間だよ。ただの下らぬ人間さ」
「それでも、いいや……」
彼はぼそりと呟いた。
「もっとしてよ……とても、気持ちいいもの。痛く、ないもの……」
「ああ、いいとも」
異国の香の甘い香りが充満していた。メルキオールはターバンを取り、長い金髪がばさりと寝台の上に躍った。彼はアンティパスにゆっくりと覆いかぶさり、その首筋に口づけした。
アンティパスはその晩、ハオマの酔いと香の香りに包まれながら、彼に抱かれた。それは優しく、甘く、痛みを吹き飛ばすほどの快感だった。
メルキオールに抱かれながら、アンティパスの頭に湧きあがるものがあった。彼は、笑いたくなった。
口角が自然に吊り上る。
「あは、あはは……」
彼は笑った。その美しい顔で、美しく笑った。
この世は、なんと酷いのだろう。なぜ、これほど多くの人々が、これほど多くのものを失わなくてはならないのだろう。
苦しんで死んでいった。誰もかれも、苦しんで、苦悶の顔で死んだのだ。
ならば、自分は笑ってやろう。死ぬときまで、笑っていよう。それが、この世に対する仕返しだ。自分にはそれができる。だって、自分は笑う方法を、今知ることができたのだから。
「笑っているのか。良いね。笑いたまえ」メルキオールも、彼と繋がったまま、笑ってそう言った。
「笑って責められる謂れなど、この世のどこにもあるものか」

その夜がどうやって開けたか、彼は良く覚えていない。メルキオールは叱責されなかったようにも思える。いや、ヘロデにとって息子の目をえぐったことなど、寝れば忘れる、一時の気の迷いでしかなかったのだ。
包帯が取れた日、メルキオールは鏡を見せた。左目に燦然と輝く猫目石を見て、メルキオールは満足そうに呟いた。
「きれいだ、美しい」
「悪くないね」と、アンティパスもにやりと笑いながらつぶやいた。

その直後、メルキオールはまた旅立っていってしまった。「またすぐ来るよ」と言う言葉を残して。
宮廷の人間たちは、アンティパスを一層気味悪がっていると、敏感な彼にはすぐわかった。当たり前だ。目をえぐられたのに堂々としていて、むしろ以前よりも愛想のいい子供になったのだから。
彼は、父を憎みなどしないと心に決めた。憎んでやる価値もない。憎んで、憎み倒して、顔をゆがませることはない。

ある夜、彼は宮廷で、一人の少女に出会った。それは、ヘロディアだった。あれ以降、フィリッポスに婚約者としてあてがわれた彼女だ。
アンティパスは笑い顔のまま、驚いた。彼女の顔には一切、表情は戻ってなかった。
父は、それほどの事をしたのだ。
それを悟った瞬間にたまらないほど、彼の心にはヘロディアに対する、形容しがたい異常が湧いてきた。それは愛のようでも、恋のようでも、憐憫のようでもあった。この惨めな少女に手を差し伸べたいと、アンティパスはその時思ったのだ。
彼女は、夜の庭園に、一人きりだった。ヘロデもフィリッポスもそばにはおらず、ただ一人きり、喜びも悲しみもあらわさず、噴水の端に腰かけていた。
アンティパスは、黙って彼女の側に座った。それだけで十分だった。それだけで、全てが十分だった。
同じような目にあった二人の間に、大した言葉などいらなかった。ヘロディアは、男に蹂躙されたはずの少女は、そっとアンティパスにもたれかかってきた。アンティパスは彼女の肩を抱き、言った。
「ねえヘロディア。……僕はあの日、君のそばにいたんだ。父上は気付いてなかったみたいだけれど……」
彼は空に輝く三日月と同じように可憐な唇で弧を描きながら、そう言った。ヘロディアはそれを聞き、ちょこんと首をかしげた。
「僕ね。数日前、占星術師に抱かれたんだ。とても気持ちがよかった……素敵な夜だった」
ヘロディアは、無言のまま、じっとアンティパスの猫目石の義眼を見つめていた。そして、彼の言葉をしっかりと聞いていた。
アンティパスはそっと、彼女を抱き寄せる手に力を入れた。ヘロディアはただじっと、彼の目を見ていた。
「君にも教えたい。あれは、痛みを忘れるものであって、はじめてその名を名乗れるものなんだ」
ヘロディアはその言葉をじっと聞いていた。アンティパスは彼女の返答を待っていた。彼女が拒否する、と言うことを考えなかったのは、何も彼が強姦された女性の痛みをわかり得ないほど幼かったからではない。いや、それどころか彼は、それに非常によく似た恐怖をその身を持って味わったのだから、分からないはずがなかった。
ヘロディアはしばらく黙ったのち、そっと彼のもとにその白い顔を近づけた。アンティパスは三日月の光の下で、彼女に口づけした。
ヘロディアが「初めて」男に抱かれたのは、その日だった。


一連の事を聞き終えて、パンテラは震えた。なんという運命に襲われたのだろう。このヘロデの家は、この目の前の子どもたちは……。
「大体わかった?」
アンティパスは話している間中ずっと、笑っていた。
「笑顔がね、張り付いて取れないんだよ。笑顔が亡くなっちゃうのが、怖くてさ……」
彼に肩を抱かれるヘロディアは、パンテラにはさほど興味も示さず、ずっと赤い月を見つめていた。宴会場の方が騒がしい。そろそろ宴会の始まりだろうか。
だが、その騒がしさに隠れるように、また少し、ほんの少しだけ、うめき声が聞こえてくるような気がする。
「王子殿下……」
彼は声をかけようとした。だが、アンティパスがそれを遮る。
「いいよ。同情の言葉は結構。言葉なんかより行動をくれよ……貴方が僕と寝てくれれば、僕はそれで満足なんだ」
「なにを……」パンテラは言う。
「何をって、さっきまでの話聞いてわかんないの?」
彼は前髪をおろし、パンテラを見つめる。
「快楽だよ。快楽だけが、僕たちを救ってくれる。普通の子供が受け取って喜ぶようなもので満足するには、僕は、ヘロディアは、もう、傷つけられすぎたんだ」
ゆっくりと、アンティパスはパンテラにしなだれかかった。赤い月の光に照らされたその可憐な顔に、パンテラの心臓も鼓動をうつ。
「……できません」
しかしパンテラは、苦しそうにそう言い、すっと立ち上がった。
「どうあっても、お受けできません。お許しください。王子殿下」
「ああ、そう……」
アンティパスは、特に強く追いかけることはなかった。東屋を離れようとするパンテラに対して東屋の長椅子にちょこんと座ったまま、彼は言った。
「ねえパンテラ、この世に絶対的な救いがあると思う?」
パンテラはその言葉に、何も返せなかった。だが、アンティパスは自分で言う。
「無理だよ。そんなの、無理なんだ……だから救い主なんて、現れっこないんだ」

晩餐の間中、パンテラは落ち着かなかった。あいも変わらない豪奢すぎる宮殿の中で、豪華な酒を飲み、ローマ風の食事を食べながら、心はずっと、アンティパスの事を考えていた。そして、彼の心をもっと沈ませることも、その宴席、アンティパスとヘロディアは参加していなかった宴席で起こった。
「……パンテラ将軍殿」
宴会が進んだ頃、アルケラオスが、彼に声をかけてきた。
「はい、なんでしょう……」
怯えがちに言う彼を、アルケラオスは父親譲りの目で見下すように睨みながら、言った。
「先ほど、貴方が中庭にいるのを見ました。アンティパスに何か吹き込まれましたか」
「……それは……」
「一つ、言っておきたい」彼は言った。
「何も言わないほうがよろしい。我々は、何も悪いことはしていませんよ」
「そんな……そんなことが、ありますか!」
パンテラは吐き出すように言った。
「あんな小さな子たちを見捨てて、何も悪くないなんて、そんなことがありますか……!」
「生きたいことが、罪ですか!」アルケラオスはヘロデには聞こえない程度に、しかし確実に声を荒げて言った。
「私もフィリッポスも、兄弟たちと同じ道をたどることを怖く思うのが、罪ですか。処刑されたくないと、自分の心に嘘をついても、自分だけは生き残りたい、あの父の機嫌を損ねたくないと、父に殺されたくないと、そう願うことが罪だと、貴方はおっしゃるのですか!?」
耳障りなほどうるさく鳴り響く音楽に隠れるように叫ぶその小さな叫び声は、まるで地下牢の中の王子の叫び声と同じだった。
「パンテラ殿、もう一度言うぞ。何も言うな!あなたに私達が救えるか、父を正気に戻せるのか!何もできないのなら、せめて黙っていろ!私たち自身が、なによりも父に近い私たち自身がこの家はおかしいと自覚していないとでも、貴方は思っているのか!」
そう聞いたとき、パンテラには自分がなぜ、この王宮をずっと怖がっていたのか、何もかもすっかり判ったような気がした。
被害者だ。全て、被害者にすぎなかった。
「申し訳、ございません……」
パンテラはそうつぶやき、言葉を途切れさせた。宴会場の絹のカーテンが大きく開かれ、空の赤い月がありありと見えた。
赤い月の夜は不思議なことが起こると、口々に周囲が話す中、パンテラは思った。不思議なことが起こればよい。せめて不思議なことでも起こらなくては、誰も救われるまい……しかし、おそらくこの夜は、ただ月が赤いだけの、いたって普通の夜なのだ。

「赤い月……」
メルキオールは東屋の中、アンティパスとヘロディアとともにハオマを飲みながら、ぼんやりと空を眺めて呟いた。
「あれも違う……いつ見えるのだ、私の見るべき証は……」
「ねえ、メルキオール」
アンティパスが猫なで声で言う。防寒用のショールを脱ぎながら。
「そろそろ寝室に行こうよ。今日は、ヘロディアも一緒に……」
「うん、そうだな」
メルキオールは二人の手を引いて、立ち上がった。地下牢からはまだかすかに、声が聞こえていた。
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