クリスマス市のグリューワイン

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feat: Mary and Joseph 第十六話

神殿は当然大騒ぎになった。ザカリアの身に何があったのだ。強盗が入って喉をつぶされでもしたか、と。
ザカリアはよっぽど恐ろしいものを見たらしく、しばらくの間は錯乱していて、筆記具を持ってきても何も書けず、何が起こったかは全く不明だった。
おまけに神殿に仕えている少女たちも、神殿の近くにいる物乞いたちも、何も見ていない、神殿に誰かが来る気配などなかったと口をそろえて言った。事実神殿にある貴重なものも全く盗まれても壊されてもいなかった。
彼の妻、エリザベトが駆けつけてきたときなど、ザカリアは昏睡状態になっていた。エリザベトは彼の手を握って「主人が起きるまで、ここにいたいのですが、よろしいでしょうか。祭司の皆様」と言った。
夫を心配する妻をむげにするわけにもいかず、彼らはザカリアを寝かせている小部屋に哀れな老婆を一人置いて去った。去っていくとき、ヨアザルの心にはエリザベトの顔がありありと焼きついた。夫に寄り添う老婦人の姿。
あれが、結婚なのだ。あれがあるべき道だった。自分はそれを、得られもしなかった……。

ザカリアはようやく目が覚めた。やはり口はきけないままだったが少し落ち着いたとエリザベトは言った。
それを聞いて祭司たちが駆けつけてきたとき、彼は身振り手振りでエリザベトに必死で何かを話しかけていた。彼女の腹に、必死で触れながら。
「ザカリアどの。何をおっしゃっているのか、我々にも教えて下さるまいか」アンナスがそういって、ペンと字を書くための板を彼に差し出した。ザカリアはそれを受け取り、しばらくの間何を書くか迷っているようだったが、やがて意を決したようにまず一節書き、ヨアザルに渡した。
「どれどれ……」
ヨアザルがそれを口に出した時、周囲は仰天した、そこにはこう書いてあった。

『私は先夜、神を見た。神は、この私の妻に子供が生まれると、そうおっしゃった』


ザカリアは少しずつ、少しずつ、自分の身にあったことを筆談と身振り手振りで教えた。
彼が聖所で祈りをささげていると、急に光り輝くものが見えたというのだ。白百合を携えた、美しい、若い女性のような姿をした彼女の背中には、その百合よりもさらに白い、輝く翼を生やしていた。彼女は香壇の右にまっすぐに立って、じっとヨアザルを見下ろしていた。彼女の輝きを見ると、ヨアザルは圧倒された。それは恐怖と言ってもいい感情だった。目の前に立つ彼女は明らかに人間ではないことを、その神々しいまでの輝きが物語っていた。彼女は薄い唇を開いて、はっきりと通る声で告げた。
「恐れることはないわ、ザカリア。私は、主の天使ガブリエル」
そう言われようとも恐れが完全には抜けきらないザカリアをよそに、彼女は言葉をつづけた。
「あなたの願いは聞き届けられました」
「は……?」
「あなたがあなたの妻に関して、何十年と言う間、祈り続けていた祈りよ。あなたの妻、エリザベトは身ごもって男の子を産むでしょう。その子をヨハネと名付けなさい」
彼女のその言葉を聞いて、ヨアザルの頭はますます混乱した。何事だ?エリザベトはとっくに月経すら止まっている。大きな声で言うことでもないが、夫婦の営みだってないようなもの……。
それでも、彼女は自分に対して話し続けた。エリザベトに子供が生まれるという内容を。ヨアザルはとうとうたまらなくなり、言ってしまった。
「主の御使い様、何故、そのようなことがあり得ましょう……気休めなどおっしゃらないでください。私の年老いた妻に子供が生まれるなどと、そのようなこと、ありえません。絶対に」
しかし、彼がそう言った瞬間、ガブリエルは美しい顔を瞬時に怒りの表情に染めた。それを受けてヨアザルは一瞬、死すら覚悟した。「身の程を知りなさい!」彼女は言った。
「あなたほども信仰心のあろうお人があなたの親戚、ヨアキムとアンナに十六年前に起こったことを、忘れたというの!偉大なる祖、アブラハムとサラの身に起こったことを忘れたというの!何故、神の力を疑うのです!」
それを聞いて何も言い返せなくなったヨアザルの唇に、彼女は自らの持つ白百合の花を一本押し当てた。
「ザカリア、その祝福された日が来るまで、口のきけない身におなりなさい。あなたは神に仕える身でありながら、時が来れば実現される主の言葉を信じなかった者なのですから」
その言葉と同時に、ヨアザルの舌にはまるで毒を飲んだかのような強い衝撃が走った。ガブリエルは「大丈夫」と言った。
「時が来れば、元通りになるわ。……私の伝えた言葉、主の言葉を、一切忘れさえしなければ」
そう言い残して、彼女の姿はふっと掻き消えていった。
ヨアザルは助けを呼ぼうとした。だが、舌がまるで消え去ってしまったように動かず、何も話せない身になっていたというのだ。


祭司たちはそれを聞いて、黙りこくっていた。
普段聖書に書かれている神秘の物語を信じていても、目の前で起こればやはり戸惑うものだった。だがしかし、こんな嘘を言って、利など全くないだろう。だから彼らは疑うでもなく、すぐさま信じられもせず、ただただ、圧倒されて黙りこくっていた。
「では」
その沈黙を破ったのは、エリザベトだった。彼女は自分のお腹をそっと撫でて、皺に囲まれた穏やかな目を涙で濡らして言った。
「私も、子供が産めるのね……ようやく、ようやく……」
ザカリアは、妻の表情を見てはっとした。彼女は全く、言葉を疑っていなかった。そう戸惑う夫の表情を見て、エリザベトもやさしく言い返す。
「疑うものですか。主の言葉を。そして、貴方が聞いたという言葉を」
それで、全てを解決するのには十分だった。

「とりあえずも、めでたいことには変わりないのではないですか」二番目に、ヨアザルよりも先に口を開いたのはアンナスだった。
「エリザベトどのの懐妊も、時間が立てば嫌でもはっきり真偽は分かりましょう。今の我らにできることは神の奇跡と、この神に啓示を受けた夫婦を祝福することにありましょう。ザカリアどの、エリザベトどの、貴方がたの信心に相応しい、壮健なお子様がお生まれになりますように」
なぜ、ザカリアたちの親戚であり大祭司である自分を差し置いてアンナスがそう仕切るのか、とヨアザルは不満に思ったが、自分も圧倒されてとっさに言葉が出てこなかったのも事実だ。
ザカリアの言葉に乗り、祭司たちも次第に緊張が解け口々に純粋な祝いの言葉を発するようになって、ヨアザルもようやく口を開いた。
「おめでとう、ザカリア、エリザベト」
そう言い、彼は口のきけない友の手を握った。ザカリアもようやく落ち着いたと見えて、あの柔和な笑顔を取り戻した。
しかし、それを受けてヨアザルは何か、心が痛むものがあった。彼ら夫婦が遠ざかっていくような気がした。


小部屋に安静にさせられて、妻も自宅に帰り、ザカリアはじっと天井を見つめながら、先夜の事を思い出した。言えば面倒なことになりそうだから隠し、あとでこっそりとエリザベトにだけ筆談で知らせた、ガブリエルが自分に告げた言葉……。
「その子をヨハネと名付けなさい。彼は主のみ前に偉大な人になります。その子はエリヤの霊と力を持って主に先立っていき、イスラエルの多くの子らを、主のもとに立ち返らせるでしょう」
エリヤ。
いつか再来すると言われた、伝説の預言者の名前だ。イスラエル人なら、誰でも知っている。その霊が、自分たちの子供に宿るとは……。
神は、何か大きな計画を企てているのではないか。ザカリアはそう考え、身震いした。


一週間ほどもすれば、ザカリアは相変わらず話せないままではあったが、体力は戻って来た。このようなことになったのだし、務めを免除して家に帰ってはどうかと言う話も出たが、ザカリア自身はそれを拒否した。一度主に背いてしまってこうなったのだから、申し訳が立たない、と筆談で告げて。エリザベトも信心深い妻だし、家には使用人も大勢いるものだから、夫のその行動を喜んで許した。
エリザベトはと言えば、確かに妊婦特有の症状がいくつか出だしていた。月経が元からないのではっきりした判別は困難だったが、医者も妊娠していても不思議ではない状態だと確かに驚きつつ言った。それを受けて、彼女も世の妊婦がするように家に籠り、身を隠すようになった。
同年代の友人や、自分の娘、下手をすれば孫ほどの年若い母たちを家に呼んで彼女はいろいろと妊娠について聞いた。彼女達は実に親切に、初めての母となるエリザベトに妊娠中の生活について、臨月が近づいたらどうすればいいか……など、助言していた。時折やってくる、その様子を実に楽しそうに話すエリザベトの手紙を読むたび、ザカリアは心の底から幸福をかみしめた。
中でも親しくしたのは、やはりマリアの両親のヨアキムとアンナだった。十六年前、自分達の身に起こったことを思い返しては、彼らはエリザベトと話し合った。
「恐れることはないわ、エリザベト」マリアの母アンナは、優しくそう言った。「神様が、友に居てくださるのですもの……ああ、でも年老いてからのお産は難産らしいし、事実私もだいぶ苦労したわ。そこは気を付けてね」
「ええ、ありがとう」エリザベトは愉快そうに笑った。
そしてマリアも、たまにエリザベトの家に呼ばれてその話の輪に入った。自分がそのような生まれであるなど大して普段は意識しないが、こういうことになって何度も指摘されると感慨深いものがあった。自分の身体についてのコンプレックスなども、どうでもよく思えるようにすらなって、少し自信がついてきた自分がいるのも、彼女にはわかった。事実、周りには「お姉さま、最近ますます綺麗になりましたね!」と言われる。そのことを話すと、エリザベトも、両親も笑ってくれた。
マリアはエリザベトのまだ膨らんでいないお腹を、そっと撫でた。
「元気に生まれてきてね、赤ちゃん」
子供が生まれる。そう言う神秘のすぐそばに寄り添うのは、マリアには初めてだった。それはとても感慨深い事のように、彼女には感じられた。


不思議で感慨深い月日は矢のように過ぎた。エリザベトのお腹はやがてみるみるうちに膨らんでいき、やがて誰がどう見ても、立派な妊婦となった。もう、エリザベトの懐妊を疑う声など誰も出せなくなった。
そのころになるとザカリアの務めの期間もようやく終わった。言葉は話せないままだったが、そろそろそれにも慣れてきていた。

意気揚々と去っていくザカリアの後姿を、ヨアザルは見送った。
「やれやれ、ようやくひと段落つきましたね」と、後ろから聞こえる声。振り向けば、後ろにはカイアファがいた。
「なんだ、貴様は!」ヨアザルは言う。「ザカリア殿の身の苦労を、ただの厄介ごとのように扱いおって!」
「まさか、あの人もサドカイ派の端くれ。僕はちゃんと尊敬していますよ。だから、あの人絡みの事がひと段落つくまで待ったんです。あの人が大変な時にこんなこと持ち出すのは、どうも不謹慎ですから」
「何の話だ?」敵意を込めて、ヨアザルは吐き捨てた。だがカイアファは得意げなままだ。
「ヨアザルさん、貴方は常々、僕たちの事をローマやヘレニズムに迎合していると非難しますね」
「何か、間違っておるか!」
「とんでもない。正しいと思ってるからこそやってますよ。だから否定はしません。ただ、貴方がそんなことを言えた身分か、と思いまして」
「何の話だ!?」
「異教の思想に傾倒するあなたに、大祭司の資格などあるのか、と僕は問うているのです」
そう聞いて、ヨアザルは何のことか?と思う。自分は心の底から、ユダヤの神を信じているはずなのに。
「口を慎め、小僧が!」彼は叫んだ。「私は偉大なる主に誓って、信仰の道を外れたことなどいっぺんもない!お前のような愚か者と違って!」
「『愚かな者の道は、自分の目に正しく見える』と、ソロモン王の箴言にもあるとおりですね!」カイアファは笑った。ヨアザルはますます腹を立てる。
「ソロモンはこうとも言っておるな。『隣人を侮る者は知恵がない、賢きものは口をつぐむ!』」
カイアファはそれに一瞬言葉を詰まらせたが、「僕と貴方がなぜ隣人です?」と小さくつぶやいた。そして、ヨアザルに二の句を継がせまいと、挑発をやめ、やや早口に本題に移った。
「僕はね、五か月前に貴方とザカリアさんが話しているのを聞いてたんですよ。偶然にね。ほら、あの貴方が面倒を見ている少女の結婚がどうとか言ってた」
「……それがどうした?」
あの後も、マリアへの縁談の話はぼつぼつ来ていたが、やはりヨアザルは二つ返事で断り続け、マリアどころかマリアの両親の耳にすら入れないようにしていた。だが、カイアファが言った言葉は、彼を凍りつかせた。
「あなたは、『神に仕える女を人間の男が汚すなどおこがましい』とおっしゃいましたね……なぜそんな、ヴェスタの巫女やアルテミスの信者を素晴らしいとするようなことを言うようになったのです?」
その言葉を聞いたとき、しばらくヨアザルの頭は混乱した。少しずつ、少しずつその意味を飲み込めてきたとき、彼は老いた背中に冷や汗が流れるのがわかった。
悔しいが、ぐうの音も出ないほど正当な攻めだ。なんたることだろうか!神に仕える女性を処女と定めるなど、ユダヤの律法にのっとった行為どころか、まさしく自分が忌み嫌っているローマやヘレニズムの宗教に見られる思想ではないか!処女しか巫女になれぬといわれているヴェスタ、男も女も純潔を是とするアルテミスの信仰。産めよ、栄えよ、のユダヤ教とは対極にあると言ってもいい思想!
そんな思想が自分の中にあることに、ヨアザルは戸惑った。馬鹿な、ギリシャやローマの女神を素晴らしいと思ったことなど神に誓ってない。それでも、それでも、マリアは……。マリアが男と結婚し処女を失うなど、ありえてはならぬという思いだけは、彼の心に燃え盛っていた。
「私は」彼は絞り出すように言う。「そんな宗教に傾倒したことなど……」
「傾倒してないなんて言えば僕たちだってユダヤ教を間違いなく信仰しているんですよ!ばかばかしい。特に僕たちのような精神性が強く問われる職業のものなら、形よりも政治的立場よりも、思想が何より重要、そうではないのですか?あなたは僕たち以上に異教に傾倒していると言えるのでは?」
「しょ、証拠は」ヨアザルは焦って言った。目の前の彼がこれを持って自分に何をしたいのか、ようやく呑み込めた。「証拠はあるのか!」
「ザカリアさんを呼びます。あの人が嘘をつけない人であることくらい、貴方も知っているでしょう。だから待ったのですよ。ただでさえ大変な時にこんなごたごたにまき揉むのも気が引けたから」
彼はぞっとした。大祭司の職を失うのが、怖くなった。
嫌だ、この立場から離れたくない。また見下される生活に戻りたくない。やはりどうせファリサイ派は大祭司の器などではないと、そんなことを言われたくはない。せっかく掴んだ立場なのに……。
「誤解だ!」彼は言った。
「あれは一時の気の迷い!事実、マリアの結婚の事なら、とうに考えておるわ!すぐにでも、それに向けて動こうとしていたところだ!」

そう叫んでしまったことに、ザカリアははっとした。刹那、自分の発してしまった言葉のせいで体中が切り裂かれるような痛みに襲われた。
目の前のカイアファはぽかんとしていた。返答に困っているようだった。
「あ……、そ、そうですか。それは結構……」
ヨアザルがこう言うなど、彼は想定していなかったのだろう。確かにこう言われては、責める謂れをなくしてしまうのだから、さすがの彼が返しに困り気まずくなるのも当然だ。だが、ヨアザルはそれどころではなかった。
「で、では良い縁談を持ってきてあげたらどうです。あ、あなたが異教に傾倒していないようで安心しました大祭司様。僕はこれで……」
気まずそうにさっさと去っていってしまうカイアファに追い打ちの言葉をかける気にもなれなかった。言ってしまった。奴なら、聞き逃すこともなかろう。そんな、まさか自分が、マリアを嫁にやってしまうなんて……。
彼は嫌悪感に満たされた。マリアが、マリアが男に抱かれる。異教的と言われようともそれは彼にとって依然として、ありえてはならないことだった。
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