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クリスマス市のグリューワイン

feat: Mary and Joseph 第十九話

マリアは戸惑ったまま、これは何事かと、ものも言えずに考え込んだ。自分は白昼夢を見ているのだろうか?目の前にいる彼女の美しさ、神々しさ、まるで現実とは思えない。だがそんな彼女を諭すように、目の前にいる女性のような存在は、穏やかに語りかけた。
「マリア、恐れることはありません。貴方は、主なる神から恵みを頂いたのよ」
「何のことでしょう……」
目を白黒させるマリアに、その目の前の存在は彼女の耳にその言葉を焼き付けるかのように、ゆっくり、しかしはっきりと告げた。
「あなたは身ごもって、男の子を産みます」
「え……」と、マリア。「それは、ヨセフが帰ってきて結婚したら、彼の子が……?」
少し嬉しそうに笑うマリアに、彼女はそっと首を横に振って言った。
「いいえ。たった今」

その言葉を聞いて、マリアが混乱したのは当然のことだった。何を言われているのかわからず、その言葉に多少の恐怖を感じて、後ろに身じろいだ。だが目の前の彼女、のように思える存在、はまるきり彼女に危害を与えようという風でもない。何よりも、春の温かい雰囲気と柔らかく美しい彼女の笑顔は、言葉の突飛さにもかかわらずマリアを安心させるようなところも確かにあったのだ。
「あ、あなた、誰ですか!」
「私は、主の天使ガブリエル」
ガブリエルと名乗った彼女はまるで深い海をそのままはめ込んだような目で、跪いたままじっとマリアを見つめた。マリアはそう見つめられると、ますます言葉から感じた恐怖を忘れていった。
「主……神様……?」
「ええ、そうですとも」
「で、でも私、私はまだ男の人とそんなことしたこと、ぜ、絶対ないし……」
そこまで言って、マリアははっと気づいて慌てて口をふさいだ。この状況には聞き覚えがあった。
ザカリアと似ている!ザカリアが、口をきけなくなったあの状況と!それに、ガブリエルという名前!まさに、ザカリアのもとに現れたらしい天使の名前だ!
もしも目の前の彼女が本物なら、自分も怒りを買うのか?言葉が話せなくなるのか?と彼女は恐れた。しかし、目の前のガブリエルは彼女がそれに気づいたらしいことに満足げだった。
「大丈夫よ、マリア。気が付いたのならば。そう。ザカリアのもとに現れたのも、この私。神様は、エリザベトを身ごもらせ、貴方の母の胎内に貴方を宿らせ、不妊の女と言われていたサラに子供を与えたわ。老女を身ごもらせることができるなら、処女を身ごもらせるのもまたたやすい事。神に不可能なことは何一つありません」
「あ、ありがとう……ございます」
びくびくしながらマリアは謝った。良かった。何の不自由もなく、言葉が話せる。ガブリエルはそれに、ふたたび柔和な表情でくすりと笑った。本当に不思議だった。彼女の笑顔を見ると、彼女の携える百合の花のにおいを嗅ぐと、その恐れも和らいだ。
いつの間にかマリアは、この状況を疑わなくなっていた。ガブリエルは彼女に告げる。
「貴方が産むその子は、偉大な人になり、いと高き方の子、と呼ばれます。神である主は、彼に父ダビデの王座を渡します。彼は……その方は、永遠にヤコブの家を治め、その支配は、終わることはありません」
もし、これが本当なら。
何か、大変なことが起こっているのだろう。自分は大変なものを抱え込んでしまったのだろう。
「なんで、ですか?」マリアは恐る恐る聞いた。「なんで、私が……?」
ガブリエルはその質問を責めなかった。ゆっくりと答えて言った。
「あなたと貴女の愛するヨセフのもとがいいと、主がおっしゃったからよ。自分の唯一の息子を、地上で託す相手として……」
「神様の、息子……?」
マリアは目を瞬かせた。しかし、もう疑いの心など、彼女の心に湧いては来なかった。自分はおそらく、大変と言う言葉では収まり切りそうにもないものを抱え込んでしまったと、はっきり理解できた。
だがしかし、彼女の口からはごく自然に、言葉が出た。それは間違いなく、彼女の脳そのものがこう言いたいと望んだ言葉だった。
「分かりました」
彼女は椅子から降り、ガブリエルよりも低く跪いた。間近で見るの天使の顔は、いっそうまぶしいほどに清らかだった。
マリアは、彼女の笑みにも負けないほどにっこり笑って言った。
「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」
ガブリエルはそれを聞いて、そっと笑った。束の間だった。
再びあの風が巻き起こり、マリアが目を開けていられないほどの閃光が起こった。何かが勢いよく羽ばたきながら去っていったのを、マリアは聞いていた。


マリアはしばらくしてから、目を覚ました。気絶していたようだ。慌てて起きると、糸も書物も全くそのまま、机の家にちょこんとおかれていた。あれほどの突風が吹いたのなら風にあおられていてもおかしくなさそうなのに。
マリアは自分のお腹を撫でた。特に違和感を感じるでもない。しかし意識してみると何かがいるようにも思えてしまい、何とも言えない。
あれは、夢だったのか?自分の視た光景は……。と、その時だ。マリアは自分の足もとに転がっているものを見た。
白い百合の花だった。まだ春で、咲くはずのない、満開の百合。
夢じゃない。
彼女は息を飲み込み、意を決してその百合を握りしめ、起こったことを話しに父と母のもとに向かった。

ヨアキムもアンナも、その言葉を聞いてまずは驚いた。だがそれでも、彼らは決して疑わなかった。それどころか、母アンナは目に涙を浮かべて言った。
「マリア……貴女を身ごもった時、私のもとに来られた天使様も、ちょうどこんな……こんな、真っ白な百合の花を私に託されたわ。そして、ガブリエルの名前を名乗られたわ」
「じゃあ、お母さん」
「ええ……貴女ぬ来たのはきっと、本当の神のお告げよ、マリア」
彼女はそう言って、娘をそっと抱きしめた。
「ザカリアとエリザベトの所にも行って、このことをお話しなさい。大丈夫。あの人たちも間違いなく、信じてくれるわよ」

ザカリアとエリザベトの家は、大分山あいの郊外にある。マリアは大急ぎで仕上げた紫の糸を神殿に奉納し、「本当にお世話になりました」と改めて祭司たちに別れの言葉を告げた後に、その足で彼らのもとを訪ねた。そしてその旨を離した時、母アンナの言葉通り、彼らもそれを受け入れてくれた。
エリザベトのお腹は、すっかり大きくなっていた。こう重いものを毎日抱えて歩くと足腰が強くなって、前より健康になったわ、と彼女は言った。確かに、年老いているはずの彼女の顔色は良くなっているように思えた。
マリアが彼女のお腹に手を触れようとすると、手を触れるまでもなく、体内の子が勢いよく動いた。エリザベトは「元気な子なのよ、よくよく、お腹を蹴るんだから……」と言う。そして彼女も、マリアのまだ膨らんではいないお腹を撫で、言った。
「いいえ、でもきっと、貴女が来て……この子も喜んだのかもしれないわね。マリア……貴女は本当に、祝福された子よ。神様が自分の子を貴女の胎に預けたなんて……なんて、素晴らしいのかしら。マリア、これから大変なこともあるでしょうが、胸を張ってお行きなさい。貴女やヨセフ君が間違ったことをしていないなど、私たちはよく知っているわよ」
マリアはその言葉を聞き、力強くうなずいた。

その後、マリアとエリザベトは話をした。ちょうど、これからますます大変な時期になるのにザカリアの家に仕える侍女が一人家の都合で辞めてしまったらしいと聞いたので、マリアは手伝いも兼ねてエリザベトの家に滞在することにした。それにいろいろと、不安を分かち合う相手も欲しかったのだ。あれは神の教えだとはっきり信じる気持ちはあっても、気を抜くとどうしても不安に襲われてしまう。エリザベトもザカリアも勿論喜んでそれを了承したし、手紙を伝えたらヨアキムたちも二つ返事で承知してくれた。

マリアが身ごもっていたのは本当のようだった。次の月から、彼女の月経は確かにぴったりと止んだ。普段なら月経が来る日を二日、三日とすぎ、十日も過ぎた時、マリアも完全に覚悟を決めた。
神に特別に子供を授けられる、と言う状況が同じとはいえ、いかんせん今度ばかりは少し事情が違う。エリザベトやアンナは最初から年寄りだったのだからまだ神の力と言われて受け入れられるものはあったろう。だが、マリアはまだ若い。彼女がもし不妊症でないのならば、神の力などなくても妊娠しようと思えばできる身だ。
だから、表ざたにするわけにもいくまい。残念ながら誰もが誰も、そうか神の力なのかと信じてくれるほど甘い世の中ではないことは、皆よく知っていた。ヨセフを家がないからと迎え入れてしまったことから、それ見たことか、やはり若い二人が破廉恥なことを、と中傷される危険は大いにある。したがって、このことはごく身内の事だけにして、後は隠しておこうという運びになったのだ。神の言葉を隠すのは本意とは言えないが、そのような中傷に耐えきる自信もなかった。お腹の子供にも、決して良い影響はないだろう。
マリアもそれを納得した。本当なら既に母になったり妊娠中の友人たちから聞きたいことは多くあったが、それはかなわないとあって大人しく諦めた。妊娠中の友人としてはエリザベト、妊婦の先輩としてはザカリアの家に訪ねてくる母を、彼女は頼った。

「最近、食欲がないんです。とくに脂っぽいものが全然だめ……吐いちゃいそうなくらいで」
「分かるわねぇ、私も年のくせに肉が好きなんてよく言われたけど、あなたくらいの時期には、全く食べれなくなったわ。周りは年相応になったんじゃないかなんて笑ったけどさ……」
「あら、私はそう言うの無かったわね。むしろいくらでも食べられたわよ。あ、だからマリアはちょっと丸めになっちゃったのかしら……」
「お母さん!」
「冗談よ。でもあなたよく食べる子だったのに、変わったわね」
「香草を入れて臭みと脂を消すと、大丈夫だったの。今夜は、それを作りましょうか。赤ちゃんの分も栄養を取らないといけないしね」
「はい、教えてください、エリザベトさん!」
このような会話を繰り返して、マリアは改めて、この状況をごく普通に受け止めてくれる、自分を完全に信じてくれる家族や親戚に心の底から感謝した。妊娠と言うのが思った以上に楽ではないということも痛感しながら。神の子とは言えど、こればかりは自分の体の方の問題だから変わりはないらしい。
だが、マリアは自分ではもうすでに自分の体にあったこと受け止めつつ、一つだけ、踏み出せないことがあった。嘘をつかない方だったが、その時ばかりは父にも母にも、ザカリアとエリザベトにも嘘をついた。
ヨセフに、離れて働いているヨセフにどうしてもその旨を告げられなかった。
ヨセフが素直なことは知っている。疑い深くないことだって知っている。でも、もし万一、彼を傷つけてしまったらどうしよう。お腹の中の子が自分の子でないということはヨセフが一番知っている。もし、ようやく家族を、家を、幸せをまた得られた彼を、自分が身ごもったという一言で、絶望の淵にたたき落としてしまったらどうしよう。そして、もし、彼に他の男に心変わりしたのだと思われたら、どうしよう。そう思って彼女は、手紙で何も言えなかった。両親たちにはちゃんと伝えた、ヨセフもちゃんと信じてくれたと嘘をつきながら、手紙には全く当たり障りのない事しか書かなかった。

春が過ぎ、夏に変わっていった。百合の季節が近づいていた。エリザベトのお腹はますます膨らみ、もういつ生まれてもおかしくはなくなった。マリアはそんな彼女をかいがいしく世話しつつ、自分の体にも気をつかった。
大きなおなかを抱えて、エリザベトは言った。
「ねえマリア……神様が何を考えておられても、私、こうなったことを、心の底からありがたく思うわ」
それは、とても立派な言葉であるように、マリアには思えた。ユダヤの神の信者として、女性として、母として、そして、神に創られた人間として。

そして太陽のさんさんと輝く夏至の日、彼女は産気づいた。
産婆たちが呼ばれ、家じゅうがドタバタした。マリアも急いで手伝った。赤ん坊が生まれる所を見るなど初めてだった。
エリザベトの体は苦悶に歪んだ。年を取っての出産はただでさえ大変と聞く。エリザベトのような年齢で、ましてや初産なのだから、その痛みも相当なものだろう。彼女がそれに耐えきれるか、赤ん坊は無事か、マリアのみならずそのお産に携わる人は皆、ハラハラしていた。
「頑張って、頑張って、エリザベトさん!」
マリアはそう必死で励ました。エリザベトは顔中汗びっしょりになりながら、懸命に笑って言っていた。不安な周囲を、逆に励ますように。
「大丈夫、大丈夫、心配しないで……無事に生まれるわ。間違いないわ」
永遠のように感じられたエリザベトの初産は、やがて、赤ん坊の、その場に居る人々全員の鼓膜を破りそうなほどの景気のいい産声とともに終わりを告げた。エリザベトは苦しいお産に耐えきったのだ!
産室の外で待機していたザカリアも、それを聞き、さらに妻が生きているのを見てものが言えないまま大喜びした。ヨアキムとアンナも、近所の人々も駆け付けてきた。
「そうですか、これが、主に授かったお子さん……いやはや、本当に元気のいい子だ!」
誰もかれも、そう言って神に慈しまれたエリザベトとその息子、そして幸福なヨアキムを喜んだ。

八日目、彼に割礼が施された。
「名前を付けなくてはなりませんな。やはり、父にあやかって、ザカリアとなりますか……」
ザカリアの親戚がそう言う。だが、エリザベトは子供を抱きながら首をふった。
「この子の名前はヨハネですよ」
「ヨハネ?でも、貴方がたにゆかりのある人に、その名前の人はいないでしょうに」
「神様が主人にそう言われたそうなのです。ねえあなた、この子の名前は?」
エリザベトはそう言って、ザカリアに板を差し出す。ザカリアはさらさらと、それに字を書いた。
『この子の名前はヨハネ』
その時だ。
「あ……」と、その場に声が発せられた。それは非常に久しぶりに聞く、ザカリアの声だった。
「話せる!話せるぞ!」
満場の人々を驚かせながら、ザカリア自身がそれにいちばん驚き、かつ喜んだ。主の罰が、ようやく解かれたのだ。主の命令に従い、主を信じきることができたから!
彼は喜び勇んで、主を賛美した。そして我が子を抱き、言った。
「立派な子に育てよ、ヨハネ。主に先だって行き、その道を整え、救いの道を知らせるものとなれ。お前には神の霊があるのだから」
マリアはその光景に、ただひたすら圧倒されていた。のみならず彼女は、心から感動していた。

新しい使用人も見つかったことだし、マリアもこれからお腹もふくらむ時期だから、と言うことで彼女はようやく家に帰ることになった。白百合の咲き乱れる夏の道を、彼女は意気揚々と帰った。生まれて初めて見た、赤ん坊が生まれるということに想いを馳せながら。
彼女はそっと、白百合の道の中、まだあまり膨らんでいない自分のお腹を撫でた。
「あなたも、無事に生まれてきてね……あんまり痛いのは、嫌だけど」
彼女は胎内の子に語りかけ、無性に幸福に満たされた。

家に帰って一月も過ぎれば、彼女のお腹は少しずつ膨らんでいった。もう誰の目にも、妊娠は明らかだった。
だが日を経るにつれ、マリアの頭の中には唯一の不安事項が浮かんでいた。もうすぐ、ヨセフが帰ってくる。自分がこのことに関して何も言っていないヨセフが……。
早く、早く打ち明けなくては、と思っても、ペンはどうしても、ヨセフに自分の妊娠を告げる内容を綴ってはくれなかった。
何も言わずに帰って彼女が妊娠していた方が、彼は傷つく。そうは思っても、どうしても怖かった。ヨセフを失望させたくない。彼は信じてくれるはずだ。でも、万が一と言うことも……。
そう考えに考え、さらに二か月が経過したある日の事だった。
マリアはすっかり朝に弱くなっていて、その日も遅く起きた。玄関の方から話し声が聞こえる。何事だろう?
玄関先から聞こえる声。とても懐かしい声のようなそれは、大いに戸惑っていた。会話がスムーズにいっていないようだった。
と、彼女は始めるように思い出した。もう、ヨセフが出かけてから六か月たっている!
まさか、そんな、と彼女はそろりと応接間の方に出た。だが、そこにいたヨセフとばっちり目が合ってしまった。のみならず彼は、立派に膨らんだ彼女のお腹までしっかり目撃してしまった。
「マリア」ヨアキムの声。「ヨセフ君に、言ったんじゃなかったかね……?」
急いで帰ってきたのだろう、泥まみれになったヨセフは目を見開いて、マリアを見つめながら、ただ黙っていた。責めることもせず、ヨアキム達のように即座に笑顔で受け入れることもせず、ただ頭を混乱させて、そこにいた。
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