クリスマス市のグリューワイン

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ニコール・オブリー 第一話

1565年秋 フランス ヴェルヴァンにて


ニコール・オブリーは目が覚めて、そして先夜見た夢をはっきりと思い出していた。昔死んだ祖父が、自分に縋り付くように「煉獄から逃れられない。逃れられるよう神に祈ってくれ。可愛い孫娘」と叫んでいた。
何故この夢を思い出さなくてはならないのか。ニコールはそれが嫌だった。ただの楽しい夢は、帰ってすぐに忘れてしまうものなのに。
祖父は煉獄行きとなった。ニコールはその事実を、かえって不当なものとして受け止めた。なぜ、あの祖父が煉獄どまりなのだろうか?あの祖父には地獄がふさわしい。醜く、怠け者で、ふしだらで、いつも祖母を困らせていた、ろくでもない男だった。死んだときすら、彼は、愛人の娼婦の家で夕食を食べた後に即死したのだ。裸で。彼が死ぬ前何をしようとしていたかは、赤裸々すぎるほど赤裸々に、人々に知られることとなった。
男はいつでもこうだ。ニコールはその事実にうんざりしていた。祖母もうんざりしていた。なればこそ、祖母はニコールが七つの時にモントルイユ・レ・ダム女子修道院に送ったのだ。男と無縁の生活でいられるよう、彼女はそう取り計らってくれたのだ。
それなのに。
結局、祖母も死んで数年間、誰も口出しするものが亡くなったころ、八年間が立った後、ニコールは修道院を出され、ただの少女に帰らせられた。理由は簡単だ。結婚するためにだ。家が金に困っていた。ただ、それだけの理由で、自分は神から引き離され、倍ほども年の違う少女を妻と望むような男のものにさせられたのだ。祖父に世話になった過去があるらしい、裕福な商人だった。

「(娘ほどの年齢の相手を妻にと望み欲情する存在…まるで、私のお爺さんだわ)」
ニコールは夫と初めて顔を合わせた時、家のためと思って、まだあどけない顔にひきつった笑みを浮かべながら、心ではそう思っていた。彼女は、自分の意識を強く持つタイプの少女だった。所詮世の中こういうもの、と流されることはなかったのだ。
夫の収入が多いこともあり結婚生活は裕福にはいったものの、ニコール自身にとっては辛くてしょうがなかった。
地獄があるならきっとこんなものだ、と、ニコールは内心思っていた。そのことも、祖父の夢を一層不愉快にさせた。自分が地獄に居るのに、なぜああも人間の欲得というものを散々背負ったような祖父は煉獄どまりなのだろう。
修道院に戻りたい。少なくとも、あの場は清らかだった。自由がない、などと堅気の女はたまに修道女を憐れむ。だけれども、このような結婚生活をおくらされるくらいならまだ修道女の方が自由だ、と彼女は思っていた。

修道院にいたころ、よく物語を読んだものだった。
年老いた嫉妬深い夫に苦しめられる、若く美しい貴婦人。そして、結婚できる身分でないと知りながらも、彼女を命をかけて、心の底から愛し続ける若く逞しく誠実で、そしてなによりハンサムな騎士。ニコールはその物語たちにあこがれていた。どのような障害にも立ち向かい、純愛を貫き続ける二人の姿を、彼女は素晴らしく思っていた。もしもここを出て結婚することがあるのならば、このような恋ができる相手と。グィネヴィア王妃を愛したランスロットのような美しく、男らしい相手と。運命の恋の相手と。心から、そう思っていた。そして、実際に彼女に訪れた結婚生活は、全く違うものだったのだ。
「(私のそばに来たのは、純粋な愛を注ぐ騎士じゃなく、結局欲情にまみれた年老いた王様のほう)」
ニコールはそう考えた。
カーテンを開けると、庭で育てている林檎の木が見えた。赤く熟れた身が鈴なりになっていた。


家の中はバタバタしていた。せわしなさそうな声が聞こえる。ニコールの夫が、明日から数日、彼らが住んでいる都市であるヴェルヴァンから近隣の大都市であるランに行くのだ。夫、ルイ・ピエール・オブリー氏はランの上流階級の人間に知り合いが多い。商人、平民の身分とは言えど金持ちなのだから。その友人達をよく尋ねる手前、彼は家を空けることが多かった。そして、夫をいくら嫌っていようとも、結局彼に従うしかないニコールにとって、その時間はむしろ限られた至福の時だった。
既に旅支度はできているようだった。その証拠に、表に大きな荷馬車が止まっているのが見える。使用人たちがそれにどんどん荷物を詰め込んでいる。ニコールは重い腰を上げた。夫の旅立ちの時だ。妻は、出迎えなくてはならない。
彼女は階段を下りて、居間に来た。旅のマントに身を包んだオブリー氏がいた。
「おや、ニコール」彼は妻に気が付いた。
「僕はまたランに行くから、数日間留守にするよ」
彼は軽くそう言った。彼女はいやいやながらも彼のそばに寄る。そして、彼に別れのキスをした。彼の脂ぎった中年の肌が、気持ち悪いと感じた。オブリー氏は今年で40になる。
「僕がいない間」と彼は言いだした。「君に退屈をさせたら悪いね……ちょうど、近くにロマが来ているんだ。今夜、家によって音楽や物語をしてくれるよう、君のために手配しておいたよ」
オブリー氏は、ニコールが物語が好きだと聞いてから、ちょくちょくそのようなことをしていた。見え透いたご機嫌取りだ、とニコールは思っていた。祖父が娼婦や愛人に宝石やドレスを、借金をしてでも買っていたのを思い出した。そして、その愛人たちを飽きたら捨ててしまっていたことも。
ニコールは表面上、それに喜んでいるようなことを言った。オブリー氏はそれに満足したと見えて、馬車に乗り込み、ランに旅立っていった。

夫を見送ってから彼女は歩いて自分の実家まで言った。彼女の実家は肉屋だった。ニコールは愛していない夫の家も息が詰まるが、ここもここで息が詰まる。肉屋の血生臭さが、ニコールは嫌いだった。修道院の清廉な空気が、今まで味わってきたものの中では一番彼女の性にあっていた。
とにかく、彼女は父と母に自分の見た夢の内容を話した。自分と祖母はさておき、父は祖父を敬っていた。そのため、父は彼女が思っているよりもずっとそのことを心配した。
「おじい様のためだ。ただ祈るだけではなくて、巡礼の旅に出て神様にお参りしてこよう。近日中に、サンディアゴ・デ・コンポステーラに旅立つよ」
父はそう言った。ニコールはそんな彼に適当に同意をして、長居はしたくないのでさっさと立ち去った。生臭い匂いの中に居るのも、大嫌いな祖父がいかに仕事においては有能な人であったかという父の説教を聞くのも嫌だった。

日が傾きかけたヴェルヴァンの道を、彼女は長いスカートのすそをたなびかせてゆっくりと歩いた。どこにも行きたくない。修道院に帰りたい。彼女の思考を支配していたのはそのような気持ちだった。
自然と涙がこぼれた。彼女は、自らの人生が、たまらなく嫌に思えた。
何のために生きているのだろうか?夫のためか、家のためか?少なくとも、この十六歳の少女が一つ確信していることがあった。自分のためではない。
家に帰ると、門前に、自分の留守中いついたと見えた物乞いの男がいた。背の高い男性だった。つば広の帽子をかぶっていて、うつむいている。ニコールは財布の中から二枚の銀貨を出すと、彼に施した。唖者なのだろうか、お礼の言葉は発さず、うめくような声を上げてお辞儀をするだけだった。ニコールはそれを見ずに、家の中に入った。

夜になると、オブリー氏の言葉通り、ロマの楽師たちがやって来た。彼らは少し品位には欠けていたが、金をもらった手前音楽の演奏は丁寧なものだった。彼らの歌声をソファに埋もれながら憮然として聞いていたニコールに、ロマの長老だろうか、老人が一人やってきて「奥様、何かお望みの演奏などありますか?」と尋ねた。
「物語はできる?」
「無論です」
「騎士道物語が好きなの。なんでもいいから、貴方達が一番得意なのをやって」
彼らは了解したらしかった。ハープを持った、いかにも吟遊詩人風の壮年の男性が高らかに歌い出した。騎士と貴婦人のひたむきな、絶対にかなわぬ、恋の物語。彼らはそれでも、お互いに命を懸けて愛し合う様子を、男性は朗々と歌い上げる。
ニコールは昼のように、また涙がこぼれてきた。これが、幸せなのだ。このような世界、自分とは縁遠い世界に浸れることこそ、幸せなのだ。
演奏が終わった。ニコールは彼らにチップをはずんだ。


ランについた荷馬車の中でも、オブリー氏のものは特別大きかった。オブリー氏はてきぱきと、どの荷物をどこに送るか、使用人たちに振り分けさせる。その中でもひときわ大きな一山があった。
「いつも通り、あれはラン大聖堂の司教様宛だ」使用人たちは噂する。
「ご主人様もよくやるよ。ランに来るたび、あんなにたくさん司教様に、ただ同然で」
「そうしたくなるのも人情でしょう」ランで毎度彼らを手伝ってくれる少年が、話に入ってきた。「司教様は、ランで一番お偉い方なのですから」
彼の言葉に、使用人たちも「まったくだ」とうなずいた。オブリー氏に無駄口を叩いていると悟られないようなひそひそ声だった。


ニコールは目が覚めた。昨日はロマの楽師と盛り上がってしまったせいだろう。まだ眠い。それでも、彼女はいくらか息抜きをすることができた。隣には当然、夫もいないのも、また彼女が息抜きをできた理由でもあった。
朝食を済ませて、彼女は今日は何をしようかと考える。そして、懐かしい修道院に遊びに帰ることを決めた。彼女は結婚後も、読書をしに修道院には度々帰っていた。
使用人たちに小さな馬車の準備を指せていると、彼女の目にはある人物が入った。昨日の物乞いだ。昨日と全く同じように、塀に背中を預けて、つば広野帽子を深くかぶってうつむいている。一晩中ここにいたのだ折るか、と思わせた。
ニコールは「おはようございます。お達者ですか?」と彼に話しかけた、少し、彼が心配でもあった。彼は相変わらず顔の表情は読み取らせないまま、うめき声をあげてうなずいた。本格的に、話すことができないらしい。ニコールは財布の中からまた銀貨を取り出し、彼に恵んだ。

久しぶりのモントルイユ・レ・ダム女子修道院は、彼女にとって楽しかった。彼女を育ててくれたも同然の修道女長、テレーズはその人がよさそうに太った顔いっぱいに笑顔を浮かばせて「まあ、ニコール、よく来たわね!」と、彼女を抱擁してくれた。
「すっかり奥さんらしくなって……旦那さんはお優しくしてくれる?オブリーさんは、評判のいい人だからね……」
「ええ、まあ……」彼女は話したくない話題には曖昧な返事で流すと「まだ本が読みたくなって帰って来たんです。良いですか?シスター」と彼女は言った。テレーズはもちろん、承諾してくれた。
「貴女は、決して成績のいい子じゃなかったし、お転婆で怪我も多い子だったけど、読むことは本当に好きだったわね……」と、テレーズが昔話をする。ニコールは笑ってそれを聞きながら、修道院の中を歩いた。
ひんやりとした空気は、清潔なものに感じた。幼子を抱いて微笑み、こちらを見下ろす聖母マリアの像のそばで祈ったことも、もうはるか昔の事のような気がする。ここは懐かしい。夫の家よりも実家よりも、ニコールにとってはここが居場所だった。顔なじみの修道女と出会うたび、ニコールは挨拶を交わす。それが楽しかった。
「そういえば、貴女のお父様が、サンティアゴ・デ・コンポステーラに巡礼に行くんですって?もう噂よ」
「ええ……」
「スペインの端まで。危険な旅だわ。私達も、主とマリア様のお守りがあなたのお父様にあるよう、祈っていますからね」
「お願い致します、シスター」
彼女は懐かしい図書室たどり着いた。「では、ごゆっくり」と、テレーズは自分の仕事と祈りがあるため、また、ニコールを読書に専念させてやるために帰ってしまった。
ニコールは懐かしい本の表紙を開く。何度も嗅いだインクの匂い。大仰に飾られた左上の最初の一時から、彼女の目は物語を追いかけた。
何回読んだかわからない、モントルイユ・レ・ダム女子修道院の中では、間違いなく自分が一番多くこのページを読んだだろうという箇所があった。仲間の修道女も、テレーズ修道女長もそれには同意していた。
それは、アーサー王にまつわる本だった。ランスロットが、とうとう愛するグィネヴィアをアーサー王から奪い、戦争が起こった箇所だった。

結局彼女は、日が暮れるまで修道院で本を読んでいた。「申し訳ありません、長居をしまして」と彼女が謝ると、テレーズは屈託のない笑顔で「いいのよ。来たくなったらいつでもいらっしゃい」と言ってくれた。

やはり、修道院が好きだ。修道院で本を読んでいる時間が一番好きだ、と彼女は馬車に揺られながら思った。この馬車が永遠に家につかなければいい、とすら思えた。しかしやはり時間は残酷なもので、彼女はいつの間にか家の前についていた。「奥様、お帰りなさいませ」と給仕長の中年女性が言った。
「お夕食の準備ができておりますわ」
「どうも」と、彼女は外套を彼女に脱がさせ、言う。
「奥様、実はお耳に入れなくてはならないことが」
「なに?」
「食糧庫が荒らされておりましたの」彼女は眉をひそめて言った。「若い者に警備させますわ。旦那様にも知らせませんと……私たちの食事だけでなく、旦那様の商売道具もあるんですから」
「そうね。じゃ、そうしといて」彼女はそっけなく言い返した。彼女はそのまま夕飯の席に着き、一人だけで夕飯を食べた。
カーテンの外の林檎の木が見えた、一つ、一番目立っていたひときわ大きな林檎がなくなったような気がした。まだ落ちる時期じゃない。使用人か、近所の子供が食べたのだろうか、と、彼女はシチューを食べながら思った。


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