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クリスマス市のグリューワイン

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ニコール・オブリー 第二話

次の日の事だった。昼下がりだった。
ニコールはやりかけの刺繍をいったん中断して(ニコールはあまり刺繍が得意な方ではなかった)、使用人の女が持ってきてくれた焼き菓子を食べていた。美味しい焼き菓子ではあったが、少し味が物足りないようにも思えた。
ラズベリーのジャムがあったらちょうどよくなるのに、と彼女は思った。そこで使用人の女に持ってこさせようとしたのだが、他の仕事だ折るか、彼女はもちろん、その他の使用人もなかなか来なかった。
ニコールはそれに少し腹を立てつつ、それなら自分が持ってこよう、と食糧庫に急いだ。昨日給仕長が言っていたように、若い男が見張りについていた。
「おや、奥様」
「ちょっと探すものがあるのよ。食糧庫に入れて」
そう命令すると、若い男は急いで鍵を開けて、ニコールを中に通した。彼女はランプを持って、暗い食糧庫に降りていく。ジャムの壺の場所は知っていた。
真直ぐそちらに向かおうとするニコールの耳に、ふと、異質な音が聞こえたネズミだろうか、と彼女の背筋は凍る。先ほどの男の使用人に行って早く追い払ってもらおう。そう思いつつ、彼女はお目当てのジャムの棚の所まで来て、ランプをかざした。そして、愕然とした。
ジャムが全て空だ。そうだ、そう言えば荒らされたと言っていたことを彼女はここでようやく思い出した。その時、先ほどの音がさらに大きくなったような気がした、ネズミの音ではない!
彼女は意を決してそちらの方に向かった。明らかに、何者かが食料を食い散らかしている。ニコールは息をひそめる。そしてランプの光を突き付け、「誰!?」と鋭い声で言った。
ランプの光に照らされて浮かび上がったのは、先日、家の前にいった唖者の物乞いだった。天井から引きちぎったと見える太いハムと、巨大なチーズの塊を両手に持ってむさぼっていた。
「あなたは」ニコールは驚いて言った。彼は相変わらず返事ができないようで、つば広帽子の下に見える口で相変わらずがつがつとハムをかじっていた。
「やめなさい、若いものを呼ぶわよ!」彼女は気丈に言う。そしてそこまで言って、ふと、彼女は恐怖感に襲われた。そうこの入口には見張りも致し鍵もかかっていたのに、彼はどうやって入ったのだろうか?
彼女はそのことも問い詰めようとした。だが、それより早く、彼はゆらりと立ち上がった。
ニコールは再び恐怖感を覚えた、まずいことをしてしまった、とも思った。この男が自分に暴力を振るって逃げ出さないとも限らないのに、早くに番をしている青年を呼ばなかったのは失態だった。
今からでも呼ぼう、と彼女は口を開けた。しかし、不思議と声が出なかった。この目の前の男に、自分が想像以上に恐怖を覚えていることを彼女は自覚する。物乞いは、つば広帽子で表情が見えないまま、ゆっくりとニコールの方に歩み寄った。
かすれ消えそうな声でニコールが拒絶の言葉を出す。彼の手が、ニコールの方に伸びた。と、同時にその時。彼は地面に倒れた。
「え?」
彼女が怪訝そうに言うと、彼は冷たい地下室の床に転がったまま再び持ったチーズの塊に必死でかぶりついていた。
ニコールの恐怖感が薄れたような思いだった。その様子は、酷く惨めなように思えた。
「なあに、そんなにお腹がすいてるの?」
彼はまた、うめき声を出してうなずいた。そんな彼を見て、ニコールの心にも慈悲の気持ちがわいてきた。
「そんなにコソコソ食べてなくていいわよ。外にいらっしゃい。お客としてご馳走するから」
彼女はそう言って、彼に手を差し伸べた。彼はよろよろ立ち上がり、それをつかんだ。すがるような強い握り方だった。


帽子の男は、恐ろしいほどに出されるものをがつがつと食べた。其の食べっぷりに、使用人たちも驚きあきれていた。いや、もはや関心すらしていたかもしれない。この男はどれほどにまで飢えていたのだろうか、と。
だが、そんな彼の向かいに座りながら彼を見つめるニコールの関心事は、別の所にあった。帽子を脱いだ彼は、哀れなみすぼらしい物乞いとは思えないほど美男子だった。
高い鼻に引き締まった唇、彫りが非常に深く、その中には切れ長の深い色をした目。広い帽子のつばに隠れて、全く見えなかった。オブリー氏のしまりのないそれらとは大違いだった。ニコールは彼に見とれる自分がいるのにもわかっていた。
もしも、と彼女は考えていた。もしも、彼がこんなオブリー氏の着替えではなく、引き締まった軍服か鎧に身を包んだのならば……それは、ニコールが物語を読みながら思い描いていた騎士のイメージに実にぴったりだった。
そんなことを考えていると、給仕長が客に非礼の無いよう、静かにニコールに、これくらいしてもらわないと、と合図を送った。ちょうど客人も今ある分を食べ終わったところなので、ニコールは「ご満足いただけたかしら?」と、やんわりともうこれきりにしてもらえるように告げた。
意外なことに、彼はその真意をわかってくれたらしい。彼はナプキンで口元をぬぐいながら、黙ってうなずいた。
「貴方、見ない顔だけど、ヴェルヴァンの方?」
ニコールは食事を終えた彼にそう言った。彼は首を横に振る。
「遠くから来たの?」
うなずく彼。
「……ご家族は?」
またしても、首を横に振る彼。ニコールはものの言えない彼に、いくつもの質問を投げかけた。彼はそれにその都度答えた。
色々と質問をして、最後に彼女はこう問いかける。
「貴方の事、なんて呼べばいいかしら?」
彼は少し考えていた。しかし、急に宙ににその細い指を浮かせ、何かを書き始めた。文字を書いているのだ。
ニコールは、物乞いである彼が文字をかけるとは思っていなかった。彼女は慌てて使用人にノートとペンを持ってこさせた。
「字、書ける?」と彼女は念を押しつつ、彼にペンを渡し、インク壺を傍に置く。彼はしばらくじっと無言でペンを見つめていたが、やがてインク壺にその先端を差し込み、震える秘跡でいくつかの文字を書き始めた。
ニコールはそれを見て思った。どうも、フランス語的な文字の並びではない。ラテン語風に発音してみようと彼女は試みた。
「……ベルゼブブ?」
そう彼女が呟くと同時に、彼はうなずいた。変な名前だ、と彼女は思った。こんな名前の聖人はいない。フランス人の名前ですらない。彼はどこか遠くから来た外国人なのだろうか。彼女は考えた。ベルゼブブと名乗る青年はじっとニコールの方を見つめていた。その視線に気が付いた彼女ははっとして「そうそう」。まだ名乗っていなかったわね」と言った。
「マダム・ニコール・オブリーよ」
彼はその名をしっかりと吟味しているようだった。深い色の目は不思議な色だった。赤みのかかった茶色のようにも見えた。ニコールにはそれが、たまらなくいいもののように思えた。ベルゼブブ。彼は、美しい。
彼は立ち上がった。そしてひざを折り、ニコールの手に軽くキスする。そして、帽子をかぶり、玄関に向かって踵を返した。ニコールは、彼が礼を言って出て行こうとしていると理解した。
その時だった。彼女ははっきりと、自分の中にあるこの美青年と離れたくない気持ちがあることを自覚した。
「待って!」
彼女の言葉に、彼も素直に立ち止まった。
「行くところがあるの?」
その言葉には、彼は指を横に振った。それはそうだろう。屋根のないところで寝るしかない物乞いなのだ。
ニコールはそんな彼に言う。
「ねえ、夫がね、今仕事で出ているの。その間、秘密になら、うちに泊まって言ってもいいわよ」
後ろで使用人たちの声が聞こえた。「奥様」と給仕長が静止する、しかし、ニコールはそんな彼女に「お黙り。私の命令よ」と告げた。
「いい?夫には絶対言わないでね。でも、彼は私の客人なんですからね、一切無礼がないように」
主人にそう言われてしまっては、使用人は黙るしかない。彼らの間でも話し合いが行われたが、結局ことはニコールの望むとおりになった。

ニコールはベルゼブブを客間に通し、彼の体を洗って服を着せてやるように言いつけ、自分は散歩に出た。
不思議な気持ちだった。胸がときめくような気持ちだった。
頭の中に思い描いて胸をときめかせてきたような存在が、今日、すぐ前に現れたのだ。そうなっても不思議はないだろう。たとえ、相手の身分が物乞いだったとしても。
夫がいないことを彼女は改めてありがたいと思った。
「(あの人がいたら……どんなことを言われたかわからないもの)」
彼女はそう考えていた。その時、彼女の後ろから声が聞こえた。
「すまない、お嬢さん」
不思議な声だった。男とも女ともつかない声だった。彼女が振り返ると、そこには声の通り、男とも女ともつかない人間が立っていた。

彼(便宜上、こう呼ぶことにする)は身なりのいい服を着ていたが、貴族というよりは貴族の従者というようだった。吸い込まれそうな真っ黒な神と、色白の肌をしていた。男装の美少女にも、少女のような美少年にも見える。
「な、なんでしょうか?」
お嬢さんではなく既に夫人である、と言う気にはならなかった。ニコールは戸惑いながら彼に言葉を返す。
「私の主人が見えなくなったのです。ここいらに、そのような人を見かけませんでしたか」
「えーと……どのような?」
目の雨の彼は、自分の手を足の所ほどに持って行って、言った。そしてニコールは、その言葉に面食らった。
「このくらいの背丈の、赤ん坊のような方なのですが……」
赤ん坊!?赤ん坊が勝手にいなくなるはずがないじゃないか。ニコールは目の前の彼が自分をからかっているのか、あるいは狂人なのだと思った。いずれにせよ、関わり合いを持ちたくないと思った彼女は「いいえ、見かけません」と、無難に返した。すると、彼は急にとげのある口調で言った。
「ちっ……使えん女だ」
彼のあまりの暴言にニコールは抗議しようとした。しかし彼はそんな彼女などいざ知らず、焦ったようにスタスタとどこかに消えていった。変な人、とニコールは思った。


オブリー氏はその日の夕方、ラン大聖堂を訪れた。もう聖堂内はかなり暗くなっている。黒い闇に染まってしまった壁の中に、薔薇窓の光だけがくっきりと浮かび上がっていた。
オブリー氏はそれの光景に見とれながら、若い助祭を呼んだ。彼はやって来た客がオブリー氏であることを見届け、丁寧にあいさつをする。
「いつものものを持ってきたよ」オブリー氏が言った。「司教殿は?」
「あ……少々お待ちください。今、ルフェブール公爵とお話をしておりまして……」
ルフェブール公爵はランでも有力な貴族である。オブリー氏も彼とは良好な中を築いていた。そして彼も、熱心にランの司教のもとを訪れている男であった。
「かまわない。待つよ」オブリー氏はそう告げて、長椅子に腰かけた。暗く染まった聖堂はしんと静まり返っている。オブリー氏は心の中で、神に祈りをささげた。
静かな中、声が聞こえてきた。青銅の前の方に、二人並ぶ人影がある。その方から聞こえてくる。オブリー氏はこの声をよく知っている。ルフェブール公爵と、ラン大聖堂のジャン・デュ・ボー司教だ。
公爵は、自分が過去にしてきたことをつらつらと重ねているようだった。いわば懺悔だ。懺悔は普通聞くものの正体が見えないようにするものだが、この公爵と司教においては別だった。公爵の過去の所業の中には、耳をふさぎたくなるような悪事もいくつか含まれていた。
「司教様。……私は、これほどまでに、悪事をし、私腹を肥やしました。恥ずべきことをしました……このような私が、天国に行けるのでしょうか」
震えた公爵の声。それを、落ち着いた低い声が遮った。
「案ずることはない。主は、貴方の罪を許される」
あのような悪事に対して、この言葉を返す。オブリー氏はよく知る仲のデュ・ボー司教の事を考えた。彼は、ちっとも変わりがない。なんて彼らしい返答だろう。
公爵の「ありがとうございます、司教様」という声。
「貴方がそうおっしゃってくれればこそ、安心して生きることができますよ。いつもの通り、ほんのはした金ですが持ってきています。後で召使に……」と続く。
「ああ、それはありがたい。いつも世話になりますな、公爵殿」
薔薇窓だけが浮かび上がる暗い聖堂の中、司教のそんな声が小さく聞こえていた。オブリー氏はじっと黙って、その場に居た。

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