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クリスマス市のグリューワイン

ニコール・オブリー 第五話

不思議なことに、ニコールが帰ってみると、ベルゼブブに貸していたはずのオブリー氏の着替えはちゃんとオブリー氏の箪笥に収まっていた。洗濯したての、パリッとした状態で。とても、誰かが着た後ではなかった。そして逆に、脱がせておいておいたはずのベルゼブブのあの貧しげな服は跡形もなく消えていた。
そしてそれどころか、使用人は誰一人客人が来たことを覚えていなかった。食べ物が減っているのは変わりがないのでそこだけをみんな怪しんでいる。
オブリー氏も帰ってきて、ニコールはまた日常に引き戻された。望まぬ結婚をした夫との、つらい生活。一応、両親がまだ巡礼から帰って来てはいないが、彼らまで帰ってくればもうすっかり元通りだ。

彼女はよくよく、ベルゼブブの事を思い出した。夕焼けの中に溶けていってしまったような、美しい彼との思い出を。
あれは一体なんだったのだろう。自分が見た夢にすぎないのだろうか。彼女は毎日そんなことを考えた。
オブリー氏は帰って来たからと言うもの、ニコールに恋愛物語を読まないように厳しく言い聞かせた。ランの司教に言われたのだろうということはニコールから見てもよく分かった。ニコールも数回、デュ・ボーにあったことはある。
「(でも、がみがみ口うるさくて、本当に嫌な人!)」
貴婦人と騎士の純朴な愛を破廉恥と断罪する男の事が、ニコールは嫌いだった。こんな人間が沢山いればこそ、彼らは悲しまなくてはならなかったのだ。「(もしこの世がいい人間たちばかりだったら、あの美しい恋人たちが悲しまなくて済んだのよ。そうよ、そうだったらどんなに良かったかしら)」彼女は何回も、物語を読むたびそう思っていた。かえって彼女は、モラルを唱える人間が偽善的に見えていた。彼らの唱えるモラルなるもので純朴なものが踏みにじられるなら、それの何が善であろうか。
とにかく、ニコールは夫に縛られ、修道院に本を読みには行けなくなってしまった。召使がとめ、馬車を出してくれないのだ。召使は当たり前だが、ニコールの言うことよりオブリー氏の言うことを聞く。
「(みんなあの人の言いなり。そしてあの人は、司教の言いなり。そして司教は、モラルの言いなり……)」
同じだ。誰も自分に同情しない。この世は冷たい。夢にひたっていられる時間が、自分が一番楽になれる時間なのに、モラルを唱える偽善者たちはそのことを理解せず苦しみを楽とみなせと言う。ニコールは毎日毎日、そう感じていた。そしてそのたび、本以上にベルゼブブを思い出した。
本当にいたのか、ただの夢だったのかもわからない非現実的な彼は、幻想そのもの、夢そのものだった。不思議な力を持った、言葉を話さない、美しい人。どこへともなく消えて行ってしまった人。ニコールは彼の事を、誰も覚えていないのをいいことに誰にも言わなかった。彼との不思議な思い出は自分の中にしまいこんでいきたい気持ちでもあったのだ。
秋はさらに深まっていった。庭の林檎の木は、実がだいぶ落ちていた。ニコールは退屈すぎて、ベッドに寝そべった。
読書するのならせめて聖書を読めと司教は言ったそうだが、あんなものを読んでも面白くもなんともない。おかげで修道院での成績は非常に悪かったのだ。
彼女は寝返りを打って、「ねえ、あの人は、誰だったの?私をからかいに来た、妖精さんだったのかしら」と問いかけた。問いかけた先には、一つの首の長い小瓶があった。その小瓶に、一輪の、可憐な青い薔薇がさしてあった。これだけは、消えることがなかったのだ。ニコールはベルゼブブの思い出を共有できるもの同士、彼女に度々話しかけた。むろん彼女は答えを返しては来ないが。それもまた、ベルゼブブの残したものらしいではないか。


両親はなかなか帰ってこなかった。サンディアゴ・デ・コンポステーラへの旅路はどれくらい長いのだろうか。旅に興味のないニコールにはあまりピンとこない。
ある日教会を訪れた時、ニコールはテレーズ修道院長にあった。彼女は、ニコールが浮かない顔をしているのに気が付いてそのことを問いかけた。なぜ最近あまり訪れないようになったのかも。ニコールは素直に、本を読むことを禁止された旨を言った。
テレーズ修道院長は、ニコールの趣味を良く分かってくれている人物だ。彼女は、趣味を禁じられた教え子に同情の意を示した。ニコールはそれが嬉しかった。むろん、ニコールが心の中でするように、夫や司教に対しての批判はおくびも出さないが、それでも立場上しょうがないのだろうとニコールは納得した。
いつの間にかド・ラ・モット神父まで話に加わった。ド・ラ・モット神父も、「一応、今度オブリーさんにあったら私からも言っておこう」と発言した。彼女はそれに礼を述べた。
「でも、司教様のおっしゃる通り聖書の学びもしたまえよ」
「あ、はい。いずれまた……」
それから彼らは、ニコールの両親が送ってくる手紙について話した。ド・ラ・モット神父はさすがに博識だ。ニコールが知らない地名でも知っていて。彼らは今どこどこに居ると教えてくれる。
「旅は順調なようだ。何よりだよ」
「はい……」
しかしこの話も、余りニコールの望むところではない。弔う価値のない祖父のために、何故両親は過酷な旅をするのだろうか。
誰もかれもうるさくモラルを解く癖にモラルなくして死んでいった祖父は呪われるどころかこんなに大切にされる。「(変な話だわ)」とニコールは思う。
彼女は話に入りたくなくて、テレーズ修道院長とド・ラ・モット神父の言葉を適当に受け流しつつ、目は全くあさっての方向に泳がせていた。
何かが見えた。
教会の隣にある広場、そこに立つ林檎の木の下に一人の男がいた。大きな唾広帽子を目深にかぶった、背の高い男性だった。
「あ……」
ニコールは声を出そうとした。しかし、うまく出なかった。彼女はそばにいる二人にお構いなしに、その場を立ちあがって林檎の木の下までかけた。二人が呼びとめる声は全く聞こえなかった。
心臓がどきどきとなった。自分の頬に赤みがさすのがわかった。胸がざわめき立つ。先ほどの鬱屈とは正反対の、歓喜に満たされた自分がそこに居るのがわかった。

だが、ニコールが林檎の木の下についたとき、誰もそこにはいなかった。ただ、落ち葉がひらりと落ちてくるだけだった。


いつの間にか、またオブリー氏はランに向けて旅立った。彼女はまた、ぼんやりと自分の部屋で暇を持て余していた。せっかくなら、自分もどこかに行って遊びたいのに、と思いながら。
そんな時だった。彼女の部屋に飾られた青い薔薇から、静かに花弁がこぼれた。
ニコールはめんくらった。花弁はひらりと自然に落ちたのではなく、不自然なほどはらりはらりと勢いよく散っていったのだ。彼女が何かするまでもなく、青い薔薇は全て散りきった。
彼女は何とも言えない空虚感に、まず満たされた。また、思いで場ひとつ消えてしまった。そう思って、せめて青い花弁を拾い集めようとした、その時だ。
ニコールの部屋の扉が鳴った。
「誰?」
使用人だろう、と思って答えた彼女の声に、返答してきたのは聞き覚えのある声だった。
「開けろ。ニコール・オブリー。我が主人がお前の事を待っていらっしゃる」

いっそ不自然なほど、男なのか女なのか全く区別のつかない声。ニコールは掌に花弁を乗せたまま、しばらく呆然としていた。だが、扉はまだなる。
彼女は自分の頭に、血が集まるのがわかった。脳が活性化していく。あの日、教会で、広場の人影を見た時のように。いや、それよりも数倍強く。
ニコールは薔薇の花弁をサイドテーブルに丁寧に置くと、急いでとbリアを開けた。とbらの外には案の定、どこから入ったのかアスタロトが立っていた。

「お久しぶり……」
ニコールは震える声で言った。アスタロトは従者らしいお辞儀をすると、ニコールの手を取った。
「さあ、こちらだ」
「あ、ちょっと……」
使用人に見つかるかもしれないじゃない、とニコールは言おうとしたのだ。しかし、そんな心配はなかった。
どうやって移動しているのか、皆目わからない。気が付いたときには、彼女は名前もわからない通りに連れて来られていた。
周りの景色に見覚えがない。知らない町だ。一応、フランスではあるようだが。彼女はうろたえていたが、彼女の手をつかむアスタロトはさも当然であるかのように彼女を案内した。
彼はニコールを連れて通りを闊歩する。そして、一つの広場についた。広場には人魚の像が手に持った壺から水を噴き上げる噴水があり、そこに黄色い落ち葉が浮いていたが、後は水鳥すらも泳いでおらず、ましてや人間は不思議すぎるほどに人っ子一人いなかった。ただ一人を除いては。
ベンチに座っている人物がいた。それは間違いなく、ベルゼブブだった。

「ベルゼブブ……!」
ニコールは彼に会えた感激で体中が沸き立つのがわかった。ベルゼブブが穏やかに笑って彼女を隣に案内した。アスタロトはそばに立ったままだ。
彼女はもちろん喜んで、彼の隣に座った。なんだか、かぐわしい香水の香りがする気がする。彼はゴテゴテした身なりではなかったが、それでも物乞いのようでもなく、非常に小ざっぱりとしたシャツとズボンに身を包み、外套を羽織っていた。帽子は、被っていない。
「お久しぶり……私、ちゃんとあなたにお別れの言葉を言いたかったのよ。なのに、すぐ行っちゃうから……」
彼は相変わらず、何も言わなかった。その代り、もう一度青い薔薇を出した。この前のものよりもいっそう深く、鮮やかな葵をに輝いているそれを、彼はまたニコールに手渡した。
「ありがとう」とニコールも笑顔で笑いかける。「本当に、素敵なお花ね」
ベルゼブブは満足そうににっこりと笑った。ニコールは彼のそんな顔を見るたび、心がなみなみと満たされた。

ニコールは長い時間、彼と一緒にその広場に居た。人は誰も来なかった。ただ吹き上がった噴水の水が水面に落ちる音だけが響いていた。
ニコールは、彼が離さないことにも全く苦労を感じなくなっていた。少し、ほんの少しだけだが、彼の心が、彼の表情や身振り手振りだけで分かる気がするのだ。こんな気持ちになったのは初めてだ、とニコールは思った。まるで、目の前の彼と心が同一になっているかのようだ。
それに、時々はアスタロトがベルゼブブの言いたいことを直接通訳してくれた。彼は無礼なようだが、それでも心底酒を主を慕ってはおり、なればこそ主が慕う相手には礼節を尽くすのだとニコールにもわかった。彼女は最初の法こそ苦手に思っていたアスタロトにも心を許してきた。
その広場では、火の高さはいつまでたっても変わらなかった。だから、ニコールが「もうそろそろ、帰る時だ。ニコール・オブリー」とアスタロトに言われた時、彼女は驚いた。
「なんで!?まだ、ぜんぜん時間たってないじゃない……」
「案ずるな。ベルゼブブ様はこれから何度でも、お前を誘いに来る。ベルゼブブ様は、お前にご好意を持たれたのだ」
その言葉を聞いて、ニコールの脳は一瞬、硬直した。何か、とてもうれしいことウィわれたような気がしたのだ。
彼女がぼんやりとしている仲だった。彼女の手は、何者かが自分に触れたことを必死で脳に送ろうとした。ニコールの脳がそれをやっと認識した時だった。
ベルゼブブは、ニコールの手にキスをしていた。優しく、暖かいキスだった。彼はまるで、高貴な貴婦人にするように恭しく、彼女の手にキスしたのだ。
ニコールは一気に顔が赤くなった。それを見届け、ベルゼブブは唇を離す。あいている方の手を、アスタロトがつかんだ。それから先は、ニコールにはよく分からない。
気が付けば彼女はヴェルヴァンの町に居た。しかも日はとっぷりと暮れていた、

給仕長たちは当然驚いた。「奥様、どこに行っていらっしゃったのです!?」
どこに行っていたのか、彼女自身も分からない。それに彼女はその時、熱に浮かされたような気持ちだった。そして、最高にそれが幸せだった。物語を読んでいる時よりも、今この時間が嬉しいように思えた。
「本を読んでだけはいないから安心して。モントルイユ・レ・ダム修道院に連絡を取ったっていいのよ」
彼女はそう言い残すと自分の部屋に行った。そして、幸せに満たされたままベッドにその身を横たえた。外の林檎の木の実は、ずいぶん少なくなっていた。

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