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クリスマス市のグリューワイン

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ニコール・オブリー 第六話

アスタロトは言葉通り、その後何回もニコールのもとにやって来た。彼女を自分の主のもとに案内するために。
案内される場所はいつも知合っていた。広場であることもあったし、秋とは思えない季節はずれの花畑も、うっそうとした深い森の奥の事もあった。
ニコールはベルゼブブにどんどん惹かれていった。彼はいる。夢ではない。彼は自分自身が感じられる不思議な存在ではあるが、それでも実在しているのだ。そう実感するたびに、彼女の中の幸福な気分は膨らんでいった。
オブリー氏が帰ってからも、アスタロトはニコールを連れだした。オブリー氏は全く気が付いていないようだった。(もっとも、気が付けと言うのも無理な話ではある。)彼は、ニコールに「最近、幸せそうだね」と言った。
彼女はそれに対して「ええ、とっても幸せなの」と返す。ニコールはベルゼブブのそれとは似ても似つかないほどさえない彼の笑顔を気持ち悪いと思いながら、そう返した。

ある日、彼女はどことも分からない冷たい湖の畔でベルゼブブ出会った。ニコールが来た時、彼は水晶の板のような水面をじっと凝視していた。
だが彼女が「こんにちは」と返した瞬間、その湖よりも透き通って輝いて見える瞳を、彼はニコールの方に向ける。ニコールはその瞬間がたまらなく好きだった。彼の目に自分が映る、その瞬間が。
湖の畔はひんやりしていた。彼はニコールと肩を寄せ合いながら、彼女の話を聞いていた。
「ねえ、ベルゼブブ。私、本当に幸せだわ。生まれて初めてってくらい、幸せ」
彼女が笑う。ベルゼブブも、彼女と一緒に笑った。彼の笑顔は非常に上品だ。見れば見るほど、ニコールが頭に思い描いていた美しい騎士のようだ。
ニコールは彼に、そのようなことも話した。彼の美しさをほめたたえる目的で。
「物語の中の貴婦人様みたいに、貴方みたいな綺麗な男性に出会うのが、私の夢だったの。貴女はその夢をかなえてくれたのね。ねえ、貴方は誰なの?私をからかう妖精さん?それとも、私を救いに来てくれた天使様?」
その言葉を聞いて、ベルゼブブの肩が一瞬はねたように思った。彼女は怪訝に思ったが、自分の方からこの話題は打ち切ることにした。ベルゼブブは、自分の正体を明かしたがらない。
「ごめんなさい」彼女が言うと、ベルゼブブは許可すると言わんばかりに首をふった。そしてニコールの傍からいったん離れ、立ち上がると湖の方に向かった。
「何してるの?」ニコールも彼のそばに駆け寄った。彼は細長い指を平らな水面におく。丸い波紋が一つ生まれた。ベルゼブブはその波紋を、力を込めて睨みつけた。
と、その時だ。破門の中に、景色が浮かんだ。
本の中の挿絵とはくらべものにならない、リアルな景色だった。まるでニコールがその場に居るような。景色は、彼らの目の前で動いていた。
何処かもわからない、フランスなのかもわからないところだが、宮廷の舞踏会のようだった。まさにニコールが憧れたような貴族のお嬢さん方が、花やリボンに彩られた豪華なドレスに異を包んで、同じように美しい若い男性とダンスを踊っている。彼らは花びらが春風に舞うようにくるくると、軽やかに動いていた。
それは、ニコールが想像していたような華やかさよりもずっと上の華やかさだった。いくら裕福な家とはいえ、一般市民だ。このような舞踏会にニコールが縁があったはずがない。全くただのイメージで思い描いていたものよりも、湖に映し出される本物の貴婦人たちの暮らしは何段も華麗だった。
ニコールは夢中でその映像に目を凝らした。夢見たものが、ここにある。彼女はその光景を少しでも多く、目に焼き付けたかった。美しい。なんと美しい光景だろう。なんと清らかな光景だろう。
倦怠、偽善、矛盾に満ちた、自分にとっての現実世界とは違う現実がここにはある。輝かしく純粋な、夢の世界がここにある。ニコールはよっぽど、その池の中に飛び込みたいほどだった。かすかに自分とその景色の間に揺れ動く波紋が、彼女の心を押しとどめた。

その日ニコールは、帰ってもあの景色が忘れられなかった。あれは、自分の理想の世界だ。夢にまで見るどころか、夢にすら見れなかったほどの理想の世界だ。ベルゼッブは、それと自分をつないでくれる。
彼の存在が非常に輝かしく思えた。ニコールは、自分がなぜ本が好きだったのかをわかるような思いだった。
本は、自分の理想と自分をベルゼブブほどではないにせよ繋いでくれた。聖職者や聖書の説くモラルの世界は、自分の幸せに何の意味もなかったのだ。
「(本だけが、私の味方だったんだわ。恵まれない人生を送っている、私の。でも、今はそれに、ベルゼブブまでもいてくれる)」
ニコールはその日、夢を見た。舞踏会の夢だった。やっとこの夢を見ることができたのだと、彼女は夢の中で歓喜に打ち震えた。

ラン大聖堂で、デュ・ボー司教はユグノーの論客たちと論争していた。何にしろ、ただでさえ頭に血の上りやすい司教だ。論争は異常に白熱した。
「もう一度言ってみろ!」デュ・ボー司教はテーブルを叩いた。
「ああ、何度でも言いますとも!」ユグノーの男性がはっきりと言う。「聖体なんかを主なるキリストの身体と同一視するのは偽善です。偶像崇拝的です。あんなもの、ただのパンでしかありませんよ。聖書に書かれていることを、我々クリスチャンは実践すべきなのです。聖書にないような典礼に縛られているようでは、ファリサイ人と同じ、信仰の本質を見抜けなくなってしまうというのが、そんなにおかしい事ですか!?」
「聖体に価値がないだと!?」デュ・ボーは論客を怒鳴りつけた。「主なるイエス・キリストの御体の奇跡が信じられないものが、キリスト教徒を名乗るな、嘆かわしい異端者が!悔い改めよ!」
「悔い改める必要があるのがどちらですか、欲得に溺れたカトリックが!」論客は言う。「教皇も、枢機卿も、そしてあんたら司教も、その地位に胡坐をかいて、坊主のくせに金を稼いで女を囲って、贅沢三昧してやがる。そんな奴らに異端呼ばわりされたくはですな!貴方がたこそ悔い改めなさい、キリストの道にそむく異端者が!」
その言葉は、デュ・ボーの心をえぐった。
彼は、手をわなわなと震えさせ、怒りで言葉が言えなかった。彼の胸中に渦巻くものがあった。昔の自分自身を、彼は見ていた。若かった頃、ソルボンヌ大学の、穢れも何も知らなかった若き神学生の自分、そして大学に入る前の少年の自分を、彼は心の目で見ていた。
「黙れ」彼はやっと言った。
「何がわかる……貴様に、何がわかる。カトリックの事も、聖体の事も、私の事も……貴様ごときに何がわかる」


それは夕方の事だった。銀色の夕霧がいつも以上に立ち込める幻想的な夕方だった。ニコールの部屋のドアを叩くものがいた。
「ニコール・オブリー。いるか」
アスタロトの声だった。ニコールは大喜びで彼を通した。
彼は扉の前で立ったまま、ニコールに言う。
「今日はベルゼブブ様から、あることを聞いてくれと言われたのだ」
「なあに?」
アスタロトは一つ咳払いをしてから、彼女に言う。
「前日は、あの映像を随分熱心に見つめていたな。お前は、ああ云った世界が好きなのか、とベルゼブブ様は疑問に思っておられた」
「ええ」即答するニコール。
「あの世界こそ、私の憧れなのよ。あの穢れない世界こそ、私の理想なの」
「そうか」
アスタロトはいつもの通り、ニコールの手を握って彼女を部屋の外に連れ出した。ニコールの意識はいつものように混濁していく。庭を通った気がした。庭の林檎の木髪が一つもなくなっていた。いったい誰が全部取ってしまったのだろう。とうとう、ニコールは庭の林檎の木を一つも食べずじまいだった。

ニコールはいつにもまして、自分と言う存在が消えかけるような感覚を味わった。音が聞こえてくる。何の音だろうか。
「(ベルゼブブ、ベルゼブブ、あなたはどこ?)」
自分がどこに居るのかわからない状況で、彼女は心の中でそう問いかけた。すると、その答えが返ってきた。
言葉ではない。だがはっきりと、ここに居る、と言いたげに何者かがぎゅっと手を握って来たのだ。
「ベルゼブブ!」
彼女は目を見開いた。目の前では背の高いベルゼブブが彼女の手を握っている。周囲では、軽やかな音楽が鳴り響いていた。音楽?ニコールは不思議に思った。彼のいる空間は、たいてい静かなものなのに。
そして次の瞬間だ。ニコールはベルゼブブの着ている衣装に気が付いた。金のボタンと金糸飾りをふんだんに使った、とても高貴そうな軍服を彼は来ていた。それは青い記事でできていて、空色の糸で薔薇の刺繍もしてあった。腰にはニコールが現物を見たこともないような、すらりと細長く美麗なサーベルがさしてある。
彼は、黒い手袋をを付けた手でニコールの手を握っていた。そして、深い色の瞳でじっと、微笑みながら彼女を見下ろしていた。
ニコールは驚いて、あたりを見渡した。これは、先日見た舞踏会だ。どこの国なのかもわからない、貴族の舞踏会。
ニコールは慌てた。自分のような平民がここに居たら、恥をかくだけだ。しかし、見下ろすとニコールの目に移るのは、いつものエプロンスカートではなかった。彼女は豪華な絹のドレスをいつの間にか着せられていた。ローブには、うっとりするほど鮮明な青色で、見事な薔薇の刺繍がなされていた。胸や頭には真珠の飾りもある。どこからどう見ても、ニコールは立派な身分の、年若い貴婦人だった。
彼女は落ち着いて、もう一度ベルゼブブを見上げた。彼女の目の前にちかちかと星が飛ぶような思いだった。
彼と初めて出会った時、思ったものだ。これで軍服か鎧を着ていれば、まさに自分が夢見た騎士のイメージそのものだと。
その、そのものが目の前にいた。華麗な軍服を端正な体に纏わせたベルゼブブの姿は、ランスロットにも、トリスタンにも負けはしなさそうなほど壮麗な騎士そのものだった。ニコールの夢そのものが、そこには立っていた。そして、貴婦人となった彼女の手を握っていた。
音楽が高まる。ベルゼブブはニコールの腕を取ったまま、静かに踊り始めた。ニコールもそれにつられて体を動かす。すんなりと体が動いた。均等もしない。足がもつれることもない。まるで生まれた時から何度もこう言うパーティーを経験しているようだ。
ベルゼブブの腕に抱かれ、流れる音楽に聴覚を支配されながら、ニコールはまるで自分自身の感情が水にお墓出て行くような感覚を味わった。。
体を動かし、心臓の鼓動が高まり、気持ちが高潮してくるほど彼女の心は麻痺していく。この場を離れたくない、とも、もう考えなくなっていた。考えを持つだけの時間がもったいない。今この場では、これが間違いなく現実なのだ。こんな色鮮やかな光景が、夢であるものか。自分を見抜く麗しい騎士の視線が、夢であるものか。
自分は、このために生きていたのだ。ニコールは踊りに躍り、もう舞踏会上の光景も目に移らないようになって、そう考えた。これが、自分の人生だ。彼女はひたすら、そう実感した。この一瞬のため、自分は非道徳的と罵られようとも、純粋無垢な美しさを持つ物語の世界に没頭してきたのだ。運命が、自分自身をそう導いてくれるように。
ベルゼブブのエスコートやダンスは完璧だった。周りの貴族たちにも、自分たちは生まれながらの貴族と移っているに違いない。美しく、高貴な恋人たち。まるで物語の主人公たちのような。
ベルゼブブは、彼女を自分の胸に引き寄せた。そして頭をかがめ、じっと彼女を覗き込む。曲が終わったのだ。彼は握っていたニコールの手を持ち上げ、以前と同じように、彼女の手に暖かいキスを落とした。
赤い絨毯。輝かしい舞踏会場。騎士の装いをした彼が、貴婦人然とした自分の手にキスをしている。そのような光景にも、もうニコールは動じなくなっていた。これは、現実だ。現実におびえる必要など何もあるはずがない。だって、そうじゃないか。ヴェルヴァンでつまらない商人の妻であった自分よりも、今の自分が何倍も生き生きとしていることはニコール本人自身がよく分かっていた。

ダンスが終わった後、ベルゼブブはニコールを舞踏場の庭に連れ出した。やはり、外国なのだろうか。秋に咲くはずもない薔薇の花が所狭しと裂いていた。ベルゼブブはその薔薇をしげしげと眺めていると、急に立ち上がって行ってしまった。
ニコールは彼を追いかけようとしたが、そばにいたアルタロトが「お前に薔薇の花束を作ってやりたいとおっしゃっているのだ。待っていてくれ」と解説してくれたので、ニコールも庭の椅子で待つことにした。当のアスタロトはベルゼブブについてやはり行ってしまった。
冷たい夜風の吹きつける庭だった。彼女の火照った頬を、風は優しく冷ましていった。
うっとりとしながら、ニコールはベルゼブブを待っていた。フクロウの声がこだまして聞こえる。あの泣き声すらも、今のニコールの耳には上品な音楽に聞こえる。彼女は夜空を見上げた。黒ビロードに真珠をちりばめたような、良く晴れた輝かしい夜空だ。見れば見るほど、この世界では何もかも美しい。
良く見てみれば、噴水もあった。ベルゼブブと初めて会った広場にあった噴水のように、人魚の像が持つ壺から、何筋もの水晶をとかしたような清潔で透明な水が吹き上がっている。白鳥一匹も泳いではおらず、水面は鏡のようだった。ニコールはそれに見とれた。いつの間にか、自分の顔にはバッチリと化粧もしてあるし、髪も結いあがっている。貴婦人そのものになった自分自身に彼女はうっとりと見とれた。
その時、水鏡に入ってくるものがあった。一匹の蠅だった。彼はふらふらと力なく飛び、まさにニコールが見ている水鏡の上で息絶えた。そしてその体を水面に横たえ、水面には丸い波紋が浮かび上がった。
その瞬間だった。あの日のように、水の上に映像が浮かびあがった。

彼女の見知らぬ裏路地だった。こんな高貴な舞踏場とはくらべものにもならない、汚らしい路地。一人の男が、ニコールと同年代ほどの少女を、その中にある安宿に連れ込んでいた。
ニコールはぎょっとした。男はニコールなどには全く気が付かないように、安宿の老婆に金を払い、少女を一つの部屋に押し込む。そして彼女をベッドに横たえた。彼女はよろよろと力なく上着を脱いだ。汗ばんだ肌の色が、白いシャツを通じてぼんやりと見えた。何を話しているのかは音が聞こえてこないのでわからないが、彼女の汗のむわっとした匂いが感じられるような臨場感だった。
男はベッドの上に横たわる彼女のそばにやって来た。そして自分も帽子を脱ぎ、金貨を取出し、彼女に渡した。その男の顔は、ニコールの父そのものだった。

ニコールは、それ以上は見てられなかった。自分の体全身に鳥肌が立つのがわかった。
「(お父さん……お父さん。そんな……)」
祖父を弔う巡礼の旅に出ている父親、そのものの姿だった。父が、父が、何故。
彼女の頭はこんがらがり、思考が上手く働かなかった。今まで理想のような、夢の世界に居たのだ。それが一気に、乱れた、モラルも何もない世界に引き戻されてしまった。
ニコールは吐き気を覚えた。そんな彼女の耳は、他人の足音を捕えた。ベルゼブブとアスタロトが戻ってきてくれたのだ。彼女は喜んで顔を上げ、彼らにすがろうとした。この苦しみを、誰かにわかってほしかった。
だが、彼女を待ち受けていたのは三人の、全く知らない男だった。

まるで三つ子のようにそっくりな顔をして、豪華な黒いコートを羽織ったその三人は舞踏会の客のようにも見えた。だが、ニコールが彼らに何か言おうとする前に、彼らは無言のまま、ニコールの体を捕えた。
成人男性三人に抑えられて、ニコールに抵抗ができいるはずがない。彼女はあっという間に口をふさがれ、助けを求めることもままならなくなった。彼らが何をしようとしているのか、ニコールには分かった。そして、体中が嫌悪感に湧きたった。
彼らは茂みの中にニコールを押し倒した。そして、一人の男が青い薔薇の刺繍をしたローブに手をかけた。
ニコールの眼に涙が浮かんだ。視界がぼやけた。せめて、せめてこれから起こる光景を愛では認識したくないと体が叫んでいた。
だが、ぼやけた視界に、月の光を逆光にして、何者かが現れた。ニコールが瞬きをすると、涙の膜が剥がれ落ち、それがなんであるのかが分かった。ベルゼブブだ。黒装束の三人は、彼を見て呆気にとられていた。
ベルゼブブは険しい視線でニコールの方を見ていた。そして無言のまま、手に持っていた大きな薔薇の花束を、脱いだ黒手袋と一緒に隣のアスタロトに預けた。そして、空になった手で、サーベルを抜いたのだ。

一瞬だった。たったの一瞬だった。
彼はニコールに乱暴しようとしていた三人組を切り捨てた。彼らは物も言わずに石畳の床に倒れた。
ベルゼブブはサーベルを鞘に収めた。ニコールのその時の感情は、本人ですらなんだったのかがわからない。ただ、彼女の心臓は震えていた。
ベルゼブブは跪いて、彼女の猿轡を外した。ニコールは息を吸い込むと「……ベルゼブブ!」と大声で彼の名前を呼びながら、彼に抱きついた。
「怖かった。とても怖かったわ。ありがとう……ありがとう」
ベルゼブブは優しく、彼女を抱きしめてくれた。ニコールの心臓がこれ以上にないほど早鐘を討つのがわかった。
勇ましく剣を抜き、自分を汚そうとした男たちに制裁を加えてくれたベルゼブブの雄姿が、彼女の脳裏には焼き付いていた。彼女はそれを、何度も何度も頭の中で反芻した。
忘れたかったのだ。あの父親の映像も、自分を襲おうとした者達も。

「(何もかも汚いわ。何もかも、私を不幸にする。でも、唯一違う。清らかなものが、美しいものが、ここにあるわ。この、私のすぐそばに)」
ベルゼブブは彼女をそっと優しく抱き起し、庭の別の場所に連れて行った。彼女もそれに付き従った。

全く静かな薔薇園の東屋で、ベルゼブブは彼女に花束を渡した。その中には、青い薔薇もいくつか混ざっていた。
「ありがとう」ニコールは涙ぐんで、それを受け取った。そして、ベルゼブブにもたれかかった。暖かい、と彼女は感じた。
「ねえ」
彼女が問いかけると、ベルゼブブはゆっくりと彼女の目を覗き込んでくれた、彼の眼はよく光る。暗闇でも光っているかのようだ。
「私、ようやく分かったわ。何もかも汚いの。私って、不幸な女。神様は、私を愛してはくれなかった。この世は全部、偽善だらけよ」
ニコールは全ての感情を吐露した。祖父、夫、司教、周囲の人間を通じて彼女がこの世に持っていた不平不満を、全てぶちまけた。吹っ切れてしまったのだ。父親の姿を見て、あの自分の娘ほどの年齢の少女を飼う父親の姿を見て、そして自分を犯そうとしてきた人々の存在を見て、彼女は全てが吹っ切れた。
彼女は遠慮なく、この世に対するありとあらゆる憎しみを吐露した。偽善者ばかりに囲まれ、望まぬ結婚を強いられた自らの身の不幸を嘆いた。ベルゼブブはただただ、優しい目でそれを聞いていた。パニックになりそうな彼女を、暖かい手で、優しく抱きしめながら。
「でも」彼女は言った。
「でも、ここに、一つ、現実があるわ。……貴方っていう現実が。この世の何よりも清らかで美しい、貴方と私っていう現実が」
ニコールは語り続けた。なんてことはない。これが、現実なのだ、と。
「あんな偽善と汚らわしさに満ちた世界が現実であるはずないわ。モラルをうるさく説く司教のような存在がいながら、何故あの女の子は買われたの。なぜ司教はトリスタンとイゾルデの恋を断罪して、あれを止めないの。偽善よ、偽善よ、全ては偽善だらけ。そんな偽善に満ちた世界が、『現実』であるはずないじゃない。そう思っているのなら、きっと、私たちは皆狂っちゃってるのよ。モラルなんかに犯されすぎて、皆、現実が見えなくなったんだわ」
現実はこちらだ、ベルゼブブの世界だ。
「今私の目の前で私を抱いてくれている、この美しく、勇敢で、真実自分を守ってくれる存在こそ、運命の相手よ。断じてあの、醜くて欲情まみれの夫なんかじゃない」
ニコールは花束の中から一輪の青い薔薇を抜いた。そして、それをベルゼブブの胸に付けた。
「ベルゼブブ。貴方が好き。この世で唯一、貴方を愛しているわ」
ベルゼブブはその言葉を聞いて、そして薔薇の花を受けて、それこそ薔薇の花にも劣らないほどの優美な微笑みを返した。そして、彼女の顔に手を添える。
彼は、キスをした。今度は手にではなく、ニコールの唇に。
長い、長いキスだった。ニコールは全身を、蜂蜜の海に浸されたような思いだった。

自分は、このために生きていたのだ。
自分の手が偽善者の好む聖書ではなく、愛の書物に伸びたきっかけもわかったわ、と、彼はベルゼブブに唇を奪われながら考えた。「(全ては、この瞬間のためだわ。キリストなどと言う欺瞞に目をくらまされ、このベルゼブブとの純なる愛を受け取ることを邪魔しないため、全ては運命が取り計らったのだわ)」
彼女は自らの「甘美」な運命に打ち震えた。
「(グィネヴィアにとってのランスロットのように、イゾルデにとってのトリスタンのように、真実絶対の愛を分かち合える騎士を、見つけた。私は、ついに、見つけたんだ)」
長い、長いキスが終わった。ニコールは体中がとろけてしまったような快楽に襲われた。ふらふらする。真直ぐ座ってもいられなかった。
ベルゼブブはそんな彼女の体をゆっくりと倒し、自らの膝に乗せてくれた。彼女はベルゼブブの膝に抱かれながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。せっかく覚まされた頬が、また赤くなっている。
「(もう、この時が終わるかもと怯えることはないわ。この時こそが、私に本来与えられたものなんだから。私が本来生きる世界なんだから。)」
たとえ、あの汚い世界にまた行くことになっても、必ずこちらに戻ってこられる。ニコールはそう確信し、ベルゼブブの手に撫でられながら、安らかに目をつむった。

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