クリスマス市のグリューワイン

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ニコール・オブリー 第七話

その日も、オブリー氏はラン大聖堂を訪れた。いつも通り、大量の物資を持って。
「司教殿は?」彼はいつも通り若い助祭に尋ねる。助祭は「もうじき終わると思いますので、待っていてください」と言った。オブリー氏が見ると、デュ・ボー司教はステンドグラスを磨いていた。
薔薇窓の中にぽつりと映る人影が消えてしまうまで、彼は明るい大聖堂の中で待った。そして、自らの周りのすべてに平安があるよう、偉大なる神に祈った。
「やあ、ルイ。待たせたな」
「ジャン。いや、いいんだよ」ようやく終わったのは、一時間ほどしてからだった。「それにしても、ステンドグラス磨きくらい人を雇えばいいのに。君も司教の身分なのだから」
「それもそうだが、そんなことをする金は惜しい」デュ・ボーははっきりと言い切った。
「今日はパンとチーズとワイン。それに妻の実家の売れ残りをもらって、持ってきたんだ」
「肉屋だったか?」
「そうだよ。売れ残りだからあまりなくてすまないが……」
「何を言う。君にはいつも世話になっているのだ」
オブリー氏がわざわざ今日来たのにも理由があった。彼は毎週、この曜日に日課にしていることがある。それは勿論助祭たちも百も承知で、「司教様、スープの用意ができました」とほどなくしてデュ・ボーに話しかけた。
「よし、では、行くぞ」
彼は生き生きと立ち上がる。彼の首元で十字架のネックレスが揺れた。
子供でも持っていそうな、古ぼけた、シンプルな十字架のネックレスだ。他のお偉い司教が持つような、金でできて、ルビーやダイヤモンドををちりばめたものじゃない。でも、彼はそんなものよりも、このネックレスを子供のころから何より大事にしていた。
「お前も来るか?」デュ・ボーはオブリー氏に問いかけた。
「勿論。僕も手伝わせてもらうよ。今日はそのために顔を出したようなものでね」
「すまないな」
険しい顔をほころばせ、照れくさそうに司教は笑った。

馬車に大量の荷物と、スープの入った大なべを入れ、デュ・ボーは町のはずれの貧民街の方に向かった。貧民街の中にぽつりとできた広場に彼と助祭たちが大鍋を下ろしたころには、もう呼び集めるまでもなく、貧民たち、特に子供たちがわらわらと群がって来ていた。
「司教様、いつもありがとう!」
「礼などいらないよ。我らの主、イエス・キリストはこう言われたものだ。『天の国は、君たちのようなものにある』……さあ、みんな、並んで並んで。焦らなくても食べ物はたくさんあるよ」
彼は器にスープを注ぎ、パンを添えて貧民たちに渡す。彼はユグノーの論客たちを相手にする時とはうって変わって、楽しそうだった。オブリー氏も彼のその表情に満足し、パンやハムを小さく切り分けて渡した。

これはデュ・ボーが自らの治める教区内で定期的に行っていることだった。貧しい人々に無料で食べものを配り、その後は聖書や読み書きを学ばせる。なんせ慈善事業だから、行うのにもえらく金がいる。そう言うわけで司教が自ら窓ガラス拭きをするほど、デュ・ボーは切り詰めた生活を送っているのだ。
そこで毎回毎回、オブリー氏も助けるために物資を送っているというわけである。オブリー氏がデュ・ボーに持ってくる食料や衣服、毛布の類は皆貧民街に行く。そして、デュ・ボー本人はもちろん、彼と一緒に質素な生活に付き合わされる助祭たちも、オブリー氏もそれに不満を持ちはしなかった。
確かに、贅沢をできなくはなる。しかし、この瞬間ぱあっと笑顔になる貧民街の人々、中でも子供の無邪気な笑顔は何にも勝る、とオブリー氏は心底思っていた。自分に子供がいないから余計に可愛く見えるのかもな、とも思いつつ。
貧民街の人々はスープやパンを食べながら、デュ・ボーの説教を聞いていた。
「金がないからと言って、自らの信仰心を疑われるのではないか、と恐れる者がいる。しかし、信仰と言うものは本来金で換算されるものではない。たとえば、主なるイエスは貧しいやもめがした銅貨二枚の賽銭を、他の貴族の賽銭よりも称賛したものだ。人の心以外に、主に対する信仰心を計れるものなどない。だから、神を信じることを何も恐れることはない。賽銭が少ないと言って金持ちがお前たちを笑えば、それはお前達ではなく、その金持ちが悔い改めるべき存在なのだ」
子供たちが前に、大人たちが後ろになって、皆デュ・ボーの話を聞いていた。オブリー氏はようやく給食の仕事がひと段落ついたので、ずいぶん後ろの方で幼馴染の姿を見ていた。
彼は、この瞬間が一番輝いているように思える。赤紫のきらびやかな司教服に身を包むより、こうして貧しい子供たちに食料と学を与え、ただ神の道に準ずる姿が、彼にはあっているようにすら思える。
デュ・ボーは昔から、本当に真面目だった。神の道を行き、神の道に準ずること以外、彼が望むことは何もなかった。聞けば、この前のユグノーの論客は彼の事を「司教なんて贅沢三昧をしている偽善者だ」と言ったらしい。憤慨すべきことだ、と彼は思った。酒を飲み女を侍らす、司教とは名ばかりの生臭坊主たちはデュ・ボーがユグノーより、破廉恥な物語より、何よりも嫌うものだった。おそらく、そのユグノーはデュ・ボーの事もランの事もよく知らないよそ者だろう。彼は、非常に屈辱的な思いをしたことだろう。デュ・ボーがもう少し大々的にこの慈善事業を行っていればそう言われることもなかったのだろうが、そう言えば彼はこう言うはずだ。「主なるイエスは言われた。『汝、断食をする際には頭に油をつけ、顔を洗え』」。
それでも、彼はのし上がることを望んだ。望まざるを得なかったのだ。今でこそ幸せそうな幼馴染の顔を見て、オブリー氏は思いをはせた。

「お隣、よろしいですかな?」
一人の男が隣にやって来た。オブリー氏は顔をほころばせる。ルフェブール公爵だった。
「公爵殿。いつも、ご機嫌麗しく……」オブリー氏は頭を下げようとしたが、公爵は鷹揚に笑って断った。
「いいですよ。この場で、そんなことは無用。『神の国では、全てが平等』ですからな」
「すみませんね。つい、癖で」
公爵はオブリー氏の隣に腰かけて、優しい目でデュ・ボーや、彼に説教される子供たちを見つめた。とてもとても、公爵の位を得るために悪事を働いた人間とは思えない、慈愛に満ちた目。
ルフェブール公爵も、この集まりによく顔を出す人物だった。
「いつ来ても、ここでは、心が洗われる」公爵は言った。
オブリー氏は彼の事もよく知っている。公爵に上り詰めたはいいが、自責の念に駆られた彼がラン大聖堂に駆けこんだ日の事を、彼自身から聞かされた。
きっと自分は地獄に落ちる。救われるはずがない。そう言いながら懺悔した数々の悪事に対して、デュ・ボーは「悔い改めなさい」と言った。
「悔い改めれば、救われる」
その言葉が、絶対に救われないと思っていた公爵にとってどれほどの救いであったことか。
その日から、公爵も慈善事業の手伝いに、ちょくちょく金を持ってくるようになった。そして、自らの金でできたスープを喜んで飲む子供たちの顔を見に、よくこの場にやってくる。「本当に」ルフェブール公爵は言った。
「地位、金、名誉、色々なものに執着してきましたが……それにも勝る幸福が、ここにはあります。あの司教殿には、それを思い知らされましたよ。私の恩人です。本当に……神の国に居るようなお方だ。もちろん、それを助けていらっしゃるあなたも」
「貴方もですよ。ルフェブール公爵」オブリー氏は言った。
「悔い改め、金を自らのためではなくあの子たちのために使うと決めた日から、貴方も神の国に入ったのです」
「ええ。……今でも、たまに、自分がこうも幸せでいいのかと思いますが……」
「みんな、幸せになる権利はありますよ」オブリー氏は顔をほころばせて笑った。
「世界は捨てたものじゃありませんな」
「ええ、世界は、こんなに善で満ちている」
その場のだれもが、幸せを感じていた。甘い事ばかりではない。厳しいこともたくさんある世界だ。でも、広場に集まる彼らは人の優しさを、善を、心から信じられた。だからこそ幸せだった。

「ところで」公爵が、他には聞こえないようにこっそりと聞いた。
「以前から聞きたかったことがあるのですが……」
「なんです?」
「貴方は司教様の昔からのお知り合いですよね?……司教様が、悪魔に取りつかれたことがある人間だというのは本当ですか?」
「ええ。過去に……二回」
「なんと……」
「一回は、私どもの故郷で。二回目は、ソルボンヌ大学に居た時です」
オブリー氏は思いだしていた。彼がソルボンヌに居たころ、彼に手紙で語られたことの顛末を。

ソルボンヌの神学生たちは、都会のパリに出たことで気分が浮かれて、夜はこっそり寮を抜け出して遊びまわるものが多い、とデュ・ボーは一々手紙でこぼしていた。彼も先輩たちに、居酒屋や怪しい宿に誘われたことが何度もあるそうだ。もちろん、心底神を信じる真面目一本な彼はそのたび断っていた。そのせいで彼が周りからのけ者にされていることが何となく読み取れるような話が多かったが、当のデュ・ボーは気にしていないようだった。
そんな中の事だった。彼が、淫魔に襲われたと手紙に書いて送ってきたのは。

孤立しがちな彼には、心の底から尊敬する先生がいた。彼はその人をよっぽど心のよりどころにしていたらしい。オブリー氏も、手紙で何度も彼の事を聞かされていた。
デュ・ボーの手紙にはこう書かれていた。
「淫魔は、忌まわしいことをした。あれは僕の心から尊敬する先生に化けて、僕の部屋にやって来た。僕は、先生を勿論迎え入れた。何の警戒もなしに。だが淫魔はその本性を現し、先生の姿のまま、僕をベッドに押し倒した」
彼が受けた数々の仕打ちが、事細かに書かれていた。彼はどうしても、尊敬する先生の姿をした存在に抵抗することはできず、全てなすがままにされた。年若い美少年の体と心は、さんざんに蹂躙されたのだ。
手紙にはこう書いてあった。
「でも、いよいよ僕はつらくなって、淫魔の手に燭台の刺で傷をつけたんだ。奴は気が付かなかったようだった」
それから、さらに彼の受けた仕打ちの事が続いた。少年の日のオブリー氏は何回も手紙を投げ出したくなったが、それでも友がこの苦しみを吐き出す対象として自分を選んだのだと思い、最後まで読み切った。手紙の後ろの方には、こう書かれてあった。
「淫魔は、実に狡猾な奴だった、後日、先生は僕にいつものように優しい笑顔で話しかけてきた。けど、僕が淫魔につけたはずの傷がなぜか先生の手にも同じようについていたんだ。淫魔が僕を惑わすため、先生まで傷つけたのだと分かったよ」

分からなかったはずがない。そのことを、デュ・ボーが解らなかったはずがない。それでも、彼はこう思わなくてはやっていけなかったのだ。
彼は分かっていたはずだ。それ以来、彼はどうしても出世する、と何回も手紙で言うようになったのだから。「あいつらは、自分より立場の高い者の言うことじゃないと絶対に聞かない」と言って。其の頭には、きっと、あの「淫魔」の姿があったのだ。
卒業して、彼は出世するために身を粉にした。彼らの時代、カトリックは腐っていた。手早く出世するために、要領のいいものはこっそり上に賄賂を贈ったり、邪魔になるものを聖職者と言う高い立場を利用して消したりした。だが、デュ・ボーはそれをしなかった。当然だ。彼は、そう言うものが憎くて、出世したかったのだから。
彼は全くの善行を積んで積んで積み続けた。賄賂などなくても、周囲が自分を聖職者に相応しいと評価せざるを得なくなるほどに。そこに、どれほどの苦労があったろう。命に通じる道は、狭き門から入らねばならない。彼の選んだ道は、悪事を行うことよりもずっとつらく、ずっと苦痛が伴う道だったはずだ。
それでも、彼は成し遂げた。彼は、司教になった。そして、今がある。

だから、本当は、彼が悪魔に取りつかれたのは一回だけなのだ。あの、幼いころの一回だけ。

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