クリスマス市のグリューワイン

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ニコール・オブリー 第九話

オブリー氏の家に入る使用人たちとニコールの家族は、急いでド・ラ・モット神父のもとを訪ねた。深夜に扉を叩いた音に神父は何事かと不審に思ったが、馬車の中で何物かが奇声をあげて叫び散らしているのを聞き、一瞬で異常を察知した。
「これは……」
ド・ラ・モット神父は面喰いながらも、一人、馬車の中に案内されるがままに入った。馬車の奥には、ぐったりとしたニコールの姿があった。しかし、その目だけが、暗闇でもぎらついている。そして、彼女は16の少女の声では断じてない、低く重苦しい声で言った。
「来たか、神の使い……とはいえ、まだ下っ端のようだな」
彼女の軽やかな声をよく知るド・ラ・モット神父はそれに大いに面食らった。「ニ、ニコール?どうしたんだい、その声は……」彼は恐る恐る聞いた。
「はは、オレはお前の良く知るニコール・オブリーではない。いかんせん、オレは誰かと対話するだけの脳みそを持ち合わせてはいないからな。こうでもして脳みそを借りないことには、ろくすっぽ喋れもできんから借りてるだけだ」
「借りてる?」ド・ラ・モット神父は言う。「では、君は、一体……?」
「さあね、当ててみたらどうだ?この女の守護天使とでもいえば満足するか?」
「ふざけるな!」神父は言った。「天使に憑かれているのならば、この少女の顔色がそんなに悪いはずはないだろう!」
「ふん、では言ってやる」ニコールの姿をしたそれは言った。其の低い声が、ド・ラ・モット神父のみならず、その場に居た人々と頭と心臓に直接響き渡った。暗闇の中、その声一つでどうしようもない不快感が立ち込めたのだ。その日、ヴェルヴァンに悪魔が本格的に舞い降りたのだと、誰にも分かった。
「大悪魔ベルゼブブ。それが、オレの名前だ」


悪魔に取りつかれたニコールはド・ラ・モット神父の教会に運ばれた。だが、神父も本物の悪魔に退治したことなどない。
彼は昔の書を頼りに手探りで悪魔祓いを行おうとしたが、ベルゼブブはそんな彼をニコールの体に入ったまま嘲笑するだけだった。ただド・ラ・モット神父が彼に質問を投げかけると、彼はまるで余裕を見せびらかすように、自分たちの事について異状に素直に語った。
「その少女に取りついているのはお前だけなのか?ベルゼブブ」
「いや。オレの仲間も一緒だよ。オレの忠実な僕アスタロトに眷属のケルベロス。それに悪霊のレギオン(軍勢)たちがな」
「なぜ、この少女に取りついた?」
「こいつが一番取りつきやすかったからさ」
ベルゼブブはその場に居たオブリー氏の方に振り返ってまで、げらげらと笑って言った。
「お前がこいつの夫か?つくづく、お前の妻の馬鹿さ加減には笑ってしまったぞ。勝手に何でもかんでも自分を苦しめていると思い込んで、かってに悲劇の女主人公ぶりに酔っている。だから、悪魔なんぞに騙されるのさ、実際、お前も悪い買い物をしたものだ。商人が聞いてあきれるね」
「あなたは……」オブリー氏は妻の姿で自分をあざ笑うベルゼブブに、うめくように言った。
「ニコールが騙されやすい子だから、ニコールを選んだというですか」
「ああ、そうだとも。オレ達悪魔は、誘惑する存在だ。誘惑に打ち負けやすい心を持っている人間ほど、餌にしやすい。甘い行動や嘘泣き、それにちょっと、嘘ではない『現実』でも見せてやれば、心に穴の開いた人間ほど簡単に勘違いをするものさ。飴と鞭と言うやつだ」
「心に、穴……」オブリー氏は言った。
「知っていました。ニコールが、寂しがっていることは、知っていました」
「ほう?」
「僕を、愛していないことも。僕にも、ニコールの気持ちは分かるつもりでした。こんな年上の男と結婚させられて、若い女の子が喜ぶはずはないでしょう。だから、僕はせめて僕なりにできることを精いっぱいしたつもりでした。結局それが、ニコールに届くことはなかったけれども……」
オブリー氏は頭を抱えた。ニコールの体に取りついたベルゼブブはニヤニヤ笑いながら彼のその姿を見ていた。
「でも僕の事はさておき、ニコールが被害妄想の激しい子だったとしても、彼女なりに悲しかったのはそれはそれで間違いなく真実だったでしょう。貴方は、貴方は、そんな彼女の心に付け込んで、罪悪感を感じはしないのですか」
「感じるわけがないだろう。お前、今誰と話していると思っている」ベルゼブブは嘲笑った。
「こいつはな、オレを悪魔だと知って、それでもオレを愛すると言ってきたのさ。その時のコイツの台詞を教えてやろうか?傑作だぞ。『悪魔の何が悪いの?』……だと!あははは、馬鹿にもほどがあると思わないか!?悪魔の何が悪いも何も、悪いから悪魔になるんだというのに!」
オブリー氏はそれを聞いて、うなだれた。ニコールはさらに笑いながら、彼に畳み掛けた。
「ルイ・ピエール・オブリー。お前がいなければ、この女がこうなることもなかったかもしれんなぁ……あの時、お前がお前の恩人の家を助けてやろうなどと言う偽善心さえ起こさなくては、彼女がこう不幸になることはなかったのに。お前が彼女の心の穴を埋めてさえいれば、こうなることもなかったというのに」
「そんな……」
「オレは性悪だが、お前もなかなかどうして悪魔並に悪人じゃないか。ルイ・ピエール・オブリー」
彼の言葉を聞いて、オブリー氏は言葉を失う。「貴様、何を!」と言ったド・ラ・モット神父にも、彼は言った。
「お前もだろう?ド・ラ・モット神父。不幸な人間を救うのは聖職者の務めじゃないか。お前がそれを怠ったから、今のような事態が起こった。何か違うのかい?」
ド・ラ・モット神父も、それには言葉を失ってしまった。ベルゼブブはさらに笑った。
「ははは……何もかもお前たちの責任さ、愚かな人間どもめ!お前たちは所詮、罪にまみれた偽善者さ!」

悪魔祓いは難航した。ド・ラ・モット神父は教会に伝わる聖遺物と言うものすら持ち出したが、それは全く聞かなかったばかりか、ベルゼブブは「そんなもの真っ赤な偽物だぞ。ごみ箱にも捨ててしまえ」と言い切った。
ヴェルヴァンの悪魔付きの女のうわさは瞬く間にフランス中に広まった。何人かの聖職者がド・ラ・モット神父の教会を訪れた。しかし、やはり彼らもベルゼブブに有効なことをできるわけではなかった。
ユグノーの牧師たちは彼らの祈祷書を手にベルゼブブに祈ったが、ベルゼブブは相変わらず余裕な様子で彼らをあしらった。
「は、祈りや賛美歌でオレを追い払えるつもりか?ちゃんちゃらおかしいな。名もなく悪霊程度ならまだしも、貴様らが退治しているのは大悪魔ベルゼブブだぞ」
「私は神の名において汝を祓う」牧師は重々しく口を開いた。
「ふふ、神がお前ごときの頼みを聞いてくれるものか。悪魔に祈った方が早いのではないのか」
「口を慎め!私は悪魔ではなく、神に仕える者だ!」
「はっ、言うな」ベルゼブブは怒り狂う牧師をも悠然と笑い飛ばした。
「ふん、この哀れで愚かな女一人も救えない無力な奴に、神も名を名乗られたいものかね?」「貴様……」
「はっきり自覚するがいいさ。ここにいる役立たずのド・ラ・モット神父も一緒だが、普段はきれいごとを言っておいてこういう時に何もできないお前達こそ、罪深い存在じゃないのか。悪魔を祓いたいのなら、どうぞ存分に払え、お前の心の中で」
ベルゼブブは終始そのような形で、取りつく島もなかった。日が過ぎる連れ、ベルゼブブに取りつかれたニコールの肉体はみるみるうちに衰弱していった。顔色はいよいよ慕いじみてきて、潤っていた少女の肌は次第に乾燥してきた。彼女の全身の生命力は、ただ一点、暗闇でも化け猫のようにぎらぎらと光るようになってしまった彼女の目に飲み注がれているようだった。
ド・ラ・モット神父やオブリー氏、ニコールの両親、それにテレーズ修道院長は彼女をそれでも心配していた。「自分たちが彼女を追いつめたのだ」というベルゼブブの一言を心に病んでいたのかもしれない。
ユグノーの牧師たちはまだ訪れたが、やはりベルゼブブにかなうものなどなかった。彼は自分の従える悪霊たちに命じて、ある牧師に取りつかせその場で発狂させすらした。
「主よ、主よ……」必死で祈る彼、フォスケというカルヴァン派のドイツ人だったが、に、ベルゼブブはこう言い放った。
「主?そんなもんより、ルシファーに祈った方がいいぞ。そちらの方が確実さ」
「ルシファーなぞに、悪の権化に、心を売るか!」悪霊に心を蝕まれながらそう言った彼らに、ベルゼブブは冷たく言い放った。
「お前たちのそこが矛盾してるのさ。お前たち、いつも言っているだろう?神とは正義だ、神とは力がある……なら、罪深く無能なお前たちは神じゃなくて、ルシファーに属するに決まっているじゃないか。いつまで偽善を振りかざしているつもりだ。まあいい。すぐにルシファーを崇めるようになるさ」
そう言って彼が指を鳴らしたと同時に、フォスケ牧師は発狂してしまったのだった。ド・ラ・モット神父やテレーズ修道院長が、どれほどその時辛かったことだろう。カトリックとユグノーの違いはあれど、同じくキリストを信仰するものが悪魔に蝕まれていく様子を見るのは耐え切れなかった。しかし、どうすることもできなかったのだ。自分達では。
ベルゼブブは、そんな彼らを更に責めた。
「どうした?神父に修道女。いや、女衒と売春婦と言った方が、お前達には正しいか?お前たちはいつもこう言っているな、困ったときはお互い助け合うべきと……ほらほら、あいつらを助けてみろ。できんのか。このような時動けないのなら、貴様らは一体、何のために聖職者をやっている?」
ヴェルヴァンの教会には、退魔を試みる人や、面白半分にそれを見に来る人が来こそすれ、純粋に祈りに来る人はいなくなってしまった。モントルイユ・レ・ダム修道院の評判も落ちた。寄付金が目に見えて減ったうえ、出て行く修道女たちも多く出た。テレーズ修道院長はそれに、何も言い返せなかった。
1565年のクリスマス、ド・ラ・モット神父の教会は、唯一、鐘を鳴らすことはなかった。ミサの祈りの代わりに、ベルゼブブの嘲笑うような声が一晩中聞こえていたのだ。
クリスマスが終わり、信念が明けても、事態は全く好転しなかった。ニコールにはもはや、愛らしい16歳の少女の面影は全くなかった。
オブリー氏やニコールの両親たちは、それでも彼女を見捨てられなかった。ベルゼブブにののしられながら、それでもニコールの身体を放っておくことができず、彼女の心配ばかりをしていたのだ。
そんな冬の日の事だった。オブリー氏の家の扉を急いで叩くものがあった。オブリー氏が何事かと驚いて窓の外に目をやると、外に止まっているのは立派な馬車だ。そして彼はそれに見覚えがあった。
「ジャン!?」
彼は急いで玄関に踊りでた。目の前にいたのは、ジャン・デュ・ボー司教だった。
「ルイ……聞いたぞ。お前の妻の話を……。済まない。もっと早くに来てやればよかった」
デュ・ボーはクリスマスの前後、ローマ教皇のところに出かけていたはずだった。彼にも仕事や用事があるのだ。オブリー氏はそれをきちんと受け止めていた。
旅用の外套を着たデュ・ボーは旅の疲れの残る顔をしていた。もしかすると、とオブリー氏は思う。
「ジャン……君、妻の話を聞いて帰ってきてくれたのかい……?」
「当然だ」彼は言い放った。「お前の妻に取りついた悪魔とやらは、今どこに?」
「ド・ラ・モット神父の教会だが……」
「分かった。一緒に行こう」彼はオブリー氏を馬車に乗せた。馬車には、ランからヴェルヴァンまでの旅路にしては多すぎる荷物が集まれていた。彼は、イタリアからランにも帰らずヴェルヴァンに直行したのだろうということがわかった。
オブリー氏は自分の顔に涙が流れるのがわかった。「どうした?」デュ・ボー司教が聞く。
「ずいぶんと疲れた顔をしているな。大変だったのだろう。今まで、お疲れ様」
彼の白い手が外套の中から古びたハンカチを取り出し、オブリー氏の涙をぬぐった。オブリー氏は、デュ・ボーこそ疲れた顔をしているのに、と言いたくも言えず、ただただ、感涙にむせび泣いた。1566年1月3日のことだった。


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