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クリスマス市のグリューワイン

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ニコール・オブリー 第十話


ド・ラ・モット神父の教会の扉をデュ・ボー司教が開いたとき、その場にはニコールに取りついたベルゼブブとド・ラ・モット神父、ニコールの両親、それにテレーズ修道院長がいた。彼らは最初、もはやあきらめた様子だったが、やって来たのがデュ・ボー司教とみて一気に顔色を変えた。ベルゼブブも、目の前の人物がどうやら一段上の存在であると感づいたようだった。
「司教殿!」ド・ラ・モット神父が駆け寄った。「教皇庁においでのはずでは……」
「こんな非常事態に帰らずにいられますか」彼は外套を脱ぎ、首元に飾った十字架のネックレスを握りしめてベルゼブブに向かい合った。
「お前か、私の親友の妻に取りついたものとは」
「親友の妻?はは、偉そうな方が来たと思ったら、あの悪魔の親友かい」
「悪人?」デュ・ボーは眉をひそめる。「もう一度行って見ろ、ルイが悪魔だと?」
「本人に聞いてみればいいじゃないか」
デュ・ボーはオブリー氏に振り返る。オブリー氏はびくりと縮こまってしまった。今ではすっかり、ベルゼブブに委縮してしまったのだ。
「彼は……嘘をついてはいないよ、ジャン」オブリー氏は震える声で言った。「僕が……僕が彼女を不幸にさせたから、彼女は今こうなのだから」
デュ・ボ―はその言葉を聞いて、何か考えたようだった。彼はド・ラ・モット神父とテレーズ修道院長にも聞いた。
「もしやこの者、貴方方も、悪人だと……?」
「そうなるでしょう。司教様」神父は言った。「偉大なる貴方様とは違われます。無能な私のせいで……ニコールや、何人ものキリスト教徒が苦しみました」
「なるほど……」デュ・ボーはすうっと息を吸った。ベルゼブブは勝ち誇ったように笑う。だが、彼はニコールの目を通してみたものに驚いた。彼は、今まで話してきた他の聖職者と同じように、その言葉に微塵も怯んでいなかった。
「ド・ラ・モット神父。祭壇をお借りしますよ」彼は全く落ち着き払ってコツコツと音を立てて祭壇に昇った。「なんだ?ふん、無駄なことだ。オレをそんなまやかしの道具で祓えはしない。お前も所詮、困っているこの哀れな娘を助けられやしないさ」
「いかにも。だがお前も、主なるキリストそのもとになら退散せざるを得まい?」
「なに?」
ベルゼブブの声が少し上ずったのを、デュ・ボーは聞き逃さなかった。彼は祭壇の中から、白いものを一つ取り出した。それは、ミサに使う聖体だった。デュ・ボーはそれを静かにも地、ベルゼブブに近づく。
「は……」と、ベルゼブブ。「そんなもので、オレが払われるとでも?無駄さ、それはただのパンだ!聖歌や聖遺物がただの唄、ただのがらくたであるように……」
「ただのパンではない」デュ・ボーは言い切った。「これは聖なるキリストの体だ。お前にもそれは分かろう」
そして彼は、有無を言わさずその聖体をカサカサに乾ききってひび割れたニコールの唇に押し当てた。すると、たった一瞬だった。ニコールの体はばたりと気を失ったように倒れた。ギラギラ光る眼は閉じられた。

オブリー氏も、ド・ラ・モット神父も、ニコールの両親も、テレーズ修道院長もみんな、その様子に面食らっていた。
「皆さん」デュ・ボーはしんと静まりかえった教会内で、言った。「貴方達に罪は何もない。まず、そのことをどうかご理解ください。悪いのはただ、実際に彼女に危害を加えた、オブリー夫人を食い物にしたこの忌まわしい悪魔だけです。その他の誰にも、罪などありません。いかなる理由であろうとあなた方が彼女を実際に痛めつけたのではない限り、貴方がたのせいだなとという言葉は、ただのまやかしでしかありません。むしろ、貴方達は立派だ。貴方達のような敬虔な信徒なら、イエス・キリストご自身が真実、語りたいことは何だったかもお分かりのはずだ。彼は奇跡を行いました。しかし、それが彼の教えの全てでしたか?イエスが伝えたかったことの本質は、力ではなく、無償の愛であったはずです。この惨めな姿になった少女をそれでも憐れみ、そばにいる貴方達の愛が神の道でなくて、一体何が神の道でしょう。悪魔祓いができないからと自らの信仰を疑っては、主なるイエスを悩ませた無理解な者達と同じ。どうぞ、胸をお張りください。貴方達は悪人どころか、立派な信仰者であることを、どうかお忘れのないよう」
彼はニコールを担ぎ上げた。
「ルイ。奴はまだ、お前の妻の体から出きってはいない。聖体で気を失っているだけだ。気絶している間に、ランに、私の司教座に運ぼうと思うのだが、いいかね」
「ああ……」
オブリー氏はあふれる涙をぬぐいながら、言った。
「もちろんだ」
「ありがとう」デュ・ボー司教は笑って言った。「ド・ラ・モット神父。テレーズ修道院長。お疲れ様でした。ご夫妻。さぞ、お辛かったでしょう。後は、私めにお任せください。貴方がたの上に神の祝福があられますよう」
四人も、泣きながらその言葉を真摯に受け止めた。
「は。司教殿。神様が貴方をお守りくださいますように」


ラン大聖堂での悪魔祓いが始まった。ヴェルヴァンの悪魔憑き女がやって来たとあって大勢の野次馬が集まる中、デュ・ボー司教は司教冠を被り、色鮮やかな赤紫の祭服に、司教杖を持って盛装し、ベルゼブブの前に現れた。そんな彼の首元でも、やはり光るのは粗末な古い十字架のネックレスだった。
彼はベルゼブブに言った。
「悪魔よ。主なるイエス・キリストの名において命ずる。すぐさま、この女性の体から出て行け!」
「は、断るね……」
ベルゼブブはそう言った。だが、デュ・ボーは助祭にあるものを持ってこさせた。それは大量の聖体だった。
それを見て、暗闇にぎらつくニコールの瞳、いやベルゼブブの瞳は泳ぐ。
「いくら貴様でも、キリストの体には弱いのだな。さあ……もう一度偉大なるインマヌエルの名においてお前に命ずる」
彼は細長い指で聖体を掴んだ。そして、ニコールの眼前に突き出した。
「ただちに、そこから出て行け」
聖体を目の前に突き付けられて、ニコールについた悪魔たちはそろって悲鳴を上げた。ニコールの肉体は苦しみ悶え、激しく体を丸めた。彼女の頭蓋骨すら歪んだ。愛らしかった丸顔は衝撃と苦しみのあまり縦に、横に長くなり、死体のように青ざめていた今までとは言ってからって血が以上に昇って今でも張り裂けんばかりに真紅に染まった。彼女の目もまた。枯れるのように飛び出しかたと思えばその反動で眼孔の中に陥没した。はっはっと息の上がる口からは長い舌がだらんと垂れていたが、悪魔に取りつかれた証だろうか、それは普通の赤色ではなく、まるで気味の悪いヒキガエルか蛇のように黒の斑点を持っていた。
野次馬たちは流石に見かねたものも多かった。だが、当のデュ・ボーは全く攻めの手を休める様子もないまま、聖体を押し付けて叫んだ。
「呪われた魂どもめ、貴様らに命ずる!この聖体の中に現存された我が主イエス・キリストの名によって、この哀れな女性の肉体から速やかに立ち去れ!」
そのことがは力強くラン大聖堂に響いた。野次馬たちも気味悪がっている場合ではなかった。彼らも司教に押されるように、一心に神に祈った。
と、その時だ。
バキバキバキ、とすさまじい音がした。まるでニコールの全身の骨が砕けてしまったようだった。それと同時に彼女の口が開き、その中からおぞましい黒い影の一群が追い立てられるように去っていった。
民衆は悲鳴を上げる。黒い影たちは急いで地面に去って行ってしまった。
「ああ、くそっ……役立たず共……」
ニコールの体の中に入るベルゼブブが彼女の口を通して、悔しそうに呻いた。ベルゼブブに付き従っていた悪霊のレギオンが、その時ニコールの体を追い出されたのだ。
民衆は歓声を上げた。ニコールの肉体はぐったりして、いったん動かなくなり、ものも言わなくなった。

ニコールは数日間、嗜眠状態にあった。ただ、悪霊が抜けたせいだろうか。老けてさえ見えるほど弱っていた体は若々しさを取り戻してきた。
ただ、肝心のベルゼブブ、それにアスタロトとケルベロスはしばらくの間姿を著そうとしなかった。ニコールの体に潜伏していることは間違いないのだが、とラン大聖堂に集まった民衆は口をそろえて言った。
それは、嗜眠状態のニコールの肉体に起こった数々の事で明らかになった。カトリックとユグノー、両方の医者がデュ・ボー司教に許可を得てニコールを起こそうと試みたが、それらすべては骨折り損になった。そればかりか、ナイフで痛みを与えてみようとした時に限っては、近づけたナイフが燃えて消えさえすらした。
2月1日までその籠城は続いたが、結局最後に値を上げたのは悪魔の法だった。デュ・ボー司教が一つ試してみようと、聖体を昏睡状態にあるニコールの唇にあてたのだ。するとたちまち、ニコールの肉体、すなわち悪魔たちは意識を取り戻黄、うめいて苦しんだ。民衆はどよめいた。
「悪魔ども。だんまりもさすがに、いい加減にしろ」デュ・ボーは怒りを込めた声で言った。何日間も昏睡状態なら、ニコールの体も弱ってくる。ニコールが死ぬまでここにいるつもりか、と司教は言いたてた。
「即刻、この女性から出て行け!」
「うるさい、神の奴隷が!」ベルゼブブはニコールの体の中から怒鳴った。
「はん、神、神とお前はなんてうるさいんだ」ベルゼブブはうんざりしたように言う。
「神は正しいもの。神は信ずべきもの。その神を崇めて何が悪いというのだ。神はこの世界を、我々を作ってくださった」
「お前らにそう言われたいかと言っているのさ、神もな!お前たちは実際、なんて罪深い奴らだ」ベルゼウブは叫んだ。そしてニコールの肉体の上体を起こして、悪魔祓いを見にやって来ていた一人の貴族の青年を指さした。
「例えば、そこの青い外套の金髪の奴なんて先日女乞食を金で犯した」
その衝撃的な発言に、その青年貴族は色耐えた。民衆の目は一気にニコールの体ではなく、彼に注がれたのだ。ベルゼブブははそれを見て、ニコールの唇を満足そうに歪ませて笑うと、今度は逆方向に居た老人を指さし「そうだ、そこの緑の上着を着た禿の爺さんだって、息子の妻と関係を持ったっけな……」
今度はその老人に注目が集まった。老人の隣にいる息子と思しき中年男性が「なんですって!?」と父を問い詰める。老人はしどろもどろになった。
「で、そっちの赤いスカーフの女は物を盗む癖がある。つい先週の市だって……」
「やめて!」
赤いスカーフの若い女が叫んだ。
「まだまだ言ってやろうか?オレはみんな知っているぞ、ここにいる奴の知られたくない罪をな!」
彼は得意げに言った。ラン大聖堂に集まった民衆は皆、背筋が凍りついた、。急いで逃げだそうと思った者もいるだろう。だが、逃げ出せない。逃げだしたら、自分にはとても人には聞かせられない罪があると公言するようなものだ。
ベルゼブブは非常に楽しそうに笑った。「そこのお前、お前は……そうだ、そこの婆さんも……そこの若い助祭も!」
ベルゼブブに自分の罪を暴かれたものは、皆顔を青くした、嘘では、はったりではない。この少女の体に取りついている悪魔は間違いなく目の前にいる人の罪を暴けるのだと、誰もが確信した。
ラン大聖堂はパニック状態になった。「あなた、どういうこと!?」「お前こそ!」「そんなことしていたんですか!」「この人間の屑!」
悪魔祓いどころではなくなった。ベルゼブブは高笑いしていった。
「どうだ!お前たちはオレ達の事を悪魔と呼ぶが、お前たちとて罪人さ!ああ、怖い怖い!人間はなんと怖いのだろう!我々悪魔より、人間の方がよっぽど怖いくらいさ、そうじゃないか?オレ達は悪と言うことを自覚している、だがお前たちは罪を背負ておきながら善良面して生きられるのだから!」
収拾がつかないほど騒ぎになるラン大聖堂。デュ・ボー司教の隣にいた若い助祭も、うなだれて床に突っ伏してしまった。ベルゼブブはいよいよ面白そうに笑った。
「どうだ!お前達は所詮、悪魔さ。神なんぞにすがることはない、神の創った世界は、所詮すべてきれいごとだらけ……」
だが、彼の演説は打ち切られることになった。ただの一瞬、ラン大聖堂を引き裂くような大声が響き渡った。

「しずまれ!」

デュ・ボーだった。彼の鶴の一声に、騒いでいた群衆はそれに圧倒され一気に黙り込んだ。
「クリスチャンたちよ、何を恐れている!悪魔の言うことに耳など貸すな!」
「しかし……」誰かが言う。
「しかしもへったくれもない!私は静まれと言ったのだ!」
デュ・ボーの大声に、彼はまたしても黙り込んだ。一つ咳払いをすると、デュ・ボーは続けた。
「クリスチャンたちよ、惑わされるな。神はこう言われた、『人間が心に思うことは、幼き頃から悪いのだ』。……主なる神は、我々の悪徳など、そのベルゼブブが言う前に、とうの昔にご存じだ。そして、この場に罪深くない人間など一人もいるまい!この私ですら罪人だ!思い出すがいい、この悪魔に指摘されるまでもなくお前たちは昔からこう学んできたはずだ。人間は生まれながらに原罪を背負った存在、原罪なき人間など主なるイエス・キリストと無原罪の御宿り聖母マリアしかおらん!だが、主なる神は人間がそうだと知っていてなお我々を愛して下さり、一人息子を差し出してくださったのだ!」
デュ・ボーの演説が、朗々と響き渡った。パニックになっていた人々も、それをいつの間にかじっくりと聞いていた。
「聞け、クリスチャンたちよ!自らに罪があると知ったのなら、絶望するな!ただの絶望は広き門、地獄へと通じる門でしかない!自らの罪を見つめ、悔い改めよ!我々罪深い人間に必要なのは自分の罪がないと言い張ることではない、自分の罪を自覚し、告解し、悔い改めることだ!そして父なる神はろくでなしの放蕩息子を泣きながら出迎えた父のように、悔い改めた人間を必ず救ってくださる。人間に、神の想像の範囲外の悪事など犯せるものか!救われない人間など、いはしない!告解に参れ、その為に我々は神の使途としてこの座に立っているのだ!」
パニック状態は、いつの間にかおさまっていた。デュ・ボー司教はをそれを見届け、さらにこう続けた。
「そして、身内の悪を知ってしまった者よ。主なるイエスがこう言われた言葉を思い出せ。『人を裁くな』。罪を犯しても、告解し悔い改めれば救われるのだ。最後に人間を罰せられるのは、神でしかない!それを超越した罰など、たかだか人間にする権利はない!もしもお前の大切な人が罪を認めず悔い改めもしないのならばまだしも、心の底から悔い改めたなら、お前は彼を、彼女を許すがいい。それこそが天に積む富、主なるイエス・キリストの道を行くということだ!」

もう、誰が悪事を犯した、犯されたで騒いでいた群衆は、そこにはいなかった。みんな、言にベルゼブブに罪を暴かれたものは、その場に膝を負って祈った。デュ・ボーはそれを見届け、一息ついた。ベルゼブブは憎しみのこもった目でデュ・ボー司教を見つめていた。
「おのれ……」
「嘘ではない範囲でのいびつな真実をさも絶対の真理のように歌い上げ、あたかも彼らが極悪人、神の生きた世界に生きるべき存在ではないと思わせてから、自分のペースに引きずり込む。罪悪感や絶望で、人の目を曇らせる」デュ・ボー司教はすかり落ち着き払って言った。
「悪魔の常套手段だな。私には通じん。卑怯者め」
「卑怯者だと……」
ベルゼブブは自分の手農地を暴かれたことに憤っているのかとデュ・ボーは思った。だが、少しの血にそれは違うと分かった。自分を睨みつけるニコールの瞳の井戸が、大理石のような白に早変わりしたのだ。
「貴様……ベルゼブブ様を、馬鹿にしおって!」
声も変わった。アスタロトが表面化したのだ。群衆たちは再び、違う悪魔の出現に恐れおののいた。だがデュ・ボー司教はまた聖体を掴むと「呪われた魂が!私は、主なる神とイエス・キリストを今貴様に見せることで、祈り、福音、聖遺物、それらすべてに寄らず、貴様に退去を命じる!即刻、その女性から出て行け!」
アスタロトは主人のベルゼブブを侮辱されて相当気が立っていたら叱った。その時、何日も立ち上がっていなかったニコールの体が寝台から立ち上がってゆらりと起き上がったのだ。どよめきが起こった。
「人間風情が……!」
ニコールの腕を、アスタロトは延ばし、司教の首を掴んだ。だがデュ・ボーは少しも怯えることはなかった。険しい目で彼女を睨みつけていた。かと思った、その時だ。彼はさっと手を動かし、聖体をニコールの唇の中に突っ込んだ。アスタロトが表面化した、ニコールの肉体の。
「なっ……アスタロトは慌てた。かえってデュ・ボーに近づいたことが仇となってしまった。彼の悲鳴が響き渡った。ニコールの口から、また再度、黒い煙が出てくる。
「おのれ、おのれ、人間め!」
アスタロトの高い叫び声が満場の人々の耳をつんざいた。しかし、その声もすぐに消え去った。アスタロトが祓われたのだ。
ニコールの肉体は、再び気を失ったかのようだった。彼女は床に倒れ伏した。しかし、ほどなくしてもう一度起き上がった。四つ足で。
今度は、ニコールは犬のうなり声そのものと言う声を上げた。彼女は牙をむき、怒りクスった表情でデュ・ボーに噛みつこうとした。
だが、デュ・ボーはそれをいなす。そしてすかさず、もう一つの生態を口に放り込んだ。立間に、四つ足のニコールは再度地べたに倒れ伏し、ハッハッと病気にかかった犬のように舌を出して苦しみ始めた、やがてもう一つ黒い影が、犬のうなり声と共に去っていった。ベルゼブブの眷属、ケルベロスも払われたのだとデュ・ボーには分かった。
「残りは貴様だけだな。ベルゼブブ?」デュ・ボーは言った。しかしその時、ニコールの左手に異変が起きた。
ニコールは気を完全に失い、うんともすんとも言わなくなった。その代り、彼女の左手に黒い正気が渦巻いた。
「ジャン・デュ・ボー、この野郎……」ニコールの唇が動きすらしなかった。声は、彼女の握られた左手から漂ってきたのだ。
「まあ、いい、ここにいるオレをどうやって払う?偽善者の司教様」
してやられたか、とデュ・ボーは思った。しまった、此れでは聖体を直接投与できない。レギオン風情の下級の悪霊たちにはまだ見せるだけで十分だったが、アスタロトとケルベロスにはそれが聞かなかった。だからこそ、ニコールの口に直接投げ込んだのだ。しかし、きつく握られた握りこぶしの中、どうやってニコールの体が死んでしまわないうちにベルゼブブを締め出せるだろう。

ベルゼブブ一人での籠城は続いた。やはり医者たちが手を開かせようとせめて試みたが、やはり無駄だった。ニコールの左手は、非常に固く閉じられ、針を指そうが刃物で切ろうが、血すらも出なかった。
デュ・ボー司教は考え込んだ。早くこの悪魔を祓わねば。さすがの彼も、この状況にあせった。
その間、ラン大聖堂は本来の役割も戻りつつあった。即ち、ベルゼブブの一件をきっかけに、国会に現れる人々が後を絶たなかったのだ。デュ・ボーは彼らの姿を見て、神の国に思いをはせた。「(なんとしても、なんとしてでも、あの忌まわしい悪魔を祓わねば……)」

ある夜だった、彼の頭に、一つ考えが浮かんだ。彼はそれを実行することに、迷いなどなかった。
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