クリスマス市のグリューワイン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

feat: Deborah 第五話

シセラは、母の事を知っていた。
昔、カナンの貴族の青年に面白半分に弄ばれ、子供ができたと分かったら手ひどく捨てられた母。
未婚の女が処女を失った、女性が最底辺の地位に落ちるには、それで十分だった。シセラの父と呼べるような男はそのことに責任も取らず、取り合いもしなかったと聞く。娼婦と同じような地位に落ちてしまったアクラビムを妻に取ろうなどという酔狂な男性は現れなかった。だからシセラがまだずっと幼い時から、母にはシセラしかいなかった。彼女にとってはシセラこそがただ唯一の味方であり、男だった。
底辺と呼べるような女の息子に産まれても、人並み外れた戦闘の才能と、不思議な力を持ったシセラがやがてカナン王の目に留まり、少年のころから軍人として出世できたのは妥当なことだった。だがそれを見て以来、母はシセラに息子を求め、夫を求めるようになった。自分のそばにいてくれる唯一の男に。
彼女はシセラを手放そうとしなかった。いついかなる時もそばにいて、戦場にすらついてきた。
誇りを剥奪された彼女にとっては、シセラの誇りがそのまま自分の誇りに直結した。シセラが馬鹿にされることは彼女が殺されるに等しい苦痛だった。母は、シセラ、自分の息子が失敗することを絶対に許さなかった。自分には彼しかいないのだから。彼が崩れてしまっては自分の人生が崩れることになるのだ。一度人生を崩された彼女は、そのことを極端に恐れていた。
あれは、うんと少年の日の事だった。シセラはもう十分に戦場に出て活躍する年だったが、子供なので戦勝祝いの宴でも酒は飲めなかった。母が飲まそうとしなかったのだ。体に毒だと言って、絶対に一滴も飲ませなかった。
シセラはヤギのミルクを飲んでいたのだ。それが好きだから、それだけの理由で。しかし、その席である年配の軍人が酔った勢いでこう言ってきたのだ。
「酒も飲めないお子ちゃまがここにいるなんて。まあ、お子ちゃまにはミルクがお似合いだね」と。
別段シセラは怒りもしなかった。だがアクラビムはその夜、酒の樽を持ってきた。そして目の色を変えて、無理やりシセラにそれを飲ませたのだ。一樽飲むまで絶対に眠らせない、と言って。
「あなたは大人なんだから!責められる謂れなんてないんんだから!酒くらい飲める、これくらい飲める!」
頭がグラグラした。何度も吐き戻した。それでもアクラビムはもっと飲め、飲むんだと殴りながらシセラの口に無理矢理酒を押し込んできた。舌がもつれて、助けすら乞えなかった。意識が何度も飛びそうになった。それでも何とか意識を保っていないと、次から次へ流し込まれる酒で溺死しそうだった。体中がこんなの無理だと言っていたのに、シセラはそれをするしかなかったのだ。
反吐にまみれた床の上、夜が白んで樽が空になった時、母は自分が瀕死にしたシセラを抱きしめて言った。
「ああ、なんて立派……流石はシセラよ、私の自慢の息子よ」
シセラは残っているのが不思議なほどの細い、細い意識の中でその声を聴いた。自分は、母を喜ばせないといけないのだ、母には自分しかいないのだから。彼は心の底から、そう思った。

それ以来彼は、酒が大嫌いになった。いくらでも飲めるようになったが、本心では心底嫌いだった。
シセラの評判が高まるにつれ、ますます母はシセラに愛着を持った。シセラはほかの女性と話すことなど許されなかった、そばにいる女性は母でなくてはいけないのだ。夫が妻に貞節を誓う必要があるように?それと、同じような、少し違うような気が、シセラにはしていた。
ヘベルと、その妻のヤエルと知り合ったのはその日の事だった。

ヘベルは酒に強いことを自慢していて、よく飲み比べをやっていた。だがその日、シセラは大嫌いな酒を何十杯も飲んで見せ、ヘベルに勝って見せた。
歓声が沸く中、彼は夜風に当たりに外に出た。そして、思い切り胃袋の中の酒を吐き出した。
嫌いだ、嫌いだ、こんなもの。腹の中に入れたくない、と、酒で死にかけた体が全身で泣いて居た。しかしこのような姿を母に見られるわけにはいかないのだ。自分は酒の飲める、男らしい存在でなくてはならないのだから。そうして、母を立てなくてはならないのだから……。
その時だった。
「大丈夫ですか……?」という、おどおどした声がかけられた。振り向くと、見知らぬ女性が後ろに立っていた。
「飲みすぎた、のですか……?」
彼女はじっと、シセラの様子を見て言う。シセラは彼女を睨みつけた。だが、彼女はヒッと怯えて、「ごめんなさい……」と言いながら、手の中の瓶を渡してきた。
「あの、よろしければ、お飲みになりますか……?」
それに入っていたのは、白い山羊のミルクだった。
酒のような芳香を放たない、まろやかなそれが、松明の明かりに静かにきらきらと光っていた。
彼は切れ長の目を見開いて、彼女と、その瓶をじっと見つめた。自分の荒れきった胃袋が、あの中身を、それを差し伸べていくれる女性を欲していることが体中で分かった。女性は厳しい視線を引っ込めたシセラを見て、自分も少し、ほんの少しだけ、表情を和らげた。彼女はごく薄く……にこりと、笑って見せた。
シセラは無言のまま、彼女を見つめた。薄い、穏やかな女性の笑顔。それを見るのは、何年振りだったろう。彼には、母親以外の女性はなかった。そしてその母親は、シセラがいつ失敗するかを極度に恐れ、シセラが成功した時すらも、そこか恐れが混ざっているように見えた。女性の笑顔とは、これほど、綺麗な物だったろうか。パチパチと燃える松明の光のもと、シセラは彼女を、不思議な気持ちでじっと見つめていた。
彼は何も言わず、両手を差し伸べた。だが、その時、後ろからアクラビムが来ているのがわかった。彼を心配してやってきたのだろうか……だが、彼は彼女の表情がみるみるうちに不快感に染まっていくのをみて、背筋が凍った。
また怒られる、また叩かれる。
反射的に、彼の手はその瓶を女性にたたきつけていた。彼女はミルクに濡れ、瓶は音を立てて転がり落ちた。
「この私にこのような子供じみたものを……ふざけるな、下女が!」
彼は大きすぎるほど大きな声でそう怒鳴った。それは……母に聞かせるためだったかもしれない。事実母は少しだけ、安堵していたようだった。息子が目の前の女に冷たく当たったこと、ミルクなどを飲もうとしなかったことに。

彼女、まるで奴隷のような彼女が盟友となったヘベルの妻ヤエルだったことを知ったのはすぐ後だった。だがヘベルは妻への仕打ちに怒るどころか、笑った。
「それで当然さ。本当に、何もできないごみみたいな女なんだから!」
ごみ?
彼はなぜ、そう言うのだろう。
シセラには何となく分かった。所詮、この男も寂しいのだ。自信がないのだ。飲み比べなんてしたがるのも、わざと馬鹿に出来る女を連れ歩いているのも、そのせいだ。いつも自分が優位にいると分かりたいのだ。そうしないと気が狂いそうな、そんな男なのだ。
しかしそれはともかく、なんとなくシセラは、ヤエルを忘れがたく思った。彼にとっては初めて会った、母親以外の女性を。自分に酒ではなく。ミルクを渡してくれた女性を。
小間使いの中に混ざって働く彼女を、シセラはその鋭い目で追っていた。アクラビムとヘベルがそれを見つけるのは、たやすいことだった。方は憎しみに染まったような表情、片や面白そうな表情を浮かべてそれを見ていた。

ある日、ヘベルは宴会の席でこう言った。
「ところでシセラ、お前は女を抱いたことはあるのか?」
「ありません」彼より先にアクラビムが、釘をさすように答えた。
「この子には妻もないんですから!娼婦のような汚れたものと共におくわけにもいきませんしね……」
「そうかそうか……つまり、まだお子ちゃまなんだな」ヘベルはわざと、意地悪くそう言った。その言葉を聞いて、アクラビムの顔が固まる。
「女の一人や二人抱くのは、一人前の男には必要だろうよ」
「なんですって……」
ヘベルは知っていたのかもしれない。シセラを他人に子ども扱いされることは、アクラビムが何より憎むことだということを。彼女にとっては、愛する夫を侮辱される行為なのだから。しかし一方で、アクラビムに取ってシセラは永遠に自分の息子だった。手放したくない、絶対に自分の方だけを向いてくれる、自分を絶対的なものと信じてくれる存在。そんな彼が、大人と同じく汚れた身になってしまうのは、シセラが自分の元から離れていくような気分だったのだ。
大人の美徳と、子供の美徳。決して両立しえないものを、アクラビムはどうしてもシセラに両立させたかったのだ。だがしかしヘベルのこの問いは、残酷なほどその矛盾をついていた。
「筆下ろしに俺の妻を貸してやりましょうか」ヘベルはにやりと笑ってそう言った。シセラはただ黙っていた。母親が発言するまで、自分に何を決める権利もない。

アクラビムは、結局ヤエルをシセラのもとによこした。汚れた女、ただの筆下ろしの相手、としつこすぎるほどにシセラに言って。決して夫婦同士の契りと同じものなどではないと壊れそうな心に必死に言い聞かせるように。
彼女を待っている途中、シセラは妙な気持ちだった。母とヘベルの意地の小競り合いの末送られたようなものなのに、何か、どこか楽しみにしているような気持ちが一片だけあったのだ。だが天幕の外からかすかに聞こえてきた母の声、彼女が使用人に話している声を彼の敏感な耳がとらえた時、その名前もわからない楽しみが、砂の城がさらりと崩れるように消え失せた。
「ええ、そうよ。無理に迫られて、犯されて、女が喜ぶものですか……私がそうだったもの。はっきりわかるわよ。男の勝手な感情…好意であれ、支配欲であれ……そんな者を一方的にぶつけられて惚れる女なんて、この世のどこにもいるもんですか……いい機会だわ。あの子はあれしかできないように育てるのよ。どんな女を好ましく思おうと、かなわせやしない。あの子を、他の女にはやらないわ。あの子は私のものだもの。あの子が消えたら、私は死ぬしかないのよ」
やってきたヤエルはこの上なく怖がっていた。嫌です、やめてください、と言う彼女を見て、シセラの心は凍りついた。
自分はなぜ、この女性を苦しめなくてはならないのだろう。自分に優しくしてくれた彼女を。簡単だ、この女性に優しくしてしまっては、自分は男ではなくなるからだ。少なくとも、彼らの望むような男と言う存在に。その座から離れることを、シセラは許されていないのだ。
泣き叫ぶヤエルを、彼は犯した。心が凍りついた。敵兵を殺める気持ちと全く同じだった。
ことが終わって母は、奪い返すように彼の体を抱いた。そして心を痛めるヤエルを娼婦、とこの上なく侮辱した。
恋、と人が呼ぶ感情を自分は持っていたのかもしれない。シセラが初めてそう自覚できた頃には、すでに遅かった。
彼の部屋にはピカピカ光る、よく磨かれた盾があった。そこに、母に抱かれる裸の自分が映っていた。背が小さく、童顔で、グロテスクなほどに、そこに映る自分は子供だった。
自分は、永遠に子供でなくてはならないのだ。酒を飲まされても、女を抱かされても、大人であって子供ではない、完全な大人になることを許されていなるのだ。そう育った人間なのだと、彼はその時悟った。


イスラエルの降伏も時間の問題と浮かれるカナン軍を少しばかりひるませる事件は、数日後に起こった。武器の輸送に来るはずの部隊がいつまでたっても現れない。
そう不審に思っていたところ、輸送兵がまろぶように陣地に乗り込んできたのだ。イスラエル軍に襲撃されて武器を全部奪われたと。
「なに!?」ヘベルは声を上げて驚いた。
「そんな情報、どこから……!」
「……書簡の管理はお前の責任ではなかったか?ヘベル」シセラは冷たく言う。ヘベルはぐっと言葉を詰まらせた。
「……うろたえるな。剣を磨いておけ。鉄の武器が相手に渡ったところで、実力と戦力の差はどうともならんだろう。何より……こちらには戦車隊がある」
「お、おう、そうだな……」
あくまで冷静なシセラを前にして、ヘベルも調子を取り戻した。

「これが鉄の武器!?」
一方イスラエル軍は、初めて見る武器を前に大分はしゃいでいた。先ほどまでの絶望の空気も打って変わって希望に代わっている。ずっしりと重い、切れ味もはるかに勝るそれを、兵士たちはためしに振り回したた。
バラクもためしに一本持て、降ってみる。なるほど、青銅製のものよりはるかにいいと身にしみてわかる。
「ネル!お前のおかげだ、ありがとう」彼は天幕の中のネルに行った。さすがにもう彼は前線に出るのは無理だろう。だが包帯だらけの少年は屈託なく「どういたしまして!」と笑って見せた。
デボラは目を細めて、その様子を見ていた。ようやくイスラエル軍を包む気がもとにもどったのを見て。
彼女はすっと目を閉じる。そして、その時だった。
「……来ましたよ。バラクさん、みんな」
彼女は太い、良く通る声でそう告げた。
「日没よ……!次の日没後だわ!」
イスラエル軍は先ほどまで騒いでいたのが、皆慌てて真面目になる。それを見守り、デボラは厳かに言った。
「神様がこう言われたわ……日が落ちたら、神様はシセラを、カナン人をあたしたちの手に引き渡す……もう、神様の軍勢が先に来ていらっしゃると……」
デボラはそうして、さっと下の方にある枯れ川を指さした。「バラクさん、あれは?」
「キション川ですね」
「あそこだわよ」デボラは希望に満ちた笑顔で、笑いながら言った。「あそこに、天の軍勢がいらっしゃる!」
バラクは目を瞬かせる。今度こそ、大丈夫だろうか……。
だが、武器も得てイスラエル軍の士気もまた申し分なくなっている。戦うのには申し分ない。
デボラは、預言に付け足すようにすっとバラクの方を、イスラエル軍の方を見て言った。
「大丈夫ですよ、皆、だぁいじょうぶですよ」

バラクは、その笑顔に目を奪われた。
その言葉は、神の言葉を民衆に告げる巫女の顔だったろうか?
そうと言うには、その場に立つデボラは、余りにも、人間だった。神の言葉を受け取って言うにもかかわらず、そこにいたのは、デボラと言う母親だった。
不安が消えてゆく。
今度こそ、デボラと神を信じて行く時だ。
「皆の者!」バラクはよく通る声で言った。「日が暮れたら作戦開始だ、準備をしておけ!」

「ところでシセラ、うかうかしてもいられないんじゃないのか」渋い声で言うヘベル。
「いつ攻め込むか、それを決めないと……」
「……まあ待て」
シセラはじっと、目を閉じた。そしてヘベルには分からない世界で、何者かを見る。
彼の鋭い目が開く。
「あれは……星……だろうか」
「なんだって?」
「星のようなものが見えた……暗い中。いくつもちかちか光っていて……」
「じゃあ、攻め込むべきは星の照る日?」
「ああ。だから、早い方がいいはずだ……もうすぐ雨期に入るからな」シセラは言う。「雨期に入ったらしばらく星空も拝めまい。……夜だ。夜になったら攻撃をかけるぞ」
スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する
 

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。