FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

feat: Deborah 第六話

カナン軍は動く様子がない。日がそろそろ赤色に染まっていき、西の空に落ちていく様子が山の頂上からは見えた。
デボラが、ネルのいる天幕から出てくる。ネルはようやく寝たらしい。今回の作戦に参加したがっていたようだが、やがりさすがに無理だろう。
「不安ですか?」デボラはバラクに向かって言った。
「いいえ、ちっとも……」
バラクはそう言って、にっこりとほほ笑む。心の底から、それは本心だった。
「思い出しました」バラクはぼそりと言う。「母を、少し思い出せました。デボラ殿。貴女のおかげで」
「そう……それは、良かったわ」
デボラは首を縦に振って、自分も心から喜んでくれた。
「デボラ殿。一つ、お伺いしたい」
「なんですね?」
「あなたを見ていると、どうしてこうも安心できるのでしょうか……」バラクは目を細めて、目の前の婦人を眺めた。「まるで、本物の母を見ているかのように……」
「……」
デボラも目を細め、考え込んだ。しかし、目を閉じることはなかった。神から受け取る言葉ではなく、デボラ自身の言葉で答えを返そうとしてくれているのだ、とバラクには思えた。
「多分ですけど……そうね。夫にはよくこう言われます。君はいつも自信満々だって。君はすぐに、目の前のものを愛せるのだねって」
「なるほど」彼はうなずいた。「納得です……しかし、貴女はどうしてそうであれるのですか?」
「あたしは、何かを信じたり、何かを愛したりするのにいつも理由がいるとは限らないって、そう思っているんです」デボラは、そう言った。
「だから、何も考えずにそうなれます。……恐らく、理由と言ったらそれくらいなんじゃないですかねェ」
バラクはくすりと笑ってうなずいた。そして、デボラの前にひざまずき、彼女の手の甲にキスを落とす。
「ありがとうございます。こたびの戦に、ついて来て下さり……本当にありがとうございます」
「あらあらバラクさん、お礼を言うのはまだ早いんじゃないですかねェ」デボラは照れ笑いした。このようなことをされるのには、さすが彼女も慣れていないのだろうか。目の前の貫録ある夫人が少し可愛らしく見えて、バラクもなんだかおかしくなり、噴き出しながら「すみません」と言った。
「……昔」彼は呟いた。「貴女のような人が二人いました。一人目は母で……二人目の人も……彼女と居ると何故だか、いつも安心できました。母やあなたに感じたものとはいささかばかり違うものでしたが……本当に彼女の事を愛していました」

夕方近くになった。イスラエル軍に気づかれぬよう作戦準備は大々的にはしない。明かりが落ちてからが勝負だ。
ふと、シセラは女の高い声を聴いた。それは、母の声のようだった。
「この、売春婦!汚らわしい!お前なんか地獄にお堕ち!」
母は、侍女数人を連れて女一人に暴力をふるっていた、その女は、ヤエルだった。
母は気が狂ったように、ヤエルを踏みつけた。彼女の女性の部分を、ありったけの憎しみを込めたかのように。
ヤエルはやめて下さいとすら言わなかった。痛みにかすれる「ごめんなさい」という声だけを、何度も、何度も繰り返していた。
「……母上」シセラは、歩み出た。
「いったい、何事です……」
アクラビムは息子の姿を聞くと、跳ね返るように彼のもとにやってきて、彼の頭をかき抱いた。
「おお、怖かったわね!大丈夫よ、大丈夫よ!」
「母上……何があったのですか」
「昨日、この阿婆擦れに誘惑されたのね!お前はいい子だから断れなかったのね!気持ち悪かったでしょう、大丈夫よ、可哀想に!」
シセラは感づいた。昨日帰ったと思った母は、帰ってなかったのか。自分と彼女の行為を見ていたのか。
シセラはすっと目をうつむかせ「ご心配ありがとうございます、母上」と言った。
「怖かったでしょう!」
「はい……」
母も、本気で息子が女に誘惑されたなんて思っていまい。思っているはずがない。信じたいのだ。彼女はただ、信じたいのだ。
何十分もかけてなだめた後、シセラは母に行った。
「母上。お化粧が落ちて、お美しい顔が台無しです。私の天幕に言ってお休みください。私も用をすませたらすぐに向かいますので」
「ええ、ええ……」
「日が落ちてしばらくしたら出陣です。危険になりますので、それまでにはどうぞ安全な場所にお戻りを。吉報を待っていてください」
シセラはそう言い含め、アクラビムは泣き疲れたかのようによろよろと起き上ってシセラの天幕に戻った。後には、泥だらけになったヤエルが残された。
シセラは、無言で彼女を見下ろす。
「申し訳、有りませんでした……」
なぜ彼女はこう言うのだろう。一方的に犯したのは自分の方だ。
「……ヤエル」歩みを進めようとする彼女に、シセラは短く言った。「そこから先にはいくな……もうすぐ、蜂が戦を始める」
「ええ?」
彼がそう言うや否や、荒野に生えた気に救っていた二つの巣から一匹、また一匹と蜂が飛び出してくる。ヤエルは慌てて、地を這って離れた。やがて、蜂たちはシセラの言うとおり戦を始めた。
「あ、ありがとうございます。シセラ様……」
「……どのような気持ちなのだろうな?」
え?と、ヤエルはシセラの独り言に疑問を呈した。
「知っているか、ヤエル。蜂はたった一人の女王が巣をつくる。そして、その女王は、自分の臣下達の、全ての母でもあるのだ」
「はい……」
「子供たちを戦に駆り出す母親蜂とは、どんな思いなのだろう」シセラは少し離れたところで、わんわんと鳴り響く蜂たちの戦をヤエルとともに眺めながら言った。
「信頼しているのだろうか……道具としてしか見ていないのだろうか……」
ヤエルは何も言わなかった。戸惑っているようだった、シセラは少しばつが悪そうに頭を掻き「……蜂が人間並みの頭を持っているわけはないか」と、締めくくった。
シセラはもう一度、ヤエルを見下ろす。その剣の切っ先のような目で。シセラは彼女に、何千、何万と見てきた人間たちと寸分たがわぬ色を見た。その色しか、彼女にはなかった。
「お前に聞きたいことがある」シセラは言った。
「愛したものはいるか」
「あの……」ヤエルはどもったが、シセラは威圧的に「命令だ。正直に答えろ」と言う。
「はい。……昔、婚約者がいました。優しい人で……とても、とても好きでした……」
「そうか」
彼はそうとだけ言って、蜂たちの喧騒を後ろに聞きながら陣地に引き返した。


「最近、よく出会いますね」
「あなたこそな、ご婦人」
日が落ちる前、デボラとシセラが部屋で会話をした。不思議なものだ。お互い知り合ってから数日なのに、何回かここで話すうちに、もうずっと以前からの知り合いのように思える。
「……そうだ、貴女に聞きたいことがあった」
「はいはい、なにかしら?」
「あなたは……自分の息子が自分を裏切ったら、やはり怒るのだろうな」
どういうことです?とデボラは首を傾げた、彼は少し迷いつつ、それでも話す。
「いや……貴女と話していると、貴女が心から息子や娘の事を愛し、慈しんで何人も育ててきたことは分かる。もしその彼が貴女のそんな恩も忘れてあなたを嫌ったら……貴女は、恩知らずの親不孝者と、そいつの事を怒るのだろうか、と感じたのだ。だって、それが道理だろう」
淡々と言う。シセラに、
デボラは眉をひそめて何があったんです?と言った。
「でもまあ質問の方に答えますか。そうですね……とてもとても、たまらなく悲しいと思いますけど……でも、怒りはしませんよ」
「まさか、それはおかしい」
「なぜです?」
「だって、そいつは貴女の恩や愛をみんなないがしろにしたからだ。道理として許されることではあるまい。貴女に愛されたのだから、永遠に貴女の元を離れないのは当たり前だ。そうだろう」
シセラは少し、怒ったようにそう言った。
「そうでしょうか……」
「なに?」
「あたしはね、そりゃ与えられた愛を返されりゃ嬉しいですよ。でも……でも、必ず返さなきゃならないなんて、そりゃ商売の世界の話でしょう。一回世話になったから一生はなれてはいけないなんて、主人と奴隷の世界じゃないですか」
「……親子の情とは、そんなものではないと?」
「少なくとも、あたしはそう思いますよ」デボラは目にうっすらと涙を浮かべて言った。「馬鹿な、親子と言えども他人同士の関係には同じ。与えられたものは返すのが道理だ」
「返すというのなら……元気に育って、一人前に育ってくれて、どこでもいいから笑って生きている。それであたしは、返されたと思うんです」
その言葉に、シセラは切れ長の目を見開いた。
「うそだ……」
「あたしは、子供をお客さんや奴隷にしたくはないですよ。だって……」
「だって、なんだと!?」
「そうなったら……ずっと育ててきた時間が、それこそまるで無駄になっちゃうじゃないですか。お客さんを、奴隷を育てたかったんじゃないのに。ただ、幸せに生きれるひとりの子を育てたかったのに」
その時、シセラの目からポロリと涙が落ちた。
「それが……母の言葉?」
シセラは怒った、泣きながら怒り、めちゃくちゃに怒鳴り飛ばした。
「嘘だ嘘だ!綺麗ごとばっかり!僕は、僕はママのもとに居なきゃならないんだ……ママは、ママは僕がいなきゃダメなんだもの!ママは僕を愛してくれたから、僕を育ててくれたから、僕はママのもとを離れちゃだめなんだ……」
「……何があったの?」
デボラはそっと腰をかがめて、彼に視線を合わせた、下から、彼の目を覗き込む。彼は泣いていた。
「ママを、憎いと思ってしまった」シセラは彼ら以外は誰もいない白い部屋でえずいた。
「あの人が虐められているのを見て……僕を、僕を大切にしてくれているママを……世界一愛さなきゃダメなママを……今日、世界一憎いと、思ってしまった……」
彼はごく幼い子供のように泣きながら、デボラに叫んだ。
「ママのせいで何回も死にかけた、ママのせいであの人に怖がられる。ママのせいで、僕は、僕は大きくなれないんだ……!ママは、ママは僕を世界一愛してくれてるのに、僕はこんなことを考えてしまう。僕は悪い子だ。悪い子なんだぁ……」
デボラはそっと、彼の背中を撫でた。
「そう……そんなことだったんですねェ。つらかったわね……そういう時はね、無理に愛さなくても、いいんですよ」
「嘘だ!」
「子供を愛せない母も、母を愛せない子も、この世にはたくさんいるのよ。あたしは、何人も見てきた」デボラは泣きじゃくる彼に、そう言い含めた。
「でも、彼らだって間違ってない」
「間違ってないなら、なんでお前は子供を愛するんだ!」
「あたしは愛せるし、愛したいからよ」デボラは言った。「それくらいでいいじゃないの……みんな、自由なんですから」
彼は泣いた。デボラに抱かれながら、ただ泣いた。
「捨てられないんだよ」彼は呟いた。
「たとえ愛していなくても、たとえ世界一憎くても……私は、あの母からは離れられないんだよ」
彼はそう言って、デボラから離れた。デボラはそれに、何も返さなかった。
「ご婦人。貴重な意見をありがとう」
「どういたしまして……貴方は、どこへ?」
「もう、行かなくては……大切な仕事があってな」
「それはそれは……」デボラは笑った、奇遇だと思いながら。
「いってらっしゃい」
彼はふっと小さく笑って「ああ、行ってきます。また会えたらいいな」と言った。


やがて日が落ちた。新しい一日が始まる。
デボラは戦場に赴く兵士たちに、最後に言ったた、
「さあ、皆さん、胸をはってお行きなさい。今日こそ、神様がカナン軍を、シセラ将軍を貴方方に渡される日です!」
鉄の剣と盾を手に持ち、先頭に立つバラクはその言葉を聞いて目を輝かせ「はい」と力強く答えた。周囲も同じだ。もうこの期に及んで、デボラや彼女の与える言葉を疑うものなどいない。
「みなさん。神様を、信じて。このあたしが預かった言葉を、どうか信じて下さい。神様はいつでも、ただただ自分を信じて行動する人たちの味方ですよ!」
その夜は、星がいつにもまして輝いていた。非常に明るい夜だった。
索敵に行った兵士たちが帰ってくる。彼らも明るい星明りのおかげで、実にうまく任務を遂行できたらしい。
攻撃するならば、今。
「必ずや吉報を持ち帰りましょう。我らが母、デボラ殿」
そして彼は手を振り上げる。「出陣!」
先日カナンに覚えていたイスラエル軍はそこにはなかった。デボラとネルに見送られ、彼らは意気揚々と、ラピドトの店の松明を手に持ち、ついに走り出した。
明るい星明りに、非常によくともる松明の光。彼らの軍隊は夜道に足を取られることなく、昼間のように一糸乱れずタボル山を猛烈な勢いで駆け降りた。
スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する