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クリスマス市のグリューワイン

ブラック・マドンナ 1話

ポーランドのチェンストホヴァには黒い聖母像がある。
百合の模様の青いベールに身をくるんだ黒い肌の女性は、ポーランドの女王であり、ポーランド・カトリックを長らく守ってきた存在であった。彼女はまさに、ポーランドの自由の守護者であった。

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マリアは、エルサレムの城壁を見てため息をついた。エルサレムなど話にしか聞いたことがない。
「どうしたね」自分を導く老紳士が声をかけた。マリアは「エルサレムは、本当に美しい都だと思いまして」と素直に返す。前の主人とは違い、この老紳士は穏やかな主人だった。彼は奴隷が無駄口を叩いたことに怒ることなく、むしろ穏やかに微笑み「そうだろう」と返してくれた。
マリアが前の主人の元を追い出され、奴隷市に出されたことが、もう遠い昔のように思える。「生粋のユダヤ教徒ですから安心ですよ。奴隷仕事の経験もあるし、黒い肌だからお値段も控えめにしておきますしね」と語る奴隷商人の言葉を聞いて、一人のヨアキムと名乗った老紳士が手を引いてくれた。
「名前は何というね」と、優しげに語りかけてきた老紳士に、彼女が「マリアです」と、偉大なモーセの姉にあやかったユダヤ人には珍しくない名前を告げると、老紳士は楽しそうに笑った。
「なんて奇遇な!私の娘と同じ名前だ」
マリアはそのまま、老紳士に買い取られた。なんでもエルサレム神殿に仕えている娘の身の回りの世話をさせると。それを聞き、マリアはこの男性が本当に身分のいい紳士なのであると理解できた。
黄金門をくぐり、神殿につくまでの時間が、酷く短いように思えた。マリアはその間、ずっとエルサレムの市街を眺めていた。人がぞろぞろいる。ローマ人もいる。自分の故郷では考えられない光景だった。だが彼女を一つ不安にさせたのが、黒い肌の人間を見かけなかったことだった。
ヨアキムは神殿につくなり馬車を降りて、祭司たちに何やら話していた。神殿の中でもめまぐるしく人が動く。神殿にかかった七色の垂れ幕、生贄用に売られている真っ白いハトや子羊が、マリアの目には非常に美しいもののように映っていた。
だが、やがてとたとたと足音が聞こえてくる。マリアは慌てて振り返り、恭しくお辞儀をした。
「お父様!その子?」
彼女は高くて済んだ声をしていた。精一杯大切にされた育ちのいい令嬢の声、そのものであった。
マリアは、まだ神妙に令嬢の顔を見ないままでいた。それが奴隷が貴族の女性に払う礼儀と言うものだ。
「そうだよ」ヨアキムの声。「顔を上げてよ!」はつらつと、その令嬢は言った。マリアはそこで初めて、自分の仕える令嬢の顔を見た。
彼女は、老人であるヨアキムの孫と言ってもいいような年齢の少女だった。年寄り子なのだろうか。年はマリアと同じだと聞いていたが、良い栄養状態からもたらされるのであろう高い背と良い肉付きから、並ぶととてもじゃないがマリアの方が子供のように見えた。令嬢マリアは驚くほど、澄んだ白い肌をしていた。畑仕事などとは縁のない、正真正銘の育ちのいいものの肌だった。鳩よりも、子羊よりも、その白は尊いものとマリアの目には映った。
だが令嬢マリアは、そう考えつつ丁寧に挨拶をするマリアの顔を見つめて言った。
「素敵!綺麗な色の肌だわ」
マリアはまず、その言葉に面食らった。売り飛ばされて故郷を離れて以来、親不孝者のハムの血筋をあらわすにも等しいこの肌は、何をおいてもまず蔑まれ、汚いと言われる対象であったのだが。マリアも、それを許容するように心がけていた。第一口答えが許される身分でもない。
「私はね、いなご豆のお菓子となつめやしが何より好きなのよ。貴方のお肌は、甘いお菓子そっくり!お父様、ありがとう、こんな素敵な子をくれて!」
マリアは最初、どうとも思えなかった。初めて聞くその言葉に自分が思う感情を、見失った。それは初めて感じる感触だった。
だが、彼女はしばらく沈黙したのち、ともかくも神殿の最奥部に居るのであろう神に感謝した。今度の主人として、どうやら優しい令嬢をあてがってくれた神に。
「幸甚に存じます、お嬢様」マリアは控えめに喜んで見せた。だが、その言葉を持ってしても、自分の心に沸いた感情は到底表せないようだった。

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「宗教はアヘンである」と言われようとも、人は宗教をやめられない。もはやそれは、火を見るより明らかな事実であった。
近代化していけば宗教はより合理性の高く「正当」な近代的価値観にとってかわられるのだ、というのは所詮理想論にすぎず、宗教はそこまで弱いものではないし人間もそこまでドライな存在ではない。修道士アンジェイも、そう確信しているポーランド人の一人であった。

彼は小さい頃視た黒い聖母を見た時の記憶が忘れられない。ヤスナ・グラ修道院へ、初めて来た日のこと。親に連れられて行った巡礼。幼い自分の目の前で、黒い女が黒い子供を抱いていた。ポーランド人らしく真っ白な肌を持つアンジェイは、「画家の守護聖人聖ルカが、聖家族の使っていたテーブルの鉄板に描いた由緒ある品」というリアリストなら眉唾物だと言い飛ばしそうな解説も、「昔火災に会い、すすで汚れて黒い肌になったのだ」というこれならリアリストも信じそうな解説もほぼ聞き飛ばし、ひたすらに黒い肌の親子に見入っていた。アンジェイの目には、彼らは今まで見たいかなるものよりも清らかで聖なるものだと感じられた。

聖母は、ルネサンスの西洋絵画に書かれるようなたおやかで鷹揚な美女としての聖母マリアとは、いささか趣が違っていた。視界は焦点が定まっておらず、虚ろなようにも見える。面長な顔はやせて、多少老けても見えた。表情は、決して微笑みではない。まるで抱く我が子の悲惨な、短い一生を予見していることをも思わせるようだ。数百年の年月を経て傷んだ画面の傷は、そのまま聖母の黒い肌についた傷のようにも見えた。しかし、少年アンジェイの目にそれは返って素晴らしいものとして映った。
もとより、滑らかな肌、ふくよかな体、澄んだ瞳に赤い唇、傷一つない美少女の肉体。それらに代表されるような美に掛け替えのない意味を見出すような気質のものならば、こんな道を選んではいない。少なくともアンジェイは自己分析能力のある男だったのだから。
かの偉大な聖パウロも、そのような即物的な美などには塵芥と同じ程度の価値しか見出さなかった気質だったと言うことだ。なるほど、清らかさと言うものを擬人化するのであれば、確かにパッと最初にはそのような傷一つない美少女が思いつくだろう。しかし自分達、修道士のような暮らしが清貧と言うのなら、その肌は日に焼けているのではないか。その手には傷があるのではないか。その顔は毎日の労働で疲れていてもなんの不思議もないのではないか。しかしその中から湧き出る精神の美しさこそが、我らが求める美しさなのである、と、彼は黒い聖母を醜いと批判した来客に、一度そのような言葉を浴びせたことがある。無論のこと、聖母の絵そのものもどれほど魅力的か、いかなる美術的価値を持っているか、ビザンティン美術とイタリア美術の折衷のようなその画風を掘り下げつつ解説もした。(勿論、当作品としてもヤスナ・グラの聖母マリアが美術的観点から見て非常に美しい作品であることは、この場を借りて全面的に肯定させていただく)。

アンジェイがやがて神学校に進んだのも、そして愛しい故郷で神父になることも切り捨ててこのヤスナ・グラで修道士として生きる決意を固めたことも、思えばその時に既に決まった運命であるのかもしれない。
ポーランドが共産主義国になってしまった後も、教会が迫害されていく様子を見ながらも、アンジェイは神の使徒らへの迫害を嘆きこそすれ、あの時に普通の学校に行っていればと感じることなど一度もなかった。修道士として生きる彼は奇跡を起こしたこともなく、幻視を見たこともない、どこにでもいる一介のカトリックの聖職者にすぎなかったが、彼は間違いなく神と共に生きる神の人であった。
そう言えば、彼は今元気だろうか?15年前神学校で、一番の友だちだった彼は。共に青春を分かち合ったあの彼は……。とアンジェイはぼんやり考えたが、やがて後ろから飛んできた声にその思いもかき消された。

「兄弟アンジェイ。枢機卿が言われたことをご存じか?」
彼はアンジェイの同僚の修道士で、ミヘイという男だった。もちろん知っている。「大ノヴェナ」の件だろう。「ああ」とアンジェイは鷹揚に返答する。
ポーランド枢機卿ヴィジンスキは現在、政府によって拘留されている身だ。枢機卿と言う偉大な立場を差し置いても、共産主義当局に睨まれ、それでもなお信仰の道を貫き通す彼の事を、アンジェイは地上の人間のうちで最も尊敬している。そんな彼が企画したのが、「大ノヴェナ」である。
「ノヴェナ」とは、本来9日間にわたる祈りの事を言う。では大ノヴェナとはなにか。それは9日間ならぬ、9年間に及ぶ大祈祷の計画であった。
現在、1956年。8月から始まる予定の9年間のノヴェナの先にあるものは、1966年。ポーランド、受洗千年にあたる年だった。9年にわたる前祝の後、記録すべき千年祭をどう盛大に祝おうか、と今から考えを巡らせるのは、ポーランド・カトリック教会から当局に対する、真っ向からの反抗だった。
アンジェイはミヘイとともに、期待に胸を膨らませていた。彼の心を奮い立たせるものは数えきれなかったが、その中に一つ、黒真珠のようなひときわ大きな輝きがあった。
大ノヴェナの幕開けの開かれるミサの会場は、とっくにきまりきっている。このチェンストホヴァの、ヤスナ・グラ修道院。ポーランドの聖なる日に、黒い聖母、ポーランドの女王無くして、何が始まるというのだろうか。
ここに、一体どれほどの人々が集まるだろう。キリストへの思いに心焦がすポーランド中の敬虔な信徒が、ここに集う。そして、黒い聖母を目にするのだ。
アンジェイは格子戸の中に眠る黒い聖母に思いをはせた。いったい何人の人間が、あの時の自分と同じ心持になってくれるのだろう。あの幸福な気持ちに。アンジェイはそれが楽しみでならない。

●●●

神殿での暮らしは、マリアにとって幸い楽しいものだった。
何と言っても、ここは治安がいい。黒い肌を遠慮する必要こそあれ、前いたときのように男たちに乱暴されることもない。司祭たちもそりゃあ権力のある男性たちなのだから全員が全員清貧に、というわけにもいかないだろうが、よその家、特に良家から預かっている未婚のお嬢さんたち……まさにマリアの主人である令嬢マリアのような……に手を付けて下手ないざこざになるよりは、金もあるのだし娼婦を買うに決まっている。娼婦と言ったって質のいいのはいいのだし、彼女たちもその道のプロなのだからめったに言いふらしなどしない。令嬢たちに手を出す方がどう考えたってリスクが高いのだ。したがって、令嬢マリアにいつも付いている必要のあるマリアの身の安全も半ば守られているようなものだった。

マリアは神殿の門をくぐり、裏方に回る。袋をぶらぶらと揺らしながら屋内に入り、階段をのぼった。
「買ってきてくれた?」
部屋の中では、令嬢マリアが待っていた。手に持った糸紡ぎの道具はすでにその用途を終えており、彼女の膝の上には純白の絹糸の束があった。
「はい、お嬢様」
袋の中から出てきた、市場で買ってきた飴と干し無花果入りのパン菓子に、令嬢マリアはパッと無邪気に顔を明るくする。この令嬢のこういう表情が好きだ、とマリアは感じていた。
彼女は3歳の時に神殿に預けられたらしい。それ以来、神殿から外には一歩も出ずに暮らしていると聞く。この、全イスラエルで最も清らなる空間で。だからだろうか。彼女はあらゆるこの世の穢れから守られているようにすら見えた。彼女は美しかった。マリアが出会った誰よりも美しく、清水のみを吸って咲いた白百合のように穢れなかった。イヴの犯した原罪が、この少女には宿っていないかのように、マリアには感じられた。
きっとこの少女は、その子供を腕に抱くときにも、一切の痛みなどないのだろう。いや、そもそも彼女には血の穢れなど一生訪れないのではないか。令嬢マリアは初潮がまだ来ていないらしいが、彼女はそう思わせる何かがあった。この世の悪など何も知らず、汚れなどという概念も知らず、ただ神への祈りとつつましやかな労働をし、たまの楽しみは甘い菓子程度のものという彼女の姿は、マリアにとって永遠の穢れ無き乙女と言うにふさわしい存在だった。
彼女はその爪の長く伸びた指で、飴を摘み上げる。「もうお仕事は終わったんだもの、誰にも文句は言わせないんだから」
彼女はマリアの手を掴んだ。マリアはどきりとする。「お嬢様!」と思わず口について出てしまった。
「なに?」
「私のようなものの手を握っては」
「そんなの私の勝手でしょ」
屈託なく、令嬢マリアは笑う。マリアは手から伝わる令嬢の手の柔らかさが、暖かさが、たまらなく素晴らしいものに思えた。それと同時に、おそらくあちらに伝わっているのであろう自分の手の冷たさ、ごつごつとした固さがどう受け取られるのだろうと思えば恥ずかしかった。
令嬢マリアはそんな彼女の思いなどいざ知らず、スタスタと階段を上り日の照りつける屋上に出た。彼女は自前の青いベールでしっかりと肌を覆い隠し、「はい」と、飴玉をマリアにも渡した。マリアは面喰った。
「お嬢様、このようなものを頂くわけには」
「いいじゃない。一緒に食べてよ。一緒に食べると、どんなものもおいしくなるでしょ!」
彼女はこう言う少女なのだ。
3歳の頃からずっと神殿住まいで、人寂しい所もあったのかもしれない。マリアが来てからはずっと彼女の方もマリアにべったりだ。無論マリアとしてもそれが本分であるし、何より自分を罵り乱暴する男主人よりも、この優しい女主人の方がずっといい。
二人は屋上から神殿を見下ろした。女性たちは神殿の最奥部には入れず、夫たちが祈りを終えて帰ってくるのを待たされている様子がカラフルなベールが花畑のように群がっている様子から推し量れた。
「あーあ。中に入れてあげればいいのに」飴をなめながら令嬢マリアは言う。
「私だってこんなところにいるんだし、ね?」
「おっしゃる通りです。お嬢様」マリアは口に手を当てて笑った。令嬢の考えに、賛同しているわけではない。奴隷に自由が無いように、女性にも自由がないのは当然の事だ、とマリアは捕えていた。しかし一方でそのような世間の常識に捕らわれず無邪気に子供じみた理屈を言う令嬢をなんだか微笑ましく思ったのもまた確かだ。彼女はそう笑った拍子に、自分の手を見た。やはり、変わり映えしない、傷とタコだらけの手だった。
「どうしたの?」令嬢マリアはちょこんと首をかしげる。マリアは慌てて首を振った。「いえ、なんでも」
「ふうん……」令嬢はそれはそれとして受け止めてくれたようだが、その後こう付け足した。
「私ね。あなたの手、好きよ。昔、大好きだった女預言者様がいたの。もうお年を召して亡くなってしまわれたけど……その人、いつも神さまの教えを説いたり、仕事をしたりするのに忙しくてね。孤児を引き取って育てたりもしてたのよ。……その人と握手したことがあるの。その人の手、すごく冷たくて、固かったの。多分、そうなるまで沢山働いたからよね。だから私、その手の感触がとても好きになったんだ。あなたの手、あの人の手を思い出すわ」
「お嬢様」マリアははにかんだ。「幸甚に存じます……」
マリアはようやく飴に手を付けた。自分で買ったそれは、とても甘い味がした。美しい令嬢と二人、多くに人が所狭しと行きかう神殿を見おろしながら、マリアは幸せを感じていた。

と、そのような中、令嬢の目が一人の人物にとまった。ヨアキムと並んで仲良く談笑しながら、神殿にやってきた男。
「ヨセフ様!」彼女は呟いた。マリアも、吸い寄せられるようにそちらを見た。そして、彼女の目、非常にいいことが取り柄の双眸はその時、その視線の先にいた男性に釘付けになった。
30代は下りそうにない、40に届いていてもおかしくはない男だったが、それを差し置いても彼は美男子だった。美しく年を取ったタイプとでもいうべきだろうか。がっしりとした体つきとは裏はらに、その表情は穏やかで上品だった。素敵な人、という感想を、マリアはその時彼に感じた。
令嬢も、彼の事を見ていた。だがほどなくして、マリアも彼の存在に気付いたことを悟り、自慢げに言った。
「素敵な人でしょ?私の婚約者よ!」

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