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クリスマス市のグリューワイン

ブラック・マドンナ 2話

1655年、ポーランドは休戦協定を破って急襲を仕掛けてきたスウェーデンにあえなく敗れた。誰の目にも、ポーランドがスウェーデンに服従せざるを得ないことは明白。そのような中、ヤスナ・グラ修道院は敵に抵抗を試みた。とはいえ奇跡でも起こらないと何も起こるまい。彼らの頭には殉教の栄冠は被せられるだろうが、勝利の月桂冠が置かれることはないだろう。誰もがそう思っていた。
しかし、奇跡は起きた。40日の包囲の後、彼らは黒い聖母のイコンを掲げて、スウェーデン軍との戦闘に打って出た。なんということだろうか、ポーランドには勝利が与えられたのだ。
時のポーランド王ヤン・カジミェシュはこの奇跡を非常に重く見て、この神々しき黒い聖母のイコンを、永遠にポーランド人がその前に跪くべき女王と定めた。ポーランドの苦悩に苦悩を重ねる歴史において、哀れなポーランド人を愛し、結び付けていたものこそ、この黒い女王であったのだ。


1956年8月26日、チェンストホヴァ、ヤスナ・グラ修道院にて、大ノヴェナの幕開けのミサが行われた。
アンジェイは修道士たちに混ざって、司教の読み上げる誓いの条文に耳を傾けていた。尊敬する枢機卿が、まだ政府の軟禁のためこの場に立てないことが心残りであった。後で聞いたところによると、枢機卿はこの場には立てないまでも、抑留先のコマンツァにて、黒い聖母の写真を前にヤスナ・グラで行われたのと同時間に誓いの条文を読み上げていたらしい。それを聞いてアンジェイは、自分の心残りなど杞憂であったと感じた。
金の王冠を被らずとも、金の王杓を持たずとも、ヤスナ・グラの聖母はポーランド女王に相応しい威厳を持ち、ミサに集まった100万人の巡礼者を見下ろしていた。誰も恐れることはない、とでも言わんばかりに、彼女の眼は敬虔なポーランドのカトリックを静かに見つめていた。誰もがその視線から、聖母の清水のように純粋な愛を感じ、その愛に包まれたのだ。その愛を一度受けたならば、どのような恐怖をも乗り越えられるかのような思いだった。
アンジェイはその日、100万の巡礼者の中から、こっそりと、とある一人を探そうとしていた。もしかすれば、彼が来ているかもしれない。もしかすれば、彼も、黒い聖母に会いに来たかもしれない。自分に会いに来たかもしれない……。
彼の影さえも見つけることができなかったのは、一人の男を見つけるにはその場に来ていた人数があまりに膨大過ぎたからだろうか。それとも、初めから、彼は来ていなかったからだろうか。アンジェイには分からなかった。ただ、彼はヤスナ・グラの修道士として、これから始まる神の大計画に希望を求めんとした。

「畜生めが!」
非公式の新聞をテーブルにたたきつけ、ミュシェコ・ヤンコフスキは歯噛みした。彼は当局の役人であった。忌々しきヴィジンスキをはじめとした宗教信者たちの祭典がこんなに大規模に行われ、あまつさえ100万人もの人が動員された。彼にとって面白い話であるはずがない。
彼は秘書のリシャルドにそのまま新聞を回収させる。「宗教戦争を始める気か、あ奴らめ!」ミュシェコは悔しそうに言う。若いながらも優秀な秘書、リシャルドは黙って自分の上司に追従の意を示した。
ミュシェコはポーランド統一労働者党からすれば、非常に立派なマルクス主義者の鑑のような男である。だから比較的早い出世も成し遂げた。
「これは明らかに我が党への挑発だ、そう思うだろう、リシャルド?」
「はい。まともなポーランド人であれば、誰しも不埒な行為と感じるはずです」淡々とリシャルドは告げる。ミュシェコはふんと鼻を鳴らし、リシャルドがかさばらないように折りたたんでゴミ箱に新聞を捨てる様子を目で追った。
千年祭を前に控え、9年間もの政府にあてつけるような祈りの期間。それだけでも共産党を挑発するには十分なように思えた。だがミュシェコが不機嫌なのは何もそれだけではないことも、リシャルドは感づいていた。彼は不安になると一息タバコを吸っただけですぐ灰皿に押し付けるくせがある。今まさにその癖が出ている。
リシャルドの予感は当たっていた。ミュシェコはこれでは済まないような予感を、その新聞の、荒い印刷の写真から読み取っていたのだ。いや、読み取ったと言っては語弊がある。それはもっと感覚的なものだった。すなわち彼はまるで、荒い写真の中にぽつりと見える小さな四角、顔もつぶれて見えないはずの黒い聖母に、睨まれた。少なくとも、そうかのように思える不快感を、写真を通じて感じ取ったのだ。

彼らの予感は的中した。
1956年10月26日、ヴィジンスキ枢機卿はヴワディスワフ・ゴムウカ第一書記就任とともに釈放された。それは、まだよかった。ゴムウカの民衆への心証を良くしたいという思いがあったのだ。
だが同志ゴムウカのその態度に味を占めたか(と、ミュシェコには感じられた)1957年4月11日、教会はあるプロジェクトを発表した。それは黒い聖母の、ポーランド教区全体への巡業だった。
ポーランド・カトリックのシンボルとなっている黒い聖母のイコンが、彼女を慕う全ポーランドのカトリックの眼前にあらわれる。その重要性がわからぬほど、当局の人間もボケてはいない。宗教戦争だ、共産主義への挑戦だ、と、ミュシェコ以外の統一労働者党員もこぞって教会を非難した。しかし、そのような言葉の数々は、受洗千年を間近に控え信仰心に燃え盛るカトリック教徒たちの前には、まさに焼け石に水と言うのがふさわしい、無力なものだった。

●●●

血は、汚れである。
ユダヤ人の持つ多くの律法の中の、一つがそれだ。ユダヤ人は血の料理を食べることもないし、屠殺にすら気を遣う。当然、女の体から流れ出る血とて同様である。
だから神殿に仕える少女たちは、一生そこで暮らすわけにもいかない。神と共に過ごすに値するのは、血の汚れとは無縁な幼いうちだけだ。忌々しい経血で神殿を汚す前に、夫を作り立ち去らねばならない。それが、掟であった。
令嬢マリアにはまだ初潮が来ていない。しかしもういつ来てもおかしくない年齢ではある。そのためそろそろ神殿を出てもいいだろうとのことで、婚約したのだという。
ヨセフと名乗る男は、ガリラヤの名士だった。職業は大工の棟梁であるらしい。聞けばザカリアとは親戚の間柄だった。なるほど、結婚するのには適切な間柄であると思えた。
一つ強いて引っかかる点を挙げるならば、少し離れた年齢だろうか。ヨセフは男やもめだった。妻は 一昨年に死んで、子供も何人もいるらしい。妻を失って悲しむ彼を見かねてザカリアの方から縁談話を持ちかけたのだという。
親戚だからという縁もあったが、何より令嬢マリアが彼の事をひそかに気に入っていたのが、そもそもの発端であった。それには説得力があるような気がした。令嬢に会いに来た彼を令嬢の隣で見て感じた感想としては、ヨセフは物腰も丁寧で、上品な紳士だ。若い時も、いや、きっと今ももてるタイプだ。やくざ男などに惹かれるな、そのようなものは娼婦のすることだ、と教え込まれている令嬢が彼にあこがれるのも、マリアにはわからないでもなかった。女性に純潔を求めるような堅い男性たち……もっともそのうちには少なからず、ただ自分より若くてもてる美男子たちに若い女が群がるのが妬ましいだけの男も多いのをマリアはしっかり知っていたが……が推奨する男のうちでは、ヨセフは上玉の部類だっただろう。
自分が勤めてきた家の主人は皆一様に、おせじにも美しいとは言えなかった。自分たちはてらてらと脂ぎった肌をしておいて、女の顔にあばたの一つでもできていれば、女としての義務も忘れている、夫が可哀想だと思わんのかと「正当な」叱責をする男を何人も見てきた。自分の黒い肌がどういわれたかなど、言うに及ばずだ。そのことを考えれば、自分も身ぎれいにしている分ヨセフはましな部類だろう、と、マリアは感じていたのだ。

マリアはその日、令嬢の買い物のため市場に出ていた。市場で商人にハムの子孫か、と見られて若干高い値段を告げられようとも、生憎だが値切ることには慣れている。そうでもしないことには、奴隷は務まらない。
令嬢の望むものを大方買い終え、後はなつめやしのパン一つを残すのみになった。彼女はパン菓子を売る店に向かう。一つだけ、残っていた。だが、彼女は次の瞬間、令嬢に謝ろうということを決意した。ローマ兵が無言でそれを一つ、買っていくところだったからだ。
主人の命令とは言えど、ユダヤ人はローマ兵には逆らえない。それに異邦人とは口を利くことすらみっともない事であると教えられている。それが抗議の声であったとしても、ローマ人と話したという事実だけでも不埒な女扱いされることは目に見えていた。ましてや自分は黒い肌の持ち主だ。
店主にろくな言葉も吐かれず踵を返したローマ人は、振り返り様マリアにぶつかった。
彼は背が高かった。思わず上を向き、マリアはぎょっとした。獲物の血に飢えた山猫の目とも見まごう不気味な目つきが、マリアを見抜き、彼女の視線を逃がそうとはしなかった。美しさとは対極にある目つきに、彼女は縛られた。
「すまなかったな」
一つ声が上から降ってきたのと同時に、彼の眼はマリアを解放した。彼女は慌ててうつむく。言葉を返すべきか迷う間もなく、彼は早足で去っていってしまった。あとには、令嬢に謝罪するのを待つのみのマリアが残された。

彼女はぶらぶら神殿への道を行く途中、後ろから声を掛けられた。一瞬ぎょっとしたが、後ろから飛んできた声には聞き覚えがあった。
「ぼくの婚約者の、お付きの奴隷の子だね」
後ろに立っていたのは、ヨセフだった。マリアの事も覚えていてくれたのだ。意外と思うには及ばなかった。自分の肌を見て、覚えられないほうが少ない。だがその時マリアがいささか戸惑ったのは、ヨアキム、そして令嬢マリアに会った時と同じ感覚だった。ヨセフは彼女が今まで見てきた中年の紳士がするように、マリアの黒い肌を見ていないということが読み取れた。
マリアは控えめにお辞儀をする。「買い物かな?今から、帰る所かな?」ヨセフは優しく話しかけ、マリアは「はい」と返した。
「ぼくも今から神殿に行くところだからね、送っていこう」
彼は非常に穏やかに、そう話しかけてきた。マリアは伏せた目を上げた。丁寧に整えられた髭の生えた顔の真ん中には、二つの、非常に優しい目がマリアを見ていた。彼女はそれを見て、ああ、と自覚した。
自分は今、嬉しいのだ。仕事がうまくいき、珍しく(令嬢マリアのもとで働くようになってからは、それなりによくあることとなっていたが)褒められた時と同じ気持ち、それを更に大きく、さらに純粋にしたような気持ちだ。
マリアの目から、涙がこぼれた。「どうしたの」ヨセフは、マリアが奴隷であるということすら忘れているかのように、紳士的に話しかけてきた。令嬢が彼に好意を持つのも、彼が多くの女性から好かれるのも、何も美しい容姿や名士の立場だけではないのだろうと、今さらながら実感できた。
「何でもございません、ありがとうございます」
マリアはその日、生まれて初めてかもしれないと思うほど、素直にそう言えた。奴隷としての卑屈な礼儀ではなく、心の底から、彼女はヨセフに礼を言うことができた。
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