FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

ブラック・マドンナ 3話

黒い聖母が、ポーランド中を巡る。司教会議の決定に、ヤスナ・グラの修道士たちもいささか浮き足立っていた。
アンジェイも同様だった。「君も、聖母と共に行きなさい」と、司教に声を掛けられたことは、何よりも彼を感動させた。聖母の巡業に付き添うことができるとは。聖母の神聖さに心打たれ神の道、修道院の門をたたいたアンジェイにとっては、これ以上にない幸せだった。

アンジェイはその夜、眠れずに一人礼拝堂で祈りをささげていた。ポーランドの女王が鎮座する格子戸はさらにカーテンで仕切られている。それをめくり上げたいとも、アンジェイは感じなかった。
黒い聖母の巡業は一年、二年では到底済むものではない。大ノヴェナの期間中にすら終わらない大規模なものとなることは明らかだった。だがアンジェイはこの大きな計画、国家からは宗教戦争だと非難される計画に、誇りよりも何よりも、楽しさを感じていた。
大ノヴェナの開幕ミサの際にも感じたこと。黒い聖母の聖性があったからこそ自分の人生が始まったように、これから先、黒い聖母を見ることでどれほどの子供が神の国への門、狭き門をくぐらんとするのだろうか。あのカーテンの向こう、その格子戸の向こうに眠る女王は自分の人生と常にともにあったのだ。ポーランドのカトリック信仰そのものが、彼女とともにあったように。
自分の人生。彼は目をつぶり、それについて物思いにふけった。こうして静かな場所でしんとしていると、さすがに彼も、自分の小さい頃の事、故郷にいた父や母の事が思い出された。自分が神の道に行くことを肯定し、熱心に何もかも教えてくれた近所の神父の事も、神学校に入ってから恩師と仰いだ面々の事も、学校の仲間たちと一緒にひいきにしたパン屋の婦人の事も、母の作る料理の味も、彼は自分と黒い聖母以外は誰もいない礼拝堂で思い出した。何一つ、嫌な思い出ではない。自分にとっては、掛け替えのない記憶だった。
そして、アンジェイは思った。彼は一体、どうしているだろう。彼は、眩しいほど明るい金髪をしていた。それが子供っぽくていやだと眉をひそめる彼に、大人になれば黒くなるよ、と自分は語りかけていた。彼はそう言われて、安心したように笑っていた。
彼は、生きているだろうか。大ノヴェナのミサには現れなかった。彼は、生きているだろうか。生きることが、できただろうか。
できたと信じたい。彼が誇り高く殉教したとしても、それでも生きている方がいい、とアンジェイは彼に対する懐かしさが募る余りに考えた。
彼は、生きているだろうか。臆病な自分と違った彼は。少し黒くなり始めた金髪を振り乱し、必死に平和を訴えていた彼は。軍服を着た兵士に列車に詰め込まれ、姿を消してしまった彼は、生きられたのだろうか。生きているなら、会ってみたい。せめて、会ってみたい。無事だったかどうか、それを知りたい……。
ぶるり、とアンジェイは身震いがした。思い出したくない。修道院に来て以来、穏やかな心で包み隠してきた傷が、急に開いたようだった。
彼は衝動的に、礼拝堂を飛び出した。ポーランドの聖なる女王の前に立つことは、今の自分の身では非常な不遜であると思えた。夜の空気は冷たかったが、彼は別段寒いとは思わなかった。

少し雲の出た夜だった。彼はポケットからロザリオを取り出し、聖母マリアへの祈りをとぎれとぎれに唱えた。それが終わってしまえば詩編22章も、主の祈りも唱えた。そうしていることで、救われる思いだった。
外は礼拝堂の中と変わらず相変わらず静かで、自分の祈りの声の他に五感に訴えかけるものはない。そう、アンジェイは思っていた。だが少し精神が安定してきた矢先、ふとつんと鼻を突くような苦い匂いがした。
煙草の匂いだ。修道士たるものが隠れて煙草を吸っているのか?彼はたちどころに修道士アンジェイとしての自分を取り戻し、もしそうなら捨てはおけないと歩みを進めた。

彼は、廊下の端に立っていた。立派な背広を着て、煙草を静かに吹かす彼は、明らかに修道士ではなかった。いつの間に部外者が入ったのだ?とアンジェイはぎょっとした。
注意しようと、アンジェイは歩みを進める。だがその時、彼は顔を上げた。煙草の光に、不自然なほど彼の顔が照らされた。
アンジェイは瞬きした。その顔には見覚えがある。自分にも劣らぬ真っ白な肌。自分と同じように年をとっても、その顔は忘れられなかった。
「ミュシェコ……!」
アンジェイは、昔の友の名を呼んだ。柱にもたれかかり、相変わらず煙草を吹かす彼に。
ミュシェコは何も答えず、じっとアンジェイを見た。彼は煙草をくわえたまま、その場でコートを脱いだ。背広をも脱ぎ、バサリと音を立て床に投げ捨てる。ネクタイを緩める。そしてシャツのボタンをはずし始めた。その様子が、ミュシェコの男にしても色白の肌が、煙草の光に不自然なほど照らされていた。そして手をそう動かしつつも、ミュシェコはじっとアンジェイを見つめたままだったのだ。
「ミュシェコ、何を……?」
アンジェイは怪訝に思った。その様子は一種美しくもあり、悪魔が自分に見せる誘惑のようにすらアンジェイには感じられた。そのミュシェコが何か言葉を言ったなら、あるいは自分に触れてきたなら、かつての友との再会もつかの間、「立ち去れ、サタン」と言ってしまう自分がいるであろうことが、ミュシェコには分かった。
だが、彼は誘惑の言葉など吐かなかった。煙草を手放しもしなかった。彼はただ、片腕を見せた。何者にも覆われていない片腕を。そこには、年を経て経て色褪せてはいるが、はっきりと「番号」が刺青されていた。そして、その上半身は、その白い肌は、無数の傷に、あざに覆われていた。
アンジェイの脳が一瞬にして冷えた。「君は……」何か言いかけたアンジェイは、その場で気を失った。自分を見下ろすミュシェコは、どんな目をしていたのだろうか。煙草が自分の上に落とされたような、そうでないような気がした。

●●●

「あれ、これ何?」
それは、マリアが水仕事のために腕まくりをしている時の事だった。令嬢に、急に腕をつつかれた。
「あざ?」令嬢は首をかしげる。マリアもぼやけたそれに一瞬本気で何だろうと考え込んだが、すぐに思い出した。前のさらに前の主人は奴隷に印を入れるのが好きな人だったのだ。肌が黒くて刺青が入りにくいと文句を言われた。さらにそれが年を経てぼけたせいで、あざのようになっている。
「はい、あざです」マリアは嘘をついた。この令嬢が、奴隷の腕にある不自然な模様を見ても刺青と思わないようであれば、何故それを否定できるであろうか。寧ろあざと言う概念を知っていることすら、少し驚いた。この令嬢の体には、傷もあざも何一つない。
一緒に居ればいるほど、マリアは自分とこの令嬢の違いを痛感する。今までそんなことがなかったのになぜ今わざわざ感じてしまうかと言えば、それはたぶん彼女が今までにない程常に自分のそばにいるから……マリアは誰かのお付きになった事は初めてだった……からと、この令嬢マリア自身が非常に特異な人物であったからだ。
彼女は本当に、浮世の汚さなど何も知らない。彼女の周囲に居るのは、律法を固く守る祭司、神の道を選んだ預言者たち、同じような生まれの少女たちに、上品で人のいい家族や婚約者。何も、この世の穢れを知ることなく、彼女は生きてきた。まるで、そうあることが運命づけられているかのように。
自分とは対極にもほどがある。外見だけで汚らわしいと烙印を押されるこの肌も、この身分も、そしてあらゆる欲を実際に見てきた、見ざるを得なかった人生も。全てにおいて、これが同じ人間なのかというほどに違う。
そしてマリアは、その自分とは全く違う、汚れの一つもない令嬢の事を、非常に美しいものだとみていた。憧れるだの、憧れるのもおこがましいだの、そのような感情は無視して、ただただ美しく思うに値するものであるとマリアは令嬢の事を感じていた。
一方で令嬢マリアは、まくられた黒い腕をじっと見ていた。マリアはそれが少し気恥ずかしかったが、普段露出しない部分を露出しているが故の気恥ずかしさでしかなかった。
汚れを知らぬ令嬢は、汚い感情も知らない。自分のこの肌も、偉大なるノアをあざ笑った親不孝者の末裔ではなく、甘くておいしいナツメヤシのお菓子の色でしかないのだ。それを見つめるマリアは、本当にお菓子を見るときのように目をキラキラさせていた。令嬢は、自分の黒い肌が好きなのだと、その頃にはマリアにも素直に思えていた。

ある日の事だった。令嬢マリアと話をしに、ヨアキムとヨセフが訪れた。だがちょうど令嬢はほかの神殿勤めの少女たちと一緒に祭司たちに呼ばれており、さすがに奴隷に過ぎないマリアだけが同席することを許されず取り残されていた。
「お嬢様はもうじきお戻りになると思います」彼女は礼儀正しくそう言った。
「元気にやれているようだね。何よりだよ」
令嬢に言ったのか、自分に言ったのか、分からない言葉をヨアキムから受け取った。マリアには、それをいちいち問いただすことはですぎた行為だった。
ヨセフも、優しい目でその言葉に同意した。その男性を見た途端、急にマリアは自分の黒い肌が恥ずかしくなった。令嬢マリアに対しては感じなかった恥ずかしさを、なぜかこの男性の前では激しく感じる。彼女はスカーフを意図的に口元まで押し上げた。ヨセフとヨアキムは怪訝な顔になった。
ちょうどその時、ヨアキムが祭司に呼ばれた。ヨアキムは顔の広い男だ、おかしくはない。彼は用があるのはヨアキムだけのようで、後にはヨセフとマリアだけが残された。
「どうしたの」ヨセフは相変わらず、柔和に話しかけた。マリアは、黒い顔が恥ずかしいということすら憚られた。かつて自分には、恥じる権利もなかったのだ。
だが、ヨセフは先日に引き続き、さらにマリアの舌を巻かせてみせた。
「黒い肌が恥ずかしいのかな?」彼はあくまでマリアを刺激することが無いように気遣う様子で、そう言ってきた。マリアもつい反射的に「はい」と返してしまった。彼はため息をつき、言った。
「ぼくもよく見てきたよ。肌の色で酷い目に合う人を。悲しいことだ。もとはと言えば、全て同じ神さまに創られた人間なのにね」
ヨセフは物悲しそうに言った、だが、その調子は続けず、低く落ち着いた声で口ずさんだ。
「『エルサレムの娘たちよ、私は黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンの帳のように……』」
雅歌の一編であることは、マリアにも分かった。ヨセフはにこりと笑顔で、マリアに問いかける。
「かの偉大なソロモン王も、黒く美しい女性を自分の詞に登場させているんだよ。誰よりも美しい人として。ソロモンが道理のわからない愚か者なわけはないだろう。そうであったら、この世で知恵を持ち得るものなど、まったく、神様おひとりになってしまうからね」
「はい……」マリアは上手く言葉が返せなかった。だが自然と、スカーフを抑える手を離すことができた。
空気にさらされて、唇が少し涼しくなる。ヨセフは笑って「それでいいんだよ」と言った。
何とも言えず、マリアの体が温かくなった。令嬢に対して感じるのとは別の好意を、この男性、愛する主人の婚約者に感じている自分が理解できた。

●●●

その日、ミュシェコは仕事でチェンストホヴァを訪れていた。ヤスナ・グラ修道院の塔が目に入り、忌々しさに舌打ちする。隣のリシャルドは黙ってマッチの火を差し出した。
「先生の見立てでは、どうなりますか?」リシャルドは煙草を吸い始めたミュシェコに聞いた。
「1966年はどちらにせよ節目の時だ。国だってポーランド独立千年を祝いたい」ミュシェコは話す。
「『ポーランド』の独立をな。断じて『ポーランド・カトリック』ではない。それではない『ポーランド』の祝祭を祝いたい」
「では、それまでに決着がつくと?」
「そうあるのが理想だ」ミュシェコは車の中で煙草をふかした。運転手は何も言わない。チェンストホヴァの街並みが車窓の外に通り過ぎていく。この中の何人が、マルクス以上に黒い肌の聖母マリアを崇めているのだろう。あの痩せこけた、悲痛な面をした黒人女を。と、ミュシェコはポーランドの女王を心の中で侮辱した。
おや、と彼は声を上げてみる。特異な服の集団がいる。何者であるかはもちろんすぐわかる。
「修道士たちの買い出しですね」リシャルドはミュシェコの視線の先に自分も気が付き、行った。おそらくはあの忌々しいヤスナ・グラの修道士だろう。ミュシェコはにらみを利かせるように、煙草をふかしながら車窓の外を見つめた。
と、その時だ。彼は、一人の男を見つけた。すでに遠ざかっていく男を。
「車を止めろ!」彼は急に運転手に叫んだ。運転手は慌てる。止めろと言ってすぐに止まれるものなら世話はない。やっと車が止まり、面喰うリシャルドをおいてミュシェコが先ほど見た「彼」のいた店の前につくころには、既に修道士の一帯は姿が見えなくなっていた。
「おい」
その尊大な態度から、役人であると感づかれたのだろうか。店の主人は多少怯えたように「なんでございましょう」と言った。ミュシェコはそんな彼に気を使うこともなく、今来ていた修道士たちはヤスナ・グラの修道士かと尋ねた。
「はい……」
「名前を言えるか?」
はい、との言葉の後述べられる名前の列。その中に、あの名前を聞いた瞬間、ミュシェコはきりりと妙な感情に襲われた。
漸く見つかったという喜び。だがそれそのものは喜びと言っていいほど明るい感情ではない。どす黒い恨みや呪いの念だった。

「兄弟アンジェイ、お客だよ」
ミヘイが、そう震える声で話しかけてくるのに、アンジェイは首を傾げた。客に、震える必要もなさそうなものだが。
「分かった。行ってくるよ、取次ありがとう」
そう言った彼を見送るにあたっても、ミヘイは終始心配そうな顔だった。アンジェイはそれがわからなかったが、やがて通された部屋で、背広を着た青年が「はじめまして。リシャルド・ジェリンスキと申します」と言った後、自分の仕事名を告げるのを聞いて、ようやく兄弟の不安も分かった。と、同時に自分の身にも不安が襲いかかってきた。最近の教会の行動は確かに政府にとっては面白くないだろうが、やはりそれでも当局の人間に直接来られると震えあがってしまうのは私の心が弱いからだ、とアンジェイは自分を責めることで自己を律しようと試みた。なぜ自分のような一介の修道士に直接当局から人がやって来たのかまでは本当に分からなかった。
「戸惑われていることかと思います」目の前のリシャルドと言う青年は非常に冷静なようで、椅子に座ったアンジェイを見届けて淡々とそう告げた。
「あなたに一つ、問いたいことがあってやってきました」
「なんでしょう?」
「ミュシェコ・ヤンコフスキを知っていますか?」
その名を聞き、ぎょっとしたアンジェイの目を、リシャルドはしっかりとらえたようだった。
「ご存じのようですね」
「ミュ、ミュシェコは、私の……!」
「失敬。関係までは聞くなときつく言われております」アンジェイの説明を、彼は真っ向から遮った。
「同志ヤンコフスキは私が秘書として使える上司です。今回あなたのもとに参りましたのも、もしも同志ヤンコフスキが探している人物が貴方と同一人物であれば、是非ここに招待したいと言われたからです」
リシャルドは鞄からメモを取り出した。クラクフにあるホテルの住所らしかった。
「お手数ですが、チェンストホヴァには先日までいたのですがもう離れなくてはならず。三日以内に、そこにお越しください」
「……ご案内、感謝いたします」
少なくとも、その時のアンジェイにはその程度の言葉しか言えなかった。ミュシェコが、ミュシェコが生きている。そのことに、彼の頭の中は激しく混乱した。それはただ単に歓喜と言えるようなものでもなかった。

「大丈夫だったかい、兄弟?」リシャルドが黒い聖母になどわき目もふらず帰った後、ミヘイは真っ先に来て、アンジェイを心配してくれた。同じ修道院の中でもとくに仲のいい兄弟に、アンジェイは心底感謝した。
「大丈夫さ、ありがとう」アンジェイは短く返した。しかし彼の頭にはクラクフまで行く許可を貰わねば、という義務感が何よりも大きく残っていた。

スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する
 

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。