FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

ブラック・マドンナ 4話

「今日、何の日か覚えてる?」
糸紡ぎをしていたマリアの耳に、令嬢の元気な声が飛び込んできた。「何の日でしょう……」マリアは首をかしげる。令嬢は少し不服そうにむくれて「わかんないの?」と言ってきた。
「申し訳ありません、お嬢様……」
「あなたが来てから今日で一年!」令嬢は戸惑うマリアにそう言ってのけた。
マリアはその言葉を聞いて、正真正銘その時に思い出した。まだ拗ねている様子の令嬢に「申し訳ありません」とマリアは言う。どうせ覚える必要もないことだと思っていたのだ。そのようなことをいちいち言ってくる主人にあたったこともなかったから。
「あなたってば自分の誕生日も知らないんだもの。お祝いできると言ったら今日しかないでしょ!」
「お祝いなんて……」マリアは困ったように笑う。
「お嬢様がそれほど私を大切に思ってくだされば、それで結構ですわ」
「私は結構じゃないもの。ねえ、ちょっと目をつぶって」
マリアは言われるまま目をつぶった。何事かと考えていたが、不意にふわりとした感触が自分の頭の上に、スカーフ越しに襲ってきた。柔らかくて甘い香の匂いにも包まれるかのようだった。令嬢マリアと同じ匂いだ。令嬢に抱擁されたのかとも一瞬思えたが、いくら小鳥のように軽やかな令嬢だとしても、余りに自分の上にかぶさって来たものは軽すぎた。
「もういいわよ。開けて!」
令嬢が元気に言う。声の聞こえてきた距離を察するにやはり抱擁されたわけではないのだ。言われるままにマリアは目を開ける。だが、令嬢に抱擁される方がまだ理解ができた、というほど、マリアは酷く驚いた。
自分の体に、長いベールがかぶせられていた。それも非常に高価なのが見て取れるベールだ。青い、手触りのいい布で作られたそれは、金糸でふんだんに百合の花の模様が描かれていた。香はしっかり焚き染められている。よく見ると少しくたびれたところもあったが、それにしてもマリアのような身分の女性が持つには、ありえないほど上等のベールだった。
「お嬢様、あの、これは……」
「私からのプレゼント!」令嬢はマリアの震えを嬉しさから来ているもの程度にしか思ってないように、あっけらかんと言って見せた。
「私のおさがりだけどね、それが用意できる、精いっぱいのものだったから……それに、私が一番大好きなものだし!」
そう言われても、マリアは上等な絹の感触、甘い香の香りに体の震えが止まらなかった。
「私は……」マリアは必死で言った。
「お嬢様と同じお召し物を着られる立場ではございません」
マリアは洗濯の時以外で自分の肌に触れることは消してない布地に、服越しからでも包まれるのが非常に落ち着かない気持ちだった。だが、その答えが令嬢をがっかりさせてしまうことにも、すぐに気が付いた。
「どうして?」
令嬢はむくれて言った。
「このようなお召し物は……」マリアは精一杯、言葉を選んで発言した。「お嬢様にこそ、お似合いになりますから」
「あなたにも似合ってるわよ」
間髪をいれず、令嬢マリアはそう返してきた。マリアは、それに対してまた言葉を失った。
事実全くのいいわけでもなく、本音も兼ねていた。この見事なベールはマリアの美しさにこそふさわしい物であり、肌も黒いし顔のつくりも美人ではない自分を飾るには、余りにも役不足なベールだと思えていた。
だが、令嬢は彼女のそんな意識も軽々と飛び越えてくる。マリアは、本当にものが言えなくなった、令嬢はにっこり笑って言った。
「私、あなた大好きだもの。私が大好きなベールなんだから、似合って当たり前じゃない」
マリアは百合の模様のベールに包まれながら、「ありがとうございます」と発した。
「大切に、致します……」
それ以外の言葉が出なかった、彼女は金糸で飾られたベールの淵に恐る恐る手をかけた。それはマリアをはねのけず、優しく彼女のたこだらけの固い指になじんだ。マリアは拒絶されなかった安心感から、バサリとそのベールで自分を包み込んだ。居ても立っても居られない気持ちだった。
令嬢はそれを見て心底満足そうに笑った。そして、マリアを目をつぶらせることもなく、抱擁した。
「来てくれてありがとう。大好きよ」
自分といつも一緒にいる、いや、自分以外にこれほど近しい人間を持ったことの無い令嬢は、何のためらいもなく、身分の違う少女にそう言ってのけた。
彼女の清らかさは、外見だけではない。この真っ白な肌や美貌のみのものではない。何度も考えてきたことが、今一番、マリアには実感できた。
「私も」マリアはためらいなく言った。それが、マリアの考えうる一番の礼節であったから。「大好きですよ、お嬢様」
彼女は、なんでも愛せるのだ。何でも。この世の全てを、彼女は包み込めるのだ。マリアは自分の仕える令嬢の愛を、そのように理解していた。
黒いものは汚いと言う概念すら、彼女は知らないのだ。そんな主人に巡り合えた。

トントンと扉が叩かれた。マリアと令嬢は離れた。「お客だよ」という声とともに戸が開き、ヨアキムとヨセフが現れた。そう言えば、もともと来る予定だったのだ。
「おや」ヨアキムが不思議そうな声を上げた。「おめかししているじゃないか」
「そうでしょ!?だって私があげたんだもの!」令嬢マリアは得意げに言う。「今日で、お父様がこの子を連れてきてくれて一年目じゃない」
「一年……もう、そんなにたったのか?」ヨアキムは驚いたように言った。「そうか、一年か……」
「素敵なプレゼントだね」ヨセフは言う。
「とても似合っているよ。黒い肌に鮮やかな色は、映えるね。素敵だよ」
ヨセフにそう言われて、マリアはどうとも言えず、照れくさい気持ちになった。「ありがとうございます」と丁寧に反しても、心なしが動悸が激しくなり、体中が熱くなるかのようだった。
「もう、一年か……」
「そうよ!」
ブツブツと同じことを繰り返すヨアキムの心のうちにある思いを、令嬢マリアは理解できていないようだった。ヨセフも穏やかに微笑みつつ、その1年という数字に、喜んでばかりもいられないものがあるのは理解できていた。マリアは横から聞いていて、理解ができた。
一年だ。マリアが来た時、既に令嬢マリアとヨセフは婚約者だった。一年たった。それなのに、気が付いてみればマリアはまだ神殿に居られる体のままだ。
もう通常ならとっくに来ているはずなのに、一年たっても、いまだに令嬢マリアに初潮が来ないのだ。それに気が付いていないのは、令嬢だけだった。汚れなどと言う概念を知りもしない、令嬢ただ一人だった。

●●●

ホテルの扉を叩くと、先日の青年が現れた。
「お待ちしておりました」
リシャルドは宗教者に敬意を払っていないのは明らかだったが、それでも最低限慇懃無礼にはならない態度でアンジェイを出迎えた。
広いホテルの部屋の真ん中に、男が一人立っていた。アンジェイは目を瞬かせた。あの日、修道院に現れた彼と、そっくり同じ男性が目の前に立っていた。
あの見るも鮮やかだった金髪が完全に黒くなっていたこと以外、ミュシェコ・ヤンコフスキはアンジェイの思い出がそのまま年を取っただけの姿で、彼の前に立っていたのだ。
「リシャルド。お前はもう良い。下がれ」
ミュシェコはまず、自分の秘書にそう告げた。リシャルドは丁寧にお辞儀し、扉を閉めて去っていく。後にはアンジェイとミュシェコのみが残された。
「お前にはよく似合うな」ミュシェコは久しぶり、という言葉すら言わず、数十年ぶりの旧友にそのような言葉を投げかけた。
「その修道士の服は……世界中のどんな服でも、それよりお前に似合う服もあるまい」
「ミュシェコ……久しぶりだね」
ミュシェコの言わなかった言葉を、アンジェイがひとまず言った。だがミュシェコはやはり、それには言葉を返さなかった。
「あまり警戒はしないでもいい。今回の事を止めさせるぐらいなら、俺だってもっと各上の奴らを呼び出す。お前にそこまでの権限はないんだろう」
「ま、まあね……」
言葉に詰まるアンジェイを前に、ミュシェコは煙草を灰皿に押し付け、言った。
「その後、無事に過ごしたようだな」
「え、ま、まあ……」
「おれが今回お前を呼んだのも、その言葉を聞きたかったからなんだ」と、彼は言い放つ。「知っていたぞ。あの後国外に逃げ出したんだってな。それで共産化された国にのこのこ帰ってきて神の道を選んだその信仰心もまあ、尋常ではないが」その言葉にどう返しているか迷ってる様子のアンジェイの事を、彼はじっと見ていた。
「ごめん……」
「なにがだ?」
「すまなかったと思っているんだ。君があんなことになったのに、ぼくだけ……」
「お前ごときに道連れになってもらおうなどと思ったことはない、見くびるな!」
ミュシェコは激しく机をたたいて怒った。アンジェイはそれに驚く。たしかに感情的ではあったが、若いころのミュシェコは優しかった。こんな怒り方を自分に対してしたことはなかった。
「おれが反ドイツ運動をして収容所に行ったことを、薄汚いユダヤと同じように捕まったことを、お前だけは助かりやがってと恨んでいるとでも思ったのか?とんだ思い上がりだな、ええ?畜生め!」
「そんな……」
アンジェイは言葉に困った。そんな彼を見て、ミュシェコは満足そうに笑う。
「この道を選んで正解だったな。神学校時代の旧友と言うことを遠慮なく差し置いて、お前を責めることができる」
「ミュシェコ、君……」アンジェイは震える声で言った。「どうして?あんなに神様を信じていたじゃないか、君は……」
「思い上がるなよ!」ミュシェコはもう一度、その言葉を言った。「おれが収容所で悲惨な体験をして、神などいないと悟ったのだと思うか?そんなありふれた厭世論をおれが持つとでも思ったのか!?お前がちょっと説教すれば、おれが若い時と同じようにああ神様聖母様と馬鹿を繰り返すようになると!?」
「そこまで言ってないじゃないか!」さすがにアンジェイも怒った。
「積もる話もままならないようならぼくだって単刀直入に聞くぞ。いったい、君は何を言いに僕を呼び出したんだ!」
「だから」ミュシェコは少し落ち着いたらしく、静かなトーンで言った。「さっき言ったじゃないか。お前が無事に生きていたかどうかを聞きたいと言ったろう?」
「……それだけ?」
「それだけさ」ミュシェコは言う。
「お前は生き残っていると思ったからな。生き残って、どうせまだ痩せっぽちの醜い黒人女を、女王と崇めていると思ってたからな、それを確認したかったんだ」
「ヤスナ・グラの聖母を悪く言うな!」アンジェイは責めた。
「ふん、昔のおれだってそうだがそもそもあんな女に惚れたお前も、お前の同僚たちもどうにかしている。惚れるべき対象かね、あんなもの!幼いころのお前の女の趣味を疑うよ、全く」
「さっきから惚れただの女の趣味だの」アンジェイも、これに関して妥協をする気はなかった。
「修道士が聖母に捧げる献身を、そんな低俗な解釈くらいしかできないような君ではないだろう、今は神を信じていないにしても、学校で何を学んだんだ」
「学ぶ必要のないことを」
「……ミュシェコ」
アンジェイは冷たい声で言った。
「話すことがそれだけになったなら、もうぼくは帰ってもいいのかな」
「いいんじゃないか?」アンジェイが反論をする気すら失ったのを見届けて、ミュシェコは言った。「手間をかけさせたな。リシャルドはフロントの近くで待っているはずだ」

たった、数分の会話だった。
こんな数分のためにクラクフまで来たあいつにとってはさぞ損な時間だったろう。
「お気楽なもんだよ、お前の人生は」窓からクラクフの町を見下ろして、ミュシェコはマッチを擦りながらつぶやいた。
「あの汚らしいポーランド女王のこの世に比例するものなき美しさとやらに鼻息荒くして縛り付けられる変態共であれば、綺麗な人生を送れるんだから、大したもんだよ、まったく」
リシャルドはまだ帰らない。駅まで彼を贈るよう命じられているからだ。
「おれに言わせればチェンストホヴァの修道士など、梅毒持ちの黒人売春婦にしっぽをふる、ジゴロの男娼どもだ」
アンジェイがいなくなってからも、いなくなった彼に向かって汚らしい悪態を吐き続ける。ミュシェコは一息だけ煙草を吸って、すぐ灰皿に押し付けた。
彼の言う所の「低俗な解釈」の極みだ。彼は、それしか言わない。それしか言えないに決まっている。
だって、彼はそれしか知らない。
自分がここまで尖ったのは、ナチスに捕まったからだと思っている。だって、彼はそれしか知らない。今や世界中の人が知って当然のことくらいしか、彼は知らない。
彼は、昔からそうだった。そうに決まっているのだ。

アンジェイという男は、少年の頃からそうだった。少年の頃聖母の聖性に心打たれた少年は、この余の全ての穢れから隔離されたかのように、本当に、あらゆる汚れがそこにはなかった。そんな彼を、ミュシェコは見てきたのだ。ミュシェコはそのことを思い出し、もう一本、煙草を取り出した。

スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する